遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

『桜の匂い・希薄な赤い糸』(小学6年生~中学3年生)男子編  ダイジェスト

 麗らかな春のまどろむ小学6年生初日の教室で、窓の外の桜色を眺める女の子の四角い爪が気になり、僕は彼女に声を掛けた。

 人を寄せ付けない言動と、大胆な行動をする彼女に、僕は惹かれてしまう。

 中学2年生の初日、教室の隅でキラキラと光りを帯びて輝く彼女にオーラを見て、僕のデジャビュは繋がった。そして、僕は卑怯にも騙す様な告白をしてしまう。

 親父と行った北イタリアのコモ湖でファインダーの中に彼女を見た時は、心底驚いてしまったが、僕は彼女に声を掛けられない。

 コーラス祭の全生徒の前で中学3年生の僕は、彼女への想いを込めてソロパートを歌った。

 

 少年は少女と出逢い、少年は少女を知り、少年は少女に恋をする。

 思春期の片想いラブストリー『桜の匂い』〝希薄な赤い糸〟男子編 小学6年生~中学3年生

『桜の匂い・男子編』の内容紹介

 僕は桜の匂いの彼女と出逢い、僕は彼女を知り、僕は彼女に恋をする。

 桜の風の中で小学6年生の二人は出逢い、『彼女』に惹かれて想いを募らせる『僕』は行動的にも、積極的にもなれず、姑息な手段で伝えた想いは断られてしまったけれど、中学2年生の『僕』は『彼女』とメル友になれた。

 学力の違いから別の高校へ進学した『僕』は、『彼女』に好きになって貰える男になろうと努力し続けた。

 『僕』の頼りなさから『彼女』に拒絶されてからも、『僕』は密かに『彼女』に想いを寄せ続けていた。そして、熱き想いを抱き続けている二十歳の『僕』は再開の予感にときめいている。

幼き思春期から青春期へ、偶然の片想いの恋を二人の恋の必然にさせて行く『桜の匂い 男子編』。

 

 言葉、それは人と人がコミュニケートする為に欠かせないモノで、声に出して言ったり、文字で書いて現したりする、感情や意志などの意味が有る表現です。

声にする言葉と文字で伝える文や文章には、言葉にしない、言葉にできない、想いの絡みや経緯が有ると思います。

 反射的に放つ言葉にも、どんなに短時間で受け応えする言葉と文や文章にも、それは必ず有るでしょう。
相手と同じ言葉や文字を交わしても、言葉や文字にしていない気持ちや様々な絡みまで同じとは限らないと考えます。そして、同じ想いに至っても同じ言葉や文字になるとは限りません。

 人は人をどれくらい理解できるのでしょう?

 例えば、同じ価値観を持つと主張する、とても愛し合っている二人が、空を紅く染めて水平線の向こうへ沈んで行く夕陽を見て、「綺麗!」と言って感動しても、それは同じ綺麗や感動なのでしょうか?

 同じ夕焼けを見て、同じ感動をして、同じ言葉を交わしても、其処に至る感傷や、馳せる想いや、感動の深さや、持続する長さは、全く同じではないでしょう。

 価値観は流動的で、其の流れは速くて常に深く浅く変化しています。

 小説『桜の匂い』は、同じ事象の当事者である『僕』と『私』が、見たり、聞いたり、感じたり、思ったり、言ったりした感情や意志や想いを互いの位置で綴った作品です。

 文章の物語が終わった其の後も、『僕』と『私』が幸せの奇蹟を起こし続けて行く物語であれば良いと願っています。

第2話 擦れ違い(私 中学1年生)『希薄な赤い糸・女子編』

第2話 擦れ違い(私 中学1年生)『希薄な赤い糸・女子編

 全校集会が終わり、講堂から教室に戻る途中、あいつを見た。

 講堂と教室棟を繋(つな)ぐ連絡通路の中程で、溜(た)まっている5、6人の1年生男子の中に、あいつがいて、横を通る私には話しに夢中で、気付いているように見えなかった。

 去年の春の日以来、あいつとは1度も言葉を交(か)わしていない。

(私の爪の形を指摘した、あいつ……)

 あいつの問いは、私の爪へのコンプレックスを強めさせた。

 あれから、ぼんやりと自分の爪を眺(なが)めている事が多くなったと思う。

 私のオリジナルな爪を、『四角い爪』と表現されたのは初めてで、新鮮な感じがしたけれど、どこかロボチックで好きじゃない。

(四角い私の爪か……)

 爪を見る度(たび)に、耳の奥で、あいつの声が響(ひび)く。

 私に嘘(うそ)を吐(つ)かさせた、あいつ。

 あの頃から、私はあいつを意識している。

 今度、話し掛けて来たら、話の内容に関(かか)わらず、強い言葉で突き放して、みんなの前で見下して遣(や)ろうと思っている。

 音楽の授業の時のようにあいつが、また、恥を掻(か)くのを見たい。けれど……、その後は1度も私の近くに来ないし、顔も向けて来なかった。

 去年の夏に、あいつは1度もプールへ入らなくて、体育の水泳の授業は、いつもプール脇で見学をしていた。

(夏風邪を引いているんだってぇ? 本当は、水が怖(こわ)くて泳げないんじゃないのぉ?)

 泳げないのなら、プールに入った時にワザとぶつかって遣る。

(水中へ引き倒して、あいつをパニックにさせて遣ろう)

 そう考えてチャンスを狙(ねら)っていたけれど、とうとうあいつは水泳の授業を全(すべ)て見学や欠席で通してしまった。

 中学1年生になった今年も、あいつは仮病を使って水泳をサボっているのに違いない。

(泳ぎも、歌も…。意気地無(いくじな)しのあいつ……)

     *

 朝、廊下の掲示板に幾つかの絵が貼(は)り出されていて、その中の1枚が目を引いた。

 モザイク画のようで違う。

 細かく濃淡(のうたん)に色分けされた翠色(みどりいろ)の中、夏の終わりの光に照らされる学校の三(さん)尖塔(せんとう)が、浮(う)き上がるように描かれていて美しい。

 その計算したような色遣(いろづか)いの絵に、私は暫(しばら)く見惚(みと)れてしまった。

(どんな感性や観察眼や想像力が有れば、こんな絵が描(えが)けるのかな?)

 その作者が気になって、絵の横に金のリボンといっしょに押しピンで留(と)められたネームカードを見るば、あいつの名前が書かれていて、不意に『ドーン』と、背中を強烈に突き飛ばされたくらいに驚(おどろ)いた。

(……あいつが描いたんだ! あいつに、こんな絵を描ける才能が有るなんて、マジ信じられない……)

 あんな無作法でデリカシーの無い奴が、綺麗(きれい)で繊細(せんさい)な感性を持っていた……。

 いつの間(ま)にか周りに十数人の生徒が集まって来ていて、みんながあいつの絵を見ていた。

 その人垣の向こうに下駄箱へ寄り掛かって内履(うちば)きに履き替える、あいつが見えた。

 あいつの絵に見惚れていたのを悟(さと)られたくない。

 私はそそくさとスキップをして、その場を離れた。

 教室を二(ふた)つ過ぎて視線を後ろに流すと、掲示板を見る人だかりの前に立ち、私を見ているあいつが視界の隅(すみ)に映(うつ)る。

 視線を戻(もど)し切る直前に、あいつが走り出す姿勢へ移るように見えたと思ったら直(す)ぐに、『ダッ、ダダダダッ』と、あいつの駆(か)けて来る慌(あわ)ただしい足音が聞こえて来た。

 背後に追い掛けて来る、あいつの気配を感じて、私はスキップのテンポを速め、自分の教室へは行かずに途中の階段脇に在る女子トイレに隠(かく)れた。

 静かにトイレの個室のドアを閉めるけれど、鍵は掛けず、表の表示は空きのままにしておく。

 女子トイレの中に、人の気配はしてしない。

 あいつは中まで入って来ないと思うけれど、便座の上に立って息を殺して待つ。

 突然、静まりかえったトイレに水を流す音が大きく聞こえた。

 その水洗の音に、息を顰(ひそ)めて辺りのようす窺(うかが)っていた私は、飛びあがらんばかりに驚いて便座から落ちそうになった。

 ガラガラガラ、ビッ。トイレットペーパーが巻き出されて切り取られた音が響き、そしてもう1度、水を流す音が聞こえる。

 続いて衣擦(きぬずれ)れが聞こえ、それから個室の戸が開(あ)く気配と、水道で手を洗う音に、トイレのドアを開ける音が連続して、そして、人が出て行く音がした。

 誰もいないと思っていたのに、先客がいた。

(びっくりしたぁ、これで、ここには私だけ?)

 トイレのドアが開いた時に、あいつの気配がした。

 先客が外へ出るのを躊躇(ためら)ったのか、ドアを閉めるのに少し間が有った。

 あいつは、まだ、私を捜(さが)しているのだろうか?

(まだ、そこにいる! 早く、どこかに行けっちゅうの!)

 今度こそ、あいつが私を捜しにトイレに入って来ると思ったけれど、あいつは捜しに来なかった。

(あいつが、女子トイレに入って来たら、それはそれで、大問題にして遣る!)

 5分ほど経(た)って、辺りを窺いながらトイレから出てみると、あいつは既(すで)にいなくなっていた。

 廊下や階段には登校して来た大勢の生徒達が行き来していて、その中に、あいつの姿は見当たらなかった。

 正直言って私は、男子が苦手(にがて)だ。

 共通の話題なんて思い付かないし、何をどう話して良いのか分からない。

 金沢市(かなざわし)へ越して来る前に暮らしていた穴水町(あなみずまち)諸橋(もろはし)地域の明千寺(みょうせんじ)地区には、同級生の男子はいなくて、2才上の上級生と一(ひと)つ年下の男の子が住んでいて、引っ越した年は、お姉ちゃんが中学2年生に進級する時だったから、地区の小学生は私を含めて三人だけになっていた。

 いつもいっしょに遊んでいるその二人(ふたり)は、私を見付けると、何も覚(おぼ)えが無いのに追い駆けて来て、逃げ出す私に笑いながら蛙(かえる)や蛇(へび)、それに、どうやって捕(つか)まえたか知らないけれど、モグラまで投げ付けて来た。

 遠くから勢(いきお)い良く投げられて、目の前の路面に叩(たた)き付けられるようにドサリと落ちて来た牛蛙(うしがえる)やモグラは、落ちて転(ころ)がった姿勢のままじっと動かずに、ただ、断末魔(だんまつま)にピンと伸ばした手足をヒクつかすだけで、とても可愛(かわい)そうだった。

 そんな嫌(いや)がらせに怖がりもせず、泣きもしない私の態度が面白(おもしろ)くなかったのか、2度ばかり追い付かれて蛭(ひる)と糸ミミズだらけの田んぼに突き倒(たお)された。

 だから、とてもじゃないけれど、遊びには交(まじ)りたくなかった。寧(むし)ろ、いつも構(かま)われたくないから警戒して避(さ)けていたし、逃げていた。

 同じ諸橋地域に居る女子の同級生は、海岸沿いの宇加川(うかがわ)地区に二人、沖波(おきなみ)地区に二人いたけれど、他の前波(まえなみ)地区などには男子も、女子も、居なくて、上級生と下級生が数人いるだけだった。そして、近くの花園(はなぞの)地区には女子がいなかったし、明千寺地区の小学生の女子は私一人(ひとり)だけだった。

 時々、スクールバスを宇加川で降りて同級生と遊んでいたけれど、一人で帰る夕暮れの田んぼの中の道は、本当に寂(さび)しくて心細かったのを覚えている。それが億劫(おっくう)で、遊ぶと楽しいのだけど、時々しか行かなかった。

 地元の男子とは、キャーキャー逃げ回るだけで、まともな会話はしていなかったし、スクールバスやクラスでの纏(まと)まりは、はっきりと男子と女子で分かれていて、クラスメイトの他地区の男子にも、授業以外で面と向かって話した事は無い。

 家に帰ると1人でブラブラするのが多かったけれど、一人で遊ぶのは嫌じゃなかった。それに、お婆(ばあ)ちゃんやお姉(ねえ)ちゃんが良く構ってくれたから寂しくもなかった。

 故(ゆえ)に、男子には品の無い乱暴者のイメージと、意地悪で酷(ひど)い事をされた思い出しか持っていない。

     *

 小学校では、『私を好きだ』という噂(うわさ)を全(まった)く聞かなくて、全然モテなかった私が2学期の中頃に初めて男子から告白された。

 帰り掛けの校舎を出ようとしたところを、私はギュッと腕をいきなり掴(つか)かまれた。

「あっ、痛(いた)い!」

 更(さら)に引っ張られる腕に、グイッと振り向かされた。

(誰? いっつう! ……痛くしないでよ!)

「俺と交際してくれ。お前を好きになった!」

 痛いと顔を顰める私は、突然、腕と肩を痛めてくれる男子から、御付き合いを申し込まれた。。

 小学校が違って名前は知らないけれど、隣のクラスで割と人気(にんき)が有る、ちょっとカッコイイ男子だ。

 照れと緊張と興奮からなのだろうか? 上擦(うわず)った大きな声で言われた。でも、この痛い体制で、その言い方は無い。

(それって、命令調じゃん! ふつう、私に御願いか、伺(うかが)うように言うんじゃないの? いきなり掴んで、肩と腕を痛くしてくれて、ちょっとぉ、先に謝んなさいよ!) 

「いいよな! なぁ! なぁ!」

 強引に自分の都合(つごう)で迫(せま)って、一方的に私の返事まで決め付けてくる。

(隣のクラスの人気者か、何だか、知らないけど、ちょっと頭、おかしいんじゃないの? 不躾で、不作法で、すっごくムカつくじゃん!)

「いやよ! なに勝手なこと言ってんの。あんたなんかに、全然、興味ないから。交際なんてしないよ」

 掴まれた手を振り払った。

「付き合っている奴がいるのか? 好きな奴は?」

 はっきり断(ことわ)られたくせに、腹立(はらだ)たしいことを訊(き)いてくる。

「そんなの、いないよ! あんたに関係ないじゃん!」

 吐(は)き捨てるように言って、逃げるように小走りで私は家に帰った。

 それから、2学期が終わる年の瀬までに、更に二人の男子から『好きだ』だと告白されたけれど、二人ともリベンジしないように、とても寒くて優(やさ)しい言葉で丁寧(ていねい)にお断りした。

 二人とも素直(すなお)に退(ひ)いてくれたと思う。

 一人は、『お母(かあ)さんと姉さんも、お前が良い子だと思うと言っていた』と、ぞっとする事を言って背中に悪寒(おかん)が駆け抜けた!

 口には出さなかったけれど、2、3歩、後退(あとずさ)りしながら思う。

(勘弁(かんべん)してよね。中学生にもなって、マザコンやシスコンは願い下げ。キモイよ)

 彼らのリベンジは無いけれど、出逢(であ)った時の気不味(きまず)いムードと、再び、好意をもたれるのが嫌で、見掛けると私の方から避けた。

 フッた男子達に、避ける態度を見せ付けて、如実(にょじつ)に嫌がっているのを分から締(し)めてやる。

     *

 あいつの美術作品は、その後も度々(たびたび)展示されていた。

 銀ピカの鎧(よろい)を纏った黒い犀(さい)……?

(何これ? インパクトは有るけど、ネーミングが変じゃん! どこが、どう戦士なのか分かんないよ。鎧を着ただけで、武器や戦闘傷なんかは無いの)

 おもしろい作風だけど、調子放(こ)いてるみたい。

(真面目(まじめ)に遣ってんの? あいつは!)

 でも、良くできていて、エスニック風? らしき造形は、オブジェとしてリビングのサイドボードの上に置いても可笑(おか)しくないと思う。

 雪の降り積(つ)もる真冬日には、あいつ作の長さ40センチメートルぐらいも有る、デカイくて変てこな頭のサメが展示されていた。

 確(たし)かハンマーヘッドと言う種類のサメだったと思う。

 そのサメが海底を泳ぐ作品で、明るい色遣いから南の珊瑚礁の海らしいと想像できた。

 真(ま)っ青(さお)な空の太陽から降り注(そそ)ぐ熱い陽射(ひざ)しに射貫(いぬ)かれた、透明で温(あたた)かなコバルトブルーやエメラルドブルーの海を、泳いでいるハンマーヘッドのイメージなんて、絵画的想像力の乏(とぼ)しい私は寒風吹き荒(すさ)ぶ、この雪臭(ゆきくさ)い季節に浮かばない。

(そのイメージが思い描ける、あいつって、……もしかして、スゴイのかも……)

 真心の想像力も無い私は、少しジェラシーを感じてしまう。

 噂で、あいつが美術部に入籍させられたと聞いた。

(きっと、あの先生が、強引に美術部に入れたのかもね)

 美術部の顧問先生で美術の先生は、あいつのクラスの担任だ。

 将棋の駒を逆(さか)さにしたような角張(かくば)った顔に、ギロっとした目と上がり眉(まゆ)と一文字に結(むす)んだ薄い唇(くちびる)が、意思の強さを知らしめる。

 芸術家らしい早口のキビキビした物言(ものい)いの恐(おそ)ろしげな先生だ。

 授業中に先生と目が合い、怪光線を放つような眼光で見据(みす)えられた時は、その貫(つらぬ)くような鋭(するどい)い視線に透視スキャンされて、心根の審判を裁定しているみたいで恐ろしかった。

(あいつは、あんな作品を作っているくらいだから、素質が有ったんだろうなぁ)

 あいつが放課後に、ちゃんと美術室へ行って、美術部員らしく絵や彫刻を創作しているなんて想像が付かない。

     *

 見蕩れていた翠(みどり)の三尖塔が、あいつの作品だと知った時に、あいつの美術の才能に負けないよう私も頑張(がんば)ろうと思った。

 小学校の卒業文集に私の夢は、『ピアニストになること』と書いていた。

 お姉ちゃんの友達は、ピアノ教室の先生の指導をそれなりに理解した上で、私に教えてくれていると思う。でもそれは、お姉ちゃんの歳での知識と経験と感受性でアレンジした理解だった。だから、とても大人の先生のテクニックには及(およ)ばない。

 私はピアノに凄(すご)く惹(ひ)かれていて、生意気(なまいき)にも音の美しさや魅力的な深みを、もっと、もっと知って、今は到底挑戦できそうもない超絶技巧まで学(まな)ぼうかと考えていた。

(もっと上手(じょうず)に、いろんな曲を弾(ひ)けるようになって、大勢の人達を、いっぱい感動させたい)

 ピアニストになりたいと、熱くなって行く思いで、お姉ちゃんに相談してみた。、

「いいね。賛成だよ。応援するからね」

 そう言ってくれたお姉ちゃんは、私にピアノのレッスンを受けさすようにと、お父(とう)さんとお母さんにお願いしてくれた。

(お姉ちゃん、ありがとう!)

 レッスンは、お姉ちゃんの友達の薦(すす)めで、通学路の途中に在る金沢市内じゃ名の知れたピアノ教室で習(なら)う事になって、週に3回も通っている。

 お父さんは中古だけど、立派なアップライトピアノを買ってくれた。そして、ピアノの音が部屋から漏(も)れないように、防音工事もしてくれた。

 今、ピアノのレッスンは私の1番好きで楽しい事。だから、ピアノ教室へ通う為(ため)に部活は参加しないし、レッスンが有っても、無くても、毎日、家で何時間も練習している。でも、成績が下がるとピアノ教室を辞(や)める約束だから、学校の勉強は疎(おろそ)かにできない。

 いつか私は、ピアニストになって6年生の時よりも、びっくりするようなピアノの音色を、あいつに聴(き)かせて、これ以上も無いくらいに目を見開かせて遣りたいと思う。

 

つづく

第1話 あいつ(私 小学6年生)『希薄な赤い糸・女子編』

第1話 あいつ(私 小学6年生)『希薄な赤い糸・女子編

 この街は、桜の木が多い。

 4年生の終業式が済(す)んでから、引っ越して来た街は、桜の花が多く咲(さ)き乱れて、私は嬉(うれ)しくなった。

 去年は、学校の屋上から見ていた。

 この学校が建つ小立野(こだつの)台地も、みんなが向山(むかいやま)と呼(よ)んでいる右手の公園に整備された卯辰山(うたつやま)も、左手の寺町(てらまち)台地と野田山(のだやま)も、視界に広がる金沢(かなざわ)市の街は、どこも桜色が沢山(たくさん)咲いている。

 振り向いた後ろ側には、屏風(びょうぶ)のような戸室山(とむろやま)に薬草で有名な医王山(いおうぜん)が間近に広がり、遠くの富山県との県境(けんざかい)では富士山みたいな大門山(だいもんやま)から白山までが視界に入り、そして、正面のずうっと向こうには日本海が見えた。

 見えているだけなのに波の音が聞こえて、潮(しお)の香(かお)りが匂(にお)って来る気がした。

 引っ越して来る前は、明千寺(みょうせんじ)に住んで居た。

 能登(のと)半島、内浦(うちうら)の諸橋(もろはし)地域の町。

 金沢へ来るのに、車で2時間近くも掛かってしまう田舎(いなか)の町。

(ううん! 町じゃなくて地区。でも村よ。暮(く)らす人達も少なくて、なんにも無いところ)

 コンビニどころか、スーパーマーケットも無くて、ショッピングモールやデパートなんて在るはずがなかった。

 私の住んで居た所は、海沿いの町じゃないけれど、自転車を7、8分も漕(こ)げば、磯(いそ)に着き、よく港や浜で遊んでいた。

 海岸へ行く途中に線路の跡(あと)らしい場所が在って、以前に電車が走っていたけれど、廃線になったと、お婆(ばあ)ちゃんが言っていた。

 金沢へも直通で行けたみたいだけど、本当か、どうか、分からない。

(それって、電車じゃなくてディーゼルカーでしょう? それも、直通で金沢へ行くのは、たぶん、穴水(あなみず)の駅で乗り換(か)える急行だったんじゃないの?)

 あんな田舎の線路が、電化されていたはずが無いし、それに、急行なんて停(と)まる訳が無い。

(線路の跡は、豚草(ぶたくさ)や背高泡立草(せいたかあわだちそう)に大荒地野菊(おおあれちのぎく)と、姫昔蓬(ひめむかしよもぎ)だらけで荒(あ)れ放題よ。すっごく密集していて、害虫の発生源になっているかもね)

 豚草は花粉症の原因の一(ひと)つだから要注意、しっかり駆除して欲(ほ)しいです。

(駅の跡には自動販売機など設置して、サイクリングロードにでも、整備し直(なお)せばいいのに)

 線路の跡を横切る度(たび)に、そう思っていたけど、良く考えてみたら海岸線沿いの爽快(そうかい)気分を味わいたいツーリングに折角(せっかく)奥能登まで来たのに、碌(ろく)に海岸の景色が見えない寂しげな雑木林の中の山道みたいなのを、綺麗に舗装をして廃駅のホームと駅舎も小さなキャンプ場に整備されてあっても、詰まらなさと不安から誰も走りたがらない。

 それではと、そのまま一般の道路にすると近道のようになるだろうけど、単線の線路跡では切り通しや土手の幅が足りなくて、自動車が擦(す)れ違えないから非常に危険だ。

 それに、幅を広げて道幅を確保するにしても土地買収や拡張工事にお金が掛かり過ぎだし……。

 結局、『勿体無(もったいな)い』の気持ちは、地域の産業が潤(うるお)い、再(ふたた)び電車が活用される時代になればと願うだけ。

(町外(まちはず)れに古いお寺が在って、その前からトヤン高原の翌檜(あすなろ)の森まで、田んぼが広がっているの)

 春は、野の暖(あたた)められた軟(やわ)らかい土と息吹(いぶ)いた新芽の匂いで噎(むせ)せ返りそう。

 凍(い)て付きを運んで来た強い潮風は、磯臭(いそくさ)い春の香りに変わり、海の色も拒絶するような緑灰色の冷(つめ)たい暗さから、誘(さそ)うように艶(つや)っぽいサファイヤブルーなる。

 諸橋は好きだけど、大きな桜の木は廃駅跡や小学校跡に植(う)わっているくらいで少ない。

 私は、春風で桜色の花片(はなびら)が舞(ま)う景色を眺(なが)めながら、安らかな気持になった。

 桜色、それは、単にピンクの濃淡(のうたん)の配色だけじゃない。

 桜の色は、何か良い事が有りそうな予感で私を満たして、嬉しくさせてくれる。そして、香る桜の匂いが、春のムズムズした気持ちを淡(あわ)く広げて落ち着かせてくれた。

 この季節、花が咲き競(きそ)うのは桜だけじゃない、辛夷(こぶし)の白い花も、紫や赤や黄や白の木蓮(もくれん)の花も、真っ赤な木瓜(ぼけ)の花も満開で、街の何処(どこ)を見ても春色が一杯で幸せな気持ちにさせて貰(もら)う。

 その時から転校した不安は無くなり、私は、金沢の街が大好きになった。

     *

 小学6年生になった初日、優しい青空の広がる外の柔(やわ)らかい明るさが眩(まぶ)しく、窓から入る穏(おだ)やかな風は肌寒くはなくて心地良い。

 目を細めて見る窓の外は、プール際の桜が満開で、運動場の向こうにある高校の桜も、そのずっと向こうの卯辰山の桜も満開だ。

 風が光り、春の暖かさを桜の匂いといっしょに運んで来てくれる。

(なんて、気持ちいいの)

 身体中から力が抜(ぬ)けてしまいそうで、クラゲみたいに、グニャグニャになりそう。

(もうダメ、寝(ね)ちゃう)

 眠る寸前の弛緩(しかん)した身体と脱力感を、私は楽しむ。

(ダメよ、眠(ねむ)っちゃ。今、寝たら爆睡(ばくすい)するわ)

 両手を机の上に投げ出し、背を椅子に凭(もた)れ掛けて身体の力を抜く。

(桜が、いい匂い)

 緩(ゆる)やかな風に漂(ただよ)う優(やさ)しく懐(なつ)かしい香りが、私を平(ひら)たくさせてくれる。

(ああっ、ほんとに寝ちゃうかも)

 あと1限で帰れるのに、あまりの気持ちの良さに瞼(まぶた)がくっ付きそう。

「どうして、そんな形?」

(……? 誰(だれ)かが、近くにいる!)

 人の体温と男の子の匂いを感じた。

(誰こいつ? 私に言ってんの?)

 薄目で、瞳(ひとみ)だけ動かして見てみる。

 距離約1メートル、一人(ひとり)の男子がふざけない態度の真面目な顔で、突っ立っていた。

(知っている子だ。席が2列向こうの1番前の子だわ)

 この子とは、まだ、話したことがない。

(うーん、もう、人が気持良くしてんのに、いったい、何用(なによう)なん?)

 思わず、ムッとしてジロジロ見てしまった。

(あっ、ちゃうちゃう。ちゃんと、顔を相手に向けて優しい顔で、田舎者と思われないように、返事をしなくちゃね)

「なにが?」

(ちゃんと、スマイルして言えたかな?)

「爪、おまえの四角い爪の事」

 切羽(せっぱ)詰(つ)まったように、早口で言われた。

(見られた! なに見てんの? こいつ鬱陶(うっとう)しいわ。それに、そのぶっきらぼうで偉(えら)そうな言葉遣(づか)いは、なによ)

 爪の形は、ちょっと気にしていた。

(そんなの、私に分かる筈(はず)ないでしょう。なんか、傷付くなぁ)

 お姉(ねえ)ちゃんの友達の、私にピアノを教えてくれる女子中学生の人にも言われていて、言われるまで、意識も、気付も、していなかった。

(そうだ!)

「私、ピアノ習っているの」

 言いながら、そっぽを向いた。

(騙(だま)してやった。信じたかな?)

 好きなピアノに引っ掛けて騙した事に、後ろめたさが迫(せま)った。でも、

(ナイーブで可憐な乙女の、ちっちゃなハートを大きく傷つけた罰(ばつ)よ)

 そう思うと、更(さら)に腹立(はらだ)たしくなった。

(いつか思い出して、自分の無神経さに気が付いて、私に謝(あやま)りに来なさい)

 騙した台詞(せりふ)が可笑(おか)しくて、眼尻(めじり)と口許(くちもと)が少し笑ってしまった。

 そいつは、まだ、傍(そば)に立って不思議(ふしぎ)そうに私を見ている。

(本当に信じているんだ。うふふ、楽しい!)

 心地好い風に吹(ふ)かれていると、また、眠くなって来る。

(まだいる。早く、どっか行けっちゅうの!)

 しつこく訊(き)いて来たら、張り倒そうと思いながら微睡(まどろ)んでしまう。

(……私の爪、やっぱり変なのかな……)

     *

 朝からの雨降り。

 私は、みんなが言っているほど、雨は嫌(きら)いじゃない。

 梅雨(つゆ)時期のジトッとする空気やベタベタしている物も、みんなが厭(いや)がるほど嫌いじゃない。

 腕や足が雨に濡(ぬ)れたり、服の袖口が湿(しめ)ったりしても気持ち悪くならない。それは、私が海辺に近い町で潮風に吹かれて育ったからかも知れない。

 私は、大勢で何かをするのが苦手(にがて)。

 団体行動とか、チームプレイのスポーツとか、上手(うま)くできない。

 自分のポジションが、チームの中で何をどうするのか、良く解らない。

 自身が、どこまでしても良いのか、駄目(だめ)なのか、良く解らない。だから、団体競技のある体育の授業は仮病で休む。

 この音楽の授業もそうだ。

 合唱や合奏は、自分が、みんなの中に埋め込まれているみたいで、気持ちが悪くなってしまう。

(どうして、揃(そろ)ってないと駄目なの? バラバラでも、ジャズみたくスイングすれば、少しは楽しく歌えそうなのになぁ)

 階段状の席に着く時に、あいつが見えた。

いつもは遅く来て前の方の席なのに、既(すで)に後ろの席に座っている。

 あいつが私より、後ろの席になるのは初めてだ。

 教室でも、他の授業でも、私より前の席で、時々、私は、あいつを観察している。

 今は、その逆をされていると思う。

 爪の形を指摘して私のコンプレックスを強めさせた、あいつ。

 私の言い返しに騙されている、あいつ。

 そんなあいつに、後ろから見られていると思うだけで、私はちょっぴり恥(は)ずかしくて落ち着かなくなる。

 想像したあいつの視線に背中がムズムズして、じっとしていられない。

(んもうっ、うざったい! 私を見ないでよ!)

 

「揃ってないわね。そっちの端から、一人ずつ、歌ってみてちょうだい」

 みんなで合唱しているのを、いきなり、先生は止めさせて言った。

(そっかなぁ? 揃ってないの? 揃ってなくてもいいじゃん)

 コンクールに出る訳でもないのに、揃っていないのが悪いみたいな、命令調の言い方にムカついた。

 クラス全員がハモっていても、点数や成績に関係ない。

(各自が、揃えようと努力する姿勢は、大事だけど、音程やリズム感は、個人差が有るし、揃えられない人がいても、おかしくないでしょう。有志の集まりじゃないんだからね。個人レッスンでもしてくれるの? カラオケが上手(じょうず)になるように?)

 腹立たしい私の気持ちを余所(よそ)に、一人ひとり順番に歌い出した。

 私はそっぽを向き、頬杖(ほおづえ)を衝(つ)いて暈(ぼ)やけた視線をピアノに落とす。

(まぁ、どうでもいいわ)

 二人(ふたり)が遣(や)り直された。

 独唱の順番は左横の列を上がって行く。

(先生、遣り直しは1回でいいよ。3回もさせなくても。そんなの、すぐ上手くなるはずないわよ)

 3回も遣り直させる先生に悪意を感じる。そのサディスチックさに、ムカつきが段々と腹立たしさに変わって行く。

(げっ! 普通、ここまで外さないでしょう!)

 突如、裏返った甲高(かんだか)い掠(かす)れ声が聞こえて来た。

 リズムも音程も無視……、いや、自分でもどうにもならないのだろう。

 あまりの調子外れの歌声モドキに、みんなが笑う……。

「下手(へた)ねえ、初めっから歌い直してちょうだい」

 先生の命じた遣り直しが、1回、2回、3回、4回!

 羞恥(しゅうち)で息継ぎが上手くできず、震(ふる)える掠れ声は詰まって途切れ途切れだ。

(まだ歌わすの?)

 私は頬杖をしたまま振り返った。

 裏返った声で気付かなかったけど、歌っていたのは、あいつだった。

 耳や首を真っ赤(まっか)にして、顔は酔っ払(よっぱら)って帰って来た時の、お父さんみたいに赤黒く腫(は)れぼったい。もう口が小さくしか開いていない。

 これは地方都市の小学校の担任教師が、自分の意に添(そ)わない不出来な教え子に行う虐(いじ)めだ。

 発声や音程の指導が、何もなされていなくて、ただ繰(く)り返し歌わすだけ!

(こんなのは、教育じゃない! 先生は、あいつを笑い者にしようといている!)

 私は笑えない。

 私に騙されて、先生に苛(いじ)められているあいつが、少し可哀想(かわいそう)に思えた。

(ちょっとぉ、可哀想じゃん)

 クラスの半分は、笑い顔で見ている。

 3分の1は、あいつの酷(ひど)い音痴に呆(あき)れていて、残りは同情しているみたい。

「はい、だっめぇ~。あなたの耳、聴覚異常かしら? はい、もう1回。歌いなさい!」

(差別だ! 駄目出しついでに、この女教師、めっちゃ酷い事を言っている! 負(ま)けないでよ、あんた!)

 あいつは、俯(うつむ)いてはいなかった。

 あいつは、蔑(さげす)まれる恥ずかしさに負けてない。

 背筋を伸ばし、顔を上げ、掌(てのひら)を握(にぎ)り締(し)めて、まるで、サド先生の苛(せ)めに負けないように、卑屈(ひくつ)にならないように自分と戦っているように見えた。

(あんた、頑張(がんば)れ!)

 5回目、先生からはっきりと悪意を感じる。

 あいつは、屈(くつ)しないように必死で一生懸命だ。

(いつまで真面目にやっているの。もう歌うのを止めればいいじゃん)

 黙って先生の命じるままに、音痴を繰り返すだけのこいつが、憐(あわ)れ過ぎて腹が立って来た。

 いくら憐れに思えても、『四角い爪』と言ったあいつに、私は同情はしないけれど、察(さっ)しの感じられない無神経な気遣いしかできないあいつは、羞恥を曝(さら)し捲(ま)くりで可哀想だった。

(何、まだ頑張っているのよ! 声が出ないほど上がっているのに。意地になっているわけぇ? 膝(ひざ)が震えて立っているのも、やっとなくせに。もう、頑張んなくていいから。6回目を命じられても、黙って座っちゃえ)

 まだ、先生が繰り返しを命じたら、手を挙(あ)げて私は立ち上がり、『先生! いつまで一人に構(かま)っているんですか? 時間の無駄(むだ)です。次の人に行って下さい』と、言って遣ろう。

「もういいわ。次の人」

 6回目は無かった。

 サディスチックな気が済んだのか、先生は溜息(ためいき)を吐(は)いて無慈悲な独唱を止めさせた。

 先生の言い方は、あいつへの蔑みでしかない!

(可哀想な、意気地無しのあいつ)

 みんなに笑われながら項垂(うなだ)れて座るあいつを、蜘蛛(くも)の巣(す)を引っ掛けたような粘(ねば)ついたザラ付く気分で私は見ていた。

 私の番が来て粘っこいザラ付いた気分のまま歌う。

 ゴツゴツした何かが胸の中をズルズル転(ころ)がり、体の内側を抉(えぐ)って傷付けていく感じがする。

 声が掠れて、全然伸びないし、途中で途切れてしまうし、尻切れトンボで恥ずかしい中途半端な歌唱になってしまった。

(私も全然、ヘタじゃん)

 そう思いながら、あいつを見ようと振り向き掛けたけれど、止めた。

(あんたと同じで、私も遣り直しだわ)

「はい、次」

 遣り直しをさせられるだろうと覚悟していたけれど、先生は次の人に歌うよう促(うなが)した。

 少し遊ぼうかと思っていた分だけ、拍子抜けだ。

(こんなのでも、OKなのよ)

 視界の隅(すみ)に、ちょっと、仲間意識を持ちそうになったあいつが映(うつ)った。

(もう少し、あんたも上手く遣りなさいよ)

「誰か、ピアノ弾(ひ)ける人。ピアノを習っている人いる?」

 誰も上手くない中途半端な独唱が一巡した後、いきなり先生が訊いた。

     *

 ピアノは、お姉ちゃんの友達に教えて貰(もら)っている。

 4年生の時に、お姉ちゃんに連(つ)れられて遊びに行ったのがきっかけで、週に2回は習っている。

 お姉ちゃんと友達は、引っ越して来て直ぐに仲良しになった。

 御近所さんで学校に通うのも、買い物や遊ぶのも、二人いっしょで、私も、通学時には二人の後ろに付いて歩いていた。

 お姉ちゃんの友達はピアノ教室で習っていて、自分の部屋にピアノが有った。

 初めて遊びに行った時、広い部屋の壁際にアップライトピアノが聳(そび)えていてびっくりした。そして、その広いフローリングの部屋が、自分の部屋だと言われて、更にびっくりしてしまった。

(私の……、お姉ちゃんといっしょの部屋の4倍は有りそう……。広い庭の大きな家……)

 私は壁際のアップライトピアノに魅(ひ)かれて近くへ行って良く見ると、高級な漆器のように黒光りする表面に、私の姿が映っている。

 過疎化で諸橋や周辺地域から小学校が無くなり、穴水町までスクールバスに乗って通った、穴水の学校にグランドピアノが有って、音楽の先生が良く弾いていた。

 とても上手に、そして、凄(すご)く格好良く弾いていた。

 私はそんなふうに、いつか弾けるようになりたいと思っていた。

(弾いてみたい。弾きたい! ピアノの音を鳴らしたい!)

 その強い衝動に駆られた私は、艶々した漆黒(しっこく)のピアノに、そっと指を触れていた。

 鍵盤の蓋をゆっくりと丁寧(ていねい)に上げて、私はお姉ちゃんの友達を見る。

「私も、弾けるようになれる?」

(お願い、弾かせて!)

 懇願(こんがん)するように、お姉ちゃんの友達を見詰めた。

「教えてあげようか」

 その言葉に目の前がパッと明るくなって、ぺったんこの胸は期待と憧(あこが)れに膨(ふく)らみ、私の瞳は輝(かがや)いた。

「教えられる日と時間は、前の日に、お姉ちゃんに言うから、学校が終わったら来てね」

 嬉しくて体を揺(ゆ)すりながらキーに触れる私の顔を覗(のぞ)き込んで、お姉ちゃんの友達は優しく言ってくれた。

     *

 今、弾けるのは二つだけ。

 解り易い教え方で増(ま)す増す、この曲が大好きになって、その2曲ばかりを練習した。

 2曲とも、目を瞑(つぶ)っても弾ける。

 悲(かな)しい曲と、嬉しくなる曲。でも、お姉ちゃんら以外の前で弾くのは初めて…。

(うまく弾けるかな)

 私は、ゆっくりと手を挙げた。

「はい! 習っています」

「じゃあ、何か弾いてくれる? ここに来て座って」

『うん』と頷(うなず)いて私はピアノの前に行った。

 近くで見たグランドピアノは薄(う)っすらと濡れて、雫(しずく)の流れた筋も幾つか付いている。まるで、自分が置かれている環境に悲しんで泣いているみたいだ。

 私の気分は、再び、ザラ付いて粘って来る。

 気遣いと気配りの無い先生の大人気の無さに腹が立つ。

(ピアノが可哀想。ピアノがこんなになっていても、何も感じないの? 先生!)

 丁寧に、指が滑(すべ)らないようにしっかりと持って、ゆっくり鍵盤の蓋を上げた。

(良かった。鍵盤までは、……露(つゆ)が入り込んでいない)

 椅子に座って音を確かめる。

 高い音、低い音、連音、和音、半音、ペダルを踏(ふ)む。

 音は澄(す)んで伸びるように滑(なめ)らかに響く。

 くぐもったり、べたついたりしていない。

 ピアノが置かれた場所の環境や見た目の状態からの、想像していたような音色(ねいろ)の劣化は無かった。

(毎日の授業で、良く使われているからなのかな?)

 想像した澱(よど)んだ色と違い、以外にも、透明な音色が維持されていて驚(おどろ)いたけれど、音が傷付いていないのに安心した私は、きっと、そんな理由からだろうと思った。

(音は痛んで、震えも、掠れも、途切れたりもしていないわ! ……大丈夫(だいじょうぶ)みたいね)

「何を弾いてくれるのかな?」

 先生はみんなに聞こえるように、声に弾(はず)みを付けて私に訊いた。

「別れの曲」

 私も、みんなに聞こえるように言った。でも、力を込めずに普通に澄ました声で。

(教えて貰って、何百回も練習した悲しい調(しら)べが、これなの)

 譜面が無くても問題無い。

 もうキーの位置や間隔を指と手が覚えているから、譜面を見ずに目を瞑っても弾ける。

(グランドピアノは初めてだけど、きっと、いつも通りに音を出せるわ)

 座り直して姿勢を正す。

 俯いてキーを見ながら最初の音に指を合わせた。

 その時、あいつの顔が浮かぶ。

 一人取り残されたように悲愴(ひそう)な、それでも顎(あご)を上げて必死な、あいつの顔が浮かんだ。

(あいつは、どこ?)

 私は顔を上げて、あいつを探した。

(いた!)

 興味津々な顔で、私を凝視している。

(うふっ、ピアノを弾くと、爪が四角くなるのよ。四角い爪の女の子が負けていなかった、あんたに聴(き)かせてあげる。弾く曲は、あんたへのレクイエムよ)

 あいつの表情と、私の思いに笑っちゃった。

 優しい気持ちでキーを敲(たた)くタイミングを計(はか)る。

 人は何故(なぜ)か、息を吸い込む時に動作が僅(わず)かにズレてしまう。

 それはきっと、息を吸い込む膨らみが身体中を引っ張っちゃうからだと思っている。だから、緊張(きんちょう)の緩む息を吐き出す時の方が、曲の弾き始めのイメージに指の動きをマッチさせ易い。

 一息目(ひといきめ)、吸い込みと吐き出しが切り替わる息の頂点は、反応が鈍(にぶ)くなるので避(さ)けるようにしなければならないと、経験から学んだ。

 二息目(ふたいきめ)、音楽教室中が静(しず)まり返って、みんなが私の音を待っている。

 上目であいつを見ると、また、目が合う。

 未知との遭遇のような期待に不安の混(ま)ざる瞳が、なんか気持ちいい。

 そして三息目(みいきめ)、息を静かに吸い込んで吐き、指がキーを捉(とら)えて音を弾(はじ)き出す。

 弾き出された音は、教室の隅々まで綺麗に響(ひび)いている。

 この曲はピアノの練習曲なのだけれど、日本では『別れの曲』と呼ばれていると、お姉ちゃんの友達が教えてくれた。

 私は、お姉ちゃんの友達が演奏してくれた『別れの曲』を聴いて一遍(いっぺん)で好きになった。

 まだ、小学6年生で人生経験の乏(とぼ)しい私には難(むずか)しいけれど、この曲には、強烈な別れを経験したイメージが有った。

 たぶん、逆(さか)らえない、避けられない、強い別れが有ったのだろうと感じた。そして、相手にとても強い好意を抱(いだ)いていたのだと思う。

 その想いを想像して、私は弾く。

 私なら、どんな気持ちになるだろう。

 静かに、冷静に、別れを受け入れようとする思い。

 相手への想い。

 良き思い出。

 楽しかった日々。

 優しかった気持ち。そして、後悔。

 戻せない時間。

 絶ち切れた願い。

 避けられなかった永遠の別れ。

 許(ゆる)せない別れ。

 そんな、遣り切れなさ、寂しさ、悲しさ、切なさ、愛しさを、私だったら、どんな気持ちになるのか想像してキーを押す。

 穏やかに、優しく、強く、激(はげ)しく、丁寧に、私の気持ちを響かせる。

 私もいつか本当に『別れの曲』を知る時が有るのだろうか。

 想像で舞い上がった私の気持は、静かに降りて来て演奏は終わった。

 拍手が聞こえた。

 誰かが、手を叩(たた)いている。

 私は目を閉(と)じて、曲が終わるその向こう、別れの果(は)てを想像していた。

(別れても、相手が生きているのなら、再び出会えないのかなぁ? 別れを強く後悔するなら、再び会いたい想いも強くないの……? 私なら、どうするだろう?)

 胸が一杯になって、息は細くなっている。

 私は大きく深呼吸して目を開け、それから顔を上げた。

 みんなが、拍手をしてくれている。

 驚いた顔、悲しい顔、憂(うれ)えた顔、曲に乗せた私の抱いた想いを、みんなは感じてくれたのかも知れない。

 嬉しくなって、私の顔が笑ってしまう。

 あいつの顔には、憧れが表れていた。

 拍手もせずに私を見ていて、少しムカついた。

 四角い爪は、あいつに言われる前に、お姉ちゃんの友達が気付いた。

「あら、爪が平(たい)らなのね。キーを押え易いかも……、なんてね。そんなのピアノ弾くのに関係ないわ。気にしないでね」

 お姉ちゃんの爪も、小学生の頃はそうだった。

「お姉ちゃんも、そんな爪だったの。でも、今は丸くなっているよ。あと1、2年で丸くなり始めると思うから、気にすることないのよ」

 三(みっ)つ年上のお姉ちゃんは、すっかり丸い爪になっている。だから、あいつが言うまで全然気にしていなかったのに。

(私の爪も、もう直ぐ、……丸くなるのかな?)

 私の中に、小さな棘(とげ)のような不安が刺さる。

「アンコール」

 拍手に『アンコール』の声が交(ま)じり、次第に大勢の大きな声になっていった。

 私は俯いて2曲目の最初のキーに指を添(そ)えた。

 あるアニメの中の曲。高知の高校で出会うけど、お互いの気持ちに気付いているのか、気付いていないのか、よく分からないまま大学生になって、東京の吉祥寺(きちじょうじ)の駅で再会する、

 そんな、ちょっとだけクールな学園ラブストーリー。

 『アンコール』に応えるのは、その再会した時に流れる曲。

 みんなは聴いて、どう感じるか分からないけど、私は嬉しくなる曲だと思う。

 この曲もお姉ちゃんの友達が弾いてくれて直ぐに好きになった。

 アニメも借りて観た。でも、そういう場面の経験は無いから、この曲も巡(めぐ)り逢(あ)いを想像の思い入れで弾く。

 『別れの曲』を弾けるようになってから練習を始めて、まだ練習中だけど、これも目を瞑って弾けるくらいになっている。

(アンコールか……、これも、あいつに聞かせてやろう)

「あなた、うまいわね」

 ワザとらしい間合いで入った先生の声に、余韻と勢いが崩(くず)れて千切(ちぎ)られるように消えた。

 さっきの歌よりも、大きくて上手く滑り落ちないザラザラした蟠(わだかま)りが残る。

 胸に閊(つっ)かえる蟠りは、ちょっと苦(くる)しくて、けっこう鬱陶しい。

(消化不良になっちゃった。ムカつく……)

「私の練習曲なんです」

(語気を強めずに、さらりと言えたかな?)

「そう、ピアノを習っているのね。いいわ。あなたには次から伴奏をして欲しいの。できるわよね? してちょうだい!」

 先生は、大人の狡(ずる)さと教師の権力の言葉を重(かさ)ね、そして強制力を強く含(ふく)めて命令した。

 みんなの方を向いて顔を上げながら、私の眼(め)はあいつを見ていた。

 私への言い方、あいつへの仕打ちにデリカシーの無さを先生に感じて、強い反発が湧(わ)き上がる。

「いやです」

 あいつを見て、先生に言った。

 私は消化不良の気持ちの悪さと、閊かえている欲求不満の蟠りを出所に返しに行く。

 教室中がざわついて、あちらこちらからヒソヒソとトーンを落として囁(ささや)き合う声が聞こえて来る。

(どうも私は、みんなからイメージダウンされたみたい。……疎外(そがい)されるかもね……)

 結果、不自然な違和感(いわかん)や理不尽(りふじん)さを感じていても抗(あらが)わないみんなから、疎外される存在になったとしても、私は全然かまわなかった。

 それどころか、息を止めて諸橋の海に潜(もぐ)り、サザエを捕まえて浮き上がった時のように、明るい大気の中に出て新鮮な空気を大きく吸い込むのに似(に)た、満足感と開放感が有った。

 先生の指示や指導が、全(すべ)て適切で正しいわけじゃないと思う。

(あんたも、このくらい言いなさいよ)

「私は、歌いたいんです。伴奏はしません」

 私は再び、語気を強めて反抗した。

「先生は、あなたにして欲しいのだけど」

(悪いけど、従(したが)う気はないわ)

「いやです」

 あいつを見たまま、大きな声でピシャリと言った。

 今度も、みんながどよめいたけれど、それは一瞬だけで、みんなは直ぐに黙り込んで、私と先生を見た。

(誰にも、意見させないわ)

 私は、先生を無視して席に急(いそ)いで戻る。

 誰も私に注意や意見をしないし、できない。

 獲(と)れたての大きなサザエを両手に握(にぎ)っている気がしていた。

 空気が甘くて、久し振りの懐かしい感じ。

 翌檜の森の奥で、蕨(わらび)や姫林檎(ひめりんご)や栗を抱(かか)え切れないほど穫(と)れた時の気分に似ている。

(あはっ、すっごく、楽しい!)

「仕方(しかた)が無いわね。じゃあ、他に弾ける人は?」

 先生は、頑(がん)として言う事を利(き)かない私に呆れてしまったのか、伴奏を強要するのを諦(あきら)めてくれた。

 その後、小学校を卒業するまでみんなは、音楽の先生に反抗した私と親しくしようとはしなかった。

(音楽は、楽しめばいいのよ。そう書くじゃない。楽しめない音楽の成績なんて、どうでもいいわ)

 そう思う度に、あいつの必死な顔と憧れる顔が浮かんだ。

(ううっ、イラつくわ! いきなり、あいつの背中をガーンと蹴って遣りたい!)

 いつの日か、意地らしくも、情(なさ)けないあいつを、蹴り倒すか、怒突(どつ)いて引っ叩(ひっぱた)くか、水に沈めて遣りたいと思う。

 

つづく

『桜の匂い・希薄な赤い糸』(小学6年生~中学3年生)女子編  ダイジェスト

『桜の匂い・希薄な赤い糸』(小学6年生~中学3年生女子編  ダイジェスト

 小学6年生の初日、コンプレックスだった爪の形を知らない男子に指摘されて、私はムカついてしまう。

 名無しのメールは誰だか分からない男子からの告白だった。

 それを中学2年生の私は冷たく拒絶で返す。

 私を弄び楽しむ名無しは、絶対に許さない。

 見付け出して曝し者にしてやろうと思い、私は名無しの男子を探し始める。そして、とうとう突き止めた名無しは、知らない男子の無愛想で不躾なあいつだった。

 中学2年の3学期、家族旅行で行ったイタリアのコモ湖で観光バスから降りて来たあいつを見て驚愕したけれど、気付かないフリをして私はあいつを避けてしまう。

 だけど、避けていたはずのあいつは、中学3年生のコーラス祭で私への想いをソロのフレーズに込めて歌い上げ、私を感動させてくれた。

 

 少女は少年と出逢い、少女は少年を知り、少女は少年を意識して行く。

 思春期の片想いラブストリー『桜の匂い 第一章 希薄な赤い糸』(小学6年生~中学3年生)女子編

『桜の匂い・女子編』の内容紹介

『桜の匂い・女子編』の内容紹介

 私は桜の匂いの中で彼と出逢い、私は彼を知り、私は彼を好きになる。

 桜の風の中で小学6年生の『私』は『あいつ』に声を掛けられた。

 中学2年生の『私』に送り主不明のメールの主は『あいつ』で、拒みたかったけれど後先面倒だからとメル友にしてしまった。

 偶然と思われた『あいつ』との出来事は、『あいつ』が偶然を必然にしていた。

 不慮から守ってくれた『あいつ』を『私』は『彼』と意識するようになったが、『私』の我が儘は不甲斐無い『彼』を拒絶していた。

 拒み続けた『彼』を揺れる気持ちを認めない二十歳の『私』が、奇跡の様に時と場所を交差させて行く『桜の匂い 女子編』。

 

 言葉、それは人と人がコミュニケートする為に欠かせないモノで、声に出して言ったり、文字で書いて現したりする、感情や意志などの意味が有る表現です。

声にする言葉と文字で伝える文や文章には、言葉にしない、言葉にできない、想いの絡みや経緯が有ると思います。

 反射的に放つ言葉にも、どんなに短時間で受け応えする言葉と文や文章にも、それは必ず有るでしょう。
相手と同じ言葉や文字を交わしても、言葉や文字にしていない気持ちや様々な絡みまで同じとは限らないと考えます。そして、同じ想いに至っても同じ言葉や文字になるとは限りません。

 人は人をどれくらい理解できるのでしょう?

 例えば、同じ価値観を持つと主張する、とても愛し合っている二人が、空を紅く染めて水平線の向こうへ沈んで行く夕陽を見て、「綺麗!」と言って感動しても、それは同じ綺麗や感動なのでしょうか?

 同じ夕焼けを見て、同じ感動をして、同じ言葉を交わしても、其処に至る感傷や、馳せる想いや、感動の深さや、持続する長さは、全く同じではないでしょう。

 価値観は流動的で、其の流れは速くて常に深く浅く変化しています。

 小説『桜の匂い』は、同じ事象の当事者である『僕』と『私』が、見たり、聞いたり、感じたり、思ったり、言ったりした感情や意志や想いを互いの位置で綴った作品です。

 文章の物語が終わった其の後も、『僕』と『私』が幸せの奇蹟を起こし続けて行く物語であれば良いと願っています。

第1話 天空人(僕 小学6年生)『希薄な赤い糸・男子編』

「どうして、そんな形?」

 何も考えずに訊(き)いた。

 爪の形が四角くて短い。

 それが不思議(ふしぎ)に思えて、相手の気持ちを考えもせずに訊(たず)ねてしまった。

 春の陽射(ひざ)しと風が心地好くて眠(ねむ)くて堪(たま)らなくなる午後の休息時間に、僕は初めて気になっていた女の子に声を掛けた。

 爪の先端が裁断機で切った紙のように真(ま)っ直(す)ぐに平(たい)らなのだ。

 10本の指先の全(すべ)てに、爪がその形で付いている。

 目の前で窓際の席に座る彼女は、イスの背に凭(もた)れ、両手を机の上に投げ出していた。

 目を細め犬のように鼻をヒクつかせて外を眺(なが)めていた彼女は、ゆっくりと顔をこちらに向け上目遣(うわめづか)いで僕を見た。

 彼女の表情から言葉にしなくても、『だれ? こいつ!』の意思が、はっきりと読める。

 警戒から詮索、吟味、判定へと変わって行く。

 なんて解り易い表情をするのだろう。

 胸がドキドキして来る。

「なにが?」

 僅(わず)かに微笑(ほほえ)んで、彼女は逆に僕の問い掛けの含(ふく)みを探(さぐ)って来て、大人びた少し鼻に掛かる掠(かす)れ気味(ぎみ)な声と、彼女の読み取れる表情の変化に、僕は、ちょっとびっくりして怯(ひる)んでしまった。

 優(やさ)しく微笑む顔の眠たげな瞳(ひとみ)の輝(かがや)きが、彼女を素直(すなお)そうに思わせ、加速された胸のドキドキは息を圧迫して、空気を上手(うま)く肺に吸い込めていない。

「爪、おまえの四角い爪の事」

 気持ちが焦(あせ)って、声に勢いが付き早口になった。

 乱れた呼吸の息苦しさに、言葉も偉(えら)そうになる。

「私、ピアノ習っているの」

 彼女は、教室の窓のカーテンを優しく揺(ゆ)らす風のような響(ひび)きで答えて、再び窓の外へ顔を向け目を細めた。

 一瞬、意味が解らない。

 予期しない返答に僕は、それ以上、何も訊けなくなった。

(ピアノだって!)

 僕は、あまり音楽を好(この)まない家庭に育った。

 家に有る楽器は、教材のハーモニカと縦笛ぐらいだ。

 家の中では大きな音を出して煩(うるさ)くする音楽系の物が一切(いっさい)ダメでステレオも無い。

 それは、僕をリズム感の無い音痴させて、楽器の演奏も、歌を唄うのも大嫌いになっだ。だから、『ピアノ』の一言(ひとこと)で、彼女が違う世界の……、異世界人(いせかいびと)のように思えた。

(ピアノを習うと、そんな爪になるのか…… すげぇな!)

 ぼんやりとテレビで観た、ピアノコンサートの画面が思い浮(う)かぶ。

 ピアノは、音楽教室で見掛けたけれど触(さわ)ったことは無かった。でも、形が近いオルガンなら1度だけ有って、鍵盤を押すと風邪を引いたようにフガフガと鼻が詰(つ)まったような音を出していた。

 全(まった)く漠然としたイメージだけでピアノについて僕は何も知らない。

 彼女の眺める窓の外は、校庭の幾本(いくほん)もの大きな桜が満開になっている。

 その桜の色が彼女の背景になって、猫のように目を細める横顔が幸せそうに見えた。

 桜色に白いブラウスと黄色いカーディガンが似合(にあ)っていて、微笑むような横顔が麗(うら)らかな色達に囲(かこ)まれていた。

 人を和(なご)ます優しげな瞳と、意志の強さを示すように結(むす)んだ口許(くちもと)が、彼女に利発さを感じさせている。

 静(しず)かに微睡(まどろ)む彼女とは反対に、僕の息は詰まり、胸が絞(し)め付けられたように苦(くる)しい。

 加速されたドキドキがはっきりと聞こえ、体中に響く心臓の高鳴りが彼女にも聞こえていそうだ。

 親に連(つ)れられて行った美術館で一(ひと)つの大きな絵に魅(み)せられていた時のように、僕は昂(たか)ぶる気持ちに緊張したまま、その場で身動きもせず、暫(しばら)く彼女を見詰め続けた。

 窓から入る穏(おだ)やかな風と光に満ちた麗らかな春の日の昼下がり、新鮮な驚(おどろ)きと出会いで、僕は言葉を失(うしな)い立ち尽(つ)くしていた。

 小学校の最終学年になっても、僕は、自分の気持ちや思いを上手く言葉に紡(つむ)げない。

(それにしても、ピアノを弾(ひ)くだけで、爪の先が変形するなんて……?)

 無知で未経験な僕には、全く解らない事だった。

(世の中、本当に知らない事だらけで、多過(おおす)ぎだ!)

     *

 6月中旬の雨の日、今日も朝から雨降りで鬱陶(うっとう)しい。

 まるで、プールの底で溺(おぼ)れ掛けそうになった時みたいなバツの悪い厭(いや)な気分なる。

 例年通りだと、梅雨明(つゆあ)けは1ヶ月以上も後だ。

 長雨の続く梅雨時期は、ぐっしょりと湿(しめ)った空気の世界になって、家の中も、学校も、水の中へ潜(もぐ)って来たみたいに、そこら中がベタベタになった。

 僕の部屋にエアコンは付いていなくて、除湿ができない。

 だから、この雨の続く季節は、部屋の畳や壁がカビ臭(くさ)く、寝起きする布団はジメっとして眠る気持ちをメゲさせてくれる。

 着替えのランニングシャツとティーシャツは湿って肌に纏(まと)わり付き、濡(ぬ)れたティッシュペーパーが破(やぶ)れてべっとりと貼(は)り付いたみたいで、とても気持ちが悪い。

 それに、体中の汗ばんだ肌へ湿気(しけ)た生地(きじ)が貼り付いて突っ張り、動き難(にく)さでイライラする。

 傘を差しながら歩いて学校に来るだけで、ぐっしょり汗を掻(か)いた。

 2限目には、殆(ほとん)ど乾(かわ)いて肌に違和感が無くなるけど、昼休みに友達らと騒(さわ)いでまた汗だくになってしまう。

 音楽の授業で今から使うこの音楽教室も、どこからか煙(けむ)った雨の湿気が入り込んでいて、机の上が水で薄(う)っすらとスプレー塗装をしたように、小さな水の粒子だらけになっている。

 塩っ気のある汗ばんだ腕(うで)が触(ふ)れると、粘(ねば)ついて不快感が目一杯だ。

 音楽教室は正面に黒板で、その前に教壇と教卓が有る。

 手前に少し広く間を空(あ)けて階段状に机が並べられているので、生徒達からは先生を見下ろす形になる。

 先生の声や呼(よ)ばれて前でさせられる歌唱や演奏が、みんなに良く聞こえるようにと考慮した造(つく)りなのだろう。

 この音楽と夏の体育の授業が、1番嫌(いや)で苦痛だった。

 夏の体育の憂(うれ)いは、泳げないからだ。

 少し広い間の右側には、黒光りして威圧感の有るグランドピアノが置かれている。

 こいつも、憂鬱の原因だ!

 いつか、ピアノを使う授業になって練習させられる。そして、順番に課題曲の発表演奏を遣(や)らされるのだ。

 それはきっと、音痴でリズム感の無い僕が、赤っ恥を掻くのに決まっている。

 土砂降(どしゃぶ)りの雨の中、帰り道が分からず走り廻(まわ)った挙げ句、転(ころ)んで階段から落ちた時と、同じような不安が気持ちを暗くして行く。

 脛(すね)と膝(ひざ)の皮が捲(めく)れ上がり、赤い肉の中の生(なま)白(じろ)い物を蹲(うずくま)って泣きながら見詰めていた。

 打ち付ける雨が、涙(なみだ)と血を洗い流すけれど、涙も、血も、止まってくれない。

 結局、通り掛かった親切な大人の人に近くの交番へ連れて行かれ、手当てをして貰(もら)った。

(夏の体育は、仮病を使えるけど、音楽は見学できないし、誰(だれ)も助けてくれないな)

 諦(あきら)めきった遣る気の無さで、暈(ぼや)けた視線をグランドピアノから手前に戻(もど)す。

(ん!)

 気になる後ろ姿に、視線を2列斜(なな)め前で停めて焦点を合わせた。

(彼女だ!)

 あの四角い爪の彼女が、僕より前の席に座っている。あれから彼女とは話していない。

 教室の座席位置は、背の低い僕が教卓の直ぐ前で、彼女は後ろから2番目の窓際だ。

 彼女の席とは離(はな)れていて一日中、殆ど視界には入らない。

 それに、班分けでいっしょになった事も無い。きっと、彼女は異世界人なのだから、いつも違う時空にいて近くに来ても分からないのだと思う。

 音楽教室はその造り上、背の高さに関係なく好きな所に座って良い事になっている。

 早い者勝ちで、今日の僕の席位置は後ろの方だ。

 いくら考えても、四角い爪とピアノが、……うまく繋(つな)がらない。

 鍵盤を敲(たた)くだけで爪の先が潰(つぶ)れるのだろうか? そして、潰れた爪は成長できなくて平らになってしまうのだろうか?

 僕の乏(とぼ)しい知識では、そう考えるのが精一杯だった。

 ピアノを習っている彼女にとって音楽は、楽譜を読めて趣味や遊びと同じように気軽な感じで楽しめるのだろう。

 娜(しな)やかそうな背中と、横の友達に明るく話し掛ける仕種(しぐさ)が余裕と楽しさを放ち、僕は、そんな彼女を羨(うらや)ましく見ていると、急に懐(なつ)かしい気がして、なぜか、来年の桜を眩(まぶ)しそうに眺める彼女の姿が浮かんだ。

 その時、中学生になった彼女は何を想い、何を考えているのだろう。再来年(さらいねん)も……、その次の年も……。

 音楽の授業の前半は、みんなで合唱だ。

「揃(そろ)ってないわね。そっちの端から、一人(ひとり)ずつ歌ってちょうだい」

(あっちゃー!)

 左の前から一人ずつ音程のチェックが始まった。

 三人が音程を外(はず)して、遣り直(なお)しをさせられていたが、2、3回でクリアした。

 案の定、僕は、『夏の思い出』の音程を思いっ切り外した。

 酷(ひど)い外しでクラスのみんながゲラゲラ笑う。

 前方の列の子達は振り向いて僕を笑っている。

 みんなに笑われながら見られて、自分の顔が火照(ほて)り熱っぽくなって行く。そして、晒し者にされている恥(は)ずかしさと焦りと緊張は、みんなの笑い声を小さくしてくれて、やがて聞こえなくさせた。

 先生の歌い直しを命じる声も、途切れ途切れにしか聞こえない。

 自分の外しっぱなしのアカペラで歌う鼻声だけが、妙(みょう)にはっきりと聞こえていた。

「もういいわ。次の人」

 5回目で先生は『フゥ』と溜息をついて、そう言った。

(先生に、見限られてしまっただろうな……)

 音程を外した自覚と見限られた事実が惨(みじ)めで恥ずかしい。

 既(すで)に、僕の顔は茹(ゆ)でた香箱蟹(こうばこがに)や大正海老のように、鮮(あざ)やかに真っ赤(まっか)なのだろう。

 これ以上は唄えない!

 もう、俯(うつむ)かないように顔を上げているだけで、いっぱい、いっぱいだ!

 クスクスとまだ収まらない笑い声の中、座りを直しながら僕を見ている彼女が見えた。

(彼女は、笑っていない!)

 頬杖(ほおづえ)をしたまま振り向いている顔は、工作室の黄ばんだ石膏像のような無表情だ。

 黒目勝ちな瞳は瞬(またた)きせずに、取り壊(こわ)し中のビルの崩(くず)れた壁面から内部の破砕具合を探るみたいに、僕のバサバサでボソボソになった粗雑な内面を見透(みす)かしているように思えた。

 彼女に軽蔑(けいべつ)された、そんな感じがしていた。

 汗が吹(ふ)き出し、息が荒(あら)くなる。

 僕はもう、赤色を通り越して黒くなりそうだ。

 冬の鉛色の夕方、夜の帳(とばり)が下(お)りだす暗い西の空に、真っ黒い山脈のような高く迫る雪雲に感じるのと同じ不安が僕を襲(おそ)う。

 暗い孤独な気持ちで朦朧(もうろう)と時間を過(す)ごす中、彼女に順番が回って来て無難に歌い終わった。

 別に是(これ)といって上手いわけでなく、みんなと同じように普通に歌っていた。だけど僕は、この普通に歌う事ができない。

 彼女は歌い終わると後ろへ振り返ろうとした。でも、途中で思い留(とど)まったのか正面に向き直して座ってしまう。

 半面まで振り返った彼女の顔は、誰か親しい友達に向けるように明るく回されたのに、一瞬、僕と視線が合ってしまった目だけがギロリと睨(にら)み、横顔の僕を見た瞳は雨模様の空を見るように艶(つや)が消えていた。

 ……今のは、僕を上から目線で見ようとしたのか?

 彼女以外のクラスのみんなは、僕の番が済(す)むと、僕には無関心になっているのに、彼女だけが、自分が歌い終わると手本にしなさいとばかりに僕を見ようとした。

 酷い音痴で何度も遣り直されたのが、そんなに愚(おろ)かで鈍(にぶ)く思われて同情される事なのだろうか?

(なんだぁ……?)

 嘲(あざけ)るでもなく、蔑(さげす)みでもなく、悲(かな)しくて寂(さび)しそうな、僕を哀(あわ)れむ瞳が気になった。

 僕は彼女に嫌われるような事を、何かしたのだろうか?

 授業の半(なか)ば頃、やっと『夏の思い出』が終わった。

 次は縦笛だろう。これならなんとか、みんなに合わせられる。

 後(あと)、20分ほどで音楽の時間も終わる。

 今日の授業は、音楽が最後だ。

 まだ、雨は降り続いている。

 高い湿度に肌が溶けて流れそうな大気の中を、歩いて帰るのは憂鬱だけど、ここには居(い)たくない。

「誰か、ピアノ弾ける人。ピアノ習っている人いる?」

 先生の高い声が響く。

(あ~あ、次からピアノか~)

 とうとうピアノが使われる。

 恨(うら)めしくグランドピアノを見ると、視界を分断するように誰かの手が、ゆっくりと上がって行く。

「はい! 習っています」

 彼女が、手を挙げていた。

「じゃあ、何か弾いてくれる? ここに来て座って」

 先生は彼女にピアノのイスに座るように促(うなが)した。

 彼女は立ち上がり、軽い足取りでピアノへ近付いてイスの横に立ち、ゆっくりと丁寧(ていねい)に鍵盤の蓋を上げると、イスに座り、調律を確かめるように幾つかの音を出した。

「何を弾いてくれるのかな?」

 彼女の仕種を感心するように見ていた先生が訊いた。

「別れの曲」

 さり気ない口調だけど、はっきりとみんなに聞こえる声で言った。

(別れの曲!?)

 聞き慣(な)れない単語に、僕は頭の中を大急ぎで探(さが)す。

 2、3回、彼女は座る位置を整(ととの)え直し、それから姿勢を正して顔を上げた。

 何かを探すように動いた視線は僕で止まり、彼女の目と口が笑う。

 それは一瞬で、僕がそう見えただけかも知れない。

 直ぐに目を細めながら息を吸い込み、そして、彼女の演奏が始まった。

(ああっ、聞いたことがある。知っているぞ)

 テレビのドラマかクラシック音楽の番組で聴(き)いた曲だ。

 彼女は本当にピアノを弾けていて、それも上(じょう)手(ず)に弾いている。

 彼女の弾(はじ)く一音(いちおん)、一音が響きながら、体中の隅々(すみずみ)まで駆(か)けて行く。

 鍵盤を敲く彼女は楽しそうで眩しく見えて、悲しい調(しら)べなのに青空に湧(わ)き上がる雲の白い峰を、楽しげに飛び渡る彼女が重(かさ)なるように見えた気がした。

 異世界人が天空の彼方(かなた)の人になってしまった。

 もう、重力の底の地上を歩いてはいけない。

 僕は見上げる人だ。

 彼女は下を向いては……、そう、地上や地面を見てはいけない。

 僕は、これからの音楽の授業で、顔は教壇脇の彼女の弾くグランドピアノに向けて、心は彼女を仰(あお)ぎ見るだろう。

 ピアノを弾く彼女と調べは、赤恥なんか吹き飛ばして、梅雨の曇り空のような気持ちを晴れ渡らせてくれるだろう。

 驚きは憧(あこが)れになり、音楽の時間が少し楽しみになった。

 演奏が静かに終わる。

 教えた人が優(すぐ)れているのか、彼女のセンスが良いのか、分からないけれど、終わり方も上手だ。

(凄(すご)いな!)

 暫く余韻に浸(ひた)りたかったのに、みんなが拍手した。

 喧(やかま)しい拍手の中、彼女は鍵盤に向いたまま目を瞑(つむ)り、深呼吸をしてから上げた顔は、満足したような少し微笑んでいるみたいに見え、そして、その顔を笑顔に変えると、目が笑いながら開いた。

 その笑う目の視線が動いて、また、僕を探し出して一瞬、彼女の鼻筋と眉間(みけん)に皺(しわ)が寄る。

 余韻に浸ろうと努力する僕は、拍手をしていない。

 僕だけが、拍手をしていなかった。

 拍手を忘れた僕を、瞬間、眉端(まゆはし)を持ち上げ、縦皺を眉間に刻(きざ)んだ彼女が咎(とが)めていた。

「アンコール!」

 鳴り止まない拍手の中、誰かが言ったら、直ぐにクラスの半数以上が声を揃えてのアンコールになって、更(さら)に、みんなの声は大きくなりそうだ。

 彼女は俯き加減に鍵盤を見詰めて、アンコールに応(こた)えるタイミングを計(はか)っているように見えた。

(弾くのか?)

「あなた、うまいわね」

 先生の声で拍手とアンコールを願う掛け声が止んで、みんなの霧散し出した期待を追うように僕の冷(さ)めて行くテンションが天井を見上げさせる。

(あ~あ、余計な事を……。先生の方がタイミング、うまいですよ)

 アンコールに応えて、もう1曲弾いてくれそうな気配が消えた。

「私の練習曲なんです」

 先生の褒(ほ)め言葉へ控(ひか)えめに返す彼女の冷(つめ)たい声が、静かになった音楽教室に響く。

「そう、ピアノを習っているのね。いいわ。あなたには次から伴奏をして欲(ほ)しいの。できるわよね? してちょうだい!」

 先生は、辞退は許(ゆる)さないと言わんばかりに、矢継ぎ早に言葉を強くしていく。

 児童教育のセオリーなのか、ワンパターン的に同じような言い方をする先生は多い。

 爪が変形するほどピアノを弾く彼女は、きっと伴奏をしたいだろうと思う。

(でも、伴奏だけなら、先生が自分ですりゃあ、いいじゃん!)

 天井の煤(すす)けた隅を見ながら、何度も遣り直しをさせられたアカペラの憤(いきどお)りと、アンコール曲を聴けなかった詰まらなさに、気持ちが反抗的に騒ぐ。

「いやです!」

(断(ことわ)った!)

 『断るわけがないだろう』と思っていた僕は驚いた。教室中がどよめいた。

(えっ! なんで断るの?)

 断る不可解さに見上げていた顔を戻し、僕は彼女を見た。

(ぎょっ?)

 なぜか彼女は、僕を見ている!

 顔を逸(そ)らさずに、彼女は僕を見ている!

 僕が彼女に視線を戻す前の、天井を見上げている時から、じっと僕を見ていたのだろうか?

「私は、歌いたいんです。伴奏はしません」

(歌いたいのか!?)

「先生は、あなたにして欲しいと、御願いしているのだけど」

 先生の言葉に呆(あき)れと願いが混(ま)ざる。

「いやです!」

(また言った。でも、なぜ、僕を見ながら言うんだろう?)

 彼女は鍵盤の蓋を静かに閉じてイスを戻した。そして、行った時と同じ跳(は)ねるような軽い足取りで席に戻って来る。

 彼女の言い切る言葉遣いと悪びれない態度に、みんなは圧倒されて声も出ない。

 誰も彼もが唖然として、彼女に意見を言えなかった。

 僕の気持ちの中で騒ぐ反抗性など、さらりと拒否権の発動を実行する彼女の足許(あしもと)に平伏(ひれふ)すしかない。

 彼女は、みんなの前でピアノを弾いてみたかっただけなのだ。

(ピアノだけでなく、態度もかなわないや)

 階段を上がって来る彼女は口許に薄く笑(え)みを浮かべて、まるで学園物アニメの小悪魔的美少女みたいに思えた。

 その彼女の顔が、席に座ろうと横を向いた途端、しょんぼりとメゲた表情になって俯き、そのまま正面を向いて座った。

 ワザとらしく肩を落としてみせる後ろ姿の態度と、僅かに見せる赤く恥じらう頬(ほほ)が、僕には切なくも羨ましく思えてしまう。 

「仕方(しかた)が無いわね。じゃあ、他に弾ける人は?」

 先生は自分のテリトリーに発生した負の因子を『仕方が無い』カテゴリーへ除外して、結局、ピアノを習い始めたばかりの男子に決まった。はっきり言って彼は下手(へた)だ。

 音楽の授業は、また憂鬱で苦痛の時間に戻る。

 四角い爪の天空人(てんくうびと)は、憧れを通り越して畏(おそ)れになった。

 僕のような地上人とは、口を利(き)いてはいけない。

 直接見るのも、だめだ。

 近付くのも、向き合うのも許されない。そして僕には、彼女が眩し過ぎて見えなくなった。

 その後、彼女は要注意児童のカテゴリーに入れられたようで、先生達の彼女を見る目付きや表情が変った。

 彼女に対する態度も余所余所(よそよそ)しい感じになり、順番で指名する時にも短い間が入るようになってしまった。

 そんな、先生達に睨まれるようになった彼女を、クラスのみんなは避(さ)けているみたいで、元々、話しても言葉足(た)らずで無口な彼女は、その口の利き方からも誤解や反感を招(まね)き易く、みんなからそれとなく敬遠されていたのが、今や、はっきりと距離を置かれている。

 2学期からは、彼女が話題になる事も無く、また、僕が彼女に話し掛ける機会もなかった。

 せっかく、みんなからアンコールが掛かるほどのピアノ演奏をしたのに、サディスチックな先生に1度逆(さか)らっただけで、関係していたり、仲良くしていたりしていると、思われたくないばかりに、僕も含めて人の気持ちなんて冷たいものだ。

 1学期の出来事は、だんだんと記憶が薄れ、中学への進学で彼女とクラスも別になり、新しい友達が出き始めると、僕の天空人への想いも薄れてしまった。でも、あの上目遣いと四角い爪は、ずっと忘れられない。

 

つづく