遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

越の国戦記 前編 1945年 夏(五式中戦車乙二型/チリオツニの開発)

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● 越の国(越乃国(こしのこく)/高志国(こしのくに)/越洲(こしのしま))とは、大和朝廷(やまとちょうてい)に征服支配される以前の古代(こだい)の統治国家です。

▼昭和20年(1945年) 11月4日 日曜日
 今年は残暑が長引いて、9月中旬と10月中旬に北陸地方を通過した台風が、それぞれ、2、3日だけは強風と豪雨で涼(すず)しくしただけで、いつまでも9月の暑さが続き、晩秋の訪(おとず)れが一向に来てくれない。
 それでも、随分(ずいぶん)と涼しくなって寝苦しくなくなった11月初頭の早朝の静寂(せいじゃく)と夢見のまどろみは、突如(とつじょ)として始まったドロドロと遠雷のように轟(とどろ)く艦砲射撃と群(む)れ飛ぶ蝿(はえ)のような空襲の爆音で破(やぶ)られた。
 アメリカ軍の艦隊の接近が深夜未明(みめい)に伝えられていたが、暁(あかつき)に砲撃してくるとは思わずに仮眠をしていた。
 直ぐに飛び起きて、脇に置いていた双眼鏡を掴(つか)み、司令塔のハッチから出て敵情を視認する。
 水平線上に5隻の敵戦艦が連(つら)なり、チカチカと発砲の光りが見えていた。
(これは、上陸前の制圧射撃だ! 4、5時間後には、水陸両用戦車が大挙(たいきょ)して上陸して来るぞ!)
 上陸準備射撃を行う敵情に、顔面から血の気が失せて行くのと、チリチリと痺(しび)れる手の指先から力が抜けて行くのと、ガクガクと震(ふる)える膝(ひざ)に、爪先(つまさき)と踵(きびす)の感覚が消えるのが分かった。
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 昨夜は、最早(もはや)、この末期の戦局ではレイテ島のように強襲上陸をして来なくて、今日辺りは水平線の彼方に集結して空爆に終始し、上陸の決行は明日だと考えていた。
 戦略的価値が無いと見做(みな)されている石川(いしかわ)県の大きく弧を描く海岸線へ、これまで一度もB29による無差別な絨毯(じゅうたん)爆撃を行わずに上陸作戦を決行して来るとは、徹底抗戦を命令し続ける大本営を長野(ながの)県西部から逃げ道を無くして包囲撃滅する為や、アメリカ軍による北陸(ほくりく)地方の実行支配の必要性から上陸して占領しなけなければならないのだろうと察した。
 それにしても、これまで空爆の予兆(よちょう)も無く、海上に艦船の影も見せず、いきなり夜明けの水平線に現れた敵戦艦群は、死と破壊を降らせて、上陸作戦を強行しようとして来るとは思いもしなかった。
 上陸されて占領された関東(かんとう)地方と九州(きゅうしゅう)地方や侵攻中の山陰(さんいん)地方と山陽(さんよう)地方、それに、東海(とうかい)地方各地の不利な戦況は、無線で知らされているだけの外地の戦闘のようで、平穏な待機の毎日が戦闘への直感を鈍(にぶ)らせていたのだと思う。
(言い訳を幾ら連ねても、気を緩ませた自分の失態だ! 上陸して侵攻して来る敵を迎え撃つ守備位置へ、事前に配下の部隊へ移動を命じていなかったのは、実戦経験からの驕りが有った私の責任だ!)
 速(すみ)やかに移動を行い、守備位置で上陸侵攻して来るアメリカ軍を迎撃せねばと、気持ちは焦った。
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 敵の航空母艦や上陸部隊の船舶は、水平線の向こう側で姿が見えない。
 レイテ湾の時の様な激しさではないが、砲撃を受けているのは、宮腰(みやこし)の漁村、大野(おおの)の湊町、粟ヶ崎(あわがさき)から内灘(うちなだ)の砂丘で、盛んに土砂と炎が舞い上がっている。
 アメリカ軍は、軍都『金沢』への最短距離の海岸に上陸しようとしていた。
「指中ぁ、エンジンを掛けて、暖気だ! 状況確認後に所定の守備位置へ移動するぞ!」
「赤芝ぁ、無線で2号車にも守備位置へ移動せよと伝えろ。ただし状況判断まで待機だ! 第2中隊と第3中隊の各車へ連絡、状況詳細を報告させろ!」
(観測所のトーチカが点在する程度の守備拠点しかない水際は、砂浜の海岸へ一斉に押し寄せて上陸する水陸両用戦車群によって容易(たやす)く突破されているだろう)
(そして、上陸したアメリカ軍は射程を伸ばす艦砲の制圧射撃に援護されて、雑多な兵科の兵隊達や鉄血勤皇隊が篭(こも)る畦道(あぜみち)沿いや植林帯縁に造られた掩蔽(えんぺい)壕(ごう)の防衛線は、チリオツニが守備陣地へ着く前に越えられてしまうだろう)
(そうなれば、白日の下に曝(さら)される2輌のチリオツニは、地上では敵のM4戦車の包囲攻撃を受け、制空権を失っている上空からは爆弾やロケット弾が降り注ぐだろう)
(自決する間も無く、なんら防衛に寄与する事も無く、多くの日本人の無念を晴らす為に大勢が心血を注(そそ)いで開発したチリオツニは、哀(あわ)れにも無駄死に潰(つい)えてしまう)
 チリオツニとは試作された5式中戦車『チリ』を、更に、この時の為に開発を続けて改良を加え、僅かな数のみが試作量産された、5式中戦車乙型2の秘匿(ひとく)名称だ。
 通り名として関係者の間では極普通に使われているが、本来は関東から関西までの表日本の政治、産業の重要な戦略地帯へ配備されるべき決戦兵器なのだけれど、初期開発の著(いちじる)しい延滞で防衛予定地域の戦闘には間に合わず、完成はしても、既(すで)に、守るべき国土は日本海側の古代に流刑地だった辺鄙(へんぴ)な地域しか残されていなかった。
(それでも、決死の一矢を報いる為、出来る限りの事に尽力しなければならない!)
 圧倒的な敵艦載機の制圧下で非常に移動は困難だが、守備位置へ行くべきだと判断する。
 視界の左端の遠方海上にも黒々と粒が群れているような大船団に、群れから僅かに離れて連なる黒粒のような発砲する敵戦艦隊と、其の近くの海岸から幾条もの煙が上がっているのが見え、加賀(かが)方面の安宅(あたか)から塩屋(しおや)の海岸へもアメリカ軍は上陸をしようとしているのを知った。
 そちらを守備する第2中隊の2輌と第3中隊の1号車が、上陸する敵と交戦する前に艦砲や空爆で全滅してしまわないかと、状況を心配しながら見ていると、加賀沖の海を埋め尽くすアメリカ艦隊の中に、パッ、パッと遠くでフラッシュを焚(た)いたような光りが見えると、黒粒の艦船から黒煙が上がって陸地の方へ棚引(たなび)いた。
(おおっ、何だあ? 海軍小松飛行場の神雷(じんらい)隊が攻撃して爆弾か、魚雷が命中したのだろうか? それとも突入を敢行(かんこう)したのだろうか?)
 直線距離で小松飛行場まで40㎞、秋晴れの澄(す)み切った朝の大気でも距離が有り過ぎて、編隊で対地攻撃を繰り返しているであろう、敵艦載機と、低空で攻撃しているであろう、神雷隊の双発爆撃の機影は、8倍の双眼鏡を通しても全く見付けられなかった。
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 『ガオォォォーッ!』
 突然、頭上に大音響が響いて辺りを振るわせ、思わず身を竦(すく)めてしまう。
 見上げると、後方の三小牛山(みつこうじやま)から次々と桜花が射出され、更に、犀川(さいがわ)と小立野(こだつの)台地と浅野(あさの)川(がわ)を隔(へだ)てた卯(う)辰山(たつやま)の山頂からも1機の桜花が発進して、甲高い轟音を響かせながらロケット燃焼の長いオレンジ色の炎を輝かせて突入高度と飛距離を得る為に上昇して行く。
 もの凄い速度で上昇しながら、桜花は水平線上に見える敵の戦艦や航空母艦へ一直線に向かっている。
 ロケットを燃焼させて飛べば、絶対に生きては戻れない神風特攻と理解していても、其の力強い轟きと格好良い真っ直ぐな潔さに、畏(おそ)れの戦慄で全身に寒イボが立ち、奥歯を噛み締めて口を一文字にきつく結び、失態を晴らすべき自分もと激しく憤ってしまう。
 泉(いずみ)野(の)の高台の竹林際でエンジンを始動させて排気を噴き上げた自分が乗車指揮する五式中戦車の砲塔の上に立ち、双眼鏡で飛び去る桜花を追った。
 海岸線を越えて海上へ出た辺りで小さな粒で輝いていたロケットの炎が消えて、はっきりした黒点の微粒子に一瞬だけ見えた後は薄い青色の空に吸い込まれたように、全く見えなくなった。そして、砲爆撃の着弾の合間に微(かす)かに聞こえていた、遠ざかって小さくなったロケットの響きがピタッと聞こえなくなった瞬間に、水平線で主砲を斉射し続けていた先頭の敵戦艦の中央に主砲の発砲炎よりも大きく閃光(せんこう)が光った。
 優に20㎞近く離れている遠目にも、側舷の対空砲列が飛び散り、煙突と艦橋が傾いたように見えると、直ぐにもうもうと噴き出す黒煙に船体全体が包まれながら、敵戦艦が沈んで行くのを知った。
 すぅーと艦橋が真横近くに傾いて水平線に没しようとした時、突然に真っ白い水煙を高々と上げる大爆発が起きて、ほんの3分程前まで盛んに艦砲射撃をしていた敵戦艦は完全に沈没してしまった。
 それは、正に身の毛が弥立(よだ)つような素晴らしい轟沈(ごうちん)で、其の戦慄(せんりつ)に全身がブルブルと暫し震えていた。
(血潮が疼(うず)くとは、正(まさ)しくこの事だ!)
 更に、後方に並んで艦砲射撃をしていた2番艦の戦艦にも船尾で閃光が眩(まぶ)しく光り、射撃中の後部砲塔が持ち上がって空中へ飛ばされ、今は、爆発した船尾から沈みかけている。
 後部砲塔近くに命中した桜花は、弾薬庫の誘爆を招いていた。
 大爆発で船尾を失った2番艦は、沈むのを防いでも、大破の大修理で1年以上は戦力外になるだろう。
続いて、水平線の向こうに大きな炎の塊(かたまり)が上がっていた。
 其の位置からして、艦載機を発艦していた航空母艦だと判断した。
 其の航空母艦も、飛行甲板を破壊されたのならば、もう航空戦力として用を成さない。
 それは、物凄い大戦果で、確かに戦闘を交える者達や敵を憎(にく)んで殲滅を望む人達の戦意を激しく高揚(こうよう)させていた。だが、大戦果を上げた戦法は敵艦に体当たりして自爆する特別攻撃とされた神風攻撃で、其の自爆する飛行兵器は搭載機銃や爆弾投下装置も無いが、機首に1tもの高性能爆薬を仕込まれた突入特攻専用のロケット推進機だった。
 ロケット推進機に搭乗して突入の操縦をするのは、優秀な学力と思考力と身体能力に強靭な神経を養った若者達だ。
 地面や水面の2次元平面を走る自動車や汽船の操縦など比べ物にならない、宙に浮いて操るという3次元の操縦を鍛錬して取得した操縦士が、たった1回の最初にして最期となる攻撃で失われるのには、納得のいかない憤りが溜まっていた。
 軍人として立志すれば、輝かしい戦歴と華々しい戦果を達成したいと思い願うが、敵を撃滅して敵陣を占領しても、出来れば初陣での戦死はしたくない。
 これまでのどの戦闘でも、私は決死の覚悟で必死に戦って来たが、無謀な切り込みは部下にもさせて来なかった。
 瀕死(ひんし)の重傷を負(お)い、最早(もはや)、最期だと悟(さと)り、今際(いまわ)の際(きわ)の断末魔(だんまつま)になら、死なば諸共(もろとも)の自爆や自決もするだろう。
(しかし、最初から自殺の訓練をして無情の死神に刈(か)られる為に自殺機械に乗り、無数の爆裂と曳光弾が集中して来る中へ突入して散華(さんげ)するのは、どのような美辞麗句(びじれいく)を書き連(つら)ね、賛辞(さんじ)を浴(あ)びせ並べても、彼ら達の内心、いや、本心は無念に違い無い!)
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 艦砲射撃と空爆がピタリと止み、風に戦(そよ)ぐ竹林の笹の葉のざわめきだけが聞こえている。
 桜花の突入を免(まぬ)れた後続の3隻の戦艦は、水平線の彼方へと姿を消し、桜花の航続圏外へと逃(のが)れて行った。
 双眼鏡を加賀沖へ向けると、先程の2条の煙は5条の黒煙に増えているのが見え、砲撃を中止した敵の艦隊と船団は、真っ黒な煙を靡(なび)かせる5つの黒粒を残して進行方向を変え、金沢沖と同様に日本海沖へ退避(たいひ)して行くところだった。
 それらは、三小牛山のカタパルトから射出されて敵主力艦に突入した僅(わず)か1分にも満たない極短時間の飛翔で起きた、人間を誘導装置にした音速爆弾『桜花』の無情の結末だった。
 この戦場になっている金沢市が在る北陸地方では、満開の桜は4月の入学式の頃で、3月の卒業式で花弁(はなびら)が舞(ま)うように散(ち)る表日本の桜とは違う。
 満開桜を愛(め)でる桜の下の伝統行事の御花見宴席は、関東から南の表日本では互いの健勝を願う別れの盃だが、北陸地方では出逢いを歓迎する宴(うたげ)となる。
 桜吹雪(さくらふぶき)の美しい散り様(ざま)を、戦死という命の散華に喩(たと)えて謳(うた)う軍歌の『同期の桜』は、関東地方での軍人集まりの酒宴で、よく合唱されていたが、出会い桜の小松市や金沢市での飲み会では歌われてはいなかった。
 誰が名付けたのか知らないが、桜の花が曼殊沙華(まんじゅしゃげ)のような不吉(ふきつ)な花にならないよう願いたい。
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 恐(おそ)らく、敵は加賀や金沢の海岸防備を侮(あなど)っていたのだろう。
 確かに水際防備は皆無に近いが、古の流刑地で戦略的な価値の無い辺境の田舎で、決戦兵器の桜花の配備や神雷隊の温存戦力は予想していなかったに違いない。
 きっと、厭戦(えんせん)意識が充満する辺境の地などは無血上陸して、其の日の内に金沢市や小松市はあっさりと占領できると読んでいたのだ。
 其の敵の驕(おご)りと侮りによる希望的戦果予想の結果が、戦艦1隻が轟沈、6隻が大破、それに、1隻の大型空母が大破するという大損害と、今日の早朝に予定されていただろう上陸作戦が中止される事態を招いたのだ。
 この水平線上に全く敵艦がいない業況なら、午後も上陸は決行されないと思うが、昼頃には占領された本州や九州の何処かの飛行場から飛来する爆撃機によって、桜花の発進した三子牛山辺りや海軍神雷隊が基地とする小松飛行場、それに、中途半端な艦砲射撃になってしまった上陸地点の海岸線一帯は繰り返えし爆撃されるだろう。
 カタパルト発進する桜花の配備は、三子牛山や片山津や熊坂の丘陵だけではないが、神雷隊の航空機と共に補充は無くて消耗するだけで、操縦士ごと自爆する桜花は、次戦で発進できるのは、精々5、6機しかない。
 神雷隊も一昼夜の出撃が限界だと予想されていて、海岸真際の滑走路は艦砲射撃や空爆で直ぐに使えなくなり、敵が上陸すれば忽(たちま)ち蹂躙されてしまう。そして、劣等で低俗なイエローモンキーの日本人に大損害を強いられて出鼻を挫かれ、怒り狂うヤンキー共は、皆殺しの報復に燃えて、必ず明日は、それらを実行する為に上陸を強行して来ると考えた。
 レイテ島で、そうだったように抵抗や被害を受けると、奴らは、圧倒的な火力で日本軍の拠点や陣地を徹底的に叩きのめしてから、生き残った我が軍の負傷兵を銃剣で刺し殺し、火炎放射を浴びせて燃やし回り、戦車で轢(ひ)き潰すのだ。
 後退途中で立ち寄ろうとした友好的で日本軍に協力してくれた集落では、ゲリラと一緒にヤンキー共が住人の老若男女全員を広場に集めて、彼らを皆殺しにするのを見た。
 特に若い女性達には、散々、弄(もてあそ)んでから殺すという鬼畜(きちく)の所業(しょぎょう)がされていた。
(越の国の人達を、そうはさせない為にも、上陸した奴らの足が、前に1歩も踏み出せないほど、震え上がらせて怯えさせなければならない!)
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 其の予想される旨を金沢市、小松市、高岡市、福井市の各防衛司令部に暗号電文で進言すると、日没後は所定の守備陣地へ速やかに移動する事に決め、僚車の2号車及び第2中隊と第3中隊に同様の行動を行うように命令した。
「こちらアメノウズメ、至急、状況を知らせよ」
 アメノウズメとは、情熱的な踊りの舞いで八百万(やおよろず)の神々を喜ばせて、隠れた天の岩戸から天照大神(あまてらすおおみかみ)に誘(さそ)い見をさせた、天照大神を守り抜く忠実な女神の名だ。
 其の女神の名を私は、自分が乗車する第1中隊1号車の暗号名にしている。
 各車の暗号名は日本神話の女神の名から選ぶように命じて、10月5日の『独立戦車梯団 越乃国』の結成式の後、各車長から発表させていた。
 其の暗号名は愛称でも有り、乗車に愛着を持たせて乗員達の士気を高め、大儀を全とうさせる意図を含み、毎日3度行う定時無線交信での状況報告には必ず使用して、慣習になるようにしている。
 梯団の全戦力である6輌の5式中戦車乙型2に装備する無線機は陸軍通信学校で製造された94式3号で、小松製作所に用意されていた物が取り付けられている。
 通信可能距離は80㎞だが、確実に到達交信できるのは50㎞という性能を持つ、本来は師団司令部が保有する強力な無線装置だ。
 強力な電波なので敵に傍受され易いが、戦闘単位を入れずに暗号名のみの送受信だから、各中隊を点呼する交信とは思われないだろう。
 それに暗号名を用いるのは、僅か6輌という梯団(ていだん)の戦力の少なさを悟(さと)られない為でもあった。
「ククリヒメ、随伴(ずいはん)、共に異常無し」
 これは、静岡県(しずおかけん)は清水(しみず)の湊(みなと)の出身、小鳥遊(たかなし)芳光(よしみつ)学徒少尉を車長とする第1中隊の2号車だ。
 たった一言の囁(ささや)きで殺気立った夫婦喧嘩(げんか)を諌(いさ)めてしまう、縁結(えんむす)びの女神の名を暗号名にしている。
 金沢市の鳴和(なるわ)地区の斜面に待機している僚車の第1中隊2号車は、今夜中に浅野川沿いの三口(みつくち)地区の守備陣地へ移動して大野湊や粟ヶ崎の浜から侵攻して来る敵を迎え撃つが、守備位置の変更は地盤の弱い地形状、鉄道路線上を後退して位置を移しかない。
「セオリツヒメ、ワカヒルメ、問題無し」
(第2中隊の2輌は、無事だった……)
 第2中隊1号車の車長で中隊長の村上宏一(むらかみこういち)曹長は、第9師団が駐屯していた東満州で活発化して来た中国共産党ゲリラの討伐戦(とうばつせん)で胸に青龍刀(せいりゅうとう)の刀傷を受けて、治療の為に金沢市へ帰還して完治した後、千葉の戦車学校で勤務していた歴戦の軽装甲車乗りだ。
 澄み切った深い淀みの淵(ふち)に住み、不浄を浄化して穢(けが)れを常闇(とこやみ)へと流す、日本神話唯一の死の女神の名、セオリツヒメを暗号名に用いている。
 第2中隊2号車は、機織(はたお)りと風雨の女神のワカヒルメが暗号名だ。
 車長の鈴宮春二(すずみやはるじ)学徒准尉は、家が神戸(こうべ)市のワカヒルメが祀(まつ)られている生田(いくた)神社の氏子(うじこ)だと言っていた。
 第2中隊の中隊長は規定では階級が上の鈴宮准尉にすべきなのだが、私の考えで実戦経験と年功が多い村上曹長を中隊長に任命する事に納得して貰い、軍管区司令部の承認も得ている。
 戦闘は各車が単独で行わなければならないが、遮蔽(しゃへい)や擬装(ぎそう)、発砲のタイミング、後退指示、防戦での連携協力は、村上曹長が適切に命令して行うと期待しての判断だ。
 第2中隊は、小松製作所粟津(あわづ)工場から南へ離れた月津(つきづ)地区と梯(かけはし)川(がわ)の国道橋と鉄道橋の間付近の土手際に待機しているが、夕暮れから守備位置の柴山(しばやま)潟(がた)対岸の高台と小松の城跡へ移動させる。
 私が乗車する第1中隊1号車『アメノウズメ』の金沢市藤江地区の守備位置も、第2中隊の守備位置も、付近に3、4ヶ所の守備壕が用意してあり、速やかに移動して位置と数を惑(まど)わせながら射撃ができるようにしている。
「スセリビメ、随伴、損害無し」
(ほっ、……第3中隊1号車と、随伴する補給と整備の部隊も無事だ)
 暗号名のスセリビメは、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須戔鳴(すさのお)の娘で、須戔鳴からの課題婚に難儀する大己貴(おおあなむち)に積極的に助言して正妻(せいさい)になった、前進の女神だ。
 因(ちな)みにスセリビメと夫婦となった大己貴は結婚後、葦原中国(あしわらのなかつくに)の統一と繁栄、国(くに)譲(ゆず)りを行い、出雲(いずも)の祭神(さいじん)で良縁結び大神となる大国主(おおくにぬし)である。
 中隊長の飛騨(ひだ)地方出身の千反田(ちはんだ)一二三(ひふみ)学徒少尉が指揮する第3中隊1号車の待機位置は、大聖寺町(だいしょうじまち)の城山の南側麓で、防衛戦闘は西へ600mほど離れた切り通しに掘られた壕にて行う事になっていて、其処へ至る道は補強整備してある。
 壕に車体を隠して砲塔のみを出し、塩屋漁港から来る敵車輌と片野(かたの)砂丘を越えて来る敵戦車が、福井(ふくい)県境の熊坂(くまさか)丘陵を守る部隊を分断して小松市へ南から回り込まないように待ち伏せて葬(ほうむ)り、企(くわだ)てを頓挫(とんざ)させる重要な役目を担(にな)っている。そして、敵は大聖寺川によって接近できないが、多過ぎる敵に不利な状況に陥(おちい)りそうになれば、速やかに北方の鉄道橋や国道橋を渡って動橋(いぶりはし)付近へ後退するように命じてあった。
「イワナガヒメ、随伴、異常無し。湾に敵影無し」
 頑固(がんこ)に貫(つらぬ)く意思と呪(のろ)いを司(つかさど)る、醜(みにく)くて不幸な女神の名を暗号名にする第3中隊2号車の車長は、焼津(やいづ)湊出身の小久(おぐ)江(え)清嵩(きよたか)学徒准尉だ。
 湾とは富山(とやま)湾の事で、富山県への上陸侵攻は無さそうな報告だったが、どのような方法の強襲上陸をして来るのか予測ができない。
 由(よ)って、新湊(しんみなと)地区の守備陣地まで前進させ、警戒させる事にした。
 本来、第3中隊の1号車と2号車は予備戦力とするところだが、名ばかりの梯団の少ない車輌数に対して守るべき重要地域が多く、止(や)むを得ず、梯団が担当する長い防衛戦線の両端の配置となってしまった。
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 第3中隊の1号車が守備する加賀の大聖寺地区の南外れと、2号車が配置された高岡(たかおか)市の古城公園は、直線距離で優に80㎞以上も離れていて、優秀な94式3号甲無線機でも感度良好な送受信は難(むずか)しい。
 故に、中間地点の金沢市にいる梯団長の私が直接指揮を執(と)っている。
 各車の待機場所と守備陣地には、近くの木立間に15m長のアンテナ線が2本ずつ張られていて、長距離交信を可能にさせているが、戦闘が始まれば敵の砲撃で直ぐに断線していまい、後は砲塔後部の両側に直立する4mのアンテナで交信するしかないが、4mの長さでは何処まで届くか定かでなく、戦闘中の行動は交信可能間の各車長の協議判断に任(まか)せるしかなかった。
「こちら、独立戦車梯団 越乃国、全部隊、異常無し。夕刻から全車、所定の守備位置へ移動し、待機する。移動経路の諸部隊は、路上の安全確保と警護すべし。繰り返す……」
 担当するそれぞれの地域の反撃戦力の中核になるチリオツニが守備陣地へ移動するという意味は、明日は必ず敵が上陸して決戦が避けられない事を知らせて、防衛隊と住民の全員に戦闘の覚悟をさせた。
「受信確認、了解」
 軍管区司令部から了解の無線が入り、これで移動経路が確保され、防衛隊も配置に就(つ)く。
「ククリヒメ、了解」
 他のチリオツニからも、受信、了解の無線が届く。
「現在より、無線封鎖、各車は、守備位置へ到達し、戦闘可能状態になり次第、無線封鎖を解除せよ」
 予想通り、小松市周辺や金沢市周辺の丘陵や海岸地帯は夕暮れまで敵の空襲が続いたが、越乃国梯団は被害を受けず、夜半前に次々と、守備陣地で戦闘状態待機の知らせが来て、全車が配置に就いた。
(敵の航空機は脅威(きょうい)だが、擬装が剥(は)がれたり、不用意に動き回ったりしなければ、攻撃を受け難(がた)いし、明日も、艦砲射撃を削(そ)げれば、チリオツニが敵の地上侵攻を粉砕できるはずだ!)

▼昭和20年 8月14日 火曜日
 深夜に巷(ちまた)で本土決戦と叫ばれている決号作戦が御前会議で決定されたと、大本営の発表が音量を絞(しぼ)ったラジオのスピーカーから流れた。
 元寇(げんこう)の再来のように神州(しんしゅう)に上陸する連合軍を吹き荒れる本土決戦の神風で、必ず撃滅させるという機運は世間で当たり前だったから、『今更、何を改めて大本営発表などと、わざわざ仰々しくするのだ?』と思っていた。

▼昭和20年 8月16日 木曜日
 新型戦車の車長の任と防衛地の移動を命じられる為に出頭した相模原(さがみはら)の司令部で聞こえて来た噂は、停戦、いや無条件降伏を受諾する旨の天皇陛下の御声を録音したレコード盤が蜂起(ほうき)した近衛師団によって奪われて、8月15日の正午に予定していた玉音放送は未然に防がれたらしいという内容だった。
 近衛師団のクーデターは宮城事件と呼ばれて、詳細は秘匿されていたが、実はレコード盤の押収に失敗しているらしい。そして、其の録音盤は、侍従長が常に天皇陛下の御傍に留め置くようにしているそうだ。
 無条件降伏の玉音放送と知った時には、『陛下は大和(やまと)臣民(しんみん)を、どのようにされる御積(おつ)もりなのか?』と司令部の壁を渾身(こんしん)の拳(こぶし)で殴(なぐ)り付けて、激しく憤(いきどお)っていたが、兵舎へ戻る途中で上空の青空を地上の獲物を狙(ねら)う猛禽類(もうきんるい)のように乱舞するアメリカ軍機を見て思う。
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(立川(たちかわ)の陸軍機も、厚木(あつぎ)の海軍機も、全く飛び上がっていない!)
(迎撃(げいげき)する味方機は1機も見当たらない!)
(帝都や周辺の関東(かんとう)の都市は、既に数度の絨毯爆撃で荒廃(こうはい)して焼け野原だ!)
(本土の主要な都市も、全て爆撃されていて、帝都と変わらない有様だ……)
(港湾と水道は機雷だらけで、軍艦も、漁船も、水運も、被害(ひがい)甚大(じんだい)で自由に動けない)
(瓦礫(がれき)になった大工場の設備は、空襲前に山間の洞窟や田舎の農家の納屋に疎開(そかい)しているが、全体の機械稼働率(かどうりつ)と組立効率は非常に低い)
(食べる物も少なくて、配給品の種類も、量も、日毎(ひごと)に減っている)
(今度の冬は、寒さと餓(う)えで大勢の日本人が死ぬだろう……)
(それに、まだまだ、広島(ひろしま)市と長崎(ながさき)市の市街地の全てを一瞬で潰(つぶ)して灰燼(かいじん)と化した新型爆弾が落ちて、大きな都市が次々と消滅して行くかも知れない)
(あらゆる兵器の性能は連合軍の方が優れているし、数量も凄く多い!)
(起死回生(きしかいせい)を期待する天誅(てんちゅう)兵器が完成しても少ない数で、局地的には勝利しても、戦局を覆(くつがえ)すには全く至らないと思う)
 本当に徹底抗戦する意味が有るのかと、戦闘帽の下に日の丸の鉢巻を締めた頭がグラつく。
(人類の起源的に肉食獣ルーツの白人種より、猿人直系の黄色人種の日本人が古代から優れている事を証明しなければならない!)
(絶対に、東洋人なんて人間以下の黄色い猿としか思わず、奴隷のような酷い扱いをする鬼畜(きちく)米英に、焼印を刻(きざ)むような一矢(いっし)を報(むく)いなければ、自決も、降伏も、出来ない!)
(今は、宮城(きゅうじょう)事件で陛下の玉音放送は防止されたが、いずれ全ての日本国民に聞かせなければならない事態になるだろう)
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 検討会で決まった予定の通りなら、今頃は新開発の5式中戦車乙型2の試作量産車6輌で編成した梯団の長になり、其の1輌の車長を兼ねて、既に赴任地(ふにんち)へ移動しているはずなのが、製作した試作車輌と部材の引き渡しを陸軍技術研究所が渋(しぶ)った為に2週間も遅れている。
 開発計画の試作で搭載した45口径の5式7.5㎝戦車砲は、全て4式中戦車へ搭載される事が決定されて、試作戦車の砲塔は主砲が外(はず)されたままだ。
 説明会と討論会で5式中戦車の開発は違う工廠で再開されると伝えられて、速やかに移設の命令書も渡されているのに渋っていたのは、軍人特有の悪(あ)しき慣習の面子(めんつ)への拘(こだわ)りだった。
 其の面子への拘(こだわ)りが戦局を本土決戦まで追い詰めさせているのに、内地の幹部軍人達には、其処へ至る考えも、自責(じせき)の反省も、全く無なかった!
 2週間前の8月1日に川崎の三菱重工業の東京機器製作所で、『試作量産車輌製作の為の開発引継ぎ説明会』が行われた。
 説明会には自分も参加していて、続いて始まった『開発項目の要求見直し検討会』にも出席して聴いていた。
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 7月2日にアメリカ軍が作戦終了を宣言して占領された沖縄本島から、6月23日に自決した牛島司令官の命を受けて脱出を図り、一時はアメリカ兵の捕虜になるが、月の出ない暗夜に脱走して、魚民の小船を乗り継いで本土に帰還した第32軍の高級参報である八原博通(やはらひろみち)大佐と、餓(う)えに苦しみながら後退の激戦を繰り返すビルマ方面軍の作戦方針に当初から批判的で、戦況の詳細報告を理由に輸送機で左遷(させん)的に内地へ戻された第28軍主任参謀の福富繁(ふくとみしげる)中佐が、7月末日から五式中戦車開発室へ加わって、より現実的要求に沿う実戦的で強力な機動力、防御力、戦闘力の備(そな)えを強く要求してした。そして、実戦経験者の意見に従(したが)って現実的開発路線へ修正される事になった。
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 5月末日で一旦中止になった5式中戦車の開発は、開発が中断した時まで室長だった陸軍行政本部戦車研究委員会の中佐に換わって八原博通大佐が室長になり、福富繁中佐は大佐の補佐になって8月初日から再開される事になった。
 2人は5式中戦車の開発の再開に先立ち、開発に携(たずさ)わる職員と将兵を工場の食堂に集合させて、先(ま)ず初めに前任者から引き継ぎを紹介された福富繁中佐が、研究染みていた5式の開発に苦言した。
「広島と長崎を壊滅させた新型爆弾が、次に落とされるのを待つだけの、沖縄を占領したアメリカ軍が、いつ本土へ侵攻して来るか分からない、この切迫(せっぱく)した状況の今、たかだか10㎏程度の砲弾を砲尾に込めるのに、作動や強度に多くの問題が発生して、解決に難儀(なんぎ)している自動装填装置は、本当に、どうしても必要なのかあ?」
「同じ75㎜口径の高射砲を改造した戦車砲を搭載するのに、4式中戦車は左側から装填して、5式中戦車は自動装填装置のトレーに乗せる為に、装填手は右側に居る。それに伴(ともな)い、車長が指揮を執(と)る司令塔の位置も反対だ!」
「こんな不合理な構造を、誰が立案したあ?」
「2年前の〝5式中戦車を開発するにあたっての設計に関する詳細研究会〟では、4式中戦車よりも、更に、大きな物が必要とされた。なのに、違いは確かに大きくなった車体と砲塔と重量だけだ!』
「搭載する砲は、自動装弾機が有るか、無いかで、口径75㎜の同じ砲だ!」
「弾薬も同じだから、威力(いりょく)も一緒(いっしょ)だ!」
「装甲の厚みも同じだ……」
「このまま、戦闘に投入されても、4式中戦車以上に戦えるとは思わない」
「我々が求めるのは、こんな紛(まが)い物の5式ではないぞ!」
「砲塔に配される車長、砲手、装填手は、砲手を除いて作業位置が反対側で、共通性が無い! 97式改、1式、3式、4式と乗員の配置は同じなのに、5式だけが違う!」
「まったく、無駄な開発思考だ!」
「日本人の利(き)き手は右手だ! 左手で砲弾の先端を支えて向きを定め、右手を拳(こぶし)にして押し込むのが、作業的に余計な力や姿勢を強(し)いられずに、円滑(えんかつ)で敏捷(びんしょう)な動きが出来るから疲れ難(にく)いのだぞ!」
「此処(ここ)に75㎜砲弾よりも大きくて重い、8㎝高射砲の砲弾を持って来た。口径は88㎜で、重さが14㎏有る」
 そう言うと、従卒の下士官が運んで床に置いていた砲弾を、屈(かが)んで腰の高さまで持ち上げながら立ち、それから直角に向きを変え、更に、胸の高さに上げてから両手で頭上に高々と掲(かか)げた。
 88㎜砲弾は一呼吸の間、重量挙げ選手のように掲げてから、静かに下ろして床に置いた。
 中佐は、この動作を10回繰り返した後、フラ付く足を懸命(けんめい)に堪(た)えながら、大きく肩を上下させる粗(あら)い呼吸に途切(とぎ)れ勝(が)ちの大声で、集まった全員へ其の身をもっての喝(かつ)を入れた。
「……俺は、先月で45歳になった……。もう…… 壮年(そうねん)の域で息は上がってしまうが、……今のようにできる……」
「俺よりも、……ずっと若い、屈強(くっきょう)な体格と不撓不屈(ふとうふくつ)な精神を鍛錬(たんれん)した装填手は、……もっと、易々(やすやす)と早く、出来るはずだ……」
「装填手になる者は……、旨(うま)い物を沢山食べてぇ……、俺よりも体力と腕力を付けろ!」
「それとぉ、……ギックリ腰にならないように、……腰と背筋も鍛(きた)えよ!」
 従卒(じゅうそつ)が持って来た茶碗の水を飲み干して、中佐は呼吸を整えると、言葉を続けた。
「開発当初の項目に、装甲板は接合部を可能な限り無くして1枚物にすると有ったが、小窓や覗(のぞ)きのスリットやピストルポートの開孔部を増やして、弱点を作るなんて本末転倒(ほんまつてんとう)だな!」
「砲塔側面のカンザシの様に装備された機銃は、不要だ! 合理的に装甲板の目的を果たす為に廃止する! 物量のアメリカ軍相手に使う時は、対戦車兵器や火炎放射器を携帯して接近する敵兵を撃つぐらいだろう。それに、周囲の状況を把握(はあく)して走行や射撃指示する車長に、そんな余裕は無い! 同軸機銃だけで十分だ! 主砲弾の保管棚を設置する邪魔にもなる!」
「また、砲塔側面や車体側面の装甲板が大き過ぎて、鋼板の反(そ)りを修正できないなら、加熱処理で内部応力を無くして反りが除去できる、機械の加工台と合わせた大きさに分割すれば、良いだけの事だろう」
「戦局は本当に切迫しとるのだ! そんな、詰まらん事で悩んでいる暇(ひま)はない!」
『アメリカ軍が上陸して此処を占領してしまえば、それまでの研究や開発は、全て無駄になってしまう」
「だから、一刻(いっこく)も早く、従来の技術を用いて、出来る限りに確実な方法で、より強力な5式中戦車を完成させるのだ!」
「幸い、大型戦車の開発は、150tもの超重戦車のオイ車の経験が有る。それしか無いと言う奴もいるが、全く何も無くて、鋼材や構造をゼロから研究開発のとは、雲泥の差だろう」
「ゼロからよりも、遥かに5式に応用できる技術が有るのではないかと、俺は思う。 以上!」
 そう言って福富中佐は、深々と腰を直角に折る御辞儀(おじぎ)をして、熱弁を締(し)め括(くく)った。
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 次は、開発室長となった八原博通大佐が、秘密裏に進められている現状と今後すべき事を語った。
「5日前に内定を賜って、開発資料の全てを閲覧(えつらん)させて頂いた。開発の再開は5輌の試作量産車を製作する事と、現在、御殿場(ごてんば)の倉庫に保管されている1輌の試作完成車を、試作量産車に準ずる改造を施(ほどこ)す事です」
「試作量産車は、今ほど、福富中佐が御話(おはなし)された、現状でただちに出来る事を行い、副砲の37㎜砲を廃し、車体前面の装甲板の傾斜を大きくして、更に、砲塔前面部と共に厚みを25㎜増やして100㎜厚とします」
「搭載する主砲は、4式と同じ75㎜砲では、現状を凌駕(りょうが)する威力が不足すると考え、99式8㎝高射砲を改造した88㎜砲に決定しました。主砲を大きくするのに伴い、砲塔容積を増やす為に、少し形状を変更して大きくします」
「88㎜は、自動装弾機を付属しない、人力装填とします。福富中佐が8㎝高射砲の砲弾で持ち上げ実演をしたのは、其の所為です」
「搭乗員配置は、後方から見て4式と同じで、5名となりますが、砲手は車長と同じ右側とし、主砲の弾薬を扱(あつか)う装填手の動作の邪魔(じゃま)にならぬようにします」
「同軸機銃は右側なので、弾倉交換は砲手が行います」
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「今、話した事は5式の開発中止後に、此処に列席している幹部達が参加して行われた、開発項目の見直し検討会で決定した事です」
「これらの製造に関わる、資材、兵器、設計、製作は、既(すで)に、内定と本日の開発再開を見越して、北陸にいる知人が社長の大工場で、必要部材の集積を含めて急ピッチで進められています。勿論、今、閲覧していただいている全ての開発計画の資料の説明を大本営の方々にして、納得して貰(もら)い、そして、大本営から正式に許可を得てです」
「なぜ、帝都が在る関東ではなくて、日本海側の北陸なのかは、敵上陸と空爆の脅威(きょうい)が太平洋側よりも少ないからです。天皇陛下を御守りしないのかとの責(せ)めには、陛下の御身(おんみ)の安全を保(たも)てる、安心できる事情が有るとしか、今は言えません」
「そういった事情なので、この工場に有る5式の製作に必要な、工作機械、冶具(やぐ)、部品に部材、資料、そして、一番肝心(かんじん)な貴方達は、3日後の夜間に鉄道で北陸へ移送しますから、施設の機材と御自身の引越しの準備を、この後、直ぐに始めて下さい」
「そして、6輌全車の完成を9月20日とし、其の全力をもって、日本を完全占領しようと侵攻するアメリカ軍に、絶対に一矢(ひとや)も、二矢(ふたや)も射掛けて、散々、慌(あわ)てふかめかせて遣りましょう」
「其の時を儂は想像します。敵の先頭のシャーマン戦車を射貫いて、後続の戦車隊を停止させてから、最後尾を火達磨(ひだるま)にして、挟(はさ)まれたシャーマン戦車を次々と5式の88㎜砲が撃破して行く。だが、シャーマン戦車が放った75㎜徹甲弾は、5式の前面装甲を貫通できずに、全て弾かれてしまう」
「撃たれても、撃たれても、平気で撃ち返して来る5式に、きっと、ヤンキーどもは仰天するぞぉ! そして、自分達の装甲が射貫(いぬ)かれて、砕(くだ)かれる身体と炎に焼かれる恐怖で、震え上がるに違いない!」
「我々が唇を噛み切るほど、悔(くや)しがった絶望を、敵シャーマン戦車の乗員が味わうのだ。それは、なんと清々(すがすが)しくも痛快(つうかい)で、なんて晴れ晴れとした喜びだろうなぁ、諸君!」
 其の言葉に全員の思いを鼓舞(こぶ)いして、血気を盛んにさせた。
「おおっー!」
「尚(なお)、88㎜砲搭載型の5式中戦車の名称は、『5式中戦車乙型2』、秘匿呼称は、『チリオツニ』に決定されました」
 開発室長、八原大佐の優しい口調ながらも、現実的な檄(げき)に各自が『遣れる!』と奮(ふる)い立たされながらも、この食糧難の御時世(ごじせい)、何だか、御膳(ごぜん)に河豚(ふぐ)チリの鍋と牛のモツ煮が並べられたような秘匿名称に、其の場の全員が楽しげに早く食べてみたいと気に入っていた。
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 更に、我が軍の戦車の主砲に貫穿力(かんせんりょく)が無い事を憂(うれ)いて、ビルマ戦線に着任当初、鹵獲(ろかく)したイギリス軍のM3軽戦車へ実弾標的射撃を行い、其の結果が非常に絶望的だと嘆(なげ)いて、一刻も早い強力な戦車砲の開発を訴(うった)えた第1戦車連隊長の向田宗彦(むこうだむねひこ)大佐も出席していた。
「我が方の戦車が敵戦車の砲弾で一撃に破壊されてしまうが、我が方の戦車砲弾は全弾命中すれども、悉く弾き返されるのを、散々見て来た」
「この惨(みじ)めさを逆転させずに、恥辱(ちじょく)を晴らさずに、何が一矢(いっし)を報(むく)いるのだ!」
「これから我々が開発を完了する『チリオツニ』は、必ず一矢を報いる強力な戦車砲を備えた兵器だと、私は確信している!」
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 戦闘継続性を高める為の発煙弾の効果を理解して、標準装備の必要性を意見して発煙量を増大した新型発煙弾の開発を進めていた、陸軍大学教官の小林修二郎(こばやししゅうじろう)大佐や研究部の外山尚孝(そとやまなおたか)少佐と野口剛一(のぐちごういち)少佐が加わり、開発資材や装備兵器の確保と製作場所の工廠の手配など、より現実的に再開発は加速していた。
「砲塔の両側面の最後部に3連発の発炎筒発射機を備えます」
「新開発した直径90㎜の大きな発炎筒で、発煙の量と濃度は従来よりも格段に多く、瞬間的に目隠しをします」
「適切に使用されれば、生存性が上がり、何度でも敵に悟(さと)られずに守備位置を変更して攻撃出来ます」
「既に、濃い白煙でイカやタコの墨(すみ)のように自車を完全に見えなくする発煙弾も有りますが、50mくらいの近距離で炸裂しますから、防衛任務では逆に自分の位置を教えて、敵の接近を許し易くする事になります」
「また、今、話しに出た墨では有りませんが、煙幕の色を白煙より遮光性(しゃこうせい)の高い、濃淡の灰色にする研究も進んでいます」
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 『チリオツニ』の再開発に参与として名簿の筆頭に来て、一切の責任を負(お)うのは、井上芳佐(いのうえよしすけ)中将だ。
 盧溝橋(ろこうきょう)で対峙していた日本軍と中国軍が昭和12年7月に衝突して、沈静化していた戦闘を大きく再燃させ、そして、支那事変が始まった。
 其の年の3月に中将は、ヨーロッパ諸国の機動兵力の視察から戻り、当初の報告から『対戦車戦闘の最良の手段は、対戦車威力を有する砲を装備した戦車で有る』と、説いていた。
「今年の2月に本土決戦準備が発動されて、新たな戦車隊戦闘教令が編纂(へんさん)された」
「現時点で、地上に於ける戦車隊の最大の敵は、アメリカ軍のM4戦車だが、其の正面装甲は、95式の37㎜砲や97式の57㎜砲では、全く効果が無く、側面や後面にも、ただの開門願いにしかならない」
「高初速の97式改の47㎜砲でも、正面装甲の貫穿は無理だ!」
「正面戦闘では、有効射程まで引き付ける迎撃戦法で射貫できるのは、口径75㎜の90式野砲だけだが、それも100mの近距離以内だ」
「だから、伏兵的迎撃戦法を行う事とし、正面攻撃はせずに、M4戦車を遣り過ごしてからの極接近で、弱点の開口部分を狙う」
「このように、強力な敵戦車へは弱点射撃を推奨しているのに、今の5式試作中戦車には、弱点となる開口部が多過ぎだろう」
「まったく、期待される新開発の戦車に、その弱点を多く配置するとは嘆(なげ)かわしい!」
「それらを省(はぶ)けば、資材も、工程も、労力も少なくして、製作時間を短縮できるだろう」
「本土決戦が避けられない今、此処に居る全員で5式中戦車乙型2の開発を、必ず50日後の9月20日までに成(な)し遂(と)げなければならい!」
「もし、何らかの事態で遅れても、最大で9月末日が限界だ」
「10月まで遅れると、不具合の改善調整や基本操作の訓練が不十分なまま、実戦となるだろう」
「チリオツニの試作量産車の製作は、八原大佐が述べた通り、既に始まっている」
「だから、本日の説明会の集まりは決起大会でもある!」
「それと、このチリオツニの件は、スパイ行為の防諜(ぼうちょう)と増えている厭戦(えんせん)の妨害行為を避ける為に、外部へ他言無用の気密扱いとする」
「一同! 状況は絶望的な摂津(せっつ)湊川(みなとがわ)だが、心は智力(ちりょく)を尽(つ)くす楠正成(くすのきまさしげ)だ!」
「おおーっ!」
 5式中戦車乙型2の再開発と試作量産の総責任者である井上芳佐中将の激に、再び、工場現場の一角に集った全員が奮励努力の強い意思の大声で応(こた)え、其の鬨の声が工廠中に響き渡った。
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 自分は、滋賀県(しがけん)高島郡(たかしまぐん)朽木村(くつきむら)針畑(はりはた)から出征(しゅっせい)した帝国陸軍中尉、邑織(むらおり)染二郎(そめじろう)、数(かぞ)えで27歳、満では25歳になったばかりだ。
 山頂まで耕(たがや)した棚田と林業と絹糸(きぬいと)作り、それに、紫色の染料(せんりょう)になる草の紫(むらさき)の採取で辛(かろ)うじて生業(なりわい)を立てている山間の貧村から、昭和13年の春に赤紙で召集(しょうしゅう)されて以来、歩兵第16師団の野戦砲兵隊で従軍(じゅうぐん)して一兵卒から少尉までの昇進を駐屯地と戦地で熟(こな)した叩(たた)き上げの士官だ。
 昨年の10月20日過ぎから12月末頃まで、レイテ島の東岸から西岸へ後退しながら引き摺り回す、たった1門の機動90式野砲でアメリカ軍と死闘を繰り返し、M4シャーマン戦車5輌と短砲身の榴弾砲(りゅうだんほう)を装備した2輌の軽戦車、それに水陸両用戦車2輌の戦果を上げた砲は後退戦の挙句(あげく)に破壊され、部下の兵士は全員、戦死か行方不明(ゆくえふめい)になってしまった。
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 最初はタクロパン市の南方海岸に上陸したアメリカ軍を中隊放列から離れた場所の水際で迎え撃ち、艦砲射撃で砲列が半数になった中隊残余の砲火に呼応して、接岸して倒し開く寸前の上陸用舟艇の前扉に榴弾を命中させ、中にいた敵兵達を吹き飛ばした。
 接岸しようとする大型の揚陸艦(ようりくかん)の喫水線(きっすいせん)直下や艦橋に数発の命中弾を与えた後、続々と上陸して来る敵に押されるようにパロの町の西郊外の隘路へ独自判断で移動し、後退して来る味方を援護して2輌のM4戦車を側面から狙い撃ち、撃破炎上させた。
 この時の撤収準備中に、再び、艦砲射撃を受けた中隊は、私が指揮する砲以外は破壊されてしまった。
 中隊主力から離れていた御蔭で爆風に飛ばされただけの自分や部下達は掠(かす)り傷程度の軽傷だったが、砲を牽引(けんいん)させる馬匹(ばひつ)の4頭の内、2頭が死んだ。
 私の首から掛けていた双眼鏡や地図入れは無くなり、官給品の日本刀は弾片で鞘(さや)ごと折れてしまい、使える刃物や銃を携行(けいこう)していないと不安で仕方が無いので、亡(な)くなった中隊の兵から銃剣と99式小銃を拝借(はいしゃく)した。
 既に、中隊の生き残りは散り散りになって、大隊本部とも連絡が付かないまま、私は独断で残った2頭の馬に砲を牽引させて後退しながら同様の戦闘をパストラーナ、ハロ、トゥンカの各町を出た郊外の自動車道の脇に潜んで行い、更に、2輌のM4戦車と榴弾砲装備の軽戦車1輌を撃破して北の港町のカリガラへと逃(のが)れた。
 この頃から友軍の撤退援護よりも、撃破したが炎上しなかった敵戦車から、敵の制圧砲撃が始まる前に飲食物や武器弾薬を奪うのが目的となっていて、足回りを破壊して停止させた敵戦車の側面の弾薬庫が無い場所を狙い、2、3発、炸薬(さくやく)を抜(ぬ)いた徹甲榴弾で貫通させてやると、乗員達は我先に乗車を捨てて逃げて行った後を急いで物色(ぶっしょく)した。
 アメリカ軍の戦車兵達は装備が良く、車内には物資が一杯で、2、3回の襲撃に拠(よ)って、我が小隊の兵隊達はアメリカ軍の武器を持って戦い、アメリカ軍の食い物で生き長らえていた。
 最早(もはや)、『畏(おそ)れ多くも、陛下から御借りしている銃を捨てるとは……、非国民だ……』などと、咎(とが)めたり、嘆(なげ)いたりする部下は1人もいない。
 我が砲兵小隊の兵士達に支給されている銃は、口径6.5㎜の38式歩兵銃ではなくて、より威力の有る口径7.7㎜の99式短小銃だった。
 99式小銃は口径7.7㎜と弾丸が大きて重くなった分、ほぼ全長の同じ38式歩兵銃よりも発射の反動が大きくて、次弾の装填と発射に支障が有ったのに、より取り回しを良くする為に銃身を短くして軽くした99式短小銃は、更に反動が大きかった。
 重い大砲や砲弾を扱う砲兵は、歩兵よりも逞(たくま)しい体格で99式短小銃を難無(なんな)く射ち熟(こな)していた。
 99式短小銃の口径7.7㎜は、アメリカ兵の小銃の7.62㎜の口径とほぼ同じだったが、弾丸の威力はアメリカの小銃の方が優(まさ)り、捕獲(ほかく)した小銃の反動は99式短小銃よりも強かった。
 射撃後にコッキングレバーを起こしてから引いて、次の弾を押し込んでレバーを下げてロックする5発装填のボルトアクションでは、どんなに装填と操作を急いでも、1分間に15発の連続射撃が限界だった。
 アメリカの小銃は、クリップに挟まれた8発の弾丸を弾倉へ装填後も、クリップを抜き取らないまま半自動で射撃ができた。
 この半自動射撃は照準したままに、引き金を引くだけで8発全弾の連続発射ができる。
 1分間の連続射撃では100発以上にもなり、撃ち尽くすと自動でクリップが飛び出て来て、装填し易いように弾倉内を空にした。
 故に、装填射撃する弾薬が豊富に有れば、当然、小隊の誰もが戦闘と略奪で生き残る為に自ら、長くて取り回しが邪魔で威力の小さな38歩兵銃や連続射撃が出来ない99式短小銃を埋めて、性能の良い半自動射撃ができるアメリカ製の小銃や短機関銃に交換装備していた。
 ただ、敵の小銃の弾丸はクリップに挟まれたまま弾倉に込められているので、弾倉を打ち尽くす前に弾の補充はできず、空になってクリップが飛び出ないと新たな8発を装填できなかった。
 ならば、『敵が逃(に)げたなら、逃げた方向へ残り全弾を撃ち掛けろ。倒れている敵兵に止めを刺せ』と、私は命じていた。そして、たぶん敵も同じ事をしているはずの、其の命令は部下達に忠実(ちゅうじつ)に守られていた。
 カリガラは素通りして、より西方の北海岸のクラシアンの町の前面に陣取り、上陸する2輌の水陸両用戦車を破壊してから、マナガスナスの湊町へ後退して、更に、1輌の榴弾砲装備の軽戦車を仕留めた。そして、其の夜の内に撤退する輜重隊(しちょうたい)のトラックに牽引させて、曲がりくねったリモン北峠の隘路(あいろ)へ機動90式野砲を運び上げた。
 小隊の部下達は戦闘と調達で半数以下になっていたが、敵の銃での強奪調達は、概(おおむ)ね上手くいって、健康状態と体力は保っていた。
 リモン北峠に敵が迫るまで交代で遊兵となり、何度も敵の単独で前進する分隊や物資集積所を夜間に襲撃して成功していたのは、銃声が味方の発砲だと敵が思い込んでいたからなのと、交戦相手は全て殺して来たからだと思う。
 一度、敵兵と銃剣で遣り合い、組み伏せられて首を切られる寸前に、取っ組み合いでは長くて扱い難いゴボウ剣と呼ばれる黒染めの銃剣を、何とか相手の肋骨の下から心臓へ刺し入れて生き残っている。
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 ソロモン諸島やニューギニアや南洋諸島の戦況の噂を聞く度に日本帝国の破竹の勢いは破綻して、逆に押し戻されていると察していたし、歴戦の勇猛果敢で優秀な我が軍を挫折後退させるには、優勢な兵力に強力な兵器を大量に使用しなければならなくて、其の余裕が有るからこそ、アメリカ軍は反撃しているのだと考えていた。
 だから、中隊長に『水際撃退から内陸撃滅に作戦が変更された時の為に、拠点陣地になりそうな場所を調べて来ます』と進言して許可を貰い、4名の直属の部下を伴(ともな)って輜重隊のトラックに便乗し、予定のハロの町よりも先のリモン北峠まで、後退戦で活用できそうな場所と協力的な集落を調べて来ていた。
 調査の結果、陣地に適した場所は多く、1ヶ所に留(とど)まって防戦するよりも、守備位置を頻繁(ひんぱん)に変えて後退しながら待ち伏せ戦闘を行えば、敵に多大な損害を与えられそうだと考えていた。
 リモン北峠の戦闘では迫り来る敵のM4戦車の先頭車を連続射撃で炎上させたが、終に後続車からの集中射撃を浴びて、砲と生き残った部下の全てが吹き飛ばされてしまった。
 ただ1人、飛び込んだタコツボの御蔭で私は生き残ってしまい、其の後は、西海岸のオルモックへ後退する第16師団の残余や、真西のビリバヤの海岸方面へ転進する第1師団や第102師団の主力からワザと逸(そ)れ、第1師団の敗残兵連中と一緒にリモン北峠付近で遊撃的な戦闘を繰り返して、アメリカ軍やフィリピンゲリラから糧秣(りょうまつ)と武器弾薬を強奪していたが、12月22日頃に『撤収作戦が有るから西海岸まで撤退しろ』との命令を知り、第1師団が移動したビリバヤよりも、海軍の部隊が多く展開していると聞いていた北方の漁港を目指して1人、アメリカ兵の下士官から頂戴した磁石と地図を頼りにジャングルを大急ぎで進んだ。
 途中、大怪我を負って拳銃で自決した2人の降下部隊員の真新しい死体を見た。
 2人の装備は良く、たぶん、援軍であろうが、白い絹のマフラーを首に巻いた空の神兵達は何時何処に舞い降りるつもりだったのか分からないが、被弾して墜落する輸送機から脱出したのかも知れない2人に、クソ重いアメリカ軍の短機関銃と拳銃を、彼らの南部式拳銃と全長の短い自動小銃に交換して貰った。
 このアメリカ製の武器よりも軽くて発射速度も速い自動小銃は、試(ため)しに草叢(くさむら)の1本道で遭遇したゲリラを狙って短連射してみると、100m程の距離で見事に命中して、頭を粉砕するくらいの命中率の良さだった。
 其の銃声を聞き付けて、ワラワラと道脇から湧(わ)き出て此方へ駆けて来るゲリラ達も30mまで引き付け、30発弾倉の残り全弾を装弾不良の故障を起こさずに叩き込み、其の全員を撃ち倒す事ができた信頼できる銃だと分かった。
 年の瀬の12月29日の夕方に漸(ようや)く辿(たど)り着いたタバンゴの港では、撤収(てっしゅう)する海軍高官御一行様を助けてタバンゴの沖合まで迎えに来た哨戒艇(しょうかいてい)に便乗した。
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 タバンゴの町外れには、既に、アメリカ軍の偵察部隊が到着していて、敵兵達を迂回(うかい)して港へ行くと、行李(こうり)荷物を持って撤収中と思われる帝国海軍の将校達と、それを尾行するアメリカ軍の斥候隊(せっこうたい)を見付けた。
 夕闇に紛(まぎ)れて10数mの近さまで背後から躙(にじ)り寄って、長い連射を浴びせ、一気に敵の斥候隊を一掃(いっそう)しながら海軍御偉方(おえらがた)御一行様に近寄り、アメリカ軍の接近を知らせると、丸太を組んで重ねた大石で補強しただけの桟橋に接岸待機していた装載短艇へ彼らは急いで乗り込み、沖の哨戒艇へと発進させた。
 無賃乗船をさせてくれた哨戒艇では、便乗代として、雑納(ざつのう)をパンパンにして持っていたアメリカ軍から奪った糧食の全てを差し出した大盤振る舞いは、大いに喜ばれて歓迎された。
 夜通しの全速航行でビザヤ海からミンドロ海峡を抜け、更に南沙(なんさ)諸島、西沙(にししょう)諸島と島伝いに南支那海(みなみしなかい)を北上して、海南島(かいなんとう)に無事に着けたのは今年の1月中頃だった。
 この形振(なりふ)り構(かま)わずの撤退で、強力な兵器の物量で攻めて来る敵に有効な抵抗手段は乏(とぼ)しく、防衛守備ではなくて場当たり的な攻撃を命じる作戦指導部に不信を抱いてしまい、言葉や態度には露(あら)わさなかったが、やさぐれた気持から厭戦(えんせん)気分に陥(おちい)り、気概(きがい)と覇気(はき)は無くなってしまった。
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 海南島の海軍三亜(さんあ)飛行場でレイテ島からの撤収を師団司令部へ報告した三日後、帝都の大本営から命令が無線で届いた。
 撤退命令に従ったとはいえ、玉砕もせずに敗戦のレイテ島から単身脱出した下級将校などは、早く外地で死なそうと、次の玉砕戦になりそうな島嶼(とうしょ)や、大陸奥地の共産党ゲリラの討伐(とうばつ)や、北満州での最果(さいは)ての国境警備に行かされるだろうと考えていたのに、電文内容の『関東相模原の陸軍技術研究所へ出頭しろ』には、非常に驚かされた。
 この大本営命令によって、ただちに輸送機の搭乗席が用意され、香港(ホンコン)、廈門(アモイ)、上海(シャンハイ)、済州島(サイシュウとう)、厚木(あつぎ)と双発の輸送機を乗り継いで、2月1日には研究所司令部へ出頭できた。
 其処で、新たな命令の砲兵から戦車兵への転属を言い渡され、最初は東富士の陸軍演習場で2ヵ月間の短期実技強化修練を受け、次に千葉市黒砂(くろすな)町の千葉陸軍戦車兵学校で幹部候補生として小隊長教育と敵戦車撃滅の必勝戦法を重点とした教育を、学校の教官達が第28戦車連隊の構成要員となる7月まで受けていた。
 実技修練と幹部修練の卒業後に中尉への昇進が有り、おって命令が有るまで実戦経験と受講修練を活かした指導教育をして欲しいとの事で、富士宮(ふじのみや)市の陸軍少年戦車兵学校で教官を勤(つと)めていた。そして本日、新たな命令受領に出向いた司令部で、新型戦車の車長を兼(か)ねた新設の戦車部隊の長に任命(にんめい)された。
 其の思い掛けない拝命は、やさぐれた気持ちを正して厭戦気分を一気に晴らし、熱情で私を満たしてくれた。
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 新たに設立される部隊の新型戦車は、千葉の戦車兵学校で視察を許された量産配備が始まったばかりの3式中戦車だと思っていたが違っていて、授業で試作量産中と聞いた攻守共に3式中戦車より強力な4式中戦車でもなかった。
 車長に任命された新型戦車は、5式中戦車と呼ばれて1式中戦車の倍ほどの大きさが有ったけれど、それは大きいだけで、1号試作車の性能項目表に記載された武装と装甲は4式中戦車と同じだった。
 主砲の75㎜戦車砲は、4式中戦車へ優先取り付けされる為に備(そな)わっていない。
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 車長への任命と共に受領した命令は、主砲の搭載を除いて完成している試作車輌を、『東海地方一帯に散らばる生産設備及び用意されていた資材と共に、北陸の小松製作所へ速やかに移動せよ』だった。
 設備や資材の移送は既に始まっていて、移送の殿になる試作1号車も、試作量産される5輌の仕様に合わせる改造の組み込み部品や予備部品と共に無蓋貨車に載せられ、昼間はトンネルや上空から見付からないように擬装(ぎそう)された切り通しに隠れて、夜間のみの走行で、5日間も掛けて移される。
 小松製作所は、北陸地方(古代に越(こし)の国(くに)と呼ばれて、大和朝廷の主権が及ばなかった地域だ)の昭和15年に市政に昇格した石川県小松市に在る。
 移送先の小松製作所は、小松駅の東側に本社の小松工場、1つ南側の粟津(あわづ)駅の北側に粟津工場、小松市と粟津町の間に今江(いまえ)工場、そして、福井県の敦賀(つるが)市の駅の南隣接地に敦賀工場が在った。
 本社の小松工場は、鉄道の引込み線が何本も有る近代的で大きな工廠(こうしょう)だ。
 広大な敷地に高くて長大な工場が8棟と倉庫や管理棟が20以上も建ち並び、大騒音を響(ひび)かせながら6本の50m以上もある太くて高い煙突からモクモクと黒煙を上げてフル操業をしているのに、敵の攻撃を受けていなくて全くの無傷なのには、とても驚いた。
 第9師団司令部の在る金沢市は陸軍の軍都だが、主力が外地へ出兵している現在は、留守部隊として居残りさせられている僅(わず)か1個中隊規模の歩兵しかいないが、それでも、軍都金沢では雑多な兵科だったが圧倒的に多くの陸軍の兵隊を見掛けた。
 海軍航空隊の神雷(じんらい)部隊が訓練基地とする、小松飛行場に隣接する小松市は海軍の軍都とされ、其の生産設備の7割で海軍の兵器と部材と弾薬を生産している。
 小松製作所は陸海軍の軍需工場の指定を受けているが、運営は背広を軍服に替えただけの経営陣に任(まか)されて、順調に規模を拡大させていた。
 再度の徴兵(ちょうへい)を受けていない年輩の熟練工(じゅくれんこう)が多く、効率の良い作業体制で多種類の兵器が製造されていた。
 年輩の男子工員に混じって10代の多くの若い女子挺身隊員が精密工作機械を操作している。
 『彼女達は関東の中島飛行機武蔵工場へ送られていましたけれど、爆撃で工場が破壊されたので戻って来ました。連日の爆撃で10数名の犠牲者が出ましたから、次の派遣先が決まる前に戻したのですよ。全員、飛行機のエンジン部品の製作担当だったから、1ミクロンの精度の加工も出来る1級の熟練工達ですよ。おかげで、チリオツニの製作も捗(はかど)っています』、そう、哀憐(あいれん)と頼(たの)もしさが宿った眼差(まなざ)しで彼女達を見る工場長に説明された。
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 小松工場と粟津工場の作業棟は、3年前に横須賀市が侵入したアメリカの双発爆撃機によって空襲されてから、日光の明り取りの凸凹(おうとつ)な屋根を平(たい)らにして土を巻き、低木と草を植えた対空擬装が施された。
 敷地内の作業に直接関係しない広場や運動場は開墾(かいこん)されて畑にされているし、畑や家屋の周囲にも成長の早い竹やニセアカシアなどが林のように植えられている。
 簡易的な植林で造成された林や庭の屋敷森に林業で育てた森でさえも、集中砲撃や絨毯爆撃で根こそぎ掘り返されて燃えてしまい、山火事の痕(あと)のように何も無くなってしまうが、だからといって、遮蔽(しゃへい)や欺瞞(ぎまん)をしないと、拠点や重要施設が簡単に見付けられて、あっさりと初動前から破壊されてしまう。
 『上空からは牧草地のようにしか見えなくて、危(あや)うく不時着地に指定するところだった』と、神雷航空隊の士官が擬装の自然さに感心していた。
 そんな入念な擬装に加え、富山県や福井県の方向から接近する敵機が発見されると、警報のサイレンと共に田畑で草木を燻(いぶ)した煙幕が張られて、小松市街と工場群、それに飛行場も上空から隠された。
 小松工場は戦闘艦の大口径の砲弾を作る水圧プレス機械など、海軍向けの工作機械や兵器の製造が主だが、マンガン鋼の履帯や不整地用車両などの陸軍向けの兵器製造を行い、陸軍の軍人も多く出入りしていた。
 『海軍の口径46㎝砲を3連装にした砲塔が、3基も装備した大戦艦の、其の砲弾を製造するプレス機械は、此処で製作して、呉市の海軍工廠へ納(おさ)めたんですわ』と、本土が連合軍に上陸される前なら厭戦思想の抵抗運動を疑(うたが)われて、人々が特高(とっこう)の略称で忌(い)み嫌う、反国家思想を弾圧する特別高等警察に連行され、拷問(ごうもん)と尋問(じんもん)の果てにでっち上げた非国民の罪状の自白を強要し、逮捕、投獄(とうごく)となってしまう帝国海軍の最重要機密を、工場長は、『こんな御時世になりましたから、話しますけれど』と、自慢気に語ってくれた。
 確かに、見た事も無い大型のプレス機械が並んで、バンバンと轟音と振動を響かせて大砲や戦車の部品を製造していた。
 今江工場は陸軍の飛行機部品で、粟津工場は海軍の飛行機部品を製造して周辺地域には協力会社が多く、滑走テストを行う為の短い滑走路も敷地内に備えている。
 高速偵察機『彩雲(さいうん)』の風防枠を製作している小松市の大領中町(だいりょうなかまち)に在る小松航空機製作所も海軍御用達の会社で、今後の北陸3県の防衛体制は、粟津工場で完成する『彩雲』の偵察能力に懸(か)かっているそうだ。
 両工場ではブルドーザーとトラクタも製作していて、海岸の砂丘地帯に造成された海軍小松飛行場や各工場の拡張に使用され、各方面の防衛陣地の構築にも活躍中だ。
 敦賀市にも海軍向けの鋳造(ちゅうぞう)部品の製作を行う為の敦賀工場が昨年に完成して、年末には稼働(かどう)体制になっていたが、今年の6月25日(月)、7月12日(木)、7月30日(月)、8月8日(水)と続いたB29爆撃機100機から単機、及び戦闘爆撃機2編隊による焼夷弾(しょういだん)と機雷と銃撃で、市街地の7割が燃え滓(かす)の建材が散らばる焼け野原になり、目標となった港湾施設は鉄屑(てつくず)と瓦礫(がれき)になって壊滅(かいめつ)してしまった。
 其の500人以上もの死傷者が出ている惨状に、僅(わず)かな被害しか受けなかった敦賀工場は、現在、開店休業状態になっていたが、大阪枚方(おおさかひらかた)造兵廠が製造した一撃で強敵のM4戦車を撃破できるという、個人携帯火器の製造冶具を増設して生産が始まるそうで、配備が間に合えば、人命の損耗(そんもう)が減(へ)り、圧倒的な火力のアメリカ軍と互角の地上戦が可能になると思う。
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 小松市から北に40㎞離れた県庁所在地の金沢市は、5式中戦車乙型2が完成次第に守備を命じられていた場所だ。
 歩兵第9師団の司令部が在る軍都だが、市内の野町(のまち)という場所に大きな町工場程度の絹布動力織物機械と卓上工作機械を製作する津田駒(つだこま)が、金沢市の北側の河北郡森本村には繰糸機(くりいとき)とベアリングを製作する海軍御用達の石川製作所が存在するくらいで、他には飛行機部品や自動車部品を作る小規模な会社が幾つか点在する程度の、とても軍需産業で栄える重要な工業都市とは言い難い、戦略的な価値に乏しい地方の小都市だった。
 現状は、金沢市に駐屯(ちゅうとん)する陸軍歩兵第七連隊などの師団主力が、守備任務に向かった沖縄から台湾の防衛へ移動させられていて、今は司令部の留守機能のみしか残っていない。
 こんな侘(わび)しい産業の軍事施設も僅かで、軍需的にも、兵力的にも、戦略的な価値の無い金沢市など、新型戦車を投入して防衛するに値するか、甚(はなは)だ疑問だった。
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 試作車の砲塔は相模原の第四陸軍技術研究所で、車体は川崎市鹿島田(かしまだ)の三菱重工業東京機器製作所で、クラッチやミッションの駆動系も三菱重工で製作された。
 エンジンは出力不足で現用機には不適格になった航空機用エンジンを転用する事になり、倉庫に眠る在庫と飛べない旧式機から外したエンジンを、ただ空気を速く掻き回すだけの高回転高出力から、負荷(ふか)が大きい地ベタを這い回れる高トルク低馬力へと改造調整された。
 主砲は4式7.5㎝高射砲の砲身を流用して半自動装填機も取り付けた戦車砲が、大阪陸軍造兵廠で試作されていた。
 正式名称を5式7.5㎝戦車砲として完成した主砲は試作車輌に搭載されて、3月下旬から射撃と走行テストが御殿場の富士裾野(ふじすその)演習場で連日行われた。
 其の後、テストで搭載した戦車砲は、量産化を優先すると決定された4式中戦車へ移され、同時に今後完成した5式7.5㎝戦車砲は、全て4式中戦車に搭載すると通達が有った。
 主砲が外された砲塔を載せた車体は、新たな戦車砲が決定しないまま開発中止となり、1号試作車は演習場近くの駒門(こまかど)廠舎内に隠された。
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 開発の再開が決定された5式中戦車の、たった5輌の試作量産に使う資材と、既に製作して各種試験を行った1号試作車を試作量産の仕様へ改造する為に駒門廠舎内から出されて、8月15日の夕刻から御殿場駅の貨物ヤードで重量物用平床貨車に積載された。
 始まった鉄道移送は、通過した灯火管制が布かれた夜間でも、資材を満載した貨車を連結する為に停車した各都市、沼津(ぬまづ) ➤ 静岡(しずおか) ➤ 焼津(やいづ) ➤ 浜松(はままつ) ➤ 豊川(とよかわ) ➤ 豊橋(とよはし) ➤ 名古屋(なごや) ➤ 岐阜(ぎふ) ➤ 大垣(おおがき) ➤ 米原(まいばら) ➤ 敦賀(つるが) ➤ 福井(ふくい)と、路線が東海道本線から北陸本線へと切り替わる滋賀県の米原の町以外は空爆や艦砲射撃による惨状が、月明かりや星明りに見えて、心底、『一億玉砕』と叫ばれる本土決戦が如何(いか)に困難を極(きわ)めるかを見せつけられた。
 密集していた町並みは、焼け炭と灰と煤(すす)けた割れ瓦だらけの広い荒れ地になって、冷め切らぬ焼け地の熱気と強い陽射しで、外壁が残ったコンクリートや煉瓦(れんが)造りの建物が、1つ、2つと陽炎(かげろう)になって歪(ゆが)み、まるで無念を嘆く墓標のように思えた。
 被災地域の木造家屋の全てと、活気で満ち溢れていた住民達は消えてしまった。
 家族全員が亡くなって、燃えてしまった家も少なくないだろう。
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 当初は3昼夜の予定で開始された移送は、有効な対抗手段が無い空襲を避けて、日没後の薄暮から夜明け前の薄明りまでの夜間に行われた。
 移動中の夜間は上空を大編隊で通過するB29の爆音を何度か聞き、トンネルや偽装された引き込み線で待機する昼間は、茹(ゆ)だるような暑さを避けて、風が通る貨車の下の日陰で寝ながらも、襲撃する獲物を探す敵の艦載機を見ない日は無かった。
 噂(うわさ)では、単機で飛来したB29から投下された、たった1発の新型爆弾の爆発は、広島市と長崎市の市街地の殆どを、一瞬で焼いて吹き飛ばしていたらしいと、聞いた。
 両都市は市民の半数以上の何万人もの人が死亡し、無傷の者は僅かだそうだ。そして、爆弾が炸裂した場所付近にいた人や動物は、途方もない高熱の熱線に焼かれて、瞬時に骨も残さず蒸発しているようだと聞かされた。
 一瞬で街と人々が無くなり、街と人々と生活の記録と記憶が消えてしまう。
 街角や路地で何がなされて、どんな歴史が有ったのか、何処の家に誰が住んでいて、どんな生活をしていたのか、今では分からない……。
 それは何という、無慈悲(むじひ)で、無情で、無残で、無念な事だろう。
 幾つも見て来た焼け野原を、更に、死の鎌(かま)で薙(な)ぎ払ってから、死の箒(ほうき)で掃(は)き終えた広がりの惨状を想像するだけで、戦場とは違う死の悲しみに息が詰まり、哀(あわ)れさを嘆く涙が溢れて頬を流れた。
(日本人が徹底抗戦して終末を長引かせるほど、白人達は地球上から大和民族を抹殺させようと考えるのであろうか?)
(ならば、天皇陛下の戦争終結の御言葉(おことば)を聞いた時点で、潔(いさぎよ)く戦闘を止めるべきだ!)
(さもないと、本当に日本人は、絶滅させられてしまうかも知れない……)
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 実際の移動日程は白昼の空爆で抉(えぐ)られた線路の修復と、破壊された列車の除去に手間取り、更に敦賀から武生への山中峠越えがD51機関車の重連結による牽引でも、連結した重量物貨車を分けなければスイッチバックの繰り返す急勾配を通過できず、其の慎重さと低速さ故に目的地の小松市への到着が計画より2昼夜も遅くなってしまった。
 驚いた事に山中峠を下る反対側の斜面からは、朝日が昇った白昼も走り、今庄駅の待機線や武生駅の貨物ヤードでの再連結も真っ昼間にどうどうと行われた。
「おい、防空担当によって、対空警戒はされているようだが、今日は晴天で上空から丸見えだ! 蒸気機関車の煙突からも煙が上がっている! 敵機に見付かったら、爆撃と銃撃を食らうぞ! 危(あぶ)なくないのか?」
 其の余りの無警戒ぶりに、日陰で屯(たむろ)して煙草(たばこ)を吸いながら雑談をしている国鉄職員達に、注意を促(うなが)した。
「そうや、中尉さん。なあんも無い田舎(いなか)やしねぇ。ほいで、ここら辺(へん)は空母の艦載機やと、遠過ぎて飛んで来れんがやわ」
「来られる近さで、酷い目におうとる敦賀は別やけど、来るんは、福井と富山を灰にしやがったB29だけやわ。ほやけど、あれっきりやし。ほやから、もう目ぼしい的が無うなった、こんな田舎は爆撃に来る価値も無いがやろ」
 たぶん、福井弁だと思う語尾が特徴的な北陸訛(なま)りで、峠越えを重連で牽引して北陸本線も引き継いで走る事になったD51の機関士と車掌が、攻撃する価値も無い辺鄙(へんぴ)な田舎だからという意味らしい説明をしてくれた。
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 小松製作所の本社でもある小松工場には、国鉄職員達が言っていたように空襲を全く受けずに快晴(かいせい)の8月20日の昼過ぎに到着した。
 直ちに積載貨物の1号試作車と部材や工作機械が手際よく降ろされ、所定の加工組立の部署へと運ばれて行った。
 通過した東海道本線沿線の大中都市の全て、北陸本線でも福井県の敦賀市と福井市が焼夷弾空襲で市街の殆どが焼け落ちていたし、更に、軍需工場が多い富山市は市街地を狙われて、無差別殺戮の被害は甚大だと知らされていたから、海軍の飛行場が在り、軍需工場が集中している小松市は、とても惨(むご)い事になっていて、移送されても、完成させる作業も捗(はかど)らないだろうと頭を抱えていたのだが、驚く事に工場も、飛行場も、街も、周辺も、全く被害を受けていなかった。
 其の辺りの事情らしきを、5式中戦車乙型2の製造工程の長と、99式高射砲を車載できるように改造しに大阪陸軍造兵廠から来た砲架技師で高岡市出身の大尉が言ってくれた。
「日本国内でも僻地(へきち)な北陸やさかい、アメリカさんは全然、興味が無かったんやろう。せいぜい、明治の中頃に富山から能登半島を廻とった、パーシヴァル・ローウェルさんの旅行記の記述と、がさつな地図ぐらいの情報しか持ってらんで、流刑地やとか、陸の孤島やとか、徳川さんの頃のままやとか、非常に辺鄙な戦略的に価値が無いと、考えとるんやわいね。以外と精密工業力が有るなんて、微塵(みじん)にも知らんやろねぇ」
 小松製作所は、確かに知られてはいなさそうで、他に石川県で地上標的になりそうなのは石川郡の松任町に在る国鉄の修理工廠ぐらいらしいが、北陸線の物流から破壊する必要が有るのか、疑わしいとも話していた。
 職工の親方達も言う。
「大東亜戦争の開戦前に見たんやけど、ほん時の舶来(はくらい)の日本地図には、若狭湾と富山湾と能登半島が描かれとって、富山と福井の街の場所と名前も書いてあんのに、どっこにも金沢は無いんやわ。金沢とか、小松なあんて、全然知らんがやわいね」
 技師さん達と似たような事を、語尾が聞き取り難い早口の金沢弁で、自分で見ていた舶来地図の表記の事実を語ってくれた。
 案外、この辺りが真実だろう。
 それに、神雷航空隊の飛行教官で、新兵訓練で北陸3県の上空を多く飛んでいる南方帰りの海軍少尉は、辺境の片田舎だと言わんばかりだった。
「2、3千mの上空から見ると、富山市や福井市と違って、金沢市は野原や空き地のような練兵場と林や森ばかりで、集落が少し纏(まと)まっているようにしか見えません。お城の周囲の市街地らしき処(ところ)も、木々や畑が多くて道沿いに家が連なる宿場町みたいに思えてしまう。だから、悲しいくらい、県庁所在地の街には全く見えないのです」
 古都だからとか、次の新型爆弾の投下目標だとか、戦略的な価値有る産業目標が無いとか、此の頃は単に日本人を無差別に殺戮(さつりく)しているだけの焼夷弾の絨毯爆撃を繰り返しているのに、金沢市が全く爆撃されない理由を、いろいろ噂されていたが、実際、アメリカ軍が怠惰(たいだ)で金沢市や小松市に興味が無いのと、碌(ろく)な情報も無かった所為で知らないだけなのか、作戦上の障害に成らない限り、この程度の小都市は後回しにされているのだと思う。
 そんな辺鄙な田舎町のような金沢市だが、それでも攻撃目標にされないように、更に、多くの植林と田畑化が市民総動員で急ピッチに行われていた。
 それに加えて、北隣の森本町と東金沢駅の中程から海辺と金沢駅の間を通り、西金沢駅と野々市町(ののいちまち)の中間辺りまで半円を描く、高さ6尺で厚み18尺に盛り土した土手に挟まれた幅100mの帯状の土地へ、目隠し用の植林が市内と同様に官民総動員で行われて、公園の林程度にはなって来ていた。
 見通しを悪くする目隠しとしては、樹高の高い常緑の針葉樹の森が理想的だが、成長させる時間は無く、それを補う為の土手の造成がされて、何処かの治山治水に影響の少ない山奥からの間引きするように樹高の低い木が抜かれて、牛馬で曳(ひ)く修羅(しゅら)という大型の木橇(きそり)で運搬されていた。
 9月初頭から始められていた植林の土木工事は、枕崎(まくらざき)台風の通過で一時中断したが、一部のみの冠水被害だけで日程の遅れを取り戻し、稲穂(いなほ)の刈り入れを済ませると、更に、作業速度が上がった。
 植え付けは人と馬の力のみと非力だが、植える樹木は生(お)い茂(しげ)る低木と街路樹並みの樹高の照葉常緑樹で、多人数によって数100本が等間隔で一斉に植えられる様は樹海が広がるようで壮観だった。
 市街地を流れる全ての用水は、暗渠(あんきょ)の蓋(ふた)が外(はず)されて道幅を狭くして敵の侵攻の障害とした。
 また、通行障害を酷くする為に水量豊かに流される用水は、刈り入れを終わらせた平野の水田を季節外れの水が満たすと、台風での冠水の残りも有って見渡す限りに湖のような景観にさせてくれた。
 ウネウネと曲がりくねる畦で仕切られた丸っこい形の田んぼの連(つら)なりに、小川のような用水から溢れんばかりの水が張られた様子は、辺りを水量豊かな湖沼(こしょう)だらけの大湿地帯にしてしまった。
 庭木や街路樹も増やされて木立だらけになった金沢の市街地は、木々の間に上薬(うわぐすり)を塗(ぬ)られて太陽の光を眩(まぶ)しく反射する黒光りする瓦屋根(かわらやね)が目立ち、眺(なが)めていると、まるで御伽話(おとぎばなし)に語られる湖沼に囲まれた森の中の不思議(ふしぎ)な都のように思えて来る。
 市街地に密集する黒光りの甍(いらか)の波は、上空から見るとキラキラと漣(さざなみ)が立つ大きな池に見えるのかも知れないと想像するだけで、迫り来る決戦の日も忘れて愉快(ゆかい)で楽しい気分になってしまう。
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 地上戦闘は、艦砲射撃が出来ない状況と航空機が飛べない天候の下なら、携帯火器の火力と数に勝るアメリカ軍へ対してでも、南方戦線の戦闘報告から、対歩兵戦は従来の我が帝国陸軍の戦法で充分に対抗できる。
 だが、圧倒的な破壊力の砲撃量を沈黙させる術と、厚い装甲で機動に優(すぐ)れた戦車を撃破出来る有効な兵器は無かった。
 其の物量に勝る敵の集中砲撃と戦車群の突進に、防衛線は次々と容易く突破されて、島嶼での戦闘よりも速い進撃をアメリカ軍に許している。
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 小松製作所で完成された6輌の5式中戦車乙型2は、1輌が富山県呉西(ごせい)地域の産業の中心で鋳造工業都市の高岡市の防衛を主任務に新湊(しんみなと)と伏木(ふしき)の町の間の守備位置への派遣と、2輌が北陸3県の軍管区を統括する軍都の金沢市の防衛に鉄道移送され、3輌は小松飛行場と近辺の小松製作所の諸工場を機動防衛する為に、小松市の今江潟や柴山潟(しばやまがた)の周辺と大聖寺町の外れに在る擬装した掩体壕(えんたいごう)に待機していた。
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 自分が乗車指揮を執る第1中隊の『チリオツニ』101号車は、金沢市内を流れる犀川の河口に在る漁港の金石の町と金沢駅近くの白銀町(しろがねちょう)を、一直線に結ぶ金石(かないわ)街道沿いの北町と藤江町の間を通る植樹帯の中から待ち伏せ攻撃をする事になるだろう。
 アメリカ軍が軍都金沢を攻略する価値が有ると判断して、其の為の地域情報や地理情報を得るならば、海岸線の砂丘地帯から金沢市の市街地へ至る最短ルートが見通しの良い金石街道で、戦車などの重量車輌が問題無く通行できる道路も、道沿いに電車軌道が敷設(ふせつ)された金石街道しかないと分かるはずだ。
 金沢市北西の大きな内灘(うちなだ)砂丘近くの粟(あわ)ヶ(が)崎(さき)町から金沢駅まで、浅野川の土手(どて)沿(ぞ)いにも電車軌道が敷設されていたが、周囲に湿地が多いのと、土手上の道も30tを越える重量車が連なっての走行に耐(た)えられそうもないと思われた。
 石川県は七尾港の在る七尾湾が、数回に渡って500個ほどの機雷が投下され、何隻が激しく損傷している以外は、能登地方にも、加賀地方にも、1発の爆弾や焼夷弾が落とされていなかった。
 手取川水系と大聖寺川水系で水力発電された豊富な電力で、各工場で複数の電気をフル稼動させ、居並ぶ大型水圧プレス機械と多数の工作機械の加工音の響きで工場が唸(うな)っていた。
 繁華街(はんかがい)には平時と変わらず商品が並べられ、市場も豊富とはいかないが、多くの生鮮食料品が売られて、飲食店も普段通りに営業している。
 道行く人達の服装は、着物が四割、作業服と洋服が3割、国民服が2割、学生服が1割で、駅周辺の商店街や市場での軍服は少数しか見掛けなかったが、第9師団司令部と第7連隊司令部の在る金沢城跡と県庁と警察署が並んで市役所と向かい合う金沢市の官庁街では、多くの陸軍の軍人が往来していた。
 津田駒という大きな軍需企業と関係取引の工場群には、陸軍と海軍の軍人が頻繁(ひんぱん)に出入りしていたし、海軍が軍都に指定した小松市の役所街や小松製作所には、特に海軍軍人が多く、関連する軍需工場や会社にも、大勢の海軍の軍人が出入りしていた。
 小松飛行場の周辺は、実戦部隊の搭乗員や整備兵を主体とした海軍の兵隊ばかりだった。
 家庭婦人は皆(みな)、着物かモンペ姿だったが、女学生達の半分くらいが女学校の制服のスカート、職業婦人達も多くがスカートを穿(は)いていて、大東亜戦争開戦当時のようなモダンというか、華(はな)やかな雰囲気(ふんいき)だった。
 女性達が全員モンペ姿で勢揃(せいぞろ)いするのは、召集されて行う屋外の野良(のら)仕事や土方(どかた)の人夫作業の時ぐらいだ。
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 髪型も帝都圏では贅沢(ぜいたく)だとか、敵性だとか、言われて避けられているパーマの女性も普通に歩いているのを、あちらこちらで見ていて、行き交(か)う誰も彼もが気にも留めず、咎(とが)める者はいなかった。
 低空で練習飛行をする海軍機と、大量に生産される兵器の部品の他は、大日本帝国が大きな被害を被っている戦争の非常時とは思えない平和な日常で、『此処は、本当に戦時下の日本なのか?』と、心底驚いた。
 勿論(もちろん)、戦時だから大勢の男子が出征していて、いなくなった彼らの会社や工場や役所での仕事を、家庭婦人会の女性達と勤労動員された高学年の小学生から高等学校までの男女の全生徒が、引継ぎながら軍事教練に励(はげ)んでいる。
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 各家庭と各事業所に工場の敷地、公園と土手には防空壕や避難壕や掩蔽壕(えんぺいごう)が掘られ、鉄道の引込み線は擬装網で覆って隠していたし、苗(なえ)を植えれそうな土地は何処でも田畑にされていた。
 掲揚(けいよう)する日の丸や旭日旗(きょくじつき)と戦意高揚(せんいこうよう)の横断幕などは最低限の少なさで、高空を敵機が通過する度に空襲警報のサイレンが鳴り響いて煙幕が覆ってくれたし、日没から夜明けまでは灯火管制で真っ暗になっている。
 目に映(うつ)るそれらも、非日常性の緊迫感(きんぱくかん)は無く、街や住人達の雰囲気は全(まった)くの平時の喧騒(けんそう)と感覚で、北陸地方の治安(ちあん)は良好だった。
 憲兵隊は警察や特高と通称される特別高等警察から依頼が有っても、軍や軍関係以外には出動せず、反体制や反戦の厭戦意識を煽(あお)るアジ演説とビラ配りなどを実行する活動家は、直ぐに警察や特高が捕らえていたが、憶測(おくそく)や噂や誘導からの決め付けで不起の者を拘束する事は無かったというよりも、この時期、巷(ちまた)では市民が警察や特高の動きを警戒して監視しているように思えた。
 切迫する戦局は、誰もが『なるようにしかならない』と自覚して淡々(たんたん)と日々を営(いとな)ませる状態に、過度な取締りが逆に、大規模な反戦のサボタージュと国家転覆の破壊工作を行う過激な抵抗運動を誘発すると考え直した官警は、基本法規の遵守を優先させて国民の生活の安全と財産保護に徹(てっ)するようになっていた。
 北陸の人々は、この過酷な戦況を理解して、戦争の終結が近い事を察(さっ)していた。
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 いずれ、この越の国の北陸にも、圧倒的な兵力の敵が上陸して来て淡々とした日常は終わり、いかに我々が勇猛果敢(ゆうもうかかん)に抗(あらが)い戦おうとも、強力な敵の物量攻撃に山奥深くまで追い詰められて蹂躙(じゅうりん)されてしまい、鬼畜米英(きちくべいえい)に抵抗し続ける限り、日本民族は根絶(ねだ)やしにされるだろうと、言葉や文字にしなくても誰もが思っていた。
 『一億玉砕』という本土決戦での徹底抗戦が決定した以上、直ぐに本州と九州の太平洋側へアメリカ軍は上陸して来るだろう。
 身を挺して切り込む日本人達と死闘を繰り返しながら、迅速に内陸へと戦火を拡大して行く。
 関東は年末までにアメリカ軍が、帝都の市街地へ南北から侵攻して来ると考えている。
 そうなると、完全に包囲される直前の1月早々には、天皇陛下が東京の皇居から長野県埴科郡松代町の大規模地下壕へ動座して、大本営も一緒に移設する計画だと聞かされていた。
 其処も、やがて連合軍に包囲されて完全に逃げ場を失ってしまうだろうと、私個人は考えていた。

▼昭和20年 9月20日 木曜日
 4日前の16日から九州南部を大暴風域に捕らえた大型台風の16号は、翌17日の午後2時に鹿児島県の枕崎辺りに上陸して猛烈な暴風と豪雨で甚大な被害を齎(もたら)したと、金沢城内に在る金沢師管区司令部まで出頭して越乃国(こしのこく)梯団(ていだん)の配置計画を報告した際に知らされた。
 金沢師管区司令官の藤田進(ふじたすすむ)陸軍中将は、『これぞ正(まさ)しく、2度の元寇(げんこう)から日本を救った、神風だ』と、同席していた金沢連隊区司令官の越生虎之助(こしぶとらのすけ)陸軍中将や副官と参報達と喜んでいたそうだが、九州を斜めに横断した進路のままに広島から岡山と通って日本海へ抜け、更に、勢力を弱めながら能登半島と東北地方を横断して18日の午後には太平洋へと列島から遠ざかった、其の枕崎台風と名付けられた昭和九年以来の大型台風の被害は、外敵のアメリカ軍を撃退するどころか、余りの日本への被害が大きくて意気消沈していた。
 昨日までの我が帝国陸海軍と傍受した連合軍の無線交信から得て聞かされた情報では、鹿児島県の西岸の吹上浜と東岸の志布志(しぶし)湾に上陸したアメリカ軍は吹上(ふきあげ)地区と串良(くしら)地区に布陣して、我が軍の善戦しながら後退する3式中戦車を主力とした、第18、第37、第40、第43の各戦車連隊を次々と撃破していた。
 鹿児島市を包囲する形で合流し、更に、日向灘(ひゅうがなだ)の南部に上陸した連合軍とも合流して鹿児島県を九州の防衛圏から分断したが、台風の御蔭で戦闘は中断していた。
 防衛最前線の九州は土砂崩れと冠水の続出で各防衛拠点への連絡と交通は途絶して、殆どの拠点陣地は孤立してしまった。
 九州南部を占領するアメリカ軍のコロネットと名付けられた作戦は、鹿児島県の分離で一旦終了するはずだったが、朝鮮半島南部に迫るソ連軍の脅威(きょうい)に早められたコロネット作戦は、作戦計画の九州南部だけでは停止せずに続行され、斥候や上空からの偵察で調べ上げた無事な幹線道路や進撃路で宮崎県北部へ、そして、一部のアメリカ軍は阿蘇(あそ)山の外輪山脈を越えて熊本県北部へ進軍した。
 暴風域が去って酷い時化だった海上が落ち着くと、退避して侵攻を停止していたアメリカ軍の陸兵は、退避海域から戦闘艦と共に戻って来た上陸用艦艇に乗り込み、留守部隊しか居ない銃後の後方域へ上陸して橋頭堡を確保した。
 それからは、陸上を進軍して来る部隊と合流して次々と防衛隊拠点を各個撃破包囲する計画だったが、何処も彼処(かしこ)も洪水と土砂災害の九州全域の状態にアメリカ軍は侵攻を止めている。だが、足止めされるのは、精々10日間から2週間程度だ。
 台風の被害が整理されてアメリカ軍が進撃を開いたら、瞬く間に九州は占領されるだろう。
 だから、大分県と福岡県の県境から久留米(くるめ)、鳥栖(とす)から有明海まで、我が軍は防衛線を築(きず)こうとするだろうが、
 台風の被害で資材や兵員の移動は進まず、3週間後と予想されている、機械化されたアメリカ軍の攻撃には間に合わない。
 北方は、歩兵中心の第七師団と宗谷(そうや)海峡や津軽(つがる)海峡を守備する要塞(ようさい)部隊しかいない北海道が、千島(ちしま)列島と樺太(からふと)から南下して猿払(さるふつ)、小清水(こしみず)、天塩(てしお)の海岸へ上陸したソ連軍と、函館(はこだて)と苫小牧(とまこまい)に上陸したアメリカ軍の急進撃によって、日高(ひだか)山脈を境(さかい)に南北に分断占領されそうになっているらしい。
 台風の被害が少ない北海道は、台風が来ないオホーツク海からと台風の影響が殆ど無いウラジオストックやナホトカなどの日本海沿岸の港湾都市から、道北へ上陸したソ連軍部隊への補給は途絶(とだ)えなく行われているが、台風の強風で海上が大時化(おおしけ)になる太平洋側から上陸したアメリカ軍は、しばしば補給が中断されて道東、道北への進攻が遅延(ちえん)してしまい、ソ連軍を上陸した地域に留めて置ける状態ではなかった。
 このソ連軍の素速(すばや)い道央への進撃による北海道分断占領化は、大日本帝国が降伏した後の連合国による日本領土の分割統治地域に大きく影響して、アメリカは酷く後悔する事になるだろうと、そんな予見が私の脳裏を過ぎた。
 朝鮮半島も満州国を蹂躙したソ連軍の大群が停止する事無く攻め込んで、現在は大邸市の防衛線で激戦中だそうだ。
 朝鮮半島の戦闘状況は傍受(ぼうじゅ)した連合軍将兵へのラジオ放送で知った。
 南端の釜山(プサン)市や百済(くだら)の地は、イギリス軍やアメリカ軍の上陸に備えているが風前(ふうぜん)の灯(ともしび)だ。
 九州と朝鮮半島の中間に在る対馬列島は、既に上陸して守備隊と戦闘中のイギリス軍に任せ、ソ連軍が九州北端の玄界灘(げんかいなだ)や響灘(ひびきなだ)へ上陸する前に、九州北部と山陰(さんいん)地方へ速やかに進軍して占領させる計画だと言っていた。
 作戦機密に抵触(ていしょく)するラジオ放送の内容の大胆(だいたん)さは、既に進軍状態がラジオ放送の発表内容以上に達成していて、充分に作戦計画の完遂(かんすい)を見通せるからなのと、ソ連に日本本土への上陸を躊躇わせる為だと察せられた。
 福岡(ふくおか)、博多(はかた)まで進軍されれば、朝鮮半島の南端に追い詰められているだろう日本軍には、最早、降伏か、玉砕か、の選択しか残されていない。
 東北地方の太平洋側はアメリカ軍が、日本海側はイギリスを中心としたオーストラリア、ニュージーランド、カナダの軍が加わるイギリス連邦軍が上陸を始めて、水際撃滅を狙った我が軍の反撃は全て粉砕されたとも、傍受した放送は話していた。

▼昭和20年 10月4日 木曜日
 戦禍(せんか)で疲弊(ひへい)していた関東地域や東海地方の兵器製造は台風被害で決定的に貧窮(ひんきゅう)し、とうとう携行する武器弾薬の製造は停滞してしまった。
 消耗する武器弾薬の補充を断たれた我が本州防衛部隊は、全戦線で壊滅状態になって内陸へと後退戦闘中だが、まだ敗走状態にはなっていない。
 最早(もはや)、留まって持久戦を行う為の恒久陣地を構築する資材も、時間も、武器弾薬も、そして、気力の余裕は全く無かった。
 人海戦術(じんかいせんじゅつ)頼りの捨て身の自爆攻撃と、完全擬装に待ち伏せと、後方撹乱(かくらん)の激しい戦闘で必死に防戦していたが、アメリカ軍は著しく侵攻速度を鈍らせながらもジリジリと、占領地を広げている。
 ソ連軍を本州へ上陸させない為にイギリス連邦軍は既に佐渡島(さどがしま)を占領し、更に、新潟県西部の柏崎(かしわざき)から糸魚川(いといがわ)の海岸に上陸して長野県へ侵攻中だ。
 県境の信濃川(しなのがわ)上流の群馬県水上(みなかみ)方面へは殆ど無抵抗に進軍しているらしいが、上越(じょうえつ)から赤倉(あかくら)・黒姫(くろひめ)の妙高(みょうこう)方面へと糸魚川から白馬(はくば)・大町(おおまち)方面へは、山峡(さんきょう)に連なる峠で我が第12方面軍の戦車連隊と激しく交戦中だ。
 鳥取県へアメリカ軍が上陸して橋頭堡を確保しただけで、山陽(さんよう)、四国(しこく)、関西(かんさい)、紀伊(きい)、東海(とうかい)へは瀬戸内海(せとないかい)と伊勢(いせ)湾を無数の機雷で封鎖(ふうさ)して上陸後の侵攻はしていない。
 これで、年明けに松代(まつしろ)の大本営が陥落して虜囚(りょしゅう)となった日本政府と大元帥閣下(だいげんすいかっか)が無条件降伏すれば、アメリカやイギリスなどの連合国は北海道南部と、決して朝鮮半島全土では納得しないソ連に譲歩(じょうほ)した半島の南部のみを交換占領する事にして、ソ連による日本の本州以南の共産化を阻むだろうと考えた。
 生き残れたら、日本本土は津軽海峡で南北に分断統治される事を知るだろう。
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 戦略的に殆ど価値が無い北陸の福井、石川、富山の3県へは、ソ連軍の上陸を防止するという理由だけで、2ヵ月以内にアメリカ軍の上陸攻撃が開始されるだろうと考えた。
 断崖が続いて揚陸に適さない福井県嶺北(れいほく)地方の越前(えちぜん)海岸で上陸作戦が可能な海岸は、若狭(わかさ)湾と石川県に近い三国(みくに)の浜だが、若狭湾沿いは山地が迫る狭い平地の地形で、内陸の福井平野南端の武生(たけふ)地区まで険(けわ)しく長い山間の国道12号線を通るしかないが、狭い道幅の路肩(ろかた)は30tを越える超大型の重量車輌の通行に対応していない。
 それに加えて、相次(あいつ)ぐB29爆撃機からの機雷投下で厳重封鎖されているから、敵の船舶は若狭湾に近付かないだろう。
 福井平野への侵攻は、滋賀県の余呉湖から県境の山地の栃(とち)の木峠を越えて今庄(いまじょう)地区へ出る北国街道を通って可能だが、道筋は国道12号線よりも険しくて長く、路面も同様に重量車輌の通過は困難で、唯一(ゆいいつ)陸路から重量40t近くの敵戦車が侵入できるのは鉄道路線だけだった。
 福井市へ進軍し易い三国の浜から石川県へは、多い河川と県境の山地が速やかな進撃を妨(さまた)げるだろう。
 海岸真際(まぎわ)まで深くて海岸線全体が弧を描く富山湾は、殆どが砂浜で、大規模な肉迫上陸が短時間で可能だが、艦砲射撃で援護する戦艦群や兵員や物資を満載した輸送船は、湾全体から狙い撃ちされてしまうし、接近する空母群も能登半島から所在を把握されて、七尾湾に潜(ひそ)む特別攻撃艇や特殊潜航艇で攻撃され、いずれも多大な損害を被ると予想される。となると、福井県との県境から中能登まで砂浜が長大に続く石川県の海岸は、最小限の損害で上陸が可能だと判断されるだろう。
 ただ、遠浅の海岸は沖合で上陸舟艇が発進する事となり、我が軍の防御射撃を長時間浴びる事になるが、彼らは乗り上げた舟艇が砂地の海底から離岸できるかなど、気にする事無く、上陸する兵士達を溺れさせない為にも、満潮時に全速で可能な限り岸近くまで勇敢(ゆうかん)に突っ込んで来るだろう。
 それに、遠浅な海岸にこそ、水陸両用戦車が適していて、舟艇よりも先に何列もの横並びになった水陸両用戦車で上陸して来るはずだ。
 また、大型艦船は不用意に海岸へ接近できないので、奥深い艦砲射撃は出来ない。
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 昭和20年10月上旬の福井県は第53師団の徴兵区とされていて、敦賀市に駐屯していた配下の歩兵第119連隊は第53師団に移籍して滋賀県の大津(おおつ)市に移駐していたが、昭和19年にビルマ方面へ派遣されて、現在は、ビルマ南部のシッタン川の渡り場を守備中らしいが、連合軍は全戦線で攻勢を掛けているから、既に、タイの国境を越えて転進しているかも知れない。
 福井市の南隣に位置する鯖江(さばえ)市に駐屯していた第28師団所属の歩兵第36連隊は、昭和19年に満州国のチチハルに移駐し、更に、沖縄県南大東島(みなみだいとうじま)へ移駐しているらしい。
 敦賀市に駐屯していた歩兵第19連隊も昭和15年に満州へ派遣された後、昭和19年7月に沖縄本島へ移駐し、更に、昭和19年12月末に台湾へ移動していた。
 したがって、昭和20年8月の福井県には嶺北・嶺南(れいなん)の両地方共、中隊規模の留守部隊と敦賀市と大野(おおの)郡の捕虜収容所の監視兵以外に、郷土防衛をする陸軍部隊の兵力はいなかった。
 富山市に駐屯していた第9師団所属の歩兵第35連隊は、昭和15年に満州に駐屯地を移した後、昭和19年7月に沖縄本島へ移駐し、更に、昭和19年11月には台湾へ移動した。
 金沢市の第9師団所属の歩兵第7連隊も昭和15年に満州に派遣された後、昭和19年7月に沖縄本島へ移駐し、更に、昭和19年11月には台湾へ移動している。
 富山県と石川県も第9師団が台湾防備に移動した後は、帝国陸軍の戦闘部隊は皆無状態になっていて、北陸3県の防衛は、小松飛行場他、北陸に点在する飛行場の海軍や陸軍の航空部隊と主要な港を警備する海軍陸戦隊と施設部隊に陸軍の船舶工兵、防空の任務を担当する僅かな陸軍高射砲部隊、駐屯施設に勤務する内勤部隊、後は、雑務を行う軍属と若年の勤労奉仕隊などが担(にな)うしかないが、移駐した師団や連隊が管理する武器弾薬庫を開放して残された在庫を総浚(そうざら)いしても、小銃、拳銃、機関銃、手榴弾など、各自が携帯する武器が全く足りなくて、およそ8割の防衛隊員は包丁、手斧、竹槍からシャベル、ツルハシなどの貧弱な武装を携(たずさ)えるしかない有様だった。
 一部の士族の家柄や加賀の一向一揆(いっこういっき)に加担した先祖を持つ農家からの勤皇隊員は、家宝の刀、短刀、槍(やり)、薙刀(なぎなた)、弓矢などを持参して来て、防衛隊の誰も彼もが血気盛んで勇(いさ)ましい。
 其の様な切迫する状況でも、予想される連合軍の北陸上陸に備えて、関西や瀬戸内方面から海軍の余剰兵器と弾薬が操作兵達と共に、続々と鉄道輸送で送り込まれて新たに造営された陣地に展開中だ。
 それに、M4戦車を撃破できる近接戦闘の決戦兵器として、遠路ドイツからの回航に成功した潜水艦によって運ばれたドイツ人技師と製造技術で開発された携帯火器が3000丁と、其の弾薬が関西の造兵廠枚方製造所と関東の相模陸軍造兵廠から製造冶具と共に、1号試作車と資材が移動し終えた直後に小松製作所へ送られて来ていて、取り扱い指導要員の養成教育が為(な)された。
 それはチリオツニの展開配備と同時に、福井県嶺北地域と富山県西部域と石川県の金沢市辺りから加賀地域へ配備され、養成された指導要員が現地で射手に訓練を行っている。
 其の携帯決戦兵器は開店休業中だった小松製作所の敦賀工場でも冶具と工程を複製して量産中で、福井県南部や滋賀県への配備が進められていた。
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 金沢市の北方に在る河北潟は石川県最大の大池で、高さ40m~50mの大砂丘で日本海と隔(へだ)てられていて、金沢市の市内北側を流れる浅野川は河北潟へ注(そそ)ぎ、更に、河北川で大野湊から日本海へ流れている。
 其の河北川の河北潟近くの砂丘側に海軍の水上機基地と、南側に金沢飛行場が在ったが、殆ど使用されていなかった。
 金沢市北側の河北潟や金沢飛行場の周辺は湿地帯で、葦(よし)の原と蓮根畑(れんこんばたけ)や深田(ふかだ)ばかりが広がり、チリオツニの重量に耐える道は、金沢市の卯辰山の横を流れて河北潟へ注ぐ浅野川の土手脇を走る民間鉄道の線路上しか無いが、台風の豪雨で河北潟が氾濫して、金沢駅から大野湊の対岸になる粟ヶ崎地区の駅までの道程の3分の1が冠水した。
 こうなると粟ヶ崎へは、ずっと北の能登半島の付け根辺りになる河北郡宇ノ気(うのけ)村から砂丘を南下するか、小船で行くしかないそうだ。
 犀川や伏見川(ふしみがわ)の土手は決壊しなかったが、依然、濁流で水量が多く、河口付近の低地は冠水して、宮腰から大野湊までの金石砂丘や粟ヶ崎の砂丘が島のように見えていた。
 金沢市正面の宮腰の漁村から大野の湊町までの金石砂丘の手前も深田の湿地帯で、通れるのは直線道路の金石街道と街道沿いに敷設されている電車の線路だけだった。
 水田の冠水面積は粟ヶ崎周辺と同様だったが、水位は低く湿田ようで、金石街道と電車道を腰まで浸かって歩いて行けない事はなかった。
 無線で梯団の各車に周辺の台風被害を報告させると、大聖寺川の水位は危険域に上昇しているが氾濫や冠水被害は無く、富山県の高岡市と新湊の地区も被害は無かったが、小松市の柴山潟と今江潟は溢れて周辺の低地の田畑や住宅地が冠水し、それに、能美(のみ)郡の梯川流域と石川郡の手取川流域の低地の各所でも冠水が多発していた。
 心配された海軍小松飛行場と小松製作所への被害は無かったが、冠水と泥濘(ぬかるみ)で防衛陣地の構築に遅れが発生している。
 更に、新たな台風が通り過ぎ、天候が優れないままに冷たい時雨が降り出せば、第1中隊の1号車と2号車が守備に就くどちらの地区も、チリオツニと敵のM4戦車は行動を著(いちじる)しく制限されてしまうだろう。

▼昭和20年 10月6日 土曜日
 午前6時に大聖寺の料亭から配られた朝飯の大きなオニギリを2つ、平床貨車の床まで使い古された魚網(ぎょもう)を被せてから隙間無く樹木の枝で覆(おお)ったチリオツニの砲塔上に座り、線路の継ぎ目に揺(ゆ)られながら食べる。
 列車は高空を単機で通過する偵察型のB29を発見する度に、最寄りの駅の待機線で停車して、金沢駅の貨物ヤードで第1中隊の車輌が積まれた50t積み低床式大物車2輌と、随伴部隊の4輌の94式6輪自動貨車を載せた2輌の15t積み平床式貨車車及び、小松製作所で製造した武器弾薬や海軍の余剰(よじょう)兵器を満載した6輌の無蓋貨車の内4輌を切り離して、列車が第3中隊2号車の配備地の高岡市へ向かったのは、午前9時になっていた。
 積載した時と同様に平床貨車から慎重にチリオツニと、補修部品及び補充弾薬や燃料のドラム缶を満載した2台の6輪自動貨車を降ろして点検した後、車輌と中隊員を整列させ、それぞれの待機位置へ向かったのは正午調度だった。
 待機場所近くまでは、先導にサイドカーと94式軽装甲車が、後衛にも94式軽装甲車が付き、随所に会館と兵隊が警護する、大勢の市民が沿道で日章旗(にっしょうき)や旭日旗を振って歓迎してくれる金沢市内の電車が走る石畳の道路を、道面を傷(いた)めないように時速5㎞の低速で走行した。
 武蔵が辻(むさしがつじ)の交差点で直進して橋場町(はしばちょう)から国道橋の浅野川大橋を渡り、待機位置の鳴和(なるわ)地区へ向かう2号車隊と別れて右折すると香林坊(こうりんぼう)、片町(かたまち)を過ぎ、国道橋の犀川大橋を渡ったところの坂を上って野町広小路(のまちひろこうじ)を左折して、寺町台地を野田山(のだやま)の裾(すそ)に広がる野村練兵場から右手の竹林内に通された道へ入り、待機場所の泉野(いずみの)の丘の上へ着く。
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 竹林の際から20m程入った場所でエンジンを止め、更に、30m奥まった場所を随伴部隊の設営地に決めると、上空からの遮蔽とチリオツニの外周防御を考えながら、料亭で入れて貰った水筒の御茶を飲み、昼飯の調達を警護隊の隊長に頼もうとしたところへ、彼女達が現れた。
 野村錬兵場近くの長坂地区の婦人会挺身隊の着物の上に割烹着(かっぽうぎ)を着た御婦人達が、オサンドンの仕度(したく)を持って来てくれて、その長坂地区婦人会の会長の女性が私に言った。
「これから毎日、私達15名が皆様方の御食事と井戸水の用意、それに、御風呂などの身の回りの御世話をさせて頂きます」
 婦人は、髪を覆う姉さん被りの手拭(てぬぐ)いを取り、深々と頭を下げた。
 御婦人の後ろに国民服を着た平井章(ひらいあきら)石川県知事に沢野外茂次(さわのともじ)金沢市長らしき年輩の男性と、各校下で結成された国民義勇中隊の長達が警官隊を連れて来るのと、それに金沢師管区司令官の藤田進中将と金沢連隊区司令官の越生虎之助中将が共に佐官級の副官数名と護衛兵達まで連れて、竹林内の道を徒歩で遣って来るのが見え、ただちに第1中隊1号車部隊の全員を招集して整列させた。
 師管区司令官、連隊区司令官、知事、市長からの挨拶と労(ねぎら)いの言葉を続けて頂戴した後、私が報国(ほうこく)の強い意思と守り通す決意を伝えて、副官達の最上位官である大佐によって振る舞われた御神酒(おみき)の乾杯の音頭と万歳三唱がなされ、其の後に行われた5式中戦車乙型2の見学と性能説明が済むと、挨拶式は解散となり、知事と市長の御一行様と2人の司令官御一行様は来た道を戻って行ったが、私は、再び隊員達を整列させて、15名の御婦人達に、御世話になる旨(むね)と感謝の御礼を言い、全員で捧(ささ)げ銃の儀礼を行った。
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「この女学生3名が、戦車の搭乗員の方々の御世話を致しますが、なにぶん若いので、足りないところは私に申し付けて下さいませ。きつく叱(しか)って指導しますから」
 儀礼式の後、チリオツニへ戻る五名の搭乗員に、世話係りを紹介する婦人会会長の強い物言(ものい)いに、横1列に並ぶ日本手拭(てぬぐ)いを姉(あね)さん被りをして、女学校の制服に前掛(まえか)けを付けた女子達は、見ると3人とも顔を伏(ふ)せていた。
「婦人会会長殿、ありがとうございます。御世話になります」
「それでは、これで私は行きますが、……3人とも、しっかり御世話をしてちょうだいね」
「はい!」
 念押しをして立ち去る婦人会会長に歯切れの良い返事を3人はかえす。
 大きなヤカンと小さな炭俵を持つ少女が顔を戻して、搭乗員を1人ずつ順番に見ている。
 急須(きゅうす)と重ねた湯呑(ゆの)み茶碗入れて手拭いを掛けた御盆を両手で持つ少女は顔を上げると、正面に立って見詰めている操縦手の指中一等兵と目が合い、見る見る顔を赤らめて、また俯(うつむ)いた。
 竹の皮に包まれた幾(いく)つものオニギリと漬物(つけもの)を入れた丼(どんぶり)が見えている風呂敷(ふろしき)包みを両手に持つ少女は、最初に、私を一瞥(いちべつ)すると視線を見定める様に皆に流してから戻し、そして、じっと私を見据(みす)えて言った。
「紹介します。そちらから、天池(あまち)真木子(まきこ)、15歳です。こちらは、錦城(きんじょう)祥子(さちこ)、16歳です。そして、私は鷹巣(たかのす)淑子(よしこ)と言います。17歳です。3人とも、ミッション系の北陸女学校の生徒です。不束者(ふつつかもの)ですが、宜(よろ)しく御願いします。……ほら、御辞儀をしなさい」
 そう自己紹介をして笑顔になると、3人の少女は揃って頭を下げた。
(……不束者ねぇ、まるで嫁入りの挨拶だな。それに、わざわざミッション系と言う辺り、いろいろと婦人会へ意見でもしているのだろう。婦人会会長が釘(くぎ)を刺(さ)す訳だ)
「宜しく御願い致します。御世話になります」
 私が感謝の意を返す。
「御世話になります!」
 続いて乗員達も、声を揃えて頭を下げ、最敬礼(さいけいれい)をする。
 ヤカンと炭の子は錦城祥子さん、急須と湯呑みの子は天池真木子さん、そして、オニギリと漬物の子が年長でリーダー格の鷹巣淑子さんだ。
(3人とも、可愛(かわい)くて美人だから、明日にも戦死するだろう若い戦車搭乗員達への手向(たむ)けとして、身の回りも世話させる為に、彼女達が選ばれたのかも知れないな……)
 これが、8月に17歳になったばかりの鷹巣淑子との始めての出会いだった……。

 

 後編につづく。

 

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登場人物
邑織 染二郎 帝国陸軍大尉 独立戦車梯団『越乃国』梯団長 第1中隊隊長1号車 車長 滋賀県高島郡朽木村針畑地区出身 25歳
加藤 正 帝国陸軍少尉 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊1号車 砲手 台湾高雄市出身の高砂族25歳 妻帯者 子供が1人 台湾名「郭 世新」
上杉 学 帝国陸軍准尉 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊1号車 装填手 朝鮮太田市出身の朝鮮人 24歳 婚約者がいる 朝鮮名「李 明照」
指中 三郎 帝国陸軍1等兵 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊1号車 操縦手 16歳 福島県白河町出身
赤芝 真 帝国陸軍2等兵 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊1号車 前方機銃手兼無線手 15歳 滋賀県多賀町出身
小鳥遊 芳光 帝国陸軍少尉 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊2号車 車長 静岡県清水市出身
王 徳明 新設南京政府軍准尉 独立戦車梯団『越乃国』 第1中隊2号車 砲手 中国山西省陽曲市出身 汪兆銘の南京政府に賛同した元国民党政府軍の陸軍砲兵少尉 26歳 妻帯者 3人の子供と妻が江蘇省鎮江市で妻の両親と同居
村上 宏一 帝国陸軍曹長 独立戦車梯団『越乃国』 第2中隊隊長 1号車 車長 金沢市出身
鈴宮 春二 帝国陸軍准尉 独立戦車梯団『越乃国』 第2中隊2号車 車長 神戸市生田区出身
千反田 一二三 帝国陸軍少尉 独立戦車梯団『越乃国』 第3中隊隊長 1号車 車長 飛騨郷出身
小久江 清嵩 帝国陸軍准尉 独立戦車梯団『越乃国』 第3中隊2号車 車長 静岡県焼津市出身
天池 真木子 金沢市長坂地区婦人挺身隊 北陸女学校生徒 15歳 11月9日生
錦城 祥子 金沢市長坂地区婦人挺身隊 北陸女学校生徒 16歳 7月3日生
鷹巣 淑子 金沢市長坂地区婦人挺身隊 北陸女学校生徒 17歳 8月11日生
井上 芳佐 帝国陸軍中将 5式中戦車乙型2の再開発と試作量産の総責任者
八原 博通 帝国陸軍大佐 5式中戦車乙型2の再開発室長 元第32軍の高級参報(沖縄本島から生還)
福富 繁 帝国陸軍中佐 5式中戦車乙型2の再開発室長補佐 元第28軍主任参謀(ビルマ戦線から人事移動)45歳
小林 修二郎 帝国陸軍大佐 陸軍大学教官
外山 尚孝 帝国陸軍少佐 陸軍研究部員
野口 剛一 帝国陸軍少佐 陸軍研究部員
金沢師管区司令官 藤田 進 帝国陸軍中将
金沢連隊区司令官 越生 虎之助 帝国陸軍中将
石川県知事 平井 章
金沢市長 沢野 外茂次
5式中戦車乙型2の製造工程長
大阪陸軍造兵廠の砲架技師 帝国陸軍大尉 高岡市出身
神雷航空隊の飛行教官 帝国海軍少尉(南方戦線から帰還)
金沢師管区と連隊区の司令官の副官達
ロケット兵器『桜花』の搭乗員達
金沢市国民防衛隊の指揮官達と隊員達
勤皇少年隊の隊員達
石川県警官隊の警官達
国鉄職員達
小松製作所と協力会社の職工達と親方達
金沢市長坂地区の婦人会会長と婦人挺身隊の隊員達
金沢市長坂地区の地区長と部下達
大聖寺町の料亭の女将と従業員達
『越乃国』梯団の各中隊車輛と通過経路を護衛する帝国陸軍の兵士達と警察官達
小松市と金沢市の市民達
レイテ島の帝国陸軍 第1師団(玉兵団)、第16師団(垣兵団)、第102師団(抜兵団)、高千穂空挺隊、などの兵士と隊員達
レイテ島、タバンゴの港と沖の哨戒艇の帝国海軍の将兵達
レイテ島の住民達
レイテ島のアメリカ陸軍と海兵隊の兵隊達
レイテ島のフィリピンゲリラ達

 

 越の国(越乃国/高志国/越洲)とは、大和朝廷に越前、加賀,能登、越中、越後として征服支配される以前の古代(縄文・弥生期)の統治国家。
 富山湾と敦賀湾を中心として長期に栄えた、現在の北陸地方と信越地方の西部(福井県、石川県、富山県、新潟県)。
 古代に日本海沿岸地域に栄えた日本海環文化の一部(日本海の潮流と風向きから能登半島と佐渡島へ漂着し易かった)
 住民は蝦夷系の先住民と朝鮮半島北部やモンゴル・シベリアからの渡来人で盛んに交わり、共存共栄していた。

 実在した5式中戦車(チリ車)は、戦局を逆転させるべく密かに開発された戦車で、本土決戦の準備が叫ばれる時期において、列強の戦車と比較して優るとも劣らない「決戦兵器」になる筈でした。
 帝国陸軍においての開発順序の最後で、試作までされた中戦車です。
 自動装填装置を備えた長砲身の75㎜砲を主砲とし、副砲として37㎜砲を車体前部に搭載し、前面装甲厚は75㎜、重量35tと、それまでの帝国 陸軍の戦車と比べ大幅に大型化され、純日本式の最新・最強の戦車となるべく開発されました。
 昭和20年3月に試作車の1輌のみが製作を完了して、走行・射撃試験を実施したと記録が有り、終戦時には主砲を外した状態で占領軍に接収されました。