遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

 桜の予感 (僕 二十才) 第十章 弐

 予感がした。

 彼女が金沢に来ている気がして、逢(あ)いたいと切(せつ)に思った。

 先に僕が彼女を見付けたら追い掛けて、偶然(ぐうぜん)に出逢ったフリができるかも知れない。

 彼女の気配(けはい)と出逢いの予感で大気が匂(にお)う。今、僕は相模原(さがみはら)の彼女を探(さが)している。

(出逢えたら……、先に彼女が僕に気付いていても、笑顔で挨拶(あいさつ)をしょう)

 今の僕ならできるはずだ。挨拶の反応次第(しだい)では彼女の近況を聞けるかも知れない。

(僕を捨(す)てて、それで幸(しあわ)せになれたのか……? 知りたい……)

 嫌(きら)われて、避(さ)けられて、既(すで)にフラれているのに、彼女に逢って、彼女と挨拶をして、彼女から近況を聞き出し、彼女の幸せを確認しようと思う自分が醜(みにく)くて悲(かな)しい。

(彼女の幸せを知って、どうするつもりだ?)

 彼女に逢いたいと思う度(たび)に自問自答を繰(く)り返す。

 彼女が学(まな)ぶ大学のキャンバスまで行って電話を掛けた。そして、惨(みじ)めにも電話越しに叫(さけ)んで彼女に捨てられるのを拒(こば)んだ。挙句(あげく)の果(は)てに彼女の容姿まで誹謗(ひぼう)する悪意のメールを送り付けてしまった。取り返しは付かない。出逢えても何にもならない事は分っている。いや、もっと悲惨(ひさん)な出逢いになるかも知れない。彼女が、僕に優(やさ)しい挨拶を返す見込みは限りなく皆無(かいむ)に等しい。

 それでも、僕は彼女を必(かなら)ず見付け出して逢いたいと強く願った。大晦日(おおみそか)に静岡(しずおか)の『あの人』と別れてから、僕は無性(むしょう)に彼女に逢いたくなっていた。

 『あの人』の言った通り僕には、彼女への未練(みれん)が有った。それは恋愛へのリベンジじゃなくて、あの人に因(よ)って変わった以前とは違う僕を、彼女に見せ付けて遣(や)りたかった。彼女に僕をフったことを後悔(こうかい)させて遣りたいと思っていた。

(まったく僕は、姑息(こそく)で未練がましい奴(やつ)だ)

 でもそれは、『あの人』といっしょに居た時の思いだ。今はただ逢いたいだけで、ちゃんと彼女に会えるのならば、僕はきちんと別れの言葉を言いたいと思っている。そう、僕は格好良(かっこうよ)く彼女と別れたいだけだ。やはりそれも未練だと分かっている。だけど僕は認(みと)めたくない。

(本当にウダウダと思い切りの悪い奴だな……、僕は……)

     *

 『あの人』に見送られて帰郷した日から僕は親父(おやじ)の会社の社員一号として働いている。大晦日と正月の三(さん)ヶ(が)日(にち)は休みだったけれど、二年参(にねんまい)りの初詣(はつもうで)を友人連中と騒(さわ)いだだけで、後は親父に連れられて飲み屋の梯子(はしご)三昧(さんまい)だった。

 新年度の初仕事は覚(おぼ)え始めた酒の痛飲で、嘗(かつ)て無いほどの気持ち悪い気分でスタートした。二日酔(ふつかよ)いの激(はげ)しい頭痛としょっちゅう込み上げる胃(い)のムカつきで、イスに座ってもいられないくらいの遣る気の無い状態だった。

(仕事人として、最低だな……)

 大きなマイナスの未練になった別れの虚(むな)しさを、懐(なつ)かしいプラスの欠片(かけら)の日々を想い帰して、その楽しい思い出に救われたいと思っていた。僕は心の空虚(くうきょ)を楽しい思い出で埋(う)めたいのに、昼も夜も時間に余裕が無く、疲れ果てた怠(だる)い身体(からだ)に痛む頭では、『あの人』と過(す)ごした時間や出来事は暈(ぼ)やけてしまって、はっきりと思い出せなかった。それに、いくら楽しい思い出でも過去形で空虚を満たせない事も僕は分かっていた。

 初仕事は新(あら)たに導入する新加工技術の情報収集と契約書類の作成から始(はじ)まった。

 それは微小(びしょう)な金属粉末をレーザー光線の熱で僅かずつ溶(と)かして、固(かた)めながら形状加工をしつつ高速で積層していく工法で、『金属光造形複合加工技術』と言うワン・プロセスの金属加工技術だ。一般的な金属ブロックを加工機で削(けず)ったり切ったりして不要な部分を除去していくのとは逆で、粉末金属から立体的に造形していき、金属の塊(かたまり)の中に複雑な空洞を作り込んだり、粗密(そみつ)に固めて空気や水を通すスポンジ状の金属塊にする事もできる。空間を削り造り上げて行くと言うよりは、空間を精密に残して行くと言った方が適切かも知れない。これまで僕が経験してきた常識的な加工方法や造形の考え方を、一新(いっしん)しなければならないくらいの未知(みち)の加工技術だった。

 マシンは加賀(かが)市内の加工機械製作会社で製造され、加工ソフトやネットワークは京都(きょうと)市内のテクノパークに在る新技術開発会社で整(ととの)えられていた。

 親父は機械の導入やプログラムソフト・加工ノウハウ・加工ネットワークなどの契約を僕一人に行わせ、その確認と認可のサインと社印を捺印(なついん)して購入代金を用意した。

 契約相手先への訪問・会合・食事・礼儀・対応などの態度や言葉遣(ことばづか)い・話し方はあの人から教わり指導してくれたことが、とても役に立った。全てに於(お)いて礼を失(うしな)わず誠意を持って接し、信用を得て、気配りと思い遣りの有る対応を受け、条件的にも、価格的にも、納得のできる契約で導入することができた。親父も喜(よろこ)んで満足している。

 金属光造形複合加工機は僕に任(まか)され、翌月の導入当初から仕事量の多い忙(いそが)しい日々が続いている。毎日が仕事に忙殺(ぼうさつ)される事で、悔(く)やみ切れない『あの人』への想いや、喪失(そうしつ)を惜(お)しむ熱い気持ちは次第に冷(ひ)やされて行き、霧(きり)が掛かるように霞(かす)んで薄(うす)れて行く。

 少しずつ柔(やわ)らかい気持ちで考えられるようになった今は、冷静に『あの人』の立場や気持ちが理解できていると思う。結婚式の招待状が来るはずも無いけれど、『あの人』に六月の挙式を幸せな気持ちで迎(むか)えて欲しいと切に願っている。

 深酒(ふかざけ)をして眠(ねむ)ると『あの人』の夢ばかりを見た。実際には二人でしていない事をしたり、出掛けていない場所へ行ったりする夢だらけで、夢の終わりは彼女が僕じゃない男性と結婚すると告(つ)げ、それを何の含(ふく)みや蟠(わだかま)りも無く僕は素直(すなお)に祝福の言葉で返していて、僕は夢の中でも『あの人』の幸せを願っていた。決まって夢の中の別れが目覚(めざ)めとなり、別れた後の夢の続きは無かった。そして、翌朝は必ず吐(は)き気と頭痛に悩(なや)まされた。未(いま)だに僕は酒に強くなれていない。

 そう願えれるようになるにつれ、『あの人』へのジレンマな想いは、懐かしい幸せへの憧(あこが)れに変わって行った。

 以後、月に一度は京都市の加工ソフトの開発会社へ行き、定例の新技術講習会に参加して他社のエンジニアの先輩方々といっしょに聴講(ちょうこう)している。僕の会社には親父と二人だけなので、こういう勉強になる場は楽しくて嬉(うれ)しく思う。講習後も加工ネットワークの関連他社の人達と親睦(しんぼく)と交流を深めた。ここに参加するに至(いた)ったのは、『あの人』の御蔭(おかげ)だとわかっている。『あの人』は気遣(きづか)いのできない粗暴(そぼう)で荒削(あらけず)りな僕を真(ま)ともな社会人にしてくれた。本当に静岡の『あの人』は恩人で、心の底から僕は感謝している。

     *

 次のプログラミングも終わった。1ヶ月ほどで加工に慣(な)れて来るとプログラミングは速くなり、事前加工シュミレーションチェックでのミスは殆んど無くなり、余裕が出て来た僕は親父に相談して、少し早いけれど、近々(ちかぢか)、二台目の加工機を導入する計画も作り始めている。

 マシンの自動加工中は時間に余裕ができる。その時間を利用して工場の一角(いっかく)で趣味(しゅみ)の西洋城館や砦(とりで)のミニチュアを作った。以前、相模大野(さがみおおの)駅の饂飩屋(うどんや)で彼女に贈(おく)ったミニュチュアの別シリーズ版だ。

 自作のミニュチュアは工場見学をしに来た親父の知り合いで商工会の役員さんの目に止まって、金沢城の櫓(やぐら)や門のミニチュアを作り、御当地土産(ごとうちみやげ)として売り出さないかと誘(さそ)われたのは僅(わず)か二ヶ月前。その役員さんから紹介された物産店へ御願いして試(ため)しに試作品を置かせて貰い、予約を受け付けてみたら意外と多くの購入以来が有って正直驚(おどろ)いた。直(す)ぐに量産品を造って納品させていただいた。

 急(いそ)ぎの量産品といっても、試作品と同様に細部まで手抜(てぬ)きは無しだ。型(かた)の分割を多くして形状をしっかりと抜き出せるようにしている。分割ラインの処理が増(ふ)えるけれど、品質を落とす訳にはいかない。現在はモノ造りプロセスのステップアップとして、原型の造形や量産品の製作に少し高価だけど、高速で微細(びさい)造形が可能な3Dプリンターを導入しようかと考えている。

 このマシンは、パソコンの3Dキャドソフトで描(えが)いた立体図を、プラスチックで立体プリントして実体化してくれる。紫外線(しがいせん)のレーザー光を光硬化樹脂に照射して百分の五ミリメートルづつの緻密(ちみつ)な積層(せきそう)で、立体的に固(かた)めて行く加工方法だ。

 工作機械の展示会でパンフを貰(もら)いながら、塗料のような液状樹脂に紫外線を当て光重合反応で固める原理を応用した技術だと、聞いてもさっぱり解(わ)からない説明をしてくれた。そして、加工品は色付けもされていて、『六百万色以上のフルカラー対応による、3Dスキャン対象品の色、そのままに造形できるからだ』と、展示ブースのスタッフが言っていたが、よりハイクオリティの商品として完成させるには、どうしても手作業による形状仕上げや加筆調整が必要だ。

 とにかくパソコンを使って立体図を速く正確に描(か)くだけで、後は自動加工してくれから楽になる。オプションに立体スキャンが有るので、今まで作った原型も、より精密にコピーできて後処理が非常に少なくて良い。

 更にハンディタイプのレーザースキャナーをドローンに搭載して建物全体や町全体を3Dスキャンすると、パソコンでの作業はスキャン洩(も)れのチェックと、ズレや歪(ゆが)みの修正だけになるから、もっとラクチンになるし、石垣(いしがき)や海鼠塀(なまこべい)のパターンも同じになって、超リアルになるだろう。実際に航空機や人口衛星からの画像で都市や地形全体を作成しているらしい。まるで、SFアニメで見た実物の縮小コピーを作る光線銃のようだと僕は思っている。

 他にもダウンロードしたインターネットの写真地図や衛星画像地図のデータの影の長さから高さを計測するソフトを使えば、そこそこ緻密な3D造形がデータから出来るのじゃないかとも考えていた。

 3Dデータからの自動作成は、全く手作り品や工芸品とは言えないけれど、リアルなミニチュアとして納得していたし、造形対象が増えて作品の修正やデフォルメもし易(やす)いので、親父にそれとなく購入しようと促(うな)がすのだけど、なにぶん、僕の趣味の為(ため)に『金属光造形複合加工技術』のマシンほどの高価な品ではないにしろ、それなりの価格のマシンだから簡単(かんたん)に『買おう』とは言ってくれない。

 これは僕の趣味が講(こう)じたセカンドビジネスで、まずはマーケティングをして市場の確保だけど、親父は、僕が工場の本業を疎(おろそ)かにして別事業を立ち上げてしまわないかと心配している。僕としては購入すると確かに商品の開発や量産が緻密で速くなるけれど、その忙しさに本業よりも、資料を調べながらハンドメイドで模型を製作する趣味の時間が少なくなりそうだと、深刻(しんこく)に心配していた。

 作品が常備土産物として物産店に飾(かざ)られると、これがなかなか、けっこう人気が有って、ちょくちょく問い合わせや注文が入った。

     *

 今日は加工の合間の休日で、金沢(かなざわ)市内の繁華街(はんかがい)へ来ている。

 僕が担当する自動加工機械群はプログラムミスか、加工ツールの破損などのトラブルが無い限り明日の朝までは稼動(かどう)していて、トラブルが発生すればビジネススマートフォンへトラブル状態が送られるから、是正(ぜせい)に工場へ向かうだけだ。

 長土塀(ながどへ)と香林坊(こうりんぼう)の土産物屋へミニチュアを納品して代金の支払いと次の注文を受けると、二十一世紀美術館の白いカフェまで来て、以前に来た時に少ししか食べれなかったアップルタルトを、カプチーノといっしょにオーダーして遅(おそ)めの朝食を摂(と)っている。

 二十一世紀美術館は何度も来ているけれど、この白いカフェにはバス事故の日以来、初めて入った。気持が退(ひ)けて今まで入るのを避けていた場所だ。

 バス事故の日、病院から逃げ出した僕達は此処(ここ)へ来ていた。そして今、僕は彼女とテーブルを挟(はさ)んで向き合っていた同じ席に座っている。それはアップルタルトを食べながら甦(よみがえ)る上目で僕を見ていた彼女の思い出で、デジャブった錯覚(さっかく)なのかも知れないけれど、微(かす)かに彼女の匂いを感じた気がした。

 あの日、ここで彼女が言った言葉を、僕は忘れない。今でもリアルな記憶として耳の奥にへばり付いて剥(は)がれない。

『普通に、しゃべれるんだね』

 彼女のその呟(つぶや)くような一言は、はっきりと聞こえて一瞬で僕を畏縮(いしゅく)させた。まるで、ちょっと休憩での溜(た)め息(いき)に添(そ)えるように吐露(とろ)した小さな声は、ちっとも褒(ほ)め言葉に聞こえなくて、彼女の僕に抱(いだ)いていた気持ちだと考えさせられた。そして、それまで彼女にとって僕は普通じゃなかった事を改(あらた)めて知らせてくれた。

 能登(のと)半島の明千寺(みょうせんじ)では彼女の話の受け応(ごた)えしかしていない。相模原では初(しょ)っ端(ぱな)から躓(つまづ)いて、言い訳の言葉の一つも探せない僕の脳ミソは、気転を利(き)かす余裕すら無かった。全てに於いて僕は彼女に劣っていると感じさせられた。

 あの頃の僕は自分に自信を持てずに、憧れの彼女への想いだけが全てで、僕の思考や行動の原点だった。いつも彼女を笑顔でいさせて、いつも笑う彼女を見ていたかった。だけど、それは彼女任せで、ネガティブな僕が自己満足する為の望(のぞ)みにしか過ぎず、その挙句に僕は彼女に愛想(あいそ)を尽かされてフラれ、彼女が電話番号もメールアドレスも変えてしまうほど、決定的に断絶(だんぜつ)されてしまった。

 毎朝のバスの中で、彼女の横に立つ僕が少し体を傾(かたむ)けて彼女を覗(のぞ)き込むようにしたら、きっと彼女は上目使いで僕を見ただろう。僕がニコっと笑うと微笑(ほほえ)んでくれていたかも知れない。普通に朝の挨拶を交(か)わし、他愛無(たあいな)い話で楽しげにしていられたと思う。でもそれは何もしなくて過ぎ去った過去での想像の可能性に過ぎない。

 そう出来たら良いと思っていたのに勇気(ゆうき)が無かった。彼女をガードしているつもりの僕は背筋(せすじ)を真っ直ぐに伸(の)ばして動かない彫像(ちょうぞう)のように立つだけで、体を傾けて笑い掛けるなど思いもよらなかった。それに思い付いたとしても実行出来なかったはずだ。その頃の僕はそんな男の子だった。

 でも、今は違う。少しだけど自分に自信が付いて、彼女の気持ちを思い遣れる事ができると思う。

 アップルタルトは彼女が美味(おい)しそうに食べていたとおり、豊(ゆた)かな香(かお)りと控(ひか)えめな甘さがアートのようなスィーツだった。

 『食べないなら全部、私が食べてもいい? あれ?』、そう言って、僕が食べ残していたチョコレートパフェを彼女はアップルタルトに絡めて食べてしまったのを思い出した。

 本当に御腹が空(す)いていたのだろう、他に、僕がちょっとしか食べていないブリオッシュのプレートは殆ど全部、彼女に食べられたし、トマトパスタとアップルタルトについては一口も僕の口に入っていない。あれはきっと、僕に『もっと食べて、元気出してよ』と励(はげ)ますのを、『全部、私が食べる』と空腹で食欲(しょくよく)旺盛(おうせい)な彼女が言い間違えていたんだ。

 切り分けたアップルタルトをフォークに刺(さ)しながら、そんな彼女を思い出して緩(ゆる)む口許(くちもと)に僕は一人でニヤついてしまう。

 もう二度と彼女と言葉を交わすことができないのだろうか? いっしょにスィーツを食べて心がときめくことも、彼女の行動に気持ちが揺(ゆ)さぶられることもないのだろうか? 止まってしまった十八才の時間を再び動かすことはできないのだろうか?

 二十一世紀美術館を出て、近くで営業しているワンボックスカーの移動カフェの前で、また彼女の匂いがしたような気がした。

(また錯覚? 今のは…… デジャブじゃないかも! 金沢に……、近くに……、彼女はいる!)

 辺(あた)りを見渡すが彼女はいない。急いで広坂通りに出て探しても、彼女らしい姿は何処(どこ)にも見当たらなかった。こんなに彼女を感じているのに見付け出せない。

(僕はここだ! ここにいるぞ!)

 僕は大声で叫びたい。叫んで呼(よ)び寄せたい衝動(しょうどう)にかられ、焦(あせ)りと不安が広がってくる中、はたと気付き再び自分に問(と)う。

(見付け出してどうする? 僕は完全にフラれて、彼女は大学の先輩とよろしくやっているんだ。……また見ているだけしかないだろう。違(ちが)うか?)

 そのとおりだ。悪足掻(わるあが)きにしか過ぎない僕の一方通行の想いは、何もできなかったし、何も覆(くつがえ)せない。

(彼女の匂いのようだった……。だから?)

 結局、彼女の事は綺麗(きれい)さっぱりと諦(あきら)めるしかないのだ。

(そう、きっぱりと男らしく……、潔(いさぎよ)く……、真(ま)っ新(さら)に……、十八才の自分にケジメを付けなければならない)

 そうだ、僕は変わった。あのころとは違う。彼女に感謝している。あれからずっと僕は彼女の幸せを願っていた。

(近くにいるような気がした……。それが?)

 彼女が幸せになるのなら、彼女が望むのなら、彼女を幸せにさせるのは僕じゃなくてもいい。

(感じが……、予感が……、どうしたって?)

 『ありがとう。幸せになってください』と、心から伝えるんだ。それだけは未練だとわかっていても、しっかり彼女を見て自分の声でちゃんと伝えたい。

 そんな理由付けを考えながら、広坂(ひろさか)通りを市役所脇へ折(お)れて二十一世紀美術館の前まで戻って来ると、通りが下る向こうから穏(おだ)やかな風が頬(ほお)や首筋を擽(くすぐ)るように気持ちの良く吹き抜けて行く。運んで来た春の香りが辺りに漂(ただよ)い、更に香(かぐわ)しさを求めて風に立てた鼻が無意識にクンクンと鳴(な)ってしまう。

(はっ!)

 嗅(か)いだ春の香りに懐かしい匂いが紛(まぎ)れているのに気付いた。今度は、はっきりと僕は風の中に彼女を感じた。

(やっぱり、彼女は、この風の向こうに、きっといる!)

 通りを下った向こうから町並みを吹き抜けて来た暖(あたた)かい春風が、路地(ろじ)に巻かせる旋風(つむじかぜ)で散(ち)らされた桜の花弁(はなびら)を舞い上げて僕を誘う。

 通りを下った僕は誘う風が来るの方へと町並みの角を曲がり、緩い曲がりが連(つら)なる細い通りを抜けて、広見(ひろみ)と呼ばれる金沢の城下町独特の、藩政時代に火災の延焼防止に設けられた火除(ひのぞ)け地で広場のような場所に出た。左へ行くと竪町(たてまち)通りを渡って片町(かたまち)へ至り、正面は柿木畠(かきのきばたけ)の路地を抜け出れば香林坊へ出る。香林坊から片町かけての大通り一帯は金沢市のダウンタウンの一つだ。

(あれは……?)

 香林坊へ抜けようと思った時に、柿木畠を行き交う多くの人の中、向こうから来る一人の女性が僕の目に留(と)まった。

 その時、大気が彼女の匂いに変わった。

『ドックン』と、心臓がコモ湖で彼女を見掛けた時よりも大きく強く撥(は)ねて、街の喧騒(けんそう)が消え、視界に映(うつ)る全(すべ)てが静止した。音の無い時が止まった世界に、彼女だけが色鮮(いろあざ)やかに見えた。

 それは、ほんの一瞬だったのかも知れない。だけど僕は確かに止まる時間を感じて、僕が彼女に抱いた全ての想いを湧(わ)き出させて行く。想いが幾重(いくえ)にも重(かさ)なり、喜びに悲しさが、嬉しさに寂(さび)しさが、愛(いと)しさに切(せつ)なさが、覆(おお)い隠(かく)すように重なる。

 最後に後悔を希望が覆うと、静止していた世界が再び動き始めた。

(見つけた! やっと逢えた!)

 彼女の颯爽(さっそう)と柿木畠の路地を抜けてくる姿は、キュートな女子大生スタイルではなくて、スタイリッシュな大人(おとな)のレディそのものだ。

 僕に気付いたのか彼女の足が止まる。彼女は広見の端、柿木畠坂の袂(たもと)に在るポケットパークの前で立ち止った。瞳(ひとみ)が…… 僕の方を見ている。

(間違(まちが)いない……。彼女だ!)

 落ち着いた色合いのスーツにベージュのコート。再び春風に裾(すそ)を翻(ひるがえ)して彼女が歩き出した。ピッタリと張り付いた黒いストッキングが艶(なまめか)しく光るセクシーな足を、薄いレザーのロングブーツのソフトな光沢で包(つつ)み、ハイヒールの靴音を響(ひび)かせない艶(つや)やかな歩きで僕に近付いて来る。

(一人なのか? 彼氏がいっしょじゃないのか? 彼氏は近くで買い物でもしてたり、別行動してたりして、間近(まぢか)に来た彼女が僕じゃない誰かに、笑顔で声を掛けたとしたら……)

 僕は自分の顔と首筋が熱くなり、かぁーっと朱(しゅ)に染(そ)まるのを感じた。どぎまぎして気持ちが高ぶり、鼓動(こどう)が速く高鳴っていくのとは裏腹(うらはら)に、心は沈んで息苦(いきぐる)しくなって行く。

 その大人びた彼女の姿に比(くら)べて、またもや僕は明(あき)らかに見劣(みおと)りするファッションだと思った。

 チノパンを穿(は)き、春のセーターにジャケットを着て、ちょっとだけシックなカラーで纏(まと)めたカジュアルは、少しはイケてるかもと自惚(うぬぼ)れていたのに、レディな見栄(みば)えの彼女に圧倒(あっとう)されて、そんな自分のファッションセンスがミスマッチだらけみたいに思えてしまい、失速する自信に僕は立ち止ってしまう。

(彼氏といっしょでも、いいじゃないか。もう時間は戻らない。これは互いの人生が、虚(うつ)ろな交差をするだけの一瞬にしか過ぎないんだ。そして、二度と逢う事は無い)

 あのラストデートの出会いが甦り、ぐっと気持ちがメゲた。

(僕は彼女を強く誹謗(ひぼう)する酷いメールを送り着けた。怒(いか)り心頭(しんとう)で発する彼女の罵詈雑言(ばりぞうごん)を、僕は真摯(しんし)に受けなければならない)

 自然と顔が俯(うつむ)いて足許(あしもと)の影の無いアスファルトの地面を見ている。急かされるように流れる雲が太陽を遮(さえぎ)り大きな影を落としていた。

 あの夏の立戸(たっと)の浜(はま)で言っていた相模原(さがみはら)の出刃包丁(でばぼうちょう)を彼女は買っていて、いつか僕にケジメを付けさせようとバックに隠し持っているかも知れない。叩(はた)きも、罵(ののし)りもしない笑顔の彼女が、逆刃(さかば)に握(にぎ)った出刃包丁を無言でスッと僕の肋骨(ろっこつ)の下から深く刺し入れる。それはもう、バス事故の脇腹の痛さなんて比(ひ)じゃない激(はげ)しさで、絶望的な厳(きび)しさなんだろう。

(其処(そこ)までさせるくらい、彼女を深く傷付けているのなら、刺されても仕方が無い。切(き)っ先(さき)が心臓の筋肉や大動脈を傷付ければ、きっと、二度と人生が交差しないどころか、直ぐ其処で人生が終わっちゃうな……)

 それでもと、僕は思う。

(彼女がどう思っていようが、普通に話そう。罵倒(ばとう)されようが、殴(なぐ)られようが、殺(ころ)されようが、自分は、もう吹っ切れたのだから……)

 顔を起こして空を見上げた。薄い雲の中に白く平(たい)らに光る太陽が見えた。

 僕は自分に言い聞かす。すべき事は挨拶で、伝える言葉は決めてある。それは短い言葉だ。出逢いは僅かな時間で済(す)む。

(彼女への感謝と、彼女の幸せを願う言葉を言うのだろう)

 そう意を決(けっ)した時、雲から抜け出た太陽が、僕と辺り一面を春の陽の淡(あわ)く麗(うら)らかな光りで明るく照(て)らした。

 僕は自分を励(はげ)ます。

 静岡の『あの人』は『君は相模原の彼女を、まだ想っているよ』と言っていた。それは、『あの人』が僕を諦めさせる口実(こうじつ)の一つで、確かに、あの頃の僕は自分に言い聞かせて、想いを抑(おさ)えていたところも有った。でも、それでは先へと、新たな出逢いへと、踏(ふ)み出せないことを、『あの人』は教えてくれた。それからの僕は、僕の中のいつでも取り出せる浅瀬にしか沈めていない相模原の彼女を、探せ出せないような深淵(しんえん)に深く深く沈めていまわなければならないと、『あの人』が別れ去るまで、ずっと思っていた。

 そして、今がその時、その場合だ!

(彼女と、決別(けつべつ)するんだ!)

 十八歳の止まった時間に決着をつけ、彼女を完全に忘れさせられる為の一歩を踏み出して、春の光りに照らされる眩(まぶ)しい彼女へと進んだ。

 何処からも彼女の彼氏は現(あらわ)れず、どうやら彼女は一人だけらしい。でもこれは因果応報(いんがおうほう)、望み通りに彼女と巡(めぐ)り会えたけれど、自業自得(じごうじとく)で至った終焉(しゅうえん)だ。

(さあ、逃げないで前へ進め! 諦めろ! これが最後だ)

「やっ……、やあっ……」

 彼女は僕に逢いたいと思っていたのだろうか? 彼女も僕を探していたのだろうか? そんなはずが無い。そうなる理由が思い付かない。

 だけど、もしかして逢いたいと思っていても、探していたとしても、その理由に僕が、安心できる要素は一つも無いはずだ。たぶん、その理由は僕を徹底的に打ちのめして遥(はる)か彼方(かなた)へ突き飛ばし、もう戻れないほど暗く深い処(ところ)へ落とし込む言葉を言う為だから……。

 僕は彼女に張(は)り倒(たお)されるべきだと思う。

 間近に彼女を見て驚いた。僕は、静岡の『あの人』のように薄化粧(うすげしょう)をした女性が好きになったのだけど、上手(じょうず)に薄く化粧をした彼女の顔は『あの人』に況(ま)して、とても魅惑(みわく)的に思えた。

(ダメだ! どんなに恋焦(こいこ)がれても、もうダメなんだ……)

 僕は、何度もした覚悟(かくご)を繰り返す。

「久(ひさ)しぶり、金沢に来ているんだ」

 できるだけ、不安な内心を悟(さと)られないように普通に立ち、当たり障(さわ)りのない言葉を選(えら)びながら彼女の無情(むじょう)な反応を覚悟する。

「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、履歴(りれき)を全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも変えたわ」

(ええっ! 彼女は今、何を言ったんだ?)

 膝(ひざ)と股間(こかん)が笑い、足裏から足首までが高所の縁(ふち)に立った時の様に感覚が薄れてソワソワする。

 いきなり僕の否定(ひてい)から彼女は話し始めた。一気(いっき)に僕の『もしかして』の僅かな望みは地中深くに潜(もぐ)り込んでしまい、急変しそうもない状況は覚悟に覚悟を重ねさせた。

 僕は突然に彼女が開けて広げた大きな絶望の穴の縁に立たされてしまった。やはり無理矢理、偶然を必然にしようとした再会は、踏み留(とど)まる想いも掴(つか)まる希望も探し出せない。しかも、予想を上回る彼女の痛烈(つうれつ)な言動は、超低温の疾風(はやて)のように僕の心臓を刹那(せつな)に凍(い)て付かせ、思った通りの失望の出逢いにさせてくれた。

 僕の前に魂(こん)の穢(けが)れを祓(はら)って縁(えん)を結(むす)ぶ菊理媛(くくりひめ)は現れなかった。

(彼女は、……僕を許さない)

 よろける僕を抱(だ)き留めて寄り添うのは死の淵(ふち)へ招(まね)いて黄泉(よみ)へと送り、汚(けが)れた魄(ぱく)を浄化(じょうか)する瀬織津姫(せおりつひめ)だ。

 僕は思う。鶴来町(つるぎまち)の白山比咩(はくさんひめ)神社へは良縁の願掛(がんか)けに、そして、別所町(べっしょまち)の瀬織津姫神社へは御清(おきよ)めの御祓(おはら)いに行かねばならないと……。

 眉間(みけん)に力を入れて寄せる眉(まゆ)の彼女の細めた眦(まなじり)からは『小賢(こざか)しい奴に遭(あ)ってしまった』と、踏みそうになった汚物(おぶつ)を呪(のろ)う『汚(きたな)い、汚らわしい、芥(あくた)、澱(おり)』の意を籠(こ)めた嫌悪の罵りが聞こえて来そうだ。

「だから、あなたにメールできなくしたの」

 追い打ちを掛ける彼女の言葉に体がグラつく。絶望の穴へ僕を追い落とそうと背後から吹き付ける突風のように、気持ちの温度を一気に下げさせた。目に映(うつ)る全ての色が反転して目眩(めまい)がする。突き飛ばされて、正(まさ)に落ち込もうとする底の見えない真っ暗な穴は大きく広がり、僕は僕の中の世界の果てに連(つ)れて来られて、その先の空虚な闇(やみ)へ追い遣られようとしていた。

 直接、彼女の生声(なまごえ)で聞く辛(つら)い言葉は僕の頭の中で一音(いちおん)づつ大きく響(ひび)き渡り、反響(はんきょう)で頭がガンガンと殴られているみたいだ。

 彼女が映る視界が暗くなり足許の感覚が消えて行く。もう立っていられなくて僕は失望と絶望から逃げるように仰(の)け反(ぞ)り、下半身まで地を踏む感覚が無くした足を交互(こうご)に動かして傍(そば)のポケットパークに入った。パークに置かれているオブジェが映画のスクリーンを観ているように僕に迫(せま)る。

(やっと巡り逢えた第一声がこれか……。そうだろうなぁ、彼女の心情を察(さっ)すれば、こうなるに決まってるさ。やはり、以前のようにタカビーな態度で、惨(むご)い言葉を浴(あ)びせられるのだろう……)

 もたつく足取りを必死に操(あやつ)り、やっとの思いでオブジェに腰掛けた。

(止(や)めてくれ! これ以上、どうか僕を打ちのめさないでくれ! ケジメを付けたいなら、頼むから早く一思(ひとおも)いに殺(や)ってくれぇ!)

 僕は心の中で必死に訴(うった)え絶望的な状況を理解しようと沸騰(ふっとう)寸前の華奢(きゃしゃ)な脳をレッドゾーン振り切りで急回転させる。感覚の無い膝に手を置くと小さく小刻(こきざ)みに震(ふる)えていた。

(逃げ出したい!)

 気付(きづ)き難(にく)い小さな震えだけど、僕の中でガクガクとはっきりした大きな震えに感じた。

(こうなるのは覚悟していたのだろう。逢えたとしても……、どうにもならないって事を、わかっていたのだろう)

 オブジェに座り震える膝を抑えても、焦る心は全然治(おさ)まろうとしてくれない。僕は溺(おぼ)れる者が藁(わら)をも掴もうとするように。彼女の言葉を肯定(こうてい)して些細(ささい)な反撃を試(こころ)みる。

「そうだったんだ。全然繋(つな)がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は君に随分(ずいぶん)と嫌(きら)われていたんだな」

 溺れながら助けを求めるように、声を振り絞(しぼ)って叫ぶように言った。だけど、声が大きくなったのは最初だけで、彼女を愚弄(ぐろう)した酷(ひど)いメールで、『完全に』、『心底』嫌われていると思っていても、敢(あ)えて軽めな『随分と』へ姑息(こそく)に換(か)えた辺りから震えて小さな声になってしまう。勢(いきお)いもなく全然叫べていない。僕の言葉と気持ちが溺れていた。

 途端(とたん)に涙(なみだ)が止め処(ど)なく溢(あふ)れ出て、触(ふ)れたくなかった彼女への罪(つみ)の思いに両手で顔を覆う。あの横浜港の大桟橋(おおさんばし)を歩いた日から二年近くを経(へ)ても、僕は彼女の気持ちを穏やかにさせるどころか、険(けわ)しくさせていた。

(彼女にとって、それくらい酷い奴に、僕は成り果てていたんだ……?)

「君の気持ちを全(まった)く考えていなかったんだ。僕の都合(つごう)だけの好意は一方的だった。君を、どうにか僕だけの女にできたと、苦労してやっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換えにしてもいいと思ってしまっていた」

 指の間から垣間(かいま)見る彼女の顔は、溢れる涙で滲(にじ)み良く見えない。ただ真っ直ぐに僕を睨(にら)みつけているように見えた。

「違(ちが)うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」

(何を間違っていたと、言っているんだ? 直接、否定する為に僕を探していたのか?)

 彼女がもっともっと、辛い言葉をぶつけてくるような気がして、僕は目を瞑(つむ)り身構(みがま)えた。

(抗(あらが)え! 抵抗(ていこう)しろ! これ以上、彼女に酷い言葉を言わせるな! 踏み止(とど)まれ!)

「僕は、何度も君にフラれたよね。その度に、どうすれば君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰えるように努力したんだ」

 その努力した結果がこれだ。望み薄な願いの空振りばかりの行動は君の心を摑み切れないまま、二度と手も、声も届かない広大な川向こうへ離れさせてしまった。

「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)話し掛け辛くなって、察しも、思い遣りも、気配りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再(ふたた)びってわけじゃないから、もう安心してくれ」

(……言ってしまった)

 未練がましい言い訳のように続けた言葉に、自ら終止符(しゅうしふ)を打つ。君への想いと行動も御仕舞(おしま)いだ。

「君が元気そうで何よりだよ。……幸せなんだろう?」

 更に終止符を強く、御仕舞いの幕引(まくひ)きを厚(あつ)く重ねる為に、近況を尋(たず)ねながら見た彼女は泣いていた。

(……泣いている! なぜ? 彼女は泣いているんだ?)

 僕が送った酷いメールは、やはり届いていて彼女を深く傷付けている。その最低な内容を思い出しているのだろうか?

(君の辛い言葉責(ことばぜ)めで、泣いているのは、……僕なのに?)

 それとも、自分の責めに怯(おび)える相手を憐(あわ)れんで泣いているのだろうか?

 こんなにも僕を打ちのめさせる惨い言葉を、彼女が泣きながら言うくらいに、僕は彼女に酷い事をして辛い思いをさせてしまったのだ!

 必然にしてしまった出逢いへの後悔に、一瞬、静岡の『あの人』が浮(うか)ぶ。駅のホームの端(はし)で手を振る『あの人』の姿だった。思い出しても救(すく)われないのに僕は『あの人』を記憶へ逃げようとする。

(『あの人』は、もう有り得ない! 後戻りはできない。さぁ、先へ進め!)

 僕は過去の戻れない思い出に助けを求めようとしていた。溢れる泪(なみだ)の膜(まく)に浮かんだ『あの人』を振り払い、僕は伝えるべき想いのラストへと言葉を繋ぐ。

「最後のメールで送った『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」

 未練をぶつけ終えた時から思い続けてきた締めの…… 最後のメールの一文(いちぶん)を、彼女を見詰めて言った。

(そうだ、それでいいんだ……。これを言う為に、僕は彼女を探していたのだから)

 これで伝えるべき想いは全て言った。彼女の中の僕のメモリーが少しでもヘタレから良い姿になることを願った。

(もう彼女の声を聞くことはないだろう……。あとは格好良く、シャンとした無言の後姿を見せて振り返らずに、この場を早く離れるだけだ。背後からドスッと刺しに来るかも知れないけれど、できれば未来を残してくれないかな)

 僕の思春期は彼女だけを一途(いちず)に愛していた。それは今も僕の誇(ほこ)りだと思っている。だから彼女は本当に僕の大切な人で、彼女に出逢えて、彼女の前で泣けるのだと思う。僕は、今までの彼女を大事(だいじ)にしたい。

(もう充分(じゅうぶん)だ。彼女は、まだ怨(うら)みを晴らし切れていないだろうけれど、刃傷沙汰(にんじょうざた)の罪(つみ)を彼女に負(お)わさせる前に、僕は早く退散(たいさん)した方がいい)

 此処を登れば速(すみ)やかに姿を消せるだろうと、直ぐ傍の柿木畠坂を見上げて体を動かそうとした。

(お互い長生きして縁が残っていれば、世界の何処かで人生が交差する事も有るさ。今日のように出逢うかもな……。其の時は互いに、今日とは違った思いで遭えれば良いな……)

 その時、彼女の優しい声がした。

「私、わかったの」

 抗う手札(てふだ)を全て出し切って為(な)す術(すべ)も無い泣き顔の僕を、彼女は涙目の蔑(さげす)むような上から目線で見据(みす)えながら言った。

(今更、僕を憐れんで、いったい何が分ったと言うんだ!)

 彼女は僕の前に跪(ひざまず)き、まるで慈悲(じひ)を与えるかのように僕の手を握り、涙で濡(ぬ)れる優しい顔で僕を見た。冷(ひ)えた手の甲(こう)に触れる彼女の手が温(あたた)かい。

(なんて君は残酷(ざんこく)なんだ……。その涙に潤(うる)む瞳は僕を見詰め、愛しさで僕の胸を締付(しめつ)けさせながら、僕を軽蔑(けいべつ)しているのだろう。優しい声は僕に安(やす)らぎを与えながら、辛い言葉を言うに決まっている)

「あなたが、私を大切にしていたことが……、どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」

 僕は怖(おそ)れた! 今も彼女が僕にとって幸せな言葉を連(つら)ね、オチが不幸な結末をトレースするだけの出逢いになる事よりも、再び僕の目の前から消え失せてしまわないかと、不安になる言葉を彼女は言ってくれた!

 ぐぐっと近付けた彼女の顔に優しい声が続く。

「あなたは、私が嫌いな、私の残酷で冷たい部分を、いつも受け止めていてくれたわ」

 失踪(しっそう)、消息不明……。この先、もし、もしもだ。有り得ない事だと分かっているけれど、状況が急変して僕と彼女がいっしょに暮(く)らし始めても、或(あ)る朝、目覚めると横に感じていた彼女の温もりや気配は無くて、彼女は身の回りの物と共に忽然(こつぜん)といなくなってしまう……。或る日、残業を終えて帰宅すると部屋の中の彼女が絡(から)む、一切合切(いっさいがっさい)の物が彼女自身と共に消え失(う)せている……。

 彼女の手を僕は握り返す。初めて僕から触れようとして彼女に触れた。

(彼女の掌(てのひら)は温かくて柔らかい。僕の手も彼女は温かいと感じてくれているだろうか?)

「僕は、君を嫌な人だと思ったことはないよ」

 最愛の彼女との予兆(よちょう)も予感も無い突然の生き別れ。別れの理由や原因も分からず不安と焦りと切なさの自分を責め続ける後悔の日々。この世界の何処かで必(かなら)ず生きているはずだけど、探し出す手懸(てがか)りが無い。

「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕はいつも不安だった」

 僕は不安を想像する。不慮(ふりょ)の事故や事件に因る死、病気や自殺での他界などなど、全く僕が知らない内に、今生(こんじょう)の世界のどこにも彼女がいなくなってしまう。どの想像も絶対に嫌で、僕を凄(すご)く不安にさせた。

 僕の指は彼女の乱(みだ)れた前髪を梳(す)かして涙に濡れるその頬に触れる。陽射(ひざ)しが翳(かげ)る春の外気で冷たくなった頬に、流れ伝う涙の筋が温かい。頬に触れる僕の手を気にするようすも無く彼女の潤む瞳は真っ直ぐに僕を見詰めたままだ。目の前で瞬(まばた)きもせず僕の目をじっと見据える彼女に、頬に触れている手が震えた。

「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは間違っていたの。あなたは私に、いつでも一生懸命だったわ」

 間近に迫る愛しい顔が、また悲しい言葉を言う。やはり、彼女は僕を蔑み見下していた。

(そう、僕は君に一生懸命(いっしょうけんめい)だった。なのに……)

 涙が溢れた。彼女が好きで……、きっと彼女を想う僕の不器用(ぶきよう)な一生懸命さが不甲斐無(ふがいな)くて、彼女にイラつきとジレンマを感じさせたんだ。

「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖かった。でも、そうなってしまったよ」

 彼女は過去の事を言っている。今更、過ぎ去った僕の想いの強さに気付かれても、今の僕には慰(なぐさ)めにもならない。ずっと、彼女に嫌われないようにしていたのに、でも結局、僕の鈍(にぶ)さが決定的な想いの破滅(はめつ)を招いてしまった。

「僕でなくても……、君に……、相応(ふさわ)しい人がいるよ」

(既に大学の彼氏と上手(うま)く遣っているんだろう。君はこれからも彼氏と幸せであれば良いさ。僕は今でも君を愛しているけど、愛する故に心から君の幸せを願っているよ)

 僕は静岡の『あの人』から『愛』を諭(さと)された。くすぐったい響きの言葉だけど、愛が有るからこそ素直に彼女の幸せを願える。

(数秒後に此処で別れたら、もう君を捜さない。二度と君と逢う事は無いだろう。だから安心して幸せになってくれ。永久(えいきゅう)にさよならだ!)

「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。好きなのがわかったの」

 予想していなかった彼女の言葉に、一瞬、その言葉の意味が解(わか)からず戸惑(とまど)った。

(ええっ? えーっ!)

 幻聴(げんちょう)かもしれない? 聞き違い? 僕は自分の聴覚(ちょうかく)を疑(うたが)う。何度も『SAY YES』と強制したいと思った、僕が心底望んだ言葉を、彼女は言ってくれた!

(……信じられない! いや、言葉は過去形…… なのか?)

 そうかもと、思った時も有った。でも今に至っては、とても信じられない。

「あなたじゃないと嫌なの。……じゃないと私、ダメなの」

 彼女は僕を求めていた……。

「まだ間に合うの? 私、まだ間に合う?」

 涙をハラハラと流す彼女を見ていたら、また僕の目に泪が溢れてきた。嬉しくて僕は泣いている。嬉しさが可笑(おか)しさに変わって、僕は笑い出しそうだった。

(ありがとう。僕は……、ずうっと君の、その言葉を聞きたかったんだ)

 嬉しさで表情が崩れて笑顔になりそうなのと、僕への想いを懸命に伝える彼女が可笑しくて笑い声を出しそうになるのを、グッと力付(ちからづ)くで圧(お)し殺して言う。

「……いつも、僕は探していたよ。いつか、どこかで君に会えると信じていた。その時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」

 無理に堅い表情を作る。眉間に皺(しわ)を寄せ、瞼(まぶた)に力を込めながら目を細め、奥歯を噛み合わせて言ったので、言葉は低い小さな声になってしまう。

「今……、お付き合いしている女性が、……いるの?」

 僕の身辺(しんぺん)を探るような彼女のフェイクではない言葉に、イニシアチブが僕側に有るのを実感した。

(すっごく嬉しいけど、笑うな! 彼女は笑ってしまうような可笑しいことを、何も言ってはいない!)

 嬉しさは、達成感……、征服感……、なのだろうか?

「いないよ」

 屈辱(くつじょく)の敗北感(はいぼくかん)に打ち拉(ひし)がれた想いが、思いもしない突然の大逆転に、気持ちは平伏(ひれふ)す相手を支配するダークな喜びに満たされてしまう。だけど、僕は彼女を支配していないし、征服もしたくない。

「私でいいの? 凄く酷いことを言ったし、とても冷たくしたわ」

(そう、確かに君は、残酷で冷淡(れいたん)だった)

 残酷でつれない彼女の態度と言葉は、いつも僕を不安させて焦らせた。今もサプライズで、そのタイミングを狙(ねら)っているのかも知れない。でも僕は、そんな彼女も嫌いじゃなかった。

 涙が溢れてウルウルする彼女の瞳を見詰めながら、ゆっくりと僕は頷(うなず)いた。

「わぁーっ」

 いきなり彼女が顔を逸らして大声で泣き出した。僕の知っている彼女は、ここまでのサプライズはしない。僕の笑いたい気持ちは消し飛んでしまった。もう可笑しくもなく笑えない。

「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」

 小さな女の子が泣きながら謝っているみたいだ。彼女は真摯に謝っている。

(許すだなんて、……許されたいのは、僕の方なのに……)

「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」

(それは、僕が君に言いたい言葉だよ)

 真摯な言葉は素直な心で受け止めて、真摯に素直な気持ちを伝えなければならない。

「今でも僕は……、君に好きになって貰えるようにがんばっているんだ。僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。そこは、とても広くて僕の全てなんだ」

 目の前の女性に語った言葉は、自分の心の中や気持の中を住み分けさす卑(いや)しさへの言い訳だった。

 僅か、一年半ほど前まで僕の全てだった女性が、僕へ『私を好きになって』と、泣きながら言っている。

 未練だらけの日々の後、綺麗さっぱり諦めていたけれど、僕は彼女を少しも厭(いや)になっていなかった。なのに、彼女は『私を嫌いにならないで』と、泣き顔で頼んでいる。

(好きだ! 今も好きだ!)

 けれど、僕は彼女を好きでいて良いのかと、迷(まよ)う気持に悩んでしまう。

「僕は、君に初めて声を掛けたあの日から、ずっと君が好きだ」

 多くの苦しみに悩んでも、悲しみに耐えて苦しむのは、とても辛い。苦しさに呻(うめ)いても、悲しさに嘆(なげ)きたくはなかった。

「手が……、汚(よご)れて、汚(きたな)いよ……」

 言われるまで全く意識していなかった。そう言われてからも、少しも汚いとは思わなくて寧(むし)ろ嬉しい。

「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」

 小学六年生の春に彼女に声を掛けたのは、彼女の四角(しかく)い爪に興味を惹(ひ)かれていたからだ。新学年の初日に初めて彼女を見た時に僕は、その指先に気付いた。

 彼女は四角い爪も、自分の美しさや可愛(かわい)らしさも、全然意識していなかった。

 僕が気付いて意識した四角い爪は、彼女の外見上の欠点ではなくて、全く逆の彼女が醸(かも)し出す美しさの一つだった。

 滑(なめ)らかで光り輝(かがや)く完全なる球の洗練された美形より、ザラついた玉子形に突き出したり、凹(へこ)んだりした艶々(つやつや)な角形や丸形の『ここを見て!』って主張する美しさを、僕は彼女に感じていた。

 その爪も、既に角(かど)が丸くなって四角ではなくなっている。

「あなた、が、好き、よ」

 喘(あえ)ぐ彼女の息に意思を強く込めた声が聞こえた。彼女が言葉の一つ、一つに力を込めて、はっきりと言い直してくれている。彼女の声は全然ブレていない。

(柔らかくて、温かい……)

 『汚れて汚い』と、自分を貶(おとし)める彼女を否定したくて、思わず顔を寄せ、自分を非難する言葉を続けそうな開きかける唇(くちびる)を塞(ふさ)ぐように、僕は優しく唇を重ねてしっかりとキスをする。

 唇に少し荒(あ)れた筋を感じるけれど、プリッとした柔らかさが彼女らしいと、高校一年生の下校のバスの中で隣(となり)の窓際の席で眠(ねむ)る彼女の唇へ黙(だま)ってしたキスを思い出し、シリアスになる気持ちを僕は逸らす。

(あはっ……、今日は、ニンニク臭(くさ)くないな)

 僕を求めて泣きじゃくりながら好きだと言って謝る彼女を、僕は心から愛しいと思う。

 重ねる唇は、彼女の唇を軽く噛む様に吸(す)って開かせ、僕は舌先(したさき)を中へなぞせて行く。

「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」

 一度、言葉で彼女へ届けれた僕の気持ちは、テレも、躊躇いも無く、何度でも届けれると思う。

 ふらりと力が抜(ぬ)ける彼女を強く抱き留めて、重ねた唇の中で舌先を少しだけ絡めてから、唇と彼女の身体を離す。

 彼女が声にした想いの言葉に、僕は僕の想いを強い声の言葉にしなければならない。

「君を……!」

 更にマキシムな恋の言葉を贈(おく)ろうとする僕の唇に、そっと彼女が唇を再び重ねて遮り、僕が言い掛けた言葉に上書(うわが)きする。

「愛しているわ」

(あっ! ああっ?!)

 彼女の想いに応(こた)えようとする僕の言葉を遮り、更に彼女は何処までも透明(とうめい)で清浄(せいじょう)な言葉を続けた。

「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」

 彼女が放(はな)つ『愛』の響きがくすぐったくも、ち心地好(ここちよ)く僕の源の奥深くへと入って広がって行く。彼女が映る視界の隅(すみ)に霞(かすみ)が掛かり、まるで立戸の浜で彼女の膝枕(ひざまくら)で見た夢の続きみたいだと思った。身体が気怠(けだる)くて熱っぽい感じがする。膝が鈍く震え足の裏が重くムズムズしている。彼女を抱きしめる掌や指は、手袋をして触れているような感覚になった。

 まるでRPGシュミレーションゲームのアバターにシンクロしたように、自分の指や手や身体じゃない感じがして、違和感(いわかん)があった。

 僕は興奮して気持ちが舞い上がっている。浅く速い呼吸と高鳴る動悸(どうき)、上昇する血圧に酸素が足りない。ボーッと夢見心地のときめきが気持ち良い。

 僕も、彼女に伝えなけらばならない。これまで、『愛してる』の言葉は、僕の一方的な想いから言って重みが薄れてしまいそうに感じていた。だけど今は、その言葉を言う場面だっだ。

(さあ、抱き寄せて『愛してる』って言うぞ! ……でも、彼女は『まだ、言わないで』と言っているのは、なぜ?)

 僕の表と裏、単純に彼女から返される冷たい言葉を恐れただけの無口さで気遣う、明るく陽気(ようき)?な普(ふ)段(だん)面(づら)と、自暴自棄(じぼうじき)の衝動に駆(か)られた自爆覚悟の罵りを連ねるだけの物言(ものい)いに、報復(ほうふく)に何を仕出かすか分からない戦闘的な行動をする、僕の理性を失った暗部(あんぶ)というか、恥(はじ)っ晒(さら)しの面の全てを彼女は既に知っている。

 それを知っているのに僕を『愛してる』と言ってくれた。だから、彼女が僕の知らない彼女の想いを僕に伝えたいと察した。

 求めていた偶然の出逢いを、泣きじゃくって互いの想いを伝え合っただけで済ませたくない。僕は彼女の想いを、もっと深く知るためにも、今日の残りの時間を全て彼女と触れ合いたいと願う。

「これからどうする? 僕は休みだから時間は十分有るよ」

 涙目を逆(さか)さ三日月(みかづき)にして二コリと微笑(ほほえ)む彼女を見て、『しまったぁ……』と思う。

 その和(やわ)らげな態度と優しげな姿に、大胆(だいたん)で頑固(がんこ)な一途さと意地悪(いじわる)な腹黒(はらぐろ)さを秘(ひ)めているのを、僕は身に染みて知っている。

 彼女は今日のような遭遇(そうぐう)を予想して、酷く誹謗(ひぼう)した言葉を連ねた僕へ貶(おとし)めの報復(ほうふく)を狙(ねら)っていたのかも知れず、その為に身を挺(てい)して僕を罠(わな)に掛ける意思の強靭(きょうじん)さを彼女は持っている。だが、見た目通りの優しさと素直さの彼女と親しく接したのも、良く憶(おぼ)えていて、そんな彼女を僕は探し求めていた。

(さあて、今の彼女の心は、どっちに振れているんだろうなぁ)

「羽田(はねだ)への最終便をリザーブしてあるから、それまで私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言ってきちゃったし、今からデートしましょう。訊(き)きたいこともあるしね。それから小松(こまつ)空港まで送ってくれる? 私を見送ってくれる?」

 気持ちが通じ合い、安心したように見える彼女は無警戒(むけいかい)に明るくて、立戸の浜の時と同じだと思った。僕が著(いちじる)しく身勝手(みがって)な振る舞いや言動を放たない限り、もうバス事故の日みたく警戒を滲ます事も、大桟橋の行き帰りのような黙って不穏(ふおん)を漂わす事はないだろうが、いつ、復讐(ふくしゅう)の言葉を吐き、罠に陥(おちい)らされるか、安心は出来ない。

「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初はどこから行こうか?」

 何か、軽いノリで受け応えしている感じがする。

 以前のメール文のようにズケズケと言葉にする程度しか変化していない彼女に比べて、僕は随分と拘(こだわ)りも、躊躇いも無く、はっきりと言葉にして話せている。

(変わったのは、僕の方だ……)

 僕は、僕自身が大きく変わっているのを、改(あらた)めて自覚した。

 金沢市の大抵(たいてい)の繁華街やモールは知ってはいたが、それはダチの男連中とだったから、高校三年生の後半に弓道部や他校の女子とか、妹の買い物の付き合ったくらいしか、彼女といっしょする場所が思い付かない。

 そもそも、中学生の時から彼女と二人でデートして、行き付けの店なんて作りたかったのに……。その誘いを悉(ことごと)く拒んでくれたのは彼女だ。

(そういえば、さっきも行って来た二十一世紀美術館の白いカフェは、彼女に連れて行かれて知ったんだっけ。でも、あそこは懐かしむだけで、本心を暈(ぼ)かされそうだから、ダメだな)

「お腹が、空いたわ」

 そう言って彼女は立ち上がると、僕の手を取って歩き出した。何処か僕を連れて行く当てが有るのだろうと思いながらも、彼女から積極的に手を繋がれた事が凄く嬉しくて、顔がニヤつき始めるのが分かった。しかも、手を腕(うで)に廻(まわ)して繋ぎ直すと僕に寄り添うように触れて歩いてくれる。

 流す涙を拭(ぬぐ)い、謝りを受け、愛を告白され、キスを交わし、腕を組んで歩く。ずっと独(ひと)り善(よ)がりだった僕の祈りは届いて、とうとう願いは叶(かな)った。

 ニヤついて緩みっぱなしの顔を彼女に悟(さと)られないように青空を仰ぎながら、降りて来た幸せと、明るく照らされたい僕達の始まりに感謝する。

(そう、これからだ。ああっ、神様、恐悦至極(きょうえつしごく)です。ありがとうございます!)

 此処は柿木畠で、竪町、里見町(さとみちょう)、香林坊、広坂通り、片町と金沢市の中心的繁華街だ。少し歩けば、長町(ながまち)に、野町(のまち)に、南町(みなみちょう)。武蔵(むさし)が辻(つじ)や橋場町(はしばちょう)や兼六園下(けんろくえんした)は、ちょっと離れていて歩くには遠いけれど、彼女が望むなら、郊外でも僕のSUV車で連れて行ける。

「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」

 安心して気が緩み、アホを言ってしまった。内心、トラウマを上書きしたい。

「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先にランチもしているダイニングバーが在るの。そこでライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」

 僕の冗談を軽く受け流し、『柿木畠』の碑(ひ)の横で満開の枝垂(しだ)れ桜(さくら)に手を伸(の)ばしながら、優しい笑顔の彼女は明るく僕をランチに誘う。

 このとき僕は、小学校の教室で窓際の机の上に両手を投げ出して、目を細めて春色に光る外を眺(なが)めていた彼女を思い出していた。春の青空と満開の桜を見上げ見る彼女はとても幸せそうだった。

 僕達は手を繋いだり腕を組んだりして竪町通りを歩いた。手を繋ぎ寄り添うのは、いつも彼女からだった。

 そして、『こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と問うように、ちらちらと僕の顔を見る。

 恥ずかしがるように、少し逸らした顔を空へ向けながら繋いだ手を大きく振って、次の一歩を弾(はず)むように跳(は)ねた。そして振り向いた顔が僕を見てニッコリ笑う。

 唐突(とうとつ)に後頭部が粒子(りゅうし)に分散して行くような、首筋や肩の力が蒸発(じょうはつ)して薄れるみたいな、そんな脱(だつ)力(りょく)感(かん)が僕を襲(おそ)い、顔がクタッと倒れそうになる。

(もう一度、今のを、して見せて下さい!)

 竪町通りの中ほどを曲(ま)がり、彼女が依然(いぜん)に両親とディナーに来たと言うダイニングバーに着いた。何かを確かめるような素振(そぶ)りで彼女は店内に入りテーブルにつく。ダイニングルームはほぼ満席で賑(にぎ)わっていて、僕も彼女に促(うなが)されるままに座った。

(何か、この店に思い入れが有るのかも知れない)

 そう思いながら彼女がオーダーしたランチコースを食べる。薦(すす)めてくれたフォアグラステーキは、想像していたのよりもずっと豊潤(ほうじゅん)な味わいだった。牛レバーとは全く違う濃厚(のうこう)な深みのある旨味(うまみ)は蕩(とろ)けるような軟(やわ)らかさと相俟(あいま)って、とても美味(おい)しくて幸せな気分にさせてくれる。赤ワインが有れば素晴(すば)らしいと思うけれど、車を運転しなければならないからアルコールはダメだ。だから僕はジンジャーエールを飲む。食前酒のキールすら飲めないのが残念で悲しい。

 向かい席の彼女はレアで焼いた柔らかそうな分厚(ぶあつ)いステーキを切り取り、僕がオーダーできなかった赤ワインを美味しそうに飲みながら食べる。実に旨そうだ。

(いつ、お酒を飲めるようになったのだろう? しかも渋(しぶ)め…… じゃなくて、辛口(からくち)の赤ワインを!)

 いつも僕が思い描いていた、穏やかで楽しい気持ちで満たされて彼女と美味しい料理を食べる場面が今、然程(さほど)の苦労も無しに実現しているが不思議(ふしぎ)だ。

 食べながら僕達は携帯電話の番号とSNSアカウント、メールアドレス、パソコンのメールアドレス、以前は知らせて貰えなかった彼女の相模原の住所、僕が勤(つと)める親父の会社と家の場所と電話番号などを教え合い、名刺(めいし)も渡した。

 僕の携帯電話番号とアドレスは最初から同じで、ずっと変えてはいない。

 金輪際(こんりんざい)以後、変更されて分からなかった彼女の携帯電話とパソコンのメールアドレスやアカウントネームは、変更前が『Yinghua、インファ』、中国語の桜花(おうか)から、いずれも『Cerezo、セレッソ』に変わっていた。

 スペイン語で、桜という意味だそうだ。

(彼女は、本当に桜が好きなんだな。でも、スペイン語って……、僕のイスパニアの白ワインに合わせてくれたのか?)

 それから、季節が春から夏に移る頃に、僕が相模原の彼女の部屋へ遊びに行く約束をした。その次は、夏休みに入った彼女が金沢へ来る。

 そんな未来志向(みらいしこう)で、彼女と会える約束をできる事が嬉しい。

 ゆっくりとした食事が終わり食後のコーヒーが運ばれて来ると、おもむろに立ち上がった彼女が店の人に断(こと)わり、ダイニングルームの専用スペースに置かれた白いグランドピアノへと向かう。

「五年ぶりにキーを敲(たた)くのよ。上手(うま)く弾けるように祈っていて」

 すっと立った彼女がテーブルを離れ掛けに、僕の手を握って言った。

 ピアノの前に着いた彼女は鍵盤(けんばん)を見詰め、それから、ゆっくりと座る位置を整えるように椅子(いす)を少しずらして座った。彼女は背筋を伸ばして姿勢を正(ただ)す。そして僕を見て微笑んだ。小学六年生の音楽の授業の時、そのままの仕種(しぐさ)で彼女はピアノに向かう。目を細めながら息を吸い込み直ぐに音を弾(たた)き出し始めた。

 それは躊躇いがちに楽しくて、嬉しさに戸惑うような気持にさせるメロディーだった。

(これは確か……、青春物アニメのオープニングと劇中のラストに流れる曲だ)

 僕は直ぐにわかった。あの音楽の授業でみんなのアンコールに応えて弾(はじ)く気配をみせた二曲目が、この曲なのだと。

 『五年ぶりにキーを敲くのよ』と、ピアノへ向かう彼女が言っていた。でも、そんなブランクを感じさせない。今でも良く練習をしているのかと思うほど、音は一つ一つ鮮(あざ)やかにのびて綺麗で滑らかなメロディーを奏(かな)でた。僕に聴(き)かせるために彼女はピアノを弾く。メロディーに込められた彼女の気持ちが僕の中を駆け巡る。彼女の想いが僕の心に響いた。

 澄(す)んだ音が弾んでいる。ほんの少しだけ躊躇うように聴こえるのは、彼女のアレンジだろう。よりアニメの出逢いのシーンにマッチしている気がするし、それに、今の彼女の心境の現れでもあると思う。

『いいの? 本当なの? 嬉しい!』と、彼女の心の声が聞こえて来そうだ。一音、一音がそれぞれのパステルカラーに染められて、僕の中で弾けて行く。『届いて!』、『響いて!』、『嬉しい!』、『ありがとう』、色付いて弾けた音は彼女の声に変わって僕の身体の隅々(すみずみ)まで震えさせる。

 改めて、澄み切った細流(せせらぎ)のような音色に聴き惚(ほ)れながら、不思議に思う。

(こんなのも上手なのに、どうして、彼女はピアノを諦めたのだろう?)

 優しい気持ちで曲は終わり、キーから手を離して顔を上げた彼女は僕を捜(さが)し見て明るく微笑んだ。それに応えて僕は立ち上がって拍手をする。少し照れ臭いけれど、僕の為に弾いて僕を再び感動させてくれた彼女に笑顔で大きな拍手(はくしゅ)を送った。

(違うよ。ありがとうを言うのは、僕の方だ)

 胸が一杯だった。全てが吹っ切れた。僕は彼女だけを見て彼女だけの為に生きる。この時そう決めた。それは絶対だ。この世に絶対と呼べることが無いとしても、この僕の決めた彼女への想いは絶対だ。僕が必ず絶対にする!

 一瞬の間を置いて一斉(いっせい)に拍手が鳴った。お客も従業員も、みんなが拍手を送っている。彼女のピアノは僕だけじゃなく、みんなに感動を与(あた)えている。

「アンコール」

 誰かが言った。それに引かれる様にあちこちから『アンコール』が掛かる。あの時と同じだ。彼女は『アンコール』に応えるのだろうか? 今は誰も妨(さまた)げない。

(どうして彼女の弾くピアノは、こんあにも聴く人に感動を与えられるのだろう?)

 鍵盤の蓋(ふた)を丁寧(ていねい)な仕種で閉(と)じ、立ち上がって椅子を戻してから彼女は大きく御辞儀(おじぎ)をした。鳴り止まない拍手の中を物怖(ものお)じ一つせずに軽い足取りで戻(もど)って来る。この瞬間、彼女は完全にヒロインだった。この場にいる人達全員の、なにより僕のヒロインだった。

「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度聴きたかったな」

 席に戻った彼女に僕は称賛(しょうさん)の意味で言った。……褒めたつもりで言った筈(はず)なのに彼女の顔が一瞬曇(くも)り、小さく唇が動き僕に聞こえない声で何かを呟いた。

「……」

 何度目になるのだろう? 『バカ!』と、唇が同じ動きをした。またしても僕の配慮が至らない。やっと巡り会えて今までの蟠りを解きほぐしているのに、高まる感動のあまり考えも無しに言霊(ことだま)になるような言葉を言い放ってしまった。

 幸い、彼女が退いたのは一瞬だけで後は明るく楽しげな雰囲気に戻ってくれた。

(やっと彼女に愛されたのだから、些細な事で彼女の愛を失いたくない。これからは、失わないように些細な事でも気を付けるんだ! お互いを失いたくないのは彼女も同じ筈だと思う)

 お客の女性やレジ係の店員が彼女に称賛の声を掛け、それに笑顔で手を振り礼をして答える彼女を、脇(わき)に見ながらランチの勘定(かんじょう)を済ませて、テーブルに着く際に預(あず)けていた彼女のコートを受け取り、僕は袖(そで)を通し易いように彼女へコートへ広げてあげる。

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 僕達は竪町通りから里見町を抜け二十一世紀美術館へ向かう。そこの地下駐車場に僕の四輪駆動のSUV車が停めてあった。

 二十一世紀美術館は懐かしい場所だ。バス事故のあの日、僕達は初めてフレンドリーにスキンシップの大接近をして、ここの白いカフェでイレギュラーなデートをした。

(全く、あの日は、デッドラインの間際と、ヘブンへの階段を行き来したみたいな日だったな……)

 身体に辛くとも心の嬉しさを思い出して目を細めていると、それに気付いた彼女が目を細めながら言ってくれる。

「今度、ゆっくりと鑑賞(かんしょう)しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんとお茶してさ。いい?」

 誘いの言葉を言う彼女に、あのバス事故の日を覚えていて、ここは彼女にとっても思い出の場所になっているのを知った。

「ああ、いいよ」

 明るく軽い感じに返すつもりだったのが、勝手にトーンが落ちて真面目(まじめ)なイントネーションで言ってしまい、企(たくら)みや壁を感じさせて警戒されないか、心配してしまう。

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 オートマチック車のパーキングからドライブへとギアシフトする簡単(かんたん)な操作にも、レバーを握る掌に汗が滲むほど緊張(きんちょう)してしまう。

 ギアのロックを外(はず)して駆動ギアへの接続も、普段は音と微振動の反応だけで感覚的にアクセルを踏み出すのだけど、今はディスプレイのシフトギアの位置表示まで見て確認している。

 歩道へは減速徐行して、車道へは直前に一旦停止して、安全と障害の確認をしてから入り、発進とブレーキは加速と減速を感じさせないように、滑らか且(か)つ速やかに踏み込む。

「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく嬉しかったよ」

 サイドシートに座る彼女の声を聞きながら僕は、緊張する気持ちが嬉しさにを包まれるのを感じて頷いていた。

 許される範囲のスピードオーバー以外は交通法規を遵守(じゅんしゅ)して、大胆で逞(たくま)しく、そして勇敢(ゆうかん)に加えて、いつも以上に慎重に運転する。

「……でね。本当に今、親しく付き合っている女の人は、いないのぉ?」

(なんで、時間を置いて、また訊くんだ?)

 僕の言葉に、彼女は確信を得たいのだと察した。

「いっ、いるわけないじゃん! 僕は一途だぞ! いたら君を好きだと……」

 照れ臭くても、何度でも、真摯に君への想いを強く伝えなければならない。

「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」

(あっ、マズったかも!)

 声が上(うわ)ずった! 低い声で渋(しぶ)く、重く、『君だけ』だと、クールに言えば良かった。

(でもね。年末までは居(い)たんだぞ……。大晦日で別れちゃったけどな。……潔く身を退いて、未練を持っちゃいないんだ、というか、持っちゃいけないんだ……)

「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」

 今、現在で、交際をしている異性はいない。でも、想いを戻したい女性は二人いる。

「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、心配だったの」

 一人は戻す術が失われている静岡の『あの人』だ。そして、もう一人が君だ!

「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」

(『あの人』の事は、君が僕の過去話しを訊いて来たら、聞かせてあげるよ。その時は、僕も君の昔話(むかしばなし)を聞かせて貰おうかな)

「鈍いね、あなたは。好きになった女の子には一途で一生懸命なのに、周(まわ)りにあなたを好きになった女子が、大勢いても気付かないなんて……」

 弓道の試合で僕を応援してくれていた女子達の事を言っているのだろうか? 確かにラブな手紙を手渡された事や、直接、面と向かって『友達からでいいので』と、言われた事も有った。他校の弓道部の下級生の女子に誘われて片町と竪町でのショッピングに付き合っている。中学でも告白されているし、高校でも中学校の同級生から告白された。 だから気付いていないなんて、……ことはない。

(だけど、それは君だけを好きだったからだ!)

 故に、僕は惚(とぼ)ける。

「そうなのか? 僕は鈍いのか……」

 僕は彼女に正直でいたいと思う。

 彼女には少し鈍感(どんかん)だと思われていた方が、何かと都合が良いかも知れないと思うけれど、誤解(ごかい)を招き易い事柄(ことがら)の白黒は、勘繰(かんぐ)り深い彼女にポーカーフェイスで惚け通せるか自信が無い。

 始まりの勘繰りが、疑い深い事なら、自信を持って正直にはっきりと釈明(しゃくめい)して誠意を示さなければ、この先もずっと、気持ちの何処かに、心の何処かの隅に、不安と疑りと蟠りを持ち続けて、何時しか、決定的な不幸へのトリガーとなるだろう。

 そんな事を考えながら彼女を見ると、以外に明るくて、諦めたようにも、察したようにも思える微笑を浮かべていた。

 僕に見られている事に気付いた彼女は、更に笑顔になって、弾んだ声で訊いて来た。

「あの大きなオートバイは、まだ持っているの?」

 サイドウインドーを下げて車内に入る春の大気で、髪(かみ)を乱しながら犬のように鼻をヒクつかせる彼女は懐かしむように言う。

 弾んでいるように聞こえたのは初めだけで、御仕舞いの声が小さくなって行く、どことなく彼女の問い掛けが、僕を責めている気がした。

『えーっ、あんなのを、まだ持ってんの。あんな言う事を聞かない、重くて乗りこなせないバイクなんか、捨(す)ててしまえばいいのに』と、言っているように聞こえた。

 今も因縁(いんねん)のV-MAXを所有しているのが気に食わなくて、非難されている気がして僕はムッとした気分になりながら、相模大野の駅前で初めてV-MAXを見た時の彼女の表情を思い出す。

 そして、含まれているだろう語意を無視して僕は投げ遣りに答える。

「ああ、V-MAXだろ。まだ持っているよ」

 正直に答える僕は、相模大野の駅前でタンデムシートから降りた彼女が後退(あとずさ)って、灼熱(しゃくねつ)したエキゾーストパイプに足が当たった。それはジーパンの上からチョコっと触れただけなのに、脹脛(ふくらはぎ)に赤くて丸い火傷(やけど)の痕(あと)を付けさせていて、ヒリヒリする痛みに彼女が顔を顰(しか)めながらウエットティシュを患部(かんぶ)に当てるのを思い出した。

「夏になったら乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」

 驚いた。あんなに嫌悪感(けんおかん)を現した彼女が、再び乗りたいと言ってくれるとは思わなかった。うんうんと首を縦(たて)に振りながら、彼女の嬉しい提案に答える。

「勿論(もちろん)! いいさ。ぜひ乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」

 次のタンデムでは迷いも、躊躇いも無く、僕は走れるはずだから、もうV-MAXを『乗りのこなせていない』という、イメージは持たれないだろう。

「あのヘルメットも、有るの?」

 大桟橋の時に、一度っ切りしか使っていないのに、『女の子の匂いがする』と、『あの人が』言ったフルフェイスのヘルメットだ。

 本棚の上に置かれていたヘルメットを手に取った瞬間に『あの人』が言った。僕は、『あの人』に臭いで気付かれたヘルメットを被(かぶ)らせて、不快(ふかい)な思いをさせるのが嫌で、『あの人』用に新しいのを買った。

 その新しいヘルメットは、『君のことは忘れないよ』と、別れの日に『あの人』が持っていった。

 そんな記憶が彼女の言葉で甦り、春の大気に香る桜の匂いといっしょに、安らぎを得た僕の心をざわめかす。

「有るよ」

 僕は頷いた。僕は、『あの人』へ新しいフルフェイスヘルメットを買ったのに、大桟橋の時のヘルメットを捨てずに、ずっと本棚の上に置いていた。

(それでだ!)

 僕の中で既に決着を付けて忘却(ぼうきゃく)したと思っていた彼女への想いが、僕の心の奥底に消えずに沈ませている事に『あの人』は気付いていたのだろう。だから、『あの人』は僕にプロポーズの言葉を言わせない真(ま)っ先(さき)の理由にしたのだ。

 あの時、『あの人』が、僕と添い遂(と)げれない決定的な理由を言う前に、僕の彼女への想いを持ち出した理由が、今、やっと解った。

(『あの人』の気持ちにも気付けていなかった……。僕は、本当に鈍くてバカな奴だ!)

 もし、本棚のヘルメットを処分していたら、どうだっただろう?『あの人』は……。いや、イントロの言葉が違うだけで、結果は変わらない。

「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸の浜もね。休みを取って時間を作ってくれる?」

(御里へ行くってのは、家族や親戚(しんせき)一同に紹介するつもりなのか?)

 それは、ちょっとまだ早い気がするし、それに恥ずかしいけれど、断わる理由にはならない。

「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」

 また立戸の浜で沈められそうだけど、彼氏として紹介されるのも込みで覚悟して行こうと思う。

「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」

(おっ、おおっ! 御願いされた! 担ぎ手になった僕の凛々(りり)しい姿を、彼女は見たがっているぞ!)

「うん!」

 力強く返事はしたものの、地元衆(じもとしゅう)の若手は彼女の幼馴染(おさななじみ)ばかりだろうし、ただ、楽しく担ぐだけでは済まされないだろう。

(勧(すす)められて一昼夜の酒浸(さけびた)りになるのも、覚悟した方が良さそうだ)

「それと相模原へ来たら、いっしょに行きたい処があるんだ」

 予想外の相模原で行きたい場所が有ると言われて、強張(こわば)って行く自分の顔が分かった。

 『相模原』、無計画だった僕の不甲斐無さから、彼女に『永遠(とわ)の別れ』をされて、悲しみの向こうへ辿(たど)りつけなかった因縁の始まり街だ。

「どこ?」

 彼女が僕と行きたい所は、たぶん、横浜港。そして、問い掛けに返される場所は、気不味(きまず)い雰囲気(ふんいき)で黙って僕達が歩いた、あの鯨(くじら)の背中(せなか)だ。

「もう一度、大桟橋を歩きたい」

(ビンゴだ……!)

 一瞬、彼女の顔が曇った気がした。『大桟橋』のところだけ笑顔が消え声が沈んだ。その翳りにV-MAXでタンデムして『大桟橋』へ行った日の、僕の不甲斐無さと心配りの無さだけではないと思う。

 『大桟橋』に、どんな思いや拘る理由が彼女に有るのか知らないけれど、僕にとってもトラウマになりそうな場所を仕切り直せるのは、願ったり叶ったりだ。

「……いいよ」

 消えた笑顔とトーンが落ちた『大桟橋』が気になる。その暗い抑揚(よくよう)から僕以外にも大桟橋に纏(まつ)わる何かが有ると察した。もしかして、スタンガンを使わなければならない事態に遭遇(そうぐう)したり、陥ったりしたのかも知れない。 僕が渡したスタンガンは、彼女を守り切れているのだろうか?

「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。そこでディナーを、いっしょに食べたいの」

 『大桟橋』の中にレストランやショップが有るのは、引き摺る未練で行っていた時に食事や記念品を買っていたので知っている。

 でも、そこでのディナーは、ポートサイドの夜景を見ながら船上のオープンデッキの方が、ムードが有ると思う。

「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」

 彼女と二人、横浜港へディナーに行くなら、大桟橋に接岸していたクルーズ船でのディナープランの方がシックで良い感じになると、未練タラタラの時に真っ白なクルーズ船を眺めながら考えていた。

 ドレスコードは無いと思うけれど、ちょっとラフなフォーマルっぽさでメモリアルなディナーにしたい。最上階のデッキでディナーを食べながら、イルミネーションが美しいベイブリッジを潜(くぐ)り、ライトアップに輝くベイエリアを眺めて、笑いながら語り合う。

(プロポーズに好いムードを醸(かも)し出すかもだ。内ポケットに、ティファニーのペアリングを用意してたりして……、なぁんてね)

 けっこうロマンチックだと思うのだけど、どうも、彼女にとってディナークルーズは、セカンドプランのようだ。

「うん、二人で夕方のセピア色に染まる横浜港を見て、それから二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒飲めるよ。そして夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ、セッティングは、私がするから心配しないで」

 どうしても行きたいらしい。彼女なりの理由が有るのだろう。

「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」

 それは、別に構わないどころか、大いに大歓迎で嬉しいです。

(さぁて、次は何処だろう?)

「ん! まだ?」

 嬉しいながらも、ワザと問い掛けてみる。

「来年の春は相模原の、満開の桜並木を歩かない?」

 その桜並木道は、二度、満開の桜吹雪(さくらふぶき)の中をV-MAXで駆け抜けた。一度目は未熟(みじゅく)な僕が後悔するデートの前に。二度目は何も戻せないのを認めての偶然の出逢いを求めて、宛(あ)ても無く彷徨(さまよ)う様に桜の花弁を追い駆けた。

「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」

 二度目は、実際に出遭ったら言えていたか分からないけれど、交差しなくなった別々の人生の幸せの祝福を交換しようと考えていた。

 静岡の『あの人』には、甲府市(こうふし)の同好の趣味人(しゅみじん)へ会いに行くと口実を言って相模原へ行っていた。

 『あの人』は政略結婚で融資(ゆうし)を得て、家の事業が盛り返して活気を帯びれば、『あの人』の家族と働く親族達の生活に心配は無くなるけれど、事業経営は事実上、養子(ようし)の夫と彼の実家が実権を握ってしまうだろう。

 不本意な結婚の結果でも、困窮(こんきゅう)していた暮らし向きが心配の無い安心で安泰(あんたい)になると、『あの人』は愛してもいない夫と別れ、禍々(まがまが)しい山狭(やまあい)の地を捨て、僕の許(もと)へ戻って来るつもりなのだろうか?

 そんな有り得ない『あの人』の想像を、今の状況で僕はしてしまう。

「決まりね。それじゃあ、約束よ」

 彼女に『是非(ぜひ)、いっしょに』と頼みながら、『あの人』へバカな期待をする自分の浅(あさ)ましさが嘆かわしい。

「約束は、……しないよ……」

 『あの人』に再会する予兆(よちょう)などは、全く何も無い!

 将来的に『あの人』と再びの望みを期待できるモノは、素粒子(そりゅうし)一つ分も全然無く、『あの人』は彼女以上に僕を断絶して去っていまった。

 僕の中の『あの人』の広がりは、現在の更新は失われて過去だけが漂っている。その広がりを圧し潰して薄くするように、『あの人』と『君』への未練が積み重なって行っていた。

 そして今日、君との出逢いが希望の無い未練を遠い片隅(かたすみ)へ小さく圧し遣って、再び君への想いを果てし無く広げている。

 僕は、目の前に突き出された君の右手の小指に、僕の小指を絡ませない。

「約束しない? 約束できないの?」

(僕の中の現在は君だ! そして、未来も君だ! だから、約束を交す必要はないんだ)

 君の願いや頼みを叶えたり、守ったりするのは、もう僕の義務だろう。

「違う! もう、約束なんかで縛られたり、確かめ合う仲じゃないと思うからだよ!」

(君を好きになるのは、僕の自由だ!)

 君が僕の好意を嬉しく思わなければ、僕は『君を好きになるのは、僕の権利だ!』と、主張してもよいのだろうか?

 君にとっては大迷惑かも知れないのに、権利だからと僕は好きで居続(いつづ)けたい。確かに、好きで居続けるのは構わないのだろうけれど、権利とは違う気がする。

「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」

 もし、君に喜ばれたら、もう君を好きでいるのが、僕の義務だと思う!

 大桟橋と相模原はトラウマを消し去る為にも、僕は絶対に行きたいと思った。

「早く着き過ぎちゃうな。どこか寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」

 加賀産業道路を走りながら彼女に訊いた。小松空港に行くには国道八号線の小松バイパスへ合流する前に右折(うせつ)しなければならない。次の交差点を右折すると十五分で空港に到着する。

「海……、海が見たい。日本海を……」

(海? そうだった! 彼女は、海……、海原(うなばら)や渚(なぎさ)が好きだっけ)

「行ける? 時間は大丈夫(だいじょうぶ)かな? 夕陽を見たいのだけど?」

 ダッシュボードのパネルの時計を見ると、空港近くなら余裕で大丈夫そうだ。

 場所は海原と岸辺の両方の見晴らしが良くて、無粋(ぶすい)な人工物の無い海岸がいい。それも広大な砂浜ならモア・ベターだろう。

 それに彼女が知っていそうもない浜なら、ベスト・インパクトになる。

(誰もいない浜に、二人だけで見る夕陽。……なんてね。とっても良いシュチュエーションじゃん!)

「時間は……、空港での夕食時間に余裕を持たせて……、二時間は大丈夫だ。行けるよ」

 『二時間』と言って、『御休息(ごきゅうそく)』を連想してしまった。

 加賀産業道路が国道八号線と合流する辺りには、加賀温泉郷の『山代(やましろ)』、『山中(さんちゅう)』、『片山津(かたやまづ)』の温泉街が在る。温泉街の周辺には一軒宿っぽい温泉とラブホテルも多い。

(……彼女は、ラブホ利用の経験が、……有るのだろうか?)

「ほんと? 行ってくれるの?」

 彼女は嬉しそうに笑っている。僕も妄想(もうそう)する下心で自虐的に笑ってしまう。

(今日の出逢いの様子だと、何処へ走っても構わない感じだ……)

 ラブホのパーキングに停めても、多少の困惑と蟠りだけでベッドルームへの階段をいっしょに上がってくれるだろう。そして、開放的な広い部屋を選べば、躊躇う気分を軽くさせて殆ど無抵抗に身体を許してくれるかもだ。

 だけど、やっと再会できて、改めて相手の想いを知り合えたのだから、性急過ぎる節操(せっそう)の無い行動と態度に出るわけには行かない。

(この、勘違(かんちが)い野郎と思われたら、彼女の事だ。気持ちが変わって、きっと、これっきりになる)

「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから気持ち良いかもな」

 梯川(かけはしがわ)河口の南側砂丘の松林の中に源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(べんけい)の勧進帳(かんじんちょう)で有名な安宅の関所跡(せきしょあと)が在る。鎌倉期(かまくらき)の街道は砂丘沿いを通っていたのだ。小松空港の直ぐ近くで安宅の松林の向こうは広い浜辺だけど、ちょっとインパクトとユニークさが足りない。

(そう、気持ちが良いい…… 場所)

 彼女が僕に触れた気持ちの良かった体験を思い出して、僕は彼女が気持ち良いと感じる触れ合いをさせていないと思った。

 フォークダンスで触れた汗(あせ)っ掻(か)きな君の掌。バスの中のキスでプリンとした弾力を感じた君の唇、救急車の中で覆い被さる君の柔らかな胸、渚で知った君の日焼けした肌の張り艶、タンデムツーリングで背中に押し付けた胸の弾力と香る君の匂い。そして、今日の塩辛(しおから)い君の唇。

 その先に迎える気持ちの良い事を、君は既に経験しているのだろうか?

(……まだ、僕は葛藤(かっとう)している……。さり気無く誘ってみる? それとも、強引に求めちゃったり?)

「その片野の浜って知らないけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」

 浜辺とは違う、欲情的に御奨(おすす)めの場所っていうか、領域っていうか、君を絶対的な頂(いただ)きへ逝(い)かせたい思いが、また湧き出して来る。

(……彼女も、求めているかも知れないし)

 今の彼女なら僕の気分次第で強引に迫っても、たぶん拒みはしない。

(だけど、ダメだ!)

 やはり今日は、僕から求めるわけには行かない!

「でも、日没まではいられないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、その時刻には空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と思うけど」

 日本海の水平線の彼方へ沈む紅(あか)い夕陽を彼女と僕が見るとなれば……、連想するのは高校一年生の晩春に金石の浜で部活のテレーニングをする僕を彼女が見に来た時だ。

 彼女は下校時に鳴和町(なるわまち)の学校から金石(かないわ)の町までバスを乗り継(つ)いで来て、『海を見に行っただけ』とメールを送られていた。斜陽(しゃよう)の紅く染まり始めた海原を彼女は日没まで見ていたのだろう、偶然にも部活を終えて下校する僕は、帰宅する彼女が乗ったバスに乗り合わせてしまった。

 そして、彼女の横に座った僕は、車窓に凭(もた)れて熟睡(じゅくすい)する彼女の唇へ禁断のキスをした。

(その無断でしたキスに彼女は気付いていて、遠回しに僕を咎(とが)めて、浜辺で酷く責められるのかも知れない……)

「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は次回ね」

 あの時はバスの揺れに任せて、僕の唇を彼女の唇へ押し付けただけだったけれど、あれは僕のファーストキスだった。

「それじゃあ、行こう」

 彼女にとってもファーストキスかも知れない、僕の負節操(ふせっそう)で卑怯(ひきょう)なキスに彼女が気付いていたならば、ラブホの休息に誘うなんて、悪魔の花園のような地雷原を走り回るくらい、デンジャラスで愚(おろ)かな行為だ。

 僕は内面の性欲を抑えて、彼女と望みと僕の言葉通りの行動をする事に決めた。

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「あそこに、寄ってもらえるかな?」

 木場潟(きばがた)を過ぎた辺りで、『さっき右折して、小松空港の海側の道路を通った方が、早く行けたかも』と少し悔やみながら、国道八号線に国道三百五線が合流する加賀市の交差点まで来てしまった。

 ナビゲーションの画面を広域表示にして、片山津温泉が在る柴山潟(しばやまがた)沿いを行くか、大聖寺(だいしょうじ)の町近くを通って行くか、僕が現在地からのルートが良く分からずに迷っていると、彼女に対向車線側のコンビニへ行くように指示された。

「えっ、ここに用?」

 片野の浜の駐車場前にはシーサイドカフェが在ったはずなので、其処で寛(くつろ)いでと考えていた。だからコンビニへ寄って買い物をつもりは無かった。

「そう、ちょっと用なの。……用を足(た)すの」

(あっちゃー! そっか、トイレだあ。これ、妹もドライブすると、よく言うわ。因(ちな)みに、お袋(ふくろ)は『トイレ行きたい』って、ストレート表現だけどな)

 これは、綺麗で可愛くて大好きな女性は排泄(はいせつ)しないって思い込みじゃなくて、自分の配慮の至らなさを反省するしかない。

「ああっ、OKだ!」

 目を逸らし、顔も逸らして、頷きながらの返事なのに、納得って言わんばかりに、言葉尻が強くなった。

 ただ『うん……』と言えば良かったのに、僕は察し足らずの自分に、再度反省が必要だ!

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 用を足す彼女といっしょにコンビニへは行かず、僕はSUV車の中で彼女の戻りを待つ事にした。

 ついでに偶然の出逢いの、想定外だった彼女が座るサイドシート周りをクリーナーで掃除する。

「それなに? 買ったんだ?」

 十五分ほどで戻って来た彼女はコンビニのレジ袋を持っていて、ただのトイレ利用をするだけじゃなくて、ちゃんと買い物をしていた。

「うん、アイス」

 ドライに設定しているだけのエアコンディションなのに、彼女の顔は上気(じょうき)して火照(ほて)っているように見えた。胸元から漂って来そうな熱気に汗ばんでいるのかもと察した。

 まだ肌寒(はださむ)い日が続いていて、陽射しが回復した今日の午後も、走行中はウインドゥを開けると風が冷たくて寒い。

(なのに僕も、汗ばんでいる。まあ、半分は緊張している所為だけど)

「アイスクリーム? 今、食べるん?」

 『汗っ掻き』に『多汗症(たかんしょう)』という体質か、症状なのか、分からない言葉を聞いた事が有る。それらは、はっきりとした違いが有るのだろうか?

 正常な体質なら、今日の気温や状況で汗を掻かないのだろうか?

(汗っかきは、全身が火照り易くて汗ばむんだっけ?)

 辛(から)い料理を食べると顔から汗が筋(すじ)になってポタポタ落ちたり、首筋に汗の玉が浮いたり、掌がベトベトベッタリと濡(ぬ)れるのは多汗症……。

 僕は思いだしていた。眠ると体温が上がって『赤ちゃんみたいね』と言われた事が有る。

 言ったのは静岡の『あの人』だ。寝る時は僕の腕枕(うでまくら)でいっしょに眠ったはずなのに、いつも目が覚(さ)めたら僕はベッドから落ちているか、ベッドの端際(はしぎわ)で毛布に包(くる)まっていて、羽根布団で安らかに眠る『あの人』はベッドの三分の二を占拠(せんきょ)していた。

 『だってぇ、君は寝てしまうと赤ちゃんみたいに熱くなるんだよ。自分では分からないでしょう? だからね。眠りながら君から離れちゃうんだよ。でもぉ、隅へ追い遣ったり、落としたりするのは覚えてないなぁ。きっと、夢の中で似たような事をしちゃいながら、無意識で蹴飛(けと)ばしていたかも。ごめんねぇー』

 汗っ掻きのワードが、僕に無意識と別離(べつり)を思い出させて、少し悲しくなった。

(病(しょう)って、それは、体質じゃなくて病気なのか? だとしたら、治療(ちりょう)ができるってことぉ?)

 僕と彼女は、どちらなのだろう?

「ううん、後で。浜辺で食べようよ」

(だよな。運転しながら、片手持ちでアイス食べるのは、危(あぶ)ねぇし)

 かといって、コンビニの駐車場で食べるなんて、無粋で問題有りだと思う。もっとロケーションを大切にしたいし、それにタイムロスだ。

(このロケーションと料理のオーダーの失敗が起因(きいん)して、今日まで完全断絶されていたんだっけ。同じ徹(てつ)を踏(ふ)みたくはねぇな)

 棒アイスだと片手に持ちっ放しになるし、溶け易いから、垂(た)れ落ちる心配が付き纏う。袋入りのモナカだと片手持ちで何とか食べれるけれど、チョコ被(かぶ)りのだと、割れたチョコの破片が零(こぼ)れて、衣服や座席を溶けたチョコで汚した事が有った。

 そして、カップタイプのは両手を使うから運転は更に困難(こんなん)になる。

(食べさせて貰わないと、無理! もしかして、『あーんして』を、してみたかったりして!)

 なんて考えていたら、あっさりと違った。

「だったら、そのままだと車内のエアコンで溶けるかもだから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」

 彼女からアイスが入ったレジ袋を受け取ると、そのまま電源をオンにしたバッテリータイプのクーラーボックス内のフリーザーへ入れた。

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(シーサイドカフェでのユルリと寛ぐのは、無しだ!)

 片野の浜辺でアイスクリームを齧(かじ)りながら、彼女と和(なご)む事に僕は決めた。

 ナビ画面のルートは大聖寺の街に入らないのだけど、気が付いたら曲がるべき処を曲がらずに入ってしまい、新たに再表示された『この道で良いのか?』と、不安を抱かせるような道筋を通って、どうにか片野の海水浴場の駐車場に着いた。

(見覚えの有る浜だ。シーサイドカフェも在る。此処はナビが示す場所で、僕は間違った浜に来ていない)

 何より、堤防を兼(か)ねる低いコンクリート壁に、片野海水浴場駐車場と大きくペンキで書かれていた。

「よく道を知っているねぇー」

(いやいやいや、ナビ通りに走って来ただけです。でも、この辺りはウロ覚えだし、自分で来たのも初めてだし、上手く着けて、ほんと良かったわぁ~)

 大聖寺の街で道を間違えたのも、不安な気持ちで運転していたのも、今も場所を間違えていないか疑っているのも、彼女に気付かれていない。

「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」

 上手く不安を隠せていたのと、彼女の驚く顔と御褒(おほ)め言葉で気を良くした僕は、途切(とぎ)れ途切れの記憶なのに、いかにも鮮明に覚えているかのように鼻息荒(あら)く、知ったかぶりをする。

「……砂浜を歩くの?」

 ドアを開けて出ようする僕の背中に、彼女の沈んだ小声が聞こえて振り向くと、サイドシートに座ったまま自分の足許を見ている彼女がいた。

「あっ! そのロングブーツはレザーだよね。それにハイヒールだ。……砂浜だと刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」

 片野の浜の砂質は、羽咋市の千里浜みたいな木目細かくて踏み固めれる砂じゃない。少し粗い砂粒の軟らかい砂浜は絶対にハイヒールを潜らせて、踏み切れない踵で歩行を困難にしてしまう。それに、砂粒はサンドペーパーを掛けたようにレザーを擦り傷だらけにして、ブーツの光沢を艶消しまうのは確実だ。

「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」

 言いながら後部座席のドアを開けて床に置かれた妹のブーツを持ち、反対側へ回ってドアを開け、彼女の足許へ置いた。カジュアルなショートブーツはミスマッチになるけれど、仕方が無い。

「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」

 妹のショートブーツはフェルトだから砂塗(すなまみ)れになりそうだけど、脛丈(すねたけ)なので中には砂が入らないだろうし、硬質シリコンゴムの靴底は深めのトレッドパターンで、これから行く岩を歩くのに滑(すべ)らなくて済(す)むと思う。

「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」

 屈(かが)み込む彼女がロングブーツのジッパーを下げると、黒いナイロンストッキングにピッタリと包まれた彼女の脛と脹脛(ふくらはぎ)が見えて、その艶(なまめ)かしさに見惚れていると、彼女は顔を僕の方へ回して言った。

「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」

(うっ! エッチだと悟られてしまった! そうです、僕はスケベなんだよ……)

「ああっ、ごめん。そっち側の見えない所に離れているよ」

 SUV車の反対側へ離れながら、妹がショートブーツを載せといてくれて良かったと思う。

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 高校三年生に進級した妹は、新年度になった初日から来年1月の御受験に向けて金沢駅近くの進学塾へ通い出した。希望する大学へ進学する意欲が有るにしては、其の為の勉強密度の高まりが半年ほど遅い遅いと思うけれど、あっさりと部長を同級生へ委任して部活を二年生で辞め、妹は受験勉強に集中している。

 妹は放課後に高校から進学塾へ直接行く。塾の終わるのが午後九時過ぎになるので、火急の仕事や異常が発生しない限り、僕がこのSUV車で向かえに行っている。

 塾通いの二日目の朝、加工の進捗を確認に工場へ行こうとSUV車に乗り込むと、寝起き姿で息を切らして遣って来た妹が、『今夜も、迎え、宜しく御願いします。あと、これ、乗せといて』と、言いながらドアを開けて後部座席の床へフェルト生地のショートブーツを転がした。

『なんで?』

『塾のルームは暖かいんだけど、足裏から冷えるんだよ。だから、ね! アニキぃ~』

『なに、それ? 始めっから履いてけば、いいじゃん!』

『ちっ、ちっ、分かってないなぁ、アニキ。女子高校生は、ビジュアル第一なんだよ。男子も多いしさ』

『俺は、そのビジュアルの対象外なのかよ?』

『―ったりまえじゃん! アニキに、ブラコン系可愛い妹なんて、演じないよ』

『俺も、シスコンじゃねぇ。でも、載せといて遣るよ』

 以後、今のところ日曜を除く毎日だが、迎えに行く度に妹はサイドシートで素肌の脛を擦りながら、学校指定の通学靴からフェルトのショートブーツに履き替えている。

『あ~、あったかいわ~。風邪は首筋と足裏の冷えからって言うしね。ちゃんとブーツを載せといてくれて、サンキュー、アニキ!』

『やっぱ、おまえ、そんなに体調を気に掛けてるなら、ブーツを履いてけばいいじゃんか』

『ダーメ。ソックスに包まれた足首と脹脛の下半分から、スカートの裾までが絶対領域なの。このビジュアルは落とせないよ!』

『……絶対領域。それは解るけど……、じゃなくて、なんだそりゃ? 意識してんのかぁ?』

『そりゃそうよ。体毛処理してさあ、擦り傷や痣に気を付けてさあ、虫刺されにもねぇ。浮腫(むく)まないように、血色良いように、食べもんと睡眠を摂(と)ってさあ、いろいろ有んだよぉ、アニキぃ』

『まあ、確かに形が良くて、綺麗な足してるからな、おまえは』

『それに、うちの学校は、制服ダサダサじゃん。可愛いカジュアルブーツなんて、普通にマッチしないし、アンバランスだし、ダサさの3乗だわ。だっからあ、制服とのダサコラボは、アニキしか見せないよ』

 そのダサイ制服の高校は、彼女と同じだ。『片想いしてる彼女さんの高校を、見て、触れ、嗅ぎたいから』との理由付けで受験して、成績上位の妹は塾通いもせずに合格してしまった。更に、『弓を構えるアニキが、格好良かったから』と、弓道部に入部してくれた。

 弓道部に入ったからにはと、命中させるコツと身体作りを指導して、黒壁山での祈願の仕方を教えたら、去年は個人優勝をして、インターハイのベスト十六まで勝ち進まれてしまっだ。

『三年の部長が、アニキとデートした事が有るって言ってた。香林坊、竪町、片町とデートして、アニキの高校の文化祭もいっしょに回ったのに、こっちの文化祭に来てくれなかったって。ちょっと恨(うら)んでたよぉ~。でも、わかる。そりゃあ、行けないよねぇ』

 そんな過去話を一年生になって直ぐに弓道部へ入部した妹から、お盆の帰省(きせい)の折りに聞かされた。そのデート相手の女子弓道部の部長は、僕とインターハイへ行った個人の部のメンバーで、石川県代表になった女子の個人優勝者だった。

『だってぇ~、いくら断わっても、想いを伝えて来る男子がさぁ、自分の学校の文化祭に来ていてぇ、下級生の女子に寄り添われてぇ、模擬店廻りしてるのを見たらぁ、ねぇ。まして、夏休みに能登まで来てくれて、会っているのに。……私だったら、真正面に立ちはだかって、いきなりグーパンチで、ダウン取って遣るわ!』

 グーパンチって、妹と取っ組み合いの喧嘩を最期にしたのは、小学五年生の三学期だ。おふざけと悪戯の仕返しに頬を平手で叩くと、必ず僕にしがみ付いて拳(こぶし)で殴り返して来ていた。六年生になって四角い爪の彼女と噛み合わない言葉を交してから、妹の悪ふざけが気にならなくなって、妹から見た兄を意識するようにしている。

 永遠の別れを告げられてから彼女を探しに行ったキャンパスで、もしも、彼氏と寄り添い歩く彼女を見付けたら、僕はどんな行動をしていただろう? 彼氏とタイマンを張って、グーの音も出ないほどボコボコになっていれば、僕は別れに納得できていただろうか?

 能登へ会いに行った情報は、彼女から届いた暑中見舞いの葉書きを見ているお袋の、僕の帰りが夜半を過ぎた話と、ダックスのエンジンが不調だと文句を言う親父から察したに違いない。

 ちょっと過激な物言いの妹は、『彼女さんの、見極めをしちゃる!』と、彼女と同じ神奈川県相模原市の大学を受験すると宣言している。その宣言に志(こころざし)が感じられない。僕の彼女と、どう絡むのか分からないが、そんな事より、自分の為に大学へ進学して欲しいし、妹が望むなら修士課程や博士課程へ進むのを応援したい。

『マジで、おまえ、ブラコンとちゃうのぅ? 俺に恋してんのかぁ?』って真顔で見据えて訊いた。

『おっ、それを訊いて来るぅ? まあ、アニキは弓道の先輩で、憧れだし、嫌いじゃないよ。ティラミスよりサバランが好きって感じで、好きだけど、絶対に恋じゃないからね!』

『それに、彼氏候補の男友達なら、いるから心配しないで。七尾と羽咋と小松の弓道部の同じ歳の男子達。告白されんのよ。三人ともデートして、良い感じだと思ったわ。だけど、まだ誰にも返事してないの。うーん……、それでね。遠くに離れたままか、近くへ来て、四年後まで続いていたら、性格の相性と生活力が分かるでしょ。そん時に、恋に落ちてあげるって言ってるわ』と、不敵に言い返された。

 彼女とは、見た目も、性格も、全然違ってんのに、その偉そうな言葉にデジャビュなオーバーラップを意識してしまう。

(こいつも、大学で知り合った男子と、不意に恋に落ちて、あっさりと三人を無碍にするんだろうなぁ……)

 さて、彼女には姉がいるのを知っている。もしかして僕の勘違いで、その人は親戚で、年上の従兄弟かも知れないけれど、コモ湖で見ていた様子から、僕は母親と父親と姉の家族四人で来ていると思った。でも、兄弟姉妹が姉一人だけとは限らない。年長の姉か、兄もいて、たまたま冬のイタリアへ家族旅行に参加できなかっただけかもだ。

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 妹との遣り取りと一度だけ見た彼女の姉を思い出しながら、堤防際まで離れて待っていると、直ぐにブーツを履き替えた彼女が遣って来た。

「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」

(そうだな、僕も食べたいと思うよ。でも、今はダメなんだ! アイスはクーラーの方じゃなくて、フリーザーの方へ入れたから、直ぐには溶け出したりしない。だから、もっと美味しく食べれる場所まで待って下さいませ)

「ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」

 駐車場の堤防を越えて浜辺へ降りると、左側の砂浜を目的の場所へと歩き出す。其処は遠目に白い崖肌のように見え、柔らかい砂に足を縺(もつ)れさせながら近付いて行くと、粗(あら)い布地を被せたみたいな丸みを帯びた岩塊(がんかい)の襞(ひだ)が見分けられる。

 そして、間近で見上げる僅かにグリーンがかったベージュ色の岩塊は、奇妙(きみょう)な形の襞が横に連なっていて、まるで観光パンフの写真で見るトルコの景勝地(けいしょうち)で古代遺跡のカッパドキアのミニチュアをイメージさせた。

 小学四年生頃に親父に連れられて来た時は、凹凸(おうとつ)が無い丸みを帯びた岩肌に、小学生の小さな手で掴まる事が出来ず、転(ころ)げ落ちそうになりながらも斜面を這(は)い蹲(つくば)って登っていたが、上へ行くに連れて忍(しの)び返しのように斜面が反(そ)り返り、途中で僕は登るのを諦めていた。

 だけど、成人した体の今は、登り易すそうなルートを見付けて、彼女の手を引きながら頂上の松林まで登れている。彼女にブーツを履き替えて貰って正解だった。

「ここは初めて。広い砂浜がずっと続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生はハマナスでしょう。すごいねー、ずっと向こうまで群生(ぐんせい)してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀にこんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたよね」

 体を動かし続けていると火照って来て、疲労する肉体が酸素を求めて息が上がってしまう。そして、動きを停めて休ませた時に汗が噴き出して来る。だから今は、噴き出そうとしている汗を迎え撃つカウンター発汗のタイミングなのだ。

 火照って熱を帯びた体の汗ばみは、アイスの冷たさで冷却させよう。故(ゆえ)に『アイス イッツ ナウ』だと、アイスが入ったコンビニのレジ袋を彼女に渡(わた)す。

「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕もこの岩が不思議(ふしぎ)で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だよ」

 受け取ったレジ袋から緑色の地にオレンジ色の柄(がら)のパッケージのアイスを彼女は取り出して、僕の前に差し出した。

『ありがとう』、受け取ると直ぐに僕はパッケージを破って棒アイスを咥(くわ)え、身体の火照りを冷ます。

 アイスはパッケージカラーのイメージ通りの抹茶味(まっちゃあじ)。散りばめたミカンの粒(つぶ)っぽいのは、噛むとミカンじゃないオレンジの味が口いっぱいに広がった。抹茶味とオレンジ味のコラボネーションは美味しいけれど、ちょっと微妙(びみょう)。

 彼女のアイスは淡(あわ)いピンク色。香りからストベリー味だ。

(グリーンティにストロベリーか、ふぅ~ん)

 大きな岩塊の平らな天辺(てっぺん)に二人並んで座り、アイスを齧りながら懐かしい長者屋敷跡の風景を眺める。

 この亡霊(ぼうれい)が立つみたいに不定形に揺れているような白い岩肌を見ていると、宇宙が百三十七億光年の広がりが在るのに、地球の年齢が四十六億年よりも長いのじゃないかと思えて来る。現在よりも自転が速くて重力が小さかった数億年前まで、マントルは流動性が良くて対流も速く、何度も地球の表層の全てが潜り込んで浮き換わっていると思う。そして、その度に人類らしきのが現れて繁栄(はんえい)していたのかも知れない。

 こんな思い付きの夢想話を彼女としたいと思ったけれど、今は、時期早々で止める。

「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に金持ちの長者様が住んでたの?」

 岩塊を仰ぎ見ながら首を傾げる彼女が僕に訊く。

 僕も初めて其の名を聞いた時は、時代は平安末期から室町期を経て安土桃山期の何処かで、国内の水運と大陸との貿易で豪商になった商人が回廊を廻らせた寝殿造りの屋敷を構えて、朝、昼は商(あきな)いに専念して、毎夜、宴(うたげ)を催(もよお)していただろうと、そして、そんな豪壮な屋敷の朽(く)ち果てた残骸が化石のように残っていて、少しは規模と羽振(はぶ)りが想像できるだろうと、そう思った。

「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承じゃ、近くの大池に棲(す)んでいた大蛇みたいな龍が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮らしていたんだってさ。この岩も軽石(かるいし)疑灰岩(ぎょうかいがん)という、何億年も前に噴火した海底火山の火山灰の堆積層(たいせきそう)で、その成れの果てだって」

 火山灰でも、岩肌に多く含まれる軽石のような木片の化石から、火砕流(かさいりゅう)の灰の堆積だと思う。

 想像も出来ない大規模な火砕流が、何度も、何度も、噴火の度に渦巻いて、覆う灼熱の火山灰で凝灰岩の大地が形成されたのだ。

 弥生(やよい)土器らしきのが出土しているから、古くは神代(かみよ)の古墳期(こふんき)初期頃から人が住んでいたらしいが、長大な砂浜の海岸は舟や網(あみ)がないと漁(りょう)はできないし、古の剥き出しの凝灰岩と砂丘だけの海岸は乾燥して狩る獲物もいなかった。そして、砂丘の向こう側は山際まで得体の知れない危険な水棲(すいせい)爬虫類(はちゅうるい)が多く生息する大湿原で、とても集落が出来るのに適さない土地だっただろう。

「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっとみんなに慕(した)われていたんだよ。そう龍が娘なって寄り添うくらいにね」

 藩政期末に大湿原は幾つかの潟を残して乾燥し、大半が耕地になってからも海岸の砂丘地帯は明治期まで広大な砂漠状態だったそうだ。

 こんな不便な場に屋敷を構えるなんて、余程、豪儀(ごうぎ)な物好きで大金と人望が有った人物だと思う。

「かもね。この辺りは明治の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠みたいな砂丘だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」

 台風や真冬の波浪は岩塊の真際(まぎわ)まで打ち寄せて、その飛沫(しぶき)の塩の結晶と強風に飛ばされる砂粒は軟らかい凝灰岩を削り、長者屋敷跡は常に形状を変化させられている。

 牛首が屋敷を構えていた頃は、もっと渚に張り出して断崖のようになっていて、駐車場辺りの砂浜と岩塊際に作られた桟橋(さんばし)には多くの交易船が接岸し、現在の片野集落の地は貿易商人の湊町(みなとまち)として栄(さか)えていた事だろう。

「牛首長者が亡(な)くなってから、龍は大池に戻ったんだね。龍は大地の精を食べて水気を放つそうだから、今も水底深くに潜んでいるかも。で、その大池っていうのは、どこなの? 」

 日本史の始まりで一万年以上と曖昧(あいまい)に括られている縄文期は、酸素濃度が現在の大気の二十パーセントより少し高く、重力も僅かに弱くて、二、三度、繰り返した氷河期と温暖期に、凍り付く海は水位を下げて陸地を増大させ、融け切る氷河に上昇する海面は大海嘯(だいかいしょう)となって山峡(やまあい)の奥深い谷まで入り江や湾にしていた。

 そんな大海嘯の時期に沿岸まで獲物(えもの)を求めて棲み着いた、古代の巨大な水竜の末裔(まつえい)がいても可笑しくない。

「さっき通って来た片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬に熊手形(くまてがた)の網を投げて鴨を生け捕りにする猟(りょう)で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期の初め頃までは、もっと大きくて深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」

 牛首長者という伝承の人物は大和の民かも怪(あや)しく、たぶん、白色人種と黄色人種のハイブリッドだろうと僕は考えている。

 縦横無尽(じゅうおうむじん)に日本海を渡り、沿岸の主要な湊町や集落と交易する豪商であり、交易を拒む鎖国的な湊や商売敵(しょうばいがたき)の商船へは武力で略奪(りゃくだつ)して従わす海賊の頭領(とうりょう)でもあった。攻撃的な海賊行為は当然、商取引価値の有る物品以外にも、美女や可愛い子供も攫(さら)って来ていただろう。

「そうねぇ、きっと、娘になって龍が牛首長者の屋敷に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」

 片野の浜の北側の断崖(だんがい)が続く小高い岬には、高い櫓(やぐら)が組まれた砦を設営して外敵の襲来を警戒しつつも、桟橋から至る集落は生活する配下の輩達(やからたち)と家族や交易に訪れた商船の連中で賑(にぎ)わっていただろう。

 そして、鴨池の畔(ほとり)には攫って来た女子供達を囲(かこ)いながら養(やしな)って、部下への褒美(ほうび)にしたり、商いで売り捌(さば)いた。

 女子供を囲う其の場所は長者屋敷と人知れずに行き来できるように回廊で結ばれて、外来人が近寄らない為に『大池には恐ろしい水龍が棲まう』と、噂を流していたのかも知れない。

「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼らなくても迷わずに来れたしね」

 あの大桟橋へ向かっていた時、潮(しお)の香りが濃くなる方へと僕はV-MAXを走らせていた。タンデムする彼女から肩越しに『犬みたいね』って言われた事が嬉しく感じていたけれど、サイドミラーに映る君は眉間(みけん)に縦皺(たてじわ)を立てていて明(あき)らかに機嫌を損(そこ)ねていた。

(それ、褒(ほ)め言葉じゃないよね! 皮肉だよね! その時の君は、イライラしててさ、語気も投げ遣りだったしね!)

「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」

 そういえば、見た郷土資料の中に彼女の家が在る金沢市の町は、旧名が牛首だった。確か、藩政期に造られた辰巳(たつみ)用水の管理に集められた者達が住んでいた集落から、浅野川縁の耕作地へ下りる坂は今も牛首坂と呼ばれていたはずだ。

 牛首長者の屋敷跡らしき場所で、錦町(にしきまち)の旧集落名や牛首坂の名を思い出すなんてと思うけれど、因果や縁は全く無いだろう。

「今も一緒に仕事をして稼(かせ)げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」

 何だか親子で評価されるのは恥ずかしい。頷いた顔を横に傾げて少し上目遣いで僕は彼女を見る。

(親父ぃ、良かったじゃん、話が合いそうだぞ。親父と親しくなれるのなら、親父を手懐(てなず)けたお袋と気が合うかもだな)

「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」

(うっ! なにこの意味深なっていうより、ストレートな意味で僕の親に御挨拶したいわけ?)

 軽く『今のは嘘、冗談よ』って、ぞんなジョークを言うはずのない彼女の言葉に、僕は真意を探ってみる。

「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹もいっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」

 今度は、彼女が目を見開いて戸惑った。

(自分が言った意味に気付いていないのか、面白くて可愛い)

「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」

(あはっ! 慌ててるぅ)

 『はっ』と気付いた彼女の顔は、『しまったぁ!』じゃなくて、『そっかぁ、そうよねぇー』って感じで、その動揺から覚悟を決めた変化する表情が可愛い。

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 晩春の斜陽に大気が徐々につやを失い、青い海原と青空に白い雲と砂浜、そして、それらを背景した彼女の横顔が、まるで美しい日本画のように見せてくれる。その構成と色彩の緻密さに見惚れて掛ける言葉を失くし、筆遣いと色使いを見極めるように見詰め続ける僕へ彼女の瞳が動いた。

「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと答えてくれる?」

 唐突に彼女が僕を見て、『質問するから、しっかり答えろ』って言って来た。

「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから言ってみて」

 何を訊いて来るのか、全く予想ができないけれど、彼女が思う『変』に興味が湧いた。

「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」

 何か、嫌な感じの仮死状態を彼女は解説する。

(……確かに『変な事』だ)

 自分の身に起きたら悲観の極(きわ)みだろうけれど、とても生きていて欲しい人だったら、そうしても皆無に近い奇蹟を信じたいと僕は思う。

「外見には全く動かないの。たとえ、もし意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻も。耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。でも、検査や装置のデータでは脳死なの」

 どうも、彼女の言う仮死状態は、意識が残っていても、それを外見や検査結果では分らずに死亡していると判断されるって事らしい。

「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に死亡の認識じゃなかったっけ?」

(それなのに、生き続けているのは何故? 身体の全ての運動を司(つかさど)る脳は死んでも、心が仮死状態にしているのか?)

「ううん、ほぼ脳死状態。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が永久停止して腐り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」

(身体活動の波形モニターは一本の横筋のみ、どの数値もゼロばかり、脳の検査結果は停止の死亡判断。なのに、ほぼ脳死状態? 完全に死んでいない? 何それ?)

「それは、コーマっていう昏睡状態の事?」

 コーマと眠り続ける病気のナルコレプシーは違うのだろうか?

「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと半年以上も反応のない永続的な植物状態」

 五体と五臓六腑(ごぞうろっぷ)の肉体は弛緩(しかん)して様々な刺激に無反応、でも腐敗は始まらない。脳は機能停止直前の殆ど脳死状態の昏睡が続いている。

 確かに脳死状態と睡眠状態は違う。

 もし、そんな植物状態になっても五感が働いているとすれば、もはや精神の発狂を通り越して悟りに至るしか無いと思った。

(動けず意志を現せない身体では仕様が無い。……諦めの心頭滅却すれば、火葬の炙(あぶ)り焼きの熱も、土葬の窒息(ちっそく)の苦しさも、一瞬で、直ぐに暗闇になる……)

「自分が、そうなったとしたら……、あなたはどうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して期待し続けて貰いたい?」

 死の概念というか、死後の観念は、西洋と東洋とでは全然違っている。

 神託以前のユダヤ教から始まる西洋宗教の生と死は、唯一の神が生を生み出し、その生まれ出る生の数は無限だ。死後は天国と地獄に分けられ、天国も、地獄も、死後が無限に溜まって行く。

 僕は思う。天国と地獄は死後よりも、死に至る直前に在るのではないかと。

 気付きもしない瞬間の穏やかな死、苦しみの無い眠る様な死、などは天国で、痛みに苦しみながらの死、迫る恐怖に怯えながらの死、悲観に暮れながらの死、などは死ぬまでが地獄だろう。

 神の審判が有るとすれば死の直前に裁(さば)かれて、迎える死によって浄化されるのではないだろうか。

「その状態は、例えるなら棺桶くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」

 例えが良くなかった。閉塞恐怖症と思われそうだ。

「真っ暗で何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも意識が有るかも知れないんだ……」

 五感は死滅寸前かも知れないけれど、夢を見続けているみたいな。

「現在の医療機器では検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」

 もし、夢を見ているのなら、自我と意識は失われていないのだろう。

「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど本人は覚えていないでしょう」

(まだ、医学的に証明されていない脳の未知の夢を見せる新たな領域。いったい、どれだけリアルな夢の世界を見れるのだろう? ……実際と全く変わらないリアルな夢の中で死ぬと、現実のベットに横たわる肉体も完全に死ねるのだろうか?)

「検診で瞼を開いても瞳孔(どうこう)反射の虹彩(こうさい)収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても明暗がわかるくらいが精々。……固定焦点になっているかも? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも痛いのも感じていて、精神だけは生きて思考しているとしたら……」

 検査機器で検知できない脳の未知の領域での覚醒をしてる。それまでの人生で得た経験と知識での思考をして、脳が疲れて眠ると未知の領域がリアルな夢を見せる。誰にも気付かれない『生きている』を、アポトーシスで生命が活動を止めるまで、それを繰り返し続ける……。

(ううっ、きっついなあ! そっ、それは身体と精神が、すっげー苦しい拷問(ごうもん)だぁ!)

「たとえ、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて匂いも分っていても、僕はそれを君に伝えられない。瞼を開けられて愛しい君の顔や姿が見えても、それを君へ知らせる事はできない、……のだろうなあ……」

 君を認識する僕の五感に、自分の状態を自覚する僕の脳は思考をフル回転して、君とのコミュニケーションを模索するだろう。でも、どんなに足掻いても、僕は僕の内面から僕の状態を変化させれずに、一方的に君を観察するだけになる……。

「そんな状態で僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、そうなったら、やっぱり今でも、百歳になっても、そんな僕は死んでいるのと同じだ」

 そんな植物人間みたくなった僕を今日の彼女なら、きっと、献身(けんしん)的に介護してくれるだろう。でも、回復の見込みが無い不治な状態の僕を延命させてまで、彼女を煩(わずら)わせて縛(しば)ってはいけない。

「あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界のそこにあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」

 近未来、急速に進歩した医学と科学の技術が、破壊された脳でも完全脳死前なら自我と記憶を移転できるようにするかも知れない。それは、自我の発生の構造と記憶の保存の仕組みが解明されて、量子デジタル化された自我と記憶は遺伝子操作で健康体にしたクローン身体へ移せるようになる。

(SF的に電脳化っていうのだろうなぁ。安全・安価に確立されたら、お手軽に不治の病や異形が克服できて、メモリー崩壊(ほうかい)する精神の劣化まで寿命が延びてしまうかも。魂も、魄も、無いな……)

 だが、再生・復活には問題が有ると考えた。

 自我と記憶を量子デジタル化さると、オリジナル以外にコピーも作れるという事だ。当然、コピーも自律しているから自分だと主張するだろう。自分だと言い張る自分が複数いて全員が非協力的な関係になったら事態は深刻だ!

 それに、オリジナルを媒体のチップしてしまえば、人間以外の肉体や機械の身体へも宿れるだろうし、信号で転送も可能だろう。無限的な人類補完計画によって人類は、あっさりと精神共存世界のマナやイデのような高次元存在になって、君とか、僕とかの隔(へだ)たりも無くなるんだ。

 だけど、そんな未来ではない現在は、自分の身に起きた悲劇を受け止めるしかない。

「だけど、そんな状態の身体になっても、あなたは生きていたい? あなたはそれすら分らないでしょうけれど、私に奇蹟を求めて待ち続けていて欲しい?」

(君が僕を見舞う度に、僕の閉じている瞼を開けて、光の中の固定焦点に君を映してくれるなら、待ち続けて欲しいかも……)

 きっと僕は死体のように動かない身体の中で、奇蹟を起こす努力を懸命にしていると思う。

「延命処置を、続けて行くと?」

 考えたくないけれど、僕は君への延命処置は可能な限り、行ないたいと思う。

「生命力が有る限り元気で眠り続けるわ。でも延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いすれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)になって目覚めが無いまま、寿命が尽きてしまう……」

 延命には限界が有る。細胞の分裂再生の終焉(しゅうえん)、末期分裂した細胞の癌化(がんか)、投入されるエネルギーや新陳代謝(しんちんたいしゃ)の糧(かて)を取り込めなくなった臓器の不全と機能停止、そのどれもが死の闇へ僕をあっさりと送り込んでくれるだろう。

 また、本来の寿命以上に生き永(なが)らえさせると思う、低体温、極少呼吸、低血圧の冬眠的延命処置は断固拒否する。そんな冷凍保存みたいのは、蘇生(そせい)時も魄(ぱく)は宿り続けていると思うけれど、魂(こん)は戻って来るか分からない。

「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」

 道端(みちばた)や生垣(いけがき)の陰で人知れず腐って行く動物の屍(しかばね)から漂って来る、独特な甘ったるい香りの腐敗臭(ふはいしゅう)。ムッとする食えそうにない肉のような死臭とは違う、内蔵や筋肉や血管が熟(じゅく)して発酵(はっこう)する臭い。生きたままで発酵なんて有り得ないから、『既に、お亡くなりになってるのだろうな』と適当に想像する。

 そして、臭っていると思う僕の身体……、体臭を、『彼女は、どう感じているのだろう?』と考えてしまう。

「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」

 カビ臭いとか、排水口の臭いとか、そんな鼻が曲がりそうな臭いを想像してしまう。でも、そこそこの高齢な親父の両親やお袋の両親は、直ぐ傍に近付いていても、触れていても厭な臭いだと感じた事はなかった。

 どちらも夫婦二人だけで御郷の家に住んでいる。そして、どの部屋も芳香剤や消臭剤が置かれていないのに、少しも厭な臭いはしていなかぅた。強めの香水を付けていない彼らといっしょの食事や並んでの買い物も嫌だと思った事はない。

「そのブレンドは、ちょっと嗅ぎたくないな」

 祖父母達は、水分を多く摂って、よくトイレに行く。だから体内に汚れモノや腐りモノが溜まらなくて、嫌な腐敗臭が滲み出たり、沁み込んだりせず、臭わないのだと思う。

 他にも、御風呂は毎日だけど、気分で朝晩入る時が多いそうだ。それもシャワーじゃなくて湯船にどっぷりと浸(つ)かるだと言っていた。それに温泉へ行くのも大好きで、遊びに行く度に、みんなで秘境の露天風呂巡りをしてる。

 きっと、水分補給や排泄(はいせつ)・排尿、御風呂での皮膚や頭髪の洗浄、これらが不足したり、我慢(がまん)が長く続いたりすると、体臭が気持ちの悪い臭いになる。新陳代謝って新しい細胞に置き換わるのだけど、除かれる古い細胞は腐って行くって事だ。

「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」

 体や部屋の臭いといえば、『洗濯物の臭いに気を付けなさい』と、お袋と妹、それに一人の女性から注意と指導を受けていた。

 洗濯する衣服は、脱いだ日に必ず洗濯して溜めない事、洗濯が済んでも放置せずに直ぐに干す事、乾いたら直ぐに畳(たた)んでタンスやファンシーケースに仕舞う事と、重々(じゅうじゅう)言われていた。そうしないと服も、体も、部屋も、家も臭くなると、静岡市で一人暮らしを始めた時に実感した。よって、家の洗濯機はドラムタイプの洗濯乾燥機だ。

 臭いへの思い入れと、彼女が僕の臭いを嫌がっていないかとの拘りが、解り切った結末の質問をさせた。

「接続しているシステムをダウンすると、まず壁のパネルの表示光とベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示してアラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。そこで患者を監視しているからね」

(今、彼女が話している事は、実際に行なわれている、家族との同意処置なのだろうか? 装置のメカニズムからのマニュアル的、或(ある)いは参考事例の死に至る話なのだろうか?)

「機械の作動は直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで暫(しばら)く動いているんだ。患者さんは自律(じりつ)で呼吸していないから……」

 死は暗闇で、光は一切(いっさい)無し。人間の持つ三十三の感覚の全てが失われ、魄から離れた魂は無に由って開放される。そして、転生だ!

 東洋的宗教の死後概念は、具現化した魄の肉体が朽ち果てて塵と成り、魂は輪廻転生(りんねてんせい)で使い回しの再生をさせられる。

 空間、時間、物質、それらは無限という有限で、故に使い回される魂は有限だ。無限空間、無限時間、その現在過去未来の何処かに産まれる生物へ魂は転生し、地球上とは限らない。

 転生で宿る先は生物だが、人間とは限らない。人ではない何か、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も有りで、滅多(めった)に死なない神格も含まれる。

 あらゆる空間と時間に超常的に存在する魂は、全ての生物の生と死を司る。

(その意味は、僕と君の魂が同じだという事なんだ。親兄弟に友人知人、他の人達や草木や海と陸の全世界に存在する生物達と、同じ一つの魂なんだよ。たった一つの魂が、無限に使い回されているって真理なのだろうなぁ)

 現在が無限に広がり、その広がりが過去へも、未来へも、果てし無く連なっている。いや、現在、過去、未来などという時空的な観念は無く、ただ、ただ無限が広がっている。その無限の果てへ、果てへと広がる感覚は、イメージとして僕は理解出来ないし、彼女にも無理だと思う。

「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応はそれだけ。そして酸欠(さんけつ)で死ぬの」

 まだ延命中で生きているのに、途中で人為(じんい)的処理によって死なすのは、殺人だ。

「そうか…。やっぱり死んじゃうしかないのか……」

 僕は『殺す』を『死んじゃう』にして言葉を選ぶ。

 僕は思う。彼女に僕を殺す選択や決断をさせてはいけない。

「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」

(これは、もう遺言(ゆいごん)だ!)

 彼女の質問の前提は、僕が彼女よりも先に逝くって事だ。僕の最期を彼女が看取(みと)ってくれるのなら、それは怖くも、悲しくも、寂しくもない最高に幸せな事だと思う。ただ、僕の死で二人が別たれるのは残念だ……。

 もし、どうしても、君は僕の延命をしたいのならば、いつか君に死の暗闇が訪れる時、同時に僕の延命も止めて貰いたい。

(君がいなくなった世界で、延命され続けるのは、絶対に耐えられない!)

「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私もそんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」

(こっ、殺すってどうよ? 聞こえ悪過ぎじゃんか)

「そ、そうだったんだ……?」

 言いたくなかった『殺す』というフレーズに、僕は反応する。

 今は愛に満ちていて、お互いを疑りもしないけれど、いつか、もし僕が君を裏切って君の愛を踏み躙った時、僕は愛を無碍にされた君に殺されるだろうか?

 生きて行く限り、僕達は常に変化し続ける。

 何時しか、マンネリ化した日々で愛が薄れてしまうかも知れないし、移り気や誘いから第三者との関係が発生するかも知れない。そんな歪な行動や生活の清算や代償が『愛のコリーダ』に至ってしまわないように、僕は君の、君は僕の、変わる処と新たに見付けた部分も好きになる努力をすれば良い。

「君がそうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいとおもうよ。でもね、僕は君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて君に語り掛けるんだ」

 最初に語るのは君への告解(こっかい)だ。君を欺(あざむ)いた全ての事柄を話して、その時の僕の気持ちを打ち明け、懺悔(ざんげ)するんだ。それから、君と出会う前の僕と、出会ってからの言葉にしていなかった僕の君への想いを伝えよう。

「私が皺皺になって、萎びても?」

 此処まで話していて、僕は改めて知った。

(彼女は、真剣だ……)

「ああ、皺皺になって凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」

 恋愛感情なんて不確実な気持ちだと、僕は経験から分かっている。

 どんなに強い想いでいても、愛する想いが強くなれば、なるほど、相手の全てを独占したくなる。それは相手の負担とプレッシャーになり、微妙な避けと僅かなあしらいを受けてしまう。そして、ほんの些細な事に疑いを持ち、その疑りを口にすれば、途端に売り言葉に買い言葉に発展する。

 一旦は気持ちを戻せたとしても、相手への再三の疑りで修復は益々困難になってしまい、更に自分への疑りで、決裂破局は決定的になるのだ。

 愛が濃過ぎても、薄くても、結局は破綻(はたん)に至ってしまう。

(なら、駆け引き無く、互いに負担にならず、信用と信頼を失わない自然な恋愛を維持するには、どうすれば良いのだろう)

「それって、なんか、……微妙に、いいかな」

 ちょっとした疑りが罵り合いとなり、直ぐに、互いが暴力を振るってしまう。

 どちらかが折れて謝れば、気持ちが優しく慣れるかもしれない。だけど、心の何処かで負の感情が燻(くすぶ)り続ければ、悲惨な別れになる。

 僕は、生涯を連れ添う愛すべき相手、守るべき相手、尽くすべき相手、全てを受け入れる相手、それは一人だけにすべき相手だと、今は思う。

(でも、今の僕が、そうで、そう考えているからといって、この先も、そうだと限らない……。必ずとか、絶対とか、全く今と変わらず、互いを想い続けて命の潰(つい)える瞬間まで、愛憎(あいぞう)溢れる言葉と態度を交わせるのか、変わらないと保障できるのか、分からない……)

 僕達の将来に、互いを愛する想いを揺らぎさせる出来事や有ったり、出逢いが現れたりするのか、未来のifという不確定ファクターは、今この場で微塵にも、僕の言葉の端にも、態度の揺らぎにも、現すわけにはいかない。

「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」

 僕は彼女と幸せな終焉を語らいながらも、真逆の惨めで悲しい最悪の死のストーリーを想作してしまう。

 『もう、何ヶ月も彼女と口を利いていない。食事の仕度(したく)はされているが、いっしょに食べる事は無く、ダイニングやリビングにいても、顔を合わさず、口も利かず、互いに無視している。風呂の御湯も使い回す事は無く、入った後は流されたり、流したりしている。以前のような愛を感じる事は全く無くて、憎(にく)しみだけが募ってしまう』

 『寝室は別々。毎日の身支度(みじたく)は自分でしている。全額が会社から自動で銀行口座へ振り込まれている給料は勝手に使われていて残額も無く、何に使われているのか知らされなくなって久しい。既に互いの気持ちは完全に離れた家庭内別居の状態で、もう戻る事はないだろう』

 『今となっては、何が原因だったのか憶えていないが、互いが相手に問題が有ると考えている。もう、相手の存在自体が重荷で、枷(かせ)で、邪魔にしか思えなくて、この世からいなくなって欲しい』

 『……深夜、ベッドに寝ていると、部屋のドアが開く気配に目が開いた。ゆっくりと静かにドアが開いて、レースのカーテン越しに入る月明かりに女性のシルエットが見えた。こんな深夜に黙って部屋に入って来る女性は妻以外に考えられない』

 『妻だと思われる女性はベッドの真横に立ち、僕を見下ろしている。彼女が何かを呟きながら両手を頭上高くに振りかぶった。途切れ勝ちに聞こえた呟きは聞き取れなかったけれど、振り被った両手に握られた物は月明(つきあ)かりに反射して良く見えた』

 『全体が鈍く光り、真っ白に見える出刃包丁を逆刃して、彼女は両手で握り締めていた』

 『僕は解ってしまう。これが逃れる術の無い最悪のバッドエンドだと悟ってしまった。出刃包丁が振り下ろされる前に、瞬発的に身を躱(かわ)せば致命傷を負う事もなく逃れ得るだろうと思うけれど、全身が金縛りになったみたいに動かせない』

 『さっと振り被る両手が躊躇いもなく下ろされて、そのまま妻の身体が被さって来た。胃(い)の辺りが、カァーと凄く熱くなって両足がジンジンと痺(しび)れた。熱くなったのは出刃包丁が刺さったからで、足の痺れは妻が体重を掛けて押し込んだ刃が脊髄(せきずい)を損傷させた所為の最後の感覚だと思う』

 『被さる妻の頭が動いて僕に向けたけれど、月明かりの影で表情が見えず、黙ったままの彼女からは達成感と開放感が漂い、微塵にも後悔は感じられなくて、妻は笑っているのかも知れない』

 『もの凄く腹が熱い! 声が出せなくて耳も聞こえない! 出血が激しいのか、熱い腹以外の全身が冷たく感じて、手も、足も、首も動かせない! 次々と上がって来る吐瀉物(としゃぶつ)と血液が口と鼻から溢れて、喘ぐ息が絶え絶えになって行く! 見たいと願う妻の笑顔が黒いシルエットのままに、熱い涙が零れているのを感じる瞳の視界は周囲から暗くなって来た』

 『僕は、もう直ぐ、死ぬ!』

 『視界は真っ暗になって、直ぐに死へ至る薄れ行く意識の中で、僕は僕を殺す妻を許してしまう。それを妻へ伝えられないのが、現世への未練になってしまいそうだ』

(なあんてね。バッドエンドの中にも、魂の救いを求めちゃったよ。まあいいか、とか、しょうがない、とか諦めてね、僕を殺すまで追い詰めた妻へ謝るんだ。ごめんてさ。僕を殺すのを認めて許すのは、僕も許されたいからなんだよ)

 僕は彼女の見ながら、白昼夢(はくちゅうむ)のように思い描いた最悪のバッドエンドにならないように願った。

(そう言えば、相模原は出刃包丁で有名だとか、言っていたような……? やはり、彼女の武器は出刃包丁で決定だな。恐ろしや、恐ろしや)

「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」

 そんなに外見が変わるのを気にしているのか、念を押すかのように問いを繰り返す。

「何度でも言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに歳を取っても、見て呉れが変わっても、君は君だ!」

 僕は慎重に言葉を選び、どれほど齢を重ねようとも死が二人を別つまで、いや、別つても彼女を愛すると誓う。

「それは、……凄く嬉しいかな」

 想像したくなかった……。白いシーツの白いベットにマスクや管を付けて横たわる君。来る日も来る日もピクリとも動かない君の傍らで長い時間、、僕は君の思い出を物語のように優しく話す。再び君が僕を呼ぶ、その喜びの為に。……有り得ない、有って欲しくない未来だ!

「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は二度と御免だ。だから、必ず僕よりも長生きしてくれ!」

 世界中の何処へ行っても、もう君は何処にもいない。どれだけ長生きしても、もう君に会えない。それは、哀しくて、寂しくて、僕は耐え切れない。

「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと願っているの」

(いやいや、逆だ)

 僕は、君より先に逝かせて欲しいと思っている。

「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送ってもらう」

(ごめんね。はっきり言って、一人残されるのが怖いんだ)

 人生の終焉に君が傍に居てくれないのは、凄く怖いと思う。だから、君には元気でいて、僕よりも長生きして欲しい。

「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶えましょう」

(うん、是非とも、元気でいて下さい)

「だって、君がいないと寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」

 いつも君が幸せで笑っていて欲しい。僕のこれからの人生はその為に有るんだ。

「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」

(考えない。それは『もしも』で、考えたくない! 君は、僕がいない残された人生を、子供達と孫達に囲まれて、明るい穏やかな日々を過ごすんだ)

 君が産んで、僕達が育てる子供達なら、必ず、そうしてくれると思う。

「分かってる……。分かってるさ……」

 まだ、ちゃんと愛の告白をしていないのに、僕は君と添い遂げて家庭と家族を持ち、僕の望み通りに君よりも先に逝ってしまった後も、残された君が幸せでいて欲しいと願っている。

「あはっ、真剣(しんけん)に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃったけれど、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、迷っているんだ」

 『迷う……』、これまで既に決めた事しか話していない彼女が、まだ未確定な迷い事を僕に相談しようとしている。

 何事に彼女が悩んでいるのか分からないけれど、僕に出来る助言や行為が有れば、いや、無くても、模索して彼女の悩みを小さく、もしくは無くしてあげたい。

「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」

 僕は彼女に顔を向ける。

(そうだ。君は臨床(りんしょう)工学技師になりたいと、僕に言っていた)

 そして、その資格を得る為に相模原市の大学で学んでいる。

「ああ、憶えているよ」

 僕は彼女の眼を見て話す。時折(ときおり)、逸らしそうに揺れ動く彼女の瞳は、その都度(つど)、直ぐに強い光を宿して僕を見詰め返して来る。

「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。その実習の中に延命装置の取り扱いもあってね。それで、その機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況を見て来るの」

 彼女の話す内容から、学んでいる事が工業系のメカニックに似ていると思った。

(医療機器は機械メーカーが製作してるし、最先端の微細工作マシンと、高度医療機器の基本工学の技術は、殆ど共通で相互補完できるんだろうなあ)

「その病棟は深昏睡の患者さんばかりで、病室のみんなが酸素マスクと点滴(てんてき)の管(くだ)とせンサーのコードを付けて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取(せっしゅ)するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便(はいべん)、排尿(はいにょう)の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」

 SF映画はシンプルで多機能な医療機器と、殺風景なくらいのクリーンな病室のデザインで未来をイメージさせるけれど、ホラー映画は霊安室か、遺体保管室か、地下室のホルマリンのプールばかりだから、彼女の観たホラー映画のタイトルを知りたい。

 病棟シーンが多いホラーゲームだとしても、僕の知る限り、ナース達は異形(いぎょう)だし、病院全体がフルウェザリングの汚れ朽ち果て放題の状態で、何かが潜(ひそ)み棲む様子だから例(たと)えのサンプルには適さない。きっと彼女の勘違いだろう。

「透明なスクリーンに仕切られた真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾(そうしょく)も無い白色の病室で、明かりは天井と床の四周の隅からの間接照明。空調は天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄(しょうじょう)な空気が静かに吹き出して、床の四周に有る排気溝へ吸い込まれていくの」

(まるで、クリーンルームみたいだな)

 僕が働く自営の小さな工場も、親父は拘って耐塵、耐震のクリーンルームにしている。

 集中コントロールを行なう事務所件オフィスは、通常の天井埋め込みのエアコンディションと換気扇で吸排気しているが、エアシャワーの通路を通って入る加工現場は、高い天井全体から集塵フィルターを通した清浄な空気が噴(ふ)き下ろして床の網目模様から排気されていて、レベルは十分の一ミクロンの塵が一立方メートル内に千個以内でISO3のクラスだ。

 エリアや機台別に、煙探知機、熱探知機、スプリンクラー、自動泡沫(ほうまつ)消火(しょうか)装置が設置されて、異常発生の状況と状態映像は携帯電話へ送られて来る。

 ルーム内の明かり取りで高い位置に有る窓と、壁の上隅と下隅に設置されている換気扇は、遠隔操作で開閉と吸気排気の切り替えが可能だが、非常用で普段使いはしていない。工作機械などの搬入(はんにゅう)はガレージみたいなエアシャワールームで綺麗に掃除されてから入れている。

 クリーンルーム内の手作業は、クリーンベンチや定盤の上で行なう。工場内へはロッカールームで私服を静電気防止の作業フェアに着替えてから入り、オフィスと現場は作業フェアのまま行き来している。

 照明はLED灯でルーム全体が眩しいくらいになるけれど、通常は消されていて加工機のシグナル灯のみが光る真っ暗状態だ。もう少しすれば、この中に多腕(たわん)ロボットや人型ロボットが動き回る事になるだろう。

「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は、集約されてナースステーションで集中管理しているんだ。何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が実際に在るって思ってなかったから、ちょっと信じられなかったわ……」

 小規模ながらに徹底(てってい)したクリーンルーム化を自慢(じまん)する親父の説明を聞いてから、病院へ行く度に診察室の吸排気は徹底されているのか? とか、窓が開けられて外気が入って埃っぽくないか? とか、病棟は何故、手術室、集中治療室、滅菌室、以外を、せめて院内感染を防ぐレベルにクリーンルーム化を施(ほどこ)せないのか、と思っていた。

「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人個人に合わせた調整をして維持(いじ)させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子(ようす)を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態維持で、患者さんの反応が全く無いんだから」

(それって、終末(しゅうまつ)医療なんだろうなあ)

 積極的安楽死や消極的安楽死の処方(しょほう)を行なわずに、肉体の限界まで昏睡状態で生かし続けるなんて、本当の天寿(てんじゅ)を迎えさせているのかも知れない。

 それは延命治療をしない尊厳死(そんげんし)とは全く違う、終末期鎮静(ちんせい)の平穏死(へいおんし)の一つの方向なのだと考えた。

「もっとも、ほんの僅かでも覚醒(かくせい)の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」

 静岡市の会社に勤めていた時、後輩が交通事故で大怪我を負ったと知らされて救急車で運ばれた病院へ同僚達と行ったが、危篤状態の彼が集中治療室で辛うじて生かされている様子に、見舞いどころではなかった事を僕は思い出した。

「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もうトラウマになりそう」

 手の施しようが無かった状態の後輩は翌日未明(みめい)に亡くなってしまい、僕は御通夜(おつや)と葬儀(そうぎ)に参列した。

 潰された彼の体は死に装束(しょうぞく)と掛けられた布団(ふとん)で見えなくされていたが、抉(えぐ)られた側を下にして傷の少ない側を見えるようにした顔は化粧で、まるで生きて眠っているかのように見えた。

 僕が見た遺体は、今のところ、彼だけだった。

「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体の成長過程で命と魂が宿るのか、なあんてね」

 体験した所為なのか、小難(こむずか)しい事を考えているのは、拘りが多い彼女らしい。

 生物は魂と魄で生きていると僕は信じている。魄は肉体で、成長する器(うつわ)だ。寿命が有って、酷い損傷を受けたりしても、朽ち果ててしまう。魂は意識や記憶で、性格などの人格を形成して宿命(しゅくめい)の業(ごう)も支配する。魂が宿らないと魄の肉体は生きて行けない。

「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」

 僕よりも死が身近に有る環境で学ぶ彼女は、ほんの些細な拘りや疑いから鬱(うつ)に陥りそうだ。こうして僕に悩みを相談する事事態、その兆候(ちょうこう)かも知れない。

「あはははは。うん。その方向には行かないから大丈夫。安心していいよ」

 今の彼女は将来の光がか細く薄れ、アイデンティティーを見失いつつある。

 光り溢れる出口を見付けられない焦りから、不安障害や急性ストレス障害を患(わずら)ってしまい、カウンセラーも煩わしくなる重症になれば、容易(たやす)く楽になると誤解している間違った自由へ飛ぶかもだ!

 間違った自由へ行くのは簡単だが、決して安らかに行けはしない。ほんの数分間だが、それまでの人生で経験した事の無い、本当の苦しみを味わう。苦しさに耐えられなくて止めたいと思っても、既に手遅れだ。

 目張(めば)りした部屋で睡眠薬(すいみんやく)を飲んで練炭(れんたん)を燃(も)やす、激しい頭痛を伴(ともな)う一酸化中毒。

 洗剤を混合させて発生させる流化水素ガスは、鼻腔内と気管支(きかんし)と肺臓(はいぞう)を爛(ただ)れさせて、酷く咳(せ)き込みながらの苦痛の果てに呼吸を止める。

 夾竹桃(きょうちくとう)の枝を折って樹皮を剥(は)ぎ、青臭(あおくさ)い樹液をしっかり飲めば、心臓が鷲掴(わしづか)みにされて握り潰されるような痛みの心筋(しんきん)梗塞(こうそく)による血流停止。

 などなど、サドンデスではなく、自らが命を断つのは、どれも絶命(ぜつめい)するまで未知の苦しみと恐怖に耐え続けた挙句、楽に成れたと感じる事も無く、二度と光を見る事の無い暗黒(あんこく)へ連れ込まれて、戻っては来れない。

「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘(かんゆう)には絶対に係(かか)わらないように。信じて頼れる存在は此処にいるから。其処の処よろしく」

 間違った自由へ飛ぶような、あっけなく虚(むな)しい人生の末路(まつろ)へ向かわせない為にも、僕は真摯に彼女の言葉に聞き入る。

(君の言葉の影に潜む不安を、僕は銀河(ぎんが)の果てまで散らせて遣るんだ!)

「他にも、魂とは脳の思考(しこう)の根底なのとか、肉体の全機能停止の死が命と魂を無に帰さすとか、それは同時に帰すのでなくて別々でも無に帰れないのと、然(しか)も魂の抜(ぬ)け殻(がら)になった、まるで無機質な空(から)の入れ物を整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」

 キリスト教の戒(いまし)めに、口寄(くちよ)せや神降(かみお)ろしや死者語(ししゃかた)りをする魔女を摘発して拷問(ごうもん)の自白強要での処刑殺戮が有る。魔女を否定して絶滅(ぜつめつ)するのを神が授けた戒めとされるのなら、死の境界線の向こう側に彼岸の世界が在るのだろう。

 この悩みと苦しみに満ちた世界から人間が、さっさと逃げ出して彼岸へ飛ばさないようにする為に、輪廻(りんね)の世界を知られないようにする為に、強引な戒めを多く授けたのかも知れない。

(それとも……、その真逆かも……)

「その病棟を見てからは、それまでは大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと今年と来年の授業を受け続けるべきか迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ卒業できるんだけどね……」

 僕は彼女を癒(いや)すだけしかできない不確実な道標(みちしるべ)に過ぎないのか?

(ああっ! ……ならば、僕が信じる九萬坊(くまんぼう)黒壁山(くろかべやま)の怪異(かいい)よ。彼女の守護神であると思うトヤン高原の物(もの)の怪(け)よ。どうか、彼女が間違った自由へ飛ばないように導(みちび)いてくれー!)

「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」

(小学六年生の時から、僕は、強い意思を持ち、自由な思考をする君に憧れて、君に認めて貰える男になる努力をしていたんだ)

「けっこう、真剣に悩んでいるんだ。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に私の遣りたい事なのかも、分からなくなってきてるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも相談していないし……」

(君は僕が想っていたような、君じゃなかったのか?)

 最初に悩みを打ち明けてくれたのが僕で非常に嬉しいけれど、絶対に僕以上に君を心配している両親や姉さんにも相談して欲しい。

(君が許すなら、僕もいっしょに飛ぶから。決して一人で行方(ゆくえ)を晦(くら)ましたり、しないでくれ!)

「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」

 まだ一度だけなのに、こんなに悩んで引き摺っている延命病棟の実習か、見学か、どちらでもいいけれど、もう彼女に参加して欲しくない。

「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が最初で最後よ」

 もう無いと聞いて、少しだけ安心した。でもやはり、彼女は生理的というか、精神的に医療系の仕事には従事できないみたいだ。

「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は考え方の問題だけだ」

 僕にできるなら、彼女の今できる選択肢(せんたくし)を増やしてあげたいと思う。

「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」

(そんなに嫌なのか……)

 僕は覗き込むように彼女の顔を見てしまう。

 彼女の瞳は、ずっと僕を見詰め続けている。

「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない病院や医療機関に就職すればいいじゃん」

 僕は理解していた。

 彼女は就職の選択肢から医療系を外したいと望んでいる。

「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」

 彼女の気持ちが固まっているのを察しているのに、僕は敢えて彼女を追い詰めて行く。

「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングでプロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安はみんな同じで、いろいろ悩むさ。実社会へ出てからも、様々(さまざま)な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い早い、深い浅いの程度の差があるけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴(ともな)うプロ意識を持って、仕事に従事しているんだ」

 悩む思いは僕も同じだから、彼女に言う言葉は僕自身への言葉でもあった。

「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないから分からないけれけど、君は医療技師になって医療以外にも、工学を学んでいて機材や機器を扱(あつか)うのだから、切った縫(ぬ)ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……、言い方が良くないかな? 間違っていて気を悪くしたら謝るよ」

(そう、君は別に医療の仕事に就こうと、拘らなくてもいいんだ)

「いいの、気を悪くしないから、続けて」

 彼女が学んで得る医療の知識は、この先の人生に於いて『きっと役に立つ筈だ』とも、僕は思っていた。

「それに、在学中にいろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とかな。卒業時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか警察関係も有りじゃん」

 彼女が望むなら今の大学を中退(ちゅうたい)して、違う大学で新たな専攻に移るとか、専門学校で彼女のメンタルストレスにならない分野を学ぶとか、させたいし、その為の学費の援助も僕は用意できる。

「そうかな?」

 彼女の大学卒業が二、三年先になっても、僕達二人の大きな問題にはならないだろう。、

「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が自分で判断して決めるしかないんだ」

(僕は君の思いを尊重(そんちょう)して、応援(おうえん)するだけだよ。でも悩みは、ちゃんと相談してくれ)

「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる君の正解(せいかい)なんだ」

(君自身の選択肢は自由だけど、後ろ向きな思考なら応援しないし、断固反対する!)

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」

 すっかり傾いて赤みを帯びて来た太陽が、海風に吹かれて舞う髪から垣間見える耳を綺麗なピンクに染め、僕へ向けた顔は頬も、額も、艶っぽいピンク色で、唇は官能(かんのう)的な紅色(べにいろ)だ。風に晒(さら)す首筋や胸元もピンクに光り、赤い色で膨張(ぼうちょう)したみたいに強調される胸の膨(ふく)らみは、欲情的に彼女を愛しくさせた。

「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」

(……『かな?』じゃなくてぇ、両親や姉や僕以外に相談するなんて、有り得ないし……)

「OK、勿論(もちろん)さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」

 彼女の事だから、僕を雁字搦(がんじがら)めにしないだろう。

「うん、支えてちょうだいね」

(ああっ、勿論さ!)

 彼女の瞳を見てから、しっかりと僕は頷く。

「ところで、臓器(ぞうき)提供(ていきょう)はどうするの?」

(ええっ!? 話が飛んだぁ! 臓器提供?)

「ん、それはしてほしい。使える部分は全て提供してもらって。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。それは有りかな?」

 咄嗟(とっさ)に骸(むくろ)になってからの自分の臓器の提供について、いつも考えていた事が口から出てしまう。

「そうね、有りかも」

(そうさ、有りなんだよ。君と添い遂げるのは宿命を感じるけど、最悪のバッドエンドに運命は感じないぞ!)

 僕が置いてきぼりされる終末は、端(はな)っから想定してはいないけれど、もしも、仮(かり)に、そうなってしまったとしたら、僕は君の弔(とむら)いを、……僕の思い通りに、……僕のスキにさせてもらう。

「私も、そうしてくれるの?」

(君の真横、君の真正面に真後ろは、絶対に失いたくない僕の居場所(いばしょ)だ! そして、僕が愛する君は、絶対に壊(こわ)れて欲しくない女性だ! だから……)

「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは誰にも渡さない」

 言ってから、『しまったぁ!』と思った。意思を強める余り、愚かにも僕は彼女を部品呼ばわりだ。

「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」

 以外にも、僕が知っていた君なら入れるはずの『パーツ』へのツッコミは無くて、骸を未練がましく手許に置きたがる僕を、ケチだと言った。

(それって、ケチなのか? 違うんだ、ケチっぽく思えるほどなんだよ……)

「君の亡骸(なきがら)は、僕が手厚く葬(ほうむ)って弔うんだから、勿体無いじゃないか」

(……勿体無い…… って、言ってしまった……)

 それはメモリーだ。火葬にした君の小さな骨を僕はいつも持ち歩くんだ。

 最愛の相手の骨を齧る人がいるそうだけど、その気持ちを僕は解る気がする。試しに君の骨を嘗(な)めたり、齧ったりするかも知れないけれど、見て、触って、君と君を想った日々を思い出すんだ。

(でも、僕が先に逝くから、できないな)

「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか弔うまでも……、そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」

(そうだ! もしもの為に、沢山の動画を撮(と)って、君のホログラムを作ろう。姿、形を立体で、声のトーンと話し方も復元して、君の思考と性格はAIでなぞらすんだ。そして、君が生きていた時と同じように、君のホログラムと話し、笑って、泣くんだ……。最期も看取って貰えるかもだね)

 僕は立ち上がって、赤味(あかみ)を帯び始めた海原と砂浜を眺めてから空を見上げ、そして、顔を紅く染めて座る君を見て考える。

(取り敢えずは、君と僕を3Dスキャンして、ミニチュアのフィギュアでも作ろうか)

「さぁ、そろそろ行きましょう。冷(ひ)えて来たことだし」

 彼女の言葉に少し冷(つめ)たくなって来たかなって思っていた潮風(しおかぜ)が、本当に肌寒くなったと感じられた。でも、ハートは温かく、居心地が良い君の横で、ずっとこうしていたい気分だ。

「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」

 背後の松林に入ってサイクリングロードを通れば、歩き易くて靴も砂塗(すなまみ)れにならずに済むと思った。けれど、GPSの地図画面で確認しただけのサイクリングロードは少し遠回りになる気がして、僕は来た時と同じ、眼下の渚沿いを歩いて駐車場へ戻る事に決めた。

 彼女の手を握り、滑らないように慎重に長者屋敷跡の斜面を降りながら反省(はんせい)する。

(握り返す彼女の手は冷たい……。冷える彼女の身体に気付かずに、僕は此処に居続けたいと思っていた……)

「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」

 国際便も就航(しゅうこう)している小松空港のターミナルビルには、そりゃあ、渡航客が絶対的に多いセントレアや関西(かんさい)空港や羽田の空港施設とは比べ物にはならないが、地方空港として土産物売り場や飲食店はそこそこ充実している。そして、どの飲食店も僕が食べた料理は美味しかったと思う。

「そうだな。温かい麺類(めんるい)ってのは、どうだろう? 僕はカレー饂飩(うどん)にするよ」

 今の彼女はトレンディさやファッション的なコーディネートに拘っていないみたいだけれど、同じ轍(てつ)と地雷を踏まないように、以前に彼女がオーダーした『カレー饂飩』を言ってみた。

 彼女の反応次第では、『カツ丼』で呪詛(じゅそ)って遣りたい。

「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦(おそば)にするわ」

 さらっとリベンジ返しをされた。ノリで『カツ丼にする』って言ってくれれば、楽しいと思ったのに。『麺類に』と言ってしまった自分の残念さに、彼女の手を握る掌が汗ばんでしまう。

(ちょっと赤面してるかもだな)

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 柴山潟から日本海へ注ぐ新堀川(しんぼりがわ)の汐見(しおみ)橋を渡り、僕はSUV車を小松空港への最終アプローチの直線道路へと走らせる。行き交う自動車は少なくて、この調子だと、ハードなトラブルがない限り、ターミナルの搭乗カウンターには充分に余裕を持って着ける。

 そう予測した時に、彼女が何か閃(ひらめ)いたように言った。

「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」

 『ついさっきまで、長者屋敷跡の浜にいたじゃん!』って思ったけれど、僕は口には出さない。

「時間は、まだ余裕。ん? 海岸って、浜辺へ?」

 気紛(きまぐ)れか、思い付きか、僕には察せないが、彼女なりの理由(わけ)が有るのだろう。

 『君は、身体を冷たくしていたのに』と見る彼女の顔は、ほんのりと朱(しゅ)が差して上気しているように思えた。

 彼女の希望通り、ウインカーを点滅(てんめつ)させてからブレーキペダルを踏み、充分に減速させつつ、SUV車を海岸方向へと左折(させつ)させて行く。

「そうよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」

(正夢って……、夢に見た事が、現実になったという、その正夢?)

「外へ出ましょう」

 ドアを開けて、さっさと斜陽を浴びて薄く赤味を帯びた外へ出て行く彼女を追い駆けて僕も降り、赤味が濃(こ)くなった西の空と海に向ける彼女の視線の先を探りながら、僕は横に並ぶ。

(何の遮りも無い水平線まで広がる海原と、其の向こうのくすんだ赤色の空の中に、君は何を見い出しているのだろう?)

 顔を僕へ向けて真顔の彼女が上目遣(うわめづか)いで、じぃーと僕をみる。

 何かが始まりそうな気配に、心の内の動揺や構えも感じさせないように、意識して優しく微笑んでみた。すると彼女は半歩下がりながら身体の向きも僕へ向けてから、両の掌を僕の胸に着けて爪先立ちで寄り掛かって来た。

 触れるばかりに間近になった彼女の顔の真剣な眼差しが僕の微笑む瞳をマジマジと見ると、彼女は唇を薄く開く動きに合わせて両の瞼をゆっくりと閉じる。

(こっ、これって、……やはり。……キスを、求めているんだよな……)

 胸がキュンキュンと締め付けられるくらい、彼女が愛しい。

 閉じた瞼の睫毛(まつげ)がヒクヒクと震えている。眉間に浅い縦皺が入ったり、消えたり繰り返す。

 そっと唇を触れさせて、彼女の閉じた唇を優しく開かせて、ゆっくり舌先を入れて行き、彼女の舌と絡ませて行くと彼女も絡み返して来る。

 舌の絡みを返す度に、肩を上下させるくらいに彼女の息が喘ぎ、僕の吐息は震えた。

 ザラっとする舌先に、ヌメっとする舌の裏、スルリと滑るように口の中の天井に触れてくれるのが、くすぐったくて気持ち好い。

 上気する気持ちで感じる息苦しさに、彼女と僕はスッと唇を離すと、二人揃って仰け反るように静かに長く息を吸い込んでから、同じように静かに長く息を吐き出しながら互い顔を近付ける。

「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」

 唇が離れて深く息を吸い込んで吐いて、また吸い込むと、彼女は『こうしたい』と言いながら身体を僕の腕に密着させて来る。

(おおおおーっ! そう来るですかぁ? マジで勘違いヤローになっていいですかあ?)

 手を繋ぐどころか、彼女は腕を絡ませる僕の手の二の腕を、たわわにとは言えない自分の胸の膨らみに密着させる。その柔らかで確かな弾力を感じてくれる彼女の大胆さに僕は欲情しそうだ。

(こっ、これは誘っているのか? 腕に縋(すが)って来てるぞぉ! エッチに挑戦してもいいのか? ……いやいや、まてまて、ちょっと違うだろう。彼女は僕と腕を組んで歩きたいだけだろう)

 今日、もしも出逢えたとしたらと、僕が予想した彼女は、あっさりと僕を他人行儀な態度の冷徹な挨拶であしらう、擦れ違うだけの僕以外の男性で満ち足りた女性だったはず……。なのに、彼女へ持ち続けたイメージを根底から覆した彼女の言葉と態度は、どれも嬉しくて楽しい。

 きっと今の僕の顔は凄く驚いてニタニタと笑っている。そんな僕の表情を見ている彼女が視界の隅にいるけれど、『ただのスケベかも』と思われているかも知れなくて、僕は、顔も、視線も、恥ずかしくて彼女へ向けれない。

 唇を離した彼女が望みを言う。

(僕が成りたいモノは、君が望む全てだ! 僕の生涯で叶えれる限り、君の望みを叶える!)

「うふっ、あそこも、こんな感じで歩きたいわね」

 僕は、これまで彼女が歩いた全ての道を彼女と歩いて、彼女が行った全ての場所を彼女と行きたいと考えている。

「あそこ? それって、どこ?」

 『鯨の背』と呼ばれる横浜港大桟橋に相模原市の桜並木、それに立戸の浜でキリコを担いで欲しいと言った。

(他に彼女が、僕と歩きたい場所は、何処だろう?)

「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔とスペイン広場ね」

 君の声で聞く『コモ湖』に、僕の記憶が鮮明に蘇(よみがえ)る。

 まるでラブロマンスの映画やドラマのワンシーンのように、真冬の遥(はる)か遠くの場所で、思いがけない君との出逢いに、僕は駆け寄って息が詰まるくらい君を強く抱き締め、歓喜(かんき)の涙を流しながら感動のキスをする。なんて想うほど、デスティニーを感じてしまった。

 君を写(うつ)そうと覗く一眼レフカメラのファインダーに測距する赤外線の光が、コモ湖の水面から漂う薄い靄(もや)に映り込み、それは君と結ぶ千切(ちぎ)れ、千切れの赤い糸のように見えた。

 その希薄な運命の赤い糸は、地中海からの一陣の季節外れで生暖(なまあたた)かいシロッコに吹き払われてしまったけれど、靄が散らされて澄み切った大気の中で鮮明になった君を、僕は夢中でシャッターを切って撮っていた。

「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私からあなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたかなぁーって。なんかぁ、遠出すると気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから尚更(なおさら)だったのよ。何気(なにげ)に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも良かったしね」

 中学生では、儚(はかな)げな掠(かす)れ掠れの淡い赤色の希薄な細い糸に見えていただけだった。

 高校生になってからは、少しづつ色が鮮明になって行く気がしていたけれど、相変わらず糸は途切れ途切れに感じていた。

 社会人になって、『途切れずに繋がって見えるようになるはずだ』と思っていた運命の赤い糸は、僕の不甲斐さから消滅(しょうめつ)してしまった。

 既に彼女への想いは完全に断ち切り、赤い糸など何処にも感じなくなっていた。それなのに、今日は春風の中に彼女の匂いを見ていた。

「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にびっくりして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」

 びっくりして戸惑ったのは、僕も同じだった。

 運命を感じた偶然の出逢いに、直ぐ駆け寄って抱き締めながらキスをした後は、君の手を握ってクルクルと喜びのダンスを舞いたかった。でも、そうしなかったのは君に拒絶されるのが怖かったからだ。十二時間以上も窮屈(きゅうくつ)なエコノミークラスのシートに座って飛んで来た挙句、君に無碍(むげ)にされるのは耐えられないと考えたからだ。

 だけど、勇気を出して積極的に閃いた行動を実践(じっせん)していれば、『私達、付き合ってるの』みたいな、もっと全然違う其の後になっていたかも知れない。

(……いや、彼女は僕のように単純じゃない!)

 彼女が話さないので理解できないが、今日のように涙を流して僕を求めるくらいの心境の変化がないと、きっと、希薄な赤い糸に戻す運命の正(ただ)しが為されていたと思う。

「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって旅行の初日(しょにち)だったんだから、意識しないわけないじゃん! ……でもね、日本に帰ったら直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」

(それは、お互い様だよ……)

 あの頃の躊躇いの日々を思い出している僕は、顔を伏せながら『もしも』を言ってみる。

「もっとメールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」

 それを出来る積極性と光明力(こうみょうちから)を僕が備えていたら、其の後は、幸いにも、不幸にも、全然違っていて、こんなにも離れ離れになっていた運命が交差する今日の出遇いは無くて、二人の想いが修復されなる事も、想い詰めた愛が見直されてリセットされる事も、無かっただろう。

 どれほど『もしも』を過去に求めても、それを実現できるはずがないのは分かっていた。

「まさか、またスペイン広場で会っていたなんて、思いもしなかったわ」

 中学二年生の終業式の日に僕が贈(おく)った、街並みをレリーフしたメッセージスタンドの事を言っている。彼女の机の中に忍(しの)ばせておいたのを受け取ってくれていた。

「あのね、予感はしてたんだ」

 短い言葉の意味から、彼女は話題を変えていると思った。

(その意味の落とし処は、何処なんだ?)

「……予感?」

(予感なのか? 予想じゃなくて?)

「そう、きっといつか、私はあなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」

 『それで、未来日記のように、その通りになったわ』みたいな明るい笑顔を僕に向ける。

「あっ、その笑顔はいただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいです」

(ああっ! 本当に好(い)い笑顔を見せてくれる!)

 嬉しくて、可笑しくて、楽しくて、彼女の心が全開に開放された笑い顔だ! そして、全身全霊で尽くし甲斐の有る、僕の魂魄が癒される笑顔だ!

「紅く染まってって、それ、酔(よ)っ払(ぱら)いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」

(紅らむ顔で、酔っ払いと来たか……。どれくらい飲むと、彼女は自制が利かなくなるのだろう? 寝る? 笑う? しゃべる? 煩い? 黙る? 怒る? 殴る? 蹴る?)

 『いっしょに楽しく飲めれば良いな』と、写真に撮りたい笑顔とは全然違う事を、僕は連想してしまう。

「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。マジで今日を連想する笑顔だよ」

 僕の二日酔いの経験は今のところ、静岡市のアパートに居た時だけだ。会社の付き合いで飲み会へ行き、無謀(むぼう)な深酒にゲロって寝てしまう。

 道端の植え込みや下水のグレーチングの上に蹲(うずくま)って戻しながら寝てしまい、大抵は放って行かれて朝までそのままだった。でも、目が覚めたらアパートのトイレの床に転がされていた事も有った。起きて酒気が消えるとコンクリートに何度も倒れ込むような激しく痛む頭痛に次の日の朝まで身悶(みもだ)えして苦しんだ。

 部屋に帰って普通に寝て起きた時でも、何処をどうやって帰って来たのか、全然憶えていない事も何度か、有った。

 酔うとよくしゃべって笑ってばかりいた。後日、僕を送ったり、介抱(かいほう)してくれた同僚や上司に訊いたところ、決して暴力を振るったり、不機嫌になったり、不愉快な思いをされたりはしていないらしい。

「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」

 凄くほっとする言葉を彼女は言ってくれた。

 西に傾きを大きくしていく太陽に向かって、甲高(かんだか)く遠吠(とおぼ)えしたいくらい僕は嬉しい。

 この時間を止めて少し戻して、何度もこの時間を繰り返したい。

 素敵に笑う君の声と言葉を、何度も、何度も、聞く度に、僕は心地好い感動と凄く嬉しい気持ちにさせられ続けたいんだ。

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(長者屋敷跡で人生の終末をテーマにした切実(せつじつ)な問いは、すっごく遠回しな彼女なりのプロポーズだったのではなかっただろうか?)

 と、僕は疑るように考えてしまう。

 空港ターミナル二階の蕎麦屋で言った通りに蕎麦とカレー饂飩の晩飯(ばんめし)を済ませ、売店で幾(いく)つかの土産を買ってから彼女はセキュリティーゲートへ向かう。セキュリティーゲート近くの柱の陰で、前を歩く彼女が突然持っていた荷物を床に置き、僕に振り向いた。そして両手をゆっくりと僕の首に回して引き寄せ、背伸びをしながらキスをした。

 目を瞑って深く濃厚に唇を合わせる彼女が、猛烈(もうれつ)に愛しい。

「うっ、いっ、痛いよ」

 自信が無かった。もう間も無く彼女と別れる時間がやってくる。夢のような今日を、『夢じゃないんだ』と気持ちが舞い上がっていても思えば思うほど、彼女を抱き寄せる僕の腕は、彼女を強く抱き締めていた。

『逃げないで』の強い気持ちは、『逃がさない』の憤(いきどお)りに変わり、僕の自信の無さを打ち払おうとする思いは、いつしか彼女を締め潰しそうになっていた。

「あっ、ごっ、ごめん」

 僕は体が浮いてくるような高揚した気分と離れたくない気持ちで、以前の独り善がりな自分に戻りそうになっている自分に気が付いた。

 後悔に不安が混ざる切実な思いが過ぎり、急いで僕は謝った。

(また彼女を探し続ける日々は、もう嫌だ!)

「ううん。でも嬉しい」

 小さいけれど明るい声で優しく言って、彼女は僕の想いを受け止めてくれる。腕から彼女を抱き締めた感触が消えてしまわないように、僕はそっと彼女を放す。

     *

 小松空港のセキュリティーゲートで彼女を見送ってから駐車場の自動車へ戻った。

 僕の身体は、ずっと小刻みに震え、なんだか浮いて漂っているような気分がしている。足裏に接するアスファルトの路面の感じが薄い。夢見の良い起きがけのようだ。

 滑走路から聞こえだしたジェットエンジンの轟音に、僕はSUV車の傍(かたわ)らで立ち止まり、晴れ渡る夜空を見上げた。轟音はエンジンを噴かして滑走路をテイクオフして行く機体で、小松空港発の羽田行き最終便だ。あれに彼女が搭乗している。

 ずっと向こうの暗がりを、昇(のぼ)るジェットの青白い小さな輝(かがや)きと翼端灯の緑と赤の点滅が、星空への階段を一歩一歩踏み締めて登る足跡(あしあと)のような光の筋を付けて行く。上昇を続けながら西にバンクした小さな光達は、まだ水平線上が僅かに紅い日本海上を大きく旋回してから、やがて掠れるように小さな瞬く光の粒となり、東の黒々とした白山(はくざん)山脈(さんみゃく)の彼方へと飛び去った。

     *

「部屋に着いたら連絡するね」

 セキュリティーゲートへ進みながら僕に振り向いて、そう言った明るい顔の彼女へ笑顔で僕は頷いた。

「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」

 僕の仕様も無い冗談に、クスッと彼女は笑ってセキュリティーゲートへ向かう。

(向こうに着いたら、本当に彼女は連絡をくれるのだろうか?)

 二、三歩進んで、また彼女は振り向いた。

「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも相談できて良かった」

(今日の彼女は、優しい……)

 いや、違う。そうじゃない! 感謝するのは僕の方だ。

「礼を言うのは僕の方だ。僕こそ君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて最高に嬉しいよ。迷いの相談も。僕の方こそ凄っごく感謝してる」

 にこやかに彼女は頭を振り、やがて笑いを消した顔で言いける。

「そして……」

 そこで彼女は言葉を切り、顔を背け視線を落として黙ってしまった。

(そして……? 彼女は何を言い掛けたのだろう? 躊躇うほど、言い難いことなのか?)

 彼女の様子から。言い掛けた言葉を、口にして良いものかどうか迷っているように見えた。やがて……、僕には長く感じられたけれど、ほんの数秒の沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げてから振り向き、僕を見た。

(微笑みの無い真剣な顔……! どうするつもりだ?)

「……そして、私を、ずっと彼女にする覚悟は有るの?」

 躊躇っていた言葉を言い終えた彼女は見る見る紅くなりながらも、パッと明るい笑顔になって僕を見た。

「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」

 予想もしていなかった彼女の問い掛けに、一瞬、意味が解からず、即答(そくとう)すべきなのに瞬きほどの間が空いてしまった。

「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。その時までに良く考えてね。ふふっ」

 そう、彼女は僕の回答を遮るように言うと、クルッと背を向けて足早にセキュリティーゲートを抜ける。

(なっ、なんだぁ? 今のはフェイクなのか?)

 フェイクでも返事は決まっている。勿論、当然、覚悟は有る!

(う~ん、どれも当たり前過ぎてつまらん。捻(ひね)りとオリジナル性がいるかも? 静岡のあの人に言うはずだった言葉にするか……。でも、それも使いまわしみたいで……、どうよって感じだな)

 僕は、まだ今日の日を御浚(おさら)いできていなくて、どんなに言い寄っても拒絶を繰り返すだけだった彼女が、これから僕の恋人になるなんで信じられない。彼女が僕の視界から消えるのと同時に、今の超ベリーハッピーな時間も想いも全て消え入りそうな気がして、嘘(うそ)であって欲しくないと心から願っていた。

 彼女の手荷持つはX線サーチをパスして行く。彼女が通るメタルデテクターもノーアラームだ。セキュリティーゲートを通過した彼女は、またまた顔を振り向かせ、今度は大きく手を振りながら搭乗口へ続く通路へと急ぎ足で角を曲がった。

 彼女が角を曲がり見えなくなると、全てが熱気で潤む靄の中のようで嘘臭く思えてきた。大きく手を振り笑顔で搭乗口へ消えて行った彼女……。繰り返して来た春の想いが見せた幻(まぼろし)のような気がする。

 昼に彼女と出逢ってから、ずっと足裏の感覚が薄い。どこにいても、どこを歩いてもシャギーの長い毛脚の上にいるようで、しっかりと足が地に着いていなくて、しょっちゅうバランスを崩してよろけそうになってばかりいた。

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 晴れ渡った夜空の彼方、目を逸らすと再び見付けられそうにない微かに瞬く光りの粒を、僕は見詰め続けた。消え失せそうな昨日までの大切な想いと、今日の幻覚を見たような実感の無さに、白昼夢に魅せられたみたいな感覚が、混じり合った信じ切れない現実が、明日からの紡(つむ)ぎ始める夢と希望といっしょに全て失ってしまいそうで、僕の眼はずっと消えゆきそうな飛行機の灯りを追い掛けていた。

(彼女は本当に、あの瞬きに搭乗しているのだろうか?)

 僕はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏の暗い模様の中に見失いそうだった小さな光の残りだけが浮び上がる。それは近づいて行く彼女の顔になり、遠ざかる彼女の笑顔に変わっていく。瞼を開くと彼方の暗黒の中、微かな光りは既に消え失せて何処に有るのかわからない。僕は一体何を追い掛けて見詰め続けていたのだろう? 僕が見ていた光りは無くなってしまった。

 とうとう彼女は、僕が送り付けた最低で最悪なメールに触れないまま行ってしまった。

(電源を落としていても、メールは届くはずなのに……)

 きっと彼女は、届いた僕のメールをウザイとか、キモイとか、しつこいなどと思って読まずに削除(さくじょ)してくれたのかも知れない。本当にそうであって欲しいと僕は切に願う。

 この先、二人がどれほど危機(きき)的な事態が起きて、破滅的な状況に陥っても、どんなに腹が立って怒り心頭になっても、僕は決して同じ過ちを繰り返さないと、光りが去った向こう、漆黒(しっこく)の山並みを見詰めて誓う。

 そんなプレッシャーを差し引いても、気持ちの高揚(こうよう)で浮ついて曖昧になりかけている今日の出来事を、確実に思い出せる記憶が欲しい。僕は今日の日を実感できるシチュエーションの反芻をしたかった。

(さあーて、これからどうする? 何処かで一人物思いに耽(ふけ)ろうか? それとも家に帰るか? ダチと祝杯を交わして舞い上がるのは、まだ…… だな……)

 SUV車に乗り込もうと僕は運転席のドアの取手を掴(つか)む。ドアノブに手を掛けて一つ一つ記憶を遡り、バラ色の人生のスタートになるかも知れない今日を思い出そうとする。でも冷静でなかった僕は場所や出来事を憶えていても、前後の経緯(いきさつ)や会話や細部などが曖昧ではっきり順序立てて思い出せない。今日の彼女に出逢える前までの僕の気持ちと、彼女に出逢えたらどうしたかったのかまで飛んでいた。

 セキュリティーゲートを通り搭乗口へ向かう今日の彼女は終始冷静さを感じさせた。

(彼女は今日の日を、全て憶えているのだろうか?)

 夢見の後のような空虚な気分でドアを開けた。手前に開いたドアから車内の冷えて淀んだ空気が、大気に吸い出される風となって擽(くすぐ)るように顔を撫(な)でて行く。その時、桜の匂いが香った。懐かしさを覚えさせて僕を奮(ふる)い立たせてきた愛おしい大好きな匂いだ。

(彼女の香りだ!)

 これほど強烈に実感させて確実に記憶を呼び起こすものはなかった。急に僕は猛烈に嬉しくなって、

「ハハッ!」

 今日の出遭いの嬉しさが溢れて、笑い声が出てしまう。

「アハハッ!」

 今日の、彼女に出遭うまでの自分を笑った。

(嬉しい! 本当に嬉しい!)

 もう湧き上がる嬉しさでいっぱいだ。

(出逢える予感は確かにしていたけれど、こんなに嬉しい日になるとは全く思ってもみなかった。)

 これまでの想いと今日の思い掛け無い予想以上の結果に、これからの人生への期待が重なり幸せで満たされた。

「アッハハハッ。ヒャッホー!」

 嬉しくて、楽しくて、幸せで僕は大声で笑って叫ぶ。いつか必ずと想いを寄せ続けていたけれど、もう脈も縁も無くなってダメだろうと諦めたのに……。

 こんな気持ちの良い晴れやかな時が、突然に訪れるとは思っていなかった。

 僕はハッピーエンドを想像して、未来がバラ色になるとばかりに思い込んでしまう。もう幸せの絶頂だ。今日の日の幻は遥か彼方へ逃げ去ってはいない。なのに、大笑いしながらも今までの矛盾(むじゅん)する想いや事柄が僕を惑(まど)わせ、舞い上がった気持ちを一瞬で引き戻す。多くの躊躇いや逆転を経験した僕は、今日の幸せも疑惑と不安で信じ切れなくなった。

(舞い上がっているんじゃない! 僕自身は何もしていないじゃないか!)

 泣きじゃくる彼女の言葉に受け応えしただけだ。ランチは彼女に促されて終始(しゅうし)リードされっぱなしだった。そして、

(未来予想は、全て彼女の提案だった!)

 僕はこの時、初めて今日の出来事を実感できた。……フェイクでないという保証や確信は何処にもなかった。でも僕は……、彼女の態度と言葉に期待したい。

(きっと! きっと、大丈夫だ。今夜の電話が前向きに明るく話せて楽しく弾んで終われば、この先僕らは、ずっと大丈夫だろう)

 彼女に白状しなければならない事があった。僕は高校一年の時に彼女に嘘をついている。

『私にキスした?』と彼女からメールで問われても、『してない』と僕は嘘の返信をしていた。

 夕方のバスの中で寝ている彼女の後ろ姿が、どこか寂しげで、拗(す)ねているようにも、不貞腐(ふてくさ)れているようにも見えて、とてもいじらしく感じた。我慢ができなくて静かに覗き見た彼女の目を瞑る横顔は、凄く愛らしくて僕は堪(たま)らずに、彼女が起きないようにそっと唇にキスをした。

 あれが僕のファーストキスだった。そして、それは彼女のファーストキスでもあったのかも知れない。そうだとしたら、僕は彼女のファーストキスを無断で奪った激しく許(ゆる)されない卑劣な奴だと、何度でも後悔と反省に苛(さいな)まれてしまう。

 携帯電話の待ち受け画面にした今日の彼女の笑顔を見ながら、いつか必ず謝るべきだと考えていた。

 正直に話して真摯に謝罪する僕の言葉を聞いて、彼女は電話の向こうで分かり易く表情を変化させながら、軽蔑した呪いの言葉を、僕に浴びせ返して来るだろうか?

 それとも、一生僕を服従(ふくじゅう)させる意味深(いみしん)な、『初めてのキスが、あなたで良かった』と、言ってくれるだろうか?

 そのどちらでも僕は彼女を信じて、自分自身も信じるなら三時間後の電話は、絶対、同じ想いを描いて話せるはずだ。

 エンジンを掛けると、息吹く車の小刻みで静かな振動が足裏に伝わって来た。

(大好きな、嬉しそうに優しく笑う彼女の笑顔を……、僕は見ていたい)

 チェンジレバーをドライブレンジにシフトさせて、滑らかに車をスタートさせて行く。

(この先も、ずっと見続けれるだろうか? 彼女は見続けさせてくれるだろうか?)

 ルート8を越えて、加賀産業道路を抜け、山側環状に入ると更に加速させて家路を急ぐ。後、トンネルを二つ抜けて橋も二つ渡ると家は直ぐ近くだ。

 探し求め、待ち望んだ確証は、更なる疑問と不安を抱かせ、新たな確証を求めさせた。求めた確証からもっと、もっと、彼女を好きになるように。もっと、彼女が僕を好きになってくれるように。僕は努力し続ける。

 麗らかな暖かい陽射しのような彼女の笑顔を、見続けたい故に!

 満開の桜の匂いのような彼女の匂いを、感じ続ける為に!

     *

 掌の携帯電話が震えて着信音を奏で、今し方、以前の電話番号を消去して設定し直したばかりの彼女の新しい電話番号を画面に輝かせた。

(おおっ! 彼女から電話が来たあ!)

 着信音は何度も聞いていたメールのメロディではなく、たぶん初めて聞く、彼女からの電話の着信に設定したメロディだった。バイブレーションの振動に僕の手の震えが加わり、受話キーへ触れた途端に跳ねた携帯電話が床に落ちた。

 慌ててそれを掴んで持ち直すと、僕の安堵する気持が緊張で震える深い溜め息を吐かせる。

『ガリッ! ボフッ!』

 着信画面に設定していた彼女の瞳に重なって表示される彼女の新しい電話番号を、再度確認しながらスピーカー部分を耳へ当てた。

「もっ……、もしもし……」

 僕は焦りと緊張に胸が痞(つか)えて呼び掛けを閊(つか)えながらも、早く彼女が無事に相模原の部屋へ無事に着いた言葉と元気な声を聞きたいと願う。

(もしも、トラブルに遭っているのなら、僕は直ちにSUV車を超速で飛ばして彼女の許へ行き、助けるんだ!)

「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」

 彼女の無事な明るくて、どこか寂しげな声に安堵しながらも、僕の心は愛しくて堪らないとざわついてしまう。

 携帯電話のスピーカーの向こうからマイクを通して聞こえて来るのは彼女の声だけで、テレビの音も、音楽も、彼女以外に誰かが居る音や息を潜めている気配も、聞こえていないし、感じもしなくて、一人ぼっちだと知った。

(彼女は一人だ……。一人ぼっちで良かったぁ)

 彼女を心配するのを兼ねて僕は、彼女のボッチを確認していた。もし、男性と同棲(どうせい)でもしていたら、それは非常に困ってしまってジェラシーストームが再びだ! 今日の出逢いは全て否定されるべき事になり、彼女の言葉と態度で弄(もてあそ)ばれた僕は、一生、独身の引き篭(こも)りになるくらいの重大なショックを受けてしまっただろう。だけど、僕は彼女に弄ばされていなかった。

 僕は今直ぐに、『彼女を僕の傍に居させたい』、『彼女の傍に僕が居てあげたい』、と強く願った挙句、その焦り混じりの大きな衝動は、僕の言動と気持ちを大胆にさせた。

「けっ、けっ、結婚して下さい!」

 いきなり、すっごく大事な言葉を言ってしまい、とんでもなくスベったと思った。

(うっひゃあ! あわわわわぁ。言ってしまったぁ……)

 人生と運命を左右する大切な言葉を僕は、電話越しで彼女に言った事を、直ぐに後悔した。

 彼女に遮られた『覚悟の言葉』を、電話越しにレベルマックスで言ってしまっている。こんな電話でのプロポーズに彼女は良い返事をしてくれるのだろうか?

 僕は早々に改めて、生声で直接、プロポーズを仕切り直すべきだった。

 大桟橋からのディナークルーズで、揃いのリングを添えてプロポーズしようと決めていたのに、アホな僕は言ってしまった。

「うん。……はい!」

(うっわあ! 『はい』だよ! どうしよう!? OK貰えちゃったよ!)

 テレる顔が驚きで引き攣(つ)りながら混じる喜びで、目も、口も、頬も、締まり無く緩んで行く自分の顔が分かった。

(もう、めちゃくちゃ嬉しい!)

 今日の彼女の言葉と態度から、断わられる事は無いだろうって予想はしていたが、直ぐに承諾(しょうだく)してくれるとは思ってもいなかった。きっと、『先(ま)ずは、ちゃんとしたカレカノの親密な御付き合いから、仕切り直して始めましょう』って、彼女が返事すると考えていた。

「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」

(おっ、おおおおっ! そんなあっさりと、、軽はずみ的に御返事を言っちゃっても良いんですかぁ? いやいやいや、その返事の言葉が、言って欲しかったんですけど、でも、その、全く、……ありがとうございます!)

「はい! 謹(つつし)んで、喜んで御受け致します!」

 プロポーズ返しを承(うけたまわ)る恐悦(きょうえつ)至極(しごく)の礼を言った途端、ボロボロと涙が零れ出して止まらない。

(……本当に、僕で良いんですかぁ……)

 この嬉しさの向こうの、喜びで包まれる日々に君と二人で一刻(いっこく)も早く辿り着きたいと思う。

「嬉しい。凄く、嬉しい!」

 彼女の喜ぶ声が耳の奥で木霊(こだま)して、僕の身体中を貫(つらぬ)く様に響いている。

(大好きだ!)

 以前も大好きだった……。遠くに、近くに、君を見ていた時。ちぐはぐでもメールで繋がっていた時。……それ以外の君を僕は知らなかった。

(好きになって、大好きになって、好きになれば、なるほど、君を疑う気持ちが強くなっていた……。もっと近くで、もっと長く、君と繋がっていたい。身体も、心も……)

「僕もだよ! この嬉しさを、君に何て伝えよう? ……心から愛しています」

 嬉しさの勢いが声を大きくさせた。

 もっと、もっと、僕は両手で君を抱き上げて、この真摯な気持ちを何度も、何度も、叫びたい!

(なんという一体感! 今、君と僕は心を一つにして、同じ想いに感動する心が、嬉しさで震えている!)

 僕の頬を君の頬に触れさせて、頬摺(ほおず)りしたい衝動に駆られてしまう。

(君とディープなキスを、僕はしたいんだあ!)

「私もあなたを、心から愛しています。……うふ、もっと言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」

 本当に彼女の言う通りだと思う。

 前以って考えて選らん言葉は、場違いなニュアンスになり、その時、その場のアドリブ的に思い付く言葉は、いつも、何時か何処かで聞いたか、読んだりしたような在り来たりになってしまうんだ。

「ああ、そうだね。もっと言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」

 鼻声になった彼女に僕は、『ヤバイ、しまったぁ』と思う。

 僕は電話越しに彼女に近付き過ぎていた。近付き過ぎている心地好さに携帯電話越しだけで済まそうとしていたのに気付いて、僕は自戒(じかい)する。

「……泣いているよ。私……」

(電話越しの……、愛の誓いかぁ……。これじゃあ、ダメだなぁ……)

 彼女も、僕も、涙を流すくらい感動しているけれど、この感動は、想い求めた出逢いが叶ったのと、互いが愛しくてキスし合ったのと、ミッドナイトのハイテンションの所為で、そんな、麻酔(ますい)のような一時(いっとき)の感情の昂ぶりに流されているだけかも知れない。

 これは何としても、仕切り直しをすべきだと思った。

「うん、愚図(ぐず)る声で分かってる。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」

 詰まらないジョークを言いながら、僕は『あれは、一時の気の迷いなの! 無かった事にしてちょうだい!』なんて、彼女から悲哀(ひあい)の声を聞かされない為の仕切り直しを考える。

「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」

 困った時の彼女が使う、『バカ!』の響きは気持ち良い。次に会うまでに何度、電話の声とメールの文字を交し合うだろう。

 彼女からプロポーズの話に触れて来るだろうか? 僕からプロポーズへ話題を振って、更に進展させるべきなのだろうか? そして、彼女からのツッコミを僕は上手く切り返せるだろうか?

「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」

 鼻声で期待を込めた感謝の言葉を言いながら僕は、次に会う時には揃いのカラフルなファッションリングとファンタジーなピアスをプレゼントして、その次はエンゲージリングを添えて仕切り直しのプロポーズをしようと決めた。

 ファションリングとピアスとプロポーズのリングは二人で選び、マリッジリングは僕の限界額を超えても彼女の希望を叶えたい。

「私こそ、ありがとう」

 嬉しい彼女の言葉を聞きながら、移動で疲れた彼女を早く就寝させなければと思う。なのに、『おやすみ』を告げるのを躊躇ってしまう。

 眠り、朝が来て起床する事でリセットされる毎日、昨夜の寝るまでを御浚いして、日常のコンティニューを始める。だが、昨日の僕との出逢いは彼女にとって非日常で、殆どの続きを意識しないかも知れない。

 彼女はコンティニューされずに明日から大学へ通う日常に戻ってしまう。だから、彼女の眠りの中でミラクルな今日を思い出す目覚めの良い夢を見させたいと思った。

(『おやすみ』と言う前に、今日のハイテンションを夢の中まで持ち込めるように、ハネムーンの相談でもしようか)

 世界中の行く手立てが有る場所なら、彼女が望む場所、僕が行きたい所、何処へでも行くんだ。

 彼女の行きたい場所はコモ湖とミラノだった。イタリアならベネチアでゴンドラに乗り、アドリア海やリビエラでディナーだ。フェレンツェのドーモの天辺で夕陽を眺めて、ナポリの坂をジレラで走り、シチリア島へも渡る。ちょっと不安だけど、南のタラントまで行きたい。山岳都市と丘の上のシャトーはレンタルしたフィアットで廻りたいと思う。

 ハネムーンに限らず、夏の一番良いシーズンには、フランスやイベリア半島の小さくて美しい村をルノーやシトロエンで廻るのもいいと思う。ドイツの山の上や川沿いの小さな城も魅力的だ。

 冬はトロピカルなブルーコーラルで過ごそう。南半球でサザンクロスや蠍座(さそりざ)の赤いアンタレスを観に行こう。

 トラベルの計画は君に任せるから、仕事の稼ぎは全て君に渡すつもりだ。約束する、僕は君を幸せにする為に生きるよ。

 僕と彼女の欠伸(あくび)がハモるまで話せれば、きっと夢見も、『夢で会いましょう』みたいにシンクロするだろう。

 僕は、どうか、『素敵な今日』を彼女がリセットしないように願いながら、『おやすみ』を告げる前に言葉を添えた。

「これから寝る前に御風呂(おふろ)にはいるんだろう? こんな遅い時間だから、湯船(ゆぶね)で寝ないようにな」

 

……完(僕)