遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

桜の予感 (僕 二十才) 第十章 弐

 

  出逢いの、予感がしている。
 彼女が金沢に来ている気がして、逢(あ)いたいと切(せつ)に思う。
 僕が先に彼女を見付けたら、追い掛けて、偶然(ぐうぜん)に出逢ったフリができるかも知れない。
 彼女の気配(けはい)と出逢いの予感で、大気が匂(にお)う。今、僕は相模原(さがみはら)の彼女を探(さが)している。
(出逢えたら……、先に、彼女が僕に気付いていても、笑顔で挨拶(あいさつ)をしょう)
 今の僕なら、できるはずだ。そして、挨拶の反応次第(しだい)では、彼女の近況を聞けるかも知れない。
(君は、僕を捨(す)てて、それで幸(しあわ)せになれたのか……?)
 僕は、それが、知りたい……。
 嫌(きら)われて、避(さ)けられて、既(すで)にフラれているのに、彼女に逢って、彼女と挨拶をして、彼女から近況を聞き出し、彼女の幸せを確認しようと思う自分が、醜(みにく)くて悲(かな)しい。
(彼女の幸せを知って、どうするつもりだ?)
 彼女に逢いたいと思う度(たび)に、自問自答を繰(く)り返す。
 彼女が学(まな)ぶ大学のキャンバスまで行って電話を掛けた。そして、惨(みじ)めにも、電話越しに叫(さけ)んで彼女に捨てられるのを拒(こば)んだ。其(そ)の挙句(あげく)に、彼女の容姿まで誹謗(ひぼう)する、悪意を込めた呪(のろ)いだらけの酷いメールを送り付けてしまった。
 僕達の果(は)ては来てしまった……。もう、取り返しは、付かない……。
 出逢えても、何にもならない事は分っている。いや、もっと、悲惨(ひさん)な出逢いになるかも知れない。
 彼女が、僕に優(やさ)しい挨拶を返す見込みは、限りなく皆無(かいむ)に等しい。それでも、僕は、彼女を必(かなら)ず見付け出して、逢いたいと強く願った。
 大晦日(おおみそか)に、静岡(しずおか)の『あの人』と別れてから、僕は、無性(むしょう)に彼女に逢いたくなっていた。
 『あの人』の言った通り、僕には彼女への未練(みれん)が有った。それは、恋愛へのリベンジじゃなくて、あの人に因(よ)って変わった以前とは、違う僕を、彼女に見せ付けて遣(や)りたかった。
 彼女に、僕をフったことを、後悔(こうかい)させて遣りたいと思っていた。
(まったく僕は、姑息(こそく)で、未練がましい奴(やつ)だ)
 でもそれは、『あの人』といっしょに居た時の思いだ。
 今は、ただ逢いたいだけで、ちゃんと、彼女に会えるのならば、僕は、きちんと別れの言葉を言いたいと思っている。
(そう、僕は格好良(かっこうよ)く、彼女と別れ直したいだけ……)
 やはり、それも、未練だと分かっている。だけど、だからこそ、僕は認(みと)めたくない。
(本当にウダウダと、思い切りの悪い奴だな……、僕は……)
     *
 『あの人』に見送られて、帰郷した日から僕は、親父(おやじ)の会社の社員一号として働いている。
 大晦日と正月の三(さん)ヶ(が)日(にち)は休みだったけれど、二年参(にねんまい)りの初詣(はつもうで)をダチ連中と騒(さわ)いだだけで、後は、親父に連れられて、飲み屋の梯子(はしご)三昧(さんまい)だった。
 新年度の初仕事は、覚(おぼ)え始めた酒の痛飲で、嘗(かつ)て無いほどの気持ち悪い気分でスタートした。
 二日酔(ふつかよ)いの激(はげ)しい頭痛と、しょっちゅう込み上げる胃(い)のムカつきで、イスに座ってもいられないくらいの遣る気の無い状態だった。
(仕事人として、最低だな……)
 大きなマイナスの未練になった別れの虚(むな)しさを、懐(なつ)かしいプラスの欠片(かけら)の日々を想い帰して、其の楽しい思い出に救われたいと思っていた。
 僕は心の空虚(くうきょ)を楽しい思い出で埋(う)めたいのに、昼も夜も時間に余裕が無く、疲れ果てた怠(だる)い身体(からだ)に痛む頭では、『あの人』と過(す)ごした時間や出来事は暈(ぼ)やけてしまって、はっきりと思い出せなかった。
 それに、いくら楽しい思い出でも、既に過去形になってしまった其の空虚を満たせない事も、僕は分かっていた。
 初仕事は、新(あら)たに導入する新加工技術の情報収集と契約書類の作成から始(はじ)まった。
 それは、微小(びしょう)な金属粉末をレーザー光線の熱で僅かずつ溶(と)かして、固(かた)めながら形状加工をしつつ高速で積層していく工法で、『金属光造形複合加工技術』と言う、ワン・プロセスの金属加工技術だ。
 一般的な六面体の金属ブロックを加工機で、削(けず)ったり、切ったりして不要な部分を除去していくのとは逆で、粉末金属から立体的に積層造形して行き、金属の塊(かたまり)の中に複雑な空洞を作り込んだり、固めるのを鋼ような緻密(ちみつ)さではなく、粗密(そみつ)にして空気や水を通す、スポンジ状みたいな金属塊にする事もできる。
 空間を削り、造り上げて行くと言うよりは、空間を精密に残して行くと言った方が、適切かも知れない。
 これまで、僕が経験してきた常識的な加工方法や造形の考え方を、一新(いっしん)しなければならないくらいの未知(みち)の加工技術だった。
 マシンは加賀(かが)市内の加工機械製作会社で製造され、加工ソフトやネットワークは京都(きょうと)市内のテクノパークに在る、新技術開発会社で整(ととの)えられていた。
 親父は、機械の導入やプログラムソフト・加工ノウハウ・加工ネットワークなどの契約を僕一人に行わせ、其の確認と認可のサインと社印を捺印(なついん)して購入代金を用意した。
 契約相手先への訪問・会合・食事・礼儀・対応などの態度や言葉遣(ことばづか)い・話し方は、あの人から教わり指導してくれた事が、とても役に立っていた。
 全てに於(お)いて礼を失(うしな)わず、誠意を持って接し、信用を得て、気配りと思い遣りの有る対応を受け、条件的にも、価格的にも、納得のできる契約で導入する事ができた。
 親父も喜(よろこ)んで満足している。
 金属光造形複合加工機は僕に任(まか)され、翌月の導入当初から仕事量の多い忙(いそが)しい日々が続いている。
 毎日が仕事に忙殺(ぼうさつ)される事で、悔(く)やみ切れない『あの人』への想いや、喪失(そうしつ)を惜(お)しむ熱い気持ちは次第に冷(ひ)やされて行き、霧(きり)が掛かるように霞(かす)んで薄(うす)れて行く。
 少しずつ、柔(やわ)らかい気持ちで考えられるようになった今は、冷静に『あの人』の立場や気持ちが理解できていると思う。
 結婚式の招待状が来るはずも無いけれど、『あの人』に六月の挙式を、幸せな気持ちで迎(むか)えて欲しいと切に願っている。
 深酒(ふかざけ)をして眠(ねむ)ると、『あの人』の夢ばかりを見た。
 現実では、『あの人』と二人でしていなかった事をしたり、出掛けていない場所へ行ったりする夢だらけで、楽しくも不思議だったが、夢の終わりには必ず、『あの人』が、僕じゃない男性と結婚すると告(つ)げ、それを、何の含(ふく)みや蟠(わだかま)りも無く、僕は素直(すなお)に祝福の言葉で返していて、僕は、夢の中でも、『あの人』の幸せを願っていた。
 決まって、夢の中の別れが目覚(めざ)めとなり、別れた後の続きの夢は見なかった。そして、翌朝は必ず、吐(は)き気と頭痛に悩(なや)まされた。
 未(いま)だに僕は、酒に強くなれていない。
 そう願えれるようになるにつれ、『あの人』へのジレンマな想いは、懐かしい幸せへの憧(あこが)れに変わって行った。
 以後、月に一度は京都市の加工ソフトの開発会社へ行き、定例の新技術講習会に参加して、他社のエンジニアの先輩方々といっしょに聴講(ちょうこう)している。
 親父と僕の二人だけしかいない会社なので、こういう勉強になる場は楽しくて嬉(うれ)しかった。
 講習後も、加工ネットワークの関連他社の人達と交流して親睦(しんぼく)を深めた。
 此処に参加するに至(いた)ったのは、『あの人』の御蔭(おかげ)だとわかっている。
 『あの人』は、気遣(きづか)いのできない粗暴(そぼう)で荒削(あらけず)りな僕を真(ま)ともな社会人にしてくれた。
 本当に、静岡の『あの人』は恩人で、心の底から僕は感謝している。
     *
 次のプログラミングも終わった。
 一ヶ月ほどで加工に慣(な)れて来ると、プログラミングは速くなり、事前加工シュミレーションチェックでのミスは殆んど無くなり、時間と気持ちに余裕が出て来た僕は、親父に相談して、少し早いけれど、二台目の加工機を、近々(ちかぢか)導入する計画も作り始めている。
 マシンの自動加工中は、時間に余裕ができる。
 其の時間を利用して、工場の一角(いっかく)で趣味(しゅみ)の西洋城館や砦(とりで)のミニチュアを作った。
 以前、相模大野(さがみおおの)駅の饂飩屋(うどんや)で、彼女に贈(おく)ったミニュチュアの別シリーズ版だ。
 自作のミニュチュアは、工場見学に来た親父の知り合いの商工会の役員さんの目に止まって、金沢城の櫓(やぐら)や門のミニチュアを作り、御当地土産(ごとうちみやげ)として売り出さないかと誘(さそ)われたのは、僅(わず)か二ヶ月前だ。
 其の役員さんから紹介された物産店へ御願いして、試(ため)しに試作品を置かせて貰い、予約を受け付けてみたら、意外と多くの購入以来が有って、正直驚(おどろ)いた。
 直(す)ぐに、量産品を造って納品させていただいた。
 急(いそ)ぎの量産品といっても、試作品と同様に細部まで手抜(てぬ)きは無しだ。
 型(かた)の分割を多くして形状をしっかりと抜き出せるようにしたし、分割合わせの位置決めと勘合(かんごう)の精度を高めて、合わせ目のバリを少なく、尚且(なおか)つ、発生するバリを小さくして、仕上(しあ)げ処理が速くなるようにした。
 成形後に分割ラインの処理が増(ふ)えるけれど、品質を落とす訳にはいかない。
 現在は、モノ造りプロセスのステップアップとして、原型の造形や量産品の製作に、少し高価だけど、高速で微細(びさい)造形が可能な3Dプリンターを導入しようかと考えている。
 このマシンは、パソコンの3Dキャドソフトで描(えが)いた立体図を、プラスチックで立体プリントして実体化してくれる。
 紫外線(しがいせん)のレーザー光を光硬化樹脂に照射して高さ百分の五ミリメートルずつの緻密(ちみつ)な積層(せきそう)で、立体的に固(かた)めて行く加工方法だ。
 工作機械の展示会でパンフレットを貰(もら)いながら、塗料のような液状樹脂に紫外線を当て、光重合反応で固める原理を応用した技術だと、聞いても、さっぱり解(わ)からない説明をしてくれた。そして、加工品は色付けもされていて、『六百万色以上のフルカラー対応による、3Dスキャン対象品の色を、そのまま再現して造形できるからだ』と、展示ブースのスタッフが言っていたが、よりハイクオリティの商品として完成させるには、どうしても、手作業による積層筋を滑らかにする表面処理や形状仕上げや加筆調整が必要だ。
 とにかく、パソコンを使って立体図を速く正確に描(か)くだけで、しっかりと固定されたベースの上ならば、後は自動で造形加工してくれから楽になる。
 オプションには立体スキャンが有るので、今まで作った原型も、より精密にコピーできて後処理が非常に少なくて良い。
 更に、ハンディタイプのレーザースキャナーをドローンに搭載して建物全体や町全体を3Dスキャンできるそうだから、広範囲な物体のミニチュア化も、パソコンでの作業はスキャン洩(も)れの自動チェックと、ズレや歪(ゆが)みの修正だけになるから、もっと、ラクチンになるし、石垣(いしがき)や海鼠塀(なまこべい)のパターンも実物と同じになって、超リアルになるだろう。
 実際に航空機や人口衛星からの画像で、都市や地形全体を作成しているらしい。
 まるで、SFアニメで見た実物の縮小コピーを作る光線銃のようだと、僕は思っている。
 他にも、ダウンロードしたインターネットの写真地図や衛星画像地図のデータの影の長さから高さを計測するソフトを使えば、そこそこ緻密な3D造形が、既存のデータから出来るのじゃないかとも考えていた。
 3Dデータからの自動作成は、全くの手作り品や工芸品とは言えないけれど、リアルなミニチュアとして納得していたし、造形対象が増えて、作品の修正やデフォルメもし易(やす)いので、それとなく親父に購入しようと促(うな)がすのだけど、なにぶん、僕の趣味が主体の作業の為(ため)に、『金属光造形複合加工技術』のマシンほどの高価なシステムではないにしろ、それなりの価格のマシンだから、簡単(かんたん)に『買おう』とは言ってくれない。
 これは、僕の趣味が講(こう)じたセカンドビジネスで、先(ま)ずはマーケティングをしてからの市場の確保だけど、親父は、僕が工場の本業を疎(おろそ)かにして、別事業を立ち上げてしまわないかと心配している。
 購入すると、確かに商品の開発や量産が緻密で速くなるけれど、僕としては、其の忙しさに本業よりも、資料を調べながらハンドメイドで模型を製作する趣味の時間が少なくなりそうだと、深刻(しんこく)に心配していた。
 作品が常備土産物として物産店に飾(かざ)られると、これがなかなか、けっこう人気が有って、ちょくちょく問い合わせや注文が入った。
     *
 今日は、加工の合間の休日で、金沢市内(かなざわしない)の繁華街(はんかがい)へ来ている。
 僕が担当する自動加工機械群は、プログラムミスか、加工ツールの破損などのトラブルが無い限り、明日の朝までは稼動(かどう)していて、トラブルが発生すれば、ビジネスラインでスマートフォンへトラブル状態が送られるから、其のトラブルの是正(ぜせい)に工場へ向かうだけだ。
 長土塀(ながどへい)と香林坊(こうりんぼう)の土産物屋へミニチュアを納品して、代金の支払いと次の注文を受けると、二十一世紀美術館の白いカフェまで来て、以前に来た時に少ししか食べれなかったアップルタルトを、カプチーノといっしょにオーダーして遅(おそ)めの朝食を摂(と)っている。
 二十一世紀美術館は、何度も来ているけれど、この白いカフェにはバス事故の日以来、初めて入った。
 気持が退(ひ)けて、今まで入るのを避けていた場所だ。
 バス事故の日、病院から逃げ出した僕達は此処(ここ)へ来ていた。そして今、僕は、彼女とテーブルを挟(はさ)んで向き合っていた同じ席に座っている。それは、アップルタルトを食べながら、甦(よみがえ)る上目で僕を見ていた彼女の思い出で、デジャブった錯覚(さっかく)なのかも知れないけれど、微(かす)かに、彼女の匂いを感じた気がした。
 あの日、ここで彼女が言った言葉を、僕は忘れない。
 今でも、リアルな記憶として、耳の奥にへばり付いて剥(は)がれない。
『普通に、しゃべれるんだね』
 彼女の、その呟(つぶや)くような一言は、はっきりと聞こえて一瞬で僕を畏縮(いしゅく)させた。
 まるで、ちょっと休憩での溜(た)め息(いき)に、添(そ)えるように吐露(とろ)した小さな声は、ちっとも、褒(ほ)め言葉に聞こえなくて、彼女の僕に抱(いだ)いていた気持ちだと考えさせられた。そして、それまで彼女にとって、僕は、普通じゃなかった事を改(あらた)めて知らせてくれた。
 能登(のと)半島の明千寺(みょうせんじ)では、彼女の話の受け応(ごた)えしかしていない。
 相模原では初っ端(しょっぱな)から躓(つまづ)いて、言い訳の言葉の一つも探せない僕の脳ミソは、気転を利(き)かす余裕すら無かった。
 全てに於いて僕は、彼女に劣っていると感じさせられた。
 あの頃の僕は、自分に自信を持てずに、憧れの彼女への想いだけが全てで、僕の思考や行動の原点だった。
 いつも、彼女を笑顔でいさせて、いつも、笑う彼女を見ていたかった。だけど、僕だけではどうしょうもない事で、叶えるのは彼女任せだった。
 其の想いは、ネガティブな僕が自己満足する為の望(のぞ)みにしか過ぎず、其の挙句に、僕は彼女に愛想(あいそ)を尽かされてフラれ、彼女が電話番号もメールアドレスも変えてしまうほど、決定的に断絶(だんぜつ)されてしまった。
 毎朝のバスの中で、彼女の横に立つ僕が、少し体を傾(かたむ)けて彼女を覗(のぞ)き込むようにしたら、きっと、彼女は上目使いで僕を見ただろう。
 僕が、ニコっと笑うと、彼女は、微笑(ほほえ)んでくれていたかも知れない。
 普通に朝の挨拶を交(か)わし、他愛無(たあいな)い話で楽しげにしていられたと思う。
 でもそれは、何もしないまま過ぎ去った過去で、想像するifの可能性に過ぎない。
 そう出来たら良いと思っていたのに、僕には勇気(ゆうき)が無かった。
 彼女をガードしているつもりの僕は、背筋(せすじ)を真っ直ぐに伸(の)ばして動きの無い彫像(ちょうぞう)のように立つだけで、体を傾けて笑い掛けるなど思いもよらなかった。
 それに、思い付いたとしても、彼女の真横に立てるだけで有頂天(うちょうてん)に喜ぶ僕には、実行できなかったはずだ。
 其の頃の僕は、そんな男の子だった。でも、今は違う。
 少しだけど、自分に自信が付いて、彼女の気持ちを思い遣れる事ができると思う。
 アップルタルトは、彼女が美味(おい)しそうに食べていたとおり、豊(ゆた)かな香(かお)りと控(ひか)えめな甘さがアートのようなスィーツだった。
 『食べないなら全部、私が食べてもいい? あれ?』、そう言って、僕が食べ残していたチョコレートパフェを、彼女は、アップルタルトに絡めて食べてしまったのを思い出した。
 本当に御腹が空(す)いていたのだろう、他に、僕が、ちょっとしか食べていないブリオッシュのプレートは殆ど全部、彼女に食べられたし、トマトパスタとアップルタルトについては、一口も僕の口に入っていない。
 あれはきっと、僕に、『もっと食べて、元気出してよ』と、励(はげ)ますのを、『全部、私が食べる』と、空腹で食欲旺盛(しょくよくおうせい)な彼女が言い間違えていたんだ。
 切り分けたアップルタルトをフォークに刺(さ)しながら、そんな彼女を思い出して緩(ゆる)む口許(くちもと)に、僕は一人でニヤついてしまう。
 もう、二度と彼女と言葉を交わす事ができないのだろうか?
 いっしょにスィーツを食べて心がときめく事も、彼女の行動に気持ちが揺(ゆ)さぶられる事も、もう、無いのだろうか?
 止まってしまった十八才の時間を、再び、動かすことはできないのだろうか?
 二十一世紀美術館を出て、近くで営業しているワンボックスカーの移動カフェの前で、また、彼女の匂いがしたような気がした。
(また、錯覚? 今のは…… デジャブじゃないかも! 金沢に……、近くに……、彼女はいる!)
 ぐるりと辺(あた)りを見渡すが、彼女はいない。
 急いで広坂通りに出て、探し見ても、彼女らしい姿は、何処(どこ)にも見付けられなかった。
 こんなに彼女を感じているのに、見付け出せない。
(僕は此処だ! 此処にいるぞ!)
 僕は、大声で叫びたい。
 叫んで呼(よ)び寄せたい衝動(しょうどう)にかられ、焦(あせ)りと不安が広がって来る中、ハタと気付き、再び、自分に問(と)う。
(見付け出して、どうする? ……僕は、完全にフラれているんだぞ。……彼女は大学の先輩と、よろしくやっているんだ。……また、見ているだけしかないだろう。違(ちが)うか?)
 其の通りだ。
 悪足掻(わるあが)きにしか過ぎない、僕の一方通行の想いは、何もできなかったし、何も覆(くつがえ)せない。
(彼女の匂いのようだった……。だから?)
 結局、彼女の事は、綺麗(きれい)さっぱりと諦(あきら)めるしかないのだ。
(そう、きっぱりと男らしく……、潔(いさぎよ)く……、真っ新(まっさら)に……、十八才の自分にケジメを付けなければならない)
 そうだ、僕は変わった。
 あの頃とは、違う。
 彼女に、感謝している。
 あれから、ずっと僕は、彼女の幸せを願っていた。
(近くにいるような気がした……。それが?)
 彼女が幸せになるのなら、彼女が望むのなら、彼女を幸せにさせるのは僕じゃなくてもいい。
(感じが……、予感が……、どうしたって?)
 『ありがとう。幸せになってください』と、心から伝えるんだ。
 それだけは、未練だとわかっていても、しっかり彼女を見て、自分の声でちゃんと伝えたい。
 そんな理由付けを考えながら、広坂(ひろさか)通りを市役所脇へ折(お)れて、二十一世紀美術館の前まで戻って来ると、通りが下る向こうから頬(ほお)や首筋を擽(くすぐ)るように、穏(おだ)やかな風が気持ちの良く吹き抜けて行く。
 運んで来た春の香りが辺りに漂(ただよ)い、更に、香(かぐわ)しさを求めて風へ立てた鼻が無意識にクンクンと鳴(な)ってしまう。
(はっ!)
 嗅(か)いだ春の香りに、懐かしい匂いが紛(まぎ)れているのに気付いた。
 今度は、はっきりと、僕は風の中に彼女を感じた。
(やっぱり、彼女は、この風の向こうに、きっといる!)
 通りを下った向こうから、町並みを吹き抜けて来た暖(あたた)かい春風が、路地隅(ろじすみ)に巻かせる旋風(つむじかぜ)に散(ち)らされた桜の花弁(はなびら)を舞い上げて、僕を誘う。
 通りを下った僕は、誘う風が来るの方へと町並みの角を曲がり、緩い曲がりが連(つら)なる細い通りを抜けて、広見(ひろみ)と呼ばれる金沢の城下町独特の、藩政時代に火災の延焼防止に設けられた火除(ひのぞ)け地で広場のような場所に出た。
 左へ行くと、竪町(たてまち)通りを渡って片町(かたまち)へ至り、正面は柿木畠(かきのきばたけ)の路地を抜け出ると、香林坊の界隈(かいわい)になる。
 香林坊から片町へかけての一帯は、金沢市のダウンタウンの一つだ。
(あれは……?)
 香林坊へ抜けようと思った時に、柿木畠を行き交う多くの人の中、向こうから来る一人の女性が、僕の目に留(と)まった。
 其の時、大気が、彼女の匂いに変わった。
 『ドックン』と、心臓がコモ湖で彼女を見掛けた時よりも大きく強く撥(は)ねて、街の喧騒(けんそう)が消え、視界に映(うつ)る全(すべ)てが静止した。
 音の無い、時が止まったセピア色のような世界に、彼女だけが色鮮(いろあざ)やかに見えた。
 それは、ほんの一瞬だったのかも知れない。だけど、僕は確かに止まる時間を感じて、僕が彼女に抱いた全ての想いを湧(わ)き出させていた。
 懐かしい想いが幾重(いくえ)にも重(かさ)なり、喜びに悲しさが、嬉しさに寂(さび)しさが、愛(いと)しさに切(せつ)なさが、覆(おお)い隠(かく)すように被(かぶ)る。
 最後に、後悔を希望が覆うと、静止していた世界が、再び、動き始めた。
(見付けた! やっと、逢えた!)
 彼女の颯爽(さっそう)と柿木畠の路地を抜けて来る姿は、キュートな女子大生スタイルではなくて、スタイリッシュな大人(おとな)のレディそのものだ。
 僕に気付いたのか、彼女の足が止まる。
 彼女は広見の端、柿木畠坂の袂(たもと)に在るポケットパークの前で立ち止った。
 瞳(ひとみ)が…… 僕の方を見ている。
(間違(まちが)いない……。彼女だ!)
 落ち着いた色合いのスーツに、ベージュのコート。
 再び、春風に裾(すそ)を翻(ひるがえ)して彼女が歩き出した。
 ピッタリと張り付いた黒いストッキングが艶(なまめか)しく光るセクシーな足を、ロングブーツの薄いレザーのソフトな光沢で包(つつ)み、ハイヒールの靴音を響(ひび)かせない艶(あで)やかな歩きの彼女が、僕に近付いて来る。
(一人なのか? 彼氏が、いっしょじゃないのか? ……彼氏は別行動で、近くで買い物でもしていて、間近(まぢか)に来た彼女が、僕じゃない誰かに、笑顔で声を掛けたとしたら……)
 僕は、自分の顔と首筋が熱くなり、カァーッと朱(しゅ)に染(そ)まるのを感じた。
 どぎまぎして気持ちが高ぶり、鼓動(こどう)が速く高鳴っていくのとは裏腹(うらはら)に、心は沈んで息苦(いきぐる)しくなってしまう。
 其の大人びた彼女の姿に比(くら)べて、またもや僕は、明(あき)らかに見劣(みおと)りするファッションだと思った。
 チノパンを穿(は)き、春のセーターにジャケットを着て、ちょっとだけシックなカラーで纏(まと)めたカジュアルは、少しはイケてるかもと、自惚(うぬぼ)れていたのに、レディな見栄(みば)えの落ち着いた彼女に圧倒(あっとう)されて、そんな自分のファッションセンスが、ミスマッチだらけみたいに思えてしまった。
 失速して霧散して行く自信に、僕は立ち止ってしまう。
(彼氏といっしょでも、いいじゃないか。もう、時間は戻らない……。これは互いの人生が、虚(うつ)ろな交差をするだけの一瞬にしか過ぎないんだ。そして、二度と逢う事は無いんだ……)
 あのラストデートの出会いが甦り、ググーッと、気持ちがメゲた。
(僕は、彼女を強く誹謗(ひぼう)する酷いメールを送り着けた。怒(いか)り心頭(しんとう)で発する彼女の罵詈雑言(ばりぞうごん)や叩(はた)きや拳(こぶし)に、そして、蹴(げ)りと踏(ふ)み付けを、僕は、真摯(しんし)に受けなければならない)
 自然と顔が俯(うつむ)いて、足許(あしもと)の影の無いアスファルトの地面を見てしまう。
 急かされるように流れる雲が、太陽の明るさを遮(さえぎ)り、辺りに、其の大きな影を落としていた。
 あの夏の立戸(たっと)の浜(はま)で言っていた、相模原(さがみはら)の出刃包丁(でばぼうちょう)を彼女は買っていて、いつか、僕にケジメを付けさせようとバックに隠し持っているかも知れない。
 叩(たた)きも、罵(ののし)りもしない笑顔の彼女が、逆刃(さかば)に握(にぎ)った出刃包丁を、ススッと無言で僕の肋骨(ろっこつ)の下から深く刺し入れるんだ。
 それはもう、バス事故の脇腹の痛さなんて比(ひ)じゃない激(はげ)しさで、絶望的な厳(きび)しさなんだろう。
(其処(そこ)までさせるくらい、彼女を深く傷付けているのなら、刺されても仕方が無い。……切(き)っ先(さき)が心臓の筋肉や大動脈を傷付ければ、きっと……、二度と人生が交差しないどころか、直ぐ其処で、人生が終わっちゃうな……)
 それでも、と僕は思う。
(彼女が、どう思っていようが、僕は普通に話そう。彼女が怒り出して、罵倒(ばとう)されようが、殴(なぐ)られようが、殺(ころ)されようが、想いへの未練を吹っ切れた僕は、もう、身も、心も、彼女次第……、彼女任(まか)せなのだから……)
 顔を起こして、空を見上げた。
 薄い雲の中に、白く平(たい)らに光る太陽が見えた。
 僕は、自分に言い聞かす。
 すべき事は挨拶で、伝える言葉は決めてある。
 それは、短い言葉だ。
 出逢いは、僅かな時間で済(す)む。
(彼女への感謝と、彼女の幸せを願う言葉を言うのだろう)
 そう意を決(けっ)した時、雲から抜け出た太陽が、僕と辺り一面を春の陽の淡(あわ)く麗(うら)らかな光りで明るく照(て)らした。
 僕は、自分を励(はげ)ます。
 静岡の『あの人』は、『君は相模原の彼女を、まだ、想っているよ』と言っていた。
 それは、僕を諦めさせる為の、『あの人』の口実(こうじつ)の一つだった。
確かに、あの頃の僕は自分に言い聞かせて、想いを抑(おさ)えていたところも有った。でも、そんな過去の『相模原の彼女』を未練がましく引き摺っているようでは、先へと、新たな出逢いへと、踏(ふ)み出せない事を、『あの人』は教えてくれた。
 それからの僕は、僕の中の、いつでも取り出せる浅瀬にしか沈めていない『相模原の彼女』を、探せ出せないような深淵(しんえん)へ、深く深く沈めてしまわなければならないと、『あの人』が別れ去るまで、ずっと思って、其の通りに『相模原の彼女』を沈め続けていた。そして……。
 今が、更に、ずっと深く、探せ出せない処まで沈めてしまう、其の時、其の場合だ!
(彼女と、決別(けつべつ)するんだ!)
 十八歳の止まった時間に決着をつけ、彼女を完全に忘れさせす為の一歩を踏み出して、春の光りに照らされる眩(まぶ)しい彼女へと、僕は近付いて行く。
 辺りの何処からも、彼女の彼氏らしきは現(あらわ)れず、どうやら彼女は一人だけらしい。でもこれは、因果応報(いんがおうほう)、望み通りに彼女と巡(めぐ)り会えたけれど、自業自得(じごうじとく)で至った終焉(しゅうえん)だ。
(さあ、逃げないで前へ進め! 諦めろ! これが最後だ)
「やっ……、やあっ……」
 彼女は、僕に逢いたいと思っていたのだろうか?
 彼女も、僕を探していたのだろうか?
 そんなはずが無い。
 そうなる理由が思い付かない。だけど、もしかして、逢いたいと思っていても、探していたとしても、其の理由に、僕が安心できる要素は一つも無いはずだ。
(たぶん、其の理由は、僕を徹底的に打ちのめして遥(はる)か彼方(かなた)へ突き飛ばし、もう、戻れないほど暗く深い処(ところ)へ落とし込む言葉を言う為だろうから……)
 僕は、僕が彼女に殴(なぐ)られ、張(は)り倒(たお)されるべきだと思う。
 間近に彼女を見て驚いた。
 僕は、綺麗な薄化粧(うすげしょう)をしてセクシーになった静岡の『あの人』が好きだったのだけど、上手(じょうず)に薄く化粧をした彼女の顔は、『あの人』に況(ま)して、とても魅惑(みわく)的に思えた。
(ダメだ! どんなに恋焦(こいこ)がれても、もうダメなんだ……)
 僕は、何度もした覚悟(かくご)を繰り返す。
「久(ひさ)しぶり。金沢に来ているんだ」
 できるだけ、不安な内心を悟(さと)られないように普通に立ち、当たり障(さわ)りのない言葉を選(えら)びながら、彼女の無情(むじょう)な反応を覚悟する。
「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、あなたと交(かわ)した履歴(りれき)を、全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも、あなたから連絡できないように変えたわ」
(ええっ! 彼女は今、何を言ったんだ?)
 いきなり、僕の否定(ひてい)から彼女は話し始めた。
 膝(ひざ)と股間(こかん)が笑い、足裏から足首までが高所の縁(ふち)に立った時の様に感覚が薄れてソワソワする。
 一気(いっき)に僕の、『もしかして』の僅かな望みは地中深くに潜(もぐ)り込んでしまい、急変しそうもない状況は覚悟に覚悟を重ねさせた。
 僕は突然、彼女が開けて広げた大きな絶望の穴の縁に立たされてしまった。
 やはり、無理矢理、偶然を必然にしようとした再会は、踏み留(とど)まる想いも、掴(つか)まる希望も、探し出せない。しかも、予想を上回る彼女の痛烈(つうれつ)な言動は、吹き荒れる超低温の疾風(はやて)のように、僕の心臓を刹那(せつな)に凍(い)て付かせ、思った通りの失望の出逢いにさせてくれた。
 残念ながら、僕の前に、魂(こん)の穢(けが)れを祓(はら)って縁(えん)を結(むす)ぶ菊理媛(くくりひめ)は現れなかった。
(彼女は、……僕を許さない)
 よろける僕を抱(だ)き留めて寄り添うのは、死の淵(ふち)へ招(まね)き寄せて黄泉(よみ)へと送り、汚(けが)れた魄(ぱく)を浄化(じょうか)する瀬織津姫(せおりつひめ)だ。
 僕は思う。
 白山市の鶴来町(つるぎまち)の白山比咩(はくさんひめ)神社へは、良縁の願掛(がんか)けに、そして、金沢市の別所町(べっしょまち)の瀬織津姫神社へは御清(おきよ)めの御祓(おはら)いに行かねばならないと……。
 眉間(みけん)に力を入れて、寄せる眉(まゆ)の彼女の細めた眦(まなじり)からは、『小賢(こざか)しい奴に遭(あ)ってしまった』と、踏み潰(つぶ)しそうになった汚物(おぶつ)を呪(のろ)う、『汚(きたな)い、汚らわしい、芥(あくた)、澱(おり)』の意を籠(こ)めた嫌悪の罵りが聞こえて来そうだ。
「だから、あなたに、メールをできなくしたの」
 繰り返された追い打ちを掛ける彼女の言葉に、頭と身体がグラつく。
 絶望の穴へ僕を追い落とそうと、背後から吹き付ける突風のように、気持ちの温度を一気に下げさせた。
 目に映(うつ)る全ての色が、反転して目眩(めまい)がする。
 直ぐ其処まで凍て付く暗闇(くらやみ)が迫る風雪(ふうせつ)の中、霞(かす)む太陽も、仄(ほの)かな灯りの一つも、見えはしない。
 突き飛ばされて、正(まさ)に落ち込もうとする底の見えない真っ暗な穴は、大きく広がり、僕は、僕の中の世界の果てに連(つ)れて来られて、其の先の空虚な闇へ追い遣られようとしていた。
 直接、彼女の生声(なまごえ)で聞く、凍(こご)えてしまいそうな辛(つら)い言葉は、僕の頭の中で一音(いちおん)ずつ大きく響(ひび)き渡り、反響(はんきょう)で頭がガンガンと殴られているみたいだ。
 小学校六年生の梅雨の日に、初めて彼女に声を掛けた時から、七年間の想いを積み重ねて来た結果が、この仕打ちだ!
 以前は、それが悔しかった!
 凄く激しく、途轍も無く、悔しかった!
 『彼氏が出来たの』、突然の彼女からの御別れ宣言が着信するまで、確かに僕は、彼女の幸せを心から願っていた。だが、僕が願っていたのは、僕が何処にもいない、そんな彼女の幸せではなかった。
 やっと彼女と大接近に至った七年間の日々と、彼女の右側に僕が選ばれている事へ拘っている自分と、幸せになろうとしている彼女を全く素直に祝福できない憤りが、彼女への愛を罵り呪う怒りに換えてしまっていた頃を思い出させる。
(……ちっ、違う! もう憤りは静まり、僕の虚ろな虚しさと悲しみは、癒しに満たされて、怒りは既に消えいる……。だから、彼女の罵りは耐えて受け入れるんだ! 其の為に、僕は、彼女との出逢いを求めていたんだ。それに、彼女が僕に酷い言葉をぶつけるのは、当然だろう。非と恥は僕に有る!)
 彼女の映る視界が暗くなり、足許の感覚が消えて行く。
(この……、堪えられない時が過ぎるまで、膝を突いて、顔を伏せ、蹲りたい……)
 もう、立っていられなくて僕は、失望と絶望から逃げるように仰(の)け反(ぞ)り、腰から下の地を踏む感覚が無くなった足を交互(こうご)に動かして、どうにか傍(そば)のポケットパークに入った。
 パークに置かれているオブジェが、映画のスクリーンを観ているように僕に迫(せま)る。
(やっと巡り逢えた第一声が、これか……。そうだろうなぁ、彼女の心情を察(さっ)すれば、こうなるに決まってるさ。やはり、以前のようにタカビーな態度で、惨(むご)い言葉を浴(あ)びせられるのだろう……)
 もたつく足取りを必死に操(あやつ)り、やっとの思いでオブジェに腰掛けた。
(止(や)めてくれ! これ以上、どうか、僕を打ちのめさないでくれ! ケジメを付けたいなら、頼むから、早く一思(ひとおも)いに殺(や)ってくれぇ!)
 僕は、心の中で必死に訴(うった)え、絶望的な状況を理解しようと、沸騰(ふっとう)寸前の華奢(きゃしゃ)な脳をレッドゾーン振り切りで急回転させて、臨界点(りんかいてん)オーバーの思考をさせる。
 感覚の無い膝に手を置くと、小さく小刻(こきざ)みに震(ふる)えていた。
(逃げ出したい!)
 気付(きづ)き難(にく)い小さな震えだけど、僕の中でガクガクと、はっきりした大きな震えに感じた。
(こうなるのは覚悟していたのだろう。逢えたとしても……、どうにもならないって事を、わかっていたのだろう)
 オブジェに座り、震える膝を抑えても、焦る心は全然治(おさ)まろうとしてくれない。
 僕は、溺(おぼ)れる者が藁(わら)をも掴もうとするように、彼女の言葉を肯定(こうてい)して些細(ささい)な反撃を試(こころ)みる。
「そうだったんだ。全然、繋(つな)がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は、君に随分(ずいぶん)と嫌われていたんだな」
 溺れながら助けを求めるように、声を振り絞(しぼ)って叫ぶように言った。だけど、声が大きくなったのは最初だけで、彼女を愚弄(ぐろう)した酷(ひど)いメールで、『心底、完全に』、彼女が僕を嫌っていると分かっていても、敢(あ)えて軽めな『随分』と、姑息(こそく)に換(か)えた辺りから声が震えてしまって、小さな声になってしまう。
 勢(いきお)いも無く、全然叫べていない。
 僕の言葉と気持ちが、……溺れていた。
 途端(とたん)に涙(なみだ)が止め処(ど)なく溢(あふ)れ出て、触(ふ)れたくなかった彼女への罪(つみ)の思いに、両手で顔を覆う。
 あの横浜港の大桟橋(おおさんばし)を歩いた日から二年近くを経(へ)ても、僕は、彼女の気持ちを穏やかにさせるどころか、険(けわ)しくさせている。
(彼女にとって、それくらい酷い奴に、僕は、成り果てていたんだ……?)
「君の気持ちを、全(まった)く考えていなかったんだ。僕の都合(つごう)だけの好意は一方的だった。君を、どうにか、僕だけの女にできたと、苦労して、やっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換えにしてもいいと思ってしまっていたよ」
 指の間から垣間(かいま)見る彼女の顔は、溢れる涙で滲(にじ)み、良く見えていない。
 ただ真っ直ぐに、僕を睨(にら)みつけているように見えた。
「違(ちが)うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」
(何を間違っていたと、言っているんだ? 直接、否定する為に、僕を探していたのか?)
 彼女が、もっともっと、辛い言葉をぶつけてくるような気がして、僕は目を瞑(つむ)り、強張(こわば)る身体で身構(みがま)えた。
(抗(あらが)え! 抵抗(ていこう)しろ! これ以上、彼女に酷い言葉を言わせるな! 踏み止(とど)まれ!)
「僕は、何度も君にフラれたよね。其の度に、どうすれば、君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰(もら)えるように努力したんだ」
 其の努力した結果が、これだ。
 望み薄な願いの空振りばかりの僕の行動は、君の心を摑み切れないまま、二度と、手も、声も、届かない広大な川の早瀬(はやせ)の向こうへ離れさせてしまった。
「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)、話し掛け辛くなって、察しも、思い遣りも、気配りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再(ふたた)びってわけじゃないから、もう、安心してくれ」
(……言ってしまった)
 未練がましい言い訳のように続けた言葉に、自ら終止符(しゅうしふ)を打つ。
 君への想いと行動も、もう御仕舞(おしま)いだ。
「君が、……元気そうで何よりだよ。……幸せなんだろう?」
 更に終止符を強く、御仕舞いの幕引(まくひ)きを厚(あつ)く重ねる為に、近況を尋(たず)ねながら見た彼女は泣いていた。
(……泣いている! なぜ? 彼女は泣いているんだ?)
 僕が送った酷いメールは、やはり届いていて、彼女を深く傷付けている。
 其の最低な内容を思い出しているのだろうか?
(君の辛い言葉責(ことばぜ)めで、泣いているのは、……僕なのに?)
 それとも、自分の責めに怯(おび)える相手を憐(あわ)れんで泣いているのだろうか?
 こんなにも、僕を打ちのめさせる惨い言葉を、彼女が泣きながら言うくらいに、僕は彼女に酷い事をして辛い思いをさせてしまっていたのだ!
 必然にしてしまった出逢いへの後悔に、一瞬、静岡の『あの人』が浮(うか)ぶ。
 駅のホームの端(はし)で手を振る、『あの人』の姿だった。
 思い出しても、もう救(すく)われる事は無いのに、僕は『あの人』の記憶へ逃げようとしている。
(『あの人』は、もう、有り得ない! 後戻りはできない。さぁ、先へ進め!)
 僕は、過去の戻れない思い出に助けを求めようとしていた。
 溢れる泪(なみだ)の膜(まく)に浮かんだ、『あの人』を振り払い、僕は伝えるべき想いのラストへと、言葉を繋ぐ。
「最後のメールで送った、『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も、君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」
 未練をぶつけ終えた時から思い続けて来た、締めの…… 最後のメールの一文(いちぶん)を、彼女を見詰めて言った。
(そうだ、それでいいんだ……。これを言う為に、僕は、彼女を探していたのだから)
 これで、伝えるべき想いは全て言った。
 彼女の中の僕のメモリーが、少しでもヘタレから良い姿になることを願った。
(もう、彼女の声を聞くことはないだろう……。あとは格好良く、シャンとした無言の後姿を見せて、振り返らずに、この場を早く離れるだけだ。背後から、ドスッと刺しに来るかも知れないけれど、できれば、……未来を残してくれないかな)
 僕の思春期は、彼女だけを一途(いちず)に愛していた。
 それは今も、僕の誇(ほこ)りだと思っている。だから、彼女は本当に僕の大切な人で、漸(ようや)く出逢えた彼女の前で、僕は彼女の言葉に泣けるのだと思う。
 僕は、今までの彼女を大事(だいじ)にしたい。
(もう充分(じゅうぶん)だ。彼女は、まだ、怨(うら)みを晴らし切れていないだろうけれど、刃傷沙汰(にんじょうざた)の罪(つみ)を彼女に負(お)わさせる前に、僕は早く退散(たいさん)した方がいい)
 此処を登り切れば、速(すみ)やかに姿を消せるだろうと、直ぐ傍の柿木畠坂を見上げて、僕は体を動かそうとした。
(お互い長生きして縁が残っていれば、いつかまた、世界の何処かで、君と僕の人生が交差する事も有るさ。今日のように出逢うかもな……。其の時は、今日とは違った思いで遭えれば……、良いな……)
 其の時、彼女の優しい声がした。
「私、わかったの」
 抗う手札(てふだ)を全て出し切って、もう為(な)す術(すべ)も無い泣き顔の僕を、彼女は、涙目の蔑(さげす)むような上から目線で見据(みす)えながら言った。
(今更、僕を憐れんで、いったい何が分ったと言うんだ!)
 言ってから彼女は、僕の前に跪(ひざまず)き、まるで、慈悲(じひ)を与えるかのように僕の手を握り、涙で濡(ぬ)れる優しい顔で、僕の顔を見詰めた。
 冷(ひ)えた手の甲(こう)に触れる、彼女の手が温(あたた)かい。
(なんて、君は残酷(ざんこく)なんだ……。涙に潤(うる)む優しげな瞳で、君は僕を見詰め続け、其の上辺の愛しさで僕の胸を締付(しめつ)けさせながら、僕を軽蔑(けいべつ)しているのだろう。君の優しい声は、僕に安(やす)らぎを与えながらも、辛い言葉を言うに決まっている……)
「あなたが、私を大切にしていた事が……、どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」
 僕は怖(おそ)れた!
 今も、彼女が僕にとって幸せな言葉を連(つら)ね、オチが不幸な結末をトレースするだけの出逢いになる事よりも、再び、僕の目の前から消え失せてしまわないかと、不安になる言葉を彼女は言ってくれる!
 ぐぐっと、近付けた彼女の顔に、優しい声が続く。
「あなたは、私が嫌いな、私の残酷(ざんこく)で冷たい部分を、いつも、受け止めていてくれたわ」
 彼女の優しい態度、優しい表情、優しい声が、優しい言葉が、僕を凄く不安にさせる。
 失踪(しっそう)、消息不明……。
 この先、もし……、もしもだ。
 有り得ない事だと分かっているけれど、状況が急変して、彼女と僕が、いっしょに暮(く)らし始めても、或(あ)る朝、目覚めた僕の横に感じていた彼女の温もりや気配は無くて、彼女は忽然(こつぜん)と、彼女の身の回りの物と共にいなくなってしまう……。
 また、或る日、残業を終えて帰宅すると、部屋の中の彼女が絡(から)む、一切合切(いっさいがっさい)の物が彼女自身と共に消え失(う)せている……。
 騒ぐ不安に、そんな悲しい想像をしていまう。
 彼女の手を、僕は握り返す。
 初めて僕から触れようとして、僕の手が彼女に触れる。
(彼女の掌(てのひら)は温かくて柔らかい。僕の手も、彼女は温かいと感じてくれているだろうか?)
「僕は、君を嫌(いや)な人だと思った事は、無いよ」
 最愛の彼女との予兆(よちょう)も、予感も無い突然の生き別れ。
 別れの理由や原因も分からず、不安と焦りと切なさの自分を責め続ける後悔の日々。
 この世界の何処かで必(かなら)ず生きているはずだと思っているけれど、探し出す手懸(てがか)りが無い。
 僕は、更に、不安を想像する。
「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕は、いつも不安だった」
 不慮(ふりょ)の事故や事件に因る死、病気や自殺での他界などなど、全く僕が知らない内に、今生(こんじょう)の世界の何処にも、彼女がいなくなってしまう。
 どの想像も、絶対に嫌な事で、僕を凄(すご)く不安にさせた。
 僕の指は、彼女の乱(みだ)れた前髪を梳(す)かして、涙に濡れる其の頬に触れる。
 陽射(ひざ)しが翳(かげ)った春の外気で冷たくなった彼女の頬に、流れ伝う涙の筋が温かい。
 頬に触れる僕の手を気にするようすも無く、彼女の潤む瞳は、真っ直ぐに僕を見詰めたままだ。
 目の前で瞬(まばた)きもせず、じっと僕の目を見据える彼女に、頬に触れている手が震えた。
「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは、間違っていたの。あなたは私に、いつでも一生懸命だったわ」
 間近に迫る愛しい顔が、また、悲しい言葉を言う。
 やはり、彼女は僕を蔑み見下していた。
(そう、僕は、君に一生懸命(いっしょうけんめい)だった。なのに……)
 涙が溢れた。
 彼女が好きで……、きっと、彼女を想う僕の不器用(ぶきよう)な一生懸命さが不甲斐無(ふがいな)くて、彼女にイラツキとジレンマを感じさせたんだ。
「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖かった。でも、そうなってしまったよ」
 彼女は、過去の事を言っている。
 今更、過ぎ去った僕の想いの強さに気付かれても、今の僕には慰(なぐさ)めにもならない。
 ずっと、彼女に嫌われないようにしていたのに、結局は、僕の鈍(にぶ)さが決定的な想いの破滅(はめつ)を招いてしまった。
「僕でなくても……、君に……、相応(ふさわ)しい人がいるよ」
(既に、大学の彼氏と上手(うま)く遣っているんだろう。君は、これからも彼氏と幸せであれば良いさ。僕は今でも君を愛しているけど、愛する故に、心から君の幸せを願っているよ)
 僕は、静岡の『あの人』から『愛』を諭(さと)された。
 くすぐったい響きの言葉だけど、愛が有るからこそ、素直に彼女の幸せを願える。
(数秒後に此処で別れたら、もう、君を捜さない。二度と、君と逢う事は無いだろう。だから、安心して幸せになってくれ。永久(えいきゅう)にサヨナラだ!)
「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。……好きなのが、……わかったの」
 予想していなかった彼女の言葉に、一瞬、其の言葉の意味が解(わか)からず、僕は戸惑(とまど)った。
(ええっ? えーっ!)
 幻聴(げんちょう)かも知れない?
 聞き間違い?
 僕は、自分の聴覚(ちょうかく)を疑(うたが)う。
 何度も、『SAY YES』を強要したいと思った僕が、心底望んだ言葉を、彼女は言ってくれた!
(……信じられない! いや、言葉は過去形…… なのか?)
 そうかもと、思った時も有った。でも、今に至っては、とても信じられない。
「あなたじゃないと、……嫌なの。……じゃないと、私、ダメだったの……」
 彼女は、僕を求めていた……。
「……まっ、まだ、間に合うの? 私、まだ、間に合う?」
 ハラハラと涙を流す彼女を見ていたら、また、僕の目に泪が溢れてきた。
 嬉しくて、僕は泣いている。
 嬉しさが可笑(おか)しさに変わって、僕は笑い出しそうだった。
(ありがとう。僕は……、ずうっと君の、其の言葉を聞きたかったんだ)
 嬉しさで表情が崩れて笑顔になりそうなのと、僕への想いを懸命に伝える彼女が可笑しくて、笑い声を出しそうになるのを、グッと力付(ちからづ)くで圧(お)し殺して、僕は言う。
「……いつも、僕は探していたよ。いつか、何処かで、君に会えると信じていた。其の時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」
 悲壮な堅い表情を、無理に作ろうとする。
 眉間に皺(しわ)を寄せ、瞼(まぶた)に力を込めながら目を細め、奥歯を噛み合わせて言ったので、言葉は低い小さな声になってしまった。
「今……、お付き合いしている女性が、……いるの?」
 僕の身辺(しんぺん)を探るような彼女のフェイクではない言葉に、イニシアチブが僕側に有るのを実感した。
(すっごく嬉しいけど、笑うな! 彼女は、笑ってしまうような可笑しいことを、何も言ってはいない!)
 嬉しさは、達成感……、征服感……、なのだろうか?
「いないよ」
 屈辱(くつじょく)の敗北感(はいぼくかん)に打ち拉(ひし)がれた想いが、思いもしない突然の大逆転に、気持ちは平伏(ひれふ)す相手を支配するダークな喜びに満たされてしまう。だけど、僕は彼女を支配していないし、征服もしたくない。
「私でいいの? 凄く酷い事を言ったし、とても、冷たくしたわ」
(そう、確かに君は、残酷で冷淡(れいたん)だった)
 残酷で、つれない彼女の態度と言葉は、いつも僕を不安させて焦らせていた。
 今もサプライズで、そのタイミングを狙(ねら)っているのかも知れない。でも僕は、そんな彼女も嫌いじゃなかった。
 涙が溢れてウルウルする彼女の瞳を見詰めながら、ゆっくりと僕は頷(うなず)いた。
「わぁーっ」
 いきなり彼女が顔を逸らして大声で泣き出した。
 僕の知っている彼女は、ここまでのサプライズはしない。
 僕の笑いたい気持ちは消し飛んでしまった。
 もう、可笑しくもなく、彼女を笑う事はできない。
「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」
 小さな女の子が、泣きながら謝っているみたいだ。
 彼女は、真摯に謝っている。
(許すだなんて、……許されたいのは、僕の方なのに……)
「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」
(それは、僕が、君に言いたい言葉だよ)
 真摯な言葉は、素直な心で受け止めて、真摯に素直な気持ちを伝えなければならない。
「今でも僕は……、君に好きになって貰えるように頑張(がんば)っているんだ。だから、僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。其処は、とても広くて、僕の全てなんだ」
 目の前の女性に語った言葉は、自分の心の中や気持の中を住み分けてしまう、卑(いや)しい汚さへの言い訳だった。
 僅か、一年半ほど前まで、僕の全てだった女性が、僕へ、『私を好きになって』と、泣きながら言っている。
 未練だらけの日々の後、綺麗さっぱり諦めていたけれど、僕は、彼女を少しも厭(いや)になっていなかった。
 其の彼女が、僕に今、『私を、嫌いにならないで』と、泣き顔で頼んでいる。
(好きだ! 今も好きだ! 大好きだ!)
 けれど、彼女を好きでいて良いのかと、僕は、迷(まよ)う気持に悩んでしまう。
「僕は、君に初(はじ)めて声を掛けた、あの日から、ずっと、君が好きだ!」
 多くの苦しみに悩んでも、悲しみに耐えて苦しむのは、とても辛い。
 苦しさに呻(うめ)いても、悲しさに嘆(なげ)きたくはなかった。
「手が……、汚(よご)れて、汚(きたな)いよ……」
 言われるまで、全く意識していなかった。
 そう言われてからも、少しも汚いとは思わなくて、寧(むし)ろ嬉しい。
「汚いと思わないよ。君の手が、ずっと好きだったんだ。僕は、君の指と爪を、初めて見た時から、ずっと、愛しいと思っていた……」
 小学六年生の春、彼女に声を掛けたのは、彼女の四角(しかく)い爪に興味を惹(ひ)かれていたからだ。
 新学年の初日に初めて彼女を見た時に僕は、其の指先に気付いた。
 彼女は四角い爪も、自分のも、全然意識していなかった。
 僕が気付いて意識した四角い爪は、彼女の外見上の欠点ではなくて、全く逆の彼女が醸(かも)し出す美しさの一つで、彼女の可愛らしさと美しさは後付けだった。
 滑(なめ)らかで光り輝(かがや)く完全なる真円球の洗練された美形より、ザラついて艶の無い表面の玉子形で、所々に突き出したり、凹(へこ)んだりした角錐や半球の形が艶々(つやつや)して、『此処を見て!』って主張する美しさを、僕は彼女に感じていた。
 其の爪も、既に、角(かど)が丸くなって四角ではなくなっている。
「あなた、が、好き、よ」
 喘(あえ)ぐ彼女の息に、意思を強く込めた声が聞こえた。
 彼女が、言葉の一つ、一つに力を込めて、はっきりと言い直してくれている。
 彼女の声は、全然ブレていない。
(柔らかくて、温かい……)
 『汚れて汚い』と、自分を貶(おとし)める彼女を否定したくて、思わず顔を寄せ、自分を非難する言葉を続けそうな開きかける唇(くちびる)を塞(ふさ)ぐように、僕は優しく唇を重ねてしっかりとキスをする。
 唇に少し荒(あ)れた筋を感じるけれど、プリッとした柔らかさが彼女らしいと、高校一年生の下校のバスの中で、隣(となり)の窓際の席で眠(ねむ)る彼女の唇へ黙(だま)ってした瞬間的なキスを思い出し、シリアスになる気持ちを僕は逸らした。
(あはっ……、今日は、ニンニク臭(くさ)くないな)
 僕を求めて泣きじゃくりながら、好きだと言って謝る彼女を、僕は、心から愛しいと思う。
 重ねる唇は、彼女の唇を軽く噛む様に吸(す)って開かせ、僕は舌先(したさき)を中へなぞせて行く。
「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」
 一度、言葉で彼女へ届ける事が出来た僕の気持ちは、テレも、躊躇いも無く、はっきりとした言葉で、これから何度でも、届けられると思う。
 ふらりと力が抜(ぬ)ける彼女を強く抱き留めて、重ねた唇の中で舌先を少しだけ絡めてから、唇と彼女の身体を離す。
 彼女が声にした想いの言葉に、僕は、僕の想いを強い声の言葉にしなければならない。
「君を……!」
 更に、マキシムな恋の言葉を贈(おく)ろうとする僕の唇に、再び、彼女が、そっと触れるように唇を重ねて遮り、僕が言い掛けた言葉に上書(うわが)きする。
「愛しているわ」
(あっ! ああっ?!)
 彼女の想いに応(こた)えようとする僕の言葉を遮って、彼女は、何処までも透明(とうめい)で清浄(せいじょう)な言葉を続けて行く。
「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」
 彼女が言い放(はな)った『愛』の響きと唇の動きが、僕の愛しさが零れそうな唇を擦り、恋する想いの緊張を擽りながら、心地好(ここちよ)く僕の源の奥深くへと入って、滑らかに広がって行く。
 彼女の愛の言葉に、彼女の瞳が映る視界の隅(すみ)に霞(かすみ)が掛かり、まるで、立戸の浜で彼女の膝枕(ひざまくら)で見た夢の続きみたいだと思った。
 身体が気怠(けだる)くて、熱っぽい感じがする。
 膝が鈍く震え、足の裏が重くムズムズしている。
 彼女を抱きしめる掌や指は、手袋をして触れているような感覚になり、薄れる実感に、彼女が希薄になってしまう。
 まるで、RPGシュミレーションゲームのアバターにシンクロしたように、自分の指や手や身体じゃない感じがして、違和感(いわかん)があった。
 僕は興奮して、気持ちが舞い上がっている。
 浅く速い呼吸と高鳴る動悸(どうき)、上昇する血圧に酸素が足りない。
 ボーッとした夢見心地のときめきが、なんだかフワフワして良い気持ちだ。
 気持ちを浮遊させながらも、僕も、彼女に伝えなけらばならない言葉が有ると、乖離しそうな意識を重力の井戸へ落とすように、心に密着させて結び止め、そして、鮮明にさせる。
 これまで、『愛してる』の言葉は、僕の一方的な想いから言っていて、重みが薄れてしまいそうに感じていた。だけど、今は、しっかり其の言葉を言う場面だっだ。
(さあ、抱き寄せて、『愛してる』って言うぞ! ……でも、彼女は、『まだ、言わないで』と言っているのは、なぜ?)
 僕の表の建前と裏の本音との差異を、彼女は分かっていて言ってくれているのだろうか?。
 単純に彼女から返される冷たい言葉を、恐れただけの無口さで気遣う、明るく陽気(ようき)?な普段面(ふだんづら)の建前と、本音が出てしまう、自暴自棄(じぼうじき)の衝動に駆(か)られた自爆覚悟の罵りを連ねるだけの物言(ものい)いに、報復(ほうふく)に何を仕出かすか分からない、戦闘的な行動をする、僕の理性を失った暗部(あんぶ)というか、恥っ晒(はじっさら)しの面の全てを、既に、彼女に知らしめて、彼女に害を与えている。
 それを知っているのに、僕を『愛してる』と言ってくれた。
 だから、彼女が、僕の知らない彼女の想いを僕に伝えたいと察した。
 求めていた偶然の出逢いを、泣きじゃくって互いの想いを伝え合っただけで済ませたくない。
 僕は、もっと深く彼女の想いを知るためにも、今日の残りの時間の全てを、彼女と触れ合っていたいと願う。
「これからどうする? 僕は休みだから、時間は十分有るよ」
 涙目を逆(さか)さ三日月(みかづき)にして二コリと微笑(ほほえ)む彼女に、僕は『しまったぁ……』と思う。
 其の和(やわ)らげな態度と優しげな姿に、大胆(だいたん)で頑固(がんこ)な一途さと意地悪(いじわる)な腹黒(はらぐろ)さを秘(ひ)めているのを、僕は身に染みて知っている。
 彼女は、今日のような遭遇(そうぐう)を予想して、酷く誹謗(ひぼう)した言葉を連ねた僕へ貶(おとし)めの報復(ほうふく)を狙(ねら)っていたのかも知れず、其の為に、身を挺(てい)して僕を罠(わな)に掛ける意思の強靭(きょうじん)さを彼女は持っている。だが、見た目通りの優しさと素直さの彼女と親しく接したのも、良く憶(おぼ)えていて、そんな彼女を僕は、いつも探し求めていた。
(さあて、今の彼女の心は、どっちに振れているんだろうなぁ)
「羽田(はねだ)への最終便のチケットが有るから、それまで、私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言って来ちゃったしぃ、予定なんて無いしねぇ……、そうだ! 今からデートしよう。訊(き)きたいことも有るしさ。それから、小松(こまつ)空港まで送ってくれる? そして、私を見送ってくれる? 駄目(だめ)っかな?」
 互いに気持ちが通じ合い、安心したように見える彼女は無警戒(むけいかい)に明るくて、立戸の浜の時と同じだと思った。
 僕が著(いちじる)しく身勝手(みがって)な振る舞いや言動を放たない限り、もう、バス事故の日みたく警戒を滲ます事も、大桟橋の行き帰りのような黙って不穏(ふおん)を漂わす事は無いだろうが、いつ、復讐(ふくしゅう)の言葉を吐き、罠に陥(おちい)らされるか、安心は出来ない。
「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初は何処から行こうか?」
 何か、軽いノリで受け応えしている感じがする。
 以前のメール文のように、ズケズケと言葉にする程度しか変化していない彼女に比べて、僕は随分と拘(こだわ)りも、躊躇いも無く、はっきりと言葉にして話せている。
(変わったのは、僕の方だ……)
 僕は、僕自身が大きく変わっているのを、改(あらた)めて自覚した。
 金沢市の大抵(たいてい)の繁華街やモールは知ってはいたが、高校三年生の前半までは、ダチの男連中とばかり連(つ)るんでいたから、女子の好む売り場や飲食店へは入った事が無かった。
 高校三年生の後半に弓道部や他校の女子とか、妹の買い物に付き合った経験からくらいしか、彼女といっしょする場所が思い付かない。
 そもそも、中学生の時から彼女と二人でデートして、行き付けの店なんて作りたかったのに……。その誘いを悉(ことごと)く拒んでくれたのは彼女だ。
(そういえば、さっきも行って来た二十一世紀美術館の白いカフェは、彼女に連れて行かれて知ったんだっけ。……でも、あそこはバスが事故った日を懐かしむだけで、本心を暈(ぼ)かされそうだから、ダメだな)
「お腹が、空いたわ」
 そう言って彼女は立ち上がると、僕の手を取って歩き出した。
 何処か、僕を連れて行く当てが有るのだろうと思いながらも、彼女から積極的に手を繋がれた事が凄く嬉しくて、顔がニヤつき始めるのが分かった。しかも、手を腕(うで)に廻(まわ)して繋ぎ直すと、僕に寄り添うように触れて歩いてくれる。
 流す涙を拭(ぬぐ)い、謝りを受け、愛を告白され、キスを交わし、腕を組んで歩く。
 ずっと、独(ひと)り善(よ)がりだった僕の祈りは届いて、とうとう、其の願いは叶(かな)った。
 ニヤついて緩みっぱなしの顔を、彼女に悟(さと)られないように青空を仰ぎながら、降りて来た幸せと、明るく照らされたい僕達の始まりに、彼女を薫らせてくれた春のゴッドブレスへ感謝する。
(そう、これからだ。ああっ、神様、恐悦至極(きょうえつしごく)です。ありがとうございます!)
 此処は柿木畠という短い通りで、竪町、里見町(さとみちょう)、香林坊、広坂通り、片町などに囲まれた金沢市の中心的繁華街の一部だ。
 少し歩けば、長町(ながまち)の町屋街や長土塀の武家屋敷街、野町(のまち)の広い坂道沿いの西の郭街、南町(みなみちょう)の商屋街などへ歩いても近い。
 武蔵が辻(むさしがつじ)や橋場町(はしばちょう)や兼六園下(けんろくえんした)は、ちょっと離れていて歩くには遠いけれど、彼女が望むなら、郊外でも僕のSUV車で連れて行ける。
「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」
 安心して気が緩み、アホを言ってしまった。
 内心、地雷を踏みそうなトラウマを上書きして仕舞いたい。
「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先に、ランチもしているダイニングバーが在るの。其処でライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」
 僕の冗談を軽く受け流し、『柿木畠』の碑(ひ)の横で満開の枝垂れ桜(しだれざくら)に手を伸(の)ばしながら、優しい笑顔の彼女は、明るく僕をランチに誘う。
 この時、僕は、小学校の教室で窓際の机の上に両手を投げ出して、春色に光る眩しい窓の外を、目を細めて眺(なが)めていた彼女を思い出していた。
 春の青空と満開の桜を見上げ見る彼女は、とても、幸せそうに見える。
 僕達は手を繋いだり、腕を組んだりして竪町通りを歩いた。
 手を繋ぎ寄り添うのは、いつも彼女からだった。そして、『こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と、問うように、ちらちらと僕の顔を見る。
 恥ずかしがるように、少し逸らした顔を空へ向けながら、繋いだ手を大きく振って、次の一歩を弾(はず)むように跳(は)ねた。そして、振り向いた顔が僕を見てニッコリ笑う。
 唐突(とうとつ)に後頭部が粒子(りゅうし)に分散して行くような、首筋や肩の力が蒸発(じょうはつ)して失われてしまうみたいな、そんな脱(だつ)力(りょく)感(かん)が僕を襲(おそ)い、顔がクタッと蕩(とろ)けて倒れそうになる。
(もう一度、今のを、して見せて下さい!)
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 竪町通りの中程(なかほど)を曲(ま)がって、彼女が依然(いぜん)に両親とディナーに来たと言うダイニングバーに着いた。
 何かを確かめるような素振(そぶ)りで、彼女は店内に入りテーブルに着く。
 ダイニングルームは、ほぼ満席で賑(にぎ)わっていて、僕も、彼女に促(うなが)されるままに座った。
(何か、この店に思い入れが有るのかも知れない)
 そう思いながら、彼女がオーダーしたランチコースを食べる。
 薦(すす)めてくれたフォアグラステーキは、想像していたのよりも、ずっと、豊潤(ほうじゅん)な味わいだった。
 牛レバーとは全く違う、濃厚(のうこう)な深みのある旨味(うまみ)は蕩けるような軟(やわ)らかさと相俟(あいま)って、とても美味(おい)しくて幸せな気分にさせてくれた。
 赤ワインが有れば素晴(すば)らしいと思うけれど、SUV車を運転しなければならないからアルコールはダメだ。だから、僕はジンジャーエールを飲む。
 食前酒のキールすら飲めないのが、残念で悲しい。
 向かい席の彼女は、レアで焼いた柔らかそうな分厚(ぶあつ)いステーキを切り取り、僕がオーダーできなかった赤ワインを美味しそうに飲みながら食べている。
 実に旨そうだ。
(いつ、お酒を飲めるようになったのだろう? しかも渋(しぶ)め…… じゃなくて、辛口(からくち)の赤ワインを!)
 いつも僕が思い描いていた、穏やかで楽しい気持ちで満たされて、彼女と美味しい料理を食べる場面が、今、然程(さほど)どころか、アプローチの苦労も全く無く、誘われるままに実現しているが、有り得ない超常現象のように不思議(ふしぎ)だった。
 食べながら僕達は、携帯電話の番号とSNSアカウント、メールアドレス、パソコンのメールアドレス、以前は知らせて貰えなかった彼女の相模原の住所、僕が勤(つと)める親父の会社と家の場所と固定電話の番号などを教え合い、名刺(めいし)も渡した。
 僕の携帯電話番号とアドレスは、最初から同じで、ずっと、変えてはいない。
 金輪際(こんりんざい)以後、変更されて分からなかった彼女の携帯電話とパソコンのメールアドレスやアカウントネームは、変更前が、『Yinghua、インファ』という中国語の桜花(おうか)から、いずれも、『Cerezo、セレッソ』へ変わっていた。
 スペイン語で、桜という意味だそうだ。
(彼女は、本当に桜が好きなんだな。でも、スペイン語って……、僕のイスパニアの白ワインに合わせてくれたのか?)
 それから、季節が春から夏に移る頃に、僕が相模原の彼女の部屋へ遊びに行くという、貴重な約束をした。
 其の次は、夏休みに入った彼女が金沢へ来る。
 そんな未来志向(みらいしこう)で、彼女と会える約束をできる事が嬉しい。
 ゆっくりとした食事が終わり、食後のコーヒーが運ばれて来ると、おもむろに立ち上がった彼女が店の人に断(こと)わり、ダイニングルームの専用スペースに置かれた、白いグランドピアノへと向かう。
「五年ぶりに、キーを敲(たた)くのよ。上手(うま)く弾けるように祈っていて」
 すっと立った彼女が、テーブルを離れ掛けに、僕の手を握って言っていた。
 ピアノの前に着いた彼女は、鍵盤(けんばん)を見詰め、それから、ゆっくりと座る位置を整えるように、椅子(いす)を少しずらして座った。
 彼女は、背筋を伸ばして姿勢を正(ただ)す。そして、僕を見て微笑んだ。
 小学六年生の音楽の授業の時のままの仕種(しぐさ)で、彼女はピアノに向かう。
 目を細めながら息を吸い込み、直ぐに音を弾(たた)き出し始めた。
 それは、躊躇いがちに楽しくて、嬉しさに戸惑うような気持にさせるメロディーだった。
(これは確か……、青春物アニメのオープニングと、エンディングじゃなくて、劇中のラストに流れる曲だ)
 僕は、直ぐにわかった。
 何かを企んでいるように微笑む彼女の表情は、小学六年生の、アンコールに応えてキーを弾(はじ)く気配を見せた時と同じだった。
 あの音楽の授業で、みんなのアンコールに応えて、彼女がピアノを弾こうと構えた二曲目が、この曲なのだと。
 『五年ぶりに、キーを敲くのよ』と、ピアノへ向かう彼女が言っていた。でも、そんなブランクを感じない。
 今でも、良く練習をしているのかと思うほど、音は一つ、一つ、鮮(あざ)やかにのびて、綺麗で滑らかなメロディーを奏(かな)でた。
 僕に聴(き)かせる為に、彼女はピアノを弾く。
 メロディーに込められた彼女の気持ちが、僕の中を駆け巡る。
 彼女の想いが、僕の心に響いた。
 澄(す)んだ音が弾んでいる。
 ほんの少しだけ、躊躇うように聴こえるのは、彼女のアレンジだろう。
 よりアニメの出逢いのシーンにマッチしている気がするし、それに、今の彼女の心境の現れでもあると思う。
『いいの? 本当なの? 嬉しい!』と、彼女の心の声が聞こえて来そうだ。
 一音、一音が、それぞれのパステルカラーに染められて、僕の中で弾けて行く。
 『届いて!』、『響いて!』、『嬉しい!』、『ありがとう』、色付いて弾けた音は、彼女の声に変わって僕の身体の隅々(すみずみ)まで震えさせて行く。
 改めて、澄み切った細流(せせらぎ)のような音色に聴き惚(ほ)れながら、不思議に思う。
(こんなにも上手なのに、どうして、彼女は、ピアノを諦めたのだろう?)
 優しい気持ちで曲は終わり、キーから手を離して顔を上げた彼女は、僕を捜(さが)し見て明るく微笑んだ。
 それに応えて、僕は立ち上がって拍手をする。
 少し照れ臭いけれど、僕に聴かせる為に弾いて、再び、僕を感動させてくれた彼女へ、僕は笑顔で大きな拍手(はくしゅ)を送った。
(違うよ。ありがとうを言うのは、僕の方だ)
 胸が一杯だった。
 全てが吹っ切れた。
 僕は彼女だけを見て、彼女だけの為に生きる。
 この時、そう決めた。
 それは、絶対だ!
 この世に絶対と呼べる事が無いとしても、この僕の決めた彼女への想いだけは、絶対だ!
 僕が必ず、絶対にする!
 一瞬の間を置いて、一斉(いっせい)に拍手が鳴った。
 お客さん達も、従業員達も、みんなが拍手を送っている。
 彼女のピアノの音色は、僕だけじゃなく、聴く人達、みんなに感動を与(あた)えている。
「アンコール」
 誰かが言った。
 それに引かれる様に、あちこちから『アンコール』が掛かる。
 あの時と、同じだ……。
 彼女は、『アンコール』に応えるのだろうか?
 今は誰も、彼女を妨(さまた)げる事は出来ない。
(どうして、彼女の弾くピアノは、こんなにも聴く人に感動を与えられるのだろう?)
 鍵盤の蓋(ふた)を丁寧(ていねい)な仕種で閉(と)じると、立ち上がって椅子を元の位置に戻してから、彼女は大きく御辞儀(おじぎ)をした。
 鳴り止まない拍手の中を物怖(ものお)じ一つせずに、軽い足取りで戻(もど)って来る。
 この瞬間、彼女は完全にヒロインだった。
 この場にいる人達全員の、何より、僕のヒロインだった。
「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度、聴きたかったな」
 席に戻った彼女に、僕は称賛(しょうさん)の意味で言った。
 ……褒めたつもりで言った筈(はず)なのに、彼女の顔が一瞬曇(くも)らせまがら小さく唇が動き、僕に聞こえない声で何かを呟いた。
「……」
 何度目になるのだろう?
 『バカ!』と、彼女の唇が、よく知っている同じ動きをした。
 またしても、僕の配慮が至らない。
 やっと、巡り会えて今までの蟠りを解きほぐしているのに、高まる感動の余り、考えも無しに言霊(ことだま)になるような言葉を言い放ってしまった。
 幸い、彼女が退いたのは一瞬だけで、後は明るく楽しげな雰囲気に戻ってくれた。
(やっと、彼女に愛されたのだから、遠慮無しの些細な事で彼女の愛を失いたくない。これからは、彼女を失わないように些細な事でも、気を付けるべきなんだ! お互いを失いたくないのは、彼女も同じはずだと思う)
 お客さんの女性やレジ係の店員が、彼女に称賛の声を掛け、それに笑顔で手を振り、礼をして答える彼女を脇(わき)に見ながら、ランチの勘定(かんじょう)を済ませて、テーブルに着く際にクロークへ預(あず)けていた彼女のコートを受け取り、僕は袖(そで)を通し易いように、彼女へコートへ広げてあげた。
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 僕達は竪町通りから里見町を抜け、二十一世紀美術館へ向かう。
 其処の地下駐車場に、僕の四輪駆動のSUV車が停めてあった。
 二十一世紀美術館は、懐かしい場所だ。
 バス事故のあの日、僕達は初めてフレンドリーにスキンシップの大接近をして、此処の白いカフェでイレギュラーなデートをした。
(全く、あの日は、デッドラインの間際(まぎわ)と、ヘブンへの階段を行き来したみたいな日だったな……)
 身体に辛くとも、心の嬉しさを思い出して目を細めていると、それに気付いた彼女が、目を細めながら言ってくれる。
「今度、ゆっくりと鑑賞(かんしょう)しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんと、お茶してさ。いい?」
 誘いの言葉を言う彼女に、あのバス事故の日を覚えていて、此処は彼女にとっても、思い出の場所になっているのを知った。
「ああ、いいよ」
 明るく軽い感じのハスキーさで返すつもりだったのが、過ぎる懐かしさにトーンが落ちて真面目(まじめ)なイントネーションで言ってしまい、企(たくら)みや含(ふく)みの壁を感じさせて警戒されないか、自分の不用意さを心配してしまう。
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 オートマチック車のパーキングからドライブへとギアシフトする簡単(かんたん)な操作にも、レバーを握る掌に汗が滲むほど緊張(きんちょう)していた
 ギアのロックを外(はず)して駆動ギアへの接続も、普段は、音と微振動の反応だけで感覚的にアクセルを踏み出すのだけど、今は、ディスプレイのシフトギアの位置表示まで見て確認している。
 歩道の横断は、左右からの歩行者と自転車を行かせてから減速徐行して通過し、車道へは、直前で一旦停止して、安全と障害の確認をしてから入り、発進とブレーキは、グイっと出る加速のGとガクッやカクンの減速の衝撃(しょうげき)を感じさせないように、滑らか、且(か)つ、速やかにアクセルやブレーキのペダルを踏み込む。
「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく、嬉しかったよ」
 サイドシートに座る彼女の声を聞きながら、僕は、緊張する気持ちが嬉しさにを包まれるのを感じて頷いていた。
 許される範囲のスピードオーバー以外は、交通法規を遵守(じゅんしゅ)して、大胆で逞(たくま)しく、そして勇敢(ゆうかん)に、僕は愛車のSUV車を走らせて行く。加えて、嬉しさにハンドリングを弄(もてあそ)ばないように、いつも以上の慎重さで運転する。
「……でね。今、親しく付き合っている女の人は、本当に、いないのぉ?」
(どうして、時間を置いて、また、訊くのだろう?)
 僕の言葉に、彼女は確信を得たいのだと察した。
「いっ、いるわけないじゃん! 僕は、一途だぞ! いたら、君を好きだと……」
 照れ臭くても、何度でも、真摯に君への想いを強く伝えなければならない。
「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」
(あっ、マズったかも!)
 声が、上(うわ)ずった!
 自分でも分る、ハスキーな声で答えてしまった……。
 低い声で、渋(しぶ)く、重く、『君だけ』だと、クールに言えば良かった。
(でもね。年末までは居(い)たんだぞ……。大晦日で別れちゃったけどな。……潔く身を退いて、未練を持っちゃいないんだ、というか、持っちゃいけないんだ……)
「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」
 今、現在で、交際をしている異性はいない。でも、想いを戻したい女性は、二人いる。
「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、ダブルブッキングされるのが、心配だったの」
(うっ、ダブルブッキングって……。彼女は、鋭い……)
 一人は、戻す術が失われている静岡の『あの人』だ。そして、もう一人が、君だ!
「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」
(『あの人』の事は、君が、『僕の過去話しを訊きたい』と言って来たら、聞かせてあげるよ。其の時は僕も、君の昔話(むかしばなし)を聞かせて貰っても、いいかなぁ?)
「鈍(にぶ)いね、あなたは! 好きになった女の子には、一途で一生懸命なのに、あなたを好きになった女子が、周りに大勢いても、全然、気付かないなんて……」
 弓道の試合で、僕を応援してくれていた女子達の事を言っているのだろうか?
 確かにラブな手紙を手渡された事や、直接、面と向かって、『友達からで、いいので』と、言われた事も有った。
 他校の弓道部の下級生の女子に誘われて、片町と竪町でのショッピングに付き合っている。
 初めて告白されたのは中学三年の時だったし、高校でも中学校の同級生から告白された。
 だから、気付いていないなんて、……ことはない。
(だけど、それは、君だけを好きだったからだ!)
 故に、僕は惚(とぼ)ける。
「そうなのか? 僕は、鈍いのか……」
 僕は、彼女に正直でいたいと思う。
 彼女には、少し鈍感(どんかん)だと思われていた方が、何かと都合が良いかも知れないと思うけれど、誤解(ごかい)を招き易い事柄(ことがら)の白黒は、勘繰(かんぐ)り深い彼女にポーカーフェイスで惚け通せるか、自信が無い。
 始まりの勘繰りが、疑い深い事なら、自信を持って正直に、はっきりと釈明(しゃくめい)して誠意を示さなければ、この先もずっと、気持ちの何処かに、心の何処かの隅に、不安と疑りと蟠りを持ち続けて、いつしか、決定的な不幸へのトリガーとなるだろう。
 そんな事を考えながら彼女を見ると、以外に明るくて、諦めたようにも、察したようにも思える微笑を浮かべていた。
 僕に見られている事に気付いた彼女は、更に、笑顔になって、弾んだ声で訊いて来た。
「あの大きなオートバイは、まだ、持っているの?」
 サイドウインドーを下げて、車内に入る春の大気で髪(かみ)を乱しながら、犬のように鼻をヒクつかせる彼女は懐かしむように言う。
 弾んでいるように聞こえたのは初めだけで、御仕舞いの声が小さくなって行く彼女の問い掛けに、何処となく、僕を責めている気がした。
『えーっ、あんなのを、まだ持ってんの。あんな、言う事を聞かない、重くて乗りこなせないバイクなんか、捨(す)ててしまえば、いいのに』と、言っているように聞こえた。
 今も因縁(いんねん)のV-MAXを所有しているのが気に食わなくて、非難されている気がした僕は、ムッとした気分になりながら、相模大野の駅前で初めてV-MAXを見た時の彼女の表情を思い出した。そして、含まれているだろう語意を無視して、僕は投げ遣りに答える。
「ああ、大桟橋へ行った時のV-MAXだろ。まだ、持っているよ」
 正直に答える僕は、大桟橋から戻って来た時、相模大野の駅前でタンデムシートから降りた彼女が後退(あとずさ)って、灼熱(しゃくねつ)したエキゾーストパイプに足が当たったのを覚えている。
 それは、ジーパンの上からチョコっと触れただけなのに、脹脛(ふくらはぎ)に赤くて丸い火傷(やけど)の痕(あと)を付けさせていて、彼女がヒリヒリする痛みに顔を顰(しか)めながら、ジーパンを捲り上げて見える患部(かんぶ)にウエットティシュを当てていた。
(赤くなった軽度の火傷だったけれど、まだ、消え切らない火傷の痕が、ナイロンストッキングの生地越しに、丸く見えるかも知れない…。其の、彼女の肌に残る傷痕は、……僕の所為だ!)
「夏になったら、乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」
 驚いた!
 あんなに嫌悪感(けんおかん)を現した彼女が、再び、僕の後に乗りたいと言ってくれるとは思わなかった。
(自分で乗り回すと言わないから、限定解除の自動大型二輪車のライセンスは、まだ、取得していないみたいだな)
 うんうんと首を縦(たて)に振りながら、彼女の嬉しい提案に答える。
「勿論(もちろん)! いいさ。ぜひ、乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」
 次のタンデムでは、迷いも、躊躇いも無く、僕は走れるはずだから、もう、V-MAXを『乗りのこなせていない』という、イメージは持たれないだろう。
「あのヘルメットも、有るの?」
 大桟橋の時の一度っ切りしか、彼女が使っていないのに、『女の子の匂いがする』と、『あの人が』言ったフルフェイスのヘルメットだ。
 アパートの部屋の本棚の上に置かれていたヘルメットを手に取って、被(かぶ)ってみようとした瞬間、『あの人』が言っていた。
 僕は、『あの人』に臭いで気付かれたヘルメットを使わせて、不快(ふかい)な思いをさせるのが嫌で、『あの人』用に新しいのを買った。
 其の新しいヘルメットは、『君の事は、忘れないよ』と、別れの日に『あの人』が持って行ってしまった。
 そんな記憶が、彼女の言葉で甦り、春の大気に香る桜の匂いといっしょに、安らぎを得た僕の心をざわめかす。
「有るよ」
 僕は、頷いた。
 僕は、『あの人』へ、新しいフルフェイスヘルメットを買ったのに、大桟橋の時のヘルメットは捨てずに、ずっと、本棚の上に置いていた。
(それだあ! 其のヘルメットを捨てずに、僕は、ずっと持っていたから、まだ、未練が有ると、『あの人』に思われたんだぁ!)
 僕の中で既に決着を付けて、忘却(ぼうきゃく)したと思っていた彼女への想いが、僕の心の奥底に消えずに沈ませている事に、『あの人』は気付いていたのだろう。だから、『あの人』は、僕にプロポーズの言葉を言わせない真っ先(まっさき)の理由にしたのだ。
 あの時、『あの人』が、僕と添い遂(と)げられない決定的な理由を言う前に、僕の彼女への想いを持ち出した理由が、今、やっと解った。
(『あの人』の気持ちにも、気付けていなかった……。僕は、本当に鈍くてバカな奴だ!)
 もし、本棚のヘルメットを処分していたら、どうだっただろう?
 『あの人』は……。
(いや、イントロの言葉が違うだけで、結果は変わらない)
「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸(たっと)の浜もね。休みを取って、いっしょに過ごす時間を作ってくれる?」
(御里へ行くってのは、家族や親戚(しんせき)一同に、僕を紹介するつもりなのか?)
 それは、ちょっとまだ早い気がするし、それに、恥ずかしいけれど、断わる理由にはならない。
「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」
 また、立戸の浜で沈められそうだけど、彼氏として紹介されるのも込みで覚悟して行こうと思う。
「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」
(おっ、おおっ! 御願いされた! 担ぎ手になった僕の凛々(りり)しい姿を、彼女は見たがっているぞ!)
「うん!」
 力強く返事はしたものの、地元衆(じもとしゅう)の若手は、彼女の幼馴染(おさななじみ)ばかりだろうし、ただ、楽しく担ぐだけでは済まされないだろう。
(虐められる事はないだろうけれど、根掘り葉掘りの詮索はされるだろうし、飲み食いを勧(すす)められて、一昼夜の酒浸(さけびた)りになるのも、覚悟した方が良さそうだ)
 酔いの上機嫌に加えて、和倉温泉や輪島市や宇出津港の飲み屋へまで連れて行かれて、朝帰りになった僕に、ブチ切れの彼女の出迎えが有るかもだ……。
「それと、相模原へ来たら、いっしょに行きたい処があるんだ」
 いきなり、避けてくれるだろうと思っていた場所の相模原で、行きたい場所が有ると言って来た。
 耳の奥に反響する其のトラウマの地名に、強張(こわば)って行く自分の顔が分かり、僕は、反射的に問い返してしまう。
「えっ!」
(彼女は、あのデート場所へ行きたいのだろうか?)
 予想外の彼女のメンタル強さに、僕は、彼女の希望を受け入れて、僕のトラウマを乗り越える覚悟から心が身構えた。
 『相模原』……、無計画だった僕の不甲斐無さから、彼女に『永遠(とわ)の別れ』をされて、悲しみの向こうへ辿(たど)りつけなかった因縁の始まり街だ。
「どこ?」
 彼女が僕と行きたい所は、たぶん、横浜港。そして、問い掛けに返される場所は、気不味(きまず)い雰囲気(ふんいき)で黙って僕達が歩いた、あの鯨(くじら)の背中(せなか)だ。
「相模原市か、町田市のスィーツビッフェというか、ケーキ屋かな。ねぇ、どっちの街へ行きたい? 知っている店は、何処も美味しいから、どっちでもいいよ」
 ケーキは好きだった。
 静岡では、お持ち帰りの部屋食いばかりで、店内では、喫茶店やレストランで食事後のデザートか、甘味屋の白玉や葛キリの緑茶セットを良くオーダーして食べていた。
(先日は、ホールケーキを買って食べたいという妹に付き合って、スポンサーになっていたっけ)
「スィーツビッフェ? ケーキ屋? 君の御奨(おすす)めなら、何処でもいいぞ」
悲しみが再びとなるトラップでなければ、僕は、彼女の希望に従うつもりだった。
 彼女と出逢ってから、まだ二時間と経ってはいない。
 彼女の素直な気持ちと思われる言葉を聞いて、楽しく食事をして僕へ聴かせる為のピアノ演奏をして、僕のSUV車のサイドシートに座っていても、まだ、僕は彼女を疑っていた。
 嬉しさで高揚した楽しさの絶頂から、絶望の悲しみに沈む奈落へと落とされる彼女の報復を、僕は恐れていた。
 彼女に復讐されても当然だと自覚するくらい、僕は、彼女を惨めにする辛辣な酷い言葉書き連ねて送っていた。
(彼女に、許されない事を、僕はしている……)
「じゃあ、相模原に近い町田の郊外の御店にしましょう。其処、ショートケーキが美味しいんだ」
(美味しいのはショートケーキ……? 其の店のショートケーキのカテゴリーに入るスィーツなら、どれも美味しいのか? イチゴと生クリームこってりの何とか、チョコレートパウダー塗れの何とか、そんなピンポイントの固有ネームじゃなくて、……ショートケーキ?)
「サヴァランやミルフィーユやティラミスも、其処の美味しいショートケーキに入っているのかな? あと、チョコレートパフェも有る?」
 チョコレートパフェは、二十一世紀美術館の白いカフェでのリベンジをしたい。
「ミルフィーユとティラミスは見たね。サヴァランは無いわ。フルーツパフェは食べたけど、チョコパは知らないなぁ」
(まあ、彼女を御奨めを食べてみようと思っていたから、無くても構わないのだけれど、相模原へ行った時の待ち合わせの駅でレンタカーを借りたら、レシピに洋酒を使うサヴァランとティラミスは、何(ど)の道(みち)、酒気帯び運転で検挙されるかもだから、食べれないよね)
「オーケー、分かった! いっしょに食べよう」
 ショートケーキを承認する僕に、嬉しそうな笑顔になりながら、彼女が、二人で行きたい場所を続ける。
「うん! それから……」
 まだ、油断はできないと、僕の心臓が大きな心拍を打ち、深く吸い込む息に、飲み込む生唾に上下する喉仏が分かった。
「……次の場所はねぇ」
 今度こそ、鯨(くじら)の背中(せなか)だ。
「もう一度、大桟橋を歩きたい」
(ビンゴだ……!)
 一瞬、彼女の顔が曇った気がして、視線を彼女へ流す。
 『大桟橋』のところだけ、笑顔が消え声が沈んだように思えた。
 さっと、顔を彼女へ向けると、僕と同じように、彼女も固い表情に見えた。
 其の翳りにV-MAXでタンデムして、『大桟橋』へ行った日の、僕の不甲斐無さと心配りの無さだけではないと思う。
 交わる視線の彼女の瞳から、たぶん、僕との件とは違う、何か、別の拘りが有のだろうと、直感的に察した。
 『大桟橋』に、どんな思いや拘る理由が彼女に有るのか、知らないけれど、僕にとっても、トラウマになりそうな場所を仕切り直せるのは、願ったり、叶ったりだ。
「……いいよ」
 消えた笑顔とトーンが落ちた、『大桟橋』が気になる。
 其の暗い抑揚(よくよう)から僕以外にも、大桟橋に纏(まつ)わる何かが、彼女にとって重大な事のように思えた。
 もしかして、スタンガンを使わなければならない事態に遭遇(そうぐう)したり、陥ったりしたのかも知れない。
 僕が渡したスタンガンは、彼女を守り切れているのだろうか?
「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。其処でディナーを、いっしょに食べたいの!」
 大桟橋の中にレストランやショップが有るのは、引き摺る未練で行っていた時に、其処で食事をしたり、記念品を買っていたりしていたので知っている。でも、ディナーは、大桟橋のテラスより、ポートサイドの夜景を見ながら船上のオープンデッキでオーダーした方が、ムードが有ると思う。
(というか、経験が無くて、魅力的に思えるから、そうしてみたいだけ)
「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」
 彼女と二人、横浜港へディナーに行くなら、大桟橋に接岸していたクルーズ船でのディナープランの方がシックで良い感じになると、未練タラタラの時に真っ白なクルーズ船を眺めながら考えていた。
 ドレスコードは無いと思うけれど、ちょっとラフなフォーマルっぽさでメモリアルなディナーにしたい。
 最上階のデッキでディナーを食べながら、イルミネーションが美しいベイブリッジを潜(くぐ)り、ライトアップに輝くベイエリアを眺めて、笑いながら語り合う。
(プロポーズに好いムードを醸(かも)し出すかもだ。内ポケットに、ティファニーのペアリングを用意してたりして……、なぁんてね)
 けっこうロマンチックだと思うのだけど、どうも、彼女にとってディナークルーズは、セカンドプランのようだ。
「うん、二人で、夕方のセピア色に染まる横浜港を見て、それから、二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒が飲めるよ。そして、夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ! そうそう、セッティングは、私がするから心配しないで」
 どうしても、行きたいらしい。
 彼女なりの理由が有るのだろう。
「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」
 それは、別に構わないどころか、大いに大歓迎で嬉しいです。
(さぁて、次は何処だろう?)
「ん! まだ?」
 嬉しいながらも、ワザと問い掛けてみる。
「来年の春は、……相模原の、満開の桜並木を歩かない?」
 其の桜並木道は、二度、満開の桜吹雪(さくらふぶき)の中をV-MAXで駆け抜けた。
 一度目は、未熟(みじゅく)な僕が後悔するデートの前に。
 二度目は、何も戻せないのを認めた遣る瀬無さから、無情になるだろう偶然の出逢いを求めて、宛(あ)ても無く彷徨(さまよ)う様に、桜の花弁を追い駆けた。
「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」
 二度目は、実際に出遭っていたら言えていたか、どうか、分からないけれど、交差しなくなった別々の人生の幸せの交換して、祝福しようと考えていた。
 静岡の『あの人』には、甲府市(こうふし)の同好の趣味人(しゅみじん)へ会いに行くと口実を作って相模原へ行っていた。
 『あの人』は、政略結婚で融資(ゆうし)を得て、家の事業が盛り返して活気を帯びれば、『あの人』の家族と働く親族達の生活に心配は無くなるけれど、事業経営は事実上、養子(ようし)の夫と彼の実家が実権を握ってしまうだろう。
 不本意な結婚の結果でも、困窮(こんきゅう)していた暮らし向きが、心配の無い安心で安泰(あんたい)になると、『あの人』は愛してもいない夫と別れ、禍々(まがまが)しい山狭(やまあい)の地を捨て、僕の許(もと)へ戻って来るつもりなのだろうか?
 そんな有り得ない『あの人』の想像を、今の状況で僕はしてしまう。
「決まりね。それじゃあ、約束よ」
 彼女に『是非(ぜひ)、いっしょに』と頼みながら、『あの人』へバカな期待をする自分の浅(あさ)ましさが嘆かわしい。
「約束は、……しないよ……」
 『あの人』に再会する予兆(よちょう)などは、全く何も無い!
 将来的に『あの人』と再びの望みを期待できるモノは、素粒子(そりゅうし)一つ分も全然無く、『あの人』は、彼女以上に僕を断絶して去って行ってしまった。
 現在、更新の手段が失われている、僕の中の『あの人』は、過去の広がりの中だけに漂っている。
 其の広がりを圧し潰して薄くするように、『あの人』と『君』への未練の澱(よど)みが、積み重なって行っていた。
 今日、君との出逢いが、希望の無い未練の積み重ねを遠い片隅(かたすみ)へ小さく圧し遣って、再び、君への想いを果てし無く広げている。
 僕は、目の前に突き出された君の右手の小指に、僕の小指を絡ませない。
「約束しない? 約束できないの?」
(僕の中の現在は君だ! そして、未来も君だ! だから、約束を交す必要はないんだ)
 君の願いや頼みを叶えたり、守ったりするのは、もう僕の義務だろう。
「違う! もう、約束なんかで、縛られたり、確かめ合う仲じゃないと、思うからだよ!」
(君を好きになるのは、僕の権利で自由だ! それに、もう、義務かも知れない)
 君が、僕の好意を嬉しく思わなければ、僕は『君を好きになるのは、僕の権利だ!』と、主張しても良いのだろうか?
 君にとっては大迷惑かも知れないけれど、僕は、権利だからと主張して、君を好きで居続(いつづ)けたい。
 確かに、『好きで居続けるのは構わない』と言ってくれるだろうけれど、権利とは少し違う気がする。
「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」
 もし、君に喜ばれたら、もう、君を好きでいるのが、僕の義務だと思う!
 大桟橋と相模原のトラウマを消し去る為にも、僕は、絶対に行きたいと思った。
「早く着き過ぎちゃうな。どこか、寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」
 加賀産業道路を走りながら、彼女に訊いた。
 小松空港に行くには、国道八号線の小松バイパスへ合流する前に右折(うせつ)しなければならない。
 次の交差点を右折すると、十五分で空港に到着する。
「それなら、海……、海が見たいな。日本海だね……」
(海? そうだった! 彼女は、海……、海原(うなばら)や渚(なぎさ)が好きだっけ)
「行ける? 時間は、大丈夫(だいじょうぶ)かな? 夕陽を見たいのだけど?」
 ダッシュボードのパネルの時計を見ると、空港近くなら余裕で大丈夫そうだ。
 場所は海原と岸辺の両方の見晴らしが良くて、無粋(ぶすい)な人工物の無い海岸がいい。それも、広大な砂浜ならモア・ベターだろう。
 それに、彼女が知っていそうもない浜なら、ベスト・インパクトになる。
(誰もいない浜に、二人だけで見る夕陽。……なんてね。とっても良い、感動的なシュチュエーションじゃん!)
「時間は……、空港での夕食時間に、余裕を持たせて……、二時間は、大丈夫だ。行けるよ」
 『二時間』と言って、『御休息(ごきゅうそく)』を連想してしまった。
 加賀産業道路が国道八号線と合流する辺りには、加賀温泉郷の『山代(やましろ)』、『山中(やまなか)』、『片山津(かたやまづ)』の温泉街が在る。
 温泉街の周辺には、一軒宿っぽい温泉とラブホテルも多い。
(……彼女は、ラブホ利用の経験が、……有るのだろうか?)
「ほんと? 行ってくれるの?」
 彼女は、嬉しそうに笑っている。
 僕も、妄想(もうそう)する下心で自虐的に笑ってしまう。
(今日の出逢いの様子だと、何処へ走っても構わない感じだな……、でも……)
 ラブホのパーキングに停めても、多少の困惑と蟠りだけで、ベッドルームへの階段をいっしょに上がってくれるだろう。そして、開放的な広い部屋を選べば、躊躇う気分を軽くさせて、殆ど無抵抗に身体を許してくれるかもだ。だけど、やっと再会できて、改めて相手の想いを知り合えたのだから、性急過ぎる節操(せっそう)の無い行動と態度に出るわけには行かない。
(この、勘違(かんちが)い野郎と思われたら、彼女の事だ。気持ちが変わって、きっと、これっきりになってしまうかも……)
「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀(かが)の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから、気持ち良いかもな」
 梯川(かけはしがわ)河口の南側砂丘の松林の中に、源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(べんけい)の勧進帳(かんじんちょう)で有名な安宅の関所跡(せきしょあと)が在る。
 鎌倉期(かまくらき)の街道は、砂丘沿いを通っていたのだ。
 小松空港の直ぐ近くで、安宅の松林の向こうは広い浜辺だけど、ちょっと、インパクトとユニークさが足りない。
(そう、気持ちが良い…… 場所じゃないとね)
 彼女が僕に触れた、気持ちの良かった体験を思い出して、僕は、彼女が気持ち良いと感じる触れ合いをさせていないと思った。
 フォークダンスで触れた汗(あせ)っ掻(か)きな君の掌。
 バスの中のキスで、プリンとした弾力を感じた君の唇。
 救急車の中で、覆い被さる君の柔らかな胸。
 渚で知った、君の日焼けした肌の張り艶。
 タンデムツーリングで、背中に押し付けた胸の弾力と香る君の匂い。そして、今日の塩辛(しおから)い君の唇。
 其の先に迎える気持ちの良い事を、君は、既に経験しているのだろうか?
(……まだ、僕は葛藤(かっとう)している……。さり気無く誘ってみる? それとも、強引に求めちゃったり?)
「その片野の浜って、知らないのだけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」
 浜辺とは違う、欲情的に御奨(おすす)めの場所っていうか、領域っていうか、君を絶対的な頂(いただ)きへ逝(い)かせたい思いが、また、湧き出して来る。
(……彼女も、求めているかも知れないし)
 今の彼女なら、僕の気分次第で強引に迫っても、たぶん、拒みはしないだろう。
(だけど、ダメだ!)
 やはり今日は、僕から求めるわけには行かない!
「でも、日没までは居られないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、其の時刻には、空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と、思うけど」
 日本海の水平線の彼方へ沈む紅(あか)い夕陽を彼女と僕が見るとなれば……、連想するのは、高校一年生の晩春に金石の浜で部活のテレーニングをする僕を彼女が見に来た時だ。
 彼女は、下校時に鳴和町(なるわまち)の学校から金石(かないわ)の町まで、わざわざバスを乗り継(つ)いで来てくれた。なのに、『海を見に行っただけ』と、素っ気無いメールが送られて来ていた。
 斜陽(しゃよう)の紅く染まり始めた海原を、彼女は日没まで見ていたのだろう、偶然にも、部活を終えて下校する僕は、帰宅する彼女が乗ったバスに乗り合わせてしまった。そして、彼女の横に座った僕は、車窓に凭(もた)れて熟睡(じゅくすい)する彼女の唇へ、禁断のキスをした。
(其の無断でしたキスに、彼女は気付いていて、遠回しに僕を咎(とが)めて、浜辺で酷く責められるのかも知れない……)
「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は、次回ね」
 あの時はバスの揺れに任せて、僕の唇を彼女の唇へ押し付けただけだったけれど、あれは僕のファーストキスだった。
「それじゃあ、行こう」
 彼女にとってもファーストキスかも知れない、僕の負節操(ふせっそう)で卑怯(ひきょう)なキスに彼女が気付いていたならば、ラブホの休息に誘うなんて、悪魔の花園のような地雷原を走り回るくらい、デンジャラスで愚(おろ)かな行為だ。
 僕は内面(ないめん)の性欲を抑えて、彼女と望みと僕の言葉通りの行動をする事に決めた。
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「あそこに、寄ってもらえるかな?」
 木場潟(きばがた)を過ぎた辺りで、『さっき右折して、小松空港の海側の道路を通った方が、早く行けたかも』と少し悔やみながら、国道八号線に国道三百五線が合流する加賀市の交差点まで来てしまった。
 ナビゲーションの画面を広域表示にして、片山津温泉が在る柴山潟(しばやまがた)沿いを行くか、大聖寺(だいしょうじ)の町近くを通って行くか、僕が現在地からのルートが良く分からずに迷っていると、彼女に対向車線側のコンビニへ行くように指示された。
「えっ、ここに用?」
 片野の浜の駐車場前にはシーサイドカフェが在ったはずなので、其処で寛(くつろ)いでと考えていた。だから、コンビニへ寄って買い物をつもりは無かった。
「そう、ちょっと用なの……。用を足(た)すの……」
(あっちゃー! そっか、トイレだあ。これ、妹もドライブすると、よく言うわ。因(ちな)みに、お袋(ふくろ)は『トイレ行きたい』って、ストレートな表現だけどな)
 これは、綺麗で可愛くて大好きな女性は排泄(はいせつ)しないっていう思い込みじゃなくて、自分の配慮の至らなさを反省するしかない。
「ああっ、OKだ!」
 彼女から目を逸らして、顔も逸らして、頷きながら返事をしたのに、言葉尻が強くなって、『納得って』言わんばかりの、生理現象を強調するみたいになってしまった。
 ただ『うん……』と言えば良かったのに、察し足らずの自分に、僕は、『再度、反省が必要だ!』と、気持ちを引き締める。
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 用を足す彼女といっしょにコンビニへは行かず、僕はSUV車の中で彼女の戻りを待つ事にした。
 ついでに偶然の出逢いの、想定外だった現在進行中のデートで、彼女が座るサイドシートの周りをクリーナーで掃除した。
「それ、何? 買ったんだ?」
 十五分ほどで戻って来た彼女は、コンビニのレジ袋を持っていて、単なるトイレ利用をするだけじゃなくて、ちゃんと買い物をしていた。
「うん、アイス」
 ドライに設定しているだけのエアコンディションなのに、彼女の顔は上気(じょうき)して火照(ほて)っているように見え、胸元から漂って来そうな熱気に、汗ばんでいるのかもと察した。
 まだ肌寒(はださむ)い日が続いていて、陽射しが回復した今日の午後も、走行中はウインドゥを開けると、吹き込む風が冷たくて寒い。
 それなのに、僕も、汗ばんでいる。
(まあ、半分は、緊張している所為だけど……)
「アイスクリーム? 今、食べるん?」
 『汗っ掻き』に、『多汗症(たかんしょう)』という体質か、症状なのか、分からない言葉を聞いた事が有る。
 それらは、はっきりとした違いが有るのだろうか?
 正常な体質なら、今日の気温や状況で汗を掻かないのだろうか?
(汗っ掻きは、全身が火照り易くて、汗ばむんだっけ?)
 辛(から)い料理を食べると、顔から汗が筋(すじ)になってポタポタ落ちたり、首筋に汗の玉が浮いたり、掌がベトベト、ベッタリと濡(ぬ)れるのは多汗症……。
 僕は思いだしていた。
 眠ると体温が上がって、『赤ちゃんみたいね』と言われた事が有る。
 言ったのは、静岡の『あの人』だ。
 寝る時は、僕の腕枕(うでまくら)でいっしょに眠ったはずなのに、いつも目が覚(さ)めたら、僕はベッドから落ちているか、ベッドの端際(はしぎわ)で毛布に包(くる)まっていて、羽根布団で安らかに眠る『あの人』は、ベッドの三分の二を占拠(せんきょ)していた。
 『だってぇ、君は寝てしまうと、赤ちゃんみたいに熱くなるんだよ。自分では分からないでしょう? だからね。眠りながら君から離れちゃうんだよ。でもぉ、隅へ追い遣ったり、落としたりするのは覚えてないなぁ。きっと、夢の中で似たような事をしちゃいながら、無意識で蹴飛(けと)ばしていたかも。ごめんねぇー』
 汗っ掻きのワードが、僕に無意識と別離(べつり)を思い出させて、少し悲しくなった。
(病(しょう)って、それは、体質じゃなくて病気なのか? だとしたら、治療(ちりょう)ができるってことぉ?)
 僕と彼女は、どちらなのだろう?
「ううん、後でね。浜辺で食べようよ」
(だよな。運転しながら、片手持ちでアイス食べるのは、危(あぶ)ねぇし)
 かといって、コンビニの駐車場で食べるなんて、無粋で問題有りだと思う。もっと、ロケーションを大切にしたいし、それにタイムロスだ。
(このロケーションと料理のオーダーの失敗が起因(きいん)して、今日まで完全断絶されていたんだっけ。同じ徹(てつ)を踏(ふ)みたくはねぇな)
 棒アイスだと、片手に持ちっ放しになるし、溶け易いから、垂(た)れ落ちる心配が付き纏う。
 袋入りのモナカだと、片手持ちで何とか食べれるけれど、チョコ被(かぶ)りのだと、割れたチョコの破片が零(こぼ)れて、衣服や座席を溶けたチョコで汚した事が有った。そして、カップタイプのは両手を使うから、更に、運転は困難(こんなん)になる。
(食べさせて貰わないと、無理! もしかして、『あーんして』を、してみたかったりして!)
 なんて考えていたら、あっさりと違った。
「だったら、そのままだと、車内のエアコンの熱で溶けるかもだから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」
 彼女からアイスが入ったレジ袋を受け取ると、そのまま、電源をオンにしたバッテリータイプのクーラーボックス内のフリーザーへ入れる。
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(シーサイドカフェでの、ユルリと寛ぐのは、無しだ!)
 片野の浜辺でアイスクリームを齧(かじ)りながら、彼女と和(なご)む事に僕は決めた。
 ナビ画面のルートは大聖寺の街に入らないのだけど、気が付いたら曲がるべき処を曲がらずに市街地へ入ってしまい、新たに再表示された『この道で良いのか?』と、不安を抱かせるような道筋を通って、どうにか片野の海水浴場の駐車場に着いた。
(見覚えの有る浜だ。シーサイドカフェも在る)
 途中からルートが不安になったけれど、ナビのガイドが終了した此処は、以前に来た事が有る片野の浜の場所で、間違った場所には来ていなかった。
 何より、堤防を兼(か)ねる低いコンクリート壁に、片野海水浴場駐車場と大きくペンキで書かれている。
「よく、道を知っているねぇー」
(いやいやいや、ナビ通りに走って来ただけです。でも、この辺りはウロ覚えだし、自分で来たのも初めてだし、上手く着けて、ほんと良かったわぁ~)
 大聖寺の街で道を間違えたのも、不安な気持ちで運転していたのも、今も、場所を間違えていないか疑っているのも、彼女に気付かれていない。
「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」
 上手く不安を隠せていたのと、彼女の驚く顔と、御褒(おほ)め言葉で気を良くした僕は、途切(とぎ)れ、途切れの記憶なのに、いかにも鮮明に覚えているかのように鼻息荒(あら)く、知ったかぶりをする。
「……砂浜を歩くの?」
 ドアを開けて出ようする僕の背中に、彼女の沈んだ小声が聞こえて、振り向くと、サイドシートに座ったまま自分の足許を見ている彼女がいた。
「あっ! そのロングブーツは、レザーだよね。それに、ピンヒールだ。……砂浜だと、刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」
 片野の浜の砂質は、羽咋市の千里浜みたいな木目細かくて踏み固めれる砂じゃない。
 少し粗い砂粒の軟らかい砂浜は、絶対にハイヒールを潜らせて、踏み切れない踵で歩行を困難にしてしまう。
 それに、砂粒はサンドペーパーを掛けたようにレザーを擦り傷だらけにして、ブーツの光沢を艶消にしてしまうのは確実だ。
「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」
 言いながら、後部座席のドアを開けて床に置かれた妹のブーツを持ち、反対側へ回ってドアを開け、彼女の足許へ置いた。
 カジュアルなショートブーツはミスマッチになるけれど、仕方が無い。
「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」
 妹のショートブーツはフェルトだから砂塗(すなまみ)れになりそうだけど、脛丈(すねたけ)なので中には砂が入らないだろうし、硬質シリコンゴムの靴底は深めのトレッドパターンで、これから行く岩を歩くのに滑(すべ)らなくて済(す)むと思う。
「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」
 屈(かが)み込む彼女がロングブーツのジッパーを下げると、黒いナイロンストッキングにピッタリと包まれた彼女の脛と脹脛(ふくらはぎ)が見えて、其の艶(なまめ)かしさに見惚れていると、彼女は顔を僕の方へ回して言った。
「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」
(うっ! エッチだと悟られてしまった! そうです、僕はスケベなんだよ……)
「ああっ、ごめん。そっち側の、見えない所に離れているよ」
 SUV車の反対側へ離れながら、妹がショートブーツを載せといてくれて良かったと思う。
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 高校三年生に進級した妹は、新年度になった初日から、来年一月の御受験に向けて金沢駅近くの進学塾へ通い出した。
 希望する大学へ進学する意欲が有るにしては、其の為の勉強密度の高まりが半年ほど遅いと思うけれど、あっさりと部長を同級生へ委任して部活を二年生で辞め、妹は受験勉強に集中している。
 妹は、終礼後に高校から進学塾へ直行している。
 塾の終わるのが午後九時過ぎになるので、火急の仕事や異常が発生しない限り、僕が、このSUV車で向かえに行っている。
 塾通いの二日目の朝、加工の進捗を確認に工場へ行こうとSUV車に乗り込むと、寝起き姿で息を切らして遣って来た妹が、『今夜も、迎え、宜しく御願いします。あと、これ、乗せといて』と、言いながらドアを開けて後部座席の床へ、フェルト生地のショートブーツを転がした。
『なんで?』
『塾のルームは暖かいんだけど、足裏から冷えるんだよ。だから、ね! アニキぃ~』
『なに、それ? 始めっから履いてけば、いいじゃん!』
『ちっ、ちっ、分かってないなぁ、アニキ。女子高校生は、ビジュアル第一なんだよ。男子も、多いしさ』
『俺は、其のビジュアルの対象外なのかよ?』
『―ったりまえじゃん! アニキに、ブラコン系の可愛い妹なんて、演じないよ!』
『俺も、シスコンじゃねぇ。でも、載(の)せといて遣るよ』
 以後、今のところは日曜を除く毎日だが、迎えに行く度に、妹はサイドシートで素肌の脛を擦りながら、学校指定の通学靴からフェルトのショートブーツに履き替えている。
『あ~、あったかいわ~。風邪は、首筋と足裏の冷えからって言うしね。ちゃんとブーツを載せといてくれて、サンキュー、アニキ!』
『やっぱ、おまえ、そんなに体調を気に掛けてるなら、ブーツを履いてけばいいじゃんか』
『ダーメ。足首と脹脛を包んだソックスの上縁からスカートの裾までの素肌が、絶対領域なの。このビジュアルは落とせないよ!』
『……絶対領域。それは解るけど……、じゃなくて、なんだそりゃ? 意識してんのかぁ?』
『そりゃそうよ。体毛処理してさあ、擦り傷や痣に気を付けてさあ、虫刺されにもねぇ。浮腫(むく)まないように、血色良いように、食べもんと睡眠を摂(と)ってさあ、いろいろ有んだよぉ、アニキぃ』
『まあ、確かに形が良くて、綺麗な足してるからな、おまえは』
『それに、うちの学校は、制服ダサダサじゃん。可愛いカジュアルブーツなんて、普通にマッチしないし、アンバランスだし、ダサさの3乗だわ。だっからあ、制服とのダサコラボは、アニキしか見せないよ』
 其のダサイ制服の高校は、彼女と同じだ。
『でもな、俺的には、肌色パンストの上にニーハイも有りだと思うんだよ。の温もりプラスで冷やさないし、絶対領域も強調されるしさ』
『おおっ、それ、いいねぇ。パンストはOKだろうけど、校則でニーハイソックスはどうだろう? 良くても黒の無地かもね』
『それでも、いいじゃん。体調は崩さない。絶対領域は確保できる。まあ、試してみろ』
『うん。それじゃあ、今日の帰りは買いに行くから、付き合ってね』
 ショートブーツに、そんな遣り取りが妹と有った事と、彼女のニーハイ姿を見て無かった事を思い出していた。
 『片想いしてる彼女さんの高校を、見て、触れ、嗅ぎたいから』との理由付けで受験して、成績上位の妹は、塾通いもせずに合格してしまった。更に、『弓を構えるアニキが、格好良かったから』と、弓道部に入部してくれた。
 弓道部に入ったからにはと、命中させるコツと身体作りを指導して、黒壁山での祈願の仕方を教えたら、去年は個人優勝をして、更に兄貴よりも素質が有るようで、インターハイのベスト十六まで勝ち進まれてしまった。
『三年の部長が、アニキとデートした事が有るって言ってた。香林坊、竪町、片町とデートして、アニキの高校の文化祭もいっしょに回ったのに、こっちの文化祭に来てくれなかったって。ちょっと恨(うら)んでたよぉ~。でも、わかる。そりゃあ、行けないよねぇ』
 そんな過去話を、一年生になって直ぐに弓道部へ入部した妹から、お盆の帰省(きせい)の折りに聞かされた。
 其のデート相手の女子弓道部の部長は、僕とインターハイへ行った個人の部のメンバーで、石川県代表になった女子の個人優勝者だった。
『だってぇ~、いくら断わっても、想いを伝えて来る男子がさぁ、自分の学校の文化祭に来ていてぇ、下級生の女子に寄り添われてぇ、模擬店廻りしてるのを見たらぁ、ねぇ。まして、夏休みに能登まで来てくれて、会っているのに。……私だったら、真正面に立ちはだかって、いきなりグーパンチで、ダウン取って遣るわ!』
 グーパンチって、妹と取っ組み合いの喧嘩を最期にしたのは、小学五年生の三学期だ。
 おふざけと悪戯の仕返しに頬を平手で叩くと、必ず僕にしがみ付いて拳(こぶし)で殴り返して来ていた。
(そうだった! 思い出した。妹は叩かれた頬を赤く腫らして、僕は殴られて目の周りに赤タンと青タンを作っていたっけ……)
 六年生になった時に、四角い爪の彼女と噛み合わない言葉を交してから、妹の悪ふざけが気にならなくなって、妹から見た兄を意識するようにしている。
 永遠の別れを告げられてから彼女を探しに行ったキャンパスで、もしも、彼氏と寄り添い歩く彼女を見付けたら、僕は、どんな行動をしていただろう?
 彼氏とタイマンを張って、グーの音も出ないほどボコボコになって伸(の)されていれば、負けた僕は別れに納得できていただろうか?
 能登へ会いに行った事の情報は、彼女から届いた暑中見舞いの葉書きを見ているお袋の、僕の帰りが夜半を過ぎた話と、ダックスのエンジンが不調だと文句を言う親父から察したに違いない。
 ちょっと過激な物言いの妹は、『彼女さんの、見極めをしちゃる!』と、彼女と同じ神奈川県相模原市の大学を受験すると宣言している。
 其の宣言に勉学の志(こころざし)が感じられない。
 僕の彼女と、どう絡むのか分からないが、そんな事より、自分の為に大学へ進学して欲しいし、妹が望むなら修士課程や博士課程へ進むのを応援したい。
『マジで、おまえ、ブラコンとちゃうのぅ? 俺に恋してんのかぁ?』って、真顔で見据えて訊いた。
『おっ、それを訊いて来るぅ? まあ、アニキは弓道の先輩で、憧れだし、嫌いじゃないよ。ティラミスよりサバランが好きって感じで、好きだけど、絶対に恋じゃないからね!』
『それに、彼氏候補の男友達なら、いるから心配しないで。七尾と羽咋と小松の弓道部の同じ歳の男子達。告白されてんのよ。三人ともデートして、良い感じだと思ったわ。だけど、まだ、誰にも返事してないの。うーん……、それでね。遠くに離れたままか、近くへ来て、四年後まで続いていたら、性格の相性と生活力が分かるでしょ。そん時に、恋に落ちてあげるって言ってるわ』と、不敵に言い返された。
 彼女とは、見た目も、性格も、全然違ってんのに、其の偉そうな言葉に、デジャビュなオーバーラップを意識してしまう。
(こいつも、大学で知り合った男子と、不意に恋に落ちて、あっさりと三人を無碍にするんだろうなぁ……)
 さて、彼女には姉がいるのを知っている。
 もしかして、僕の勘違いで、其の人は親戚で、年上の従兄弟かも知れないけれど、コモ湖で見ていた様子から、僕は、母親と父親と姉の家族四人で来ていると思った。でも、兄弟姉妹が姉一人だけとは限らない。
 年長の姉か、兄もいて、たまたま冬のイタリアへ家族旅行に参加できなかっただけかもだ。
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 妹との遣り取りと一度だけ見た彼女の姉を思い出しながら、堤防際まで離れて待っていると、直ぐにブーツを履き替えた彼女が遣って来た。
「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」
(そうだな、僕も食べたいと思うよ。でも、今はダメなんだ! アイスはクーラーの方じゃなくて、フリーザーの方へ入れたから、直ぐには溶け出したりしない。だから、もっと、美味しく食べれる場所まで待って下さいませ)
「砂浜を少しだけ歩くから、また汗爆だろうし、それに、アイスはカチンカチンだったから、着くまでに、ちょっとは、食べ易くなると思うよ」
 僕は、リモコンでSUV車をロックしながら、左手の浜辺を見て、彼女を促した。
「だから、ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」
 駐車場の堤防を越えて浜辺へ降りると、左側の砂浜を目的の場所へと歩き出す。
 其処は遠目に白い崖肌のように見え、柔らかい砂に足を縺(もつ)れさせながら近付いて行くと、粗(あら)い布地を被せたみたいな丸みを帯びた岩塊(がんかい)の襞(ひだ)が見分けられる。そして、間近で見上げる僅かにグリーンがかったベージュ色の岩塊は、奇妙(きみょう)な形の襞が連なっていて、まるで観光パンフの写真で見るトルコの景勝地(けいしょうち)で古代遺跡のカッパドキアのミニチュアをイメージさせた。
 小学四年生頃に親父に連れられて来た時は、凹凸(おうとつ)が無い丸みを帯びた岩肌に、小学生の小さな手では掴り難く、転(ころ)げ落ちそうになりながらも斜面を這(は)い蹲(つくば)って登っていたが、上へ行くに連れて忍(しの)び返しのように斜面が反(そ)り返り、途中で僕は登るのを諦めていた。
 だけど、成人した体の今は、登り易すそうなルートを見付けて、彼女の手を引きながら頂上の松林まで登れている。
 彼女にブーツを履き替えて貰って、正解だった。
「ここは初めて。ずっと向こうまで広い砂浜が続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生はハマナスでしょう。すごいねー! 向こうの方は一面に群生(ぐんせい)してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀の海岸に、こんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたよね」
 体を動かし続けていると火照って来て、疲労する肉体が酸素を求めて息が上がってしまう。
 そして、動きを停めて休ませた時に汗が噴き出して来る。
 だから今は、噴き出そうとしている汗を迎え撃つ、カウンター発汗のタイミングなのだ。
 火照って熱を帯びた体の汗ばみは、アイスの冷たさで冷却させよう。
 故(ゆえ)に、『アイス・イッツ・ナウ』だと、アイスが入ったコンビニのレジ袋を彼女に渡(わた)す。
「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕も、この岩が不思議(ふしぎ)で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は、図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だったよ」
 受け取ったレジ袋から、緑色の地にオレンジ色の柄(がら)のパッケージのアイスを、彼女は取り出して、僕の前に差し出した。
「ありがとう」
 受け取ると、直ぐに僕は、パッケージを破って棒アイスを咥(くわ)え、身体の火照りを冷ます。
 アイスはパッケージカラーのイメージ通りの抹茶味(まっちゃあじ)。
」散りばめたミカンの粒(つぶ)っぽいのは、噛むとミカンじゃない、オレンジの味が口いっぱいに広がった。
 抹茶味とオレンジ味のコラボネーションは、美味しいけれど、ちょっと微妙(びみょう)。
 彼女のアイスは、淡(あわ)いピンク色。
 その香りから、ストロベリー味だ。
(グリーンティに、ストロベリーか、ふぅ~ん)
 大きな岩塊の平らな天辺(てっぺん)に、二人並んで座り、アイスを齧りながら、懐かしい長者屋敷跡の風景を眺める。
 この亡霊(ぼうれい)が立つみたいに、不定形に揺れているような白い岩肌を見ていると、宇宙が百三十七億光年の広がりが在るのに、地球の年齢が四十六億年よりも、長いのじゃないかと思えて来る。
 現在よりも、自転が速くて重力が小さかった数億年前まで、マントルは流動性が良くて、対流も速く、何度も、地球の表層の全てが潜り込んで、浮き換わっていると思う。そして、その度に人類らしきのが現れて、繁栄(はんえい)していたのかも知れない。
 こんな思い付きの夢想話を、彼女としたいと思ったけれど、今は、時期早々で止める。
「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に、金持ちの長者様が住んでたの? 今も、何か変なのが、棲(す)んでいそうね」
 岩塊を仰ぎ見ながら、首を傾げる彼女が僕に訊く。
 僕も初めて其の名を聞いた時は、時代は平安末期から室町期を経て安土桃山期の何処かで、国内の水運と大陸との貿易で豪商になった商人が、回廊を廻らせた寝殿造りの屋敷を構えて、朝、昼は商(あきな)いに専念して、毎夜、宴(うたげ)を催(もよお)していただろうと、そして、そんな豪壮な屋敷の朽(く)ち果てた残骸が化石のように残っていて、僅かでも規模と羽振(はぶ)りが想像できるだろうと、そう思った。
「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、焼き物の食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが、回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承(でんしょう)じゃ、近くの大池に棲んでいた大蛇(だいじゃ)みたいな龍が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮(く)らしていたんだってさ。この岩も軽石(かるいし)疑灰岩(ぎょうかいがん)という、何億年も前に海面に近い火口の海底火山が噴火して、噴煙から降り積もる火山灰や火砕流の堆積層(たいせきそう)で、その成れの果てだって。ほら、燃えたり、砕(くだ)けれたりした、古代の木の欠片(かけら)の化石が混じっているよ」
 火山灰でも、岩肌に多く含まれる軽石のような木片の化石から、火砕流(かさいりゅう)の灰の堆積だと思う。
 想像も出来ない大規模な火砕流が、何度も、何度も、噴火の度に渦巻いて、覆う灼熱の火山灰で凝灰岩の大地が形成されたのだ。
 弥生(やよい)土器らしきのが出土しているから、古くは神代(かみよ)の古墳期(こふんき)初期の頃から、人々が住んでいたらしいが、長大な砂浜の海岸は舟や網(あみ)がないと漁(りょう)はできないし、古の剥き出しの凝灰岩の海岸では甲殻類(こうかくるい)や貝類は獲(と)れるだろうが、乾燥している砂丘上では狩る獲物が少なかったと思う。そして、砂丘の向こう側は山際まで得体の知れない危険な水棲(すいせい)爬虫類(はちゅうるい)が多く生息する大湿原で、乾いた瘤状(こぶじょう)の土地も狭くて、とても、集落が出来るのに適さない土地だっただろう。
「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっと、みんなに慕(した)われていたんだよ。そう、龍が娘なって寄り添うくらいにね」
 藩政期末に大湿原は、幾つかの潟を残して乾燥した後、大半が耕地になってからも、海岸の砂丘地帯は明治期まで広大な砂漠状態だったそうだ。
 こんな不便な場所に屋敷を構えるなんて、余程、豪儀(ごうぎ)な物好きで大金と人望が有った人物だと思う。
(いや、牛首長者が屋敷を構えた頃は、現在とは逆に、地の利が良い場所だったはずだ)
「かもね。この辺(あた)りは、明治(めいじ)の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠(さばく)みたいな砂丘(さきゅう)だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周(まわ)りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」
 台風や真冬の波浪は、岩塊の真際(まぎわ)まで打ち寄せて、其の飛沫(しぶき)の塩の結晶と強風に飛ばされる砂粒、軟らかい凝灰岩を削り、長者屋敷跡は、常に形状を変化させられている。
 牛首が屋敷を構えていた頃は、今の渚よりも先へ張り出した断崖の岬のようだったと思う。
 駐車場辺りの砂浜は湾状になって、両側の岩塊際に作られた桟橋(さんばし)へ多くの交易船が接岸していたはずだ。そして、現在の片野集落の地は、貿易商人の先進的な湊町(みなとまち)として大いに栄(さか)えていた事だろう。
「龍は、牛首長者が亡(な)くなってから、大池に戻ったんだね。龍は、大地の精を食べて水気を放つそうだから、今も、水底深くに潜んでいるかもね。で、その大池っていうのは、どこなの?」
 日本史の始まりで一万年以上と曖昧(あいまい)に括られている縄文期は、酸素濃度が現在の大気の二十パーセントより少し高く、重力も僅かに弱くて、二、三度、繰り返した氷河期と温暖期に、凍り付く海は水位を下げて陸地を増大させ、融け切る氷河に上昇する海面は、大海嘯(だいかいしょう)となって山峡(やまあい)の奥深い谷まで入り江や湾にしていた。
 そんな大海嘯の時期に、沿岸まで獲物(えもの)を求めて棲み着いた、古代の巨大な水竜の末裔(まつえい)がいても可笑しくない。
「さっき通って来た、片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬場に熊手形(くまでがた)の網(あみ)を投げて鴨を生(い)け捕(ど)りにする猟で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期(はんせいき)の初め頃までは、もっと大きな深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって、郷土資料本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀から七尾辺りまでの平地一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」
 牛首長者という伝承の人物は大和の民かも怪(あや)しく、たぶん、白色人種と黄色人種のハイブリッドだろうと僕は考えている。
 縦横無尽(じゅうおうむじん)に日本海を渡って、沿岸の主要な湊町や集落と交易する豪商であり、交易を拒む鎖国的な湊や商売敵(しょうばいがたき)の商船へは武力で略奪(りゃくだつ)して従わす、海賊の頭領(とうりょう)でもあった。
 攻撃的な海賊行為は、当然、商取引価値の有る物品以外にも、人身の売買と一族の繁栄の為に、逞しい男達や美女や可愛い子供を攫(さら)って来ていただろう。
「そうねぇ、きっと、龍が娘になって、牛首長者の屋敷に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」
 片野の浜の北側の断崖(だんがい)が続く小高い岬には、高い櫓(やぐら)が組まれた砦を設営して外敵の襲来を警戒しつつも、桟橋から至る集落は、生活する配下の輩達(やからたち)と家族や交易に訪れた商船の連中で賑(にぎ)わっていただろう。そして、鴨池の畔(ほとり)には攫って来た女子供達を囲(かこ)いながら養(やしな)って、部下への褒美(ほうび)にしたり、商いで売り捌(さば)いたんだ。
 女子供を囲う其の場所は、長者屋敷と人知れずに行き来できるように回廊で結ばれて、外来人が近寄らない為に、『大池には、恐ろしい水龍が棲まう』と、噂を流していたのかも知れない。
「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら、必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも、詳しく調べると考えたんでしょう。其の御蔭(おかげ)で、GPSに頼らなくても、迷わずに来れたし、古からのファンタジーなロマンスを話すして、私を楽しませてくれたしね」
 あの大桟橋へ向かっていた時、潮(しお)の香りが濃くなる方へと、僕は、V-MAXを走らせていた。
 タンデムする彼女から肩越しに、『犬みたいね』って言われた事が、嬉しく感じていたけれど、サイドミラーに映る君は、バイザー越しに眉間(みけん)に立てる縦皺(たてじわ)が見えていて、明(あき)らかに機嫌を損(そこ)ねていた。
(『犬みたいね』って、それ、褒(ほ)め言葉じゃないよねぇ。皮肉だよねぇ。其の時の君は、イライラしててさ、語気も、投げ遣りだったしねぇ)
「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」
 そういえば、見ていた郷土資料の中に、彼女の家が在る金沢市の町は、旧名が牛首だった。
 確か、藩政期に造られた辰巳(たつみ)用水の管理に集められた者達が住んでいた集落から、浅野川縁の耕作地へ下りる坂は、今も牛首坂と呼ばれていたはずだ。
 牛首長者の屋敷跡らしき場所で、錦町(にしきまち)の旧集落名や牛首坂の名を思い出すなんてと思うけれど、因果や縁は全く無いだろう。
「今も一緒に仕事をして稼(かせ)げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」
 何だか、親子で評価されるのは恥ずかしい。
 頷いた顔を横に傾げて、少し上目遣いで僕は彼女を見る。
(親父ぃ、良かったじゃん、話が合いそうだぞ。親父と親しくなれるのなら、親父を手懐(てなず)けた、お袋と気が合うかもだな)
「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」
(うっ! なに、この意味深なっていうより、ストレートな意味で、僕の親に御挨拶したいわけなのか?)
 軽く『今のは嘘、冗談よ』って、ぞんなジョークを言うはずのない彼女の言葉に、僕は真意を探ってみる。
「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹も、いっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」
 今度は、彼女が目を見開いて、戸惑った。
(自分が言った意味に、気付いていないのか、面白くて可愛い)
「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」
(あはっ! 慌ててるぅ)
 『はっ』と、気付いた彼女の顔は、『しまったぁ!』じゃなくて、『そっかぁ、そうよねぇー』って感じで、その動揺から覚悟を決める、その変化する表情が可愛い。
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 晩春の斜陽に大気が徐々に艶を失い、青い海原と青空に白い雲と砂浜、そして、それらを背景した彼女の横顔が、まるで、美しい日本画のように見せてくれる。
 其の構成と色彩の緻密さに見惚れてしまう僕は、掛ける言葉を失くし、筆遣いと色使いを見極めるように見詰め続けている。
 そんな、見惚れている僕に気付いたのか、此方へ彼女の瞳が動いた。
「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと、答えてくれる?」
 唐突に彼女が僕を見て、『質問するから、しっかり答えろ』って言って来た。
「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから、言ってみて」
 何を訊いて来るのか、全く予想ができないけれど、彼女が思う、『変』に興味が湧いた。
「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」
 何か、嫌な感じの仮死状態を、彼女は解説する。
(なんだそれ! 重態よりも酷いじゃん! 死亡寸前の危篤状態だよね……。それを、生かし続けるなんて、……確かに、『変な事』だ)
 自分の身に起きたら悲観の極(きわ)みだろうけれど、掛け替えの無い凄く大切で、ずっと生きていて欲しい人だったら、そうしても、皆無に近い奇蹟を信じたいと僕は思う。
「外見的には、全く動かないの。例えば、もし、意識が有ったとしても、身体の何処も動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻もね。でも、耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。だけどね、検査や装置のデータでは脳死なの」
 どうも、彼女の言う仮死状態は、意識が残っていても、それを、外見や検査結果では分らずに、死亡していると判断されるって事らしい。
「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に、死亡の認識じゃなかったっけ?」
(それなのに、生き続けているのは、何故? 身体の全ての運動を司(つかさど)る脳は死んでも、心が仮死状態にしているのか?)
「ううん、ほぼ脳死状態。ほぼなの。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が、永久停止して腐り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」
(身体活動の波形モニターは、一本の横筋のみ、どの数値もゼロばかり、脳の検査結果は機能停止の死亡判断。なのに、ほぼ脳死状態? 完全に死んでいない? 何それ? ゾンビなのか?)
「それは、コーマっていう、昏睡状態の事?」
 ゾンビ認定とは違ったけれど、コーマと、眠り続ける病気のナルコレプシーは、違うのだろうか?
「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと、半年以上も反応のない永続的な植物状態」
 五体と五臓六腑(ごぞうろっぷ)の肉体は弛緩(しかん)して、様々な刺激に無反応、でも、腐敗は始まらない。
 脳は機能停止直前で、殆ど脳死状態の昏睡が続いている。
 確かに、脳死状態と睡眠状態は違う。
 もし、そんな植物状態になっても、五感が働いているとすれば、最早(もはや)、精神の発狂を通り越して悟りに至るしか無いと思った。
(体中の内も、外も、全部が止まって動かせず、全く意志を現せない身体では、仕様が無いだろう。……諦めて心頭滅却すれば、火葬の炙(あぶ)り焼きの高熱も、土葬の窒息(ちっそく)の苦しさも、一瞬で、直ぐに暗闇になる…… かも……)
「自分が、そうなったとしたら……、あなたは、どうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り、自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して、期待し続けて貰いたい?」
 死の概念というか、死後の観念は、西洋と東洋とでは全然違っている。
 神託以前のユダヤ教から始まる西洋宗教の生と死は、唯一の神が生を生み出し、その生まれ出る生の数は無限だ。
 死後は天国と地獄に分けられ、天国も、地獄も、死後の存在が無限に溜まって行く。
 僕は思う。
(天国と地獄は、死後よりも、死に至る直前に在るんじゃないかと……)
 気付きもしない瞬間の穏やかな死、苦しみの無い眠る様な死、などは、天国に至るような死だろう。
 痛みに苦しみながらの死、迫る恐怖に怯えながらの死、悲観に暮れながらの死、などは、死ぬまでが地獄だろう。
 神の審判が有るとすれば、死の直前に裁(さば)かれ、迎える死によって浄化されるのではないだろうか?
「その状態は、喩(たと)えるなら、棺桶(かんおけ)くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」
 例えが、良くなかった。
 閉塞恐怖症と思われそうだ。
「真っ暗で、何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも、意識が有るかも知れないんだ……」
(五感は死滅寸前かも知れないけれど、夢を見続けているみたいな感じかな)
「現在の医療機器では、検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」
(もし、夢を見ているのなら、自我と意識は失われていないのだろう)
「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど、本人は覚えていないでしょう」
(まだ、医学的に証明されていない、夢を見せる脳の未知の領域。いったい、どれだけリアルな夢の世界を見れるのだろう? 全く経験も、知識も無い、クリエーションの世界を疑似体験できるのだろうか? ……実際と全く変わらないリアルな夢の中で死ぬと、現実のベットに横たわる肉体も、完全に死ねるのだろうか?)
「検診で瞼を開いても、瞳孔(どうこう)反射の虹彩(こうさい)収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても、精々、明暗が分かるくらい。……固定焦点になっているかもね? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも、痛いのも感じていて、精神だけは、生きて思考しているとしたら……」
(検査機器で検知できない脳の未知の領域で覚醒をしていて、意識を残しているという仮定なのか?)
 それまでの人生で得た経験と知識での思考をして、脳が疲れて眠ると未知の領域が、リアルな夢を見せる。
 誰にも気付かれない『生きている』を、アポトーシスで生命が活動を止めるまで、それを、無抵抗に続けるしかない……。
(ううっ、きっついなあ! そっ、それは、無感覚な身体に精神が沸騰し続ける、すっげぇー、苦しい拷問(ごうもん)だぁ!)
「例え、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり、話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて、君の匂いも嗅ぎ分けていても、僕は、それを君に伝えられない。瞼を開けていて、愛しい君の顔や姿が見えても、それを、君へ知らせる事は……、できないのだろうなあ……」
(君を認識する僕の五感に、自分の状態を自覚する僕の脳は、思考をフル回転して、君とのコミュニケーションを模索するだろう。でも、どんなに足掻いても、僕は、僕の内面から僕の状態を変化させれずに、一方的に君を観察するだけになる……)
「そんな状態で、僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、やはり、今日明日に陥(おちい)っても、百歳になって陥っても、そうなったら……、そんな僕は……、死んでいるのと同じだ……」
 反応の無い植物人間みたくなった僕を、今日の様な彼女なら、きっと、献身(けんしん)的に介護してくれるだろう。しかし、回復の見込みが無い不治な状態の僕を延命させてまで、彼女を煩(わずら)わせて縛(しば)ってはいけないと思う。
「だけど、あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界の其処にあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」
 近未来、急速に進歩した医学と科学の技術が、破壊された脳でも、完全脳死前なら自我と記憶を移転できるようになるかも知れない。
 それは、自我が発生せる構造システムと、保存されて取り出せる記憶の仕組みが解明されて、量子デジタル化出来るようになった自我と記憶は、遺伝子レベルの操作でクローンの健康体へ移せるようになる事なのだろう。
(SF的に電脳化っていうのだろうなぁ。安全・安価に確立されたら、お手軽に不治の病や異形が克服できて、メモリー崩壊(ほうかい)する精神の劣化まで寿命が延びてしまうかも。魂も、魄も、無いな……)
 だが、再生・復活には問題が有ると考えた。
 自我と記憶を量子デジタル化さると、オリジナル以外にコピーも作れるという事だ。
 当然、コピーも、自律しているから自分だと主張するだろう。
 自分だと言い張る自分が複数いて、全員が非協力的な関係になったら、事態は深刻で最悪だ!
 それに、オリジナルを媒体のチップしてしまえば、人間以外の肉体や機械の身体へも宿れるだろうし、位置を集束固定できるピンポイントのゲートが開ければ、デジタル信号で瞬間転送も可能になるだろう。
 脳さえ無事で冷凍保存されているなら、既に、死亡した方々の人格も甦らせるかもだ。
 更に、無限的な人類補完計画によって人類は、あっさりと精神共存世界のマナやイデのような高次元存在に進化して、君とか、僕とかの隔(へだ)たりも、争いも無い、究極で至高(しこう)の集合生命体になって宇宙空間を漂うかも知れない。
(う~ん、量子レベルになると、量子テレポーションという理論も有るしなぁ。量子の集合体は一つなのに、ロスタイムがゼロで集合体が瞬間移動する。なんて、無限に分身が作れちゃうみたいな、自他の分身だらけで、何万体の合体したのが見えたり……。いやいや、現実に起きてたりしていたら、無限の宇宙が無限の分身で埋まっているだろう。なので、量子テレポーション理論的な融合で未来永劫に生きられるなんて、バカバカしい考えでしょう)
 しかし、そんな未来的でも、量子理論的でもない現在は、自分の身に起きてしまう悲劇を受け止めるしかない。
「私は……、私は、そうするけど、あなたは、そんな状態の身体になっても、……生きていたい? あなたは、それすら分らないでしょうけれど、……私に奇蹟を求めて、待ち続けていて欲しい?」
(君が、僕を見舞う度に、僕の閉じている瞼を開けてくれて、光の中の固定焦点に君を映してくれるなら、待ち続けて欲しいかも……)
 きっと僕は、死体のように動かない身体の中で、奇蹟を起こす努力を懸命にしていると思う。
「延命処置を、続けて行くと?」
 考えたくないけれど、僕は、君への延命処置は可能な限り、行ないたいと思う。
「生命力が有る限り、元気で眠り続けるわ。でも、延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いずれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)てになって、目覚めが無いまま、枯(か)れる様に寿命が尽きてしまう……」
 延命には、限界が有る。
 細胞の分裂再生の終焉(しゅうえん)、末期分裂した細胞の癌化(がんか)、投入されるエネルギーや新陳代謝(しんちんたいしゃ)の糧(かて)を取り込めなくなった臓器の不全と機能停止、其のどれもが、あっさりと僕を死の闇へ送り込んでくれるだろう。
 また、本来の寿命以上に生き永(なが)らえさせると思う、低体温、極少呼吸、低血圧の冬眠的延命処置は断固拒否する。
 そんな凍らせる様な保存で冷凍人間化するのは、蘇生(そせい)する時も魄(ぱく)は宿り続けていると思うけれど、魂(こん)は戻って来るか分からない。
「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」
 道端(みちばた)や生垣(いけがき)の陰で、人知れず腐って行く動物の屍(しかばね)から漂って来る、独特な甘ったるい香りの腐敗臭(ふはいしゅう)。
 食えそうにない肉のムッとするような死臭とは違う、内蔵や筋肉や血管が熟(じゅく)して発酵(はっこう)する臭い。
 生きたままで発酵なんて有り得ないから、『既に、お亡くなりになってるのだろうな』と、適当に想像する。そして、尽き掛ける寿命に臭って来ていると思う僕の身体……、其の体臭を、『彼女は、どう感じてしまうのだろう?』と、考えてしまう。
「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は、高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」
 カビ臭いとか、排水口の臭いとか、そんな鼻が曲がりそうな臭いを想像してしまう。でも、そこそこの高齢な親父の両親や、お袋の両親は、直ぐ傍に近付いていても、触れていても、厭な臭いだと感じた事はなかった。
 どちらの両親も、夫婦二人だけで御郷の家に住んでいる。そして、どの部屋も、芳香剤や消臭剤が置かれていないのに、少しも厭な臭いはしていなかった。
 強めの香水を付けて体臭を誤魔化す事をしない両親と、いっしょの食事や並んでの買い物も嫌だと思った事はない。
「そのブレンドは、ちょっと、嗅ぎたくないな」
 祖父母達は、水分を多く摂って、よくトイレに行く。だから、体内に汚れモノや腐りモノが溜まらなくて、嫌な腐敗臭が滲み出たり、沁み込んだりせず、臭わないのだと思う。
 他にも、御風呂は毎日だけど、気分で朝晩入る時が多いそうだ。
 それも、シャワーじゃなくて、どっぷりと湯船に浸(つ)かるのだと言っていた。
 それに、温泉へ行くのも大好きで、遊びに行く度に、みんなで秘境の露天風呂巡りをしてる。
 きっと、水分補給や排泄(はいせつ)・排尿、御風呂での皮膚や頭髪の洗浄、これらが不足したり、我慢(がまん)が長く続いたりすると、体臭が気持ちの悪い臭いになるのだろう。
 新陳代謝って、新しい細胞に置き換わるのだけど、除かれる古い細胞は、腐って排泄されて行かなければならないって事だ。
「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」
 体や部屋の臭いといえば、『洗濯物の臭いに、気を付けなさい』と、お袋と妹、それに一人の女性から注意と指導を受けていた。
 洗濯する衣服は、脱いだ日に必ず洗濯して溜めない事、洗濯が済んでも放置せずに直ぐに干す事、乾いたら直ぐに畳(たた)んで、タンスやファンシーケースに仕舞う事と、重々(じゅうじゅう)言われていた。
 そうしないと服も、体も、部屋も、家も臭くなると、静岡市で一人暮らしを始めた時に実感した。
 因(よ)って、家の洗濯機は、ドラムタイプの洗濯乾燥機だ。
 臭いへの思い入れと、彼女が、僕の臭いを嫌がっていないかとの拘りが、解り切った結末の質問をさせた。
「接続しているシステムをダウンすると、先(ま)ず壁のパネルの表示光と、ベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示して、アラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。其処で患者を監視しているからね」
(今、彼女が話している事は、実際に行なわれている、家族との同意処置なのだろうか? 装置のメカニズムからのマニュアル的、或(ある)いは、関連の教本に記載されている参考事例からの死に至る話なのだろうか?)
「機械の作動は、……直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても、画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで、……暫(しばら)くは動いているんだ。患者さんは自律(じりつ)で呼吸していないから……」
 死は暗闇で、光は一切(いっさい)無し。
 人間の持つ三十三の感覚の全てが失われ、魄から離れた魂は、無に由って開放される。
 そして、転生だ!
 東洋的宗教の死後概念は、具現化した魄の肉体が朽ち果てて塵と成り、魂は輪廻転生(りんねてんせい)で使い回しの再生をさせられる。
 空間、時間、物質、それらは無限という有限で、故に、使い回される魂は有限だ。
 無限空間、無限時間、その、現在過去未来の何処かに産まれる生物へ魂は転生し、地球上とは限らない。
 転生で宿る先は生物だが、人間とは限らない。
 人ではない何か、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も有りで、滅多(めった)に死なない神格も含まれる。
 あらゆる空間と時間に超常的に存在する魂は、全ての生物の生と死を司る。
(その意味は、僕と君の魂が同じだという事なんだ。親兄弟に友人知人、他の人達や草木や海と陸の全世界に存在する生物達と、同じ一つの魂なんだよ。たった一つの魂が、無限に使い回されているって真理なのだろうなぁ)
 現在が無限に広がり、その広がりが、過去へも、未来へも、果てし無く連なっている。
 いや、現在、過去、未来などという時空的な観念は無く、ただ、ただ無限が広がっている。
 その無限の果てへ、果てへと広がる感覚は、イメージとして、僕は理解出来ないし、彼女にも無理だと思う。
「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが、……静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応は、……それだけ。そして、酸欠(さんけつ)で死ぬの」
 まだ、延命中で生きているのに、途中で人為(じんい)的処理によって死なすのは、殺人だ。
「そうか…。やっぱり、死んじゃうしかないのか……」
 僕は、『殺す』を『死んじゃう』にして、言葉を選ぶ。
 僕は思う。
 彼女に、僕を殺す選択や決断をさせてはいけない。
「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が、僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」
(これは、もう、遺言(ゆいごん)だ!)
 彼女の質問の前提は、僕が、彼女よりも先に逝くって事だ。
 僕の最期を、彼女が看取(みと)ってくれるのなら、それは、怖くも、悲しくも、寂しくもない最高に幸せな事だと思う。
 ただ、僕の死で、二人が別たれるのは残念だ……。
 もし、どうしても、君は、僕の延命をしたいのならば、いつか、君に死の暗闇が訪れる時、同時に僕の延命も止めて貰いたい。
(君がいなくなった世界で、延命され続けるのは、絶対に耐えられない!)
「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私も、そんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」
(こっ、殺すってどうよ? 聞こえ悪過ぎじゃんか!)
「そ、そうだったんだ……?」
 言いたくなかった『殺す』というフレーズに、僕は反応する。
 今は愛に満ちていて、お互いを疑りもしないけれど、もしいつか、僕が君を裏切って君の愛を踏み躙った時、僕は、愛を無碍にされた君に殺されるだろうか?
 生きて行く限り、僕達は、常に変化し続けている。
 何時しか、マンネリ化した日々で愛が薄れてしまうかも知れないし、移り気や誘いから第三者との関係が発生するかも知れない。
 そんな、歪(いびつ)な行動や生活の清算や代償が、『愛のコリーダ』に至ってしまわないように、僕は君の、君は僕の、変化した処と新たに見付けた部分も、好きになる努力をすれば良い。
(変化と新発見…… といっても、拒絶の外道的じゃなくて、友愛や博愛のような良い意味でだぞ! 嫌悪や蔑みになる事は、しても、なっても、いけないんだぞ!)
「君が、そうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいと思うよ。でもね、僕は、君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて、君に語り掛けるんだ」
 最初に語るのは。君への告解(こっかい)だ。
 君を欺(あざむ)いた全ての事柄を話して、其の時の僕の気持ちを打ち明け、懺悔(ざんげ)するんだ。それから、君と出会う前の僕と、出会ってからの言葉にしていなかった僕の君への想いを伝えよう。
「私が、皺皺になって、萎びても?」
 此処まで話していて、僕は改めて知った。
(彼女は、真剣だ……)
「ああ、皺皺になって、凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」
 恋愛感情なんて不確実な気持ちだと、僕は経験から分かっている。
 どんなに強い想いでいても、愛する想いが強くなればなるほど、相手の全てを独占したくなる。
 それは、相手の負担とプレッシャーになって、微妙な避(さ)けと僅かなあしらいを受けてしまう。そして、其処から訝(いぶか)かしみ始まり、 ほんの些細な事に疑(うたが)いを持ち、其の疑りを口にすれば、途端に売り言葉に買い言葉の諍(いさか)いに発展する。
 一旦は気持ちを戻せたとしても、相手への再三の疑りで、修復は益々困難になってしまい、更に、自分への疑りで、決裂破局は決定的になってしまうのだ。
 愛が濃過ぎても、薄くても、結局は破綻(はたん)に至ってしまう。
(なら、駆け引き無く、互いに負担にならず、信用と信頼を失わない自然な恋愛を維持するには、どうすれば良いのだろう)
「それって、なんか、……微妙に、いいかな」
 ちょっとした疑りが罵り合いとなり、直ぐに、互いが暴力を振るってしまう。
 どちらかが折れて謝れば、気持ちが優しく慣れるかもしれない。だけど、心の何処かで負の感情が燻(くすぶ)り続ければ、悲惨な別れになる。
 僕は、生涯を連れ添う愛すべき相手、守るべき相手、尽くすべき相手、全てを受け入れる相手、それは、一人だけにすべき相手だと、今、思う。
(でも、今の僕が、そうで、そして、そう考えているからといって、この先も、そうだと限らない……。必ずとか、絶対とか、全く今と変わらず、互いを想い続けて命の潰(つい)える瞬間まで、愛憎(あいぞう)溢れる言葉と態度を交わせるのか、変わらないと保障できるのか、分からない……)
 僕達の将来に、互いを愛する想いを揺らぎさせたり、崩そうとしたりする、不測の事態が発生するかも知れないという、そんな未来のifの不確定ファクターは、今この場で、微塵にも、僕の言葉の端にも、態度の揺らぎにも、現すわけにはいかない。
「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして、僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」
 僕は、彼女と幸せな終焉を語らいながらも、真逆の惨めで悲しい最悪の死の結末のストーリーを想作してしまう。
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 『もう、何ヶ月も彼女と口を利いていない。食事の仕度(したく)はされているが、いっしょに食べる事は無く、ダイニングやリビングにいても、顔を合わさず、口も利かず、互いに無視している。風呂の御湯も使い回す事は無く、入った後は流されたり、流したりしている。以前のような愛を感じる事は全く無くて、不都合さの渇(かわ)いた憎(にく)しみだけが募ってしまう』
 『寝室は別々。毎日の身支度(みじたく)は自分でしている。全額が会社から自動で銀行口座へ振り込まれている給料は、勝手に使われていて残額も無く、何に使われているのか知らされなくなって久しい。既に、互いの気持ちは完全に離れて、家庭内別居の状態だ。もう、元のような関係に戻る事はないだろう』
 『今となっては、何が原因だったのか、憶えていないが、互いが相手に問題が有ると考えている。もう、相手の存在自体が重荷で、枷(かせ)で、邪魔にしか思えなくて、この世からいなくなって欲しい』
 『……深夜、ベッドに寝ていると、部屋のドアが開く気配に、目が開いた。ゆっくりと静かにドアが開いて、レースのカーテン越しの月明かりに女性のシルエットが見えた。こんな深夜に黙って部屋に入って来る女性は、妻以外に考えられない』
 『妻だと思われる女性は、ベッドの真横に立ち、僕を見下ろしている。彼女が、何かを呟きながら両手を頭上高くに振りかぶった。途切れ勝ちに聞こえた呟きは聞き取れなかったけれど、振り被った両手に握られた物は月明(つきあ)かりに反射して良く見えた』
 『全体が真っ白に鈍く光って見えるのは、逆刃した出刃包丁だ!』
 『彼女は、出刃包丁を両手で握り締めて、振り翳している!』
 『僕は解ってしまう。これが、逃れる術の無い最悪のバッドエンドだと悟ってしまった。出刃包丁が振り下ろされる前に、瞬発的に身を躱(かわ)せば、致命傷を負う事も無く逃れ得るだろうと思うけれど、全身が金縛りになったみたいに動かせない』
 『さっと振り被る両手が躊躇いもなく下ろされて、そのまま妻の身体が被さって来た。胃(い)の辺りが、カァーと凄く熱くなって両足がジンジンと痺(しび)れた。熱くなったのは出刃包丁が刺さったからで、足の痺れは、妻の体重を掛けて押し込んだ出刃包丁の刃が、脊髄(せきずい)を損傷させた所為だと察した。これが、最後の感覚だと思う』
 『被さる妻の頭が動いて、僕へ向けたけれど、月明かりの影で表情が見えず、黙ったままの彼女からは、達成感と開放感が漂い、微塵にも後悔は感じられなくて、妻は笑っているのかも知れない』
 『もの凄く腹が熱い! 声が出せなくて、耳も聞こえない! 出血が激しいのか、熱い腹以外の全身が冷たく感じて、手も、足も、首も動かせない! 次々と上がって来る吐瀉物(としゃぶつ)と血液が口と鼻から溢れて、喘ぐ息が、絶え絶えになって行く! 見たいと願う妻の笑顔が黒いシルエットのままに、熱い涙が零れているのを感じる瞳の視界は、周囲から暗くなって来た』
 『僕は、もう直ぐ、死ぬ!』
 『視界は真っ暗になって、直ぐに死へ至る薄れ行く意識の中で、僕は、僕を殺す妻を許してしまう。それを妻へ伝えられないのが、現世への未練になってしまいそうだ』
(なあんてね。バッドエンドの中にも、魂の救いを求めちゃったよ。『まあ、いいか』とか、『しょうがないな』とか、諦めてしまってね。僕は、僕を殺すほど追い詰めていた妻へ謝るんだ。『ごめん』てさ。僕を殺すのを認めて許すのは、僕も許されたいからなんだよ)
 ==========
 僕は、彼女の顔を見ながら、白昼夢(はくちゅうむ)のように思い描いた最悪のバッドエンドにならないようにと願う。
(そう言えば、相模原は出刃包丁で有名だとか、言っていたような……? やはり、彼女の武器は出刃包丁で決定だな。恐ろしや、恐ろしや)
「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」
 そんなにも、彼女は、外見が変わるのを気にしているのか、僕に念を押すかのように、問いを繰り返す。
「何度でも、言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに、歳を取っても、見て呉れが変わっても、君は君だ!」
 僕は、慎重に言葉を選び、どれほど齢を重ねようとも、死が二人を別つまで、いや、別つても、彼女を愛すると誓う。
「それは、……凄く、嬉しいかな」
 想像したくなかった……。
 白いシーツの白いベットに、マスクや管を付けて横たわる君。
 来る日も、来る日も、ピクリとも動かない君の傍らで長い時間、、僕は、君の思い出を物語のように優しく話す。
 再び、君が僕を呼ぶ、其の喜びの為に。
 ……有り得ない、有って欲しくない未来だ!
「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく、別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は、二度と御免だ。だから、必ず、僕よりも長生きしてくれ!」
 世界中の何処へ行っても、もう、君は何処にもいない。
 どれだけ、長生きしても、もう、君に会えない。
 それは、哀しくて、寂しくて、僕は耐え切れない。
「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと、願っているの」
(いやいや、逆だ)
 僕は、君より先に逝かせて欲しいと思っている。
「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと、努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は、君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送って貰う」
(ごめんね。はっきり言って、一人、残されるのが怖いんだ)
 人生の終焉に、君が傍に居てくれないのは、凄く怖いと思う。
 だから、君には元気でいて、僕よりも、長生きして欲しい。
「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶えましょう」
(うん、是非とも、元気でいて下さい)
「だって、君がいないと、寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから、傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」
 いつも、君が幸せで笑っていて欲しい。
(僕達は高齢になっても、いっしょにベッドで寝ている。不意に、高齢になっていないかもしれないけれど、僕に其の時が来て、僕は悟ってしまうんだ。目が覚めた僕は、顔の向きを変えて緑色に光る時計の数字は、夜明けまで一時間の時刻。顔を反対側へ向けて見る君は、月の薄明かりに安らかな寝息の横顔で、触れている肩から君の温もりが伝わって来ている。起き上がって君を抱きしめたいけれど、顔の向きを変えれるだけで、ピクリとも身体は動かない。目は開いて見えているのに、耳も君の寝息が聞こえているのに、声が出せない。僕は君の方を向いて、『ありがとう』と、『さようなら』を心の中で言うんだ。それから、『君が目が覚めた時に、僕が冷たくなって動かなくても、ごめんね』と、謝るんだ。そして、僕は、二度と目が覚めない最後の眠りに就くんだ)
 怖くても、悲しくても、僕の人生の終焉が、どの様になろうが、絶対に君は僕よりも長生きして欲しいと心から願う。
(そうさ! 僕のこれからの人生は、其の為に有るんだ!)
「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも、長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」
(考えない。それは、『もしも』で、考えたくない! 君は、僕がいない残された人生を、子供達と孫達に囲まれて、明るく穏やかな日々を過ごすんだ)
 君が産んでくれて、僕達が育てる子供達なら、必ず、そうしてくれると思う。
「分かってる……。分かってるさ……」
 まだ、ちゃんと愛の告白をしていないのに、僕は、君と添い遂げて家庭と家族を持ち、僕の望み通りに君よりも先に逝ってしまった後も、残された君が、幸せでいて欲しいと願っている。
「あはっ、真剣(しんけん)に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃった。でもね、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、ちょっと迷っているんだ」
 『迷う……』、これまで既に決めた事しか話していない彼女が、まだ、未確定な迷い事を僕に相談しようとしている。
 何事に彼女が悩んでいるのか分からないけれど、僕に出来る助言や行為が有れば、いや、無くても、模索して彼女の悩みを小さく、若(も)しくは無くしてあげたい。
「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから、医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」
 僕は、彼女に顔を向ける。
(そうだ。君は臨床(りんしょう)工学技師になりたいと、僕に言っていた)
 そして、その資格を得る為に相模原市の大学で学んでいる。
「ああ、憶えているよ」
 僕は、彼女の眼を見て話す。
 時折(ときおり)、逸らしそうに揺れ動く彼女の瞳は、其の都度(つど)、直ぐに強い光を宿して、僕を見詰め返して来る。
「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。其の実習の中に延命装置の取り扱いもあってね。それで、其の機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況や取り付け方法を見て来るの」
 彼女の話す内容から、学んでいる事が工業系のメカニックに似ていると思った。
(医療機器は、機械メーカーが製作してるし、最先端の微細工作マシンと、高度医療機器の基本工学の技術は、殆ど共通で、相互補完できるんだろうなあ)
「其の病棟は、深昏睡の患者さんばかりで、病室のベッドで横たわる人達は、酸素マスクと点滴(てんてき)の管(くだ)とせンサーのコードを付けられて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取(せっしゅ)するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便(はいべん)、排尿(はいにょう)の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」
 SF映画はシンプルで多機能な医療機器と、殺風景なくらいのクリーンな病室のデザインで未来をイメージさせるけれど、ホラー映画は霊安室か、遺体保管室か、地下室のホルマリンのプールばかりだから、彼女の観たホラー映画のタイトルを知りたい。
 病棟シーンが多いホラーゲームだとしても、僕の知る限り、ナース達は異形(いぎょう)だし、病院全体がフルウェザリングの汚れ朽ち果て放題の状態で、何かが潜(ひそ)み棲む様子だから、例(たと)えのサンプルには適さない。(きっと、彼女の勘違いだろう)
「透明なスクリーンに仕切られた、真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾(そうしょく)も無い、白色の病室で、明かりは、天井と床の四周の縁(へり)からの間接照明。空調は、天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄(せいじょう)な空気が静かに吹き出して、床の四周の際(きわ)に有る、排気溝へ吸い込まれていくの」
(まるで、クリーンルームみたいだな)
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 僕が働く自営の小さな工場も、親父は拘って耐塵、耐震のクリーンルームにしている。
 対外的な応対用の事務所と集中コントロールを行なうオフィスは、通常の天井埋め込みのエアコンディションと換気扇で吸排気しているが、集中コントロール室は別区画にされている。
 集中コントロール室からエアシャワーの通路を通って入る加工現場はクリーンルームで、高い天井全体から集塵フィルターを通した清浄な空気が静かに噴(ふ)き下ろしされている。そして、床の周囲の隅に設置されている網目模様のダクトへと吸引してから、粉塵除去のフィルターを経て排気されていて、クリーンルームのレベルは、十分の一ミクロンの塵が一立方メートル内に千個以内でISO3のクラスだ。
 エリアや機台別に、煙探知機、熱探知機、スプリンクラー、自動泡沫(ほうまつ)消火(しょうか)装置が設置されて、異常発生の状況と状態映像は携帯電話へ送られて来る。
 クリーンルーム内の明かり取りで高い位置に有る窓と、壁の上隅と下隅に設置されている換気扇は、遠隔操作で開閉と吸排気の切り替えが可能だが、有害ガスの発生時などの非常用で、普段使いはしていない。
 工作機械などの搬入(はんにゅう)は、ガレージみたいなエアシャワールームで綺麗に掃除されてから入れているし、工場内へは、ロッカールームで私服を静電気防止の作業フェアに着替えてから入り、オフィスと現場は作業フェアのまま行き来している。そして、クリーンルーム内の手作業は、クリーンベンチや定盤(じょうばん)の上で行なうように徹底(てってい)している。
 照明は、LED灯でルーム全体が眩しいくらいになるけれど、加工機毎(ごと)の照明も可能だ。
 今の所、煩雑なツールやワークの交換は手作業なので、其の時だけは照明を点(とも)すが、加工プロセスのプログラミングはコントロール室から行えるので、通常は照明と機械の灯(あか)りを消されているクリーンルーム内は、加工機のシグナル灯のみが光る真っ暗状態だ。
 もう少しすれば、清浄に保たれる工場の暗闇の中で、ツールやワークの交換をする多腕(たわん)ロボットや人型ロボットが動き回る事になるだろう。
「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は集約されて、ナースステーションで集中管理しているんだよ。……何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が、実際に在るって思っていなかったから、ちょっと、信じられなかったわ……」
 小規模ながらに徹底したクリーンルーム化を自慢(じまん)する親父の説明を聞いてからは、病院へ行く機会が有る度に、『診察室や病室の吸排気は、徹底されているのか?』とか、『窓が開けられて入る外気に、埃っぽくないか?』とか、『病棟は何故、手術室、集中治療室、滅菌室、以外を、せめて、院内感染を防ぐレベルにクリーンルーム化を施(ほどこ)せないのか?』と見たり、思ったりしていた。
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「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人、個人に合わせた調整をして維持させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで、生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なスクリーン内のモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態の維持が必要で、患者さんの反応が、全く無いんだから」
(それって、終末(しゅうまつ)医療なんだろうなあ)
 積極的安楽死や消極的安楽死の処方(しょほう)を行なわずに、肉体の限界まで昏睡状態で生かし続けるなんて、本当の天寿(てんじゅ)を迎えさせているのかも知れない。
 それは、延命治療をしない尊厳死(そんげんし)とは全く違う、終末期を鎮静(ちんせい)させた平穏死(へいおんし)の一つの方向なのだと考えた。
「もっとも、ほんの僅かでも、覚醒(かくせい)の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに、違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」
 静岡市の会社に勤めていた時、後輩が交通事故で大怪我を負ったと知らされて救急車で運ばれた病院へ同僚達と行ったが、危篤状態の彼が、集中治療室で辛うじて生かされている様子に、見舞いどころではなかった事を、僕は思い出した。
「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もう、トラウマになりそう!」
 手の施しようが無かった状態の後輩は、翌日未明(みめい)に亡くなってしまって、僕は彼の御通夜(おつや)と葬儀(そうぎ)に参列した。
 潰された彼の体は、死に装束(しょうぞく)と掛けられた布団(ふとん)で見えなくされていたが、抉(えぐ)られた側を下にして傷の少ない側を見えるようにした顔は、施された化粧で、まるで、生きて眠っているかのように見えた。
 僕が見た遺体は、今のところ、彼だけだった。
「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で、考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体の成長の過程で、命と魂が宿るのか……、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体を成長する極初期の細胞が生成したり、分裂して増殖するどの過程で人間としての命と魂が宿るのか……、みたいな。……なあんてね」
 体験した所為なのか、小難(こむずか)しい事を考えているのは、拘りが多い彼女らしい。
 生物は魂と魄で生きていると、僕は信じている。
 魄は肉体で、成長する器(うつわ)だ。
 本来、肉体は細胞分裂を繰り返せるだけ寿命が有るのだが、其の状態は、喜怒哀楽(きどあいらく)、躁鬱(そううつ)の精神状態の影響を受け、健康を維持する事も、不健康で衰えたりもして、長短が左右される。それに、重い病気に侵されて終焉が早まったり、酷い損傷を受けて朽ち果てたりもしてしまう。
 魂は意識や記憶で、性格などの人格を形成して宿命(しゅくめい)の業(ごう)も支配する。そして、魂が宿らないと魄の肉体は生きて行けない。
「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」
 僕よりも、死が身近に有る環境で学ぶ彼女は、ほんの些細な拘りや疑いから鬱(うつ)に陥りそうだ。
 こうして、僕に悩みを相談する事事態、其の兆候(ちょうこう)かも知れない。
「あはははは。うん。その方向には、行かないから大丈夫。安心していいよ」
 今の彼女は、将来の光がか細く薄れ、アイデンティティーを見失いつつある。
 光り溢れる出口を見付けられない焦りから、不安障害や急性ストレス障害を患(わずら)ってしまい、カウンセラーも煩わしくなるという重症になれば、容易(たやす)く楽になると誤解している間違った自由へ飛ばれるかもだ!
 狭隘(きょうあい)になる思考と鬱積(うっせき)の息苦しさが朦朧(もうろう)とさせた逃避で、衝動的に間違った自由へ行くのは簡単だが、決して安らかに行けはしない。
 ほんの数分間だが、それまでの人生で経験した事の無い、本当の苦しみを味わう。
 苦しさに耐えられなくて、止めたいと思っても、既に手遅れだ。
 目張(めば)りした部屋で睡眠薬(すいみんやく)を飲んで練炭(れんたん)を燃(も)やす、激しい頭痛を伴(ともな)う一酸化中毒。
 洗剤を混合させて発生させる流化水素ガスは、鼻腔内と気管支(きかんし)と肺臓(はいぞう)を爛(ただ)れさせて、酷く咳(せ)き込みながら喉と胸を掻(か)き毟(むし)り、苦痛の果てに呼吸を止める。
 夾竹桃(きょうちくとう)の枝を折って樹皮を剥(は)ぎ、青臭(あおくさ)い樹液をしっかり飲めば、心臓が鷲掴(わしづか)みにされて握り潰されるような痛みの心筋(しんきん)梗塞(こうそく)による血流と呼吸の停止。
 などなど、サドンデスではなく、自らが命を断つのは、どれも絶命(ぜつめい)するまで、未知の苦しみと恐怖に耐え続けた挙句、楽に成れたと感じる事も無く、二度と光を見る事の無い暗黒(あんこく)へ連れ込まれて、戻っては来れない。
「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘(かんゆう)には、絶対に係(かか)わらないように。君が、信じて頼れる存在は、此処にいるから。其処の処よろしく」
 間違った自由へ飛ぶような、あっけなく虚(むな)しい人生の末路(まつろ)へ向かわせない為にも、僕は真摯に彼女の言葉に聞き入る。
(君の言葉の影に潜む不安を、僕は、銀河(ぎんが)の果てまで散らせて遣るんだ!)
「他にも、『魂とは、脳の思考(しこう)の根底なのだ』とか、『肉体の全機能停止の死が、命と魂を無に帰さす』とか、でも、『命と魂が同時には離れるのではない』とか、それに、『命と魂が別々に離れても、無にならないのかも』とか、考えてしまうの。然(しか)も、深昏睡の部屋の患者さん達は、まだ命が宿っていても、魂の抜(ぬ)け殻(がら)になった無機質の……、まるで、陶器(とうき)のような空(から)の入れ物を、整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」
 キリスト教の戒(いまし)めに、口寄(くちよ)せや神降(かみお)ろしや死者語(ししゃかた)りをする魔女を摘発して、拷問(ごうもん)の自白強要での処刑殺戮が有る。
 魔女を否定して絶滅(ぜつめつ)するのを神が授けた戒めとされるのなら、死の境界線の向こう側に彼岸の世界が在るのだろう。
 この悩(なや)みと苦(くる)しみに満(み)ちた世界(せかい)から人間(にんげん)が、さっさと逃(に)げ出(だ)して彼岸(ひがん)へ飛(と)ばさせないようにする為(ため)に……、輪廻の世界を知られないようにする為に……、強引な戒めを数多く授けたのかも知れない。
(それとも……、其の真逆かも……)
「その病棟を見てからは、それまでは、大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと、今年と来年の授業を受け続けるべきか、迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ、卒業できるんだけどね……」
 僕は、彼女を癒(いや)すだけしかできない、不確実な道標(みちしるべ)に過ぎないのか?
(ああっ! ……ならば、僕が信じる九萬坊(くまんぼう)黒壁山(くろかべやま)の怪異(かいい)よ。彼女の守護神であると思うトヤン高原の物(もの)の怪(け)よ。どうか、彼女が間違った自由へ飛ばないように導(みちび)いてくれぇ!)
「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」
(小学六年生の時から、僕は、強い意思を持ち、自由な思考をする君に憧れて、君に認めて貰える男になる努力をしていたんだ)
「けっこう、真剣に悩んでいるんだ……。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に、それが、私の遣りたい事なのかも、分からなくなって来てるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも、相談していないし……」
(君は、僕が想っていたような、君じゃなかったのか?)
 最初に悩みを打ち明けてくれたのが僕で、非常に嬉しいけれど、絶対に、僕以上に君を心配している両親や姉さんにも、相談して欲しいと思う。
(君が許すなら、僕も、いっしょに飛ぶから。決して一人で行方(ゆくえ)を晦(くら)ましたり、しないでくれ!)
「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」
 まだ、一度だけなのに、こんなに悩んで引き摺っている延命病棟の実習か、見学か、どちらでもいいけれど、もう、彼女に参加して欲しくない。
「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。あの見学が、最初で最後よ」
 もう無いと聞いて、少しだけ安心した。でもやはり、彼女は生理的というか、精神的に医療系の仕事には従事できないみたいだ。
「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は、考え方の問題だけだ」
 僕にできるなら、彼女の、今できる選択肢(せんたくし)を増やしてあげたいと思う。
「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」
(そんなに、嫌なのか……)
 僕は、覗き込むように彼女の顔を見てしまう。
 彼女の瞳は、ずっと僕を見詰め続けている。
「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない、病院や医療機関に就職すればいいじゃん」
 僕は、理解していた。
 彼女は、就職の選択肢から医療系を外したいと望んでいる。
「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら?」
 彼女の気持ちが固まっているのを察しているのに、僕は敢えて、彼女を追い詰めて行く。
「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングで、プロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安は、みんな同じで、いろいろ悩むのさ。実社会へ出てからも、様々な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い、早い、深い、浅いの程度の差が有るけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴うプロ意識を持って、仕事に従事しいるんだ」
 悩む思いは、僕も同じだから、彼女に言う言葉は、僕自身への言葉でもあった。
「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないと思うから分からないけれど、君は、医療技師になって、医療以外にも、工学を学んでいて、機材や機器を扱うのだから、切った、縫ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……。言い方が良くないかな? 間違っていて、気を悪くしたら謝るよ」
(そう、君は、別に医療の仕事に就こうと、拘らなくてもいいんだ)
「いいの、気を悪くしないから、続けて」
 彼女が学んで得る医療の知識は、この先の人生に於いて『きっと、役に立つ筈だ』とも、僕は思っていた。
「それに、在学中に、いろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とか。卒業する時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか、警察関係も有りじゃん」
 彼女が望むなら、今の大学を中退(ちゅうたい)して、違う大学で新たな専攻に移るとか、専門学校で彼女のメンタルストレスにならない分野を学ぶとか、そうさせたいし、其の為の学費の援助も、僕は用意できる。
「そうかな?」
 彼女の大学卒業が、二、三年先になっても、僕達二人の大きな問題にはならないだろう。
「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には、金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が、自分で判断して決めるしかないんだ」
(僕は、君の思いを尊重(そんちょう)して、応援(おうえん)するだけだよ。でも、悩みは、ちゃんと相談してくれ)
「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる、君の正解(せいかい)なんだ」
(君自身の選択肢は自由だけど、後ろ向きな思考なら応援しないし、僕は、断固反対する!)
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」
 すっかり傾いて、赤みを帯びて来た太陽が、海風に吹かれて舞う髪から垣間見える、彼女の耳を綺麗なピンクに染め、僕へ向けた顔は、頬も、額も、艶っぽいピンク色で、唇は官能的(かんのうてき)な紅色(べにいろ)だ。
 風に晒(さら)す首筋や胸元も、ピンクに光り、赤い色で膨張(ぼうちょう)したみたいに強調される胸の膨(ふく)らみは、欲情的に彼女を愛しくさせた。
「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」
(……『かな?』じゃなくてぇ、両親や姉や僕以外に相談するなんて……、僕に秘密にする外に……、有り得ないし……)
「OK、勿論(もちろん)さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も、君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」
 彼女の事だから、僕を雁字搦(がんじがら)めにしないだろう。
「うん、支えてちょうだいね」
(ああっ、勿論さ!)
 彼女の瞳を見てから、しっかりと僕は頷く。
「ところで、臓器(ぞうき)提供(ていきょう)は、どうするの?」
(ええっ!? 話が飛んだぁ! 臓器提供?)
「ん、それはして欲しい。使える部分は、全て提供してもらってくれ。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で、僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。……それは、……有りかな?」
 咄嗟(とっさ)に骸(むくろ)になってからの自分の臓器の提供について、いつも考えていた事が口から出てしまう。
「そうね、有りかも」
(そうさ、有りなんだよ。君と添い遂げるのは、宿命を感じるけど、最悪のバッドエンドに、運命は感じないぞ!)
 僕が置いてきぼりされる終末は、端(はな)っから想定していないけれど、もしも、仮(かり)に、そうなってしまったとしたら、僕は君の弔(とむら)いを、……僕の思い通りに、……僕の好きにさせてもらう。
「私も、そうしてくれるの?」
(君の真横、君の真正面に真後ろは、絶対に失いたくない僕の居場所(いばしょ)だ! そして、僕が愛する君は、絶対に壊(こわ)れて欲しくない女性だ! だから……)
「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは、誰にも渡さない」
 言ってから、『しまったぁ!』と思った。
 意思を強める余り、愚かにも、僕は彼女を部品呼ばわりだ。
「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」
 以外にも、僕が知っていた君なら、入れて来るはずの『パーツ』へのツッコミは無くて、骸を未練がましく手許に置きたがる僕を、ケチだと言った。
(それって、ケチなのか? 違うんだ、ケチっぽく思えるほどなんだよ……)
「君の亡骸(なきがら)は、僕が、手厚く葬(ほうむ)って弔うんだから、勿体無いじゃないか」
(……勿体無い…… って、言ってしまった……)
 それはメモリーだ。
 火葬にした君の小さな骨を、僕はいつも持ち歩くんだ。
 最愛の相手の骨を齧る人がいるそうだけど、其の気持ちを僕は解る気がする。
 僕は、試しに君の骨を嘗(な)めたり、齧ったりするかも知れないけれど、見て、触って、君と君を想った日々を思い出すんだ。
(でも、僕が、先に逝くから、できないな)
「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか弔うまでも……、そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」
(そうだ! もしもの為に、沢山の動画を撮(と)って、君のホログラムを作ろう。姿、形を立体で、声のトーンと話し方も復元して、君の思考と性格はAIでトレースさせるんだ。そして、君が生きていた時と同じように、僕は、君のホログラムと話し、笑って、泣くんだ……。それから……、僕の最期も、看取って貰うんだよ……)
 僕は立ち上がって、赤味(あかみ)を帯び始めた海原と砂浜を眺めてから空を見上げ、そして、顔を紅く染めて座る君を見て考える。
(取り敢えずは、君と僕の全身を3Dスキャンして、ミニチュアのフィギュアでも作ろうか)
「さぁ、そろそろ行きましょう。冷(ひ)えて来た事だし」
 彼女の言葉に少し冷(つめ)たくなって来たかなって思っていた潮風(しおかぜ)が、本当に肌寒くなったと感じられた。でも、ハートは温かく、居心地が良い君の横で、ずっと、こうしていたい気分だった。
「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」
 背後の松林に入ってサイクリングロードを通れば、歩き易くて靴も砂塗(すなまみ)れにならずに済むと思った。けれど、GPSの地図画面で確認しただけのサイクリングロードは、少し遠回りになる気がして、僕は来た時と同じ、眼下の渚沿いを歩いて駐車場へ戻る事に決めた。
 彼女の手を握り、滑らないように慎重に長者屋敷跡の斜面を降りながら、僕は、彼女の体調を案じて反省(はんせい)する。
 握り返す彼女の手は、冷たい……。
(冷える彼女の身体に気付かずに、僕は、此処に居続けたいと思っていたのか……)
「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」
 国際便も就航(しゅうこう)している小松空港のターミナルビルは、渡航客が絶対的に多いセントレアや関西(かんさい)空港や羽田の空港施設とは比べ物にはならないが、地方空港として土産物売り場や飲食店が、そこそこ充実していると感じている。そして、入っている飲食店は何処も、僕が食べた料理は美味しかったと思う。
「そうだな。温かい麺類(めんるい)ってのは、どうだろう? 僕は、カレー饂飩(うどん)にするよ」
 今の彼女は、トレンディさやファッション的なフードコーディネートに拘っていないみたいだけれど、同じ轍(てつ)と地雷を踏まないように、以前に彼女がオーダーした『カレー饂飩』を言ってみた。
 彼女の反応次第では、『カツ丼』で呪詛(じゅそ)って遣りたい。
「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦(おそば)にするわね」
 さらっと、リベンジ返しをされた。
 ノリで『カツ丼にする』って言ってくれれば、楽しいと思ったのに。
 『麺類に』と言ってしまった自分の残念さに、彼女の手を握る掌が汗ばんでしまう。
 拙い言葉遊びが、軽く躱(かわ)されて、ちょっと、赤面して顔が熱くなっているみたいだ。
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 柴山潟から日本海へ注ぐ新堀川(しんぼりがわ)の汐見(しおみ)橋を渡り、僕は、SUV車を小松空港への最終アプローチの直線道路へと走らせる。
 行き交う自動車は少なくて、この調子だと、ハードなトラブルがない限り、ターミナルの搭乗カウンターには、充分に時間の余裕を持って着ける。
 そう予測した時に、彼女が何か閃(ひらめ)いたように言った。
「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」
 『海岸なら、ついさっきまで、長者屋敷跡の浜にいたじゃん!』って思ったけれど、僕は口に出さない。
「時間は、まだ余裕だよ。ん? 海岸って、浜辺へ?」
 気紛(きまぐ)れか、思い付きか、僕には察せないが、彼女なりの理由(わけ)が有るのだろう。
 『君は、身体を冷たくしていたのに』と見た彼女の顔は、ほんのりと朱(しゅ)が差して上気しているように思えた。
 彼女の希望通り、ウインカーを点滅(てんめつ)させてからブレーキペダルを踏み、充分に減速させつつ、SUV車を海岸方向へと左折(させつ)させて行く。
「そう、ここでいいわよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」
(正夢って……、夢に見た事が、現実になったという、その正夢?)
「外へ出ましょう」
 さっとドアを開けて、斜陽を浴びて薄い赤味を帯びる世界へ出て行く彼女を追い駆けて僕も降り、赤味が濃(こ)くなった西の空と海に向ける彼女の視線の先を探りながら、僕は横に並ぶ。
(何の遮りも無い水平線まで広がる海原と、其の向こうのくすんだ赤色の空の中に、君は何を思い、見い出しているのだろう?)
 顔を僕へ向けて、真顔の彼女が上目遣(うわめづか)いで、じぃーと僕をみる。
 何かが始まりそうな気配に、心の内の動揺や構えを感じさせないように、意識して優しく微笑んでみた。
 すると、彼女は半歩下がりながら、顔と身体の向きを僕へ向けると、両の掌を僕の胸に着けて爪先立ちで寄り掛かって来た。
 触れるばかりに間近になった彼女の顔の真剣な眼差しが、僕の微笑む瞳をマジマジと見ると、彼女は薄く開かせた唇の動きに合わせて、両の瞼をゆっくりと閉じる。
(こっ、これって、……やはり。……キスを、求めているんだよな……)
 胸がキュンキュンと締め付けられるくらい、彼女が愛しい。
 閉じた瞼の睫毛(まつげ)が、ヒクヒクと震えている。
 眉間に浅い縦皺が、入ったり、消えたり、繰り返している。
 そっと、唇を触れさせて、彼女の閉じた唇を優しく開かせて、ゆっくり舌先を入れて行き、彼女の舌と絡ませて行くと、彼女も、舌先を絡み返して来る。
 舌の絡みを返す度に、肩を上下させるくらいに彼女の息が喘ぎ、僕の吐息は震えた。
 僕の舌の動きを真似る、彼女のザラっとする舌先に、ヌメっとする舌の裏。そして、スルリと滑るように口の中の天井へ触れてくるのが、擽ったくて気持ち好い。
 上気する気持ちで感じる息苦しさに、彼女と僕はスッと唇を離すと、二人揃って仰け反るように静かに長く、息を吸い込んでから、同じように静かに長く、今度は息を吐き出しながら、互い顔を鼻先が触れるくらいに近付ける。
「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」
 彼女は、『こうしたい』と言いながら、僕の腕に身体を密着させて来た。
(おおおおーっ! そう来るですかぁ? マジで、勘違いヤローになっても良いですかあ?)
 手を繋ぐどころか、彼女は、腕を絡ませる僕の手の二の腕を、たわわにとは言えない自分の胸の膨らみに密着させる。
 其の柔らかで確かな弾力を感じさせてくれる彼女の大胆さに、僕は欲情しそうだ。
(こっ、これは誘っているのか? 腕に縋(すが)って来てるぞぉ! エッチに挑戦してもいいのか? ……いやいや、まてまて、ちょっと違うだろう。彼女は、僕と腕を組んで歩きたいだけだろう)
 今日、もしも出逢えたとしたらと、僕が予想した彼女は、あっさりと僕を他人行儀な態度の冷徹な挨拶であしらう、擦れ違うだけの、僕以外の男性で満ち足りた女性だったはず……。
 なのに、彼女へ持ち続けたイメージを根底から覆した彼女の言葉と態度は、どれも嬉しくて楽しい。
 きっと、今の僕の顔は凄く驚いてニタニタと笑っている。
 そんな僕の表情を見ている彼女が、視界の隅にいるけれど、『ただのスケベかも』と思われているかも知れなくて、僕は、顔も、視線も、恥ずかしくて彼女へ向ける事ができない。
 唇を離した彼女が、望みを言う。
(僕が成りたいモノは、君が望む全てだ! 僕の生涯で叶えれる限り、君の望みを叶える!)
「うふっ、あそこも、こんな感じで、歩きたいわね」
 僕は、これまで彼女が歩いた全ての道を、彼女と歩いて、彼女が行った全ての場所を、彼女と行きたいと考えている。
「あそこ? それって、どこ?」
 『鯨の背』と呼ばれる横浜港大桟橋に相模原市の桜並木、それに、立戸の浜でキリコを担いで欲しいと言った。
(他に彼女が、僕と歩きたい場所は、何処だろう?)
「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔とスペイン広場ね」
 君の声で聞く『コモ湖』に、僕の記憶が鮮明に蘇(よみがえ)る。
 あの時は、『まるで、ラブロマンスの映画やドラマのワンシーンのように、真冬の遥(はる)か遠くの場所で、思いがけない、君との出逢いに、僕は駆け寄って息が詰まるくらい、君を強く抱き締め、歓喜(かんき)の涙を流しながら、感動のキスをしたい』、なんて想うほど、デスティニーを感じてしまった。
 吹き抜けて行った風が、君の髪を掻き揚げるまで、僕は、君だと気付いていなかった。
 後日読んだ紀行記で、其の強い風の塊が、アフリカ大陸から冬の地中海を渡り、冷たいヨーロッパへ吹き寄せる生暖(なまあたた)かい風で、シロッコと呼ばれる季節風だと知った。
 因(ちな)みに、サハラ砂漠の奥から北アフリカ沿岸を地中海へと抜けて行く、シロッコと呼ばれる前の強風はギブリだと記述されていた。
 君を写(うつ)そうと覗く一眼レフカメラのファインダーの中に、測距する赤外線の光が、コモ湖の水面から漂う薄い靄(もや)に映り込み、それはまるで、君と結ぶ、千切(ちぎ)れ、千切れの赤い糸のように見えた。
 暈(ぼ)やけた破線のような希薄な運命の赤い糸は、一陣のシロッコに吹き払われてしまったけれど、靄が散らされて澄み切った大気の中で鮮明になった君を、僕は、夢中でシャッターを切って写し撮っていた。
「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私から、あなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたのかなぁーって。なんかぁ、遠出すると、気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから、尚更(なおさら)だったのよ。声を掛けて、何気(なにげ)に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも、良かったしね」
 中学生では、儚(はかな)げな、掠(かす)れ、掠れの淡い赤色の、希薄な細い糸に見えていただけだった。
 高校生になってからは、少しずつ色が鮮明になって行く気がしていたけれど、相変わらず、糸は途切れ、途切れに感じていた。
 社会人になって、『途切れずに、繋がって見えるようになるはずだ』と思っていた運命の赤い糸は、僕の不甲斐さから消滅(しょうめつ)してしまった。
 既に、彼女への想いは完全に断ち切り、赤い糸など何処にも感じなくなっていた。
 それなのに、今日は、春風の中に彼女の匂いを見ていた。
「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にビックリして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」
 びっくりして戸惑ったのは、僕も同じだった。
 運命を感じた偶然の出逢いに、直ぐ駆け寄って抱き締めながらキスをした後は、君の手を握ってクルクルと喜びのダンスを舞いたかった。でも、そうしなかったのは、君に拒絶されるのが怖かったからだ。
 十二時間以上も窮屈(きゅうくつ)なエコノミークラスのシートに座って、世界の半分を飛び越えて来た挙句、君に無碍(むげ)にされるのは耐えられないと考えたからだ。
 それでも、勇気を出して積極的に閃いた行動を実践(じっせん)していれば、『私達、付き合ってるの』みたいな、もっと、全然違う其の後になっていたかも知れない。
(……いや、彼女は、僕のように単純じゃない!)
 彼女が話さないので理解できないが、今日のように涙を流して、僕を求めるくらいの心境の変化がないと、きっと、希薄な赤い糸に戻す運命の正(ただ)しが為されていたと思う。
「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって、旅行の初日(しょにち)だったんだから、意識しないわけないじゃん! 初めての海外旅行で興奮して眠れなかったし、あなたに遇(あ)ったのが、信じられないくらい、すっごくファンタジーだったから。……でもね、日本に帰ったら、直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」
(それは、お互い様だよ……)
 あの頃の躊躇いの日々を思い出している僕は、顔を伏せながら、『もしも』を言ってみる。
「もっと、メールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」
 それを出来る積極性と光明力(こうみょうちから)を僕が備えていたら、其の後は、幸いにも、不幸にも、全然違っていて、こんなにも離れ離れになっていた運命が交差する今日の出遇いは無くて、二人の想いが修復されなる事も、想い詰めた愛が見直されてリセットされる事も、無かっただろう。
 どれほど『もしも』を過去に求めても、それを、実現できるはずがないのは分かっていた。
「まさか、スペイン広場でも遇っていたなんて、思いもしなかったわ」
 彼女は、中学二年生の終業式の日に僕が贈(おく)った、街並みをレリーフしたメッセージスタンドの事を言っている。
 彼女の机の中へ忍(しの)ばせておいたのに気付いて、驚いて見ていたのを、僕は知っている。
「あのね、予感はしてたんだ」
 短い言葉の意味から、彼女は話題を変えていると察した。
(其の意味の落とし処は、何処なんだ?)
「……予感?」
(予感なのか? 予想じゃなくて?)
「そう、きっといつか、私は、あなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」
 『それで、未来日記のように、其の通りになったわ』の言葉を続けるみたいに、明るく嬉しそうな笑顔を、僕へ向ける。
「あっ、その笑顔は、いただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいと思っているよ」
(ああっ! 本当に、好(い)い笑顔を見せてくれる!)
 嬉しくて、可笑しくて、楽しくて、彼女の心が全開に開放された笑い顔だ! そして、全身全霊で尽くし甲斐の有る、僕の魂魄が癒される笑顔だ!
「紅く染まってって、それ、酔(よ)っ払(ぱら)いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」
(紅らむ顔で、酔っ払いと来たか……。どれくらい飲むと、彼女は自制が利かなくなるのだろう? 寝る? 笑う? しゃべる? 煩い? 黙る? 怒る? 殴る? 蹴る?)
 『いっしょに楽しく飲めれば良いな』と、写真に撮りたい笑顔とは全然違う事を、僕は連想してしまう。
「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。ホントに違うし。マジで今日を連想する笑顔だよ」
 僕の二日酔いの経験は、今のところ、静岡市のアパートに居た時だけだ。
 会社の付き合いで飲み会へ行き、無謀(むぼう)な深酒にゲロって寝てしまう。
 道端の植え込みや下水のグレーチングの上に蹲(うずくま)って嘔吐(おうと)しながら寝てしまい、大抵は皆(みんな)に放って行かれて朝まで其のままだった。でも、目が覚めたら、アパートのトイレの床に転がされていた事も有った。
 起きて酒気が消えると、激しく痛む二日酔いの頭痛に、アパートの部屋や共同トイレの床へ何度も倒れ込み、次の日の朝まで身悶(みもだ)えして苦しんだ。
 部屋に帰って、普通に寝て起きた時でも、何処をどうやって帰って来たのか、全然憶えていない事も何度か、有った。
 酔うと、よくしゃべって笑ってばかりいた。
 後日、僕を送ったり、介抱(かいほう)してくれた同僚や上司に訊いたところ、決して暴力を振るったり、不機嫌になったり、不愉快な思いをさせたりはしていないらしい。
「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」
 凄くほっとする言葉を、彼女は言ってくれた。
 西に傾きを大きくして行く太陽に向かって、甲高(かんだか)く遠吠(とおぼ)えしたいくらい僕は嬉しい。
 笑いが治まった彼女の横顔を、ちょっと思っていた事が有って見詰めてしまう。
 水平線間際まで傾いた太陽がピンクに染めた彼女の顔は、嬉しそうに遠くの海原を眺めている。
 照り返しで煌く海原の眩しさに細めていた眼の瞳がスッと動いて、僕を見て止まった。
「何見てんの?」
 横目ではなくて、顔を向けて僕は彼女をマジマジと見ていたから、それは気付かれて当然だろう。
「顔に、何か書かれている……、そんなワケないよね。で、何か付いてるの? 」 
 勿論、何も書かれても、付いてもいないから、僕は、顔を横に振りながら訳を話す。                                                                                                                                                                                                                                                                     
「あっ、気に障ったのなら、ごめん。……何も付いていないよ。……いつも、君が微笑んでいるように見えるのは、何故だろうって思っていたんだ……。この近さなら、そうは思えないけど、少し離れると優しい顔に見えて ずっと不思議だったんだ。それで、見てた」
 眉の端を吊り上がて、縦皺を眉間に寄せながら、口角を少し上げる彼女の表情に、自分でも自覚しているのを知って、『別に何も』のような、無難な返事で流すべきだったかと後悔した。
「ああん! 何か、妖怪っぽい言われようだけど、やっぱり、あなたにも、そう見えていたんだぁ」
(あわわ、なっ、何も、妖怪なんて、言ってはいないぞ!)
 いきなりの彼女の戦闘モードが発動しないように、僕は、慌てて繕(つくろ)いと宥(なだ)めの言葉を探す。
「よく言われるよ。何が可笑しいんだってね。笑っちゃいないのに、失礼しちゃうよね」
(やはり、不躾で失礼だったかあ。しまったあ)
「それで、何故か分かったのかな?」
(ううっ、これはぁ……、ツッコミなのか? ……ここは正直に、感じた事を言うしかないだろうなぁ)
「うん、口角が下がっていなくて真っ直ぐなんだ。それに、上唇の中央が上がっていないね。プリッとした感じの、厚からず、薄からずでさ」
 兎に角、魅力的でときめくと言いたかったのに、非常に中途半端な言葉足らずになってしまった。
(あっちゃぁー、中学生の時に美術館へ彫像作品を観に行った感想でも、もっと、上手く表現できていただろう)
「そう、それだけで、笑っている様に見えるのかしら?」
(いやいや、そうじゃないんだよぉ)
「いや、顔全体の作りが、優しい配置なんだと思う」
(そう、優しく見えるんだ。心は表情を作ると考えているから、君は、僕に無愛想(ぶあいそ)で連(つ)れなくしていたけれど、本当は打ち解けて優しくなれると、信じていたんだ)
「……作り? ……配置?」
(表情の配置だよ)
 表情は、其の人の内面から浮き出て来ていると、僕は思う。
「たぶん……」
(今日の、君は優しいから……)
「あなたは、私が優しいと思う? 外見じゃなくて……」
 彼女は、『彼氏ができたよ』のメールに返信した、僕の誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)に満ちた酷いメールの事に絡ませて言っているのだろうか?
(読めない君の行動と態度に、冷淡(れいたん)な君の誠実(せいじつ)なメール、そして、君の容姿に僕は、今も惹(ひ)かれている)
「きっと……。そう、絶対に……。そうだと、信じたい!」
(これまでも……、今も、これからも! 僕は、君が素敵な女性だと、信じている!)
「あはははっ! そうね、今まで通りに、あなたへは優しくしているわ
 この時間を此処で止めて、それから少し戻して、何度も、この時間を繰り返したい。
 素敵に笑う君の声と言葉を、何度も、何度も、聞く度に、僕は、心地好い感動と凄く嬉しい気持ちにさせられていたいんだ。
 --------------------
(長者屋敷跡で、人生の終末をテーマにした切実(せつじつ)な問いは、すっごく遠回しな彼女なりのプロポーズだったのではなかっただろうか?)
 もしかしてと、僕は疑るように考えてしまう。
 言った通りに空港ターミナル二階の蕎麦屋で、蕎麦とカレー饂飩の晩飯(ばんめし)を済ませ、売店で幾(いく)つかの土産を買ってから、彼女はセキュリティーゲートへ向かう。
 セキュリティーゲート近くの柱の陰で、前を歩く彼女が、突然持っていた荷物を床に置き、僕に振り向いた。そして、ゆっくりと両手を僕の首に回して引き寄せ、背伸びをしながらキスをした。
 目を瞑って深く濃厚に唇を合わせる彼女が、猛烈(もうれつ)に愛しい。
 もう間も無く、彼女と別れる時間がやってくる。
 まだ、心許無い確信しか持てない僕は、弱い自信に不安が強くなって行く。
「うっ、いっ、痛いよ。息が止まっちゃうよぅ」
 夢のような今日を、『夢じゃないんだ』と、気持ちが舞い上がっていても、思えば、思うほど、彼女を抱き寄せる僕の腕は、彼女の息を止めさせるくらい、強く抱き締めていた。
『逃げないで』の強い気持ちは、『逃がさない』の憤(いきどお)りに変わり、僕の自信の無さを打ち払おうとする思いは、無意識に彼女を締め潰しそうになっている。
「あっ、ごっ、ごめん」
 僕は、体が浮いてくるような高揚した気分と離れたくない気持ちで、以前の独り善がりな自分に戻りそうになっている自分に気が付いた。
 後悔に不安が混ざる切実な思いが過ぎり、急いで僕は謝った。
(また彼女を探し続ける日々は、もう嫌だ!)
 眉間に縦皺を立て、端を吊り上げた眉毛を寄せる怒り顔の彼女が言う。
「ううん。でも、嬉しい」
 小さいけれど明るい声で優しく言って、彼女は僕の想いを受け止めてくれる。
 腕から彼女を抱き締めた感触が消えてしまわないように、僕は、そっと彼女を放す。
「君は、君の心から美しく輝いて、僕は眩しく感じているよ」
 彼女を放す際に添えた僕の賛辞に、彼女は顔を傾げた。
「なに、それ? あなたから、……私って、そんなに綺麗に見えてるの? お世辞でしょ? 上げ過ぎよ!」
 真面目に怒り顔をする彼女の目が笑っている。
 真剣な顔で怒る顔は美しいと思う。
 嫌がる顔や痛がる顔は、可愛いとおもっている。
 悩む顔や苦しむ顔は、切なくて愛しくなってしまう。そして、笑った顔は最高だ!
「そうだよ。外見だけじゃない美しさの事だよ……。君のような美しさの輝きを放つ人は、美しく輝くように努力する自分を知るけれど、自分以外から……、つまり、僕から見た君の美しさは、君には良く分らないものさ」
(外見じゃないけれど、その美しさも鏡に映るし、それに、見えるだけでもなくて、匂うし、感じる輝きなんだよ)
「それなら、あなたの素敵さも同じよ。あなたは、もっと自信を持っても良いと思うわ。でも、驕ったり、威張ったり、しないでね」
 --------------------
 小松空港のセキュリティーゲートで彼女を見送ってから、駐車場の自動車へ戻った。
 僕の身体は、ずっと小刻みに震え、なんだか、宙(ちゅう)に浮いて漂っているような気分がしている。
 足裏に接するアスファルトの路面の感じが薄い。
 夢見の良い起きがけのようだ。
 滑走路から聞こえだしたジェットエンジンの轟音に、僕はSUV車の傍(かたわ)らで立ち止まり、晴れ渡る夜空を見上げた。
 轟音はジェットを噴かして滑走路をテイクオフして行く機体で、小松空港から羽田空港へ飛行する最終便だ。
 あの機体に、彼女が搭乗している。
 ずっと向こうの暗がりを、昇(のぼ)るジェットの青白い小さな輝(かがや)きと翼端灯の緑と赤の点滅が、星空への階段を、一歩、一歩、踏み締めて駆(か)け登る足跡(あしあと)のような光の筋を付けている。
 上昇を続けながら西方にバンクした小さな光達は、まだ、水平線上が仄(ほの)かに紅い日本海上を大きく旋回してから、やがて掠れるように小さな瞬く光の粒となり、東方の黒々とした白山山脈(はくさんさんみゃく)の彼方へと飛び去って行く。
 --------------------
「部屋に着いたら、連絡するね」
 セキュリティーゲートへ進みながら僕へ振り向いて、そう言った明るい顔の彼女へ、笑顔で僕は頷き返す。
「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」
 僕の仕様も無い冗談に、クスッと彼女は笑ってセキュリティーゲートへ向かう。
(向こうに着いたら、本当に、彼女は連絡をくれるのだろうか?)
 二、三歩進んで、また彼女は振り向いた。
「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも、相談できて良かった」
(今日の彼女は、優しい……)
 いや、違う。
(そうじゃない! 感謝するのは僕の方だ!)
「礼を言うのは、僕の方だ。僕こそ、君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて、最高に嬉しいよ。迷いの相談もな。僕の方こそ、凄っごく感謝している」
 にこやかに彼女は頭を振り、やがて笑いを消した顔で言いける。
「そして……」
 其処で彼女は言葉を切り、顔を背け、視線を落として黙ってしまった。
(『そして……』? 彼女は、何を言い掛けたのだろう? 躊躇うほど、言い難いことなのか?)
 彼女の様子から、言い掛けた言葉を、口にして良いものか、どうか迷っているように見えた。
 やがて……、僕には長く感じられたけれど、ほんの数秒の沈黙の後、彼女は、意を決したように顔を上げてから振り向き、僕を見た。
(微笑みの無い、真剣な顔……! どうするつもりだ?)
「……そして、私を、ずっと、彼女にする覚悟は、有るの?」
 躊躇っていた言葉を言い終えた彼女は、見る見る紅くなりながらも、パッと明るい笑顔になって僕を見た。
「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」
 予想もしていなかった彼女の問い掛けに、一瞬、意味が解からず、即答(そくとう)すべきなのに、瞬きほどの間が空いてしまった。
「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。其の時までに良く考えてね。ふふっ」
 僕の回答を遮るように彼女は、そう言うと、クルッと背を向けて、足早にセキュリティーゲートへ向かう。
(なっ、なんだぁ? 今のは、フェイクなのか?)
 フェイクでも、返事は決まっている。
 勿論、当然、覚悟は有る!
(う~ん、どれも、当たり前過ぎてつまらん。捻(ひね)りとオリジナル性がいるかも? 静岡のあの人へ言うはずだった言葉にするか……。でも、それは、使い回しみたいで……、どうよって感じだ。……自分の中での区切りがない。ごっちゃにはできないだろう……)
 僕は、まだ、今日の日を御浚(おさら)いできていなくて、どんなに言い寄っても、拒絶を繰り返すだけだった彼女が、これから、僕の恋人になるなんで信じられない。
 彼女が僕の視界から消えるのと同時に、今の超ベリーハッピーな時間も、想いも、全て消え入りそうな気がして、嘘(うそ)であって欲しくないと、心から願っていた。
 彼女の手荷物は、X線サーチをパスして行く。
 彼女が通るメタルデテクターも、ノーアラームだ。
 セキュリティーゲートを通過した彼女は、またまた顔を振り向かせ、今度は大きく手を振りながら搭乗口へ続く通路へと、急ぎ足で角を曲がった。
 彼女が角を曲がって見えなくなると、全てが熱気で潤む靄の中のようで、嘘臭く思えてきた。
 大きく手を振り、笑顔で搭乗口へ消えて行った彼女……。
 繰り返して来た春の想いが見せた、幻(まぼろし)のような気がする。
 昼に彼女と出逢ってから、ずっと、足裏の感覚が薄い。
 何処にいても、何処を歩いても、シャギーの長い毛脚の上にいるようで、しっかりと足が地に着いていなくて、しょっちゅうバランスを崩して、よろけそうになってばかりいた。
 --------------------
 晴れ渡った夜空の彼方、目を逸(そ)らすと、再び、見付けられそうにない微かに瞬く光りの粒を、僕は見詰め続けた。
 消え失せそうな昨日までの大切な想いと、今日の幻覚を見たような実感の無さに、白昼夢に魅せられたみたいな感覚が混じり合った、信じ切れない現実が、明日からの紡(つむ)ぎ始める夢と希望といっしょに、全て失われてしまいそうで、僕の眼は、ずっと、消えゆきそうな飛行機の灯りを追い続けていた。
(彼女は、本当に、あの瞬きに搭乗しているのだろうか?)
 僕は、ゆっくりと目を閉じた。
 瞼の裏の暗い模様の中に、見失いそうだった小さな光の残りだけが浮び上がる。
 それは、近付いて行く彼女の顔になり、遠ざかる彼女の笑顔に変わって行く。
 瞼を開くと彼方の暗黒の中、既に、微かな光りは消え失せて何処に有るのかわからない。
 僕は、一体何を追い掛けて見詰め続けていたのだろう?
 僕が見ていた光りは無くなってしまった。
 とうとう彼女は、僕が送り付けた最低で最悪なメールに触れないまま行ってしまった。
(電源を落としていても、メールは、届いているはずなのに……)
 きっと彼女は、届いた僕のメールをウザイとか、キモイとか、しつこいなどと思って、読まずに削除(さくじょ)してくれたのかも知れない。
 本当に、そうであって欲しいと、僕は切に願う。
 この先、二人が、どれほど危機(きき)的な事態が起きて破滅的な状況に陥っても、どんなに腹が立って怒り心頭になっても、僕は決して同じ過ちを繰り返さないと、点滅する光りが去った向こう、漆黒(しっこく)の山並みを見詰めて誓う。
 誓いながらも僕は、気持ちの高揚(こうよう)で浮ついた今日の出来事の記憶を、夜空の暗がりと山並みの闇が、曖昧に薄れさせてしまいそうな不安に、まだ、確実に思い出せる今、今日の日を実感できるシチュエーションの反芻をしたかった。
(さあーて、これからどうする? 何処かで一人物思いに耽(ふけ)ろうか? それとも、家に帰るか? ダチと祝杯を交わして、舞い上がるのは……、まだ…… だな……)
 SUV車に乗り込もうと僕は運転席のドアの取手を掴(つか)む。
 ドアノブの取手に手を掛けたまま、一つ、一つ、記憶を遡り、バラ色の人生のスタートになるかも知れない今日を思い出そうとする。でも、冷静でなかった僕は、場所や出来事を憶えていても、前後の経緯(いきさつ)や会話や細部などが曖昧で、はっきり順序立てて思い出せない。
 今日の彼女に出逢える前までの僕の気持ちと、彼女に出逢えたら、どうしたかったのかまで、最初から想いと行動と交した言葉を思い出そうと努めた。
 セキュリティーゲートを通り、搭乗口へ向かう今日の彼女は、終始、態度と言葉に冷静さを感じさせていた。
(彼女は、今日の日を、全て憶えているのだろうか?)
 夢見の後のような空虚な気分で、僕はSUV車のドアを開けた。
 手前に引いて開いたドアから、ファと、車内の冷えて淀んだ空気が大気に吸い出される風となって、擽(くすぐ)るように顔を撫(な)でて行く。
 其の時、桜の匂いが香った。
 懐かしさを覚えさせて、僕を奮(ふる)い立たせてきた愛おしい大好きな匂いだ。
(彼女の香りだ!)
 これほど、強烈に実感させて、確実に記憶を呼び起こすものはなかった。
 急に僕は、猛烈に嬉しくなってしまう。
「ハハッ!」
 今日の出遭いの嬉しさが溢れて、笑い声が出てしまう。
「アハハッ!」
 今日の、彼女に出遭うまでの自分を笑った。
(嬉しい! 本当に嬉しい!)
 もう、湧き上がる嬉しさでいっぱいだ。
(出逢える予感は、確かにしていたけれど、こんなに嬉しい日になるとは、全く思ってもみなかった)
 これまでの想いと、今日の思い掛け無い予想以上の結果に、これからの人生への期待が重なり、僕は幸せで満たされた。
「アッハハハッ。ヒャッホー!」
 嬉しくて、楽しくて、幸せで、僕は大声で笑って叫ぶ。
 いつか必ずと、想いを寄せ続けていたけれど、もう、脈も、縁も、無くなってダメだろうと諦めていたのに……。
 こんな気持ちの良い、晴れやかな時が、突然に訪れるとは思っていなかった。
 僕は、ハッピーエンドを想像して、未来がバラ色になるとばかりに思い込んでしまう。
 もう、幸せの絶頂だ。
 今日の日の幻は、遥か彼方へ逃げ去ってはいない。
 なのに、大笑いしながらも、今までの矛盾(むじゅん)する想いや事柄が僕を惑(まど)わせ、舞い上がった気持ちを一瞬で引き戻す。
 多くの躊躇いや逆転を経験した僕は、今日の幸せも、疑惑と不安で信じ切れなくなってしまう。
(舞い上がっているんじゃない! 僕自身は、何もしていないじゃないか!)
 泣きじゃくる彼女の言葉に、受け応えしただけだ。
 いっしょに食べたランチは、彼女に促されて終始(しゅうし)リードされっぱなしだった。
(未来予想は、全て、彼女の提案だった!)
 僕は、この時初めて、今日の出来事を実感できた。
 彼女の態度と言葉が、……フェイクでないという保証や確信は、何処にもなかった。でも僕は……、彼女の態度と言葉に期待したい。
(きっと! きっと、大丈夫だ。今夜の電話が、前向きに明るく話せて、楽しく弾んで終われば、この先僕らは、ずっと、大丈夫だろう)
 彼女に白状しなければならない事が有った。
 高校一年の時に僕は、彼女に嘘を吐いている。
 『私にキスした?』と、彼女からメールで問われても、『してない』と、僕は嘘の返信をしていた。
 夕方のバスの中で寝ている彼女の後ろ姿が、何処か寂しげで、拗(す)ねているようにも、不貞腐(ふてくさ)れているようにも見えて、とても、いじらしく感じた。
 我慢ができなくて、静かに覗き見た彼女の、目を瞑る横顔は凄く愛(あい)らしくて、僕は堪(たま)らず、彼女が起きないように、そっと唇にキスをした。
 あれが、僕のファーストキスだった。そして、あのキスは、彼女にとっても、ファーストキスだったのかも知れない。
 そうだとしたら、僕は、彼女のファーストキスを無断で奪った激しく許(ゆる)されない卑劣な奴だと、何度でも思い返す度に、後悔と反省に苛(さいな)まれてしまう。
 携帯電話の待ち受け画面にした、今日の彼女の笑顔を見ながら、いつか、必ず謝るべきだと考えていた。
 正直に話して、真摯に謝罪する僕の言葉を聞いて、彼女は、電話の向こうで分かり易く表情を変化させながら、軽蔑した呪いの言葉を、僕に浴びせ返して来るだろうか?
 それとも、生涯、僕を服従(ふくじゅう)させる意味深(いみしん)な、『初めてのキスが、あなたで良かった』と、言ってくれるだろうか?
 其のどちらでも、僕は彼女を信じて、自分自身も信じるなら、三時間後の電話は、絶対、同じ想いを描いて話せるはずだ。
 エンジンを掛けると、息吹く車の小刻みで静かな振動が足裏に伝わって来た。
(大好きな、嬉しそうに優しく笑う、彼女の笑顔を……、僕は見ていたい)
 チェンジレバーを、ドライブレンジにシフトさせて、滑らかに車をスタートさせて行く。
(この先も、ずっと、見続けれるだろうか? 彼女は、見続けさせてくれるだろうか?)
 ルート8を越えて、加賀産業道路を抜け、山側環状に入ると、更に、加速させて家路を急ぐ。
 後、トンネルを二つ抜けて、橋も、二つ渡ると、家は直ぐ近くだ。
 探し求め、待ち望んだ確証は、更なる疑問と不安を抱かせ、新たな確証を求めさせた。
 求めた確証からもっと、もっと、彼女を好きになるように。
 もっと、彼女が僕を好きになってくれるように。僕は努力し続ける。
 麗らかな暖かい陽射しのような彼女の笑顔を、見続けたい故に!
 満開の桜の匂いのような彼女の匂いを、感じ続ける為に!
     *
 掌の携帯電話が震えて着信音を奏で、今し方、以前の電話番号を消去して、設定し直したばかりの彼女の新しい電話番号をメイン画面に輝かせた。
(おおっ! 彼女から電話が来たあ!)
 着信音は何度も聞いていたメールのメロディではなく、たぶん初めて聞く、彼女からの電話の着信に設定したメロディだった。
 バイブレーションの振動に僕の手の震えも加わり、受話キーへ触れた途端に、携帯電話が跳ねるように床に落ちた。
 慌てて、携帯電話を掴んで持ち直すと、僕の安堵する気持が、緊張で震える深い溜め息を吐かせた。
『ガリッ! ボフッ!』
 着信画面に設定していた彼女の瞳に重なって表示される彼女の新しい電話番号を、再度、確認しながらスピーカー部分を耳へ当てる。
「もっ……、もしもし……」
 僕は焦りと緊張に胸が痞(つか)えて、呼び掛けも閊(つか)えながらも、彼女が無事に相模原の部屋へ無事に着いた言葉と元気な声を、早く聞いて安心したいと願う。
(もしも、トラブルに遭っているのなら、僕は、直ちにSUV車を超速で飛ばして彼女の許へ行き、助けるんだ!)
「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」
 彼女の無事な明るくて、何処か寂しげな声に安堵しながらも、僕の心は、愛しくて堪らないとざわついてしまう。
 携帯電話のスピーカーの向こうからマイクを通して聞こえて来るのは、彼女の声だけで、テレビの音も、音楽も、彼女以外に誰かが居る音や息を潜めている気配も、聞こえていないし、感じもしなくて、彼女は部屋に一人ボッチだと知った。
(彼女は一人だ……。一人ボッチで良かったぁ)
 彼女を心配するのを兼ねて僕は、彼女のボッチを確認していた。
 もし、彼女が、恋愛関係の男性と同棲(どうせい)でもしていたら、それは、非常に困り果てる状況で、再び、ジェラシーストームだ!
 今日の出逢いは、全てが否定されるべき事態になり、彼女の言葉と態度で弄(もてあそ)ばれた僕は、一生、独身の引き篭(こも)りになるくらいの重大で深刻なショックを受けてしまうだろう。だけど、僕は、彼女に弄ばされていなかった。
 僕は、今直ぐにでも、『彼女を、僕の傍に居させたい』、『彼女の傍に、僕が居てあげたい』、と強く願った挙句に、其の焦り混じりの大きな衝動が、僕の言動と気持ちを大胆にさせてしまった。
「けっ、けっ、結婚して下さい!」
 いきなり、すっごく大事な言葉を言ってしまい、とんでもなくスベったと思った。
(うっひゃあ! あわわわわぁ。言ってしまったぁ……)
 人生と運命を左右する大切な言葉を僕は、電話越しで彼女に言った事を、直ぐに後悔した。
 彼女に遮られた『覚悟の言葉』を、電話越しにマックスレベルで言ってしまっている。
 こんな電話でのプロポーズに、彼女は良い返事をしてくれるのだろうか?
 早々に改めて、生声で直接、プロポーズを仕切り直すべきだと、僕は思う。
 大桟橋からのディナークルーズで、揃いのリングを添えてプロポーズしようと決めていたのに、アホな僕は、勝手に先走って言ってしまった。
「うん。……はい!」
(うっわあ! 『はい』だよ! どうしよう!? OK、貰えちゃったよぉ!)
 テレる顔が驚きで引き攣(つ)りながら、浮かび混じって来る喜びで、目も、口も、頬も、締まり無く緩んでしまう自分の顔が分かる。
(もう、めちゃくちゃ嬉しい!)
 今日の彼女の言葉と態度から、断わられる事は無いだろうって予想はしていたが、直ぐに承諾(しょうだく)してくれるとは思ってもいなかった。
 きっと、『先(ま)ずは、ちゃんとしたカレカノの親密な御付き合いから、仕切り直して始めましょうか』って、彼女が返事すると考えていた。
「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」
(おっ、おおおおっ! そんなあっさりと、、軽はずみ的に御返事を言っちゃっても良いんですかぁ? いやいやいや、其の返事の言葉が、言って欲しかったんですけど、……でも、……其のぉ、……全く、……ありがとうございます!)
「はい! 謹(つつし)んで、喜んで受け賜(たまわ)ります!」
 プロポーズ返しを承(うけたまわ)る恐悦至極(きょうえつしごく)の礼を言った途端、ボロボロと涙が零れ出して止まらない。
(……本当に、僕で良いんですかぁ……)
 この嬉しさの向こうの、明るい喜びで包まれる幸せな日々へ、君と二人で一刻(いっこく)も早く辿(たど)り着きたいと思う。
「嬉しい。凄く、嬉しい!」
 彼女の喜ぶ声が、耳の奥底で木霊(こだま)して、僕の身体中の全細胞を貫(つらぬ)く様に響いている。
(大好きだ!)
 以前も、大好きだった……。
 遠くに、近くに、君を見ていた時。
 ちぐはぐでも、メールで繋がっていた時。
 ……それ以外の君を、僕は知らなかった。
(好きになって、大好きになって、好きになれば、なるほど、君を疑う気持ちが強くなっていた……。もっと近くで、もっと長く、君と繋がっていたい。身体も、心も……)
「僕もだよ! この嬉しさを、君に、何て伝えよう? ……心から愛しています」
 嬉しさの勢いが、声を大きくさせた。
 もっと、もっと、僕は両手で君を抱き上げて、この真摯な気持ちを何度も、何度も、叫びたい!
(なんという一体感! 今、君と僕は心を一つにして、同じ想いに感動する心が、嬉しさで震えている!)
 僕の頬を、君の頬に触れさせて、頬摺(ほおず)りしたい衝動に駆られてしまう。
(君と、ディープなキスを、僕はしたいんだあ!)
「私も、あなたを、心から愛しています。……うふ、もっと、言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」
 本当に、彼女の言う通りだと思う。
 前以って考えて選らん言葉は、場違いなニュアンスになり、其の時、其の場のアドリブ的に思い付く言葉は、いつも、何時か、何処かで聞いたか、読んだりしたような、在り来たりになってしまうんだ。
「ああ、そうだね。もっと、言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」
 鼻声になった彼女に、僕は、『ヤバイ、しまったぁ』と思う。
 僕は電話越しに、彼女へ近付き過ぎていた。
 其の近付き過ぎている心地好さに、携帯電話越しだけで済まそうとしていたのに気付いて、僕は自戒(じかい)する。
「……泣いているよ。私……」
(電話越しの……、愛の誓いかぁ……。これじゃあ、ダメだなぁ……)
 彼女も、僕も、涙を流すくらい感動しているけれど、この感動は、想い求めた出逢いが叶ったのと、互いが愛しくてキスをし合ったのと、今の時刻、ミッドナイトのハイテンションの所為で、そんな、ふわっとした麻酔(ますい)のような一時(いっとき)の感情の昂ぶりに、僕達は流されているだけかも知れない。
 これは何としても、仕切り直しをすべきだと思った。
「うん、愚図(ぐず)る声で分かるよ。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」
 詰まらないジョークを言いながら、僕は、『あれは、一時の気の迷いなの! 無かった事にしてちょうだい!』なんて、彼女から悲哀(ひあい)の声を聞かされない為の仕切り直しを考える。
「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」
 困った時の彼女が使う、『バカ!』の響きは、気持ち良い。
 次に会うまでに何度、電話の声とメールの文字を交し合うだろう。
 彼女から、プロポーズの話に触れて来るだろうか?
 僕から、プロポーズへ話題を振って、更に進展させるべきなのだろうか?
 彼女からのツッコミを、僕は上手く切り返せるだろうか?
「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」
 鼻声で期待を込めた感謝の言葉を言いながら僕は、揃いのカラフルなファッションリングと、ファンタジーなピアスを次に会う時にはプレゼントして、その次は、エンゲージリングを添えて仕切り直しのプロポーズをしようと決めた。
 ファションリングと、ピアスと、プロポーズのリングは二人で選び、マリッジリングは僕の限界額を超えても、彼女の希望を叶えたい。
「私こそ、ありがとう」
 嬉しい彼女の言葉を聞きながら、移動で疲れた彼女を、早く就寝させなければと思う。なのに、『おやすみ』と告げるのを躊躇ってしまう。
 眠り、朝が来て起床する事でリセットされる毎日、昨夜の寝るまでを御浚いして、日常のコンティニューを始める。だが、昨日の僕との出逢いは、彼女にとっては非日常で、殆ど、続きを意識しないかも知れない。
 彼女は気持ちは僕とのコンティニューがされずに、明日からは通常の大学へ通う日常へ戻ってしまう。だから、彼女の眠りの中で、ミラクルな今日を思い出す目覚めの良い夢を見させたいと思った。
(『おやすみ』と、言う前に、今日のハイテンションを夢の中まで持ち込めるように、ハネムーンの相談でもしようか)
 世界中の何処でも、行ける手立てが有る場所なら、彼女が望む場所、僕が行きたい所、何処へでも行こう。
 彼女の行きたい場所は、北イタリアのコモ湖とミラノだった。
 北部イタリアならベネチアでゴンドラに乗り、アドリア海やリビエラでディナーだ。
 時が止まるフェレンツェのドーモの天辺で、夕陽を眺めて、坂だらけのナポリをジレラで走り回り、
南西端のメッシーナ海峡を渡り、シチリア島へも行く。
 ちょっと治安が不安だけど、南のタラントまで行きたい。
 山岳都市と丘の上のシャトーは、レンタルしたフィアットで廻りたいと思う。
 ハネムーンに限らず、夏の一番良いシーズンには、フランスやイベリア半島の小さくて美しい村をルノーやシトロエンで廻るのもいいと思う。
 ドイツの山の上や川沿いの小さな城も、魅力的だ。
 冬はトロピカルなブルーコーラルで過ごそう。そして、サザンクロスや蠍座(さそりざ)の赤いアンタレスを観に南半球へも行こう。
 仕事の稼ぎは、全て君に渡すつもりだから、トラベルの計画は君に全権を委任する。
(約束する! 誓う! 僕は、君を幸せにする為に生きるよ)
 僕と彼女の欠伸(あくび)がハモるまで話せれば、きっと夢見も、『夢で会いましょう』みたいにシンクロすれば良いと思う。だけど、夜更(よふ)かしは互いの明日に寝不足として悪影響するだろう。
 寝不足は予期しない不測の事態を招く恐れが有るから、僕は、どうか、『素敵な今日』を彼女がリセットしないように願いながら、言葉を添えて『おやすみ』を告げる事にした。
「これから、寝る前に御風呂(おふろ)に入るんだろう? こんな遅い時間だから、湯船(ゆぶね)で寝ないように、気を付けてね。それじゃあ、また明日。おやすみぃ」

 

……完(僕)