遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

桜の匂い (私 大学三年生)桜の匂い 第十章 壱

  いつか、使いたくてウズウズしていたスタンガンを、勢(いきお)いに任(まか)せて思いっ切り電撃させまくった、『危(あや)うし乙女(おとめ)の夜』以来、私の苛付(いらつ)いた気分は無くなった。
 スタンガンは今も、催涙(さいるい)スプレーやフォールディングナイフと共に、バックの奥底に入れているけれど、あれから、一度も使っていない。
     *
 明日は、落とせない大学の授業があるから、どうしても、今夜の飛行機で金沢市(かなざわし)から相模原市(さがみはらし)へ戻(もど)らなければならない。
 それは、学業として大事な授業だけど、大学の敷地内に在る付属病院で、先日、偶然(ぐうぜん)に見掛けた事象(じしょう)が自分の将来に不安と迷(まよ)いを持たせて、医療(いりょう)技師(ぎし)の仕事の魅力(みりょく)を急速に失(うしな)って来ていた。
 最初は、噯(おくび)が出るような軽い不快感(ふかいかん)で、私は敢(あ)えて気に留(と)めないようにしていた。だけど、意識して忘(わす)れようと、すればするほど、目に焼き付いた場面が思い出されて、圧迫(あっぱく)されるようなムカつきを感じた。
 日が経(た)つに連れてムカ付く気持ち悪さは酷(ひど)くなり、今では思い出すだけで、吐(は)きそうになるくらい嫌悪(けんお)している。
 不快感は、スタンガンで始末(しまつ)したファーストキスのザラつきとは異質に違う。
 排除(はいじょ)した卑劣(ひれつ)な先輩のとは違う意味の嫌悪感に私は悩(なや)まされていた。でも、この迷いも、悩みも、彼なら救(すく)ってくれると思う。
(あなたは、私の守護神(しゅごしん)でしょう。私を助けて……)
 『永遠(とわ)にさようなら』の別れにしたのに、『金輪際(こんりんざい)、バイバイ』と切り捨(す)てたのに、今の生活に遣り切れなったり、行き詰(づ)る将来に窒息(ちっそく)しそうになったり、不安な人間関係に悩んだりすると、いつも思い出すのは、私の前に立つ彼の姿と、彼から伝わって来た、思い遣(や)りが有る『僕が、君を守(まも)る』の優(やさ)しく頼(たよ)りになる気持ちだった。
 救われるよりも、まだ、彼と出逢(であ)えていなかった。
 予感は有るのだけど、見付けられない。
 学業の悩みなどよりも、今の、私の最優先事項は、彼を探(さが)して出逢う事だ!
 いつも、いつの間にか、無意識の内に私は彼を探している。
 相模原でも、横浜(よこはま)でも、そして今、金沢でも……。
 通りの一つ、一つで、角(かど)を曲がる度(たび)にも、いるはずがないと分かっていても、もしかしてと思いながら、彼を探していた。
 視線の配(くば)りが、焦点(しょうてん)の合わせが、自然と彼を捜(さが)していた。
     *
 以前、前まで行った事が有る、彼の金沢市の住所を再(ふたた)び年末に行ってみたけれど、もう其処(そこ)には、私の覚(おぼ)えていた入母屋(いりもや)造(づく)りの家は何処(どこ)にも無くて、違う苗字(みょうじ)の表札で真新しい洋風の家が建(た)っていた。
 彼の家族は去年に引っ越していて、其(そ)の新築の家の人に行方(ゆくえ)を訊(たず)ねてみたが、転居先どころか、以前の土地所有者の名前さえ知らない無関心さに、何だか虚(むな)しくて切(せつ)なくなり、私はセンチメンタルな気持ちになってしまった。
 無関心さは、私も同じだ。
 他人をロストするのも、自分をドロップアウトするのも、また、其の逆(ぎゃく)も簡単な事だ。
 私は彼をワザとロストして、携帯電話内の登録リストから、彼の電話番号とメールアドレスを消去(しょうきょ)した。そして、彼とのメールの遣(や)り取りの全(すべ)てをメモリーから消し去った。
 掛けない電話番号に、いちいち打ち込まないメールアドレスなんか記憶しているはずもなく、削除(さくじょ)したメールアドレスに違法なGPSサーチでも、居場所を探(さぐ)る事はできない。
 彼と全然関係の無い人達が住む、真新しい家を見ながら思う。
 以前、この場所に彼は家族と住んでいて、此処(ここ)から毎朝、私と同じバスに乗り込んで来た。
 明千寺(みょうせんじ)へも、此処から来たのだ。
(彼は此処で、どんな暮(く)らしをしていたのだろう? 何を考え、どんな思いで毎日通学していたのだろう?)
 私は、過去の記憶へ想いを馳(は)せる。けれど、もう彼は、この場所にいない。
 自分の感情に素直(すなお)になって、彼への気持ちを受け入れ、初めて、彼の住まいを訪ねると、既(すで)に彼も、彼の家族もいなくて、家すらも無くなっていた。
 現実は、厳(きび)しく、決(けっ)して、思い通りにさせてくれない。
 私は、彼を意識していたけれど、ワザと私の中で重要な位置付けへ置いていなかった。
 私は気持の中で、彼に好意を持つ事を否定(ひてい)していたから、携帯電話番号も、携帯メールアドレスも、暗記(あんき)していないし、メモすらもしていなかった。
(彼を失ったのは、自業自得(じごうじとく)だ!)
 年明け早々(そうそう)に、うろ覚えの彼のメール内容から、彼が勤(つと)めていた静岡市の会社をインターネットで探し出して連絡をしてみた。そして、彼について分かったのは、年末に一身上(いっしんじょう)の理由で退職した事だった。
 退職後の消息(しょうそく)は、『たぶん金沢に帰って、お父さんの仕事を、お手伝いしていると思います』と、応対の電話に出た女性が話してくれた。そして、私が、誰(だれ)なのか確信しているように、『あの人を、大切にしてあげて下さい』と言って、彼の電話番号を訊(き)く間も無く、一方的に電話を切られた。
(ちょっとぉ、この女なに? あの人? 彼の事情に詳(くわ)しいじゃん! 彼と、どういう関係なの? 感じ悪(わる)!)
 『あの人を……』、彼を示(しめ)す、其の言い方が気に障(さわ)り、私をザワつかす。
(電話の応対に出た女性は、彼と親しい間柄(あいだがら)……、関係だった……? そうだったのかも、知れない……)
 私の女の感が、彼とは、ただならぬ関係だったと悟(さと)らせた。
 言葉から関係が過去形だと伺(うかが)い知れて、それに、私へ譲(ゆず)ったかのように、彼を御願(おねが)いしていた。しかも、自分から身を退(ひ)いたような言い方だった。それを、問い質(ただ)そうとして、携帯電話画面のリダイアルアイコンに触(ふ)れたけれど、思い直してキャンセルを押(お)す。
(……彼に訊けばいい。彼を見付け出したら、問い質して遣ろう……)
     *
 彼と連絡を取ろうとして掛けた電話の応対に出た女性は、彼の呪詛(じゅそ)がかった、酷い中傷(ちゅうしょう)と侮蔑(ぶべつ)のメール、『酷い目に遭(あ)わされて、棄(す)てられるさ。其の時になってから、僕を振った事を、後悔しても遅(おそ)いぞ!』と共に、彼を探し出そうとするモチベーションになった。
『彼は、金沢へ帰った』と、電話応対の女は言っていた。だけど、今まで、本当に彼が金沢市に戻っているのか、確信を持てなかった。
 なのに今日は、不思議(ふしぎ)だけれど、彼の気配を感じて、出逢える予感がしている。
 満開の桜の中、彼が興味を持っていた金沢城内を巡(めぐ)り歩いてから、二十一世紀美術館内の白いカフェへ来た。
 いつか、金沢城の門や櫓(やぐら)のミニチュアを作りたいと、彼は言っていた。
 私が折(お)った流れ旗は其のままに、相模原の部屋で埃(ほこり)を被(かぶ)る西洋城館のミニチュアを思い出す。
 捨(す)て切れなかった、彼の造形作品だ。
 あの日、彼と来たカフェの同じ席に着き、あの日と同じプレートをオーダーする。
 熱いクリームスープが絡(から)んだブリオッシュを口に運びながら、向かいの席に座っていた伏せ目勝ちの彼を思い出してしまう。
『普通に、しゃべれるんだね』
 私が不用意に発した、この一言で急に彼の眼(め)が泳(およ)いで無口になり、背中の痛みの所為(せい)も有ったと思うけれど、彼はオーダーした料理に殆(ほとん)ど手を付けてくれなかった。
 其の後も、空の珈琲(コーヒー)カップを握(にぎ)り、俯(うつむ)き続けた後の彼の顔と瞳(ひとみ)を思い出す。
 やはり、無神経な一言だった。
 春だというのに、どんよりと暗(くら)く曇(くも)った空の下、二十一世紀美術館を出た途端(とたん)、湿(しめ)り気と冷気を帯びた風が身体に纏(まと)わり付く冷たさに、私の全身がブルっと震(ふる)えた。
 其の纏わり付きそうな寒気で、白いカフェで温(あたた)かいカフェ・オ・レを飲んだばかりだというのに、二十一世紀美術館の出入り口前に出店していた、小型のワンボックスカーの移動カフェで再び暖(だん)を取った。
 逢いたいくせに、会いに来たと知られたくない。
 出会うべくしての出会いじゃなくて、偶然ばったり逢うのが爽(さわ)やかでいい。
 探していたなんて、知られたくない。
 温かい豆乳カフェキャラメルを飲みながらだったのに、巡らした想いは躊躇(ためら)いだらけで、塞(ふさ)ぐ気持ちに私は俯(うつむ)い沈んでしまう。
 そんな、暗くなる私の気持ちを温めるかのように陽射しが照(て)り付け始めた。
 見上げると、雲が千切(ちぎ)れて疎(まば)らになった空に澄(す)んだ青色が広がっていた。
 大気が暖(あたた)く動き出している。
 辺(あた)りの景色(けしき)が一変に明るくなって、暖められた優(やさ)しい風が春の麗(うら)らかさを乗せて来て、頬を擽(くすぐ)ってくれた。
 風が、変わった。
 この感じ……、予感が広がって行く。
 春風は冷気を吹き払いながら、片町(かたまち)や香林坊(こうりんぼう)から柿木畠(かきのきばたけ)や広坂(ひろさか)通りを抜(ぬ)けて、小立野台へ吹き上げて行く。
 風が光り、その風の中に、彼と同じの匂(にお)いが薫(かお)った。
 ……彼を感じた懐(なつ)かしい匂いが、彼との出会いの予感を強くさせて、プルプルと寒気とは違う武者震いが、私の全身を小刻(こきざ)みに奮(ふる)わせている……。
 近くに居(い)る彼を知って、素直になれない心に『正直になれ』と、私の身体は、彼との触れ合いを求めていた。
(広坂通りを下がり、香林坊へ行ってみよう)
 私は、匂いを運んで来た風の方へ向う。
 風の中に紛(まぎ)れる微(かす)かな彼の匂いを頼(たよ)りに、彼の行きそうな場所の在る通りを歩いてみようと思った。
 途中、市役所前の横断歩道の縁(ふち)で立ち止まり、彼の笑わない顔を思い出す。
(此処で彼は、乗り込んだタクシーのリアウインドー越しに、痛い体を振り向かせ、いつまでも私を見詰め続けていた……)
 別れ際、私は横断歩道の中程で渡った辰巳(たつみ)用水の傍(かたわ)らで、彼が乗るタクシーが見えなくなるまで、彼の顔を、瞳を、……見ていた。
 市役所前まで来たついでに、市役所の自転車置き場脇に置かれた、『第二回 国際応募・まちなか彫刻作品』の最優秀に選ばれた漆黒の顔の彫像に触れ、『彼に巡り逢わせて』と、百八十度の視界を持つ、六つの白い眼球の透き通るような青い瞳を見据えながら、私は『待ち人』の願を掛けた。
 市役所から広坂通りを下がり、香林坊の鞍月(くらつき)用水沿いの裏通りを通って、長土塀(ながどべい)まで来た。
 此処まで来ると、彼の匂いを感じられない。
(違う……、此処じゃない。もう、此処にはいない……)
 この辺りにいると感じていたのに、彼を見付けられない。
 彼は、風下へ移動している。
 心は騒(さわ)ぐ。
 彼は、片町のスクランブル交差点を渡(わた)り犀川(さいかわ)大橋へ?
 或(ある)いは竪町(たてまち)を抜け、新竪町(しんたてまち)を通って桜橋へ?
 それとも、柿木畠を、さっきまで私がいた二十一世紀美術館へと行ったのだろうか?
 彼の好んで向かいそうなルートを、私は見当を付けて選ぶ。
(一人で犀川の川縁(かわべり)には行かないわよね。いくら岸辺の桜が満開でも、彼は一人じゃ行かないよねぇ)
 今日の彼は一人でいると、私は勝手(かって)に決め付けていた。
 中学校での人気や高校で活躍した弓道部(きゅうどうぶ)でのモテ具合から、連絡を取っていた女子がいても可笑(おか)しくない。
 そんな女子と、金沢に戻ってから急速に親(した)しくなっていて、今日はデートしているのかも知れないのに……、私は、彼が一人でいると思い込んでいる。
 静岡市の会社の電話に出た女のような恋人が、金沢にいても不思議じゃない……。 でも……、私の想像する彼は、いつも一人でいた。
 私は理由や根拠(こんきょ)も無く勝手に、そう確信して信じていた。
 故意(こい)の拒絶と自然な寛容(かんよう)を繰り返し、彼とのラストタイムは一方的な絶対拒絶で終焉(しゅうえん)させている。
 既に、彼は私を忘却して、新たな出逢いと睦(むつ)まじくしているかも知れないのに、全く、私の独(ひと)り善(よ)がりも良いとこだ。
(何処かで行き違ったのかも知れない。……戻ってみよう。彼の懐かしい匂いがした場所へ……。彼を感じた処へ)
 彼は、見てくれだけの安易な場所は選ばない。
 常にクリエイティブであり、イマジネーションを高め、インスピレーションが湧(わ)くように努(つと)めていたのを、私は分かっている。
 絶対に、そんな場所へ、彼は行く。
 急(あ)かされている様な焦(あせ)る気持ちに、私は二十一世紀美術館へ戻る事にした。
 戻りのルートは、彼の趣味と趣向から柿木畠の路地(ろじ)を選んだ。
(二十一世紀美術館に着くまでに、彼と逢えなければ、兼六園下(けんろくえんした)からバスに乗り、金沢駅へ向かおう)
 二十一世紀美術館に着いたら、其処で……、それで、彼の捜索は終りにする。そして、私は行こうと思っていた竪町のダイニングバーでランチメニューを食べてから金沢駅へ向かい、駅周辺で程々に時間を潰(つぶ)してから、小松空港行きのリムジンバスに乗るつもり。
 突発的な問題がルートに起きなければ、相模原の部屋へは夜半前に戻れるだろうと考えていた。
 次は、夏休みに金沢へ帰って来る予定。
 其の時も、今日のように彼の気配や匂いを感じられるか分らない。
 出逢えない時間の経過(けいか)に想いが薄れ、離れる気持ちは、彼の切れた糸を手繰(たぐ)り寄せようにも、糸を見付けさせてくれない。
 既に、彼の糸は別の新しい糸と繋(つな)がっていて、私の彼と繋がる望(のぞ)みを叶えるには遅過ぎて、其の先の長い人生で、再び、二人が交(まじ)わる事は無いだろう。
(ずっと、彼を追い詰めていた私に相応(ふさわ)しい、虚しくて、寂(さび)しい、そして、悲(かな)しい結末だ)
 そうならない為にも、私は、心から彼と出逢いたいと切に願った。
(お願い、神様。彼に会わせて……)
 香林坊坂下の信号を渡り、柿木畠の通りに入る。
 通りは、千切れ雲の影で薄暗(うすぐら)いけれど、小さなブティックが犇(ひし)めく通りは、春のウィークエンドらしく、多くの人が行き交(か)っている。
 私の瞳は、次々と現(あらわ)れる人達の中に彼を探す。
(んん!)
 柿木畠の広見(ひろみ)の向こう、狭(せま)い通りから歩いて来る一人の男の人が目に留まった。
 其の人は、私と同じくらいの歳で上背(うわぜい)が有り、落ち着いた感じのカジュアルウエアは、シックな色合いにコーディネートされ、品藻(ひんそう)良く見える。
(彼……?)
 彼のように見えたけれど、違ったのかも知れない。
 男性の独り善がりじゃないセンスの良さが、私の記憶を惑(まど)わせて、彼なのか、判断を鈍(にぶ)らせた。
 疑(うたが)うように目を凝(こ)らしながら、視線を流そうとした。だけど、流れて行くはずの私の視線は流れずに、暈(ぼ)かして深度を変えるつもりの瞳のフォーカスは、ピンポイントに絞(しぼ)られて行く。
 目を凝らすと、直(す)ぐに見間違いじゃないと分かった。
「あっ!」
 思わず、悲鳴のような声が小さく漏(も)れて、其のまま息が詰まってしまう。
 其の時、空気が、彼の匂いに変わり、まるで、世界が静止したかのように、とても、とても、ゆっくりと動いて、連続していた時間や音が、瞬間、瞬間の点の繋がりにしか感じられなくなった。
 色彩豊(ゆた)かな明るい光の粒(つぶ)で構成された、一枚の絵のように見える。
 頬を擽るように、優しく触れているのは、風だと思う。
 全てが切り取られたかのように止まって見える今、時間の中に瞬間が在るのではなく、瞬間の中に時間が在るという異質な考え方も、解(わか)るような気がした。
 明るく光る絵のように見える瞬間の視界の中心に彼がいて、其の瞬間の中で、私は彼の瞬間を意識して見ている。
 時間がアニメーションのセル画のように、一つ、一つの瞬間の連続だとしたら、彼に気付いた瞬間が、私の瞬間が連続していた時間を一瞬だけど、確(たし)かに静止させていた。
 一瞬の静止画は、直ぐにコマ送りのように動き始め、連続する繋ぎ目の無い画面は、いつもの滑(なめ)らかな動に戻った。そして、私の視界の真ん中に彼がいる。
 でも、視界の真ん中に見える彼は、以前の彼じゃない。
(見付けた! でも、本当に、彼なの?)
 私の五感の意識は、彼だと認めているのに、以前のイメージと違い過ぎる外見の彼を私の想いが、まだ疑っていた。
 其のイメチェンした彼を認めたくないのに、此方へ歩いて来るのは確かに彼だと、私の視覚が認めている。
 胸がドキドキして、私の想いが塗り替えられて行く。
 彼の新たな色に想いが染まるのといっしょに、私の中でピアノの音色が聞こえ出した。
 小学六年の音楽の授業で、弾けなかった二曲目。
 私は短い坂の下に在る、小さな公園の前で立ち止まった。
 彼のファッションセンスが違っている!
 自分の都合(つごう)だけの楽な格好(かっこう)じゃない!
 自分を程好(ほどよ)くアピールして、気持ち良くいっしょに集(つど)う人達に受け入れられる服装だ!
 大桟橋(おおさんばし)の時よりも、ずっと、洗練(せんれん)されていて、とてもクールに見える。
(イメージチェンジは、自分で気付いて、学(まな)んだのかしら……?)
 いや違う。
 絶対に、誰かにアドバイスされたセンスが身に付いている。
 彼の歩き方も、以前とは違う。
 何処と無く、妙(みょう)に落ち着いて、しっかりと地に足の着いた物腰(ものごし)に感じた違和感(いわかん)が、私の知らない彼を詮索(せんさく)させる。
(なに? 其の、腰の落ち着きは……! さては、女を知ったかな……? ファッションセンスを変えさせた相手は、同じ、あの電話の女性? えっ、なになに! ……彼を変えさせるなんて……、あの女は何なのよ?)
 やはり、電話の応対に出た女性は、彼と、ただならぬ関係だったのだと分からせ、彼に多大な影響を与えた事を、私に見せ付けた。
(今も、関係が続いているのかしら? でも、電話の女性は、『あの人を大切にしてあげて下さい』と、私に言ったじゃない。だったら、今は……)
 電話の女性と終わっているのか、そもそも、親密な関係だったのか、確信が持てなかった。それに、さっきも考えたように金沢で親しくしている女性がいて、これから彼は、待ち合わせ場所へ行ってデートへ向かう予定で、今は、たまたま一人でいるだけなら、私は、軽(かる)い挨拶(あいさつ)を交わされるか、素通(すどお)りで無視されてしまうだろう。そして、既に、彼が私への想いなど失っていると知ったのなら、もう、どうしようも無いかも知れない……。
 いくら私が一方的に彼を切り離していたとしても、僅(わず)か一年半足らずで、彼を変えてしまうほどの女性が彼にいた事と、彼が、私よりも先にディープな異性関係を経験しているだろうと思える事、それに、彼を変えたのが、私じゃなかった事に、とても、ショックを受けてしまったけれど、今は、それより先にすべき事が有る。
(すべき事が叶(かな)った後、それは、いつでも訊けるわ……)
 彼は、私に気が付いた!
 驚きと戸惑(とまど)いと気不味(きまず)さが、彼の顔に次々と表れて表情が歪(ゆが)む。
 彼は躊躇(ためら)うように立ち止まり、俯いてから、祈るように空を見上げた。しかし、それは一瞬で、直ぐに私を見据(みす)えて意を決したように、しっかりした足取りで、ゆっくりと近付いて来る。
 太陽が雲から抜け出て、辺りを春の陽の淡(あわ)く麗らかな光りで満たしていく。
(私が一方的に断絶した一年半、彼は、どう過ごしていたのだろう?)
 暖かな光りで明るく照らされた彼の顔が、知っていた時と違って見える。
 大人びた精悍(せいかん)さが有った。
 弓道場で見た凛々(りり)しさじゃなくて、生活感が漂(ただよ)う逞(たくま)しさだ。
(女性の事にしても、私の知らない、いろんな事が有ったのだろうな……)
 私を見据える彼の瞳は、彼の意思と春の陽射(ひざ)しに輝(かがや)いている。
(彼は、いつも夢を持って、其処を目指している。……夢を諦(あきら)めない)
 それを私は、羨(うらや)ましく思っていた。
「やっ……、やあっ……」
 彼の少し微笑(ほほえ)んだ顔の唇(くちびる)が動いた。
 それに応えて、私は黙(だま)って会釈(えしゃく)をする。
「久しぶり。金沢に来ているんだ」
 まるで、県外に嫁(とつ)いでいったクラスメートだった女子に、同窓会で再会した時に言うような挨拶だ。
 そんな挨拶の言葉に、彼を遠くに感じてしまう。
(ああっ、やっと逢えたのに、そんな言い方をしないで)
 他人行儀(たにんぎょうぎ)な彼の挨拶にショックを受けながら、余裕の有る寛大で尊大(そんだい)な挨拶を返そうと努める。
(さあ、さり気無くクールに話すのよ。私)
「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、あなたと交(かわ)した履歴(りれき)を、全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも、あなたから連絡できないように変えたわ」
(私、いきなり何を言っているの。全然クールじゃないわ。また、彼に凄く酷い事を言っている)
 彼は戸惑い、薄く微笑んだ顔が悲しみで溢(あふ)れた。
「だから、あなたに、メールをできなくしたの」
(違う、なに、駄目(だめ)押(お)ししているの! こんな話をしちゃだめ!)
 さり気無くクールに言おうと思うほど、歯切(はぎ)れ良く酷い言葉が出てしまう。
 言葉が、上手(うま)く見付からない。
 気持ちが高まり、胸が一杯になった。
 息が、上手くできない。
「そうだったんだ。全然、繋がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は、君に随分(ずいぶん)と嫌われていたんだな」
 悲しみに寂しさを重ねられた表情の彼は、そう言って直ぐ近くの広見脇に在る小さな公園へ行くと、オブジェのようなベンチに座り、俯いて両手で顔を覆(おお)った。
「君の気持ちを、全く考えていなかったんだ。僕の都合だけの好意は一方的だった。君を、どうにか、僕だけの女にできたと、苦労して、やっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換(か)えにしてもいいと思ってしまっていたよ」
 顔を覆う両手の間から、彼は少し声を震わせて、素直な気持ちで話している。
(もう、クールなんて、どうでもいい。私も素直に……、素直に、私の心を伝えるのよ)
「違うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」
 彼の顔が、暈やけて来て良く見えない。
 私は、しゃべりながら泣(な)いている。
「僕は、何度も君にフラれたよね。其の度に、どうすれば、君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰(もら)えるように努力したんだ」
 彼は、私を見ながら穏(おだ)やかな口調で静(しず)かに、でも、はっきりと聞こえるように話す。
「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)、話し掛け辛(づら)くなって、察(さっ)しも、思い遣りも、気配(きくば)りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再びってわけじゃないから、もう、安心してくれ」
 私が見詰め返しても、其の瞳は逃(に)げない。
「君が、……元気そうで何よりだよ。……幸(しあわ)せなんだろう?」
(まだ……、幸せになってないよ……)
 彼の涙ぐんだ瞳は、優しい眼差(まなざ)しで私を見詰めている。だけど、彼の視線は、私を通り越して遠くを見ている気がして、自(みずか)らが招いた不安と寂しさで、頬(ほお)をポロポロと温かい涙が、いくつも、いくつも、流れ落ちて行く。
「最後のメールで送った、『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も、君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」
 私を見上げる彼の暈やけた顔からは、とても悲しんでいるのが分かる。
(そうじゃない……、彼はまだ、わかっていない)
「私、わかったの」
 もう泪(なみだ)で滲(にじ)んで、彼の顔が見えない。
(どんな顔で私を見ているの。でも、嫌(きら)われていても、はっきりと彼に伝えなくちゃ)
「あなたが、私を大切にしていた事が……、どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」
 私は彼の前に跪(ひざまず)いて、彼の手を握(にぎ)った。
 話しながら、彼に顔を近付けていく。
 彼の顔を、もっと良く見たい。
(私に、あなたの顔を、もっと、良く見せて)
 彼は驚(おどろ)いた顔で、私を見詰めている。
「あなたは、私が嫌いな、私の残酷(ざんこく)で冷たい部分を、いつも、受け止めていてくれたわ」
(それを私は、ずっと、気付いていなかったの)
「僕は、君を嫌(いや)な人だと思った事は、無いよ」
 彼は、私の手を握りかえしてから、乱(みだ)れて垂(た)れ下がった私の髪(かみ)を分けて頬に触れた。
 陽射しのように暖かで安(やす)らぎを感じる手だ。
 彼の手からは、太陽の匂いがする。
 初めて、彼から私に触れた。
(暖かい……、もっと、私を温めて)
「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕は、いつも不安だった」
 彼の手が、小さく震えている。
「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは、間違(まちが)っていたの。あなたは私に、いつでも一生懸命(いっしょうけんめい)だったわ」
 涙が一杯流れている。
 手で拭(ぬぐ)うけれど、拭い切れない。
「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖(こわ)かった。でも、そうなってしまったよ」
 涙が彼の頬を伝う。
 彼も、泣いている。
「僕でなくても……、君に…… 相応(ふさわ)しい人がいるよ」
 自分へ諭(さと)すように言う彼が、愛(いと)おしい。
「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。……好きなのが、……わかったの」
 彼は信じられないという顔で、私を見ている。
「あなたじゃないと、……嫌なの。……じゃないと、私、ダメだったの……」
 鼻声で、悲しさや戸惑いや嬉しさが、複雑に入り混(ま)じった優しい顔の彼に問(と)う。
「……まっ、まだ、間に合うの? 私、まだ、間に合う?」
 手足の指先から頭の奥や身体の芯(しん)まで掻(か)き集めた私の勇気を全部出して、自分の顔が強張(こわば)るのを感じながら彼に訊いた。
 やっと言えた自分の声は、小さく震える身体と同じで、か細く震えている。
 焦りと不安が絶望色に変わって、私の明るい未来への想いを圧(お)し潰して行く。
 諦めの悪さに堪(た)え切れそうもなくて、もう、大声で泣き叫(さけ)びそう。
「……いつも、僕は探していたよ。いつか、何処かで、君に会えると信じていた。其の時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」
 暗い不安と焦りの広がりに奈落(ならく)の淵(ふち)へ追い込まれて、迫(せ)り上がる暗黒の絶望に掴(つか)み掛けられている私は、彼の言葉に絶望から救われて行く。だけど、まだ、不安は消え去ってくれない。
(そっ、それって……、あなたも私を探していたの? ああっ、わっ、私もよ。あなたを探していたわ!)
「今……、おっ、お付き合いしている女性(ひと)が、……いるの?」
 電話の女性は、彼が私に想いを寄(よ)せていた事を知っていた。
 彼と女性が親密な関係だったとしても、『大切にしてあげて』の言葉通りの過去形で、彼を縛(しば)ってはいない。それでも、以前と違う感じがする彼に、私は不安を抱(いだ)いてしまう。
「いないよ」
 あっさりと、彼が言った。
 其のストレートで軽い返答に思い出すべきじゃないはずの、スタンガンで痛めつけた男の嫌なタバコ臭(しゅう)が重(かさ)なった。
(……本当に?)
 私が望んでいた事を、彼は言ってくれたのに、私は素直に信じられなくて疑ってしまう。
「私でいいの? 凄(すご)く酷いことを言ったし、とても、冷たくしたわ」
 私の問い掛けに彼は、はっきりと頷(うなず)いてくれた。
 ポロポロと、私の両頬を伝って涙が落ちている。
 あとから、あとから、涙が溢れて止まらない。
「わぁーっ」
 遣り場のない気持が込み上げて、私は大声で泣いた。
 彼を蔑(さげす)み無視した事への、後悔(こうかい)と懺悔(ざんげ)。
 逢いたくて探していた、繋げたい望み。
 間に合わないかも知れない、不安と焦り。
 逢えた喜(よろこ)びと、安心した気持ち。
 私を受け止めて抱(だ)き締(し)めて欲(ほ)しい願い。
 彼の変わらない優しい言葉。そして、今の今まで彼を疑っていた事への懺悔と、『彼が好きだ』という強い私の想いが混じり合い、いっぱいになっていた心が解(と)き放されて、更(さら)に、大きな声で泣き続けた。
「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」
 しゃくり泣きをしながら、許しを請(こ)う甲高い声は、途切れてばかりの小さな悲鳴のようになってしまう。
 まだ、私の想いを言えていない。
(大きな声で言葉を、はっきり聞こえるように言わなくちゃ! 今、言うのよ! さあ、彼の中の私に届くように言って!)
「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」
 鼻がくっ付きそうな近さで、ヒクヒクと泣きじゃくりながら、やっと言えた。
「今でも僕は……、君に好きになって貰えるように、頑張(がんば)っているんだ。だから、僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。其処は、とても広くて、僕の全てなんだ」
(ああっ、彼は、いつも優しい。……嬉(うれ)しい)
「僕は、君に初(はじ)めて声を掛けた、あの日から、ずっと、君が好きだ!」
 携帯の画面に三度表示され、手紙で二度伝えられ、そして、電話で叫ばれた彼の言葉を、初めて彼の口から直に聞いた。
 携帯電話の向こうで叫ぶ、彼の声を思い出す。
 通話を一方的に切るまで、携帯電話の小さなスピーカーを何度も震わせて、聞こえていた彼の叫びを思い出した。
 彼の私への想いは、少しも変わっていない。
 握った私の手を、彼は自分の頬に触れさせた。
 拭(ふ)いた涙に濡れて、鼻水と涎(よだれ)で汚(よご)れた私の手に、彼の温かさが伝わる。
 涙で濡(ぬ)れた温かい彼の頬……。
 其の温(ぬく)もりに、ビクッと、私は反射的に手を引こうとしたけれど、握る彼の手に力が入り、私の手を逃がさない。
「手が……、汚れて、汚いよ……」
 触れる掌(てのひら)に、彼は頬を強く押し付けてくる。
「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」
 彼が握る私の手を……、彼の温かい頬に触れる私の手を……、彼は好きだと言ってくれる。
 四角い爪(つめ)だと言わずに、愛しい指と爪だと言ってくれた。
 私は、愛おしさで彼に抱き付いた。
 頬ずりした彼の頬に熱(あつ)い涙を感じて、言葉が途切(とぎ)れた彼の唇に、そっと、唇を重ねる。
 暖かい春の陽射しと風の中、彼と初めてキスをした。
 ヒクつき震える私の肩に、彼の腕が優しく回り、そして、しっかりと、私を抱き締めてくれた。
「あなた、が、好き、よ」
 唇を重ねながら、漏れ出る息に乗せて掠(かす)れる小さな声で、私は言った。
 彼の滑らかで弾力の有る唇が、唇に残っていたザラついたファーストキスの感触を打ち消して行く。
 上唇と下唇が彼の唇に交互に吸われて軽く噛まれた。
 舌先でなぞられる唇がサワサワと擽ったくて、気持の良い初めて体感する感覚だった。
(キスが、上手(じょうず)なんだ……?)
 そう思いながら、瞼を閉じたまま、トロンとして微睡(まどろ)みそうな自分が分かった。
「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」
 重ねた時と同じように、そっと、唇を離して行く私に、彼は再び、はっきりと『好きだ』と言った。
 しっかりと聞こえた彼の優しい言葉は、キスでうっとりした私を心地好(ここちよ)い響(ひび)きで満たしてくれる。
 もう、泪の溢れは止まらずに次々と粒になって零れ落ち、流れ伝う涙が、火照(ほて)る頬に付ける筋の温かさを消してくれない。
「君を……!」
 優しく動く彼の唇に、再び、私は静かに唇を合わせた。
「愛しているわ」
 彼が言おうとする愛を紡(つむ)ぐ言葉に、私の満たされた想いを被せていく。
(いいの、言わなくても。あなたの愛は、十分感じているよ)
「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」
 静かに頷(うなず)く彼を見詰めながら、はっきりと、彼の愛を私は感じていた。
(本当に、愛し合うことは、こんなにも、嬉しい喜びを感じて、安らぎと愛おしさに満たされ、心が優しく広がっていけるんだ!)
 今、私の心の中で、彼に『嬉しくなる曲』をリズミカルに弾(ひ)いている。
 あの時、アンコールで弾けなかった、『嬉しくなる曲』。
 彼に聞かせるつもりだった曲。
 彼の為に弾くはずだった曲。
 彼に聞いて欲しかった曲。
(そうだ! この曲を弾いて彼に聞かせよう。今なら彼の為に、もっと、私の気持ちを込めて弾けるはずだから!)
 ピアニストになる夢を諦めてから、久(ひさ)しく鍵盤(けんばん)に触れていない自分の両手の指を見る。
(上手く動いてくれるかしら? ……大丈夫(だいじょうぶ)よ。今なら弾けるわ。きっと!)
 彼に小学六年生で弾いたピアノの続きを聴(き)かせてあげようと決めた。
(それをサプライズでしたいのだけど、さて、どんな理由で誘(さそ)って、何処(どこ)で弾けるかしら?)
「これからどうする? 僕は休みだから、時間は十分有るよ」
 いいタイミングで彼が、これからの行動予定を訊いて来る。
 私の都合に合わせてくれそうだ。
「羽田への最終便のチケットが有るから、それまで、私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言って来ちゃったしぃ、予定なんて無いしねぇ……、そうだ! 今からデートしよう。訊きたいことも有るしさ。それから、小松空港まで送ってくれる? そして、私を見送ってくれる? 駄目(だめ)っかな?」
(おおっ、意外と、私って積極的だ! 結構(けっこう)大胆(だいたん)に恥(は)ずかしげも無く、さらりと言えている。しかも、イニシアチブは私側だ)
「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初は何処から行こうか?」
(今日は、互(たが)いに良い感じのカジュアルだから、大桟橋のような失敗はしないわ。昼間っからムードを演出しちゃおうかな)
 積極的ついでに、嬉しさをイケイケで開放させる。
「お腹が、空(す)いたわ」
 言いながら立ち上がり、彼と手を繋いで歩き出す。
 中学二年生の時、告白メールの送り主にした質問の回答を、私は憶(おぼ)えている。
『あれは、こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と、彼の表情を探ると、彼は、恥ずかしがるように少し逸(そ)らしながら顔を空へ向けて言った。
「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」
(それってギャグなの? それとも、リベンジ?)
 彼のカツ丼好きは、よく知っている。
 相模大野(さがみおおの)駅近くのうどん屋で、シンプルなカツ丼を美味(おい)しそうにパクついていた。
(私もカレーうどんが好きだけど、今日のランチは違うよ)
「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先に、ランチもしているダイニングバーが在るの。其処でライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」
 ピアノライブは、私が演奏しようと思う。
 少し、他人に気配りできるようになった優しい彼へ、私からの小さなサプライズ。
 お店のラウンジマネージャーと交渉(こうしょう)してみなくては分からないけれど、きっと、させてくれる。
 いいえ、だめでも、ゴネて無理矢理(むりやり)させてもらう。
 オブジェっぽくなっていても、音階の違いが大体分かる音の鳴(な)るピアノなら、それでいい。
 そう決めた!
     *
 音楽を聴く聴覚と匂いを嗅(か)ぐ臭覚は、記憶を蘇(よみがえ)らせる効果が強いと思っている。
 過去のアルバムを見たり、辛く悲しい思いや、楽しくて嬉しい思いをした場所へ行く事も、そうだけど、強く意識した臭いとか、口遊(くちずさ)むくらい好きだったり、絡んで来る想いと共に感動した歌や曲は、健康な状態でも、懐かしさや、安らぎや、ときめきを伴(ともな)って忘れていた事や人や場所を思い出させ、センチメンタルにしてくれる。
 今日のランチは、この店でと最初から決めていた。
 この、竪町通りに在るダイニングバーは、両親とディナーで一度、姉とランチに一度、能登牛(のとぎゅう)の柔(やわ)らかいステーキを食べに来た事が有った。そして、今日は彼と来ている。
 別にディナーで薦(すす)められる、お高い特選ビーフじゃなくても、ランチのビーフで充分に柔らかくて味が有るし、それに、口の中で蕩(とろ)けてしまうフォアグラステーキをトッピングするのが、私のお気に入りだ。
 オーダーは、彼に訊かずに私が勝手に、フォアグラステーキをトッピングした能登牛ステーキのランチコースにして、自動車を運転する彼にはジンジャーエール、アルコールを飲んじゃダメな彼は、少し不満顔だったけれど、私は、肉とマッチする赤のグラスワインのドリンクにした。
 運(はこ)ばれてテーブルに並べられたランチメニューは、期待を裏切らない美味しさで、レアの焼き加減(かげん)にして貰ったビーフステーキは、思っていた通り、口の中に広がる柔らかさだった。
(蕩けてしまっても、濃(こ)い味わいが残るフォアグラステーキを、……チリの銘柄(めいがら)だっけかな? 広がる香りがスウッと通る口当たりの良い辛さと切れの良い後味なら、何処のでも良いんだけど……、赤ワインで流して絡み合う残り香が堪(たま)らない!)
 私と同じ様に、幸せな顔でステーキをパクつく彼が、携帯電話の番号とアドレス、そして、SNSアカウントの交換を望んだ。
 『永遠(とわ)の別れ』と切り捨てた日、私の意識から彼を抹殺(まっさつ)した。
 電話帳や住所録の全てのリストから彼を消去した、あの日、私は、電話番号を取得し直し、メールアドレスを中国語の『Yinghua、インファ』から、スペイン語の『Cerezo、セレッソ』に変えた。
 意味は、どちらも桜の花だ。
 電話帳のリストから削除して、記憶からも、強制的に忘れさせた彼のナンバーとアドレスは、以前と同じだった。
 パソコンのメールアドレスとSNS、それから互いの現在の住所も教え合う。
(ビーノ・ブランコのスペルが、懐かしい……)
 彼は、私が彼の携帯電話の番号とアドレスを削除した経緯(いきさつ)も、忘却(ぼうきゃく)していた時の事も、訊いて来ない。
 私も今は、まだ言いたくなかった。
 いつか、私から思い出のように話すまで、既に、過去になり、覆された今、彼は知りたくもないのだと思う。
 ゆったりとした気分の良い食事を終(お)え、食後のコーヒーを飲むと、既に、ラウンジマネージャーから許可を得た、一曲だけのピアノライブを弾きに行く。
(気に入って、喜んでもらえれば……、嬉しいんだけどな)
 ずっと、彼の想いを拒み、彼との接近を避け続けていた私は、大学で知り合った美形な先輩へと安易に靡(なび)いてしまった。そして、自業自得(じごうじとく)で招(まね)いたクライシスゾーンのデンジャラスタイムからの脱出が、彼の大切さと、居心地(いごこち)の良さと、私の素直な気持ちをディスカバリーさせた。
(こんな、気持ちのフラついた自分に、……自分の都合だけが良い女に、いつまで、彼は愛を与えて続けてくれるのだろう?)
 いつでも私は、彼に愛想(あいそ)を尽(つ)かされ、突き放されても不思議じゃなかった。
 そう考えると、やっと、彼に逢えた嬉しさと、彼の変わらない優しさに、こんなにも安らぎと愛おしさに満たされた気持ちが、不安で揺らいだ。
 『あなたは、もういいの……』、最後の電話は、思い通りに遊べなくて飽(あ)きてしまったゲームソフトを捨(す)てるみたいに、彼の私への強い想いの足掻きを否定して、私が一方的に断絶した。そして、私に完全否定されて行き場を失った彼の私への想いや情熱は、私以外の、彼が好(この)みと感じた女性へ向けてしまうのは、浮気性(うわきしょう)でも、色情(しきじょう)的でもなく、青春期の性(さが)として当然だろう。
 だから、彼と親しくする現在進行形の女性がいても、不思議じゃない。
 弓道部で活躍する彼は、他校の女子達にも人気が有って、ファンクラブも作られているみたいだった。
 彼の働いていた会社へ掛けた電話に出た女性は、彼を良く知っている感じだった。
 性格は、たぶん同じだと思うけれど、彼は、容姿も、態度も、進化していた。
 好感の持てるファッションセンスに、自信を持った積極的な態度で、以前と全然違う。そして、彼のキスは。私が蕩(とろ)けるくらい上手(じょうず)だった。
 今度は、逆に彼から、『今でも、君を好きだと言ったけれど、実は既に、付き合っている女性がいるんだ』、『だから、もう君は……、いらない!』みたいな事を、淡々と無慈悲に言われるのが恐い。
 私は、自分の短絡(たんらく)さと戻せない時間を悔(くや)みながら、彼に棄(す)てられて忘れ去(さ)られるのを怖(おそ)れた。だけど、それでも彼に、今の私の気持ちを聴かせたい。
 自分の実力を気付かされて、既に、未練(みれん)も吹っ切れて弾くのを止めたピアノだけど、今は彼に聴いて貰いたい。
 彼が聴いてくれて喜んでくれるのなら、それが、彼に否定される私の気持ちでも、私は彼の為にピアノを弾きたい。
(聴いて! あなただけに弾くわ。今の私の気持ちよ!)
「五年ぶりに、キーを敲(たた)くのよ。上手く弾けるように祈っていて」
 意を決してイスから立ち上がると、そう言って、私はテーブルの上に置いていた彼の手を握った。
 彼は、握る私の手を握り返してくれて、私の指は彼の指に絡まり、しっかりと私達は結ばれる。
 何の躊躇いも無く、私は彼を見て、彼は、私を見上げ、手を触れ合わせて指が絡み合う私達の繋がりは、これまで、いつも、そうしていたみたいに全くの自然な動作だった。
 其の絡ませる指の力を緩(ゆる)ませながら、彼の手を離して、私は、ピアノへ向かう。
 白いグランドピアノの前に来て見降ろすと、ピアノを避けていた五年間のブランクがプレッシャーとなって、鍵盤は、私の身体を椅子へ座らせてキーに触れるのを拒(こば)んでいるように、冷たく感じた。
(信じなさい、私の気持ち! 動きなさい、私の身体! 私を座らせて、キーに指を添(そ)えるのよ! そして、私の想いを彼に届ける為に、彼だけに聴かせる為に、ピアノを弾くのよ!)
 流す瞳が彼を捉えて、私の目尻と頬と口許(くちもと)が笑う。
 あの時に届けられなかった私のメロディーを、今から彼に聴かせる為に、鍵盤の前に座った私は、細く息を吸い込んで行く。
 横浜港へ向かう、彼の大きなオートバイにタンデムして嗅(か)いだ潮(しお)の香りは、立戸の浜と金石の海を思い出させてくれた。
 音楽では、小学六年生の彼の音痴(おんち)さと、楽しく弾けた『別れの曲』に、中学三年生のコーラス祭での雪辱(せつじょく)の彼の歌声、そして、バス事故でのイヤホンジャックから聴こえたゲームミュージックが、其の時の私達二人の様子を伴(ともな)って覚えている。
 これから弾く曲も、新たな二人のファーストディのメモリーとして、彼と私の心に深く刻(きざ)み付けて遣りたい。
 キーが八十八も有るピアノの盤面は広い。
 其の音域の巾を、私は自由に出来ずに中学三年の春で、ソロリストへの夢を諦(あきら)めてしまった。そして、其の年の初夏、コーラス祭の伴奏を最後に、人前での演奏はしていない。
 自分の想いをカラフルな音色で響(ひび)かせて、オーディエンスを感動させたかったのに、自分の限界に挫折(ざせつ)してしまった。だけど、最後の伴奏をしたコーラス祭で聴いた彼のソロ歌唱(かしょう)の声は、私の身体を貫(つらぬ)いて響き、其の震える魂(たましい)の感動は、私に涙を流させた。
 いつか、彼の透明(とうめい)な歌唱の貫きに、私のカラフルに弾く鍵盤の響きで、其の時の感動を彼に届け返したいと、私は、ずっと思っていた。
 今は、彼一人だけの為に弾いて聴かせたい。
 届けたい私の心は、彼の心に響かせたい。
(響くかな?届くかな?)
 吐(は)き出す息が震えて、願う心の指先は躊躇い勝ちにキーを敲いてしまい、弾かれた音が微(かす)かにブレてしまう。
 『私を愛してくれて、嬉しい』、『愛してくれて、ありがとう』、『あなたが、愛しい』、『ずっと、いっしょにいて』、弾むメロディーを、私は優しい気持ちで弾いて行く。
(音は、暖かなパステルカラーに色付いたかな? 穏やかに彼の中に入って、優しく響いてくれたかな?)
 最後の一音を高く、優しく、長く、響かせて曲が終わる。
 顔を上げて向けた視界に映(うつ)る彼は、泣きたいのを堪(こら)えて笑っているみたいな顔で、スタンディングオベーションをしている。
 私は思い出していた、
(あのコーラス祭では、彼の暴走した独唱に、真っ先に立ち上がって、私は、彼へ拍手を送っていたっけ)
 彼に続いて、店内中の皆(みんな)が一斉に拍手(はくしゅ)をしてくれた。
 店内の皆さんに御清聴(ごせいちょう)と拍手への感謝の御辞儀(おじぎ)を、私は、ゆっりと丁寧に行う。
(御褒めの拍手を、ありがとうございます)
 お客さん達も、店員さん達も、皆が喜んでくれていて、まるで、リサイタルか、ライブのように、賑(にぎ)やかにざわめいている。
(彼に、届いてくれた!)
 触れ合えた心に、私の顔は、満面の笑みになっていると思う。
(凄く、嬉しい!)
「アンコール!」
 来店している人達からの、『アンコール!』の掛け声と手拍子。でも、私はアンコールに応(こた)えるつもり無かった。
 私から彼だけへの、一曲だけのサプライズだから、二曲も弾こうとは考えていない。
 私は、アンコールの曲が無い事を示す為、再度、御辞儀をしてから、ピアノの椅子を元の状態にして、
鳴り止まない拍手の中を彼の待つテーブルへ戻った。そして、もう一度、皆さんへ大きく、深く、御辞儀をすると、笑顔で手を振ながら席に着いた。
「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度、聴きたかったな」
 私が席に戻るなり、嬉しそうに笑顔の彼は言った。
(うっ、にっ、鈍(にぶ)いよ……。それに今、『別れの……』ってフレーズを使う?)
 私の気持ちを読めない彼に少し退(ひ)いた私は、思い付きでしてしまったサプライズを俄(にわ)かに後悔した。
「……バカ……」
 自然と口が動いて出た小さな呟(つぶや)き声に、『彼に聞こえていないよね』なんて気にしながらも、しまったと思った。
(どうか、言霊(ことだま)になりませんように!)
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 『小松空港まで送るよ』と、彼に誘(さそ)われて竪町通りから、吹き通る春風に桜の花弁(はなびら)と仄(ほの)かに桜の匂いが香(かお)る里見町の路地を抜け、二十一世紀美術館の市役所側の西口へ歩いて来た。
 円形の二十一世紀美術館の建物を形作る、全面がガラス張りの外壁の丸まるような連なりを見ると、反対側の東口に在る白いカフェで、向かいの席に伏せ目勝ちに座っていた彼を思い出す。
 四年前の通学の朝に遭遇(そうぐう)したバス事故の日、私を護って怪我をした彼を、救急車で運ばれた病院から治療も受けさせずに、私は白いカフェへ連れて来た。
 私の独断で一方的な行動に、抗(あらが)いもせずに着いて来て痛みに堪(た)えている彼に、不用意な一言、『普通にしゃべれるんだね』と、言ってしまっていた。
 私を好きな彼が、私の反応を気にしての言葉選びで口数が少ないのを知っていたのに、そう言ってしまった私の所為で、テンションを下げる彼に、私達は気不味(きまず)いムードになった。
 今、私は思う。
(此処も、リベンジしたい!)
「今度、ゆっくりと鑑賞しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんと、お茶してさ。いい?」
 彼も、同じ事を思い出していたのか、眉間(みけん)に立てた一本の筋と少し険(けわ)しくしていた眦(まなじり)が失(う)せて、下がる眉毛(まゆげ)の困(こま)ったような顔をする。
「ああ、いいよ」
 声のトーンも、困っていた。
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 二十一世紀美術館の地下駐車場で、私をSUV車のサイドシートに乗り込ませて、彼は本多町通りから桜橋(さくらばし)を渡り、窪町(くぼまち)から山側環状道路へと走らせて行く。
 乗り心地の良い車内は、時折(ときおり)、ロードナビゲーションのコース上の注意を促す合成声のアナウンスが自動的に話される以外は、アニメのエンディング曲だと思うのだけど、アニメらしくないシックな歌が小さく聞こえて来るだけで、とても静(しず)かだ。
 小松市(こまつし)と河北郡(かほくぐん)津幡町(つばたまち)を結ぶ、金沢市内を山地沿いに連続した緩いカーブで迂回する山側環状道路は、ゆたりとした広さで走り易(やす)い。
 この時間の交通量は少なくて、ドライブプレッシャーが少し緩和(かんわ)された彼は、メロディーに合わせて鼻歌を弾(はず)ませたり、口ずさんだ歌詞をハモらせたりさせている。
 金沢市の市街地を山側環状道路へ抜けるまで、スムーズにSUV車を走らせながらも、発進、停車、コーナーの曲がり、などを、険しい顔をして慎重(しんちょう)に行い、大きなオートバイにタンデムした時と同じ、先読(さきよ)みに、察しに、観察と、視界の上下左右に絶(た)えず瞳(ひとみ)を動かせていた。
 想定外や不可抗力(ふかこうりょく)の不慮(ふりょ)の事態に陥(おちい)る発生確率が、ぐんと減った今は、穏(おだ)やかになった顔の目が笑ってる。
(サイドシートに相思相愛(そうしそうあい)になった私を乗せているのが、嬉しいんだろうなぁ。私も、嬉しいなぁ。……なら、ダメ押しのチェックをしても、いいよね!)
「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく、嬉しかったよ」
 運転しながら、『うん、うん』と頷(うなず)く彼に、再び、私は探りの問い掛けをする。
「……でね。今、親しく付き合っている女の人は、本当に、いないのぉ?」
(気分屋で、紛(まぎ)らわしい態度の私から返される、ドライな態度や冷酷(れいこく)な言葉を恐れていた彼は、ずっと、こんな気持ちだったのかも知れない)
「いっ、いるわけないじゃん! 僕は、一途(いちず)だぞ! いたら、君を好きだと……」
 『好きだと……』言い掛けて、続ける言葉を『ゴクン』と飲み込んで小さく息を吐き、そして、彼は深呼吸をするように、大きく息を吸い込んでから、大きな声で言い直した。
「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」
(其の躊躇い、其の言い方。今はいないけど、この前までは、女がいましたって意味で、いいのかな?)
 思った事を考えてから言葉にして、はきはき言う、まだ、私の知らない彼がいる。
 これまで知らなかった彼が、現れている。
 空白(くうはく)の一年半の間に新たに造られた部分の彼なのか、ずぅっと、私に見せていなかった彼が洗練されて来たのか、分からない。
「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」
 積極的で、明るく意思を伝えてくれる逞(たくま)しい彼がプラスされて、より彼を愛して行けると想った。
「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、ダブルブッキングされるのが、心配だったの」
(この先、ずうっと、死が私達を別ち合うなんて関係無くて、前世とか、現世とか、来世とか、そんなのを全部超えて、あなたが、私を愛し続けさせるのと、私が、あなたを愛し続けるのを、誓(ちか)いたい!)
「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」
(そうだった!)
 中学生になってから、突然に、私に好意を持つ男子が多く現れて、時々、告白されていた。
(中学三年生のコーラス祭で、ソロで高らかに歌いながら、あなたは私を指差し、涙を流す私が、一人、スタンディングオベーションで応(こた)えるまでわね)
 コーラス祭以後、私とあなたの仲が誤解されたみたいで、接近して来る男子は誰もいなくなり、高校生になっても、彼氏持ちの噂が広がっていたのか、ラブリーな展開は全然無かった。
(あなた以外はね)
「鈍(にぶ)いね、あなたは! 好きになった女の子には、一途で一生懸命なのに、あなたを好きになった女子が、周りに大勢いても、全然、気付かないなんて……」
 あなたの弓道の試合を応援するつもりで行った武道館で、多くの女子が、凛(りん)んと弓を引くあなたを真剣に応援しているのを知った。
 あなたと親しくしたいという、幾人(いくにん)もの女子がいる事も知った。
(なのでぇ、応援せずに帰っちゃったわ)
 そして今、あなたは鈍くなくて、惚(とぼ)けているだけなのも知っている。
「そうなのか? 僕は、鈍いのか……」
(そうよ。あなたは鈍いから、鈍いフリをしないでね)
 二度、探りを入れても、彼の、この反応……。
 以前に御付(おつ)き合いしていた女性がいたとしても、既に終わっていて、今は、男と女の関係の女性が彼にいないと思う。
 私の男性関係を訊いて来ない彼に、女性関係の疑りを抱いたけれど、これで私の気が済み、疑りは薄れて行った。
 彼が、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、私を探していてくれたのなら、彼が勤(つと)めていた会社の受付嬢か、何だか、知らないけれど、電話の応対をした女性が、彼と寄りを戻そうと迫っても、きっと彼は、きっぱりと断わるはずだと信じられる。
 彼も、私の男性関係に不安と疑いを持っていると思うから、これからは、彼に不安を抱かれるような態度や言動に気を付けようと、これも、心の中で誓う。
(だから、私達は、上手く遣って行けて、これからも大丈夫だ!)
「あの大きなオートバイは、まだ、持っているの?」
 気が済んで、話題を変えた私の問い掛けに、彼は一瞬、眉を顰(ひそ)める。
(あっちゃー、やっちゃったかな?)
 こんなに彼の気持を暗くさせてしまうなんて、あのラストタイムになった、横浜市の大桟橋(おおさんばし)へ行った日を思い出させてしまったのかも知れない。
「ああ、大桟橋へ行った時のV-MAXだろ。まだ、持っているよ」
(やっぱり、思い出させちゃったぁ。V-MAXっていうんだ。これからは、覚えとかなくっちゃね)
 険しくさせた目尻と、口許で曇らせた彼の横顔と、彼の言葉の語気(ごき)から、不機嫌(ふきげん)さと警戒心が溢(あふ)れていた。
 彼の瞳は、頻繁(ひんぱん)に私へ動いて、私の表情から続く言葉を探ってる。
(あっ、マズイ! 違うのよ。誤解(ごかい)しないで!)
「夏になったら、乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」
 彼の曇り顔が、何かの反射光に照らされたように明るくなって、『マジに?』、『乗りたい?』と、横目で私を見ながら頭を傾げて、問い返して来る。
 『だよ』って頷くと、前を見ながらも、『うん、うん』と、笑顔で首を縦に振ってくれた。
「勿論! いいさ。ぜひ、乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」
 失言(しつげん)したかもと、不安気に表情を覗き見ようとする私に、彼は明るく言った。
 釣(つ)られて気持が曇り掛けていた私は、そんな彼の明るい表情に救われて、ホッと安堵する。
(機嫌(きげん)が、直ったみたいね)
 目的地を教える前に、ダメ押しの意地悪(いじわる)を言う。
「あのヘルメットも、有るの?」
 私の残り香を、後悔とジェラシーの思いで彼が嗅いでいたかも知れない、大桟橋の往復で私が被っていた、あのフルフェイスヘルメットだ。
 彼の眉間に一瞬、何かを思い悩んでいるような、探しているような、筋が現れて消えた。
「有るよ」
 眉間に現れた筋の意味は、たぶん、同じヘルメットを電話の女性も使っていて、其の残り香を、私に気付かれてしまうと思ったのだろう。
(私が使う時に、ワザと、『あれっ、私のとは違う香水の香りがするよ』って、意地悪を言ってみたりして……)
「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸(たっと)の浜もね。休みを取って、いっしょに過ごす時間を作ってくれる?」
 私の望みを言った。
 近年は砂の堆積(たいせき)が多くて、遠浅の海は狭(せば)まっているかも知れないけど、もう沈めたりしないから、いっしょに泳いだり、潜(もぐ)ったりしたい。
(私のアトランティスから来た男泳ぎに、サザエとウニの採り方も教えてあげるわ。あっ、そうそう、一番多く採れるシタダメもね。シタダメはね、関東のナガラミっぽいんだけど、もっと、尖(と)がっていて、岩の欠片(かけら)みたいんだよ)
「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」
(日帰りじゃないから、支障が無いようにして来てね。お泊りは明千寺の御里で、あなたをみんなに紹介して、楽しく宴会するの)
 風通しの良い家の造りだから、エアコンは人が集まる居間にしかないの。
(たぶん、あなたが寝泊りするのは、奥の間になると思うわ)
 網戸(あみど)の窓と縁側(えんがわ)から夜風が通る部屋に吊られた蚊帳(かや)の中の布団(ふとん)で、あなたに寝て貰う。
(たぶん、抵抗無く出来ると思う私は、添(そ)い寝(ね)をして腕枕で寝かして貰うんだ。でも、熱帯夜だったら、汗っ掻きのあなたと私は寝苦しくて、凄く寝相(ねぞう)が悪いかも。きっと、私はあなたを蚊帳から蹴(け)り出すだろうから、ごめんなさい。それに、二人とも裸で転がっているかもよね)
「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」
 以前、彼が遣ってみたいと言ってくれた事を訊く。
「うん!」
 初めて担ぎ手になった彼が、みんなにからかわれたり、要領を得ずにモタ付く彼が、海の中や浜で倒(こ)けて、担ぎ手衆に踏み潰(つぶ)され捲(ま)くりにならないように、キリコを担ぎ終わるまで、ずっと、あなたの傍(そば)にいて、私は囃(はや)しているつもり。
(連中が勧(すす)める酒は、飲ませてあげないよ。あなたは、私が選んだモノだけ食べて、コーラやジュースで乾杯するの。幼馴染(おさななじみ)や地元衆へのフォローは、私に任(まか)せなさい! でも、断り切れなくなって、連中と飲み食いした挙句、連れて行かれて朝帰りなんてしたら、赤痰(あかたん)と青痰(あおたん)の両方だからね!)
「それと、相模原(さがみはら)へ来たら、いっしょに行きたい処(ところ)があるんだ」
 さっと、彼の横顔が強張った。
「えっ!」
 問い返す彼の口調から、たぶん、其処は彼にとって、負のトラウマの場所になっていると思う。そして、私にとっても、彼とは違う意味で、……厭な場所だ。
「どこ?」
 直ぐ様、一度行った場所をトレースするとは、全然思っていない彼が明るいトーンの声で訊いた。
(やっぱりだから、最初は違う、彼を刺激しない初めての場所へ、いっしょして貰おう)
「相模原市か、町田市のスィーツビッフェというか、ケーキ屋かな。ねぇ、どっちの街へ行きたい? 知っている店は、何処も美味しいから、どっちでもいいよ」
 右折車線が有る広い交差点を過ぎても、手取川を渡る橋の追い越し車線を走り続ける、遅い軽自動車の動向に注意しながら、左の走行車線から抜き去る彼の真剣な横顔の口角(こうかく)と眉毛が上がる。
「スィーツビッフェ? ケーキ屋? 君の御奨(おすす)めなら、何処でもいいぞ」
(何処でもねぇ……。相模原は、他にも行きたい処が有るから、上書きも兼ねて……)
「じゃあ、相模原に近い町田の郊外の御店にしましょう。其処、ショートケーキが美味しいんだ」
 スィーツビッフェと聞いても、彼の躊躇いの無さに、たぶん、圧倒的に女性の来客が多い場所だと知っているのだと思う。
 手取川を渡り終えると、寺井町と鶴来町を行き来する幹線道路との交差点の赤信号で、ブレーキを踏んでSUV車に制動を掛けながら、彼は私を見て微笑んだ。
「サヴァランやミルフィーユやティラミスも、其処の美味しいショートケーキに入っているのかな? あと、チョコレートパフェも有る?」
(チョコパねえ……。あなたは、本当に好きなんだなぁ)
 二十一世紀美術館の白いカフェで、彼は、真っ先にオーダーしたチョコパを、ほんの少ししか食べなくて、残りの全てを私は、彼が使った長い柄のスプーンで食べてしまっている。
(あの時の、リ・トライなの?)
「ミルフィーユとティラミスは見たね。サヴァランは無いわ。フルーツパフェは食べたけど、チョコパは知らないなぁ」
 其の三種は、私も好きだから良く食べるのだけど、サヴァランだけは見掛けていない。
「オーケー、分かった! いっしょに食べよう」
 承諾の言葉を言う彼の唇を見ながら、『これで、彼は相模原に来てくれる』と、気持ちが弾んだ。
「うん! それから……」
 弾む気持ちの勢いで、私は、どうしても、いっしょに行きたい、彼が嫌がるかも知れない場所を言う事にした。
「……次の場所はねぇ」
 信号が青に変り、左右の安全と歩行者の有無と確認しながら、SUV車の加速に集中している彼の耳が、ピクリと動いた。
「もう一度、大桟橋を歩きたい」
 彼を見ながら言った、『大桟橋』で、私の顔が強張(こわば)り、自分の小さくなる口の動きと、声の沈むのが分かる。
「……いいよ」
 前方を注視していた彼の目が、私へ流され。続いて唇を固く結んだ表情の顔も、彼は私へ向けた。そして、直ぐに顔の向きを前へ戻す。
(あなたと行った大桟橋を、何度も、私は、上書きしようとして果たせなかったのよ……)
 其の拘った上書きの試みは、レイプの窮地を招いて、私は弄ばれる事態に陥(おちい)る寸前まで気付けなかった。
 それは絶対に、私の操(みさお)を失わせて、身体と心に深くて大きな傷を負わせたはずで、其の先の私の人生を縛り、自由は奪われていたと思う。だけど、絶望の奈落に陥る寸前、あなたの代わりのスタンガンが徹底的にレイプの窮地を砕いてくれた。
(そう、私は、人生最大のクライシスで汚れ切ってしまうのを、あなたに救われていたんだ)
「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。其処でディナーを、いっしょに食べたいの!」
(これまでの『大桟橋』の全てを、あなたとの思い出だけにしてしまいたいの……)
 私は『大桟橋』を、気持が退けて躊躇う場所にしたくなかった。
 今度は、あの陽溜(ひだ)まりを、あなたと手を繋いで歩きたい。
「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」
(ディナークルージング? なんか、そんなのが有ったような……)
 確か、大桟橋に横付けしている白い客船で、二時間くらい東京湾の夜景を楽しみながらディナーを食べる洋上レストランだ。
 選択肢として、プランを要チェックしておこう。
(ディナークルージングも有りだけど、それは、その次ね)
「うん、二人で、夕方のセピア色に染まる横浜港を見て、それから、二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒が飲めるよ。そして、夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ! そうそう、セッティングは、私がするから心配しないで」
 あれから何度か、あなたは行っているでしょうが、それは、一人で来て黄昏ていただけで、大桟橋内のテナントのどれも、見たり、利用したりしていないと思う。
「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」
(其処はね、近いから、伯父さんから去年の暮れに贈られたジレラ君で、タンデムして行くのよ)
 ジレラ君は、伯父さんに御願いしたら、クリスマスに赤と緑のリボンで彩(いろど)られたリースを付けてプレゼントしてくれた。
 防犯のセキュリティ的に危(あぶ)な気(げ)な歩きよりも、戦闘的になれるジレラ君は嬉しい。
 本当に、相模原と相模大野の街は大桟橋と合わせて、彼の匂いで上書きして仕舞いたい!
「ん! まだ?」
 三つの地名は、見ても、聞いても、最初に浮かぶイメージを、いっしょに行く彼に上書きしたい。
(厭な記憶は、地名の他に一つか、二つ、単語を聞かないと思い出さないようにするんだ!)
「来年の春は、……相模原の、満開の桜並木を歩かない?」
 母と歩いた桜並木の通りを、あなたと二人で、桜吹雪の中を歩きたい。
(ごめんねぇー。自動車のライセンスは、高校三年の夏に取ったけれど、まだ、私の専用車が無いの。別に中古の安いので良いのに、両親とお姉ちゃんが、軽はダメとか、古いのは危ないとか、さんざん言ってから、お金の余裕は無いなんて言うんだよ。お姉ちゃんは、新車を買って貰っているのにだよ! だから、ジレラ君で行くね。あと、雨降りだと、バスになっちゃうわ)
「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」
(知ってんのかぁ……。ああ、やっぱり。相模原で私が感じていた、あなたの気配は、錯覚じゃなかったんだぁ)
 彼は去年の桜咲く春にV-MAXに乗って来て、私との遭遇を求め、相模原や相模大野の通りを走り回っていたのだと、確信が持てた。
「決まりね。それじゃあ、約束よ」
 彼の前へ、右手の小指を立てて突き出し、彼の小指が絡むのを期待する。
「約束は、……しないよ……」
(えっ!)
 予想外の、思いもしなかった彼の否定する言葉と、指切りを拒絶した彼の態度に、私の瞳は泳いでしまう。でも、直ぐに『どうして』と、彼の顔を見据えて睨(にら)んで遣った。
「約束しない? 約束できないの?」
 両肩が、小さくプルプルと震え、両足の膝下も、ガクガクしている。
(なんでなの? 約束してよ! 私は不安なの! これからも、音信不通にならないように、連絡を取り続ける為の保険なのに!)
 もう、焦りを声に出してしまいそう。
 あなたの、その言葉の理由(わけ)を知りたい!
「違う! もう、約束なんかで、縛られたり、確かめ合う仲じゃないと、思うからだよ!」
(それって、約束で縛る権利の仲じゃなくて、互いに縛られるのが、義務って事ぉ?)
「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」
 涙が、出そうになった……。
 彼が今まで、どんな想いで私を好きでいてくれたのか、朝のバスで私の横に立っていてくれたのか、彼の気持ちを知った。
 私への権利ではなくて、私への義務だと告げる彼が、優しくて愛しい。
「早く着き過ぎちゃうな。どこか、寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」
 彼の提案は、私も同じ気持ちになっていたから嬉しく思う。
 この時間に空港へ着いても、それなりに時間を潰せるのだけど、せっかく、彼と再会できたのだから、二人っきりになれる静かな場所へ行きたい。
(この近くだと……)
 パッと思い付いたのは、確か、金沢市へ引っ越して来た年に行った事がある、この辺りに在る温泉。
(あれは……、たしか…… 赤、赤穂……、……谷、そう『赤穂谷(あかほだに)温泉』だ!)
 母が近所の人から聞いて来て、家族みんなで行く事にした『赤穂谷温泉』。
 明千寺に居た頃に行っていた能登の和倉(わくら)温泉や真脇(まわき)温泉以外で、私が初めて行った温泉だったから、其の印象的な名前も有って、良く覚えている。
 温泉の宿は一軒しかなくて、其の一軒しかない宿が『赤穂谷温泉』だった。
 たぶん、小松市の山手側だったと思うけれど、閑静な住宅街の奥まった場所に隠(かく)れ家(が)みたく在って、周りに目印(めじるし)になるような高い山も無かったから、記憶も曖昧(あいまい)で、今からGPS頼りで其処へ到着しても、此処だと言い切れる自信は、入ってみないと分からないと思う。
 夕食の料理の魚は鯉(こい)や岩魚(いわな)、お肉は猪(いのしし)と鴨(かも)、それと、いろいろな山菜を食べたのを覚えている。
 川魚と獣肉は、初めて食べる物ばかりだったけれど、とても、美味しかった。
 ゆっくりと入ったお風呂で、お姉ちゃんと、『癒(いや)されるね』なんて、テレビドラマのOLのようなセリフを言っていた。
 温泉宿は、別に山奥でもない町外れの低い山際に在るだけなのに、夜は建物の脇を流れる小川のせせらぎしか聞こえない静かさに、明千寺の御里よりも心細くて不安になった。
(『静か過ぎて、ちょっと恐いかも』って言ったら、お母さんとお姉ちゃんの間に寝かされたっけ)
 二人とも、私の近くに寄って来て手を握っていてくれた。
 其の『赤穂谷温泉』へ、彼と行きたいと思った。
(日帰り客として、鯉料理を食べて、お風呂入って、男の人と……、じゃなくて、彼と人生初の御休息をしちゃう? ランチでも、個室の座敷が使えて、伝えれば、二時間は干渉(かんしょう)されないはず……)
 それは、彼に、私の操を捧(ささ)げるって事。
 気持ち的には全然構わなくて、寧(むし)ろ、そうなりたい気分なのだれど、再会した初日だと、流石(さすが)に節操(せっそう)が無いと思われそう。
 それに、お昼メニューの過ぎた時刻だし、既に、ランチは食べて来ている。でも、週末だから、お風呂だけでも入れると思う。でもでも、二人っきりにはなれない。
 これからだと、食事は夕食になるけれど、夕食は宿泊客のみだし、それに、フライトをリザーブしているから、時間的にも無理だ。
(……だったら、立戸の浜の時のようになれるといい)
「それなら、海……、海が見たいな。日本海だね……」
(港じゃなくて、海! 砂浜だ!)
 彼と海に行けば、心が全て晴れると思った。
 今日、彼と出逢えて、混沌(こんとん)としていた気持ちの三分の二が晴れ渡った。
 残りの三分の一も、早く晴らさないと、せっかく晴らした気持ちが侵食(しんしょく)されそうに思えた。
(もう、以前みたく、三つに一つの嘘や聞き流しを、彼にしたくない……)
 金石の砂丘で、私の拘りを薄れさせた。
 立戸の浜で、蟠(わだかま)る気持ちを軽くしてくれた。
 横浜大桟橋で、眩しい陽射しの暖かさに感動させてくれた。
(今日もまた、海辺で、私の迷いを無くして欲しい)
「行ける? 時間は、大丈夫かな? 夕陽を見たいのだけど?」
 お昼前の空一面を覆い尽くしていた千切れ雲の密集は、海からの偏西風(へんせいふう)に散らされて、ついさっきまで間隔を広げて、羊雲(ひつじぐも)の群れになっていたのに、それも、吹き払われて疎(まば)らになっている。
 国道から見える海の上空は、すっきりと晴れて、斜陽の暖かな陽射しに、私達は照らされていた。
(二人で顔を紅く染めて、鮮(あざ)やかな夕陽が見れそうだね)
「時間は……、空港での夕食時間に、余裕を持たせて……、二時間は、大丈夫だ。行けるよ」
 彼は優しい。
 きっと、空港近くのビューポイントへ連れて行ってくれるつもりだ。
「ほんと? 行ってくれるの?」
 私の顔が嬉しくて笑っている。
 彼と見る夕陽の海は、とても、私を幸せにさせて、もっと、気持ちを開放的にしてくれると思う。
「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀(かが)の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから、気持ち良いかもな」
(片野の浜? 名称に『片』が付くから、片山津温泉の近くかな? でも、片山津は柴山潟っていう湖の畔だし……、違うな)
「その片野の浜って、知らないのだけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」
 小松空港と赤穂谷温泉以外に加賀地方の有名処を、私は行った事も無くて殆ど知らない。
 福井県なら石川県の近くに在る東尋坊(とうじんぼう)の断崖岬と、浅瀬に掛かる橋を歩いて渡る神の住まう雄島(おしま)、それに、其処まで行く途中に在った越前松島水族館は、中学生の時に家族と行っている。
 行き帰りの車中では連れて行かれるままに、お姉ちゃんといっしょに寝ていて、何も景色を見ていなかったけれど、東尋坊の柱状の岩が連なる岩壁(がんぺき)の高さと、島全体が神域になる雄島の海側の草地へ抜けるまで通る、鬱蒼(うっそう)とした原生林の暗くて不気味(ぶきみ)な周遊道は覚えているし、ペンギンロードを歩くペンギン達も可愛かった。
「でも、日没までは居られないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、其の時刻には、空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と、思うけど」
 大体のタイムスケジュールを、彼が知らせてくれる。
 残念ながら、彼といっしょに夕陽を見るまでの時間が、今日も無かった。
(トヤン高原での不思議体験が有る、あなたとなら、水平線がヌラヌラと紅く輝くトワイライトタイムに、凪(なぎ)で大気が停まった金石の町のような、セピア色の摩訶(まか)不思議が起きるかもと、期待していたのに……。まぁ、いいか)
「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は、次回ね」
 サンセットに感動するのが目的じゃない。
 私は、彼に救いを求めている。
(あなたに迷いを打ち明けたいの。私は、あなたに救われたいの)
「それじゃあ、行こう」
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「あそこに、寄ってもらえるかな?」
 山側環状道路から続く加賀産業道路が国道八号線へ合流して、更に、高架を終えた平地の交差点で、彼に近くのコンビニエンスストアへ寄ってくれるように促した。
「えっ、ここに用?」
 疑問と、詮索と、好奇(こうき)が、入り混じった顔を傾げて、彼が訊いた。
 金沢市内から一時間も走らずに着いてしまう小松空港まで、食事も、土産物を買うのも、ターミナルビル内で済す事が出来る筈だから、彼は、途中のコンビニに寄るとは思ってもいなかったみたい。
(たぶん、これから行く浜には無いかも知れないし、有っても、仮設みたいのしかなくて、そんな個室へ入るのを、彼に見られているのは、まだ、堪えられないかも……)
 空港までは我慢できそうになくて、此処の御手洗いを借りたかった。
 それに、買いたいモノも有る。
「そう、ちょっと用なの……。用を足(た)すの……」
 彼が言った『用』に、『足す用』を引っ掛けて答えてみる。
(これで察してくれると、いつも安心ね。分からなかったら、鈍くて要注意でしょう!)
「ああっ、OKだ!」
 ピンと来た顔の彼は、頷いて察してくれた。
(良かったぁ。彼は、できる男かも?)
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 コンビニの御手洗いで用を済ませると、アイスフリーザーから御目当ての品を見付けてレジへ持って行く。
 濃い緑色の地にオレンジ色の花を散らしたのと、白地に薄いピンクの花房をプリントした銀紙で包まれた四角い棒状のアイスクリームを、それぞれ一本ずつ買った。
「それ、何? 買ったんだ?」
 さっき、コンビニのパーキングにSUV車を停めた時、三十分ばかり運転していただけの彼が、額と耳筋に汗を掻いていた。
 何もせずにサイドシートに座るだけの私も、項(うなじ)に小さな汗の玉を浮かせていた。
「うん、アイス」
 車内循環にしたエアコンディションは、ドライメインの温かくもない温度設定なのに上半身が汗ばんでいる。
「アイスクリーム? 今、食べるん?」
 汗ばんだ彼の匂いと、自分の襟元から臭い立つ、私の汗の臭い。
(彼も、汗っ掻きなんだ)
 私は二人とも、暑がりで汗(あせ)っ掻(か)きなのを初めて知った。
(だから、火照る身体を冷ますのは、アイスクリームでしょう!)
「ううん、後でね。浜辺で食べようよ」
 片野の浜ってところまで、まだ少し走ると思うし、折角、いっしょに食べるのだから、立戸の浜の時のように寄り添って食べたい。
(私は、彼の臭いが厭じゃないけれど、彼は私の臭いを、どう感じているのだろう?)
 寄り添いながら、それを訊いて遣りたい。そして、彼と二人で大桟橋へ行った日、相模大野駅前から急いでハイツへ着替えに戻った往復を、私は駆けていて、彼の大きなオートバイにタンデムした時には汗が噴き出していたから、あの朝も、私は汗の臭いが強かったはずだ。
 それも、訊いてみたい。
「だったら、そのままだと、車内のエアコンの熱で溶けるかもだから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」
 そう言って笑う彼は、私から渡されたレジ袋を後部シート脇のボックスの中へ仕舞った。
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 コンビニから八号線を、更に南へ進み、大聖寺(だいしょうじ)の街を抜けて、地元の人しか知らないような農道を走ると、片野の浜という処へ着いた。
 片野海水浴場と護岸壁に書かれた駐車場に停めて、後部のフリーザーボックスから『レジ袋を取って来る』と言う彼は、保冷しているアイスを忘れてはいない。
「よく、道を知っているねぇー」
 木々が生い茂る丘沿いの道を、幾つかの集落を通り過ぎて進んだ所の突き当りが、斜陽を浴びる白砂の浜が眩しい片野海水浴場だった。
「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」
 自慢げに答える彼に、ちゃんと、予備知識や経験値を持つ逞しさを感じた。でも、護岸堤から日本海を眺めるだけだと思い込んで、まさか、砂浜を歩いて行くとは考えてもいなかった。
「……砂浜を歩くの?」
 ドアを開ける彼に、履いて来たブーツを見ながら、私は小声で聞き直す。
「あっ! そのロングブーツは、レザーだよね。それに、ピンヒールだ。……砂浜だと、刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」
 私の足許を見て察した彼が、問題点を指摘した。
 砂浜に刺さるヒールで歩けなくなるから、彼の望みには応えてあげられない。それに、ブーツが砂だらけのキズキズになってしまう。
「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」
 言いながら外へ出た彼は、後部座席のドアを開けて、其処に乗せて有ったショートブーツを掴(つか)んで私の横まで持って来ると、真横のドアを開けて私の足許へ置いた。
 其の膝丈のショートブーツはカジュアルなデザインで、今日の私のコーディネートにミスマッチだったけれど、歩き易そうに思えた。
「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」
(ラッキー!貴方の妹さんは、私と同じサイズだぁ。妹さんの身長は知らないけれど、百六十センチメートルの身長の私は、二十三センチメートルの足サイズだと、大き目の方なのだろうか? 貴方に大きな足と思われるのは、嫌だけど、プリッと膨(ふく)らむ脹脛(ふくらはぎ)に、スラリと真っ直ぐな脛骨に、キュッと締まった足首の魅力で、許してくれそうかな?)
「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」
 靴底のゴツイパターンに、『彼の妹は、何処を歩いているのだろう』と考えながら、ブーツを履き替えていると、横に立って私を見下ろしているままの彼に気付いた。
「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」
 互いに見目麗(みめうるわ)しいと思える若き男女、性欲を感じない方が可笑しい。でも私は、ベイブリッジのフラッシュバックが怖い!
「ああっ、ごめん。そっち側の、見えない所に離れているよ」
 彼は、車体の反対側へ行き、更に、堤防際へと離れた。
 『ちょっとぉ、離れ過ぎって』思うけれど、素直に私の言う事を効いてくれた彼が嬉しい。
 自分専用としているSUV車に、妹の履き替え用のブーツを乗せているなんて、仲が良くて、ドライブへ行ったり、買い物に付き合ったり、送迎も断わらない、優しいアニキなのだろうと思った。
(彼の妹の歳は、いくつなのだろう? 高校生かな? もっと離れて、中学生? 小学生? それとも、ぐっと近くて、一つ下とか、もしかしての双子の妹かも? そして、アニキが知らない、付き合っている彼氏がいたりしてね。……でもでも、……まさかの、密(ひそ)かに想いを寄せている一方通行のブラコンで? メチャメチャ、私を恨(うら)んでいたりして……)
 これまで、彼が『妹がいる』程度しか話していなくて、少な過ぎる妹情報から勝手に妹イメージを空想してしまった。
 兎(と)に角(かく)、明るい性格で、私を受け入れてくれる優しい妹さんだったら良いと願う。
 中学、高校でも、現在の大学でも、部活やサークルに入っていないから、年下の後輩と交流した事が無くて、家に、年下の女の子や男の子が居るのをイメージできない。
 頼られる感覚や構い遣る感覚が、上手く想像できなくてしっくりしない。
(姉は妹の私を、どう感じていたのだろう? アニキなら、男性化した姉として、異様な想像ができるんだけどな。可愛がってくれそうだけど、いろいろ面倒臭そうだ!)
 三歳年上の姉は、家でも、外でも、裏表無しに積極的で明るい。
 母親似の人懐っこい顔は、初対面から好かれ易く、多くの交流先で仕切っているのを、私は知っている。
 女子短大卒業後は、『髪結(かみゆ)いの女房(にょうぼう)になる』とか、宣言して美容師専門学校へ通い、今年から金沢市の中心街のファッションビルに在る、有名ヘアサロンに見習い美容師として勤務している。
 姉曰(いわ)く、『私って、ヘアデザインのセンスが、有るんだって』、だそうだ。
 高校生の時に出入りしていた柿木畠の喫茶店で知り合った彼氏の美大生は、加賀友禅の染織作家になった今も、お付き合いが続いているらしい。
 そんな事を考えながら、ブーツの履き替えを済ませて、彼に、問題無く履けた事を伝えに傍へ行く。
「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」
 車内の暖気に温められて汗ばんでいた身体は、粗めの砂浜を、ちょっと歩いただけで、額や項に汗の玉が浮くくらいに熱くなっている。
 雲を吹き払って、晴れ渡らせてくれた風は凪(な)いで、頬にひんやりと触れる、四月初旬の大気も涼しげにしか感じられない。だから、ギブミー・アイスクリーム・ナウ!
「砂浜を少しだけ歩くから、また汗爆だろうし、それに、アイスはカチンカチンだったから、着くまでに、ちょっとは、食べ易くなると思うよ」
 そう言いながら、浜辺の左手の方を見る彼は、キーのリモコンでSUV車をロックする。
「だから、ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」
 彼が指差した間近に迫るそれは、浜を歩き始めた時から、異様な形で見えていて気になっていた。
 全体が、緑色と黄色が混ざったような白っぽい灰色で、ドロドロ、ウニウニ、ニョキニョキと、巨大な異形が融(と)け果(は)てて固まった一片(いっぺん)のように見えた。
 石川動物園近くに在る、能美市の和気(わけ)の岩(いわ)とは全然違う。
(確か、和気の岩石は、二千万年前に形成された、流紋岩(りゅうもんがん)の大きな露頭(ろとう)だったかな……)
 スイスイと足場を確保して登る彼に、手を引かれながら、妹さんのブーツに履き替えた御蔭で、どうにか滑らずに、私も攀(よ)じ登って一番広い塊の上に立てた。
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 目の前に、春の陽を浴びて真っ青に輝く海原が広がり、右には、今し方歩いて来た海水浴場の砂浜と海に突き出す岩盤の岬が見え、左にも、ずっと向こうまで白い砂浜が幅広く続いていて、保全されているらしい低く平らな砂丘は一面の緑に覆われている。
 背後の広い松林も、ずっと続いていて、こんなにも世界は広くて美しいんだと思わされてしまう。
「ここは初めて。ずっと向こうまで広い砂浜が続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生はハマナスでしょう。すごいねー! 向こうの方は一面に群生(ぐんせい)してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀の海岸に、こんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたよね」
『はい、これ』と、アイスが入ったレジ袋を、渡して来る彼に訊いた。
「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕も、この岩が不思議で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は、図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だったよ」
 彼の話しを聞いて、子供の知識欲や自主性を促す、彼の父親は素敵だと思いながら、レジ袋の中から、彼が好むだろうと思って買った、緑色とオレンジ色の柄(がら)のアイスを取り出して、彼に渡した。
 もう一つの私が食べたいと買ったアイスは、ピンク色のパッケージから、苺味(いちごあじ)でしょう。
 火照(ほて)る熱さに、直ぐにパッケージを破って、取り出したアイスを咥(くわ)えた。
(冷たい……、でも、気持ちいいし、甘くて美味しい)
「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に、金持ちの長者様が住んでたの? 今も、何か変なのが、棲(す)んでいそうね」
(長者……。普通、何々長者っていったら、お金持ちだよね。こんな場所に、屋敷を構えていたの? でも、大きな岩盤の上だから、外的から守り易いし、自然災害にも安全かも)
「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、焼き物の食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが、回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承(でんしょう)じゃ、近くの大池に棲んでいた大蛇(だいじゃ)みたいな龍(りゅう)が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮(く)らしていたんだってさ。この岩も軽石(かるいし)疑灰岩(ぎょうかいがん)という、何億年も前に海面に近い火口の海底火山が噴火(ふんか)して、噴煙から降り積もる火山灰や火砕流の堆積層(たいせきそう)で、その成(な)れの果てだって。ほら、燃えたり、砕(くだ)けれたりした、古代の木の欠片(かけら)の化石が混じっているよ」
(やはり、得体(えたい)の知れないモノがいたという伝承が有った。大金持ちと若くて美人な娘。いつの世も強い男はエロに満ちているなあ。でも、娘は龍なんだ)
 齧(かじ)るアイスが汗ばんだ体を冷まし、苺味の甘さは、気持ちを優しくさせる。
「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっと、みんなに慕(した)われていたんだよ。そう、龍が娘なって寄り添うくらいにね」
 龍が棲まう伝承や伝説は、大池や険しい山頂に多いので、珍しい話だと思う。
 『立山の頂は、ドラゴンピーク』だと表現した記述を、明治期に何度も日本に来て、富山湾の氷見市から能登半島の七尾湾北辺の穴水町まで、船に乗って旅をしたアメリカ人がいて、彼が書いた、日本人への偏見に満ちた旅行記を、高校の図書館で読んだ事が有った。
 其のアメリカ人が、火星に運河が在ると唱えたり、第九番惑星の冥王星も、存在を予言していたという有名な天文学者と同一人物だと、後日、知って驚いた。
 そういえば、福井県と滋賀県と岐阜県の県境に在る夜叉(やしゃ)ヶ(が)池(いけ)にも、龍が棲みついている伝承が有ったっけ。
 人の来ない山奥の分水嶺(ぶんすいれい)に在る夜叉ヶ池に棲む、引き篭(こ)もりの雄龍(おすりゅう)が、雨を降らす代わりにセコく代官の娘を嫁(とつ)がせる言い伝えだったか。
 剣岳(つるぎだけ)に棲まう雄竜の彼氏を持つ雌龍(めすりゅう)が、夜叉ヶ池を氾濫(はんらん)させてまで逢引(あいびき)に行く伝承だったか。
どちらにせよ、節操(せっそう)の無い龍の伝説だ。
(運河は、火星人が造って、火星には、高度な文明が存在すると説いていたアメリカ人は、剣岳が立山の北隣りの高峰だと、知っていたのだろうか?)
 『北アルプスの高い壁のような連峰に、日本海から押し寄せた雪雲が、まるで、あんたが浸かった湯船の縁から、お湯が溢れるように、連なる峰々を越えて雪崩のみたいに下ってくるんだよ。更に、中央アルプスの南側に居たら飛騨を通り、御岳(おんたけ)を廻った雪雲が、北アルプスと同じように、一枚岩みたいな連峰の頂(いただき)を越えて来るんだ』
 『高く真っ青な冬の青空を背景に、深緑色の連峰の、白く雪を積(つ)もらす稜線を越えて下る、真っ白な雲の群れ、凄く美しいんだよぉ。凄く寒いけどね』
 『雪雲の前線は、連峰の向こうに、もっと、ずっと高く、人跡未踏の黒い山脈のように見えてさぁ、越えて来る雪雲は、稜線から攻め降りる、未知の白い軍勢のように想像しちゃうんだなぁ』
 『いつか、あんたも、彼氏とドライブして見てくれば、あたしの感動が分かると思うわ。御奨(おすす)めのワンダフォーなスペクタクルだよ!』
 行った事も、見た事も無いから、説明されても理解し難く、イメージも描き難い事を、短大のサークルの冬季合宿に参加して、長野県へ行って来た姉が言っていた。
 サークル活動じゃなくて、彼氏とドライブしてたのをバラシながら、御風呂の湯量が、私が入ると激減するみたいな比喩には、失礼しちゃうけれど、姉がポエムのように語った日本アルプスの北と中央と南の三つの連なりの風景は、いつか、必ず見てみたいと思っている。
 兎(と)に角(かく)、雄に雌、小さな蛇(へび)に、大蛇に、蝶(ちょう)と、大小の形や性別なんて関係無く変化(へんげ)が上手な龍だったはず。
 そっちも、こっちも、縄文(じょうもん)時代に繰り返した大海嘯(だいかいしょう)で遣って来た水竜(すいりゅう)の末裔(まつえい)だったかもね。
(今も、池底の泥深く、眠り棲んでいたりして……)
「かもね。この辺(あた)りは、明治(めいじ)の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠(さばく)みたいな砂丘(さきゅう)だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周(まわ)りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」
 確か、彼氏持ちの雌龍の話は、大正(たいしょう)の初め頃の大旱魃(だいかんばつ)が背景だ。
 明治と年代が近いし、話の中の水飢饉(みずききん)で雨乞(あまご)いをするのは、何処か、砂漠に植林するのと似(に)ている。
「龍は、牛首長者が亡(な)くなってから、大池に戻(もど)ったんだね。龍は、大地の精(せい)を食べて水気(みずけ)を放つそうだから、今も、水底深くに潜(ひそ)んでいるかもね。で、その大池っていうのは、どこなの?」
 夜叉が池は、龍が池から離れるだけで、氾濫して大洪水(だいこうずい)。でも、加賀地方の湧水池が湧(わ)き出す水で氾濫したという伝承を、聞いた事も、読んだ事も無い。
 高熱の炎(ほのお)を噴(ふ)く、ゴールドマニアの西洋のドラゴンと違って、東洋の龍は水脈(すいみゃく)を司(つかさど)り、雨と雷を纏(まと)う。
(龍が翔(と)べば、水気も動く。だから、氾濫するのじゃなくて、水脈を断(た)たれた池は干上(ひあ)がって行くと思うな)
「さっき通って来た、片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬場に熊手形(くまでがた)の網(あみ)を投げて鴨を生(い)け捕(ど)りにする猟で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期(はんせいき)の初め頃までは、もっと大きな深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって、郷土資料本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀から七尾辺りまでの平地一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」
 一万年もの長い縄文期に何度、大海嘯が有った事だろう。
 現在の山並みの際まで海が迫り、大きな川筋は入り江になっていて、当時の縄文人達は、台地上や丘陵上の横穴や竪穴の住居で暮らしていた。
 其の大海嘯とは逆に、海辺が現在の水平線の彼方まで退(しりぞ)いた年代には、岸辺に集落が作られて、海を越えた交流をしていたと思う。
 牛首は、きっと、そんな縄文の文化人、越の国人(くにびと)の末裔(まつえい)だ。
「そうねぇ、きっと、龍が娘になって、牛首長者の屋敷(やしき)に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」
(越の国の末裔で、貿易長者の牛首と、大海嘯の名残りに棲む、雌の水龍の出逢いなんて、これは、時空を越えたラブロマンスだあ。サクセスガイ ミー ツー ドラゴンガール なぁんてねぇ)
「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら、必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも、詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼(たよ)らなくても、迷(まよ)わずに来れたし、古からのファンタジーなロマンスを話すして、私を楽しませてくれたしね」
 彼が横浜港の大桟橋へ辿り着くまでに、何度も迷っていたのは、行き当たりばったりの思い付きで、しかも、初めて行く場所なのに、ろくすっぽネット地図でルートを覚えずに、通りの雰囲気と方向の感で行ったからだと分った。
「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」
(感で走って迷うくらいなら、私に頼ってくれれば良かったのに……)
 二人で調べながら辿り着ければ、もっとずっと、違った想い出になっていたと思う。
(でも、あの日は、あなたも、私も、素直になれていなかったな……)
「今も、一緒に仕事をして稼げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」
 照れ臭そうに、私を見ながら、彼が言う。
 彼は、家族に恵まれていた。
 決して周りに流されない彼の思考と性格は、彼と家族の意思の力だ。
「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」
 彼との意味深な未来を、素直な言葉にしてみた。
「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹も、いっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」
 大きく見開かれた目が、左右に振られてから伏せ目勝ちに止まると、口が少し開いて、彼は笑顔になる。
「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」
 私達の躊躇いと、迷いと、空白を埋め切れないまま、ハッピーパラダイスへ人生がシフトしそうな気がして来る。
(なら、お互いの人生の価値観を、よく確認しなくちゃね)
 嬉しい気分で水平線の曲線を眺めながら、これから先、まだまだ続いて、何が有るか分からない二人の人生を幸せ豊かに寄り添う為にと、私は思う。
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「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと、答えてくれる?」
 授業の臨床実習に行った病棟で垣間見た治療が、疑りと迷いの蟠(わだかま)りとなって、私の気持を拘(こだわ)らせていた。
「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから、言ってみて」
 『変な事』っていうフレーズの前置きだけで、大抵の人は嫌がって聞くのを避けようとするのに、彼はワクワク顔でノリノリだ。
「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」
 瞳に光を宿した彼のワクワク顔が、瞼を閉じて眉毛を寄せ、眉間に皺を立てたまま唇を固く結んで、怪訝(けげん)な表情になった。
「外見的には、全く動かないの。例えば、もし、意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻もね。でも、耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。だけどね、検査や装置のデータでは脳死なの」
 呼吸が無い心肺停止状態でも、脳の働きが完全に失われているとは限らない。
 脳死の死亡判断域だけど、ほぼ脳死で、完全死亡に到っていない奇蹟みたいな仮死状態。
 最先端医学でも甦生(そせい)は期待できないと、私に説明してくれた人も、自身の理解に多くの想像が入っていると言っていた。
 機械的な強制力で生かし続けて、アポトーシスの回数を終了させるまで生かす……、この治療は、倫理的に許されて、自然の節理に沿うのだろうかと、私を疑心暗鬼にさせている。
「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に、死亡の認識じゃなかったっけ?」
 脳の機能が停止すれば、自律神経のパルスは無くなり、心臓や肺臓などの臓器は動かなくなり、血流も停まる。
「ううん、ほぼ脳死状態。ほぼなの。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が、永久停止して腐(くさ)り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」
 瞳孔が全開になっていても、厳密には、脳が死んでいるとは限らない。でも、生物学的、社会的、法律的、倫理的に生死を仕切る必要が有り、悲しい御臨終(ごりんじゅう)とされてしまう。だけど、もしも、肉体が腐らないのなら、それは、魂(たましい)が宿り続けているからで、其の究極の仮死状態は、何かしらのスイッチが入れば、再起動してリライフできるかも知れない。
「それは、コーマっていう、昏睡(こんすい)状態の事?」
 コーマという言葉自体が、昏睡の意味だ。
 人事不省(じんじふせい)でも、目覚めを期待できる泥酔のような眠りだはなくて、重度の意識を失う障害によって、外部からの刺激に無反応状態で眠り続けている昏睡を指す。
「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと、半年以上も、反応のない永続的な植物状態」
 深昏睡は、コーマよりも、更に危険な、最も重度な昏睡状態。
 眠っていても発生する体動を自発的に行えず、筋肉が弛緩(しかん)して失禁などの排泄(はいせつ)行為を無意識下でしてしまう。
 植物状態のような深く眠り込んでいるのか、脳の機能が完全に失われているのか、分らない状態だ。更に、超深昏睡の状態は、あらゆる強い刺激に対して何の反応も無く、角膜(かくまく)反射や対光反射などの各種反射も無い。
 自発呼吸も無くて、人工呼吸器などの生命維持装置を付けなければ生存できず、普通は脳死の判定がなされてしまう。
 仮に、本人に意識が有っても、他人からは死亡と認められてしまう。
(生きたまま埋められて土葬されたり、火葬で焼かれたり、そんな世間では普通の遺体処理として、法律上の問題が無い殺され方をされてしまうみたいな……)
「自分が、そうなったとしたら……、あなたは、どうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り、自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して、期待し続けて貰いたい?」
 皮下組織まで燃える重度の全身火傷から、奇蹟的に蘇生して細胞が再生した兵士が最前線へ復帰したという、不思議な記述(きじゅつ)を戦争中の傷病事例の文献(ぶんけん)で読んだ事が有った。
 全身黒焦げの兵士が、どんな体質や遺伝子を持ち、何処の出身なのか、不明だと書かれていたが、事実らしい。
 破壊されて燃え尽きた戦車の車内から発見された時は、炭化していて動かない硬直した四肢(しし)だったのに、突然、目が見開いて動き、口と咽(のど)は焼けているのに、肺が鼻腔から息を吸い、焼けなかったのか、再生したのか分らないが、鼓膜(こまく)は声と音を聞き分けていたそうだ。
 そんな、有り得ない事が起きるのだから、愛する人の肉体が朽(く)ち果てるまで、この世からいなくなったとは認めたくない。
「その状態は、喩(たと)えるなら、棺桶(かんおけ)くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」
(何、それ! その極端な、閉鎖空間の例えは……)
「真っ暗で、何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも、意識が有るかも知れないんだ……」
 凄く厭な、とても、自分の身に起きて欲しく無い状態を、彼は想像で話す。
「現在の医療機器では、検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」
 現代医学的に矛盾(むじゅん)だらけの生と死だけど、生きているのなら、せめて夢を見ていて欲しいと思っていた。
「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど、本人は覚えていないでしょう」
(どんな夢かは覚えていなくても、せめて、夢を見ていた自覚だけでも、有ればねぇ……)
「検診で瞼を開いても、瞳孔反射の虹彩収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても、精々、明暗が分かるくらい。……固定焦点になっているかもね? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも、痛いのも感じていて、精神だけは、生きて思考しているとしたら……」
 概念的にも、実際的にも、死亡状態。だから、私の想像域での仮説に過ぎない事は解っている。
「例え、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり、話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて、君の匂いも嗅ぎ分けていても、僕は、それを君に伝えられない。瞼を開けていて、愛しい君の顔や姿が見えても、それを、君へ知らせる事は……、できないのだろうなあ……」
(そうよ。そんなあなたの状態を、誰も知る事ができないの)
「そんな状態で、僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、やはり、今日明日に陥(おちい)っても、百歳になって陥っても、そうなったら……、そんな僕は……、死んでいるのと同じだ……」
(ううん、違うよ。そうはならないわ。……私だけは、あなたの様子に気付くから……)
「だけど、あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界の其処にあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」
 言ってしまった言葉は、私の我(わ)が儘(まま)だ!
 気付いてあげれても、『苦しんでいるのか?』までは、分らないと思う。
 私は、あなたに、私の身勝手な思い込みを押し付けて、苦しみを長引かせてしまうかも知れない。
「私は……、私は、そうするけど、あなたは、そんな状態の身体になっても、……生きていたい? あなたは、それすら分らないでしょうけれど、……私に奇蹟を求めて、待ち続けていて欲しい?」
 彼に問い掛けながら、自分自身に問う。
(私は、愛の告白をしながら、彼に死の宣告をしてるの?)
「延命処置を、続けて行くと?」
(うっ、早くも、それを、訊いて来るかなあ)
「生命力が有る限り、元気で眠り続けるわ。でも、延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いずれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)てになって、目覚めが無いまま、枯(か)れる様に寿命が尽きてしまう……」
 現在の最先端医学の延命技術でも、細胞の分裂回数以上に寿命を伸ばせない。
 細胞分裂の回数には個人差が有るみたいだけど、百二十歳代が限界らしい。でも、近未来は分らない。
 例えば、自身の新たに作られた細胞をクローンして増殖させてから、自身へ移植すると、置き換わった新細胞が分裂して行く。
 記憶や能力を保ち、脳や神経の細胞までクローン細胞に置き換われば、単純に寿命は長くなる。
 それを繰り返せば、不死になるでしょう!
 其の様に、不死は理論的に可能らしいけれど、それには、実際的な問題が多く有るらしい。
 クローン細胞が置き換わる際、旧細胞の情報の引き継ぎで、細胞が突然変異の癌(がん)細胞化するかも知れないという。
 それに、旧情報を取り込んだクローン細胞のアポトーシス回数は、ずっと少なくなるとの研究予測も公表されている。
(まあ、いずれにせよ、神の領域だわね)
「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」
(外側の皮は皺皺で、中身がトロトロに熟(う)れ過ぎて腐る発酵(はっこう)寸前みたいな?)
 近付くと、腐り始めた小動物の死体みたいな甘く絡みつく臭いがするのかと、彼は私に訊く。
(腐った果物(くだもの)や死骸(しがい)じゃないから、いくら最末期でも皮膚臭は、そんなふうになんないよ)
「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は、高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」
 加齢臭は、皮膚層の変質と腐敗の臭いで、老人臭は、それまで消臭していた消毒物質が生成できなくなって漏れてしまう、内部組織の腐臭だ。
 特に高齢老人は、乾いた土と乾燥した木材を混ぜたような臭いの皮膚と、カサカサな肌に塗る軟膏やオキシフルの臭いが鼻に付く。
「そのブレンドは、ちょっと、嗅ぎたくないな」
(まあね。体臭は、人、それぞれに違うけれど、生活臭じゃなくて、肉体からの個人、個人に違う臭いに起因するモノは、なんだろうなあ?)
「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」
 『推(お)して知るべし』的な事を、彼は訊いて来る。
 この世と彼岸(ひがん)との狭間(はざま)に居るような、三途(さんず)の川を漂うみたいな、境界線を越えて常世(とこよ)に近い場所の患者さんばかりなのを、彼は理解しているはずだから、きっと、最期の刹那(せつな)に断末魔(だんまつま)の苦しい様相を見せるか、安らぐように穏やかな事切れなのか、知りたいのだと思う。
「接続しているシステムをダウンすると、先(ま)ず壁のパネルの表示光と、ベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示して、アラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。其処で患者を監視しているからね」
 彼の問いに答えて、生きさせるのをオフにすると、どうなるかを説明する。
「機械の作動は、……直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても、画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで、……暫(しばら)くは動いているんだ。患者さんは自律(じりつ)で呼吸していないから……」
 機械の再起動は、一旦、システムを完全に停止させたニュートラルの状態からでないと行えない。
 既に、生死が確定できないような患者の延命にシステムを使っているから、例え、シャットダウンが単純なミスだと気付いて、直ぐに、全てのスイッチを正しい手順でオンにしても、検知不可な微小微動な拍動での緩慢な血液循環の肉体が、再起動で強制的に維持されて延命を続けられるだけだ。
 其処に在っただろう魂が再起動後も、居続けてくれているのか、完全に離れてしまったのか、外観やシステムのデータからは分らず、ただ、そうであって欲しいとの願いと、信じる思いのみで延命され続けられる。
「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが、……静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応は、……それだけ。そして、酸欠(さんけつ)で死ぬの」
(それは、死なせる……、殺(ころ)す事なんだよ)
「そうか……。やっぱり、死んじゃうしかないのか……」
(そう……。延命を望んだ本人からは、同意を得れないけれど、家族からの依頼と同意が無くて、勝手に機器を停めたり、電源を落としてしまうと、殺人になっちゃうの……)
 私の最期は、彼の負担になりたくないと思うけれど、私は彼へ、殺すと同義な事を絶対にしたくない。
「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が、僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」
 自分の命が死で失われるままに末期(まっき)を看取(みと)ってくれるよう、彼は遺言のように私へ願ってくれて、私も、彼に遺言みたいな言葉を返してあげる。
「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私も、そんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」
 『殺す』って言葉の気味悪さに、ぎょっとした顔になった彼が、私を見詰める。
(そうよ。あなたの言葉で、私は延命治療をしないで、死んじゃうんだから、極端な解釈(かいしゃく)でも、あなたに殺されるのと同じでしょう)
「そ、そうだったんだ……?」
(だから、後悔しないように、ずうっと、あなたを愛し続けたいの。あなたも私を愛し続けてね。愛し、愛されながら死にたいな)
「君が、そうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいと思うよ。でもね、僕は、君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて、君に語り掛けるんだ」
(うふっ、いったい何を話してくれるかな? それは、あなたが私へ声にしなかった、私との物語かな? それとも、私の知らない、あなたの物語なのかなぁ? でも、どっちでもいいの。人生を終える時は、絶対に恐ろしいと、私は思うから、あなたは、私の間近にちゃんといて、私を励(はげ)ます明るい話をして欲しいよ)
「私が、皺皺になって、萎びても?」
 二人で長生きして、とても高齢になってからの延命処置のつもりで、彼は言っているのだろうか? そんなヨボヨボの年寄りになったら、あなたと私は、どんな顔になっているのだろう?
「ああ、皺皺になって、凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」
(外観が変わってもねぇ……。一応、私も死に際まで、美しくありたい乙女(おとめ)なんだけどな。……でもぉ……)
「それって、なんか、……微妙に、いいかな」
(歳を取っても、あなたと私は手を繋いで歩いて、買い物も、レストランでの食事も、喫茶店で寛(くつろ)ぐのも、二人いっしょで、きっと、同じベッドで、並んで眠っているんだよ)
「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして、僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」
 眼が潤んで来ちゃう。
「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」
 彼が見た目だけで、私を好きなのじゃないって事を知っているし、今も聞いた。
みんなはだけど、もう一度、確かめておきたい。
「何度でも、言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに、歳を取っても、見て呉れが変わっても、君は君だ!」
(ああっ! 彼は、なんて素敵な事を言ってくれるのだろう)
「それは、……凄く、嬉しいかな」
(再び、目覚めなくても、絶対に私は、傍にいるあなたを感じて、あなたの声を聞いているよ)
「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく、別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は、二度と御免だ。だから、必ず、僕よりも長生きしてくれ!」
(うん! でも、それって逆だから。私も、あなたが何処にもいない世界なんて、堪えられそうにないよ……)
「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと、願っているの」
 やっと、巡り逢えて、お互いが理解を深め合えた今、これから先の、互いを愛しみ敬う想いを持ち続けて、二人が別たれる瞬間までも、ずっと、私は願ってると思う。
「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと、努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は、君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送って貰う」
(うん、うん)
 彼も、私と同じ想いでいる。
(肯定して、受理するわ)
「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶(かな)えましょう」
(私はね。見詰めて、手を握っているだけじゃないわよ。あなたに抱き着いて、揺さぶって、大声で呼んで、泣いて、薄れて行く、あなたの意識を戻してあげるの。何度も、何度も、……ね)
「だって、君がいないと、寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから、傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」
(その気持……、とても良く分かるよ)
「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」
 私達が育てた子供達は、孫達と一緒に気持ち良く訪れてくれるから、あなたが逝(ゆ)っていなくなっても、慕われる私は、楽しくも穏やかに過ごして、静かな悲しみの中で人生を終える…… かな?
(だけど、だからこそ、あなたが逝ってしまうのは、嫌だ!)
「わっ、分かってる……。分かってるさ……。」
 唇と頬は微笑んでいるけれど、私を見詰める眼差しは寂しくて泣きそうで、零れ落ちそうなくらい涙を湛えている。
 きっと、私も、悲しみの顔に眼が潤んでいるんだと思う。
 私がはっきり、『あなたが先に逝くのは、嫌だ!』と言えば、きっと、彼は私を看取れるように、私より長生きする努力をしてくれると思う。
 相思相愛を知った今日の素晴らしい出逢いは、新たに始まった二人で歩む人生の、途中のプロセスを省いて、とうとう死が二人を別つまで話してしまった。
「あはっ、真剣(しんけん)に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃった。でもね、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、ちょっと迷っているんだ」
 死の床へ臥してからの愛まで、約束事のように話してしまったけれど、更に、私の死に際から死に至るまでを、彼に訊いてみたい。
「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから、医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」
 確か、彼には三年前の夏に立戸の浜で、私は臨床(りんしょう)工学(こうがく)技士(ぎし)になると話していたはず。
「ああ、憶えているよ」
 答える彼の声は、明るく弾んでいる。
(三年前の夏の事は、彼を否定していた私より、しっかりと憶えていそうだ)
「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。其の実習の中に延命装置の取り扱いもあってね。それで、其の機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況や取り付け方法を見て来るの」
 今から何を話すのかと、彼は神妙な顔で、私の目と唇を見ている。
「その病棟は、深昏睡の患者さんばかりで、病室のベッドで横たわる人達は、酸素マスクと点滴(てんてき)の管(くだ)とせンサーのコードを付けられて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取(せっしゅ)するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便(はいべん)、排尿(はいにょう)の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」
(違ったぁ! ホラー映画やスリラーゲームのステージになる、見捨てられた町の朽ち果てた病院みたいのじゃなくて、全然、煤(すす)や錆(さび)で汚れてない、真(ま)っ新(さら)に綺麗な病棟なの。そう、近未来的に多機能化されたシンプルで清潔な病室だよ)
「透明なスクリーンに仕切られた、真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾も無い、白色の病室で、明かりは、天井と床の四周の縁(へり)からの間接照明。空調は、天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄な空気が静かに吹き出して、床の四周の際(きわ)に有る、排気溝へ吸い込まれていくの」
 無菌室のレベルではないけれど、テレビのドキュメンタリーやテクノロジー番組で映(うつ)る工場のクリーンルームと同じような、無塵状態の管理がなされていると思った。
「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は集約されて、ナースステーションで集中管理しているんだよ。……何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が、実際に在るって思っていなかったから、ちょっと、信じられなかったわ……」
 全てのセンサーデーターと対応が、ナースステーションで一元管理されていた。
 プライベートな動きをする患者はいなくても、病室全体を二方向からと個人、個人の間近からも、CCDカメラでモニター監視が為されていた。
「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人、個人に合わせた調整をして維持させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで、生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なスクリーン内のモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態の維持が必要で、患者さんの反応が、全く無いんだから」
 エレベーターから降りてからは、ナースステーションを通り抜けないと病室への廊下には出られない。
 それに、病室エリアとナースステーションへ入るには、内部へ外部の汚れやダストを持ち込まないように、クリーンルーム用の帽子を被り、白衣のみたいな専用の上着を着て、そして、全身に圧搾空気を噴き付けられるエアーシャワールームを通らなければならなかった。
「もっとも、ほんの僅かでも、覚醒の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに、違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」
 はっきりとは知らないけれど、たぶん、身内の人が患者と間近で接する事ができるようになるのだと思う。でも、高齢の方は完全覚醒まで至らずに寿命を迎えるのが普通だと、見学後の噂で聞いた。
「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もう、トラウマになりそう!」
 父方も、母方も、祖父母に兄弟姉妹の親戚は、私が誕生して以来、全員が健在だ。
 これまで親しい友人や知人の、其の家族の訃報(ふほう)も知らされてはいない。
 だから私は、亡くなった人の肌の青白さや硬直の硬さを知らない。
「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で、考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体の成長の過程で、命と魂が宿るのか……、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体を成長する極初期の細胞が生成したり、分裂して増殖するどの過程で人間としての命と魂が宿るのか……、みたいな。……なあんてね」
 理論的には、魂と命は同義だ。
 科学的には発祥過程も、何故(なにゆえ)、肉体に宿るのかも不明だけれど、心と気持を司(つかさど)るのが脳の前頭葉だと解明されていて、外部からの電気信号で基本的な感情のコントロールが可能になっている。でも、五つのセンスが発生する要素やプロセスと、何故、六つ目のセンスが導けないのかは分っていない。そして、観念的に魂と命は別々に区別されていながらも、互いに深く関わっている。
「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」
(万物の真理は意外と偏ったモノかも知んないけど、不安や不穏な心の逃避に、身体を飛ばせはしないから、安心して)
「あはははは。うん。その方向には、行かないから大丈夫。安心していいよ」
(それに、ルート変更して逃げるのも、有りだしね。間違いもしちゃうけど、いつも、疲れ果てていようとも、苦しくても、辛くても、空虚で得体の知れない自由へは、飛びたくないねぇー)
 年齢、性別に関わらず、必ず迫り来る様々な試練の壁が在る。その最(さい)たる壁は長く、高く、広く、厚い。そして、乗り越えるたり、突き破ったりする困難さに自分の身体も、心も酷く痛んで泣き叫びたい。
 とても、辛くて、苦しくて何も食べられないのに、吐瀉(としゃ)を繰り返すくらい気持ち悪さが続き、遣る瀬無い惨めさに悩んだ果て、終(つい)に自ら己の命を絶ってでも、逃れて楽になりたいと思ってしまう。
 だけど、そんな、人生のサドンデスを実行しても、楽になったと知る事も、感じる事も無く。開放感も、爽快感(そうかいかん)も無く。最高に厭な局面を体現したままで、意識を消去した命は肉体を離れて行く。
(自らが、途中下車で人生を終わらせるくらいなら、やはり、在るか、無いか、分らない来世よりも、現世でリセットだよねー)
 幸せに満ち足りた時にも、瞳を照らす狭間(はざま)の光に誘われて、向こう側へ逝(い)ってしまいたくなるのも有るけれど、厭な現実から逃げたいだけの限りなく黒に近い灰色を漆黒(しっこく)にするのと、パステルカラーに導かれるままに真っ白や透明にするのとは、全然違う。
 ……なのだけど、どちらも其処で人生は途絶えて、それっきりだ。
(やっぱし、現世で、スターティング・オーヴァーしないと、楽しくないわね)
「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘には、絶対に係わらないように。君が、信じて頼れる存在は、此処にいるから。其処の処よろしく」
 彼の嬉しい言葉に、頼もしいと思う。
 彼は、私を信じて、私を守ってくれるし、必ず、私を助けに来て、私を絶対に救ってくれる。
「他にも、『魂とは、脳の思考(しこう)の根底なのだ』とか、『肉体の全機能停止の死が、命と魂を無に帰さす』とか、でも、『命と魂が同時には離れるのではない』とか、それに、『命と魂が別々に離れても、無にならないのかも』とか、考えてしまうの。然(しか)も、深昏睡の部屋の患者さん達は、まだ命が宿っていても、魂の抜(ぬ)け殻(がら)になった無機質の……、まるで、陶器(とうき)のような空(から)の入れ物を、整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」
 何かで読んだ天上界に在る、『ガフの部屋』の逆場面って感じが、見学した時にインスピレーションしていた。
 真っ白な空間に均等に区切られたトレーのような桝目(ますめ)が並んでいて、其の一つ、一つに天界へ戻される順番を待つ、長く生き続けた事で消耗して磨(す)り減(へ)り、微動の震えもしない無感動の疲弊(ひへい)し切った、小さな魂(たましい)が入れられているように思えた。
「その病棟を見てからは、それまでは、大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと、今年と来年の授業を受け続けるべきか、迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ、卒業できるんだけどね……」
 それは、たぶん、生理的に厭なんだと思う。
 志(こころざし)を貫(つらぬ)くのは普通に有りだけど、関わるにつれて肉体的や精神的に耐えられないのなら、仕方が無いでしょう。
(不安や不満のプレッシャーに耐え過ぎて、メンタルダメージを抱え込むのは、嫌だし……。だから、ルートチェンジをしてもいいじゃん)
「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」
(そうだよ。あなたに感化されて、見付けたはずだったのにな。意外と私、メンタルが弱かったみたいね)
「けっこう、真剣に悩んでいるんだ……。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に、それが、私の遣りたい事なのかも、分からなくなって来てるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも、相談していないし……」
 無機質な延命処置への生理的嫌悪は、愛する人の末期を延命するのと矛盾している。
(だけど、それはそれ、これはこれ。彼への愛は、私の生理的苦痛を凌駕しているのよ)
「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」
 流石に大学と病院は、そんな高度で倫理的な処置を医療の無資格者に……、例え、学校の実習授業でも、学生に行なわせる事は無い。
 見学は、一度だけと知らされていたし、私的にも、一度の訪問で充分だった。
「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が、最初で最後よ」
 ベッドに横たわる全ての患者が生かされているのだけど、全然、生物的にも、有機的にも、人だとは思えなくて、とても、無機質な印象だけが、今もイメージとして残っている。
(はっきり言って、気味の悪い異様な静寂と静止に、気分が悪くなったよ)
「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は、考え方の問題だけだ」
(そう、ないよ。あなたの言いたい事は分かるけど、これは、考え方じゃなくて、生理的な問題だね)
「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」
 見て、学んで、SF的再生を秘めた末期医療は、私の記憶層に埋め込むように摺り込まれてしまい、単純な異なる上書きでは、消えてくれそうに思えなかった。
「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない、病院や医療機関に就職すればいいじゃん」
(あなたの、……言う通りなんだけれどね。でも、違うの……)
「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」
 私の感性は普通じゃなくて、医療系に向いていないのかもと、深刻に悩んでいる。
「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングで、プロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安は、みんな同じで、いろいろ悩むのさ。実社会へ出てからも、様々な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い、早い、深い、浅いの程度の差が有るけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴うプロ意識を持って、仕事に従事しいるんだ」
(ああ、そうだった。彼は志を立てて働いていて、既に、仕事というモノを理解してるんだっけ)
「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないと思うから分からないけれど、君は、医療技師になって、医療以外にも、工学を学んでいて、機材や機器を扱うのだから、切った、縫ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……。言い方が良くないかな? 間違っていて、気を悪くしたら謝るよ」
 検査機器に、処方装置と有るけれど、いずれも、二次治療で処方判断を導いたデータや適切な数値で管理できる必要処置に使われ、設置や接続や入力のミスをしない限り、直接的な責任を問われる事はない。
「いいの、気を悪くしないから、続けて」
 彼が思っている通り、患者さんから聞こえて来る声は、信頼できるメッセンジャーに徹っして、直接的医療を支援担当する看護師へ伝えれば良いだけの事だ。
「それに、在学中に、いろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とか。卒業する時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか、警察関係も有りじゃん」
 高校生の時に私は、仕事への考えを彼から聞き、それを、体現している彼を知っているからこそ、自分の仕事への目標意識を持って、専攻課程の有る大学へ進学している。
 『目標は一つじゃなくて、選択肢を増やすのも、在学中にすべき事だろう』と、彼は言っている。
「そうかな?」
 彼を知らなかったら、進学を目標としただけで、普通高校を卒業して、自分探しや遣るべき事の見極めを理由に大学の四年間を過ごし、ただ、周りに流され続けて、玉の輿を求めた腰掛程度に就職した会社で、寿退社をするのかもね。
(……なあんて、これって、人生目標が専業主婦と育児だけって事ぉ?)
「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には、金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が、自分で判断して決めるしかないんだ」
(……そう、かもね)
 分ってる。
 チヤホヤされて慰(なぐさ)められたいのと、的確な指摘の導きが欲しい。だけど、現在と未来の構図を描いて幾つかの判断材料の助言を授(さず)かっても、最後に決断するのは、私自身だ。
「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる、君の正解なんだ」
(そうなんだけどね……、正確か、どうか、分かんないよ)
 でも、彼が、私を支えていてくれる限り、きっと、私の判断を正解にしてくれる。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」
 口では、『気がする』って、言っていたけれど、彼に話してみて、本当に気持が吹っ切れて晴れ晴れとしている。
 偏頭痛(へんずつう)がしなくなったように、肩凝(かたこ)りの痛みや強張(こわば)りが無くなったように、腰周りの鈍い痛みやしこりが消えたように、顔や手足の浮腫(むく)みが退(ひ)いたように、身体と気持が軽い。
「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」
(あなたで、良かった……)
 上辺だけのペラさは、全く感じない。
 厚く、重く、深くの印象が残るけれど、纏わり付きやプレッシャーじゃなくて、信じられる想いと頼もしさ、そして、彼の優しさが有った。
 私達が、同じ出来事に触れて、同じ感動や感情を感じて、それが、瞬間的なシンクロだけで持続しなくても、もう、私は疑わないし、迷わない。
「OK、勿論さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も、君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」
 思っていた通りの返事が返って来た。
「うん、支えてちょうだいね」
(私も、ずっと、あなたを支え続けるわ)
「ところで、臓器提供は、どうするの?」
 延命治療の果ての臓器や部位組織が、移植可能な状態か分らないけれど、そこそこ若くて健康な肉体の方が、事故や病気で亡くなったのなら、損傷の無い正常な器官は、全て移植提供できる。
「ん、それはして欲しい。使える部分は、全て提供してもらってくれ。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で、僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。……それは、……有りかな?」
 移植されて、何度も細胞の分裂や死滅や増殖を繰り返しても、彼の成分が、限りなく薄れて行くだけで、完全に置換されて消滅する事はない。
「そうね、有りかも」
 例えば、移植された臓器が心臓なら、生前の彼の鼓動の速度や強さや血液の送り量を憶えていて、彼と同じ心臓の動きと働きをしてくれるだろう。
 そうなれば、もし私が、移植された方の胸に耳を寄せて心音を聞けるのなら、きっと、私は彼を思い出して、生き続けている彼をイメージできると思う。
「私も、そうしてくれるの?」
(なら、其の永遠の生のイメージを、私にも、して欲しいかも……。あなたも、既に、私のモノではなくなった、私の心臓だった鼓動を聞いて、私を思い出してくれるのかしら……)
「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは、誰にも渡さない」
 彼は、私の臓器や生体組織の部位を、部品呼ばわりする。
(確(たし)かに、部品だけど、私を成仏(じょうぶつ)させないつもりなの?)
「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」
 身体の部位を、メンテナンスで交換できる部品のように、彼は言ってくれる。
(やっぱり、あなたは、いろいろとマニアックだね)
「君の亡骸(なきがら)は、僕が、手厚く葬(ほうむ)って弔(とむら)うんだから、勿体無(もったいな)いじゃないか」
(それって、私を骨まで、愛してくれるって事ぉ?)
「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか、弔うまでも、……そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」
 大事にされるのは、とても嬉しい。
 葬りは火葬だろうけど、弔いはマニアックな彼の事だから、燃え残った頭蓋骨から中学か高校の頃の私を復元するかも知れない……。
(御願いだから、そんなの絶対にしないでね。もし、復元なんてしたら、髪を伸ばし続けて、瞳は、あなたを探して見詰め、喜怒哀楽(きどあいらく)に変える表情と動く口は、笑ったり、泣いたり、話し掛けたりするかもだよ)
 そんなふうに、迷う私の魂が宿れば良いけれど、それも何か不気味で厭だ。でも、彼の言葉尻からしそうな気がする。
 匠(たくみ)な造形テクニックとセンスを持つ彼なら、何気に造りそうだと思う。
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 以前に、死ぬ事っていうか、死んでから行く所っていうか、そんな死と死後を考えたみた事が有った。
 死んで生体維持活動をしなくなった肉体は、肉屋で買って来て冷凍や冷蔵の保存をしない食肉材と同様に徐々に腐(くさ)って、異臭を放ちながら、ヌメヌメと溶け出す表面から直ぐに全体がドロドロになり、骨を残して溜まったヘドロのような腐敗物は、やがて乾燥して、干物(ひもの)や食べ滓(かす)のようなカサカサに朽ち果てるのは分かるのだけど、人格の意識や記憶を司っていた魂は死後にどうなるのだろうかと、自問が残った。
 延命治療は、家族や親戚からの希望、それに、医学倫理や研究都合で行なうのではなくて、本人の意思ならば、五感の感覚豊かな自分に戻りたい、もっと、元気で人生を楽しみたい、などの誰でも抱く生への執着が有るからだろう。
 それに、得体の知れない死への恐怖からが、一番大きいのに違いない。
 自分の死は、眠りに陥(おちい)る時のように、其の瞬間を自分で自覚できないし、知る事もできなくて、睡眠のような目覚めはなく、二度と瞳の虹彩(こうさい)に光りを宿す事はない。
 視覚的にはフェードアウトするみたいに、徐々に視界が暗くなって行って、全てが漆黒に埋もれて御仕舞いか、テレビやパソコンの画面が消えるように、プツンと突然に閉じて、真っ暗になって、それっきり。
 自分の人生は、其処で終焉を迎え、魂とか、心とか言われる自分の人格を形成していた意識は、リセットの為に霧散(むさん)消滅(しょうめつ)。
 死によって開放される記憶は、刹那(せつな)の時空を超えて、逆戻りの人生を見せながら消去されてしまう。
 例えば、どんなに死が刹那の瞬間でも、百歳の天寿(てんじゅ)で肉体が逝ったのなら、其の死が確定した魂の離れる一瞬の刹那に、百年間の人生の逆戻りを見せてくれる。
 それは、世間で真(まこと)しなやかに、走馬灯のようにとか、フラッシュバックとか、呼ばれている事なのかも知れないけれど、辛い事ばかりの悲しい人生であっても、嬉しさの多い幸せな人生であっても、散り死にする心に見せて欲しいと、私は願っている。
 其の逆戻りの間に、生きていた時には分からなかった全てを知り、自分を取り巻いていた全てに気付き、自分への人の思いを五感以上の感覚で感じて、三十三の真理を悟(さと)る。そして、魂は記憶の開放が終わると同時に浄化(じょうか)されるんだ。
 何故、真理を悟らなければならないかは、私が思うに、それ自体が、生で沁(し)み付いた穢(けが)れを払って無垢(むく)になるというか、浄化される事なのだろう。
 死んだ後は、どんな弔いでも、肉体組織は分子に分解されてしまい、重力に引かれる地球上の物質は有限だから、やがて、バラバラに多様な生物の一部として再生されて行く。
 高校生の頃、私は、『仏教の開祖、仏陀(ぶっだ)(目覚めた人)』という本を読んだ。
 其の本には、ゴーダマ・シッダッタはブラフマンに、『死は、肉体を失わすが、魂は、輪廻(りんね)転生(てんせい)して、現在、過去、未来の、全ての時空の生き物に宿る』の教えを説かれたと、書かれていて、其の意味を私は、魂は一つだけで、生命の根幹を成すモノだと考えた。
 生き物の行いや思考には因果(いんが)応報(おうほう)が付き纏うが、生き死は同じ魂だから、我欲の善や悪の持ち回りは無くて、無垢に生まれ、無垢になって死するのだと思った。
 善行の徳(とく)の積み重ねも、繰り返す悪行の罪(つみ)も、人生を生きる葛藤(かっとう)に過ぎない。
 もしも、パラレルワールドの平行世界が限り無く重なっていたとしても、其の全てのワールドで、魂は無限に転生し続けている。そして、其の魂は時空を超越して、たった一つだけなのだと、私は思う。
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(私のガフの部屋にも、あなたのガフの部屋にも、同じ魂が宿っているように思えるけれど、魂にとっては、違う場所と時間なの。だから、あなたは、私じゃないし、私も、あなたじゃないのよ)
 人格や認識や記憶は、ガフに部屋に宿った魂が、生きる過程で添付されるだけ。
 稀に、一部の消去ミスが有るかも知れないけれど、転生の際に持ち越す事はできない。
(ふうぅ~)
 こんなふうに死ぬ事を理解しようとした事を思い出すだけで、矢鱈(やたら)と頭が疲れてプスプスする。それに痺(しび)れてクラクラした。
 もしかして、死後を考える事はタブーな事で、それを、深く探求する思考にはロックが掛けられていて、それは、悟りの真理がキーと成って開放するのかも知れない。けれど、宗教家でも、禅僧(ぜんそう)でもない私は、彼との楽しい思い、嬉しい言葉一つで、直ぐに忘れてしまい、何かのついでに記憶の片隅(かたすみ)から、屁理屈や言い訳と説得の辻褄合わせに引っ張り出すくらいだろう。
 それに、私利私欲の因果応報塗(まみ)れの私に、真理は、彼への真心だけで充分でしょう。
「さぁ、そろそろ行きましょう。冷えて来た事だし」
 車内を温かくしたエアコンの微風と砂浜の歩きで汗ばむ身体をアイスクリームで冷(さ)ましたけれど、傾きを大きくした太陽は熱を弱めて海原を温められずに、冷えて行く大地といっしょに渡る潮風も冷たくさせて、撫でるように触れて行く、私の指先や頬や首筋に肌寒さを感じさせた。
「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」
 彼は手を私の手に重ねて、今日の日への別れと再会を約束する場所へと誘(いざな)う。
 私の冷たくなった手の甲に、しっかりと触れる彼の掌が、とても温かい。
「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」
 まだ、充分に余裕を持って小松空港へ着けそうだと思う。
「そうだな。温かい麺類ってのは、どうだろう? 僕は、カレー饂飩(うどん)にするよ」
 そう言った彼は、私の手を取って安全に長者屋敷跡から降ろしてくれると、そのまま手を繋いで、波打ち際近くの硬めな砂地を歩いて駐車場へと向かった。
(カレー饂飩って、それ絡みなの?)
「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦にするわね」
 普通に話す彼との会話が楽しい。
 斜陽の弱まる陽の光に熱が失われて行く砂を、足裏に冷たく感じながら、握る彼の掌の温かさが、私の悴(かじか)み始めた指先を穏やかに解(ほぐ)されるのを嬉しく思う。
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 北陸自動車道の片山津インターへ入る交差点を過ぎ、空港ターミナルへの分岐路が在る安宅の町へ至る直線道路の右手に、夕陽で赤く染められたゴルフ場の松林を見た時、唐突(とうとつ)に私は金石の砂丘で見ていた夕陽を思い出した。そして、それを実際の事実にする事に決めた。
「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」
 私の言葉を聞いた彼は、直ぐにSUV車を減速させながら答える。
「時間は、まだ余裕だよ。ん? 海岸って、浜辺へ?」
 左折して私の願いを聞き入れてくれる彼は、北陸自動車道の上を渡る陸橋を越えて下ると、護岸堤が左右に長く続く海岸縁まで行って、SUV車を停めた。
「そう、ここでいいわよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」
 夕闇の中、金石の町から帰るバスの最後部の端座席で眠り込んでしまった私が目覚めた時に、鼻腔の上側と目尻を刺す、辛いニンニク臭が多分に自分の吐く息にするのと、仄(ほの)かに美味なラーメンの味がする唇に、柔らかい何かを押し付けられた感触が残ってるのに気が付いた。
 高校一年生の春が終わる頃、彼のメールに誘われて金石の浜まで、部活のトレーニングでへたばる彼の姿を見に行った。
 あの時の彼との会合は、スカートの中を覗かれただけの一瞬くらいで済んでしまったが、其の後の真っ赤な夕陽が少しの翳(かげ)りも無く、水平線に沈む日没の美しさに見蕩れていた。更に、黄昏色の金石の町で異世界の狭間に入り込んだような不思議な体験もしていた。
「外へ出ましょう」
 夢見の良さを、現実で再現したい!
 リアルな夢の触感を現実で試したい!そして、夢の中と同じような私の胸の高まりと、熱くなる顔や首を感じたい!
 あの日、彼へ無関心でいられるように、綺麗な夕陽が沈んでしまった後、私は砂丘の上から夕暮れの黄昏(たそがれ)に抱かれる金石の町へ降りて行った。
 其の夜の就寝で見る夢は、テラテラと滑(ぬめ)るような真紅の水平線から異世界の金石の町へ行くストーリーだったはずなのに、そんなファンタジーとは全然違って、金石の砂丘の上に立つ私が、横に居る彼と優しく蕩けそうなキスをするリアルな夢だった。
 キスの夢は、金石から戻るバスの中で転寝(うたたね)した私が、同乗して来た彼に小突れて起こされた際に、唇に感じた感触の所為かも知れないと思うけれど、夢の中なのに覚醒しても唇に残る、其のリアルな感触は何日も消えてくれなかった。
 彼のマイナス面を見い出す為に、金石の町へ行ったのに、私は、私の中の彼への意識を大きくしてしまった。
「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」
 彼の腕に手を回して身体を寄り添わせる私は、驚きの躊躇いが半分、嬉しい喜びが半分の彼の横顔を見ながら思う。
 目覚めても、感触が残るリアルな夢見だとしても、既に、四年も過ぎた事だから大筋以外は思い違いが多く有ると思うけれど、夢の中で、私の横に居て心地好いキスの感触を残してくれたのは、確かに彼だった。
 全身を彼の方へ向き直すと、そっと、爪先立ちで背を伸ばす。それから私は、少し顎を上げると期待を込めて眼を閉じる。
 キスを求める私の唇に、彼の唇が触れるのを感じた。
 最初は、そっと軽く確かめるように彼の唇が触れ、次に、少し押し付けるように触れると、離れ際に私の結んだ唇が釣られて小さく開き、直ぐに触れ直した唇が、更に開かせて、彼の舌が入って来る。
(うぅ……、あぁ……)
 私を抱き留める彼の手が、仰(の)け反(ぞ)らないように首筋へ添えられて、彼の舌先が、私の舌の脇や裏を、口の天井や底を転がすように撫でて行く。
(なっ、なんか、てっ、手際がいいわ…… ね。ううん、気持いい……、あはぁ……)
 彼の舌を吸い、私の舌を絡ませると、彼も私の舌に吸い付き。舌を絡み返す。
 喘(あえ)ぎ始めた息に、私の胸と肩が振るえている。
 あのリアルなキスの夢は、其の後も何度か見ていた。
 どの夢も、キスの感触と気持の良さは同じだったけれど、其のリアルな夢のキス以上に、現実の彼のキスの、とろんとする心地好さに、薄く眼を開いて彼を見ると、彼が優しげな眼差しで私の瞳を見ていた。
(ずっと私を……、見てたの? 反応を……監察ぅ? ええっー?)
 彼に私の表情や身悶(みもだ)えの反応が観察されていた恥ずかしさに、耳の後ろや項まで熱くなって行く。
 私の薄目に気が付くと、私を見ていた眼が、微笑んでから閉じた。
 こんなにも心臓が高く、強く、速く、鼓動して、凄い勢いで血管を脈打たせながら、アドレナリンが全身を駆け巡っているはずなのに、興奮が激しくなるよりも、蕩ける意識に気を失いそう。
(ああっ! 大好きよ!)
身体の全てから、力が抜けて行きそう。
(彼の右手の一番長い中指を咥えたら、口の中の頬裏や天井や舌裏を、キュッ、キュッと、指先でなぞるように触れてくれて、其の擽ったさに身悶えしちゃうかもね?)
 過ぎる卑猥(ひわい)な想いに、股間が湿(しめ)るのが分った。
 瞬間、腰と膝の力が抜けて、キスをしたまま、カクンと小さくヨロけたのを、彼の私に廻した腕と手に力が入り、それ以上に、私がヨロけても大丈夫なように支えてくれる。そして、ゆっくりと、彼が唇を離して行く。
 戻る彼の舌と離れる唇に、全ての方向へ何処までも広がって仕舞うような気持の好さに、何も考えられずに、翔(と)び過ぎて召(め)さる寸前だった、魂と意識が戻って来た。
 立ち眠りの寝起きのようなフラ付く感覚に、思わず、彼の腕をしっかりと掴み直してしまう。
「うふっ、あそこも、こんな感じで、歩きたいわね」
 くらりと浮き上がるような気持にさせる、彼のキスから離れた上唇を噛む私は、心地好い気分のままに彼へ訊いた。
「あそこ? それって、どこ?」
 それは、まるで、奇蹟の出逢いのようで、私はデスティニーを感じてしまった。
「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔(ほとり)と、スペイン広場ね」
 中学二年生の三学期の家族旅行の時、地球を半周近く移動した場所で、彼と遭遇するなんて、全然、思いもしていなかった。
 湖畔の駐車場に入って来た大型観光バスの車窓に東洋人らしき人影が並び、日本人のツアーグループかもと見ていたら、降車する人達の最後の方に、彼が降りて来たのには、心底、驚いてしまった。まさか、知っている日本人がいて、しかも、日本の自宅にいて明日も通学するはずの彼だなんて、正に、超常的な現象的に、『なぜ、ここにいるのよ?!』だった。
 それまで、メールでからかう程度しか、他の男子より意識しなかったのが、三年生になってクラスが別々になったのに、私の目は彼を探していた。
「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私から、あなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたのかなぁーって。なんかぁ、遠出すると、気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから、尚更だったのよ。声を掛けて、何気に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも、良かったしね」
 別に海外じゃなくても、いつも生活している地域から遠く離れた場所で、偶然にも出遭えたなら、郷愁や旅愁や哀愁の憂いと寂しさに、違う場所の光と空気を添えた、愛おしさ、懐かしさの求める親しみが、私を打ち解けさせて、繋がり、傍に居いたいと思ってしまう。
「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にビックリして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」
 慣れ親しんだ御郷(おさと)に居た私は、開放的な気持に、立戸の浜では、おしゃべりで行動的だった。
 大桟橋へ行った日は、相模原まで会いに来てくれる彼が嬉しくて、私の気持は、ときめいていた。
 もし、コモ湖で触れ合いが有って、ミラノのホテルへ逢いに行っていたとしたら、それからは、彼に素直な私になれていただろうか?
「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって、旅行の初日(しょにち)だったんだから、意識しないわけないじゃん! 初めての海外旅行で興奮して眠れなかったし、あなたに遇(あ)ったのが、信じられないくらい、すっごくファンタジーだったから。……でもね、日本に帰ったら、直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」
 無口で無関心、否定と拒絶、見掛けの規則の遵守(じゅんしゅ)と僅かな模範意識、中学校や高校の閉鎖的ムードの限られた空間と時間の行動環境で、そんな毎日を過ごす私は、彼に好意を示されても、積極的に親しくできなかった。
「もっと、メールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」
 もし、あの時にあなたが、『イタリアにいて、ミラノのホテルに泊まっている』と、返信で知らせて来たなら、私は、お姉ちゃんと、あなたが居るホテルへ会いに行っていたかも知れない。
「まさか、スペイン広場でも遇っていたなんて、思いもしなかったわ」
 広場に面する土産雑貨屋のショーウインドー越しに、私の一挙一動を、彼に見られていた。
 何度も手に取って迷った末に諦めていたモノを、彼は、終業式の日に私の机の中へ入れてプレゼントしてくれた。
 不審な物かも知れないと、怖々(こわごわ)、暖かい色調の包みを解(と)いた後の驚きは、其の後に体験した幾つもの彼への驚きの始まりだった。
「あのね、予感はしてたんだ」
 初めて、あなたと話した小学六年生の時から意識していて、いつかは、今日の私のように成れればって思っていた。
 それなのに、私の仕様も無い拘りと、気紛(きまぐ)れと、語弊(ごへい)が有るかも知れない高望みで、彼の大切さを含めて認める事が出来ずにいた。
「……予感?」
 終業式の日のプレゼントからは、それまでは、掠(かす)れ掠れの殆ど透明に見えていて認めたくなかった糸が、くっきりと赤く見えたような気がした。
 其の赤い糸を視線で手繰(たぐ)る果てに、廊下で私を見ている彼がいた。
「そう、きっといつか、私は、あなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」
 以後、事有る毎(ごと)に、彼への驚きが糸の赤色を濃く鮮やかにさせて行くのを分っていたけれど、ベストを求める私の気持が、気付きたくないと反発していた。
(嫌いじゃないけど、好みじゃない ……みたいな。別に好きな男子はいないけど、好きでもない男子から告白されるのは、キモくてウザいみたいな……。ちょっと酷いかも知んないけど、そんな感じだったかな)
「あっ、その笑顔は、いただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいと思っているよ」
 別に脳の記憶中枢にメモリーしなくても、写真を撮ればいいのにと思う。
 そうすれば、今、彼に見せている『凄く好い笑顔』を、私もチェックできる。
 それが、私らしい納得できる笑顔だったら、私も欲しいし、彼の携帯電話の待ち受け画面にも使って欲しい。
(……もしかして、以前……、あなたに、私の写真を撮らないでって、言ったかしら?)
 敢えて、私から写真撮影を提案しない。
(うーん、ずっと以前に、告白された頃に伝えたかも、知れないなぁ……。まあ……、これからは、互いの写真を撮る機会が、幾らでも有るでしょう。あなたが撮るのを躊躇するなら、私から積極的に撮ってあげるね)
「紅く染まってって、それ、酔っ払いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」
 言ってしまってから、私は『酔うと、笑い易くなるタチだったかな?』と、自問する。
(あはっ、素面(しらふ)でも、酔っ払っても、笑えるような楽しい気分でいさせてくれるというのは、嬉しいな)
「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。ホントに違うし。マジで今日を連想する笑顔だよ」
 彼が私を笑顔でいさせてくれるのなら、私は嬉しく笑う明るさと穏やかさで、彼を癒(いや)して楽しい気分にしてあげていたい。
「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」
(そう、あなたの笑顔も、私を癒してくれているのよ)
 無警戒に笑う彼に、これからは、これまでのような戸惑いや不安な顔をさせないようにしなくてはと、私は心に強く誓う。
 互いの心のケアをして、安らぎと復活のモチベーションを得られなければ、互いを求め合う意味が無いと、楽しく思いながら、金波銀波に輝く海原から視線を流して彼を見たら、彼は、じーっと私を見ていた。
(えっ?)
 パチッパチッと、瞼が勝手に瞬きを繰り返す。
「何見てんの?」
 訊きながら、彼へ顔を向けて訝(いぶか)かしむ。
「顔に、何か書かれている……、そんなワケないよね。で、何か付いてるの?」
(微妙に動く表情から、私の喜怒哀楽を読み取っていたの? ……そんな筈、……ないよね)
「あっ、気に障(さわ)ったのなら、ごめん。……何も付いていないよ。……いつも、君が微笑(ほほえ)んでいるように見えるのは、何故だろうって思っていたんだ……。この近さなら、そうは思えないけど、少し離れると優しい顔に見えて ずっと不思議だったんだ。それで、見てた」
 真正面や間近では真顔に見えていても、少し離れた斜め前からは優しく微笑んで見えるらしく、目が合った知らない人から、笑顔で御辞儀(おじぎ)される事が、時々有る。
 意地の悪い人や感じの悪い人からは、『あんた、何、ニヤついてんのよ! 真面目に聞けよ!』なんて、注意された事も有った。
 不躾や不謹慎のモラルハザードを無自覚なら、当たり前に注意すべきだけど、病気や生まれ付きの障害での体の揺すりや異形を、理由知らずで指摘するのは、それこそ、モラルハザードでしょう。
(そんな無礼な人は、何処の組織や単位集団でも、少なからず存在するよね)
「ああん! 何か、妖怪っぽい言われようだけど、やっぱり、あなたにも、そう見えていたんだぁ」
(近付いて行くと数が変るオバケ煙突のようなイメージだけど、優しい女性に見えるのなら許してあげよう)
「よく言われるよ。何が可笑しいんだってね。笑っちゃいないのに、失礼しちゃうよね」
(全く嫌な感じだ! 笑ってないっちゅうねん! 本当に失礼しちゃうわ!)
 姉からも似たような事を言われていたから、彼の分析を続けて訊いてみる。
「それで、何故か分かったのかな?」
 美的センスが有って、描くのも、造形するのも得意な彼なら、私の顔の何処かに有る笑って見える部分を、具体的に示してくれそうだ。
「うん、口角が下がっていなくて真っ直ぐなんだ。それに、上唇の中央が上がっていないね。プリッとした感じの、厚からず、薄からずでさ」
(気難しいムッツリしたようにも、自己中の我が儘っぽいのにも、生意気そうなのにも見えなくて、キリッとした真面目さにセクシーが宿るみたいな……、んん……、ちょっと、恥ずかしいかも……)
「そう、それだけで、笑っている様に見えるのかしら?」
 姉は、私の唇が魅力的だなんて言っていなくて、具体的な部分も見分けできないみたいだったけれど、 『不思議な顔立ち』と言っていた。
(不思議とはねぇ……。何処かの異世界人みたいな表現に失礼だと右眉の端が上がったけれど、姉だから許してやった)
「いや、顔全体の作りが、優しい配置なんだと思う」
(部分的じゃなくて、全体なの? 一、二箇所の美容整形だけじゃ、真剣顔を標準装備できそうもないわね)
「……作り? ……配置?」
(良い意味に理解すれば、大らかで、落ち着いていて、穏やかな、光に包まれて…… みたいな、天使の感じかな?)
「たぶん……」
(これからの私は、きっと優しいよ。……たぶんね)
「あなたは、私が優しいと思う? 外見じゃなくて……」
 メールでは誠実だったけれど、リアルでは冷淡な無関心を装っていて、優しさを見せたのが中学二年生でのコーラス祭と高校二年生のバス事故でのエスケープに、高校三年の夏の立戸の浜だけ……。
 『他にも、あからさまに優しくした事が有ったっけ?』と考えたけれど、忘れて仕舞っているのか、浮かばなかった。
(でも、まあ、今日の私は、絶対に優しかったでしょう!)
「きっと……。そう、絶対に……。そうだと、信じたい!」
 少しはイジメに来るかなって思ってのに、リップサービスのような言葉で、彼は、素直さと優しさを私に期待している。
「あはははっ! そうね、今まで通りに、あなたへは優しくしているわ」
 其のつもりなんだけど、照れ臭いので、意味深に答えてあげた。
(そうよ。これまでのように、思いっ切り優しくするわ)
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 小松空港のカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナルビル二階の飲食店の並びで、彼は、私の得意なカレー饂飩をオーダーして、私は、温かい鴨南蛮の蕎麦を食べた。
 それから、売店で明日の朝御飯用の空弁(そらべん)と自分用の土産を買った後、お別れのキスを私から求めてフロアの柱の影でした。
 うっとりする舌の絡みと愛しい唇の感触、そして、彼は深く腕を廻して、胸を締め付けるように私を抱いて来る。
「うっ、いっ、痛いよ。息が止まっちゃうよぅ」
 痛いくらいに、私を強く抱き締める彼の気持ちは解っている。
 これまで私は、冷たい態度と文の中に僅かな優しさを付け加えたり、あからさまに期待させる親し気な行動をしたり、嬉がられる言葉を言ったりして来て、そして、それらを全て覆(くつがえ)していた。
 今日は、それを更に、其の『金輪際(こんりんざい)の縁切り』を卓袱台(ちゃぶだい)返(がえ)ししている。
 私は気付いていた。
 こんなに素っ裸に私を素直に晒(さら)して、心の底の隅々まで気持を吐露(とろ)しても、彼は、今日の私が儚(はかな)い夢のように霧散(むさん)しないか、怖がっていた。
 彼は、今日の私が幻になるかも知れないと、覚悟しているように思えた。
 それは、私が抱(いだ)く、電話の女性への不安感や、いつの日か、思い出話しで言えそうな、中学校でのクラスメイトの女子達と楽しく下校する、彼の姿への裏切られ感や、弓道のファンだと思う女子高生といっしょに浅野川縁(あさのがわべり)や片町のアーケードを歩く、彼の嬉しそうな態度へのジェラシーよりも深刻で、ピンポイントな強い恐れだと知った。
(ごめんね。ずっと、ずっと気付けなくて。……あなたは、私と別れる度に、こうして私を引き止めていたかったんだ……)
「あっ、ごっ、ごめん」
 彼が不安顔で謝るのを見ながら、私こそ、彼に謝りたいと思う。
(少し、痛かったけれど、息が止まるくらいに抱き締められるのも、……あなたなら嫌じゃないよ)
「ううん。でも、嬉しい」
 腕から彼女を抱き締めた感触が消えてしまわないように、僕は、そっと彼女を放す。
「君は、君の心から美しく輝いて、僕は眩しく感じているよ」
 彼女を放す際に添えた僕の賛辞に、彼女は顔を傾げた。
「なに、それ? あなたから、……私って、そんなに綺麗に見えてるの? お世辞でしょ? 上げ過ぎよ!」
 真面目に怒り顔をする彼女の目が笑っている。
 真剣な顔で怒る顔は美しいと思う。
 嫌がる顔や痛がる顔は、可愛いとおもっている。
 悩む顔や苦しむ顔は、切なくて愛しくなってしまう。そして、笑った顔は最高だ!
「そうだよ。外見だけじゃない美しさの事だよ……。君のような美しさの輝きを放つ人は、美しく輝くように努力する自分を知るけれど、自分以外から……、つまり、僕から見た君の美しさは、君には良く分らないものさ」
 特別、綺麗でも、可愛くも無い自分の顔だけれど、明るく優しい表情と性格に見えて、男性に好かれ易いのは自覚している。
それは、私の内面が外見に滲み出ているというなら、彼も同じでしょう。
「それなら、あなたの素敵さも同じよ。あなたは、もっと自信を持っても良いと思うわ。でも、驕ったり、威張ったり、しないでね」
 彼が、女子達と下校したのも、ファンの子に誘われて買い物に付き合っていたのも、一番の原因は、私に有ったと思う。
「部屋に着いたら、連絡するね」
 金沢神社では、高校入試の合格願掛けの絵馬を掛ける彼を見ていた。
 通学のバス事故の日は、怪我の痛みを我慢して連れ回されてくれた彼の乗ったタクシーを見えなくなるまで見送っていた。
 彼が明千寺へ来てくれた時には、帰りに立戸の浜から穴水町の南外れの交差点まで見送ってあげた。なのに、私の気紛れで、気分屋で、利己的な思いで、相模大野の駅前でV-MAXを運転して帰る、怪我人の彼を冷たく見送っただけで、彼が無事に帰ったのか、どうかの確認を、メールでも、電話でも、私からはしていなかった。
「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」
(気を付けるけど、迷子ってなによ! いつも迷子になっていたのは、あなたの方でしょう)
 言い返したい気分になりながらも、今はもう、既に、心も、身体も、強く彼と繋がっていて、彼は私のモノだし、私も彼のモノなのだと、耳の奥に残る彼のジョークに、そう感じている。
 今日からは、スターティング・オーヴァー。
 未来は、ハッピーエンドへ書き変えて行けると思う。
 そう出来ると、私は強く信じている。
 小松空港のセキュリティーゲートで、彼に見送られて飛行機に乗った。
 機内のシートに座ると、身体が小さく震え出した。
 気持ちが受け入れて心が解き放されても、私の身体が理解していない。
 羽田空港に着くまでの短いフライト時間では、十分に想いの整理ができなかった。
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 柱の影でのキスの後、搭乗直前の小松空港で、私は彼に、『これからも、私を好きでいてくれる』覚悟を訊いた。
「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも、相談できて良かった」
 見送ってくれる彼の顔が、優しくて嬉しい。
「礼を言うのは、僕の方だ。僕こそ、君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて、最高に嬉しいよ。迷いの相談もな。僕の方こそ、凄っごく感謝している」
(そんな事はないよ。私の素直な想いだから、感謝なんてしないで)
「そして……」
 また、私が突然に心変わりを見せるかも知れないと、不安に思う彼に、私を疑わせずに安心させなければいけない。
「……そして、私を、ずっと、彼女にする覚悟は、有るの?」
 言っている途中から、上半身が上気(じょうき)して来た。
 耳と首の後ろが痛いように熱く感じて、自分の顔が火照っているのが分る。
 高鳴る鼓動に、気道が詰まったように息苦しく、喘ぐ胸が大きく上下していた。
 キスから先の肉体関係を持ち、彼と同棲(どうせい)でも構わないからいっしょに暮らして、私と結婚する気が有るのかと、私から彼に訊いていた。
 私は、彼の子供を産んで、二人で子育てをする。
彼と其の覚悟を、彼に問うている。
 さっきまで、互いの人生の終末を看取るような会話は、あなたと添い遂げるという事なのに、いざ、言葉にすると、私から先に迫った事が凄く恥ずかしくなって来た。
「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」
 ……金沢へ戻って来たのは、父親の仕事を継ぐ為だけだとは限らない。
 一瞬の理解への導きと、刹那(せつな)の躊躇いに、即答に近い返事の言葉が、彼から発せられようとしている。
 彼の言葉には、彼自身が微塵にも考えてもいない、『都合の良い女』を、無意識下に滲ませて来るかも知れないない。
(絶対に、そんな事を考えていないだろうが、……私は気付きたくないし、タイムリーな女と思われるのは、厭だ!)
 だから、今じゃなくて、互いが離れた場所で、少し時間を置いてから、聞きたいと思う。
「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。其の時までに良く考えてね。ふふっ」
 彼が今、答える言葉は決まっている……。
 今日の偶然の出逢いと其の後の流れで、心地好い返事を彼は言ってくれると思う。でも、今までの私達と私達のこれからを、本当に良く考えて判断してから選んで欲しいと強く望みたい。
 何度か、心通わせて寄り添う機会が有ったが、それを悉(ことごと)く無碍(むげ)にして来たのは、私だ。
 永遠の別れを断言する私を罵倒(ばとう)した、彼が送り寄越した文字の羅列(られつ)の愚かさを差っ引いても、そうなるように仕向けていた私に、圧倒的な非が有ると思う。
 それでも、今日の私と過去の鑑(かんが)みて、客観的で冷静に彼が私の事を考える日々を経てから、私が望む理想の言葉で答えて欲しい。
(しかし、そうではなくて、拒否られちゃったら、……人間を辞めてしまいたいくらい悩んじゃって、泣き喚いてしまうよ。そして生涯……、愚かな自分を呪い続けちゃうかもね。……でも、仕様が無いよね。それくらい動揺しても、私は潔く、あなたを諦めてあげるわ……)
     *
 羽田空港から幾つもの電車を乗り継いで、もう直ぐ日付が変わる頃に、やっと、相模原市で借りているハイツの部屋に着いた。
 荷物を床へ置き、脱いだコートをハンガーに掛け、ベッドに腰掛けてエアコンをオンにする。
 エアコンのシロッコファンから送り出された温かい風が髪を戦がすのを感じながら、携帯電話を悴(かじか)んだ手に取り、交換した彼の電話番号を電話帳リストから探した。
 部屋へ無事に着いた事を知らせる為に、ときめく今日の出来事を思い出す為に、そして、これからの私達の事を話す為に、まだ、少し震える指で携帯電話のタッチパネルに触れる。
 三度、指先が軽いタッチをして、パネルに彼の携帯電話番号を表示させて行く。
 ベッドに寝転び、机の隅の置かれた西洋城館のミニチュアを眺めながら、彼を呼び出すコール音を聞く。
 もう、メールはしない。
 彼の声を聞く為に、私は電話を掛ける。
 城館の上に林立して翻(ひるがえ)る旗の半分ほどが、折られている。
 抑え切れない苛立ちや遣り切れない不満の度に、私が折ってきた。
 折った旗は、机の引出しに残して有る。
(そうだ! この旗達を、彼に直して貰おう)
 何か特別な事を閃いた気分になり、もっと、良く近くでミニチュアを見ようとベッドから起き掛けた、其の時。
 携帯電話のスピーカーから聞こえていたコール音が消えて、彼との通話の始まりを知らせる。
『ガリッ!ボフッ!』
 スピーカーから、掴み損(そこ)ねた電話機を急いで持ち直したような音と、更に、安堵からか、緊張からなのか、短く溜め息を吹き掛けたみたいな音がする。
「もっ……、もしもし……」
 続いて私の耳に、躊躇い勝ちに……、でも、明るい彼の声が聞こえた。
 私から呼び掛ける前に彼が発した、其の明るい声に、私は思う。
(これからは、彼と様々な事を話し、二人で多くの場所へ行き、いっしょに色々な事をしよう。もっと、もっと、彼を好きになれるように!)
「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」
 もう、彼のコールを冷酷に拒絶はしない。
 そう、彼の言葉や文字は、いつも、制限時間付きみたいな私の悩みや迷いや憂いを、優しい待ち時間に変えてくれていた。
(彼が望み、私が求めた、二人の未来は、希望と安らぎの眩しい光に溢れさせて遣る!)
 素直に嬉しい気持ちのまま、楽しく弾む明るい声で優しく返そうと吸い込む私の息に、ほんのり桜の匂いがした。
「けっ、けっ、結婚して下さい!」
(ううぅ、この……、深夜のシチュエーションで、正式なプロポーズをして来るかなぁ? それに、まだ今日を延長しそうな時間だよ。次に会う時でいいって言ったのに……、こんなに早く結論を出して、私が望んでいた理想の返事を、あなたは、もうしてもいいの?)
 突然の予期しない彼の言葉は、それを求めていたのにも関わらず、私を戸惑わせた。
(もっとこう、気持を昂(たかぶ)らせて行って、添え物のプレゼントが有って、貰って。なんか、ドッキン、ドッキンと、全身が悪寒で震えるくらいに響く、サプライズみたいなのを、晴れ渡る明るい青空に桜の花弁が舞う中でしてくれる、みたいなのを想像していたのにさ……)
 そんな、『こうじゃなくてぇ』と、否定的な事を思いながらも、視界が滲み、眼から溢れる泪が頬に温かく流れて、幾つも、ポロポロと涙の粒が落ちているのに、私は気付いている。
(でも、これも、……夜桜咲く、綺麗なミッドナイトブルーの、嬉しいサプライズだねぇ)
 私の涙腺が、無自覚に彼の声に答えている。
「うん。……はい!」
 涙腺に続いて、勝手に返事をした声を強く言い直した。
「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」
 涙が止まらない。
 流れ出そうな鼻を啜りながら、鼻声でも、はっきりと、私からもプロポーズする。
「はい! 謹(つつし)んで、喜んで受け賜(たまわ)ります!」
 彼の嬉しさが伝わる、大きな声の語尾が、鼻声になった。
(あっ、あっちゃあ! 電話越しのプロポーズを、即答で御受けしちゃったよぉ! しかも、電話越しに私からも返しの御願いをしちゃって、彼も即答で受けてくれて、再確認はOKだよ! もう、無かった事にならないよねぇ。……うっ、うっ、ううっ、嬉しい……、ああん、嬉しいよぉ……。あん、あん、あーん)
 彼も、私も、感無量の喜びで泣いている。
「嬉しい。凄く、嬉しい!」
 自分でも可笑しくて笑っちゃうほど、涙と鼻水が止まらない。
(彼は、もう、私を疑わない!私は、もう、迷わない!)
「僕もだよ! この嬉しさを、ズズッ、君に、何て伝えよう? ……心から愛しています」
(愛の誓いだ!)
 指輪の枷(かせ)を互いに嵌(は)める時のような、心に染み入る言葉を言う彼の声も、鼻声が酷くなっている。
「私も、あなたを、心から愛しています。……うふ、もっと、言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」
 私も、愛の誓いを言う。
 この後に続くのが、昼間の、『死が二人を別つまで』だ。
「ああ、そうだね。もっと、言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」
 話す彼を遮って、ワザと言わせなかった言葉なのに、サプライズで言われた所為か、其の言葉を聞いてしまうと、彼の言葉は思いもせず、ずっと、深く私の中に入って来て、予想していた以上に、私を感動させてしまう。
(もう、ウルウルどころか、ポロポロだよ……)
「……泣いているよ。私……」
 そう自覚してしまうと、更にブワッと溢れて、頬が零れ流れる涙で熱くなる。
 中学二年生での彼の告白は、ストーカーっぽい無記名のメール文だった。
 今のプロポーズは、彼だと分かっている電話の声だ。
 きっと彼は、次に会う時に改めて、プロポーズを決めて来るでしょう。
(あなたはしっかりと、あなたが映る私の瞳を見て言葉を言い、私は、ちゃんと私が映るあなたの瞳を見て、あなたの言葉を、受けてあげるわ)
「うん、愚図(ぐず)る声で分かるよ。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」
(なっ、なにぉう。愚図って鼻声じゃないし、風邪も引いていないし。今の私の声は、ぐちゃぐちゃな泣き声じゃん!)
「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」
 彼が風邪を引いていないのも、冗談を言っているのも分かっている。
 もう少し、シリアスでいて欲しいとも思ったけれど、彼の涙声が嬉しくて楽しい。
 そして私は、とても、幸せな気持になっていると思う。
「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」
 彼が笑いながら、謝罪と感謝の言葉を言って、私も御礼の言葉を返す。
「私こそ、ありがとう」
(私は、あなたと添い遂げます)
 同じ言葉に、同じ気持。
 彼も、私も、互いを疑わない。
 迷いも、不安も無い。
 今度こそ、はっきりと私達には分った。
 金沢と相模原に、二人は遠く隔てられているけれど、しっかりと、二人の言葉と心は繋がっている。
 この後は、欠伸(あくび)が出て『おやすみなさい』を告げるまで、幸せな気持に満たされた長電話をしてから、火照る身体を冷まさないように温かい御風呂に入って、今日を反芻する。そして、幸せ豊かな心で安らぎの眠りにつくでしょう。
(あなたの夢が、見たいなぁ。ずうっと、見れるといいなぁ)
 そう考えていたら、彼から就寝(しゅうしん)のメールが届いた。
「これから、寝る前に御風呂(おふろ)に入るんだろう? こんな遅い時間だから、湯船(ゆぶね)で寝ないように、気を付けてね。それじゃあ、また明日。おやすみぃ」
(あら、あらあら、もう、寝ちゃうんだぁ……。仕様が無いなあ)
 ちょっと不満に思ったけれど、彼には『朝から仕事が有るんだっけ』と思い直した。
「うん、ありがとう。また明日ね。おやすみなさい」

 

 私 完