遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

桜の匂い (私 大学三年生)桜の匂い 第十章 壱

 いつか使いたくてウズウズしていたスタンガンを、勢(いきお)いに任(まか)せて思いっ切り電撃させまくった『危(あや)うし乙女(おとめ)の夜』以来、私の苛付(いらつ)いた気分は無くなった。スタンガンは今も催涙(さいるい)スプレーやフォールディングナイフと共に、バックの底に入っているけど、あれから一度も使っていない。

     *

 明日は、落とせない大学の授業があるから、どうしても今夜の飛行機で金沢(かなざわ)市から相模原(さがみはら)市へ戻(もど)らなければならない。それは学業として大事な授業だけど、大学の敷地内に在る付属病院で、先日、偶然(ぐうぜん)に見掛けた事象(じしょう)が自分の将来に不安と迷(まよ)いを持たせて、医療(いりょう)技師(ぎし)の仕事の魅力(みりょく)を急速に失(うしな)いつつあった。

 最初それは、噯(おくび)が出るような軽い不快(ふかい)感で、私は敢(あ)えて気に留(と)めないようにしていた。だけど意識して忘(わす)れようとすればするほど、目に焼き付いた場面が思い出されて圧迫(あっぱく)されるようなムカつきを感じた。日が経(た)つに連れてムカ付く気持ち悪さは酷(ひど)くなり、今では思い出すだけで、吐(は)きそうになるくらい嫌悪(けんお)している。

 スタンガンで始末(しまつ)したファーストキスのザラつきとは異質に違う。排除(はいじょ)した卑劣(ひれつ)な先輩のとは違う意味の嫌悪感に私は悩(なや)まされていた。でも、この迷いも、悩(なや)みも、彼なら救(すく)ってくれると思う。

(あなたは、私の守護神(しゅごしん)でしょう。私を助けて……)

 それよりも、まだ彼と出逢(であ)えていなかった。予感は有るのだけど見付けられない。学業の悩みなどよりも、今の、私の最優先事項は彼を探(さが)して出逢う事だ!

 いつも、いつの間にか、無意識の内に私は彼を探している。相模原でも、横浜(よこはま)でも、そして今、金沢でも……。通り一つ一つで、角(かど)を曲がる度(たび)にも、いるはずがないと分かっていても、もしかしてと思いながら彼を探していた。視線の配(くば)りが、焦点(しょうてん)の合わせが、自然と彼を捜(さが)していた。

     *

 以前、前まで行った事が有る彼の金沢市の住所を再(ふたた)び年末に行ってみたけれど、もうそこには、私の覚(おぼ)えていた入母屋(いりもや)造(づく)りの家は何処(どこ)にも無くて、違う苗字(みょうじ)の表札で真新しい洋風の家が建(た)っていた。彼の家族は去年に引っ越していて、その新築の家の人に行方(ゆくえ)を訊(たず)ねてみたが、転居先どころか以前の土地所有者の名前さえ知らない無関心さに、何だか虚(むな)しくて切(せつ)ないセンチメンタルな気持ちになってしまう。

 私も同じだ。他人をロストするのも自分をドロップアウトするのも、またその逆(ぎゃく)も簡単な事だ。私は彼をワザとロストして、携帯電話内の登録リスとから彼の電話番号とメールアドレスを消去(しょうきょ)した。彼とのメールの遣(や)り取りの全(すべ)てをメモリーから消し去った。掛けない電話番号にいちいち打ち込まないメールアドレスなんか記憶しているはずもなく、削除(さくじょ)したメールアドレスに違法なGPSサーチでも居場所を探る事はできない。

 彼と全然関係の無い人達が住む真新しい家を見ながら思う。以前、彼はこの場所に住んでいて、ここから毎朝、私と同じバスに乗り込んで来た。明千寺(みょうせんじ)へもここから来たのだ。

(彼はここで、どんな暮(く)らしをしていたのだろう? 何を考え、どんな思いで毎日通学していたのだろう?)

 私は過去の記憶へ想いを馳(は)せる。だけど、もう彼はここにいない。自分の感情に素直(すなお)になって気持ちを受け入れ、初めて彼の住まいを訪ねると、既(すで)に彼も、彼の家族もいなくて、家すらも無くなっていた。現実は厳(きび)しく、決(けっ)して思い通りにさせてくれない。

 私は彼を意識していたけれど、ワザと私の中で重要な位置付けへ置いていなかった。私は気持の中で彼に好意を持つ事を否定(ひてい)していたから、携帯電話番号も携帯メールアドレスも暗記(あんき)していないし、メモすらもしていなかった。

(彼を失ったのは、自業自得(じごうじとく)だ!)

 年明け早々(そうそう)に、うろ覚えの彼のメール内容から静岡市の会社をインターネットで探し出して連絡をしてみた。彼について分かったのは年末に一身上(いっしんじょう)の理由で退職した事だった。

 退職後の消息(しょうそく)は、『たぶん金沢に帰って、お父さんの仕事を、お手伝いしていると思います』と、応対の電話に出た女性が話してくれた。

 そして、私が誰(だれ)なのか確信しているように、『あの人を、大切にしてあげて下さい』と言って、彼の電話番号を訊(き)く間も無く、一方的に電話を切られた。

(ちょっとぉ、この女なに? あの人? 彼の事情に詳(くわ)しいじゃん! 彼と、どういう関係なの? 感じ悪(わる)!)

『あの人を……』、彼を示(しめ)す、その言い方が気に障(さわ)り、私をザワつかす。

(電話の応対に出た女性は、彼と親しい間柄(あいだがら)だった? ……のかも知れない)

 私の女の感が、彼とはただならぬ関係だったと悟(さと)らせた。言葉から関係が過去形だと伺(うかが)い知れて、それに、私へ譲(ゆず)ったかのように彼を御願(おねが)いしていた。しかも、自分から身を退(ひ)いたような言い方だった。それを問い質(ただ)そうとして、携帯電話画面のリダイアルアイコンに触(ふ)れたけれど、思い直してキャンセルを押(お)す。

(彼に訊けばいい。彼を見付け出したら、問い質して遣ろう)

     *

 彼と連絡を取ろうとした電話の応対で出た女性は、彼の呪詛(じゅそ)がかった酷い中傷(ちゅうしょう)と侮蔑(ぶべつ)のメール『酷い目に遭(あ)わされて棄(す)てられるさ。その時になってから、僕を振った事を後悔しても遅(おそ)いぞ!』と共に、彼を探し出そうとするモチベーションになった。

『彼は金沢へ帰った』と、電話応対の女は言っていた。

 だけど今まで、本当に彼が金沢市に戻っているのか確信を持てなかった。でも今日は不思議(ふしぎ)だけど彼の気配を感じて、出逢える予感がしている。

 満開の桜の中、彼が興味を持っていた金沢城内を巡(めぐ)り歩いてから二十一世紀美術館内の白いカフェへ来た。いつか金沢城の門や櫓(やぐら)のミニチュアを作りたいと彼は言っていた。私が折(お)った流れ旗はそのままに、相模原の部屋で埃(ほこり)を被(かぶ)る西洋城館のミニチュアを思い出す。捨(す)て切れなかった彼の作品。

 あの日、彼と来たカフェの同じ席に着き、あの日と同じプレートをオーダーする。熱いクリームスープが絡(から)んだブリオッシュを口に運びながら、向かいの席に座っていた伏せ目勝ちの彼を思い出してしまう。

『普通に、しゃべれるんだね』

 この私の不用意な一言で急に彼の眼(め)が泳(およ)いで無口になり、背中の痛みの所為(せい)も有ったと思うけれど、オーダーした料理に彼は殆(ほとん)ど手を付けてくれなかった。その後も空の珈琲(コーヒー)カップを握(にぎ)り続ける彼の俯(うつむ)く顔の瞳(ひとみ)を思い出す。やはり無神経な一言だった。

 春だというのに暗(くら)くどんより曇(くも)った空の下、二十一世紀美術館を出た途端(とたん)、湿(しめ)り気と冷気を帯びた風が身体に纏(まと)わり付く冷たさに、私はブルっと震(ふる)えた。

 白いカフェで温(あたた)かいカフェ・オ・レを飲んだばかりだというのに、二十一世紀美術館前に出店していた小型のワンボックスカーの移動カフェで再び暖(だん)を取る。

 逢いたいくせに、会いに来たと知られたくない。出会うべくしての出会いじゃなくて、偶然ばったり逢うのが爽(さわ)やかでいい。探していたなんて知られたくない。温かい豆乳カフェキャラメルを飲みながら巡らした想いで気持ちが塞(ふさ)ぎ沈んでしまう。そんな私の気持ちを暖(あたた)めるかのように陽射しが照(て)り付け始めた。

 見上げると雲が千切(ちぎ)れて疎(まば)らになった空に澄(す)んだ青色が広がっていた。大気が動き出している。辺(あた)りの景色(けしき)が一変に明るくなって、暖められた優(やさ)しい風が春の麗(うら)らかさを乗せて来て頬を擽(くすぐ)る。風が変わった。この感じ……、予感が広がって行く。春風は冷気を吹き払いながら、片町(かたまち)や香林坊(こうりんぼう)から柿木畠(かきのきばたけ)や広坂(ひろさか)通りを抜(ぬ)けて、小立野台へ吹き上げて行く。

 風が光り、その風の中に彼と同じの匂(にお)いが薫(かお)った。……彼を感じた懐(なつ)かしい匂いが出会いの予感を強くさせて、私の全身をプルプルと小刻(こきざ)みに奮(ふる)わせている……。近くに居(い)る彼を知って、素直になれない心に『正直になれ』と、私の身体は彼との触れ合いを求めていた。

(広坂通りを下がり、香林坊へ行ってみよう)

 私は匂いを運んで来た風の方へ向う。風の中に紛(まぎ)れる微(かす)かな彼の匂いを頼(たよ)りに、彼の行きそうな場所の在る通りを歩いてみようと思った。

 途中、市役所前の横断歩道の縁(ふち)で立ち止まり、彼の笑わない顔を思い出す。

(ここで彼は、乗り込んだタクシーのリアウインドー越しに痛い体を振り向かせ、いつまでも私を見詰め続けていた……)

 あの時、私は横断歩道の中程で渡った辰巳(たつみ)用水の傍(かたわ)らで、彼が乗るタクシーが見えなくなるまで、彼の顔を、瞳を、……見ていた。

 香林坊の鞍月(くらつき)用水沿いの裏通りを通って長土塀(ながどべい)まで来た。ここまで来ると彼の匂いを感じられない。

(違う……、ここじゃない。もうここにはいない)

 この辺りにいると感じていたのに彼を見付けられない。彼は風下へ移動している。心は騒(さわ)ぐ。

 彼は、片町のスクランブル交差点を渡(わた)り犀川(さいかわ)大橋へ? あるいは竪町(たてまち)を抜け、新竪町(しんたてまち)を通って桜橋へ? それとも柿木畠を、私がさっきまでいた二十一世紀美術館へと行ったのだろうか? 彼の向かいそうなルートを選ぶ。

(一人で犀川の川縁(かわべり)には行かないわよね。いくら岸辺の桜が満開でも、彼は一人じゃ行かないよねぇ)

 今日、彼は一人でいると勝手(かって)に決め付けていた。中学校での人気や弓道(きゅうどう)でのモテ具合から、連絡を取っていた女子がいてもおかしくない。そんな女子と金沢に戻ってから急速に親(した)しくなっていて、今日はデートしているのかも知れないのに……。静岡市の会社の電話に出た女のような恋人が、金沢にいても不思議じゃない……。

 でも……、私の想像する彼はいつも一人でいた。私は理由や根拠(こんきょ)も無く勝手に、そう確信して信じていた。故意(こい)の拒絶と自然な寛容(かんよう)を繰り返し、彼とのラストタイムは一方的な絶対拒絶で終焉(しゅうえん)している。全く私の独(ひと)り善(よ)がりも良いとこだ。

(どこかで行き違ったのかも知れない。……戻ろう。彼の懐かしい匂いがした場所へ……、彼を感じたところへ)

 彼は見てくれだけの安易な場所は選ばない。常にクリエイティブであり、イマジネーションを高め、インスピレーションが湧(わ)くように努(つと)めていたのを、私は分かっている。絶対にそんな場所へ彼は行く。

 焦(あせ)る気持ちで私は二十一世紀美術館へ戻る事にした。戻りのルートは彼の趣味と趣向から柿木畠の路地(ろじ)を選んだ。

(二十一世紀美術館に着くまでに彼と逢えなければ、兼六園下(けんろくえんした)からバスに乗り、金沢駅へ向かおう)

 二十一世紀美術館に着いたら、そこで……、それで、彼の捜索は終りにする。そして私は駅周辺で程々に時間を潰(つぶ)してから、小松空港行きのリムジンバスに乗るだろう。突発的な問題がルートに起きなければ、相模原の部屋へは夜半前に戻れるだろうと考えていた。

 次は夏休みに金沢へ帰って来る予定。その時も今日のように彼の気配や匂いを感じられるか分らない。

 出逢えない時間の経過(けいか)に想いが薄れ、離れる気持ちは彼の切れた糸を手繰(たぐ)り寄せようにも、糸を見させてくれない。既に彼の糸は別の新しい糸と繋(つな)がっていて、私の彼と繋がる望(のぞ)みを叶えるには遅過ぎてしまう。そして、その先の長い人生で再び二人が交(まじ)わる事は無い。

(ずっと彼を追い詰めていた私に相応(ふさわ)しい、虚しくて、寂(さび)しい、そして悲(かな)しい結末だ)

 そうならない為にも私は、心から彼と出逢いたいと切に願った。

(お願い神様。彼に会わせて……)

 香林坊坂下の信号を渡り柿木畠の通りに入る。通りは千切れ雲の影で薄暗(うすぐら)いけれど、小さなブティックが犇(ひし)めく通りは春のウィークエンドらしく、多くの人が行き交(か)っている。私の瞳は次々と現(あらわ)れる人達の中に彼を探す。

(んん!)

 柿木畠の広見(ひろみ)の向こう、狭(せま)い通りから歩いて来る一人の男の人が目に留まった。その人は私と同じくらいの歳で上背(うわぜい)が有り、落ち着いた感じのカジュアルウエアはシックな色合いにコーディネートされ、品藻(ひんそう)良く見える。

(彼……?)

 彼のように見えたけれど違ったのかも知れない。男性の独り善がりじゃないセンスの良さが、私の記憶を惑(まど)わせて彼なのか、判断を鈍(にぶ)らせた。疑(うたが)うように目を凝(こ)らしながら視線を流そうとした。

 だけど、流れて行くはずの私の視線は流れずに、暈(ぼ)かして深度を変えるつもりの瞳のフォーカスはピンポイントに絞(しぼ)られて行く。目を凝らすと、直(す)ぐに見間違いじゃないと分かった。

「あっ!」

 思わず悲鳴のような声が小さく漏(も)れて、そのまま息が詰まってしまう。

 その時、空気が彼の匂いに変わり、まるで世界が静止したかのように、とてもとてもゆっくりと動いて、連続していた時間や音が点にしか感じられなくなった。色彩豊(ゆた)かな明るい光の粒(つぶ)で構成された一枚の絵のように見える。頬を擽るように優しく触れているのは風だと思う。

 全てが切り取られたかのように止まって見える今、時間の中に瞬間が在るのではなく、瞬間の中に時間が在るという異質な考え方も解(わか)るような気がした。明るく光る絵のように見える瞬間の中心に彼がいて、その瞬間の中で私は彼を見ている。時間がアニメーションのセル画のように一つ一つの瞬間の連続だとしたら、彼に気付いた瞬間が、私の瞬間が連続していた時間を一瞬だけど確(たし)かに静止させた。

 一瞬の静止画は直ぐにコマ送りのように動き始め、連続する繋ぎ目の無い画面はいつもの滑(なめ)らかな動に戻った。そして私の視界の真ん中に彼がいる。

 でも、視界の真ん中に見える彼は、以前の彼じゃない。

(見付けた! でも、本当に彼なの?)

 私の五感の意識は彼だと認めているのに、以前のイメージと違い過ぎる外見の彼を私の想いが、まだ疑っていた。

 そのイメチェンした彼を認めたくないのに、こちらへ歩いて来るのは確かに彼だ。胸がドキドキして私の想いが塗り替えられて行く。彼の新たな色に想いが染まるのといっしょに、私の中でピアノが聞こえた。小学六年の音楽の授業で弾けなかった二曲目。私は短い坂の下に在る小さな公園の前で立ち止まった。

 彼のファッションセンスが違っている。自分の都合(つごう)だけの楽な格好(かっこう)じゃない。自分をアピールしていっしょに集(つど)う人達に気持ち良く受け入れられる服装だ。大桟橋(おおさんばし)の時よりも、ずっと洗練(せんれん)されてクールに見える。

(イメージチェンジは、自分で気付いて、学(まな)んだのかしら……?)

 いや違う。絶対に誰かにアドバイスされたセンスが身に付いている。彼の歩き方も以前とは違う。

 どこと無く妙(みょう)に落ち着いて、しっかりと地に足の着いた物腰(ものごし)に感じた違和感(いわかん)が、私の知らない彼を詮索(せんさく)させる。

(なに? その腰の落ち着きは……! さては女を知ったかな……? ファッションセンスを変えさせた相手は、同じ、あの電話の女性? えっ、なになに! ……彼を変えさせるなんて……、あの女は何なのよ?)

 やはり電話の応対に出た女性は、彼とただならぬ関係だったのだと分からせ、彼に多大な影響を与えたのを私に見せ付けた。

(今も、関係が続いているのかしら? でも、電話の女性は『あの人を大切にしてあげて下さい』と、私に言ったじゃない。だったら、今は……)

 電話の女性と終わっているのか、そもそも親密な関係だったのか、確信が持てなかった。それに、さっきも考えたように金沢で親しくしている女性がいて、これからデートへ向かう予定で今はたまたま一人でいるだけなら、私は軽(かる)い挨拶(あいさつ)を交わされるか、素通(すどお)りで無視されてしまう。そして、彼は既に私への想いなど失っているのなら、もう、どうしようも無いかも知れない……。

 いくら私が一方的に彼を切り離していたとしても、僅(わず)か一年半足らずで彼を変えてしまうほどの女性が彼にいた事と、彼が私より先にディープな異性関係を経験しているだろうと思える事、それに、彼を変えたのが私じゃなかった事に、とてもショックを受けたけれど、今は、それより先にすべき事が有る。

(すべき事が叶(かな)った後、それはいつでも訊けるわ……)

 彼は私に気付いた!

 驚きと戸惑(とまど)いと気不味(きまず)さが、彼の顔に次々と表れて表情が歪(ゆが)む。彼は躊躇(ためら)うように立ち止まり、俯いてから祈るように空を見上げた。

 でもそれは一瞬で、直ぐに私を見据(みす)えて意を決したように、しっかりした足取りでゆっくりと近づいて来る。

 太陽が雲から抜け出て辺りを春の陽の淡(あわ)く麗らかな光りで満たしていく。

(私が一方的に断絶した一年半、彼はどう過ごしていたのだろう?)

 暖かな光りで明るく照らされた彼の顔が違って見える。大人びた精悍(せいかん)さが有った。弓道場で見た凛々(りり)しさじゃなくて、生活感が漂(ただよ)う逞(たくま)しさだ。

(女性の事にしても、私の知らない、いろんな事が有ったのだろうな……)

 私を見据える彼の瞳は、彼の意思と春の陽射(ひざ)しに輝(かがや)いている。

(彼はいつも夢を持って目指している。……夢を諦(あきら)めない)

 私はそれを羨(うらや)ましく思っていた。

「やっ……、やあっ……」

 彼の少し微笑(ほほえ)んだ顔の唇(くちびる)が動いた。私は黙(だま)って会釈(えしゃく)をする。

「久しぶり、金沢に来ているんだ」

 まるで県外に嫁(とつ)いでいったクラスメートだった女子に、同窓会で再会した時に言うような挨拶だ。挨拶の言葉に彼を遠くに感じてしまう。

(ああっ、やっと逢えたのに、そんな言い方をしないで)

 他人行儀(たにんぎょうぎ)な彼の挨拶にショックを受けながら、余裕の有る寛大で尊大(そんだい)な挨拶を返そうと努める。

(さあ、さり気無くクールに話すのよ。私)

「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、履歴(りれき)を全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも変えたわ」

(私、いきなり何を言っているの。全然クールじゃないわ。また彼に酷いことを言っている)

 彼は戸惑い、薄く微笑んだ顔が悲しみで溢(あふ)れた。

「だから、あなたにメールできなくしたの」

(違う、なに駄目(だめ)押(お)ししているの! こんな話をしちゃだめ)

 さり気無くクールに言おうと思うほど、歯切(はぎ)れ良く酷い言葉が出てしまう。言葉が上手(うま)く見付からない。気持ちが高まり、胸が一杯になった。息がうまくできない。

「そうだったんだ。全然繋がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は君に随分(ずいぶん)と嫌われていたんだな」

 悲しみに寂しさを重ねられた表情の彼は、そう言って直ぐ近くの広見脇に在る小さな公園へ行くとオブジェのようなベンチに座り、俯いて両手で顔を覆(おお)った。

「君の気持ちを全く考えていなかったんだ。僕の都合だけの好意は一方的だった。君を、どうにか僕だけの女にできたと、苦労してやっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換(か)えにしてもいいと思ってしまっていた」

 彼は声を少し震わせながら素直な気持ちで話している。

(もうクールなんて、どうでもいい。私も素直に……、素直に私の心を伝えるのよ)

「違うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」

 彼の顔が暈やけて来て良く見えない。私はしゃべりながら泣(な)いている。

「僕は、何度も君にフラれたよね。その度に、どうすれば君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰(もら)えるように努力したんだ」

 彼は私を見ながら穏(おだ)やかな口調で静(しず)かに、でも、はっきりと聞こえるように話す。

「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)話し掛け辛(づら)くなって、察(さっ)しも、思い遣りも、気配(きくば)りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再びってわけじゃないから、もう安心してくれ」

 私が見詰め返しても、その瞳は逃(に)げない。

「君が元気そうで何よりだよ。……幸(しあわ)せなんだろう?」

(まだ……、幸せになってないよ……)

 彼の涙ぐんだ瞳は、優しい眼差(まなざ)しで私を見詰めている。だけど、彼の視線は私を通り越して遠くを見ている気がして、頬(ほお)をポロポロと温かい涙が、いくつも、いくつも、流れ落ちて行く。

「最後のメールで送った『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」

 私を見上げる彼の暈やけた顔からは、とても悲しんでいるのが分かる。

(そうじゃない……、彼はまだ、わかっていない)

「私、わかったの」

 もう泪(なみだ)で滲(にじ)んで彼の顔が見えない。

(どんな顔で私を見ているの。でも、嫌(きら)われていても、はっきりと彼に伝えなくちゃ)

「あなたが、私を大切にしていたことが…… どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」

 私は彼の前に跪(ひざまず)いて彼の手を握(にぎ)った。話しながら彼に顔を近付けていく。彼の顔をもっと良く見たい。

(私に、あなたの顔を、もっと良く見せて)

 彼は驚(おどろ)いた顔で私を見詰めていた。

「あなたは、私が嫌いな、私の残酷(ざんこく)で冷たい部分を、いつも受け止めていてくれたわ」

(それを私は、ずっと気付いていなかったの)

「僕は、君を嫌(いや)な人だと思ったことはないよ」

 彼は、私の手を握りかえしてから、乱(みだ)れて垂(た)れ下がった私の髪(かみ)を分けて頬に触れた。陽射しのように暖かで安(やす)らぎを感じる手だ。初めて彼から私に触れた。

(暖かい……、もっと私を温めて)

「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕はいつも不安だった」

 彼の手が小さく震えている。

「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは間違(まちが)っていたの。あなたは私にいつでも一生懸命(いっしょうけんめい)だったわ」

 涙が一杯流れている。手で拭(ぬぐ)うけど拭い切れない。

「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖(こわ)かった。でも、そうなってしまったよ」

 涙が彼の頬を伝う。彼も泣いている。

「僕でなくても……、君に…… 相応(ふさわ)しい人がいるよ」

 自分へ諭(さと)すように言う彼が、愛(いと)おしい。

「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。好きなのがわかったの」

 彼は信じられないという顔で私を見ている。

「あなたじゃないと嫌なの。……じゃないと私、ダメなの」

 鼻声で、悲しさや戸惑いや嬉しさが、複雑に入り混(ま)じった優しい顔の彼に問(と)う。

「……まっ、まだ、間に合うの? 私、まだ間に合う?」

 手足の指先から頭の奥や身体の芯(しん)まで掻(か)き集めた私の勇気を全部出して、顔が強張(こわば)るのを感じながら彼に訊いた。やっと言えた自分の声は小さく震える身体と同じで、か細く震えている。焦りと不安が絶望色に変わって私の明るい未来への想いを圧(お)し潰して行く。諦めの悪さが堪(た)え切れなくて、もう大声で泣き叫(さけ)びそう。

「……いつも、僕は探していたよ。いつか、どこかで君に会えると信じていた。その時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」

 暗い不安と焦りの広がりに奈落(ならく)の淵(ふち)へ追い込まれて、迫(せ)り上がる暗黒の絶望に掴(つか)み掛けられている私は、彼の言葉に絶望から救われて行く。だけどまだ、不安は消え去ってくれない。

(そっ、それって……、あなたも私を探していたの? ああっ、わっ、私もよ。あなたを探していたわ!)

「今……、おっ、お付き合いしている女性(ひと)が、……いるの?」

 電話の女性は、彼が私に想いを寄(よ)せていた事を知っていた。彼と女性が親密な関係だったとしても、『大切にしてあげて』の言葉通りの過去形で彼を縛(しば)ってはいない。それでも、以前と違う感じがする彼に不安を抱(いだ)いてしまう。

「いないよ」

 あっさりと彼が言った。そのストレートで軽い返答に思い出すべきじゃないはずの、スタンガンで痛めつけた男の嫌なタバコ臭(しゅう)が重(かさ)なった。

(……本当に?)

 私が望んでいた事を彼は言ってくれたのに、私は素直に信じられなくて疑ってしまう。

「私でいいの? 凄(すご)く酷いことを言ったし、とても冷たくしたわ」

 私の問い掛けに彼は、はっきりと頷(うなず)いてくれた。

 ポロポロと私の両頬を伝って涙が落ちている。あとからあとから涙が溢れて止まらない。

「わぁーっ」

 遣り場のない気持が込み上げて私は大声で泣いた。彼を蔑(さげす)み無視したことへの後悔(こうかい)と懺悔(ざんげ)。逢いたくて探していた、繋げたい望み。間に合わないかも知れない不安と焦り。逢えた喜(よろこ)びと安心した気持ち。私を受け止めて抱(だ)き締(し)めて欲(ほ)しい願い。彼の変わらない優しい言葉。そして、今の今まで彼を疑っていた事への懺悔と『彼が好きだ』という強い私の想いが混じり合い、いっぱいになっていた心が解(と)き放されて更(さら)に大きな声で泣き続けた。

「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」

 しゃくり泣きながら許しを請(こ)う甲高い声は、途切れてばかりの小さな悲鳴のようになってしまう。まだ私の想いを言えていない。

(大きな声で言葉を、はっきり聞こえるように言わなくちゃ。今、言うのよ。さあ、彼の中の私に届くように言って)

「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」

 鼻がくっつきそうな近さで、ヒクヒクと泣きじゃくりながら、やっと言えた。

「今でも僕は……、君に好きになって貰えるように、がんばっているんだ。だから僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。そこは、とても広くて僕の全てなんだ」

(ああっ、彼はいつも優しい。……嬉(うれ)しい)

「僕は、君に初(はじ)めて声を掛けたあの日から、ずっと君が好きだ」

 携帯の画面に三度表示され、手紙で二度伝えられ、そして電話で叫ばれた彼の言葉を、初めて彼の口から直に聞いた。

 携帯電話の向こうで叫ぶ彼の声を思い出す。通話を一方的に切るまで、携帯電話の小さなスピーカーを何度も震わせて聞こえていた彼の叫びを思い出した。彼の私への想いは少しも変わっていない。

 握った私の手を彼は自分の頬に触れさせた。拭(ふ)いた涙に濡れて、鼻水と涎(よだれ)で汚(よご)れた私の手に彼の温かさが伝わる。涙で濡(ぬ)れた温かい彼の頬……。ビクッと私は反射的に手を引こうとしたけれど、握る彼の手に力が入り私の手を逃がさない。

「手が……、汚れて、汚いよ……」

 触れる掌(てのひら)に、彼は頬を強く押し付けてくる。

「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」

 彼が握る、彼の温かい頬に触れる私の手を、彼は好きだと言ってくれる。四角い爪(つめ)だと言わずに愛しい指と爪と言ってくれた。

 私は愛おしさで彼に抱き付いた。頬ずりした彼の頬に熱(あつ)い涙を感じて、言葉が途切(とぎ)れた彼の唇に、そっと唇を重ねる。暖かい春の陽射しと風の中、彼と初めてキスをした。

 ヒクつき震える肩に彼の腕が優しくまわり、そしてしっかりと私を抱きしめてくれた。

「あなた、が、好き、よ」

 唇を重ねながら漏れ出る息に乗せて掠(かす)れる小さな声で言った。

 彼の滑らかで弾力の有る唇が、唇に残っていたザラついたファーストキスの感触を打ち消していく。上唇と下唇が彼の唇に交互に吸われて軽く噛まれた。舌先でなぞられる唇がサワサワと擽ったくて、気持の良い初めて体感する感覚だった。瞼を閉じたまま、

(キスが、上手(じょうず)なんだ……?)

 そう思いながら、トロンとしていく自分が分かった。

「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」

 重ねた時と同じように、そっと唇を離して行く私に、彼は再びはっきりと『好きだ』と言った。はっきりと聞こえた彼の優しい言葉は、心地好(ここちよ)い響(ひび)きでキスでうっとりした私を満たしてくれる。もう泪の溢れは止まらずに次々と粒になって零れ落ち、流れ伝う涙が火照(ほて)る頬に付けた温かい筋を消さない。

「君を……!」

 優しく動く彼の唇に、再び私は静かに唇を合わせた。

「愛しているわ」

 彼が言おうとする愛を紡(つむ)ぐ言葉に、私の満たされた想いを被せていく。

(いいの、言わなくても。あなたの愛は十分感じているよ)

「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」

 静かに頷(うなず)く彼を見詰めながら、はっきりと彼の愛を私は感じていた。

(本当に、愛し合うことは、こんなにも嬉しい喜びを感じて、安らぎと愛おしさに満たされ、心が優しく広がっていけるんだ)

 今、私は心の中で彼に『嬉しくなる曲』をリズミカルに弾(ひ)いている。あの時アンコールで弾けなかった『嬉しくなる曲』。彼に聞かせるつもりだった曲。彼の為に弾くはずだった曲。彼に聞いて欲しかった曲。

(そうだ! この曲を弾いて彼に聞かせよう。今なら彼の為に、もっと私の気持ちを込めて弾けるはずだから)

 ピアニストになる夢を諦めてから、久(ひさ)しく鍵盤(けんばん)に触れていない指。

(上手く動いてくれるかしら? ……大丈夫(だいじょうぶ)よ。今なら弾けるわ。きっと)

 彼に小学六年生で弾いたピアノの続きを聴(き)かせようと決めた。

(それをサプライズでしたいのだけど、さて、どんな理由で誘(さそ)って、何処(どこ)で弾けるかしら?)

「これからどうする? 僕は休みだから時間は十分有るよ」

 いいタイミングで彼が、これからの行動予定を訊いて来る。私の都合に合わせてくれそうだ。

「羽田への最終便をリザーブしてあるから、それまで私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言ってきちゃったし、今からデートしよう。訊きたいこともあるしさ。それから小松空港まで送ってくれる? 私を見送ってくれる?」

(おおっ、積極的だ! 結構(けっこう)大胆(だいたん)に恥(は)ずかしげも無く、さらりと言えている。しかもイニシアチブは私側だ)

「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初はどこから行こうか?」

(今日は互(たが)いに良い感じのカジュアルだから、大桟橋のような失敗はしないわ。昼間っからムードを演出しちゃおうかな)

 積極的ついでに、嬉しさをイケイケで開放させる。

「お腹が、空(す)いたわ」

 言いながら立ち上がり、彼と手を繋いで歩き出す。私は憶(おぼ)えている。中学二年の告白メールの送り主にした質問の回答を。

『あれは、こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と、彼の表情を探ると、恥ずかしがるように少し逸(そ)らして顔を空へ向けながら言った。

「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」

(それってギャグなの? それともリベンジ?)

 彼のカツ丼好きは知っている。相模大野(さがみおおの)駅近くのうどん屋でシンプルなカツ丼を美味(おい)しそうにパクついていた。

(私もカレーうどんが好きだけど、今日のランチは違うよ)

「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先にランチもしているダイニングバーが在るの。そこでライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」

 ピアノライブは私が演奏しようと思う。少し他人に気配りできるようになった優しい彼へ、私からの小さなサプライズ。お店のラウンジマネージャーと交渉(こうしょう)してみなくては分からないけれど、きっとさせてくれる。いいえ、だめでもゴネて無理矢理(むりやり)させてもらう。オブジェっぽくなっていても、音階の違いが大体分かる音の鳴(な)るピアノなら、それでいい。そう決めた。

     *

 音楽を聴く聴覚と匂いを嗅(か)ぐ臭覚は、記憶を蘇(よみがえ)らせる効果が強いと思っている。過去のアルバムを見たり、辛く悲しい思いや、楽しくて嬉しい思いをした場所へ行く事もそうだけど、強く意識した臭いとか、口遊(くちずさ)むくらい好きだったり、絡んで来る想いと共に感動した歌や曲は、健康な状態でも懐かしさや、安らぎや、ときめきを伴(ともな)って忘れていた事や人や場所を思い出させ、センチメンタルにしてくれる。

 今日のランチはこの店でと最初から決めていた。

 竪町通りに在るこのダイニングバーは、両親とディナーで一度、姉とランチに一度、能登牛(のとぎゅう)の柔(やわ)らかいステーキを食べに来た事が有った。そして、今日は彼と来ている。

 別にディナーで薦(すす)められるお高い特選ビーフじゃなくても、ランチのビーフで充分に柔らかくて味が有るし、それに口の中で蕩(とろ)けてしまうフォアグラステーキをトッピングするのが、私のお気に入りだ。

 オーダーは彼に訊かずに私が勝手に、フォアグラステーキをトッピングした能登牛ステーキのランチコースにして、自動車を運転する彼にはジンジャーエール、アルコールを飲んじゃダメな彼は少し不満顔だったけれど、私は肉とマッチする赤のグラスワインのドリンクにした。

 運(はこ)ばれてテーブルに並べられたランチメニューは、期待を裏切らない美味しさで、レアの焼き加減(かげん)にして貰ったビーフステーキは思っていた通り、口の中に広がる柔らかさだった。それと蕩けてしまっても濃(こ)い味わいが残るフォアグラステーキを、……チリの銘柄(めいがら)だっけかな? 広がる香りがスウッと通る口当たりの良い辛さと切れの良い後味なら何処のでも良いんだけど……、赤ワインで流して絡み合う残り香が堪(たま)らない!

 私と同じ様に幸せな顔でステーキをパクつく彼が、携帯電話の番号とアドレス、そしてSNSアカウントの交換を望んだ。

 『永遠(とわ)の別れ』と切り捨てた日、私の意識から彼を抹殺(まっさつ)した。

 電話帳や住所録の全てのリストから彼を消去した、あの日、私は電話番号を取得し直し、メールアドレスを中国語の『Yinghua、インファ』からスペイン語の『Cerezo、セレッソ』に変えた。

 意味は、どちらも桜の花だ。

 電話帳のリストから削除して記憶からも忘れさせた彼のナンバーとアドレスは、以前と同じだった。パソコンのメールアドレスと互いの現在の住所も教え合う。

(ビーノ・ブランコのスペルが、懐かしい……)

 彼は、私が彼の携帯電話の番号とアドレスを削除した経緯(いきさつ)も、忘却(ぼうきゃく)していた時の事も、訊いて来ない。私も今はまだ言いたくなかった。いつか、私から思い出のように話すまで、既に過去になり、覆された今、彼は知りたくもないのだと思う。

 ゆったりとした気分の良い食事を終(お)え、食後のコーヒーを飲むと、既にラウンジマネージャーから許可を得た一曲だけのピアノライブを弾く。

(気に入って、喜んでもらえれば……、嬉しいんだけどな)

 ずっと彼の想いを拒み避け続けていた私は、大学で知り合った美形な先輩へと安易に靡(なび)いてしまった。そして、自業自得(じごうじとく)で招(まね)いたクライシスゾーンからの脱出が、彼の大切さと居心地(いごこち)の良さと私の気持ちをディスカバリーさせた。

(こんな、気持ちのふらついた自分に、……自分の都合だけが良い女に、いつまで、彼は愛を与えて続けてくれるのだろう?)

 いつでも私は、彼に愛想(あいそ)を尽(つ)かされ突き放されても不思議じゃなかった。そう考えると、やっと彼に逢えた嬉しさと彼の変わらない優しさに、こんなにも安らぎと愛おしさに満たされた気持ちが不安で揺らいだ。

『あなたは、もういいの……』最後の電話は、思い通りに遊べなくて飽(あ)きたゲームソフトを捨(す)てるみたいに、彼の強い想いの足掻きを否定して私が一方的に断絶した。そして、私に完全否定されて行き場を失った彼の私への想いや情熱は、私以外の彼が好(この)みと感じた女性へ向けてしまうのは、浮気性(うわきしょう)でも、色情(しきじょう)的でもなく、青春期の性(さが)として当然だろう。

 だから、彼と親しくする現在進行形の女性がいても、不思議じゃない。

 弓道部で活躍する彼は、他校の女子達にも人気が有ってファンクラブも作られているみたいだった。彼の働いていた会社へ掛けた電話に出た女性は彼を良く知っている感じだった。

 性格は、たぶん同じだと思うけれど、彼は容姿も、態度も、進化していた。好感の持てるファッションセンスに自信を持った積極的な態度で、以前と全然違う。そして、彼のキスは私が蕩(とろ)けるくらい上手(じょうず)だった。

 今度は逆に彼から、『今でも、君を好きだと言ったけれど、実は既に、付き合っている女性がいるんだ』、『だから、もう君は……、いらない!』みたいな事を淡々と無慈悲に言われるのが恐い。私は自分の短絡(たんらく)さと戻せない時間を悔(くや)みながら、彼に棄(す)てられて忘れ去(さ)られるのを怖(おそ)れた。

 だけど、それでも彼に、今の私の気持ちを聴かせたい。

 自分の実力を気付かされて、既に未練(みれん)も吹っ切れて弾くのを止めたピアノだけど、今は彼に聴いて貰いたい。彼が聴いてくれて喜んでくれるのなら、それが彼に否定される私の気持ちでも、私は彼の為にピアノを弾きたい。

(聴いて! あなただけに弾くわ。今の私の気持ちよ!)

「五年ぶりにキーを敲(たた)くのよ。上手く弾けるように祈っていて」

 意を決してイスから立ち上がると、私はそう言ってテーブルの上に置いていた彼の手を握った。彼は握る私の手を握り返してくれて、私の指は彼の指に絡まり、しっかりと私達は結ばれる。

 何の躊躇いも無く、私は彼を見て、彼は私を見上げ、手を触れ合わせて指が絡み合う私達の繋がりは、これまで、いつもそうしていたみたいに全くの自然な動作だった。

 私は、その絡ませる指の力を緩(ゆる)ませながら、彼の手を離してピアノへ向かう。

 白いグランドピアノの前に来て鍵盤を見降ろすと、ピアノを避けていた五年間のブランクがプレッシャーとなって、私の身体を座らせてキーに触れるのを拒(こば)んだ。

(動きなさい! 私を座らせて、キーに指を添(そ)えるのよ! そして、私の想いを彼に届ける為に、彼だけに聴かせる為に、ピアノを弾くのよ!)

 瞳が彼を捉えて、私の目尻と頬と口許(くちもと)が笑う。

 あの時に届けられなかった私のメロディーを、今から彼に聴かせる為に、鍵盤の前に座った私は細く息を吸い込んで行く。

 横浜港へ向かう彼の大きなオートバイにタンデムして嗅(か)いだ潮(しお)の香りは、立戸の浜と金石の海を思い出させてくれた。音楽は小学六年生の彼の音痴(おんち)さと、楽しく弾けた『別れの曲』に、中学三年生のコーラス祭での雪辱(せつじょく)の彼の歌声、そしてバス事故でのイヤホンジャックから聴こえたゲームミュージックが、その時の二人を伴(ともな)って覚えている。

 そして、これから弾く曲も新たな二人のファーストディのメモリーとして深く刻(きざ)み付けて遣りたい。

 キーが八十八も有るピアノの盤面は広い。その音域の巾を私は自由に出来ずに中学三年の春でソロリストへの夢を諦(あきら)めてしまった。そして、その年の初夏のコーラス祭の伴奏を最後に人前での演奏はしていない。

 自分の想いをカラフルな音色で響(ひび)かせてオーディエンスを感動させたかったのに、自分の限界に挫折(ざせつ)した。だけど、最後の伴奏をしたコーラス祭で聴いた彼のソロ歌唱(かしょう)の声は、私の身体を貫(つらぬ)いて響き、震える魂(たましい)の感動は私に涙を流させた。

 いつか、彼の透明(とうめい)な歌唱の貫きに、私のカラフルに弾く鍵盤の響きで、その時の感動を彼に届け返したいと、私はずっと思っていた。

 今は、彼一人だけの為に弾いて聴かせたい。届けたい私の心は、彼の心に響かせたい。

(響くかな? 届くかな?)

 吐(は)き出す息が震えて願う心の指先は躊躇い勝ちにキーを敲いて、弾かれた音が微(かす)かにブレてしまう。

『私を愛してくれて嬉しい』、『愛してくれて、ありがとう』、『あなたが愛しい』、『ずっといっしょにいて』、弾むメロディーを優しい気持ちで弾く。

(音は、暖かなパステルカラーに色付いたかな? 穏やかに彼の中に入って、優しく響いてくれたかな?)

 最後の一音を高く、優しく、長く、響かせて曲が終わる。

 顔を上げて向けた視界に映(うつ)る彼は、泣きたいのを堪(こら)えて笑っているみたいな顔でスタンディングオベーションをしている。彼に続いて店内中の皆(みんな)が一斉に拍手(はくしゅ)をしてくれた。

 店内の皆さんに御清聴(ごせいちょう)と拍手への感謝の御辞儀(おじぎ)をして、ピアノを元の状態にしてから彼の許(もと)へ向かう途中も拍手は鳴り止まない。お客さん達も、店員さん達も、皆が喜んでくれていて、まるで、リサイタルか、ライブのようにざわめいている。

(彼に、届いてくれた!)

 触れ合えた心に、私の顔は満面の笑みになっていると思う。

(凄く、嬉しい!)

「アンコール」

 来店している人達からの『アンコール』の掛け声と手拍子。でも私はアンコールに応(こた)えない。

 彼だけへの私からの一曲だけのサプライズだからアンコールはしない。拍手の中を彼の待つテーブルへ戻り、もう一度、皆さんへ大きく、深く、御辞儀をしてから笑顔で手を振り、席に着いた。

「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度、聴きたかったな」

 席に着くなり、嬉しそうに笑顔の彼は言った。

(うっ、にっ、鈍(にぶ)いよ……。それに今日、『別れの……』ってフレーズを使う?)

 私の気持ちを読めない彼に少し退(ひ)いた私は、思い付きのサプライズを俄(にわ)かに後悔した。

「バカ!」

 自然と口が動いて出た小さな呟(つぶや)き声に、『彼に聞こえていないよね』なんて気にしながらも、しまったと思った。

(どうか、言霊(ことだま)になりませんように!)

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 『小松空港まで送るよ』と彼に誘(さそ)われて、竪町通りから春風に桜の花弁(はなびら)と仄(ほの)かに桜の匂いが香(かお)る路地を抜け、二十一世紀美術館の市役所側の西口へ歩いて来た。

 その円形の建物を形作る全面ガラス張りが丸まるように連なる外壁を見ると、反対側の東口に在る白いカフェで向かいの席に伏せ目勝ちに座っていた彼を思い出す。

 四年前の通学の朝に遭遇(そうぐう)したバス事故の日、怪我をした彼を治療も受けさせずに私は白いカフェへ連れて来た。私の独断で一方的な行動に抗(あらが)いもせずに痛みに堪(た)えている彼に、不用意な一言、『普通にしゃべれるんだね』と、言ってしまっていた。

 私を好きな彼が、私の反応を気にしての言葉選びで口数が少ないのを知っていたのに、そう言ってしまい、下がるテンションの彼に、私達は気不味(きまず)いムードになった。

 今思う。此処もリベンジしたい!

「今度、ゆっくりと鑑賞しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんとお茶してさ。いい?」

 彼も同じ事を思い出していたのか、眉間(みけん)に立てた一本の筋と少し険(けわ)しくしていた眦(まなじり)が失(う)せて、下がる眉毛(まゆげ)の困(こま)ったような顔をする。

「ああ、いいよ」

 声のトーンも困ってた。

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 二十一世紀美術館の地下駐車場で私をSUV車のサイドシートに乗り込ませて、彼は本多町通りから桜橋(さくらばし)を渡り、窪町(くぼまち)で山側環状道路へと走らせて行く。

 乗り心地の良い車内は時折(ときおり)、ロードナビゲーションのコース上の注意を促す合成声のアナウンスが自動的に話される以外は、アニメのエンディング曲だと思うのだけど、アニメらしくないシックな歌が小さく聞こえて来るだけで、とても静(しず)かだ。

 小松市(こまつし)と河北郡(かほくぐん)津幡町(つばたまち)を結ぶ、金沢市内を山地沿いに連続した緩いカーブで迂回する山側環状道路は広くて走り易(やす)い。それに、この時間の交通量は少なくて、ドライブプレッシャーが少し緩和(かんわ)された彼に、メロディーに合わせて鼻歌を弾(はず)ませたり、口ずさんだ歌詞をハモらせたり、させている。

 金沢市の市街地を山側環状道路へ抜けるまで、スムーズにSUV車を走らせながらも、発進、停車、コーナーの曲がり、などを険しい顔をして慎重(しんちょう)に行い、大きなオートバイにタンデムした時と同じ、先読(さきよ)みに、察しに、観察と、視界の上下左右に絶(た)えず瞳(ひとみ)を動かせていた。

 想定外や不可抗力(ふかこうりょく)の不慮(ふりょ)の事態に陥(おちい)る発生確率が、ぐんと減った今は、穏(おだ)やかになった顔の目が笑ってる。

(サイドシートに相思相愛(そうしそうあい)になった私を乗せているのが、嬉しいんだろうなぁ。私も嬉しいなぁ。……なら、ダメ押しのチェックをしても、いいよね!)

「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく嬉しかったよ」

 運転しながら『うん、うん』と頷(うなず)く彼に、私は再び探りの問い掛けをする。

「……でね。本当に今、親しく付き合っている女の人は、いないのぉ?」

(気分屋で、紛(まぎ)らわしい態度の私から返される、ドライな態度や冷酷(れいこく)な言葉を恐れていた彼は、ずっとこんな気持ちだったのかも知れない)

「いっ、いるわけないじゃん! 僕は一途(いちず)だぞ! いたら君を好きだと……」

『好きだと……』言い掛けて、続ける言葉を『ゴクン』と飲み込んで小さく息を吐き、そして、彼は深呼吸をするように大きく息を吸い込んでから、大きな声で言い直した。

「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」

(その躊躇い、その言い方。今はいないけど、この前までは、女がいましたって意味で、いいのかな?)

 思った事を考えてから言葉にして、はきはき言う、まだ私の知らない彼がいる。これまで知らなかった彼が現れている。空白(くうはく)の一年半の間に新たに造られた部分の彼なのか、ずぅっと私に見せていなかった彼が洗練されて来たのか、分からない。

「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」

 積極的で、明るく意思を伝えてくれる逞(たくま)しい彼がプラスされて、より彼を愛して行けると想った。

「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、心配だったの」

 この先ずうっと、死が私達を別ち合うなんて関係無くて、前世とか、現世とか、来世とか、そんなのを全部超えて、あなたが私を愛し続けさせるのと、私があなたを愛し続けるのを、誓(ちか)いたい!

「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」

 そうだった。中学生になってから、突然に私に好意を持つ男子が多く現れて、時々、告白されていた・

(中学三年生のコーラス祭で、ソロで高らかに歌いながら、あなたは私を指差し、涙を流す私が、一人、スタンディングオベーションで応(こた)えるまでわね)

 コーラス祭以後、私とあなたの仲が誤解されたみたいで、接近して来る男子は誰もいなくなり、高校生になっても彼氏持ちの噂が広がっていたのか、ラブリーな展開は全然無かった。

(あなた以外はね)

「鈍(にぶ)いね、あなたは。好きになった女の子には一途で一生懸命なのに、周りにあなたを好きになった女子が、大勢いても気付かないなんて……」

 あなたの弓道の試合を応援するつもりで行った武道館で、多くの女子が凛(りん)んと弓を引くあなたを真剣に応援しているのを知った。あなたと親しくしたい、幾人(いくにん)もの女子がいる事も知った。

(なのでぇ、応援せずに帰っちゃったわ)

 そして今、あなたは鈍くなくて、惚(とぼ)けているだけなのも知っている。

「そうなのか? 僕は鈍いのか……」

(そうよ。あなたは鈍いから、鈍いフリをしないでね)

 二度、探りを入れても彼のこの反応……。以前に御付(おつ)き合いしていた女性がいたとしても、今は終わっていて、そんな関係の女性はいないと思う。

 私の男性関係を訊いて来ない彼に、女性関係の疑りを抱いたけれど、これで私の気が済み、疑りは薄れて行く。

 彼が、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、私を探していてくれたのなら、彼が勤(つと)めていた会社の受付か、何だか、知らないけれど、電話の応対をした女性が彼と寄りを戻そうと迫っても、きっと彼はきっぱりと断わるはずだと信じれる。

 彼も私の男性関係に不安と疑いを持っていると思うから、これからは彼に不安を抱かれるような態度や言動に気を付けようと、これも心の中で誓う。

(だから、私達は上手く遣って行けて、これからも大丈夫だ!)

「あの大きなオートバイは、まだ持っているの?」

 気が済んで話題を変える私の問い掛けに、彼は一瞬、眉を顰(ひそ)める。

(あっちゃー、やっちゃったかな?)

 こんなに気持を暗くさせてしまうなんて、あのラストタイムになった横浜市の大桟橋(おおさんばし)へ行った日を思い出させてしまったのかも知れない。

「ああ、V-MAXだろ。まだ持っているよ」

(V-MAXっていうんだ。これからは、覚えとかなくっちゃね)

 険しくさせた目尻と口許で曇らせた彼の横顔と言葉の語気(ごき)から、不機嫌(ふきげん)と警戒が溢(あふ)れていた。

 彼の瞳は頻繁(ひんぱん)に私へ動いて、私の表情から続く言葉を探ってる。

(あっ、マズイ! 違うのよ。誤解(ごかい)しないで!)

「夏になったら乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」

 彼の曇り顔が何かの反射光に照らされたように明るくなって、『マジに?』、『乗りたい?』と横目で私を見ながら頭を傾げて問い返して来る。

 『だよ』って頷くと、前を見ながらも『うん、うん』と笑顔で首を縦に振ってくれた。

「勿論! いいさ。ぜひ乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」

 失言(しつげん)したかもと不安気に表情を覗き見ようとする私に、彼は明るく言った。つられて気持が曇り掛けていた私は、そんな彼の明るい表情に救われてホッと安堵する。

(機嫌(きげん)が直ったみたいね)

 目的地を教える前に、ダメ押しの意地悪(いじわる)を言う。

「あのヘルメットも、有るの?」

 私の残り香を後悔とジェラシーの思いで彼が嗅いでいたかも知れない、大桟橋の往復で私が被っていた、あのフルフェイスヘルメットだ。

 彼の眉間に一瞬、何かを思い悩んでいるような、探しているような、筋が現れて消えた。

「有るよ」

 眉間に現れた筋の意味は、たぶん、電話の女性も同じヘルメットを使っていて、その残り香を私に気付かれてしまうと思ったのだろう。

(私が使う時に、ワザと『あれっ、私のとは違う香水の香りがするよ』って、意地悪を言ってみたりして……)

「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸(たっと)の浜もね。休みを取って時間を作ってくれる?」

 私の望みを言った。近年は砂の堆積(たいせき)が多くて、遠浅の海は狭(せば)まっているかも知れないけど、もう沈めたりしないから、いっしょに泳いだり、潜(もぐ)ったりしたい。

(私のアトランティスから来た男泳ぎに、サザエとウニの採り方も教えてあげるわ。あっ、そうそう、一番多く採れるシタダメもね。シタダメはね、関東のナガラミっぽいんだけど、もっと尖(と)がっていて、岩の欠片(かけら)みたいんだよ)

「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」

(日帰りじゃないから、支障が無いようにして来てね。お泊りは明千寺の御里で、あなたをみんなに紹介して、楽しく宴会するの)

 網戸(あみど)の窓と縁側(えんがわ)から夜風が通る部屋に吊られた蚊帳(かや)の中の布団(ふとん)で、あなたに寝て貰う。

(たぶん、抵抗無く出来ると思う私は、添(そ)い寝(ね)をして腕枕で寝かして貰うんだ。熱帯夜だったら、汗っかきのあなたと私は寝苦しくて、凄く寝相(ねぞう)が悪いかも。きっと私はあなたを蚊帳から蹴(け)り出しているから、ごめんなさい。それに、二人とも裸で転がっているよね)

「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」

 以前、彼が遣ってみたいと言ってくれた事を訊く。

「うん!」

 初めて担ぎ手になった彼が、みんなにからかわれたり、要領を得ずにもたつく彼が、海の中や浜で倒(こ)けて、担ぎ手衆に踏み潰(つぶ)され捲(ま)くりにならないように、キリコを担ぎ出すまで、ずっと、あなたの傍(そば)に私はいるつもり。

(連中が勧(すす)める酒は、飲ませてあげないよ。あなたは私が選んだモノだけ食べて、コーラやジュースで乾杯するの。幼馴染(おさななじみ)や地元衆へのフォローは、私に任(まか)せなさい!)

「それと相模原(さがみはら)へ来たら、いっしょに行きたい処(ところ)があるんだ」

 たぶん、そこは彼にとって負のトラウマの場所になっていると思う。そして、私も彼とは違う意味で厭な場所だ。

「どこ?」

 直ぐ様、一度行った場所をトレースするとは、全然思っていない彼が明るいトーンの声で訊いた。

「もう一度、大桟橋を歩きたい」

 『大桟橋』で顔が強張(こわば)り、自分の小さくなる口の動きと声の沈むのが分かる。

「……いいよ」

(あなたと行った大桟橋を、何度も私は、上書きしようとして果たせなかったのよ……)

 その拘った上書きの試みはレイプの窮地を招いて、私は弄ばれる事態に陥(おちい)る寸前まで気付けなかった。それは絶対に、私の操(みさお)を失わせて身体と心に深くて大きな傷を負わせたはずで、その先の私の人生を縛り、自由は奪われていたと思う。

 だけど、絶望の奈落に陥る寸前、あなたの代わりのスタンガンが徹底的にレイプの窮地を砕いてくれた。

(そう、私は人生最大のクライシスで汚れ切ってしまうのを、あなたに救われていたんだ)

「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。そこでディナーを食べよ!」

(これまでの『大桟橋』の全てを、あなたとの思い出だけにしてしまいたいの……)

 私は『大桟橋』を気持が退けて躊躇う場所にしたくなかった。今度は、あの陽溜(ひだ)まりをあなたと手を繋いで歩きたい。

「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」

(ディナークルージング? なんか、そんなのが有ったような……)

 確か、大桟橋に横付けしている白い客船で、二時間くらい東京湾の夜景を楽しみながらディナーを食べる洋上レストランだ。選択肢としてプランを要チェックしておこう。

(ディナークルージングも有りだけど、それは、その次ね)

「うん、二人で夕方のセピア色に染(そ)まる横浜港を見て、それから二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒飲めるよ。そして夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ、そうそう、セッティングは、私がするから心配しないで」

 あれから何度か、あなたは行っているでしょうが、それは一人で来て黄昏ていただけで、大桟橋内のテナントのどれも見たり、利用したりしていないと思う。

「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」

(今度はね、伯父さんから去年の暮れに贈られたジレラ君で、タンデムして行くのよ)

 ジレラ君は伯父さんに御願いしたら、クリスマスに赤と緑のリボンで彩(いろど)られたリースを付けてプレゼントしてくれた。防犯のセキュリティ的に危(あぶ)な気(げ)な歩きよりも、戦闘的になれるジレラ君は嬉しい。

 本当に、相模原と相模大野の街は大桟橋と合わせて、彼の匂いで上書きして仕舞いたい!

「ん! まだ?」

 三つの地名は、見ても、聞いても、最初に浮かぶイメージを彼にしたい。

(厭な記憶は、地名の他に一つか、二つ、単語を聞かないと思い出さないようにするんだ!)

「来年の春は相模原の、満開の桜並木を歩かない?」

 母と歩いた桜並木の通りを、あなたと二人で桜吹雪の中を歩きたい。

(ごめんねぇー。自動車のライセンスは高校三年の夏に取ったけれど、まだ、私の専用車が無いの。別に中古の安いので良いのに、両親とお姉ちゃんが、軽はダメとか、古いのは危ないとか、さんざん言ってから、お金の余裕は無いなんて言うんだよ。お姉ちゃんは、新車を買って貰っているのにだよ! だから、ジレラ君で行くね。あと、雨降りだとバスになっちゃうわ)

「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」

(知ってんのかぁ……。ああ、やっぱり。相模原で私が感じていた、あなたの気配は、錯覚じゃなかったんだぁ)

 彼は去年の桜咲く春にV-MAXに乗って来て、私との遭遇を求めて相模原や相模大野の通りを走り回っていた。

「決まりね。それじゃあ、約束よ」

 彼の前へ右手の小指を立てて突き出し、彼の小指が絡むのを期待する。

「約束は、……しないよ……」

(えっ!)

 予想外の思いもしなかった彼の否定する言葉と、指切りを拒絶した彼の態度に、私の瞳は泳いでしまう。でも直ぐに『どうして』と彼の顔を見据えて睨(にら)んで遣った。

「約束しない? 約束できないの?」

 両肩が小さくプルプルと震え、両足の膝下もガクガクしている。

(なんでなの? 約束してよ! 私は不安なの! これからも音信不通にならないように、連絡を取り続ける為の保険なのに!)

 もう、焦りを声に出してしまいそう。あなたのその言葉の理由(わけ)を知りたい!

「違う! もう、約束なんかで縛られたり、確かめ合う仲じゃないと思うからだよ!」

(それって、約束で縛る権利の仲じゃなくて、互いに縛られるのが義務って事ぉ?)

「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」

 涙が出そうになった……。彼が今まで、どんな想いで私を好きでいてくれたのか、朝のバスで私の横に立っていた彼の気持ちを知った。私への権利ではなくて、私への義務だと告げる彼が嬉しくて愛しい。

「早く着き過ぎちゃうな。どこか寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」

 彼の提案は、私も同じ気持ちになっていたから嬉しい。この時間に空港へ着いても、それなりに時間を潰せるのだけど、せっかく彼と再会できたのだから二人っきりになれる静かな場所へ行きたい。

(この近くだと……)

 パッと思い付いたのは、確か金沢市へ引っ越して来た年に行った事がある、この辺りに在る温泉。

(あれは……、赤、赤穂……、……谷、そう『赤穂谷(あかほだに)温泉』だ!)

 母が近所の人から聞いて来て、家族みんなで行く事にした『赤穂谷温泉』。明千寺に居た頃に行っていた能登の和倉(わくら)温泉や真脇(まわき)温泉以外で、私が初めて行った温泉だったから、その印象的な名前も有って良く覚えている。

 温泉の宿は一軒しかなくて、その一軒しかない宿が『赤穂谷温泉』だった。たぶん小松市の山手側だったと思うけれど、奥まった静かな場所に隠(かく)れ家(が)みたく在って、周りに目印(めじるし)になるような高い山も無かったから、記憶も曖昧(あいまい)で場所の自信は全然無い。

 夕食の料理の魚は鯉(こい)や岩魚(いわな)、お肉は猪(いのしし)と鴨(かも)、それと山菜をいろいろ食べたのも覚えている。川魚とお肉は初めて食べる物ばかりだったけれど、とても美味しかった。ゆっくりと入ったお風呂でお姉ちゃんと、『癒(いや)されるね』なんて、テレビドラマのOLのようなセリフを言っていた。

 温泉宿は別に山奥でもない町外れの低い山際に在るだけなのに、夜は建物の脇を流れる小川のせせらぎしか聞こえなくて、明千寺の御里よりも心細くて不安になった。

(『静か過ぎて、ちょっと恐いかも』って言ったら、お母さんとお姉ちゃんの間に寝かされたっけ)

 二人とも近くに寄って来て手を握っていてくれた。

 その『赤穂谷温泉』へ彼と行きたいと思った。

(日帰り客として、鯉料理を食べて、お風呂入って、男の人と……、じゃなくて、彼と人生初の御休息をしちゃう? ランチでも個室の座敷が使えて、伝えれば、二時間は干渉(かんしょう)されないはず……)

 それは彼に操を捧(ささ)げるって事。気持ち的には全然構わなくて、寧(むし)ろ、そうなりたい気分なのだれど、再会した初日だと流石(さすが)に節操(せっそう)が無いと思われそう。それに、お昼メニューの過ぎた時刻だし、既にランチを食べて来ている。でも、週末だからお風呂だけでも入れると思う。でも二人っきりになれない。

 これからだと食事は夕食になるけれど、夕食は宿泊客のみだし、それに時間的にも無理だ。だったら立戸の浜の時のようになれるといい。

「海……、海が見たい。日本海を……」

(港じゃなくて、海! 砂浜だ!)

 彼と海に行けば、心が全て晴れると思った。今日、彼と出逢えて混沌(こんとん)としていた気持ちの三分の二が晴れ渡った。残りの三分の一も早く晴らさないと、せっかく晴らした気持ちが侵食(しんしょく)されそうに思えた。

(もう、以前みたく、三つに一つの嘘や聞き流しを、彼にしたくない……)

 金石の砂丘で私の拘りを薄れさせた。立戸の浜で蟠(わだかま)る気持ちを軽くしてくれた。横浜大桟橋で眩しい陽射しの暖かさに感動させてくれた。今日もまた、海辺で私の迷いを無くして欲しい。

「行ける? 時間は大丈夫かな? 夕陽を見たいのだけど?」

 昼前に空一面を覆い尽くしていた千切れ雲の密集は、海からの偏西風(へんせいふう)に散らされて、ついさっきまで間隔を広げて羊雲(ひつじぐも)の群れになっていたのに、それも吹き払われて疎(まば)らになっている。

 国道から見える海の上空は、すっきりと晴れて斜陽の暖かな陽射しに私達は照らされていた。

(二人で顔を紅く染めて、鮮(あざ)やかな夕陽が見れそうだね)

「時間は……、空港での夕食時間に余裕を持たせて……、二時間は大丈夫だ。行けるよ」

 彼は優しい。きっと、空港近くのビューポイントへ連れて行ってくれるつもりだ。

「ほんと? 行ってくれるの?」

 私の顔が嬉しくて笑っている。

 彼と見る夕陽の海は、とても、私を幸せにさせて、もっと開放的にしてくれると思う。

「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀(かが)の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから気持ち良いかもな」

(片野の浜? 名称に『片』が付くから片山津温泉の近くかな? でも片山津は柴山潟っていう湖の畔だし……、違うな)

「その片野の浜って知らないけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」

 小松空港と赤穂谷温泉以外に加賀地方の有名処を、私は行った事も無くて殆ど知らない。福井県なら石川県の近くに在る東尋坊(とうじんぼう)の断崖岬と、浅瀬に掛かる橋を歩いて渡る神の住まう島、雄島(おしま)は中学生の時に行っている。

 行き帰りの車中では連れて行かれるままに、お姉ちゃんといっしょに寝ていて何も景色を見ていなかったけれど、東尋坊の柱状の岩が連なる岩壁(がんぺき)の高さと、島全体が神域になる雄島の海側の草地へ抜けるまで通る、鬱蒼(うっそう)とした原生林の暗くて不気味(ぶきみ)な周遊道は覚えている。

「でも、日没まではいられないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、その時刻には空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と思うけど」

 大体のタイムスケジュールを彼が知らせてくれる。残念ながら、彼といっしょに夕陽を見るまでの時間が今日も無かった。

(トヤン高原での不思議体験が有る、あなたとなら、水平線がぬらぬらと紅く輝くトワイライトタイムに、凪(なぎ)で大気が停まった金石の町のような、セピア色の摩訶(まか)不思議が起きるかもと、期待していたのに……。まぁ、いいか)

「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は次回ね」

 サンセットに感動するのが目的じゃない。私は彼に救いを求めている。

(あなたに迷いを打ち明けたいの。私は、あなたに救われたいの)

「それじゃあ、行こう」

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「あそこに、寄ってもらえるかな?」

 山側環状道路から続く加賀産業道路が国道八号線へ合流して更に高架を終えた平地の交差点で、彼に近くのコンビニエンスストアへ寄ってくれるように促した。

「えっ、ここに用?」

 疑問と詮索と好奇(こうき)が入り混じった顔を傾げた彼が訊く。

 金沢市内から一時間も走らずに着いてしまう小松空港まで、食事も、土産物を買うのも、空港で済むはずだから、途中のコンビニに寄るとは思ってもいなかった彼が訊いた。

(たぶん、これから行く浜には無いかも知れないし、有っても仮設みたいのしかなくて、そんな個室へ入るのを彼に見られているのは、まだ堪えられないかも……)

 空港までは我慢できそうになくて、ここの御手洗いを借りたかった。それに買いたいモノも有る。

「そう、ちょっと用なの。……用を足(た)すの」

 彼が言った『用』に、『足す用』を引っ掛けて答えてみる。

(これで察してくれると、いつも安心ね。分からなかったら、鈍くて要注意でしょう!)

「ああっ、OKだ!」

 ピンと来た顔の彼は、頷いて察してくれた。

(良かったぁ。彼はできる男かも?)

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 コンビニの御手洗いで用を済ませて、アイスフリーザーから御目当ての品を見付けてレジへ持って行く。濃い緑色の地にオレンジ色の花を散らしたのと、白地に薄いピンクの花房をプリントした銀紙で包まれた四角い棒のアイスクリームを、それぞれ一本づつ買った。

「それなに? 買ったんだ?」

 さっき、コンビニのパーキングにSUV車を停めた時、三十分ばかり運転していただけの彼が額と耳筋に汗を掻いていた。何もせずにサイドシートに座るだけの私も項に小さな汗の玉を浮かせていた。

「うん、アイス」

 車内循環にしたエアコンディションは、ドライメインの温かくもない温度設定なのに上半身が汗ばんでいた。

「アイスクリーム? 今、食べるん?」

 汗ばんだ彼の匂いと、自分の襟元から臭い立つ私の汗の臭い。

(彼も、汗っ掻きなんだ)

 私は二人とも、暑がりで汗(あせ)っ掻(か)きなのを初めて知った。

(だから、火照る身体を冷ますのは、アイスクリームでしょう!)

「ううん、後で。浜辺で食べようよ」

 片野の浜ってところまで、まだ少し走ると思うし、折角、いっしょに食べるのだから、立戸の浜の時のように寄り添って食べたい。

(私は彼の臭いが厭じゃないけれど、彼は私の臭いを、どう感じているのだろう?)

 寄り添いながら、それを訊いて遣りたい。そして、彼と二人で大桟橋へ行った日、相模大野駅前から急いで着替えに戻った往復を駆けていて、彼の大きなオートバイにタンデムした時には汗が噴き出していたから、あの朝も私は汗の臭いが強かったはずだ。それも訊きたい。

「だったら、そのままだと車内のエアコンで溶けるかも。だから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」

 そう言って笑う彼は、私から渡されたレジ袋を後部シート脇のボックスへ仕舞った。

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 コンビニから八号線を更に南へ進み、大聖寺(だいしょうじ)の街を抜けて地元の人しか知らないような農道を走ると片野の浜に着いた。片野海水浴場と護岸壁に書かれた駐車場に停めて、後部のフリーザーボックスからレジ袋を取って来ると言う彼は、保冷しているアイスを忘れてはいない。

「よく道を知っているねぇー」

 木々が生い茂る丘沿いの道を、幾つかの集落を通り過ぎて進んだ所の突き当りが、斜陽を浴びる白砂の浜が眩しい片野海水浴場だった。

「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」

 自慢げに答える彼に、ちゃんと予備知識や経験値を持つ逞しさを感じた。でも、護岸堤から眺めるだけで砂浜を歩くとは考えてもいなかった。

「……砂浜を歩くの?」

 ドアを開ける彼に、履いて来たブーツを見ながら私は小声で聞き直す。

「あっ! そのロングブーツはレザーだよね。それにハイヒールだ。……砂浜だと刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」

 私の足許を見て察した彼が問題点を指摘した。砂浜に刺さるヒールで歩けなくなるから、彼の望みには応えてあげられない。それに、ブーツは砂だらけのキズキズになってしまう。

「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」

 言いながら、外へ出た彼は後部座席のドアを開けるとショートブーツを掴(つか)み、私の横へ持って来ると、真横のドアを開けて私の足許へ置いた。その膝丈のショートブーツはカジュアルなデザインで、今日の私のコーディネートにミスマッチだったけれど、歩き易そうだ。

「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」

(ラッキー!貴方の妹さんのサイズと同じだぁ。妹さんの身長は知らないけれど、百六十センチメートルの身長の私は、二十三センチメートルの足サイズだと、大き目なのだろうか? 貴方に大きな足と、思われるのは嫌だけど、プリッと膨(ふく)らむ脹脛(ふくらはぎ)に、スラリと真っ直ぐな脛骨に、キュッと締まった足首の魅力で許してくれる?)

「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」

 靴底のゴツイパターンに『彼の妹は何処を歩いているのだろう』と、考えながらブーツを履き替えていると、横に立って私を見下ろしているままの彼に気付いた。

「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」

 互いに見目麗(みめうるわ)しい若き男女。性欲を感じない方が可笑しい。でも私はフラッシュバックが怖い!

「ああっ、ごめん。そっち側の見えない所に離れているよ」

 彼は車体の反対側へ行き、更に堤防際へと離れた。『ちょっとぉ、離れ過ぎって』思うけれど、素直に私の言う事を効いてくれた彼が嬉しい。

 自分専用としているSUV車に妹の履き替え用のブーツを乗せているなんて、仲が良くて、ドライブへ行ったり、買い物に付き合ったり、送迎も断わらない、優しいアニキなのだろうと思った。

(彼の妹は、いくつなのだろう? 高校生かな? もっと離れて、中学生? 小学生? それとも近くて、一つ下とか、もしかしての双子の妹かも? そして、アニキが知らない、付き合っている彼氏がいたりしてね。でもでも、……まさかの、密(ひそ)かに想いを寄せている、一方通行のブラコンで? 私、めちゃめちゃ恨(うら)まれたり……)

 これまで、彼が『妹がいる』程度しか話していなくて、少な過ぎる妹情報から勝手に妹イメージを空想してしまった。兎(と)に角(かく)、明るい性格で、私を受け入れてくれる優しい妹さんだったら良いと願う。

 中学、高校でも、現在の大学でも、部活やサークルに入っていないから、年下の後輩と交流した事が無くて、家に年下の女の子や男の子が居るのをイメージできない。頼られる感覚や構い遣る感覚が上手く想像できなくてしっくりしない。

(姉は妹の私を、どう感じていたのだろう? アニキなら男性化した姉として、異様な想像ができるんだけどな。可愛がってくれそうだけど、いろいろ面倒臭そうだ!)

 三歳年上の姉は、家でも、外でも、裏表無しに積極的で明るい。母親似の人懐っこい顔は初対面から好かれ易く、多くの交流先で仕切っているのを私は知っている。

 女子短大卒業後は、『髪結(かみゆ)いの女房(にょうぼう)になる』とか宣言して美容師専門学校へ通い、今年から金沢市の中心街のファッションビルに在る有名ヘアサロンに見習い美容師として勤務している。姉曰(いわ)く、『私って、ヘアデザインのセンスが、有るんだって』、だそうだ。高校生の時に出入りしていた柿木畠の喫茶店で知り合った彼氏の美大生は、加賀友禅の染織作家になった今も、お付き合いが続いているらしい。

 そんな事を考えながらブーツの履き替えを済ませて、彼に問題無く履けた事を伝えに傍へ行く。

「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」

 車内の暖気に温められて汗ばんでいた身体は粗めの砂浜を少し歩いただけで、額や項に汗の玉が浮くらいに熱くなっている。雲を吹き払って晴れ渡らせてくれた風は凪(な)いで、頬にひんやりと触れる四月初旬の大気も涼しげにしか感じられない。だから、ギブミー・アイスクリーム・ナウ!

「砂浜を少し歩くから、まだ汗爆だろうし、それにカチンカチンだから、着くまでに、ちょっとは食べ易くなると思うよ」

 浜辺の左手の方を見て、そう言いながら、彼はキーのリモコンでSUV車をロックする。

「ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」

 彼が指差した間近に迫るそれは、浜を歩き始めた時から異様な形で見えていて気になっていた。全体が緑色と黄色が混ざったような白っぽい灰色で、ドロドロ、ウニウニ、ニョキニョキと巨大な異形が融(と)け果(は)てた一片(いっぺん)のように見えた。石川動物園近くに在る能美市の和気(わけ)の岩(いわ)とは全然違う。

(たしか和気の岩石は、二千万年前に形成された流紋岩(りゅうもんがん)の大きな露頭(ろとう)だったかな……)

 スイスイと足場を確保して登る彼に手を引かれながら、妹さんのブーツに履き替えた御蔭で、どうにか滑らずに私も攀(よ)じ登って一番広い塊の上に立てた。

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 目の前に春の陽に輝く真っ青な海原が広がり、右には今し方歩いて来た海水浴場の砂浜と海に張り出す岩盤の岬が見え、左にもずっと向こうまで白い砂浜が幅広く続いていて、保全されているらしい低く平らな砂丘は一面の緑に覆われている。背後の広い松林もずっと続いていて、こんなにも世界は広くて美しいんだと思わされてしまう。

「ここは初めて。広い砂浜がずっと続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生(ぐんせい)はハマナスでしょう。すごいねー、ずっと向こうまで群生してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙(きみょう)な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀にこんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたね」

『はい、これ』と、アイスが入ったレジ袋を渡して来る彼に訊いた。

「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕もこの岩が不思議で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だったよ」

 子供の知識欲や自主性を促す彼の父親は素敵だと思いながら、パッケージを破って取り出したアイスを咥(くわ)えた。

(冷たい……、でも、気持ちいいし、甘くて美味しい)

「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に金持ちの長者様が住んでたの? 今も、何か変なのが棲(す)んでいそう」

(長者……。普通、何々長者っていったら、お金持ちだよね。こんな場所に屋敷を構えていたの? でも大きな岩盤の上だから、外的から守り易いし、自然災害にも安全かも)

「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承(でんしょう)じゃ、近くの大池に棲んでいた大蛇(だいじゃ)みたいな龍(りゅう)が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮(く)らしていたんだってさ。この岩も軽石疑灰岩(かるいしぎょうかいがん)という、何億年も前に噴火(ふんか)した海底火山の火山灰の堆積層(たいせきそう)で、その成(な)れの果てだって」

(やはり、得体(えたい)の知れないモノがいたという伝承が有った。大金持ちと若くて美人な娘。いつの世も強い男はエロに満ちているなあ。でも、娘は龍なんだ)

 齧(かじ)るアイスが汗ばんだ体を冷まし、ストロベリー味の甘さは気持ちを優しくさせる。

「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっとみんなに慕(した)われていたんだよ。そう龍が娘なって寄り添うくらいにね」

 龍が棲まう伝承や伝説は大池や険しい山頂に多い。
 『立山の頂はドラゴンピーク』だと表現した記述を、明治期に何度も日本に来て、富山湾の氷見市から能登半島の七尾湾北辺の穴水町まで船に乗って旅をしたアメリカ人が書いた、日本人への偏見に満ちた旅行記を高校の図書館で読んだ事が有った。
 そのアメリカ人が、火星に運河が在ると唱えたり、第九番惑星の冥王星も存在を予言していた有名な天文学者と同一人物だと、後日に知って驚いた。
 そういえば、福井県と滋賀県と岐阜県の県境に在る夜叉ヶ池(やしゃがいけ)にも龍が棲みついている伝承が有ったっけ。
 人の来ない山奥の分水嶺(ぶんすいれい)に在る夜叉ヶ池に棲む引き篭(こ)もりの雄龍(おすりゅう)が、雨を降らす代わりにセコく代官の娘を嫁(とつ)がせる言い伝えだったか、剣岳(つるぎだけ)に棲まう雄竜の彼氏を持つ雌龍(めすりゅう)が、夜叉ヶ池を氾濫(はんらん)させてまで逢引(あいびき)に行く伝承だったか、節操(せっそう)の無い龍の伝説だ。
(運河は火星人が造って、火星には高度な文明が存在すると説いていたアメリカ人は、剣岳が立山の北隣の高峰だと知っていたのだろうか?)
 説明されても理解できない短大のサークルの冬季合宿に参加して長野県に行った姉が言っていた。
『北アルプスの高い壁のような連峰に日本海から押し寄せた雪雲が、まるで、あんたが浸かった湯船の縁からお湯が溢れるように、連なる峰々を越えて雪崩のみたいに下ってくるんだよ。更に中央アルプスの南側に居たら飛騨を通り、御岳を廻った雪雲が、北アルプスと同じように、一枚岩みたいな連峰の頂を越えて来るんだ。高く真っ青な冬の青空を背景に、深緑色の連峰の白く雪を積もらす稜線を越えて下る真っ白な雲の群れ、凄く美しいんだよぉ。凄く寒いけどね。雪雲の前線は連峰の向こうに、もっとずっと高く、人跡未踏の黒い山脈のように見えてさぁ、越えて来る雪雲は、稜線から攻め降りる未知の白い軍勢のように想像しちゃうんだな。いつか、あんたも彼氏とドライブして見てくれば、あたしの感動が分かると思うわ。御奨めのワンダフォーなスペクタクルだよ!』
 サークル活動じゃなくて、彼氏とドライブしてたのをバラシながら、私が入ると御風呂のお湯が激減するみたいな比喩は失礼しちゃうけれど、姉がポエムのように語った日本アルプスの北と中央と南の三つの連なりの風景は、いつか必ず見てみたいと思っている。

 兎(と)に角(かく)、雄に雌、小さな蛇(へび)に、大蛇に、蝶(ちょう)と、大小の形や性別なんて関係無く変化(へんげ)が上手な龍だったはず。

 そっちも、こっちも、縄文(じょうもん)時代に繰り返した大海嘯(だいかいしょう)で遣って来た水竜(すいりゅう)の末裔(まつえい)だったかもね。

(今も、池底の泥深く、眠り棲んでいたりして……)

「かもね。この辺(あた)りは明治(めいじ)の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠(さばく)みたいな砂丘(さきゅう)だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周(まわ)りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」

 確か、彼氏持ちの雌龍の話は大正(たいしょう)の初め頃で年代が近し、大旱魃(だいかんばつ)の話の水飢饉(みずききん)で雨乞(あまご)いをするのは、どこか、砂漠に植林するのと似(に)ている。

「牛首長者が亡(な)くなってから、龍は大池に戻(もど)ったんだね。龍は大地の精(せい)を食べて水気(みずけ)を放つそうだから、今も水底深くに潜(ひそ)んでいるかも。で、その大池っていうのは、どこなの? 」

 夜叉が池は、龍が池から離れるだけで氾濫して大洪水(だいこうずい)。でも、加賀地方の湧水池が湧(わ)き出す水で氾濫した伝承を聞いた事も、読んだ事も無い。

 高熱の炎(ほのお)を噴(ふ)くゴールドマニアの西洋のドラゴンと違って、東洋の龍は水脈(すいみゃく)を司(つかさど)り、雨と雷を纏(まと)う。

(龍が翔(と)べば、水気も動く。だから氾濫するのじゃなくて、水脈を断(た)たれた池は干上(ひあ)がって行くと思うな)

「さっき通って来た片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬に熊手形(くまでがた)の網(あみ)を投げて鴨を生(い)け捕(ど)りにする猟で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期(はんせいき)の初め頃までは、もっと大きくて深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」

 一万年もの長い縄文期に何度、大海嘯が有った事だろう。現在の山並みの際まで海が迫り、大きな川筋は入り江になっていて、当時の縄文人達は台地上や丘陵上の横穴や竪穴の住居で暮らしていた。

 その大海嘯とは逆に、海辺が現在の水平線の彼方まで退(しりぞ)いた年代には、岸辺に集落が作られて海を越えた交流をしていたと思う。

 牛首はきっと、そんな縄文人、越の国人(くにびと)の末裔(まつえい)だ。

「そうねぇ、きっと、娘になって龍が牛首長者の屋敷(やしき)に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」

(越の国の末裔で貿易長者の牛首と、大海嘯の名残りに棲む雌の水龍の出逢いなんて、これは時空を越えたラブロマンスだあ。サクセスガイ ミー ツー ドラゴンガール なぁんてね)

「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼(たよ)らなくても迷(まよ)わずに来れたしね」

 彼が横浜港の大桟橋へ辿り着くまでに何度も迷っていたのは、行き当たりばったりの思い付きで、しかも、初めて行く場所なのに、ろくすっぽネット地図でルートを覚えずに、通りの雰囲気と方向の感で行ったからだと分った。

「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」

(感で走って迷うくらいなら、私に頼ってくれれば良かったのに……)

 二人で調べながら辿り着ければ、もっとずっと、違った想い出になっていたと思う。

(でも、あの日は、あなたも、私も、素直になれていなかったな……)

「今も一緒に仕事をして稼げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」

 照れ臭そうに私を見ながら、彼が言う。

 彼は家族に恵まれていた。決して周りに流されない彼の思考と性格は、彼と家族の意思の力だ。

「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」

 彼との意味深な未来を、素直な言葉にしてみた。

「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹もいっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」

 大きく見開かれた目が左右に振られてから伏せ目勝ちに止まると、口が少し開いて彼は笑顔になる。

「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」

 私達の躊躇いと、迷いと、空白を埋め切れないまま、ハッピーパラダイスへ人生がシフトしそうな気がして来る。

(なら、人生の価値観を確認しなくちゃね)

 嬉しい気分で水平線の曲線を眺めながら、これから先、まだまだ続いて何が有るか分からない二人の人生を幸せ豊かに寄り添う為にと、私は思う。

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「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと答えてくれる?」

 授業の臨床実習で行った病棟で垣間見た治療が迷いの蟠(わだかま)りとなって、私の気持を拘(こだわ)らせていた。

「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから言ってみて」

 『変な事』ってフレーズだけで、大抵の人は嫌がって聞くのを避けようとするのに、彼はワクワク顔でノリノリだ。

「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」

 瞳に光を宿した彼のワクワク顔が、瞼を閉じて眉毛を寄せ、眉間に皺を立てたまま唇を固く結ぶ、怪訝(けげん)な表情になった。

「外見には全く動かないの。たとえ、もし意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻も。耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。でも、検査や装置のデータでは脳死なの」

 呼吸が無い心肺停止状態でも、脳の働きが完全に失われているとは限らない。

 脳死の死亡判断域だけど、ほぼ脳死で完全死亡に到っていない奇蹟みたいな仮死状態。最先端医学でも甦生(そせい)は期待できないと、私に説明してくれた人も、自身の理解に多くの想像が入っていると言っていた。

「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に死亡の認識じゃなかったっけ?」

 脳の機能が停止すれば、自律神経のパルスは無くなり、心臓や肺臓などの臓器は動かなくなり血流も停まる。

「ううん、ほぼ脳死状態。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が永久停止して腐(くさ)り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」

 瞳孔が全開になっていても、厳密には脳が死んでいるとは限らない。でも、生物学的、社会的、法律的、倫理的に生死を仕切る必要が有り、悲しい御臨終(ごりんじゅう)とされてしまう。だけど、もしも、肉体が腐らないのなら、それは魂(たましい)が宿り続けているからで、その究極の仮死状態は何かしらのスイッチが入れば、再起動してリライフできるかも知れない。

「それは、コーマっていう昏睡(こんすい)状態の事?」

 コーマという言葉自体が昏睡の意味だ。人事不省(じんじふせい)でも目覚めを期待できる泥酔のような眠りだはなくて、重度の意識を失う障害によって外部からの刺激に無反応状態で眠り続けている昏睡を指す。

「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと半年以上も反応のない永続的な植物状態」

 深昏睡は、コーマよりも更に危険な最も重度な昏睡状態。眠っていても発生する体動を自発的に行えず、筋肉が弛緩(しかん)して失禁などの排泄(はいせつ)行為を無意識下でしてしまう。植物状態のような深く眠り込んでいるのか、脳の機能が完全に失われているのか、分らない状態だ。

 更に超深昏睡の状態は、あらゆる強い刺激に対して何の反応も無く、角膜(かくまく)反射対光反射などの各種反射も無い。自発呼吸もなくて人工呼吸器などの生命維持装置を付けなければ生存できず、普通は脳死の判定がなされてしまう。仮に本人に意識が有っても、他人からは死亡と認められてしまう。

(生きたまま埋められて土葬されたり、火葬で焼かれたり、されてしまうみたいな……)

「自分が、そうなったとしたら……、あなたはどうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して期待し続けて貰いたい?」

 皮下組織まで燃える重度の全身火傷から奇蹟的に再生した兵士が最前線へ復帰したと、戦争中の傷病事例の文献(ぶんけん)で記述(きじゅつ)を読んだ事が有った。全身黒焦げの兵士が、どんな体質や遺伝子を持ち、何処の出身なのか不明だと書かれていたが、事実らしい。

 破壊され燃え尽きた戦車の車内から発見された時は、炭化して動かない五体でも、見開いた目が動き、口と咽(のど)は焼けていたが肺は鼻腔から息を吸い、焼けなかったのか、再生したのか分らないが、鼓膜(こまく)は声と音を聞き分けていたそうだ。

 そんな、有り得ない事が起きるのだから、愛する人の肉体が朽(く)ち果てるまで、この世からいなくなったとは認めたくない。

「その状態は、喩(たと)えるなら棺桶(かんおけ)くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」

(何、それ! その極端な閉鎖空間の例えは……)

「真っ暗で何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも意識が有るかも知れないんだ……」

 凄く厭な、とても自分の身に起きて欲しく無い状態を、彼は想像で話す。

「現在の医療機器では検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」

 現代医学的に矛盾(むじゅん)だらけの生と死だけど、生きているのなら、せめて夢を見ていて欲しいと思っていた。

「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど本人は覚えていないでしょう」

(どんな夢かは覚えていなくても、せめて、夢を見ていた自覚だけでも、有ればねぇ……)

「検診で瞼を開いても瞳孔反射の虹彩収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても明暗がわかるくらいが精々。……固定焦点になっているかも? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも痛いのも感じていて、精神だけは生きて思考しているとしたら……」

 概念的にも、実際的にも、死亡状態。だから、私の想像域での仮説に過ぎない事は解っている。

「たとえ、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて匂いも分っていても、僕はそれを君に伝えられない。瞼を開けられて愛しい君の顔や姿が見えても、それを君へ知らせる事はできない、……のだろうなあ……」

(そうよ。そんなあなたの状態を、誰も知る事ができないの。)

「そんな状態で僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、やはり、今日明日に陥っても、百歳になって陥っても、そうなったら、そんな僕は死んでいるのと同じだ」

(ううん、違うよ。そうはならないわ。……私だけは、あなたの様子に気付くから……)

「だけど、あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界のそこにあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」

 言ってしまった言葉は、私の我(わ)が儘(まま)だ! 気付いてあげれても、『苦しんでいるのか?』までは分らないと思う。私はあなたに、私の身勝手な思い込みを押し付けて、苦しみを長引かせてしまうかも知れない。

「私は……、私は、そうするけど、あなたは、そんな状態の身体になっても生きていたい? あなたは、それすら分らないでしょうけれど、私に奇蹟を求めて待ち続けていて欲しい?」

 彼に問い掛けながら、自分自身に問う。

(私は愛の告白をしながら、彼に死の宣告をしてるの?)

「延命処置を、続けて行くと?」

(うっ、早くも、それを訊いて来るかなあ)

「生命力が有る限り元気で眠り続けるわ。でも延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いずれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)になって目覚めが無いまま、寿命が尽きてしまう……」

 現在の最先端医学の延命技術でも、細胞の分裂回数以上に寿命を伸ばせない。細胞分裂の回数には個人差が有るみたいだけど、百二十歳代が限界らしい。でも、近未来は分らない。

 自身の新たに作られた細胞をクローンして増殖させてから、自身へ移植すると置き換わった新細胞が分裂して行く。

 記憶や能力を保ち、脳や神経の細胞までクローン細胞に置き換われば、単純に寿命は長くなる。それを繰り返せば、不死だ!

 だけど、それは問題が有るらしい。クローン細胞が置き換わる際の旧細胞の情報を引き継ぎで、細胞が突然変異の癌(がん)細胞化するかも知れないという。それに旧情報を取り込んだクローン細胞のアポトーシス回数は、ずっと少なくなるとの研究予測も公表されている。

(まあ、いずれにせよ、神の領域だわね)

「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」

 外側の皮は皺皺で、中身がトロトロに熟(う)れ過ぎて腐る発酵(はっこう)寸前。近付くと、腐り始めた小動物の死体みたいな甘く絡みつく臭いがするのかと、彼は私に訊く。

(腐った果物(くだもの)や死骸(しがい)じゃないから、いくら最末期でも皮膚臭は、そんなふうになんないよ)

「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」

 加齢臭は皮膚層の変質と腐敗の臭いで、老人臭は、それまで消臭していた消毒物質が生成できなくなって漏れてしまう内部組織の腐臭。特に高齢老人は、乾いた土と乾燥した木材を混ぜたような臭いの皮膚と、カサカサな肌に塗る軟膏やオキシフルの臭いが鼻に付く。

「そのブレンドは、ちょっと嗅ぎたくないな」

(まあね。体臭は、人それぞれに違うけれど、生活臭じゃなくて、肉体からの個人個人に違う臭いに起因するモノは、なんだろうなあ?)

「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」

 『推(お)して知るべし』的な事を彼は訊いて来る。

 この世と彼岸(ひがん)との狭間(はざま)に居るような、三途(さんず)の川を漂うみたいな、境界線を越えて常世(とこよ)に近い場所の患者さんばかりなのを彼は理解しているはずだから、きっと、最期の刹那(せつな)に断末魔(だんまつま)の苦しい様相を見せるか、安らぐように穏やかな事切れなのか、知りたいのだと思う。

「接続しているシステムをダウンすると、まず壁のパネルの表示光とベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示してアラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。そこで患者を監視しているからね」

 彼の問いに答えて、生きさせるのをオフにすると、どうなるかを説明する。

「機械の作動は直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで暫く動いているんだ。患者さんは自律で呼吸していないから……」

 機械の再起動は一旦、システムを完全に停止させたニュートラルの状態からでないと行えない。

 既に生死が確定できないような患者の延命にシステムを使っているから、例え、シャットダウンが単純なミスだと気付いて、直ぐに全てのスイッチを正しい手順でオンにしても、検知不可な微小微動な拍動で緩慢な血液循環の肉体が再起動で強制的に維持され続けられるだけだ。

 そこに在っただろう魂が再起動後も、居続けてくれているのか、完全に離れてしまったのか、外観やシステムのデータからは分らず、ただ、そうであって欲しいとの願いと信じる思いのみで延命され続けられる。

「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応はそれだけ。そして酸欠で死ぬの」

(それは、死なせる……、殺(ころ)す事なんだよ)

「そうか……。やっぱり死んじゃうしかないのか……」

(そう……。延命を望んだ本人からは同意を得れないけれど、家族からの依頼と同意が無くて、勝手に機器を停めたり、電源を落としてしまうと、殺人になっちゃうの……)

 私の最期は彼の負担になりたくないと思うけれど、私は彼へ殺すと同義な事を絶対にしたくない。

「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」

 彼は自分の命が死で失われるままに末期(まっき)を看取(みと)ってくれるよう、遺言のように私へ願ってくれて、私も彼に遺言みたいな言葉を返してあげる。

「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私もそんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」

 『殺す』って言葉の気味悪さに、ぎょっとした顔になった彼が私を見詰める。

(そうよ。あなたの言葉で私は延命治療をしないで、死んじゃうんだから、極端でも、あなたに殺されるのと同じでしょう)

「そ、そうだったんだ……?」

(だから後悔しないように、ずうっと、あなたを愛し続けたいの。あなたも私を愛し続けてね。愛し、愛されながら死にたいな)

「君がそうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいとおもうよ。でもね、僕は君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて君に語り掛けるんだ」

(うふっ、いったい何を話してくれるかな? それは、あなたが私へ声にしなかった、私との物語かな? それとも、私の知らない、あなたの物語なのかなぁ? でも、どっちでもいいの。人生を終える時は、絶対に恐ろしいと、私は思うから、あなたは私の間近にちゃんといて、私を励(はげ)ます話をして欲しいよ)

「私が皺皺になって、萎びても?」

 二人で長生きして、とても高齢になってからの延命処置のつもりで彼は言っているのだろうか? そんなヨボヨボの年寄りになったら、あなたと私は、どんな顔になっているのだろう?

「ああ、皺皺になって凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」

(外観が変わってもねぇ……。一応、私も死に際まで美しくありたい乙女(おとめ)なんだけどな。……でも……)

「それって、なんか、……微妙に、いいかな」

(歳を取っても、あなたと私は手を繋いで歩いて、買い物も、レストランでの食事も、喫茶店で寛ぐのも、二人いっしょで、きっと、同じベッドで、並んで眠っているんだよ)

「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」

 眼が潤んで来ちゃう。

「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」

 彼が見た目だけで、私を好きなのじゃないって知っているし、今も聞いた。だけど、もう一度、確かめておきたい。

「何度でも言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに歳を取っても、見て呉れが変わっても君は君だ!」

(ああっ! 彼はなんて素敵な事を言ってくれるのだろう)

「それは、……凄く嬉しいかな」

(再び目覚めなくても、絶対に私は、傍にいるあなたを感じて、あなたの声を聞いているよ)

「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は二度と御免だ。だから、必ず僕よりも長生きしてくれ!」

(うん! でも、それって逆だから。私も、あなたが何処にもいない世界なんて、堪えられそうにないよ……)

「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと願っているの」

 やっと巡り逢えて、お互いが理解を深め合えた今、これから先の、互いを愛しみ敬う想いを持ち続けて、二人が別たれる瞬間までも、ずっと私は願ってると思う。

「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送ってもらう」

(うん、うん)

 彼も、私と同じ想いでいる。

(肯定して、受理するわ)

「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶(かな)えましょう」

(私はね。見詰めて、手を握っているだけじゃないわよ。あなたに抱き着いて、揺さぶって、大声で呼んで、泣いて、薄れいくあなたの意識を戻してあげるの。何度も、何度も、……ね)

「だって、君がいないと寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」

(その気持……、とても良く分かるよ)

「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」

 私達が育てた子供達は、孫達と一緒に気持ち良く訪れてくれるから、あなたが逝(ゆ)なくなっても、慕われる私は楽しくも穏やかに過ごして、静かな悲しみの中で人生を終える…… かな?

(だけど、だからこそ、あなたが逝ってしまうのは、嫌だ!)

「わっ、分かってる……。分かってるさ……。」

 唇と頬は微笑んでいるけれど、私を見詰める眼差しは寂しくて泣きそうで、零れ落ちそうなくらい涙を湛えている。きっと私も、悲しみの顔に眼が潤んでいるんだと思う。

 私がはっきり、『あなたが先に逝くのは、嫌だ!』と言えば、きっと彼は私を看取れるように、私より長生きする努力をしてくれると思う。

 相思相愛を知った今日の素晴らしい出逢いは、新たに始まった二人で歩む人生の、途中のプロセスを省いて、とうとう死が二人を別つまで話してしまった。

「あはっ、真剣に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃったけれど、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、迷っているんだ」

 死の床へ臥してからの愛まで、約束事のように話してしまったけれど、更に私の死に際から死に至るまでを彼に訊いてみたい。

「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」

 確か、彼には三年前の夏に立戸の浜で、私は臨床(りんしょう)工学(こうがく)技士(ぎし)になると話していたはず。

「ああ、憶えているよ」

 答える彼の声は明るく弾んでいる。

(三年前の夏の事は、彼を否定していた私より、しっかりと憶えていそうだ)

「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。その実習の中に延命装置の取り扱いも有ってね。それで、その機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況を見て来るの」

 今から何を話すのかと、彼は神妙な顔で私の目と唇を見ている。

「その病棟は深昏睡の患者さんばかりで、病室のみんなが酸素マスクと点滴の管とせンサーのコードを付けて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便、排尿の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」

(違ったぁ! ホラー映画やスリラーゲームのステージになる、見捨てられた町の朽ち果てた病院みたいのじゃなくて、全然、煤(すす)や錆(さび)で汚れてない、真(ま)っ新(さら)に綺麗な病棟なの。そう、近未来的に多機能化されたシンプルで清潔な病室だよ)

「透明なスクリーンに仕切られた真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾も無い白色の病室で、明かりは天井と床の四周の縁(へり)からの間接照明。空調は天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄な空気が静かに吹き出して、床の四周の際(きわ)に有る排気溝へ吸い込まれていくの」

 無菌室のレベルではないけれど、テレビのドキュメンタリーやテクノロジー番組で映(うつ)る工場のクリーンルームと同じ無塵状態の管理がなされていると思った。

「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は、集約されてナースステーションで集中管理しているんだ。何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が実際に在るって思ってなかったから、ちょっと信じられなかったわ……」

 全てのセンサーデーターと対応がナースステーションで一元管理されていた。プライベートな動きをする患者はいないから、病室全体に個人別までCCDカメラでモニターも為されていた。

「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人個人に合わせた調整をして維持させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態の維持が必要で、患者さんの反応が全く無いんだから」

 エレベーターから降りてからナースステーションを通り抜けないと病室への廊下には出られない。ナースステーションへの出入りは、病棟へ外部の汚れやダストを持ち込まないように、全身に圧搾空気を噴き付けられるエアシャワールームを通らなければならなかった。

「もっとも、ほんの僅かでも覚醒の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」

 はっきりとは知らないけれど、たぶん、身内の人が患者と間近で接する事ができるようになるのだと思う。でも、高齢の方は完全覚醒まで至らずに寿命を迎えるのが普通だと、見学後の噂で聞いた。

「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もうトラウマになりそう」

 父方も、母方も、祖父母に兄弟姉妹の親戚は、私が誕生して以来、全員が健在だ。これまで親しい友人や知人の、その家族の訃報(ふほう)も知らされてはいない。

 だから私は、亡くなった人の肌の青白さや硬直の硬さを知らない。

「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体を成長する極初期の細胞が生成したり、分裂して増殖するどの過程で人間としての命と魂が宿るのか……、みたいな。……なあんてね」

 理論的には魂と命は同義だ。科学的には発祥や肉体に何故宿るのか不明だけれど、心と気持を司(つかさど)るのが脳の前頭葉だと解明されていて、外部からの電気信号で基本的な感情のコントロールが可能になっている。でも、五つのセンスが発生する要素やプロセスと、何故、六つ目のセンスが導けないのかは分っていない。そして、観念的には別々に区別されていながらも、互いに深く関わっている。

「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」

(万物の真理は意外と偏ったモノかも知んないけど、不安や不穏な心の逃避に身体を飛ばないから、安心して)

「あはははは。うん。その方向には行かないから大丈夫。安心していいよ」

(それに、ルート変更して逃げるのも有りだしね。間違いもしちゃうけど、いつも、疲れ果てていようとも、苦しくても、辛くても、空虚で得体の知れない自由へは、飛びたくないねぇー)

 年齢、性別に関わらず、必ず迫り来る様々な試練の壁が在る。その最(さい)たる壁は長く、高く、広く、厚い。そして、乗り越えるたり、突き破ったりする困難さに自分の身体も、心も酷く痛んで泣き叫びたい。とても辛くて、苦しくて何も食べられないのに吐瀉(としゃ)を繰り返すくらい気持ち悪さが続き、遣る瀬無い惨めさに悩んだ果て、終(つい)に自ら己の命を絶ってでも逃れて楽になりたいと思ってしまう。

 だけど、そんな人生のサドンデスを実行しても、楽になったと知る事も、感じる事も無く。開放感も、爽快感(そうかいかん)も無く。最高に厭な局面を体現したままで意識を消去した命は肉体を離れて行く。

(自らが途中下車で人生を終わらせるくらいなら、やはり、在るか、無いか、分らない来世よりも、現世でリセットだよねー)

 幸せに満ち足りた時にも、瞳を照らす狭間(はざま)の光に誘われて向こう側へ逝(い)ってしまいたくなるのも有るけれど、厭な現実から逃げたいだけの限りなく黒に近い灰色を漆黒(しっこく)にするのと、パステルカラーに導かれるままに真っ白や透明にするのとは、全然違う。……なのだけど、どちらも其処で人生は途絶えて、それっきりだ。

(やっぱし、現世で、スターティング・オーヴァーしないと、楽しくないわね)

「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘には絶対に係わらないように。信じて頼れる存在は此処にいるから。其処の処よろしく」

 彼の嬉しい言葉に、頼もしいと思う。彼は私を信じて守ってくれるし、必ず助けに来て絶対に救ってくれる。

「他にも、魂とは脳の思考の根底なのとか、肉体の全機能停止の死が命と魂を無に帰さすとか、それは同時に帰すのでなくて別々でも無に帰れないのと、然(しか)も魂の抜け殻になった、まるで無機質な空の入れ物を整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」

 何かで読んだ天上界に在る『ガフの部屋』の逆場面って感じが見学した時にインスピレーションしていた。

 真っ白な空間に均等に区切られたトレーのような桝目(ますめ)が並んでいて、その一つ一つに天界へ戻される順番を待つ、疲弊(ひへい)し切って微動の震えもしない魂(たましい)が入れられているように思えた。

「その病棟を見てからは、それまでは大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと今年と来年の授業を受け続けるべきか迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ卒業できるんだけどね……」

 それは、たぶん、生理的に厭なんだと思う。志(こころざし)を貫(つらぬ)くのは普通に有りだけど、関わるにつれて肉体的や精神的に耐えられないのなら、仕方が無いでしょう。

(不安や不満のプレッシャーに耐え過ぎて、メンタルダメージを抱え込むのは嫌だし……。だから故に、ルートチェンジをしてもいいじゃん)

「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」

(そうだよ。あなたに感化されて、見付けたはずだったのにね。意外と私、メンタルが弱かったみたい)

「けっこう、真剣に悩んでいるんだ。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に私の遣りたい事なのかも、分からなくなってきてるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも相談していないし……」

 無機質な延命処置への生理的嫌悪は、愛する人の末期を延命するのと矛盾している。

(だけど、それはそれ、これはこれ。彼への愛は、私の生理的苦痛を凌駕してるんだ)

「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」

 流石に大学と病院は、そんな高度で倫理的な処置を医療の無資格者に、 例え学校の実習授業でも行なわせる事は無い。

 見学は一度だけと知らされていたし、私的にも一度の訪問で充分だった。

「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が最初で最後よ」

 ベッドに横たわる全ての患者が生かされているのだけど、全然、生物的にも、有機的にも思えなくて、とても無機質な印象だけが、今もイメージとして残っている。

(はっきり言って、気持の悪い異様な静寂と静止に、気分が悪くなってたよ)

「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は考え方の問題だけだ」

(そう、ないよ。あなたの言いたい事は分かるけど、それは考え方じゃなくて、生理的な問題だね)

「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」

 見て学んでSF的再生を秘めた末期医療は、私の記憶層に擦り付けるように摺り込まれてしまい、単に異なる上書きでは消えてくれそうに思えなかった。

「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない病院や医療機関に就職すればいいじゃん」

(あなたの、……言う通りなんだけれどね。でも違うの……)

「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」

 私の感性は普通じゃなくて、医療系に向いていないのかもと、深刻に悩んでいる。

「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングでプロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安はみんな同じで、いろいろ悩むさ。実社会へ出てからも、様々な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い早い、深い浅いの程度の差があるけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴うプロ意識を持って、仕事に従事しいるんだ」

(ああ、そうだった。彼は志を立てて働いていて、既に仕事というモノを理解してるんだっけ)

「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないから分からないけれど、君は医療技師になって医療以外にも、工学を学んでいて機材や機器を扱うのだから、切った縫ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……、言い方が良くないかな? 間違っていて気を悪くしたら謝るよ」

 検査機器に処方装置と有るけれど、いずれも二次治療で処方判断を導いたデータや適切な数値で管理できる必要処置に使われ、設置や接続や入力のミスをしない限り、直接的な責任を問われる事はない。

「いいの、気を悪くしないから、続けて」

 彼が思っている通り、患者さんから聞こえて来る声は、信頼できるメッセンジャーに徹っして直接的医療を支援担当する看護師へ伝えれば良いだけだ。

「それに、在学中にいろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とかな。卒業時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか警察関係も有りじゃん」

 高校生の時に私は仕事への考えを彼から聞き、それを体現している彼を知っているからこそ、自分の仕事への目標意識を持って専攻課程の有る大学へ進学している。それを『目標は一つじゃなくて、選択肢を増やすのも在学中にすべき事だろう』と、彼は言っている。

「そうかな?」

 彼を知らなかったら、進学を目標としただけで普通高校を卒業して、自分探しや遣るべき事の見極めを理由に大学の四年間を過ごし、ただ周りに流され続けて玉の輿を求めた腰掛程度に就職した会社で寿退社をするかもね。

(……なあんて、これって人生目標が専業主婦と育児だけって事ぉ?)

「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が自分で判断して決めるしかないんだ」

(……そう、かもね)

 分ってる。チヤホヤされて慰(なぐさ)められたいのと、的確な指摘と導きが欲しい。だけど、現在と未来の構図を描いて幾つかの判断助言を授(さず)かっても、最後に決定するのは私自身だ。

「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる君の正解なんだ」

(そうなんだけどね……、正確かどうか、分かんないよ)

 でも、彼が私を支えていてくれる限り、きっと私の判断を正解にしてくれる。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」

 口では、『気がする』って言っていたが、彼に話して本当に気持が吹っ切れて晴れ晴れとしている。

 偏頭痛(へんずつう)がしなくなったように、肩凝(かたこ)りの痛みや強張(こわば)りが無くなったように、腰周りの鈍い痛みやしこりが消えたように、顔や手足の浮腫(むく)みが退(ひ)いたように、身体と気持が軽い。

「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」

(あなたで良かった……)

 上辺だけのペラさは全く感じない。厚く、重く、深くの印象が残るけれど、纏わり付きやプレッシャーじゃなくて、信じられる想いと頼もしさに彼の優しさが有った。

 私達が同じ出来事に触れて、同じ感動や感情を感じて、それが瞬間的なシンクロだけで持続しなくても、もう私は疑わないし、迷わない。

「OK、勿論さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」

 思っていた通りの返事が返ってきた。

「うん、支えてちょうだいね」

(私も、ずっと、あなたを支え続けるわ)

「ところで、臓器提供はどうするの?」

 延命治療の果ての臓器や部位組織が移植可能な状態か分らないけれど、そこそこ若い健康な肉体で事故や病気で亡くなったのなら、損傷の無い正常な器官は全て移植提供できる。

「ん、それはしてほしい。使える部分は全て提供してもらって。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。それは有りかな?」

 移植されて何度も細胞の分裂や死滅や増殖を繰り返しても、彼の成分が限りなく薄れて行くだけで、完全に置換されて消滅する事はない。

「そうね、有りかも」

 例えば、移植された臓器が心臓なら、生前の彼の鼓動の速度や強さや血液の送り量を憶えていて、彼と同じ心臓の動きと働きをしてくれるだろう。そうなれば、もし、私が移植された方の胸に耳を寄せて心音を聞けるのなら、きっと私は彼を思い出して、行き続けている彼をイメージできると思う。

「私も、そうしてくれるの?」

(なら、その永遠の生のイメージを、私へもして欲しいかも……。あなたも、既に私のモノではなくなった私の心臓だった鼓動を聞いて、私を思い出してくれるのかしら……)

「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは誰にも渡さない」

 彼は、私の臓器や生体組織の部位を部品呼ばわりする。

(確(たし)かに部品だけど、私を成仏(じょうぶつ)させないつもりなの?)

「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」

 身体の部位を、メンテナンスで交換できる部品のように、彼は言ってくれる。

(やっぱり、あなたは、いろいろとマニアックだね)

「君の亡骸(なきがら)は、僕が手厚く葬(ほうむ)って弔(とむら)うんだから、勿体無(もったいな)いじゃないか」

(それって、私を骨まで愛してくれるって事ぉ?)

「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか、弔うまでも、……そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」

 大事にされるのは、とても嬉しい。

 葬りは火葬だろうけど、弔いはマニアックな彼の事だから、燃え残った頭蓋骨から中学か高校の頃の私を復元するかも知れない……。

(御願いだから、そんなの絶対にしないでね。もし、復元なんてしたら、髪を伸ばし続けて、瞳はあなたを探して見詰め、喜怒哀楽(きどあいらく)に変える表情と動く口は、笑ったり、泣いたり、話し掛けたりするかもだよ)

 そんなふうに、迷う私の魂が宿れば良いけれど、それも何か不気味で厭だ。でも、彼の言葉尻からしそうな気がする。匠(たくみ)な造形テクニックとセンスを持つ彼なら、何気に造りそうだと思う。

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 以前に、死ぬ事っていうか、死んでから行く所っていうか、そんな死と死後を考えたみた事が有る。

 死ぬと肉体は店で売られている生鮮食材の徐々に腐(くさ)って、ドロドロから干物のようなカサカサに朽ち果てるのは分かるのだけど、人格の意識や記憶を司っていた魂は死後にどうなるのだろう?

 延命治療は家族や親戚からの希望、それに医学倫理や研究都合で行なうのではなくて、本人の意思ならば、五感の感覚豊かな自分に戻りたい、もっと元気で人生を楽しみたい、などの誰でも抱く生への執着が有るからだろう。

 それに、得体の知れない死への恐怖からが一番大きいのに違いない。

 自分の死は眠りに陥(おちい)る時のように、その瞬間を自分で自覚できないし、知る事もできなくて、睡眠のような目覚めはなく、二度と瞳の虹彩(こうさい)に光りを宿す事はない。

 視覚的にはフェードアウトするみたいに、徐々に視界が暗くなって行って全てが漆黒に埋もれて御仕舞いか、テレビやパソコンの画面が消えるように、プツンと突然に閉じて真っ暗になって、それっきり。

 自分の人生は其処で終焉を迎え、魂とか、心とか言われる自分の人格を形成していた意識は、リセットの為に霧散(むさん)消滅(しょうめつ)。死によって開放される記憶は刹那(せつな)の時空を超えて逆戻りの人生を見せながら消去されてしまう。

 例えば、どんなに死が刹那の瞬間でも、百歳の天寿(てんじゅ)で肉体が逝ったのなら、その死が確定した魂の離れる一瞬の刹那に、百年間の人生の逆戻りを見せてくれる。それは世間で真(まこと)しなやかに、走馬灯のようにとか、フラッシュバックとか、呼ばれている事なのかも知れないけれど、辛い事ばかりの悲しい人生であっても、嬉しさの多い幸せな人生であっても、散り死にする心に見せて欲しいと、私は願っている。

 その逆戻りの間に、生きていた時には分からなかった全てを知り、自分を取り巻いていた全てに気付き、自分への人の思いを五感以上の感覚で感じて、三十三の真理を悟(さと)る。

 そして、魂は記憶の開放が終わると同時に浄化(じょうか)されるんだ。

 何故、真理を悟らなければならないかは、私が思うに、それが生で沁(し)み付いた穢(けが)れを払って無垢(むく)になる条件というか、浄化の過程なのだろう。

 死んだ後は、どんな弔いでも肉体組織は分子に分解されてしまい、重力に引かれる地球上の物質は有限だから、やがてバラバラに多様な生物の一部として再生されて行く。

 高校生の頃、私は『仏教の開祖、仏陀(ぶっだ)(目覚めた人)』という本を読んだ。

 その本には、ゴーダマ・シッダッタはブラフマンに、『死は肉体を失わすが、魂は輪廻(りんね)転生(てんせい)して、現在、過去、未来の全ての時空の生き物に宿る』の教えを説かれたと書かれていて、その意味を私は、魂は一つだけで、生命の根幹を成すモノだと考えた。

 生き物の行いや思考には因果(いんが)応報(おうほう)が付き纏うが、生き死は同じ魂だから、我欲の善や悪の持ち回りは無くて無垢に生まれ、無垢になって死するのだと思った。

 善行の徳(とく)の積み重ねも、繰り返す悪行の罪(つみ)も、人生を生きる葛藤(かっとう)に過ぎない。

 もしもパラレルワールドの平行世界が限り無く重なっていたとしても、その全てのワールドで魂は無限に転生し続けている。そして、その魂は時空を超越して、たった一つだけなのだ。

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(私のガフの部屋にも、あなたのガフの部屋にも、同じ魂が宿っているように思えるけれど、魂にとっては違う場所と時間なの。だから、あなたは私じゃないし、私もあなたじゃないのよ)

 人格や認識や記憶は、ガフに部屋に宿った魂が生きる過程で添付されるだけ。稀に一部の消去ミスが有るかも知れないけれど、転生に持ち越す事はできない。

(ふうぅ~)

 こんなふうに死ぬ事を理解しようとした事を思い出すだけで、矢鱈(やたら)と頭が疲れてプスプスする。それに痺(しび)れてクラクラした。

 もしかして死後を考える事はタブーな事で、それを深く探求する思考にはロックが掛けられていて、それは悟りの真理がキーと成って開放するのかも知れない。

 けれど、宗教家でも、禅僧(ぜんそう)でもない私は、彼との楽しい思い、嬉しい言葉一つで直ぐに忘れてしまい、何かのついでに記憶の片隅(かたすみ)から、屁理屈や言い訳と説得の辻褄合わせに引っ張り出すくらいだろう。

 それに、私利私欲の因果応報塗(まみ)れの私に真理は、彼への真心だけで充分でしょう。

「さぁ、そろそろ行きましょう。冷えて来たことだし」

 車内を温かくしたエアコンの微風と砂浜の歩きで汗ばむ身体をアイスクリームで折角(せっかく)冷(さ)ましたのが、更に傾いて熱を弱めた太陽は海原を温められずに、渡る潮風が冷えて行く大地といっしょになって私の素肌に触れて、指先や頬や首筋に撫でるような肌寒さを感じさせた。

「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」

 彼は手を私の手に重ねて、今日の日への別れと再会を約束する場所へと誘(いざな)う。

 私の冷たくなった手の甲に、しっかりと触れる彼の掌が、とても温かい。

「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」

 まだ、充分に余裕を持って小松空港へ着けそうだと思う。

「そうだな。温かい麺類ってのは、どうだろう? 僕はカレー饂飩(うどん)にするよ」

 そう言った彼は、私の手を取って安全に長者屋敷から降ろしてくれると、そのまま手を繋いで波打ち際近くの硬めな砂地を駐車場へと向かった。

(カレー饂飩って、それ絡みなの?)

「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦にするわ」

 普通に話す彼との会話が楽しい。

 斜陽の弱まる陽の光で冷める砂が足裏に冷たく感じながら、握る彼の掌の温かさが悴(かじか)み始めた私の指先を穏やかに解(ほぐ)してくれるのを嬉しく思う。

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 北陸自動車道の片山津インターへ入る交差点を過ぎ、空港ターミナルへの分岐路が在る安宅の町へ至る直線道路の右手に、夕陽で赤く染められたゴルフ場の松林を見た時、唐突(とうとつ)に私は思い出した。そして、それを実際の事実にする事に決めた。

「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」

 私の言葉を聞いた彼は、直ぐにSUV車を減速させながら答える。

「時間は、まだ余裕。ん? 海岸って、浜辺へ?」

 左折して私の願いを聞き入れてくれる彼は、北陸自動車道の上を渡る陸橋を越えて下ると、護岸堤が続く海岸縁まで行ってSUV車を停めた。

「そうよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」

 夕闇の中、金石の町から帰るバスの最後部の端座席で眠り込んでしまった私が目覚めた時に、鼻腔の上側と目尻を刺すニンニク臭が多分に自分の吐く息にするのと、仄(ほの)かに美味なラーメンの味がする唇に、柔らかい何かを押し付けられた感触が残っていた。

 高校一年生の春の終わり、彼のメールに誘われて金石の浜まで、部活のトレーニングでへたばる彼を見に行った。

 あの時の彼との会合はスカートの中を覗かれただけの一瞬くらいだったが、その後の真っ赤な夕陽が少しも翳(かげ)り無く水平線に沈む日没の美しさに見蕩れていた。更に黄昏の金石の町で異世界の狭間に入り込んだような不思議な体験をした。

「外へ出ましょう」

 夢見の良さを現実で再現したい!

 リアルな夢の触感を現実で試したい!

 そして、夢の中と同じような私の胸の高まりと、熱くなる顔や首を感じたい!

 あの日、彼へ無関心でいられるように私は夕暮れの黄昏(たそがれ)に抱かれる金石の町へ行った。

 その夜の就寝で、金石の砂丘の上に立つ私は横に居る彼と優しく蕩けそうなキスをするリアルな夢を見た。キスの夢は、金石から戻るバスの中で転寝した私が同乗して来た彼に小突れて起こされた際に、唇に感じた感触の所為かも知れないと思うけれど、夢の中なのに覚醒しても唇に残る、そのリアルな感触は何日も消えてくれなかった。

 彼のマイナス面を見い出す為に金石の町へ行ったのに、私は彼への意識を大きくしてしまった。

「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」

 彼の腕に手を回して身体を寄り添わせる私は、驚きの躊躇いが半分、嬉しい喜びが半分の彼の横顔を見ながら私は思う。

 目覚めても感触が残るリアルな夢見だとしても、既に四年も過ぎた事だから大筋以外は思い違いが多く有ると思うけれど、夢の中で私の横に居て心地好いキスの感触を残してくれたのは、確かに彼だった。

 全身を彼の方へ向き直すと、そっと爪先立ちで背を伸ばす。それから私は、少し顎を上げると期待を込めて眼を閉じる。

 キスを求める私の唇に、彼の唇が触れるのを感じた。

 最初はそっと軽く確かめるように彼の唇が触れ、次に少し押し付けるように触れると、離れ際に私の結んだ唇が釣られて小さく開き、直ぐに触れ直した唇が更に開かせて、彼の舌が入って来る。

(うぅ……、あぁ……)

 私を抱き留める手が首筋に仰(の)け反(ぞ)らないように添えられて、舌先が私の舌の脇や裏を、口の天井や底を転がすように撫でて行く。

(なっ、なんか、てっ、手際がいいわ…… ね。ううん、気持いい……、あはぁ……)

 彼の舌を吸い、私の舌を絡ませると、彼も私の舌に吸い付き。舌を絡み返す。

 喘(あえ)ぎ始めた息に、私の胸と肩が振るえている。

 あのリアルなキスの夢は、その後も何度か見ていた。どの夢もキスの感触と気持の良さは同じだったけれど、そのリアルなキス以上に現実の、とろんとする心地好さに薄く眼を開いて彼を見ると、彼が優しげな眼差しで私の瞳を見ていた。

(ずっと私を……、見てたの? 反応を…… 観察ぅ? ええっー?)

 彼に私の表情や身悶(みもだ)えの反応が観察されていた恥ずかしさに、耳の後ろや項まで熱くなって行く。

 私の薄目に気が付くと、私を見ていた眼が微笑んでから閉じた。

 こんなにも心臓が高く、強く、速く、鼓動して、凄い勢いで血管を脈打たせながらアドレナリンが全身を駆け巡っているはずなのに、興奮が激しくなるよりも蕩ける意識に気を失いそう。

(ああっ! 大好きよ!)

 身体の全てから力が抜けて行きそう。

(一番長い中指を咥えたら、ゆっくりと口の中を指先でなぞるように触れてくれて、その擽ったさに身悶えしちゃうかもね?)

 過ぎる卑猥(ひわい)な想いに、股間が湿(しめ)るのが分った。

 瞬間、腰と膝の力が抜けて、キスをしたままカクンと小さくヨロけたのを、彼の私に廻した腕と手に力が入り、それ以上に私がヨロけても大丈夫なように支えてくれる。そして、ゆっくりと彼が唇を話して行く。

 戻る彼の舌と離れる唇に、全ての方向へ何処までも広がって仕舞うような気持の好さに何も考えられずに、翔(と)び過ぎて召(め)さる寸前だった魂と意識が戻って来た。

 立ち眠りの寝起きのようなフラ付く感覚に、思わず彼の腕をしっかりと掴み直してしまう。

「うふっ、あそこも、こんな感じで歩きたいわね」

 くらりと浮き上がるような気持にさせる彼のキスから離れた上唇を噛む私は、心地好い気分のままに彼へ訊いた。

「あそこ? それって、どこ?」

 それはまるで、奇蹟の出逢いのようで、私はデスティニーを感じてしまった。

「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔(ほとり)とスペイン広場ね」

 中学二年生の三学期の家族旅行の時、地球を半周近く移動した場所で彼と遭遇するなんて、全然、思いもしていなかった。

 湖畔の駐車場に入って来た大型観光バスの車窓に東洋人らしき人影が並び、日本人のツアーグループかもと見ていたら、降車する人達の最後の方に彼が降りて来たのには、心底、驚いてしまった。まさか、知っている日本人がいて、しかも、日本の自宅にいて明日も通学するはずの彼だなんて、超常現象的に『なぜ、ここにいるのよ?!』だった。

 それまで、メールでからかう程度しか、他の男子より意識しなかったのが、三年生になってクラスが別々になったのに、私の目は彼を探していた。

「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私からあなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたかなぁーって。なんかぁ、遠出すると気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから尚更だったのよ。何気に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも良かったしね」

 別に海外じゃなくても、いつも生活している地域から遠く離れた場所で偶然にも出遭えたなら、郷愁や旅愁や哀愁の憂いと寂しさに、違う場所の光と空気を添えた愛おしさ懐かしさの求める親しみが、私を打ち解けさせて繋がり、傍に居いたいと思ってしまう。

「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にびっくりして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」

 慣れ親しんだ御郷(おさと)に居る私は開放的な気持に、立戸の浜ではおしゃべりで行動的だった。

 大桟橋へ行った日は、相模原まで会いに来てくれる彼が嬉しくて、気持はときめいていた。

 もし、コモ湖で触れ合いが有って、ミラノのホテルへ逢いに行っていたとしたら、それからは彼に素直な私になれていただろうか?

「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって旅行の初日だったんだから、意識しないわけないじゃん! ……でもね、日本に帰ったら直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」

 無口で無関心。否定と拒絶。見掛けの規則の遵守(じゅんしゅ)と僅かな模範意識。中学校や高校の閉鎖的ムードの限られた空間と時間の行動環境で、そんな毎日を過ごす私は、彼に好意を示されても積極的に親しくできなかった。

「もっとメールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」

 もし、あの時にあなたが、『イタリアにいて、ミラノのホテルに泊まっている』と、返信で知らせて来たなら、私はお姉ちゃんと、あなたが居るホテルへ会いに行っていたかも知れない。

「まさか、またスペイン広場で会っていたなんて、思いもしなかったわ」

 広場に面する土産雑貨の店のショーウインドー越しに、私の一挙一動を彼に見られていた。

 何度も手に取って迷った末に諦めていたモノを彼は、終業式の日に私の机の中へ入れてプレゼントしてくれた。

 不審な物かも知れないと、怖々(こわごわ)、暖かい色調の包みを解(と)いた後の驚きは、其の後に体験した幾つもの彼への驚きの始まりだった。

「あのね、予感はしてたんだ」

 初めてあなたと話した小学六年生の時から意識していて、いつかは今日の私のように成れればって思っていた。それなのに、私の仕様も無い拘りと、気紛(きまぐ)れと、語弊(ごへい)が有るかも知れない高望みで、彼の大切さを含めて認める事が出来ずにいた。

「……予感?」

 終業式の日のプレゼントからは、それまでは掠(かす)れ掠れの殆ど透明に見えていて認めたくなかった糸が、くっきりと赤く見えて出ている気がした。

 その赤い糸を視線で手繰(たぐ)る果てに、廊下で私を見ている彼がいた。

「そう、きっといつか、私はあなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」

 以後、事有る毎(ごと)に彼への驚きが糸の赤色を濃く鮮やかにさせて行くのを分っていたけれど、ベストを求める私の気持が気付きたくないと反発していた。

(嫌いじゃないけど、好みじゃない ……みたいな。別に好きな男子はいないけど、好きでもない男子から告白されるのは、キモくてウザいみたいな……。ちょっと酷いかも知んないけど、そんな感じだったかな)

「あっ、その笑顔はいただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいです」

 別に脳の記憶中枢にメモリーしなくても、写真を撮ればいいのにと思う。そうすれば、今、彼に見せている『凄く好い笑顔』を私もチェックできる。それが、私らしい納得できる笑顔だったら、私も欲しいし、彼の携帯電話の待ち受け画面にも使って欲しい。

(もしかして、以前……、あなたに、私の写真を撮らないでって、言ったかしら?)

 敢えて、私から写真撮影を提案しない。

(まあ……、これからは、互いの写真を撮る機会が幾らでも有るでしょう。あなたが撮るのを躊躇するなら、私から積極的に撮ってあげるね)

「紅く染まってって、それ、酔っ払いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」

 言ってしまってから、私は『酔うと笑い易くなるタチだったかな?』と自問する。

(あはっ、素面(しらふ)でも、酔っ払っても、笑えるような楽しい気分でいさせてくれるというのは、嬉しいな)

「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。マジで今日を連想する笑顔だよ」

 彼が私を笑顔でいさせてくれるのなら、私は嬉しく笑う明るさと穏やかさで、彼を癒(いや)して楽しい気分にしてあげたい。

「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」

(そう、あなたの笑顔も、私を癒してくれているのよ)

 無警戒に笑う彼に、これからは、これまでのような戸惑いや不安な顔をさせないようにしなくてはと、私は何度でも心に強く誓う。

 互いの心のケアをして、安らぎと復活のモチベーションを得られなければ、互いを求め合う意味が無いと思う。

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 小松空港のカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナルビル二階の飲食店の並びで、彼は私の得意なカレー饂飩をオーダーして、私は温かい鴨南蛮の蕎麦を食べた。

 それから売店で明日の朝ご飯用の空弁(そらべん)と自分用の土産を買った後、フロアの柱の影でキスをした。

 うっとりする舌の絡み愛しい唇の感触に、彼は深く腕を廻して私を胸を締め付けるように抱いて来る。

「うっ、いっ、痛いよ」

 痛いくらいに私を強く抱き締める彼の気持ちは解っている。

 これまで私は、冷たい態度と文の中に僅かな優しさを付け加えたり、あからさまに期待させる親し気な行動をしたり、嬉がられる言葉を言ったりして来て、それらを全て覆(くつがえ)していた。

 そして今日、更に、その金輪際(こんりんざい)の縁切りを卓袱台(ちゃぶだい)返(がえ)ししている。

 こんなに素っ裸に私を素直に晒(さら)して、心の底の隅々まで気持を吐露(とろ)しても、彼は今日の私が儚(はかな)い夢のように霧散(むさん)しないか、怖がっていた。

 それは、私が抱(いだ)く、電話の女性への不安感や、いつの日か、思い出話しで言えそうな、中学生女子達と楽しく下校する彼の姿への裏切られ感や、弓道のファンだと思う女子高生といっしょに浅野川(あさのがわ)縁(べり)や片町のアーケードを歩く、彼の嬉しそうな態度へのジェラシーよりも深刻で、ピンポイントな強い恐れだと知った。

(ごめんね。ずっと、ずっと気付けなくて。……あなたは、私と別れる度に、こうして私を引き止めていたかったんだ……)

「あっ、ごっ、ごめん」

 彼が不安顔で謝るのを見ながら、私こそ彼に謝りたいと思う。

(少し、痛かったけれど、息が止まるくらいに抱き締められるのも、……嫌じゃないよ)

「ううん。でも嬉しい」

 彼が女子達と下校したのも、ファンの子に誘われて買い物に付き合っていたのも、一番の原因は私に有ると思う。

「部屋に着いたら連絡するね」

 金沢神社では、高校入試の合格願掛けの絵馬を掛けるのを見ていた。通学のバス事故の日は、怪我の痛みを我慢して連れ回されてくれた彼の乗ったタクシーを見えなくなるまで見送っていた。彼が明千寺へ来てくれた時には、立戸の浜から穴水町の南外れの交差点まで見送ってあげた。

 なのに気紛れで、気分屋で、利己的な私は、相模大野の駅前でV-MAXで帰る彼を冷たく見送っただけで、彼が無事に帰ったかどうかの確認を、メールでも、電話でも、私からしなかった。

「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」

 でも今は、もう既に、心も、身体も、強く彼と繋がっていて、彼は私のモノだし、私も彼のモノなのだ。

 今日からは、スターティング・オーヴァー。未来はハッピーエンドへ書き変えて行けると思う。そう出来ると私は強く信じている。

 小松空港のセキュリティーゲートで彼に見送られて飛行機に乗った。機内のシートに座ると身体が小さく震え出した。気持ちが受け入れて心が解き放されても、私の身体が理解していない。羽田空港に着くまでの短いフライト時間では、十分に想いの整理ができなかった。

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 柱の影でのキスの後、搭乗直前の小松空港で私は彼に、これからも私を好きでいる覚悟を訊いた。

「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも相談できて良かった」

 見送ってくれる彼の顔が、優しくて嬉しい。

「礼を言うのは僕の方だ。僕こそ君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて最高に嬉しいよ。迷いの相談も。僕の方こそ凄っごく感謝してる」

(そんな事はないよ。私の素直な想いだから、感謝なんてしないで)

「そして……」

 また、私が突然に心変わりを見せるかも知れないと不安に思う彼に、私を疑わせずに安心させなければいけない。

「……そして、私を、ずっと彼女にする覚悟は有るの?」

 言っている途中から上半身が上気(じょうき)して来た。耳と首の後ろが痛いように熱く感じて自分の顔が火照っているのが分る。高鳴る鼓動に気道が詰まったように息苦しく、喘ぐ胸が大きく上下していた。

 彼とキスから先の肉体関係を持ち、同棲(どうせい)でも構わないからいっしょに暮らして、私と結婚する気が有るのかと、私から彼に訊いていた。

 私は彼の子供を産んで、二人で子育てをする。その覚悟を彼に問うている。

 さっきまで、互いの人生の終末を看取るような会話は、あなたと添い遂げるという事なのに、いざ、言葉にすると、私から先に迫った事が凄く恥ずかしくなった。

「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」

 ……金沢へ戻って来たのは、父親の仕事を継ぐ為だけだとは限らない。

 一瞬の理解への導きと、刹那(せつな)の躊躇いに、即答に近い返事の言葉が彼から発せられようとしている。彼の言葉には、彼自身が微塵にも考えてもいない『都合の良い女』を、無意識下に滲ませて来るかも知れないない。

(絶対に、そんな事を考えていないだろうが、……私は気付きたくないし、タイムリーな女と思われるのは、厭だ!)

 だから、今じゃなくて、互いが離れた場所に少し時間を置いてから、聞きたいと思う。

「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。その時までに良く考えてね。ふふっ」

 今、彼が答える言葉は決まっている……。今日の偶然の出逢いと後の流れで心地好い返事を彼は言ってくれると思う。でも、今までとこれからの私達を本当に良く考えて判断してから選んで欲しいと強く望んでしまった。

 何度か心通わせて寄り添う機会が有った。それを悉(ことごと)く無碍(むげ)にして来たのは私だ。永遠の別れを断言した私へ彼が罵倒(ばとう)する文字の羅列(られつ)を差っ引いても、私に圧倒的な非がある。

 それでも、今日の日を過ぎて客観的に私を冷静に考えれる日々を経てから、私が望む理想の言葉で答えて欲しい願う。

(しかし、そうではなくて拒否られちゃったら、……人間を辞めてしまいたいくらい悩んじゃって、泣き喚いてしまうよ。そして生涯……、愚かな自分を呪い続けちゃうかもね。……でも、仕様が無いよね。それくらい動揺しても、私は潔くあなたを諦めてあげるわ)

     *

 羽田空港から幾つもの電車を乗り継いで、もうすぐ日付が変わる頃にやっと相模原の部屋に着いた。

 荷物を床へ置き、脱いだコートをハンガーに掛け、ベッドに腰掛けてエアコンをオンにする。エアコンのシロッコファンから送り出された温かい風が髪を戦がすのを感じながら、携帯電話を手に取り、交換した彼の電話番号の探した。

 部屋へ無事に着いた事を知らせる為に、ときめく今日を思い出す為に、そして、これからの事を話す為に、まだ少し震える指で携帯電話のタッチパネルに触れる。軽いタッチを指先が繰り返して、パネルに彼の携帯電話番号を表示させて行く。

 ベッドに寝転び、机の隅の置かれた西洋城館のミニチュアを眺めながら、彼を呼び出すコールを聞く。

 もうメールはしない。私は彼の声を聞く為に電話を掛ける。

 城館の上に林立して翻(ひるがえ)る旗は半分ほど折れている。抑え切れない苛立ちや遣り切れない不満の度に私が折ってきた。折った旗は机の引出しに残して有る。

(そうだ! この旗たちを、彼に直して貰おう)

 何か特別な事を閃いた気分になり、もっと良く近くでミニチュアを見ようとベッドから起き掛けた、その時。

 携帯電話のスピーカーから聞こえていたコール音が消えて、彼との通話の始まりを知らせる。

『ガリッ! ボフッ!』

 スピーカーから掴み損(そこ)ねた電話機を急いで持ち直したような音と、更に安堵からか、緊張からなのか、短く溜め息を吹き掛けたみたいな音がする。

「もっ……、もしもし……」

 続いて私の耳に、躊躇い勝ちに……、でも明るい彼の声が聞こえた。私から呼び掛ける前に彼が発した、その明るい声に私は思う。

(これからは彼と様々な事を話し、二人で多くの場所へ行き、いっしょに色々な事をしよう。もっと、もっと、彼を好きになれるように!)

「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」

 もう彼のコールを冷酷に拒絶はしない。そう、彼の言葉や文字は、いつも制限時間付きみたいな私の悩みや迷いや憂いを、優しい待ち時間に変えてくれていた。

(彼が望み、私が求めた、二人の未来は、希望と安らぎの眩しい光に溢れさせて遣る!)

 素直に嬉しい気持ちのまま、楽しく弾む明るい声で優しく返そうと吸い込む私の息に、ほんのり桜の匂いがした。

「けっ、けっ、結婚して下さい!」

(ううぅ、この……、深夜のシチュエーションで、正式なプロポーズをして来るかなぁ? それに、まだ今日を延長しそうな時間だよ。次に会う時でいいって言ったのに……、こんなに早く結論を出して、私が望んでいた理想の返事をしてもいいの?)

 突然の予期しない彼の言葉は、それを求めていたのにも関わらず、私を戸惑わせた。

(もっとこう、気持を昂(たかぶ)らせて行って、添え物のプレゼントが有って、貰って。なんか、ドッキン、ドッキンと全身に悪寒で震えるくらいに響く、サプライズみたいなのを、晴れ渡る明るい青空に桜の花弁が舞う中でしてくれる、みたいなのを想像していたのにさ……)

 視界が滲み、眼から溢れる泪が頬に温かく流れて、幾つもポロポロと涙の粒が落ちているのを知った。

(でも、これも、……夜桜咲く、綺麗なミッドナイトブルーの、嬉しいサプライズだねぇ)

 私の涙腺が、無自覚に彼の声に答えている。

「うん。……はい!」

 涙腺に続いて、勝手に返事をした声を強く言い直した。

「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」

 涙が止まらない。流れ出そうな鼻を啜りながら、鼻声でも、はっきりと、私からもプロポーズする。

「はい! 謹(つつし)んで、喜んで受け賜(たまわ)ります!」

 彼の嬉しさが伝わる大きな声の語尾が、鼻声になった。

(あっ、あっちゃあ! 電話越しのプロポーズを、即答で御受けしちゃったよ! しかも、電話越しに私からも返しの御願いをしちゃって、彼も即答で受けてくれて、再確認はOKだよ! もう、無かった事にならないよねぇ。……うっ、うっ、ううっ、嬉しい……、ああん、嬉しいよぉ……。あん、あん)

 彼も、私も、感無量の喜びで泣いている。

「嬉しい。凄く、嬉しい!」

 自分でも可笑しくて笑っちゃうほど、涙と鼻水が止まらない。

(彼は、もう私を疑わない! 私は、もう迷わない!)

「僕もだよ! この嬉しさを、ズズッ、君に何て伝えよう? ……心から愛しています」

(愛の誓いだ!)

 指輪の枷(かせ)を互いに嵌(は)める時のような、心に染み入る言葉を言う彼の声も鼻声が酷くなっている。

「私もあなたを、心から愛しています。……うふ、もっと言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」

 私も愛の誓いを言う。この後に続くのが、昼間の『死が二人を別つまで』だ。

「ああ、そうだね。もっと言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」

 話す彼を遮ってワザと言わせなかった言葉なのに、サプライズで言われた所為か、その言葉を聞いてしまうと、彼の言葉は思いもせず、ずっと深く私の中に入って来て、予想していた以上に私を感動させていた。

(もう、ウルウルどころか、ポロポロだよ……)

「……泣いているよ。私……」

 そう自覚してしまうと、更にブワッと溢れて頬が零れ流れる涙で熱くなる。

 中学二年生での彼の告白は無記名のメール文だった。今のプロポーズは彼だと分かっている電話の声だ。きっと彼は、次に会う時に改めてプロポーズを決めて来るでしょう。

(あなたはしっかりと、あなたが映る私の瞳を見て言葉を言い、私は、ちゃんと私が映るあなたの瞳を見て、あなたの言葉を受けてあげるわ)

「うん、愚図(ぐず)る声で分かってる。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」

(なっ、なにぉう。愚図って鼻声じゃないし、風邪も引いていないし。今の私の声は、ぐちゃぐちゃな泣き声じゃん!)

「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」

 彼が風邪を引いていないのも、冗談を言っているのも分かっている。

 もう少し、シリアスでいて欲しいとも思ったけれど、彼の涙声が嬉しくて楽しい。

 そして私は、とても幸せな気持になっていると思う。

「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」

 彼が笑いながら、謝罪と感謝の言葉を言って、私も御礼の言葉を返す。

「私こそ、ありがとう」

(私は、あなたと添い遂げます)

 同じ言葉に、同じ気持。彼も、私も、互いを疑わない。迷いも、不安も無い。今度こそ、はっきりと私達には分った。

 金沢と相模原に二人は遠く隔てられているけれど、しっかりと二人の言葉と心は繋がっている。

 この後は、欠伸(あくび)が出て『おやすみなさい』を告げるまで、幸せな気持に満たされた長電話をしてから、火照る身体を冷まさないように温かい御風呂に入って、今日を反芻する。そして、幸せ豊かな心で安らぎの眠りにつくでしょう。

(あなたの夢が、見たいなぁ。ずうっと、見れるといいなぁ)

 

……完(私)