遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

大桟橋とカツ丼 (僕 十八才) 桜の匂い 第八章 壱

 今日もバイクでルート246を北上している。三週間前の三月末の日曜日もこの道を走っていた。走行ルートの下見と首都圏のムードを感じたくて相模原市へ行った。彼女がこれから四年間の大学時代を過ごす街と環境を知りたいと思って行ってみた。

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 初めて来た相模原の街は、街路樹や公園の並木の多くが桜の木で、まだ三月末なのに既に桜は満開のピークを過ぎて散り始めていた。僕が勤めている会社が在る東海地方の静岡市もそうだけど、北陸地方の金沢市とは違う関東の早い桜の開花と散り始めに、僕は驚いてしまった。これまで四月後半の今日でも咲き残っている金沢の桜しか知らなかったから、ピンク色の無い新緑の四月は雅に欠けて、とても物足りなさを感じてしまう。

 日本の人口の多くは、卒業式の頃に桜が咲く地域に暮らしている。淡いピンク色が匂う綺麗に咲き揃う様と、一陣の風に満開の花弁の美しく舞い落ちる桜吹雪の潔さが旅立ちと別れの思いに合わさり、お花見で愛でながらも桜の花が穢れの無い儚さを感じさせる悲愴なイメージになってしまうのも分かる。入学式を過ぎてから咲く、予感と期待と希望を抱かせてくれる北陸の桜とは、大違いだ。

 彼女は相模原の住所を知らせてくれなくて、彼女の通うだろう大学だけをGPSに頼らず探検気分で探し回った。

 そろそろ金沢から移って来る頃だと思っていた三月下旬に、『相模原に来てます。初めての一人暮らしを始めてるよ』と、メールが届いていたから、今もこの街の何処かに彼女はいる筈だと考えながら走っていた。明るい青空に桜の花弁が春風に乱れ舞う美しい桜吹雪のストリートを、昨日見ていたウロ覚えの地図と感を頼りに僕はV-MAXで走り抜けていた。

 その日、僕が相模原へ行く事を彼女には連絡していなかった。引越しの片付けと日常生活を整え中に僕が手伝いの口実で来られても戸惑うだけで困るだろうし、それに彼女は僕を彼氏と認めていないのだから変だろう。友達としてわざわざ静岡から手伝いに行くのは、恋慕の下心一杯の男と思われるだけだ。

(いや、本当は、SAY・YES! の恋心だけなのだけど……)

 彼女に求められている確証を持てていないという拘りを僕はいつまでも引き摺っていた。思いをメールで伝えても、『来ないで』と返って来ていたに決まっている。それなのに僕は、あれこれ理由を付けて下心を覆い隠し、相模原に行った。彼女と偶然の出逢いが有っても用意した言い訳をせずに逃げるだけの癖(くせ)に…… 行って来た。

 彼女が何処に住むのかも分からずに、当てずっぽうに相模原の街を走り回るだけだったけれど、これから彼女が学ぶ大学だけは見付けた。大学の正面らしきゲートの真向かいにV-MAXを停めて見る構内は、どうもキャンパスが総合病院に併設されているようで、暫くして目の前のゲートが病院へ出入りする為のモノだと知った。

 病院の正面ゲートだと悟ると、キャンパスへ学生が出入りする通路は『何処に在るのだろう?』と、向かいの敷地内を移動する人達に眼を凝らしながら探っている自分がいた。もう気持ちはストーカーのようだった。休日で人通りの少ない広い構内には多くの建物が建ち、病院の建物なのか、大学の校舎なのかも判断が出来ず、欲しい情報は何一つ得られなかった。

 もしも、このまま彼女から『一人暮らしを始めた』以上の情報が無ければ、時々、ウイークディーに僕は此処へ来て構内に入り、学生達の中に彼女を探して確証と安心を得るまで、彼女のキャンパスライフと一人暮らしをストーカーするだろうと思った。そして、去年のバス事故で彼女を守る盾と成り、初めての暑中見舞いの葉書で能登半島の明千寺の町へ誘われて、立戸の浜で彼女と親しく話せた僕には、その権利が有ると思っていた。

 そんな事をしても何も納得できずに虚しく、過激化して行くだろう行動は諸刃の剣となって、彼女と僕を酷く傷付けるのは判っているのに、僕はV-MAXに凭れながら、どうすれば彼女に気付かれずに探って付き纏えるかと、自己中の斜めにズレた方向で考える僕は、甚だしい勘違いをしていた。

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 不穏な気持ちになった三週間前と違って今日は、気持ちに余裕を持って相模原に向かっている。先週の初め、既に大学の授業が始まっているだろうと思い、『そっちへ会いに行く』とメールを打つと、

【来て。この日の、この時刻に、この場所で。デートしよう】

 意外なほど、あっさりとデートが決まった。まさか直ぐにデートに誘われるとは思っていなくて、毎日、彼女のメールを五、六回はメールを読み直していた。

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 新たな仕切り直しの期待で彼女の想いを信じる僕は、早朝の寒さに震えながらルート246を相模原へと向かっている。三月末のように迷わなければ、あと一時間ほどで待ち合わせの場所に着くだろう。逸る気持ちの三月末は冒険気分でGPSを使わずにいたら、しっかりと迷ってしまった。どこも似たような大きな通りばかりでさっぱりわからない。道路案内板の地名は、僕が知らないだけで関東じゃメジャーかも知れないけれど、マイナーな地名ばかりに思えて向かう方向さえも分からず、結局はGPSに頼ってどうにか辿り着けた。

 待ち合わせ場所はGPSで検索し登録していたけれど、デートを決めるメールには彼女の一人暮らしの住所が書かれていなかった。未だに僕は、彼女の友達手前以上には成れていないらしい。

     *

 四週間前に届いたV-MAX。バイクショップで車高を下げる改造と、エンジンのチューンアップをしてから納車して貰った。リアサスペンションのスプリングをカットして、五センチほど車高を下げ、更にシートの芯を抜いて薄くした。突き上げが増えて乗り心地が悪くなったけれど、跨ると両足の靴底がべったりと路面に着いて、とても安心感が有る。

 教習所のバイクは車高が高く、低速時や停止で振らついて何度も補習を受けた。バイクショップで試乗したV-MAXも、足の着きが不安で立ち転けしそうだった。

 バイクショップのオーナーは親父の知り合いだったから、車高を下げる際に無理を言ってエンジンを降ろし、シリンダーヘッドを外して貰う。そして、WPC加工を面倒臭そうに渋る親父に頼み込んで加工装置を使わせて貰った。

 WPC加工は、微細なビーズを水の噴流に混ぜて金属の表面に激突させる加工方法だ。ビーズが衝突したとても小さな点のような部分が高温になり、瞬間に金属が溶けて急激に冷やされる。これが加工する金属表面全体に繰り返し施されと、表面から機械加工の筋が消えて滑らかで薄い超硬質な表皮に覆われてしまう。

 シリンダーヘッドの表面にWPC加工をすると、シリンダー筒との摩擦係数が小さくなり密閉性も上がる。更に最表面に潤滑層を形成する微粒子のショット加工を行うと、結果、燃費が良くなりパワーもアップする。

 WPC加工は、WONDER PROCESS CRAFTの略、『ワンダー・プロセス・クラフト』日本語にすると不思議な方法の特殊技術かな。応用は未知数で、実際に様々な分野で使われていて金属以外にも効果が有るみたいだ。

 親父は数年前に、導入していろいろと改造して全自動システムにしていた。六軸のロボットアーム、アタッチメントやビーズの自動交換、タッチや近接や画像のセンサーなどなど、加工物の形状と加工範囲を読み込ませ、あとはプログラムをセンサーが勝手に組み合わせて無人の全自動で動く。

 大抵は金型の摺動面や摺り合わせ面に用いていて、依頼が有ると面相度の均一化や特殊仕様品にショットブラストしている。プログラムは僕が組み、素材のセットも僕が行うのに、親父は性格的に作業と相性が合わないのか、いつも面倒臭がっていた。

(変な親父だ。たぶん、今回は僕好みのエンジンにする為だけに使って、金に成らないからだな。ホワイトダックスには、親父が自分でしている癖に!)

「全く、この忙しいのに面倒臭い奴だ。これは誰にも話していないし見せてもいない。メーカー連中やお客も知らない。今まで俺以外で見せて使わせているのは、お前だけだぞ」

 工場の加工設備を初めて見た時に、そう語る親父が頼もしく思えた。それまで親父の仕事にあまり興味が無くて、業種も内容も作業場や設備も良く知らなかった。僕がモノ造りに興味を持ったのは、その時からかも知れない。

「そのデカイのに飽きたら、俺に譲るんだぞ。勝手に売るなよ。だいたい所有者名義は、この俺だからな。代金の半分以上も、俺がキャッシュで支払ったんだからな」

(うっせーな、親父。分かってるさ。でも当分、いやいや、ずっとV-MAXには飽きないと思うから、ちょっと譲れないね)

     *

 待ち合わせの場所には予定時刻の十五分前に着いて、まだ来ていない彼女を待った。初冬の寒い朝、兼六園下のバス停を最後に彼女と出会っていない。寒い冬で受験勉強に頑張る彼女の体調が崩れるのを、心配した親は朝の登校と塾の帰りを車で送迎してくれていると、故に朝のバスに乗っていないと、彼女のメールに書かれていた。

 今日は、五ヶ月ぶりで彼女を見る事ができる。

(最初に笑顔で迎えてくれるだろうか? 心ときめかす彼女の可愛さは変わっていないだろうか? 大人びて、更に綺麗になったのだろうか? クールでシックな彼女の性格は、大学生になって変化したのだろうか?)

 彼女の美しい変化を期待して、ワクワクと気持ちが高ぶり落ち着かない。切に彼女の笑い顔を見たいと思う。

(性格も大人びて? ……いたら良いな)

 予定時刻が近付くに連れて、約束をシカトしたり、予定をドタキャンされたりして、このまま彼女はここへ来ないかも知れないと、気持ちが焦り出す。そんな不安な思いは、笑顔で小さく手を振る彼女を思い浮かべて振り払おうとする努力も空しく、見上げた全天を切れ間無く覆う曇り空のように広がって行く。彼女の気が変わらない保障も、約束を守る確信も、来てくれる自信も、僕には無かった。

 もう間も無く予定時刻になろうかとする頃、雲間に青空が覗き差し込む陽の光りで辺りが明るくなった。その一筋の光りの端から満を持して、スポットライトを浴びながら登場する舞台女優のように彼女は現れた。それはまるで、僕らの出会いを大自然の天候がプロデュースをする祝福のサプライズように思えた。彼女は約束を反故にせず、きっかり予定時刻に僕へ会いに来てくれた。

 近付いて来る彼女は、ほんのりブラウンに染めてナチュラルに先端をカールさせたヘアをしなやかに揺らし、たった五ヶ月間しか会わないだけで髪がそんなにも長くなって、ふっくらとしたのかと思うほど豊かな量に見えた。艶やかな髪は陽の光をキラキラと反射して輝く天使の輪を頂くようだ。その洗練されたヘアースタイルも、ポイントを押さえた薄いメイクに自然な可愛さと美しさで、大人びた彼女の端麗さを際立たせているに過ぎなかった。

 僕を見詰めながら笑顔で近付いて来る彼女に、心はときめいてドギマギしてしまう。そこに高校生までの幼さの残らないレディな彼女がいた。そして、彼女の大人っぽいファッションを見て僕は後悔した。期待以上の彼女に会えて晴れ晴れと満たされた幸福感が、待ち侘びていた時と違う鋭角な不安感に変わって行く。

 胸元が開いたニットのミニのワンピに軽めのフード付きショートコートを合わせ、足元をムートンブーツで纏めている。全体をパステルカラーでコーディネートしてエレガントさがあった。それに、Vネックの胸元を隠し、白い首元を守るように巻かれて温めていたのは、あのレリーフといっしょに彼女へ贈った暖かそうな柄の、絹のスカーフだった。

 四年前にイタリア旅行の土産に彼女へ送ったスカーフを今も持っていて、今日の初デートにして来てくれた。パステルカラーのライトなファッションにマッチして、その春めいた淡い色彩は曇り空の光に程好く顔を照らして、彼女をいっそう艶やかに見せている。

 彼女は、いかにも大学生って感じのファッションで、高校生の詰めの甘さが気になる乙女チックな服装とは、……と言っても彼女の私服は中央病院と立戸の浜でしか見ていないのだけど……、明らかに違っていた。

(とってもキュートだ! それに艶っぽいし……。スカーフが凄く似合って良かったよ。君と手を繋ぎ……、腕を組んで……、歩きたい。腕を絡めてくれますか?)

 惚れている彼女の洗練されたファッションを見て心はときめいたけれど、僕との余りのミスマッチにホットでハイな気持ちが一気に冷めて行く。僕は察した。彼女はバイクにタンデムする気なんて、これっぽっちも無い!

 春の肌寒い曇り空の下、彼女はV-MAXにタンデムする服装じゃなかった。その格好じゃV-MAXに乗れない。いや……、乗せる訳にはいかない。

(僕がバイクで来るなんて、彼女は思いもしていなかったんだ)

「おは……」

 笑顔は僕を見た一瞬だけで消えて直ぐに真顔になった。それから僕の背後のV-MAXを見た彼女は、目を丸くして呟くように言った。

「その、大きなオートバイで来たんだ……」

 彼女は別世界の未開で野蛮な異邦人が、奇怪な宇宙船に乗って自分を攫いに来たかのように、嫌悪の顔で見ていた。

 久し振りに、しかも一人ぼっちの心細い場所で会えたのに、『お早う』の朝の挨拶も言わないで嘆く彼女に、言い掛けたフレンドリーな挨拶が声にならないまま、ネバネバした不安の先が鋭く尖りキリキリと僕の胸に暗い穴を開けて行く。

 僕はアミーの迷彩ジャケットとロイヤルフォースの迷彩パンツに、フランス外人部隊のバトルブーツを履いた、全て中古品のカモファッションだった。それに迷彩柄のネックウォーマーを首に巻き、手にエアフォースのフライトグローブを嵌めて、モノトーンの破片パターンにカモペイントしたフルフェイスのヘルメットを持っている。

 とてもエレガントな着こなしの彼女と歩くファッションじゃない。それに、V-MAXにぶら下がった彼女用のフルフェイスヘルメットも見られているだろう。彼女との距離が冷えて、ビシッビシッと固まる空気に全身がチリチリと痛み出す。

『あんたと歩きたくない』という意思表示がありありと表情に出ている。ここで、『軍装品が一番温かくて丈夫なんだ』とか、『個性的だろ。気に入っているんだ』なんて言ったら、美しい顔を更に醜く歪ませて、『バーカ』と言い捨てて、プィっと帰ってしまいそうな険悪なムードだ。

 彼女が普通に街を歩くような……、いや、トレンディスポットでデートするような気持でいることを予想していなかった。僕は自分の事しか考えていなくて、僕の趣味や思い入れを彼女に押し付けようとしている。

 V-MAXを置いて、彼女と電車やタクシーに乗り街でデートするには、とても釣り合わないスタイルで来てしまった。眉間に皺を寄せる彼女は、怒った猫のように今にも唸りを噴きながら髪を逆立て、剥き出した牙で噛み付いて来そうだ。初めてのまともなプロセスに沿ったデートが、台無しになりそうな予感がした。

 考えてみたら、ここに来るまでに今日は寒いと感じていた。バイクツーリングする人は疎らで、タンデムは一台もいなかった。桜が散り終わった季節とはいえ、曇り空の朝の八時半はひんやりと寒くて、だんだんとバイクにタンデムするには無理がある気がしてくる。

 後悔が幾つも重なった。僕のここに来た目的が彼女に会う事だけになっていた。デートの内容なんて会えばどうにかなるだろうくらいにしか思っていなかった。彼女の気持ちを全く考えていなかった自分に、今の今まで気付けなかったのが一番ショックだった。

 待ち合わせ場所が相模大野の駅前だった時点で気付くべきだった。彼女は、どのルートで僕が来て、一緒に何処へ行き、どんなデートをしようと考えていたのかを。

(僕は、愚か者だ!)

 新幹線を小田原で乗り換えて小田急電鉄で来るべきだった。そしてまだ一度も行ったことの無い新宿や、JR山手線沿いの東京都内がデートコースになる筈だったのだ。

 僕はどうしていいのか、どう言えばいいのか、少しも分からなくて途方に暮れてしまった。

(だっ、ダメだ! ミスった! 今日はここまでだ。もうデートは中止して……、また出直すしかない。デートは次のウィークエンドでもいいじゃん。それだけ約束して帰ろう……。彼女の顔が見れて、声が聞けただけで十分じゃん)

 彼女の表情から、そう考えたけれど、互いに連絡を取り合って決めた初めてのデートから躓きたくなかった。それに待ち合わせの場所に来ただけで、何も無く戻って行く僕を彼女はどう思うだろう?

 彼女の気持ちの変化を怖れる僕に不安が寄せて来る。やっとデート出来るようになるまで漕ぎ着けたのに、これで破綻してしまうかも知れない。

(……どうせ破綻するのなら、強引に彼女の希望するデートへ進めてしまうか。電車に乗って、店が開いたら服を買って着替えればいいさ。でもトレンディな服を買うと、たぶん、手持ちの現金が乏しくなるから、その後は彼女に頼ってしまう事になる。それは甲斐性が無くて情けないだろう)

 どちらにしても良い結果にはならないと思う。そんなマイナス思考でモチベーションが下げる僕を察したのか、彼女は言った。

「三十分ほど待っていて。着替えてくるから」

 眉間に皺を寄せたまま、身を翻して元来た方向へ駆けて行った。

「あっ……!」

 引き止められない。引き留める言葉が無かった。ドタキャンせずにデートを続ける気持ちになった彼女の言葉に僕はホッとしていた。そう言ってくれた彼女に感謝した。

 彼女の着替えを待つ間、GPSで付近のデートスポットを急いで探した。オートバイに乗ると身体が急速に冷え込むから、一時間以内で到着できるところにしなくてはならない。

(何処へ行こう? 相模湖は? いや、ダメだ)

 相模湖は近くのようだけど、雲量が多くて陽の差し込まない日はだめだ。内陸山間部は此処よりもっと寒い。僕はウエザーマップで地域の天候も確認していなかった。雨が降ってもV-MAXで走って来るつもりだったけれど、雨天でのデートと彼女の事は全く考えていなかった。

 僕はアバウト過ぎだ!

(新横浜や鎌倉は?)

 新横浜へ行ってもバイクツーリストがブラつく場所は無いだろう。それにGPSを見ながらでも新横浜までのルートを迷わずに走る自信は無かった。鎌倉は更に遠くてルートも間違えそうだ。なによりカジュアルなファッションじゃないと様にならない。デートスポット過ぎる。

 もっとアウトドアっぽいスポットでないと…… ダメだ。

(そうだ! 海へ行こう。横浜港は近いはずだ)

 海ならば、彼女は納得してくれると思う。たぶん、砂浜なんて何処にも無くて港の岸壁ばかりだろうけど、潮風が好きみたいだから何とかなるかも知れない。

 GPSでなぞるとルート16で一直線だった。市街地に入ると曲がりが有って大きな道が重なるけれど、どうにか分って走れるだろう。

 横浜港のミナトミライ地区に隣接して、帆船の日本丸やテーマパークのコスモワールドが在る。赤レンガ倉庫から大桟橋へと歩き、更に山下公園を通り氷川丸も見学してマリンタワーに昇ろう。少し離れた港が見える丘公園まで行っても良い。お昼は中華街で食べれば良いと思うけれど、まだクレジットカードが届いていなくて、今の財布の中身だけでは聊か心細かった。

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 息を切らして彼女は、本当に三十分で戻って来た。

 『戻って来なくて、このまま放って置かれるかも知れない!』、『捨て置かれたら、とても惨めだな』、『いや、彼女はそんな酷いことをしないだろう。でもV-MAXを見ていた目は……』などと、勝手に心理戦をして不利になりかけていたところへ彼女は戻って来た。

 ムートンブーツはそのままにGパンを穿き、上は厚手のタートルネックのセーターにダッフルコートを重ねている。セーターの下にも着込んでいるようだ。そして、きっと話しが弾むだろうと考えていたメモリアルな絹のスカーフは外されて、代わりにニットのマフラーが手に持たれていた。

「レザージャケットやスキーウェアとか、風を通さないのを持ってないのかよ?」

 その開きの多いコートや通気の良いニットの着込みでは、高速で流れ来る冷たい風を防げそうには見えない。まだ冷たい外気に吹かれて彼女が体調を崩すのを心配した思いに、語気を強くしてしまう。

 それでも、V-MAXに僕とタンデムする服を考えて、急いで一旦部屋へ帰ると即行で服を着替えてから、言った通りに彼女は三十分で戻って来てくれた。それなのに感謝もせずに……、非が選択肢を誤った僕に有るのは明らかなのに……、頑なに初志貫徹の我を通そうと着替えて来た彼女の服装に僕は低評価のダメ出しをしてしまう。

 言ってから、『しまった!』と思った。

 ハァハァと、息が上がっている彼女に鋭く返される。

「ないわよ!」

 強い口調で言い返された。

 不満を我慢していただろうの彼女を苛立たせて、とうとう怒らせてしまった。あと一言で彼女は完全に爆発しそうだ……。急いで話題を変えて機嫌を取りに行く。

「もう横浜港には行って来た? 海を見に行こう」

 ナビのマップで見る限りでは、ルート16を真っ直ぐ走ればいいだけだと判断して、ナビを切って走ることにした。下がった僕の評価を鋭い方向感覚と優れた観察力を見せ付けて、挽回しようと思いついた単純なパフォーマンスだ。近視的視力と精度が怪しい体内磁石で適当に走らせるV-MAXは、リスクの方が大きいかも知れないけれど、上手く着ける可能性に賭けてみる。

 海に行くと聞いた彼女の少し明るくなった表情が『行こう』と言っている。彼女の原風景の場所から察して、海が好きなのだろうと思っていた。海辺の彼女は明るくて楽しそうで、そしてとても元気だった。横浜港の潮風で彼女の機嫌が良くなって欲しい。

(横浜の海が、せめて、能登の諸橋地区の海のような色なら良いけれど……。でも東京湾の中だからね。しかも曇りの天気で寒いし……)

 たぶん期待できないだろうと思い、着いてがっかりする彼女の気持ちを想像して、僕の気持ちは暗くなる。だけど他に行く宛てを思いつかないし、知らない。

 そんな僕の憂いも知らず、少し機嫌を直した彼女は身軽に僕の後ろに跨り、両腕を僕にしっかり回して僕の背に体を密着させて、一年ほど前の救急車の時よりも、『大きくなったかな?』と思わせる胸を背中に感じさせた。その無言で僕を風除けにする彼女の行動が嬉しい。

 肩越しに軽いファンデーーションの香りを薄く漂わせる彼女の匂いが、僕の鼻腔を擽る。バス事故や立戸の浜で嗅いだ匂いとは少し違う、相模原で一人暮らしをする彼女自身の生活臭だ! 少し芳ばしくて体臭じゃない。彼女の住む建物の臭い? 部屋の臭い? ファンシーケースの匂い?

 春の冷気を押し退けて肺を満たす、背中に密着する匂いが心地良く、この匂いも、ずっと嗅いでいたいと思う。

 被ったヘルメットを僕のヘルメットにぶつけて彼女は声を落として言った。

「GO!」

 彼女のトーンを抑えた声がフルフェイスヘルメット内に響く。

(なぜ、低い声?)

 声の低さを不思議に思いながら、僕は気合を入れてV-MAXを発進させた。

「GO!」

(後は出たとこ勝負だ! 臨機応変に対応すしかない。今日は良い日でありますように!)

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 トントンと彼女が肩を叩いた。

「なに?」

 少し振り向いて訊く。

「あそこ!」

 彼女は加速する風圧に負けないように大声で言って斜め後方を指差した。指先の向こうから僕が抜き去った自動車を盾にして、白バイがサイドミラーのアウトサイドの死角から迫って来ていた。

 ハイビームに光るヘッドライトとけたたましく点滅する赤色灯が急速に接近する。甲高いサイレンとスピーカーの我鳴りが、バイザーの風切り音とフルフェイスヘルメットの厚みに遮られ、それにV-MAXのサウンドの被りと広い道幅と疎らな車両による周囲の無反響で音が逃げ、小さなノイズにしか聞こえなくて、何を言っているか分らない。

 明らかに狙いは僕だ。連なり走る車の集団を縫うように抜き去って次の集団へフル加速で追い着く。それを繰り返して、今も国道の制限速度を余裕でオーバーする走りで、前方の集団へ急速接近中だった。

(逃げ切れるか? 白バイの隊員達はプロだ……。彼らのテクニックと精神力には敵わない。V-MAXに乗って一ヶ月余りの僕には尚更、今の国道が空いている状態でも到底無理だ。混み合ってる状況なら周囲の自動車は紛れるどころか、自分の障害物になって無関係な人達を巻き込む大事故を招いてしまうだろう。……それよりも、彼女を犯罪行為や更なる危険に巻き込めない)

 プロの強靭なハイテクニックで操られる重装備で白一色で塗られたロードレーサーに、ビギナーの僕は全く勝ち目が無かった。既に白バイは真横にいてスピーカーで叫び、乗車する隊員は手振りで減速し路肩に寄り停止せよと指示している。やっと僕にサイレンがはっきりと聞こえ、ラウドスピーカーからの声の意味が良く理解できた。

『速やかに路肩に寄り、止まりなさい』と事務的に煩いくらいに繰り返し言っていた。速度超過違反、安全運転義務違反などで減点、罰金、運転免許停止は確実だろう。僕は覚悟を決め、アクセルを戻し減速させ路肩に停車した。

 時速二十九キロメートルのオーバー。少ない初任給から由々しき金額に羽が生えて無情に飛んで行く気分だ。そんなブルーな事態でも初犯という事で、危険運転の罰則を勘弁して貰えて免許停止にならなかったのは有り難かった。

 ジロジロと反則の記入から書類を仕舞い終えるまでを見ていた彼女と、初めて遊んだパチスロで一時間も経たずに数万円が消えた時みたいな気分の悪さで項垂れる僕へ、軽く御辞儀をした交通機動隊の隊員は白バイに跨ると、新たな獲物を求めて猟犬のように走り去って行く。

 隊員の白いヘルメットが視界から見えなくなり、V-MAXに靠れてアンラッキーの自責の動揺と、罰則の忌々しさに高ぶる気持ちを落ち着かせていると、スマートフォンで現在位置を確かめている彼女が横に来ていっしょに靠れた。

「ちょっと高くついちゃったね。なのでぇ、もう急がなくていいからね! 飛ばすと怖いし、危ないし、寒いし」

 僕を宥めるようにも、励ますようにも、詰るようにも、聞こえて、正に彼女の言う通りだと思う。また僕は独り善がりをしていた。

(高額の罰金を払うほど、彼女を危険に晒してまで、僕は何をしているんだ。ここからはゆっくりと、彼女を思い遣りながら走ろう)

 ジレラ・ランナーを乗り熟す彼女だから、見下されるないように過激なライディングで逞しさをアピールしようと、ビギナーのテクの無さをカバーしたパワー頼りのデンジャラスなハンドリングは、彼女よりも僕を完全にハイにさせていた。

(そりゃあ……、そんな重ね着くらいじゃ、やっぱり寒いんだろうな……)

 気を取り直して僕は彼女にしっかりと手を回させて走り出す。今度は車の流れに合わせて走る。再び僕の背で暖を取る彼女の温もりと芳しい匂いを感じた。

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 前方の信号が黄色に変わり、軽く制動を掛けつつ路肩沿いを進み、減速で後方から追い着くように香る彼女の芳しい匂いを鼻息荒く胸一杯に吸い込みながら、僕は気分良く、変わる信号で減速して停止するはずの車列の先頭へ出ようとしていた。しかし、前方を走る数台の自動車は減速せずに黄信号の交差点を超えて行き、その速度だと、そのまま繋がって行くものだと思われた二台前の自動車は黄色から赤信号に変わるや否や、急制動で停止してしまった。その真後ろを走り、停止ラインで停車するつもりだったと思しき、僕の直前を行く自動車が、その煽りで反射的に急ブレーキを掛け、咄嗟に衝突を避けようとしたハンドル操作で、左前部を路肩へ寄せた斜めの向きに停止した。

 突然、直前の路肩にV-MAXが通れる幅の空間が無くなってしまった。このまま進めば前輪とハンドルの右端が車の側面に接触してしまう。

 行き場の無さで慌てた僕は、追突を回避しようと急制動を掛けてV-MAXを前輪が車の後部と並んだ位置で停止させた。でも、車をよけた所為で制動慣性に斜め外方向の慣性が加わって、直感的に僕は転倒を意識した。こういう場合は、普通ならば両足裏をしっかりと路面に着けて転げないように踏ん張れば良いし、その為にV-MAXのシートを低くして停車姿勢を安定させている。だけど今は、想定外で違っていた。

 失速したV-MAXは僕と彼女を乗せたまま、路肩側へゆっくりと傾く。路肩側の足裏は、選りに選って路肩の盛り上がったアスファルトの峰に乗ったタイヤで、車高が高くなったのと蓋の無い側溝の空間に、足先を着けて支える足掛かりを見付けられない。爪先が虚しく何も無い宙を探る。

 V-MAXは平衡修正の限界点を超えて、狭い側溝を隔てた道路面よりも少し低い民家の庭先へ向かって、確実に倒れて行く。

「降りろっ!」

 彼女へ振り向き、僕は大声で言った。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 体重移動のバランスで転倒を遅らせているものの、もう限界だった。折角シートを薄くして足裏がベタ着きできるようにしたのに、その効果が発揮出来ない場所で、何度も、何度も、両の爪先は虚しく地面を探す。

 現実的に倒れて行く左側には傾きを停めて復原する支えを着く実際的な面や物が全く無くて、ここで転倒するのが運命的な必然だと、僕は受け入れるしかなかった。……それでも……。

「ええ? うん!」

 瞬間の沈黙のあと、すぐさま状況を察して彼女はタンデムシートから急いで降りた。その反動で傾きが加速されて一気に転倒していく。彼女が無事に降りたのを確認しつつ、スローモーションで視界が傾いていった。

(だっ、ダメだ。倒れるのは必至だ)

「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」

 彼女の叫びが聞こえる。僕を身を案じる嬉しい叫びだ。

 V-MAXの進路を塞いだ自動車のドライバーに彼女の叫びが聞こえたのか、ドアミラー映るドライバーが僕を見て眼が合った。今、この瞬間、一台分のスペースでいいから自動車を前へ移動させてくれれば、アクセルを開けてV-MAXを道路側へ進めて転倒を防げるのにと思うけれど、その前にも信号待ちで停車する自動車がいて動けない。そして、直ぐに青信号になっても間に合わないと悟る。

 足裏が着く路面までV-MAXを動かせれば、上手く自然体の停車ができなくても、半倒れ程度で済むだろうという望みは、もう叶わない。

 路面より低い場所へ倒れる衝撃とV-MAXへの被害を最少に抑えようと思うけれど、どう転倒すれば良いのかわからない。でも僕が下敷きになれば、V-MAXの被害は少なくてすむかも知れない。

 覚悟を決めてエンジンを切る。これでガソリンの供給はストップされてオーバーフローにならず、溢れ漏れたガソリンが熱いエンジンや静電気で炎上爆発する事はない。

「ああああっ、だめぇー!」

 聞こえ続ける彼女の叫びが、僕の、この絶望的な状況に為す術の無い事を改めて悟らせた。

 左足先が側溝の縁を探り当てるけれど、それは虚しい努力だった。上半身が花の無い花壇に落ち、その上にV-MAXが被さってくる。背や肩の軽い打ち身の痛さに、胸から足へ重量の有る衝撃が降って来た。

 ドサッ!

「キャーッ」

 V-MAXが倒れた衝撃音を、彼女の悲鳴が覆う。

(くっ!)

 僕は仰向けに倒れ、その上にV-MAXが被さり僕を押さえ付けている。胸や腹は重みだけで、それほど圧迫はなかったけれど、左膝下だけが酷く痛い。それは道路の路肩と一段低い庭先の間に有る側溝の空間に脛から足首にかけて出ている所為で、脛骨をV-MAXの重みが撓ませていた。

(いててて……、やばい! このままじゃ、足が圧し折れる!)

 エンジンやマフラーの火傷しそうな熱さよりも、骨が曲がる独特の我慢できない痛みが僕を襲う。

「うっ、ううっ……」

(いっ、痛い! 痛い! 痛い!)

 あまりの痛さに身を捩ると更に脛へ重みが加わり、骨が撓るのがはっきり分かった。このまま脛骨が撓み加重の限界を超えると、骨が飛び出すような複雑骨折になってしまう。僕は自分の足のそんな状態を見たくないし、その痛みは知りたくもない!

 骨が曲がるだけでも元通りに治癒するまで大変な思いをするだろう。そんなのは嫌だ! 想像したくもない!

 僕は焦り、自由になる両手でV-MAXを押し除けて、加わる重さから抜けだそうと試みるけれど、胸まで押さえ付けられた仰向けの状態に力が入らない。少しでも横へずらそうとしてみても、ずり落ちるように圧し掛かる重量三百㎏オーバーのV-MAXには全く非力だった。愛車は微動だにしない。

「だっ、大丈夫?」

 掛けられた彼女の声に余裕の反応を見せようとするけれど、頭と両手以外の体が動かせない。

(こりゃあ、マズイぞ。脱出できないし、息苦しいし、凄く痛いし、全然、だっ、大丈夫じゃない!)

「うう、まだ……、まだ生きてるぞー」

 言ってから直ぐに、心配する彼女を少しでも安心させようと、おっさん臭いジョークで答えたのを後悔した。真剣に僕を心配して今から助け出してくれそうな彼女へ、生き死にのジョークで返事をするなんて、失礼の極みだった。

「ちゃんと意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」

 潰されそうな痛みに目を瞑ると、ザザッーと間近で地面を擦る音がして、埃っぽい乾いた土の臭いがフルフェイスヘルメットの中に舞い込み、彼女の声と匂いがする。

 目を開けると、ほんの僅かの間だけ目を閉じていたのに、路肩に立ってV-MAXの下敷きになった僕を見下ろしていたはずの彼女が、傍らで膝を着いて僕を覗き込みながらV-MAXのハンドルに手を掛けていた。

(V-MAXを起こすつもりなのか? 起こせるのか?)

 ジレラ・ランナーを扱い慣れている彼女なら、起こせなくても、ずらしてくれて、抜け出せるかも知れないと思う。

「どこか、痛いところ有る? バス事故の時みたいな怪我してないよね?」

 いつもの微笑むような顔が怒っているみたいに真剣で、優しげな瞳が険しい眼差しになって僕を睨んでいた。

「あっ、左の足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」

 側溝の縁から出ている左膝骨は折れそうなくらい、ビリビリと激しく痛む以外に痛む部位は無く、胸と腹に掛かるV-MAXの重みで息苦しい。

 きっと脛骨は、時代劇ドラマで見た罪人の太腿へ石板を積むような拷問状態だ。まだ重みに軋んで曲がりそうなだけだけど、このままだと曲げる力に耐えられずに靭性の限界が来て、急激に曲がりながら脛の骨は折れてしまうかも知れない。

 『ボキッ!』っと折れた頚骨は薄い肉と皮を破って飛び出して来て、その叫び狂わす激痛はガンガンと強く全身を痙攣させるだろう。そうなると、病院で半年間は手術と治療の入院になる。

 だけど、問題は頚骨の折れる結果ではなくて、折れるに至るまでの想像もできない痛みを伴う骨の曲がりだ。ゆっくりと加速して曲がる頚骨の折れるまで続く激痛に僕は、とても耐えられそうにない。

(くっ、くっそぉー! 想像するだけで堪んねぇ。早く、V-MAXをズラして脱出しないと、ヤバイ!)

 自由になる両の手がハンドルバーを握り、力を込めて少しでも横へズラそうと試みた。

 慌てて駆け寄って来てくれた彼女と力を合わせて退かそうとするけれど無駄だった。彼女が背を反らし、体重を掛けて持ち上げようとしたタイミングで、僕も渾身の肩と腕の力で再びV-MAXをどかそうとする。

(ん!)

 ほんの僅かだけど動きそうな気配が有った。このまま横へズレて下腹部辺りまで抜け出せるかも知れない。そう思った瞬間、撓みにズキズキと痛む脛へ更なる激痛が走った。

(うっぎゃあー! あた、あたた! 足、痛ってえー!)

 激しく瞼を瞬き、大きく開けた口で悲鳴を上げるのを、やっとの事で堪えた。これ以上、彼女に動揺を与えたくないし、それよりも助けを呼んで欲しい。当然、胸に被さる前輪側を持ち上げたら、僕の胴体を支点にして後輪側に重さが移る。その分だけ脛骨を圧し折る力が増すのを、彼女が助けに来てくれた喜びで忘れていた。痛みの涙で視界が滲み、顔を寄せて話す彼女がよく見えない。

「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」

 地ベタにへたり込んで、どうしようかと心配そうに見つめる彼女の顔に、僕と同じ考えが現れていた。

「すっ、すまないが、車を止めて助けを呼んでいただけませんか」

 足が折れそうな激痛で、彼女への頼みを変な丁寧さで言ってしまった。さっきから骨が折れるカウントダウンは始まってる。

「僕は、まっ、まだ大丈夫だから……。あう、ううっ」

 全然、大丈夫じゃないけれど、一応は強がっておく。重しで骨を折る拷問は、『こんな感じに無慈悲なんだろうなぁ』と、自力で窮地を逃れられない状態の悲しさに激しい痛みも加わって、もう、視界の彼女は暈やけて全然見えていない。

(マジ、すっげー痛くて、たまんねえぇぇぇぇぇ!)

「うん! わかった」

 直ぐに彼女は道路に出て、両手を振って車を止めようとしてくれる。僕も両手を振り上げて窮地を知らせた。もう痛過ぎて叫びたい。

 あんなに恐れていた立ち転げをしてしまった。

 せっかく彼女が着替えて来てくれたのだから、ムードもモチベーションも好転していくはずだった。だのに……、スピード違反で白バイに捕まるわ、立ち倒けして彼女を危険な目に遭わせて、しかも僕は転倒したV-MAXの下敷きになっている。まだ半分ぐらいしか来ていない中途半端さは、格好悪過ぎて不吉だ。

(このままじゃ、本当に彼女との関係を失ってしまう……。あっ、痛っ! いっ、痛い! 痛い! くっ、くっそー)

「たっ、たすけてくださーい!」

 泣き叫びたい悲鳴を飲み込んで助けを御願いする。このゆっくりと骨が曲がり折れて行きそうな激痛を、彼女に知られるわけにはいかない。でも……。

(足が……、足が挟まれて、もっ、もう限界です。くううう)

 堪えられない痛みに僅かでもジタバタすると脛骨への加重が増し、目を閉じて固く食い縛る奥歯の根が合わなくて、じっとりとベタ付く汗が更に噴き出した。寒気と震えが全身を襲い、刻一刻と強くなる痛みに目を見開き、空一面の雨の湿気を含んだ色をした雲を見る。僕はもう我慢できない!

(この上に雨に降られたりしたら、堪ったもんじゃない。雨だけは降らないでくれー)

 バッとヘルメットの中に砂埃が舞い、見開いた目に別の痛みが入って来た。傍に来た人の動きで起こした風が地面の細かい土を巻き上げて、フルフェイスヘルメットの首周りとバイザーの隙間から吹き込ませた。

「ゲヘッ、ゴホッ」

 ヘルメットに囲まれ、バイザーで閉じられた極端に狭い空間で吸い込む埃は僕を咳き込ませて、痛みで滲んだ視界を息苦しさの涙が歪ませてしまう。

「ズッ、ズズーッ」

 出て来た鼻水は懸命に啜っても唇の端から顎へと流れて行く。仰向けの体制で喉へも流れて気持ちが悪い。

「あっ、ごめん。ごめん。目は大丈夫か? 動けなくて大変だったろう。直ぐに助けてやるからな」

 ドカドカと四、五人の男の人達が慌ただしく僕の周りを取り囲んで僕の挟まれ具合を見始めた。

「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱してね。直ぐに助け出して貰えるから」

 いきなりヘルメットのバイザーが上げられて、僕を覗き込む彼女が言った。とても近い距離で僕の顔の隅々まで視線を廻らせる。凄く嬉しくて彼女を抱き締めたいけれど、両手はそこまで動かせない。それより泣きそうで汚なくて惨めな顔を見られたくない。

 左足は痛みは我慢の限界だし、充分に膨らまない肺は窒息寸前の辛さだ。もっと酸素を……、身体全体の血行も悪い気がする。頭痛は鬱血からで、吐き気は激痛の所為だと思う。

『せーの』の掛け声で一気に倒れたV-MAXを起こし路肩に戻して行く。脛骨の激痛と胸の圧さえがすうっと消えて、嬉しさと安堵と目に入った埃で僕の目尻から涙が流れた。

(ゴホッ、良かったぁ~。助かったぁ~。ぐすっ)

 重石を除けられた身体が軽い! 圧迫で狭められた気道と縮められていた肺が開放されて、勢い良く吸い込む空気と巻き込んだ埃の刺激に再び咽ると、更に鼻水が大量に噴き出て来た。

「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」

 サイドスタンドを出してV-MAXを固定しながら、バイク歴の有りそうな初老の男性が言う。

「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」

(だっ、大丈夫じゃないです)

 ジンジンして痺れる足は、立とうとする少しの動きでビリビリと痛み、元に戻ろうとする骨からはズゥンズゥンと深く鈍い痛みが響いて来る。とても自分一人で直ぐには立てそうにない。

 それでも、ダメージを彼女に気付かれたくない僕は、倒れたままで頷く。

「どこか怪我していないか? 痛いところは?」

 辛い痛みを知られて『帰ろう』と彼女に言われるのを恐れる僕は、首を横に振る。ずうっと願っていて、やっと叶った初デートを、これくらいの痛みで中断したくない。

「ほら、起こすぞ。立てるか?」

 仰向けに倒れている僕の両脇に腕が回されて、抱えるように引き起こされる。

 圧迫から開放された足から痛みが退いていたのは僅かの間だけだった。圧迫が無くなった足に血行が戻って行き、毛細血管の端々まで巡る血液に痛覚が呼び起こされると、束の間の安堵が痺れの苦痛に苛まれ、それに曲げる力で伸ばされていた骨の縮む痛みが加わった。

「うっ!」

 ほんの五分ほどの時間だったのに、V-MAの重みで押さえ付けられていた全ての処が同時に痛み出して、思わず僕は呻いてしまった。

「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら救急車を呼ぶぞ」

 圧された胸と腹の筋肉がブルブルと痙攣している。ビリビリ痺れてズキン、ズキンと骨の痛みが脈動する左足は、そおっと地につけて立っているだけで精一杯だ。

「いえ、大丈夫です。潰されそうになっていたから、……立ち眩みが来ただけです」

 痛みの呻きを、僕は立ち眩みでフラついたように誤魔化した。

「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染みたりしていないし、破れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」

 引き起こされるのを見ていた年輩の男性が、ぐるりと僕を一周して深刻なダメージがないかチェックしてくれた。

 そんな男性の動きに合わせて顔を向ける僕の様子を、彼女は路上から心配そうに見ていた。

「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」

 頭や首を強く打ち付けていなかったし、背骨や腰もフラットな土の上だったから損傷はしていないと思う。

「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」

 顔を廻らし、頭を左右に振り、腕を挙げ、拳を握ってから開くと、痺れが軽い右足も少しだけズラして見せた。

「そうか、頭は大丈夫そうだな」

 フルフェイスヘルメットを脱ぐのを手伝ってくれた男性が、外したヘルメットと僕の頭や顔を見て、頭部と頸部に外傷は無く、たぶん、脳もダメージが無いだろうと安心させてくれる。

「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」

 確かに後頭部と首に痛みや違和感を感じていなくて、仰向けでの頭から落下する衝撃を無意識に受身で逸らしていたのかも知れない。

 背中と腰にも痛みや痺れの違和感は無く、落ちて来たV-MAXの重量を受けて圧迫された腹部と胸部は、重さから解放されて部分的な幾つかの打撲を感じるだけだった。でも、血液の循環が戻りつつある左下肢だけは、少しも薄れない痺れと痛みで小さく痙攣している。

 そんな僕の左足と顔を、彼女は観察するように交互に見ていた。

「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」

 まだ若い感じの奥さんが僕の左足を指差しながら言う。起き上がった時も、右足を動かした時も、そして、どうにか立っている今も、左足を庇っているのに気付かれている。眉毛の外端を上げて眉間に立て皺を寄せた目で、じっと僕を見ている。

「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」

 左足の爪先を持ち上げてから膝ごと上げて見せた。

(痛くない、痛くない)

 誤魔化しで動かした左足の痛みは深くて鋭い。痛みが走る度にぎこちなくなる動きに、ちょっと笑ってみせたけれど、きっと歪んで真顔っぽいと思う。

「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、医者に診てもらいます」

 一時的な痛みだと痺れてなんかいない。軋んだ脛骨が元に戻るジンジンとした鈍い痛みに、僕は落ち着かない。

(うーっ、どうしてこんな目に……)

 恨み節を考え掛けて……、僕の動揺と焦りがこんな目に遭せたと思う。

(落ち着け! 致命的な問題は起きていない。落ち着いて考え、慎重に行動すれば後は上手く行く。デートは始まったばかりだ)

「本当に怪我しなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」

 女性は、僕の痛がらない態度と服の破れや出血の無い外見から緊急性の無い事を納得してくれて、本来の予定へ戻ると告げた。

 不安気な顰めっ面から、いつもの表情になった彼女は、黙って笑わない目でジーっと僕の様子を観察している。痛くて庇っているのは事実だから、誤魔化しても勘の良い彼女の疑りは晴れないだろう。

「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」

(勿論、そうです。彼女の安全が一番で、最優先です)

 女性から声を掛けられた連れの男性も、僕達に別れを言う。

 今、膝がガクガクと折れて倒れ、耐えられない痛みに悲鳴を上げながら蹲ったりでもしたら、きっと、この人達は救急車を呼び、病院で診察と治療が済むまで、付き添ってくれるだろう。そして、デートを中断された彼女を相模原まで送ってくれるだろう。そうされた方が良いのかも知れないけど、僕は痛みに耐え続けていた。

「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺います」

 彼女が感謝を告げている。

(そうだ、この方々は、僕を救ってくれた恩人だ!)

「名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」

 確かに女性が言う通り、誰かに助けを求められたら、自分が出来る事はしてあげたいと思う。でもそれは、当たり前の事なのか? 普通に出来る事なのか?

 彼女の危機にはバス事故での僕の行動が証明している。家族にも同様の事をすると思うし、友達も彼女ほど意識していないけれど体と脳は鋭く働くだろう。でも、赤の他人には、助けを求められたらは有りだけど、助けが必要だからは計算と迷いが入るかもだ。

「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」

 判断の甘さと雑な行動で陥った窮地から救出された開放感とボランティア意識の考察に浸る僕は、謙遜する男性の言葉と彼女が告げる御礼の言葉をBGMのように聞いていた。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 『ドカッ!』行き成り彼女に背中を殴られた。

 視界の隅に脇へ近寄って来た彼女が、僕の脇腹の後ろ側へ手首を引いたグー握りを瞬時に半回転して突き出して戻すのが見えた。

(あたっ! あたたたぁ。正拳突きされた……、ううー)

 何時、何処でヒネリを加えたパンチを覚えたのか知らないが、直ぐに殴られた意味は理解した。

「あっ、ありがとうございました」

 慌てて御礼を言って頭を下げる。だけど、返された僕達を心配する親切な言葉は、思いのほか彼女の突きが痛くて殆ど聞き取れないまま、僕は去り行く恩人達を見送っていた。

「とても親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」

 そうだ。彼らが僕を助け出してくれなかったら、今頃はV-MAXの下敷きになったままで、脛骨が折れて泣きながら救急車が来るのを待っていただろう。

「ああ、本当に助かったよ。超感謝だね」

 三台もの自動車が停まって僕を助けてくれた。自動車に乗っていたのは、それぞれ互いに無関係な人達で僕の為に強力してくれていた。救助の段取りや救出後に賞賛し合う言葉を交わすだけのシンプルで気持ちの良い人達だった。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 左脛の痛みを我慢しているのを彼女は気付いている。深い痛みは脛骨から、痺れの痛みは体重移動で負担が掛かる左足の裏をビリビリさせていた。

「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」

 彼女と二人だけになって気が緩んでしまった。折れそうになるくらい曲げられていた脛骨が元に戻ろうとしている痛さで、これは冷湿布を貼って治療すべきだと思ったら、膝がガクガクと震えて、そのまましゃがむようにペタンと尻餅を付いて座ってしまった。

「そう、全然痛く無いのならいいんだけどね」

 油断して見られたヘタリ込みの醜態で、今日を中断する冷めた言葉を告げると思っていた、僕の異常を察している筈の彼女が肯定してくれた。

 全く何とも無いなんて嘘だ。痛く無いどころか、座っていてもジンジンする痺れと深く重い痛みがズキン、ズキンと、響いて来る。

 僕だけなら、近くの公園へ移動して、そこのベンチで三、四時間は横になって安静にしていると思う。左足は、それくらい痛む状態だった。

「……うん」

 彼女は、ヘタリ込んだままで返事をする僕の横にしゃがむと、腕や肩や背中を叩いて転がって付いた泥や埃を落としてくれた。更に持っていたアルコールテッシュで、V-MAのエンジン辺りから附着したオイル汚れを拭き取り、そして、僕の顔も拭いてくれる。

(……彼女は優しい……)

「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」

 肩に触れる彼女の優しい言葉が、『私の安全が最優先でしょう』と耳の中で反復して響く。だけど、意地になる僕は押し通す。

「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから続きを走るから」

 僕の言葉を聞いた彼女は顔を曇らせ、口が唇を噛んで歪むと険しい眼付きで僕を睨み付けた。これは『心配してくれているんだろうなぁ』と、嬉しさが混じる申し訳無い思いで目を逸らせてしまう。

 そのまま十五分くらいへたり込んでから、左足の様子を見てやんわりと立ち上がってV-MAXのハンドルに手を掛けると、上手くバランスを取れば押して移動できそうな感じがしたので、何とか交差点を曲がり横断歩道を過ぎた場所まで動かした。

 移動する途中で左の膝や足首は『カクン』と折れる事も無く、痛みに持ち堪えてくれた。直ぐにでも大桟橋へ向かう続きが出来そうだったけれど、大事を取って僕は左足を投げ出して歩道の定石に三十分ほど座っている事にした。

 不機嫌そうでもV-MAXのテールを押して移動を手伝ってくれた彼女は、自動販売機で温かい缶コーヒーを二つ買うと黙って僕に差し出した。『飲んで、気持ちを落ち着けて』とアイコンタクトする彼女に『わかった、ありがとう』の頷きで返し、動揺する冷えた身体を二人は缶コーヒーで温めながら、ゆっくりと落ち着かせて行った。

 少し左足の痛みが薄らいだ僕がV-MAXを始動させると、彼女は嫌な素振りも見せずに黙ってタンデムシートに跨り、両腕を僕の腹部に回した。

 速度違反と転倒で大きく時間をロスしてしまった。だけど、遅れを取り戻そうと焦って無謀になっては駄目だ。それは更なるアクシデントを招いてしまい、今度こそ彼女に愛想を尽かされると、締め付ける両腕の力の強さに思う。

     *

(これは……、間違いない)

「……海の匂いがする。このまま行けば横浜の港だ」

 進む大気に海が香る。被ったフルフェイスヘルメットの首周りから吹き込む風を、くんくんと何度も嗅ぎ分けて確かめると、僕はバイザーを上げて大声で彼女に知らせた。

「うん。私も……」

 風に掻き消されずに聞こえた彼女の応える声は直ぐに途切れてしまったけれど、能登半島の内浦の海辺で育った彼女が潮の匂いに気付いていない筈がなかった。

「あはは、犬みたいね」

 獣呼ばわりされたのに、なぜか、僕は嬉しい。

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 あと少しだろうと思うところでルート16は曲がり込んでいた。道なりに車の流れに添って坂を下り、横浜市内の大通りような場所に出て走っていたけれど、辺りに草木の斜面が増えてきて港湾に近付いていない気がしていた。

 スピードを落として路肩へ寄せ、道路案内板の近くの歩道脇へ左足の痛みを確認しながらV-MAを停車させた。向こうの青地の道路案内板に『高島町』、こっちは『戸塚』と白文字で書かれている。

(たぶん、さっきの『浜松町』って表示された交差点を逆方向に来ていたな……)

 辺りの地名や地形がさっぱり分からなくて、僕はしっかりと迷ってしまった。

 急いでV-MAXのナビゲーションシステムをオンにする。だけど現れた拡大画像を見ても全然分からなくて、広域画像にしようと何度も画面のアイコンにタッチしているけれど、画面は切り替わってくれない。GPSナビゲーションシステムは、さっきの転倒で壊れてしまっている。

(くっそ~。近くまで来ているはずなのに! これは、かなりマズイなあ)

 道に迷った事への彼女の反応が超怖い。今日のマイナス続きの印象に、またマイナスを重ねてしまった。

「ごめん、道に迷った」

 彼女の方へ顔を少し回して言う。これから反対方向へ向きを変えて走るのだから、彼女に怪しまれる前に正直に言う方が得策で、迷った事への減点は最小限になるだろうと、小賢しく考えてしまう。

「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」

 僕の腰に回されていた彼女の手が解かれて肩を掴むと、シートから腰を浮かした彼女が僕の肩越しにGPSの画面を除こうとしているのを感じた。

「やだ、ここまで来て迷ったの? もう近くまで来ているのでしょう?」

 耳元で覚悟していた彼女の非難の問い掛けが聞こえ、更なる謝罪と言い訳をしようと思わず顔を彼女へ向けた。

『ガチン!』

 横向き気味の顔を声の方へ衝動的に向けようとした途端、、互いの上げたヘルメットのバイザーがぶつかって僕は驚いて仰け反った。反射的に避ける無作為な体勢の動きで停車させているV-MAXがふらつき、慌てて両足を踏ん張って体制を安定させた。

 ズキン! 再び倒れまいと接地した足を力ませた所為で、立ち転けで折れそうなほど傷めた左足の脛骨が鋭く痛み、深く痺れるような痛みが脳芯を突き抜けた。ひたすら患部に神経を集中させて痛みが退くまで息を殺し静かに堪える。そして、我慢する痛みを彼女に悟られまいと目を瞑り無言になった。

 減点続きの動揺で萎縮するメンタルと予想以上の鋭い痛みに、僕はもう、全身が緊張して目眩がしそうだ!

「ちょっと~、気を付けなさいよー」

 僕の肩を掴む彼女の手にギュッと力が入り、さっきの二の舞は御免だとばかりに声にも力を入れて彼女は、ゆっくりと退いて行く痛みに堪えている僕を窘める。

(この痛みの辛い時に、『やだ』に『ちょっと』かぁ、めげるなぁー)

 メールのきつい文章には、慣れて免疫が付いたけれど、去年からの彼女の行動と直かに聞く彼女の言葉には、まだ抗体ができていない。

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 『関内』、『馬車道』、『みなとみらい』、『ランドマークタワー』、『桜木町』、道路の案内板には初めて見る地名や場所の名称ばかりで、どれを見て進めば良いのか迷ってしまう。吹き付けて来る大気は、はっきりと潮の香りがして間近に海辺が在ると知らせている。だけど、自動車道の高架が被る通りは建物だらけで海など何処にも見えない。

 何の予備知識も無く、当てずっぽうに来てしまった僕は、このまま大桟橋を見付けられずに彼女をタンデムさせて、遠回りするようにグルグルと迷いながら戻る事になるのだろうかと、藁か、蜘蛛の糸にでも、何かに縋りたい思いで忙しく視線を案内板や表示板へ動かせながら、気持ちは途方に暮れて沈んで行く。

(最悪なら、最寄りの駅を探して、そこから彼女に電車で帰って貰うしかないな……)

『彼女の僕への評価は、最悪になってしまうな』と『桜木町駅』の見ていた時、思い出した。

(ああ、そうだった! 確か、デートスポットを探した時のGPS画面に、桜木町駅と山下公園の間に大桟橋が突き出していたっけ)

 思い出した大桟橋の位置に、探す表示と向かう方向が決まった。

 GPSは相変わらずのマクロの画面のままで、現在位置のロケーションがさっぱり分からなかった。通りを歩く誰かに尋ねれば早いのだれど、彼女にセンスが無くて格好悪いと思われそうで考えてしまう。、

 仕方なく何度か横浜港の海面が見える場所に出て、やっと大桟橋らしき構造物を見付けた。それだと思う大桟橋の見た目は、思い込んでいた港の桟橋のイメージとは全然違っていて、静岡市の清水区や北陸地方の港には似たようなのすら無く、『やはり、首都圏のメジャーなスポットは、センスが違うな』と感心しつつも大桟橋だと確信できていない。でも、位置的に該当するらしきモノは、それしかなかった。

 半信半疑でやっと探し当てた入り口で大桟橋を、ホッとした僕を警戒させる彼女の不機嫌な声が聞こえた。

「ここ、知らないわ」

 どうやら『彼女の行ってみたいスポット』のリストに入っていないようだ。横浜に初めて来た僕は当然ここも初めてで、ネットでの下調べもしていないから大桟橋に何が有って、どんな所なのか全く知らない。

 V-MAXを停めた脇の小さな駐車場から見る大桟橋は、板に覆われた丘のように見えて、野外のアスレチックか迷路を前にした時みたいな期待と不安が入り混じり、同時にここは彼女の楽しめる場所なのかと後悔した。振り返って見た彼女は半ば呆然として大桟橋をみていて、やがてジロリと動いた目が僕を見た。それから再び大桟橋に視線を戻すと、

「行こっ」

 一言、小さく呟くように聞こえたかと思うと、僕の先をすたすたと歩き出した。

 板張りの正面に大きなゲートが暗く開き、その手前にはロータリーのバス停が、両脇には大桟橋の上に登れる坂道が見えた。

 V-MAXを急いでロックして先を無言で進む彼女を追い駆けるように、僕は板張りの坂を登る。登り切る辺りで待っていてくれた彼女に追い着いた僕は、僅かに離れて彼女の後に付いて行く。厚い曇り空の下、影の無い僕達は肌寒い潮風の吹き寄せる大桟橋の広い背を、交わす言葉も無く先端に向かってゆっくりと歩いていた。

 時折り彼女は立ち止り、じーっと右手に在る岸壁の公園と船……、ナビゲーションでチラ見した限りでは山下公園とその先に係留して在る氷川丸と言う、何らかの記念船らしい……。それと捻じったように組まれた赤い鉄塔……、たぶん、マリンタワーだと思う。……などを見て、正面右手のテレビ画像や雑誌の写真で良く目にした、横浜港口に架かる有名なベイブリッジを視界に入れながら彼女は首を左に廻す。彼女が顔を向けた左の対岸には二棟の赤い煉瓦建ての倉庫が在った。

 視線を移すたびに顔の向きを変えて横顔を僕に見せる彼女は、顔を上げ優しさの失せた細めた目と頬に、そして、硬く結ばれた口許に険しげな彼女を感じさせた。時折、何かを企むように唇の端が吊り上がって、目許が笑った。その変化する表情の中に彼女の思惑を探ろうと僕は見続けた。

 彼女の視線を追って見た赤煉瓦倉庫に、僕は後悔した。

(先に、あっちへ行けば良かった……)

 どうして、思い付かなかったのだろう?

 インターネットで相模原近辺や横浜市内のデートスポットを検索していた画面に、アウトドア的にショッピングを楽しめる、お奨めスポットとして赤煉瓦倉庫は紹介されていた。ドラマのロケ地に良く使われて人気が有り、トレンディーなファッションやグッズに洒落た飲食店も多い。大型バイクのタンデムで乗り着けても自然で様になりそうだった。

 そんな開放的なイメージがしたエリアだったのに、ただ、彼女とタンデムで走り回る事しか考えていなかった僕は、画面を流し見しただけで予備情報にもしていない。愚かな自分を嘆こうと風に立てる顔に、湿り気の有る冷たい大気が吹き寄せて目尻を滲ませた。

 滲む視界の遠くに、雲間から射す太陽の光が湿った大気で太い筋となって晴れ間と海面を繋ぎ、光に包まれるベイブリッジを白く輝かせていた。一緒に照らされる橋桁の周りや辺りの海面も明るい色で眩しく輝いている。

 その裾広がりに斜めに降りている光の筋は薄明光線という、見たまんまの味気の無い名称で、俗に言う天使の梯子だ。信心深い人にはラッパを吹きながら行き来するエンジェルが光の筋の中に見えるそうだけど、そんな宗教が絡んだようなのじゃなくて、もっと現代的にファンタスティックな呼び名がないものかと、見る度に考えてしまう。

 目を凝らすと輝く海面は遠くベイブリッジの向こうの東京湾まで広がっていた。低くフラットな曇り色の空の中に透明な青空色が在った。ぽっかりと大きな穴が開いたような晴れ間だ。その晴れ間が沖から近付いて来ている。

 早く来て暖かな春の陽射しで彼女を包んで欲しい。春の光を浴びて少しでも彼女の機嫌が良くなればと願う。

(春の太陽よ! 早くここへ遣って来て、肌寒く沈む気持ちを明るく暖めてやってくれ!)

 ゆっくりと前を歩く彼女の歩調に合わせて、僕は緩い起伏の板張りの丘のような大桟橋を彼女に付いて行く。近付き過ぎて鬱陶しいと思われないように、離れて寂しがらせないように、付かず離れず、僕は彼女と歩いた。

 これまでの桟橋のイメージは埠頭の岸壁と同じ、港の縁をコンクリートで固めたフラットな船着場で、ずらりと並んで糸を垂れる釣り人達と倉庫や出入国などの通関管理棟が隣接しているのだった。でも、この横浜港大桟橋は違っている。釣り人はいないし、フラットな無機質なコンクリートの塊でもない。草木や人工芝に覆われていれば、まるで、横になって転がりたくなるような丘陵公園だ。

 彼女の横に並んで歩きたいけれど、転倒して挟まれた痛みが左足をぎこちない歩みにさせて、誤魔化しの平気を装うのが難しい。右足は何ともないのだけど、移る体重に鈍く痺れが残る左足から『ズキン!』と、突き上げて来る脛骨が軋む深くて重い痛みに、注意していないと踏み付けた僅かな段差でヨロけてしまう。だから、できるだけ自然な感じで彼女に気付かれないように歩こうとしても、そおっとした歩きになって離されている。

 そんな遅れを誤魔化すのに、あちらこちらへ僕はキョロキョロと顔を廻らせ、見る物全てが珍しくて興味をそそられているフリをした。

 大桟橋の先端まで来た。

 僕が咄嗟に思い付いたデートコースの折り返し地点に、とうとう来てしまった。後は、何を如何くっつけて寄り道しようが、相模原へ戻るしかない。

 ランチは相模原か、相模大野へ戻ってからにしよう。それから、僕と彼女が弾む会話で笑っていられるようにしたいのだけど、今も疎らな会話に、どうすれば良いのか分からない。痛む足と焦る気持ちで楽しい筈のデートはブルーに染まって沈んでいる。

 こんな僕の憂いを晴らすように頭上に遣ってきた大きな晴れ間が、大桟橋を陽射しで覆って照らしだした。

 大きく真ん丸に広がった空色の晴れ間を仰ぎ見ながら、横目で彼女の反応を気にする。

「ここは晴れてくれたな。暖かくなって良かった」

 少し鼻をヒクつかせて春風の匂いを嗅ぎながら、彼女は手を翳し空と海を眩しそうに目を細めて見ていた。

(やっぱり、春は彼女の、この顔だよな!)

 久し振りに彼女を好きになった時の表情が見れて、僕は嬉しい。陽に晒されて暖められた春の潮風に吹かれ、明るい暖かな陽射しを浴びる彼女は、表情が柔らかくなって嬉しそうだ。その顔に僕の胸がまたまたキュン、キュンと鳴って締め付けられた。

(良かった! 彼女の機嫌が直りそうだ。晴れ間よ、ありがとう)

 大自然の恵みに感謝しつつ、彼女の機嫌がこのままで続いて欲しいと願う。

「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」

 光に包まれる彼女は、本当に美しい!

 陽射しに暖められた春風は柔らかく水面を撫ぜるように吹き渡り、波頭をキラキラと眩しく輝かせた。ひんやりとしていた風が暖かい春風になって吹き寄せて来る。陽射しと春風に温められる気持ち良い僕の身体に、傍に彼女が居てくれる喜びに潤う僕の心。

 今正に、僕の身も心も麗らかに安らぐ至福の時だ!

「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」

 さっき思った事を、彼女に聞こえるように呟いて、僕は姑息な機嫌の測り方をする。

「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方の透き通った蒼い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうかも、なぁんてね」

 機嫌の直りそうな彼女にホッと安堵して気が緩んだのか、フラ付き始めた身体を手摺り前に備え付けられている支柱架付きの有料の双眼鏡へ寄り掛けると、彼女も二メートルほど離れて手摺りに凭れ掛かり、海を眺め始めた。

 空一面、ぽっかりと大きな穴のように広がった透明な蒼空の明るさに照らされて、眼下の横浜港の海は、上空の空の色に染められたように深く鮮やかな青色で、吹き渡る春風にキラキラと波立っていた。

(彼女は、その海を見ながら何を考えているのだろう?)

 陽射しと波の照り返しで暖められた潮風が気持ちいいのに、立戸の浜のような親密さは感じなくて、逆に僕は彼女に距離を置かれてしまっている。立戸の浜の親密さを更に接近させて、キスも有りかなと思い描きながら相模原に来たのに、このままでは彼女の機嫌が直っても距離を詰めて来る事はないと思う。

 その機嫌の良さも晴れ間の内だけで、寄せる雲に陽が翳り、気温が下がりだすと、再び彼女はネガティブなオーラを放ち出すだろう。僕の塞いだ気分も好転する事無くブルーなデートで終わりそうだ。

(何か打つ手は無いのか?)

 そう不安に焦りながらも、反射する陽の光を眩しく眼に飛び込ませる波の泡立つ白い頂を、今日の記念に切り取ったようなオブジェにしたいと考えていた。

 トランプでピラミッドを作るように息を止め微動もさせず、ゆっくりと丁寧に築き重ね上げて来た彼女との関係が、プップッと音を立てて一遍に今にも崩れそうなのに、鈍くてトロい僕は余裕を噛ましていた。

 陽溜まりの中で手を翳し眩しそうに目を細めて波頭の煌く水面を眺める彼女は、普段でも薄く微笑むような表情を一層優しげにさせ、春風に舞い乱れる髪の輝きと相俟って神々しくも見え、ドギマギする矮小な僕は彼女の光りで溶けてしまいそうだ。

 僕を好きだと言わせたい。光の輪が頭上に現れても不思議じゃない彼女から、目を離せない僕は強く思う。

(僕だけが彼女を理解すればいいんだ。誰にも彼女を奪われたくないし、渡さない!)

 彼女を見ていて、ふと思う。

 この世の全ての理が等価交換で成り立つならば、その重さや価値は何処に在るのだろう? 等価交換される必然は何処から来るのだろう?

 喜怒哀楽が均等だというのならば、この世界は不条理と不可解ばかりで全く不理解だ。悲劇に巻き込まれた幼き命、苦しみや不幸だらけの生涯、事故や戦争のような一度に大勢が個人の都合に関係無く、災危に遭うのは因果応報の果てなのだろうか? これらの何処に『良い事半分、悪い事半分』が有るんだろう?

 この世の理だけでは幸不幸の等価交換が出来ないと思う。きっと、前世、現世、来世でも等価交換値は不均等で成り立たない。そもそも不幸に抗う慰めの言葉や仮説でしかなく、絶対的な道理や根拠は全く無かった。

 こんな不愉快を想像して考えさせる彼女の横顔に、今の僅かに高揚するプラスの気持ちが、彼女のちょっとした否定的な言葉や表情で堕ちて沈み、マイナスの粘り絡まる焦燥感に引き摺られてしまう予感がした。

 平行世界……、以前、お袋が言っていた言葉を思い出す。今居るこの場所と過ぎて行く時間は、ズレた選択肢が際限なく重なるターニングポイントで、事態が悪化する方向の世界の一つなのかも知れない。

 今日は大きな分岐ポイントになってしまった気がする。僕が起こしたズレは大きくて、何もしないで放っておくと二度と彼女の人生と交差しなくなるだろう。どこかで修正しなければならないと思った。でも何時、何処で、どんな方法で戻せるのか分からない。

 僕の魂が昇天しそうな、その笑顔で僕を好きだと言ってくれるのならば、あらゆる方法で僕の全てを君に捧げて必ずズレを正す。

 例えば、極端で現実的じゃないけれど、陥る悲劇の結末から回避させてハッピーエンドに至らせる為に、僕が犠牲にならなければならない事を知っている彼女から、『君が好きだから、私の為に死んでくれる?』と、無情な事を笑わない顔で願われても、僕は叶えたいと思う。

(でも、理不尽に『あんた、うざくて嫌いだから、死んで!』は、拒否だな)

 もっと純粋で短絡的に、彼女が、避けられない辛さの限界や堪えられない悲観の絶望を終わらせたいと望み、僕の耳元で『私は、好きな君と心中したいの』と囁くように呟いたなら、彼女の非情な願いを僕は一緒に叶えるだろう。

 そんな歪んだ『好き』でも、彼女が言えば、僕は実行する覚悟が有った。

 相変わらず、割れた青ガラスの破断面みたいに陽射しをヌメヌメ ヌルヌルと照り返す海面の眩しさを、翳す掌で遮りながら、遠くの陽炎の様に揺らぐ真っ白なベイブリッジを見ている。

 視界がぐらりと揺れ、時間の経過と共に少しづつ増して来た脚の痛みに、双眼鏡の支柱に凭れ掛かるのも負担になってきた身体が、より安定した休息場所を求めているのに気付た。

 近くの風除けの有るベンチへ移動して、くたっと足を投げ出して座った。痛みに耐えて普通を装える間隔が短くなって来ている。脚を摩る両手に力が入って行く。痛みの疼きを散らすゆっくりとした時間が欲しい。

 暖かな陽射しを浴びながら穏やかな春風に吹かれていると、気持ち良い眠気が来た。

(ふぁ~、眠い…)

 気持ちの緩みと痛みの退きも加わって、デート中だというのに大きなアクビが出てしまう。疲れと寝不足も出ていると思う。

 残業続きで身体は疲れていたし、風呂で身体の隅々まで洗ってしっかり湯に浸かりもした。そして、今日の行動を考えていつもより早く就寝した。だから昨夜は良く眠れるはずだった。だけど彼女に会えるのが嬉しくて二人の未来を想像した。今はまだ、その気配は無いけれど、恋人達の関係になった二人を、あれこれいろいろと考えて興奮で寝付けず眠りも浅かった。

それに早朝から一生懸命にV-MAXで走って来ている。

(寝不足と疲れと、ちょっとした、……幸せ気分からかな?)

 そう思うと益々瞼がくっ付きだした。

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 横に座った彼女が、持っていた包みを広げて手作りのランチを僕に見せた。

(おおっ、カツサンドだぁ♪)

「はい、あーんして」

 楽しそうな彼女の言葉に口を開けると、押し込むようにカツサンドが突っ込まれた。

 『何を行き成り』って、息も塞がれて憤りそうになるけれど、カツサンドの美味しさにどうでもよくなってしまう。

(この味は、とんかつソースベースだ。ピリッとカラシも香ってる。美味いぞ!)

「ねぇ、美味しい?」

 カツサンドを頬張る口の僕が、大きく頷いて肯定するのを、肌が触れるくらい間近で、彼女はニコニコと嬉しそうに見ている。

 二つ目のカツサンドを手に取り、『まだ有るよ。早く食べて』と、今度は身体を触れさせながら僕の頬張る唇へ笑顔で押し付けて来た。

 真っ青な空に麗らかな陽射しと暖かな春風。触れる柔らかな彼女の身体。明るい笑顔の彼女は僕の幸せだ。だけど、立戸の浜で沈められた時みたいな悪戯を楽しむ彼女の強引な態度は、何かが違う。

 カツサンドを僕の頬で潰している彼女は、本当に僕が大好きな彼女なのだろうか?

(てっ!)

 何かが脇腹に当たって、呻きと共にカツサンドを吐き出した。

「あっははは」

 直ぐ真ん前で彼女が僕を見ながら大声で笑ってる。何が面白いんだろう? 僕は笑われる事をされているのだろうか?

(あうっ)

 また同じ場所に、痛みを感じた。頬で潰れていたカツサンドが刺さったみたいだ。……カツサンドがささる?

 目の前にいる彼女が不安な顔で僕を見詰めてる。……此処は、……何処だ?

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(はっ!)

 二度の痛みに眼を覚ました。いつの間にか僕は眠って夢を見ていた。脇腹に刺さったカツサンドも、息が出来ないほど頬張ったカツサンドも、消え失せて、懐かしい後味とリアルな痛みを感じいる。

「ごめん。太腿を蹴るつもりが、脇腹に当たっちゃった」

 僕は脇腹を彼女に蹴られて起こされていた。しかも二度、強烈に! けっこう痛い!

「寝てたから、起こしてくれたんだ」

 蹴られて痛い脇腹は、去年のバス事故で黒痣が残るほど挟まれた処だ。戻りのライディングに支障が出ないか心配になりらがらも、彼女の惚けに僕もボケで返す。

「うん、そうよ!」

 全く悪びれない言葉で断定する彼女の表情は、僕に次の行動を急かしていた。

「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」

 彼女が僕に求める次の行動が『早く帰ろう』だと、察してはいたけれど、お断り覚悟で近場の散策に誘い、今の時間を紡ぐ未練を露わにする。

「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」

 澱みの無い棒読みが、冷めた彼女のはっきりした発音で耳の奥深くに貼り付いたのは、ストレートに返って来るのが分かっていた、僕の察しを肯定する言葉だった。

 気紛れではなくて、考えが有っての、あっさりと躊躇わずに止めたり、リセットする彼女を僕は知っている。十八歳の僕達には、漠然とした若さや茫漠とした人生の時間が残されている。今日をリセットして今年の夏でも、来年でも、再来年でも、遣り直す事は出来ると思う。でも、彼女が遣り直す相手は僕じゃないかも知れない。

     *

「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないの?」

『また道を間違えている』とばかりに、ルート1の浜松町の交差点を右折せずに直進する僕を、彼女は大声で指摘して非難する。ロードポイントを彼女は覚えていて、僕が帰り道を迷わないか、しっかり監視していた。

 道に迷えば、帰りが遅くなり、迷い続ければ、急ぐ気持ちに事故率が上がる。人身事故にでもなれば、今日は帰れなくなってしまう。しかし、道に迷わずに他のアクシデントも無いスムーズさで帰れれば、彼女は今日の僕といる時間を早く終わらせれる。

 彼女の非難の声に、そんな含みを感じたけれど、まだまだ今日を紡いで織りたいと足掻く僕は認めたくなかった。

「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」

 今日のデートは出会い時点から、僕のセレクトミスが彼女を不機嫌にさせていた。それを晴らそうとした僕は、少しでも早く目的地の大桟橋へ着こうと混雑するルート16を急いだ。其の挙句、来る途中での速度超過規違反、転倒の自損事故、方角の迷いの不肖さは、彼女に僕への不信感を抱かせて、今も、帰り道を不安がらせている。

 戻りは、スピーディなライディングを控えた彼女の安全と安心を最優先する気遣いで、僕はタンデムで密着する彼女の感触を背に感じながら、落ち着いてゆっくりと走りたい。

 GPSの検索で選んだルート16の迂回ルートの一つへ右折して、片側一車線の県道を交通の流れに合わせた速度でV-MAXを走らせて行く。何度も赤信号で停まる度に、流れ去らない彼女の匂いをヘルメット内へ漂わせて、後ろから抱き着いている彼女に僕は幸せを感じていた。

(今日の僕を、彼女はどう思ったのだろう)

 今のところ今日の僕は、一つも良い場面を彼女に見せていない自覚が有った。自己採点だと九対一でマイナスイメージだらけで、一つだけのプラスは、天使の梯子の暖かな陽射しに包まれた大桟橋の先端で彼女が嬉しそうに笑ったからだ。今日の彼女と『さよなら』する時が刻一刻と迫って来ているのは感じている。なのに、今も、この後をプラス的な友好ムードにする為の思考をしていない。今日は僕の遣る事、為す事、どれも行き当たりばったりの思い付きで、失敗ばかりだった。その蓄積されたマイナスを一発逆転したいのだけど、どうすれば良いか情報不足で全然分からない。

 『さよなら』への時間を加速したがっていると思う彼女は、今日の不甲斐無いデートの所為で『さよなら』の前倒しを求めているのを、僕に自覚して協力しろと考えているのか知りたい。だけど、どうせ訊いたところでノリの悪い彼女の態度から、想像通りのノリの良い悪態が返ってくるだけだと思う。故に怖くて訊く勇気が無い。

 確かに大桟橋へは道に迷っていたけれど、適当に走っていた訳じゃない。

     *

 雑木林を過ぎた。先々週来た場所だ。この辺りは桜吹雪の中を偶然の出逢いを求めてグルグルと走っていたから、大抵の方角とロケーションは分かる。

 背中の彼女がムズがるように体を揺すり、抱き着くように腹部に回された腕が緩むと、直ぐに彼女の手が僕の両の腰をしっかりと掴み直した。

 どうやら、寝ていた彼女が起きたみたいだ。左右に顔を振って現在位置を確かめている動きも伝わって来る。

(ん! 寝ていたのか?)

 寒がってジッとしているとばかり思っていたのに、穏やかな走りは彼女の眠気を誘ってしまった……。

(あっぶねぇー! 過激なライディングをしなくて、良かったぁー)

 逸る気持ちに、急発進や急加速をして急ブレーキで急停止、それに急ハンドルで縫うように鬼走りをしたり、回避できないアクシデントに遭遇していたら、きっと彼女は落下して大怪我や絶望的な状態にさせていたと思った。

 ロープやベルトで体を結び着けておくべきだったと反省しながら、今も相模大野の駅を目指して慎重にV-MAXを走らせている。

     *

 どうにかやっと、相模大野の駅前に戻って来れたけれど、時刻は既にお昼を過ぎていた。

 休日の昼下がりだからなのか、駅前の商店街は以外と人通りが少ない。そんな閑散とした通りを行き来する僅かな人達を招くように、暖簾が風に翻る饂飩屋の前にV-MAXを停めた。

 クラッチレバーを握る悴む指先が痛み、トランスミッションのギアをニュートラル位置にするチェンジペダルを踏み込む凍えた爪先が、力を入れ続けると腓返りを起こしそうな感じに、早く温かい場所で冷えた身体を温めたい。

 先に彼女を降ろしてからエンジンを切り、V-MAXのサイドスタンドを立てる。V-MAXを降りてヘルメットを脱ぐと煮物や揚げ物の匂いが鼻腔を心地好く通り、僕に空腹をはっきり気付かせて食欲を煽った。隣でヘルメットを脱いだ彼女も鼻先をヒクつかせながら、料理見本のイミティーションが並ぶウインドウを見ている。

 僕は一人で、洒落たビストロやカフェレストランへ行ったことがなかった。友達や部活の仲間と行ったのは、喫茶店やラーメン屋やうどん屋ぐらいだ。一人暮らしの今でも定食屋とバーガーショップが増えた程度だ。回転すし寿司にも行ってない。

 料理見本を見て、饂飩屋の暖簾を見て、左右の通りを見る彼女の様子から、ここでお昼にしても構わないだろうと思う。

「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」

 僕の声に彼女の瞳が反応してギロリと睨みながら、一歩、二歩と停めたV-MAXに阻まれるまで後ろに下がってしまった。

(明らかに拒否られてるなぁ)

 料理ジャンル、店選び、ロケーション、その全ての僕のセンスを拒み、疑っているに違いない。

 険しい眼差しで僕を睨み続ける彼女へ謝りの言葉を言うべきか迷っていると、突然、彼女は目を見開いて口が『あっ!』と小さな悲鳴を叫ぶ動きをした。

「あちっ!」

 何か汚い物を避けて跨ぐように彼女が飛び退いた。

 彼女が三歩目に下げた足の脹脛はV-MAXのマフラーに触れたままになっていて、厚手のGパンの生地越しに脹脛が火傷したのだと分かった。

 怒ったように彼女は僕を激しく睨み付けながらGパンの上から火傷した脹脛を擦り、それから直ぐにGパンの裾を捲り上げて火傷を見る。彼女の足は素肌にパンティストッキングを穿き、それにハイソックスとGパンを重ね、そしてコットンブーツを履いていた。

 ハイソックスを下げて見る火傷は、ストッキングの光沢で拡散されながらも赤く腫れて見えて、火傷しているのは確実に思えた。高熱で破壊されて融ける皮膚は、これから赤味が黒ずんで瘡蓋を張るだろう。どれくらいの範囲の大きさになるか、まだ分からないけれど、きっと今夜から数日はヒリヒリと痛む筈だ。

 火傷の状態を見て、ハイソックスとGパンを戻した彼女は僕を見る。

『見たよねぇ~。火傷してるよねぇー。誰の所為?』僕を責めたい光が彼女の瞳に煌き、僕は目も、顔も、身体の向きも逸らしてしまう。高温のマフラーに脹脛を押し付けたのは、彼女が後退ったからだ。その後退りさせた原因は僕だ。

(僕のセンスと経験値の無さが、彼女を傷付けてしまった!)

「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう」

 火傷の痕が彼女の肌に残るのは可哀想だった。痛がる彼女の嘆きに僕は胸が締め付けられて居た堪れない。凄く愛おしい彼女に僕は酷い事をしている。

 小さな染みや傷痕も無かった白く滑らかな肌の脹脛に、火傷痕の黒ずんだケロイドが残る。歳を経て小さくなり、位置も少しは変わるかも知れないけれど、何十年は消えないだろう。それを見越して『僕は気にならないよ』なんて、火傷痕が残るのを前提にした不適切で、彼女の気持ちを無視した思い遣りに欠ける無神経な事を、軽く流す『いたいの、いたいの、飛んで行け』的な冗談ぽさでも、その元凶たる僕は言えない。

(これは僕の所為だ!)

 彼女を傷付けるこんな事になるのなら、今日は会いに来なければよかった……。全然、慰める言葉を僕は見付けれない。

「ごめん……」

 痛がって悲しむ彼女が憐れに思えた。肌寒い晩春の休日に期待外れのデートに連れ回された挙句(あげく)、火傷までして嘆いている。その不幸なデートの始まりから不満そうだった彼女が益々不機嫌になるのは確実だけど、それが少しでもオーバースペックにならないように、僕は謝罪の気持ちが篭らない言葉で防壁を張る。

「……ここで、お昼…… 食べるの?」

 火傷するくらいの戸惑う反応と悲嘆顔の彼女は、絶対に不満だと思う。

 メジャーなファミリーレストランなら嫌がらないだろうけれど、戻り道には見当たらなかったし、途中で食べても、その後にタンデムしていたら身体が冷えてしまう。だから彼女の住まいが近くだと思える相模大野駅前で食べたかった。

 この饂飩屋で我慢して貰いたいのに。でも、どうしてもと、駄々を捏ねるなら、GPSで検索してルート16沿いへ移動するしかない。

「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも食欲ない?」

 全くの無粋で当然な事だけど、僅かでも、此処で納得して貰えるフォローになればと、言葉を補填する。

「あっ、支払いは僕だから、何でも好きなの言ってよ」

 今日のデートの公けの費用は僕が支払うつもりだった。交通費、遊戯代や入場料、飲食代は、まだ、アルバイトを始めていないと思われる彼女と分担するよりも、働いて稼ぎが有る僕が全て負担するのは当然だろう。『それ買って』、『これ、プレゼントしてくる』も、大枚じゃないけれど財布の中身が有る限り、躊躇いも無く彼女の望みを叶えるつもりでいた。

 それに、初任給が口座に振り込まれたばかりだから、デート以降を倹しく生活すれくらいの余裕は有る。

「僕はカツ丼にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長やお多福で良く食べてたんだ」

(もう開き直りだ! 捏ねられる駄々を言葉にされる前に、強引に此処に決めてしまえ!)

 金沢市の大衆食堂の老舗、『加登長』と『お多福』の名を言えば、彼女も美味しさを思い出してくれるだろうと、賭けてみた。それに僕的には空腹と寒さで河岸を変えたくはなくて、この店で彼女が納得して欲しいと祈りを込めた。

「それじゃあ、私はカレー南蛮にしよおっかな。蕎麦じゃなくて、饂飩で御願いね」

 思わず彼女の顔を見た。この店で良いのか? 我慢して此処にしたのか? 不満顔でダークオーラが揺らいでいないか? と、疑いに不安を重ねた目で見ると、目許と口許が少し笑っているように思えて、手許が滑って落としたグラスは割れずに床に転がっていたみたいな、安堵の息を静かに吐いた。

 納得した微笑みじゃなくて、我慢と諦めと期待の不敵な歪みかも知れない。

 普通は蕎麦のカレー南蛮を饂飩玉にするんて、彼女なりの味の拘りが有るみたいで、ちょっと楽しそうだ。美味しそうな香りが立ち上がる旨い料理は人を幸せにさせる。

 どうか、注文したカツ丼とカレー南蛮饂飩カスタムは期待を裏切らない見た目と味でありますように。特にカレー南蛮饂飩カスタムの美味しさが、彼女の険しさをなだらかにさせて笑顔を見せてくれるようにと、僕は願った。

     *

「いただきまーす」

 案内された四人掛けのテーブルでオーダーして待つ事暫し、カツ丼とカレー南蛮は同時に運ばれて来て、それぞれの前に四角い盆に乗せられたまま、向きを整えて置かれた。

 目の前に置かれたカツ丼は、自己主張の香りが強く漂う、香ばしく揚げた豚ロースの割り下で煮られた切り身から、一緒に煮られた玉葱をとじた溶き卵と僅かに掛けられた煮汁から、いいかにもカツ丼って旨味の匂いを、器の底に盛られた熱々の白ご飯が立ち上らせて、『今、凄く彼女が好きだけど、カツ丼も大好きだー!』ってくらいに食欲をそそられている。

 食べ方を始める前の料理と其の料理を作った料理人へ敬意の挨拶を言ったのが、彼女とハモってしまった。互いに自分の料理に顔を向けたまま、上目で相手を見遣って目が合うとにっこりして、直ぐに視線を戻して食べ始める。

 先ずは上のカツを除けて、スライスした玉葱が美味しそうな色で絡む卵とじと一緒にご飯を食べる。少し煮汁が染みた上手に炊かれた白ご飯に、滑るように口に入る白身と黄身が混ざりがけの卵と、柔らかくも切れの良いシャキッ感が残る玉葱は、見た目の期待を裏切らない旨さだ。

 除けたカツの肉面は、これまた僕を嬉しくさせて、割り箸で掴み上げた切り身の半分を噛み切らせてくれる。

(うほぉっ! ロースカツだ。赤身のフィレじゃない。これは旨いぞ!)

 やはり、トンカツはロースじゃないと旨くない。臭みと味が違う。豚ロース肉の皮際の脂身は背油で、煮ても、焼いても、揚げても、甘い旨味が素晴らしい!

 ふわふわの卵と煮汁が染みた御飯の三分の一くらいをカツの切り身二つで食べて、一息吐きながら彼女の様子をチラ見する。

 丼を真下に寄せて口を近付け、カレールーが絡まる饂飩麺を一本づつ慎重に彼女は食べていた。麺を啜り上げする事なく、麺が撥ねてルーの雫を飛び散らかさないように箸で摘まみ、口へ運んでいる。左手がカレー南蛮の丼を抱えるように廻されて、バクバク、ムシャムシャじゃないけれど、仕種の毛足の長い犬や猫っぽい感じが、何か可愛い。

(彼女も、豚ロースの脂身や、すき焼きで煮込まれた牛の脂身が、好きだといいな)

 僕の覗き込むような視線に気付いたのか、饂飩麺を口へ運びながら彼女が上目で見る視線が重なり、麺を運び終わるまで、見詰め合ってしまう。

 カツ丼の香りを押し退けるようにカレーの匂いが漂って来て、彼女が食べる魅力的なカレー南蛮は、カツ丼と同じ位に好きな僕を、カレー饂飩の追加オーダーしようと誘惑するが、今はカツ丼だけにすべきだと考えさせた。

 金沢市で家族と一緒にいた三月中頃まで、休日の昼も家にいると、お袋は昼ご飯によくカツ丼を作ってくれた。なんでも婆ちゃん譲りのレシピで、とても旨い。僕がカツ丼好きになったのは、お袋のカツ丼の所為だ。スーパーで買うロースカツを使うのだけど、丼専門店の拘り仕立てのカツ丼より旨いと思っている。

 いつも小鍋に残る煮汁を全部掛けて貰い、シャバシャバのツユダクにして掻き込んでいた。そんな食べ方を僕がするものだから、親父や妹のより煮汁の味付けを、お袋は少し薄くしていたのに気付いたのは高校受験の頃だった。

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 徹夜で勉強するつもりで、お袋が作ってくれたカツ丼を夜食で食べていた時に、親父が酒臭い臭いをさせて夜の集まりから帰って来た。

 親父が、煮汁を沢山入れて雑炊のように食べる僕のカツ丼を見て、『俺も同じのが食べたいかも』とお袋に頼むと、『いつものより、味は薄めになるけど、いいの』って返された親父が、『それで、御願いします』と言いながら頷くのを見て、僕はお袋に訊いた。

『僕のツユダクは、味が違うの』、ずっと他のと同じ味だと思っていたのは、『当たり前じゃない。一緒の味付けだと塩分取り過ぎで、体調を崩しちゃうでしょ!』って、賢いお袋が違わせていた。

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 両手で掴み持った丼に口を着けてカレールーの最期の一滴まで綺麗に平らげた彼女が、テーブルへ丼を戻しながら軽く長く息を吐く。どうやらカレー南蛮に満足していただけたようだ。それを見ながら同じように丼に被り付いて、残していたカツの最期の一切れの脂身を食べ終える。

 食のテンションで不規則になっていた呼吸を軽い溜め息で戻し、更に気持ちを整え意を決する為の深い溜め息を吐いた。

 今日は彼女に渡すプレゼントを二つ持って来た。

 一つは自作の小物。ローマのスペイン広場でレリーフのフォトスタンドを買おうか迷っていたから、興味が有ると思う。フォトスタンドではなくて、軽さからペーパーウエイトにもならないだろうけど、彼女の部屋の何処かに置かれて、視界に入れば僕を思い出して欲しい。

 もう一つは、彼女の近くに居られない僕の代わりに、いつも持っていて貰いたい物で、インターネットの通販で購入した。使い方によっては彼女を守りきる強力な武器だ。

 それらを彼女に見せて、説明してから渡すのは、お腹が満たされて気持ちが穏やかになった今のタイミングだ。

 V-MAXのダミータンクに縛り付けていたのを外して、横の椅子に置いていたディーバックから一つ目が入った包みを取り出した。そして包まれていた小箱を開け、詰められたクッション代わりのティッシュペーパーの中の作品を壊れていないか確かめながら、そっと箱から出す。箱の中に僕は自作したミニュチュアの西洋風のお城を入れて来ていた。

(よし、どこも壊れていないな)

 小さいけど頑丈に作ったし、梱包もバイクの振動に耐えられるようにクッションを二重にしていたし、転けた時にも潰されてはいなかった。

 取り出したそのミニュチュアの西洋風のお城は、明るい色で落ち着いた感じに仕上げて、城館の屋根や城壁の上に、幾筋ものカラフルな図柄の燕尾旗をたなびかせた。

「ちょっと作ってみたんだ。久々の新作だよ」

 会える日が決まってから毎晩作り込んだ。造形用粘土で作って型取りした僕の最新最高の傑作だ。

「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」

 彼女は一瞬目を輝かせたけど、すぐに冷めた表情に戻ってしまった。

(食い物とでも……、デコレーションケーキに見えたかな? 少し離れるとコーヒー味のショートケーキに見えるかも)

 たぶん、艶消しのサーフレススプレーを何度も重ね噴きしたから、ショートケーキっぽく見えて、『美味しそう』なんて、期待を抱かせたのかも知れない。でも、違う。食べれないんだ。例え、僕が気の利いたセンスの持ち主で昨夜に静岡市内の有名店から購入して用意して来たとしても、この飲食店の中で広げて食べるわけにはいかないだろう。

 第一に、僕は気が利かないし、センスも良くない。それは、今日の出逢いで悲しく証明されている。だから僕は、無粋に素材と表面仕上げを説明して、出来上がりを訊いてみる。

「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」

 彼女に問い掛けながらも、僕はショートケーキの持ち込みを考えていた。

 もし、有名なパティシエのを持って来ていたら、きっと直ぐにでも彼女は食べたがるに違いなくて、それは彼女の気持ちを晴れにする一発逆転のアイテムになってくれる。だけど、それを何処で食べる? ファミレスでも、喫茶店でも、持ち込み飲食はNGだ。だとしたら、其処は彼女の部屋になるだろう。

 彼女の薦めで、暖かい彼女の部屋で、彼女が煎れる紅茶を飲みながら美味しくケーキを食べる。二十一世紀美術館の白いカフェや立戸の浜の時のように、ラブラブっぽく食べ合えれたかもと僕は白昼夢を見そうだ。

 現実は、気遣いの出来ない僕に心付けの用意は無く、今の気不味さは昨日からの必然だと思う。彼女の部屋へ行く事も、知る事も、今日は出来ないと悟った。

「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」

(やっぱり、そう見えたか)

 手のひらサイズのお城を彼女の前へ、倒して壊さないように、そっと置き直した。

「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」

 色合からなのか、形的になのか、よく分からないけれど、せめて、彼女の趣向に沿わせて楽しい気分で、もう一つのプレゼントを渡したい。

「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサヴァランかな。小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」

(ライトグリーン? どこが? それっぽい色がサバランに有ったっけ? ああ、そうか、あの店のサバランはメロンがトッピングされていて、香っていたな)

 しっとりしたシロップとリキュール味のサバランのイメージが爽やかなメロンのグリーンだなんて、そんなカラフルな感覚を持つ彼女が面白く思えて、新たな共感を感じてしまう。

 彼女が言った小立野の店は覚えている。中学の頃はお袋に頼まれて買って帰っていたし、高校生になって帰宅時間が遅くなってからは、いろいろと中学生になった妹が買って来ていて、よく食べていた。

「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」

 ちょっと弾んで来た会話に気持ちは勢いづいて、笑顔にさせれるかもって言葉を遊んだでみた。

「ふーん。良くできているじゃん」

 あっさりと、親しみを込めたつもりの軽いジョークは、完全にスルーされてしまった。

 この時、僕は彼女の表情と気持ちが違うとはっきり知った。穏やかで優しそうな表情や仕草とは裏腹に、その表面の直ぐ裏側まで激しい感情や想いが迫っているんだと分かった。それが時々ひょいっと言葉や態度に出るんだ。それはたぶん、彼女自身のストレスかフラストレーションが溜まって発散されているのだ。それを意図的に僕にぶつけているのだろう。僕だけに。

(なぜ? 感情を剥き出しにせずに、時折、さり気なく痛い言葉や態度を僕に向けるのだろう)

「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」

 いろいろとミニチュアの角度を変えている手を見ていて、僕は急に立戸の浜で見た彼女のネイルアートを思い出した。

(ネイル、爪か……。四角い爪……)

 僕は小学校六年生の春の日から去年の夏の浜辺まで、彼女の爪の事には触れていなかった。

 七年前、きっかけを作りたかっただけの僕は何の配慮も無く、『どうして、そんな形?』と、短くて四角い爪の形を彼女に訊いていた。

(そうだ! 爪だったんだ! 何気なく言った僕の不躾で無神経な問いを、彼女はずうっと引き摺って気にしているんだ。……絶対に爪だ! そうに決まっている。彼女の僕に対する痛さの根底には、それが有るんだ。立戸の浜で気が付いて、あそこで僕は彼女に謝らなければならなかったんだ……)

 確信した。僕はタイミングを逃していた。そして今日もチャンスを失った。そう、あの大桟橋で気付くべきだった。

 だけど、僕の無神経な七年前の言葉を彼女は言葉で許しても、今の理不尽に苛つく反抗期みたいな態度は直ぐに治らないと思う。

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 小学校五年生の時、僕に早い反抗期が来た。お袋も、親父も、家庭も、学校も、先生も、友達も、世の中も大嫌いになった。周りの全てが自分も含めて理由もなく厭だった。学校では大人しくしていたけど家では何かにつけて激しく暴れた。

 ある日、寝そべりながら大人しくテレビを見ていると、親父が傍らに来て座った。それからコトリと灰皿を置いて、おもむろにタバコに火を点けた。

『くっさいなぁ、タバコなら外で吸えよ』と言う間もなく、半ズボンで剥き出しになった左の太腿の内側にタバコを押し付けられた。

「うわーっ」

 熱さで飛び上がり、痛さに転げ回った。怒りで親父を睨むと、親父はもう一度タバコを押し付けるところだった。泣き喚きながら慌てて、タバコを持つ親父の腕を両手で掴むけど、片手でも親父の力は強い。僕の悲鳴と泣き声でお袋が飛んで来て、親父を止めてくれた。

「やめて! どうして二度もしょうとするの」

 親父から取り上げたタバコを消しながら、お袋が訊いた。

「こいつを正そうとしただけなんだよ。だけどな、こいつの反応が面白くてさ。俺もな、いけないなと思いながらも、こいつが飛び上ってバタバタ転げ回るのが可笑しくてさ。だから、もう一回見ようとしただけなんだ」

 そこで、お袋が親父の頬を大きな音を立てて平手打ちした。

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 今なら、あの時の親父の気持ちが解るような気がする。何度か小さな子供が熱い物に触れて、泣き叫ぶのに出会した事が有った。決まって『ぎゃーっ』とか『わーっ』と泣き叫びながら、両手をバタバタ振りドンドン足踏みするか、転げ回る。可哀想と思う反面、慌てふためく様が面白い。可愛さも有ると思うけれど、もう一度、熱い物を触れさせて騒ぐのを見てみたい衝動に駆られる。もう一度だけで済まないかも知れない。そう思うだけで咽喉がザラザラする。可哀想の憐みと面白さの衝動が、自分の中で鬩ぎ合い葛藤する。胸の中がゴツゴツした石がいくつもゴロゴロ転がって行く感じだ。気持ちが悪くて濁った息が詰まる。

(想像するような可哀想な事は、してはいけない悪い事なのだ)

 頭の中から衝動に駆られそうになる想像や考えを振り払った。

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 その時から、僕の反抗期は終了した。その日から親父はタバコを止めた。そして年に一、二回、家族での食卓時に、親父は僕に『タバコの押し付け』を謝る。

「何度も謝らないでよ、父さん。あれは僕が悪かったのだから気にしてないよ。それに母さんや妹の前だと照れ臭いから、男同志の時に聞くよ」

 照れながら親父に言うと。

「女房や娘の前だから息子への謝罪の言葉になる。おまえと二人きりで言うのは、それは言い訳にしかならん」

 真摯な顔で言ってから、親父は笑った。

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「あっ!」

 縞模様に明るい青色と赤色にペイントされた旗を戦がせたり、軽く撓ませていた彼女の指先が、旗の先端に触れて動きが止まると、ぐぐうーっと旗竿を直角以上に曲げて、『バシッ』と折ってしまった。

 褐色と黄土色のツートンカラーに塗られた旗竿は根元近くで折れて、テーブルの端まで飛ばされた燕尾旗が、まるで己のサドンデスを呪うように回転している。

「ごめん! ごめんね」

 彼女が言う謝りの声と其の表情を懐疑的に感じてしまう。

 折角、今日に間に合うように夜な夜な没頭して完成させたのに、上手に作れた最高の出来栄えなのに、気に入って笑顔を見せて貰えると期待していたのに、燕尾旗の旗竿は故意に加えられた指先の力によって、その素材のエンジニアプラスチックの靭性と剛性の限界を超えた曲がりで破断させられてしまった。瞬間、その虚しい様が悔しくて、悲しくて、唇を噛み、泣きそうになる。

 でも、彼女に破壊衝動を起こさせたのは、きっと、僕が原因だ。そして、他にも吐き出せない混沌とした不満や不安を僕にぶつけているんだ。

 それに、城館のミニュチュアは僕が作ったモノだから、一部分の破壊でも、全壊でも、修理したり、作り直したり出来る。

「持ち帰って直してから、また持って来るよ」

 言った途端に彼女の眉端が釣り上がり眉間と鼻頭に皺が立ち、彼女の頑なさが、いじける気持ちを僕への拒絶に変えて行く。

 彼女にそういう内面が有るのは気付いていた。僕の言葉が原因なのに、責めずに僕が気付くまで触れられたくなかったんだ。でも今、この場で『四角い爪』を話題にして詫びるのは不自然で相応しくない。いじらしさに急に愛おしくなり、彼女を抱きしめたい衝動に心が騒ぐ。

「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」

 作り笑いをして彼女は言った。瞳はつまらないという色をしている。

「折れた旗は、今日の記念になるしね」

 今日の記念のプレゼントに破損の跡を残して、彼女は不満の意と思しきメモリーを刻み付けた。

 大事に彼女へ渡す為に持って来た作品が、これ以上の不快メモリーを残されないように箱へ閉まってから、別の紙袋をバッグから取り出した。

「それと、これもプレゼントです」

 彼女は、又もや僕がディーバッグから取り出した紙袋を、荷物が増えると言わんばかりの顔で胡散臭さそうに見た。

「何これ?」

 紙袋から中身を取り出して彼女の前のテーブルへ置き、彼女の前へ寄せていると訊かれた。

「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」

 彼女はパワーをオンにして、いきなりグリップスイッチを握りバリバリと大きな音をたてて放電させた。店にいた五、六人の客と店員の全員が、何事が起きたのかと振り返って僕たちを見た。

「危なくないの?」

 スタンガンを手元で振りながら、バチバチさせている。

「こんな所で放電させたら駄目じゃん。そりゃ、そいつは危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」

 彼女は僕の手に押し当てる振りをしながら訊いて来た。

「この痛みを、あなたは体験しているの?」

 素早く手を引っ込めて、

「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力を知っておかなくちゃね」

(あぶねぇー、もうちょっとで電撃くらうところだった)

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 僕は届いた日に自分で試してみた。テレビのドラマや映画のシーンは大袈裟で、実際そんなに威力は無いと思っていた。まして通信販売の市販品なんか、たいした事はないだろう。僕は軽い気持ちで太腿にスタンガンを付け、スイッチを押した。

「ヒッ、ぐわーっ」

 いきなり、太腿の筋肉が勝手に激しく伸縮して体が弾き飛んだ。一気に出た肺の空気が声じゃない高い音を体の中から漏らして、視界が一瞬暗くなった。直ぐに襲ってきた強烈な痛みで僕は悲鳴を上げながらのたうち回った。優に三分間は動けなかった。暫し、何が起きたのか理解出来ず、何も考えられないほど、ドーンと来た凄いショックだった。

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 悪戯やおふざけの軽はずみな行為をしないように注意を促す言葉が、彼女への怒りを含ませる。

「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうぜ」

 ニヤニヤしていた彼女は、『ふうーん』と言う顔をして、バチッ、バチチッと空放電を繰り返す。

「それと空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」

 ちょっと迷うように考えてから、彼女はスタンガンを受け取った。

「面白そうだから、これも貰っておくわ」

(やはり、スタンガンは拙かったかな。でも、二人の距離が離れた今、僕は彼女を守れない)

 もう僕は彼女の傍に住んでいないから、せめて遠く親元を離れて一人暮らす彼女の身を、自分自身で守る術を贈る事しか出来なかった。

 彼女の安全を心配する度に、『彼女の生活圏の近くに就職すべきだったのだろうな』と考えてしまう。就職すると告げた時も高校受験と同じように、僕に進学する同じ処へ来て欲しそうな感じで、就職場所を首都圏へと、それも近隣限定と望まれていた。そう彼女が望んでいた通りにしていれば、仕事が終わると、いっしょに御飯を食べてからトレンディスポットへ行くようなデートを毎日の様にしていて、今日の気不味さは無かったのかも知れない。

 だけど、そこまで僕とのベタな毎日を彼女が予想して望んでいたのか分からない。ただ近くに居させるだけで日常は僕を拒んで冷たく距離を置かれていただろうと思ってしまう。

「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃ駄目だぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」

 僕は心配になって念を押した。

「分かっているわよ」

 スタンガンで僕を脅しながら、笑顔でそう言いった。

「ありがとう。心配してくれて」

 映画の中で悪巧みをする小悪党のように、彼女は楽しそうだ。

(うーん、心配だ)

 悪戯心で人を苛めないように。軽犯罪的な悪さを起こさないように。自分を痛めつけないように。と僕は彼女の細める眼を見て願う。

(本当に、正当防衛だけに使って下さいませ)

「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう食べ終えたの?」

 今更っと思いながら、スカッと底の柄が見えるまで平らげた丼を向けて、僕の器を覗き込んで来る彼女が嬉しい。

「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」

 和んだムードに、更にプライベートな思いやエピソードを話し合えるかもと、僕はティータイムに彼女を誘う。

「いらない!」

 キツく語気を強めて断わられてしまった。

 『いらない』には、きっと僕も含まれている。彼女の『もう今日は、君もいらないから、さっさと帰ってよ』の意を僕は察した。

 空腹が満たされて眠くなった彼女は、幼子の様に『駄々を捏ねているんだ』と思いたいけれど、そうじゃない! 彼女の気持ちは今日のフリ出しに戻っている。

 互いの察しの無さと理解不足に、確認が全く無かった朝の出会いで、テンションが下がりっぱなした。戻りは何事も無く無事に来て、昼食も食べ終えたのに、まだ朝を引き摺る彼女が腹立たしい。

 だから僕は、更に彼女の機嫌を損ねてダメ出しされる覚悟で、言ってみた。

「なら、これからどうする? ここが嫌ならサテンに移ろうか? それともゲーセンへ行こうか?」

 僕らの格好じゃ、それくらいしか行く所がなかった。ショッピングモールや繁華街に場違いで不釣り合いだと思った。

「……ゲームセンターも喫茶店にも行かない。だいたい、場所知ってんの? 私は知らないわよ!」

 そう、彼女のツッコミの通り、この辺りの地理に全く不案内だった。行く時も、帰りの道すがらもチェックする余裕はなかったし、下見に来た時もデートコースに全く考えていなかった。そして今し方、うどん屋で話をして珈琲も飲んだのに、ダブった僕の言葉は凄くチープに思えた。

「知らないけど、走りながら探そうかと思って……」

 藪蛇だった。僕はもう繕えない。

「……行かない。もう何処へも行かない。帰る!」

 サドンデス! 彼女の返答に突然今日は終了した。不意に別れの時間が来たので、気持ちは焦った。だけど内心は、ホッとしていた。今日は、良いところが一つも無かったし、下敷きになった左足は益々ズキズキと痛くなっていて、落ち着かない。

 落ち着いた静かな声だけど、怒ったような口調で彼女は言った。黒曜石のような無機質の瞳で僕を睨んでいる。これ以上、無粋な誘いをすると、その鋭いエッジで切り刻まれそうだ。

 『帰る』の言葉が、僕に寂しさを纏わり付かせてデートの終焉を察した。『また、タンデムして身体が冷えるのは堪らない』、『今日はこれ以上、あんたの感覚に振り回されたくない』、『あんたとのデートは、これで終わり』、『あんたは、もう帰って』と、いくつもの僕を諦めさせる言葉を彼女は言わんばかりだった。

 それでも、拒否されるのが分かっていても、それが建て前だと思われても、言わなければならない言葉が有った。

 彼女の言葉には応えずに、黙ってレジを済ませて店の外へ出る。

 先程よりも雲の層が厚くなったみたいで陽が翳らないのに薄暗くなった感じがした。通りを吹きぬける風も心なしか強く冷たい。だから、横で寒そうな仕種をした彼女に、せめてもと僕は言う。

「……分かった……、送って行こうか?」

 彼女の眉間に皺が立つ。黒目勝ちな目の瞳が艶の無い漆黒で、全てを拒絶する冷たい暗闇のようだ。

「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」

 続いた『帰る』が、寂しさを凍りつかせて深いクレバスの向こうに高い氷壁ができた。

 彼女に従うしかない。

「ああっ、ここで別れよう。僕も陽が傾かない内に帰るよ」

 『別れる』言いたくなかった悲しい言葉を、さり気無く言ってしまった。

(どうか、言霊になりませんように……)

 言葉数が少ない彼女に、僕らの関係が破綻しそうな、不吉な予感が滲むけれど、時間は戻せない。

 テンションを失い、モチベーションが消え入りそうな彼女へ、今から今日の遣り直しを望んでも許してはくれないだろう。

(今日は僕のミスだ。選択肢が一つしかなくて、ごめん)

 言葉にならない。心の中で謝った。僕はまた殻に閉じ籠もりそうだ。

「さようなら」

 その言葉の響きが、ずっと遠くから聞こえてきたような気がした。彼女の声が小さく耳に籠る。響きの中の寂しさと虚しさと切なさが僕を襲う。激しい焦燥が湧き上がり不安が僕を衝動的にさせる。

 『さようなら』は、『またね』じゃない!

(絶対に、今日の日を後悔するぞ!)

「次は……!」

 そう言いかけた僕の言葉を遮るかのように、彼女は口元を僅かに微笑ませて胸の前で小さくバイバイをする。でも彼女の眼は笑っていない。不潔な汚物を触った手を見るような眼で僕を見ていた。その眼に確固たる不吉な意思の光りを感じて、僕は言葉を繋げずに口を閉じるしかなかった。

『これ以上、何もしないで素直に早く帰って』という彼女の意思を感じた。

(このまま……、このままじゃあ、だめだ! ……でも、どうする? 何か、このマイナス状況を一瞬で逆転する方法は無いのか? 考えろ! 呪文は? シックスセンスは?)

 どうしようも無かった。今直ぐ瞬時に明るく陽気なムードに逆転できて、優しく笑う眼の彼女に変えられる魔法も超能力も、僕には何も無い。

 今、魔方陣も描けないレベルゼロの僕がすべき事は、素直に彼女の意志に従って静岡への帰路に就く事だけだ。

     *

 帰路のルート1で、Uターンをして彼女が暮らす相模原へ戻りたい衝動に、何度も駆られた。

(時間を空ければ彼女の気持ちが和らぎ、次の機会に修復できるだろう。メールで謝ろう。きっと一時的な感情で、もっと良い関係になれるさ。次は連絡を密にしなくちゃな)

 箱根の山を越えた辺りから悲観的で深刻な思いは、楽観的な考えに変わって来た。

(次も有るさ。次は絶対に上手くやるぞ! 失敗は繰り返さない。次は爪の事も謝る……、……れるかな?)

 

 ---つづく