遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

大桟橋とカツ丼 (僕 十八才) 桜の匂い 第八章 壱

 今日も、バイクでルート246を北上している。
 三週間前の三月末の日曜日も、この道を走っていた。
 走行ルートの下見(したみ)と首都圏のムードを感じたくて、相模原市(さがみはらし)へ行っていた。
 彼女が、これから四年間の大学時代を過(す)ごす、街と環境を知りたいと思って行ってみた。
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 初めて来た相模原の街は、街路樹や公園の並木の多くが桜の木で、まだ三月末なのに、既(すで)に桜は満開のピークを過ぎて、散(ち)り始(はじ)めていた。
 僕が勤(つと)めている会社が在る東海(とうかい)地方の静岡市(しずおかし)もそうだけど、北陸(ほくりく)地方の金沢市(かなざわし)とは違(ちが)う、関東の早い桜の開花と散り始めに、僕は驚(おどろ)いてしまった。
 これまで、四月後半の今日でも、咲き残っている金沢の桜しか知らなかったから、ピンク色の無い新緑の四月の初めは雅(みやび)に欠けて、とても、物足(ものた)りなさを感じてしまう。
 日本の人口の多くは、卒業式の頃に、桜が咲く地域に暮(く)らしている。
 淡(あわ)いピンク色の桜が匂(にお)う、綺麗(きれい)に咲き揃(そろ)う様と、一陣の風に満開の花弁(はなびら)の美しく舞い落ちる桜吹雪の潔(いさぎよ)さが、旅立ちと別れの思いに合わさり、お花見で愛(め)でながらも、桜の花が、穢(けが)れの無い儚(はかな)さを感じさせる悲愴(ひそう)なイメージになってしまうのも分かる。
 入学式を過ぎてから咲く、予感と期待と希望を抱(いだ)かせてくれる北陸の桜とは、大違いだ。
 彼女は、相模原の住所を知らせてくれなくて、彼女の通(かよ)うだろう大学だけをGPSに頼(たよ)らず、探検気分で探(さが)し回った。
 そろそろ、金沢から移って来る頃だと思っていた三月下旬に、『相模原に来てます。初めての、一人暮らしを始めてるよ』と、メールが届いていたから、今も、この街の何処(どこ)かに、彼女はいる筈(はず)だと考えながら走っていた。
 明るい青空の下、桜の花弁が春風に乱(みだ)れ舞う美しい桜吹雪のストリートを、昨日見ていたウロ覚(おぼ)えの地図と感を頼りに僕は、V-MAXで走り抜(ぬ)けていた。
 その日、僕が相模原へ行く事を、彼女には連絡していなかった。
 引越しの片付けと日常生活を整(ととの)えている最中(さいちゅう)に、手伝いの口実(こうじつ)で僕に来られても戸惑(とまど)うだけで困るだろうし、それに、彼女は僕を彼氏と認(みと)めていないのだから、事前に連絡もせず、勝手に行くのは変だろう。
 友達として、わざわざ静岡から異性が手伝いに行くのは、恋慕(れんぼ)の下心が一杯と思われるだけだ。
(いや、本当は、其の通りで、SAY・YES! の、恋心だけなのだけど……)
 彼女に求(もと)められている確証(かくしょう)が持てていないという拘(こだわ)りを、僕は、いつまでも引き摺(ず)っていた。
 思いをメールで伝(つた)えても、『来ないで』と返信されていたに決まっている。
 それなのに僕は、あれこれ理由を付けて下心を覆(おお)い隠(かく)し、相模原に行っていた。
 彼女と偶然(ぐうぜん)の出逢(であ)いが有っても、僕は用意した言い訳をせず、ただ、身を隠すように逃(に)げるだけの癖(くせ)に…… 行って来た。
 彼女が、何処に住んでいるのかも分からずに、当てずっぽうに相模原の街を走り回るだけだったけれど、これからの四年間、彼女が学ぶ大学だけは見付けた。
 大学の正面らしきゲートの真向かいにV-MAXを停めて見る構内は、どうも、キャンパスが総合病院に併設(へいせつ)されているようで、暫(しばら)くいて、漸(ようや)く目の前のゲートが病院へ出入りする一般来院者の為(ため)のモノだと知った。
 病院の正面ゲートだと悟(さと)ると、キャンパスへ学生が出入りする通路は、『何処に在るのだろう?』と、向かいの敷地内を移動する人達に眼を凝(こ)らしながら、躊躇(ためら)いも無く探(さぐ)っている自分がいた。
 もう気持ちは、ストーカーのようだった。
 休日で人通りの少ない広い構内には多くの建物が建ち、病院の建物なのか、大学の校舎なのかも判断が出来ず、欲(ほ)しい情報は何一つ得(え)られなかった。
 もしも、このまま彼女から、『一人暮らしを始めた』以上の情報が無ければ、時々、ウイークディーに僕は此処(ここ)へ来て構内に入り、学生達の中に彼女を探して確証と安心を得るまで、彼女のキャンパスライフと一人暮らしをストーカーするだろうと思った。そして、去年のバス事故で彼女を守る盾(たて)と成(な)り、初めての暑中見舞いの葉書(はがき)で能登(のと)半島の明千寺(みょうせんじ)の町へ誘(さそ)われて、立戸(たっと)の浜で彼女と親(した)しく話せた僕には、其(そ)の権利が有ると思っていた。
 そんな事をしても、何も納得できずに虚(むな)しく、過激化して行くだろう行動は諸刃(もろは)の剣(つるぎ)となって、彼女と僕を酷(ひど)く傷付けるのは判(わか)っている。
 なのに、V-MAXに凭(もた)れながら、どうすれば、彼女に気付かれずに探って付き纏(まと)えるかと、自己中の斜めにズレた方向で考える僕は、甚(はなは)だしい勘違(かんちが)いをしていた。
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 不穏(ふおん)な気持ちになった三週間前と違って今日は、気持ちに余裕(よゆう)を持って相模原に向かっている。
 先週の初め、既に、大学の授業が始まっているだろうと思い、『そっちへ会いに行く』と、メールを打った。
【来てよ。四月の第三日曜日の、午前九時に、相模大野の北口前で、待ち合わせて、デートしましょう。月日と時刻(じこく)と場所を、間違えないでね】
 意外なほど、あっさりとデートが決まった。しかも、彼女からの御誘いだ!
 まさか、返信で直(す)ぐにデートに誘われるとは思っていなくて、毎日、彼女の逆ナンパみたいなメールを、五、六回はメールを読み直(なお)していた。
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 新たな仕切(しき)り直しの期待で彼女の想いを信じる僕は、早朝の寒さに震(ふる)えながらルート246を相模原へと向かっている。
 前回の三月末のような迷(まよ)いをしなければ、後(あと)、一時間ほどで待ち合わせの場所に着くだろう。
 逸(はや)る気持ちの三月末は、冒険気分でGPSを使わずにいたら、しっかりと迷ってしまった。
 何処も似(に)たような大きな通りばかりで、現在位置と進む方向が、さっぱり分らない。
 道路案内板の地名は、僕が知らないだけで関東じゃメジャーかも知れないけれど、マイナーな地名ばかりに思えて向かう方向さえも分からず、結局はGPSに頼って、どうにか辿(たど)り着いた始末だった。
 待ち合わせ場所は、GPSで検索して登録していたけれど、デートを決めるメールには、一人暮らしをする彼女の住所が書かれていなかった。
 未(いま)だに僕は、彼女の友達に一歩手前以上には成れていないらしい。
     *
 四週間前に届いたV-MAX。
 バイクショップで、車高を下げる改造とエンジンのチューンアップをしてから納車して貰(もら)った。
 リアサスペンションのスプリングをカットして、五センチほど車高を下げ、更に、シートの芯を抜いて薄(うす)くした。
 細かな突き上げが増(ふ)えて、乗り心地が悪くなったけれど、跨(またが)ると両足の靴底がべったりと路面に着き、とても安心感が有った。
 教習所のバイクは車高が高く、低速時や停止で振(ふ)らついて仕舞い、何度も補習を受けた。
 バイクショップで試乗したV-MAXも、足の着きが安心できない感じで立ち転(ご)けしそうだった。
 バイクショップのオーナーは親父の知り合いだったから、車高を下げる際(さい)に無理を言ってエンジンを降ろし、シリンダーヘッドを外(はず)して貰う。そして、WPC加工を面倒臭(めんどうくさ)そうに渋(しぶ)る親父に頼み込んで加工装置を使わせて貰った。
 WPC加工は、微細(びさい)なビーズ玉を水の噴流に混(ま)ぜて、金属の表面に激突させる加工表面の改質処理技術だ。
 ビーズ玉が衝突して出来る、とても小さな点のような凹み部分の表面は、衝突での高温になった瞬間に金属が溶けて、そして、急激に冷(ひ)やされる。
 この処理が、加工する金属表面全体へ短時間で均等に繰(く)り返し施(ほどこ)されと、表面から機械加工の筋(すじ)が消えて滑(なめ)らかで薄い超硬質な表皮に覆われてしまう。
 シリンダーヘッドの表面にWPC加工をすると、シリンダー筒との摩擦係数が小さくなって耐摩耗性が向上し、隙間が均一になって密閉性も上がる。更(さら)に、最表面に潤滑層(じゅんかつそう)を形成する微粒子のショット加工を行うと、結果、燃費が良くなってエンジン出力もアップする。
 WPC加工は、WONDER PROCESS CRAFTの略、『ワンダー・プロセス・クラフト』日本語にすると不思議な方法の特殊技術かな。
 応用は未知数で、実際に様々(さまざま)な分野で使われていて、金属以外にも効果が有るみたいだ。
 親父は数年前に導入して、いろいろな改造を追加した全自動システムにしている。
 六軸のロボットアーム、アタッチメントやビーズの自動交換、タッチや近接や画像のセンサーなどなど、加工物の形状と加工範囲を読み込ませ、あとはプログラムをセンサーが勝手に組み合わせて無人の全自動で動く。
 大抵(たいてい)は、金型の摺動面(しゅうどうめん)や摺(す)り合わせ面に用(もち)いていて、依頼が有ると面相度(めんそうど)の均一化や特殊仕様品にショットブラストで加工している。
 プログラムは僕が組み、素材のセットも僕が行うのに、親父は、性格的に作業と相性(あいしょう)が合わないのか、いつも、面倒臭がっていた。
(変な親父だ。たぶん今回は、僕好みのエンジンにする為だけに使って、儲けに成らないからだな……。自分のホワイトダックスには、親父自身がしている癖に!)
「全(まった)く、この忙(いそが)しいのに面倒臭い奴だ。これは誰にも話していないし、見せてもいない。メーカー連中や御客も知らない。今まで、俺以外で見せて使わせているのは、お前だけだぞ」
 工場の加工設備を初めて見た時に、そう語(かた)る親父が頼もしく思えた。
 それまで、親父の仕事にあまり興味が無くて、業種も、内容も、作業場や設備も、良く知らなかった。
 僕がモノ造(づく)りに興味を持ったのは、その時からかも知れない。
「そのデカイのに飽(あ)きたら、俺に譲(ゆず)るんだぞ。勝手に売るなよ。だいたい所有者名義は、この俺だからな。代金の半分以上も、俺がキャッシュで支払ったんだからな」
(うっせーな、親父ぃ。分かってるさ。でも当分、いやいや、ずっと、V-MAXには飽きないと思うから、ちょっと譲れないね)
     *
 相模大野駅前での待ち合わせの場所には、予定時刻の十五分前に着いて、まだ来ていない彼女を待った。
 初冬の寒い朝、兼六園下(けんろくえんした)のバス停を最後に彼女と出会っていない。
 寒い冬は、受験勉強に頑張(がんば)る娘の体調が崩(くず)れるのを心配した親は、朝の登校と塾(じゅく)の帰りを自動車で送迎(そうげい)してくれていると、それ故(ゆえ)に、朝のバスには乗っていないと、彼女のメールに書かれていた。
 今日は、五ヶ月ぶりで彼女を見る事ができる。
 最初に笑顔で迎(むか)えてくれるだろうか?
 心ときめかす彼女の可愛(かわい)さは変わっていないだろうか?
 大人(おとな)びて、更に、綺麗になったのだろうか?
 クールでシックな彼女の性格は、大学生になって変化したのだろうか?
 彼女の美しい変化を期待して、ワクワクと気持ちが高ぶり落ち着かない。
 切(せつ)に、彼女の笑い顔を見たいと思う。
(性格も、大人びて? ……そう、なっていたら良いなぁ)
 予定時刻が近付くに連れて、約束をシカトしたり、予定をドタキャンされたりして、このまま彼女は此処へ来ないかも知れないと、気持ちが焦(あせ)り出した。
 そんな不安な思いを振り払おうと、笑顔で小さく手を振る彼女を思い浮かべながら見上げた空は、全天を切れ間無く湿(しめ)り気の多い雲が覆い、其の曇(くも)り空の暗雲とした様子に払拭(ふっしょく)の努力は空(むな)しく、信じ切れない心細さだけが広がって行く。
 彼女の気が変わらない保障も、約束を守る確信も、来てくれる自信も、僕には無かった。
 もう間も無く、予定時刻になろうかとする頃、雲間に青空が覗(のぞ)き、差し込む陽(ひ)の光りで辺(あた)りが明るくなった。
 其の一筋の光りの端(はし)から満を持(じ)して、スポットライトを浴(あ)びながら登場する舞台女優のように、彼女は現(あらわ)れた!
 それはまるで、僕らの出会いを祝福(しゅくふく)した、大自然の天候がプロデュースするサプライズように思えた。
 彼女は約束を反故(ほご)にせず、予定時刻きっかりに、待ち合わせ場所にいる僕へ会いに来てくれた。
 近付いて来る彼女は、ほんのりブラウンに染(そ)めてナチュラルに先端をカールさせたヘアをしなやかに揺らし、たった五ヶ月間しか会わないだけで髪(かみ)が、そんなにも長くなって、ふっくらとしたのかと思うほど豊(ゆた)かな量に見えた。
 艶(つや)やかな髪は、陽の光をキラキラと反射して輝(かがや)く天使の輪を頂(いただ)くようだ。
 其の洗練されたヘアースタイルも、ポイントを押さえた薄いメイクに自然な可愛さと美しさで、大人びた彼女の端麗(たんれい)さを際立(きわだ)たせているに過ぎなかった。
 僕を見詰めながら笑顔で近付いて来る彼女に、心はときめいてドギマギしてしまう。
 其処に高校生までの幼(おさな)さの残らないレディな彼女がいた。そして、彼女の大人っぽいファッションを見て僕は後悔した。
 期待以上の彼女に会えて晴(は)れ晴(ば)れと満たされた幸福感が、待ち侘(わ)びていた時とは違う、鋭角(えいかく)な不安感に変わって行く。
 胸元が開いたニットのミニのワンピに軽めのフード付きショートコートを合わせ、足元をムートンブーツで纏めている。
 全体をパステルカラーでコーディネートしてエレガントさがあった。それに、Vネックの胸元を隠(かく)し、白い首元を守るように巻(ま)かれて温(あたた)めていたのは、あのレリーフといっしょに彼女へ贈(おく)った暖(あたた)かそうな柄(がら)の、絹(きぬ)のスカーフだった。
 四年前にイタリア旅行の土産で彼女へ送ったスカーフを、今も持っていて、今日の初デートにして来てくれた。
 パステルカラーのライトなファッションにマッチして、其の春めいた淡い色彩は曇り空の光に程好く顔を照(て)らして、いっそう彼女を艶やかに見せている。
 彼女は、いかにも大学生って感じのトレンディなカジュアルファッションで、高校生の詰(つ)めの甘(あま)さが気になる乙女(おとめ)チックな服装とは、……と言っても、彼女の私服は中央病院と立戸の浜でしか見ていないのだけど……、明らかに違っていた。
(とってもキュートだ! それに、艶っぽいし……。スカーフが凄(すご)く似合って良かったよ! 君と手を繋(つな)ぎ……、腕を組んで……、歩きたいな。僕と腕を絡(から)めて歩いてくれますか?)
 惚(ほ)れている彼女の洗練されたファッションを見て、心はときめいたけれど、僕との余(あま)りのミスマッチに、ホットでハイな気持ちが一気に冷(さ)めて行く。
 僕は察(さっ)した。
(彼女は、バイクでタンデムする気なんて、これっぽっちも無い!)
 春の肌寒い曇り空の下、トレンディに決めて現れた彼女は、V-MAXにタンデムする服装ではなかった。
(今日の天候だと、その格好(かっこう)じゃ、V-MAXに乗れないぞ! いや……、乗せる訳にはいかない!)
 僕がバイクに乗って来るなんて、彼女は思いもしていなかったんだ!
「おは…… よ……」
 彼女の笑顔は僕を認(みと)めた一瞬だけで、直ぐに消えて真顔になり、朝の挨拶(あいさつ)の言葉は途切れた。
 それから、僕の背後のV-MAXを見た彼女は、目を丸くして呟(つぶや)くように言った。
「その、大きなオートバイで来たんだ……」
 彼女は、別世界の未開で野蛮(やばん)な異邦人(エトランジェ)が、奇怪な宇宙船に乗って自分を攫(さら)いに来たかのように、嫌悪(けんお)の顔で見ていた。
 久し振りに、しかも、一人ぼっちの心細(こころぼそ)い場所で会えたのに、『お早う』の朝の挨拶も、はっきり言わないで嘆(なげ)く彼女に、言い掛けたフレンドリーな挨拶が声にならないまま、ネバネバした不安の先が鋭(するど)く尖(とが)り、キリキリと僕の胸に暗(くら)い穴を開けて行く。
 僕の方は、アミーの迷彩ジャケットとロイヤルフォースの迷彩パンツに、フランス外人部隊のバトルブーツを履(は)いた、全(すべ)て中古品のカモファッションだった。そして、迷彩柄のネックウォーマーを首に巻き、手にはエアフォースのフライトグローブを嵌(は)めて、モノトーンの破片パターンにカモペイントしたフルフェイスのヘルメットを脇(わき)に抱(かか)えている。
 これでは、とても、エレガントな着こなしの彼女と歩けるファッションじゃない。それに、V-MAXのヘルメットホルダーにブラ下がった、彼女用のフルフェイスヘルメットも見られているだろう。
 彼女との距離が冷えて、ビシッビシッと固まる空気に全身がチリチリと痛み出す。
 『あんたと歩きたくない』という意思表示が、ありありと表情に出ている。
 此処で、『軍装品が一番温かくて丈夫なんだ』とか、『個性的だろ。気に入っているんだ』なんて言ったら、美しい顔を更に、美しくも醜(みにく)く歪(ゆが)ませて、『バーカ』と言い捨てて、プィっと帰ってしまいそうな険悪なムードだ。
 彼女が普通に街を歩くような……、いや、トレンディスポットでデートするような気持でいる事を予想していなかった。
 僕は自分の事しか考えていなくて、僕の趣味や思い入れを彼女に押し付けようとしている。
 V-MAXを置いて、彼女と電車やタクシーに乗り、街でデートするには、とても、釣り合わないスタイルで来てしまった。
 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せる彼女は、怒(おこ)った猫のように今にも唸(うな)りを噴(ふ)きながら髪を逆立(さかだ)て、剥(む)き出す牙(きば)で噛(か)み付いて来そうだ。
 初めての、まともなプロセスに沿ったデートが、台無しになりそうな予感がする。
 考えてみたら、此処に来るまでに今日は寒いと感じていた。
 バイクツーリングする人は疎(まば)らで、タンデムは一台も走っていなかった。
 桜が散ってしまって、若葉の葉桜になる季節とはいえ、曇り空の朝の八時半はひんやりと寒くて、バイクにタンデムするには無理があるかもと、だんだん、そんな気がして来る。
 後悔が、幾(いく)つも重なった。
 僕の此処に来た目的が、彼女に会う事だけになっていた。
 デートの内容なんて、会えばどうにかなるだろうくらいにしか思っていなかった。
 彼女の気持ちを全く考えていなかった自分に、今の今まで気付けなかったのが一番ショックだった。
 待ち合わせ場所が、相模大野の駅前だった時点で気付くべきだった。
 彼女は、どのルートで僕が来て、一緒に何処へ行き、どんなデートをしようと考えているのかに、考えを巡らすべきだった。
(僕は、愚(おろ)か者だ!)
 新幹線を小田原で乗り換えて、小田急電鉄で来るべきだった。そして、まだ、一度も行ったことの無い新宿や、JR山手線沿いの東京都内が、彼女のデートコースになる筈だったのだ。
 僕はどうしていいのか、どう言えばいいのか、少しも分からなくて途方に暮れてしまった。
(だっ、ダメだ! ミスった! 今日は此処までだ! もうデートは中止して……、また出直すしかない!デートは次のウィークエンドでもいいじゃん。それだけ約束して帰ろう……。彼女の顔が見れて、声が聞けただけで十分じゃん!)
 彼女の表情から、そう考えたけれど、互いに連絡を取り合って決めた初めてのデートを、始める前から躓(つまづ)きたくなかった。
 それに、待ち合わせの場所に来ただけで、何も無く戻って行ってしまう僕を、彼女はどう思うだろう?
 彼女の気持ちの変化を怖(おそ)れる僕に、不安が寄せて来る。
 やっと、デート出来るようになるまでに漕(こ)ぎ着けたのに、これでは破綻(はたん)してしまうかも知れない。
(……どうせ破綻するのなら、彼女の希望するデートへ進めてしまおうか。電車に乗って、店が開いたら服を買って着替えればいいさ。でも、トレンディな服を買うと、たぶん、手持ちの現金が乏(とぼ)しくなるから、其の後は、彼女に頼ってしまう事になる。それは、甲斐性(かいしょう)が無くて情(なさ)く思われるだろう)
 どちらにしても、良い結果にはならないと思う。
 そんなマイナス思考でモチベーションが下がる僕を察したのか、彼女は言った。
「三十分ほど待っていて。着替えてくるから」
 眉間に皺を寄せたまま、身を翻(ひるがえ)して元来た方向へ駆けて行った。
「あっ……!」
 引き止められない!
 咄嗟(とっさ)に、引き留(と)める言葉が、思いつかなかった!
 ドタキャンせずにデートを続ける気持ちになった彼女の言葉に、僕はホッとしている。
 そう言ってくれた彼女に、僕は感謝した。
 着替えに赴(おもむ)いた彼女に感謝しながら待つ間、僕はGPSで付近のデートスポットを急いで探した。
 今日の天候ではオートバイに乗ると、身体が急速に冷え込むだろうから、一時間以内で到着出来る所にしなくてはならない。
(何処へ行こう? 相模湖は? いや、ダメだ)
 相模湖は近くのようだけど、雲量が多くて陽の差し込まない日はだめだ。それに、内陸山間部は此処よりも、ずっと寒い。
 僕は、ウエザーマップで地域の天候も確認して来ていなかった。
 雨が降っても、V-MAXで走って来るつもりだったけれど、雨天でのデートと彼女の事は全く考えていなかった。
 僕は、アバウト過ぎだ!
(新横浜(しんよこはま)や鎌倉(かまくら)は?)
 新横浜へ行っても、バイクツーリストがブラつく場所は無いだろう。
 それに、GPSを見ながらでも、新横浜までのルートを迷わずに走る自信は無かった。
 鎌倉は、更に遠くてルートも間違えそうだ。
 何より、カジュアルなファッションじゃないと様にならないくらい、デートスポット過ぎる。
 もっと、アウトドアっぽいスポットでないと……、ダメだ。
(そうだ! 海へ行こう。横浜港は近いはずだ)
 海ならば、彼女は納得してくれると思う。
 たぶん、砂浜なんて何処にも無くて、港の岸壁(がんぺき)ばかりだろうけど、潮風(しおかぜ)が好きみたいだから何とかなるかも知れない。
 GPSでなぞると、ルート16なら一直線で行けるようだった。
 市街地に入ると、曲がりが有って大きな道が重なるけれど、どうにか分って走れるだろう。
 横浜港のミナトミライ地区に隣接して、帆船の日本丸やテーマパークのコスモワールドが在る。
 赤レンガ倉庫から大桟橋へと歩き、更に、山下公園を通り氷川丸(ひかわまる)も見学してマリンタワーに昇(のぼ)ろう。
 少し離れているけれど、港が見える丘公園まで行っても良い。
 お昼は、中華街で食べれば良いと思うけれど、まだ、クレジットカードが届いていなくて、カジュアルな服を買おうかと考えた以上に、今の財布の中身だけでは、聊(いささ)か心細かった。
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 息を切らして、本当に三十分で、彼女は戻って来た。
 『戻って来なくて、このまま放って置かれるかも知れない!』、『捨て置かれたら、とても惨(みじ)めだな』、『いや、彼女は、そんな酷いことをしないだろう。でも、V-MAXを見ていた目は……』などと、勝手に心理戦をして不利になりかけていたところへ、彼女は息を切らして戻って来た。
 ムートンブーツはそのままにGパンを穿(は)き、上は厚手のタートルネックのセーターにダッフルコートを重ねている。
 セーターの下にも着込んでいるようだ。そして、きっと、話しが弾(はず)むだろうと考えていたメモリアルな絹のスカーフは外されて、代わりにニットのマフラーが手に持たれていた。
「レザージャケットやスキーウェアとか、風を通さないのを持ってないのかよ?」
 其の開きの多いコートや通気の良いニットの着込みでは、高速で流れ来る冷たい風を防(ふせ)げそうには見えない。
 四月下旬になっても、まだ冷たい外気に吹かれて冷え込み、彼女が体調を崩すのを心配した思いに、語気を強くしてしまう。
 それでも、V-MAXに僕とタンデムする服を考えて、急いで一旦部屋へ帰ると、即行で服を着替えてから、言った通りに彼女は三十分で戻って来てくれた。
 それなのに、感謝もせずに……、選択肢を誤(あやま)った僕に非が有るのは明らかなのに……、頑(かたく)なに初志(しょし)貫徹(かんてつ)の我(が)を通そうと、着替えて来た彼女の服装に僕は低評価のダメ出しをしてしまう。
 言ってから、『しまった!』と思った。
 ハァハァと、息が上がっている彼女に鋭く返される。
「ないわよ!」
 強い口調で言い返された。
 かなり不満を我慢していたと思う彼女を苛立(いらだ)たせて、とうとう怒らせてしまった。
 あと一言で、彼女は完全に爆発しそうだ……。
 急いで話題を変えて、僕は彼女の機嫌(きげん)を取りに行く。
「もう横浜港には行って来た? 海を見に行こう」
 ナビのマップで見る限りでは、ルート16を真っ直ぐ走ればいいだけだと判断して、ナビを切って走ることにした。
 下がった僕の評価を鋭い方向感覚と優(すぐ)れた観察力を見せ付けて、挽回(ばんかい)しようと思いついた単純なパフォーマンスなのだけれど、ノーチェックの未知のルートをマップ無しで走行するのは、後悔、先に立たずになるかも知れない。
 近視的視力と精度が怪(あや)しい体内磁石で適当に走らせるV-MAXは、リスクの方が大きいだろう。けれど、上手(うま)く着ける可能性に賭(か)けてみたい。
 海に行くと聞いて、少し明るくなった彼女の表情が、『行こう』と言っている。
 彼女の原風景(げんふうけい)の場所から察して、海が好きなのだろうと思っていた。
 海辺の彼女は明るくて楽しそうで、そして、とても元気だった。
 横浜港の潮風で、彼女の機嫌が良くなって欲しい。
(横浜の海が、せめて、能登の諸橋(もろはし)地区の海のような色なら良いけれど……。でも、東京湾の中だからね。しかも、お天気は曇りで、肌寒いし……)
 たぶん、期待できないだろうと思い、着いてがっかりする彼女の気持ちを想像して、僕の気持ちは暗くなる。だけど、他に行く宛(あ)てを思いつかないし、知らない。
 そんな僕の憂(うれ)いも知らず、少し機嫌を直した彼女は、身軽に僕の後ろに跨り、両腕を僕にしっかり回すと、僕の背中に体を密着させて、一年ほど前の救急車の時よりも、『大きくなったかな?』と思わせる胸の弾力を感じさせた。
 其の膨らみ加減と、無言で僕を風除(かぜよ)けにする彼女の行動が嬉しい。
 肩越しに、軽いファンデーーションの香(かお)りを薄させて漂(ただよ)わせる、彼女のファンデーーションとは違う別の匂いが、僕の鼻腔(びこう)を擽(くすぐ)る。
 バス事故や立戸の浜で嗅(か)いだ匂いとは少し違う、相模原で一人暮らしをする彼女自身の生活臭だ!
 少し芳(こう)ばしくて、僕が知っている彼女の体臭じゃないと分った。
 彼女の住む、建物の臭い?
 部屋の臭い?
 ファンシーケースの匂い?
 春の冷気を押し退(の)けて彼女の匂いで肺を満たす、背中に密着する匂いが心地良く、この匂いも、ずっと嗅いでいたいと思う。
 被ったヘルメットを、僕のヘルメットにぶつけて彼女は声を落として言った。
「GO!」
 彼女のトーンを抑(おさ)えた声が、フルフェイスヘルメット内に響(ひび)く。
(なぜ、低い声?)
 声の低さを不思議に思いながら、僕は気合を入れてV-MAXを発進させた。
「GO!」
(後は、出たとこ勝負だ! 臨機応変に対応するしかない。今日は良い日でありますように!)
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 トントンと、彼女が僕の肩を叩(たた)いた。
「なに?」
 少し振り向いて訊(き)く。
「あそこ!」
 彼女は、加速する風圧に負けないように大声で言って斜め後方を指差した。
 指先の向こうから僕が抜き去った自動車を盾(たて)にして、白バイがサイドミラーのアウトサイドの死角から迫って来ていた。
 ハイビームに光るヘッドライトと、けたたましく点滅する赤色灯が急速に接近する。
 甲高(かんだか)いサイレンとスピーカーの我鳴(がな)りが、バイザーの風切り音とフルフェイスヘルメットの厚みに遮(さえぎ)られてしまうのと、V-MAXのサウンドの被りと、広い道幅と疎らな車両による周囲の無反響で音が逃げ、小さなノイズにしか聞こえなくて、何を言っているか分らない。
 明らかに狙(ねら)いは、僕だ!
 連(つら)なり走る車の集団を縫(ぬ)うように抜き去って、次の集団へフル加速で追い着く。
 それを繰り返して、今も国道の制限速度を余裕でオーバーする走りで、前方の集団へ急速接近中だった。
(逃げ切れるか? いや、ダメだ! 白バイの隊員達はプロだ……。彼らのテクニックと精神力には敵(かな)わない。V-MAXに乗って一ヶ月余りの僕には、尚更(なおさら)、今の国道が空(す)いている状態でも到底無理だ。混み合ってる状況なら周囲の自動車は紛(まぎ)れるどころか、自分の障害物になって無関係な人達を巻き込む大事故を招(まね)いてしまうだろう。……それよりも、彼女を犯罪行為や、更なる危険に巻き込めない)
 プロの強靭(きょうじん)なハイテクニックで操(あやつ)られる、白一色で塗(ぬ)られた重装備のフルフェアリングのロードレーサーに、ビギナーの僕が宥(なだ)めながら操るV-MAXは、全く勝ち目が無かった。
 既に、白バイは真横にいてスピーカーで叫(さけ)び、搭乗する隊員は手振りで、減速して路肩に寄り停止せよと指示を僕にしている。
 この位置に来られて、やっと僕にサイレンがはっきりと聞こえ、ラウドスピーカーからの声の意味が良く理解できた。
『速(すみ)やかに路肩(ろかた)に寄り、止まりなさい』と、事務的に煩(うるさ)いくらいに繰り返し言っていた。
 速度超過違反、安全運転義務違反などで減点、罰金、運転免許停止は確実だろう。
 僕は覚悟(かくご)を決め、アクセルを戻して減速させると、緩やかに路肩に停車した。
 時速二十九キロメートルのスピードオーバー。
 少ない初任給の手取り額から、由々(ゆゆ)しき金額に羽(はね)が生(は)えて無情に飛び去って行く気分だ。
 そんなブルーな事態でも、初犯という事で、危険運転の罰則(ばっそく)を勘弁(かんべん)して貰えて、免許停止にならなかったのは有り難(がた)かった。
 ジロジロと、反則の記入から書類を仕舞(しま)い終(お)えるまでを見ていた彼女と、初めて遊んだパチスロで一時間も経(た)たずに数万円が消えた時みたいな気分の悪さで項垂(うなだ)れる僕へ、軽く御辞儀(おじぎ)をした交通機動隊の隊員は白バイに跨ると、新たな獲物(えもの)を求めて猟犬(りょうけん)のように走り去って行く。
 隊員の白いヘルメットが視界から見えなくなり、V-MAXに靠(もた)れてアンラッキーの自責(じせき)の動揺(どうよう)と、罰則の忌々(いまいま)しさに高ぶる気持ちを落ち着かせていると、スマートフォンで現在位置を確かめている彼女が横に来ていっしょに靠れた。
「ちょっと高くついちゃったね。なのでぇ、もう急(いそ)がなくていいからね! 飛ばすと怖(こわ)いし、危(あぶ)ないし、寒いし」
 僕を宥(なだ)めるようにも、励(はげ)ますようにも、詰(なじ)るようにも、聞こえて、正(まさ)に、彼女の言う通りだと思う。また、僕は独(ひと)り善(よ)がりをしていた。
(高額の罰金を払うほど、彼女を危険に晒(さら)してまで、いったい僕は何をしているんだ。此処からはゆっくりと、彼女を思い遣(や)りながら走ろう)
 ジレラ・ランナーを乗り熟(こな)す彼女だから、見下されるないように過激なライディングで逞(たくま)しさをアピールしようと、ビギナーのテクの無さをカバーしたパワー頼りのデンジャラスなハンドリングは、彼女よりも、僕を完全にハイにさせていた。
(反省だ……! もしも、不測の事態が発生しても、彼女だけは、僕の命に代えても、無傷で護らなければならない……)
 映画で観た、『あの胸にもういちど』の事故シーンや、『黒い警察』でのバイクから落とされるシーンみたいな目には、決して合わせられない。
 気を取り直して、僕は彼女にしっかりと手を回させて走り出す。
 今度は先を急がず、車の流れに合わせて走る。
 再び、僕の背で暖(だん)を取る彼女の温(ぬく)もりと芳しい匂いを感じるのが嬉しくて、心が弾んだ。
(そりゃあ……、そんな重ね着くらいじゃ、やっぱり、寒いんだろうな……)
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 前方の信号が黄色に変わり、軽く制動を掛けつつ路肩沿いを進み、減速で後方から追い着くように香る彼女の芳しい匂いを鼻息荒く胸一杯に吸い込みながら、僕は気分良く、変わる信号で減速して停止するはずの車列の先頭へ出ようとしていた。しかし、前方を走る数台の自動車は減速せずに黄信号の交差点を超えて行き、その速度だと、そのまま繋がって行くものだと思われた二台前の自動車は黄色から赤信号に変わるや否(いな)や、急制動で停止してしまった。
 其の真後ろを走り、停止ラインで停車するつもりだったと思しき、僕の直前を行く自動車が、其の煽(あお)りで反射的に急ブレーキを掛け、咄嗟(とっさ)に衝突(しょうとつ)を避(さ)けようとしたハンドル操作で、左前部を路肩へ寄せた斜めの向きに停止した。
 突然、直前の路肩にV-MAXが通れる幅の空間が無くなってしまった。
 このまま進めば、前輪とハンドルの右端が、停車した自動車の側面に接触してしまう。
 行き場の無さで慌てた僕は、追突を回避しようと急制動を掛けてV-MAXを前輪が車の後部と並んだ位置で停止させた。でも、自動車との衝突を避けた所為(せい)で制動慣性に斜め外方向の慣性が加わって、直感的に僕は転倒を意識した。
 こういう場合は、普通ならば、両の足裏をしっかりと路面に着けて、転げないように踏(ふ)ん張(ば)れば良いし、其の為にV-MAXのシートを低くして、停車姿勢を安定させている。だけど今は、想定外で違っていた。
 失速したV-MAXは、僕と彼女を乗せたまま、路肩側へゆっくりと傾(かたむ)く。路肩側の足裏は、選(よ)りに選って、路肩の盛り上がったアスファルトの峰に乗ったタイヤで、車高が高くなったのと蓋(ふた)の無い側溝の空間に、足先を着けて支(ささ)える足掛かりを見付けられない。爪先(つまさき)が虚(むな)しく何も無い宙を探(さぐ)る。
 V-MAXは、平衡(へいこう)修正の限界点を超えて、狭(せま)い側溝を隔(へだ)てた道路面よりも少し低い民家の庭先へ向かって、確実に倒(たお)れて行く。
「降(お)りろっ! 早く!」
 彼女へ振り向き、僕は、大声で言った。
「倒(たお)れる! 早く下りてくれ! 逃(に)げろ!」
 体重移動のバランスで転倒を遅らせているものの、もう限界だった。
 折角(せっかく)シートを薄くして、足裏がベタ着きできるようにしたのに、その、効果が発揮(はっき)出来(でき)ない場所で、何度も、何度も、両の爪先は、虚しく地面を探す。
 現実的に、倒れて行く左側には、傾きを停めて復原させる為の足の支えを着く、実際的な面や物が全(まった)く無くて、ここで転倒するのが運命的な必然だと、僕は受け入れるしかなかった。
 ……それでも……。
「ええ? うん!」
 瞬間の沈黙のあと、すぐさま状況を察して、彼女はタンデムシートから急いで降りた。
 その反動で傾きが加速されて、一気に転倒して行く。
 彼女が、無事に降りたのを確認しつつ、スローモーションで視界が傾いていった。
(だっ、ダメだ。倒れるのは必至(ひっし)だ)
「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」
 彼女の叫びが聞こえる。
 僕を身を案じる、嬉(うれ)しい叫びだ。
 V-MAXの進路を塞(ふさ)いだ自動車のドライバーに彼女の叫びが聞こえたのか、ドアミラー映(うつ)るドライバーが僕を見て眼が合った。
 今、この瞬間、一台分のスペースでいいから自動車を前へ移動させてくれれば、アクセルを開けてV-MAXを道路側へ進めて転倒を防げるのにと思うけれど、其の前にも信号待ちで停車する自動車がいて動けない。そして、直ぐに青信号になっても、間に合わないと悟ってしまう。
 足裏が着く路面までV-MAXを動かせれば、上手く自然体の停車ができなくても、半倒れ程度で済むだろうという望みは、もう叶(かな)わない。
 路面より低い場所へ倒れる衝撃とV-MAXへの被害を最少に抑えようと思うけれど、どう転倒すれば良いのかわからない。でも、僕が下敷きになれば、V-MAXの被害は少なくてすむかも知れない。
 覚悟を決めてエンジンを切る。
 これで、ガソリンの供給はストップされてオーバーフローにならず、溢(あふ)れ漏(も)れたガソリンが熱いエンジンや静電気で炎上爆発する事はない。
「ああああっ、だめぇー!」
 聞こえ続ける彼女の叫びが、僕の、この絶望的な状況に為す術の無い事を改(あらた)めて悟らせた。
 左足先が側溝の縁(ふち)を探り当てるけれど、それは、虚しい努力だった。
 上半身が花の無い花壇に落ち、其の上にV-MAXが被さってくる。
 背や肩の軽い打ち身の痛さに、胸から足へ重量の有る衝撃が降って来た。
 ドサッ!
「キャーッ」
 V-MAXが倒れた衝撃音を、彼女の悲鳴が覆う。
(くっ!)
 僕は仰向(あおむ)けに倒れ、其の上にV-MAXが被さって、僕を押さえ付けている。
 胸や腹は重みだけで、それほど圧迫は無かったけれど、左の膝下(しっか)だけが酷く痛い。
 それは、道路の路肩と一段低い庭先の間に有る側溝の空間に、脛(すね)から足首にかけて出ている所為で、其の脛骨(けいこつ)をV-MAXの重みが撓(たわ)ませていた。
(いててて……、やばい! このままじゃ、足が圧(へ)し折れる!)
 エンジンやマフラーの火傷(やけど)しそうな熱さよりも、骨が曲がる独特の我慢できない痛みが、動けない僕を襲(おそ)う。
「うっ、ううっ……」
(いっ、痛い! 痛い! 痛い!)
 あまりの痛さに身を捩(よじ)ると、更に、脛へ重みが加わり、はっきりと骨の撓るのが分かった。
 このまま脛骨が撓み、加重の限界を超(こ)えると、骨が飛び出すような複雑骨折になってしまう。
 僕は、自分の足のそんな状態を見たくないし、其の痛みは、知りたくもない!
 骨が曲がるだけでも、元通りに治癒(ちゆ)するまで大変な思いをするだろう。
(そんなのは、嫌(いや)だ! 想像したくもない!)
 僕は焦り、肘(ひじ)から先が自由になる両手でV-MAXを押し除(の)けて、加わる重さから解放されようと試(こころ)みるけれど、胸まで押さえ付けられた仰向けの状態に力が入らない。
 今以上に圧迫されないようにと、少しでも向きを横へズラして、僅かでも重さを逸らそうとしてみても、ズリ落ちるように圧(お)し掛かる重量三百㎏オーバーのV-MAXから抜け出すには全く非力だった。
 ……愛車は、微動(びどう)だにしない。
「だっ、大丈夫(だいじょうぶ)?」
 掛けられた彼女の声に余裕の反応を見せようとするけれど、頭と両手以外の体が動かせない。
(こりゃあ、マズイぞ。脱出できないし、息苦しいし、凄く痛いし、全然、だっ、大丈夫じゃない!)
「うう、まだ……、まだぁ、生きてるぞー」
 言ってから直ぐに、心配する彼女を少しでも安心させようと、おっさん臭いジョークで答えたのを後悔した。
 真剣に僕を心配して今から助け出してくれそうな彼女へ、生き死にのジョークで返事をするなんて、失礼の極(きわ)みだった。
「ちゃんと、意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」
 潰されそうな痛みに目を瞑(つむ)ると、ザザッーと間近で地面を擦(こす)る音がして、埃(ほこり)っぽい乾(かわ)いた土の臭いがフルフェイスヘルメットの中に舞い込み、彼女の声と匂いがする。
 目を開けると、ほんの僅かの間だけ目を閉じていたのに、路肩に立ってV-MAXの下敷きになった僕を見下ろしていたはずの彼女が、傍(かたわ)らで膝(ひざ)を着いて僕を覗き込みながらV-MAXのハンドルに手を掛けていた。
(V-MAXを、起こすつもりなのか? 起こせるのか?)
 ジレラ・ランナーを扱(あつか)い慣(な)れている彼女なら、起こせなくても、ずらしてくれて、抜け出せるかも知れないと思う。
「何処か、痛(いた)いところ、有る? バス事故の時みたいな……、けっ、怪我(けが)してないよね?」
 いつもの微笑むような顔が怒っているみたいに真剣で、優しげな瞳が険しい眼差(まなざ)しになって僕を睨んでいた。
「あっ、左の足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」
 側溝の縁から出ている左膝骨は折れそうなくらい、ビリビリと激しく痛む以外に痛む部位は無く、胸と腹に掛かるV-MAXの重みで息苦しい。
 きっと脛骨は、時代劇ドラマで見た罪人の太腿へ石板を積むような拷問(ごうもん)状態だ。まだ重みに軋んで曲がりそうなだけだけど、このままだと曲げる力に耐えられずに靭性(じんせい)の限界が来て、急激に曲がりながら脛の骨は折れてしまうかも知れない。
 『ボキッ!』っと、折れた頚骨は薄い肉と皮を破って飛び出して来て、其の叫び狂わす激痛は、ガンガンと強く全身を痙攣(けいれん)させるだろう。
 そうなると、病院で手術した後、ゆうに半年間は治療の入院になる。だけど、問題は頚骨の折れる結果ではなくて、折れるに至るまでの、想像もできない痛みを伴う骨の曲がりだ。
 ゆっくりと加速して曲がる頚骨の折れるまで続く激痛に僕は、とても、耐えられそうにない。
(くっ、くっそぉー! 想像するだけで堪んねぇ。早く、V-MAXをズラして脱出しないと、ヤバイ!)
 僕は、大いに焦(あせ)り、気持ちは凄く慌(あわ)てていた!
 自由になる両の手がハンドルバーを握り、力を込めて少しでもズラそうと試みた。
 慌てて駆け寄って来てくれた彼女と力を合わせて、最初はV-MAXを起して退かそうとするけれど、非力な彼女の腕力では全く動かず、起す方向の努力は無駄(むだ)に終わった。
 次は動かす方向を変えて、彼女が背を反(そ)らして体重を掛け、持ち上げようとしたタイミングで、僕も肩と腕の渾身(こんしん)の力で、今度はV-MAXを横へズラしてどかそうとする。
(ん!)
 ほんの僅かだけど、動きそうな気配が有った。
 もう少し、このまま横へズレてくれれば、下腹部辺りまで抜け出せるかも知れない。
 そう思った瞬間、撓みにズキズキと痛む脛へ、更なる激痛が走った。
(うっぎゃあー! あた、あたた! 足、痛ってえー!)
 激しく瞼(まぶた)を瞬(またた)き、大きく開けた口で悲鳴を上げるのを、やっとの事で堪(た)えた。
 これ以上、彼女に動揺を与えたくなかったが、それよりも、僕達だけでは、この危機的状態を打開できない事が分った今、早急に、誰かの助けを求めなければならなかった。
 激痛は、当然の結果だった。
 胸に被(かぶ)さる前輪側を持ち上げたら、僕の胴体を支点にして後輪側に重さが移る。
 其の分だけ脛骨を圧し折る力が増すのを、彼女が助けに来てくれた喜びで忘れていた。
 痛みの涙で視界が滲(にじ)み、顔を寄せて話す彼女がよく見えない。
「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」
 地ベタにへたり込んで、どうしようかと心配そうに見つめる彼女の顔に、僕と同じ考えが現れていた。
「すっ、すまないが、車を止めて、助けを呼(よ)んで来ていただけませんか」
 足が折れそうな激痛で、彼女への頼みを変な丁寧(ていねい)さで言ってしまった。
 さっきから、骨が折れるカウントダウンは始まってる。
「僕は、まっ、まだ、大丈夫だから……。あう、ううっ」
 全然、大丈夫じゃないけれど、一応は強がっておく。
 重しで骨を折る拷問は、『こんな感じに無慈悲なんだろうなぁ』と、自力で窮地(きゅうち)を逃れられない状態の悲しさに激しい痛みも加わって、もう、視界の彼女は暈(ぼ)やけて全然見えていない。
(マジ、すっげー痛くて、たまんねえぇぇぇぇぇ!)
「うん! わかった」
 直ぐに、彼女は道路に出て、両手を振って車を止めようとしてくれる。
 僕も、両手を振り上げて窮地を知らせた。
 もう、痛過ぎて叫びたい。
 あんなに恐れていた立ち転げをしてしまった。
 折角(せっかく)、彼女が着替えて来てくれたのだから、ムードもモチベーションも好転していくはずだった。だのに……、スピード違反で白バイに捕まるわ、立ち倒けして彼女を危険な目に遭(あ)わせて、しかも、僕は転倒したV-MAXの下敷きになって、自業自得に苛(さいな)まれている。
 まだ、半分ぐらいしか来ていない中途半端さは、格好悪過ぎて前途多難(ぜんとたなん)の不吉さを感じてしまう。
(このままじゃ、本当に彼女との関係を失(うしな)ってしまう……。あっ、痛っ! いっ、痛い! 痛い! くっ、くっそー)
「たっ、たすけてくださーい!」
 泣き叫びたい悲鳴を飲み込んで、助けを御願いする。
 この、ゆっくりと骨が曲がり、折れて行きそうな激痛を、彼女に知られるわけにはいかない。
(でも……。足が……、足が挟まれて、もっ、もう限界です。くううう)
 堪えられない痛みに、僅かでも、ジタバタすると脛骨への加重が増し、目を閉じて固く食い縛(しば)る奥歯の根が合わなくて、じっとりとベタ付く汗が、更に噴き出して来た。
 寒気と震えが全身を襲い、刻一刻と強くなる痛みに目を見開き、空一面を覆う、雨の湿気を含んだ色をした雲を見る。
 僕は、もう我慢できない!
(この上に、雨に降られたりしたら、堪(たま)ったもんじゃないな。雨だけは、降らないでいてくれー!)
 バッとヘルメットの中に砂埃が舞い、見開いた目に別の痛みが入って来た。
 傍(そば)に来た人の動きで起こした風が、地面の細かい土を巻き上げて、フルフェイスヘルメットの首周りとバイザーの隙間から吹き込ませた。
「ゲヘッ、ゴホッ」
 首から上をヘルメットのライナーのウレタンフォームに囲まれ、視界を確保する開口部を透明なバイザーで閉じた極端に狭い空間に入り込む埃は、顔の向きを変えて逃れる事が出来ないままに吸(す)い込んで仕舞い、埃を拒絶する鼻腔と気管支が僕を激しく咳(せ)き込ませて、痛みで滲んでいる視界を更に息苦しさの涙が歪ませてしまう。
「ズッ、ズズーッ」
 出て来た鼻水と涎(よだれ)は懸命に啜(すす)っても、唇の端から顎へと流れて行く。
 仰向けの姿勢だから、顔を傾けると喉へも流れ伝って、気持ちが悪い。
「あっ、ごめん。ごめん。目は大丈夫か? 動けなくて大変だったろう。直ぐに助けてやるからな」
 ドカドカと四、五人の男の人達が、慌ただしく僕の周りを取り囲んで、僕の挟まれ具合を見始めた。
「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱(しんぼう)してね。直ぐに助け出して貰えるから」
 いきなり、ヘルメットのバイザーが上げられて、僕を覗き込む彼女が言った。
 とても近い距離で、僕の顔の隅々まで視線を廻らせる。
 凄く嬉しくて彼女を抱き締めたいけれど、其処まで両手は動かせない。
 それよりも、泣きそうな自分の汚(きたな)なくて惨めな顔を見られたくない。
 左足の痛みは我慢の限界だし、充分に膨(ふく)らまない肺は窒息寸前の辛(つら)さだ。
 もっと酸素(さんそ)を……、身体全体の血行も悪い気がする。
 頭痛は鬱血(うっけつ)からで、吐(は)き気は激痛の所為だと思う。
 『せーの』の掛け声で、倒れたV-MAXは一気に起こして路肩に戻された。
 すうっと脛骨の激痛と胸の圧迫が消えて、嬉しさと安堵(あんど)と目に入った埃で、僕の目尻から涙が流れた。
(ゴホッ、良かったぁ~。助かったぁ~。ぐすっ)
 重石(おもし)を除けられた身体が軽い!
 圧迫で狭められた気道と縮められていた肺が開放されて、勢い良く吸い込む空気と巻き込んだ埃の刺激に、再び咽(むせ)ると、更に鼻水が大量に噴き出て来た。
「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」
 サイドスタンドを出してV-MAXを固定しながら、バイク歴の有りそうな初老の男性が言う。
「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」
(だっ、大丈夫じゃないです)
 圧迫から開放された足から痛みが退(ひ)いていたのは、僅かの間だけだった。
 圧迫が無くなった足に血行が戻って行き、毛細血管の端々(はしばし)まで巡(めぐ)る血液に痛覚が呼び起こされると、束(つか)の間(ま)の安堵が痺れの苦痛に苛(さいな)まれ、それに、曲げ折ろうとする力で伸ばされていた脛骨の縮(ちぢ)む痛みが加わった。
 ジンジンして痺れる足は、立とうとする少しの動きで、ビリビリと痛み、元に戻ろうとする骨からはズゥンズゥンと、深く鈍い痛みが響いて来る。
 とても、自分一人で、直ぐには立てそうにない。
 それでも、ダメージを彼女に気付かれたくない僕は、倒れたままで頷(うなず)く。
「どこか怪我していないか? 痛いところは?」
 辛(つら)い痛みを知られて、『帰ろう』と、彼女に言われるのを恐(おそ)れる僕は、首を横に振る。
 ずうっと願っていて、やっと叶った初デートを、これくらいの痛みで中断したくない。
「ほら、起こすぞ。立てるか?」
 仰向けに倒れている僕の両脇に腕が回されて、抱えるように引き起こされる。
 支えられながら立つと、回復する血流は下半身へ降りて行って、隅々まで充填されて太くなる毛細血管に、カアーッと熱く感じるくらい温められる左足の膝下は、更に痺れと痛みが増して、思わず、しゃがみ込みそうになった。
「うっ!」
 ほんの五分ほどの時間だったのに、V-MAの重みで押さえ付けられていた全ての処が同時に痛み出して、思わず僕は呻(うめ)いてしまった。
「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら、救急車を呼ぶぞ」
 圧された胸と腹の筋肉が、ブルブルと痙攣している。
 ビリビリ痺れてズキン、ズキンと骨の痛みが脈動する左足は、そおっと、地につけて立っているだけで精一杯だ。
「いえ、大丈夫です。潰(つぶ)されそうになっていたから、……立ち眩(くら)みが来ただけです」
 痛みの呻きを、僕は立ち眩みでフラついたように誤魔化(ごまか)した。
「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染(し)みたりしていないし、破(やぶ)れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」
 引き起こされるのを見ていた年輩の男性が、ぐるりと僕を一周して、深刻(しんこく)なダメージがないかチェックしてくれた。
 そんな男性の動きに合わせて、顔を向ける僕の様子を、彼女は路上から心配そうに見ていた。
「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」
 頭や首は強く打ち付けていなかったし、背骨や腰も、フラットな土の上だったから、損傷(そんしょう)はしていないと思う。
「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」
 顔を廻(めぐ)らし、頭を左右に振り、腕を挙(あ)げ、拳(こぶし)を握ってから開いて問題が無い事をアピールする。そして、痺れが軽くて痛みの無い右足も、少しだけズラして見せる。
「そうか、頭は、大丈夫そうだな」
 フルフェイスヘルメットを脱ぐのを手伝ってくれた男性が、外したヘルメットと僕の頭や顔を見て、頭部と頸部(けいぶ)に外傷は無く、たぶん、脳もダメージが無いだろうと安心させてくれた。
「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」
 確かに、後頭部と首に痛みや違和感を感じていなくて、仰向けでの頭から落下する衝撃を無意識に受身で逸らしていたのかも知れない。
 背中と腰にも、痛みや痺れの違和感は無く、落ちて来たV-MAXの重量を受けて圧迫された腹部と胸部は、重さから解放されてからは幾つかの部分的な打撲を感じるだけだった。でも、血液の循環が戻りつつある左下肢だけは、少しも薄れない痺れと痛みで小さく痙攣している。
 そんな僕の左足と顔を、彼女は観察するように交互に見ていた。
「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」
 まだ若い感じの奥さんが、僕の左足を指差しながら言う。
 起き上がった時も、右足を動かした時も、そして、どうにか立っている今も、左足を庇(かば)っているのに気付かれている。
 眉毛の外端を上げて、眉間に立て皺を寄せた目で、じっと僕を見ている。
「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」
 左足の爪先を持ち上げてから、膝ごと上げて見せた。
(痛くない、痛くない)
 誤魔化しで動かした左足の痛みは深くて鋭い。
 痛みが走る度にぎこちなくなる動きに、ちょっと笑ってみせたけれど、きっと、歪んで真顔っぽいと思う。
「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、医者に診(み)てもらいます」
 一時的な痛みだと、痺れてなんかいない。
 軋(きし)んだ脛骨が元に戻るジンジンとした鈍い痛みに、僕は落ち着かない。
(うーっ、どうして、こんな目に……)
 恨(うら)み節を愚痴り掛けて……、僕の動揺と焦りが、こんな目に遭せたと思い直す。
(落ち着け! 致命的な問題は起きていない! 落ち着いて考え、慎重に行動すれば、後は上手く行く。デートは始まったばかりだろう)
「本当に怪我しなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」
 女性は、僕の痛がらない態度と服の破れや出血の無い外見から、緊急性の無い事を納得してくれて、本来の自分の予定へ戻ると告げた。
 不安気な顰(しか)めっ面(つら)から、いつもの表情になった彼女は、黙って笑わない目でジーっと僕の様子を観察している。
 痛くて庇っているのは事実だから、誤魔化しても、勘(かん)の良い彼女の疑(うたぐ)りは晴れないだろう。
「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」
(勿論(もちろん)、そうです。彼女の安全が一番で、最優先です)
 女性から声を掛けられた連れの男性も、僕達に別(わか)れを言う。
 今、膝がガクガクと折れて倒れ、耐えられない痛みに悲鳴を上げながら蹲(うずくま)ったりでもしたら、きっと、この人達は救急車を呼び、病院で診察と治療が済むまで、付き添(そ)ってくれるだろう。そして、デートを中断された彼女を相模原まで送ってくれるだろう。
 そうされた方が良いのかも知れないけど、僕は痛みに耐え続けていた。
「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺(うかが)います」
 彼女が、感謝を告げている。
(そうだ、この方々は、僕を救ってくれた恩人だ!)
「名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困(こま)って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」
 確かに女性が言う通り、誰かに助けを求められたら、自分が出来る事はしてあげたいと思う。
 でもそれは、当たり前の事なのか?
 普通に出来る事なのか?
 彼女の危機には、バス事故での僕の行動が証明している。
 当然、家族にも同様の事をすると思うし、彼女ほど意識していないけれど、友達へも体と脳は鋭く働くだろう。でも、見ず知らずの赤の他人には、助けを求められたらは有りだけど、助けが必要だからは、計算と迷いが入るかもだ。
「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」
 判断の甘さと雑(ざつ)な行動で陥った窮地から、救出された開放感とボランティア意識の考察に浸(ひた)る僕は、謙遜(けんそん)する男性の言葉と彼女が告げる御礼の言葉を、BGMのように聞いていた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
 『ドカッ!』、行き成り、彼女に背中を殴(なぐ)られた。
 視界の隅(すみ)に脇(わき)へ近寄って来た彼女が、僕の脇腹の後ろ側へ、手首を引いたグー握りを瞬時に半回転させて突き出し、そして、戻すのが見えた。
(あたっ! あたたたぁ。正拳(せいけん)突きされた……、ううー)
 何時、何処で、ヒネリを加えたパンチを覚(おぼ)えたのか知らないが、直ぐに、殴られた意味は理解した。
「あっ、ありがとうございました」
 慌てて御礼を言って、頭を下げる。だけど、返された僕達を心配する親切な言葉は、思いの外(ほか)、彼女の突きが痛くて、殆ど聞き取れないまま、僕は去り行く恩人達を見送っていた。
「とても、親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」
(其の通りだ!)
 彼らが僕を助け出してくれなかったら、今頃はV-MAXの下敷きになったままで、脛骨が折れて泣きながら救急車が来るのを待っていただろう。
「ああ、本当に、助かったよ。超感謝だね」
 三台もの自動車が停まってくれて、僕は助けて出された。
 自動車に乗っていたのは、それぞれ互いに無関係な人達で、僕の為に協力してくれていた。
 的確な救助手順のの意見交換や救出後の労(ねぎら)いと賞賛(しょうさん)の言葉を交わすだけの、シンプルで気持ちの良い人達だった。
「ねぇ、本当に、大丈夫なの?」
 僕が左脛の痛みを我慢しているのを、彼女は気付いている。
 深い痛みは脛骨から、痺れの痛みは体重移動で負担が掛かる左足の裏と踵(かかと)からで、ジンジン、ビリビリさせていた。
「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」
 彼女と二人だけになって、気が緩んでしまった。
 折れそうになるくらい曲げられていた脛骨が、元に戻ろうとしている痛さで、これは冷湿布(れいしっぷ)を貼(は)って治療すべきだと判断している最中に、膝がガクガクと震えて、そのまましゃがむようにペタンと尻餅を付いて座(すわ)ってしまった。
「そう、全然痛く無いのなら、いいんだけどね。でも、もう暫く、あと、三十分くらいは、休んで行きましょう」
 油断(ゆだん)して見られたヘタリ込みの醜態(しゅうたい)で、今日を中断する冷めた言葉を告げると思っていた。
 僕の異常を察している筈の彼女が、肯定してくれた。
 全く何とも無いなんて、嘘だった。
 痛く無いどころか、座っていても、ジンジンする痺れと深く重い痛みがズキン、ズキンと、響いて来る。
 僕だけなら、近くの公園へ移動して、其処のベンチで三、四時間は横になり、ある程度、痛みと痺れが薄れるまで安静にしていたいと思う。
 左足は、それくらい痛む状態だった。
「……うん」
 彼女は、ヘタリ込んだままで返事をする僕の横にしゃがむと、腕や肩や背中を叩(はた)いて、転がって付いた泥や埃を落としてくれた。
 更に、持っていたアルコールテッシュで、V-MAのエンジンやミッションカバーの辺りから附着したオイルの汚れを拭(ふ)き取り、そして、僕の顔も拭いてくれる。
(……彼女は、優しい……)
「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」
 肩に触れる彼女の優しい言葉が、『私の安全が最優先でしょう』と、耳の中で反復(はんぷく)して響く。だけど、意地になる僕は押し通す。
「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから、続きを走るから」
 僕の言葉を聞いた彼女は、唇を噛んで歪ませる口で顔を曇らせ、険しい眼付きで僕を睨み付けた。
 これは、『心配してくれているんだろうなぁ』と、嬉しさが混じる申し訳無い思いで、僕は目を逸らせてしまう。
 そのまま、十五分くらいへたり込んでから、左足の様子を見てやんわりと立ち上がってV-MAXのハンドルに手を掛けると、上手くバランスを取れば、押して移動できそうな感じがしたので、腰で支えながら、ゆっくりと交差点を曲がり、どうにか横断歩道を過ぎた場所まで動かした。
 移動する途中で左の膝がガクガク笑う事も、足首が、『カックン』と、力が抜けて折れる事も無く、痛みに持ち堪(こた)えてくれた。
 直ぐにでも、大桟橋へ向かう続きが出来そうだったけれど、大事を取り、歩道の定石に僕は左足を投げ出して、三十分ほど座っている事にした。
 不機嫌そうでも、V-MAXのテールを押して移動を手伝ってくれた彼女は、自動販売機で温かい缶コーヒーを二つ買うと、黙って僕に差し出した。
 『飲んで、気持ちを落ち着けて』と、アイコンタクトする彼女に、『わかった、ありがとう』の頷きで返し、二人は、気持ちの動揺が治まらない冷えた身体を缶コーヒーで温めながら、ゆっくりと落ち着かせて行った。
 左足のズキズキする痛みが少し薄らいで来た僕は、走行に支障が無さそうなV-MAXのエンジンを始動させると、問題無く高回転域まで回ってくれた。
 エンジンが滑らかに噴け上がって吼えると、彼女は嫌な素振(そぶ)りも見せずに、黙ってV-MAXのタンデムシートに跨り、両腕を僕の腹部に回した。
 速度違反と転倒で、大きく時間をロスしてしまった。だけど、遅れを取り戻そうと焦って無謀になっては駄目だ。
 それは、更なるアクシデントを招いてしまい、今度こそ彼女に愛想(あいそ)を尽(つ)かされると、締め付ける両腕の力の強さに思う。
     *
(これは……、間違いない)
「……海の匂いがする。このまま行けば、横浜の港だ」
 進む方向の大気に、海が香ってくる。
 被ったフルフェイスヘルメットの首周りから吹き込む風を、くんくんと何度も嗅ぎ分けて確かめると、僕はバイザーを上げて大声で彼女に知らせた。
「うん。私も……」
 風に掻(か)き消されずに聞こえた彼女の応える声は、直ぐに途切れてしまったけれど、能登半島の内浦の海辺で育った彼女が、潮(うしお)の匂いに気付いていない筈がなかった。
「あはは、犬みたいね」
 獣(けもの)呼ばわりされたのに、なぜか、僕は嬉しい。
 --------------------
 あと少しだろうと思うところで、ルート16は曲がり込んでいた。
 道なりに車の流れに添って坂を下り、横浜市内の大通りような場所に出て走っていたけれど、辺りに草木の斜面が増えてきて、港湾に近付いていない気がしていた。
 スピードを落として路肩へ寄せ、道路案内板の近くの歩道脇へ左足の痛み具合を確認しながら、V-MAを停車させた。
 向こうの青地の道路案内板に『高島町』、こっちは『戸塚(とつか)』と白文字で書かれている。
(たぶん、さっきの『浜松町(はままつちょう)』って表示された交差点を、逆方向に来ていたな……)
 辺りの地名や地形が、さっぱり分からなくて、僕はしっかりと道に迷ってしまった。
 急いでV-MAXのナビゲーションシステムをオンにする。だけど、現れた拡大画像を見ても全然分からなくて、広域画像にしようと、何度も画面のアイコンにタッチしているけれど、画面は切り替わってくれない。
 GPSナビゲーションシステムは、さっきの転倒で壊(こわ)れてしまっている。
(くっそ~。かなり近くまで来ているはずなのに! これは、かなりマズイなあ)
 道に迷った事への彼女の反応が、超怖い!
 今日のマイナス続きの印象(いんしょう)に、また、マイナスを重ねてしまった。
「ごめん、道に迷った」
 彼女の方へ、少し顔を回して言う。
 これから反対方向へ向きを変えて走るのだから、彼女に怪しまれる前に正直に言う方が得策で、迷った事への減点は最小限になるだろうと、小賢(こざか)しく考えてしまう。
「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」
 僕の腰に回されていた彼女の手が解(と)かれると、今度は僕の肩を掴(つか)んで支えにする彼女がシートから腰を浮かして、僕の肩越しにGPSの画面を除こうとしているのを感じた。
「やだ、ここまで来て迷ったの? もう近くまで来ているのでしょう?」
 耳元で、覚悟していた彼女の非難の問い掛けが聞こえ、更なる謝罪と言い訳をしようと、思わず顔を彼女へ向けた。
 『ガチン!』
 横向き気味の顔を、声の方へ衝動的に向けようとした途端、、互いの上げていたヘルメットのバイザーがぶつかって、僕は驚いて仰(の)け反(ぞ)ってしまう。
 反射的に避ける僕の無作為(むさくい)な体勢の動きで停車させているV-MAXがふらつき、慌てて両足を踏ん張って姿勢を安定させた。
 ズキン!
 再び、倒れまいと接地した足を力ませた所為で、立ち転けで折れそうなほど傷めた左足の脛骨が鋭く痛み、其の深く痺れるような痛みは脳芯を突き抜けて来た。
 ひたすら患部に神経を集中させて、痛みが退くまで息を殺し、静かに堪える。そして、我慢する痛みを彼女に悟られまいと、目を瞑(つむ)り無言になった。
 減点続きの動揺で、萎縮するメンタルと予想以上の鋭い痛みに、僕はもう、全身が緊張して目眩(めまい)がして寝込みそうだ!
「ちょっと~、気を付けなさいよー」
 僕の肩を掴む彼女の手にギュッと力が入り、さっきの二の舞は御免(ごめん)だとばかりに声にも力を入れて、彼女は、ゆっくりと退いて行く痛みに堪えている僕を窘(たしな)める。
(この、痛みの辛い時に、『やだ』に『ちょっと』かぁ、めげるなぁー)
 メールのきつい文章には、慣れて免疫(めんえき)が付いていたけれど、去年からの彼女の行動と、直かに聞く彼女の言葉には、まだ、抗体ができていない。
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 『関内(かんない)』、『馬車道(ばしゃみち)』、『みなとみらい』、『ランドマークタワー』、『桜木町(さくらぎちょう)』、道路の案内板には、初めて見る地名や場所の名称ばかりで、どれを見て進めば良いのか迷ってしまう。
 吹き付けて来る大気には、はっきりと潮の香りがして、間近に海辺が在ると知らせている。だけど、自動車道の高架が被る通りは、建物だらけで海など何処にも見えていない。
 何の予備知識も無く、当てずっぽうに来てしまった僕は、このまま、大桟橋を見付けられずに彼女をタンデムさせて、遠回りするようにグルグルと迷いながら戻る事になるのだろうかと、藁(わら)か、蜘蛛(くも)の糸にでも、何かに縋(すが)りたい思いで忙(いそが)しく視線を案内板や表示板へ動かせながら、気持ちは途方に暮れて沈んで行く。
(最悪なら、最寄りの駅を探して、其処から彼女に電車で帰って貰うしかないな……)
『彼女の僕への評価は、最悪になってしまうな』と、『桜木町駅』の見ていた時、ハッと思い出した。
(ああ、そうだった! 確(たし)か、デートスポットを探した時のGPS画面に、桜木町駅と山下公園の間に大桟橋は突き出していたっけ)
 思い出した大桟橋の位置に、探す表示と向かう方向が決まった。
 GPSは相変わらずのマクロの画面のままで、現在位置のロケーションがさっぱり分からなかった。
 通りを歩く誰かに尋(たず)ねれば早いのだれど、彼女にセンスが無くて格好悪いと思われそうで考えてしまう。
 仕方なく何度か、横浜港の海面が見える場所に出て、やっと、大桟橋らしき構造物を見付けた。
 それだと思う大桟橋の見た目は、思い込んでいた港の桟橋のイメージとは全然違っていて、静岡市の清水区や北陸地方の港には似たようなのすら無く、『やはり、首都圏のメジャーなスポットは、センスが違うな』と、感心しつつも大桟橋だと確信できていない。でも、位置的に該当(がいとう)する其処には、それらしき大きなモノが、それしかなかった。
 半信半疑で通りを曲がり続けて、やっと探し当てた大桟橋の入り口で、ホッとした僕を警戒(けいかい)させる、彼女の不機嫌な声が背中から聞こえた。
「ここ、知らないわ」
 どうやら、『彼女の行ってみたいスポット』のリストに入っていないようだ。
 横浜に初めて来た僕は、当然、此処も初めてで、インターネットでの下調べもしていないから大桟橋に何が有って、どんな所なのか全く知らない。
 V-MAXを停めた脇の小さな駐車場から見る大桟橋は、板に覆われた丘のように見えて、野外のアスレチックコースか、大きな迷路(めいろ)を前にした時みたいな期待と不安が入り混じり、同時に、此処は彼女の楽しめる場所なのかと後悔した。
 振り返って見た彼女は、半(なか)ば呆然(ぼうぜん)として大桟橋を見ていて、やがて、ジロリと動いた目が僕を見た。そしてまた、大桟橋に視線を戻すと言った。
「行こっ」
 一言(ひとこと)、小さく呟くように聞こえたかと思うと、僕の先をスタスタと歩き出した。
 板張(いたば)りの正面に大きなゲートが暗く開き、其の手前にはロータリーのバス停が在り、両脇には大桟橋の上に登(のぼ)れる坂道が見えた。
 V-MAXを急いでロックして、先を無言で進む彼女を追い駆(か)けて僕は板張りの坂を登る。
 登り切る辺りで待っていてくれた彼女に追い着いた僕は、僅かに離れて彼女の後に付いて行く。
 厚い曇り空の下、影の無い僕達は肌寒い潮風の吹き寄せる大桟橋の広い背を、交(か)わす言葉も無く、先端に向かってゆっくりと歩いていた。
 時折り彼女は立ち止り、じーっと、右手に在る岸壁の公園と船……、ナビゲーションでチラ見した限りでは、山下公園と其の先に係留して在る氷川丸と言う、何らかの記念船らしいのに顔を向けてから、捻(ねじ)じったように鉄骨が組まれた赤い鉄塔……、たぶん、マリンタワーだと思うのを眺めた。それから、テレビ画像や雑誌の写真で良く目にした、正面右手の横浜港口に架かる有名なベイブリッジを視界に入れながら、彼女は首を左に廻す。
 彼女が顔を向けた左の対岸には、煉瓦(れんが)建ての二棟の赤い倉庫が在った。
 視線を移す度(たび)に顔の向きを変えて、横顔を僕に見せる彼女は、顔を上げ優しさの失せた細めた目と頬に、そして、硬(かた)く結ばれた口許(くちもと)に険(けわ)しげな感情の彼女を感じさせた。
 時折(ときおり)、何かを企(たくら)むように唇の端が吊り上がって、目許が笑った。
 其の変化する表情の中に、彼女の思惑を探ろうと僕は見続けた。
 彼女の視線を追って見た赤煉瓦倉庫に、僕は後悔した。
(先に、あっちへ行っていれば良かった……)
 どうして、思い付かなかったのだろう?
 インターネットで相模原近辺や横浜市内のデートスポットを検索していた画面に、アウトドア的にショッピングを楽しめる、お奨(すす)めのスポットとして赤煉瓦倉庫は紹介されていた。
 ドラマのロケ地に良く使われて人気が有り、トレンディーなファッションやグッズの店舗(てんぽ)に洒落(しゃれ)た飲食店もテナントで多く入っている。
 大型バイクのタンデムで乗り着けても、自然で様になりそうだった。
 そんな開放的なイメージがしたエリアだったのに、ただ、彼女とタンデムで走り回る事しか考えていなかった僕は、画面を流し見しただけで予備情報にもしていない。
 愚かな自分を嘆こうと風に立てる顔に、湿(しめ)り気の有る冷たい大気が吹き寄せて目尻(めじり)を滲ませた。
 滲む視界の遠くに、雲間から射す太陽の光が湿った大気で太い筋となって晴れ間と海面を繋ぎ、光に包(つつ)まれるベイブリッジを白く輝かせていた。
 いっしょに照らされる橋桁(はしげた)の周りや辺りの海面も、明るい色で眩しく輝いている。
 其の裾広(すそひろ)がりに斜めに降りている光の筋は、薄明光線という、見たまんまの味気の無い名称で、俗(ぞく)に言う天使の梯子(はしご)だ。
 信心深い人には、ラッパを吹きながら行き来するエンジェルが光の筋の中に見えるそうだけど、そんな、宗教が絡んだようなのじゃなくて、もっと、現代的にファンタスティックな呼び名がないものかと、見る度に考えてしまう。
 目を凝らすと、輝く海面は遠くベイブリッジの向こうの東京湾まで広がっていた。
 低くフラットな曇り色の空の中に、透明な青空色が在った。
 ぽっかりと大きな穴が開いたような晴れ間だ。
 其の晴れ間が沖から近付いて来ている。
 早く来て、暖かな春の陽射(ひざ)しで彼女を包んで欲しい。
 春の光を浴びて、少しでも彼女の機嫌が良くなればと願う。
(春の太陽よ! 早く此処へ遣って来て、肌寒く沈んで痛む気持ちを、明るく暖めてやってくれ!)
 ゆっくりと前を歩く彼女の歩調に合わせて、僕は緩(ゆる)い起伏の板張りの丘のような大桟橋を彼女に付いて行く。
 近付き過ぎて鬱陶(うっとう)しいと思われないように、離れて寂(さび)しがらせないように、付かず離れず、僕は彼女と歩く努力をした。
 これまでの桟橋のイメージは、港湾の荷揚げ埠頭の岸壁と同じ、港の縁をコンクリートで固(かた)めたフラットな船着場で、ずらりと並んで糸を垂(た)れる大勢の釣り人達がいて、倉庫や出入国などの通関管理棟が隣接しているのだった。でも、この横浜港大桟橋は違っている。
 岸壁に釣り人はいないし、無機質でフラットなコンクリートの塊(かたまり)でもない。
 草木や人工芝に覆われていれば、まるで、横になって転(ころ)がりたくなるような丘陵公園だ。
 彼女の横に並んで歩きたいけれど、転倒して挟まれた痛みが、左足をぎこちない歩みにさせて、誤魔化しの平気を装うのが難しい。
 右足は何ともないのだけど、歩行で左右へ移る体重に因って、鈍く痺れの残る左足の脛骨(すねぼね)が軋む『ズキン!』と、突き上げて来る深くて重い痛みに、注意していないと僅かな段差で躓いてヨロけてしまう。だから、できるだけ、自然な感じで彼女に気付かれないように歩こうとするのだけども、そおっとした歩きになって、直ぐに離されていた。
 そんな遅れを誤魔化すのに、あちらこちらへ僕はキョロキョロと顔を廻らせ、見る物全てが珍(めずら)しくて興味をそそられているフリをした。
 大桟橋の先端まで来た。
 僕が咄嗟(とっさ)に思い付いたデートコースの折り返し地点に、とうとう来てしまった。
 後は、何を如何(どう)くっつけて寄り道しようが、相模原へ戻るしかない。
 ランチは相模原か、相模大野へ戻ってからにしよう。それから、僕と彼女が弾む会話で笑っていられるようにしたいのだけど、今も疎らな会話に、どうすれば良いのか分からない。
 痛む足と焦る気持ちで、楽しい筈のデートはブルーに染まって沈んでいる。
 こんな僕の憂いを晴らすように頭上に遣ってきた大きな晴れ間が、大桟橋を陽射しで覆って照らしだした。
 大きく真ん丸に広がった空色(そらいろ)の晴れ間を仰ぎ見ながら、横目で彼女の反応を気にする。
「此処は、晴れてくれたな。暖かくなって良かった」
 少し鼻をヒクつかせて春風の匂いを嗅ぎながら、彼女は手を翳(かざ)し、空と海を眩しそうに目を細めて見ていた。
(やっぱり、春は彼女の、この顔だよな!)
 久し振りに、彼女を好きになった時の表情が見れて、僕は嬉しい。
 陽に晒(さら)されて暖められた春の潮風に吹かれ、明るい暖かな陽射しを浴びる彼女は、表情が柔(やわ)らかくなって嬉しそうだ。
 其の顔に僕の胸が、またまたキュン、キュンと鳴って締め付けられた。
(良かった! 彼女の機嫌が直りそうだ。晴れ間よ、ありがとう)
 大自然の恵(めぐ)みに感謝しつつ、彼女の機嫌の好さが、このまま続いて欲しいと願う。
「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」
 光に包まれる彼女は、本当に美しい!
 陽射しに暖められた春風は、柔らかく水面を撫(な)ぜるように吹き渡り、波頭をキラキラと眩しく輝かせた。
 ひんやりとしていた風が、暖かい春風になって吹き寄せて来る。
 天使の梯子の陽射しと春風に温められる僕の身体は気持ち良く、心は、傍に彼女が居てくれる喜びで潤(うるお)っている。
(今、正に、僕の身も心も麗(うら)らかに安らぐ至福(しふく)の時だ!)
「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」
 さっき思った事を、彼女に聞こえるように呟いて、僕は姑息(こそく)な機嫌の測(はか)り方をする。
「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方(かなた)の透(す)き通った蒼(あお)い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうんだよ、なぁんてね。あははっ」
 機嫌の直りそうな彼女に、ホッと安堵して気が緩んだのか、フラ付き始めた身体を手摺り前に備え付けられている支柱架付きの有料の双眼鏡へ寄り掛けると、彼女も、二メートルほど離れて手摺りに凭れ掛かり、海を眺め始めた。
 空一面、ぽっかりと大きな穴のように広がった透明な蒼空(そうくう)の明るさに照(て)らされて、眼下の横浜港の海は、上空の空の色に染められたみたいに深く鮮(あざ)やかな青色一色で、吹き渡る春風にキラキラと波立っていた。
(其の海を見ながら、彼女は何を考えているのだろう?)
 陽射しと波の照り返しで暖められた潮風が気持ちいいのに、立戸の浜のような親密さは感じなくて、逆に僕は、彼女に距離を置かれてしまっている。
 立戸の浜の親密さを、更に接近させて、キスも有りかなと思い描きながら相模原に来たのに、このままでは、彼女の機嫌が直っても距離を詰めて来る事はないと思う。
 其の機嫌の良さも、晴れ間の内だけで、寄せる雲に陽が翳(かげ)り、気温が下がりだすと、再び、彼女はネガティブなオーラを放ち出すだろう。
 僕の塞いだ気分も、好転する事無くブルーなデートで終わりそうだ。
(何か、打つ手は無いのか?)
 そう不安に焦りながらも、反射する陽の光を眩しく眼に飛び込ませる波の泡立つ白い頂を、今日の記念に切り取ったようなオブジェにしたいと考えていた。
 トランプでピラミッドを作るように息を止め、微動もさせず、ゆっくりと丁寧に築き重ね上げて来た彼女との関係が、プップッと音を立てて一遍(いっぺん)に今にも崩れそうなのに、鈍(にぶ)くてトロい僕は余裕を噛ましていた。
 陽溜(ひだ)まりの中で手を翳し、眩しそうに目を細めて波頭の煌(きらめ)く水面を眺める彼女は、普段でも薄く微笑むような表情を一層優しげにさせ、春風に舞い乱れる髪の輝きと相俟(あいま)って神々しくも見えて来て、ドギマギする矮小(わいしょう)な僕は、彼女の光りのハレーションに溶け入りそうだ。
 僕を、好きだと言わせたい。
 光の輪が頭上に現れても不思議じゃない彼女から、目を離せない僕は強く思う。
(僕だけが彼女を理解すればいいんだ。誰にも、彼女を奪(うば)われたくないし、渡(わた)さない!)
 彼女を見ていて、ふと思う。
 この世の全ての理(ことわり)が等価交換で成り立つならば、其の重さや価値は何処に在るのだろう?
 等価交換される必然は、何処から来るのだろう?
 喜怒哀楽が均等だというのならば、この世界は不条理と不可解ばかりで、全く不理解だ。
 悲劇に巻き込まれた幼き命、苦しみや不幸だらけの生涯、事故や戦争のような一度に大勢が、個人の都合に関係無く、災危に遭うのは因果応報(いんがおうほう)の果てなのだろうか?
 これらの何処に、『良い事半分、悪い事半分』が有るんだろう?
 この世の理だけでは、幸不幸の等価交換が出来ないと思う。きっと、前世、現世、来世でも、等価交換値は不均等で成り立たない。
 そもそも、不幸に抗(あらが)う慰(なぐさ)めの言葉や仮説でしかなく、絶対的な道理や根拠は全く無かった。
 こんな不愉快を、想像して考えさせる彼女の横顔に、今の僅かに高揚(こうよう)するプラスの気持ちが、彼女のちょっとした否定的な言葉や表情で堕(お)ちて沈み、粘(ねば)り絡まるマイナスの焦燥感(しょうそうかん)に引き摺られてしまう予感がした。
 平行世界……、以前、お袋が言っていた言葉を思い出す。
 今居るこの場所と過ぎて行く時間は、ズレた選択肢が際限なく重なるターニングポイントで、事態が悪化する方向の世界の一つなのかも知れない。
 今日は大きな分岐ポイントになってしまった気がする。
 僕が起こしたズレは大きくて、何もしないで放っておくと、二度と彼女の人生と交差しなくなるだろう。
 何処かで修正しなければならないと思った。でも、何時、何処で、どんな方法で戻(もど)せるのか分からない。
 僕の魂(たましい)が昇天しそうな、その笑顔で僕を好きだと言ってくれるのならば、あらゆる方法で僕の全てを君に捧(ささ)げて必ずズレを正したい。
 例えば、現実的じゃない極端さだけど、陥(おちい)る悲劇の結末から回避させてハッピーエンドに至らせる為に、僕が犠牲にならなければならない事を知っている彼女から、『君が好きだから、私の為に死んでくれる?』と、無情な事を笑わない顔で願われても、僕は叶えたいと思う。
(でも、理不尽(りふじん)に、『あんた、うざくて嫌いだから、死んで!』は、拒否だな)
 もっと純粋で短絡的に、彼女が、避けられない辛さの限界や堪えられない悲観の絶望を終わらせたいと望み、僕の耳元で、『私は、好きな君と心中したいの』と囁(ささや)くように呟いたなら、彼女の非情な願いを僕はいっしょに叶えようとするだろう。
 そんな歪んだ『好き』でも、彼女が言えば、僕は実行する覚悟が有ると、改めて決意しながら、割れた青ガラスの破断面みたいに、陽射しをヌメヌメ ヌルヌルと照り返す海面の眩しさを、翳す掌で遮(さえぎ)って、遠くの陽炎(かげろう)の様に揺らぐ真っ白なベイブリッジを、僕は見ていた。
 視界がぐらりと揺れ、時間の経過と共に、少しずつ増して来た脚の痛みに、双眼鏡の支柱に凭れ掛かるのも負担になってきた身体が、より安定した休息場所を求めているのに気付いた。
 近くの風除けの有るベンチへ移動して、くたっと足を投げ出して座った。
 痛みに耐えて普通を装える間隔(かんかく)が短くなって来ている。
 脚を摩(さす)る両手に力が入って行く。
 痛みの疼(うず)きを散らす為の、ゆっくりとした時間が欲しい。
 暖かな陽射しを浴びながら、穏(おだ)やかな春風に吹かれていると、気持ち良い眠気が寄せて来る。
(ふぁ~、眠い……)
 気持ちの緩みと痛みの退きも加わって、デート中だというのに大きなアクビが出てしまう。
 疲れと寝不足も出ていると思う。
 残業続きで身体は疲(つか)れていたけれど、昨夜は風呂(ふろ)で身体の隅々(すみずみ)まで洗(あら)ってしっかり湯に浸(つ)かりもした。そして、今日の行動を考えて、いつもより早く就寝(しゅうしん)した。だから、良く眠れるはずだった。だけど、久し振りに彼女に会えるのが嬉しくて、取らぬ狸(たぬき)の皮算用(かわざんよう)的な二人の未来を想像していた。
 今はまだ、其の気配は無いけれど、恋人達の関係になった近未来の二人を、いろいろと考えて仕舞う興奮で、なかなか寝付けずに眠りが浅くなってしまった。
 それに、早朝から一生懸命にV-MAXで走って来ている。
(寝不足と疲れと、ちょっとした、……幸せ気分からかな?)
 そう思うと、益々瞼がくっ付きだした。
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 横に座った彼女が、持っていた包みをカサカサと広げて、手作りのランチを僕に見せた。
(おおっ、カツサンドだぁ♪)
「はい、あーんして」
 楽しそうな彼女の言葉に口を開けると、押し込むようにカツサンドが突っ込まれた。
 『何を、行き成り』って、息も塞がれて憤りそうになるけれど、カツサンドの美味しさにどうでもよくなってしまう。
(この味は、とんかつソースベースだ。ピリッとカラシも香ってる。美味(うま)いぞ!)
「ねぇ、美味(おい)しい?」
 カツサンドを頬張(ほおば)る口の僕が、大きく頷いて肯定するのを、肌が触れるくらい間近で、彼女はニコニコと嬉しそうに見ている。
 二つ目のカツサンドを手に取り、『まだ有るよ。早く食べて』と、今度は身体を触れさせながら、僕の頬張る唇へ笑顔で押し付けて来た。
 真っ青な空に、麗らかな陽射しと暖かな春風。
 触れる柔らかな彼女の身体。
 明るい笑顔の彼女は、僕の幸せだ。だけど、立戸の浜で沈められた時みたいな悪戯(いたずら)を楽しむ彼女の強引な態度とは、何かが違う。
 カツサンドを僕の頬で潰している彼女は、本当に僕が大好きな彼女なのだろうか?
(てっ!)
 何かが脇腹に当たって、呻きと共にカツサンドを吐き出した。
「あっははは」
 直ぐ真ん前で、彼女が僕を見ながら大声で笑ってる。
 何が面白いんだろう?
 僕は笑われる事をされているのだろうか?
(あうっ)
 また、同じ場所に、痛みを感じた。
 頬で潰れていたカツサンドが、刺さったみたいだ。
(……カツサンドが、刺さる?)
 目の前にいる彼女が、不安な顔で僕を見詰めてる。
(……此処は、……何処だ?)
 --------------------
(はっ!)
 二度の痛みに眼を覚(さ)ました。
 いつの間にか、僕は眠って夢を見ていた。
 脇腹に刺さったカツサンドも、息が出来ないほど、頬張ったカツサンドも、消え失せて仕舞い、懐かしい後味とリアルな痛みを感じいる。
「ごめん。太腿を蹴(け)るつもりが、脇腹に当たっちゃった」
 僕は、脇腹を彼女に蹴られて起こされていた。
(しかも、二度! 強烈に! けっこう痛い!)
「……寝てたから、起こしてくれたんだ」
 蹴られて痛い脇腹は、去年のバス事故で黒痣(くろあざ)が残るほど挟まれた処(ところ)だ。
 戻りのライディングに支障(ししょう)が出ないか心配になりらがらも、彼女の惚(とぼ)けに僕もボケで返す。
「うん、そうよ!」
 全く悪びれない言葉で断定する彼女の表情は、僕に次の行動を急かしていた。
「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」
 彼女が、僕に求める次の行動が、『早く帰ろう』だと察してはいたけれど、お断り覚悟で近場の散策に誘い、今の時間を紡(つむ)ぎ続けたい未練を露(あら)わにする。
「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」
 澱(よど)みの無い棒読みが、冷めた彼女のはっきりした発音で耳の奥深くに貼り付いたのは、ストレートに返って来るのが分かっていた僕の察しを、肯定する言葉だった。
 気紛(きまぐ)れではなくて、考えが有っての、あっさりと躊躇わずに止めたり、リセットする彼女を、僕は知っている。
 十八歳の僕達には、漠然(ばくぜん)とした若さや茫漠(ぼうばく)とした人生の時間が残されている。
 漠然と茫漠に流され続けなければ、多くのチャンスが有る筈だと思う。
 今日をリセットして今年の夏でも、来年でも、再来年でも、遣り直す事は出来ると思う。でも、彼女が遣り直す相手は、僕じゃないかも知れない。
     *
「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないの?」
 『また道を間違えている』とばかりに、ルート1の浜松町の交差点を右折せずに直進する僕を、彼女は大声で指摘して非難する。
 ロードポイントを彼女は覚えていて、僕が帰り道を迷わないか、しっかり監視していた。
 道に迷えば、帰りが遅くなり、迷い続ければ、急ぐ気持ちに事故率が上がる。
 人身事故にでもなれば、今日は帰れなくなってしまう。しかし、道に迷わずにイレギュラーなアクシデントも無いスムーズさで帰れれば、彼女は、今日の僕といる時間を早く終わらせれる。
 彼女の非難の声に、そんな含(ふく)みを感じたけれど、まだまだ、今日を紡いで織(お)りたいと足掻く僕は認めたくなかった。
「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」
 今日のデートは、出会いの時点から、僕のセレクトミスが彼女を不機嫌にさせていた。
 それを晴らそうとした僕は、少しでも早く目的地の大桟橋へ着こうと、混雑するルート16を急いで加速していた。
 其(そ)の挙句(あげく)、来る途中での速度超過規違反、転倒の自損事故、方角の迷いの不肖(ふしょう)さは、彼女に僕への不信感を抱かせて、今も、帰り道を不安がらせている。
 戻りは、スピーディなライディングを控(ひか)えた彼女の安全と安心を最優先する気遣いで、僕は、タンデムで密着する彼女の感触を背に感じながら、落ち着いてゆっくりと走りたい。
 GPSの検索で選んだルート16の迂回ルートの一つへ右折して、片側一車線の県道を交通の流れに合わせた速度で、V-MAXを走らせて行く。
 何度も赤信号で停まる度に、流れ去らない彼女の匂いをヘルメット内へ漂わせて、後ろから抱き着いている彼女に、僕は幸せを感じていた。
(今日の僕を、彼女はどう思ったのだろう?)
 今のところ、今日の僕は、彼女に良い場面を一つも見せていないという自覚が有った。
 自己採点だと、九対一でマイナスイメージだらけで、一つだけのプラスは、天使の梯子の暖かな陽射しに包まれた大桟橋の先端で、彼女が嬉しそうに笑ったからだ。
 今日の彼女と『さよなら』する時が、刻一刻と迫って来ているのは感じている。なのに、今も、この後をプラス的な友好ムードに発展させる為の思考をしていない。
 今日は、僕の遣る事、為(な)す事、どれも、行き当たりばったりの思い付きで、失敗ばかりだった。
 其の蓄積(ちくせき)されたマイナスを一発逆転したいのだけど、どうすれば良いのか、情報不足で全然分からない。
 『さよなら』への時間を加速したがっていると思う彼女は、今日の不甲斐無いデートの所為で、『さよなら』の前倒しを求めているのを僕に自覚して、彼女の意向に沿うように協力しろと考えているのか、知りたい。だけど、どうせ訊いたところで、ノリの悪い彼女の態度から、想像通りのノリの良い悪態(あくたい)が返ってくるだけだと思う。
(そう、悪いの僕の方さ、君じゃない……。分っているよ……。今日は自覚してる……)
 故に、怖くて訊く勇気が無い。
 確かに、大桟橋へ行くは道に迷っていたけれど、適当に走っていた訳じゃない。
     *
 雑木林を過ぎた。
 先々週に来た場所だ。
 この辺りは、桜吹雪の中を偶然の出逢いを求めてグルグルと走っていたから、大抵の方角とロケーションは分かる。
 背中の彼女が、ムズがるように体を揺すり、抱き着くように腹部に回された腕が緩むと、直ぐに彼女の手が、僕の両の腰をしっかりと掴み直した。
 どうやら、寝ていた彼女が起きたみたいだ。
 左右に顔を振って、現在位置を確かめている動きも伝わって来る。
(ん! 寝ていたのか?)
 寒がってジッとしているとばかり思っていたのに、穏やかな走りは、彼女の眠気を誘ってしまっていた……。
(あっぶねぇー! 過激なライディングをしなくて、良かったぁー)
 逸る気持ちに、急発進や急加速をして急ブレーキで急停止、それに、急ハンドルで縫うように鬼走(おにばし)りをしたり、回避できないアクシデントに遭遇(そうぐう)していたら、きっと、彼女は落下して大怪我や絶望的な状態にさせていたと思った。
 ロープやベルトで体を結び着けておくべきだったと、反省しながら、今も相模大野の駅を目指して慎重(しんちょう)にV-MAXを走らせている。
     *
 どうにかやっと、相模大野の駅前に戻って来れたけれど、既に時刻は、お昼を過ぎていた。
 休日の昼下がりだからなのか、駅前の商店街は以外と人通りが少ない。
 そんな閑散(かんさん)とした通りを行き来する僅かな人達を招くように、暖簾(のれん)が風に翻る饂飩(うどん)屋の前へV-MAXを停めた。
 クラッチレバーを握る悴(かじか)む指先が痛み、トランスミッションのギアをニュートラル位置にするチェンジペダルを踏み込む凍(こご)えた爪先が、力を入れ続けると腓返(こむらがえ)りを起こしそうな感じに、早く温かい場所で冷えた身体を温めたかった。
 先に彼女を降ろしてからエンジンを切り、V-MAXのサイドスタンドを立てる。
 V-MAXを降りてヘルメットを脱ぐと、煮物(にもの)や揚(あ)げ物の匂いが鼻腔を心地(ここち)好(よ)く通り、はっきりと僕に空腹を気付かせて食欲を煽った。
 隣でヘルメットを脱いだ彼女も、鼻先をヒクつかせながら、料理見本のイミティーションが並ぶウインドウを見ている。
 僕は一人で、洒落たビストロやカフェレストランへ行ったことがなかった。
 友達や部活の仲間と行ったのは、喫茶店やラーメン屋やうどん屋ぐらいだ。
 一人暮らしの今でも、定食屋とバーガーショップが増えた程度だ。
 回転すし寿司にも、行ってない。
 料理見本を見て、饂飩屋の暖簾を見て、左右の通りを見る彼女の様子から、此処でお昼にしても構(かま)わないだろうと思う。
「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」
 僕の声に彼女の瞳が反応して、ギロリと睨みながら、一歩、二歩と、停めたV-MAXに阻(はば)まれるまで後ろに下がってしまった。
(明らかに、拒否(きょひ)られてるなぁ)
 料理ジャンル、店選び、ロケーション、其の全ての僕のセンスを拒(こば)み、疑っているに違いない。
 険しい眼差しで僕を睨み続ける彼女へ、謝りの言葉を言うべきか迷っていると、突然、彼女は目を見開いて口が、『あっ!』と、小さな悲鳴を叫ぶ動きをした。
「あちっ!」
 何か汚い物を避けて跨ぐように、彼女が飛び退いた。
 振り返って下を見る彼女に、後退りの三歩目に下げた足の脹脛は、暫くV-MAXのマフラーに触れたままになっていて、熱さを感じた時には手遅れで、厚手のGパンの生地越しに脹脛が火傷したのだと分かった。
 怒ったように彼女は、僕を激しく睨み付けながら、Gパンの上から火傷した脹脛を擦り、それから直ぐにGパンの裾(すそ)を捲り上げて火傷したところを見る。
 彼女の足は、素肌にパンティストッキングを穿き、それにハイソックスとGパンを重ね、そして、コットンブーツを履いていた。
 ハイソックスを下げて見るマフラーに触れた部分は、ストッキングの光沢で拡散されながらも、赤く腫れて見えて、火傷しているのは確実に思えた。
 高熱で破壊されて融(と)ける皮膚は、これから赤味が黒ずんで瘡蓋(かさぶた)を張るだろう。
 ナイロン繊維のパンティストッキングは耐熱性が強い、皮膚が火傷して傷付いた部分は、焦げそうになって剥離した皮膚が、僅かに染み痕を作る程度で、二百度くらいの温度くらいじゃ、融けも、解(ほつ)れもしない。
 どれくらいの範囲の大きさになるか、まだ、分からないけれど、今夜から数日は、きっと、ヒリヒリと痛む筈だ。
 火傷の状態を見て、ハイソックスとGパンを戻した彼女は僕を見る。
 『見たよねぇ~。火傷してるよねぇー。誰の所為?』、僕を責(せ)めたい光が彼女の瞳に煌き、僕は、目も、顔も、身体の向きも逸らしてしまう。
 高温のマフラーに脹脛を押し付けたのは、彼女が後退(あとずさ)ったからだ。
 其の後退りさせた原因は、僕だ。
(僕のセンスと経験値の無さが、彼女を傷付けてしまった!)
「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう」
 火傷の痕が、彼女の肌に残るのは可哀想(かわいそう)だった。
 痛がる彼女の嘆きに、僕は胸が締め付けられて居た堪れない。
 凄く愛(いと)おしい彼女に、僕は酷い事をしている。
 小さな染みや傷痕も無かった白く滑(なめ)らかな肌の脹脛に、火傷痕の黒ずんだケロイドが残る。
 歳を経(へ)て小さくなり、位置も少しは変わるかも知れないけれど、何十年も消えないだろう。
 それを見越して、『僕は気にならないよ』なんて、火傷痕が残るのを前提にした不適切で、彼女の気持ちを無視した思い遣りに欠ける無神経な事を、軽く流す『いたいの、いたいの、飛んで行け』的な冗談ぽさでも、其の元凶(げんきょう)たる僕は言えない。
(これは、僕の所為だ!)
 こんな、彼女を傷付ける事になるのなら、今日は、会いに来なければよかった……。
 全然、慰(なぐさ)める言葉を僕は見付けれない。
「ごめん……」
 痛がって悲しむ彼女が、憐(あわ)れに思えた。
 肌寒い晩春の休日に、期待外れのデートで連れ回された挙句、火傷までして嘆いている。
 其の不幸なデートの始まりから不満そうだった彼女が、益々(ますます)不機嫌になるのは確実だけど、それが、少しでもオーバースペックにならないように、僕は、謝罪の気持ちが篭(こも)らない言葉で防壁を張る。
「……ここで、お昼…… 食べるの?」
 火傷するくらいの戸惑(とまど)う反応と悲嘆(ひたん)顔の彼女は、絶対に不満だと思う。
 メジャーなファミリーレストランなら嫌がらないだろうけれど、戻り道には見当たらなかったし、途中で食べても、其の後にタンデムしていたら身体が冷えてしまう。だから、彼女の住まいが近くだと思える相模大野駅前で食べたかった。
 この饂飩屋で我慢して貰いたいのに。でも、どうしてもと、駄々(だだ)を捏(こ)ねるなら、GPSで検索してルート16沿いへ移動するしかない。
「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも、食欲ない?」
 全くの無粋(ぶすい)で当然な事だけど、僅かでも、此処で納得して貰えるフォローになればと、言葉を補填(ほてん)する。
「あっ、支払いは僕だから、何でも、好きなの言ってよ」
 今日のデートの公けの費用は、僕が支払うつもりだった。
 交通費、遊戯代や入場料、飲食代は、まだ、アルバイトを始めていないと思われる彼女と分担するよりも、働いて稼(かせ)ぎが有る僕が全て負担(ふたん)するのは当然だろう。
 『それ買って』、『これ、プレゼントしてくる』も、大枚(たいまい)じゃないけれど、財布の中身が有る限り、躊躇いも無く彼女の望みを叶えるつもりでいた。
 それに、初任給が口座に振り込まれたばかりだから、デートの今日以降の日々を倹(つま)しく生活するくらいの余裕は残して有る。
「僕はカツ丼(どん)にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長(かどちょう)や、お多福で良く食べてたんだ」
(もう、開き直りだ! 捏ねられる駄々を言葉にされる前に、強引に此処に決めてしまえ!)
 金沢市の大衆食堂の老舗、『加登長』と『お多福』の名を言えば、彼女も、美味しさを思い出してくれるだろうと、賭けてみた。
 それに、僕的には空腹と凍える寒さで河岸(かし)を変えたくはなくて、この店で彼女が納得して欲しいと、言葉に祈りを込めた。
「それじゃあ、私はカレー南蛮(なんばん)にしよおっかな。蕎麦(そば)じゃなくて、饂飩で御願いね」
 思わず彼女の顔を見た。
 この店で、良いのか?
 我慢して、此処にしたのか?
 不満顔で、ダークオーラが揺らいでいないか?
 などなど、疑いに不安を重ねた目で彼女見ると、目許と口許が少し笑っているように思えて、手許が滑って落としたグラスは割れずに床に転がっていたみたいな、……そんな安堵の息を静かに吐いた。
 納得した微笑みじゃなくて、我慢と諦めと期待の不敵な歪みかも知れない。
 通常は蕎麦のカレー南蛮を饂飩玉にするんて、彼女なりの味の拘りが有るみたいで、ちょっと楽しそうだ。
 美味しそうな香りが立ち上がる旨(うま)い料理は、食べる人を幸せにさせる。
(どうか、注文したカツ丼とカレー南蛮饂飩カスタムは、期待を裏切らない見た目と味でありますように。特に、カレー南蛮饂飩カスタムの美味しさが、彼女の険しさをなだらかにさせて、笑顔を見せてくれるように)
 拘りが有りそうなオーダーを済ませて楽しそうな彼女を見ながら、僕は願った。
     *
 案内された四人掛けのテーブルでオーダーして待つ事暫(しば)し、カツ丼とカレー南蛮は同時に運ばれて来て、それぞれの前に四角い盆(ぼん)に乗せられたまま、向きを整えて置かれた。
 目の前に置かれたカツ丼は、自己主張の香りが強く漂う、香(こう)ばしく揚げた豚(ぶた)ロースの割り下で煮(に)られた切り身から、いっしょに煮られた玉葱(たまねぎ)を綴(と)じた溶(と)き卵と、僅かに掛けられた煮汁から、いいかにも、カツ丼って旨味(うまみ)の匂いを、器(うつわ)の底に盛(も)られた熱々の白御飯が立ち上らせて、『今、凄く彼女が好きだけど、カツ丼も大好きだー!』ってくらいに、食欲をそそられている。
「いただきまーす」
 食べ方を始める前の料理と、其の料理を作った料理人へ敬意の挨拶を言ったのが、彼女とハモってしまった。
 互いに自分の料理に顔を向けたまま、上目で相手を見遣って、目が合うとにっこりして、直ぐに視線を戻して食べ始める。
 先(ま)ずは上のカツを除(よ)けて、スライスした玉葱が美味しそうな色で絡む卵とじと一緒に御飯を食べる。
 少し煮汁が染みる上手に炊(た)けた白御飯に、滑るように口に入る白身と黄身が混ざりがけの卵と、柔らかくも切れの良いシャキッ感が残る玉葱は、見た目の期待を裏切らない旨さだ。
 除けたカツの肉面は、これまた僕を嬉しくさせて、割(わ)り箸(ばし)で掴み上げた切り身の半分を噛み切らせてくれる。
(うほぉっ! ロースカツだ。赤身のフィレじゃない。これは旨いぞ!)
 やはり、トンカツはロースじゃないと旨くない。
 臭みと味が違う。
 豚ロース肉の皮際(かわぎわ)の脂身(あぶらみ)は背油(せあぶら)で、煮ても、焼いても、揚げても、甘(あま)い旨味が素晴らしい!
 ふわふわの卵と煮汁が染みた御飯の三分の一くらいを、カツの切り身二つで食べて、一息吐きながら彼女の様子をチラ見する。
 丼(どんぶり)を真下に寄せて口を近付け、カレールーが絡まる饂飩麺を一本ずつ慎重に彼女は食べていた。
 麺を啜り上げする事なく、麺が撥(は)ねてルーの雫(しずく)を飛び散らかさないように箸で摘(つ)まみ、口へ運んでいる。
 左手がカレー南蛮の丼を抱えるように廻されて、バクバク、ムシャムシャじゃないけれど、仕種(しぐさ)が毛足の長い犬や猫っぽい感じがして、何か可愛い。
(彼女も、豚ロースの脂身や、すき焼きで煮込まれた牛の脂身が、好きだといいなぁ)
 僕の覗き込むような視線に気付いたのか、彼女が饂飩麺を口へ運びながら上目で見る視線が、僕と重なり、麺を運び終わるまで見詰め合ってしまう。
 カツ丼の香りを押し退けるようにカレーの匂いが漂って来て、彼女が食べる魅力的な風味のカレー南蛮は、カツ丼と同じ位に好きな僕を、カレー饂飩の追加オーダーをしようと誘惑(ゆうわく)するが、今は、カツ丼だけにすべきだと考え直させた。
 金沢市で家族といっしょにいた三月中頃まで、休日の昼も家にいると、お袋は昼御飯によくカツ丼を作ってくれた。
 なんでも、婆ちゃん譲(ゆず)りのレシピで、とても旨い。
 僕がカツ丼好きになったのは、お袋のカツ丼の所為だ。
 スーパーで買うロースカツを使うのだけど、丼専門店の拘り仕立てのカツ丼より、僕は旨いと思っている。
 いつも、小鍋に残る煮汁を全部掛けて貰い、シャバシャバのツユダクにして掻き込んでいた。
 そんな食べ方を僕がするものだから、親父や妹のより煮汁の味付けを、お袋が少し薄くしていたのに気付いたのは、高校受験の頃だった。
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 徹夜で勉強するつもりで、お袋が作ってくれたカツ丼を夜食で食べていた時に、親父が酒臭い臭いをさせて夜の集まりから帰って来た。
 親父が、煮汁を沢山入れて雑炊(ぞうすい)のように食べる僕のカツ丼を見て、『おっ、それいいなぁ。俺も、同じのが食べたいかも』と、お袋に頼むと、『いつものより、味は薄めになるけど、いいの』って返された親父が、『それで、御願いします』と言いながら頷くのを見て、お袋に僕は訊いた。
 『僕のツユダクは、味が違うの?』、ずっと、他のと同じ味の濃さだと思っていたのは、『当たり前じゃない。いっしょの味付けだと塩分取り過ぎで、体調を崩しちゃうでしょ!』って言い返す、賢(かしこ)いお袋が違わせていた。
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 両手で掴み持った丼に口を着けて、カレールーの最期の一滴まで綺麗に平(たい)らげた彼女が、テーブルへ丼を戻しながら軽く長く息を吐く。
 どうやら、カレー南蛮に満足していただけたようだ。
 それを見ながら、同じように丼に被り付いて、残していたカツの最期の一切れの脂身を食べ終えた。
 食のテンションで不規則になっていた呼吸を軽い溜め息で戻し、更に、気持ちを整え、意を決する為の深い溜め息を吐いた。
 今日は、彼女に渡すプレゼントを二つ持って来ていた。
 一つは、自作の小物。
 ローマのスペイン広場で、レリーフのフォトスタンドを買おうか迷っていたから、ミニチュアに興味が有ると思う。
 フォトスタンドではなくて、軽さからペーパーウエイトにもならないだろうけど、彼女の部屋の何処かに置かれて、視界に入れば、僕を思い出して欲しいの意味を込めている。
 もう一つは、彼女の近くに居られない僕の代わりに、いつも持っていて貰いたい物で、インターネットの通販で購入した。
 使い方によっては、彼女を守りきる強力な武器だ。
 それらを彼女に見せて、説明してから渡すのは、お腹が満たされて気持ちが穏やかになった今のタイミングだ。
 V-MAXのダミータンクに縛り付けていたのを外して、横の椅子(いす)に置いていたディーバックから、一つ目の贈り物が入った包みを取り出した。そして、包まれていた小箱を開け、詰められたクッション代わりに丸めたティッシュペーパーの中の作品を、壊れていないか確かめながら、そっと箱から出す。
 箱の中には、僕が自作した西洋風のお城のミニュチュアを入れて来ていた。
(よし、どこも壊れていないな)
 箱から取り出したミニュチュアの外観に破損は無く、無事に運べていた。
 小さいけど頑丈(がんじょう)に作ったし、梱包もバイクの振動に耐えられるように、クッションを二重にしていたし、転けた時にも潰されてはいなかった。
 其のミニュチュアの西洋風のお城は、明るい色で落ち着いた感じに仕上げて、城館の屋根や城壁の上に、幾筋ものカラフルな図柄(ずがら)の燕尾旗(えんびき)をたなびかせた。
「ちょっと、作ってみたんだ。久々の新作だよ」
 会える日が決まってからは、毎晩作り込んで漸(ようや)く完成させた。
 造形用粘土で原型を作って、型取りした僕の最新最高の傑作(けっさく)だ。
「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」
 彼女は一瞬、目を輝かせたけど、直ぐに冷めた表情に戻ってしまった。
(食い物とでも……、デコレーションケーキに見えたかな? 少し離れると、コーヒー味のショートケーキに見えるかも)
 たぶん、艶消(つやけ)しのサーフレススプレーを何度も重ね噴きしたから、ショートケーキっぽく見えて、『美味しそう』なんて、期待を抱かせたのかも知れない。でも、違う、食べれないんだ……。
 例(たと)え、僕が気の利いたセンスの持ち主で、昨夜に静岡市内の有名店から購入して用意して来たとしても、この飲食店の中で広げて食べるわけにはいかないだろう。
 第一に、僕は気が利(き)かないし、センスも良くない。
 それは、今日の出逢いで悲しく証明されている。だから僕は、無粋に素材と表面仕上げを説明して、出来上がりを訊いてみる。
「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏(せっこう)で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」
 彼女に問い掛けながらも、僕は、ショートケーキの持ち込みを考えていた。
 もし、有名なパティシエのを持って来ていたら、きっと、直ぐにでも彼女は食べたがるに違いなくて、それは、彼女の気持ちを晴れ方向にする一発逆転のアイテムになってくれる。だけど、それを何処で食べる?
 ファミレスでも、喫茶店でも、持ち込み飲食はNGだ。
 だとしたら、其処は彼女の部屋になるだろう。
 彼女の薦(すす)めで、暖かい彼女の部屋で、彼女が煎(い)れる紅茶を飲みながら美味しくケーキを食べる。
 二十一世紀美術館の白いカフェや立戸の浜の時のように、ラブラブっぽく食べ合えれたかもと、僕は白昼夢(はくちゅうむ)を見そうだ。
 現実は、気遣いの出来ない僕に心付けの用意は無く、今の気不味さは、昨日からの必然だと思う。
 彼女の部屋へ行く事も、知る事も、今日は出来ないと悟った。
「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」
(やっぱり、そう見えたか)
 手のひらサイズの城館を彼女の前へ、倒して壊さないように、そっと置き直した。
「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」
 色合からなのか、形的になのか、よく分からないけれど、せめて、彼女の趣向(しゅこう)に沿ってくれて、楽しい気分になって欲しい。
 それに、明るい気分で、もう一つのプレゼントも渡したい。
「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサヴァランかな。小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」
(ライトグリーン? どこが? それっぽい色がサバランに有ったっけ? ああ、そうか、あの店のサバランは、メロンがトッピングされていて、香っていたな)
 しっとりしたシロップとリキュール味のサバランのイメージが、爽(さわ)やかなメロンのグリーンだなんて、そんなカラフルな感覚を持つ彼女が面白く思えて、新たな共感を感じてしまう。
 彼女が言った、小立野の店は覚えている。
 中学の頃はお袋に頼まれて買って帰っていたし、高校生になって帰宅時間が遅くなってからは、いろいろと中学生になった妹が買って来ていて、よく食べていた。
 妹はアップルパイがお気に入りで、お袋はモンブランが好みだから、、お持ち帰りのケーキ箱には、どちらもサバランといっしょに入っていた。
「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」
 ちょっと弾んで来た会話に気持ちは勢いづいて、笑顔にさせれるかもって、言葉を選んで遊んだでみた。
「ふーん。良くできているじゃん」
 あっさりと、親しみを込めたつもりの軽いジョークは、完全にスルーされてしまった。
 この時、僕は彼女の表情と気持ちが違うと、はっきり知った。
 穏やかで優しそうな表情や仕草とは裏腹に、その表面の直ぐ裏側まで激しい感情や想いが迫っているんだと分かった。
 それが、時々ひょいっと言葉や態度に出るんだ。
 それは、たぶん、彼女自身のストレスか、フラストレーションが溜まって、攻撃的な冷たさで発散されているのだ。
 それを、彼女は自覚していて、意図的に僕へぶつけているのだろう。
 僕だけに……。
(なぜ? 感情を剥き出しにせずに、時折、さり気なく痛い言葉や態度を僕に向けるのだろう?)
「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」
 いろいろとミニチュアの角度を変えている手を見ていて、僕は急に立戸の浜で見た彼女のネイルアートを思い出した。
(ネイル、爪か……。四角い爪……)
 僕は、小学校六年生の春の日から去年の夏の浜辺まで、彼女の爪の事には触れていなかった。
 七年前、お知り合いになる、きっかけを作りたかっただけの僕は、何の配慮(はいりょ)も無く、彼女へ『どうして、そんな形?』と、短くて四角い爪の形を訊いていた。
(そうだ! 爪だったんだ! 何気(なにげ)なく言った僕の不躾で無神経な問いを、彼女は、ずうっと引き摺って気にしているんだ。……絶対に爪だ! そうに決まっている! 彼女の僕に対する痛さの根底には、それが有るんだ。立戸の浜で気が付いて、あそこで僕は、彼女に謝(あやま)らなければならなかったんだ……)
 確信した。
 僕はタイミングを逃していた。そして、今日もチャンスを失った。
(そう、あの大桟橋で気付くべきだった!)
 だけど、僕の無神経な七年前の言葉を、彼女は言葉で許(ゆる)しても、今の理不尽に苛つく反抗期みたいな態度は、直ぐに治らないと思う。
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 小学校五年生の時、僕に早い反抗期が来た。
 お袋も、親父も、家庭も、学校も、先生も、友達も、世の中も、全て大嫌いになった。
 周りの全てが、自分も含めて理由もなく厭(いや)だった。
 学校では大人しくしていたけど、家では何かにつけて、激しく暴(あば)れた。
 或(あ)る日、寝そべりながら大人しくテレビを見ていると、親父が傍らに来て座った。
 それから、コトリと灰皿を置いて、おもむろにタバコに火を点(つ)けた。
 『くっさいなぁ、タバコなら外で吸えよ』と言う間もなく、僕の半ズボンで剥(む)き出しになった左の太腿の内側に、赤く燃えるタバコの先を押し付けられた。
「うわーっ」
 熱さで飛び上がり、痛さに転げ回った。
 怒(いか)りで親父を睨(にら)むと、親父は、もう一度タバコを押し付けるところだった。
 泣き喚(わめ)きながら慌てて、タバコを持つ親父の腕を両手で掴むけど、片手でも親父の力は強い。
 僕の悲鳴と泣き声で、お袋が飛んで来て、寸前の所で親父を止めてくれた。
「やめて! どうして、二度もしょうとするの!」
 親父から取り上げたタバコを消しながら、お袋が訊いた。
「こいつを正(ただ)そうとしただけなんだよ。だけどな、こいつの反応が面白(おもしろ)くてさ。俺もな、いけないなと思いながらも、こいつが飛び上って、バタバタ転げ回るのが可笑(おか)しくてさ。だから、もう一回見ようとしただけなんだ」
 悪びれも無く、親父がサディストな言い訳をした処で、お袋が親父の頬(ほお)を大きな音を立てて平手打ちした。
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 今なら、あの時の親父の気持ちが解るような気がする。
 何度か、小さな子供が熱い物に触れて、泣き叫ぶのに出会(でくわ)した事が有った。
 決まって、『ぎゃーっ』とか、『わーっ』と、泣き叫びながら、両手をバタバタ振り、ドンドン足踏みするか、転げ回る。
 可哀想と思う反面、慌てふためく様が面白い。
 可愛さも有ると思うけれど、もう一度、熱い物を触れさせて騒(さわ)ぐのを見てみたい衝動に駆られる。
 もう一度だけでは済まないかも知れない。
 そう思うだけで、咽喉(のど)がザラザラする。
 可哀想の憐(あわれ)みと面白さの衝動が、自分の中で鬩(せめ)ぎ合い葛藤(かっとう)する。
 胸の中が、いくつものゴツゴツした『不憫(ふびん)さ』と『憐み』が、ゴロゴロ転がって行く感じだ。
 気持ちが悪くて、濁った息が詰まる。
(想像するような可哀想な事は、してはいけない悪い事なのだ)
 頭の中から、『不憫さ』への衝動に駆られそうになる想像や考えを振り払った。
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 其の時から、僕の反抗期は終了した。
 其の日から親父はタバコを止めた。そして、年に一、二回、家族での食卓時に酒が過ぎると、親父は僕に、『タバコの押し付け』を謝る。
「何度も謝らないでよ、父さん。あれは、僕が悪かったのだから気にしてないよ。それに、母さんや妹の前だと照れ臭いから、男同志の時に聞くよ」
 照れながら、親父に言う。
「女房や娘の前だから息子への謝罪の言葉になる。おまえと二人きりで言うのは、それは言い訳にしかならん」
 真摯な顔で言ってから、親父は笑った。
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「あっ!」
 縞模様に明るい青色と赤色にペイントされた旗を戦(そよ)がせたり、軽く撓ませていたりしていた彼女の指先が、旗の先端で動きが止めて摘む様に押さ込んで行き、ぐぐぐうーっと旗竿を直角以上に曲げて、『バシッ』と折ってしまった。
 褐色(かっしょく)と黄土色(おうどいろ)のツートンカラーに塗られた旗竿は根元近くで折れて、テーブルの端まで飛ばされた燕尾旗が、まるで己(おのれ)のサドンデスな破壊を呪(のろ)うように回転している。
「ごめん! ごめんね!」
 彼女が言う謝りの声と、その表情を懐疑(かいぎ)的に感じてしまう。
 折角、今日に間に合うように夜な夜な没頭して完成させたのに、上手に作れた最高の出来栄(できば)えなのに、気に入って貰えて、彼女の笑顔が見れると期待していたのに、彼女は僕の目の前で破壊工作を行ってくれた。
 燕尾旗の旗竿は故意(こい)に加えられた指先の力によって、その素材のエンジニアプラスチックの靭性(じんせい)と剛性(ごうせい)の限界を超えた曲がりで、無残に破断させられてしまった。
 瞬間、その虚しい様が悔しくて、悲しくて、唇を噛み、泣きそうになる。
 でも、彼女に破壊衝動を起こさせたのは、きっと、僕が原因だ。そして、他にも吐き出せない混沌とした不満や不安を、僕にぶつけているんだと思う。
 それに、城館のミニュチュアは僕が作ったモノだから、一部分の破壊でも、全壊でも、修理したり、作り直したり出来る。
「持ち帰って直してから、また、持って来るよ」
 言った途端に彼女の眉端(まゆはし)が釣り上がり、眉間と鼻頭(はながしら)に皺が立ち、彼女の頑なさが、いじける気持ちを僕への拒絶に変えて行く。
 そういう内面が彼女に有るのを、僕は気付いていた。
 僕の言葉が原因なのに、責めずに僕が気付くまで触れられたくなかったんだ。でも、この場で『四角い爪』を話題にして、詫びるのは不自然で相応しくない。
 そんないじらしさに、急に愛おしくなり、彼女を抱きしめたい衝動に心が騒ぐ。
「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」
 作り笑いをして、彼女は言った。
 彼女の瞳は、詰まらないと言う色をしている。
「折れた旗は、今日の記念になるしね」
 今日の記念のプレゼントへ破損の跡(あと)を残して、彼女は、不満の意と思(おぼ)しきメモリーを刻(きざ)み付けた。
 彼女へ渡す為に、大事に持って来た作品へ、これ以上の不快のメモリーを残されないように箱へ閉まってから、別の紙袋をバッグから取り出した。
「それと、これも、プレゼントです」
 彼女は、又もや、僕がディーバッグから取り出した紙袋を、荷物が増えると言わんばかりの顔で、胡散(うさん)臭さそうに見た。
「何、これ?」
 紙袋から中身を取り出して彼女の前のテーブルへ置き、押して彼女の前へ寄せていると、訊かれた。
「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」
 彼女はパワーをオンにして、いきなり、グリップスイッチを握り、バリバリと大きな音をたてて放電させた。
 店にいた五、六人の客と店員の全員が振り返って、何事が起きたのかと僕達を見た。
「危なくないの?」
 注目されているのを知っても、まだ、彼女はスタンガンを手元で振りながら、バチバチさせている。
「こんな所で放電させたら駄目じゃん。そりゃ、そいつは危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」
 彼女は僕の手に押し当てる振りをしながら訊いて来た。
「これの痛みを、あなたは体験しているの?」
 僕は、素早く手を引っ込める。
「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力(いりょく)を知っておかなくちゃね」
(あぶねぇー、もうちょっとで、電撃くらうところだった)
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 僕は、届いた日に自分で試してみた。
 テレビのドラマや映画のシーンは大袈裟で、そんなに実際の威力は無いと思っていた。まして、通信販売の市販品なんか、たいした事はないだろう。
 軽い気持ちでスタンガンを太腿に付け、僕はスイッチを押した。
「ヒッ、ぐわーっ」
 いきなり、太腿の筋肉が勝手に激しく伸縮(しんしゅく)して、体が弾き飛んだ。
 一気に出た肺の空気が、声じゃない高い音を体の中から漏(も)らして、視界が一瞬暗くなった。
 直ぐに襲ってきた強烈な痛みで、僕は悲鳴を上げながらのたうち回った。
 優に三分間は動けなかった。
 暫し、何が起きたのか理解出来ず、何も考えられないほど、ドーンと来た凄いショックだった。
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 おふざけの悪戯みたいな軽はずみの行為をしないように、注意を促す言葉が、彼女への怒りを含ませる。
「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうじゃんか」
 ニヤニヤしていた彼女は、『ふうーん』と言う顔をして、バチッ、バチチッと空放電を繰り返す。
「それと、空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」
 ちょっと迷うように考えてから、彼女はスタンガンを受け取った。
「面白そうだから、これも、貰っておくわ」
(やはり、スタンガンは拙(つたな)かったかな。でも、二人の距離が離れた今、僕は彼女を守れない)
 もう、僕は彼女の傍に住んでいないから、せめて遠く親元を離れて一人暮らす彼女の身を、自分自身で守る術(すべ)を贈る事しか出来なかった。
 彼女の安全を心配する度に、『彼女の生活圏の近くに、就職すべきだったのだろうな』と、考えてしまう。
 就職すると告げた時も、高校受験と同じように、僕に進学する同じ処へ来て欲しそうな感じで、就職場所を首都圏へと、それも、近隣限定と望まれていた。
 そう彼女が望んでいた通りにしていれば、仕事が終わると、いっしょに御飯を食べてからトレンディスポットへ行くようなデートを毎日の様にしていて、今日の気不味さは無かったのかも知れない。だけど、其処まで僕とのベタな毎日を彼女が予想して望んでいたのか分からない。
 ただ、僕を近くに居させるだけで、彼女の日常は僕を拒んで冷たく距離を置かれていただろうと思ってしまう。
 あの時も、今も、彼女の不安と寂しさから発せられた、一時の気の迷いからの言葉だと、僕は思っている。
「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃ駄目だぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」
 僕は心配になって、念を押した。
「分かっているわよ」
 スタンガンで僕を脅(おど)しながら、笑顔でそう言いった。
「ありがとう。心配してくれて」
 映画の中で悪巧(わるだく)みをする小悪党のように、彼女は楽しそうだ。
(うーん、心配だ)
 悪戯心で人を苛(いじ)めないように、軽犯罪的な悪さを起こさないように、自分を痛めつけないように、と僕は彼女の細める眼を見て願う。
(本当に、正当防衛だけに使って下さいませ)
「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう、食べ終えたの?」
 今更っと思いながら、スカッと底の柄が見えるまで、カレー汁を綺麗に平らげた丼を僕へ向けて、僕の器を覗き込んで来る彼女が嬉しい。
「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」
 和(なご)んだムードに、更に、プライベートな思いやエピソードを話し合えるかもと、僕はティータイムに彼女を誘う。
「いらない!」
 キツく語気を強めて、断わられてしまった。
 『いらない』には、きっと、僕も含まれている。
 彼女の、『もう今日は、君もいらないから、さっさと帰ってよ』の意を、僕は察した。
 空腹が満たされて眠くなった彼女は、幼子(おさなご)の様に『駄々を捏ねているんだ』と思いたいけれど、そうじゃない!
 彼女の気持ちは、今日のフリ出しに戻っている。
 互いの察しの無さと理解不足に、確認が全く無かった朝の出会いで、テンションが下がりっぱなした。
 戻りは何事も無く無事に来て、昼食も食べ終えたのに、まだ、朝を引き摺る彼女が腹立たしい。だから僕は、更に、彼女の機嫌を損(そこ)ねてダメ出しされる覚悟で、言ってみた。
「なら、これからどうする? 此処が嫌なら、サテンに移ろうか? それとも、ゲーセンへ行こうか?」
 僕らの格好じゃ、それくらいしか行く所がなかった。
 ショッピングモールや繁華街に場違いで不釣り合いだと思った。
「……ゲームセンターも、喫茶店にも、もう何処へも行かないよ。だいたい、場所を知ってんの? 私は知らないわよ!」
 そう、彼女のツッコミの通り、この辺りの地理に全く不案内だった。
 行く時も、帰りの道すがらも、チェックする余裕はなかったし、下見に来た時も、デートコースを全く考えていなかった。そして、今し方、うどん屋で話をして珈琲も飲んだのに、ダブった僕の言葉は、凄くチープに思えた。
「知らないけど、走りながら、探そうかと思って……」
 藪蛇(やぶへび)だった。
 僕は、もう繕(つくろ)えない。
「……行かない。もう、何処へも行かない。帰る!」
 サドンデス! 彼女の返答に、突然、二人の今日は終了した。
 不意に別れの時間が来たので、気持ちは焦った。だけど、内心はホッとしていた。
 今日は、良いところが一つも無かったし、下敷きになった左足は、益々ズキズキと痛くなっていて、落ち着かない。
 落ち着いた静かな声だけど、怒ったような口調で彼女は言った。
 黒曜石(こくようせき)のような無機質の瞳で、僕を睨んでいる。
 これ以上、無粋な誘いをすると、其の鋭いエッジで切り刻まれそうだ。
 『帰る』の言葉が、僕に寂しさを纏わり付かせてデートの終焉を察しさせた。
 『また、タンデムして身体が冷えるのは堪らない』、『今日はこれ以上、あんたの感覚に振り回されたくない』、『あんたとのデートは、これで終わり』、『あんたは、もう帰って』と、いくつもの僕を諦めさせる言葉を、彼女は言わんばかりだった。
 それでも、拒否されるのが分かっていても、それが建て前だと思われても、言わなければならない言葉が有った。
 彼女の言葉には応えずに、黙ってレジを済ませて店の外へ出る。
 先程よりも、雲の層が厚くなったみたいで、陽が翳らないのに薄暗くなった感じがした。
 通りを吹きぬける風も、心なしか強なって冷たい。だから、横で寒そうな仕種をした彼女に、せめてもと僕は言う。
「……分かった……、送って行こうか?」
 彼女の眉間に、皺が立つ。
 黒目勝ちな目の瞳が、艶の無い漆黒(しっこく)の深さで、全てを拒絶する冷たい暗闇のようだ。
「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」
 続いた『帰る』が、寂しさを凍りつかせて、深いクレバスの向こうに高い氷壁ができた。
 彼女に従うしかない。
「ああっ、此処で別れよう。僕も、陽が傾かない内に帰るよ」
 『別れる』、言いたくなかった悲しい言葉を、さり気無く言ってしまった。
(どうか、言霊(ことだま)になりませんように……)
 言葉数が少ない彼女に、僕らの関係が破綻しそうな、不吉な予感が滲むけれど、時間は戻せない。
 既にテンションは下がり、モチベーションが薄れてしまった彼女へ、今から今日の遣り直しを望んでも、許してはくれないだろう。
(今日は、僕のミスだ。選択肢が一つしかなくて、ごめん……)
 言葉に成らない。
 心の中で謝った。
 僕は、また、殻(から)に閉じ籠(こ)もりそうだ。
「さようなら」
 その言葉の響きが、ずっと遠くから聞こえてきたような気がした。
 彼女の声が、小さく耳に籠る。
 響きの中の寂しさと、虚しさと、切なさが僕を襲う。
 激しい焦燥(しょうそう)が湧き上がり、不安が僕を衝動的にさせる。
 『さようなら』は、『またね』じゃない!
(絶対に、今日の日を後悔するぞ!)
「次は……!」
 そう言い掛けた僕の言葉を遮るかのように、彼女は口元を僅かに微笑ませて、胸の前で小さくバイバイをする。でも、彼女の眼は笑っていない。
 不潔な汚物を触った手を見るような眼で、僕を見ていた。
 其の眼に確固たる不吉な意思の光りを感じて、僕は言葉を繋げずに口を閉じるしかなかった。
『これ以上、何もしないで、素直に早く帰って』という、彼女の意思を感じた。
(このまま……、このままじゃあ、だめだ! ……でも、どうする? 何か、このマイナス状況を一瞬で逆転する方法は無いのか? 考えろ! 呪文(じゅもん)は? シックスセンスは?)
 どうしようも無かった。
 今直ぐ、瞬時に明るく陽気なムードに逆転できて、優しく笑う眼の彼女に変えられる魔法も、超能力も、僕には何も無い。
 今、魔方陣も描けないレベルゼロの僕が、すべき事の最優先は、素直に彼女の意志に従って静岡への帰路に就(つ)くだけだ。
     *
 帰路のルート1で、Uターンをして彼女が暮らす相模原へ戻りたい衝動に、何度も駆られた。
(時間を空ければ、彼女の気持ちが和らぎ、次の機会に修復できるだろう。ちゃんとメールで謝ろう。きっと、一時的な感情で、もっと、彼女と良い関係になれるさ。次は、連絡を密にして、彼女の考えが分る様な意思の疎通をしなくちゃな)
 箱根(はこね)の山を越えた辺りから、悲観的で深刻な思いは、楽観的な考えに変わって来た。
(次も有るさ。次は、絶対に上手くやるぞ! しっかり、目的を決めて計画を立てる。失敗は、繰り返さない。次は、爪の事も謝れる。……かな?)

 

 つづく