遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

迷想(迷走)中 (私 大学一年生) 桜の匂い 第八章 弐

 信号待ちが有ると彼はその都度、停車する車列の間を抜けて先頭へ出た。悲劇は何度目かの信号待ちで車列の先頭に出ようと、路肩側を進んでいる時に起きた。

 ガクンとスピードが急に落ちると、彼は二、三度身を捩って叫んだ。

「降りろっ!」

 命令口調の鋭い声が、彼の背中からフルフェイスヘルメットの中へ直に響く。寒くてぴったりと彼の背にくっつけていた頭が、彼の動きに合わせて揺さぶられた。回した腕の中の彼が左右へ頻繁に姿勢を変えている。上半身を左へ振ると、何かを避けるように仰け反って右へ動きながら体を捻り、右で傾けた体は耐えているみたいに一瞬だけ固まった。そんな動きを彼は小刻みに繰り返す。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 続けて悲鳴のような大きな声がした。もう語尾の『逃げろ!』は怒鳴り声に近い。事態を理解しようと顔を上げると、フルフェイスヘルメットのバイザー越しに奇妙な彼の動きと、ゆっくりと外側に傾くお尻の下のシートのズレを感じた。

「ええ? うん!」

 彼の可笑しな身のくねりは、バランスを崩して倒れつつあるバイクを必死で立て直そうとしている姿だった。直ぐに私は道路へ飛び降りて後ろへ避けた。

(しっ、しまった!)

 私が飛び降りた勢いの反動でバイクの傾きが増して、彼が懸命に努力していた立て直しを絶望的にしてしまった。

 身をくねらせたまま彼は、そのバランスを崩していく大型バイクと共に路肩側へ、ゆっくりと傾いて行く。コマ送りのスローモーションのような動きでも倒れてしまうのは決定的なのを察しながら、思わず降り易い道路側よりも反対の路肩側へ飛んで、彼が倒れるのを防げば良かったと思うけれど、もう手遅れだ。

(あっ、あっ、いや……)

 今直ぐにバイクのステップを蹴って飛べば、まだ逃げるのに間に合うと思うのに後姿の彼はそれをしない……。

 左足の爪先が傾きを止める足掛かりを探して動くけれど、もう既に爪先は路肩から外れていて、巾三十センチメートルばかりの側溝の上だった。側溝の向こうの庭は道路より五十センチメートルほど低くて、彼はバイクに跨ったまま、其処へ倒れて行つた。

「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」

 私の声に、脱出を試みたのか、伸ばし過ぎた爪先でバランスを崩したのか、それとも倒れ落ちる愛車の破損を防ごうとしたのか、彼の体はバイクから離れて、バイクが倒れるよりも早く、転落して行くバイクの真下に落ちた。

『ドサッ!』

(あーっ、な、なんてこと……)

「ああああっ、だめぇー!」

 そして、仰向けで落ちた彼の上に大きなバイクが覆った。

 ガシャン!

「キャーッ」

 思わず私は悲鳴を上げた。路肩より低い庭先の土が剥き出しなった小さな花壇へ、彼は左肩から落ちて仰向け転がり、更に上から大型バイクが横倒しに被って彼の姿が見えなくなってしまった。

「くっ……。うっ、ううっ……」

 彼の悲痛な呻きが聞こえる。

(あっ、ああっ!)

 目の前で起きた信じられない状況は、彼にとって最悪の状態に見えた。

(かっ、彼が下敷きに……。あーっ、動かない! どっ、どうしよう)

 私はどうすれば良いのか分からない。目の前の出来事に息を呑み、足下の恐ろしい光景に声を失い身体が竦んでしまった。

 彼の体は右足、両手と両肩、首から上……、フルフェスヘルメットを被った頭だけが見えた。それら以外は前部、大型バイクの下になって見えていない。

「だっ、大丈夫?」

 呻きは聞こえるけれど、両手以外はピクリとも動かない体の彼に声を掛けてみる。どう見ても大丈夫じゃない!

「うう、まだ……、まだ生きてるぞー」

(良かったぁ~。詰まんない返事ができるから、大丈夫そうだよねぇ?)

「ちゃんと意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」

 言いながら急いで彼の横へ降りて屈み、バイザーの中の表情を見る。そして、眉を寄せて細めた眦の怯えるような瞳で私を見詰める彼に状態を訊いた。

「どこか、痛いところ有る? バス事故の時みたいな怪我してないよね?」

 去年のバス事故で、彼の挟まれた脇腹と背中の痣を思い出し、フラッシュバックする彼の痛みに耐える悲愴な顔が重なり、焦りと緊張で高まる鼓動が視界を霞ませて行き、締め付けられるような胸の息苦しさは呼吸を喘ぐように大きくさせて、指先と吐く息が震えてしまう。

(はっ、早く、彼を助け出さなければ……)

 彼の胸と首を圧さえ付けているハンドルに震える手を掛けるけど、触れている感覚が薄い。

「あっ、足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」

 やっと出しているような彼のか細い声が聞こえて、私はハンドルグリップをしっかり掴んだと感じるまで手に力を込めた。

(バス事故ん時も、私が訊いたら、そう答えていたよね。その痛がりよう、絶対、怪我してるよ!)

ぐっと握った手と腕に力を溜めて、全力で腰を反らして足を踏ん張った。だけど……、らくちんそうに軽々と彼は走らせていたから、案外フワフワしてるかもっていう幻想は、あっさりと砕かれた。

(ああっ、どうか神様、お願いだから、彼を救い出してください)

 重そうなバイクは、その見た目通りに凄く重かった。持ち上げるどころか、ハンドルも少しも動いてくれない。私の力なんて全然お呼びじゃなくて、彼を助け出せない私の非力さに途方に暮れてしまう。バス事故の時と同じで、今度も私は彼を助けてあげられない。

(くっ、どれだけ重いのよ! このバイクは!)

「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」

 顔を近付けて『ごめんなさい』と謝っても、このまま彼を放置できるはずが無い! 涙目の彼を見詰めながら『どうすればいい』って目力で問う。

「すっ、すまないが、そこの自動車を止めて助けを呼んでいただけませんか」

(なっ、なに丁寧に頼んでんのよ!)

 こんな緊急事態に妙な丁寧さで話す彼が腹立たしい。

「僕は、まっ、まだ大丈夫だから……、あう、ううっ」

(痛ったそう! 痛いの有り有りじゃない。涙ぐんでいるクセに、なんで我慢してんのよ! 今はカッコつけなくていいから……)

 顔を顰めて苦しそうに言葉を出す彼は、痛みを精一杯我慢して私を不安にさせないように気遣う。

(それに全然、大丈夫なわけないじゃん! 早く彼を助けなきゃ!)

「うん! わかった!」

 ヒクヒクと痛みで閉じそうになる心細げな彼の瞳を見て私は強く頷く。大声で叫びながら両手を大きく振って急いで路肩に上がり、道路に出ると直ぐに、信号が変わり動き出そうとしていた自動車の前に出て行く手を遮った。停車したままでいてくれた自動車のサイドシートのウインドーガラスは下げられて、助手席の年輩の女性が倒れたバイクの下敷きになった彼を見ている。助けを求めようと急いで女性の真横で顔の高さに屈むと、私を見ている運転席の男性と目が合った。

「助けてください! すみません。お願いします。彼が……、下敷きになって動けないんです」

 横目で見る彼は、止まってくれた自動車に向けて自由に動く両手を振っていた。

「助けてください……」

 フルフェイスヘルメットの中でくぐもった声を張り上げている。必死の叫びとバイザーウインドーの中の脅えた目が、彼の激痛に耐える限界を知らせた。

「大丈夫ですか? お手伝いしましょうか?」

 心配そうな顔で女性は私に訊く。悠長な言葉に状況は尋ねる域を過ぎていると思う。

(この女性は、きっと上品な育ちで、余裕の有る恵まれた環境で生活しているんだろうな)

 親切で言ってくれているのに、そんなふうに見た目で勘繰る私はさもしいのかも知れない。

「……だっ、大丈夫じゃないです。全然大丈夫じゃないです。ぜひ、お願いします。早く助け出さないと彼が……」

 信号待ちをしていた自動車が三台もハザードランプを点滅させると、数人の男の人達が急いで降りて来て彼を下敷きにしているバイクを囲んだ。青信号になってもハザードランプを点けた三台の自動車は其のまま停車していて、私に訊いた年輩の女性が後続車の通行を整理していた。

 『ゴボッ、ゴボッ』と、彼の湿った咳き込みが聞こえて、重みで圧迫される胸に上手く息が出来なくなって窒息しそうなのか、それとも今の僅かな間に、お腹や胸に何かが突き刺さって来て傷付いた内臓からの吐血で溺れそうになっているかもって、凄く心配になって慌てて駆け寄り、ヘルメットのバイザーを上げて顔を覗き込んだ。

 涙目に鼻水を垂れ流す顔の唇から筋を引く涎には、血の色が混ざっていなくて安心した。

「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱してね。直ぐに助け出して貰えるから」

 私の言葉に必死に頷く彼を見ながら、どうにかしてヘルメットを脱がそうと、チンベルトに指を掛けて緩めると、

「今は、そのままにして、バイクをどかしてから外してあげよう」

 横で彼の挟まれた状態を調べていた男性が、そう言ってから彼のバイザーを下げた。確かに大きくて重いオートバイをどかすまで、ヘルメットを被ったままの方が安全だ。

 私は邪魔にならないように彼から離れて道路へ上がると、五人の男の人達は彼の周りに集まって掛け声と共に、オートバイをずらすように道路へ運び上げた。圧さえつけられていた重みから開放されて地面に伸びる彼が、寝返りを打つようにして、また『ゴホッ、ゴホッ』と咳き込んだ。今度のは、ちゃんと気道が確保された咳の音だ。

「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」

 ハンドルをしっかり握ると低く腰を入れて彼の大型バイクを一気に起こした白髪混じりの男性が、サイドスタンドを出して固定しながら溜め息を吐くように言った。

「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」

 彼はまだ、倒れた位置で仰向けに寝ている。

(それって、身動き出来なかった重しから体は開放されたのに、自らの転倒を、見も知らずの人達に助け出された事で、気持ちが動揺して落ち着かないからなの?それに、ライディングテクニックの未熟さ故の立ち転けから、自分のオートバイの下敷きになるという格好悪い窮地を、私に見せ付けたショックの所為も有るでしょう?)

 自由になった両腕の肘を付いて、彼は上半身を起こそうと試みていけれど、慎重で動きは緩慢なように見えた。

(大丈夫よ。確かにライディングは危な気で、下手で、察しが無くて、カッコ悪いけれど、私を先に逃がして巻き込まれないようにしてくれたじゃない。それとも、その鈍い動作は、手足に残る痛みの辛さで、動けないからなの?)

「どこか怪我していないか? 痛いところは?」

 フルフェイスヘルメットを被ったままの彼の頭が左右に振られた。

(本当に痛くないの?)

「ほら、起こすぞ。立てるか?」

 後ろからの抱き起しで立たされた彼は、重心を右足に掛けて、やっと立っているように見える。

(あんな重いのの下敷きになってたんだから、フラつくよね)

「うっ!」

 少しフラつきが大きくなったと思ったら、小さな呻きが聞こえ、彼の左足がタタラを踏んで、どうにか倒れるのを防いでいだ。

(痛そうに、左足を庇っている)

「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら救急車を呼ぶぞ」

 見ていて痛みに耐えているのがわかった。彼の言葉と態度が去年の初夏、バスの事故に遭った時と同じ感じがする。

(やっぱり、痛いんだ……)

「いえ、大丈夫です。潰されそうになっていたから、……立ち眩みが来ただけです」

(うそ! 痛いんでしょう。痛いのなら病院で検査してもらおうよ)

 バスの事故で受けたダメージに痛がる彼を、強引に病院から連れ出して後悔している。連れ出さないで様子見の診断通りに入院させていれば、三日も彼を寝込ます事は無かったと思う。

(デートを続けたいあまりに平静を装ってるなら、やめて。次は車道側に倒れて、二人とも後続車に轢かれちゃうかも知れないのに。まだ私は、死にたくないんだからね!)

 転倒しても、ぶつかっても、タンデムしている私の方が遠くへ飛ばされ易いし、死亡率も格段と高い。こんな気持ちが塞ぐグレーな日に人生をサドンデスしたくなかった。

「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染みたりしていないし、破れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」

 彼を立たせてくれた一人が、彼の腕を掴んで支えながらヘルメットを脱ぐのを手伝って、それからチェックした外見からの様子を話してくれる。迷彩ジャケットの背中と左側に土が付いて、ジーパンの後ろ側も土でで汚れていていた。前側はタイヤのパターンっぽい跡と、クランクケースやエンジンからのオイル染みが有った。

「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」

 両脇で支える為に掴んいてくれた手が緩められて、そっと腕を離した彼は挟まれていた両足をぎこちない前屈姿勢で摩ると、フラ付き具合を診ながら起こした姿勢を正して言った。

「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」

 五体の動きに何も問題が無い事をアピールするジェスチャーをしながら、返答する笑顔の彼の語尾切れの良い明るい声のトーンからは、何も不安を感じさせない。

(口だけが笑ってる……。これからは演技派の彼に騙されないよう、気を付けよう)

「そうか、頭は大丈夫そうだな」

(うっ、それって、思考や記憶に問題は無いけれど、身体はダメージが有りそうって意味込めなの?)

「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」

 ちょっとズレた返事は、私がいっしょにいるからワザと惚けていると思った。私がいなくて彼一人の自損事故なら真摯に怪我の状態を伝えているだろう。

「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」

 傍で見ていた女性が、私の思いを代弁するかのように、ダメ出しをする。

「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」

 ダメージは殆ど無いとアピールする笑顔の彼のジェスチャーが、中学校の卒業式の帰り道に見せたぎこちない歩きと、去年のバス事故で苦痛に耐える目の笑っていない笑顔が被って来て、痛々しいと思ってしまう。

 さっきも、後続車の影で超過の速度計測を済ませた白バイがハイビームを点灯してサイレンを鳴らしながら、死角を衝いて急接近して来るのを彼よりも早く私が気付いて知らせた。その白バイに真横で聞き取れない大音量でガナられ、彼は高額の罰則金と免許停止寸前の減点の御沙汰になってしまった。

 加えて、『自動二輪免許取得後一年未満だから二人乗りはダメ』と、ボソッと言ってたけれど、加罰すると彼は免停確実、罰金もプラス、に同情したのか、それ以上は何も言わなくなったから黙認されたかも?

 その時も、悔しいような、恥ずかしいような、誤魔化すような、媚びるような、憐れで惨めな笑顔をしていた。

(おい! 痛いなら痛いと、でも頑張るから大丈夫と、そう正直に言えばいいのに。なぜ、嘘を吐く!)

「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、病院で診てもらいます」

 彼の言葉を聞きながら、私は今だけの覚悟を決めた。

(ーったくう、しょうがないなあ。取り敢えず彼の様子を見ながら、付き添ってあげようか)

 女性は彼の返事を聞くと視線を私に移して来る。その本気で心配する顔に私は目を逸らさずに頷いた。彼への心配に私も含めてくれているのが嬉しい。

 この後、彼が気分の悪さや痛みでライディングを躊躇うような感じがしたら、無理させずに病院へ行って治療させると心に決めた。

「本当に、酷い怪我をしなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」

 女性は、ぎこちないジェスチャーで安心させようとする彼への不安を、頷き返した私に『お願いするわね』の意を込めて、傍らの夫らしき男性へこの場から離れる事を促す。

「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」

 女性に促された男性は優しい別れの言葉を掛けてくれる。二人の言葉に頷くでもない彼は引き攣るような笑顔で立ったままだ。

(そうよ! ちゃんと聞いてんの? 可愛い私に怪我させないでよ。……でも、あなたは真っ先に私を逃がしてくれたわね)

「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺います」

 見ず知らずの私の突然の願いを聞き入れて、彼を助け出してくれた皆さんは恩人です。遠方の方だと御礼に伺うのは難しいかも知れないけれど、せめて御礼の葉書や品物を贈りたいと思った。礼を失ってはならない。

「うふふっ、恩人て、大袈裟ねぇ。名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」

 この人達にとっては、今の私達の……、いや、彼の不幸は当たり前に助けられる普通の事だったんだ。

「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」

 何気に爽やかな事を言ってくれた。助けを求められても、その行動を躊躇する人が多いのに、見ているだけの通り過ぎる人が多いのに、この人達は違っていて行動を起こしてくれた。

 この人達が救出してくれなかったら、他の助けてくれる人を見付けたり、電話して救急車が来るまでに挟まれていた彼の左足は折れていて、それはきっと、折れた脛骨が飛び出すほどの大怪我になっていたと思う。だから本当に、心から感謝致します。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 きちんと腰を折り、黙って頭を下げているだけの彼に、『感謝や御礼の気持ちを声に出して、ちゃんと伝えろ』って小突いて遣る。

「あっ、ありがとうございました」

 ハッと気付いた彼が慌てて顔を上げて大きな声で言う。

 車体の左右前後で点滅していたハザードランプが、発進を示すウインカーランプのチカチカと小刻みな明滅に変わり、動き始めて行く自動車の助けてくれた人達へ彼の声が届いて、『ちゃんと病院で診て貰うのよ』、『気を付けてな』、『無理して事故んなよ』、『彼女、彼をよろしく』と、彼ばかりか、私にも親身な言葉を残して行った。

「とても親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」

(全く、心配する言葉の通りだ。我を張らなくていいから。無理してカッコつけようとしないでよ。私がタンデムしてあげてるんだから、セイフティライディングして下さい)

 何処の誰とも知らない人達が、何処で何をする為の移動中だったのか、全然分からないけれど、その途中に時間と労力を使って、彼を……、私達を助けてくれた。

「ああ、本当に助かったよ。超感謝だね」

 彼の言う通りだ。察しに、思い遣りに、気遣い。助けた代償を何も要求せずに、優しい親切な言葉を掛けながら去って行く姿は、私達を感動させて感謝の気持ちで一杯にさせた。

(心から感謝です)

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 彼の返答を分かっているのに私は訊く。けれど、歩くだけで転けたり、オートバイに跨っただけで立ち転けしたり、痛みに耐えれなくて蛇行したり、休んだりしたらなら、直ぐにツーリングは中止させて病院へ連れて行こうと決めていた。

「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」

 言い終わらない内に彼の体がカクカクとブレて、ヘタヘタぺたんとしゃがむように其の場に座り込んでしまった。

 倒れてはいない。でも、今直ぐに挟まれていた彼の左足を診て貰った方が良いのではないかと、私は迷う。

「そう、全然痛く無いのならいいんだけどね。でも、もう暫く、あと三十分くらいは休んで行きましょう」

(『彼を、よろしく』って言われた以上、気遣いくらいはしなくちゃね。もう少しして、交通の邪魔にならない所へオートバイを移したら、熱い缶珈琲でも御馳走してあげるわ)

 それに私のドキドキする胸の動悸も、まだ治まっていない。

「……うん」

 私は、彼に付いた乾いた土の汚れを手でパタパタと掃って落とすと、ショルダーバックから取り出したアルコールテッシュでオイルの染みを拭き取り、彼が拭い残した顔の汚れも綺麗にしてあげた。

「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」

 そう言いながら、汚れ落としの終了と、『もう戻っていいのよ。足が痛むのでしょう。相模原の国道沿いのファミレスでもいいじゃん』って意味を込めて、両手でポンッと彼の肩を軽く押した。

「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから続きを走るから」

(くっ、鈍くて頑固で察しが悪いなあ。もしかして、意地になってんの?)

     *

 三月中旬に母といっしょに相模原市へ来た。受験の時に幾つかの物件を下見して一番気に入ったハイツを合格通知が届いた日に、電話で仮契約していて借りる事ができた。大学の在る通りの直ぐ近くなのに、まだ空いていたのはラッキーだった。『ハイツ』の発音は、少し小奇麗な高級っぽさをイメージさせてグレードアップした間借りみたいだけれど、実際の建物は鮮度が落ちた野菜みたいに色褪せた薄緑色の『アパート』の外観だった。

 不動産屋で手続きと挨拶を済ませて鍵を受け取ると、営業マンが車でハイツまで送ってくれる。

「ゆっくりと町を見ながら、娘と歩きたかったのに……」

 営業マンがセルモーターを回してエンジンを始動させる営業車を前にして、母が独り言のようにボソっと言った。

「お母さん、それは部屋を整理してからよ。どうせ、足りない物や必要な日用品を買いに出なくちゃならないでしょう。近くのスーパーや店の場所と、駅のショッピングセンターの品揃えも知りたいしね。それに、今日は外食にするんじゃないのぉ?」

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 萎びた野菜色のハイツの前に着くと、下見の時に『ここなのぉ~?』と思った印象を改めて感じる。それでも、バス停に近くて大通りから直接見えない立地と、リフォームされて住み易そうな内装が気に入って決めた。

 部屋に入って直ぐに、宅配便で届いていたダンボール箱を開いて中身をチェックする。送った全ての荷物の無事を確認し終えて、母と生活に必要な雑貨や家具や電化製品を近くのショッピングセンターへ行き買い揃えた。

 掃除を済ませた部屋に届いた家具を並べ電化製品をセッテングして、段ボール箱の中身を整理し、散らかしたゴミを片付けると、それまで簡単なリフォームをされただけの何も無いただの箱のような無機質な空間が、まるで生きているような暖か味の有る清潔な部屋になった。

 三月下旬に満開になった桜は四月の入学式を待たずに散ってしまった。母も私に一人で生活する術を教え、私の自炊力に安心して? 入学式が済むとさっさと金沢に帰って行った。

 初めての土地に一人で生活を始めて三週間。大学や自炊に慣れて生活リズムにゆとりが出て、ちょっとずつ生活テリトリーを広げている。

     *

(あっ、風が変わった。海の匂いがする)

 しがみついている彼の匂いに潮の香りが混ざって来た。さっきまで関東の街の臭いだけだった風に混じり出した、海辺の……、海が近い懐かしい香りを嗅いだ。

「……海の匂いがする。このまま行けば横浜の港だ」

 風切り音に負けないように、大声で彼が叫んだ。彼も気が付いたんだ。

「うん。私も……」

『私も分かる』と言い掛けて止めた。

「あはは、犬みたいね」

 私も大声で叫んだ。彼を大事にした……つもり。

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 ちょっとよろけながら彼はオートバイを路肩に寄せて停めると、フルフェイスヘルメットのバイザーを上げ、私に振り向いて頭を下げた。

「ごめん、道に迷った」

(あ~あ、潮の香りがしなくなったと思ったら、そうゆう事なの)

「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」

 さっきから微かに強まっていた潮の香りが消えて、湿り気の有る土や草木の臭いに鼻が擽られる感じだったから、違う方へ来ているんじゃないかと思っていた。

(えーっ、間違えていたのぉ。何、考えていたのよ? あんたぁ!)

 今、彼が何を考えているのか知りたいと思った。不甲斐さ続きで、きっとナーバスになっているのに違いない。でも、気分を害して意地悪な私は優しげなフォローを施すに彼を追い詰めて試す。彼の判断力、決断力、機転、気配り、そして男らしさを見極めたい。

「やだ、ここまで来て迷ったの? もう少しなんでしょう?」

 見上げる頭上の青地の案内板には至る地名が『戸塚』と、太い白文字で記されている。さっき線路を跨ぐ陸橋をグニャグニャっと左右に曲がり下りて来て、浜松町と表示された交差点を右に折れて来た。

『ガチン!』

 私の非難に彼は言い訳を言おうとしたのか、更に私へ顔を向けようとして互いの上げたバイザーが勢いよくぶつかった。

「ちょっと~、気を付けなさいよー」

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 彼がオートバイを止めた場所は、横浜港の大桟橋へ上がる坂道の袂。

 海辺に来て強まった潮風が肌寒い。東京湾から吹き寄せる潮風が、能登半島や加賀の浜に比べて潮の香りは少し薄いと感じた。それに僅かに生臭い。

「ここ、知らないわ」

 板張りの盛り上がり、港の背筋がゾクゾクする群青色の寒そうな水面、曇り空の下、光量不足の大気に視界に入る全てが艶消しの平面画みたいに映り、遠くの景色も湿った空気が霞ませている。大桟橋は国際航路の大きな客船が接岸するらしいから、坂の上に見えるバスロータリーらしき場所の向こうには何かしらの施設になっていると思う。

 天候の所為なのか、ちっとも楽しそうな場所に見えない。それでも、カジュアル雑誌の記事で此処にはパワースポットが在ると書かれていたから、たぶん、大桟橋を歩けば、楽しい気分になるかも知れない。

 だから、『嬉しい場所になるといいな』って、横でキョロキョロと辺りのロケーションを確かめている彼に、モチベーション・アップの声を掛ける。

「行こっ!」

 彼が動くのを待たずに、私は歩き出した。バスロータリーを横目でみながら板張りの坂道を上り切ると、其処は海へ伸びた砂丘の連なりのよう。ただし、砂じゃなくて一面の板張りだ。大きなうねりの板張りが砂丘を歩いているみたいで不思議に面白いと思う。足裏の感触は潜って纏わり付く砂じゃなくて堅い板だから歩き易い。

 左手には赤レンガ建ての大きな倉庫が二つ、確か、あそこもカジュアルなデートスポットのだ。そこなら、オートバイにタンデムした私達のスタイルでも違和感が無いと思う。

 右手には年季の入った商船みたいのが停泊していて、その近くには朱色のタワーも建っている。何か有名な観光スポットかも知れない。沖の方にはベイブリッジらしき白い大きな橋が見えて、その向こうに広く光る海面は青々と煌いていた。こちらへ近付いて来ているように見える晴れ間に、早く此処を照らして気分を一新させて欲しいと願う。

 挟まれていた左足が痛い筈のゆっくりした歩きに合わせて、右へ、左に、何が在って見えているのかと、少しアップ・ダウンの蛇行をしながら大桟橋の先端まで来た。

 途中、三つの塔が白い外郭ラインで描かれたビューポイントが有って、正面の曇り空の下、横に広がる横浜市街の奇妙で複雑なスカイラインの中に、幾つかの塔が、それぞれ独特な姿で競い合うように聳え尖っているのが見えた。それらの塔の三つはパワースポットか、パワーポイントだか知らないけれど、キング、クイーン、ジャックの横浜三塔とも見える場所が横浜市内の観光スポットに、三箇所在ると雑誌に載っていたのを思い出した。その三箇所全ての観光スポットで三塔へ祈れば願い事は叶うらしい。

(そっか、パワースポットって、これかぁ!)

 陽に照らされていない横浜の町並みのスカイラインは暈やけて、三塔のシルエットが探し難い。クィーンとキングの二つは直ぐに分かったけれど、小さいジャックは見え難くて二人とも確信が持てなかった。

(その一つが、ここ大桟橋だったんだ。願う場所は、それぞれの塔じゃなくて、三塔全部が見える観光地なの? なんかアバウトな感じね)

 チラッと三塔を一瞥しただけで私は願い事をしない。願掛けなどに興味が無くて、今も祈願や祈祷をするつもりはなかったのに。

(あっ、時々、神社や御地蔵さんにしてるわ……。そうそう、受験の祈願もしたっけ。あの時は金澤神社で彼を見掛けて絵馬を重ねたなあ。運命の赤い糸を意識したり、……なんてね。まっ、彼と私が無事に帰れますように、……彼は静岡のアパートへよ)

 思い直した私は立ち止まって、此処へ来る途中みたいな事が起きないようにと、三塔を仰ぎ見ながら心の中で御願いする。

 ビュースポットから先端へ歩いている間に待望の晴れ間がやって来て、辺りは明るく煌きだした。陽射しが透明にした大気は暖かく、太陽の匂いがする。

「ここは晴れてくれたな。暖かくなって良かった」

 大桟橋の先端の柵前に有る展望用の有料双眼鏡に凭れる彼が空を仰ぎながら言って、横目で私の様子を見る。

「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」

 厚い曇り空を、ぐるっと此処だけ丸く穴を開けたように青空が広がって、照りつける陽差しの熱がヘルメットや手袋を外した素肌にプスプスと突き刺さるように思えた。麗らかな暖かい風が海から吹きつけて来るけれど、時々、雲影から運ばれて来た冬の残りのような冷たい潮風が汗ばみそうになる肌を冷やして、ブルブルと首筋や背筋を勝手に震えさせた。

「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」

 聞こえた彼の感慨深い、独り言のような声に、私も同じ想いでいた。

「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方の透き通った蒼い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうかも、なぁんてね」

 そう言葉にしたくらい、陽射しの暖かさと眩しさは私に幸せ感じさせてくれていた。でも人生の半分も生きちゃいないと思うから、『まだ私達を召さないで』と願っている。

 大桟橋の先端で手摺りに凭れ掛かりながら見た海面は、春の柔らかい陽を受けてテラテラと艶めかしく反射する真っ青な眩しい光で満ちていた。

(この青々とした波も、綺麗!)

 大型護衛艦や最大級の国際クルージングの客船が接岸できる大桟橋周りの陽を受けた波の色は、能登半島先端の貝殻屑の白い浜に寄せるエメラルドグリーンの波や、立戸の浜の透明な水色の波とは全然違って、かなりの深さを感じさせた。

(ここじゃ、深すぎて彼を沈め倒したら、私まで溺れそう……)

 彼を刺し貫いて希薄なシルエットにしてしまう眩しさに手を翳して、蜃気楼のように春の霞に淡く暈やける白いベイブリッジを見ていると思い出した。

(どうして立戸の浜では、あんなに素直に話せたのだろう……。彼を否定していなかった。……だのに、今日は全然、話せていない……)

『ねぇ、どうしてだろう』って問い掛けるように、傍らの双眼鏡の処にいる筈の彼がいない。てっきりコインを入れて双眼鏡で行き交う船舶やベイブリッジを見ていると思っていたのに。

(痛む足で、何処へ行ったぁ?)

 ぐるりと辺りを見回すと、近くのベンチでへばっているのを発見した。

(いた! 上を向いて空を見てるん? ……ううん、寝てるの?)

 両手をベンチに付き、両足を投げ出し、仰け反るように空を仰ぎ見る彼は目を瞑って寝ているみたいだ。そぉっと、彼を起こさないように忍び足で近付いてみると、本当に鼾混じりの寝息を立てて熟睡していた。

 朝早くから遠くから運転して来て、更に知らない道を迷いながら此処まで辿り着いた。風は肌寒いし、私への緊張も有って、晴れ間の暖かさに疲れが出たのだろうと思う。だけど、私をほったらかしにして自分だけベンチで気持ち良く寝てるなんて、腹が立つ。

 すくっと立ち上がった悪戯心が彼を乱暴に起こしたいと行動させた。でも、勢いよく出した足は考え直して爪先が彼に届く前に止めた。

 彼は足を痛めている。だから、脛を蹴るとダメージが悪化してしまう。腿に踵落としをしても同じで可愛そうだ。なので、後ろへ回って痛めてない側の脇腹を廻し蹴りしてやった。

 一蹴り目、綺麗に入ったのに弱かったのか、グズるけれど、まだ寝ている。

 二蹴り目、今度はグッと回転を強めて同じ場所に決めると、グラッと傾いた上半身がグッと戻り、キョロキョロと動いた頭が私を見付けて、引き攣る顔の見開かれた目が私を見詰めた。

「ごめん。太腿を蹴るつもりが、脇腹に当たっちゃった」

『蹴ったのか?』と、彼に問い詰めれる先に、怒るかも知れない惚けた言い訳をしてみる。

「寝てたから、起こしてくれたんだ」

 以外に素直な反応に、悪戯気分が冷めてしまい、軽く逸らすような返事をして冗談を終わりにした。

「うん、そうよ!」

 蹴られた脇腹を摩る手に、バス事故で痛めていた場所だったのを思い出した。私を守って内臓を潰しそうなくらいに挟まれた彼の脇腹。去年の事故の時に治療もさせずに私は彼を連れ回していた。

(あの時は、ごめんなさい……)

「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」

 無理矢理起こされた事に、私が物足りなさそうに思えたのか、彼は近くのデートスポットへの散策に私を誘う。『向かい側の赤レンガ倉庫やミナトミライを覗こうか』、『大桟橋の袂の山下公園を歩いてマリンタワーや氷川丸へ行こうか』と。

(赤レンガ倉庫は、あっちに見えているアレだ。公園とタワーは、あの岸壁と向こうの朱色の奴かな? ヒカワマルってのは、たぶん、あのモノクロの記録映画に出て来そうなレトロな船かも?)

 彼が『遊覧船に乗ろう』とも言ったけれど、荒い波に揺られて気分が悪くなりそうだ。

 さっきだったらは彼の言う場所も『行っても良いかな』と思っただろうけれど、私は拘っていた。この季節、間に合わせのダサい真冬のファッションで、こんなトレンディーなデートスポットに来ると思ってもみなかった。だから今は、直ぐそこに在る雑誌を見て訪れてみたいと憧れていた場所へ行きたくない。それに寒くて軽い頭痛がし始めている。

「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」

 冷たく坦々とした声で彼に言った。

(日を改めて、もっと暖かい弾んだ気持ちで来ようよ。足はバイクじゃなくてね)

 この時点では、彼に少しがっかりしたくらいで、まだ次が有ると私は思っていた。

 免許取立てにしては、路面状態が読めなくてオートバイの下敷きになった以外は、しっかりと走らせていたし、白バイにスピードオーバーで捕まってタンデムも咎められたけれど、好い加速をしていたとスピード好きな私は思う。だから今のところ、減点は道に迷ったぐらいだ。

 大桟橋で天使の梯子に包まれた暖かさは、とても気持ちが良かった。次は陽溜り以上に暖かい季節に来て、もっと爽やかな感動をしたいから、また此処をいっしょに歩きたい。

 手が届かないくらいの距離を空けて、彼の横を彼に合わせてブラブラとゆっくり板張りの床を戻る。右側から板張りの丘のような大桟橋へ登ったから、左側へ降りるコースで歩いて行った。

     *

 スムーズに入れた一号線は、川崎方向に向うような間違いをしていない。彼はちゃんと来た道を覚えていた。頭上の大きな青い案内板に『町田・八王子』の白文字が並んで描かれている。次の交差点を右折すれば国道十六号線になり相模大野まで一直線で帰れる筈だ。でも彼は曲がらずに交差点を過ぎて行く。

「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないのぉ?」

 案内板や標識に気付かなかったのだろうか? 見ていても何処か知らなかったのだろうか? 今度は何処まで行って、どうやって相模大野へ戻るのだろうか? 彼は同じ過ちを繰り返している……。

 まだ寒さが残る季節の冷えた大気の曇り空の今日、防寒に有り合わせの普段着を着込んで彼のこの大きなオートバイに乗るつもりはなかった。寒さに震えながら辿り着いたのに、戻るのに来た以上の時間が掛かるのは腹立たしい。

(あなたのノウミソをジャブジャブ洗ってあげれば、もっとしっかり察して、ちゃんと私を気遣ってくれるようになるかしらね?)

 鼻水が垂れて来るくらい凍えるのは勘弁して欲しいと思った。いつ雨が降ってもおかしくないような雲で覆われた日に、普段着姿の彼女をタンデムさせたツーリングなんて有り得ないでしょう。

(また、迷っちゃうの? ねぇ、こんな大きなオートバイに乗っているのに…… もっとしっかりしてよ!)

 道を間違えているのを諭そうと、彼のヘルメットをコンコンと軽く小突く。

「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」

 そう、ヘルメットを小突いた私の不安を察して答えながら次の交差点で曲がり、相模原の方向へハンドルを切った彼は穏やかにオートバイを走らせて行く。

(なんだ、気付かなかったんじゃなかったんだ。そっか、ちゃんと大事にされてたか……)

 大桟橋への行き帰り、彼の広い背中が四月の肌寒い風を遮って私は寒くなかった。戻りは何処を走っているのか、さっぱり分からなかったけれど、後ろから彼のウエストへ両手を回して抱き着くように体をくっ付けていると温かくて、フルフェイスヘルメットを被った頭も靠れ掛けると、うっとりと眠りそうになるくらい頭痛も薄らいで安心した気持になった。

     *

 いくつかの信号待ちの停止とコーナーを曲がる揺れに身を任せて浅く眠っていた私は、ギアシフトを下げて減速した走りが続くエキゾーストサウンドに気付いて瞼を上げた。

(此処は何処?)

 寒くないように走るって言っていたのに足が冷たい。エンジンやエキゾーストパイプからの熱で足の内側は温かく感じていたけれど、朝より曇の厚みが増して来ているのか、空気が行きよりも冷たくなっていた。走行するオートバイが切り裂く大気は冷たい風となって両の足の外側を凍えさせている。

 見慣れない通りを彼はゆっくりとオートバイを走らせていた。駅裏の商店街っぽい通りを進んでいる。まだ来た事は無いけれど、たぶん、相模大野駅の南口付近だと思う。

「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」

 路肩に寄せたオートバイを停車させてギアをニュートラルにすると、彼は先に降車させた私へ顔を向けて、そう言った。

 それから、サイドスタンドを立て、エンジンを切る彼と饂飩屋や通りの様子を眠気眼で見ていた私は、『えーっ、ここなの』って驚きに、悴んで地に着いている感覚の薄い足が無意識に動いた後退りは背後のオートバイに阻まれた。

 ジーパン越しに触れる脹脛が温かい。一秒……、二秒……。

「あちっ!」

 あまりの熱さに体が一歩分前に跳ねた。眠気は吹っ飛び、一瞬で目が覚めた。脹脛が触れていたのは目玉焼きが作れるくらいに加熱されたエキゾーストパイプ、所謂マフラー、排気管だった。

(うーっ、なんでこんな目に遭うわけぇ。楽しみにしていた折角の今日は、ほんと厄日だわ!)

 翳り行く気分にぐちゃぐちゃに絡まる埃塗れの運命の赤い糸は、憤りで瞳に滲む涙で流して遣りたい。

 直ぐにGパンの裾をズリ上げて見た脹脛の熱かった部分は丸く赤味を帯びて、見てる間にヒリヒリと痛んで来て赤さが濃くなった。これは暫く痛みが続いて痕が残りそうだ。面積が広いから、たぶん、グチグチして治りが遅いと思う。

「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう!」

 擦り剥いたような痛みは耐えられそうなので、彼に『痛い』と知らせない。

「ごめん……」

 私の不注意なのに、彼が謝った。

(ここは、謝りの言葉よりも、『大丈夫』って心配が欲しいのに!)

 少しの距離でも走行すれば、エンジンとマフラーが素手で触れられないくらいの高温になるのを、御里のジレラ君で知っている。ヒリヒリする痛みがジワジワと強まる不快感を黙って耐える私は、彼の勘違いな『ごめん』に返事をしてあげない。

 無事に相模大野へ戻って来れたのに、気の緩みで火傷した自分が恨めしい。

     *

 私が後退りしたのは、『うどんや』と書かれた暖簾が下がる大衆食堂。食品サンプルが並ぶショーウインドーのメニューには、蕎麦や酢豚にラーメンやカレーライスのイミテーションも置かれていて、決して饂飩専門店ではなかった。夏季(六月から十月)限定で『冷やし中華』『冷やしうどん』『そーめん』『ところてん』が別枠になって、『ざる蕎麦』はオールシーズン側だけど『冷麦』まで並んで有った。どれも私好みで嬉しくてこの店を良く利用したいと思う。でも今、彼にツッコミを入れるのはメニューじゃない。

「……ここで、お昼…… 食べるの?」

 今日はトレンディなメジャー処は無理っぽいけれど、『もうちょっと、コジャレたカフェなんて無かったかしら』と、暖簾をくぐる前に通りの左右を眺め廻しても、それらしい店の看板や広告は見付からなかった。

「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも食欲ない?」

 なんか、ズレた返事にされたと思ったら、続けて更にスベる事を彼が言う。

 大桟橋で彼の後ろに乗った時には、何処にも寄らずに相模大野の駅へ来て、直ぐにお別れするつもりだったのに……。

 早く自分の部屋へ戻って炬燵で熱い御茶を飲みながら、明千寺の御婆ちゃんが送ってくれた能登の笹乃雪と味噌饅頭を食べて、ぬくぬくごろごろしながらテレビを観ようとしていたのに……。

 店の前に漂う美味しそうな匂いと食欲をそそるリアルなイミテーションに、『彼と一緒のランチでも良いかな』と思ってしまう。

「あっ、支払いは僕だから、何でも好きなの言ってよ」

(だよね。もちろん、勘定はあなた持ちよ!)

 最初に代金の支払いを言うなんて、ランチが大衆食堂に確定しそうなトークで、げんなりした気分に彼のデリカシーの無さが追い打ちをかける。もうツッコミを入れる気も失せて、このガッカリ感は、『不甲斐無い、あなたの所為?』、『堪え性の無い、私の所為なの?』って彼に問い質したい。

 今日のデートは最初に彼が誘ったのだから、彼がセッテングすべきだったのに全くの無計画だった。私に会いに来ただけで何処で何をするかも考えてなかったし、デートスポットの情報すらも調べていなかったのは明らかに彼のセッテングミスだ。

(でも、それを予想してのフォローを、私がしなくてはいけなかったんだろうな……)

 でも、でもでも、私は今日のバッドセッテングを全部、気配りも、気遣いも、自己中心的な彼に所為にしたい。

「僕はカツ丼にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長やお多福で良く食べてたんだ」

(うっ、そう来るか……)

 お昼は想定外の饂飩屋さんで、ずっと曇り空の肌寒い中を走って来て結構、肌が悴んでいる筈なのに温かい饂飩や蕎麦じゃなくて、丼物の王道のカツ丼を彼はオーダーすると決めた。

(そうね。確かに饂飩やお蕎麦や丼物は、お多福や加登長で食べていたし、よく出前も取っていたっけ)

 中学生の頃からだったか、外食は洋食が多くなってファミリーレストランへ文字通り家族で良く食べに行っていた。だから、丼物の玉子丼、親子丼、他人丼、天丼、カツ丼は、懐かしい感じがする。

(丼物みたいなハワイルーツのロコモコは、ファミレスだけどね)

「それじゃあ、私はカレー南蛮にしよおっかな。蕎麦じゃなくて、饂飩で御願いね」

 本当は、カレー専門店のカレー饂飩が好きなのだけど、『かれーうどん』は蕎麦屋さんのが元祖みたいだし、しかも蕎麦ではなくて饂飩ベース。

(カツ丼に対抗するのはカレー饂飩というか、カレー南蛮でしょう。天丼じゃダメよ! それにカレー

は好きだしね)

 彼のカツ丼に圧勝するのは、鴨肉と長ネギが入いるカレー南蛮しかないと、咄嗟に思い浮かんでオーダーした。

(たぶん、南蛮の肉は値段の高い鴨じゃなくてアヒルの合鴨だと思うけれど、大抵は好い味に仕上がっているんだ)

     *

「いただきまーす」

 食事前に手を合わせて唱える感謝の言葉は彼とハモってしまい、些細な日常の習慣のシンクロが照れ臭くも新鮮に思えた。けれど、モヤモヤ気分の今は腹立たしい。

 割り箸を二つに割ってカレールーを絡めた饂飩を一本摘み、ふぅふぅしながら口に入れる。

(おおっ! けっこういけるじゃん!)

 十分ほど待ってカツ丼といっしょに届いたカレー南蛮は、昔ながらの饂飩屋のカレー饂飩と違っていたけれど、なかなかの味だった。よく煮込まれて柔らかい合鴨の切り身が美味しくて、これからも時々来ようかと思う。

 丼を手前に寄せて、ぐぐッと丼の縁へ髪の毛が入らないように顔を近付けたら、カレールーが絡む一、二本の太い麺を短く摘んで持ち上げ、ルーが飛び散りる麺尻の撥りに気を付けながら噛み切って食べる。決して啜ってルーを飛ばすような事はしない。

 食べている姿は上品に見えそうにないけれど、服を汚さずに美味しく食べる為だし、それに、この方が良く味わえる。

 向かい側の彼に、こんな犬食いスタイルの私はどう映るのだろうと、食べながら彼を見る。掴んだカツ丼の丼を口へ近付けて仰け反るように食べていた彼は私を見ていた。箸の動きが止まって暫し丼の縁越しに彼の上から目線と、私の上目遣いが見詰め合う。

 カツ丼を食べる彼が御箸の中程より先端近くを握ってるのを見て品の無さを感じた。それに持ち方も変で、持つというより握っている。なのに器用に扱い慣れている様は、私を愉快にさせて嫌悪の言葉を口にするのをやめさせた。

(『まるびー』では、スプーンやフォーク、それにナイフも慣れた手付きで使っていたじゃない! なんで、箸だけそんな持ち方するのよ! ふつう、自分で気付いて治そうとするでしょう。おい!)

 呆れと蔑みの笑いで片方だけ吊り上がる口の端を隠すように私は、粗方の麺と具を食べ終わった丼を両手で持ち上げて、底に残ったカレールーを飲む。汁底に溜まる箸にも掛かり難い麺や具の切れ端を残った最後のカレールーと共に、全て口に掻き込んだ。

『おっさん臭い』と、彼から突っ込みが入るかなと、口に被り当てたままの丼の脇から覗いて見た彼は、既に綺麗さっぱりと平らげたカツ丼のどんぶりを見詰めていた。

 空になった丼越しに見た彼は、食べ終えた満足感からなのか、『ふぅー』っと、溜め息を吐いている。出て行く息の音が吸い込む音に変わり、彼は更に長くて大きな溜め息を吐く。二度目は気持ちを落ち着かせるように、迷う気持ちを一つに定めるように『ふうーー』っと、息を吐いた。

 そして、意を決したように横の椅子に置いていたディーバックから、緩衝材で包まれた小箱を取り出してテーブルの上に置いた彼が言った。

「ちょっと作ってみたんだ。久々の新作だよ」

 彼は小箱から緩衝材を除け、柔らかく丸められたティッシュペーパーが詰め込まれた中からショートケーキみたいのを、そっと掴み挙げた。

「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」

 中学生の頃から彼に美術の才能が有るのを知っている。ワザワザ持って来て私に見せ付けるだけの事は有って、ブラウン系のパステルカラーのショートケーキっぽいソレは、きっと、トレンディマガジンに載った写真で見たワイン畑のシャトーや山岳地帯の砦のミニチュアだ。

「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」

(どうかなって訊かれてもねぇ。上手じゃんとか、凄いとか、可愛いとか、そんな在り来たりの感想を聞きたいのだろうか?)

 本音の『詰まんないね。そんなモノ持って来てどうすんの? 私いらないから』なんて、言いたいのを我慢して惚けてみた。

「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」

 着色した色の所為か、食べれないのに美味しそうに見える。

「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」

 私の惚けがウケたみたいで、嬉しそうな笑顔で言いながら、彼はミニチュアを自分の前から私の真ん前へ置き直した。

「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサバランかな。金沢市は、小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」

 あの店はアップルパイも美味しい。サバランとアップルパイは家族みんなが大好きだから、時々、高校の下校時に小立野のバス停で降りてを買って帰っていた。

 お菓子のお城みたいのを見たら、食べたくなって来た。

(サバランも、アップルパイも、今、食べたい……)

「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」

(むっ! 食べるわけないじゃん! それくらい分かるわよ!)

 彼の詰まらないジョークにイラッと来るけれど、ここは大人なの対応をしてあげよう。

「ふーん。良くできているじゃん」

 実際、良く出来ていた。細部も、全体も、中世の小領主が守りを固めて住んでいたような雰囲気が出ている。

「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」

 彼の絵や造形の作風は好きだけれど、ワザワザ私の為に作ったというミニチュアのオブジェは、『これを見る度に僕を思い出してくれ』の意味だろう。感じる負担に、モチベーションが下降して、私はくすんだブルー色に染まりそうだ。

(プレゼントって……、これなの~)

 気持ちがふて腐れて、赤と青の縞模様の旗を弄っていた指に力が入る。『パキッ!』。

「あっ!」

(やっちゃった)

 旗竿が根元から折れて、丁寧に彩色された小さな燕尾旗はテーブルの端まで飛んで行った。館の旗がひとつ無くなって、微妙に全体のバランスが悪くなった。

(これ、ちゃんと考えて作ってあったんだ。……ワザと折ったように見えたかな)

「ごめん! ごめんね」

 一応、萎らしくあやまった。彼は『気にしない』とか、『壊れ易い物で、ごめん』とか、言いながら目が悲しんでいた。

「持ち帰って直してから、また持って来るよ」

 それは駄目。次にまた、今日のパターンを繰り返すのは嫌。オートバイは寒いし、白バイに追い駆けられて捕まるし、道に迷うし、転げて助けを呼んだし、デートのランチに饂飩屋でカツ丼を食べる男も嫌だ。

「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」

 彼は『壊れたままでいいの』って顔をしている。

 悴む手足、凍える体、吐き気までして来る頭痛の響き、兎に角、もう寒いデートは嫌だ。

(しょうがないじゃん。わたしが折ったのだから。それに、当分は会いたくないし)

 曇り空は憂鬱で肌寒くて、雨は身体と心を芯から冷たくさせてしまう。だから、風が暖かくなる六月の晴れた日まで、今は君と会いたくない。でもそれは、私の気持ちが寂しさと不安に苛まれ、君への愛おしさが復活してからだ。

 私が壊した作品を、彼に持ち帰えらせて修復して貰う。そしてまた、私へ渡しに来て貰う。これは私に非が有って、私が依頼した事になる。だから、修復品の受け取りを拒むような誠意が無い態度はできない。

 それは、誠意の無い裏切りの態度を執れそうもない私が、彼にリベンジデートの機会を無期限で約束する事になってしまう。

(やっぱりメールだけでいいわ)

「折れた旗は、今日の記念になるしね」

 彼の顔が明るくなって、悲しく泳いでいた目が笑った。

(たぶん、あんたと逆の意味の記念だから、デートセンスが無い男との初デートのね)

 ミニチュアの城館を入れてきた小箱へ戻した彼は、次にスーパーマーケットのレジ袋とは違うレトロ感覚なセピア色の紙袋をバックから取り出して、テーブルの上に置いた。

 『ゴトッ』っと、重さを感じさせる音を立てて置かれた日焼け色の紙袋を見ながら、落ち着いた声で彼が言う。

「それと、これもプレゼントです」

(……何か分からないけど、受け取りを拒みたい)

「何これ?」

 紙袋を傾けると、中からゴロリと黒色の四角いトランシーバーみたいのが、転がり出て来た。咄嗟にヤバイ物だって直感するけれど、危険なモノほど面白いくて興味が湧く。

(おおっ! これ、映画で見たこと有る。電撃を喰らわすヤツで、人が気絶するんだ! マジ、ホンモノなの?)

「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」

 手にとって掴み具合をみながら、パワースイッチを探す。グリップのパコパコするのは通電スイッチで、押さえたら電撃だと思う。

(ちょっと大きいな。しっかり掴んでいられるかな? っていうか、なんで、これがプレゼントなの?)

 セカンド・プレゼントが無骨な品で戸惑うけれど、彼の意図は理解できた。これからは朝のバスの彼はいなくて、自分の身は自分で守るしかない。これは其の為の護身グッズなのだ。

 私を心配してくれる彼に感謝の思いを抱きながら、パワーオン。そしてパコパコを押してみた。

 『バリバリバリバリバリッ!』

 いきなり、ダンボールを勢いよく引き裂くような大きな音がして、見の前で弾ける青白い光の輝きに驚愕して、『きゃっ!』という悲鳴も出ない。

 店内のお客さんは食べるのを止めて、店員さんは動きを停めて、全員が一斉に振り向いて私を見ている。ちょっち恥ずかしいけれど、彼のプレゼントは面白そう。

「危なくないの?」

 いっしょに驚いていた彼を尻目に、グリップから手を離してパワーをオフにする。

「こんな所で放電させたらダメじゃん。そりゃ、危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」

 彼の『火傷』の言葉に、食事とグッズで紛れて小さくなっていた脹脛の痛みがヒリヒリと強くなって来るのに苛付きながら、訊いてみる。

「この痛みを、あなたは体験しているの?」

 『経験済みなら、いいかな』と、彼の手にサラっと押し付けてバチバチさせようとしたら、素早く手を引っ込められた。

「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力を知っておかなくちゃね」

(ズキズキして、私の脹脛の痛みを知ればいいのに)

 危なくスタンガンが触れそうなった手を摩りながら、彼は真顔で私を窘める。

「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうぜ」

 『なによ! その偉そうな口の利き方は!』と言い返しそうになったけれど、これは八つ当たり気味な私が悪いと自覚している。でも指先は無自覚に反応してスイッチを押してしまう。

 再び、バリッ、ババッ、バリッと一センチメートルはど離した二つの電極を青白いスパークが繋げた。

 それは一瞬の輝きと響きだったけど、店内のお客さんと店員さんが再び振り返って私を見た。危険な護身用ツールのスタンガンを持つのが可憐な乙女の私でなかったら、直ぐに店員さんに注意されて警察へ通報されそうだ。

 でも、何もトラブっていない私達を見て、皆さんは元の向きへ戻ってくれた。でも三度目は許して貰えないかも。

「それと空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」

 『僕は無関係』みたいな感じで、注意事項を上から目線的に語る彼は詰まらない。けど、受け取りを迷うフリをするスタンガンは気に入った。私を守るのに頼りになりそうで楽しめると思った。

「面白そうだから、これも貰っておくわ」

 無骨でデリカシーが感じられないプレゼントだけど、私を案じる彼の気持ちは伝わって来ている。

「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃダメだぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」

 中学校の一年生の時だったか、理科の授業で静電気を体験する実験が有った。化繊の服を脱ぐ時のパチパチや金属のドアノブに触れる瞬間のバチッと来るくらいのじゃなくて、雪が降る冬の乾燥した部屋で実験機器が起こしていた静電気は、このスタンガンのスパークほどの太さだった。

 十人づつ手を繋いで輪になって端の子が電極に掴む。、そこに発生させた静電気が輪になった十人を一瞬で通り抜けて行った。

 予期せぬ異質な衝撃が手の指先に来て、熱い物が触れた時みたいな無自覚の反射的な拒絶は、繋いだ皆の手を離れさせて輪がバラけてしまった。静電気が入って抜けた両手の掌はビリっと痛み、特に指先がジンと痺れたように痛みが暫く残っていた。

 バチンと来た実験でのショックは、家でスイッチをオンにしたままのライトスタンドで感電した時の、たぶん、プラグを握った手の指が挿し込む金属板に触れていて、コンセントへ押し込んだ際にビリビリっと気持ち悪く流れて来た百ボルト電流よりも、ずっと強かった。

 だから電気は危険だと知っている。たぶん、スタンガンの電撃は、気持ち悪い百ボルトよりも、痺れて痛い静電気よりも、遥かに激しいショックだと思う。

「分かっているわよ」

 彼が体の何処に放電させてドーンと来る痛みを体験しているのか知らないけれど、手や腕ぐらいなら再度の体験も有りだろうと、スタンガンを彼に近付けながら、私の一人暮らしを心配する彼に一応の礼を言う。

「ありがとう。心配してくれて」

 強力な護身用アイテムをくれた彼の心遣いが嬉しい。楽しめそうな武器になりそうだけど、使う時は命懸けの悲惨な状況かも知れない。絶対に楽しむどころじゃないだろうから、感謝はここまでだ。

 彼が遠くに離れている私の身を案じてくれているのなら、『どうして、この相模原市や近くの町田市辺りに就職しなかったの?』と、愚痴って責めてしまいそうになった。

 だけど、彼には静岡の会社で遣りたい事が有って、それが納得できるまで続けたいのを私は知っている。彼は遣りたい事の見極めと習得が、私を含めた人生の幸せになると思っている。『生活の糧も無く、自分に幸せの当てが無いのに、君を幸せに出来る訳がない』と考えているのだろう。

 だから、『重いスタンガンは、君に負担になるけれど、今は、それでしか君を守れない』って意味なんだ。

「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう食べ終えたの?」

 平らげたカレー饂飩の器を見せながら、私は彼の食べ終えた空っぽの丼を覗き見て、ワザとらしく訊いて遣る。

「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」

 食後のコーヒー……。彼は二人の時間を長引かそうとする。

(早く帰りたいって意味で、『食べ終えたの?』って訊いたのに、察しろよ!)

「いらない!」

 お腹が満たされて眠気が纏わり付きだした私は、今日の様々な出来事への苛付きも加わって言葉尻を強めてしまう。

(ねぇ、今日は、もう御仕舞いにしない?)

 用意していた言葉は、柔らかく御願いして優しく言うつもりだったのに、拒絶する本音の感情が強い声で言い切らせてしまった。

「なら、これからどうする? ここが嫌ならサテンに移ろうか? それともゲーセンへ行こうか?」

 彼の言葉に気持ちは揺れないし、弾まない。四月の雨を含んだ曇り空の下で冷たい風に吹かれていた所為なのか、気だるくて身体が疲れているのに気が付いた。

(もう何処へも行きたくないな。早くハイツの部屋へ帰って炬燵でぬくぬくと眠りたい)

 出そうになる欠伸を噛み殺しながら、目の前にいる彼の存在を薄い意識にして行く。

「……ゲームセンターも、喫茶店にも、行かない。だいたい、場所知ってんの? 私は知らないわよ!」

(この町に住んで日が浅い私と初めて此処へ来た彼は、お気軽に入れる店を一つも知らないから、何処で何をするにしても、その大きなオートバイにタンデムして寒空の下を探し回るのでしょう。なら折角、カレー南蛮で温めた身体が、また冷えちゃうじゃん。だから行きたくないの)

「知らないけど、走りながら探そうかと思って……」

 申し訳無さそうに首を横に振ると彼は少し俯いた。私の上から目線的な角度で見る彼の表情は、二人が楽しめる新たな思案をしているようにも、自分の提案の強行を迷っているみたいにも思えて、直ぐには妥当な判断が出そうにない。

 お昼時間は過ぎて大半の客が帰った店内は私達と一組の客だけになっていて、チラ見した腕時計の針位置が、お店の午後の休息時間に入っているのに気が付いた。

「それは嫌。……行かない。もう何処へも行かない。帰る!」

(今日は、もういい)

 彼を明るい陽の有る内に静岡へ帰らせるなら、あと四時間。晩御飯までのつもりなら、まだ六時間はいっしょに居られるだろうけれど、この肌寒い季節の雨が降りそうな長い道程は心配だ。そして、何よりも今日は、これ以上一緒に過ごしたくなかった。

 黙って御昼の勘定を済ませた彼は、ミニチュアが入った小箱とスタンガンの包みをショルダーバックに仕舞っている私を見て親切心で言う。

「……分かった……、送って行こうか?」

 険しくなる目付きが自分で分かった。カレー饂飩を食べて漸く温まった体が冷えるのは嫌だ。たぶん、歩いて帰った方が温まったままで部屋へ着けるでしょう。

「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」

 ショルダーバックを肩に掛けて店の外へ出ながら彼の気遣いを私は断る。不首尾な今日に更なる不測の事態が加わらないように、私は防壁を築く。

(早く一人になりたい……)

 笑わない眦の作り笑いを添えて、彼に気付かせる。

「ああっ、ここで別れよう。僕も陽が傾かない内に帰るよ」

(ぜひ、そうして。早く帰ってよ!)

 軽く小さく頷いてみせた。私の気持ちは理不尽に苛付いている。

(お互い、今日は初っ端から躓いちゃったわね……)

「さようなら」

 私は言葉を迷わない。シンプル イズ ベスト!

 帰りの道中や体調を心配する言葉の『暗くなると危ないから、寄り道せずに帰ってね』とか、『事故らないように気を付けて』や『風邪、引かないでよ』も、イジイジ、ウズウズするこの時間を、ちょっとでも早く切り上げたい為に、ワザと別れの言葉に添えない。

 でも、溢れる母性本能で気になる私は心の中で呟いてあげる。

「次は……!」

(あっ、やめて! それ以上、しゃべらないで!)

 急いで右手を胸の高さへ上げて広げた掌を彼に向けて、ぎこちなく左右へ小さく振った。それから、首を少し右へ傾げて顎を少し上げ、口許を微笑ませながら笑わない眦でジッと蔑むように見詰めてあげた。

(ごめんね。次回を考えられないし、考えたくもないの。だから今は大人しく、何も足掻かないで速やかに帰って)

 オートバイのエンジンを掛ける彼に、ずっと小さく手を振りながら、無理に帰りを急がせた後ろめたさが映画は観に行っても良かったかなと思わせた。

 映画なら少なくとも上辺の共有できる価値感を見出せて、この失望感をカバーしてくれると思う。でも、観たい映画のジャンルは違って、感動や興奮するポイントもズレていて、観終わった後の感想と会話が噛み合わなかったら、増幅した違和感が残るだけ。

 それに映画館の場所も知らないし……、スマートフォンで探すのも面倒だし……。彼は喜ぶかも知れないけれど、今はそこまでして観たい映画は無かった。だから、もういい。

     *

 歩いて来たから温もりが少し残っていたけれど、それが手足や首筋から急速に薄れて冷たくなって行くのを感じながら、私は部屋のドアを開けて大きな溜め息を吐いた。

 戻ったハイツの部屋は一度出掛けて直ぐに戻り、そして再び出掛けた時のままだった。

 手前の靴箱の扉は開けっ放しで、中の白いショートブーツやスニーカーが玄関の床に散らかっている。グレーのロングブーツは靴箱の中で倒れて、片方は床に落ち掛けていた。少しはセクシーにと考えて買って、玄関の隅へ寄せて置いた薄皮のニーハイブーツの一方なんかは、部屋の上がり際に鈍い黒の輝きで長々と無造作に伸びている。私が再び出掛けた際に玄関先をこんなにしてしまっていた。

 部屋の中はもっと酷い。整理途中だった冬物ファンシーケースの中身は全部ブチ撒けられて、部屋中にセーターやジャケットやロングスカートなどの冬物衣類が、まるで空き巣が物色した後のように散乱していた。戻って急いで防風防寒衣類を探した結果だ。机の椅子も部屋でいつも羽織っているドテラを掛けたままの状態で倒れている……。

(出掛けに大きな音がしていたのは、これか……)

 片付けもせず急いで部屋を飛び出した時のままで、がさつで面倒臭がりの私の性格が良く分かってしまう。

 結局、スキン物やスキーウェアは持って来ていなくて、今着ている服を探し出すのにこんな状態になってしまった。冬物の下には春物衣類が並べたり脱ぎ捨てられたみたいに有った。一度目のお出掛け時に選ばれなかった服達と、戻って着替えた時に脱いだ物だ。

 壁のフックに一つだけ、きちんとスカーフを掛けたハンガーが吊られていた。掛けられたスカーフはお姉ちゃんから貰ったのと色違いの、中学二年の終わりの日に彼からプレゼントされたモノだった。今日の彼とのデートの為に初めて使う思い出の品で、ファッションは全てスカーフのカラーに合わせていた。彼がスカーフに気付いたらイタリアでの出来事を照合しようかと思ってして行ったけど、着替えに戻った時は最初に首から外して丁寧にハンガーへ掛けたまま、忘れていた。

 苛付いた。今日の残りは全て衣類と部屋の整理と片付けをしなければならない。

(ううっ、面倒くっさぁー)

 自分でしてしまった事だけど、こんな部屋にしてしまった今日に腹が立つ。この腹立たしさといらつきは私の所為じゃないと思う。

(これは私じゃない! 全然、すっきりしてない。火傷はするし……、寒かったし……、上手くいかなくて気持ちが悪いのは、全部、彼の所為よ……)

 肌寒さを感じてリモコンでエアコンのスイッチを入れる。エアコンから温風が吹き出すまでスイッチを探しながら潜り込んだ電気炬燵は既に熱くて驚いた。ルーズな仕度で待ち合わせの時刻が迫り、急いで出掛けた私は炬燵を消し忘れていた。しかも熱いのは温度調節を強設定にしていたからだ。これ以上はサーモセンサーが感知して発火する事は無いと思うけれど、乾燥しきった炬燵の中が焦げ臭く感じて気持ちは焦ってしまう。

(やばかった~。炬燵を消し忘れているじゃん。しかも熱くしたままで……、夕方辺りに帰ってたら焦げるくらいの小火になっていたかも。……もしかして、帰りが夜でもなってたら、ハイツは全焼で周囲の家も半焼して、死傷した被害者もいて、消防車と救急車とパトカーだらけの野次馬も一杯で、住まいと持ち物が全て灰になった私は大混乱。そして、火元が私の部屋の炬燵だと後刻知らされたりして半狂乱のパニック。……って、もう、めっちゃ最悪になるところだったじゃん!)

 熱い御茶を飲みながら、笹乃雪と味噌饅頭で『ぬくぬくほのぼのぉ~』なんて気分に全然ならない。

 高温の炬燵もあいつの所為にして遣りたいけれど、全くの私のミスだから反省するしかない。

 冷たいGパンとパンストを脱いだ素足で熱い炬燵へ潜り込む。温度を下げて心地良い温かさになって行く炬燵の中が気持ち良くて、浸る『とんでもない大事にならなくて良かった』の安堵の思いと、冷えて疲れた身体の緩く解されて行く感じが眠気を誘う。エアコンから吹き出されて来た温かい風が顔に当たり、大桟橋の暖かな陽溜まりの気持ちの好さを思い出そうとしながら瞼がくっついて行く…… が、温かさに血行の良くなった脹脛がヒリヒリと痛んで眠れない。

 ヒリヒリする脹脛を炬燵から出して見ると、あいつのオートバイの過熱したマフラーに触れたところが五百円玉よりも少し大きい円形で赤くなっていた。赤色よりも紅色に近い表面は血が滲み、触わるとベロリと捲れて血だらけになりそうで、これは触れずに乾燥させて瘡蓋に覆わせるしかないと思った。

 全治一ヵ月半くらいの火傷傷を保護する為に、救急箱の中からワイドサイズのバンドエイドを選んで貼って、更にフットウォーマーで断熱と遮蔽をする。さっきまでのヒリヒリ、ジンジンしたイジイジ感は炬燵に入れても薄れていて眠れそうだ。

(あーん、気持ちいー。もう寝ちゃうわ。片付けなんか起きてからでいいや。中途半端に起きた時も…… 私はうんざりした気分で愚痴りながら、深夜の片付けをしているんだろうなー)

 目を閉じて、そんな止め処も無い事を想像しながら私は眠りに落ちていった。

(……じゃなくて)

 あの真夏の立戸の浜が心地好い記憶で残っているから、今日はちゃんと二人で会う日を決めいた出会いの春の日の、あの楽しくて嬉しかった夏の日の再現を約束されたデートになるはずだった。

(なのに、この、テストで全部の科目の山が外れて赤点だらけになったような、羞恥で禍々しい気分の悪さは、どうなのよ!)

 気分が全然すっきりしない。時間が経つほどに面白くない暗く重い気分が粘り着いて来る。大桟橋や彼の背で嗅いだ太陽の匂いを思い出したいのに、排水口からの悪臭が鼻の奥に絡み付くような気がするのと、グラウンドに白線を引く石灰の粉が入ったみたいな口の中のパサ付く感じで、軽い吐き気がしていた。風邪の引き始めかも知れない。

(そりゃぁ、あいつも、あいつなりに楽しいデートになるのを期待して、ジレラ・ランナーを乗り熟すくらいの私だから、タンデムでツーリングすれば喜ぶだろうなって単純に考えていたんだと思うよ。でもでも、朝から全然、ツーリング日和じゃなかったじゃん!)

 強引にタンデムを拒んで電車に変更したとしても、二人のファッションセンスは少しもマッチしていなくて、外見的にも拘りたかった私には、とてもアンバランスな感じで全然いけていない。

(いくら知らない人ばかりの場所でも、輝けていないのは嫌だ! ぐすん……。折角の初デートだったのに、情け無いな……)

 そう振り返ってしまう今日の忌々しさに涙ぐむ目と頭は冴えるばかりで、全然寝付けなかった。

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 小雨が降り出した夕方に『無事に静岡のアパートに着きました』と、あいつからのメールが着信した。時間的に高速道路ではなくて国道で帰ったのだろう。箱根の山越えをしたのか、富士山の裾野周りをしたのか、知らないけれど、トラブル無く帰れたようなので安心した。もし、事故っていたら、半強制的に帰らせた私は責任を感じなければならないところだ。

 なのに私は『無事に着いて安心したよ』や『寒かったから風邪引かないでよ』や『雨や霧で転がらなかった?』の、あいつを気遣う返信を、相模大野の駅前であいつを見送っていた時と同じで、今もまだ優しくなれない私は打ち込む気にならない……。

(……明日になれば、その気になれるかな? 今はまだ分からないけれど、たぶん、……なれないかも)

 

 ---つづく