遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

自分の仕事(僕 十九才) 桜の匂い 第九章 壱

 フランス外人部隊の中古ブーツが、四月の陽光に照(て)らされた大桟橋(だいさんばし)の板張りの床(ゆか)を再び踏(ふ)み、重い靴音を鳴らす。
 先々週の休日も、散(ち)り始めた満開の桜の花弁(はなびら)が吹雪(ふぶき)のように舞う中を、僕は充(あ)ても無く、ゆっくりと相模原(さがみはら)市(し)の桜並木の道を潜(くぐ)っていた。
(また、此処(ここ)に来た……)
 初めて大桟橋に来たのは、一年前の今頃だった。
 其(そ)の次は、相模原の彼女にフラれた直後に来た。
『来ないで!』と、電話越しの彼女はキツく語気(ごき)を強めて言った。
 以後、僕は何度も、彼女の強い言葉を無視して相模原へ来ている。
 彼女の住まいを知らない僕は、彼女との遭遇(そうぐう)を願(ねが)いながら、晩秋の相模原の街を闇雲(やみくも)に走り回り、相模大野(さがみおおの)の駅前のうどん屋でカツ丼を喰い、あの春の日と同じ道筋を辿(たど)って、横浜港(よこはまこう)の大桟橋へ行き、板を張り付けた丘のみたいな『鯨(くじら)の背中』を歩く。
 そんな、虚(むな)しい春のデートの再現を、バーチャル・ラヴァも連れずに一人っ切りでしていた。
 都合の良い事など、起こり得ないと思いながら、彼女を探(さが)して偶然(ぐうぜん)の出逢(であ)いを求(もと)めている。でも、今日のそれは、止まった十八歳の春の時間を動かす為(ため)じゃなくて、別の時間が動き始めている事を告(つ)げて遣(や)りたいからだ。
『僕は心配いらない。君の幸せを祈ってるよ』と、さらりと言いたい。
 後悔(こうかい)だと思うけれど、未練(みれん)だとは思いたくない。もう、二人は、クロスしない別々の人生を歩み始めている事を、僕は理解している。
     *
 去年の四月以降は、晩秋まで毎月来ていた。
 返信メールが来ない彼女と、偶然にでも出逢って彼女を見掛けても、遠くから見るだけで、自分を持ち直(なお)せるような気がしていた。
 彼女は既に、『相模原には住んでいないのかも』と考えていた。
 こうして僕が、のこのこと遣って来て、偶然にも、彼女よりも早く、彼女に見付からずに、彼女を見掛けて跡(あと)を付け、住まいを発見される。そして、僕に依(よ)って、深夜の押し掛けや、不在時に部屋に入り込まれて潜(ひそ)まれたり、部屋中を荒(あ)らされたり、身に付ける物を盗(ぬす)まれたり、盗聴(とうちょう)や盗撮(とうさつ)をされたり、更に、暴行(ぼうこう)などの傷害(しょうがい)を負(お)わされたり、などの悪意に満ちた行為(こうい)を警戒(けいかい)すれば、住民票や在学籍はそのままに、相模原や相模大野の市内や其の周辺地域を避(さ)けて、通学に支障(ししょう)が無い遠くへ移るだろう。
 東京都の多摩川(たまがわ)沿(ぞ)いや神奈川県の北部域は非常に人口が多くて、逃避(とうひ)する人達を紛(まぎ)れ込まして迷(まよ)わせ、人波(ひとなみ)に溶(と)かしてしまう。
 相模大野駅の周辺だろうと思っていた住居(じゅうきょ)から、彼女に引っ越されてしまうと、もう、偶然の出逢いは天文学的な確立(かくりつ)で、再会なんて絶望的だ!
(もう、僕は殆(ほとん)どストーカーだ。でも、彼女の住まいは知らないし、実際に付け回した事も無いから、ストーカーじゃないかも……。だけど、探し出したら、きっと、極悪な……、ストーカーになってしまうな)
 冬になっても、直接逢って、確(たし)かめたい気持ちは変わらなかった。
 移る季節に便(たよ)りの無い日々は、覆(くつがえ)せない現実が続いている事を知らせていると、僕は分かっているのにそうせずにはいられなくて、峠道が凍結したり、雪が降り積もったりしない限り、僕は有給休暇を取って何度か、平日にV-MAXを相模原へ走らせた。
 何度も、此処に来て……、百万遍(ひゃくまんべん)、頭を抱(かか)えて後悔して泪(なみだ)を流しても……、どう仕様も無いくらい御願いしても……、時間は戻らない。
 苛立(いらだ)つ気持ちは、相模原へ行き、走り回っている時だけが紛(まぎ)らわせるけれど、過ぎ去った想いは、現在に繋(つなぎ)がらならない。
 毎回、帰途に就(つ)いた途端に、以前よりも、大きくて強い後悔と虚しさが僕を襲(おそ)う。
 アクセルを開け、エキゾーストサウンドを轟(とどろ)かせ、ビビる気持ちを抑(おさ)える。
 ゴツイ外観のV-MAXを無理矢理(むりやり)傾(かたむ)けて、何度も冷や汗をかきながら、コーナーを攻めて箱根(はこね)の峠を越えた。
 ブレーキのタイミングや加減、フロントやリアのタイヤが滑(すべ)り、転倒しそうになるローサイドや、滑ったタイヤが急にグリップを戻して、外側へ弾(はじ)かれそうになるハイサイドの緊張感や緊迫感も、焦りと不安と苛立ちを無くしてはくれない。
 十八歳の時間は、雲間にぽっかりと広がった青空からの陽射(ひざ)しが、海を青く染(そ)め、大桟橋の僕達を照らして暖(あたた)めた、あの春の日から停まったままだ。
     *
 晩秋の明るい青空が広がる澄(す)み切った大気に、冬の始りの冷さが滲(にじ)み出す頃、僕は、自信の無さの不安に躊躇(とまど)うばかりで、直(す)ぐに逃げて落ち込んでしまう自分に、嫌気(いやけ)が差していた。
 相模原の彼女に振られて落ち込み、更なる、奈落(ならく)の深淵(しんえん)を臨(のぞ)む縁(ふち)に立(た)ち尽(つ)くすような、そんな、哀愁(あいしゅう)と悲壮感に浸(ひた)って逃げているだけの僕を、あの人はサルベーションしてくれた。
 あの人に諭(さと)され、励(はげ)まされ、支(ささ)えられて、僕のモチベーションは戻された。
 あの人に諭されてからは、会社や約束事に遅刻もせず、残業も嫌がらず、真面目に勤務している。
 仕事のミスも、殆どしなくなった。
 月に一度、有給休暇を取り、平日に休むのを総務部秘書課に勤務するあの人は、知っている筈(はず)なのに詮索する素振りも、言葉も、無かった。
 今では、半(なか)ば強引に僕を諭した、あの人と親(した)しく御付き合いをしている。
 週末は狭くて汚(きたな)い僕の四畳半に来て、作った料理を、僕と二人で食べて泊まっていく。
 休日は、近くのショッピングセンターへ食料品を買い出しに行く。
 僕のV-MAXや、あの人の愛車のBMWガブリオレで遠出をして、モーテルやリゾートホテルに泊まる事も多かった。
 あの人は、言った。
「たぶん、女性の唇(くちびる)は、男の人以上に、感じると思うよ」
 手始めにキスへのアプローチとキスの種類と感性を教えられた。
 服や下着の脱(ぬ)がせ方、いっしょに入るお風呂での泡遊(あわあそ)び、それに、女性の身体の抱(だ)き方やセックスのテクニックまで、女性へ接するレクチャーは多種多様だ。
 それは、共に探り、模索するような理解と成長ではなくて、気持ち良く、快楽を導き得る為に必要な行為の説明と実技指導だった。
(この人の経験値は、どれだけ有るんだ? なぜ、こんなにもテクニシャンなのだろう? テクニックは全(すべ)て、実践によって、鍛(きた)え上げられたのだろうか?)
 『お姉さん』が、僕の部屋に泊まった日から、僕の中で『お姉さん』の呼称は、『お姉さん』から『あの人』に、そして今は、『あの人』から『彼女』になってしまった。
 彼女の経験値と教養は半端(はんぱ)じゃなかった。
 両親との外食で、ある程度は知っていたのだけど、食事や料理は、箸(はし)の作法に始まり、置き方、持ち方、使い方を矯正(きょうせい)された。
 アニメで観た、大賢者のスプーンの握り方は絶対にダメだと思う。
 大賢者なのに、素養無さ過(す)ぎの描き方だった。
 其処まで、原作に書かれていたのか、躾(しつけ)が無いようにしたのは、何故(なぜ)なのか、そんな事は知らないが、『大賢者を愚弄(ぐろう)するな』だ!
 和食の懐石(かいせき)や割烹(かっぽう)や鮨(すし)、中華色々、アジアンテイストの様々、最初にスープから口を付け、器(うつわ)を持たないで食べる、本場の韓国(かんこく)料理の作法も、彼女の豊富な知識や経験と実際の食事体験で学ばされて、フランス料理や伊太飯(いためし)などの飲み物は右に、パンは左へと、自分の分を置く、基本位置まで教えられた。
『知ってるちゅうの!』、内心、軽い反発を感じながらもメモをとる。
 僕が隣の人のを飲んだり食べたりして、彼女に恥を掻(か)かさように厳(きび)しくマナーを指導された。
 他にも、インターネットでのホテルやチケットの購入とデートスポットの選定、それに、女性を連れ立って歩く立ち位置に、振る舞いや気遣(きづか)いなども、僕に彼女好(ごの)みのセンスが身に付いて、自然と振舞(ふるま)えるまで仕込まれた。
 本当に、初めて裸の女性と身体(からだ)を重ねた僕は、性の喜びを知って、世界の感覚が大きく変わってしまった。
 『初めて』の翌朝は、確かに、仕事場の先輩達が言うように、朝の太陽の色が、いつもより黄色く見えた。
 多少は、彼女のバックグラウンドを疑(うたが)うけれど、僕は喜びで舞い上がり、今は、身も、心も、人生も、彼女に捧(ささ)げたいと思っている。
 買い物は市内の葵区(あおいく)や清水区(しみずく)や駿河区(するがく)で、遠出は東の箱根や伊豆(いず)半島や富士山(ふじさん)周辺ばかりだった。
 何故(なぜ)か、焼津(やいづ)や浜松(はままつ)、御前崎(おまえざき)や浜名湖(はまなこ)などの西方へ、彼女は行きたがらなかった。
 理由は、言わなかったけれど、安倍川(あべかわ)を越えるのを嫌がっていた。
 それは、何か理由有りきで、謎(なぞ)めいていた。
 会社では作業時間中、彼女と顔を合わせる機会は無くて、口を利(き)く事も無い。
 秘書課に属する受付嬢が、金型部の見習い作業員に声を掛ける事も、理由も、殆ど無かった。
 金曜日は、終業時の同僚の誘(さそ)いに乗らずに、真っ直ぐ部屋へ帰る。
 残業を終えてアパートに戻ると、部屋の換気扇が回り、食欲をそそる料理の匂(にお)いを送り出して、早く入って食べろと言わんばかりに、辺りへ漂わせていた。
 小さな赤いLEDが灯(とも)るドアの電磁ロックを、IDカードで開錠する。
 LEDの発光がグリーンに変わり、開錠を知らせる短い電子音と共に、微(かす)かに揺れたドアをゆっくり押す。
 いつも、彼女は、ドアに防犯チェーンを掛けていない。
 僕は、無用心で危(あぶ)ないと心配しているが、彼女は平気だと言い張って、言う事を利(き)かない。
『大丈夫よ、心配しないで。アパートの人達は、みんな親切で仲良しだから、変な人は来ないわよ。部屋は、二階の一番奥だし、君は、直ぐに帰って来るし、それに、自分の部屋に帰って来るのに、チェーンまでされていたら、締(し)め出されたみたいで、厭(いや)でしょう』と、言い返された。
 そう言われると、確かに、鎖(くさり)は、枷(かせ)のようで厭な感じがする。
 防犯チェーンが掛けられていないドアは、滑らかに開かれて行き、ふぁっと部屋から流れ出た、旨(うま)そうな料理の匂いと熱気が、僕を、幸せ感で包(つつ)んでくれる。
 広がるドアの隙間(すきま)の向こうから、食材を刻(きざ)むリズミカルな包丁と、煮込まれる鍋(なべ)の音が聞こえ、夕食の支度(したく)をする、彼女の半身が見えた。
 彼女は、夕食の支度をしながら、僕の帰りを待ってくれている。
「ただいま」
 旨そうな夕餉(ゆうげ)の匂いと彼女の香(かお)りが僅(わず)かに混(ま)ざる、幸せいっぱいの匂いを嗅(か)ぎながら、僕は明るく言う。
「おかえり」
 半畳の小さな玄関で、靴を脱(ぬ)ぐ僕へ彼女は振り向いて笑顔で返す。
 この瞬間、僕の心は安らいで幸せを感じる。
 ずっと、こんな日が……、時間が続くといいのに……。
 ユニット化された部屋の内壁と一体成形で造られた、キッチンのシンク横には、彼女特性の香辛料が降られた分厚い牛ロース肉が、鉄皿に乗せられて、レアに焼かれるのを待っている。
「食事の前に、シャワーを浴びて来て。私は、もう浴びたから」
 彼女は、週末を僕と過ごす。
 金曜日は定時に終業して、先に僕の部屋へ行き、食事の支度をしながら、僕の帰りを待っている。
 人当たりの良さで、人気が有り、そして、様々な事柄(ことがら)に経験豊富だと思われる、美しい年上の女性が、なぜ、週末を僕と暮らすのだろう?
 普段は、新しくて綺麗(きれい)な女子寮の部屋に住んで居るのに、どうして、週末を狭くて小汚い僕の部屋に来て、いっしょに僕の体臭が染(し)みついた布団で、寝泊まりするのだろう?
 それだけが謎で、僕を不安にさせる。
 今宵(こよい)は、謎と不安を払拭(ふっしょく)して、二人が幸せになる、ケジメの誓(ちか)いの言葉を彼女に言おう。
『二十年後も、三十年後も、五十年後も、いっしょに手を繋いで歩こう。君は、僕の生甲斐(いきがい)で、僕の全ては、君の為に有ります。僕の全てを、君の幸せに捧げます。結婚してください』と。
 --------------------
「やる気と閃(ひらめ)きだ。それに、経験値が加わる。お前には、芸術的な視点と直感がある。その感性をモノ造りに活(い)かせ」
 正月に帰省(きせい)した時に、親父から言われた。
「お前は職人の親方(おやかた)を目指すか? 英語で言うとクラフトマスター。ドイツ語だとマイスターだ。日本だと、一昔前の親方や棟梁(とうりょう)が、俺的にはそうかな」
 僕は、まだ漠然としか、イメージが掴(つか)めない。
「職人は、技能者と技術者の両方の能力がないとなれない。優(すぐ)れた技能者は良く職人と言われるけど、本来は違うと思う。技能者は、技や工(たくみ)を極(きわ)め精密で丁寧(ていねい)な仕上げを速く安定して行える仕事人だ。技術者は、工程や構造などの仕組みや方法を考え出す。職人は、技能者と技術者の能力と、製作効率や品質向上や納期短縮などの、更(さら)なる工夫をしたマネジメントも考えて行わなければならないんだ」
 全く、親父の言う通りだ。
 自称職人や名人の大半は、マネジメントを考えない。
 丁寧で美しく物を作り仕上げる、とても器用(きよう)な熟練技能者だ。
 独(ひと)り善(よ)がりで、思い込みが激しい一部の工芸家や芸術家とかわらない。
「お前は、それに成(な)り、それを、極める強い意志と願いが有るか?」
 親父は、強く問う。
「世間一般の会社は、作業手順や工程をマニュアル化して経験の無い、誰でも専門職が行えるようにしている。だが、それは経験豊富な熟練者達を必要としない事に繋がっている。マニュアルや国際的な品質規格は、確かに、そこそこの良品を大量生産できるだろう。しかし、更に品質を向上させ、歩留(ぶど)まりを良くさせるのは人の知恵だ。熟練者の経験と、其処から得た新たな発想と閃きだ。世界的なブランドを持つ会社は、そういう社員達を大事にしている。分るか?」
(僕に何を望んでいるんだ、親父? 僕に何かを遣らせるつもりなのか?)
 親父の問いには、勢いが有った。
「お前の志(こころざし)である、お前が働く会社のモノ造りを把握(はあく)しろ。お前の仕事の位置付けと、お前が、お前の仕事で何を求められて、何を成すべきか良く考えろ。そして、お客のニーズを会社が、どう掴み、それを製品化するのに、どんな考えや工夫や気配りで開発していくのか、其のシステムを知り、何故、業界で一流と呼(よ)ばれ、世界で尊(とうと)ばれるのかを学べ」
 親父は、僕が適当にこじつけた入社理由を、志と呼び、それを憶(おぼ)えている。
「良い仕事はな、全て、『単純な作業の堅実(けんじつ)な積み重ね』だぞ。それを、早く学んで来い」
 親父は、もっともらしい仕事の概念(がいねん)を言う。
「其の言葉は、経験から?」
 確かに、良い仕事を達成するには、其の通りだと思う。
 一つの事柄を正確に行うシンプルな技能や思考、それと、其の結果で得た経験や知識の積み重ねが良い仕事をさせて行く。
「うーん、残念ながら、俺の言葉じゃないんだ。ずっと前に観たアニメのセリフさ」
 アニメは好きだから、良く観ているけれど、其のセリフを言うアニメは記憶に無い。
 そんな、納得できる言葉は、絶対忘れないはずだ。
「アニメの中のセリフってバカにするなよ。それで閃いて、俺は、加工の自動化を始めたんだからな。自動化は数値制御の集合体だ。数値制御のプログラムは、お前も知っている通り、全て一と零(ぜろ)で組まれている。これほど『単純な作業の堅実な積み重ね』は、他に無いだろう」
 工場内の自動化を始めた理由が、アニメのセリフだったとは、全く、親父に恐(おそ)れ入った。
 自動化ができなくて、自(みずか)ら、加工する部分の量を最小限にして、精度を上げ、加工時間を短縮する為に、親父は常に加工技能と加工技術の試行錯誤(しこうさくご)を繰り返している。
 加工精度をアップして、デリバリーを短縮して、しかも、コストダウンによるリーズナブルな価格での提供、そして、受注量を増やしている……。
 其の上で親父は、しっかりと余暇(よか)の時間を確保しするどころか、増やしさえもしていた。
(いったい親父は、一人で、どれだけの仕事量を熟(こな)し、どれくらい稼(かせ)いでいるのだろう?)
 親父が感化されたように、アニメには感激も感動も有るし、学ぶ事や教えられる事も多い。
 小説からも得られるけれど、視覚に映(うつ)るのは、文字よりも動画、聴覚には、BGMや周囲の音や無音よりも声優のセリフや効果音や歌、世界観がしっかりできていて、視聴感覚を惹(ひ)き付けるスムーズな動きの綺麗なアニメには魅力が有り、小説よりも場面のイメージと感情の移入がし易(やす)い。
「実は、新しい加工技術とマシンを導入しようと考えているんだ。それで、お前は、年内いっぱいで今の会社を辞(や)めて、俺を手伝ってくれないか?」
 御盆(おぼん)で帰省した時にも言われていて、最近も、電話で親父から念を押されている。
 親父は、僕がパートナーになる事を望み、強く願っていた。
「ニュープロセスの加工マシンの他にも、六軸駆動の一本腕と、二本腕の上半身タイプに、動き回らせる人型のロボットを、一台づつ導入するつもりなんだ。だから、お前に調整プログラミングと管理を頼みたい」
(おおっ、そう来るかぁ、親父ぃ。でも、そんなにも、融資して貰えるのかよ!)
「融資は大丈夫だ。既に、事業計画と各種資料を提出して、銀行数社から確約を頂戴している。それに融資額は全額じゃない。かなりの額を口座にプールして保障も有るから安心しろ。今は、メーカーと仕様を決めいている最中さ。デモ貸しをして貰うから、そん時は立ち会えるか? 上手く使いこなせば、二人で、十人以上のオーダーを熟せると、試算してるからな」
 目を輝かせて、そう言う親父に願われた当初、あと二、三年の間は今の会社で働いて彼女と楽しく過ごしたいと思っていた。でも、此処でのモノ造りのプロセスを理解して、各工程での発生問題と改善対策手順を知るにつれて、親父の頼みを前倒しで承諾(しょうだく)しようかと、考えが変わって来ていた。
(試算では十倍の仕事が出来る? 上手く使えば? 多くの仕事が舞い込んで、早々に軌道に乗せればウハウハだけど、最適アルゴリズムを掴むまで、メーカーアドバイスを貰っても、メチャメチャ苦労しそうだな)
 一人だけの小さな会社でも、社長である親父の息子として、僕の立場を諭してくれたのは彼女だ。
 彼女好みに変えられたのも有るけれど、いっしょに週末を過すようになった今は、彼女が僕を一番理解して支えてくれている。
 彼女が傍(そば)にいてくれるならば、金沢に戻って親父の事業の拡大に一生懸命になれると思う。
 近々、人生の伴侶(はんりょ)にしたい女性として親父に紹介するつもりだったけれど、考えてみたら、まだ、はっきりと彼女の気持ちを確認していない。
 彼女の週末は、僕の部屋へ通(かよ)って来て寝泊りする。
 僕達は、互いに求め合う恋愛感情だらけのディープな肉体関係だ。
 後悔(こうかい)も、不安も無くて、互いの相手を求める気持ちは少しも揺(ゆ)らいでいない。
 だから彼女は、僕と添(そ)い遂(と)げたいと思っているだろうと考えていた。
 僕がプロポーズをしたら、彼女は、きっと、恥ずかしそうに頬(ほお)を赤らめた嬉(うれ)しい笑顔で頷(うなず)いてくれるだろう。
 --------------------
 IDカードで、使用時間、水量、熱量を検知して毎月二十日締めで清算され、月初めに請求される共同のバスルームで、シャワーを浴びて身軽な部屋着に着替えた。
 身体を拭(ふ)き終えたバスタオルを、既(すで)に彼女と僕の洗濯物が入れてある洗濯乾燥機に放り込む。
 洗剤と柔軟剤を注(そそ)いでコインを投入してから、操作パネルのフルオート洗濯乾燥のアイコンをタッチする。
 コインランドリータイプの最新型の洗濯乾燥機は、彼女が泊まりに来るようになってからは、マメに使っていた。
 洗濯物の重さを感知して水量と洗濯時間、乾燥状態までマイコン制御で仕上げて、所要時間も表示してくれる洗濯乾燥機は快適だ。
『チーン!』
 IH料理器具のスイッチが切られた音が、まるで、身体を張ったマンツーマンのスポーツ試合をスタートするゴングのように響き、レアな焼き加減で、ジュージューと油が弾ける極厚(ごくあつ)なステーキの完成を告げた。
(さあて、僕のプロポーズタイムも、スタートだ!)
 覚悟を決めて、夕食の支度をしている彼女に言った。
「僕は、十二月で会社を辞めるよ。金沢に帰るんだ。親父が、仕事を手伝ってくれって言うんだ。事業の拡張を考えているんだって。海外への展開も有るかも、なーんてね。僕が入っても、二人しかいない会社なのに。アハッ、ハハハッ、君も、来てくれるだろう?」
 俎板の上で、食材をリズミカルに刻んでいた包丁が止(と)まった。
「……そう。金沢に帰っちゃうんだ……」
 僕の期待へ答える前フリなのか、彼女は、僕を見ずに悲しそうな声で言う。
(これは彼女の得意な、『悲しそうなムードが、劇的に超ハッピーへ変わる』の演出だな)
 いつものように次に続ける僕の前向きな言葉で、きっと、笑顔で振り向いてくれると期待した。
 心做(こころな)しか、彼女の後姿が固まって小さく震えているように見える。
(その振るえは、嬉しさからだよね)
「ああ、君も、いっしょに行こう。近々、君の家へ挨拶に行こうと思っていたんだ。君は、金沢で僕と暮らすんだ……、ダメかなぁ?」
 そう言いながら、彼女の顔を覗(のぞ)き見た。
 止まった手元に向けたままの彼女の顔は、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて目を瞑(つむ)り、苦痛に耐(た)えているようにも、何かを思い詰めているようにも、……見える。
(どうしたんだ? 僕の想いを伝える言葉に、感動しているのじゃないのか? ……嬉しくないのか?)
 否定を察(さっ)した戸惑(とまど)いが、僕の顔を歪(ゆが)めさせて、言い掛けた『君と添い遂げたい』という肝心な言葉を停める。でも、大事なプロポーズの言葉を……、途中で止(や)める訳にはゆかない!
「いっしょになろう。結婚…… して…… くだ……」
 僕の大事なプロポーズの言葉は、まだ、言い終わらない内に、彼女の声に遮(さえぎ)られる。
「だめ…、金沢には、行かないよ!」
 プロポーズの言葉を、上手(うま)く繋げれないまま、彼女の拒否する言葉が、僕を貫(つらぬ)いた。
(なぜ? どうして? 週末をいっしょに過しているのに? 今も、僕達の為に君は、料理を作っているのは、なぜ?)
 僕は、思いも由(よ)らなかった彼女の反応に、焦り、性急に結論を求める。
「プロっ、プロポーズしたいのに……、そんな……、 僕じゃ…… ダメなのか?」
 相模原の人に振られた時のショックが、脳裏に甦(よみがえ)る。
ガタッ、ゴトン。
 包丁が彼女の手から落ちて、俎板(まないた)の横に転がった。
「女性との付き合いの仕方を教えて、私好みに磨(みが)いて上げれば、きっと、君は、光るイイ男になるだろうと思ったの。だから、私から誘ったのよ」
(そうだ! 君から僕を、好きだと言ったんだ!)
 君の告白を、僕は受けたから、今、君は僕の部屋に居るのだろう。なのに、その思い詰めた否定的な表情はなぜなのだろう?
 後ろから、そぉっと、彼女を抱き締めた僕は、息を吐(は)く度に、彼女の肩と背中が小刻(こきざ)みに震えているのに気付いた。
「君は忘れていないよ。今でも彼女を慕(した)っているのを、私はわかっていたの。それは、日毎(ひごと)に強く感じていたよ。だから、私じゃダメかもって思い始めていたの」
(そっ、そんなのが、僕にプロポーズをさせない理由になるものか!)
「どうして、そんな事を言うんだ? 僕は相模原の人に、はっきりと振られたんだ! 格好良くて素敵な大学の先輩の彼氏ができて、僕なんか、全然、御呼びじゃない!」
 携帯電話の画面に浮き上がるように見えた僕を忘却(ぼうきゃく)する文面と、くよくよと想いを巡らし、忘却の呪いの否定要素を探した懺悔(ざんげ)の日々を思い出す。
「僕は、相模原の人を、きっぱりと諦(あきら)めている。そう、忘れてさえいた。諦めさせて、忘れさせてくれたのは、君じゃないか!」
 僕は、卑怯(ひきょう)な言い方をしている。
(それは、彼女の所為(せい)じゃないだろう。彼女は、其処から僕を救ってくれたのに……)
「ううん。嘘(うそ)……、君はまだ相模原の彼女を想っている。それは、私では、置き換(か)われないのよ」
(違う! 彼女は、何を勘違(かんちが)いしているのだろう?)
「そんなことはない! 僕は、君が好きだ! 君しかいない! 今も、君を抱き締めている。愛しているんだ!」
(違う! 僕の心の片隅(かたすみ)に、相模原の彼女が居るとしても、君は僕を否定しないはずだ!)
「君は……、一人で、金沢へ帰った方がいいよ……。私は、行けない、……から」
 僕は、彼女の言葉に、含みを察した!
(彼女は何か、僕の知らない、大事な事を言おうとしている……)
「私には、親が決めた相手がいるの。今時、時代錯誤(じだいさくご)したような事だけど、本当よ。君には、まだ言っていなかったけれど、私、来年の六月に結婚するわ」
 一瞬、僕の耳が難聴になって、彼女の声が遠くに小さく聞こえるようになったけれど、其の、考えもしなかった青天(せいてん)の霹靂(へきれき)の言葉と意味は、耳の奥の鼓膜(こまく)を破られるみたいに衝撃的だった。
(そんな……、突然…… 何を言っているん…… だよ……?)
 初耳だった!
 今の今まで、添い遂げる約束をした相手がいるなんて、言葉にしなくて……、素振りも見せなかった……。
(全然、知らないぞ! 全然、聞いてないぞ!)
 其の言葉は僕にとって、あんまりだろう!
(親が、決めた……? 決まった相手が、いる……? 初めて聞く事だ……)
 努(つと)めて彼女が明るく口にした衝撃的な言葉に、脈拍が上昇するどころか、急下降して僕の心臓が止まりそうだ!
 少しも気付けなくて、僕は、彼女の事情を知らな過ぎだった!
「結婚したら、たぶん、大井川(おおいがわ)の奥で暮らさなくてはならないわ。だから、結婚するまでは自由にさせてちょうだいって、両親と親族を説得したの。でも、そろそろ相手側から、私の素行調査が入りそうかもね」
 僕の否定を空(むな)しくさせてくれる事を、新聞の記事を朗読するように、淡々(たんたん)と無機質な軽さで彼女は話し続ける。
 其の明るい語尾の言葉で語られる青天の霹靂の事情は、僕の幸せな未来を絶望の深淵(しんえん)へ追い遣ってしまう。
 何故、僕は彼女のような理想的な女性に、男臭がしないと判断したのだろう?
(親族も説得したって……? いったい、どんな家柄(いえがら)なのだろう?)
 困(こま)っている振りや悩んでいる様子は、彼女の明るい表情と抑揚(よくよう)の無い話し方からは感じられなくて、とても、信じられない思いと疑りばかりが湧(わ)き出て来る。だけど、僕が、いくら彼女の話を信じられずに理解できなくても、彼女の強い意志と言葉の裏に潜(ひそ)む逆(さか)らえない事情が伝わって来て、彼女が、既に自分の境遇と運命を受け入れている事を悟らせた。
 僕は抗(あらが)う事も、拒否する事もできずに、ただ、黙って唇を噛み、彼女が続ける言葉を聞く事に傾注する。
「あのね……、経緯(いきさつ)を、最初から話すね。黙って聞いてよ」
 話すべきか、迷うように選ぶ言葉は、途切れ、途切れで、話し辛(づら)そうに語る不可解な内容から理解できたのは、どうも、彼女の親は幾つもの山林と大きな製材所を所有している地主らしい。それに、山間部には川霧や朝霧に覆(おお)われる茶畑が在って、自営の製茶工場で高級緑茶を製造出荷しているようだ。
 それが、長引く消費低迷の不況で非常に危(あや)うい経営状態にあって、想像する豊かさや贅沢な営みとは懸(か)け離れた、慎(つつ)ましく倹約(けんやく)する質素な暮らしをするしかない、没落中の……、いや、崩壊(ほうかい)寸前の資産家が、彼女の家の現実だった。
 普段は何事も明るく話す彼女だけれど、さすがに、困窮(こんきゅう)している自分の家の事を話すのは、本当に辛そうで、俯(うつむ)き加減に逸(そ)らす顔は視線を伏せている。
 僕は、黙って彼女の顔を見て話を聞いた。
 彼女は時折(ときおり)、相槌(あいづち)も問いも入れずに黙って聞く僕の反応を確かめるように瞼(まぶた)を上げて、その温度の無い光の瞳(ひとみ)が僕の視線と合わさり、僕の眼に現(あらわ)れる光と影を探っていた。
 破産直前の彼女の家の救済を、町の名士で多くの事業が成功している、羽振(はぶ)りの良い別の資産家が、資金援助をしたいと申し出た。
 勿論(もちろん)、申し出は無償ではなく、其の資金援助への代償は、彼女の家が持つ全資本の半分にも及ぶ、強い経営権の譲渡(じょうと)を中心とした内容だった。
 当然、其処までの参入を彼女の家は認めず、再興のチャンスを求めて、経営権と資産を手放すつもりはなかった。
 彼女の家が、山林や茶畑、それに製材所と製茶工場の運営権を手放さないのなら、いっその事、親戚(しんせき)になってしまおうと名士は考えた。
 其の考えは、彼女を自分の息子の嫁(よめ)に所望(しょもう)する事だった。
 既に、銀行からの借り入れは限界に来ていて、貧窮(ひんきゅう)する経営で破綻(はたん)寸前の彼女の家は、急(いそ)ぎ親族会議を開き、返済の当ても無く、発行を繰り返した約束手形の迫る期日に、会議が暗く沈む中、苦渋(くじゅう)の深い審議の末に、銀行への返済の全額と発行した手形の保証人、、今後の経営へのサポートを本家の一人娘の婚礼と引き換えにするという、人身売買に等(ひと)しい名士の申し入れを受ける事に決めてしまった。
 縁談が決まると、其の日の内に、名士から息子の花嫁の実家へ充分な援助が行われた。
 直ぐに決められた婚礼の日は、来年の六月吉日。
 --------------------
 ジューンブライド、家庭と六月を守護する女神ユノに祝福される六月の花嫁だ。
 ユノは英語発音でジュノ、英語の六月のジューンの語源で有り、女神は、結婚、出産、育児を司(つかさど)る。そして、女性と子供と家庭を守護している。
 故に、日本では梅雨時期で、そうではないかも知れないが、ヨーロッパの六月は雨の少ない好天に恵まれ、天候にも祝福されるから、天界と直結する青空が幸せのブレスを吹き掛け、導きの天使を降臨させてくれる。
 非常に心苦しくて、凄く悔しい事だけれど、もし、どうしても、僕が彼女の結婚を祝福しなければならないのなら、其の時は、女神ユノと六月の幸せを象徴する白いの百合の大きな花束を贈って、御祝いしてあげるしかない……。
 --------------------
 それまでは、自由に青春を謳歌(おうか)して、好きに暮らして良いというのがサブ条件だった。そして、かなり歳の離れた名士の息子との結婚を、彼女は承諾した。
 高そうな彼女の自動車(くるま)や持ち物や服は、全て、名士から届いた結納(ゆいのう)の一部だと言う。
(たぶん、資産や経営権よりも、息子の嫁が主題だったんだな……。なんてこったぁ! きっしょぉー! あと、半年と僅かで、彼女は知らない男の妻になってしまうのか!)
「いまどき、そんな、事情ってあんのかよ?」
 そんな理(ことわり)が有る自動車とは露知らずに、彼女の愛車を運転してみたかった僕は、夏が来る前に自動車教習所へ通って運転免許証を取得していた。
(サイドシートで笑う彼女が嬉しくて、夏以降は、僕がよく運転して、楽しんでいた自動車がフィアンセの結納品だなんて……、とても、ショックだ!)
「何処にでも有るわよ。田舎でも、都会でもね。君が知らないだけだよ。御先祖様から代々受け継(つ)がれている土地持ちの資産家や、歴代の旦那が引き継いで来た屋号(やごう)の老舗(しにせ)なんて、拘(こだわ)りと柵(しがらみ)だらけで、関係者の欲の思惑(おもわく)が、幾重にも渦巻いているわ。そんな、背地(せち)が無い事に、君が無縁で良かったと思うわ」
(ああ、全くだ。だけど、だけど、君は……、その渦中にいて……)
 彼女は、溢(あふ)れんばかりに泪(なみだ)を溜(た)めた瞳で、僕を見詰めて言った。
「相手の人は、とても、優しい人だったわ。結婚したら……、きっと、私を大事にしてくれるよ。だから…、心配しないで」
 明るい声といっしょに彼女は、ニコッと明るく笑う。
 笑って細くなった目から、ポロポロと泪が頬を伝い零(こぼ)れ落ちて、床のカーペットに幾つもの染みを作る。それを見て、僕はブルブルッと身震いした。
(違う、違う……、違うよ……)
 坦々(たんたん)と、初めて自分の境遇を話す彼女は、今、どういう心境なのだろう?
(君は、幸せになるべきで、絶対に、幸せになるのに決まっている。その名士の息子は、きっと、君を幸せにしようと努力してくれるだろう。そうだと、凄く良いと思うよ。でも、それ以上に僕も……、僕は、君を幸せにしようとしてたのに!)
 明るい未来の消失で、先の展開を見失なった現実は、最初に失恋の喪失感(そうしつかん)が来た。
 喪失した始めは、ぼんやりとして遠くの雑然とした街の煩雑(はんざつ)な喧騒(けんそう)のように煩(わずら)わしく、それから突然に、はっきりと消失が理解できて、色の無い巨大な壁が二人を阻(はば)んで見失わせているを知った。
 次に、裏切られた思いに羞恥心(しゅうちしん)が被(かぶ)り、それから、騙(だま)されたような終焉への怒りが、復讐心(ふくしゅうしん)を煽(あお)っていた。
「そっ、それでいいのかよ! 大事にされるって? 納得できないぞ! そいつは、君を幸せにできんのかよ! ぼっ、僕は、結婚相手にもならなくて……、くっそぉー! 君は、それでいいのかよ!」
 遣る瀬無さに声を荒(あら)げ、彼女の真意を探った。
「ごめんね。でも、騙していた訳じゃないのよ。最初は君を慰(なぐさ)めるだけだったのに……。慰めるだけの同情のはずが、君と話している内に、いつの間にか、私は君に惹(ひ)かれていたの」
 鼻声まじりで話す彼女を、僕は睨(にら)む……。
 僕の顔は眉間(みけん)に深く皺(しわ)を寄せ、米神(こめかみ)に青く血管を浮き出させ、目尻は釣り上がって眼光は怒(いか)りに満ちている…… はずなのに、彼女は目を逸らさずに僕を見詰め続けて、僕の怒りや憤(いきどお)りを受け止めようとしていた。
 其の微笑(ほほえ)まない顔が、彼女の覚悟を知らしめた。
 彼女の物怖(ものお)じしない瞳の輝きに、嘘をついてはいないと思う。
(言い訳じゃない。彼女は、本当にそう思って、僕を大事にしていたんだ。誤魔化(ごまか)しなんかじゃない……)
 誠実に思える彼女の態度が、僕を冷静にさせて行く。
「なんか、ドラマチックだな。君が、リアルな悲劇のヒロインだなんて、信じられないよ。身近過ぎて、嘘みたいだ」
 彼女は、僕よりもっと辛くて、ずっと一人で悩んで決断していたのだろう。
 僕に打ち明けて相談しても、どうのもならないのは分かる。それでも、逆らえない無念さが、僕に皮肉を言わせた。
『人それぞれだから、どっちでも構わないけれど、人生は、自分で決めた自己責任の方が、深いとか、重いとか、俺としてはどうでもよくて、ただ、面白いと思う。人には、全て人任せの無責任な奴。最後の決定は自分がしたのに、結果を誤ると選択を委(ゆだ)ねた人の所為にする奴。自分で判断して決めた、其の結果を受け入れて最後まで責任を持つ奴。この三通りが有る。成功は他人の所為なのか? 支えてくれる人の御陰なのか? 自分のセンスなのか? 其処に感謝が有るのか? 失敗の行く末は同じだが、自分で決断した結果なら、大抵は潔(いさぎよ)く納得できるだろう。おまえはどっちだ?』
 そう言って親父は、先日の電話の中で、まだ暫くは、半同棲の気持ち好く温い日々を過ごしたくて、金沢へは戻りたくないと、ごねる僕を説得していた。
(これは違うだろう、親父ぃ。全然、面白くないじゃん! 不条理を負わされた彼女が、追い詰められてした不本意な決断なんだぜ。これを……、潔く納得するなんて、僕にできるわけないじゃんか! ううっ……。そっ、それでも……、これからの茫漠(ぼうばく)たる人生を、『幸せだった』と言えるように、彼女はして行くんだろうな……)
 抗って逃げて、行方を晦(くら)ましても……、立ち向かって、縁談を破断にしたところでも……、この先、彼女は家族を見捨てた事で、ずっと、自分を責め続けるだろう。
 顔面にパンチ受けて、昏倒(こんとう)寸前のようなショック状態の僕でも、彼女の立場は理解できた。
「君と、ずっと、いっしょにいようかと考えたことも、……有ったよ」
(やはり、彼女は、一人で散々、悩み苦しんでいた……)
 微塵(みじん)にも、そんな素振りを僕には見せていない。
 僕は、彼女の言葉や表情や態度からも、彼女が深刻な問題を抱えて悩んでいる事に全く気付かなかった。
 彼女に相模原の女性とは、違う強さを感じた。
「君は、もう一人で大丈夫(だいじょうぶ)でしょう。自信をもっていいわ。以前とは違うよ。私は…… ね……、幸せになれるように、努力するから…… ね」
(思った通りだ。……自分の幸せは、自分で掴む……。彼女は、そう決めている……)
 彼女の言葉が、僕の中に留(とど)まった。
 言われてみれば、確かにその通りだ。
 今の自分は、彼女に声を掛けられた頃の、うじうじしていた僕じゃない。
 彼女は、僕を慈(いつく)しみ成長させてくれた。
 今も僕は、一気に大人になっていく気がしている。
 --------------------
 其の夜、僕達は泣きながら、何度も愛し合った。
 彼女に仕込まれた男のテクに、僕なりのアレンジ加えて抱き締める。
 大声で泣きながら、僕は強く激しく彼女を愛した。
(この悲しい恋は、必然だったのだ……)
 どうしようもない悲しさが、胸を締め付ける恋しさに混ざる。それに、冷たい寂しさが被って、切ない虚しさが僕を襲(おそ)う。
「うっ、ううっ……。あっ……、ああぁ……、しょっ、生涯、君を忘れないよ……」
 さめざめと彼女は泣き、喘(あえ)ぎながら言った。
「はあぁぁ……、君に愛された想いを……、あーんんん。さっ、支えに生きて…… いくから。あーっ、君はもう…… 私に染み込んでいるの……」
 言い終わらない内に彼女は仰(の)け反(ぞ)り、ビクビクと身体を震わせるオルガニズム直前の緊張が、激しく雄の突き上げを繰り返す、エレクトして爆射寸前の僕の一物(いちもつ)を搾(しぼ)るように締め上げ、其の抗えない快感は、まるで、求める全てが其処に在るかのように、僕を絶頂の果てへと突っ走らせた。
「あっあっ。もっと、もっと強くして……、ああっ。はっ、激しく愛して。あっ、私の中に深く深く君を残してーっ、あああーー。あっ、ううーん」
 ぎゅっと、しがみ付くように巻している彼女の腕に力が入って、僕の胸を締め付け、摑む掌が背中に強く指を立て、僕の胸の下で左右に揺れる彼女の表情が、苦しみに耐えているようにも、不安に抗っているようにも思えた。
「あう、あっ、あっ、ああっ! あーっ!」
 早口の叫ぶような喘ぎで昇(のぼ)り詰めて、ビクッ、ビクーンと身体を硬直させた彼女の顔が、うっとりとした微睡(まどろ)みに変わる。
 絶頂を迎えた彼女が締め付ける気持ちの良さに、吼(ほ)えながら噴出させた僕は、意識が遠のくように果ててしまう。
「おおっ、おおおおおーっ!」
 息が上がる僕の胸に顔を埋める彼女の小さな嗚咽(おえつ)が聞こえ、僕の眼から溢れる涙が彼女の髪へ幾つも落ちて、染み込むように消えて行く。
「ずっと、こんな日が、続けばいいのにね」
 鼻声の涙を流す、赤く腫(は)れた瞳が僕を見続ける。
「グスッ、愛してる」
 流れては溜って溢れる僕の涙が、彼女の顔をグシャグチャに歪ませて、良く見えない。
「グスン、うん、愛してるわ」
 涙の流れるままに、二人は声を忍(しの)ばせて、さめざめと泣いた。
 嘘に出来ない現実を、どうしょうもならない事を分かっているのに、僕達は嘘ならと、心から祈りながら互いを守る為に、身を寄せ合った。
 何度も、唇を重ねて身体を摩(さす)り、逃げないように捕らえ続けていたいのに、スゥー、スゥーと、静かに眠り始めた彼女の小さな寝息を聞きながら、僕は眠りに落てしまう。
(閉じた瞼を明るく照らす朝の光の眩しさに、目が覚めると、……僕らの愛が添い遂げれる、いつか感じた、此処とは似て、非なる世界に連れて行ければ……、そう、できるかも知れない……。そう、なれば……、良いのに……)
     *
 大晦日(おおみそか)の昼下がり、彼女は静岡駅で僕を見送ってくれた。
 早めに着いた新幹線のホームを冬の陽を浴びながら、僕達は寄り添って歩く。
 人気(ひとけ)の無いホームを、僕達は手を繋いで、ゆっくりと無言で歩いた。
 冬の駿府(すんぷ)の乾(かわ)いた冷たい大気に、時折、湿った雪の匂いを嗅ぎ分けて蒼(あお)く澄(す)んだ空を見上げると、高く透明な青色の空間中に、ちらほらと、遠くから風に吹かれて来る花弁(はなびら)のように、白い風花(かざはな)が舞っていた。
 安倍川の上流、梅が島の、更に、奥の県境(けんざかい)に連なるの南アルプス頂(いただき)から飛ばされて来る、風花の淡雪(あわゆき)は地上に触れる前に、消えるように融けてしまう。
 僕の想いも、独り善がりに舞うだけで、愛する彼女と窮乏(きゅうぼう)に彼女を一粒の麦のようにした彼女の家族を、救いも、導きも出来ずに、残り僅かな時間で、過去の思い出として融(と)けてしまうのだろうか?
 もう直ぐに、僕を金沢に運び去る列車が到着する時刻になる……。
 これが、今生(こんじょう)の別れになるのに、この人は何も話さない。
 僕も、黙って歩く。
 歩きながら僕は、同期で入社した時から今までの彼女を思い返していた。
 この人も、同じ思いだったのだろう。
 時々、指を絡(から)ませて、僕の手を握る彼女の手に力が入り、その度に僕は、その手をしっかりと握り返した。
「私が、買ってあげるね」
 駅に着くなり、僕の前に出て駆け出しながら彼女が言って、窓口のカウンターで、金沢行きの切符買って来てくれた。
「はい!」
 明るい声で、僕に切符を渡す。
 彼女は奮発して、グリーン席を僕にプレゼントしてくれた。
 最後まで、彼女は僕の面倒を良く見てくれる。
「受け取っちゃって、いいの?」
 ここまでさせちゃいけない気がした。だけど、彼女の気持ちは分かっている。
「いいよ」
 いつもの、歯切れの良い明るい声で言い切る。
 全く、彼女は屈託(くったく)が無い。そして、更に駅弁の鰻(うなぎ)弁当や安倍川餅(もち)も持たせてくれた。
 ミカンと熱いお茶まで、添えてくれる。
 高価な切符と駅弁への感謝の言葉を言えない内に、ホームへ『ひかり』が、滑(すべ)るように静かに入って来た。
 静岡駅で、『ひかり』は、後発の『のぞみ』が通過するのを待ち、五分ほどの停車をする。
 ちゃんと正確に、乗車位置で停車したグリーン車の乗降口が開く。
「もう少し、時間が有るね」
 そう言って、彼女は、乗り込もうとする僕の肩に手を掛け、ゆっくりと、僕を振り向かせて抱き締める。そして、優しくキスをした。
「こうして、君を抱きしめて、キスをするのも、これが最後だよ」
 僕に言っているのか、自分に言い聞かせているのか分らない抑揚(よくよう)の小さな声で、彼女は言った。
 それが、いじらしく感じる切なさに、ぐっと、胸が締め付けられた。
「……うん……。幸せに…… なれ…… よ……」
 愛しくて、切なくて、それ以上、言葉が続かない。
 別れの言葉を、ちゃんと言い切れないまま、僕は彼女を強く抱き締め返した。
 まだ、感謝の言葉も言えていない。
「……幸せになるね」
 僕の耳許(みみもと)で囁(ささや)くような小さな声で彼女は明るく言う。
(彼女を幸せにするのは、僕の役目のはずだったのに……)
 其の小さくても明るい声が、更に僕を切なくさせて、ぎゅっと息が詰まるくらい、彼女の胸を締め付けさせた。
(ずっと、抱き締めていたい……)
 --------------------
 辞表が受理されてからも、有給休暇を消化せずに、就業カレンダー通りに年の瀬まで仕事をした。
 有給休暇の大半が残っていたのだけども、遣り掛けの加工の仕事を中途半端で、同僚に引き継がせたくなくて、一昨日(おととい)の最終日は、作業を遣り遂げるまで帰らず、彼女の待つ部屋に戻ったのは、夜半を過ぎた深夜になってしまった。
 表通りからエンジンを切り、惰性(だせい)で近付くV-MAXの無音で走行する気配に気付いて、彼女はパタパタとアパートの前まで、僕を迎(むか)えに出て来た。
「おかえりなさい」
 寒そうにドテラを羽織(はお)った彼女の笑顔の声が、小さな白い霧になって消えて行く。
 不意に込み上げて来た遣り切れない想いが、彼女を抱き締めさせて、ひたすら僕は、彼女の体熱を求め続けた。
 --------------------
 部屋の荷物は、昨日、年末で割高だったけれど、業者便で家へ送った。
 V-MAXも、大型バイクの専門業者に頼んだ。
 両方とも、着くのは正月明けの五日ごろになるそうだ。
 大晦日まで彼女と過ごせるのなら、運送代が割高になっても構わない。
 正月明けまで、彼女といっしょに過ごしたいと強く思っていたけれど、どうにか、潔く大晦日の午後に離れる覚悟が出来た。
 正月は息子と差しで酒を飲みたいと親父に駄々(だだ)を捏(こ)ねられた。それに、気持ちの踏ん切りが付かなくて、ズルズルと引き摺(ず)るケジメの無い自分になりそうだった。
 V-MAXと荷物を送り出した後、部屋の掃除と戸締りを終えて、鍵を不動産屋へ返したのは夜になった。
 街のビストロバーで彼女と遅いディナーを摂(と)り、昨夜はリザーブしていた静岡駅近くのシティホテルに二人で泊まった。
 彼女とビジネスホテルやモーテルに何度も泊ったけれども、続き部屋のゴージャスなスイートルームと、だだっ広いキングサイズのベッドは初めての体験で、明け方まで寝像の悪い僕らには最高のベッドスペースだった。
 それは、彼女のサプライズで、ツインのルームの予約を、彼女が料金を大幅にプラスしてスィートに変更してくれていた。
 朝方眠りに付いた僕達は、あまりの寝心地の良さに、危うくチェックアウトをタイムオーバーするところだった。
 --------------------
 新幹線ホームに鳴り響くベルが、『ひかり』の発車時間が迫ったことを知らせる。
(彼女を離したくない! 金沢に連れて行きたい……!)
 僕は、心の中で、最後の抵抗を試みる。
 昨夜は、何度も、そう言って彼女を愛した。
 何度も、彼女を抱き締め、彼女は、何度も、昇り詰めて絶頂を迎え、何度も、いっしょに果てた。
 ベルが鳴り響く中、彼女は、僕の気持ちを察したのか、言い聞かせて宥(なだ)めるように言った。
「私は、……行けないよ」
 いつまでも、離そうとしない僕の腕を彼女は無理遣り離して、僕を乗降口に押し込んだ。
 鼻の奥がツンとして目頭(めがしら)が熱くなり、視界が滲んでいく。
 僕は乗り込むや否や振り返り、彼女を見詰めた。
 柄入りのフード付きハーフコートとハイネックセーターに、セカンドバックだけのカジュアルな服装の僕は、まるで、葵区の呉服町(ごふくちょう)でデートをするような格好だ。
 彼女が選んだ服は、二人が互いに場所も、人生も、遠くに離れて行き、もう、二度と人生が交(まじ)わらないかも知れない別れの場に相応(ふさわ)しくない気がした。でも、彼女の好みで、よく僕が着せられたファションだった。
 彼女の想いが痛いほど解かる。
「ありがとう、元気でね。また、世界のどこかで、逢えるといいね」
 鼻先を掠(かす)めて閉まり掛けるドア越しに、彼女の声が聞こえた。
 僕は、昇降口の窓ガラスに額(ひたい)を押しつけて彼女を見る。
 泪で眼を潤(うる)ませた彼女が、笑って手を振っていた。
「ああっ、きっといつか、何処かで、また、逢おう!」
 僕は、閉まったドア越しに大声で叫んだ。
 たぶん、声は届いていない。でも、僕の口の動きでわかったのだろう。
 彼女は、胸の前で両手を握って頷いた。
 上げた顔の頬を涙が流れているのが見え、ポロポロと落ちる大きな雫は止まらない。
 遂(つい)に、この時が来た。
 感極まった僕の目からも、ボロボロと大粒の泪が止め処(ど)もなく溢れ出て、何度も、何度も、拭(ぬぐ)うけれど、泣きながら僕を見続けてくれる彼女が、はっきりと見えない。
 これが最後の、……今生の別れになろうとしているのに、滲んだ彼女しか見えていない。
 列車が動きだすと、始めは歩いて、直ぐに速足になり、そして、全力で彼女は駆け出した。でも、直ぐにホームの端が来て、加速する列車は、僕の前から彼女を一気に引き離して行く。
 日本晴れに晴れ渡った真っ青な空の下、明るく光るホームの端に立ち、彼女は泣き笑いの顔で大きく両手を振っていた。
 其の彼女が、『あっ』という間に小さくなり、不意に見えなくなった。
 僕は、ドアの窓に顔を擦(こす)り付けたままで、少しでも長く彼女を見ようとする。
 もっと良く彼女を見て、今の彼女の姿を瞼に焼付けたい。でも、一瞬の動作が焦点をダブらせて、霞(かす)ませた視界に無意識で反射的な瞬きが、彼女の所在を見失わせた。
 あの人は、最後まで格好良くてドラマチックだ。
 一年足らずだけど、僕に充実した十分な幸せをくれた。
 あの人も、半年後に退職して実家へ戻る。
 其処には、許婚の人との抗えない結婚が待っている。でも、明るくて前向きな人だから、大井川の上流の町で幸せに暮らしていけるはずだと思っている。
 決して、間違った自由へ飛んだりはしないだろう。
 親が決めたフィアンセがいる。
 それでいて、僕と関係を持った。そして今、僕との関係を絶ち、半年後の六月には、其のフィアンセと結婚して実家の家業を継ぐ。
 なんて、不節操(ふせっそう)で都合の良い、人をおちょくったヒロイン視点のラブストーリーなのだろう。
 僕は、役不足の好(い)い面(つら)の皮なのか? それでも僕は、からかわれたとか、弄(もてあそ)ばれたとか思わない。
 あの人は、誠実で正直だった。
 僕の心に相模原の彼女が確かに居るけれど、其処とは別に、あの人は、僕の中に大きく拡がって行っていた。
 セカンドバックを脇に置き、ゆったりとしたグリーン車のシートに体を沈めて、ホームの端で大きく両手を振り続ける彼女を、未練一杯に思い起こす頃、『ひかり』は大井川の鉄橋を渡り始めた。
 トラス橋の斜めになった鉄骨が、ビュンビュンと視界を横切る向こう、大井川の上流に綺麗に雪化粧された南アルプスの峰々が見えた。
(六月から……、あの山脈の麓(ふもと)で、彼女の新しい生活が始まるんだ……)
 一度、静岡市内を流れる安倍川の上流から井川(いかわ)の集落へ行き、更に峠を越えて、千頭(せんず)の町へ抜けた事が有った。
 V-MAXにはタイトなワインディングロードばかりで、千頭から川根町(かわねちょう)を通って島田(しまだ)の市街地にでた時には、ホッと安堵(あんど)した。
 美しい景色と清々(すがすが)しい清涼な空気と水、観光には良いけれど、生活するには厳(きび)しい自然で、豊かな収穫を望めない困難な土地だと、急斜面に囲まれた擂(す)り鉢(ばち)の底のような川沿いの僅かな平地を走りながら、そう感じた。
 そんな山間で新妻として初々(ういうい)しく、……ではないか……、健気(けなげ)に彼女が生きていかなければならないという思いに、彼女の最後の姿が重なり、南アルプスの白い頂が潤み始めた涙で揺らいで行く。
(結婚する直前までは、連絡をしても良いだろう。彼女の近況を知りたいし、僕の近況も知らせたい。……それに、彼女の気持ちや家の事情が変わるかも知れない。それにまだ、『ありがとう』も言えていないし……)
 自分勝手な解釈と、諦めの悪さと、恋しさが、セカンドバックの中のマナーモードにした携帯電話を掴ませた。
 其の時、手にした携帯電話が、いつものリズミカルなパターンで震え、彼女からの着信を告げてくれる。
 僕は、やはり、心は通じ合っていて、思うところは同じだと、安堵感に満ちた嬉しさに急いでメールを開いた。
【ありがとう。思えば、殆ど、私の我(わ)が儘(まま)に付き合わせただけだったよね。迷惑だったかもね。ごめんなさい。心から謝(あやま)ります。でもきっと、君が、『そんな事は無いよ』と、言うのも分かっています】
 嬉しさが悲しさになり、安堵した気持ちは絶望の不安に襲われ、未練だらけの期待は凍(こお)り付いた。
(どうして、こんなメールを打つんだ……)
 溜めていた涙が、また、溢れて僕の頬を流れて行き、深呼吸をして涙を拭い、続きを読もうと画面に目を凝らした。
 気丈夫(きじょうぶ)な彼女が、どんな思いで、このメールを打っていたのかと思うと、息ができないほど居た堪(たま)れない。
【このメールが最後だよ。今、携帯電話ショップの前にいるんだ。これから、この携帯電話の使用を解約するの。だから、返信しても、電話しても、『現在、お掛けになった電話番号は使われておりません』だからね。もうこれからは、フィアンセの家から送られて来た携帯電話を使わなくちゃならないんだ。私の素行調査も、今まで以上に徹底(てってい)して行われると思うし。通信履歴も知られちゃうから、新しい携帯電話からは、君に掛けないね。新しい電話番号やメアドも教えないよ。この先、君に連絡する事は無いって意味だから、わかるわね。ううん、これ重要。……わからなくても、わかってよ。でもね、使っていた携帯電話のシムカードと、全てのデータを移したメモリーカードだけは、大事に残しておくわ。私の大切な思い出で、宝物だから……。私はいつも、この世界のどこかで、君が元気で活躍していると信じているし、それを願い祈っているよ。……じゃあね。バイバイ!】
 上を仰(あお)いで、僕は目を瞑(つむ)る。
 携帯電話を持つ手に力が入り、プルプルと震えた。
 閉じた瞼からブワッと涙が溢れて、頬に幾筋も熱く流れて来る。
 いっそ、大声で泣きたいけれど、他の乗客もいる列車内では、そうする事ができない。
 俯いて両手で顔を覆い、流れ出る鼻水を啜(すす)りながら、僕は声を殺して泣いた。
(僕こそ、ありがとう。……いっしょに居てくれて)
 それは言えていない、言わなければならない、感謝の言葉だった。
(しあわせに……!)
 今度も、最後に、この大事な言葉を、愛する女性(ひと)へ伝えられなかった。
 メールを読み終えた気持ちの動揺が静まると、僕は急いで彼女に電話した。
『お客様のお掛けになった電話番号は、現在、使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度、お掛け直しください』
 悲しいガイダンスが、平らな響きで小さなスピーカーから流れ、彼女のメールに書かれていた通り、既に、彼女への通信手段は…… 絶たれていた。
 僕は、彼女から手渡された駅弁を手に取り、見詰めている。
 駅弁を僕に渡す時の思い詰めたような、はにかんだような、彼女の表情を思い出した。
 駅弁を渡された時、彼女は直ぐに手を離さなかった。
 ほんの僅かな間だけど、しっかりと彼女は駅弁を掴んでいて、渡したくない思いと躊躇いを感じた。そして、彼女の美しい瞳は、僕の目を見詰めていた。
(送られて来た携帯電話……、素行調査の徹底って……!)
 まだ、彼女が会社を辞めるまでに、会社に電話をすれば、秘書課で受付嬢の彼女に連絡できると一瞬考えたけれど、ここまでする彼女の決心をぐらつかすような未練は、与えてはいけないと察し、考え直した。
 彼女は、重く複雑な事情が絡みつく人生を受け入れている。
 表情には現わさなかったけれど、辛いのは彼女の方だ。
 ……僕はまた、掛け替えの無い女性を、失ってしまう憤りと悲しみに苛(さいな)まれた。
(こんなに、別れが辛いだけなら……、もう…… 恋なんて……)
 彼女以外に、僕の幸せは無いと思っていたのに、彼女の幸せの為の僕だったのに、全然違う、それは、思いも寄らなかった彼女の幸せになってしまった。
 硬い弾力のネガティブが、太い不信感の指で捕らえた僕を、握り潰して行く。

 

 つづく