遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

自分の仕事(僕 十九才) 桜の匂い 第九章 壱

 フランス外人部隊のブーツが、四月の陽光に照(て)らされた大桟橋(だいさんばし)の板張りの床を再び踏(ふ)み、重い靴音を鳴らす。先々週の休日も散り始めた満開の桜の花弁(はなびら)が吹雪(ふぶき)のように舞う中を、僕は充(あ)ても無くゆっくりと相模原(さがみはら)市(し)の桜並木の道を潜(くぐ)っていた。

(また、ここに来た……)

 初めて大桟橋に来たのは一年前の今頃だった。その次は相模原の彼女にフラれた直後に来た。

『来ないで!』と、電話越しの彼女はキツく語気を強めて言った。以後、僕は何度も彼女の強い言葉を無視して相模原へ来ている。彼女の住まいを知らない僕は彼女との遭遇(そうぐう)を願いながら晩秋の相模原の街を闇雲(やみくも)に走り回り、相模大野(さがみおおの)の駅前のうどん屋でカツ丼を喰い、あの春の日と同じ道筋を辿(たど)って横浜港(よこはまこう)の大桟橋へ行き、板を張り付けた丘のみたいな『鯨(くじら)の背中』を歩く。そんな虚(むな)しい春のデートの再現をエア・ラヴァも連れずに一人っきりでしていた。

 都合の良い事は起こり得ないと思いながら、彼女を探(さが)して偶然の出逢(であ)いを求めている。でも今のそれは、止まった十八歳の春の時間を動かす為(ため)じゃなくて、別の時間が動き始めている事を告(つ)げて遣(や)りたいからだ。

『僕は心配いらない。君の幸せを祈ってるよ』と、さらりと言いたい。

 もう、二人はクロスしない別々の人生を歩み始めている。

     *

 去年の四月以降は晩秋まで毎月来ていた。返信メールが来ない彼女と偶然にでも出逢って彼女を見掛けても、遠くから見るだけで自分を持ち直(なお)せるような気がしていた。

(もう僕は殆(ほとん)どストーカーだ。でも、彼女の住まいは知らないし、実際に付け回した事も無いから、ストーカーじゃないかも……。だけど探し出したら、きっとストーカーになってしまう)

 冬になっても直接逢って確(たし)かめたい気持ちは変わらなかった。移る季節に便(たよ)りの無い日々は、覆(くつがえ)せない現実が続いている事を知らせていると、僕は分かっているのにそうせずにはいられなくて、峠道が凍結や雪が降り積もらない限り、僕は有給休暇を取って何度か平日にV-MAXを相模原へ走らせた。

 何度、ここに来ても……、百万遍(ひゃくまんべん)、頭を抱(かか)えて後悔して泪(なみだ)を流しても……、どう仕様も無いくらい御願いしても……、時間は戻らない。

 苛立(いらだ)つ気持ちは、相模原へ行き走り回っている時だけ紛(まぎ)れるけれど、過ぎ去りし想いは現在に繋(つなぎ)がらならない。毎回帰途に就(つ)いた途端に以前よりも大きくて強い後悔と虚しさが僕を襲(おそ)う。

 アクセルを開けエキゾーストサウンドを轟(とどろ)かせ、ビビる気持ちを抑(おさ)える。ゴツイ外観のV-MAXを無理やり傾(かたむ)けて、何度も冷や汗をかきながらコーナーを攻めて箱根(はこね)の峠を越えた。ブレーキのタイミングや加減、フロントやリアのタイヤが滑(すべ)り転倒しそうになるローサイドや、滑ったタイヤが急にグリップを戻して、外側へ弾(はじ)かれそうになるハイサイドの緊張感や緊迫感も、焦りと不安と苛立ちを無くしてはくれない。

 十八歳の時間は、雲間にぽっかりと広がった青空からの陽射(ひざ)しが、海を青く染(そ)めて大桟橋の僕達を照らし暖(あたた)めた、あの春の日から停まったままだ。

     *

 明るい青空の続く大気が澄(す)み切った冷たい冬の始まる頃、僕は自信の無さの不安に躊躇(とまど)うばかりで、直(す)ぐに逃げて落ち込んでしまう自分に嫌気(いやけ)が差していた。

 相模原の彼女に振られて落ち込み、更なる奈落(ならく)の深淵(しんえん)を臨(のぞ)む縁(ふち)に立ち尽(つ)くすような、そんな哀愁(あいしゅう)と悲壮感に浸(ひた)って逃げているだけの僕を、あの人はサルベーションしてくれた。あの人に諭(さと)され、励(はげ)まされ、支(ささ)えられて僕のモチベーションは戻された。

 あの人に諭されてからは遅刻もせず、残業も嫌がらず、真面目に勤務している。ミスも殆どしなくなった。月に一度、有給休暇を取り平日に休むのを総務部秘書課のあの人は、知っている筈(はず)なのに詮索する素振りも言葉も無かった。

 今では半(なか)ば強引に僕を諭したあの人と親(した)しく御付き合いをしている。週末は狭くて汚(きたな)い僕の四畳半に来て、作った料理を二人で食べて泊まっていく。休日は近くのショッピングセンターに食料品を買い出しに行く。僕のV-MAXや、あの人の愛車のBMWガブリオレで遠出をして、モーテルやリゾートホテルに泊まる事も多かった。あの人は言う。

「たぶん、女性の唇(くちびる)は、男の人以上に感じると思うよ」

 手始めにキスへのアプローチとキスの種類と感性を教えられた。服や下着の脱(ぬ)がせ方、いっしょに入るお風呂での泡遊(あわあそ)び、それに女性の身体の抱(だ)き方やセックスのテクニックまで、女性へ接するレクチャーは多種多様だった。

(この人の経験値は、どれだけ有るんだ? 全(すべ)て、実践によって鍛(きた)え上げられているのだろうか?)

 『お姉さん』が僕の部屋に泊まった日から、僕の中で『お姉さん』の呼称は『お姉さん』から『あの人』に、そして今は、『あの人』から『彼女』になってしまった。

 彼女の経験値と教養は半端(はんぱ)じゃなかった。両親との外食である程度は知っていたのだけど、食事や料理は箸(はし)の作法に始まり置き方、持ち方、使い方を矯正(きょうせい)された。

 アニメで観た大賢者のスプーンの握り方は絶対にダメだと思う。大賢者なのに素養無さ過(す)ぎの描き方だった。そこまで原作に書かれていたのか、躾(しつけ)が無いようにしたのは何故(なぜ)なのか、そんな事は知らないが『大賢者を愚弄(ぐろう)するな』だ!

 和食の懐石(かいせき)や割烹(かっぽう)や鮨(すし)、中華色々、アジアンテイストの様々、最初にスープから口を付け、器(うつわ)を持たないで食べる本場の韓国(かんこく)料理の作法も、彼女の豊富な知識や経験と実際の食事体験で学ばされて、フランス料理や伊太飯(いためし)などの飲み物は右に、パンは左へと、自分の分の置く基本位置まで教えられた。

『知ってるちゅうの!』内心、軽い反発を感じながらもメモをとる。

 僕が隣の人のを飲んだり食べたりして、彼女に恥を掻(か)かさように厳(きび)しくマナーを指導された。またインターネットでのホテルやチケットの購入とデートスポットの選定、それに女性を連れ立って歩く立ち位置に振る舞いや気遣(きづか)いなども、僕に彼女好(ごの)みのセンスが身に付くまで仕込まれた。

 本当に初めて裸の女性と身体(からだ)を重ねた僕は、性の喜びを知って世界の感覚が大きく変わってしまった。『始めて』の翌朝は、確かに仕事場の先輩達が言うように、朝の太陽の色がいつもより黄色く見えた。多少は彼女のバックグラウンドを疑(うたが)うけれど、僕は喜びで舞い上がり、今も身も心も人生も彼女に捧(ささ)げたいと思っている。

 買い物は葵区(あおいく)や清水区(しみずく)や駿河区(するがく)で、遠出は東の箱根や伊豆(いず)や富士山(ふじさん)周辺ばかりだった。なぜか、焼津(やいづ)や浜松(はままつ)、御前崎(おまえざき)や浜名湖(はまなこ)などの西方へ彼女は行きたがらなかった。理由は言わなかったけれど安倍川(あべかわ)を越えるのを嫌がった。それは何か理由有りきで謎(なぞ)めいていた。

 会社では作業時間中、彼女と顔を合わせる機会は無くて口を利(き)く事も無い。秘書課に属する受付嬢が、金型部の見習い作業員に声を掛ける理由は殆ど無かった。

 金曜日は終業時の同僚の誘(さそ)いに乗らずに真っ直ぐ部屋へ帰る。残業を終えてアパートに戻ると、部屋の換気扇が回り食欲をそそる料理の匂(にお)いを送り出して、早く入って食べろと言わんばかりに辺りへ漂わせていた。

 小さな赤いLEDが灯(とも)るドアの電磁ロックをIDカードで開錠する。LEDの発光がグリーンに変わり、開錠を知らせる短い電子音と共に微(かす)かに揺れたドアをゆっくり押す。

 いつも彼女はドアに防犯チェーンを掛けていない。僕が無用心で危(あぶ)ないと心配しても、

『大丈夫よ、心配しないで。アパートの人達は、みんな親切で仲良しだから変な人は来ないわよ。部屋は二階の一番奥だし、君は直ぐに帰って来るし、それに、自分の部屋に帰って来るのにチェーンまでされていたら、締(し)め出されたみたいで厭(いや)でしょう』と、言い返された。

 そう言われると、確かに鎖(くさり)は厭な感じがする。

 防犯チェーンが掛けられていないドアは滑らかに開かれて行き、ふぁっと部屋から流れ出た旨(うま)そうな料理の匂いと熱気が、僕を幸せ感で包(つつ)んでくれる。広がるドアの隙間(すきま)の向こうから、食材を刻(きざ)むリズミカルな包丁と煮込まれる鍋(なべ)の音が聞こえ、夕食の支度(したく)をする彼女の半身が見えた。彼女は夕食の支度をしながら僕の帰りを待ってくれている。

「ただいま」

 旨そうな夕餉(ゆうげ)の匂いと彼女の香(かお)りが僅(わず)かに混(ま)ざる、幸せいっぱいの匂いを嗅(か)ぎながら僕は明るく言う。

「おかえり」

 半畳の小さな玄関で靴を脱(ぬ)ぐ僕へ彼女は振り向いて笑顔で返す。この瞬間、僕の心は安らいで幸せを感じる。ずっとこんな日が……、時間が続くといいのに……。

 ユニット化された部屋と一体成形で造られたキッチンのシンク横には、彼女特性の香辛料が降られた分厚い牛ロース肉が、鉄皿に乗せられてレアに焼かれるのを待っている。

「食事の前にシャワーを浴びて来て。私はもう浴びたから」

 彼女は週末を僕と過ごす。金曜日は定時に終業して先に僕の部屋へ行き、食事の支度をしながら僕の帰りを待っている。

 人当たりの良さで人気が有り、そして、様々な事柄(ことがら)に経験豊富だと思われる美しい年上の女性が、なぜ週末を僕と暮らすのだろう? 普段は新しくて綺麗(きれい)な女子寮の部屋に住んで居るのに、どうして週末を狭くて小汚い僕の部屋に来て、いっしょに僕の体臭が染(し)みついた布団で寝泊まりするのだろう? それだけが謎で僕を不安にさせる。

 今宵(こよい)は謎と不安を払拭(ふっしょく)して、二人が幸せになるケジメの誓(ちか)いの言葉を彼女に言おう。

『二十年後も、三十年後も、五十年後もいっしょに手を繋いで歩こう。君は僕の生甲斐(いきがい)で、僕の全てを君の幸せに捧げます。結婚してください』と。

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「やる気と閃(ひらめ)きだ。それに経験値が加わる。お前には芸術的な視点と直感がある。その感性をモノ造りに活(い)かせ」

 正月に帰省(きせい)した時に親父に言われた。

「おまえは職人の親方(おやかた)を目指すか? 英語で言うとクラフトマスター。ドイツ語だとマイスターだ。日本だと一昔前の親方や棟梁(とうりょう)が、俺的にはそうかな」

 僕は、まだ漠然としかイメージが掴(つか)めない。

「職人は、技能者と技術者の両方の能力がないとなれない。優(すぐ)れた技能者は良く職人と言われるけど、本来は違うと思う。技能者は、技や工(たくみ)を極(きわ)め精密で丁寧(ていねい)な仕上げを速く安定して行える仕事人だ。技術者は、工程や構造などの仕組みや方法を考え出す。職人は技能者と技術者の能力と、製作効率や品質向上や納期短縮などの、更(さら)なる工夫をしたマネジメントも考えて行わなければならないんだ」

 全く親父の言う通りだ。自称職人の大半はマネジメントを考えない。器用(きよう)に丁寧で美しく物を作り仕上げる技能者だ。独(ひと)り善(よ)がりで思い込みが激しい一部の工芸家や芸術家とかわらない。

「おまえはそれに成(な)り、それを極める強い意志と願いが有るか?」

 親父は強く問う。

「世間一般の会社は作業手順や工程をマニュアル化して経験の無い、誰でも専門職が行えるようにしている。だが、それは経験豊富な熟練者達を必要としない事に繋がっている。マニュアルや国際的な品質規格は、確かに、そこそこの良品を大量生産できるだろう。しかし、更に品質を向上させ、歩留(ぶど)まりを良くさせるのは人の知恵だ。熟練者の経験と、そこから得た新たな発想と閃きだ。世界的なブランドを持つ会社は、そういう社員達を大事にしている。わかるか?」

(僕に何を望んでいるんだ、親父? 僕に何かを遣らせるつもりなのか?)

 親父の問いには、勢いが有った。

「おまえの志(こころざし)である、おまえが働く会社のモノ造りを把握(はあく)しろ。おまえの仕事の位置付けと、おまえがおまえの仕事で何を成すべきか良く考えろ。そして、お客のニーズを会社が、どう掴み、それを製品化するのに、どんな考えや工夫や気配りで開発していくのか、そのシステムを知り、なぜ業界で一流と呼(よ)ばれ、世界で尊(とうと)ばれるのかを学べ」

 親父は僕が適当にこじつけた入社理由を志と呼び、それを憶(おぼ)えている。

「良い仕事はな、全て単純な作業の堅実(けんじつ)な積み重ねだぞ。それを早く学んで来い」

 親父は、もっともらしい仕事の概念(がいねん)を言う。

「その言葉は、経験から?」

 確かに良い仕事を達成するには、その通りだと思う。一つの事柄を正確に行うシンプルな技能や思考、それと、その結果で得た経験や知識の積み重ねが良い仕事をさせて行く。

「うーん、残念ながら俺の言葉じゃないんだ。ずっと前に観たアニメのセリフさ」

 アニメは好きだから良く観ているけれど、そのセリフを言うアニメは記憶に無い。そんな納得できる言葉は絶対忘れないはずだ。

「アニメの中のセリフってバカにするなよ。それで閃いて、俺は加工の自動化を始めたんだからな。自動化は数値制御の集合体だ。数値制御のプログラムは、お前も知っている通り、全て一と零(ぜろ)で組まれている。これほど単純な作業の堅実な積み重ねはないだろう」

 工場内の自動化を始めた理由が、アニメのセリフだったとは、全く親父に恐(おそ)れ入った。自動化ができなくて自(みずか)ら加工する量を最小限にする為に、常に親父は試行錯誤(しこうさくご)を繰り返している。加工精度をアップして、デリバリーを短縮して、しかもコストダウンによるリーズナブルな価格での提供、そして受注量を増やしているし……。その上で親父は余暇(よか)の時間をしっかりと確保して増やしさえもしていた。

(いったい親父は、一人でどれだけの量を熟(こな)し、どれくらい稼(かせ)いでいるのだろう?)

 親父が感化されたように、アニメには感激も感動も有るし学ぶ事や教えられる事も多い。小説からも得られるけれど、視覚に映(うつ)るのは文字よりも動画、聴覚にはBGMや周囲の音や無音よりも声優のセリフや効果音や歌、視聴感覚を惹(ひ)き付けるアニメには魅力が有り、小説よりも感情移入がし易(やす)い。

「実は、新しい加工技術とマシンを導入しようと考えているんだ。それで、おまえは年内いっぱいで今の会社を辞(や)めて、俺を手伝ってくれないか?」

 御盆(おぼん)の帰省でも言われて、最近も親父から電話があり念を押された。親父は、僕がパートナーになることを望み強く願っていた。

「ニュープロセスの加工マシンの他にも、六軸駆動の一本腕と、二本腕の上半身タイプに、動き回らせる人型のロボットを、一台づつ導入するつもりなんだ。だから、お前に調整プログラミングと管理を頼みたい」

(おおっ、そう来るかぁ、親父ぃ。でも、そんなにも融資して貰えるのかよ!)

「融資は大丈夫だ。もう金は口座にある。今は、メーカーと仕様を決めいている最中さ。デモ貸しもして貰うから、そん時は立ち会えるか? 上手く使いこなせば、二人で十人以上のオーダーを熟せると、試算してるからな」

 そう目を輝かせて言う親父に願われた当初、あと二、三年の間は今の会社で働いて彼女と楽しく過ごしたいと思っていた。でも、ここでのモノ造りのプロセスを理解して、各工程での発生問題と改善対策手順を知るにつれて、親父の頼みを承諾(しょうだく)しようかと考えが変わって来ていた。

(試算では十倍の仕事が出来る? 上手く使えば? 早々に軌道に乗せればウハウハだけど、最適アルゴリズムを掴むまで、メーカーアドバイスを貰っても、めちゃめちゃ苦労しそうだわ)

 一人だけの小さな会社でも、社長である親父の息子として僕の立場を諭してくれたのは彼女だ。彼女好みに変えられたのも有るけれど、週末をいっしょに過すようになった今は僕を一番理解してくれている。僕を支える彼女が傍(そば)にいてくれるならば、金沢に戻って親父の事業を拡大して行けると思う。

 近々、人生の伴侶(はんりょ)にしたい女性として親父に紹介するつもりだったけれど、考えてみたら、まだ良くあの人の気持ちを確認していない。彼女の週末は僕の部屋へ通って来て寝泊りする。僕達は互いに求め合う恋愛感情だらけのディープな肉体関係だ。後悔(こうかい)も不安も無く、互いの相手を求める気持ちは少しも揺(ゆ)らいでいない。

 同様に、彼女は僕と添(そ)い遂(と)げたいと思っているだろうと考えていた。僕がプロポーズをしたら、彼女はきっと、恥ずかしそうに頬(ほお)を赤らめた嬉(うれ)しい笑顔で頷(うなず)いてくれるだろう。

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 IDカードで使用時間、水量、熱量を検知して月割りで清算される共同のバスルームで、シャワーを浴びて身軽な部屋着に着替えた。身体を拭(ふ)き終えたバスタオルを、既(すで)に二人の洗濯物が入れてある洗濯乾燥機に放り込む。洗剤と柔軟剤を注(そそ)いでコインを投入して操作パネルのフルオートをタッチする。コインランドリータイプの最新型の洗濯乾燥機は、彼女が泊まりに来るようになってマメに使う。洗濯物の重さを感知して水量と洗濯時間、乾燥状態までマイコン制御で仕上げて、所要時間も表示してくれる洗濯乾燥機は快適だ。

『チン!』IH料理器具のスイッチが切られた音が、まるで身体を張ったマンツーマンのスポーツ試合のゴングのように響き、レアに焼かれジュージューと油が弾ける極厚(ごくあつ)ステーキの完成を告げた。僕のプロポーズタイムもスタートだ。

 覚悟を決めて夕食の支度をしている彼女に言った。

「僕は十二月で会社を辞めるよ。金沢に帰るんだ。親父が仕事を手伝ってくれって言うんだ。事業の拡張を考えているんだって。海外への展開も有るかも、なーんてね。僕が入っても二人しかいない会社なのに。アハッ、ハハハッ、君も来てくれるだろう?」

 俎板の上で食材をリズミカルに刻んでいた包丁が止(と)まった。

「……そう。金沢に帰っちゃうんだ……」

 僕の期待へ答える前フリなのか、彼女は僕を見ずに悲しそうな声で言う。

(これは彼女の得意な、『悲しそうなムードが、劇的に超ハッピーへ変わる』の演出だ)

 いつものように次に続ける僕の前向きな言葉で、きっと笑顔で振り向いてくれると期待した。心做(こころな)しか、彼女の後姿が固まって小さく震えているように見える。

(その振るえは、嬉しさからだよね)

「ああ、君もいっしょに行こう。近々、君の家に挨拶に行こうと思っていたんだ。君は金沢で僕と暮らすんだ……、ダメかな?」

 そう言いながら彼女の顔を覗(のぞ)き見た。止まった手元に向けたままの彼女の顔は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて目を瞑(つむ)り、苦痛に耐(た)えているようにも、何かを思い詰めているようにも、……見えた。

(どうしたんだ? 僕の想いを伝える言葉に感動しているのじゃない……! 嬉しくないのか?)

 否定を察(さっ)した戸惑(とまど)いが僕の顔を歪(ゆが)めさせて、言い掛けた添い遂げたいという肝心な言葉を停める。でもプロポーズを途中で止(や)める訳にはゆかない。

「いっしょになろう。結婚…… して…… くだ……」

 僕の大事なプロポーズの言葉は、まだ言い終わらない内に彼女の声に遮(さえぎ)られる。

「だめ…、金沢には行かないよ!」

 プロポーズの言葉を上手(うま)く繋げれないまま、彼女の拒否する言葉が僕を貫(つらぬ)いた。

(なぜ? どうして? 週末をいっしょに過しているのに? 今も僕達の為に君は、料理を作っているのは、なぜ?)

 僕は思いも由(よ)らなかった彼女の反応に焦り、性急に結論を求める。

「プロっ、プロポーズしたいのに……、そんな……、 僕じゃ…… ダメなのか?」

 相模原の人に振られたショックが脳裏に甦(よみがえ)る。ガタッ、ゴトン。包丁が彼女の手から落ちて俎板(まないた)の横に転がった。

「女性との付き合いの仕方を教えて、私好みに磨(みが)いて上げれば、きっと、君は光るイイ男になるだろうと思ったの。だから、私から誘ったのよ」

(そうだ! 君から僕を、好きだと言ったんだ)

 君の告白を僕は受けたから、今、君は僕の部屋に居るのだろう。なのに、その思い詰めた否定的な表情はなぜなのだろう? 後ろから、そっと彼女を抱き締めた僕は、息を吐(は)く度に彼女の肩と背中が小刻(こきざ)みに震えているのに気付いた。

「君は忘れていないよ。今でも彼女を慕(した)っているのを、私はわかっていたの。それは日毎(ひごと)に強く感じていたよ。だから、私じゃダメかもって思い始めていたの」

(そっ、そんなのが、僕にプロポーズをさせない理由になるものか!)

「どうして、そんなことを言うんだ? 僕は相模原の人に、はっきりと振られたんだ。格好良くて素敵な大学の先輩の彼氏がいて、僕なんか御呼びじゃない」

 携帯電話の画面に浮き上がるように見えた僕を忘却(ぼうきゃく)する文面と、くよくよと想いを巡らし忘却の呪いの否定要素を探した懺悔(ざんげ)の日々を思い出す。

「僕は、相模原の人をきっぱりと諦(あきら)めている。そう、忘れてさえいた。諦めさせて、忘れさせてくれたのは君じゃないか!」

 僕は卑怯(ひきょう)な言い方をしている。

(それは、彼女の所為(せい)じゃないだろう。彼女は、そこから僕を救ってくれたのに)

「ううん。嘘(うそ)……、君はまだ相模原の彼女を想っている。それは、私では置き換(か)われないのよ」

(違う! 彼女は、何を勘違(かんちが)いしているのだろう?)

「そんなことはない。僕は、君が好きだ。君しかいない。今も君を抱き締めている。愛しているんだ」

(違う! 僕の心の片隅(かたすみ)に相模原の彼女が居るとしても、彼女は僕を否定しないはずだ)

「君は……、一人で金沢へ帰った方がいいよ……。私は行けない、……から」

 ! 僕は察した。……彼女は何か僕の知らない大事なことを言おうとしている……。

「私には、親が決めた相手がいるの。今時、時代錯誤(じだいさくご)したような事だけど本当よ。君には、まだ言っていなかったけれど、私、来年の六月に結婚するわ」

(そんな……、何を言っているん…… だ……)

 初耳だった。今まで添い遂げる約束をした相手がいるなんて、言葉にしなくて……、素振りも見せなかった……。その言葉は僕にとって、あんまりだろう!

(親が決めた? 決まった相手がいる? 初めて聞く事だ……)

 努(つと)めて彼女が明るく口にした衝撃的な言葉に、僕の心臓が止まりそうだった。少しも気付けなくて、僕は知らな過ぎだ!

「結婚したら、たぶん、大井川(おおいがわ)の奥で暮らさなくてはならないわ。だから結婚するまでは自由にさせてちょうだいって、両親と親族を説得したの。でも、そろそろ相手側から私の素行調査が入りそうかもね」

 僕の否定を空(むな)しくさせてくれる事を淡々(たんたん)と彼女は話し続ける。その明るい語尾の言葉で語られる青天の霹靂の事情は、僕の幸せな未来を絶望の深淵(しんえん)へ追い遣ってしまう。何故、僕は彼女のような理想的な女性に、男臭がしないと判断したのだろう?

(親族も説得したって……? いったいどんな家柄(いえがら)なのだろう?)

 困(こま)っている振りや悩んでいる様子は、彼女の明るい表情と抑揚(よくよう)の無い話し方からは感じられなくて、とても信じられない思いと疑りばかりが湧(わ)き出て来る。

 だけど、僕がいくら彼女の話を信じられずに理解できなくても、彼女の強い意志と言葉の裏に潜(ひそ)む逆(さか)らえない事情が伝わって来て、彼女が既に自分の境遇と運命を受け入れている事を悟らせた。

 僕は抗(あらが)うことも拒否することもできずに、ただ黙って唇を噛み、彼女が続ける言葉を聞く。

「あのね……、経緯(いきさつ)を最初から話すね。黙って聞いてよ」

 話すべきか迷うように選ぶ言葉は途切れ途切れで、話し辛(づら)そうに語る不可解な内容から理解できたのは、どうも彼女の家はいくつもの山林を持ち大きな製材所も有るらしい。それに山間部には川霧や朝霧に覆(おお)われる茶畑が在って、自営の製茶工場で高級緑茶を製造出荷しているようだ。それが長引く消費低迷の不況で非常に危(あや)うい経営状態にあるのだ。

 彼女の家は没落中の……、いや、崩壊(ほうかい)寸前の資産家だった。普段は何事も明るく話す彼女だけれど、さすがに困窮(こんきゅう)している自分の家の事を話すのは本当に辛そうで、俯(うつむ)き加減に逸(そ)らす顔の瞳(ひとみ)は視線を伏せている。僕は黙って彼女の顔を見て話を聞いた。彼女は時折(ときおり)、相槌(あいづち)も問いも入れずに黙って聞く僕の反応を確かめるように瞼(まぶた)を上げて、その温度の無い光の瞳が僕の視線と合わさり、僕の眼に現(あらわ)れる光と影を探る。

 破産直前の彼女の家の救済を町の名士で多くの事業が成功している、羽振(はぶ)りの良い別の資産家が資金援助をしたいと申し出た。それは資本の半分に及ぶ強い経営権を持つ内容だった。当然、そこまでの参入を彼女の家は認めず、再興のチャンスを求めて経営権と資産を手放すつもりはなかった。

 彼女の家が山林や茶畑、それに製材所と製茶工場の運営権を手放さないのならいっその事、親戚(しんせき)になってしまおうと名士は考えた。その考えは彼女を自分の息子の嫁(よめ)に所望することだった。

 既に銀行からの借り入れは限界に来ていて、貧窮(ひんきゅう)する経営で破綻(はたん)寸前の彼女の家は急(いそ)ぎ親族会議を開き、返済の当ても無く発行を繰り返した約束手形の迫る期日に会議が暗く沈む中、苦渋(くじゅう)の深い審議の末に、銀行への返済の全額と発行した手形の保証人、、今後の経営へのサポートを本家の一人娘の婚礼と引き換えにする、人身売買に等(ひと)しい名士の申し入れを受ける事に決めてしまった。

 縁談が決まると、その日中に名士から息子の花嫁の実家へ充分な援助が行われた。

 直ぐに決められた婚礼の日は、来年の六月吉日。ジューンブライトだ。それまでは、自由に青春して暮らして良いというのがサブ条件だった。そして彼女はかなり歳の離れた名士の息子との結婚を承諾した。

 高そうな彼女の自動車(くるま)や持ち物や服は、全て名士から届いた結納(ゆいのう)の一部だと言う。

(たぶん、資産や経営権よりも息子の嫁が主題だったんだな……。なんてこった! きっしょぉー! あと半年と僅かで、彼女は知らない男の妻になってしまうのか!)

「いまどき、そんな事情ってあんのかよ?」

 そんな理(ことわり)が有る自動車とは知らずに、彼女の愛車を運転してみたかった僕は、夏が来る前に自動車教習所へ通って運転免許証を取得した。

(サイドシートで笑う彼女が嬉しくて、夏以降は僕がよく運転して、楽しんでいた自動車がフィアンセの結納品だなんて、……ショックだ!)

「どこにでも有るわよ。田舎でも、都会でもね。君が知らないだけ。御先祖様から受け継(つ)がれている土地持ちの資産家や、代々続く屋号(やごう)の老舗(しにせ)なんて、拘(こだわ)りと柵(しがらみ)だらけで、関係者の欲の思惑(おもわく)が幾重にも渦巻いているわ。そんな背地(せち)が無い事に、君が無縁で良かったと思うよ」

(ああ、全くだ。だけど、だけど、君は……、その渦中にいて……)

 彼女は溢(あふ)れんばかりに泪(なみだ)を溜(た)めた瞳で僕を見詰めて言った。

「相手の人は、とても優しい人だったわ。結婚したら……、きっと私を大事にしてくれるよ。だから…、心配しないで」

 明るい声といっしょに彼女はニコッと明るく笑う。笑って細くなった目からポロポロと泪が頬を伝い零(こぼ)れ落ち、床のカーペットに幾つもの染みを作る。それを見て僕はブルッと身震いした。坦々(たんたん)と初めて自分の境遇を話す彼女は、今、どういう心境なのだろう?

(君は幸せになるべきで、絶対に幸せになるに決まっている。その名士の息子は、きっと君を幸せにしようと努力してくれるだろう。そうだと凄く良いと思うよ。でも、それ以上に僕も……、僕は、君を幸せにしようとしてたのに!)

 明るい未来の消失で先の展開を見失なった現実は、最初に失恋の喪失感(そうしつかん)が来た。始めはぼんやりと遠くの雑然とした街の喧騒(けんそう)のように煩(わずら)わしく、それから突然に、はっきりと理解できて色の無い巨大な壁が二人を阻(はば)んでいるのが見えた。次に裏切られた思いに羞恥心(しゅうちしん)が被(かぶ)る。それから騙(だま)された怒りが復讐心(ふくしゅうしん)を煽(あお)った。

「そっ、それでいいのかよ! 大事にされるって? 納得できないぞ! そいつは君を幸せにできんのかよ! ぼっ、僕は結婚相手にもならなくて……、くっそぉー! 君はそれでいいのかよ!」

 遣る瀬無さに声を荒(あら)げ彼女の真意を探った。

「ごめんね。でも騙していた訳じゃないのよ。最初は君を慰(なぐさ)めるだけだったのに……。慰めるだけの同情のはずが君と話している内に、いつの間にか私は君に惹(ひ)かれていたの」

 鼻声まじりで話す彼女を睨(にら)む……。僕の顔は眉間(みけん)に深く皺(しわ)を寄せ、米神(こめかみ)に青く血管を浮き出させ、目尻は釣り上がって眼光は怒(いか)りに満ちている…… はずなのに、彼女は目を逸らさずに僕を見つめ続けて、僕の怒りや憤(いきどお)りを受け止めようとしていた。その微笑(ほほえ)まない顔が彼女の覚悟を知らしめた。彼女の物怖(ものお)じしない瞳の輝きに嘘をついてはいないと思う。

(言い訳じゃない。彼女は本当にそう思って僕を大事にしていたんだ。誤魔化(ごまか)しじゃない……)

 誠実に思える彼女の態度が僕を冷静にさせていく。

「なんかドラマチックだな。君が、リアルな悲劇のヒロインだなんて信じられないよ。身近すぎて嘘みたいだ」

 彼女は僕よりもっと辛くて、ずっと一人で悩んで決断していたのだろう。僕に打ち明けて相談してもどうのもならないのは分かる。それでも、逆らえない無念さが僕に皮肉を言わせた。

『人それぞれだから、どっちでも構わないけれど、人生は自分で決めた自分責任の方が、深いとか、重いとか、俺としてはどうでもよくて、ただ、面白いと思う。人には、全て人任せの無責任な奴、最後の決定は自分がしたのに選択を委(ゆだ)ねた人の所為にする奴、最後まで自分で判断して決めた結果に責任を持つ奴、この三通りが有る。成功は他人の所為か? 支えてくれる人の御陰か? 自分のセンスか? そこに感謝が有るか? 失敗の行く末は同じだが、自分で決断した結果なら大抵は潔(いさぎよ)く納得できるだろう。おまえはどっちだ?』そう言って親父は先日の電話の中で、まだ暫くは半同棲の温い日々を過ごしたい僕を説得していた。

(これは違うだろう、親父ぃ。全然、面白くないじゃん! 不条理を負わされた彼女が、追い詰められてした不本意な決断なんだぜ。これを潔く納得するなんて、できるわけないじゃんか! ううっ……。そっ、それでも……、これからの茫漠(ぼうばく)たる人生を、『幸せだった』と言えるように、彼女はして行くんだろうな……)

 抗って逃げて行方を晦(くら)ましても、立ち向かって縁談を破断にしたところでも、この先、彼女は家族を見捨てた事で、ずっと自分を責め続けるだろう。顔面にパンチ受けて昏倒(こんとう)するようなショック状態の僕でも、彼女の立場は理解できた。

「君と、ずっといっしょにいようかと考えたことも、……有ったよ」

(やはり彼女は、一人で散々悩み苦しんでいた……)

 微塵(みじん)にも僕にそんな素振りを見せてはいない。僕は彼女の言葉や表情や態度からも、彼女が深刻な問題を抱えて悩んでいる事に全く気付かなかった。彼女に相模原の女性とは違う強さを感じた。

「君は、もう一人で大丈夫(だいじょうぶ)でしょう。自信をもっていいわ。以前とは違うよ。私は…… ね……、幸せになれるように、努力するから…… ね」

(思った通りだ。……自分の幸せは、自分で掴む……。彼女は決めている……)

 彼女の言葉が僕の中に留(とど)まった。言われてみれば確かにその通りだ。今の自分は彼女に声を掛けられた頃の、うじうじしていた僕じゃない。彼女は僕を慈(いつく)しみ成長させてくれた。今も僕は一気に大人になっていく気がしていた。

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 その夜、僕達は泣きながら何度も愛し合った。仕込まれた彼女の男に僕なりのアレンジ加えて抱き締める。大声で泣きながら僕は強く激しく彼女を愛した。

(この悲しい恋は、必然だったのだ……)

 どうしようもない悲しさが胸を締め付ける恋しさに混ざる。それに冷たい寂しさが被って、切ない虚しさが僕を襲(おそ)う。

「うっ、ううっ……。あっ……、ああぁ……、しょっ、生涯、君を忘れないよ……」

 さめざめと彼女は泣き、喘(あえ)ぎながら言った。

「はあぁぁ……、君に愛された想いを……、あーんんん。さっ、支えに生きて…… いくから。あーっ、君はもう…… 私に染み込んでいるの……」

 言い終わらないうちに彼女は仰(の)け反(ぞ)り、ビクビクと身体を震わせるオルガニズム直前の緊張が、激しく雄の突き上げを繰り返す僕のエレクトして爆射寸前の一物(いちもつ)を搾(しぼ)るように締め上げ、その抗えない快感は、まるで求める全てがそこに在るかのように、僕を絶頂の果てへと突っ走らせる。

「あっあっ。もっと、もっと強くして……、ああっ。はっ、激しく愛して。あっ、私の中に深く深く君を残してーっ、あああーー。あっ、ううーん」

 ぎゅっと、しがみ付くように巻した彼女の腕に力が入って締め付け、握る掌が背中に強く指を立て、僕の胸の下で、苦しみに耐えているようにも、不安に抗っているようにも見える彼女の表情が揺れるている。

「おおっ、おおおおおーっ」

 早口の叫ぶような喘ぎで昇(のぼ)り詰めて身体を硬直させる彼女の顔が、うっとりとした微睡(まどろ)みに変わり、いつしか僕も吼(ほ)えながら果てていた。

 息が上がる僕の胸に顔を埋める彼女の小さな嗚咽(おえつ)が聞こえ、僕の眼から溢れる涙が彼女の髪へ幾つも落ちて染み込むように消えて行く。

「ずっと、こんな日が、続けばいいのにね」

 鼻声の涙を流す赤く腫(は)れた瞳が僕を見続ける。

「グスッ、愛してる」

 流れては溜って溢れる涙が彼女の顔をグシャグチャに歪ませて、良く見えない。

「グスン、うん、愛してるわ」

 涙の流れるままに二人は声を忍(しの)ばせてさめざめと泣いた。嘘に出来ない現実を、どうしょうもならない事を分かっているのに、僕達は嘘ならと心から祈りながら互いを守る為に身を寄せ合った。何度も唇を重ねて身体を摩(さす)り、逃げないように捕らえ続けていたいのに、スゥー、スゥーと静かに眠り始めた彼女の小さな寝息を聞きながら、僕は眠りに落てしまう。

(朝の光に目が覚めると、……僕らの愛が添い遂げれる、いつか感じた、此処とは似て非なる世界に行けていれば、……そう、なれば、良いのに……)

     *

 大晦日(おおみそか)の昼下がり、彼女は静岡駅で僕を見送ってくれた。早めに着いた新幹線のホームを冬の陽を浴びながら歩く。人気の無いホームを僕達は手を繋いでゆっくりと無言で歩いた。

 冬の駿府(すんぷ)の乾(かわ)いた冷たい大気に時折、湿った雪の匂いを嗅ぎ分けて蒼(あお)く澄(す)んだ空を見上げると、高く透明な青色の空間中に、ちらほらと遠くから風に吹かれて来る花弁(はなびら)のように白い風花(かざはな)が舞っていた。安倍川の上流、梅が島の更に奥の県境(けんざかい)の頂(いただき)から飛ばされて来る風花の淡雪(あわゆき)は地上に着く直前、消えるように融けてしまう。僕の想いも独り善がりに舞うだけで愛する彼女と、窮乏(きゅうぼう)に彼女を一粒の麦のようにした彼女の家族を救いも導きも出来ずに、後、僅かな時間で過去に融(と)けてしまうのだろうか?

 もう直ぐに僕を金沢に運ぶ列車が来る時刻になる。これが今生(こんじょう)の別れになるのに、この人は何も話さない。僕も黙って歩く。

 歩きながら僕は同期で入社した時から今までの彼女を思い返していた。この人も同じ思いだったのだろう。時々、指を絡(から)ませて僕の手を握る彼女の手に力が入り、その度に僕はその手をしっかりと握り返した。

「私が買ってあげるね」

 駅に着くなり僕の前に出て駆け出しながら彼女が言って、窓口のカウンターで金沢行きの切符買って来てくれた。

「はい!」

 明るい声で僕に切符を渡す。彼女は奮発してグリーン席を僕にプレゼントしてくれた。最後まで彼女は僕の面倒を良く見てくれる。

「受け取っちゃって、いいの?」

 ここまでさせちゃいけない気がした。だけど、

「いいよ」

 いつもの歯切れの良い明るい声で言い切る。全く彼女は屈託(くったく)が無い。更に駅弁の鰻(うなぎ)弁当や安倍川餅(もち)も持たせてくれた。ミカンと熱いお茶まで添えてくれる。

 高価な切符と駅弁への感謝の言葉を言えない内に、ホームへ『ひかり』が滑(すべ)るように静かに入って来た。『ひかり』は『のぞみ』の通過待ちで五分ほどの停車をする。

 グリーン車の乗降口の前で、

「もう少し時間が有るね」

 そう言って彼女は乗り込もうとする僕の肩に手を掛け、ゆっくりと僕を振り向かせて抱き締める。そして優しくキスをした。

「こうして、君を抱きしめてキスをするのも、これが最後だよ」

 僕に言っているのか、自分に言い聞かせているのかわからない調子の小さな声で彼女は言った。それがいじらしく感じる切なさに、ぐっと胸が締め付けられた。

「……うん……。幸せに…… なれ…… よ……」

 愛しくて、切なくて、それ以上言葉が続かない。別れの言葉をちゃんと言い切れないまま、僕は彼女を強く抱き締め返した。まだ感謝の言葉も言えていない。

「……幸せになるね」

 僕の耳許(みみもと)で囁(ささや)くような小さな声で彼女は明るく言う。その小さくても明るい声が、もっと僕を切なくさせて、ぎゅっと息が詰まるくらい、更に胸を締め付けた。

(ずっと、抱き締めていたい……)

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 辞表が受理されてからも有給休暇を消化せずに、就業カレンダー通りに年の瀬まで仕事をした。有給休暇の大半が残っていたのだけども、遣り掛けの加工の仕事を中途半端で同僚に引き継がせたくなくて、一昨日(おととい)の最終日は遣り遂げるまで帰らず、彼女の待つ部屋に戻ったのは深夜になった。表通りからエンジンを切り、惰性(だせい)で近づくV-MAXの無音で走行する気配に気付いて、彼女はパタパタとアパートの前まで僕を迎(むか)えに出て来た。

「おかえりなさい」

 寒そうにドテラを羽織(はお)った彼女の笑顔の声が、小さな白い霧になって消えて行く。不意に込み上げて来た遣り切れない想いが彼女を抱き締めさせて、僕はひたすらに彼女の体熱を求め続けた。

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 部屋の荷物は昨日、年末で割高だったけれど業者便で家へ送った。V-MAXも大型バイクの専門業者に頼んだ。両方とも着くのは正月明けの五日ごろになるそうだ。大晦日まで彼女と過ごせるなら運送代が割高になっても構わない。

 正月明けまで彼女といっしょに過ごしたいと強く思っていたけれど、どうにか潔く大晦日の午後に離れる覚悟が出来た。正月は息子と差しで酒を飲みたいと親父に駄々(だだ)を捏(こ)ねられた。それに気持ちの踏ん切りがつかなくて、ズルズルと引きずるケジメの無い自分になりそうだった。

 V-MAXと荷物を送り出した後、部屋の掃除と戸締りを終えて鍵を不動産屋へ返したのは夜になった。街のビストロバーで彼女と遅いディナーを摂(と)り、昨夜はリザーブしていた静岡駅近くのシティホテルに二人で泊まった。

 彼女と何度もビジネスホテルやモーテルに泊ったけれども、続き部屋のゴージャスなスイートルームと、だだっ広いキングサイズのベッドは初めての体験で、明け方まで寝像の悪い僕らには最高のベッドスペースだった。それは彼女のサプライズで、ツインのルームの予約を彼女が料金を大幅にプラスしてスィートに変更してくれていた。朝方眠りに付いた僕達は、寝心地の良さに危うくチェックアウトをタイムオーバーするところだった。

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 鳴り響くベルが『ひかり』の発車時間が迫ったことを知らせる。

(彼女を離したくない。金沢に連れて行きたい……)

 僕は心の中で最後の抵抗を試みる。昨夜は何度も、そう言って彼女を愛した。何度も彼女を抱き締め、彼女は何度も昇り詰めて絶頂を迎え、僕もいっしょに何度も果てた。

 ベルが鳴り響く中、彼女は僕の気持ちを察したのか、言い聞かせ宥(なだ)めるように言った。

「私は、……行けないよ」

 いつまでも離そうとしない僕の腕を彼女は無理遣り離して、僕を乗降口に押し込んだ。鼻の奥がツンとして目頭(めがしら)が熱くなり、視界が滲んでいく。

 僕は乗り込むや否や振り返り彼女を見つめた。柄入りのフード付きハーフコートとハイネックセーターに、セカンドバックだけのカジュアルな服装の僕は、まるで葵区の呉服町(ごふくちょう)でデートをするような格好だ。彼女が選んだ服は、二人が互いに場所も人生も遠くに離れて行き、もう二度と人生が交(まじ)わらないかも知れない、別れの場に相応(ふさわ)しくない気がした。でも、彼女の好みで良く僕が着せられたファションだった。彼女の想いが痛いほどわかる。

「ありがとう、元気でね。また世界のどこかで逢えるといいね」

 鼻先を掠(かす)めて閉まり掛けるドア越しに彼女の声が聞こえた。僕は昇降口の窓ガラスに額(ひたい)を押しつけて彼女を見る。泪で眼を潤(うる)ませた彼女が笑って手を振っていた。

「ああっ、きっといつか、どこかでまた逢おう!」

 僕は閉まったドア越しに大声で叫んだ。たぶん、声は届いていない。でも僕の口の動きでわかったのだろう。彼女は胸の前で両手を握り頷いた。上げた顔の頬を涙が流れているのが見え、ポロポロと落ちる大きな雫は止まらない。

 ついにこの時が来た。感極まった僕の目からもボロボロと大粒の泪が止め処(ど)もなく溢れ出て、何度も、何度も、拭(ぬぐ)うけれど、泣きながら僕を見続けてくれる彼女がはっきりと見えない。これが最後の、……今生の別れになろうとしているのに滲んだ彼女しか見えない。

 列車が動きだすと、始めは歩いて、直ぐに速足になり、そして全力で彼女は駆け出した。でも直ぐにホームの端が来て、加速する列車は僕の前から彼女を一気に引き離して行く。日本晴れに晴れ渡った真っ青な空の下、明るく光るホームの端に立ち彼女は泣き笑いの顔で大きく両手を振っていた。

 その彼女が、『あっ』という間に小さくなり不意に見えなくなった。僕はドアの窓に顔を擦(こす)り付けて少しでも長く見ようとする。もっと良く彼女を見て、今の彼女の姿を瞼に焼付けたい。でも一瞬の動作が焦点をダブらせて霞(かす)ませた視界に、無意識で反射的な瞬きが彼女の所在を見失わせた。

 あの人は最後まで格好良くてドラマチックだ。一年足らずだけど僕に充実した十分な幸せをくれた。あの人も半年後に退職して実家へ戻る。そこには許婚の人との抗えない結婚が待っている。でも明るくて前向きな人だから、大井川の上流の町で幸せに暮らしていけるはずだ。決して間違った自由へ飛んだりはしないだろう。

 親が決めたフィアンセがいる。それでいて僕と関係を持った。そして今、僕との関係を絶ち半年後の六月には、そのフィアンセと結婚して実家の家業を継ぐ。なんて不節操(ふせっそう)で都合の良い、人をおちょくったヒロイン視点のラブストーリーなのだろう。

 僕は役不足の好(い)い面(つら)の皮なのか? だけど、僕はからかわれたとか弄(もてあそ)ばれたとか思わない。あの人は誠実で正直だった。僕の心に相模原の彼女が確かに居るけれど、そことは別に、あの人は僕の中に大きく拡がって行っていた。

 セカンドバックを脇に置き、ゆったりとしたグリーン車のシートに体を沈めて、ホームの端で大きく両手を振り続ける彼女を思い起こす頃、『ひかり』は大井川の鉄橋を渡り始めた。トラス橋の斜めになった鉄骨がビュンビュンと視界を横切る向こう、大井川の上流に綺麗に雪化粧された南アルプスの峰々が見えた。

(六月から……、あの山脈の麓(ふもと)で彼女の新しい生活が始まるんだ……)

 一度、静岡市内を流れる安倍川の上流の井川(いかわ)の集落から峠を越えて千頭(せんず)の町へ抜けた事が有った。V-MAXにはタイトなワインディングロードばかりで、千頭から川根町(かわねちょう)を通り島田(しまだ)の市街地にでた時にはホッと安堵(あんど)した。美しい景色と清々(すがすが)しい清涼な空気と水、観光には良いけれど生活するには厳(きび)しくて困難な土地だと、擂(す)り鉢(ばち)の底のような急斜面に囲まれた川沿いの僅かな平地を走りながら、そう感じた。

 そんな山間で新妻として初々(ういうい)しく、……ではないか……、健気(けなげ)に彼女が生きていかなければならないという思いに、彼女の最後の姿が重なり、南アルプスが潤み始めた涙で揺らいで行く。

(結婚する直前までは連絡しても良いだろう。彼女の近況を知りたいし、僕の近況も知らせたい。……それに彼女の事情や気が変わるかも知れない。それにまだ、ありがとうも言えていないし……)

 自分勝手な解釈と諦めの悪さと恋しさが、セカンドバックの中のマナーモードにした携帯電話を掴ませた。その時、手にした携帯電話がいつものリズミカルなパターンで震え、彼女からの着信を告げてくれる。

 僕は、やはり心は通じ合っていて思うところは同じだと、安堵感に満ちた嬉しさに急いでメールを開いた。

【ありがとう。思えば殆ど、私の我(わ)が儘(まま)に付き合わせただけだったよね。迷惑だったかもね。ごめんなさい。心から謝(あやま)ります。でもきっと、君が『そんな事は無いよ』と、言うのも分かっています】

 嬉しさが悲しさになり、安堵した気持ちは絶望の不安に襲われ、未練だらけの期待は凍(こお)り付いた。

(どうして、こんなメールを打つんだ……)

 溜めていた涙が、また溢れて僕の頬を流れて行き、深呼吸をして涙を拭い続きを読もうと画面に目を凝らした。気丈夫(きじょうぶ)な彼女がどんな思いで、このメールを打っていたのかと思うと、息ができないほど居た堪(たま)れない。

【このメールが最後だよ。今、携帯電話ショップの前にいるんだ。これから、この携帯電話の使用を解約するの。だから返信しても、電話しても、『現在、お掛けになった電話番号は使われておりません』だからね。もうこれからは、フィアンセの家から送られて来た携帯電話を使わなくちゃならないんだ。私の素行調査も今まで以上に徹底(てってい)して行われると思うし。通信履歴も知られちゃうから、新しい携帯電話からは君に掛けないね。新しい電話番号やメアドも教えないよ。この先、君に連絡する事は無いって意味だから、わかってよ。でもね、使っていた携帯電話のシムカードと、全てのデータを移したメモリーカードだけは大事に残しておくわ。私の大切な思い出だから……。私はいつも、この世界のどこかで君が元気で活躍していると信じていて、それを願い祈っているよ。……じゃあね。バイバイ!】

 上を仰(あお)いで僕は目を瞑(つむ)る。携帯電話を持つ手に力が入りプルプルと震えた。閉じた瞼からワッと涙が溢れて頬に幾筋も熱く流れた。いっそ大声で泣きたいけれど、他の乗客もいる列車内でそうすることはできない。俯いて両手で顔を覆い、流れ出る鼻水を啜(すす)りながら声を殺して泣いた。

(僕こそ、ありがとう。……いっしょに居てくれて)

 それは言えていない、言わなければならない感謝の言葉だった。

(しあわせに……!)

 また最後に、この大事な言葉を伝えられなかった。

 メールを読み終えた気持ちの動揺が静まると、僕は急いで彼女に電話した。

『お客様のお掛けになった電話番号は現在、使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度お掛け直しください』

 悲しいガイダンスが、平らな響きで小さなスピーカーから流れ、彼女のメールに書かれていた通り、既に彼女への通信手段は…… 絶たれていた。

 僕は彼女から手渡された駅弁を手に取り見詰める。駅弁を僕に渡す時の思い詰めたような、はにかんだような、彼女の表情を思い出した。

 駅弁を渡された時、彼女は直ぐに手を離さなかった。ほんの僅かな間だけど彼女はしっかりと駅弁を掴んでいて、渡したくない思いと躊躇いを感じた。そして彼女の美しい瞳は僕の目を見詰めていた。

(送られて来た携帯電話……、素行調査の徹底って……!)

 まだ彼女が会社を辞めるまでに、会社に電話をすれば秘書課で受付嬢の彼女に連絡できると一瞬考えたけれど、ここまでする彼女の決心をぐらつかすような未練は、与えてはいけないと察した。彼女は、重く複雑な事情が絡みつく人生を受け入れている。表情には現わさなかったけれど、辛いのは彼女の方だ。

 ……僕はまた、掛け替えの無い女性を失ってしまう憤りと悲しみに苛(さいな)まれた。

(こんなに別れが辛いだけなら……、もう…… 恋なんて……)

 彼女以外に僕の幸せは無いと思っていたのに、彼女の幸せの為の僕だったのに、全然違う、それは思いも寄らなかった彼女の幸せになってしまった。

 硬い弾力のネガティブが太い不信感の指で捕らえた僕を握り潰して行く。

 

 ---つづく