遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説 『遥乃陽 novels』の他に『遥乃陽 diary 』と『遥乃陽 blog 』も有ります

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

幸せに(僕 十八才) 桜の匂い 第八章 肆

 小学校六年生の春の出会いから、別れは必然だったのだろうか?
 これで僕は、彼女を諦(あきら)めるしかないのだろうか?
 今のままでは、そうなってしまうだろうもう、手遅(ておく)れなのか?
 時間は戻(もど)せなくて相模原(さがみはら)の……、たった、数時間の出来事(できごと)が、それまでの七年の間、ずっと、想い続けて、少しずつ掴(つか)んで積(つ)み上げて来た、彼女の心を崩(くず)して無に帰させてしまうのか?
 立戸(たっと)の浜では、良い感じだった。
 相模大野(さがみおおの)の駅前で会うところまでは、希望に満ちていた。でも、無計画なデートを僕は、強行してしまった。そして、後味(あとあじ)の悪い、初デートになってしまった。
 デート前の、期待と希望に満ちた幸せな気持ちは、事前にもっと、……あの時は、ああすれば、良かったとか……、後悔(こうかい)と失望と虚(むな)しさになって残ってしまった。
 それは、彼女も同じ気持ちで、次のデートで、遣(や)り直(なお)せると思っているだろうと、暫(しばら)くは不安混(ま)じりでも、去年からの急接近に因る、ギャップや齟齬(そご)くらいの些細なズレとしか思っていなかった。しかし、再会に至(いた)らないまま、過ぎて行く日々に、彼女の僕への気持ちの意識の薄れや離れを疑(うたが)う、疑心暗鬼(ぎしんあんき)が日増しに強まるばかりだった。
 それは、水平線の彼方から迫(せま)る暗い前線雲のように、隙間の無い分厚さで、少しずつ、僕の全(すべ)てを覆(おお)ってしまい、やっと、親密になりつつある彼女との繋(つな)がりを、直(す)ぐにでも反故(ほご)にされて、深刻(しんこく)な白紙事態に陥(おちい)りそうな予感に苛(さいな)ませた。
 あの日の多くの深刻な場面を…… 僕は反芻する。
 どうにか上手く出会えたのに、彼女を着替えに行かせてしまった相模大野の駅前。
 白バイに捕まって停車したR16の路肩で、スピードオーバーの違反切符を切られていた。
 信号待ちでの、愛車の下敷きになった立ち倒(ご)けで、僕達のピンチに気付いた自動車の人達が助け出してくれた。
 僕の思い込みで道に迷(まよ)い、行き戻りをした横浜の元町(もとまち)界隈(かいわい)。
 春風と陽射(ひざ)しの中の大桟橋。
 適当に走って迷ってしまった帰り道。
 迷い込んでいた雑木林。
 昼飯にカツ丼を食べていた相模大野の駅近くの饂飩屋(うどんや)。

 彼女に、迷うような、困ったような、表情をされながら、バイバイをして別れた相模大野の駅前。
 ……それらを思い出す度(たび)に、僕は考えていた。
 僕とは違うだろう彼女から見たシチュエーションと、不甲斐無(ふがいな)い僕の姿を、どのように、彼女が感じて、どう思っていたのかと……。
 初デートの後、彼女からのメールが、返信メールも含(ふく)めて極端に減った。
 相模原へ行く前までの週二度の着信が、其(そ)の後では週一度となり、更(さら)に、二週に一度になって、今は月一度と激減している。そして、相模原の初デートから、再び、彼女と会えないまま、半年以上も経(た)った肌寒い秋の日に、そのメールは来た。
 それは、『ラストメール』と、タイトルが表示されていた。
 何の前振りも無く届いた彼女のメールに、僕は、やっと、彼女の気持ちが落ち着いてデートの再開を知らせるものだと思い、心をときめかせた。
 新たな始まりへの期待に高ぶる気持ちを抑(おさ)えて、開いたメールを読み終えると僕は、その信じられない文面に頭は霞(かす)み、不安と焦(あせ)りで、ハァ、ハァと、息苦しくなる胸と、プルプル、ガクガクと、震える僕の四肢(しし)と全身は、速やかな行動を求めた。
 暗い視界と薄れる記憶に、全(まった)く、仕事は手に付かなくなり、翌日は、衝動的な憤(いきどお)りに会社を休み、僕は、相模原へとV-MAXを急(いそ)がせた。
 『ドドッ、ドッ、ドッ』と、股下から響(ひび)くエンジンのサウンドが、時に、『ダメダメッ、ダメ』なんて、嘆(なげ)き悲しむ僕の心のように、時に、『ムダ、ムダ、ムダッ』みたいな、諭(さと)しに聞こえていた。
 今なら、まだ間に合うと、意気込んだ自信と希望の神走りは、相模原へ近付くにつれて、研(と)ぎ澄(す)ます予感の大胆さと勢いは無くなり、代わって、圧(お)し掛かる現実に、心は沈んで行く。
 もう、かなり、難(むず)い扱(あつか)いに慣(な)れて来たと思っていた大型バイクが、今日は重たくて憤(むずが)るように感じる。
【彼氏ができたよ……。大学の先輩。格好良い人で、背が高くて美形だよ。かなり、女子達の憧(あこが)れの的だったのに、このあいだ、その先輩から声掛けられちゃって、私でいいのって感じだったけど、なんか、運命的なものを感じてしまって、それからは、先輩と御付き合いをしているの。男女交際ってやつね。……だから、もういいの。今まで、ありがとう。彼氏っぽく扱っちゃって、誤解させたかも知んないけど、あなたを、彼氏と意識したことは無いの。やっぱり、『ありがとう』じゃなくて、『ごめんなさい』だわ。だって、私は、あなたのメル友でしょう。私達、男女交際までは、いっていなかったよね。あなたは、私に何度も、『好きだ』と伝えてくれたけど。私は一度も、『あなたを好き』と言っていなかったでしょう。ごめんね。……あなたには、私より、もっと、相応(ふさわ)しい素敵な女性が絶対いるよ。でも、それは、私じゃないから……。ねぇ、もう、私じゃなくてもいいでしょう。あなたが、私を見なくなれば、直ぐにでも、綺麗で可愛(かわい)くて賢(かしこ)い、こんな私と違って、優(やさ)しくて素晴らしい彼女が、きっとできるわ。あなたの幸せを祈ります。私は、あなたでは無い、あなたと違う、別の男性と幸せになります。私の事は……、もう、いいよ。忘れて下さい。わかってくれるでしょう】
 彼女から初めて届いた長いメールは、極(きわ)めてつれない悲惨な言葉のラッシュだった。
 半分くらい読むと、涙が溢(あふ)れて来て、読み進むのが辛(つら)い。
 次々と、信じられない言葉が僕を圧倒して行き、詰まりだした鼻腔に、口でする息が喘(あえ)いでしまう。
 潤(うる)んだ瞳(ひとみ)は、文字を滲(にじ)ませ、溢れて頬(ほお)を伝う涙は雫(しずく)となって、光る携帯電話の画面に落ちて弾(はじ)けている。
 濡れた発光画面は、滲んだ文面を暈(ぼか)して、更に、読み難(にく)くした。
(分からない! 解(わか)るわけがない! こんなメールだけじゃ、納得できないし、解る事も、忘れる事もできるはずがない!)
 彼女の仕種(しぐさ)や表情や声に匂(にお)いも、恋焦(こいこ)がれた彼女の、全てが、僕には、得られないものになってしまう。
(ううっ……、彼氏っぽくってなんだぁ? ちゃんと、彼って、言ってたじゃん!)
 楽しげな笑顔で明るい声の甘えた言葉を連ね、大学の大人びた先輩に嬉(うれ)しそうに抱(だ)かれる彼女の姿が、脳裏を過(よぎ)り、僕は、其の虚しい想像に苛立(いらだ)ち、視界の奥が暗くなる。
(いっ、厭(いや)だ! かっ、彼女にとって、僕は、ただのメル友じゃなかったはずだ! ……そうだろ!)
 急に激しいジェラシーを憶(おぼ)えて、キリキリと鋭(するど)く痛む自分の胸を掴み、怒(いか)りに泡立つ頭を掻(か)き毟(むし)った。
 そう! 僕は、自分自身へ猛烈に腹を立てていた。
(とうとう、彼女に、僕以外の彼氏ができてしまった……。でも、おかしい! 彼氏には、僕がなるはず、……だったというか、なりかけて……、いや、なっていたと思っていた……)
 だけど、突き付けられた現実は僕の大いなる勘違(かんちが)いの所為(せい)で、あっさりとこの様(ざま)だ。
 自分の甘さや温(ぬる)さが、そして、愚(おろ)かさと鈍(にぶ)さが許せない。
 もう僕は、悲しみと虚しさだらけで、居ても、立っても、居られなかった。
(とにかく、行動をしなければ! まだ、間に合うかも知れない。何もしなければ、彼女は、永遠に手が届かない彼方へ行ってしまう。でも、どうすれば……。そうだ! 彼女の近くへ行こう。もし、出会えれば、寄りを戻せるかも…… 知れない……)
 長い文面のラストメールは、これまでの僕との七年を無かった事へと清算している。
 彼女の中には、どれくらいの僕への想いが占(し)めていたのかは分からないが、僕にとっては、想いの全てが彼女なんだ!
 出会えても、既に、思い出も清算してしまった、彼女の心変わりを覆(くつがえ)す言葉も、術(すべ)も、考えつかないまま、V-MAXを急がせた。
 頼(たの)みの綱は、漠然とした偶然の出逢(であ)いと彼女の気移りだけで、逢う事ができれば、誠意を示して真心(まごころ)に訴(うった)える……。
 たったこれだけしか無いのだが、何とか、二人の関係の復活に繋(つな)げれるだろうと考えていた。
 結果は見えているのに、僕は、再び無計画にV-MAXを相模原へと走らせる。
 決め手は、何も無いのに……、誠意と真心を示す方法は、思い付かない……。
(誠意と真心……、これまでの僕の彼女への想いと行動が、それだとしか言えない……。此(こ)の期(ご)に及(およ)んで、どうすれば表現できるか、分からない……)
 彼女への想いの強さを、僕自身に尋(たず)ね、そして答える。
(真剣に、『好きだ』と言えるのか? 土下座(どげざ)して強く訴える覚悟が有るのか? ……それは有る! 絶対に有る! 土下座もできる! 僕の彼女への想いは誰よりも、強くて、堅(かた)くて、重い!)
 近付いて来た相模原の大学に、僕は、自問自答ばかりを繰り返す。
(彼女に会えたら、どうするんだ? 彼氏を見せ付けてもらうのか? それとも、彼女へ罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせて、僕は彼女に暴力を振るうのか? 逆に、僕は彼女に張り倒してもらいたいのか?)
 彼女の想いを、僕に向けさせるだけの手立ては、一つも思い付かない……。
(ダメだ! 彼女への罵詈雑言も、暴力も、彼女の気持ちを掴めきれなかった、僕自身に向けるべきだろう……。だけど……)
 僅(わず)かでも、彼女の気持ちを覆せるだけの希望は、全く無い……、希望を導くべく思考する糸口自体が何も無い……。
 ただ、会いたい想いと願いだけで、僕は無思考のまま、V-MAXを走らせている。
 これでは春の日の二の舞で、返り討ちに会うだけだ。
 やっと、僕へ向いてくれたと思っていた彼女の気持ちは、サラサラに乾(かわ)いた砂を積み上げて作った低い砂山みたいで、なだらかな斜面は少しの水で深い溝ができ、弱い風が吹き続けば天辺(てっぺん)から平らに散らかして、更に溝は深くされ、幅も広げてしまう。そして、誰かに掃(は)らわれたり、踏まれたりして簡単に崩されて去ってしまう。
 雨降って地固まるの乾いた土にも成れていなかった。まして、水を加えて熱を放ちながら硬(かた)く固まるコンクリートには、全く近付けてもいなかった。
(ちょっとした行き違いが、こんなに短い時間で、躊躇いも無く、あっさりと、気持ちは拒絶に変わり、離れる心は加速して見えなく為る程、遠ざかってしまい、取り返しがつかなくなるのだろうか?)
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 彼女が通う大学の構内に着くと、躊躇(ためら)わずに彼女に電話を掛けた。
 発信呼び出しキーを操作してから、大胆(だいたん)になれている自分に驚(おどろ)いた。
 此処は、彼女が通う大学に隣接する付属病院の駐輪場だ。
 この時刻、彼女はキャンパス内の一角で講義を受けているかも知れない。いや、講義は午後からで、まだ、アパートにいるのだろうか?
 それとも、アパートにいなくて……、講義も受けていなくて……。
 払拭(ふっしょく)できない思いが、僕を焦らせて急がせ、加速する不安な気持ちに、直接、彼女の声で確かめたいと、僕は発信キーを押す。
「もしもし。電話しないでと、言ったでしょ!」
 いきなり、前置きも無く返された早口の冷たい言葉が、耳の奥の先へ響く。
 その怒りを含んだ言葉の声は、既(すで)に彼女が僕らの時間を、僕が告白した中学二年までへと、リセットしたかのように聞こえた。
 その低い詰まらなさそうな声は中学二年当時を思い出させて、意気込みで膨(ふく)らんだ僕の気持ちを、握(にぎ)り潰(つぶ)すように締め上げて畏縮(いしゅく)させた。
 萎(な)えて行く気持ちは僕を黙らせて、声になるはずだった空気を半開きになった口から無音で洩(も)れさせて行く。
(もう、何もできる事は、無いのだろうか?)
 僕の腕も、身体も、掠(かす)れてしまって、しっかりと彼女を掴んで、強引に振り向かせようとしても、あっさりと擦(す)り抜けられてしまう気がする。
(……振り向かせても、僕の何を見て貰うんだ……)
「なんか用? 何も言わないのなら、切るよ」
 彼女の声のトーンと口調は、僕を凍(い)て付かせて、次に言うべき言葉を探せなくしてしまう。
 冷たく重ねる拒絶の言葉は、断絶を促(うなが)して来る。それでも、僕は彼女の声を聞けて嬉しいと思っていた。
(彼女は、今、この街にいる……)
 僕を拒絶する彼女に、相模原へ来ている事を言おうか迷った。
「会いたい」
 僕は探りを入れながらも、正直な気持ちを言った。
「会いたくないわ」
 あっさりと、予想通りの返事が帰ってくる。
 彼女の言葉が造り出す、壁が見えた気がした。
「あ、会って、話がしたい……」
 憤慨(ふんがい)ではなく、失望で僕の声はビブラートで始まり、早口になって末尾は、か細く途切れた。
 たった十個の発音をしただけなのに、詰まる息の苦しさで吐(は)く出す声が、大きく震えた。
「話す事なんて、なっ、何もないわ! メールを読んだでしょう」
 僕を否定する彼女の声に、僕の意識は絶望の闇に沈められて行く。
 彼女の言葉と口調は、仕事で鋼材(こうざい)から削(けず)り出した六面体の手が切れそうなエッジを思い出させる。
 其の、言葉の鋭く冷たい角(エッジ)は、僕の気持ちをズタズタに切り裂(さ)いてくれた。
「会うのも、話すのも、必要ないでしょう。電話、切るわよ!」
 拒絶を繰り返す彼女は、力を込めた鋭い声と言葉で圧さえ付けて、更に深く絶望の闇に、僕は沈められて行く。
 それでも、諦められない僕は、光を探す。
 ほんの僅かな、小ささの、仄(ほの)かに瞬(またた)きでも、諦め切れない理由を見付けたい……。
「会いに行く! 僕は……」
 『君のいる街に、来ている』と、言いそうになるの僕をを、彼女の言葉が遮(さえぎ)って来る。
「会いに来ないで! 会いに来て、どうするつもり? 話しをして、どうなるっていうの? 絶対に会わないからね、私は……、私は、あなたをフッて、お別れの。そして、大学の先輩を選んだの。あなたを拒みたいのよ! 今、先輩と楽しく付き合っているわ! 素敵な男性なのよ……。だ、か、らぁ、邪魔(じゃま)しないでちょうだい!」
 スピーカーの向こうの彼女から発せられた、過去形の『振った』が、息苦しい胸に切(せつ)なく響いた。
 彼女は、素敵で楽しい先輩を選び、……僕は、比較されて負けた。
 もう、邪魔な過去でしかない僕は、彼女から酷(ひど)い言葉を次から次へと浴びせられている。
 切なさは、悲しさになった。
「君を探して、会って……」
(会えたとしても、もう、どうしようもないのに……)
 自分の哀(あわ)れさが、言わせた。
 彼女が、悲しい記憶になっていく。
(彼女の姿、様々な表情……、笑顔は滅多(めった)に見られなくて、無表情か、困ったような顔が多かった……。メールも、声も、もはや見ることも、聞く事もできなくなってしまう……)
「探さないで! もう、この街に来ないでよ」
 彼女が僕の言葉を遮り、拒絶は断絶に変わった。
 憐(あわ)れみなど、微塵(みじん)も感じられ無い。
 彼女と隔(へだ)てる壁が、急速に厚みと幅と高さを増して行く。
 彼女の言葉の前に、僕は非力で惨(みじ)めだった。
(それほど、僕は嫌われていて、断罪されるくらいに酷く厭(いや)な奴だったのか?)
「絶対会わない! 嫌よ! そんなストーカーみたいな事をしないで。……お願いだから諦めてよ。……あなたは、そんな人じゃないでしょう」
 絶対拒絶を断言しながら、一方的に僕を諭す。
 想いは伝えられずに、拗(こじ)れて断絶された関係が築(きず)かれて行く。
(そう、本当の僕は、浅ましくて卑(いや)しい人間だ。とうとう、抑えて隠して来た本性を晒(さら)してしまった……)
 此処に至れば、何を言っても、何をしても、二人が寄り添う関係には戻らないだろう。
 なら、彼女が選ぶ僕じゃない誰かは、外見や他人評価じゃなくて、彼女を守って大事にしてくれる事が分かっての誰かであって欲しい。
 僕を避(さ)けるメールには、それが、書かれていなかった。
(違う……、彼女は思い違いをしている。先輩とやらに惑(まど)わされているだけだ。本当の彼女は、思慮深くて思い遣りが有って優しいんだ!)
 僕は、諦め切れない。
「もう、切るよ」
 最後の時が迫る。
 惨めさが、僕を酷く苛んだ。
(この電話が切られたら、再び、彼女と連絡を取るのは無理になる! きっと、僕の電話も、メールも、着信拒否するだろう)
「好きなんだ! 君が好きだ!」
 僕は電話の向こうへ叫(さけ)ぶ。彼女の意志は固く、これっ切りになるのは避けられない。
 もう、望みは無いのを分かっているのに、叫ばずにいられない。
 疎外(そがい)される惨めさが、僕を追い込んでいく。
(君が必要なんだ! 君が欲しい! 世界中で僕が一番、君を大事に……、大切にしているんだあーっ)
「好きだ! 好きだ! 君が好きだ! すきっ……」
 叫びは、彼女の囁(ささや)くような声で遮られ、僕は聞き耳を立てた。
(もう、彼女の笑顔は……、見られない……)
「あなたは、もういいの……。忘れて……、私を忘れてよ……」
 『ブッ』、落ち着いた小さな彼女の声を最後に、通話は非情な音を立てて切れた。
 最後の落ち着いたトーンの丁寧(ていねい)な言葉が、彼女の本気を僕に悟(さと)らせる。
 彼女と僕をを隔てる、上下左右に果てしなく広がり続いて、ビクともしない端の無い壁が見えた。
 乗り越えて進める余地は、何処にも全く無い。
 焦った! 僕は焦り、慌ててリダイヤルを押す。
 終わりになるにしても、別れる? にしても、もっと……、もう少し、納得してから、受け入れたい。
(どうすれば、納得できて、彼女への想いを逸(そ)らせれるのか、分からないけれど……)
『お掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為、お繋ぎ、できません』
 僕は、聞こえて来る無情なガイダンスで、背筋が凍(こお)り付き青褪(あおざ)めた。
 不安と寒気から全身が震えだす。
 辛辣(しんらつ)な窮地(きゅうち)に指先が小刻(こきざ)みに震えて、何度も、リダイヤルキーを押し間違えた。しかし、リダイヤルで繋がっても、ガイダンスは同じ内容を繰り返し伝えるだけだ。
 今、この瞬間、僕は、彼女から完全に拒絶されていた!
 ……もう、望みは無かった。
(望みが、無い……、なぜ?)
 『なぜ?』って、答えは決まっている。
 彼女は、僕で妥協(だきょう)しなかっただけのことだ。
 僕は、彼女の想いの対象にならなかった。
 彼女が、好みの男性と知り合って仲良しになれば、当然、元々、彼女のタイプでない僕を選ぶわけがない。しかも、横浜港大桟橋への往復道程や相模大野駅前での失態で、僕の小心さやデリカシーの無さを見せ付けてしまったから、僕を見極めて、愛想(あいそ)を尽(つ)かすに決まっている。
 此処に至った要因を、一つ一つ思い出す。
 彼女に好かれた、大学の先輩とやらが嫉(ねた)ましい。
 そいつに、一言でもいいから、言って遣りたい!
『人の彼女に、手を出すな!』と、怒鳴(どな)り付けるように、強く言い放って遣りたい!
(そいつも、このキャンパスに居るはずだ!)
 僕は、バカだ!
 探しに行こうと、病院の正門へ足を向けた途端(とたん)に思った。
(誰を探すんだ? そいつの個人情報を、僕は、何一つ知り得ていないぞ)
 探し出すにしても、彼女に会うしかない。しかし、現実には、携帯電話の電源を切られるほど拒絶されていて無理だった。
 もし、偶然に彼女と逢えたとしても、絶対に彼女の性格は、僕に先輩とやらの情報を教えたり、会わせてくれたりしないだろう。
 そいつが、彼女といっしょにいるのを見付けて、いきなり、僕が乱入して暴(あば)れても、辱(はずか)しめを受けて、惨めさと羞恥(しゅうち)を塗り重ねるのは、僕自身だ!
 一方的な暴力は、何も、解決してくれなくて、非を被るのは暴力を振るった方になる。そして、暴力は私恨(しこん)を残すだけで、二度と元の良き関係に戻せなくしてしまう。
 其の先輩は、彼女に声を掛けてナンパしただけだから、中学生の時に見た、彼女の下駄箱に入れられていたラブレターを書いた奴と同じだろう。
 良くないのは、誘(さそ)いを受けた彼女だ! そして、もっと悪いのは、彼女の気持ちを掴め切れずに迷わせていた僕だ!
 暫く大学付属病院のロビーに佇(たたず)み、それからキャンパス内を、宛(あ)ても無く歩いた。
 彼女の学部が何処(どこ)で、講義の時間が何時(いつ)なのか、全く分からなくて、僕と彼女が偶然に出逢える可能性は、極めて小さい確率だった。
 歩いているうちに、凄く惨めで悲しい気持ちになった。
(虚しい……。僕は、ここで何をしてるのだろう? 彼女の気配すら感じないのに……。彼女の近くに来て、彼女と同じ空気を吸いたかっただけなのか? ここにいても、僕にできる事は何も無くなった……)
 当ても無く、彷徨(さまよ)うだけの僕は、自分の仕業(しわざ)を肯定できない。
 全ての望みは断たれて、もう、静岡へ帰るしかなかった。
(もう、だめだ!)
 イニシアチブは彼女の側に有り、打つべき手は全て試(こころ)みた。
 倍速リターンスイッチなんて、どこにも有りもしなくて、残念な過去を逆戻しで、無くす事もできない。後は……。
 状況も、状態も、絶望的ならば、最後の徒桜(あだざくら)で、彼女に悟らせて遣るべきだと思う。
(これっぽっちも、望みが無いなら玉砕(ぎょくさい)だ! せめて、一矢を報(むく)いて消えてやる!)
 気持ちが荒(すさ)み、捨て鉢なった僕は、最悪の後味にしてやろうと決めた。だけど、どうする?
 会社を無断で休み、このまま連日、この相模原の大学の前で張り込むのか?
 ヒットする確率も、小さいのに?
 僕は、完全にストーカーだ。
 付け廻して、彼女の部屋へ忍(しの)び込むつもりなのか?
 そんなのは、ただの変質者の嫌(いや)がらせにしかならない。
 偶然にヒットして彼女と出逢い、互いが向き合ったとしても、何を言えばいいんだ?
 ストーカーになっても、電話の言葉を繰り返して罵(ののし)りで終わるだけだ。
 売り言葉に、買い言葉となれば、自制できない僕は、勢いで彼女に暴力を振るうだろう。
 更に、暴行して強姦(ごうかん)までしてしまうかも知れない。
 それこそ、刑事事件に発展して、人生最悪になってしまう。
 それならば、彼女が傷つく酷い言葉を連ねて、未練だらけの恨(うら)みを込めた、呪いのメールを送り付けて遣りたい。
 小心者の僕は、そんな、ちんけで卑劣(ひれつ)な事しかできない。
「くそっ! ちくしょう……。くそ! くそくそくそ! くっそーっ」
『七年間の想いよ! 露と散れ!』とばかりに、恨み節を唱(とな)えながら、見苦しい勢いでキーを押し、メール文を打ち込む。
 情(なさ)け無さ、遣る瀬無さ、不甲斐無さ、それに、無力さと虚しさが、とことん醜(みにく)くて矮小(わいしょう)で、しかも卑劣な僕にさせてしまった。
 トーンを低めた彼女の言葉尻から、直ぐにでも、携帯電話の番号とメールアドレスを変更してしまうつもりだと察していた。
 変更される前に、僕は、彼女への未練がいっぱいだったけれど、彼女から金輪際(こんりんざい)、未来永劫(みらいえいごう)の拒絶とされるならば、こちらからも、『彼女へ、想いを寄せれないようにしてしまえ!』と、自(みずか)ら、最悪の後味で極悪人になる文字打ちを急ぐ。
(さあ、ちゃっちゃっと送って、彼女がいた世界を、終わりにしてしまえ……)
【ずっと、君を見ていた。ずっと、君を想い続けて来た。世界で一番、君を好きなのは、僕だ! 僕以外に君を幸せにできる男はいない! 君は、僕の全てで、僕も、君の全てなんだ。ただ君は、それに気付いていないんだ。気付かなくても、感じているはずだろう。僕は、君が大勢の男達に好かれて、多くの告白をされている事も知っている。でも、告白した男達は、みんな偽物(にせもの)さ。奴らは、君の本当のキャラを知らないからな。だから、君は、錯覚して自惚(うぬぼ)れているだけなんだ。それは、幻想で全くダメだ! 自分を見失うな! 女子達が憧れるイケメンの先輩だって、君を騙(だま)しているだけだ。そんなモテモテのイケメンが、まともに君の相手をしてくれるはずがない。もしも、本当に誘われたのなら、それは、ただのナンパで、君は、騙されているのさ。見栄えの輝きに目がくらんで、君には、真実が見えていないだけなんだ! それに、君よりも、スタイル的にも、フェイス的にも、キャラクター的にも、センス的にも、もっと、可愛くて綺麗で知的に優(すぐ)れた女子大生は大勢いるよ。君のようなのを理解しているのは、僕だけだったんだからな! そして、僕が君にされたように、君も先輩に捨てられるんだ。それは、肉体的にも、精神的にも、酷い目にあわされてからかも知れないぞ! 辛(つら)い目にあって、僕を振った事を後悔しろ! その時には、既に僕は、君とは違う素晴らしい女性に巡り逢えて、きっと、幸せにしてるよ。じゃあな。奈落(ならく)の底に落ちやがれ! あばよ!】
 憤(いきどお)りで打ち込んだ、だらだらと長くなったメール文を読み直し、幾つかの文字と言いまわしを修正しながら思う。
(これは、酷い! 辛いし、悲しい、悲し過ぎる。……こんなのを送ってしまうと、彼女にとって、……僕は、本当の悪者だ!)
 再度メールを読み直し、酷い事を書き連ねた自分が、本当に卑劣な奴だと自覚する。だけど、追い詰められた邪悪な悪役の自分は、こうせずにはいられない。
 僕の強い想いを、更に強調するどころか、僕の恋心を無碍(むげ)にした彼女を陥(おとしい)れるアベンジャーで、祟(たた)り神になってしまう!
(さぁ、すっきりさせよう!)
 送信キーに掛けていた指先を意識して、僕は力を入れた。
 送信中を示す、アイコンの表示を見ていると、妙な感じに気分が晴れて行く。
 自分事ではなくて、他人事にケリをつけたような達観(たっかん)した気分だ。
 後悔や憂(うれ)いも無くて、気分はすっきりしている。
(でも、まぁ、失恋の結末なんて、こんなものだろう。清算の道連れに、己(おのれ)の修羅場(しゅらば)を一方的に押し付けるだけさ。さらば、僕の初恋よ!)
 この晴れ晴れとした、してやったの気分は、今だけだと分かっている。
 三十分も経てば、徐々にメールを読んだ彼女の反応を知りたくなり、その知り得る術を無性に探しても、全て、自ら絶たった事を知るだけで、そうした自分を呪うしかない。そして、毎日が後悔に苛まれるだろう。
 失恋の悲しみに憤り、嘆(なげ)き沈む暗澹(あんたん)とした日々が続くだけだ。
 僕の七年も想い続けた初恋は、そんな簡単に忘れ去れるわけがない。
     *
 重いV-MAXを強引に倒して、センターラインぎりぎりまで膨らみながら、峠越えのタイトなカーブを攻めのアクセルワークで曲がり切る。
 ヘアピンカーブも、以前は、あんなに怖(こわ)がって、ラインを読めても、攻め切れなかったのに。
 もう、どうなっても構(かま)わない、
 彼女を失ってしまう遣る瀬ない自暴自棄(じぼうじき)の思いが、今日は、果敢(かかん)にブラインドコーナーを攻めさせている。
 今、この瞬間にグリップを失い、滑るタイヤで人生が終わっても構わなかった。
 コンクリート壁やガードレールに張り付いて、潰れたり、切り裂かれたりしても、路肩を越えて崖下へダイブして砕けても、それが、僕を死に至らせる事故になるならと願いながら、僕は、ダウンヒルのコーナー攻めを繰り返す。
 ただ、其の時は、自損であって他人を巻き込んだり、迷惑を掛けるのだけは避けたい。そして、一瞬で、二度と光が戻らない暗闇へと行かせて欲しいと祈る。
 そんな、捨て身でコーナーを攻め続けた僕は市街地に入ると、交通ルールを順守してしまい、赤信号で停止すると、信号が変わるのをちゃんと待っていた。
 そんな自分が、嘘臭(うそくさ)い。
(矛盾(むじゅん)している……、やっぱり、命は惜しいか……。どう仕様も無いバカだな。僕は……)
 アパートに戻って、直ぐに風呂を湧(わ)かした。
 寒さに震えながら、凍(こご)えた身体を湯船に沈める。
 今日の緊張と憤りと興奮が、湯の温かさで解(と)きほぐされて、後悔と不安と切なさに変わった。
 胸騒ぎは現実になってしまい、もう、心は折れそうだ。
 僕は、顔を湯船の底まで沈めて叫んだ。
 何度も、何度も、沈んで悔しさをぶつける言葉を叫ぶ。そして、無念さを流すように底に顔を付けて、さめざめと泣いた。
 七年を経過した僕の彼女への時間は、……今日、停止してしまった。
 再び、進み出す事は無い!
     *
 案の定、自らを断ち切った潔(いさぎよ)さは、一週間も絶たずに後悔に戻り、僕の気持ちは暗澹とした。
(彼女の気持ちや想いを、僕は、全く考えていなかったんだ!)
 無性に自分に腹が立ち、戻らない時間の反芻(はんすう)ばかりしている。
 彼女からメールが来なくなってしまい、どんよりとした冬の金沢の暗い空のように、気持ちは重く沈んでいた。
 心は、後悔の上書きだらけだ。
 相模原へ行き、彼女が通う大学で彼女を待ち伏せて、帰宅する彼女の跡を付け、彼女の住いを見付け出す。そして、未練がいっぱいの想いを認めた無記名の手紙を送る。
 手紙に入れるのは、僕がパソコンで描いた絵だ。
 プリントした曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花の絵だ。
 其の彼岸花(ひがんばな)の花言葉を、彼女に気付いて欲しい。
『諦め』、『悲しい思い出』、『独立』、『想うのは、あなた一人』、『再会』、儚(はかな)げで切ない花言葉ばかりだ。
 僕の未練たっぷりの悲しい恋心を、彼女に知らしめたい!
 諦め切れない僕は、酷い最終メールを送り付けて、自ら微(かす)かな望みを絶ち、戻れなくしたのにも拘らず、再び彼女と会う日を楽しみに、其の日に期待を込めて実行しようかと、考えている。
 彼女の反応が善きにせよ、……良いわけないか……、悪しきにせよ、彼女が僕に連絡してくるまで、付き纏い、嫌がらせみたいに手紙を送り捲くって監視し続ける……。
 見付けたら付け回して、突き止めた部屋に忍び込んでやろうとも、思っている。
(これでは、正に陰湿で過激なストーカー其の物だ……)
 監視カメラや盗聴器を仕込んで、日々の行動や交友関係を調べ、盗撮もして、彼女の人生の邪魔をして遣りたい。でも、そんな情けなくて悲しい事は、彼女を好きになった自分自身へ恥かしくて実行できない。それに、ストーカーをする相手には、僕が犯人だとバレバレだ。
 第一、彼女の気持ちが、そんな安易に僕へ翻(ひるがえ)るわけがない!
 真逆(まぎゃく)になってしまうだけだ!
 今日も、会社の駐輪場でV-MAXに凭(もた)れながら、日本平(にほんだいら)の向こう富士山と箱根の山並みの其のまた向こうに想いを馳(は)せ、彼女と最後に会った相模原の、僕の瞳に彼女といっしょに映(うつ)り込んだ景色を、未練で虚しいと分っているのに思い返している。
 相模大野の駅前に現れたエレガントな彼女と、行き戻りを走って来て息を切らしていた彼女。
 白バイ警官の傍で書き込まれていく違反切符を、覗(のぞ)き見ていた彼女。
 圧(の)し掛かるV-MAX越しに見えた、両手を広げて道行く自動車(くるま)を停めていた彼女。
 一号線を逆方向に走ろうとした僕を、窘(たしな)めた彼女。
 曇り空の下、冷たく薄暗い大桟橋を、詰まらなそうに歩いていた彼女。
 厚い雲間に、ぽっかりと開いた晴れ間から差した春の陽を浴びて、萌(も)え立つように輝く、嬉しそうな彼女。
 カレー饂飩を食べながら、バリバリっと、スタンガンを僕に押し当てようとした彼女。そして、唇を噛みながら、小さく別れの手を振っていた彼女……。
 去年の夏に、やっと、六年越しで会えて話せるようになった。そして、今年の春に初めてのデートの約束をした。
 ……だのに、デートの僅かな失敗の重なりが、悲しい結末になってしまった!
 高校生の彼女に、中学生の頃の彼女、彼女を気にしたのは、小学六年の春だった。
 中学二年の春にはメールで告白して、どうにか、想いを受けて貰えた。だけど、ずっと、メル友から進展しなくて、会話は数えるほどしかなくて……。
 そんな、ささやかな思い出ばかりでも、僕の彼女への想いは真剣だった。
 もう、思い出したら、切りが無い。
 結局、何もできなくて、嫌がらせを思考錯誤(しこうさくご)するだけの往生際の悪い僕は、情け無いくらいに未練だらけだ。
 でも、今度こそ、執着の限界だった。
(この先、偶然でしか、彼女と逢う事は無いだろう)
 其の偶然も、僕の存在を彼女が先に気付いてしまえば、さっさと避けて行って、それを、僕は気付けもしないだろうから、本当に出逢い頭の不可抗力的な偶然しか無くなる。でも、こんなネチネチした諦め切れない未練だらけで息の詰まる思考も、いつかは、全てが過去の片隅(かたすみ)に押し流されて、他の事象と同じように記憶は薄れて行き、途切れ、途切れにしか思い出せなくなる。
 やがて、僕の中の彼女は、忘却の彼方へ去ってしまうだけだと思う。
     *
 彼女からのラストメールを受け、『もう、いい。忘れて』と、断絶される電話を掛け、挙げ句に嫌がらせの酷いメールを彼女に送信してから二ヶ月が過ぎて、暗雲としたままの気持ちと同じように晩秋の朝晩は冷え込み、日中の風も冷たくなって来て、益々、気持ちは晴れそうにない。
 そろそろ、御殿場(ごてんば)や箱根(はこね)辺りの道が、凍結しだすだろう。
 昨日は、金沢に霙(みぞれ)が降ったと、お袋が電話で言っていた。
 もう直に、V-MAXで彼女を捜(さが)しに行けなくなる。
 そうなると、どう遣って相模原へ行こうかと悩みながら、屋上の隅で東名高速と富士山(ふじさん)を眺めていた。
(僕はもう、ストーカーだ……)
「元気ないじゃん!」
 不穏(ふおん)な思考の最中に、女性の明るく大きな声がして、ポンと肩を叩(たた)かれた。
 ビックン! あまりの突然さに、跳ねた心臓が飛び出さんばかりに驚いて、罪深さを悟られたのではと疑った。
 レベル最高の警戒感に飛び出さなかった心臓が、ドックン、ドックンと強く拍動(はくどう)し出す。
(この声は……?)
 聞き覚えの有る声に振り向くと、直ぐ後ろで、若い女の人が笑顔で僕を見ていた。
 其の笑顔の人は、スタイルの良さと大人びた物腰が、人目を引き付ける優しそうな顔立ちの美しい人で、同期で入社した大学新卒者の四歳も年上の女性だった。
 笑いで細めた三日月のような目が、優しげで素敵だと思う。
 新入社員達の集会や研修では、リーダー格になってはいないけれど、すっきりとした良く通る声で意見や質問をして、其の、明るい表情やしなやかな容姿や丁寧(ていねい)な話し方は、場の雰囲気を和(なご)やかに纏めて明るくするムードメーカー的な存在だった。
 何処を見ていても、誰と話していても、瞳がキラキラしていて魅惑的だ。
 秘書課に配属されて、会社の顔とも言える受付の仕事をしている。
 訪問される御客達への印象も良くて、その清楚(せいそ)な華(はな)やかさの立ち振る舞いに、僕には、全く縁(えん)の無い女性だと思っていたのに、今初めて、その人から声を掛けられた。
「どうしたの? 最近、憂愁(ゆうしゅう)を帯びているよ。それに、いつも一人だし」
 楽しそうに良く笑い、笑顔が、とても似合う人だ。
 笑顔になると、美人に可愛さと人懐(ひとなつ)こさがプラスされて、胸騒ぎするほど、綺麗(きれい)で魅力的な女性になる。
 同期には、言うまでも無く、先輩達や上司(じょうし)にも人気が有り、お客さんを含めて、この人のファンは多い。
 そんなスターのような女性が、僕の様子を見ていて心配してくれている。
 恋焦がれた大好きな女子に振られて落ち込み、塞(ふさ)ぐ気持ちに仕事は失敗続きで、どう見ても一人沈んでいる僕は、しょぼくれたオタクで根暗(ねくら)な男子に見えるだろう。
 そんな僕に、笑顔で話し掛けてくれた。
「臭(くさ)いですよ。僕に近付くと、現場の臭(にお)いが移りますよ」
 物思いに耽(ふけ)っているのを、邪魔しないでくれと言う意味で、僕は言った。
「構わないよ。作業場や工場の臭いは、嫌いじゃないから」
 余程、慣れていないと、普通の女性は鉄や鉱物油の臭いを嫌う。
「そういう憂いたのは、ちょっと、母性本能を擽(くすぐ)るかな」
 『臭いなんて気にしないよ』と、言わんばかりに顔を近付けて言われた。
 綺麗な顔を、軽やかな香水が引き立てる。
 今の僕が、ぼっこりと深く抉(えぐ)り取られたように凹(へこ)んでいるのを分かっているように、平気で話し掛けて来た事に、僕は、この女性に観察されていたらしいと思った。
(いったい、いつから、見られていたんだ?)
 入社式以来、殆(ほとん)ど接する機会は無くて、実習でも同じグループになってはいないし、今日まで言葉を交(か)わした覚えも無かった。
「悩みが有るなら、お姉さんが、聞いてあげるよぉ」
 ぼんやりと一人でいる僕の様子が、変に見えたのだろう。
 焦点の定まらない一点を見詰める虚(うつ)ろな瞳は影で曇り、生鮮市場の死んで変色した魚の目みたいな光の無さに、焦燥と苦悩を悟られたのかも知れない。
 現に人生の支(ささ)えを逃がして生きる意欲が薄(うす)らいだ僕は、全てに集中できず、仕事は失敗続きだった。
 機械の操作中や組立作業中にボーとして手が停まってしまい、加工はミスだらけで、其の修正や作り直しに明け暮(く)れていた。
 いつも、先輩や上司に叱(しか)られてばかりだ。
 それに、作業事故を起こしそうで危険だった。
 このまま集中力を欠(か)いていたら、近い内に高速回転する機械に巻き込まれて大怪我をするか、人生が終わって仕舞うだろう。
 態度や私生活にも、覇気(はき)が無い。
 頭の中の意識と体の動きが伴(ともな)わなくなり、トイレの用足しを便器ではなくて、流しや洗面所でしそうになる事が何度か有る。
 会社でも、アパートでも、ズボンのファスナーを下げてから、手洗い場の鏡と向き合って、初めてハッと気が付く始末だ。
 メリハリを感じなくなった僕は、全てに投げ遣りになってしまい、遣る気が無く、仕事も、生活も、将来も、どうでもいいと思い始めている。
 そんな、無気力が周りにも分かるのだろう。
「ねぇ! 今晩、いっしょにデートしない? お姉さんがゴチするから」
 僕の元気の無さを見兼(みか)ねてか、其の人は、僕を夕飯に誘ってくれた。
 兄や姉のいない僕には、『お姉さん』の響きは新鮮で魅惑的だったけれど、姉の存在というのが感覚的に解らない。
 それは、『甘えなさい』の意味なのだろうか?
(『お姉さん』に、甘えてもいいのですか?)
 でも今は、とても、甘えて愚痴(ぐち)る気分になれない。
 年上の美しい女性から食事に誘われても、少しも嬉しくなかった。
 引き摺(ず)る彼女への未練な想いと、不甲斐無(ふがいな)い結末への後悔が強過ぎて、食事をいっしょするだけなのに、素直に誘いを受ける気分になれない。それに、彼女以外の女性と親しくするなんて、まだ、考えられなかった。
「すみません。今日は無理です。残業で遅くなります。あなたに、御馳走(ごちそう)していただく理由が無いですし……、それにまだ、誰かといっしょの食事は…… 遠慮したいです」
 僕は、できるだけ丁寧に断った。
 それに、僕に声を掛ける事自体が不思議に思える。
(なぜ、僕を誘うわけ? 彼氏とかいないのか? ノコノコと誘いに乗って行くと、サークルの集まりのような、大勢での食事会だったりしてね……)
 ただの員数合わせのような、そういうバカを見るようなのは堪(たま)らない。
 勘弁してもらいたい。
「ふぅ~ん。今晩はダメなのね。また誘うわ。君がいっしょに食べてくれるまで、誘うから……、いいわね!」
     *
 誘いを、二度断った。
 二度目は、最近、激しく失恋して傷心なので、誰かと食事する気持ちにはならないと告げた。
 一人で居たいとも、言った。
「そう、失恋したんだ! だったら尚更(なおさら)、私といっしょにディナーするのを薦(すす)めるわ」
 さらりと、三度目も明るい笑顔で諭すように誘われるけれど、この年上の女性への不信感を払えない僕は、避ける術を迷いながら断りの言葉を探す。
 今もまだ、粘着きに囚われる僕には、『お姉さん』のライトなフットワークが辛い。
「もしかして君は、私を警戒してるのぉ? そりゃ、何の前振りも無く、しつこく誘えば、疑うのは当たり前よねぇ。でも、メジャーで健全な店での私と二人っきりのディナーだから、安心していいよ。私は、本当に君とデートしてみたいだけなんだからぁ」
 そして、新たな断りの言葉を見付けれないままに、僕は、半ば強引に連れて行かれた。
(何かの思想的な……、宗教の勧誘かな? それとも、ネズミ講(こう)みたいな不思議商品の売り付をするのか? 寂しく落ち込んでいる男性は、魅力的な女性の小悪魔的誘いに弱いからな。でも……、やはり、二度も断わったから、プライド的に意地になって、僕と連れ立っているのかも。これだけ綺麗な女性だ……、きっと、プライドが高いに決まっている。それに、男からの誘いばかりで、自分から誘うことは無かったのだろう。まして断わられるとは、思ってもいなかったんだな。そうに決まっている)
 『お姉さん』の自動車(くるま)に乗せられて連(つ)れて行かれたビストロで、マジマジと観察する嬉しくない視線を注(そそ)ぐ美しい年上の女性に、僕はチラチラと目を合わせながら、そう思った。
「君、彼女に感謝している? 彼女に、『ありがとう』と、ちゃんと言っていた? 彼女に自分の想いや行動を押し付けていなかった? 彼女にばかり、『ありがとう』と言わせてなかった? ちゃんと、彼女の気持ちを考えていたの?」
(最初に誘われた時は、単なる気紛(きまぐ)れに過ぎなかったのだろう。今は、自分を敬(うやま)わない臣民(しんみん)に、崇(あが)めるように無理強(むりじ)いする女王様だな!)
 彼女のノンアルコールのグラスビールと僕の辛口ジンジャーエールのグラスを、チンと軽く合わせて、互いに一口を飲むと、オードブルに使うフォークを指で差し示し、持ち方まで僕に教えながら、美しい人は訊(き)いてくる。
(その本題への切り口の『ありがとう』は、自分の経験からですか?)
 考えもしなかった事を問われて、僕は戸惑った。
「うん……」
(そりゃ、凄く感謝してたさ。でも、『ありがとう』は僕ばかりで、彼女は、……殆ど言ってないな)
 鈍(にぶ)い僕は、彼女の気持ちを考えていなくて、いつの時も、彼女の気持ちに気付かなかったのは事実だった。
 結果は、失恋して戻せない時間に後悔ばかりしている……。
 沈むように黙ってしまった僕に気遣ったのか、話題を社内の出来事や日常生活の様子に変えてディナーは進んだ。
 相手の意図を探るように受け答えしていた僕は、料理の内容も、味も、全然、記憶されていなかったけれど、ただ、食後の珈琲を飲む女性の手が印象に残った。
 白いコーヒーカップを持つ手の爪が、滑らかにネイルケアされて、其の嫌味の無い光の反射は、能登の白い砂浜に、ぽつり、ぽつりと煌(きらめ)く桜貝を思い出させた。
 直にラストの珈琲を飲み終え、『夜景を見に行こう』と、促(うなが)されるままに自動車(くるま)に乗せられて、日本平の麓(ふもと)に連(つら)なる丘の一つの池田山(いけだやま)の天辺に来た。
 街灯の灯(あか)りも無い、真っ暗な茶畑の中の農道に自動車を停めた年上の女性は、無言でヘッドライトを消してエンジンを切る。
 カーオーディオから流れていた音楽も途絶えて、夜の闇と静寂が車内に訪(おとず)れ、何かが始まる期待と不安に、僕は身構えて固まってしまう。
 そんな、緊張して動けない僕を解したのは、晩秋の夜の澄み切った大気の中、目の前のフロントガラス越しに広がる美しい銀色の光点の群がりだった。
 それまで、美しい夜景を見ようと意識する事も、そんなデートスポットを求める事も、必要とは思っていなかった。
 僕は思わず、フロントガラスに顔を近付けて目を見張った。
 遠くの安倍川の向こうから、一直線に新幹線の光りの繋がりがスーッと動いて来て、右手の丘の闇に消えて行く。
 群がる銀色の光点は、画像で見た銀河系の星の海のようで、其の光の海の中に幾つか見えるブラックホールやダークマターのような黒い空間は、市街地に点在する小高い丘の風致地帯だ。
 左手には、連なって走る自動車のライトで会社近くを通る東名高速道路が、用宗(もちむね)地区の日本坂トンネルと池田山の麓を結ぶ、ヘッドライトの白とテールライト赤の光りの帯のように見える。
 見知っている、いつもの身近が違う世界のように思えて、錯覚だと解っていても、不思議な感じがした。
 闇に浮かぶ銀河のような静岡市街の美しさに言葉を失いながらも、運転席に座る女性の顔を振り仰(あお)いで、此処に僕を連れて来た意図を探った。
 仰ぎ見た其の顔は、銀色の光りで仄(ほの)かに白く輝いて妖艶(ようえん)な美しさを放ち、思わず呟(つぶや)くように声が出てしまうのも構わずに、暫し見入ってしまった。
「綺麗だ……」
 僕の呟く声が聞こえたのか、見詰められているのに気付いたのか、妖(あや)しく惑わすような美しい顔の、瞬(またた)く銀の光りで煌めく瞳が、ゆっくりと僕を見て、闇の中の白く冷めたような表情が僕を誘っているような気がした。
(なんなんだ? このシチュエーションは! ほど良くムードを高めて、一気に奈落に突き落とすサプライズなのか? 悲観に暮れる僕を、戻って来れないくらい徹底的に、深淵(しんえん)の奥に落とそうとするつもりなのかも。それとも、絶望に沈み、嘆き、慟哭(どうこく)する僕の暗い表情を見たいだけなのか?)
 悲愴(ひそう)な不安が、外の暗闇のように脳裏を過る。
 それでも、夜景観賞の果ての妖しげな結末を、僕は期待していた。
「ねぇ、二人の出逢いから話してくれる?」
 失われる恋焦がれた想いと新たな出会いに高揚する気持ちの、相反する思考に揺れる僕を無視するかのように、『お姉さん』の顰(ひそ)めた声が落ち着いたトーンで聞こえた。
(いよいよ本題だ……。果たして、僕に僅かでも、立つ瀬が在るだろうか?)
 耳に残る重みを含む声は、警戒して構えた僕の気持ちを崩し、ゆっくりと少しずつ、場面、場面を思い出させて、僕を語らせた。
 彼女との出会いから一方的な断絶で決定的に振られるまでを、僕の視点の想いで無警戒に話す。
 初めて声を掛けた春の日の事、衝撃を受けたように恋を悟った春の日の事、フラれた彼女とは上手(うま)く話せなくて、メル友から殆ど進展しなかった事、騙したようにメールで告白した事、コーラス祭の一瞬の出来事、バス事故で彼女を守れた事、インターハイの個人優勝に絡めた事、暑中見舞いのハガキを見て奥能登の浜まで会いに行った事、其の田舎(いなか)の海で彼女の冗談に殺されかけた事、相模大野で待ち合わせてバイクにタンデムして大桟橋へデートに行った事、そして、彼女に大学の先輩の彼氏ができて、あっさりと振られた事、それで、捨てセリフ代わりに酷いメールを送った事までの、全てを『お姉さん』に話した。
 特に最後の酷いメールは、大体の内容を話し、とても、後悔して大いに反省して悩んでいると伝えた。
「君は本当に、その子が大好きで、大切で、愛(あい)していたんだ」
(愛して……?)
 明るく発音された軽い『アイ』に、重さの無さよりも、照れ臭さと恥ずかしさに戸惑い、深さと高さと広がりを感じた。
(そうか! これが、愛するってこと、……なのか?)
 大好きな、掛け替えの無い、大切で、大事な、慈(いつく)しむ、愛(いと)おしい想いと心。
 僕は『愛』を、そう理解できると、今まで大好きだけでは言い表せない変化して行く想いに躊躇(とまど)い、解からなくて彼女に伝え切れていない『大好き』が、全て、『愛してる』になった。
「最後のメールは、いただけないな。君は、彼女に酷い事をしたね。最低だわ」
 今一番の悩みを、指摘された。
 妖艶な唇から放たれた『酷い事』と『最低』は、覚悟していただけに強烈に響き、呪いの言霊(ことだま)の如(ごと)く僕を凍(こお)らせた。
(そう、僕は酷い奴です。最低な僕を責めて下さい)
「振られた悔しさで、相手を罵りたい気持ちは解るよ。自分を捨てた相手に、極僅かでも、自分の想いの強さを知らしめて転機を得たい。それが無理なら、少しでもダメージを与えて、澱(よど)む気持ちの憂(う)さを晴らしたいっていう気持ちは解るわ。私だって、そんなに愛した相手なら君と同じようにするね」
(でしょう。そうでしょう。僕が、そうせずにいられなかった気持ちを、解ってくれますよね)
「でもね。彼女の容姿や性格まで否定したのは余計よ。書くべきじゃなかったわ。それは、君の本心じゃないでしょう? 君は、彼女の顔も、姿も、性格も、声も、匂いも、大好きだったのでしょう? それなのに、他の男に取られまいとして、憤りに我を忘れて、自分の想いまで否定してしまった。それらは、彼女のこれまでの人生そのモノなのに、彼女には、どうしょうもなくて、直ぐには、改めれない事ばかりなのに。君は、本当に酷くて最低ね。バカよ」
 言われるまでもなく、僕は『バカ』だったと、自分を責めていた。
 その『バカ』の言葉が懐(なつ)かしく聞こえて、後ろめたさと恥ずかしさが拡大して行く。
 本当に、言われた通りだった。
 大好きだった彼女の容姿まで非難して、僕は、七年間の想いを無かった事のようにした。そして、それを、彼女に押し付けた。
(もう、取り返しがつかない。僕は最低だ!)
「彼女が、メールを読まずに削除したのなら良いけれど、読めば、明るいグレーや少しダークなグレーで終わっていた君を、絶対に、完全なブラックにしてしまうよ。それも、極悪の闇の暗黒によ。君は、彼女にとって、最低最悪になってしまったわ。非常に残念な結果になっているわね」
 最低に、最悪と極悪が加わった。
 彼女が、メールを開かずに削除した事を願い祈りたい。
 でも、彼女はきっと、、僕の最低最悪メールを読んでいると思う。
(それも解っている。メールを読んだならば、僕は、彼女の最も憎(にく)むべき悪になっているに違いない。バッドでダークだ! 放射性物質の飛散みたいに、半径二十キロメートル圏内へは、僕に近付いて欲しくないだろう)
「まだ、土下座攻めで、『僕の唯一無為(ゆいいつむい)、世界で一つだけの愛』のアピールをし続けた方が、結果は良かったかもね」
 どうにかして出逢って、土下座で謝り、願いしていれば、もしかして、覆(くつがえ)す可能性が有ったのかも知れない。
 少なくとも、ブラックなメモリーにはならなかっただろう。
 それでも、引き摺る未練で同じような酷いメールを送ってしまうと思う。
 今となっては、土下座も絶対に効果無し、悪足掻(わるあが)きも限界だ。
 多少、破滅までの時間を伸ばすだけで、ダークな結果は同じだ。
「それにしても、よく、そんな素っ気無い子に、何年も想いを寄せていたものね。ちょっと良いことも有ったみたいだけれど、呆(あき)れるわ! 違うウェットな子を好きになっていたら、もっと、しっくりした付き合いをして、高校生でエッチまでしていたかもね」
 手厳(てきび)しく痛い評価をされた。
 歯に衣着せぬ端的な物言(ものい)いに、たじろぎながら確かに、普通に話せた女の子を好きになっていれば、しっぽりした高校生活になっていただろうと思う……。
「だけどねぇ、溜(た)めに溜めて、叶(かな)った初デートのメインのランチが、饂飩屋(うどんや)でカツ丼とカレー饂飩ねぇ……。経験豊富な私でも、退(ひ)いちゃうなあ。まあ、初デートでなけりゃ有りだけどね」
 とうとう、振られる原因になったと、気にしていた事を言われてしまった。
 それが、彼女の気持ちを決定付けたと、僕は本気で思っている。
「君は、本当に無計画だったんだね。君も、彼女も、けっこう親しくなっていたんでしょう? 出会い系じゃないんだから、ふつう、デートコースぐらい、確認し合うわよね。お昼で初デートを終了した彼女の気持ちが分かるわぁ。それで、午後の部は取り止めっていっても、それも、何も考えてなかったんだよねぇ。もう君は、全然、女の子の気持ちが分かってないじゃん!」
 続けざまの突っ込みに、僕の心は折れそうだ。
(……いや、既に折れている……)
 僕のとった行動や判断は、状況を話しただけで聞き手の気持ちを退かせるくらいだった。
 僕は恥かしさで焦り、自分の不甲斐無さをオープンに晒(さら)してしまった事を後悔して動揺した。
 拒否された現実を認めたくない思いから、直に彼女に断絶されていても、不敵な不撓不屈(ふとうふくつ)の想いと意思を持ち、新たな打ち手でチャンスを狙(ねら)えば、何とか成ると考えていた。
 其のストーカー的な一縷(いちる)の望みは絶たれて消え失せ、絶対的な諦めという絶望が僕の心を支配して行く。
「結果論だけど、デートを中止していれば、最初で最後のデートにはならなかったかもね。でも、今の君じゃ、遅かれ、早かれ、同じ結果になっちゃうね」
 車内の暗がりに浮ぶ、妖艶な白さの美しい顔の口から、更に軽く放たれた冷ややかな言葉は、恥ずかしさと後悔で震える惨めな僕の心を、水に落とされた鉛のように揺らぎもせず、一直線に悲しみの深淵に沈ませてくれた。
 もう、心はボキボキに根本から折れて、僕は無気力に項垂(うなだ)れてしまう。
 折れ残った心も、引っこ抜かれそうで、藁(わら)でも、蜘蛛(くも)の糸でも、僕が救われる何かを脳内メモリーの中に大急ぎで探す。
「それで、何をプレゼントしたの?」
 立つ瀬を失い、塞ぎ込んでしまった僕を気遣ったのか、『美しいお姉さん』は、饂飩屋で彼女に渡したプレゼントへ話題を変えて来る。
「……僕の作ったヨーロッパの城館のミニチュアを。……僕の趣味なんだ。それと、スタンガン……」
(そうだ! 救いとなる希望があった! 彼女を想い、彼女を護(まも)る為に、彼女を気遣ったプレゼントをしたんだった!)
 それは、全くの希望的な観測で、少なくとも、流旗を折られた城館のミニチュアは、彼女の意にそぐわなかった。
 厳(いか)ついスタンガンは、缶コーヒーくらいの大きさと重さだ。そして、無造作にバックへ入れてると、何かの弾みでスイッチが入り、自分に放電してしまうかも知れない危険な物だ。
 真っ先に、持ち歩き物のリストから外されるだろう。それに、スタンガンを使うような危機的状況に遭遇するのは稀(まれ)で、感謝される確率は非常に小さいし、電撃を放っても、逃れ切れるとは限らない。
 奪われたら、逆に電撃されるなどの暴力を振るわれて、もっと、惨(むご)い事になったら、きっと、僕は恨(うら)まれる。
 上手く電撃を喰らわせ、獣(けもの)のような相手を撃退して、陵辱(りょうじょく)されそうな難を逃れる事が出来る。そうして、救われた事への彼女の感謝が僕へ向いてくれるのを期待していた。
「ダメね。それじゃあ、君は、女の子のハートは掴めないよ。まぁ、スタンガンはいいか。彼女が捨てないで、持ち歩いてくれればいいんだけどね。でも、ミニチュアはダメ!」
 あっさりと、ダメ出しされた。
(……ちょっと重いけれど、スタンガンは、護身用アイテムだからな。役に立つさ)
「でもねぇ、君の彼女への想いは解かるけれど、ふつう、スタンガンはプレゼントしないよ」
 僕は、彼女がスタンガンを受け取ってくれた事を嬉しく思っていた。
 有ってはならないのだけど、スタンガンが彼女を救う事になれば、威力に感謝するだろう。
 そうなれば、渡した僕に思いを馳せて、連絡くらいはしてくれるだろうと考えていた。
(使う気満々の彼女は、スタンガンを面白がって放電させてけれど、普通は恐がるよな……)
 それなりの評価のスタンガンは、さておき、僕は自信作のミニチュアを弁護する。
「東ヨーロッパに実際に在る、あまり知られていない小さな城館をモデルにして作ったんだ。彼女の気に入るように……、そして、僕を思い出してもらう為の……、オブジェのつもりだったんだけど……」
 既製品なら退かれるだろう。でも、僕の手造りの逸品(いっぴん)で自信作だった。
 末序列の領主貴族の小さな出城的な城館をイメージして制作したミニチュアで、受け取る彼女の気持ちに配慮して、暗い印象を与えないよう、明るい黄色をベースにしたカラーリングに、カラフルな流旗(りゅうき)を林立させて、ショートケーキみたいにキュートな感じにした。
 拘りのイメージと配慮に、僕の想いを込めた手造りだから、必ず僕の気持ちが伝わるはずだと思って渡していた。だけど今、冷静に考えると、ミニチュアごときで上手く伝わるはずは無く、『お姉さん』の言う通り、彼女には鬱陶(うっとう)しく思うだけの邪魔物だったと思う。
 何の確信も無い僕の配慮は虚しく、其の拘った作品イメージは、空回りするマスターベーションに過ぎなかった。
「プレゼントのセンス、全然無し! 如何(いか)にも、真っ先に捨てられそうなプレゼントだねぇ。君は、著名(ちょめい)な芸術家でも、展覧会に入選している将来有望な画学生でもないんだから、近未来、君の作品にプレミアが付く可能性、無いしねぇー」
 確かに、其の通りだ。
 僕の作品は土産物の価値も無いだろう。……それでもと、遠くの信号機の点滅が僕の納得できない気持ちを後押しする。
「むむっ! だけどね。中学の時には賞を取って展示された僕の美術作品に、彼女は見入っていたんだぞ! だから……」
 ミニチュアの城館は、彼女の机や本棚に置かれ、時折り何気に目に触れて、その一瞬だけでも、僕を思い出して欲しいと考えていた。
「全然ダメ! そんな机や本棚の隅で埃(ほこり)を被(かぶ)るだけの物を貰って、彼女が喜ぶとでも思ったの? 年頃の女の子が、何に興味があって憧れるのか、雑誌やインターネットや周りの女の子達を見て、勉強しなさい。君を意識して想って貰いたかったら、いつも身に付けて使う物にしないとね。ピアスとか、バレッタとか。スカーフやハンカチもいいし、ソックスでもいいね。あっ、メガネなんてベターだね。……いやいや、全然ダメ! メガネやソックスはマニアックだわ」
(この人も『全然』を良く使う。しかも、連チャンで。……そう、僕は、全然ダメな奴です)
 言われて初めて気が付いた。
 僕は、自分を印象付けたいだけの、僕の向きからだけでしか考えていなかった。
 僕は、鈍い自分を呪う。
(僕にメガネ属性は無いし、だいたい、僕一人で選べないじゃん?)。
「それより、自分のファッションセンスを、どうにかしないとね」
 ファッションがイケてる、イケてないとか、何がどう違うのか、良くわからない。
「大丈夫! 私が、君のファッション感性を変えてあげるわ」
(うっ、何故、其処まで? それは、けっこう余計な事かも)
「う~ん、別に、僕のセンスを変えてくれなくてもいいですよ。今日のような機会は、今後は無いでしょうから。それに、今のままで困っていません。会社とアパートの往復は、帰りにスーパーやコンビニで買い物するくらいだから、会社の制服です。制服と言っても、作業服だけど……。部屋じゃスウェットで十分です。免許が無いから自動車を持ってなくて、休みの日も、外出はバイクを乗り回すだけで、だから、服装なんて気にしたことも……、あまり考えた事も、興味も無くて……。それに、あんまり服を持っていません」
 今、着ているのは、ファンシーケースの中で一番上等のセンスも良さげな服だ。それなのに、感性まで指摘されたのが悲しい。
「バーカ、そんなのだから、呆れられるのよ。愛想(あいそ)も尽きるわよ」
 僕のファッションセンスの無さを叱られながら、僕は比べていた。彼女が可愛くて綺麗なら、この人は綺麗で可愛い。
(あれ? う~ん、分かり辛いな。黙って立つ彼女が、アイドルっぽいなら、『綺麗なお姉さん』の振る舞いは、女優系だろう)
 デートの終わりには、自己主張と個性の自由さの強調だと、異議を唱(とな)える僕の努力も空(むな)しく、どうしても、ファッションセンスを変えさすと一方的に言い張る、『お姉さん』の強引さに押し切られて、僕は渋々(しぶしぶ)『ご指導、ご鞭撻を御願いします』と、言わされた。
「さあ、もう晩(おそ)いわ。帰りましょう。君を送るから、住所を教えて」
 ちょっとだけ嬉しさを感じた、『送る』の言葉に、通勤の足とするバイクは会社に置いて有るのを思い出した。
 GPSロードナビゲーションに打ち込む住所を、『お姉さん』に伝え終わる頃には、『明日は朝の運動がてらに歩いて出勤するのか』と、億劫(おっくう)になりながらも、送られるのを有り難く受け入れていた。
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 『お姉さん』の自動車が、いずみ荘の前に着く頃には、『お姉さん』の言葉に説得というか、洗脳された僕は、服のセンスを変えさせられるのを納得して受け入れ、すっかりイメチェンされる気になっていた。
「ふう~ん、いずみ荘ね。これ、アパートなの?」
 ドアノブに手を掛ける前に、僕は向き直り、深く『お姉さん』へ頭を下げて御礼を言う。
「今日は、ありがとうございました。御馳走様でした。お話が……、いや、相談が出来て良かったです。すっきりしました。明日からは、元の自分に戻れそうです。これからも、御指導を御願いします」
 期待した妖しい結末はなかったけれど、女性と二人だけのディナー、人気の無い真っ暗な場所に連れて行かれて、二人で見る夜景、そして、悩みを深く吐露(とろ)して聞いて貰い、アドバイスをいただいた。
 『お姉さん』と行動して話した其の全てが、初めて経験する出来事だった。
「お役に立てて良かったわ。また悩んだら、いつでも、お姉さんに相談しなさい。私は君の味方よ」
 何処まで、味方でいてくれるのだろうと、思いながら、はっきり、味方だと言ってくれた事が嬉しかった。
「ごめんね。バイク、会社に、置きっぱなしにさせちゃって。ちゃんと明日の朝、お姉さんは、君を迎えに来るからね」
(えっ、今、なんて言われた?『お姉さん』が、迎えに来る? 僕を……? なんで?)
「あ、朝、迎えに来てくれるんですか? どうして? 会社まで、ほんの二キロメートルほどですから、僕は、歩いて出勤しますよ」
 僕の問いに『お姉さん』は、ニッコリ笑う。
「だって、バイクは会社でしょう。連れ回したのは私だし、此処まで来ちゃって、君のアパートを知っちゃったしね」
 言葉は語尾まで、ユーモアに溢れて優しいけれどズレている。
 それは、ホストの都合で有って、ゲストの意向を訊かれてもいない。
「なら、今から僕を、会社まで乗せてって下さい。会社からバイクで帰ります」
 真夜中の今からだと、テンションが上がった気持ちで考えてしまい、現実感の無い今夜の出来事を冷静に考え直せないと思う。
 会社からバイクに乗って夜道を慎重に運転して帰れば、少しは落ち着いて翌朝まで眠れて、朝の明るさに目覚めれば、今夜の出来事の反芻と、『お姉さん』に諭された事と、今後の『お姉さん』への対応を、冷静に考え直せるだろう。
「ダメ! いやよ! 此処で降りなさい」
 語気を強めた、何処かで聞いたような言い方に、デジャビュを感じた。
(あっれぇー? 何?、其の一方的な決め付けは? 僕の道理は、無視しちゃうんだ。朝の迎えなんて、頼んでないし、其処までされる覚えもないし、意味がわからん!)
 などと、思うところは有っても、それは口にしない。
「……はい……」
 相模原の彼女との経験から、これ以上逆らわない方が良いと思う。
 悪意が無いのに、強く拒む理由は無かった。
 リードされている内は、自然体で受けいれて任せていた方が、齟齬は発生しない。
 頷く僕を見る『お姉さん』は、クシュっとブレーキペダルを踏みながらサイドブレーキを解除すると、トランスミッションのモードセレクトレバーをパーキングの位置からドライブへカコカコっと移してロックした。
 そんな暗い車内でする『お姉さん』の手馴れた操作が、とてもクールに見えて、僕も自動車運転免許を取ってみようかと思ってしまう。
「じゃ、また明日、おやすみ、バイバイ」
 自動車から降りた僕に、『お姉さん』は、小さく手を振って言った。
「おやすみなさい……」
(なんて、屈託の無い、明るくて爽(さわ)やかな女性なのだろう。それに、綺麗だ……)
 走り去って行く自動車のテールライトを、手を振りながら見詰め、これから、『お姉さん』と近しくなれたらと、僕は思う。
 胸の中の彼女の広がりが、少し粗密になって、小さくなった気がした。
 小さくなった分だけ、濃密なモノが入り込んだようで、俄(にわ)かに心がざわついた。
     *
「もう少しだけど、此処で降りて、歩きで出勤しれくれる? 私といっしょにいるのを見られたら、いろいろ、面倒でしょう?」
 そう言って、翌朝は迎えに来たのに、会社から一区画隔てた路地裏で、『お姉さん』は自動車を停めた。
(うっ! 此処で、降りなくちゃならないんですか? 一区画といっても、家電メーカーの大きな工場区画で、まだ、何百メートルも有るのに……)
 少し不満に思いながらも、僕は、『お姉さん』の指示に従う。
「はい……」
 降り掛けに、フロントパネルの上に置かれた『お姉さん』の携帯電話が、メロディーを奏でて振動し受信を知らせた。
 携帯電話を手に取った『お姉さん』は、画面に表示された相手を確認し、アイコンタクトと手振りで『早く降りて』と、僕を促しながら電話に出る。
「会社や寮へ、電話しないでよ、お母さん。そう言ってあったでしょう。掛けるなら、私の携帯電話にしてよ。わかったぁ? 今度、会社へ電話したら、当分、家に帰らないわよ」
 ドアを閉めようとした時、いきなり、凄い剣幕で話す、『お姉さん』の怒鳴るような声が聞こえた。
 振り返ると、眉を吊り上げ、眉間に皺(しわ)を寄せ、口を尖らせて、嫌そうに顔を歪ます、『綺麗なお姉さん』がいた。
 間近に僕がいるのに、お構いなしだ。
 そんな、優しくない顔の『お姉さん』も、綺麗だと思った。
 『お姉さん』は母親と口論してように聞こえた。
 余裕で、今を生きていると思えていた『お姉さん』にも、何か、家庭的な問題が有るのだろうか?
「そんな事……、お母さんとお父さんでやってよ。私がいなくても、できる事じゃない。私は納得して承諾(しょうだく)したわ。もう、覚悟を決めたのよ。これ以上、私を縛り付けないで! お願いだから……」
 ドアを閉め切る前に、『お姉さん』の早口が耳に届く。
 聞いてしまった内容から、何かに抗っているように思えた。
 それにしても、一方的でキツイ話し方だった。
 昨夜は、僕を諭してくれたのに……、何か納得できない。
(『お姉さん』の母親も、同じような口調で話していたのだろうか? いったい、どんな家庭なんだ?)
     *
 間も無く日付が変わろうとする頃、ドアチャイムが立て続けで鳴り響き、ノートパソコンで海外のエロサイトをネットサーフィンしていた僕は、イスから転げ落ちるくらいにビックリして慌てた。
 急いで開いていた幾つものウインドーを画面の下隅へ隠してから、恐る恐る忍び足でドアへ近寄り、ドアスコープのカバーを、そっと外して、誰が来ているのか、覗いて見極めようとした。
 再び、チャイムが連弾する。
 借りている四畳半(よじょうはん)相当の広さの部屋は、防音施工だけど、簡易遮音でしかない。
 だから、無音にはならずに小さな音で、隣の住人には聞こえているだろう。
(早く対処しなければ……! 些細(ささい)な事で、近隣住民とトラブルのは御免(ごめん)だ)
 まだ、この静岡で、深夜に訪ねて来るほどの親しい友人はできていない。それに、会社の総務部と区役所しか、僕の住所を知らないはずだ。そして、上司や先輩達に僕の住まいの詳しい場所を教えてはいなかった。
 いずみ荘の半分は、近くのレストラン北欧に働く人達の寮にもなっている。
 彼らは、賄(まかな)いの残りで深夜パーティーをしていて、時々、この時刻に差し入れを頂いていた。
 有り難く感謝の心で頂き、一度も断った事が無い。
 来ると、いつもドアを静かにノックして、一度たりもチャイムを鳴らした事は無かった。それに、『居るか?』とか、『食うか?』と、必ず声を掛けて来た。でも、今、ドア向こうにいるストレンジャーは、ノックもせず、無言でチャイムを連チャンで鳴らし続けている。
(誰だぁ……?)
 部屋の灯りが点いて、部屋を暖めるエアコンの室外機もファンが回って動いている。
 僕が居るのを分かっていての深夜の訪問だ。
 僕は、故意犯的な訪問者に警戒心を強めて、気持ちは身構えた。
(怪(あや)しい……、不測の事態だ! これは、招かざる客かも知れなくて、ドアを開けた途端に、僕は被害者になる、……かも!)
 ドアスコープのレンズの向こうに、広角の湾曲して見えたのは、人の頭の髪の毛だった。
 俯(うつむ)き加減の人の頭……。
 しかも、女性の髪のように思える。
 また、チャイムが短く、十六ビートを奏(かな)でた。
 ストレンジャーは、俯いたままチャイムを押していて、よく見えない顔に誰だか分らない。
 真夜中に訪ねて来て、僕を刺す……、ではなくて、危害を加えるような女性を知らない。
 被害者になる心当たりを、過去と現在のメモリーに探しても無かったので警戒心は薄れ、広がる安心と余裕が、急速に僕の張り詰めた緊張を溶かして行く。
 緊張から開放された気持ちが、僕に刹那の夢を見させる。
 女性かもと思えた事で、一瞬、相模原から彼女が来てくれたのかと、根拠の無い期待を抱いた。
(もしかして……)
 其の淡い期待は、抱いた時と同じように一瞬で消える。
 彼女は、僕の住所を知らなくて……、僕も、彼女に住所を知らせていなかったのを思い出した。
(そうだった! 僕達は、互いの基本的な個人情報すら交換していないのに、近付こうとしていたんだ。いつでも、身近にいる気がしていただけで……、ふっ、本当に僕は……、何も分かっちゃいなかったなぁ……)
 それに、彼女が……、こんな前フリをすっ飛ばしたサプライズを、するとは考えられない。
(だから、相模原の彼女じゃない!)
 僕は次の、たぶん、三十二ビートを打たれるだろうチャイムを聞く前に、防犯チェーンは掛けたままで静かに内ロックを開錠し、ゆっくりとドアを少しだけ開いて、外へ視線を送りながら様子を見る。
 ドアを開けると、あの人……、『お姉さん』が立っていた。
(なぜ、この人が此処に……? これは……、もしかして、御指導、御鞭撻(ごべんたつ)に来たのか? 確かに、そうお願いさせられたけれど、……どうして、わざわざ、この時刻に? それとも、そんな気持ちは更々無くて、僕を弄(もてあそ)んで、更に落ち込まそうとしているんですか? いやいや、そうじゃなくて、ストレートに僕をビックリさせる為(ため)だけに来たわけ? うんにゃ、違う、違う。これは、何かのサプライズだ! でも、なぜ?)
 瞬間、そう考えた僕は、素早く視界に入る全ての事物を隈無(くまな)く見回して聞き耳を立てる。だけど、深夜のアパートと御近所さんは静寂に包まれて、『お姉さん』以外に動いたり、潜(ひそ)んだりするモノの気配は感じ無かった。そして、表情から真意を探ろうと、僕は『お姉さん』を見る。
(既に、深夜になっていて、皆さんが就寝している時刻だし、早く、ネットサーフィンの続きもしたいから、此処は、遣って来た理由を訊くだけ聞いて、速(すみ)やかに追い返してしまおう)
「今晩は……。来ちゃった。部屋に入れてくれる……?」
『お姉さん』は、俯いていた顔を上げ、上目遣いに僕を見て恥ずかしそうに言った。
 瞳が、冷える夜風の所為(せい)なのか、ウルウルと涙目だ。
(ああっ、こっ、これは! はっ、反則だあ……。ミッドナイトのストレンジャーが綺麗な女性で、しかも、涙目の上目遣いだなんて……)
『ドクン!』
 僕の心臓は、目に見えない力強い手に鷲掴(わしづか)みで搾(しぼ)られたように大きく拍動を打つ。
「今夜は冷えるねぇ。外は寒いよぉ」
 涙目に寒いと訴(うった)える『お姉さん』に、僕は動揺して、高揚する気分に冷静さが薄れて行く。
「……あっ、ごっ、ごめん。はっ、入って下さい」
 僕は、後先も考えずに、暖められている自室の中へ誘ってしまう。
 直ぐに、防犯チェーンを外して、内側に開くドアを全開にした。
(あっちゃー、誘っちゃったよぉ! げげっ、『部屋へ、どうぞ』なんて言ってどうすんだあ! 僕からのモーションで仕切り直すつもりかよ。追い返すんじゃなかったのかよぉ……。あーあ、帰ってくれるまで、ネットでエロエロと観れなくなったじゃんかあ!)
 初めてのシチュエーションに、招かざるか、招くべきか、戸惑いと、躊躇(ためら)いと、期待が交差する。
「君と、話がしたくなっちゃった……」
 取り繕(つくろ)う言葉と態度を全力で模索する僕へ向けられた声色(こわいろ)の言葉が、官能的に聞こえ、後ろ手に手を組んで僕を見上げる四歳年上の『お姉さん』が、何とも可愛く見えてしまう。
(これから、ミッドナイトのドライブへじゃなくて、僕の部屋で……、ですか?)
 部屋に上がるように促すと同時に、くるりと僕は向きを変え、急いでノートパソコンをシャットダウンした。
 立ち上がっていたエロサイトに気付かれるのを未然に防ぎ、ほっとして振り返ると、『お姉さん』は半畳しかない狭い玄関で、ブーツのファスナーを下ろして脱ごうとしていた。
 タイトな黒レザーのミニスカートから、すらりと伸びた光沢の有るストッキングに包まれた脚、其の形の良い脚(あし)をぴったりと張り付くように包む黒い薄皮のロングブーツ、其の艶めかしい光沢の扇情的(せんじょうてき)で欲情的な光景に、僕は見入ってしまい、ストレンジャーで中断されたエロサイトの興奮が、再び湧(わ)き出して来る。
(おおおおーっ、どっ、どうして、そんなセクシーなファッションで来るかなぁ~? ミッドナイトにサプライズかぁ?)
 悩ましく光る、『お姉さん』の脹脛(ふくらはぎ)を下半身が頑張りそうな勢いで見ていて、ハッと気付いた。
(どうやって、此の人は此処まで来たんだろう? 此の人の足は自動車しかないはずだ。……なら、『お姉さん』の自動車は、何処に駐車して来たんだ……?)
 このアパートに駐車スペースは無い。
 V-MAXは、僕が路肩の側溝に厚い板で蓋(ふた)をして、其の上に停めている。
 僕の部屋は、二階の端っこの角部屋だから、直ぐに道路側の窓を開けて下を見た。
(あっ! ヤバイし、マズイ!)
 案の定、路駐していた。
 しかも、アパートの敷地に入る短い階段の真ん前に停めて、やっと、人一人(ひとひとり)が通れるくらいの隙間しか残していない。
「此処に停めちゃ、ダメです。まだ、帰って来る住人もいますから、トラブっちゃいます。直ぐに、自動車を移して貰って良いですか?」
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 一車線しかない狭いアパート前の町道と、いずみ荘へのアプローチを塞ぐ形で停めていた訪問客の自動車は、日本平パークウェイに通じる表通りのレストラン北欧に御願いして、翌日の開店時間まで裏手の従業員駐車場に停めさせて貰う事にした。
『明日まで、御願いします』
 車出しをする時刻を尋(たず)ねられて、いっしょに頼みに来た『お姉さん』は、『一時間ほど』じゃなくて、そう言った。しかも、『明日の朝まで』ではなく、『明日まで』だ。
 普通に考える『明日』や『翌日』の時間範囲の定義は、朝起きてから晩御飯を食べて風呂に入って眠りに就(つ)く頃までか、午前零時から午後十二時までの二十四時間で、時間は長い。
 ちょっと間を置いて、閉店後の片付けを終えたばかりのシンと静まり返っていた店内に口笛が鳴り、間髪(かんぱつ)を入れずに鍋や釜(かま)を叩く音が響き渡った。
 僕の部屋に、何かしのセールス以外に若い女性が訪ねて来たのは初めてで、しかも、日付の変わる真夜中に、そして、訪問客の『お姉さん』が、自ら朝を通り越して、『明日まで』いると言い放てば、お知り合いの皆さんは騒がずにいられない。
 僕もいっしょに騒ぎたいほどのビックリで、後先(あとさき)考え無しに嬉しい。
(えっ、ええーっ。ちょっ、ちょっと待てぇー! おっ、お姉さん、ほっ、本気ですか?)
『おめでとう!』、『良かったじゃん』、後から、スーシェフだろうと思う人に、ぐいっと肩を掴まれて言われた。
 そう言われると嬉しいけれど、この後、『お姉さん』の取る展開が読めないのと、『お姉さん』のバックグラウンドを知らない事で、僕は不安だった。
『やっ、やるのか?』、横から若いコックさんが、僕の二の腕を殴りながら露骨な言葉を小声で言って、『なっ、ナニを、……ですか?』と、問い返す前にポケットへ何かを捩じり込まれた。
『其の内、夜の街へ連れてって、遊びを教えてやろうって、みんなで言ってたんだけど、必要、無かったな。おまえなぁ、なかなか遣るじゃんかぁ。グッドラックじゃん!』
 ポンポンと肩を叩かれながら添えられた言葉に、急いでポケットに手を入れて掴み出して見ると、それはコンドームだった。
(ス……、ストレートですね……)
 嬉しいような、恥ずかしいような、ちゃんとしたキスも未経験な童貞の僕は、着け方を知らず戸惑ってしまう。
『あとで、差し入れ持ってくから、紹介してくれ』と、ベテランのウエイターらしき人からラップで包まれた軟らかなナチュラルチーズと、ワインのフルボトルを渡された。
 住人のみなさんの顔を知っているけれど、まだ、全員の名前は知らない。
 この人達の盛り上がりと普段の様子から、今晩は、僕の部屋で宴会になりそうな感じが臭う。
(いやいや、それは、勘弁して下さい)
『こんな綺麗で、セクシーなレディがお泊りだってぇ? めちゃくちゃ羨(うらや)ましーぞ!』って、初めて会う年配のマネージャー格らしい人が、本当に羨ましそうに言う。
(確かに! 僕も、そう思いますけど、なにぶん、突然の事なので非常に驚いてます。一つ組みしかない蒲団は、『お姉さん』に使って貰うつもりです。……でも、本当に『お姉さん』は、本気なのだろうか? いや、マジに僕は、どうなるんだろう?)
 やんやの囃(はや)し立てを、胸を張って……、いや、踏ん反り返るように受け、『お姉さん』は満面の笑顔で頷き返していた。
 見習いの若手から海千山千だろうと思われる中堅のコックやウエイター達まで、印象良くあしらう様に、どれだけ経験豊富な『お姉さん』だよと思ってしまう。
 レザーファッションの『お姉さん』は、鼻の奥がツンとするくらいセクシーで、男達に囲まれている様子は女王様的で、けっこうエロく見えた。
(なに、自慢げなんだよ、この人は! 此処は、恥ずかしがるところだろう?)
「ありがとうございます」
 駐車スペースが確保できた御礼を言い、僕は愛想を振り撒(ま)く『お姉さん』の手を取り、囃しや呪いの言葉を浴びせられながら、いずみ荘の部屋へ逃げるように戻った。
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 部屋に戻ると『お姉さん』は、さっさと造り付けの小さな台所の前に立った。
「私がするわ。お皿とグラスを出してくれる? フォークや箸(はし)もね」
 シンクの横に置かれた包丁を手に取りながら、食器の用意を僕に指示する『お姉さん』の声と立ち姿が、普通に家庭的で、僕の心臓がドッキンと大きく一拍して、昨日も、一昨日も、その前からも、いつも『お姉さん』が、此処で同じ事をしていたような気がした。
 折角(せっかく)、指示してくれた『お姉さん』の『美味しく飲みましょう』セッティングに応(こた)えられず、申し訳が無いのだけど、僕の部屋にワイングラスは無かった。
 残念ながら、無い物は仕様が無いので、僕はガラスのコップを用意する。
 頂戴したチーズを手際よくキャラメル大に切り分けて、一枚しかない平皿へ綺麗に盛り付けると、『お姉さん』は、ショルダーバックから折り畳みナイフを取り出した。
 たぶん、形状からソムリエナイフだと思う?
 『お姉さん』は、其のソムリエナイフを器用に使って、ワインボトルのコルクの栓(せん)を滑らかに、キュッ、ポンッと抜いた。
(なんか、仕草がカッコイイぞ! 其のロゼ色の柄のナイフ……、この人は、いつも持ち歩いているのだろうか?)
 コルクを抜く手際を感心しながら見ていた僕は、どうも怪訝(けげん)そうなの顔をしていたらしい。
「これ、ソムリエナイフだよ。ワイン好きだしぃ、いつもバックに入ってんの。フランスのライヨールのメーカーもの。使うのに、ちょっとコツがいるけれど、この赤いグリップがキュンとくるよねぇ。かわいいでしょー」
 『お姉さん』から、マニアックな説明をされた。
 その赤いの柄のナイフはキュートと形容すべきなのか迷うけれど、見ただけで高価な拘(こだわ)りの逸品って感じだ。
 『お姉さん』のブランド物のショルダーバックの中には、まだまだ不思議な物が入っていそうで、僕は興味津々(しんしん)な思いで開いているバックの口を見詰めてしまう。
「ふふん、バックの中身が気になるぅ? 他にもいろいろ入っているわよ。化粧用品に生理用品、替えのストッキングに、ハンカチとポケットティシュ、財布に、携帯電話に、筆記用具と電卓、それに、ちっちゃくて薄いノートパソコンも。あと、催涙(さいるい)スプレーと、先日、話しに出た、スタンガンも有るよ」
 さらりっと、スタンガンと催涙ガスまで入れている物騒(ぶっそう)な中身を教えてくれた。
 そんなのとノートパソコンまで入っていたら、重くて肩が凝(こ)りそうだ。
 貰った赤ワインも上等な物らしく、『お姉さん』は嬉しそうに鼻歌交(ま)じりで、僕が食器ケースから取り出して来た二つのコップへ注ぐ。
「へーっ、良いクリスタルのコップを持ってるじゃない! ほら見て、ワインの綺麗な紅色(べにいろ)!」
 ボトル口を僅かに回しながら持ち上げて雫を切る、その様が堂に入っている。
 アパートの部屋で日常的に酒を嗜(たしな)む事をしない僕は、ワイングラスやコルク栓を抜くソムリエナイフのラグジュアリーな品を持っていない。
「すみません。あまり、酒を飲まないので、ビールグラスにロックグラス、ショットグラスも、盃も、酒を注ぐ、其の類いのモノは、全然無いです。これからは、……必要になるかも ……ですね」
 ソムリエナイフを使って難無くコルク栓を抜き、ワインを静かに注ぐソツが無い仕種から、ワインを飲み熟(こな)しているであろう『お姉さん』へ、僕は、ワイングラスの揃(そろ)えが無い事を詫(わ)びた。
「別にぃ、ワイングラスじゃなくてもいいのよ。このコップでも十分、香りと風味を味わえるわよ。だから、気にしないで」
 ワインを注いだコップを、天井の白い面発光照明に翳(かざ)して、コップの質と上物ワインの透ける色合いに楽しそうだ。
 使用に特化されるワイングラスは持っていないけれど、普通に使うコップは普通に美味しく飲みたいから、それなりに良い物を使っている。と言っても、友達が遊びに来た時の事も考えてと、お袋から半ダースも持たされた物だ。
 彫りや色付けの無いシンプルな湾曲ロングボディに、しっとりした滑らかな持ち感と透明度の高い綺麗なガラス、そして、飲み易い縁(ふち)の薄い厚みが、僕は凄く気に入っている。
「あっ、このワイン、好きな銘柄よ。口の中に広がる香りがいいんだよね。癖(くせ)の無い辛口(からくち)で、後の切れがすっきりなんだ」
 半分ほどワインが入ったコップを僕に渡しながら、カチンと、『お姉さん』は笑顔でコップを当てる。
「楽しくて、素敵な今夜に、乾杯!」
(素敵な夜……? この展開は、『お姉さん』の読み通りなのか? 乾杯しても、問題無いのだろうか?)
「……乾杯!」
 何もかもが初めてで、更に、初めてが続きそうな夜。
 不安に期待が混じり、警戒と願望が交差する。
 来訪目的が不明のままで乾杯する状況が、デンジャラスなのか、ハッピーなのか分らない。
 先(ま)ずコップを鼻に近付けて香りを嗅(か)ぐ、そして、もう一度、今度はコップを揺らせて香りを嗅いだ。
 可愛い鼻を小さく動かせながらコップに口を付け、『お姉さん』はワインを一口含む。
 見ていると、どうも直ぐに飲み込まずに、口の中で味と香りを確かめているようだ。
 口を一文字に結び、頬(ほお)に笑窪(えくぼ)を作る表情が、悪さを企(たくら)む悪戯(いたずら)っ子の顔のようで可笑(おか)しくて可愛い。
「うん、やっぱり、このワインは美味(おい)しい!」
 そう言って、目許(めもと)を緩(ゆる)ませ僕を見る。
(同意を求められたのだろうか?)
 見詰められた僕は、グイッと飲み込んだ後味の悪さに閉口していた。
(……これって、美味いのか?)
 何度か深夜パーティーに参加して、それなりに、飲酒と酔いには慣れてきていたけれど、酒類の良し悪(あ)しは、一ヶ月間に数回程度の参加じゃ分からない。
 参加すると、控えめに食べて、注がれるままに飲み、飲むままに酔(よ)う。
 酔っぱらうと、並べられた御馳走を食べても、年数物の高級酒を飲んでも、味は分からなくなってしまい、参加したパーティーの後半は、何を食べて、何を飲んで、何を話していたのか、憶(おぼ)え出せていなかった。
 深夜パーティーで飲む酒はいろいろだ。
 焼酎(しょうちゅう)にウイスキーにブランディー、テキーラやラムにウオッカ、中国の白酒(バイジョー)まで有って、リキュールやシロップにジンジャールと、シェイクやステアしたカクテルまで作って、口数の少ないバーテンダーの方がボソッとカクテル名だけ告げて、僕の前に置いてくれていた。でも、大抵は、日本酒とビールばかりを好んで飲んでいる。
 どれも、深夜パーティーで初めて飲んでみて、風味と酔い加減を知った。
 ワインは、甘い貴腐(きふ)ワインやアイスワインしか好まなくて、ルージュも、ブランも、ロゼも、全くのワイン初心者の僕には、渋辛(しぶから)いばかりで、ちっとも美味しく無い!
(この渋みが、辛口というのだろうか?)
「うわっ、チーズも美味しぃー! 何処の銘柄なんだろ? このワインに合うよねぇ」
 僕の返答を待たず、パクついたチーズに顔を綻(ほころ)ばせる。
 確かに、頂いたナチュラルチーズは旨(うま)く、上等な旨みの後味が、更に食欲をそそった。
 ラップに包まれていただけのチーズは、近所のスーパーでも買える物なのか、銘柄を知る手掛かりは無かった。きっと、呉服町(ごふくちょう)のデパートまで行けば、品揃えが豊富で買えると思う。
 試食ができれば、良いのだけど……。
 名も知れないチーズについて、僕が、あれこれ夢想している内に、口に入れていた二切れ目のチーズをワインで飲み込んでから、『お姉さん』は、じっと、僕を見据(みす)えて言った。
「さあ、飲みながら、あなたの家……、家族の事を聞かせて」
 ショルダーバックの中身で、『私に、おイタしたら危ないわよ』と釘を刺しながら、僕の家庭事情を聞きたいと言ってきた。
(おイタがダメ……? それなら、どうして、こんな真夜中に来るかなぁ? そんな、そそるファッションで、しかも、良く知らない男の部屋へ、初訪問するなんて……)
 僕は、ツッコミを入れたい気持ちを抑えて、翌朝の勝手に元気になる下半身を、どう繕って隠そうかと考えながら、『お姉さん』の質問が不思議に思えた。
(なぜ、僕の家庭事情を知りたいのだろう?)
 話といっても、セオリーな質問形式に、僕や僕の家族の事を一方的に訊いてくるだけで、時折り話が途切れても、『お姉さん』は、自分の事を一つも語らなかった。
 自身の事を語らないのは、そういう話し方なのか、訳有りなのか、分からないけれど、僕は、何か言いたくない理由が有るのだろうと思い、敢(あ)えて訊きも、詮索(せんさく)もしなかった。
 後々、不都合や問題が発覚しても、『訊かなかったから』とか、シレっと言うのだろうと思った。
(そうなった場合は、どんな不利な事でも、受け入れていくしかないか……。訊いていない僕の不手際だし……)
 相模原の彼女との、普通未満で拗(こじ)れていた付き合いの所為か、僕は変に熟れてしまっている。
 途中、いつものより控えめなノックが有り、本当に差し入れが届いた。
『なんだ、まだ、裸じゃないのか?』
パーティーセットのような豪勢な差し入れを渡しながら、笑って冷やかす。
『ななな、何言ってるんですかぁ! まだ……、じゃなくてぇ、そんなはずないでしょ! 差し入れ、嬉しいです。どうも、ありがとうございます!』
 差し入れを受け取り、笑顔で『お姉さん』と、手を振り合っているチーフコックさんに丁寧に御礼を言った。
 嬉しい差し入れには、冷えたシャンパンと黒ビールまで並べられて、まるで、御祝い事だ。
 ドアが全開にされた間口から、みんなが覗いていて、住人以外も混ざっている気がする。
 たぶん、いつも、真夜中にコックさんらの部屋へ遊びに来ている別の店の人達だ。
 隣の住人もいて、楽しそうに手を振っていた。
 善人ぽい御隣りさんは、レストラン北欧の従業員じゃないけれど、僕と同様、時々コックさんらの深夜パーティーに参加しているみたいだ。
 そんな冷やかしを受け流し、『お姉さん』は、一人ひとりに笑顔で挨拶している。
『今、俺らが風呂使ってるけど、深夜でも構わないから使えよ』
 これは、俺らが寝ていても、構わずに風呂やシャワーを使えという意味だ。
(この連中は、絶対、起きてて、聞き耳を立てているに決まってる!)
「あら、そう言えば、この部屋に、お風呂も、シャワーも無いのね?」
 会話を聞こえたのか、背後から、そんな問いが来た。
(四畳半しかない部屋だ、当然耳に入るか……、って言うか、今からシャワー使うんですか?)
「そう、このいずみ荘は、古い造りで、風呂とトイレは共同なんだ。時間制限が有るけど……」
 水周りは、小さなキッチンが部屋に造り付けで有るけれど、その分、押入れは無かった。
 部屋の三分の一がロフト式のベッドになっていて、其の下に机とイスを置くスペースが有って、僕はパソコンディスクを入れている。
 そんな穴蔵の隠れ家みたいなのが、気に入って借りている。
「洗濯は、二台の全自動洗濯乾燥タイプが有って、コインランドリー式。共同ベランダで、天日干(てんぴぼ)しも可だね」
 大家は、部屋をトレンディなデザインにしたり、部屋全体を吸音材や断熱材で覆い、窓はペアガラスにして、床もコルクフローリングに改修していた。だけど、いずみ荘全体を、基礎から建て替える気は無いらしい。
(ドアなんて、IDカードと暗証番号の併用仕様のオートロックにしているのにな!)
「各部屋には、お風呂とトイレが無くて共同なのは、会社と同じじゃないの。いずみ荘の共用風呂は、銭湯に行くみたいで楽しそうだし、トイレも、私は気にせず使えるから問題ないよ。此処の人達、みんな楽しいねー。気に入っちゃったわ!」
『お姉さん』は、深夜の遣り取りに全く気落ちしていない。
(……だけど、ふつう、目的が違う住居用賃貸物件と、オフィスの環境を比べないだろう?)
 嫌な顔をするどころか、お姉さん』は楽しんでいる。
 綺麗な顔の表情は嬉々(きき)として明るく、体力は旺盛(おうせい)で元気溌剌(はつらつ)、気持ちは頑健(がんけん)でアクティブ。
 美人な『お姉さん』は、タフネスだった。
「だよねー」
 住人達から相槌(あいづち)を入れられて、もう、『お姉さん』はアイドルだ。
「うん!」
 愛想良く、『お姉さん』は頷き合っている。
 『朝飯の分も、入いってるからな』と言われて、中を見てみると、差し入れは二段重ねで、下の段にハムエッグにサラダ、それに、サンドイッチまで入っていた。
 其の心遣いに、感動させられる。
(感謝感激です!)
『んじゃ、おやすみ! エッチがんばれよぉ』と、年長のコックさんに励(はげ)まされる。
(ううむ。なんて、ストレートなんだ……)
 ノリでピースサインを返しながら、状況次第で頑張る事になるかもと、そして、夜は長いし、明日は休みだなと思う。でも、頑張り方どころか、迫り方も、僕は知らない。
「すみません、気い遣わせちゃって。ありがとうございます」
 御礼を済ませてドアを閉めると、いつもは気にもしない、オートでガチャリと鍵が掛かる音を意識する。
 『お姉さん』と二人っきりの空間で、『お姉さん』と二人だけの時間が始まった。
「君は、此処の人達と仲が良いんだね」
 閉店後のレストランでの遣り取りや差し入れを持って来てくれた住人達との会話と態度、それに、渡された豪勢な品から、そんな風に見えたのだろう。
 『お姉さん』は、僕以上に嬉しそうだ。
「そっ、そうかな? 普段は、挨拶と短い愛想話しをする程度で、あと、無理矢理、深夜パーティーに混じらされたりするくらい ……かな。今夜は、……特別ですよ」
 本当に、今夜は特別だ。
 まだ、此処に越して来て半年余りだけれど、深夜に女性の声を聞いた事が無い。
 レストラン北欧の男子寮規則の罰則が厳しいのか、フィーリングが合わないのか、ウエイトレスさんなどの女性従業員の方々は、深夜パーティーに参加していない様子だった。それに、コックさん達は意外と真面目で、ケジメが有る紳士ばかりだ。
 普通、この時間帯には、独身女性が無防備に男所帯へ遊びに来ないだろうし、来るとしても、『関係持ち』か、『訳有りに決まっている』と思う。
「えーっ、私が来ただけで、こんなに特別なのぉー。此処は、とっても、いい人ばかりで幸せかも」
(だから、『お姉さん』は特別なのですよ。その、物怖(ものお)じせずに、明るく溶け込む態度と物言いは、皆さんに歓待(かんたい)されて当然だね)
 僅か数日で、この展開だ。
 嬉しそうな『お姉さん』に、僕も嬉しい。
「ところで、此処の人達は男ばかりなの? 女の人は住んでいないかな? 女の子が住めば、モテまくりになりそう。私も、此処に越そうかしら、空(あ)き部屋は有る?」
 其の嬉しい提案の言葉で、僕は無警戒に、『お姉さん』の問いに答えてしまった。
 『見掛けていないから、居ないんじゃないかな』とか、『まだ、住んで日が浅いから、知らないです』と、無難に知らばっくれればいいに、気が緩むと、いつも僕は無神経になる。
「空き部屋が有るのか、分らないけど、女性の方も住んで居ますよ。二階の、階段を上がった直ぐの部屋です。其の部屋に一人で暮らしていて、見た目は、僕と同い歳か、近い歳かもと思いました。 出逢っても、挨拶するくらいです」
 其の人は、少し小柄だけど普通にスタイルが良くて、いつも、デニムのミニスカートを着ている。
 内気な感じの人で見掛ける時は、いつも俯き加減で、顔を起こしているのを見た事が無い。
 挨拶の時も、俯いたままだった。きっと、髪を上げれば、可愛い顔になると思う。
 僕は一度、風に吹かれて長い髪が舞う綺麗な横顔を見ている。
 色白の肌が綺麗な女性だった。でも、擦(す)れっ気全く無しで、彼氏は居無さそう。
 艶っぽさも、色っぽさも、表情が殆ど見えないから、よく分からない。
「前髪が長いから、顔が良く見えない女の子です。無口で、返される挨拶の声は小さくて、聞き取り難いんだ。住人達と話しているところを見ていないですし、僕の知る限りでは、モテモテじゃないと思います」
 ウィークデーの朝は、出掛ける音が聞こえて昼間は居ないみたいだし、夜は毎晩、部屋の灯りが点いているから引き籠(こも)り系じゃなさそうだった。
 大学生らしくないし、あんなに無口で、いったい何の仕事をしているのだろう?
 そんな、たった一人だけいる女性の住人の様子を、僕は話しながら思い浮かべていた。
「けっこう良く見ているじゃない。私の事も、観察してくれていたぁ?」
 其の言葉にハッとして視線を向けると、『お姉さん』は伏せ目で、手に持った差し入れの料理を見ている。
 何か、僕は詳しく感じられるような説明的な事を言っただろうか?
 それとも、思い出していた顔が、ニヤケてスケべそうに見えたのだろうか?
 僕は、『お姉さん』の質問に答えず、『お姉さん』からも次の言葉が来ない。
 手足が強張(こわば)るのを感じて、緊張と沈黙の始まりを意識した。
 綺麗でセクシーな『お姉さん』と、翌朝まで二人っきりになるかも知れない深夜に、僕は、相模原のトラウマで動揺している。
 これからの二人の関係に期待して、『お姉さん』に帰られたくない僕がいた。
 そんな緊張に、無言で固まる僕に気付いたのか、『お姉さん』が時間を動かしてくれる。
「とても、美味しそう! この時間に食べたら、確実に太っちゃうけど、まっ、いいよねぇ。さぁ、食べよっか」
 差し入れを小さなテーブルに二人で広げながら、再会された話題は、自営する親父の仕事と僕の将来への展望になった。
「ふう~ん。いずれ君は、お父さんの工場……、 いえ、会社を継ぐ事になるんだ。確実に、次期社長だね」
 会社の業績が良い限り、親父の仕事や立場などを僕が引き継ぐ可能性は十分有るけれど、それは、ずっと後の事だと思う。
 たぶん、イレギュラーが無ければ、十年や二十年以内じゃない。
 僕の意識では、会社よりも工場だ。
 親父も工場と呼び、会社と言ったのを聞いた事は無かった。
 工場の四角い建物は、白いボード張りの外壁に、高所に付けられた消防法最低限の大きさと数の窓のみで目立った変化は無く、跳ね上げ式の大型搬入口に有る外付けのエレベーターユニットは、同じ外壁材を使い工場棟と一体化していた。
 素っ気無い無機質な外観は、病院か、研究棟のようで、一体何をしている会社なのか、全然分からない。
 玄関は、ガラス製の自動ドアじゃなく窓無しの勝手口のようで、会社名は、デザイン事務所に依頼して創作されたロゴのステッカーが、ドアに貼られているから分かるようなものだった。
 当然、訪れる人には、不気味で無愛想な印象を与えて警戒される。
 初めて訪れるお客さんは、誰しも、こんな得体(えたい)の知れない会社に仕事を発注して大丈夫かと考えて仕舞うそうだ。
「まあ、そうだけど。社長なんてガラじゃないよ。僕が入社しても、親父と二人しかいないのになぁ」
 現実的に、直ぐには有り得ない。だけど、親父を手伝うのは有り得る。
 いつでも、親父から頼まれれば、そうするつもりだ。
 其の覚悟はしていた。
「一人とか、二人とか人数じゃないの。世間は、君から会社を見るの。其処に、志す技術が誠意を持って存在していて、事業に将来性や発展性を秘めた内なる可能性が有って、会社全体の技術と技能、そして、業績と社長や従業員達が信用できるのかを見ているわ。社長は会社の代表で顔だから、其の息子の君も、会社の判断材料の一つにされるの。親も、子もね。君は、いろんな人達に観察されているのよ。気を付けなさい。それに、私も君を見てたよ。安全そうだしね」
 末尾の言葉に、ドキッとした。
(僕を見てた? なぜ? 僕が安全そう? それは、どういう事?)
 僕に関心を持っているのは、ディナーと夜景の一件で知っている。
 妖しいムードと明るい送迎が、新たな進展を予感させていたけれど、僕は、慎重に接しようと考えていた。
 寂しさを紛らす温もりやイチャつく性欲を求めて、さもしくガッつくのは善くない。
 単純な勘違い男になってはいけないはずだったのに、あっさりと、二人の関係が意外なくらい進展して行くのを不安に感じながらも、『酷い目に合うなれば、其の時は人生、捨てるしかないかぁ……』と思う。
 キョトンとする僕を尻目に、『お姉さん』は言った。
「私は、君の事が好きなの。だからこそ、君に直して欲しい所が有るの。……いっぱい有るのだけれど、全部、直してくれるでしょう?」
 笑顔だけど、決意と真剣さが表れていた。
(この言葉を言う為に、『お姉さん』はミッドナイト・ストレンジャーになって来たのか!)
 驚きの、突然の告白といっしょに、僕が、気に入らない所だらけだと言う。
 素直に言う事を聞くべきなのだろうかと、考えてしまう。
(サプライズのフェイクかも知れないけれど、僕には、何か気に食わないところが有るのだろうな。それは、改(あらた)める必要が有るのだろう。この人が望むなら、此処は将来的な事も踏まえて、言う通りにするべきか……)
 綺麗な女性から告白されて、僕は打算的になる。
 舞い上がる気持ちにフェイクだとしても、凄く嬉しい!
「ああ、いいですよ。そう望むのなら直します」
 躊躇わずに、そう答えると、年上の美しい女性は、僕を指差し、勝ち誇ったように綺麗な笑顔で言った。
「オーケー! 君が社会人として、いつ何処で、どんな人と接しても、立派で素敵な男性の印象を与えるように、私が教育指導してあげるわ。ちゃんと、私の言う事を聴きなさいよ。約束してよ、何より、君自身が努力して、頑張らなくちゃダメよ。わかったわね!」
 どうやら、フェイクじゃないらしいと解かる。
(この人なりの想いの、真剣な告白サプライズだ)
「はい!」
 僕が素直に返事をした其の時から、言葉遣いや話し方、態度と礼儀や作法、それに、挨拶など、僕がこれまで物怖じしたり、面倒臭(めんどうくさ)がったりして、いい加減に端折(はしょ)って来た様々な事を、厳しく指摘して来て改めさせられた。
「私がいっしょにいても、恥ずかしくない男性にするわよ。そうなってね!」
 そう言いながら、腕を絡(から)めて僕にキスをする。
 最初は軽く触れるだけ、それから、『お姉さん』は、唇を強く押し付けて深く激しいキスをした。
(リードしてくれている! なんてパッションで、センセーションなんだ!)
 『お姉さん』とのファーストキスは、いきなり、ディープキスの指導になった。
(おおっ、まっ、まだ、心の準備が……。おっ、お姉さんはマジ ……だ!)
 心臓は、レッドゾーン域をオーバーしそうな激しい勢いでバクついている。
 軽く噛まれながら吸われる唇と、纏わり付くように絡む舌先が、其の気持ちの良さに体中から力が抜けて行くのを分かるほど、魂が奪われそうなくらい感じてしまう。
(ううーん、これが、大人のキスなのか……!)
 両手を僕の首に絡ませて、キスを止めない『お姉さん』は、息を弾(はず)ませて僕以上に、うっとりとしているように思えた。
 トロンとした薄目の瞳が、恍惚(こうこつ)として悩ましい。
 フェロモンいっぱいの『お姉さん』の表情に、それまで、火を噴いて燃えているだけだったアドレナリンが火が、爆発したような勢いで体内を駆け巡り、グルグル、グルグルと、僕の気持ちは凄い勢いで舞い上がってしまう。
 激しい欲望を抑えられそうにない僕は、『お姉さん』に新しい彼女になって欲しいと、心の中で切に願った。
(どうして、『お姉さん』は、こんなにテクニシャンなんだ? きっと、……絶対、経験値が高いに決まってる……)
 考えたり想像しただけでは、テクニシャンになれない。
 ノウハウ本を読んでも、写真や動画を見ても、無理だ!
 絶対に、実地体験は必要だと思う。
 欲望と欲情で興奮して、プスプスと湯気が噴き出しそうな僕の頭が、疑りの増した『お姉さん』の裏事情を、単純に探りのシュミレーションを稼動させてしまう。
(大学の四年間で、どれだけの経験を積んだんだ? 既に、大学以前の高校で済み……? いやいや、早熟な女子中学生で、早々と初体験してたりかも……)
 燃えそうなくらいに上気している僕の頭は、熱と興奮で思考が停滞して、ただ単純ストレートに未経験ベースの想像を膨らませてしまう。
(故に、『お姉さん』なのか……?)
 最早(もはや)、意味不明の思考で取り留めが無い。それでも、暈(ぼや)ける頭は『お姉さん』のバックグラウンドが不安だ……、と警告していた。
 様々な作法や事柄を知り素養の有る『お姉さん』の生い立ちは? それに、数日前の朝に『お姉さん』がしていた、『母親だ』と言う人との電話は?
 『お姉さん』に惹かれる僕は疑問に思う。でも、敢えて『お姉さん』の過去を詮索しない。
 過去など、どうでもよいと思う。
 多少は不安だけど、好きになるのに相手の過去など関係無い。
 今とこれからの『お姉さん』が、僕の彼女として大切なのだから、僕は、一言も『お姉さん』のバックグラウンドを尋ねたりしなかった。
 キスをしたまま、寄り掛かるように『お姉さん』は体重を掛けて来て、僕は倒された。
 これから、どうなるのか、どうすれば良いのか、さっぱり分からない。
 心臓が高鳴り、動悸は宇宙に打ち上げられるロケットのような勢いだ。
 これから先の未経験領域の不安と期待で、首筋の血管が鬱血(うっけつ)したみたいに重い。
 血が、頭と顔に集まって来ている。
 多くのエロサイトの動画を見ていても、今、この場の実際は、2Dや3Dのバーチャルと全然違った。
 しっとりした唇が離れ、動揺と興奮で、自失しそうな僕を落ち着かすように、『お姉さん』が優しい声で話す。
「安心していいよ。彼氏も、親しい男友達も、いないから。今の私は、自由だから……」
 付き合っている男が、いないと聞いて、僕の動揺は薄れて行く。
(今の私……? 自由だから……?)
 言った言葉の意味が、良く解からない。
 動揺が治(おさ)まって来ると、興奮が満ちて来て、高速で送り過ぎた酸素不足の血液に、思考が麻痺(まひ)してしまう頭では、何も考えられない。
(もう、意味なんて、どうでもいいんだ。『お姉さん』、僕の切なさと虚しさを、無くして下さい!)
『お姉さん』の身体に回した腕も、手も、指先にも、感覚が無くて、力加減も、触れているのかも、分からない。
 気持ちは戸惑い、心がざわついた。
 焦る僕は、何を、どうすれば良いのか分らない。
 上になった『お姉さん』が、耳元で囁くように言う。
「だいじょうぶ…、心配しないで。私がリードするから、優しく合わせて……」
 僕の服を脱がし始めた『お姉さん』の、甘い声を聞きながら、僕は、うっとりと身を任せていった。
(そして、僕は、新たな恋に落ちて行く……)
 一度、ようすを見に来たお袋以外で、初めて女性を部屋へ入れた。
 僕の部屋へ上がった女性は、初めて部屋に泊める女の人となった。
 初めて泊めた女の人に、僕は、初めてのセックスへ導かれ、相模原の彼女に失われるはずだった、童貞を捧(ささ)げた?
(奪われたんじゃなくて、捧げたのかな?)
 頭の中は、『お姉さん』と『初めて』だらけで、目まぐるしく渦巻き、蕩(とろ)けて薄れ行く意識の中で、何も整理できなくて、ただ、ただ、初めての体験尽くめに、僕は感動していた。
(こっ、これは、凄い事だぞ!)
 初体験のプロムナード、シンフォニー、レクイエム、それは、不安と、動揺と、刺激と、興奮と、陶酔と、感慨と、安らぎだった。
 僕の耳を軽く噛む、『お姉さん』の唇や、僕の胸の肌に触れ動く、『お姉さん』の手と、痛いほど大きくて固くなった股間の熱い自分自身を感じて、僕ではない、違う自分の出来事のように思う。

 

 つづく