遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

スタンガン(私 大学二年生 ) 桜の匂い 第九章 弐

 私はベイブリッジの真ん中に停めた先輩のスポーツカーの中から、観覧車の点滅するカラフルなイルミネーションに見蕩れていた。

(こんな場所に自動車を停めてもいいの? でも、横浜港が綺麗!)

「あれはコスモワールドの観覧車だよ。以前、乗っただろう」

 先輩は、唇が頬に触れるくらいに顔を近付けて言う。顔と体が反射的に避けようとするけれど、背や肩に先輩の胸が触れる。息がタバコ臭い。ハッカ入りのタバコは特に嫌な臭いだ。

『タバコを止めて』、『もう吸わないで』と、何度も御願いしたのに一向に止めてくれない。

     *

 ミナトミライに隣接するコスモワールドは、去年の暮れに赤レンガ倉庫へ行って雑貨を買った帰りに寄って遊んだ。夕暮れ色に染まる大気を裂いて、バンクしながら水中に突入するコースターや、夕焼け空が映る紅い水面に、急角度で突っ込むウオータースライダーはとても興奮して面白かった。

(先輩は、私がちっとも怖がらずに、はしゃいでいたから、詰まらなくて少し退いていたんだろうな)

 私から誘って乗り込んだ観覧車は、灯り始めた色鮮やかなイルミネーションが私達を妖しく彩り、上り詰める頃にはミナトミライの眩い夜景に惑わされ、想いを寄せ合う二人のような良いムードになってしまった。ゴンドラが降り始めると、妖しく揺らぐ光りのムードに操られているかのように先輩がキスを迫って来たけれど、それを、『高さに酔って、気持ちが悪い』と言って躱していた。

 私はまだ、先輩に心を許す事ができずにいる。

(先輩、ムードは良かったけれど、まだ、そこまでの気分になれないの。それにタバコの臭いは嫌いだし……。先輩の事は好きだけどね。ごめんなさい)

 何度嗅いでもタバコの臭いは好きになれない。デートを重ねているけど毎回、タバコ臭い先輩のスポーツカーに乗り込むには自分に掛ける魔法と、タバコと先輩へ唱える呪いの呪文が必要だった。

 タバコには色気なんて全然感じない。紙巻なんか貧乏臭いし、レトロなキセルも押入れの黴みたいなイメージがする。吹かすタバコより燻らす葉巻はリッチな感じだけど、いつまでも纏わり付く臭いに吐き気がするわ。

 タバコを吸う人は、神経質で精神的に弱い人だと思う。ナイーブで繊細だと自意識する喫煙者もいるけれど、冗談じゃない!

 止めてと言っても、全く止める気が無い。ちっとも寛容でなくて頑固だ。優しい見掛けでも自己中心で思い遣りや気遣いが足りない。本当に君しかいないって心から私を好きで愛してくれるのなら、私が嫌がる事はしないでくれるはず。なのにするのは愛と感受性が薄いんじゃないかと疑ってしまう。

 だから私は、先輩に愛されていない……。

 まだ良く判らない先輩は、私の事よりも自分中心に物事を考えて動く人だと、薄っすらと分り始めていた。私とのデートも何か別の目的のついでみたいな感じだ。デート中でも頻繁に携帯電話へ着信が有って、その都度、先輩は電話かメールをしに私から離れて行き、決して私の間近で話そうとはしない。

 軽くて胡散臭い……、良く言えば明るくて秘密めいているのだろうけれど信用できない。

 付き合い始めて間もない頃、先輩へ送信したメールにネットの海外サイトでゲットしたGPSサーチウイルスを忍ばせて遣った。ウイルスクリーニングをしても簡単には検知できず除去も難しいアプリだ。クリーニングをしても中身はアンノンウンと表示されるし、ファイルネームを見ただけじゃGPSサーチと分からない。サーチングやサーチャーも知られないメッチャ違法な優れものだ。

 時々、内緒でチェックする先輩の所在と時間帯から、私以外にも複数の女友達がいそうだと気付いた。だから未だに名前で呼ばずに先輩と言っている。そしてまだ、キスを許す気にはなれない。

 イルミネーションが瞬く観覧車の左に、ライトアップされた二つの赤レンガ倉庫が見える。その少し左手前に巨大生物の臥せている暗い影みたいな大桟橋が在った。散策やデートする人達の足元を等間隔に並んで照らす、淡く青白い光の細い照明が哀愁を誘って、私を冷たくて寂しい気持ちにさせた。

(……大桟橋、……か……)

 あの春の陽に照らされた大桟橋の先端を思い出し、ワザとはしゃいでいた気持ちが萎えてしまう。

(! ……?)

 耳許で小さく呼ばれた気がして、振り向いた。

「なに? せんぱ…… うぐっ! ううっ……、いっ、厭!」

 振り向きざまに先輩が唇を押し付けて来た。

(……キスをされた……)

 頬にタバコ臭い息が直接流れ、私はゾッとして反射的に顔を顰めて、先輩の唇を離そうと身を捩りもがこうとするけれど、強い力で後ろから私の頭を逸らせないように掴み、更に強くヤニ臭いザラついた唇を強引に密着させてくる。

(いきなり、何するのよ! きっ、気持ち悪い…)

 押し付けた先輩の口から舌先が私の閉じた唇を抉じ開けようとしてくる。先輩の唾液にヤニの味がした。先輩の手はストッキングに包まれた太腿に触れ、股間に向けて撫で動いた。

(うっ、ミニスカートを、……穿いてくるんじゃなかった)

 唇を固く結んで舌の侵入を拒みながら大切な処へ迫ろうとする手を両手で強く掴むと、動かせないように足を強く閉じて挟んだ。

(あっ、あぅ!)

 それでも時折、太腿で踠く先輩の指が敏感で大切な部分に触れて怯みそうになってしまう。けれど、足を閉じる力と両手の力を強めて進ませない。先輩は不意に股間に迫り掛けた手の力を緩めて触れるのを諦めたように思わせてから一気に引いた。私の手を擦り抜けて自由になった其の手は、企みに気付く私の反応よりも素早い動きで無防備な私の胸を弄りに来る。

(んもう! この男は次から次と……)

 私は身を捩りながら、胸に宛がわれて揉み上げている手を強く引き剥がす。

(今夜の先輩は、いつもよりも強引に、私の身体を求めている!)

 何度もデートを重ねる内に、いつの間にか、先輩にスキンシップとセックスを迫られるのが当たり前のようになっていて、これまでは、その度に私が拒むと先輩は紳士的に引き下がっていた。そんな、私を大事にしてくれている先輩が私の願いを聞き入れてタバコを止めた時には、皆が憧れる先輩を独占している驕りで身体を許してしまうかも知れないと思っていた。だれど今は、いつも以上に強引で不意打ちの卑怯な遣り方にムカつく嫌悪感と、ベタ附く不快感で先輩を殴ってしまいそうだ。

 急に無理強いしていた先輩の力が失せた。押し付けていた唇と掴む腕の力が緩み、やがてゆっくりと離れていった。

「まだ、だめなの?」

 やっと諦めてくれた先輩が優しい声で訊いて来る。

(唇が、油と砂を擦り着けられたみたいにザラついて、キッショイ!)

「うん……。ダメ……」

(くっそぉ! これがファーストキスになっちゃったわけぇ? すっごく納得できないし、不愉快! ウザったくてキモイ……、キモイよぉ~)

 後悔先に立たず、でも先輩の前では、まだ、優しくて、か弱くて、大人しい、恥ずかしがりやの女の子を演じる。

(よくも、ファーストキスを奪ってくれたなぁ~。……絶対に許さない!)

 今は諦めてくれたけれど、いつ次の危機が迫るか分からない。

(キスだけで終わろうとしなかった先輩は、セックスまでじゃないと気が済まないんだ。このままだと、なし崩しにセックスさせられて、遣られ損の泣き寝入りになっちゃう!)

 このところ先輩はデートの度に迫って来る。その強引さに今は気持ちが退けて全力で抗う私だけど、いつしか妥協と諦めで私はバイオレンスでサディスチックなセックスを強いられてしまいそう。

 悍ましさに怯えて震える私の泣きながら叫ぶ顔が脳裏を過ぎるそれは、嫌がる私を無理遣り侵すレイプだ!

(……レイプなんて、されたりしたら、きっと、穢れた身体と荒んだ心は、ずっと癒されないよぉ~)

 先輩が求めているのは愛じゃなくて性の相手で、それは私でなくても、直ぐにセックスができるソコソコに可愛くて綺麗な女性なら、誰でもいいのだろう。

(でも私は、そんな女の子じゃないわよ)

 憧れていた格好良い先輩だったけれど、本性が分かりだした最近は、急速に魅力が薄れて来ている。 

 気持ちは冷めていても見栄えを気にする私は、ベイブリッジへ来る前に先輩と二人で手を繋いで大桟橋を歩いて来た。背が高く、ファッショナブルなスタイリストで顔立ちも良い先輩は、男性フッション雑誌の表紙を飾るモデルかと見間違うほど、外見的に百点満点だ。しかも性格は明るく、ときおり見せる謎めいた言葉や行動が冷たさと寂しさを感じさせて、薄れる気持ちに朱を挿した。

 そんな先輩と手を繋ぎいっしょに歩くのはビジュアル的に楽しいと思う。繁華街で、公園で、遊園地で、擦れ違う女性達が顔を向け、振り返り、格好良くて素敵に目立つ先輩に見惚れていた。

(そんなにモテる先輩が、なぜ私といっしょに歩くの?)

 辛い残暑の陽射しに耐えていたバス停で声を掛けられた時から、既に一年ほど私は先輩と交際している。先輩とドライブをしてショッピングや食事をするデートは楽しいけれど、行為は何処かが薄っぺらで軽く、心が全然満たされていない事に私は気付いていた。

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「今夜はディナーの後にベイブリッジを渡ろう。横浜港の夜景が綺麗だぞ」

 そう誘う先輩に私は言った。

「その前に、大桟橋を歩きたい」

 大桟橋に来たのは、これで三度目だ。桜が散った去年の春、その年の茹だるように熱い残暑の初秋、そして今年は真夏の今夜。二度目の残暑の大桟橋では上書きをしきれなかった。今も始めて来た春の大桟橋のメモリーを上書きに来ている。

 先輩と手を繋いで板張りの大桟橋をゆっくりと歩く。できるだけ、初めてここに来た去年の春のあの日を思い出して、暖かな陽射しを浴びて弾んだ気持ちで歩いていた道筋を先輩とトレースした。右側から登って先端まで行き、そして、鮮やかな白さにライトアップされたベイブリッジを見る。昼間の暑さが退けて吹き寄せる温い夜風が気持ち良い。

(でも、違う……)

 今度も、あの嬉しい暖かさを感じなくて、上書きは上手く行かない。

(せめて、嬉しくて弾む気持ちだけでも、春の日を越えてくれれば、すっきりリセットするのに……)

 あいつから寒々しい電話が掛かって来て、脅迫的なメールも送られて来たのが関わりの最後になった去年の晩秋の日、私は直ぐに電話帳と送受信履歴の全てから、あいつを削除して記憶も遥か遠くへ追い遣っている。だから、あの日の感動は希薄になっているはず……。そう、あいつとの過去はリセットして、無かった事にしたはずなのに、でも、そうならなくて、気持ちは少しも楽しめていなかった。

 しっぽりしたムードの夜の大桟橋は、あちらこちらで多くのアベックがソフトに愛を育んでいた。手を握り合わせ、愛を語り、肩を抱き、背に縋り、それから互いの身体を強く抱き締めて、キスをする。なのに、私の心はときめかず、心から楽しむ気分にも、キスをしたくなるような昂る気持ちにもなっていない。

 ここを歩く度に感動が希薄になって行き、虚しさの空洞だけが広がって行く。この板張りの丘のような桟橋を歩くのは、あの春の日に歩いて感じた気持ちを超える感動で満たされたいからだ。

 そうなれば新しい感動があいつを遠くに押し込んでくれて、少し離れて歩くあいつの気配を思い出したり、幻のような姿が浮かんだりしなくなると思う。それが嬉しい事なのか、後悔する事なのか、分からないけれど、今はそう望んでいる。

 お付き合いをしている憧れだった先輩と手を繋ぎ、ムード満点な夜の大桟橋をゆっくりと歩く。楽しいけれど、楽しさは上辺だけで、ちっとも私の中に沁みて来ない。

 まだまだ肌寒い春の休日、朝から大きなバイクの後ろに乗り、切り裂くような冷たい風を避けるのにあいつの腰へ腕を回し、ダボッとした軍用ジャケットの背中へしがみ付くように体を密着させて暖を取りながら、揺れ惑う迷走のままに連れて来られたのが、初めて来た横浜港大桟橋だった。

 あの時は大桟橋の先端で暖かい陽射しをスポットライトのように受け、爽やかな潮の香りを匂わせる暖かな風に髪を梳かれて、私は穏やかな幸せを感じた。

 それが、ここに来て先輩と歩く度に、あの日に感じた幸せは削がれて色褪せて行く。心の中の小さな丸い幸せの塊に、ポコッと何も無い穴が空いて拡がっていくような、別の鮮やかな色に塗り替えられるのじゃなくて、色褪せる分だけ空しさの穴が開くって感じがする。

 あの春の日と同じ感動さえも得られない。暖かい穏やかな夜風や肩に触れる憧れの先輩の温もりも、空いた穴を塞いではくれなくて、私の気持ちは満たされない。私は今回も上書きできそうになくて、あの春の日を塗り替えられないと思った。

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 先輩は握る力を緩めて繋いでいる手を静かに離す。そして、その手は私の肩に回されてグイッと私を抱き寄せる。先輩は顔を寄せて再びキスを迫って来た。

「だめ……」

(とてもキスをする気分になれないよ……。先輩、どうして私が何度もここに来るのか、察してくれないのよ!)

 今度も両手を先輩の胸に押し当てて強く拒んだ。

「まだ、だめなのか? もうそろそろ、そんな関係になってもいいだろう?」

 数えきれないくらいキスを断り躱している。いつも先輩は私の気持ちを読めていない。

(そんな関係って……)

 少し気不味い。その後は離した手を繋がずに先輩の先を歩き、冷房の利いた二階を通って一階の駐車場へ向かう。

 今日も春の大桟橋のトレースができなかった。今さっき歩いていた大桟橋での出来事が、無感覚な遠い記憶のような気がする。

 髪と服の乱れを直しシートの座りを正しながら、カラフルな夜の景色に視線を戻した。幾つものライトアップやイルミネーションの綺麗な光りの重なりが、アニメーションで見覚えの有る非現実的な異世界の街の色に、どこか似ている。夢と希望と危険に満ちた魅惑的な色彩だ。

 そんな記憶を重ねていると、見蕩れていた横浜港の夜景が急に色を失って、時間も、空間も、戻せないセピアカラーの想いの焦りが、今の私を不安にさせてしまう。

(なんで、こんな場所に私はいるのだろう? 私は何をしたいの?)

 上書きも出来ずに、今夜も、明日も、次のデートも、遣り過ごせるかも、躱せ続けれるのかも、無事でいられるのかも、全く分からないのに、身の危険を他人事のように感じている私は、投げ槍気味で操を捨ててしまいそうだ。

「やばい!」

 実感の乏しいブレっぱなしの自分を呪って落ち込む私は、ルームミラーを見ていた先輩の突然の声に釣られて、首を傾げてサイドミラーを覗き込むと、回転する赤色の鋭い輝きとアップにしたヘッドライトの強い光りが、サイドミラーの中で急速に近付いて来ていた。

 振り返って見ると、パトカーが真後ろに慎重に停まり、私達のようすを窺うように少しの間を置いてから警官が降りた。警官は警戒心全開と即応戦感が充分に漂う堂々とした態度で近付いて来る。

 先輩はセカンドバックから手際よく運転免許証を出し、下げた窓越しに覗き込む年配の警官に見せながら、問い掛けようとする警官の素振りを遮るように言った。

「すみません。彼女が急に気持ち悪くなっちゃって……」

 その言葉に急いで私は俯いて恥ずかしそうな仕種をする。

「気持ち悪いのは、治まりましたか?」

 私の顔を見て警官が掛けてくれた優しい声に、ほっとした思いで私は頷いた。

「ここは駐停車禁止区域だからね。まぁ、状況から見て今回は許すけれど、以後、気を付けて下さい」

 免許証を先輩に返しながら、そう言って年配の警官はパトカーへ戻って行った。

「ありがとうございます。すみませんでした」

 警官の後ろ姿へ申し訳なさそうな声で先輩は言ってから、私に向き直って舌を出した。

(この人、慣れている……。こんな場面を何気に熟すのが上手なんだ)

 でも頼りがいは感じられなくて、姑息さだけが強まった。

(油断ならない!)

「さぁ僕のマンションへ行こう。何もしないよ。部屋で冷たい物でも飲んで、ちょっとだけ休んでから帰ればいい。勿論、送るよ。それに部屋も見て欲しいしさ。それなら来てくれるだろう? では行くよ」

『ちょっとだけ休んでから……』軽い誘いの言葉が含みの在る声で聞こえ、煽られた警戒心が不安な私を萎縮させる。

 先輩のしつこい誘いと奪われたファーストキスへの喪失感と無念さから、渋々先輩の部屋への訪問に同意した。

    *

「何を飲む? いろいろ有るよ。お酒もね」

 先輩は自分の部屋のドアを開けながら私に訊く。

(……酒! やはり素直に帰さないつもりらしい……)

 私は少し後悔した。

 町田駅近くの高層マンションの最上階に先輩は住んでいる。自分の事は余り話さないけれど、この広い三LDKのマンションや高級スポーツカーや身に着ける物などから、先輩は裕福な開業医の息子なのだろう。以前もデートの帰りに誘われてマンションの前まで連れて来られたけれど、スポーツカーから降りるのを拒んで入っていなかった。

 あの時は警戒していたのに、今夜は先輩の部屋に入る……。

「サイダーか、スプライトは有りますか? それとトイレをお借りします」

 トイレで用を足さずに水道で唇を洗って拭う。さっき、初めてのキスは不意打ちにされた。人生初の大切にすべきだと思っていたイベントは、願いもムードも無い不快なものになった……。

 トイレから出てリビングを見ると、明るい色のフローリング床に毛脚の長い白いカーペットが敷かれて、その上にセンスの良い高そうなテーブルが置かれている。その前に座ると直ぐにリビングの一角に設えたキッチンから、待ち構えたように先輩が飲み物を持って来てくれた。

「はい、スプライト」

 先輩は氷入りのスプライトで満たされたグラスを渡してくれた。受け取った透明なグラスの底が渦を巻いている。氷の下のスプライトがゆっくりと回っていた。

 グラスの内側に付着した炭酸の小さな泡は、動かずにポツリポツリと離れて水面へ昇って行く。透明なスプライトに渦が見えるのを不思議に思い、そして疑いを抱いた。

(氷とスプライトだけなのに、なぜステアしているの?)

 先輩は、その場で私の様子をじっと観察するように見ている。

 小さな渦に白っぽい微細な粒が舞う。それが渦を視認させていた。目を凝らさないと分からないくらいの小さな粒は、渦の底に向って螺旋を描きながら沈殿して行く。それは氷の光沢と炭酸の泡でとても気付き難いけれど、氷の上にも降り積もっていて、明らかに微粒状の異物が混入されていた。

(これは、状況として睡眠導入剤か筋肉弛緩剤に間違いない。……事態は深刻だ)

 これまでの強引な振る舞いから先輩は、近々、力尽くで私の身体を求めて来ると思っていたけれど、まさか、こんな短絡的な強行手段に出るとは考えてもいなかった。私は今、クライシスゾーンの真っただ中にいる。

(ここは、アウェーだ!)

 先輩の卑劣な企みに気付いて躊躇う私は、チラッと先輩の様子を見てギクリとした。先輩の睨むように私を見続ける目と合ってしまった。疑惑が確信に変わり戸惑う私を気付かれまいとして、思わずニコッと微笑んでしまう。そんな私に気付いたようすも無く先輩はニカッと笑い返して来る。笑う口の両端は釣り上がり、目尻に皺が寄らない笑顔の眼光は明らかに企みを含んでいて、考えたくも無い悲しくて惨めな結末に至る現実が直ぐそこに有った。

 先輩に注視されたままにスプライトを飲むべきだろうか? きっとそれは、舐めるような一口では済まされない。先輩は強引にでも半分以上を飲ませようとするだろう。飲んだ後の結果は見えている。

 薬物で意識を朦朧にされて乱暴に犯されるくらいなら、身体を許して優しくされる方が良いのかも知れない。

(こんなのは嫌! 身体だけが目当ての愛の無いセックスなんて絶対、嫌だ。ああっ、初めてのセックスが薬で昏倒させられて、強姦される……。で、ヴァージン喪失だ……)

 今さらながら私は悔やんだ。凄く美形で容姿端麗な先輩のクールさと柔和さを伴った外見と、優しげな気配りに私は心を奪われて、先輩の愛の無さに気付けなかった。

 ただ、先輩はデートでの私の様子や話しを良く覚えていて、時間や約束事をスルーする事も無かったけれど、どこか裏が有りそうな不誠実っぽさや嘘っぽさを感じて、ずっと身体を許さなかったのが救いだった。

(だけど今、非常に危うくて守り切れない……)

 ここに至るまで私は先輩の上辺しか見ていない事に気付いて、同様に私の上辺しか見ていないと思って無碍にして来た多くの男子達と同じだと思った。

(飲めない! 飲むのは嫌! そうだ! 零そうか?)

 絶対、飲む訳にはいかない。でも零しても直ぐに先輩は新しいのを作って来て、無理遣り飲ませようとするだろう。そうなると、

(直ぐにでも逃げないと、……いや、戦わなければならないかも……)

 これは初めて体験する物理的な我が身の危機的脅威だった。そして、上手く逃走できても再び同じ状況になるのは時間の問題だ。ならば戦闘すべき状況なのだ。でも慎重にしないと互いに遺恨を残し先輩の報復を招いてしまう。故に最悪の民事や刑事の事件になってしまっても徹底的に攻撃するしかないのかも知れない。しかも、これはまだ、我が身に迫る深刻な危機へのアプローチにしか過ぎない。

 グラスから目を逸らし私はべランダの方を見て言った。どうしても反撃の、いや、脱出や説得のチャンスを作らなくてはならない。

「ここ、最上階よね! どんな景色が見えるの? 見てもいい?」

 立ち上がり掛ける私の腕を、先輩はガバッと身を乗り出して来て強く掴んだ。その私を睨みつける醜く歪んだ顔の口が何か言おうと動きかけた。

 腕を痛いほど強く掴む力と、迫り来る恐ろしげな先輩の顔に怯んでしまい、これから先輩の口から発せられようとしている、一生のトラウマになるかも知れない言葉に怯えた。

「先に飲め! 見るのは、飲・ん・で・からだ」

 何か得体の知れない微粒子を入れられた炭酸飲料を『飲め』と脅す声の低さに、私の背中と肩が小刻みにプルプルと震え、膝下が小さくガクガクと鳴った。

(こっ、怖い! ああっ、もう戦闘にならない……。抵抗なんてできないし……、無理よ)

 飲んでしまったらきっと、意識は朦朧として、ぐにゃぐにゃになった力が入らない私の身体は、先輩に好き勝手に触り放題に犯されて穢れてしまう。

(嫌よ! そんなのは絶対、厭! でも、いざとなったら全然ダメ、……私も、か弱い女の子なのね……)

 虚ろな意識の弛緩した身体の私は、初めてのセックスなのにロマンチックの欠片も無く、バイオレンスにぐちゃぐちゃに弄ばれる。萎縮する気持ちは、穢される瞬間が来ても、抗う意志と力を微力も出せないと私に思わせてしまう。

 今は少しでも、酷い言葉で罵られながら乱暴に扱われて痛くされないように、そして悲しみが小さいように祈るしかない……。

 客観的な言い訳を連ねて気持ちだけでも逃避させようとするくらいに、竦む私が諦め掛けて覚悟したその時、不意に先輩の携帯電話が着信のメロディーを奏でると、先輩は慌てたように掴んでいた私の手を離し、『早く飲め』と言い残して着信を受けながら急ぎ隣り部屋へ行った。

『今……、来ている……、直ぐ来い……』と声を潜めて話すのが聞こえて来た。抜け目の無い先輩は仲間を呼んでいる。

 先輩だけなら泣いて懇願し続ければ、最後までしないかも知れない。堅く拒み続ければ、この場は逃げれるかも知れない。隙を狙って窮鼠猫を噛むのチャンスになるかも知れない、などと考えていたけれど、仲間に来られたら逃れられる確率が極端に小さくなってしまう。状況は圧倒的に絶望的になって行き、もう、僅かでも救われそうにない!

 爪先、足裏、踵が床へ触れている感覚は無くて、上手く立っているのか分からない。ただ、裸足で良かったと、全く事態が好転しそうもない事を思う。ソックスやストッキングを履いていたら滑って転んでいただろうと、既に私の意識は逃げに向き掛けている。

 顔から血が退いて行くのを感じる。手足や指先の感覚が消えて身体が痺れたように重い……。震えを意識した背や脚は今も震えているのか分からない。ただ、噛み締めようとしていた奥歯がズレ動いて、力が入らないのだと知った。……急速に恐怖と畏縮が私を支配して行く。

 思いっ切り悲鳴を上げて叫び続けても、きっとこの部屋は防音の造りになっていて無駄だと思う。後は神に祈り……、最悪を回避するか、奇跡の発現を間の辺りにさせるしかない。

 この場の災厄を退けれるならば、スカボローフェアの古い歌詞のように強いハーブの名を連ねて悪魔の誘いを避けるより、無理難題を叶えて力を与えられたいと思う。悲しげでも、寂しげでもあるメロディーを思い出し始めると、悪魔との契約を拒む呪文のような歌詞が次々と浮かんで来て、私を客観的にさせて肌の感覚を戻し震えを少しづつ抑えてくれた。

 奥歯が噛み締まり、身体全体に力が戻って行く。落ち着いて行く気持ちは脳を冷静にさせ状況の把握と対処を急がせた。

(先輩だけでも抗えないのに、仲間に来られたらどうしよう。一人来る? 二人? もっとなの? ……輪分からない。益々、非常事態だ。危うし乙女の私……、まだバージンなのに……)

 今、先輩が電話で話している間に、スプライトを処分してしまわなければならない。

(今しかない!)

 私は急いで背凭れにしている大きなクッションの中へ、スプライトの殆どを流した。

(おっと、氷はそのままグラスの中にしてと……)

 さも飲み干しているようにグラスを傾けて口に当てる。残した氷に触れさせて唇を濡らし先輩の戻りを待つ。数秒もせずに戸の影から覗くように私のようす窺う先輩が見えた。

「ぷはーっ!」

 ワザとガラガラと氷の音を立てて、一気飲みをしたようにグラスをテーブルにドンと置いた。間髪を容れずに先輩が部屋に入ってきて、近くに有ったテッシュペーパーで口を拭う私の仕種と、空いたグラスを見て口元を歪ませた。

(さぁ、これからが大事だわ。乙女の一巻の終わりにならないように、眠くてしょうがない女の子を、上手く演じなくっちゃ!)

 覚悟を決めると怯えと震えは消えて無くなり、私は点けられたテレビを見るフリをして演技に入る。

 睡眠導入剤はその名の通り眠くなり、筋肉弛緩剤はボーッとだるくなって力が入らなくなると医療の本で読んだ事があった。どちらの薬も効いている状態は同じだと思う。

「どう? 飲んで少しは落ち着いたかな? 警戒しなくても、もう何もしないよ」

(よく言うわ。下心見え見えじゃないの! どうせ仲間を呼んでいるのでしょう。電話の声が聞こえていたよ)

「そんな……、警戒なんてしていない…… ですよ……、先輩…」

 少しボーっとしたように、途切れがちに話す。

(今すぐ部屋を飛び出して帰りたい。先輩の仲間が大勢来たらヤバイ!)

「部屋を綺麗にしているだろう。住み心地は良いし最上階で、周りに高い建物が無いから眺めも最高さ。それに防音完備だ」

 やはり、高額そうなマンションの各部屋は、壁、ドア、窓、床、天井の六面全てに遮音工法が施されていた。

 反応が鈍くなったように、少し間を開けて返事をする。

「うん……、せっ、先輩のお部屋、……整理されて…… いて、 すっきりしています……。きっ、綺麗…… 好きなんです…… ね…。センス…… も……、良いし」

 棒読みっぽく、後半はゆっくりと話す。眠そうでトロく話す演技をしながらも不安は脹らんで来る。

(なにが防音完備だ。それは先輩の都合でしょう)

『防音完備』が不安を煽る。抵抗されて騒がれても悲鳴や物音は隣近所には聞こえず、誰も助けに来てくれない。

「疲れたの?」

 眠そうな私の様子に、先輩は探りを入れてくる。話し掛けて来る先輩の口調から演技なのかと疑われていないと思う。

(演技は、それらしくなっているみたい)

「……ううん。でも、何だか…… だるくて……、力が入らない感じ……。疲れてるの…… かな?」

 急速に私のクライシスタイムが迫って来ていた。

「疲れたのなら、ゆっくり休んでゆけばいいよ。ソファかベッドで少し眠れば楽になるさ。なんなら泊まってゆけば」

(なに言ってんのよ。どう楽になるって言うの。眠らないし、泊まるはずないじゃない!)

 仲間が来るまで少しでも時間を稼ごうと、先輩は私を引き止めようとする。

「帰りたい、……です。帰ります。先輩……」

『ピロン、ピロン、ピロン』その時、室内にチャイムが鳴り響いて訪問者を知らせた。

 先輩は慌てて立ち上がり急いで部屋を出て行く。直ぐに玄関ドアを解錠する音がした。

(しっ、しまったあ! きっ、来た! 本当に来たぁ! どっ、どうしよう)

 ドタドタと慌ただしく数人の男達が部屋に入って来た。ヤバそうな危機が逃れられない危険に変わった。

(やっぱり、騙したな)

 一旦は覚悟を決めて冷静さを取り戻した気持ちが、再びパニクって来る。怯えて萎縮する私は身構えるようにバッグを抱き抱えて、男達に見えない向きから静かに中に手を入れた。指先が小刻みに震えて何に触れているのか分からない。助けを求める意識は、事故ったバスの中で私の前に立つあいつと、倒れ行くバイクから大声で私を逃がすあいつと、そして、カツ丼を食べているあいつを思い出していた。今にも体中がガクガクと震え出して来そう。

(私を助けて! 私を守って! お願い……)

 非力でか弱い女の子の私は力技で男性に敵うはずがない。遣って来た男達は三人で、既に敵になっている先輩を含めて相手は四人になった。全員、逞しい体付きで腕力が有りそうに見える。それに四人とも薄ら笑いを浮かべる表情や余裕の物腰は、少しの躊躇いも無く場慣れしていて、平気で女子を犯して輪姦できるのだろうと、いや、遣り捲くっていると思わせた。

「おっ、こいつは、なかなかカワイイじゃんか。おい、早くこいつの顔が、苦痛と恥じらいに歪めて、快感によがるのを見ようぜ」

 横に来た男が私を覗き込み、アダルトビデオかドメスティックバイオレンスムービーのセリフような卑猥な事を言って、私の前髪を払い上げようと手を伸ばして来る。それを、もう眠くて堪らないとフラつくフリで、ゆるりと体を傾けて避けた。

(早く! どうにかして逃げなければ……! ……逃げる? どこへ?)

 とにかく、咄嗟に脱兎の如く逃げて……、私を捕らえようとする男達の手を振り切って、玄関ドアへ駆け寄っても、ドアを解錠するのにもたついて忽ち男達に捕まってしまう。

(例え、部屋から出られても直ぐに追い付かれて、マンションの敷地内、ううん、きっと、建物からも脱出できない……)

 そして、逃げる術を失って捕らえられた私は、どんなに抗っても為す術も無く男達に犯され弄ばれてしまうんだ……。

 運良くドアから出れて悲鳴を上げながら大声で助けを求めれば、誰かが気付いて通報してくれるかも知れない。でも、追い着いた男達は再び私を先輩の部屋へ引き戻して、緊急通報で到着した警察が場所を特定して私を解放するまでに、目的の輪姦を済ませてしまい、訴えようとすれば後日、更に酷い事をされるだろう。

(ああっ、だめだ! 逃げ切れない……)

「……私……、もう…… 帰る…… わ。……帰りたい」

 演技を続けて眠くて仕方が無いようにしゃべる。男達を油断させておかなければならない。私はバックの中を弄りながら、足元がおぼつかない振りをして立ち上がろうとした。はっきりと震える指はバックの中を懸命に探している。

(あれは、どこに……)

 忘れていたけれど、まだバックの中に入れて有るはずの、今のクライシスゾーンから逃れて纏わりとしがらみまで断ち切れるパワーを、男達に気付かれないように私は、そっとバックの内底に指先を這わして探す。

(少しも抵抗できないまま、弄ばれるなんて、いっ、厭!)

 震えで感覚の鈍った指先は、触れる物が何かと認識するのに時間を掛けさせ、ブルブルする震えは掴み損ねを繰り返えさせた。探し物はバッグの中で割と大きい物なのに、どれなのか分からない。

 バックの中身を整理していない自分の怠惰さを呪うけれど、整理していたらバックの中から除いていたかも知れない。

(厭だ! こんなアウェーで輪姦され、バージンを失うなんて……)

「お姉さん、まだ帰れねぇよ」

 立とうとする私を押し戻しながら、男の一人が言う。私は押し倒されて、ぺたんと尻餅を搗くように座ってしまった。

(にっ、逃げちゃダメ! 戦うのよ)

 ついに指先がバックの底に有った一発逆転アイテムを探り当てた。それなのに震える指は、力加減を意識できないほど感覚が鈍り、上手く掴めているのか分らない。焦る思いは押し寄せる不安を切迫した恐怖に変える。

「なっ、なにを…… すっ……、する…… のよ……」

 トロそうな声を出しながら顔を少し上げ、眠くて瞼がくっ付きそうなフリの眼で彼らを見回した。私の前には半円状に先輩も入って四人が立ち並んでいて、電話で呼ばれて来た男達も先輩ほどの美形とは言えないけど、それなりにイケている容姿で遊ぶ相手に不自由していなさそうなのに、今にも私を弄ぼうとしている。

 男達を見回し終わってから、私はゆっくりと顔を俯き気味にした。

(もっ、もう…… だめ……、パニくりそう。でも怯えたら駄目!)

 竦んで泣き叫んだりしたら、きっと演技だと悟られてしまう。演技だと知られてしまうと警戒させるどころか、一気に襲い掛かって来るだろう。そうなると逃げるのは絶望的だ。

 攻撃は奇襲しかない。

(チャンスを狙うのよ)

「おい! こんな田舎娘に一年も掛かりやがって、どうして姦ってねぇんだよ」

 正面に仁王立ちになったスリムのジーパンの奴が言った。ワザと顔を上げずに反閉じにした瞼でトロそうにしていたから、そいつの太腿から上は見えない。立ち上がろうとした私を押し倒したのはこいつだ。こいつのスタンスは、少しでも私が逃げようとする素振りを見せたら、叩き倒そうと構えている。

「こいつは、そこら辺の軽いお嬢ちゃんじゃねぇんだよ。けっこうガードが堅くってさぁ、キスも、さっき無理遣りだぜ」

 左端の先輩が言い訳がましく愚痴る。こんな卑劣な奴を憧れの先輩だと思っていた自分に腹が立つ。ついさっきファーストキスを奪われてしまった。何度も拭っても、何度も洗っても、先輩のザラついた唇の感触とヤニの味は消えて行かない。

(くっそぉー!)

 不意打ちを食らった唇の蘇る不快感への憤りが、迫る来る自我を喪失するかも知れない程の、危険な極限状況でパニック寸前の私を落ち着かせていった。男達に弄ばれて嬲られる恐怖は抑えられ私を冷静にさせる。

(姦られて堪るか! 姦られる前に殺ってやる!)

 指の震えは止まった。スタンガンをしっかり握りながら私は反撃のチャンスを狙う。ふうっと、朝の高校通学のバスの中で私を守るように横へ立つ彼の気配を感じた気がした。

(お願い! もう、二度と『あいつ』って思わないから、私を助けて!)

「こんなふうに、早くここに連れて来て、さっさと姦っちまえば良かったんだよ。お前らしくもないな」

 右端の奴が私の足を軽く蹴りながら、いつもの普通に遣っている遊びのように言った。

(いったい私はこいつらの何人目の犠牲者になるのだろう…。許せない! 絶対、許せない!)

「俺のプライドだ。こんな田舎娘なんか、フツーに落としたかったのさ」

 私が簡単に姦り廻されるだけの、物欲しそうな女だと先輩は憎らしげな口調で言う。

「おーい、そんなこたぁ、どうでもいいから、早くいてこましちゃおうぜ」

 直ぐにでも非常にやばい状況になりそうだ。もう躊躇はできない。私はバッグを抱え、ゆっくりと右膝を立てた。

(おっ、落ち着くのよ、私! チャンスは一度切り……)

「おっと、おねえさん動くんじゃねぇよ。そのままにしていろ。今から飽きるまで、ずっと楽しませて貰うからよ」

 男達は、誰がどうするとか、順番がどうのとか言いながら携帯電話やセカンドバックを部屋の隅に投げ転がして、服を脱ぎ始めた。

「今日は俺の番からだ! おぅ、姉ちゃん、俺様のデカイので初っ端から、ヒィーヒィー泣くほど、喜ばして遣るからよ!」

 品の欠片も無い下品な言葉を聞かされて、私は諦めたかのように顎を落し項垂れる。

「んにゃ、だめだ、だめだ! おめぇの後は、ガバガバユルユルになっちまってよぉ、入ってんのも分かんなくなるから、最後に決まってんだろ!」

 酷い言い種で男達は私を姦る順番で揉めているのが頭の上から聞こえて来るけれど、私の目は瞼を擡げ、じっと男達の太腿を襲うタイミングを狙う。

「アッハッハハ。ちげぇねぇ、おまえは最後だからな」

 抗える術が無ければゾッとするような男達の笑い声だけど、掌に握る物の感触が、気持ちを落ち着かせて余裕を持たせてくれていた。

「おい、逃げれねぇよ、あんた。諦めな」

 諦めたように黙り込んで朦朧とする意識に動きも緩慢なフリをする私に、拒む気力を殺ぐ下品なダメ押しの言葉で反応を探ってくる。

 瞬きしながら虚ろに流していた視界が、今のセリフを正面に立つ品の無さそうな男が言うのと、更に動き続ける男の唇から、手本のような卑猥な声が放たれるのを見させてくれた。

「騒ぐと痛い目に合うだけだぜ。へへっ、騒がなくても裂けて、痛がっちゃうかも知んないけどよぉ」

(なんて、陳腐でB級テレビドラマ的なセリフなの。フツー的過ぎるよ)

 掴んだスタンガンのスイッチを静かにオンにする。通電を示す小さな赤いLEDが灯り、セーフティは解除された。電源になる二個の九ボルト電池は、毎週新品に交換して作動チェックをしている。

 私はそっと指をパワーボタンに掛けた。

(これが動かなかったら……、今、電撃が出なかったら……、私は朝までこいつらに嬲り弄ばれてしまう。それはきっと今晩だけで済まない。撮られた写真と動画が弱みになって、インターネットで個人情報まで公開するとか、プリントしてキャンパスや町中にバラ撒くとか、脅されて、この先も、ずっと何度も甚振り尽くされる……)

 私の緩慢な動きと、呂律が回らないしゃべりに男達は油断している。

 スプライトに入れた睡眠導入剤で、私の意識が朦朧としていると思い込んでいる男達を、上目で素早く見回す。服を脱いで部屋の隅に投げやる動作で男達全員の上半身が斜め後や横を向いていた。

(嬲られるのも、弄ばれるのも、甚振られるのも、弱みを握られるのも、脅されるのも、絶対に厭だ! 許してやらない!)

 指先に伝わる感触は、今、私が御願いする神様。きっと雷で私を救い出してくれると思う。

 空の彼方や社の奥に鎮座する神様じゃなくて、バックの中でしっかり握られている彼がくれたスタンガンだ!

(御願い! 動いて!)

 生唾を飲み下す音が私の中で重く響き、静かに大きく吸い込んだ空気が気道を通り肺を満たして行く。全身に送られる新たな酸素に奮い立たされた私の肩と腕がブルブルと痙攣して、ぶるんと震えた手の引き攣る指がパワーボタンを押した。

 バリバリバリッ !

(きゃっ! ……うっ、動いたぁ!)

 激しい放電でバックの中が青白い閃光で照らされる。ビクッと、何事かと男達の動きが止まり、私は決断した。

(今しか無い!)

 立てた右膝に力を入れ、パワーボタンを押し放電の青白いスパークと、けたたましい放電音を轟かせたままのスタンガンをバックから引き抜き、身を屈めて一番右側の男の太腿に、Gパンの上からスパークを押し付けた。

(いっけぇー!)

「ぐわっ!」

 気管が全開にされて一気に空気が出るような、人の声じゃない悲鳴を上げながら半裸の男は撥ね跳んだ。この男はズボンを脱ぎ掛けていて、膝にズボンを絡ませたまま床へ顔面から落ちた。僅かに髪の毛が焼ける臭いがする。スパークの熱が太腿の体毛と皮膚を軽い火傷を負わせた。

(ええーっ! すっ、すっごい威力じゃん! これ……)

 スタンガンの予想以上の威力に私は驚いた。大の男が撥ね飛ぶほどの凄い威力にビビったけれど、今はそれどころじゃない。

 左回りに四人の太腿を狙う。隣の男が異常な速さと姿勢で仰け反り倒れても、けたたましい放電音に竦んで事態を把握できないのか、足の動きを停めたままの二人目にスタンガンを押し付ける。

「がっ!」

 二人目も尻切れの悲鳴にならない音を叫んで転がった。

 脚に電撃を喰らわせるのは動きを封じる為だ。太腿への電撃の痛みで大抵の人は歩けなくなると、スタンガンを受け取る時に彼から知らされていた。より確実に動きを止めるには心臓に近い胸や背中と、脳に近い首筋や肩にスパークさせれば良いのだけど、今は体勢と距離と時間に余裕は無かった。

 スタンガンのスイッチを押しっぱなしで、夢中でスパークする先端を当てて行く。とにかく男達にダメージを与えて怯ませなければならない。二撃、三撃、そして止めの電撃を喰らわす為にも今、確実に四人全員に初撃をヒットさせなければならない。一人でも外すと反撃されてしまう。

(絶対、外せない!)

 鋭く大きな異音や衝撃を伴う突然の脅威や危機に、普通の人は刹那に対応できない。最初の二人は避ける間も無くスタンガンの電撃をもろに受けた。

 一瞬前まで姦る楽しみに興奮させてくれた女が、隠し持った武器を使い反撃して来た事態を、ようやく理解できた三人目は逃げようと動き、太腿を狙ったスタンガンは逸れた。だが立ち位置を変えようと回す軸足の脹脛に青白いスパークが触れて、後ろ蹴りに撥ね上がった足の反動で勢いよく顔面から床へ倒れ込んだ。

 四人目…… 左端の先輩はスパークを避けようと足を退いて危うく逃がしそうになった。狙った太腿を外した勢いで私はバランスを崩し壁際まで転がってしまう。その時、辛うじてスパークし続けるスタンガンが反対の脚の足首に触れて先輩を弾き飛ばした。

(奇襲は成功だ!)

 スタンガンの先端が人体に触れる感触を感じながら、視線は次の男の動きを捉える。私は無言で連続スパークするスタンガンを、判断がつく限り最少の動作と最短距離で男達に電撃を喰らわせていた。無言なのは声で私の方向や位置を知られるし、女性の大声や悲鳴は男をたじろがせれるけれど、逆に警戒心と慎重さを与えて抵抗や反撃を煽ってしまう。そして、初撃を四人全員にヒットさせた今も尚、無言なのは私の喚き声で男達の反応が加速して、より早い防御と私への攻撃に移らせると思うからだ。力技では、暴力的な男の前に女性は非力だ。

 壁際へ倒れたショックと痛みに慌てる無様さが、ここに至った自分を不憫に思わせて私は凄く腹が立って来た。今、逃げ去るより怒りに任せて四人を徹底的に痛めつけて遣りたい!

(もっと、もっと速く動け! 動いてよ、私の体!)

 私は跳ね起きて、まずダメージが軽い先輩と三人目を襲う。足元で脹脛を押さえて苦悶する三人目の背中にスタンガンを押し付けて悶絶させる。悲鳴を上げながら床にのた打ち回る先輩は私の動きに気付くと、身を捻りながらダメージを受けていない足を弱々しく振り回し、私を近付けさせまいと蹴り出した。動きの鈍い蹴りを難なくかわして爪先にスパークさせると、私を蹴ろうとした足はあらぬ方へ勢い良く開き床に落ちた。その隙に背中にも電撃を喰らわす。

 既にGパンを脱いで毛深い素足が剥き出しの奴もいた。体毛が焼けて焦げた臭いが鼻を衝く。必死で一瞬の仕業だった。男達は一様に悲鳴を上げて跳ね跳び、呻きながら床でのたうち回っている。

 私は更に、素早くスタンガンを押し付けて回る。痛みで蹲っているから抵抗はない。背中、脇腹、肩、腹、尻、どこでもいい手当たり次第、電撃を喰らわす。弾かれたように仰け反り、悲鳴を上げ転げ回った。私の気が済むまで屑野郎共に電撃を喰らわせてまわる。

 五度目の電撃では、子供の頃、いっしょに遊んでいた上級生の男子がブロック壁に投げつけた牛蛙みたいに、ビクビクと全身が痙攣するだけになった。こうなったら十分間程度は意識が飛んで動かないと思う。

 次に彼らの携帯電話を使えなくする。もっとヤバイ関係に連絡されて、脅され酷い目に合うのは敵わない。時間稼ぎに必要な処置だ。

 テーブルの上や男達のセカンドバックの中と脱ぎ散らかした服やジーパンのポケットから、携帯電話を集めてキッチンへ持って行き、電源がオンにされているのを確かめて裏蓋を外す。裏蓋を外せないタイプは外周部のマイクロコネクターを、手近に有った包丁の先を突き立てて防水できないように割ってしまう。棚の適当な鍋に最高温度にしたお湯を満たしながら、シンク脇に有った食塩の瓶の中身を全部ぶち込んで高濃度の塩入り熱湯にする。そして、屑野郎共の携帯電話をバッテリーパック付きの電源をオンにしたまま沈めて遣った。これで回路とICチップがオシャカになって、データは読み取れなくなるはず。

 食塩を探した時、銀色のパック入りの錠剤がシンクの脇に置かれているのに気が付いた。パックの何箇所か破られていて、楕円形をした薄青紫色の小さな錠剤が一つ転がっている。睡眠効果が高く精神安定剤に用いられるハルシオンだ。

 パックには平たくなった錠剤が幾つも有った。パックされたまま潰して粉にしたのだろう。私に飲まそうとしたスプライトへ入れたのも、これだ!

(ハルシオン入りのスプライト……、これを私に飲まそうとしたのか……。飲んでいたら、間違いなく姦られていたな。くっそぉー!)

 砕かれたハルシオンを入れたのが、ホットコーヒーやアイスコーヒーでなくて本当に良かったと思う。中途半端な破砕で微粒粉の大きさがムラになったのと、氷を入れたので温度が下がり短時間に融け切らなかった。それを無色透明のグラスとスプライトが目立たせて、私を警戒させ救ってくれた。

(ふん、これだけでは不十分よ)

 泡の出が少なくなった携帯電話を熱湯から取り出してバッテリーパックを外す。念の為、上辺の水だけ払ったバッテリーパックが置かれていた底面に、スタンガンを圧し付け連続スパークさせた。百万ボルトの高電圧や電磁波でシムカードやメモリーカードの中身が、完全に飛んでしまえば良いと思う。

 携帯電話にバッテリーパックを戻し、蓋をしてから部屋の隅に捨てるように転がす。

(証拠写真も、撮らなくちゃ)

 携帯電話のカメラで全体と一人一人の顔写真を撮る。スタンガンを押し付けて悶絶する男の頭を蹴って顔が見えるようにしてから撮った。顔写真を撮る時に二人が悪態を吐いて私に掴みかかろうとしたけれど、首筋と胸にスタンガンを押し付けて黙らせて遣った。卑劣な先輩は意識が回復していて、いきなりスタンガンを奪おうとした。でも、あっさりと電撃を喰らって先輩は、もんどり倒れてしまう。

(残念でした。先輩が掴んだところにも、電極板が有んのよ)

 反動で落としそうになったスタンガンを掴み直し、先輩に押し付ける。

(許せない!)

「この滓野郎!」

 滓野郎の先輩は悲鳴も上げず、全身を痙攣させて気絶した。一瞬目を見開いて驚いた顔が苦痛に歪み白目を剥いて失神したのが可笑しい。

(これ、おもしろい……)

「アハハハ、ふん! 先輩、今夜は顔が歪みっぱなしで、美男子が台無しよね」

 これ以上は過剰防衛かも知れないけれど、もう一度、屑野郎共にスタンガンを押し付けて回る。もうビクンと仰け反って呻くだけで誰も反撃して来ない。

 男達のセカンドバックや財布の中身を打ちまけて見付けた学生証や免許証も撮って遣る。何処の誰か知れば仕返しされそうな時の保険になるし、仕返しの報復もし易いでしょう。

 証拠と素性の写真は撮ったし、携帯電話の中身も破壊したし、滓先輩と屑野郎共は痛めつけた。それでも、私の気持ちは治まらない。この卑劣な屑野郎共をどうしてくれよう。ガス栓を全開にして行こうかと考えたけど止めた。ご近所を巻き込みそうだ。火を点けようかと思ったけれど、それも少し考えて止めた。同じ事になってしまう。

 私は血中に増大したアドレナリンで興奮し、とても戦闘的になっていた。部屋中をめちゃめちゃにしたい! 電撃をもっと喰らわせて痛めつけてやりたい! 屑野朗共を半殺しにして縛り上げてベランダから転げ落としてやろうか。最上階から投げ落としたら、まず助からないないだろう。でも、殺してしまえば仕返しを受ける心配も無くなるから、そうして遣りたいと思った。こいつらを世の中からいなくして遣りたい……。

 動機が完全に過剰防衛から殺人に変わっている。事件になって捕まっても、裁判で報復を怖れて気が動転したとか弁護されるから、情状酌量で刑は軽くなると思う。もしかすると執行猶予だけかも知れないし、もしか、もしかすると無罪かも。とまで考えたけれど止めた。

 男共は重くて持ち上げれないから無理! それに、もたついて苦労している内に、落とされるのに気付いて暴れてしまうから、やっぱり無理! と私は人殺しを思い留まった。

 屑野朗共をどうしてくれようかと眺めているうちに、急に興奮が治まって冷静さが戻って来る。

「さあ、こんな所に、長居は無用だわ」

 湿らしたハンカチでトイレのドアノブなど、私が触れたと思われるところの指紋を急いで抜き取った。

 台所のシンクに栓をして水道を開く。最高温度の熱湯にして全開にして出してやる。私の使ったコップをシンクに転がした。シンクは数分でいっぱいになり、熱湯は溢れて床に零れる。そして、床に流れた熱湯は直ぐに階下の天井から滲み出すから、一時間も経たない内に下の階の住人が怒鳴り込んで来るでしょう。熱湯だから天井のボードや壁紙が剥がれて損害賠償が大変だ!

(これで、失神していても助けて貰えるわね。その前に火傷して気が付くかも知んないけど。滓先輩……、これでお別れよ)

 後は逃げるだけ! 忘れ物をしていないことを確認してから、急いで滓先輩のマンションから離れた。

(さっさと表通りへ出て、タクシーで帰ろう)

 小走りに表道路へ出て、ツーブロック離れた先の十字路を曲がり、更に、そのブロックの向こう端の横断歩道を渡り終えてからタクシーを拾う。

(彼がくれたスタンガンで助かった……。今夜も彼が、守ってくれたんだ……)

 二十一世紀美術館へ行ったあの日のように、何事も無い普通なフリをして、思い詰めていない、不安も混ざらない、明るい顔で乗り込んだタクシーのリアシートに深く沈み込みながら、そんな気がした時に……、私は思い出した。

 通学のバスが事故に遭ったあの日、病院で彼が横たわるストレッチャーを押しながら、私は嬉しい気持ちで一杯だった。

(彼が私を守ってくれたのが、凄く嬉しかったんだ。楽しいんじゃなくて〝嬉しい〟だったの)

 あの時、私は目の前の彼をとても愛おしく思っていた。挟まれて身動きができなくて、潰れている脇腹はとても痛いはずなのに、それでも私を気遣う彼を……。

 小学六年生のあの春の日から私は、ずっと彼が気になっていた。

(あの春の日、私は声を掛けてくれた彼に、救われた気がしていたのかも知れない)

 コンプレックスだった四角い爪を指摘されてムカついたけれど、彼は四角い爪を『変だ』とは言わなかった。

(私の容姿を、誹謗中傷した酷いメールにも、四角い爪は書かれていなかったな)

 あの時から私は満開の桜の花を眺めているような麗らかな微睡みを、いつも彼に感じて癒され救われたいと思っていた。

 中学校では、廊下に展示された絵や彫刻を見て彼の才能に憧れた。無記名の告白メールの桜の文字に、彼からだったらどうしょうかと考えた。フォークダンスで触れた彼の暖かくてサラッとした手に、もっと触れていたくて握り返しそうになった。堂々として朗々と心に響く独唱を聞いて、身震いするほど深く感動して我を忘れてしまった。彼といっしょに下校する楽しげな女子達に妬みを感じて彼を責めた。などなど、そんな焦る気持ちと悔しい思いに戸惑う中学生の心揺れる日々だった。

 別々になった高校では、偶然に一度だけ彼が横に座って来たバスの中、唇にキスされたと思い込み、心はときめいていた……。

(彼がキスをしたと、今も疑っているけど…)

 そして今、ベイブリッジの不意打ちのキスじゃなくて、あの金石から帰るバスの中で唇に残った感じを、私は思い込みではなくて本当にファーストキスであって欲しいと願っている。

 何度も届くメールに仕方なく応援に行った弓道の試合で、彼の人気とファンの女の子の多さに苛ついて、ジェラシーストームを誘発寸前な自分に気付いた。いつも勝手に苛ついて彼を不快に思う私だったけれど、約束通りに大きな試合に勝って見舞いに来てくれた彼を誇りに思い、受け取った薔薇はブルーな気分の日々だった入院を色鮮やかな思い出にしてくれた。そして、私は数えるほどしかない彼との思い出に、晴れがましさを添えたくて明千寺に誘い招いた。立戸の浜で彼を見付けた時は駆けよりたいほど嬉しくて、彼を溺れさせたいくらい楽しくて本当に沈めてしまった。楽しさへの名残惜しさが、夜の穴水町の交差点で私に彼を見送らせていた。

 直向きな彼の、無言の態度と自己犠牲的な行動に感じた優しさと誠実さを、嬉しく思いながら修学した高校の三年間だった。

 彼から感じていた臭いは小学校六年生の春の日に匂って、私に穏やかな気持ちと心の安らぎを与えてくれた満開に咲いた桜の花と同じ想いがして、ずっと前から彼を好きになって来ている自分に気が付いていた。だけど、鈍くて保守的で捻くれている私は、その気持ちを認めたくない葛藤が疼いて素直になれなずに彼をジレンマの捌け口にしていた。

 そんな私は、彼の想いを何度も袖にして彼自体も無下にしてしまった。そして、相模大野の駅前で無計画に私を横浜港大桟橋へ連れて行く彼の鈍さと無神経さに腹が立って、もう、二度と会わないでおこうかと思うくらいに別れの切れ目を意識しても尚、気持ちは迷い彷徨っていた時、偶然に通り掛かった女子達の憧れの先輩がバス待ちをしていた私へ声を掛けてくれて、運命的な出会いを感じた私は誘われるままに付き合い始めてしまった。利発で明るくリードする先輩に、私は煩わしく感じていた彼を一方的な理不尽さで切り捨てた。ジレンマから開放されたい私の気持ちは、彼を追い詰めて酷いメールを送り付けている。それでも引き摺る彼への想いに、私は何度も上書きを試みてメモリーやフィーリングを消し去ろうとしていた。

 でも今は違う。私がいけなかった。今日、はっきりと私は気付いた。今なら解かる。理不尽な無慈悲さで私から断絶され、自暴自棄になる彼の気持ちが……。

(私は彼にだけ、誠意を示していなかったんだ)

 もう誤魔化さない。彼を想う気持ちは、苦しさと楽しさに不安と愛しさと焦りと安らぎが入り混じって、私は彼に恋をしている!

(私を優しく抱きしめて……。 ううん、違う。そうじゃなくて……、私を包み込んで…… 欲しい)

 部屋へ帰るなりシャワーを浴びて、埋もれるくらい泡立てたシャボンといっしょにベットリとした気持ち悪い汗を流した。それから、歯と口の中の隅々まで丁寧に先細の歯ブラシで磨いて洗い尽くした。浴室から出て綺麗に洗った身体に残る雫を拭き取り、机の隅に置かれていた彼が造ったミニチュアのお城を手に取って眺めながら思う。

 お城の形が『キープ』と言う国境や辺境の警備隊が駐屯する西洋の城塞だと、図書館で何気に見ていた歴史書で知った。私は髪を乾かしながら、その砦のような西洋城館に何本も翻る色鮮やかな旗を弄る。靡く旗が一本だけ失われて旗竿しかない。それは苛ついた私が彼の前で折った痕だ。

 私が乗って来てと願ったから彼は同じバスに乗って来た。私を守ってくれると思っていたから立ちはだかった彼に救くわれた。勝ってと望んだから彼は弓道試合で個人優勝をして薔薇をくれた。来て欲しいと知らせたから明千寺に彼は来て立戸の浜で話せた。

 滓先輩のマンションでも私は信じていた。助けてと願ったからバックの底で忘れられていたスタンガンは彼の代わりに激しくスパークして、しっかり私を守ってくれた。

 ついさっきの絶望的な状況を思い出したら再び指先が小さく震え出し、直ぐに手や肩も震え出すと足と背中が続いて、全身がガタガタと歯の根も合わないほど激しく震えた。

(……怖かった!)

 今頃になって、襲って来た怖さに震えが止まらない。

(何これ、怖いよ……、震えを止めて……。ねぇ、近くにいて私を助けて……)

 『パキッ』震えた指先に力が加わり、城館の屋根の上に靡く旗がまた一本、……折れた。

(ほんとに、すっごく恐かったんだからね)

 私は彼に素直になりたいと心から思う。

(私は、まだ間に合うだろうか?)

     *

 あれ以来、滓先輩から電話もメールも来ない。GPSサーチで居場所を探しても全然反応は無く、『探索に失敗しました』と、マップ表示もされない。

(まっ、携帯電話の中身は、塩入り熱湯と電撃で破壊したから、私の電話番号やメールアドレスは、もう分かんないよね)

 これで一方的にGPSサーチする私の違法行為は証拠隠滅されたけれど、滓先輩達を死傷させても構わないと思いながら徹底して痛めつけたので、てっきり障害で刑事事件になるかもと思っていた。

 なのに礼状を持った私服の人や、任意同行を促す制服の人達もいっこうに現れなかった。それでも、暫くは報復を恐れて部屋の出入りや外出の行き帰りのコースを毎回変えていたし、何度も途中で辺りに注意を払って尾行や張り込みや待ち伏せにも警戒した。

 クライシスディの翌日には両親へ御願いして警備会社と契約して貰った。玄関前の通路の監視に動く物だけを録画する超小型高解像度のCCDカメラを、室内にはドア側と窓側の監視をマンセンサーに連動させて、いずれも気付かれないように各種の防犯センサーと合わせて設置した。センサーに感知されるとリアルタイムで記録している画像を私の携帯電話へ送って来るようになっている。

 一週間ほど過ぎてキャンパスで滓先輩と屑野郎の仲間達を見掛けたけれど、私を見るや否やそそくさと遠巻きに逃げて行った。

(だいぶ、懲りたようね。差し当たって私は安全かな……?)

 報復が少し心配だったけど、実際、彼らは全く接触して来なかった。まっ、事がオープンにされて事件化されるのは、学生の身分と大学卒業後の社会的立場を彼ら側から考えると非常に分が悪いだろう。

(それでも、遣られたら、遣り返すだけだわ。次こそベランダから落としてあげるからね。きっと、その時は、輪姦されそうになった時以上にシリアスで、命懸けになるかも…… 知んない……)

 今はスタンガンの他に通販で購入した催涙スプレーと、カイザーナックルグリップの刃渡りの短いフォールディングナイフもバックに忍ばせている。催涙スプレーは、校舎の屋上で噴射しながらジッポーで火を点けて火炎放射ができないかテストしたけど、ビビるほど危険な炎の大きさに一度だけで二度目の放射は止めてしまった。

 スタンガンと催涙スプレーの両方が失敗した場合に備えて、最後の抵抗手段とするフォールディングナイフは、時々、低い姿勢と逆手握りの構えを部屋で練習している。ナイフを持つ右手を背後に隠して左の拳で鋭く牽制して、いきなりカイザーナックルで殴って逆手の刃で切り付けるつもり、相手の目を潰せるか、首を切り裂ける。……上手く行けばね。

     *

 彼が愛おしい。

(息が止まるほど、強く私を抱きしめて! 私を離さないで!)

 切なくて息をするのも苦しい。彼の私への想いもそうだったのだろう。私は、彼の私を求める強い気持ちが十分に理解できていなかった。恋は、こんなにも胸のときめきが苦しくて愛おしさに切なくなるなんて知らなかった!

 いつも、彼を想う気持ちを認めたくなくて暈したり、散らしたり、していたから、こんな気持ちになるだろうって分かっていたのに、束縛されるみたいな怖さで知ろうとしていなかった。

 彼は今でも……、私に恋をしてくれるだろうか?

(彼に逢いたい!)

 私が『もう来ないで』と言ったこの街に、何度も彼が来ている気がしていた。今は必ず彼に逢おうと私は思っている。モンスターバイクの重低音のサウンドが聞こえると、私は振り返って見る。

 最後に彼を見た……、彼とはこれっきりにしようと心に決めながら、見えなくなるまで見送っていた相模大野駅の周辺で、私は彼の乗る大型バイクを探した。

 重いエキゾーストサウンドを響かせて、私の前に不意に現れる気がして、キャンパスへ通う道筋や淵野辺の桜並木で、桜木町の駅でも、私の瞳は行く先々で彼を探しモンスターバイクのサウンドに聞き耳を立てる。そして、あれから幾度も来た大桟橋で彼の影を探した。

(絶対、彼は来ていて、私を探しているはずよ!)

 そう思って……、思い込んで私は彼の姿を探す。まだ間に合うと信じて……。

(互いが強く願えば、必ず逢えるのよ!)

 私は、あの春の初めて彼に声を掛けられた日から、ずっと、彼を意識し続けて来たのだから、再び巡り逢えると思う。

(でも、逢えても……、それから、どうするの?)

 自問する。ただ逢いたいだけ……、今なら相模大野の駅へ大型バイクに乗って私に会いに来ただけの彼の気持ちが解かる。

 謝るの? そして、もう一度、私を好きになってって御願いするつもり?

 まだ、彼も偶然の出逢いを求めて私を探しているだろうか?逢いたいと探していても、まだ、彼が私を好きでいてくれるとは限らない。彼も私を探しているとしても、それは、今の私を見て私にフラれた後の自分を肯定したいだけで逢いたいのかも知れない……。

 きっと、偶然に彼が私を見掛けても静かに見ているだけで出逢いを装わないと思う。それは、『やっぱりフラれて良かったな』とか、『あれは幸せへの分岐点だったな』とか、『巧く付き合えても破綻していたな』とか、『彼女のラストメールは新たな出逢いへの神のオラクルだったな』なんて、見た目でいいから幸せの差を確認して確証を得たいだけなんだろうな…… って思っただけで、自業自得の遣る瀬無い切なさに私の胸は苦しくなってしまう。

 東京に近いこの街は、何もかもがトレンディで眩しく見えて、私も眩しさの中で輝けると思った。スタイリッシュにスマートでイケメン、そしてリッチな彼氏。お付き合いはトレンディでゴージャスなドリーム……、と実の無い背伸びを目一杯に私はしていた。今はその全てが空虚で空々しくて嘘っぽい。

(私はバカだ……)

 

 ---つづく