遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

スタンガン(私 大学二年生 ) 桜の匂い 第九章 弐

 私は、ベイブリッジの真ん中に停めた先輩のスポーツカーの中から、観覧車の点滅するカラフルなイルミネーションに見蕩(みと)れていた。
(こんな場所(ところ)に、自動車(くるま)を停めてもいいの? でも、横浜港(よこはまこう)が綺麗(きれい)だわ!)
「あれはコスモワールドの観覧車だよ。以前、乗っただろう」
 先輩は、唇(くちびる)が頬(ほほ)に触(ふ)れるくらいに顔を近付けて言う。
 顔と体が反射的に避(さ)けようとするけれど、背や肩に先輩の胸が触れる。
 息が、タバコ臭(くさ)い!
 ハッカ入りのタバコは、特に嫌(いや)な臭(にお)いだ!
『タバコを止(や)めて』、『もう吸(す)わないで』と、何度も御願いしたのに一向(いっこう)に止めてくれない。
     *
 ミナトミライに隣接するコスモワールドは、去年の暮(く)れに赤レンガ倉庫へ行って、雑貨を買った帰りに寄って遊んだ。
 夕暮(ゆうぐ)れ色に染(そ)まる大気を裂(さ)いて、バンクしながら水中に突入するコースターや、夕焼け空が映(うつ)る紅(あか)い水面に、急角度で突っ込むウオータースライダーは、とても興奮して面白(おもしろ)かった。
(先輩は、私がちっとも怖(こわ)がらずに、はしゃいでいたから、詰(つ)まらなくて、少し、退(ひ)いていたんだろうなぁ)
 私から誘(さそ)って乗り込んだ観覧車は、灯(とも)り始めた色鮮(いろあざ)やかなイルミネーションが私達を妖(あや)しく彩(いろど)り、上り詰める頃には、ミナトミライの眩(まばゆ)い夜景に惑(まど)わされ、想いを寄せ合う二人のような良いムードになってしまった。
 ゴンドラが降り始めると、妖しく揺(ゆ)らぐ光りのムードで操(あやつ)られているかのように、先輩がキスを迫(せま)って来たけれど、それを、『高さに酔(よ)って、気持ちが悪い』と言って、躱(かわ)していた。
 私はまだ、先輩に心を許(ゆる)す事ができずにいる。
(先輩、ムードは良かったけれど、まだ、其処までの気分になれないの。それに、タバコの臭いは嫌(きら)いだし……。先輩の事は、好きだけどね。ごめんなさい)
 何度嗅(か)いでもタバコの臭いは好きになれない。
 デートを重(かさ)ねているけど毎回、タバコ臭い先輩のスポーツカーに乗り込むには、自分に掛ける魔法と、タバコと先輩へ呪(のろ)い唱(とな)える呪文が必要だった。
 タバコには、色気なんて全然感じない。
 紙巻なんか、貧乏臭いし、レトロなキセルも、押入れの黴(かび)みたいなイメージがする。
 吹かすタバコより、燻(くゆ)らす葉巻はリッチな感じだけど、いつまでも纏(まと)わり付く、嫌な臭いに吐き気がするわ。
 タバコを吸う人は、神経質で精神的に弱い人だと思う。
 ナイーブで繊細(せんさい)だと、自意識する喫煙者もいるけれど、冗談じゃない!
 止めてと言っても、全く止める気が無い。
 ちっとも、寛容(かんよう)でなくて頑固(がんこ)だ。
 優(やさ)しい見掛けでも、自己中心で思い遣(や)りや気遣(きづか)いが足りない。
 『本当に君しかいない』って、心から私を好きで愛してくれるのなら、私が嫌がる事はしないでくれるはず。
 なのに、止めないでしているのは、愛と感受性が薄いんじゃないかと疑(うたが)ってしまう。
 だから、……私は、先輩に愛されてはいない……。
 まだ、良く判らない先輩は、私の事よりも、自分を中心に物事(ものごと)を考えて動く人だと、薄(う)っすらと分り始めていた。
 私とのデートも、何か別の目的のついでみたいな感じだ。
 デート中でも、頻繁(ひんぱん)に携帯電話へ着信が有って、その都度(つど)、先輩は電話か、メールをしに私から離(はな)れて行き、決して、私の間近で話そうとはしない。
 軽くて、胡散臭(うさんくさ)い……、良く言えば、明るくて秘密めいているのだろうけれど、信用ができない。
 放置プレイっぽいデートは、クールな性格のようでも有るけれど、心根(こころね)は冷酷だと思う。
 付き合い始めて間もない頃、先輩へ送信したメールに、ネットの海外サイトでゲットしたGPSサーチウイルスを忍(しの)ばせて遣った。
 ウイルスクリーニングをしても、簡単には検知できず、除去も難(むずか)しいアプリだ。
 クリーニングの検地では、アンノンウンと表示されるけれど、ファイルネームを見ただけじゃ、中身がGPSサーチと分からない。
 サーチングやサーチャーで知られない、メッチャ違法な優(すぐ)れものだ。
 時々、内緒(ないしょ)でチェックする先輩の所在と時間帯から、私以外にも、複数の女友達がいそうだと気付いた。
 そんな様子だから、未(いま)だに、名前で呼(よ)ばずに先輩と言っている。そしてまだ、キスを許す気にはなれない。
 イルミネーションが瞬(またた)く観覧車の左に、ライトアップされた二つの赤レンガ倉庫が見える。その、少し左手前に巨大生物の臥(ふ)せている、暗い影みたいな大桟橋(おおさんばし)が在った。
 散策やデートする人達の足元(あしもと)を等間隔に並んで照(て)らす、淡(あわ)く青白(あおじろ)い光の細い照明が哀愁(あいしゅう)を誘って、私を冷(つめ)たくて寂(さび)しい気持ちにさせた。
(……大桟橋、……か……)
 あの春の陽(ひ)に照らされた大桟橋の先端を思い出し、ワザと、はしゃいでいた気持ちが萎(な)えてしまう。
 私を凄く好きになってくれた彼に、私は馴染めずに、最期には、好きを受け入れる事を強く拒んで、あっさりと、酷い仕打ちのような切り捨てにした。
 逆恨みされても仕方が無い縁切りに、彼がアベンジャーのストーカーになっているかも知れないと、気持ちの何処かに小さな不安で、まだ、彼が残っている。
 今も、大型バイクの乗る彼がブリッジの橋に停まり、私達の様子を窺(うかが)っているかもと、霧(きり)の向こうの見えない気配(けはい)のような気がしていた。
(! ……ん?)
 耳許(みみもと)で、小さく呼ばれた気がして、振(ふ)り向いた。
「なに? せんぱ…… うぐっ! ううっ……、いっ、厭(いや)!」
 振り向きざまに、先輩が唇を押し付けて来た。
(……キスをされた……)
 頬にタバコ臭い息が直接流れ、私は、ゾッとして反射的に顔を顰(しか)めて、先輩の唇を離そうと身を捩(よじ)って、藻掻(もが)こうとするけれど、強い力で、後ろから私の頭を逸(そ)らせないように掴(つか)み、更(さら)に強く、ヤニ臭いザラついた唇を強引に密着させてくる。
(いきなり、何するのよ! きっ、気持ち悪い…)
 押し付けた先輩の口から、舌先が、私の閉じた唇を抉(こ)じ開けようとしてくる。
先輩の唾液にヤニの味がした。
先輩の手は、ストッキングに包(つつ)まれた太腿(ふともも)に触れ、撫(な)でながら股間に向けて動いた。
(うっ、ミニスカートを、……穿(は)いてくるんじゃ、なっ、なかったぁ……)
 唇を固く結(むす)んで、舌の侵入を拒(こば)みながら、大切な処(ところ)へ迫ろうとする手を両手で強く掴むと、動かせないように足を強く閉じて挟(はさ)んだ。
(あっ、あぅ!)
 それでも、時折(ときおり)、太腿の間で踠(もが)く先輩の指が、敏感で大切な部分に触れて、怯(ひる)みそうになってしまう。けれど、足を閉じる力と両手の力を強めて、それ以上は進ませない。
 先輩は不意に、股間に迫り掛けた手の力を緩(ゆる)めて、触れるのを諦(あきら)めたように思わせてから、一気に引いた。
 私の手を擦(す)り抜(ぬ)けて、自由になった其の手は、企みに気付く、私の反応よりも素早(すばや)い動きで、無防備な私の胸を弄(まさぐ)りに来る。
(んもう! この男は、次から次と……)
 私は身を捩りながら、胸に宛(あて)がわれて揉(も)み上げている、先輩の手を強く引き剥(は)がす。
(今夜の先輩は、いつもよりも、強引に、私の身体(からだ)を求めている!)
 何度も、デートを重ねる内に、いつの間にか、先輩にスキンシップとセックスを迫られるのが当たり前のようになっていて、これまでは、その度(たび)に、私が拒むと先輩は紳士的に引き下がっていた。
 そんな、私を大事にしてくれている先輩が、私の願いを聞き入れてタバコを止めた時には、皆(みんな)が憧れる先輩を独占している驕(おご)りで、身体を許してしまうかも知れないと思っていた。
 だけど今は、いつも以上に強引で不意打ちの卑怯(ひきょう)な遣り方に、ムカつく嫌悪感と、ベタ附く不快感で、先輩を殴(なぐ)ってしまいそうだ。
 急に、無理強(むりじ)いしていた先輩の力が失(う)せた。
 押し付けていた唇と掴む腕の力が緩み、やがて、ゆっくりと離れていった。
「まだ、だめなの?」
 やっと、諦めてくれた先輩が、優しい声で訊いて来る。
(唇が、油と砂を擦(こす)り着けられたみたいに、ザラついて、キッショイ!)
「うん……。ダメ……」
(くっそぉ! これが、ファーストキスになっちゃったわけぇ? すっごく納得できないし、不愉快! ウザったくてキモイ……、キモイよぉ~)
 後悔先に立たず、でも、先輩の前では、まだ、優しくて、か弱くて、大人しい、恥ずかしがりやの女の子を演じる。
(よくも、ファーストキスを奪(うば)ってくれたなぁ~。……絶対に許さない!)
 今は、諦めてくれたけれど、いつ次の危機が迫るか分からない!
(キスだけで終わろうとしなかった先輩は、セックスまでじゃないと、気が済(す)まないんだ。このままだと、なし崩(くず)しに、セックスさせられて、遣られ損(ぞん)の泣き寝入りになっちゃう!)
 このところ、先輩はデートの度に迫って来る。
 其の強引さに、今は気持ちが退けて全力で抗う私だけど、いつしか、妥協と諦めで、私は、バイオレンスでサディスチックなセックスを強いられてしまいそう。
 厭(いや)らしい悍(おぞ)ましさに怯(おび)えて震える私の脳裏に過(よ)ぎる、泣きながら叫ぶ其の顔は、無理遣り侵すレイプに抗(あらが)う私だった!
(……レイプなんて、されたりしたら……、きっと、穢(けが)れた身体と荒(すさ)んだ心は……、ずっと、癒(いや)されないままだよぉ~)
 先輩が求めているのは、愛じゃなくて性の相手で、それは、私でなくても、直(す)ぐにセックスができる、ソコソコに可愛(かわい)くて綺麗な女性なら、誰(だれ)でもよいのだろう。
(でも私は、そんな女の子じゃないわよ)
 憧れていた格好良い先輩だったけれど、本性が分かりだした最近は、急速に魅力が薄れて来ている。 
 気持ちは冷(さ)めていても、見栄(みば)えを気にする私は、ベイブリッジへ来る前に先輩と二人で手を繋ぎながら大桟橋を歩いて来た。
 背が高く、ファッショナブルなスタイリストで顔立ちも良い先輩は、男性フッション雑誌の表紙を飾(かざ)るモデルかと見間違うほど、外見的センスは百点満点だ。
 しかも、性格は明るく、時折り見せる謎(なぞ)めいた言葉や行動が冷たさと寂しさを感じさせて、薄れる気持ちに朱(しゅ)を挿(さ)して構ってあげたいと思わせてくれる。
 そんな先輩と手を繋ぎ、いっしょに歩くのはビジュアル的に楽しいと思う。
 繁華街で、公園で、遊園地で、擦れ違う女性達が顔を向け、振り返り、格好が良くて素敵に目立つ先輩に見惚(みほ)れていた。
(そんなに、モテる先輩が、なぜ、私といっしょに歩くの?)
 辛い残暑の陽射しに耐えていたバス停で声を掛けられた時から、既に一年ほど、私は先輩と交際している。
 先輩とドライブをしてショッピングや食事をするデートは楽しいけれど、行為は何処(どこ)か、薄っぺらで軽く、心が全然、満たされていない事に私は気付いていた。
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「今夜は、ディナーの後にベイブリッジを渡ろう。横浜港の夜景が綺麗だぞ」
 そう誘う先輩に、私は言った。
「其の前に、大桟橋を歩きたい」
 大桟橋に来たのは、これで三度目だ。
 桜が散った去年の春、その年の茹(ゆ)だるように熱い残暑の初秋、そして、今年は真夏の今夜。
 二度目の残暑の大桟橋では、上書(うわが)きをしきれなかった。
 今も始めて来た、春の大桟橋のメモリーを上書きに来ている。
 先輩と手を繋いで、板張りの大桟橋をゆっくりと歩く。
 できるだけ、初めて此処に来た去年の春のあの日を思い出して、暖(あたた)かな陽射(ひざ)しを浴びて弾(はず)んだ気持ちで歩いていた道筋を先輩とトレースした。
 右側から登って先端まで行き、そして、鮮やかな白さにライトアップされたベイブリッジを見る。
 昼間の暑さが退けて、吹き寄せる温い夜風が気持ち良い。
(でも、違う……)
 今度も、あの嬉しい暖かさを感じなくて、上書きは上手(うま)く行っていない。
(せめて、嬉しくて弾む気持ちだけでも、春の日を越えてくれれば、すっきりリセットするのに……)
 あいつから寒々(さむざむ)しい電話が掛かって来て、脅迫的なメールも送られて来たのが関(かか)わりの最後になった去年の晩秋の日、私は直ぐに電話帳と送受信履歴の全てから、あいつを削除して記憶も遥(はる)か遠くへ追い遣っている。
 だから、あの日の感動は希薄(きはく)になっているはず……。
(そうよ! あいつとの過去はリセットして、無かった事にしたはずなのよ!)
 でも、そうならなくて、気持ちは少しも楽しめていなかった。
 しっぽりしたムードの夜の大桟橋は、あちらこちらで多くのアベックがソフトに愛を育んでいた。
 手を握り合わせ、愛を語(かた)り、肩を抱き、背や腕に縋(すが)り、それから互いの身体を強く抱き締めて、キスをする。
 なのに、私の心はときめかず、心から楽しむ気分にも、キスをしたくなるような昂(たかぶ)る気持ちにもなっていない。
 此処を歩く度に感動が希薄になって行き、虚(むな)しさの空洞だけが広がって行く。
 この板張りの丘のような桟橋を歩くのは、あの春の日に歩いて感じた気持ちを超(こ)える感動で満たされたいからだ。
 そうなれば、新しい感動が、あいつを遠くに押し込んでくれて、少し離れて歩くあいつの気配を思い出したり、幻(まぼろし)のような姿が浮かんだりしなくなると思う。
 それが嬉しい事なのか、後悔する事なのか、分からないけれど、今は、そう望んでいる。
 お付き合いをしている憧れだった先輩と手を繋ぎ、ゆっくりとムード満点な夜の大桟橋を歩く。
 楽しいけれど、楽しさは上辺だけで、ちっとも、私の中に沁(し)みて来ない。
 まだまだ肌寒い春の休日、朝から大きなバイクの後ろに乗り、切り裂(さ)くような冷たい風を避けるのにあいつの腰へ腕を回し、しがみ付くように、ダボッとした軍用ジャケットの背中へ体を密着させて暖(だん)を取りながら、揺れ惑う迷走のままに連れて来られたのが、初めて来た横浜港大桟橋だった。
 あの時は、大桟橋の先端で暖かい陽射しをスポットライトのように受け、爽やかな潮(しお)の香りを匂わせる暖かな風に髪を梳(す)かれて、私は穏やかな幸せを感じていた。
 それが、此処に来て先輩と歩く度(たび)に、あの日に感じた幸せは削(そ)がれて色褪(いろあ)せて行く。
 心の中の小さな丸い幸せの塊(かたまり)に、ポコッと何にも無い穴が空(あ)いて拡がっていくような、別の鮮やかな色に塗り替えられるのじゃなくて、色褪せる分だけ空(むな)しさの穴が開くって感じがする。
 あの春の日と同じ感動さえも得られない。
 暖かい穏やかな夜風や肩に触れる憧れの先輩の温(ぬく)もりも、空いた穴を塞(ふさ)いではくれなくて、私の気持ちは満たされない。
 私は今回も上書きできそうになくて、あの春の日を塗り替えられないと思う。
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 先輩は、握る力を緩めて繋いでいる手を静かに離す。そして、その手は私の肩に回されて、グイッと私を抱き寄せる。
 先輩は顔を寄せて、再びキスを迫って来た。
「だめ……」
(とても、キスをする気分になれないよ……。先輩、どうして私が何度もここに来るのか、察(さっ)してくれないのよ!)
 それは、言葉にして言わなければ伝わらない事だけれど、弱味と思われて誘いや挑発に使われるのは嫌だから、私は先輩に話さない。
 今度も、両手を先輩の胸に押し当てて強く拒んだ。
「まだ、だめなのか? もうそろそろ、そんな関係になってもいいだろう?」
 数えきれないくらい、キスを断り躱している。
 いつも、先輩は私の気持ちを読めていない。
(そんな関係って……)
 少し気不味(きまず)い。
 その後は、離した手を繋がずに先輩の先を歩き、冷房の利(き)いた二階を通って一階の駐車場へ向かう。
 今日も、春の大桟橋のトレースができなかった。
 今さっき、歩いていた大桟橋での出来事が、無感覚な遠い記憶のような気がする。
 髪と服の乱(みだ)れを直(なお)し、シートの座りを正(ただ)しながら、カラフルな夜の景色に視線を戻した。
 幾つものライトアップやイルミネーションの綺麗な光りの重なりが、アニメーションで見覚えの有る非現実的な異世界の街の色に、何処か似ている。
 夢と、希望と、危険に満ちた魅惑的な色彩だ。
 そんな記憶を重ねていると、見蕩れていた横浜港の夜景が急に色を失って、時間も、空間も、戻せないセピアカラーの想いの焦りが、今の私を不安にさせてしまう。
(なんで、こんな場所に私はいるのだろう? 私は何をしたいの?)
 上書きも出来ずに、今夜も、明日も、次のデートも、遣り過ごせるのかも、躱せ続けられるのかも、無事でいられるのかも、全く分からないのに、この身の危険を他人事のように感じている私は、投げ槍(やり)気味(ぎみ)で操(みさお)を捨ててしまいそうだ。
「やばい!」
 実感の乏(とぼ)しいブレっぱなしの自分を呪って落ち込む私は、ルームミラーを見ていた先輩の突然の声に釣られて、首を傾(かし)げてサイドミラーを覗(のぞ)き込むと、回転する赤色の鋭(するど)い輝きとアップにしたヘッドライトの強い光りが、サイドミラーの中で急速に近付いて来ていた。
 振り返って見ると、パトカーが真後ろに慎重に停まり、私達のようすを窺(うかが)うように少しの間を置いてから警官が降りた。
 警官は、警戒心全開と即応戦感が充分に漂(ただよ)う堂々とした態度で近付いて来る。
 先輩は、セカンドバックから手際よく運転免許証を出し、下げた窓越しに覗き込む年配の警官に見せながら、問い掛けようとする警官の素振りを遮(さえぎ)るように言った。
「すみません。彼女が、急に気持ち悪くなっちゃって……」
 その言葉に、急いで私は俯(うつむ)いて恥ずかしそうな仕種(しぐさ)をする。
「気持ち悪いのは、治(おさ)まりましたか?」
 私の顔を見て、警官が掛けてくれた優しい声に、ほっとした思いで私は頷(うなず)いた。
「此処は、駐停車禁止区域だからね。まぁ、状況から見て、今回は許すけれど、以後、気を付けて下さい」
 免許証を先輩に返しながら、そう言って、年配の警官はパトカーへ戻って行った。
「ありがとうございます。すみませんでした」
 警官の後ろ姿へ、申し訳なさそうな声で先輩は言ってから、私に向き直って舌を出した。
(この人、慣(な)れている……。こんな場面を、何気に熟(こな)すのが上手(じょうず)なんだ)
 でも、頼(たよ)りがいは感じられなくて、姑息(こそく)さだけが強まった。
(油断ならない!)
「さぁ、僕のマンションへ行こう。何もしないよ。部屋で冷たい物でも飲んで、ちょっとだけ休んでから帰ればいい。勿論(もちろん)、送るよ。それに部屋も見て欲しいしさ。それなら来てくれるだろう? では行くよ」
『ちょっとだけ休んでから……』、軽い誘いの言葉が含(ふく)みの在る声で聞こえ、煽(あお)られた警戒心が不安な私を萎縮(いしゅく)させる。
 先輩のしつこい誘いと、奪われたファーストキスへの喪失感(そうしつかん)と無念さから、渋々(しぶしぶ)、先輩の部屋への訪問に同意した。
    *
「何を飲む? いろいろ有るよ。お酒もね」
 先輩は、自分の部屋のドアを開けながら、私に訊(き)く。
(……酒! やはり、素直に帰さないつもりらしい……)
 私は、少し後悔した。
 町田駅近くの高層マンションの最上階に、先輩は住んでいる。
 自分の事は余り話さないけれど、この広い三LDKのマンションや高級スポーツカーや身に着ける物などから、先輩は、裕福な開業医の息子なのだろう。
 以前もデートの帰りに誘われて、マンションの前まで連れて来られたけれど、スポーツカーから降りるのを拒んで入っていなかった。
 あの時は、警戒していたのに、今夜は、避けていた先輩の部屋に入る……。
「サイダーか、スプライトは、有りますか? それと、トイレをお借りします」
 トイレで用を足(た)さずに、水道で唇を洗って拭(ぬぐ)う。
 さっき、初めてのキスは不意打ちにされた。
 人生初の大切にすべきだと思っていたイベントは、願いもムードも無い不快なものになった……。
 トイレから出てリビングを見ると、明るい色のフローリング床に毛脚(けあし)の長い白いカーペットが敷(し)かれて、その上にセンスの良い高そうなテーブルが置かれている。
 その前に座ると、直ぐにリビングの一角に設(しつら)えたキッチンから、待ち構(かま)えたように先輩が飲み物を持って来てくれた。
「はい、スプライト」
 先輩は、氷入りのスプライトで満たされたグラスを渡してくれた。
 身の危険を警戒する私は、受け取った透明なグラスの底が渦(うず)を巻いているのに気が付いた。
 氷の下のスプライトが、ゆっくりと回っていた。
 グラスの内側に付着した炭酸の小さな泡は、動かずにポツリポツリと離れて水面へ昇(のぼ)って行く。
 透明なスプライトに渦が見えるのを不思議(ふしぎ)に思い、そして疑(うたが)いを抱いた。
(氷とスプライトだけなのに、なぜ、ステアしているの?)
 先輩は其の場で、じっと観察するように私の様子を見ている。
 小さな渦に白っぽい微細な粒が舞う。
 それが、渦を視認させていた。
 目を凝(こ)らさないと分からないくらいの小さな粒は、渦の底に向って螺旋(らせん)を描きながら沈殿(ちんでん)して行く。
 それは氷の光沢と炭酸の泡で、とても気付き難いけれど、氷の上にも降り積もっていて、明らかに微粒状の異物が混入されている。
(これは、状況として睡眠導入剤か筋肉弛緩剤(きんにくしかんざい)に間違いない。……事態は深刻(しんこく)になって来た……)
 これまでの強引な振る舞いから先輩は、近々、力尽(ちからづ)くで私の身体を求めて来ると思っていたけれど、まさか、こんな短絡的な強行手段に出るとは考えてもいなかった。
 私は今、クライシスゾーンの真っただ中にいる。
(ここは、アウェーだ!)
 先輩の卑劣(ひれつ)な企(たくら)みに気付いて躊躇(ためら)う私は、チラッと先輩の様子を見てギクリとした。
 先輩の睨(にら)むように私を見続ける目と合ってしまった。
 疑惑が確信に変わり、戸惑(とまど)う私を気付かれまいとして、思わずニコッと微笑(ほほえ)んでしまう。
 そんな私に気付いた様子も無く、先輩はニカッと笑い返して来る。
 笑う口の両端は釣り上がり、目尻(めじり)に皺(しわ)が寄らない笑顔の眼光は明らかに企みを含んでいて、考えたくも無い、悲しくて惨(みじ)めな結末に至る現実が、直ぐ其処に有った。
 先輩に注視されたままにスプライトを飲むべきだろうか? きっとそれは、舐(な)めるような一口では済まされない。
 先輩は強引にでも、半分以上を飲ませようとするだろう。
 飲んだ後の結果は見えている。
 薬物で意識を朦朧(もうろう)にされて乱暴に犯(おか)されるくらいなら、……自ら身体を許して、優しくされる方が良いのかも知れない……。
(こんなのは嫌(いや)! 身体だけが目当ての愛の無いセックスなんて絶対に、嫌だ! ああっ、初めてのセックスが薬で昏倒(こんとう)させられて、強姦(ごうかん)される……。なんて酷い、ヴァージンの喪失なの……)
 私は悔(く)やんだ。
 凄く美形で容姿端麗(ようしたんれい)な先輩のクールさと、柔和(にゅうわ)さを伴(ともな)った外見と、優しげな気配りに、私は心を奪われて、先輩の愛の無さに気付けなかった。
 ただ、先輩はデートでの私の様子や話しを良く覚えていて、時間や約束事をスルーする事も無かったけれど、何処か裏が有りそうな不誠実っぽさや嘘っぽさを感じて、ずっと、身体を許さなかったのが、 今更ながら救いに思える。
(だけど今、非常に危(あや)うくて、守り切れない……)
 此処に至るまで、私は、先輩の上辺(うわべ)しか見ていない事に気付いて、同様に先輩は、私の上辺も見ていなくて、私を弄ぶ餌食としか思っていない事に気付けなかった。
(この事態は、天秤(てんびん)に掛けた時点で、自分が招いていた結果だ……! 薄々は予想できていたクセに……)
 先輩は、無碍(むげ)にしてしまった彼とは大違いで、私は、浅はかな自分の愚かしさを呪う。
(飲めない! 飲むのは嫌! そうだ! 零(こぼ)そうか?)
 絶対、飲む訳にはいかない。でも、零しても、直ぐに先輩は新しいのを作って来て、無理遣り飲ませようとするだろう。
 そうなって、飲んでしまうと、万事休すになる!
(直ぐにでも、逃げないと、……いや、戦わなければならないかも……)
 これは、初めて体験する物理的な我(わ)が身の危機的脅威(きょうい)だった。そして、上手く逃走できても、再び同じ状況になるのは時間の問題だ。
 ならば、戦闘すべき状況なのだ。でも、慎重にしないと、互いに遺恨(いこん)を残し先輩の報復を招(まね)いてしまう。
 故(ゆえ)に最悪の民事や刑事の事件になってしまっても、徹底的に攻撃するしかないのかも知れない。
 しかも、これはまだ、我が身に迫る深刻な危機へのアプローチにしか過ぎない。
 グラスから目を逸らし、私はべランダの方を見て言った。
 どうしても、反撃の、いや、脱出や説得のチャンスを作らなくてはならない。
「ここ、最上階よね! どんな、景色が見えるの? 見てもいい?」
 立ち上がり掛ける私の腕を、先輩はガバッと身を乗り出して来て強く掴んだ。
 其の、私を睨みつける醜(みにく)く歪(ゆが)んだ顔の口が、何か言おうと動きかけた。
 腕を痛いほど強く掴む力と、迫り来る恐(おそ)ろしげな先輩の顔に怯んでしまう私は、これから、先輩の口から発せられようとしている、一生のトラウマになるかも知れない言葉に怯(おび)えた。
「先に飲め! 見るのは、飲・ん・で・からだ」
 何か得体(えたい)の知れない微粒子を入れられた炭酸飲料を、『飲め』と脅(おど)す声の低さに、私の背中と肩が小刻(こきざ)みにプルプルと震え、膝下が小さくガクガクと鳴(な)った。
(こっ、怖い! ああっ、もう戦闘にならない……。抵抗なんてできないし……、無理よ!)
 飲んでしまったら、きっと、意識は朦朧として、ぐにゃぐにゃになった力が入らない私の身体は、先輩に好き勝手に触(さわ)り放題に犯されて、穢れてしまう。
(嫌よ! そんなのは絶対、厭! でも、いざとなったら全然ダメ、……私も、か弱い女の子なのね……)
 虚ろな意識の弛緩した身体の私は、初めてのセックスなのにロマンチックの欠片(かけら)も無く、バイオレンスにぐちゃぐちゃに弄(もてあそ)ばれるのだ…… と思う。
 萎縮する気持ちは、穢される瞬間が来ても、抗う意志と力を微力も出せないと、悲観する私に思わせてしまう。
 今は少しでも、酷い言葉で罵られながら乱暴に扱われて痛くされないように、そして、悲しみが小さいように祈るしかない……。
 客観的な言い訳を連ねて、気持ちだけでも逃避させようとするくらいに竦(すく)む私が、諦め掛けて覚悟したその時、不意に先輩の携帯電話が着信のメロディーを奏(かな)でると、先輩は慌(あわ)てたように掴んでいた私の手を離し、『早く飲め』と言い残して、着信を受けながら急(いそ)いで隣り部屋へ行った。
『今……、来ている……、直ぐ来い……』と、声を潜(ひそ)めて話すのが聞こえて来た。
 抜け目の無い先輩は、仲間を呼んでいる。
 先輩だけなら泣いて懇願し続ければ、最後までしないかも知れない。
 堅く拒み続ければ、この場は逃げれるかも知れない。
 隙(すき)を狙って窮鼠(きゅうそ)猫を噛むのチャンスが有るかも知れない、
 などと考えていたけれど、仲間に来られたら、逃れられる確率が極端に小さくなってしまう。そして、状況は圧倒的に絶望的になって行き、もう、僅(わず)かでも、救われそうなチャンスは無くなってしまう!
 爪先、足裏、踵は、床へ触れている感覚は無くて、上手く立っているのか分からない。
 ただ、裸足で良かったと、全く事態が好転しそうもない状況に、チャンスに繋がりそうな事を思う。
 ソックスやストッキングを履いていたら、滑って転んでいただろうと、既に、私の意識は逃げに向き掛けている。
 顔から血が退いて行くのを感じる。
 手足や指先の感覚が消えて、身体が痺(しび)れたように重い……。
 震えを意識した背や脚は、今も震えているのか分からない。
 ただ、噛み締めようとしていた奥歯がズレ動いて、力が入らないのだと知った。
 ……恐怖に怯えて畏縮(いしゅく)する気持ちが、急速に私を支配して行く。
 思いっ切り悲鳴を上げて叫(さけ)び続けても、きっと、この部屋は防音の造りになっているから、必死に足掻いても無駄(むだ)だと思う。
 後は、神に祈り……、最悪を回避するか、奇跡の発現を目(ま)の当(あ)たりにさせるしかない。
 この場の災厄(さいやく)を退けれるならば、スカボローフェアの古い歌詞のように強いハーブの名を連ねて悪魔の誘いを避けるより、無理難題を叶(かな)えて力を与えられたいと願う。
 悲しげでも、寂しげでもあるメロディーを思い出し始めると、悪魔との契約を拒む呪文のような歌詞が次々と浮かんで来て、私を客観的にさせて肌の感覚を戻し、震えを少しづつ抑えてくれた。
 奥歯が噛み締まり、身体全体に力が戻って行く。
 落ち着いて行く気持ちは、脳を冷静にさせ、状況の把握と対処を急がせた。
(先輩だけでも抗えないのに、仲間に来られたらどうしよう……。一人来る? 二人? もっとなの? ……分からない。益々(ますます)、非常事態だ。危うし乙女(おとめ)の私……、まだ、バージンなのに……)
 今、先輩が電話で話している間に、スプライトを処分してしまわなければならない。
(今しかない!)
 私は急いで背凭(せもた)れにしている大きなクッションの中へ、スプライトの殆(ほとん)どを流した。
(おっと、氷はそのまま、グラスの中に入れといてと……)
 さも飲み干(ほ)しているようにグラスを傾けて口に当てる。
 残した氷に触れさせて、唇と口周りを濡(ぬ)らし、先輩の戻りを待つ。
 数秒もせずに、戸の影から覗くように私のようす窺う先輩が見えた。
「ぷはーっ!」
 ワザとガラガラと氷の音を立てて、一気飲みをしたようにグラスをテーブルにドンと置いた。
 間髪(かんぱつ)を容(い)れずに先輩が部屋に入って来て、近くに有ったテッシュペーパーで口を拭う私の仕種と、空いたグラスを見て、口元を歪ませた。
(さぁ、これからが大事だわ。乙女の一巻の終わりにならないように、眠くてしょうがない女の子を、上手く演じなくっちゃ!)
 覚悟を決めると、怯えと震えは消えて無くなり、私は、点(つ)けられたテレビを見るフリをして演技に入る。
 睡眠導入剤は、その名の通り眠くなり、筋肉弛緩剤はボーッとだるくなって力が入らなくなると、医療の本で読んだ事があった。
 どちらの薬も、効(き)いている状態は同じだと思う。
「どう? 飲んで少しは落ち着いたかな? 警戒しなくても、もう何もしないよ」
(よく言うわ。下心、見え見えじゃないの! どうせ、仲間を呼んでいるのでしょう。電話の声が聞こえていたよ)
「そんな……、警戒なんてしていない…… ですよ……、先輩…」
 少しボーっとしたように、途切(とぎ)れがちに話す。
(今すぐ、部屋を飛び出して帰りたい。先輩の仲間が大勢来たらヤバイ!)
「部屋を綺麗にしているだろう。住み心地は良いし、最上階で、周(まわ)りに高い建物が無いから、眺(なが)めも最高さ。それに防音完備だ」
 やはり、高額そうなマンションの各部屋は、壁、ドア、窓、床、天井の六面全てに、遮音工法が施(ほどこ)されていた。
 反応が鈍くなったように、少し間を開けて返事をする。
「うん……、せっ、先輩のお部屋、……整理されて…… いて、 すっきりしています……。きっ、綺麗…… 好きなんです…… ね…。センス…… も……、良いし」
 棒読みっぽく、後半はゆっくりと話す。
 眠そうにトロく話す演技をしながらも、不安は脹(は)らんで来る。
(なにが、防音完備だ! それは先輩の都合でしょう!)
 『防音完備』の言葉が、不安を煽った。
 抵抗されて騒(さわ)がれても、悲鳴や物音は隣近所には聞こえず、誰も助けに来てくれない。
「疲れたの?」
 眠そうな私の様子に、先輩は探(さぐ)りを入れてくる。
 話し掛けて来る先輩の口調から、演技なのかと疑われていないと思う。
(演技は、それらしくなっているみたい)
「……ううん。でも、何だか…… だるくて……、力が入らない感じ……。疲れてるの…… かな?」
 急速に、私のクライシスタイムが迫って来ている。
「疲れたのなら、ゆっくり休んでゆけばいいよ。ソファか、ベッドで少し眠れば楽になるさ。なんなら泊まってゆけば」
(なに言ってんのよ。どう楽になるって言うの。眠らないし、泊まるはずないじゃない!)
 仲間が来るまで、少しでも時間を稼(かせ)ごうと、先輩は私を引き止めようとする。
「帰りたい、……です。帰ります。先輩……」
『ピロン、ピロン、ピロン』、その時、室内にチャイムが鳴り響(ひび)いて訪問者を知らせた。
 先輩は慌てて立ち上がり、急いで部屋を出て行く。
 直ぐに、玄関ドアを解錠する音がした。
(しっ、しまったあ! きっ、来た! 本当に来たぁ! どっ、どうしよう)
 ドタドタと慌ただしく数人の男達が、部屋に入って来た。
 ヤバそうな危機が、逃れられない危険に変わった。
(やっぱり、騙(だま)したな)
 一旦は覚悟を決めて、冷静さを取り戻した気持ちが、再び、パニクって来る。
 怯えて萎縮する私は身構えるようにバッグを抱き抱えて、男達に見えない向きから静かに中に手を入れた。
 指先が小刻みに震えて、何に触れているのか分からない。
 助けを求める意識は、事故ったバスの中で私の前に立つあいつと、倒れ行くバイクから大声で私を逃がすあいつと、そして、カツ丼を食べているあいつを思い出していた。
 今にも、体中がガクガクと震え出して来そう。
(私を助けて! 私を守って! お願い……)
 非力で、か弱い女の子の私は、力技で男性に敵(かな)うはずがない。
 遣って来た男達は三人で、既に敵になっている先輩を含めて相手は四人になった。
 全員、逞(たくま)しい体付きで腕力が有りそうに見える。それに、四人とも、薄ら笑いを浮かべる表情や余裕の物腰は、少しの躊躇いも無く、場慣れしていて、平気で女子を犯して輪姦(りんかん)できるのだろうと、いや、弄びを遣り捲くっていると思わせた。
「おっ、こいつは、なかなかカワイイじゃんか。おい、早くこいつの顔が、苦痛と恥じらいに歪めて、快感によがるのを見ようぜ」
 横に来た男が私を覗き込み、アダルトビデオかドメスティックバイオレンスムービーのセリフような卑猥(ひわい)な事を言って、私の前髪を払い上げようと手を伸ばして来る。
 それを、もう眠くて堪(たま)らないとフラ付くフリで、ゆるりと体を傾(かたむ)けて避けた。
(早く! どうにかして、逃げなければ……! ……逃げる? どこへ?)
 とにかく、咄嗟(とっさ)に脱兎(だっと)の如(ごと)く逃げて……、私を捕らえようとする男達の手を振り切って、玄関ドアへ駆け寄っても、ドアを解錠するのにもたついて忽(たちま)ち男達に捕まってしまう。
(例え、部屋から出られても直ぐに追い付かれて、マンションの敷地内、ううん、きっと、建物からも脱出できない……)
 そして、逃げる術を失って捕らえられた私は、どんなに抗っても、為(な)す術(すべ)も無く男達に犯され弄(もてあそ)ばれてしまうんだ……。
 運良くドアから出れて、悲鳴を上げながら大声で助けを求めれば、誰かが気付いて通報してくれるかも知れない。でも、追い着いた男達は再び私を先輩の部屋へ引き戻して、緊急通報で到着した警察が現場を特定して私を解放するまでに、目的の輪姦を済ませてしまい、訴(うった)えようとすれば、後日、更に酷(むご)い事をされるだろう。
(ああっ、だめだ! 逃げ切れない……)
「……私……、もう…… 帰る…… わ。……帰りたい」
 演技を続けて、眠くて仕方が無いようにしゃべる。
 男達を油断させておかなければならない。
 私はバックの中を弄りながら、足元がおぼつかない振りをして立ち上がろうとした。
 はっきりと震える指は、バックの中を懸命に探している。
(あれは、どこに……)
 忘れていたけれど、まだバックの中に入れて有るはずの、今のクライシスゾーンから逃れて纏わりとしがらみまで断ち切れるパワーを、男達に気付かれないように私は、そっと、バックの内底に指先を這わして探す。
(少しも、抵抗できないまま、弄ばれるなんて、いっ、厭!)
 震えで感覚の鈍った指先は、触れる物が何かと認識するのに時間を掛けさせて、ブルブルする震えは掴み損(そこ)ねを繰り返えさせた。
 探し物は、バッグの中で割と大きい物なのに、どれなのか分からない。
 バックの中身を整理していない自分の怠惰さを呪うけれど、もし、整理していたらバックの中から除いて、男達に見付けられていたかも知れない。
 そうなったら、取り上げられて、私に使われるに決まっている。
(厭だ! こんなアウェーで、輪姦され、バージンを失うなんて……)
「お姉さん、まだ帰れねぇよ」
 立とうとする私を押し戻しながら、男の一人が言う。
 私は押し倒されて、ぺたんと尻餅(しりもち)を搗(つ)くように座ってしまった。
(にっ、逃げちゃダメ! 戦うのよ)
 ついに、指先がバックの底に有った一発逆転アイテムを探り当てた。
 それなのに震える指は、力加減を意識できないほど感覚が鈍り、上手く掴めているのか分らない。
 焦る思いは、押し寄せる不安を切迫した恐怖に変える。
「なっ、なにを…… すっ……、する…… のよ……」
 トロそうな声を出しながら顔を少し上げ、眠くて瞼がくっ付きそうなフリの眼で彼らを見回した。
 私の前には半円状に先輩も入って四人が立ち並んでいて、電話で呼ばれて来た男達も、先輩ほどの美形とは言えないけど、それなりにイケている容姿で、遊ぶ相手に不自由していなさそうなのに、今にも私を弄ぼうとしている。
 男達を見回し終わってから、私は、ゆっくりと顔を俯き気味にした。
(もっ、もう…… だめ……、パニくりそう。でも、怯えたら駄目!)
 竦んで泣き叫んだりしたら、きっと、演技だと悟られてしまう。
 演技だと知られてしまうと、警戒させるどころか、一気に襲(おそ)い掛かって来るだろう。
 そうなると、逃げるのは絶望的だ。
 攻撃は、奇襲しかない!
(チャンスを、狙(ねら)うのよ)
「おい! こんな田舎娘(いなかむすめ)に一年も掛かりやがって、どうして姦(や)ってねぇんだよ」
 正面に仁王立ちになった、スリムのジーパンの奴が言った。
 ワザと顔を上げずに反閉じにした瞼(まぶた)でトロそうにしていたから、そいつの太腿から上は見えない。
 立ち上がろうとした私を押し倒したのは、こいつだ!
 こいつのスタンスは、少しでも私が逃げようとする素振りを見せたら、叩(はた)き倒そうと構えている。
「こいつは、其処ら辺の軽いお嬢ちゃんじゃねぇんだよ。けっこう、ガードが堅(かた)くってさぁ、キスも、さっき無理遣りだぜ」
 左端の先輩が、言い訳がましく愚痴(ぐち)る。
 こんな卑劣な奴を、憧れの先輩だと思っていた自分に腹が立つ。
 ついさっき、ファーストキスを奪われてしまった。
 何度も拭っても、何度も洗っても、先輩のザラついた唇の感触とヤニの味は、消えて行かない……。
(くっそぉー!)
 不意打ちを食らった唇に蘇る不快感への憤(いきどお)りが、迫り来る自我を喪失するかも知れない程の危険な極限状況で、パニック寸前の私を落ち着かせて行く。
 男達に弄ばれて嬲(なぶ)られる恐怖は抑えられ、私を冷静にさせる。
(姦られて堪るか! 姦られる前に、殺(や)ってやる!)
 指の震えは止まった。
 スタンガンをしっかり握りながら、私は反撃のチャンスを狙う。
 ふうっと、微(かす)かな風が私の頬に吹き付けて、朝の高校通学のバスの中で、私を守るように横へ立つ彼の気配を感じた気がした。
(お願い! もう、二度と、『あいつ』って思わないから、私を助けて!)
「こんなふうに、早く、ここに連れて来て、さっさと、姦っちまえば良かったんだよ。お前らしくもないな」
 右端の奴が、私の足を軽く蹴(け)りながら、いつもの、普通に遣っている遊びのように言った。
(いったい私は、こいつらの何人目の犠牲者になるのだろう…。許せない! 絶対、許せない!)
「俺のプライドだ。こんな田舎娘なんか、フツーに落としたかったのさ」
 私が、簡単に姦り廻(まわ)されるだけの、物欲しそうな女だと、先輩は憎(にく)らしげな口調で言う。
「おーい、そんなこたぁ、どうでもいいから、早く、いてこましちゃおうぜ」
 直ぐにでも、非常にやばい状況になりそうだ。
 もう、躊躇(ちゅうちょ)はできない。
 私は、バッグを抱え、ゆっくりと右膝を立てた。
(おっ、落ち着くのよ、私! チャンスは、一度切り……)
「おっと、おねえさん、動くんじゃねぇよ。そのままにしていろ。今から飽(あ)きるまで、ずっーと、楽しませて貰(もら)うからよ」
 男達は、誰が、どうするとか、順番が、どうのとか言いながら、携帯電話やセカンドバックを部屋の隅(すみ)へ投げ転(ころ)がして、服を脱(ぬ)ぎ始めた。
「今日は、俺の番からだ! おぅ、姉ちゃん、俺様のデカイので初っ端(しょっぱな)から、ヒィーヒィー泣くほど、喜ばして遣るからよ!」
 品の欠片(かけら)も無い、下品な言葉を聞かされて、私は、諦めたかのように顎(あご)を落して項垂(うなだ)れる。
「んにゃ、だめだ、だめだ! おめぇの後は、ガバガバユルユルになっちまってよぉ、入ってんのかも、分かんなくなるから、最後に決まってんだろ!」
 酷い言い種(ぐさ)で男達は私を姦る順番で揉めているのが、頭の上から聞こえて来るけれど、私の目は瞼を擡(もた)げ、じっと、男達の太腿を襲うタイミングを狙う。
「アッハッハハ。ちげぇねぇ、おまえは最後だからな」
 抗える術が無ければ、ゾッとするような男達の笑い声だけど、掌(てのひら)に握る物の感触が、気持ちを落ち着かせて余裕を持たせてくれていた。
「おい、逃げれねぇよ、あんた。諦めな」
 諦めたように黙り込んで朦朧な意識に動きも緩慢(かんまん)なフリをする私に、拒む気力を殺(そ)ぐ下品なダメ押しの言葉で反応を探ってくる。
 瞬きしながら虚ろに流していた視界が、正面に立つ品の無さそうな男が今のセリフを言うのと、更に動き続ける男の唇から、手本のような卑猥な声が放たれるのを見させてくれた。
「騒ぐと痛い目に合うだけだぜ。へへっ、騒がなくても、アソコが裂(さ)けちゃったら、痛がっちゃって喚(わめ)き出すかも知んないけどよぉ」
(なんて、陳腐(ちんぷ)でB級テレビドラマの脇役みたいなセリフなの。フツーにチョロ過ぎるよ)
 掴んだスタンガンのスイッチを、ゆっくりと動かして、静かにオンにする。
 通電を示す小さな赤いLEDが灯り、セーフティは解除された。
 電源になる二個の九ボルト電池は、毎週、新品に交換して作動チェックをしている。
 私は、そぉっと、指をパワーボタンに掛けた。
(これが動かなかったら……、今、電撃が出なかったら……、きっと私は、朝までこいつらに嬲り弄ばれてしまう。それは、今晩だけで済まない。撮られた写真と動画が弱みになって、インターネットで個人情報まで公開するとか、プリントしてキャンパスや町中にバラ撒(ま)くとか、脅されて、この先も、ずっと、何度も甚振(いたぶ)り尽くされる……)
 私の緩慢な動きと、呂律(ろれつ)が回らないしゃべりに男達は油断している。
 スプライトに入れた睡眠導入剤で、私の意識が朦朧としていると思い込んでいる男達を、上目で素早く見回す。
 ニヤ付いて卑猥な事を言いながら服を脱ぎ、部屋の隅に投げやる動作で、男達全員の上半身が斜め後や横を向いていた。
(嬲られるのも、弄ばれるのも、甚振られるのも、弱みを握られるのも、脅されるのも、絶対に厭だ! 許してやらない!)
 指先に伝わる感触は、今、私が御願いする神様! きっと雷(いかずち)で私を救い出してくれると思う。
 空の彼方や社(やしろ)の奥に鎮座(ちんざ)する神様じゃなくて、バックの中で私の手にしっかりと握られている彼がくれたスタンガンだ!
(御願い! ちゃんと動いて、私を護ってぇ!)
 生唾(なまつば)を飲み下す音が、私の中で重く響き、静かに大きく吸い込んだ空気が気道を通り、肺を満たして行く。
 全身に送られる新たな酸素に奮(ふる)い立たされた私の肩と腕がブルブルと痙攣(けいれん)して、ぶるんと震えた手の引き攣(つ)る指が、パワーボタンを押した。
 バリバリバリッ !
(きゃっ! ……うっ、動いたぁ!)
 激しい放電で、バックの中が青白い閃光(せんこう)で照らされる。
 ビクッと、何事かと男達の動きが止まり、私は決断した。
(今だ! 今しか無い!)
 立てた右膝に力を入れ、パワーボタンを押し、放電の青白いスパークと、けたたましい放電音を轟(とどろ)かせたままのスタンガンをバックから引き抜き、身を屈(かが)めて一番右側の男の太腿に、Gパンの上からスパークを押し付けた。
(いっけぇー!)
「ぐわっ!」
 気管が全開にされて一気に空気が出るような、人の声じゃない悲鳴を上げながら、半裸の男は撥(は)ね跳(と)んだ。
 この男はズボンを脱ぎ掛けていて、膝にズボンを絡ませたまま、床へ顔面から落ちた。
 僅かに、髪の毛が焼ける臭いがする。
 スパークの高熱が、太腿の体毛と皮膚に軽い火傷を負わせた。
(ええーっ! すっ、すっごい威力じゃん! これ……)
 スタンガンの予想以上の威力に、私は驚いた!
 大の男が撥ね飛ぶほどの凄い威力にビビったけれど、今は、それどころじゃない。
 左回りに四人の太腿を狙う。
 隣の男が異常な速さと姿勢で仰け反り倒れても、けたたましい放電音に竦んで事態を把握できないのか、足の動きを停めたままの二人目にスタンガンを押し付ける。
「がっ!」
 二人目も、尻切れの悲鳴にならない音を叫んで転がった。
 脚に電撃を喰らわせるのは、敵の動きを封(ふう)じる為だ。
 太腿への電撃の痛みで、大抵の人は歩けなくなると、スタンガンを受け取る時に彼から知らされていた。
 より確実に動きを止めるには、心臓に近い胸や背中と脳に近い首筋や肩にスパークさせれば良いのだけど、今は、体勢と距離と時間に余裕が無かった。
 スタンガンのスイッチを押しっぱなしで、夢中でスパークする先端を当てて行く。
 とにかく、男達にダメージを与えて、怯ませなければならない。
 二撃、三撃、そして、止(とど)めの電撃を喰らわす為にも今、確実に四人全員に、初撃をヒットさせなければならない。
 一人でも外すと、反撃されてしまう。
(絶対、外せない!)
 鋭く大きな異音や衝撃を伴う突然の脅威(きょうい)や危機に、普通の人は刹那(せつな)に対応できない。
 最初の二人は、避ける間も無く、スタンガンの電撃を、もろに受けた。
 一瞬前まで、姦る楽しみに興奮させてくれた女が、隠し持った武器を使い、反撃して来た事態を、ようやく理解できた三人目は、逃げようと動き、太腿を狙ったスタンガンは逸(そ)れた。だが、立ち位置を変えようと回す、軸足の脹脛(ふくらはぎ)に青白いスパークが触れて、後ろ蹴りに撥ね上がった足の反動で、勢いよく顔面から床へ倒れ込んだ。
 四人目……、左端の先輩には、スパークを避けようと足を退かれて、危うく逃がしそうになった。
 狙った太腿を外した勢いで、私はバランスを崩し、壁際まで転がってしまう。
 その時、辛(かろ)うじてスパークし続けるスタンガンが、反対の脚の足首に触れて、先輩を弾き飛ばした。
(奇襲は、大成功だ!)
 スタンガンの先端が、人体に触れる感触を感じながら、視線は次の男の動きを捉(とら)える。
 私は無言で、連続スパークするスタンガンを、判断がつく限り、最少の動作と最短距離で男達に電撃を喰らわせていた。
 無言なのは、声で私の方向や位置を知られるし、女性の大声や悲鳴は、男をたじろがせれるけれど、逆に警戒心と慎重さを与えて抵抗や反撃を煽ってしまう。そして、初撃を四人全員にヒットさせた今も尚、無言なのは、私の喚(わめ)き声で男達の反応が加速して、より早い防御と私への攻撃に移らせると思うからだ。
 力技では、暴力的な男の前に、女性は非力だ。
 壁際へ倒れたショックと痛みに慌てる無様(ぶざま)さが、ここに至った自分を不憫(ふびん)に思わせて、私は凄く腹が立って来た。
 今、逃げ去るより、怒(いか)りに任(まか)せて四人を徹底的に痛めつけて遣りたい!  
(もっと、もっと、速く動け! 動いてよ、私の体!)
 私は、跳ね起きて、まず、ダメージが軽い先輩と三人目を襲う。
 足元で、脹脛を押さえて苦悶(くもん)する三人目の奴の背中に、スタンガンを押し付けて悶絶(もんぜつ)させる。
 悲鳴を上げながら床にのた打ち回る先輩は、私の動きに気付くと、身を捻りながらダメージを受けていない足を弱々しく振り回し、私を近付けさせまいと蹴り出した。
 動きの鈍い蹴りを難なくかわして、爪先(つまさき)にスパークさせると、私を蹴ろうとした足は、あらぬ方へ勢い良く開いて床に落ちた。
 その隙に背中にも、電撃を喰らわす。
 既に、Gパンを脱いで、毛深い素足が剥き出しの奴もいた。
 体毛が焼けて、焦(こ)げた臭いが鼻を衝(つ)く。
 青白い火花が光る、必死で一瞬の仕業(しわざ)だった。
 男達は一様に悲鳴を上げて跳ね跳び、呻(うめ)きながら床でのたうち回っている。
 私は更に、素早くスタンガンを押し付けて回る。
 痛みで蹲(うずくま)っているから抵抗はない。
 背中、脇腹、肩、腹、尻、どこでもいい手当たり次第、電撃を喰らわす
 弾かれたように仰け反り、悲鳴を上げ転げ回った。
 私の気が済むまで、屑(くず)野郎共に電撃を喰らわせてまわる。
 五度目の電撃では、子供の頃、いっしょに遊んでいた上級生の男子が、ブロック壁に投げつけた牛蛙(うしがえる)みたいに、ビクビクと全身が痙攣するだけになった。
 こうなったら十分間程度は、意識が飛んで動かないと思う。
 次に、彼らの携帯電話を使えなくする。もっと、ヤバイ関係に連絡されて、脅されて金銭と身体を要求されたり、監禁されて連姦されたり、そんな、堪えられない酷い目に合うのは敵(かな)わない。
 時間稼ぎに、必要な処置だ。
 テーブルの上や男達のセカンドバックの中と、脱ぎ散らかした服やジーパンのポケットから、携帯電話を集めてキッチンへ持って行き、電源がオンにされているのを確かめて裏蓋を外して、内部のバッテリーパックやシムカードや基盤を剥き出しにする。
 裏蓋を外せないタイプは、外周部のマイクロコネクターを、手近に有った包丁の先を突き立てて防水できないように割ってしまう。
 棚に有った適当な鍋(なべ)に最高温度で給湯(きゅうとう)したお湯を満たしながら、シンク脇に有った食塩の瓶(びん)の中身を全部ぶち込んで高濃度の塩入り熱湯にする。そして、屑野郎共の携帯電話を、電源をオンにしたまま沈めて遣った。
 これで回路とICチップがオシャカになって、データは読み取れなくなるはず。
 食塩を探した時、銀色のパック入りの錠剤が、シンクの脇に置かれているのに気が付いた。
 パックの何箇所か、破(やぶ)られていて、楕円形をした薄青紫色の小さな錠剤が一つ、二つ、転がっている。
 これは、睡眠効果が高く、精神安定剤に用いられるハルシオンだ。
 パックには、平たくなって見える錠剤が幾つも有った。
 パックされたまま、潰(つぶ)して、粉にしたのだろう。
 私に飲まそうとしたスプライトへ入れたのも、これだ!
(ハルシオン入りのスプライト……、これを、私に飲まそうとしたのか……。飲んでいたら、間違いなく姦られていたな。くっそぉー!)
 砕かれたハルシオンを入れたのが、ホットコーヒーやアイスコーヒーではなくて、透明なスプライトで本当に良かったと思う。
 中途半端な破砕(はさい)で、微粒粉の大きさがムラになったのと、氷を入れたので温度が下がり、短時間に融(と)け切らなかった。
 それを、無色透明のグラスとスプライトが目立たせて、私を警戒させ救ってくれた。
(ふん、これだけでは、不十分よ)
 泡の出が少なくなった携帯電話を熱湯から取り出してバッテリーパックを外す。
 念の為、上辺(うわべ)の水だけを払(はら)ったバッテリーパックが置かれていた携帯電話の底面に、スタンガンを圧(お)し付け、連続スパークさせた。
 百万ボルトの高電圧や電磁波で、シムカードやメモリーカードの中身が、完全に飛んでしまえば良いと思う。
 携帯電話にバッテリーパックを戻し、蓋をしてから部屋の隅(すみ)に捨てるように転がす。
(証拠写真も、撮らなくちゃ)
 携帯電話のカメラで、全体と一人一人の顔写真を撮る。
 スタンガンを押し付けて悶絶する男の頭を蹴って、顔が見えるようにしてから撮った。
 顔写真を撮る時に、二人が悪態(あくたい)を吐(つ)いて、私に掴みかかろうとしたけれど、首筋と胸にスタンガンを押し付けて黙らせて遣った。
 卑劣な先輩は意識が回復していて、いきなりスタンガンを奪おうとした。でも、あっさりと電撃を喰らって先輩は、もんどり倒れてしまう。
(残念でした。先輩が掴んだところにも、電極板が有んのよ)
 反動で落としそうになったスタンガンを掴み直し、先輩に押し付ける。
(許せない!)
「このぉ、滓(かす)野郎!」
 滓野郎の先輩は悲鳴も上げず、全身を痙攣させて気絶した。
 一瞬目を見開いて驚いた顔が、苦痛に歪み、白目を剥(む)いて失神したのが可笑(おか)しい。
(これ、おもしろい……)
「アハハハ、ふん! 先輩、今夜は、顔が歪(ゆが)みっぱなしで、美男子が台無しよね」
 これ以上は、過剰防衛かも知れないけれど、もう一度、屑野郎共にスタンガンを押し付けて回る。
 もう、ビクンと仰け反って呻くだけで、誰も反撃して来ない。
 男達のセカンドバックや財布の中身を打(ぶ)ちまけて、見付けた学生証や免許証も写真に撮って遣る。
 何処の誰かだと知ってしまえば、仕返しされそうな時の保険になるし、仕返しされた事への報復(ほうふく)もし易(やす)いでしょう。
 証拠と素性(すじょう)の写真は撮ったし、携帯電話の中身も破壊したし、滓先輩と屑野郎共は痛めつけた。それでも、私の気持ちは治まらない。この、卑劣な屑野郎共をどうしてくれよう。
 ガス栓を全開にして行こうかと、考えたけど止めた。
 ご近所様を、爆発に巻き込みそうだ。
 火を点けようかと思ったけれど、それも、少し考えて止めた。
 同じ事になってしまう。
 私は、血中に増大したアドレナリンで興奮し、とても、戦闘的になっていた。
 部屋中を、めちゃめちゃにしたい!
 電撃をもっと喰らわせて痛めつけてやりたい!
 屑野朗共を半殺しにして縛(しば)り上げて、ベランダから転げ落としてやろうか。
 最上階から投げ落としたら、まず助からないないだろう。でも、殺してしまえば、仕返しを受ける心配も無くなるから、そうして遣りたいと思った。
 こいつらを、世の中から一掃(いっそう)して遣りたい……。
 動機が完全に過剰防衛から、殺人に変わっている。
 事件になって捕まっても、裁判では、報復を怖れて気が動転したとか弁護されるから、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)で刑は軽くなると思う。
 もしかすると、執行猶予(しっこうゆうよ)だけかも知れないし、もしか、もしかすると、無罪かも。とまで、考えたけれど、止めた。
 男共は重くて持ち上げれないから無理! それに、もたついて苦労している内に、落とされるのに気付いて暴(あば)れてしまうから、やっぱり無理! と、私は人殺しを思い留(とど)まった。
 屑野朗共を、どうしてくれようかと眺めているうちに、急に興奮が治まって冷静さが戻って来る。
「さあ、こんな所に、長居は無用だわ」
 湿(しめ)らしたハンカチでトイレのドアノブなど、私が触れたと思われるところの指紋を急いで抜き取って回った。
 台所のシンクに栓をして、水道の給湯を最高温度の熱湯にして全開で出してやる。
 私の使ったコップは、シンクの中に転がした。
 シンクは数分で一杯になり、熱湯は溢(あふ)れて床に零れる。そして、床に流れた熱湯は直ぐに階下の天井から滲(し)み出すから、一時間も経(た)たない内に下の階の住人が気付いて怒鳴り込んで来るでしょう。
 熱湯だから、天井のボードや壁紙が剥がれて、損害賠償が大変だ!
(これで、失神していても助けて貰えるわね。その前に火傷(やけど)して気が付くかも知んないけど。滓先輩……、これでお別れよ)
 後は、逃げるだけ!
 忘れ物をしていない事を確認してから、急いで、滓先輩のマンションから離れた。
(さっさと、表通りへ出て、タクシーで帰ろう)
 小走りに表道路へ出て、ツーブロック離れた先の十字路を曲がり、更(さら)に、そのブロックの向こう端の横断歩道を渡り終えてから、タクシーを拾う。
(彼がくれた、スタンガンで助かった……。今夜も彼が、守ってくれたんだ……)
 二十一世紀美術館へ行った、あの日のように、何事も無い、普通なフリをして、思い詰めていない、不安も混(ま)ざらない、明るい顔で乗り込んだタクシーのリアシートに、深く沈み込みながら、そんな、気がした時に……、私は思い出した。
 通学のバスが事故に遭った、あの日、病院で彼が横たわるストレッチャーを押しながら、私は嬉しい気持ちで一杯だった。
(彼が、私を守ってくれたのが、凄く嬉しかったんだ。楽しいんじゃなくて、『嬉しい』だったの)
 あの時、私は、目の前の彼を、とても愛(いと)おしく思っていた。
 挟まれて、身動きができなくて、潰れている脇腹は、とても痛いはずなのに、それでも、私を気遣う彼を……。
 小学六年生の、あの春の日から私は、ずっと、彼が気になっていた。
(あの春の日、私は、声を掛けてくれた彼に、救われた気がしていたのかも知れない)
 コンプレックスだった四角い爪を指摘されてムカついたけれど、彼は四角い爪を、『変だ』とは言わなかった。
(私の容姿を、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)した酷いメールにも、四角い爪は書かれていなかったな)
 あの時から私は満開の桜の花を眺めているような麗(うら)らかな微睡(まどろ)みを、いつも、彼に感じて癒(いや)され、救われたいと思っていた。
 中学校では、廊下に展示された絵や彫刻を見て、彼の才能に憧れた。
 無記名の告白メールの桜の文字に、彼からだったら、どうしょうかと考えた。
 フォークダンスで触れた、彼の暖かくてサラッとした手に、もっと、触れていたくて握り返しそうになった。
 堂々として朗々(ろうろう)と心に響く独唱を聞いて、身震いするほど、深く感動して我を忘れてしまった。
 彼といっしょに下校する楽しげな女子達に妬(ねた)みを感じて、彼を責めた。
 などなど、そんな焦る気持ちと悔しい思いに戸惑う中学生の心揺れる日々だった。
 別々になった高校では、偶然に、一度だけ、彼が横に座って来たバスの中、唇にキスされたと思い込み、心はときめいていた……。
(彼が、キスをしたと、今も、疑っているけど……)
 そして今、ベイブリッジの不意打ちのキスじゃなくて、あの金石から帰るバスの中で唇に残った感じを、私は思い込みではなくて、本当にファーストキスであって欲しいと願っている。
 何度も届くメールに仕方なく応援に行った弓道の試合で、彼の人気とファンの女の子の多さに苛ついて、ジェラシーストームを誘発寸前な自分に気付いていた。
 いつも、勝手に苛ついて彼を不快に思う私だったけれど、約束通りに大きな試合に勝って見舞いに来てくれた彼を誇(ほこ)りに思い、受け取った薔薇(ばら)の花はブルーな気分の日々だった入院を、色鮮やかな思い出にしてくれた。そして、私は数えるほどしかない彼との思い出に、晴れがましさを添(そ)えたくて明千寺に誘い招いた。
 立戸の浜で彼を見付けた時は、駆けよりたいほど嬉(うれ)しくて、彼を溺(おぼ)れさせたいくらい楽しくて本当に沈めてしまった。
 楽しさへの名残(なごり)惜(お)しさが、夜の穴水町の交差点で私に彼を見送らせていた。
 直向(ひたむ)きな彼の、無言の態度と自己犠牲的な行動に感じた優しさと誠実さを、嬉しく思いながら修学した高校の三年間だった。
 彼から感じていた臭いは、小学校六年生の春の日に匂って、私に穏やかな気持ちと心の安らぎを与えてくれた満開に咲いた桜の花と同じ想いがして、ずっと前から彼を好きになって来ている自分に気が付いていた。だけど、鈍くて保守的で捻(ひね)くれている私は、其の気持ちを認めたくない葛藤(かっとう)が疼(うず)いて素直になれなずに、彼をジレンマの捌(は)け口にしていた。
 そんな私は、彼の想いを何度も袖(そで)にして、彼自体も無下(むげ)にしてしまっていた。そして、相模大野(さがみおおの)の駅前で無計画に私を横浜港大桟橋へ連れて行く彼の鈍さと無神経さに腹が立ち、もう、二度と会わないでおこうかと思うくらいに別れの切れ目を意識しても尚(なお)、気持ちは迷い彷徨(さまよ)ってしまう。
 そんなタイミングで、偶然に通り掛かった女子達の憧れの先輩が、バス待ちをしていた私へ声を掛けてくれた。
 そのタイムリーさに運命的な出会いを感じた私は、誘われるままに、先輩と御付き合い始めてしまった。
 利発で明るくリードする先輩に、私は煩(わずら)わしく感じて来ていた彼を、一方的な理不尽(りふじん)さで切り捨てた。
 ジレンマから開放されたい私の気持ちは、彼を追い詰めて、関係を清算する酷いメールを送り付けている。そして、耐え難い酷さの彼の返信に、私は携帯電話番号とメールアドレスを変更して、彼の情報とメモリを全て消去した。それでも、何処かに残る彼の香りと、断ち切れない不本意な引き摺(ず)る想いに、私は何度も、上書きを試(こころ)みてメモリーやフィーリングを消し去ろうとしていた。
 でも、今は違う。
 私が、いけなかった。
 今日、はっきりと私は、気付いた。
 今なら、解(わ)かる。
 理不尽な無慈悲(むじひ)さで、私から断絶され、自暴自棄(じぼうじき)になる、彼の気持ちが……。
(私は、彼にだけ、誠意を示していなかったんだ)
 もう、誤魔化(ごまか)さないし、誤魔化せない!
 彼を想う気持ちは、苦しさと楽しさに、不安と愛しさと焦りと安らぎが、入り混じって、私は彼に恋をしている!
(私を、優しく抱きしめて……。 ううん、違う。そうじゃなくて……、私を包み込んで…… 欲しい……)
 部屋へ帰るなりシャワーを浴びて、埋もれるくらい泡立てたシャボンといっしょにベットリとした気持ち悪い汗を流した。そして、歯と口の中の隅々まで丁寧に先細の歯ブラシと歯間ブラシで磨いて洗い尽くした。
 浴室から出て綺麗に洗った身体に残る雫(しずく)を拭き取り、机の隅に置かれている彼が造ったミニチュアのお城を手に取って眺めながら思う。
 お城の形が、『キープ』と言う国境や辺境の警備隊が駐屯(ちゅうとん)する西洋の城塞(じょうさい)だと、図書館で何気に見ていた歴史書で知った。
 私は髪を乾(かわ)かしながら、其の砦(とりで)のような西洋城館に何本も翻(ひるがえ)る色鮮やかな旗を弄る。
 靡(なび)く旗が、一本だけ失われて旗竿しかない。
 それは、苛ついた私が彼の前で折った痕(あと)だ。
 私が乗って来てと願ったから、彼は同じバスに乗って来た。
 私を守ってくれると思っていたから、立ちはだかった彼に救くわれた。
 勝ってと望んだから、彼は弓道試合で個人優勝をして薔薇をくれた。
 来て欲しいと知らせたから、明千寺に彼は来て、立戸の浜で話せた。
 滓先輩のマンションでも、私は信じていた。
 助けてと願ったから、バックの底で忘れられていたスタンガンは、彼の代わりに激しくスパークして、しっかりと私を守ってくれた。
 ついさっきの、絶望的な状況を思い出したら、再び指先が小さく震え出し、直ぐに、手や肩も震え出すと足と背中が続いて、全身がガタガタと歯の根も合わないほど、激しく震えた。
(……怖かった!)
 今頃になって、襲って来た怖さに、震えが止まらない。
(何これ、怖いよ……、震えを止めて……。ねぇ、近くにいて、私を助けて……)
 『パキッ』、震えた指先に力が加わり、城館の屋根の上に靡く旗がまた一本、……折れた。
(ほんとに、すっごく恐かったんだからね)
 私は彼に素直になりたいと、心から思う。
(私は、まだ、間に合うだろうか?)
     *
 あれ以来、滓先輩からは、電話も、メールも、来ない。
 GPSサーチで居場所を探しても、全然、反応は無く、『探索に失敗しました』と、マップ表示もされてないから、電話機能やメモリデーターの破壊には成功しているようだった。
(まっ、携帯電話の中身は、塩入り熱湯と電撃で破壊したから、私の電話番号やメールアドレスは、もう分かんないよね)
 これで、一方的にGPSサーチする私の違法行為も証拠隠滅(しょうこいんめつ)されたけれど、滓先輩達を死傷させても構わないと思いながら徹底して痛めつけたので、てっきり、暴行障害での刑事事件になるかもと思っていた。
 なのに、一向(いっこう)に加害者の私を逮捕する礼状を持った私服の人や、任意同行を促す制服の人達は現れなかった。
 それでも、暫(しばら)くは、滓野朗達の報復や刑事っぽくした不審者などを恐れて、部屋の出入りや外出の行き帰りのコースを毎回変えていたし、何度も、途中で辺りに注意を払って尾行や張り込みや待ち伏せに警戒していた。
 クライシスディの翌日には、両親へ御願いして警備会社と契約して貰った。
 玄関前の通路の監視に、動く物だけを録画する超小型高解像度のCCDカメラを、室内にはドア側と窓側の監視をマンセンサーとCCDカメラを連動させて、いずれも、気付かれないように各種の防犯センサーと合わせて設置した。そして、移動体がセンサーに感知されると、リアルタイムで記録している画像を私の携帯電話へ送って来るようにもしている。
 一週間ほど過ぎた頃、キャンパスで滓先輩と御仲間の屑野郎達を見掛けたけれど、私を見るや否や、そそくさと遠巻きに逃げて行った。
(だいぶ、懲(こ)りたようね。差し当たって、私は安全かな……?)
 報復が、少し心配だったけど、実際、彼らは全く接触して来なかった。
 まっ、事がオープンにされて事件化されるのは、学生の身分と大学卒業後の社会的立場を彼ら側から考えると非常に分が悪いだろう。
(それでも、遣られたら、遣り返すだけだわ。次こそ、ベランダから蹴落としてあげるからね。きっと、其の時は、輪姦されそうになった時以上にシリアスで、命懸(いのちが)けになるかも…… 知んないけれど……、必ず遣り遂げてみせるわ!)
 今は、スタンガンの他に通販で購入した催涙(さいるい)スプレーと、カイザーナックルグリップの刃渡りの短いフォールディングナイフもバックに忍ばせている。
 催涙スプレーは、校舎の屋上で噴射しながら、ジッポーで火を点けて火炎放射ができないかテストしたけど、ビビるほど危険な炎の大きさに、テストは一度だけで、二度目の放射は止めてしまった。
 スタンガンと催涙スプレーの両方が失敗した場合に備(そな)えて、最後の抵抗手段とするフォールディングナイフは、時々、低い姿勢と逆手(さかて)握(にぎ)りの構えを部屋で練習している。
 ナイフを持つ右手を背後に隠して左の拳(こぶし)で鋭く牽制して、いきなりカイザーナックルで殴(なぐ)ってから、戻す拳の逆手の刃で切り付けるつもり、相手の目を潰せるか、首を切り裂ける。
(……上手く、……行けばね)
     *
 彼が、愛おしい。
(息が止まるほど、強く、私を抱きしめて! 私を離さないで!)
 切なくて息をするのも、苦しい……。
 彼の私への想いも、……そうだったのだろう。
 私は、彼の私を求める強い気持ちが十分に理解できていなかった。
 恋は、こんなにも胸のときめきが苦しくて、愛おしさに切(せつ)なくなるなんて知らなかった!
 いつも、彼を想う気持ちを認めたくなくて、暈(ぼか)したり、散らしたり、していたから、こんな気持ちになるだろうって、分かっていたのに、束縛(そくばく)されるみたいな怖さに、私は知ろうとしていなかった。
 彼は今でも……、私に恋をしてくれるだろうか?
(彼に、逢いたい!)
 私が、『もう来ないで』と言ったこの街に、何度も彼が来ている気がしていた。
 今は、必ず彼に逢おうと私は思っている。
 モンスターバイクの重低音のサウンドが聞こえると、私は振り返って見る。
 最後に彼を見た……、彼とは、これっきりにしようと心に決めながら、見えなくなるまで見送っていた相模大野駅の周辺で、私は、彼の乗る大型バイクを探した。
 重いエキゾーストサウンドを響かせて、私の前に不意に現れる気がして、キャンパスへ通う道筋や淵野辺(ふちのべ)の桜並木で、桜木町(さくらぎちょう)の駅でも、私の瞳は、行く先々で彼を探し、モンスターバイクのサウンドに聞き耳を立てる。そして、あれから、幾度も来た大桟橋で彼の影を探した。
(絶対、彼は来ていて、私を探しているはずよ!)
 そう思って……、思い込んで……、思い込みかも知れないけれど……、私は彼の姿を探す。
 まだ、間に合うと信じて……。
(互いが、強く願えば、必ず逢えるのよ!)
 私は、あの春の初めて彼に声を掛けられた日から、ずっと、彼を意識し続けて来たのだから、再び巡(めぐ)り逢えると思う。
(でも、逢えても……、それから、どうするの?)
 私は、自問する。
 ただ、逢いたいだけ……、今なら相模大野の駅へ大型バイクに乗って、私に会いに来ただけの彼の気持ちが解かる。
 謝(あやま)るの? そして、もう一度、私を好きになってって、御願いするつもり?
 まだ、彼も偶然の出逢いを求めて私を探しているだろうか?
 私は逢いたいと探していても、まだ、彼が私を好きでいてくれるとは限らない。
 彼も、私を探しているとしても、それは、今の私を見て、私にフラれた後の自分を肯定(こうてい)したいだけで逢いたいのかも知れない……。きっと、偶然に彼が私を見掛けても、既に、私の裁定が下されたと思い込んでいるから、静かに見ているだけで、声を掛けてこないでしょう。それに、私も出逢いを装わないと思う。
 それは、『やっぱりフラれて、良かったな』とか、『あれは、幸せへの分岐点だったな』とか、『巧(うま)く付き合えても、早々に破綻(はたん)していたな』とか、『彼女のラストメールは、新たな出逢いへの神のオラクルだったな』なんて、見た目からでいいから、幸せの差を確認して確証を得たいだけなんだろうな…… って、自分が卑屈にしてしまった彼の悲観的な思いを想像しただけで、私は、自業自得の遣る瀬無い切なさに、胸が苦しくなってしまう。
 東京に近い此(こ)の街は、何もかもが、トレンディで眩しく見えて、私も眩しさの中で輝けると、住み始めた頃は思った。
 スタイリッシュにスマートでイケメン、そして、リッチな彼氏。
 お付き合いは、トレンディでゴージャスなドリーム……、などと、実の無い背伸びを目一杯、私はしていた。
 今は、その全てが、空虚(くうきょ)で空々(そらぞら)しくて嘘っぽい。
(つくづく、私は、バカだ……)

 

 つづく