遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

立戸の浜(私 高校三年生) 桜の匂い 第七章 八

 砂浜の流失侵食を防ぐ離岸堤。この砂浜の広がり具合から離岸堤の効果は十分に有ると思えた。でも、もう十年や十五年で堆積した砂が離岸堤まで砂州を造ってしまいそうな気がする。そうなると道路際は今もでそのようなのに、更に埋め立ての緑地化したみたいになって遠浅の渚は無くなってしまう。既にゲートボール場は在るから、次はパットゴルフのフルコースが造れるかも。

 そんな残念な今の立戸の浜でなくなる前に、国道からのアクセスルートは明千寺へ至る道くらいに広げてもらい、消えつつある砂浜をパンフレットで見た沖縄のレストハウスが建つ人工ビーチのように整備して、沖波漁港側の護岸堤に囲まれた何十年もずっと使われていない埋立地に道の駅のようなのやオートキャンプ場も隣接させて、ちょっと沖の浅瀬の岩場の端に穴水マリーナからヨットが来ても係留できる小さな明滅点灯する灯台も建つミニ埠頭を置き、シンプルで堅牢な造りの桟橋で繋げて欲しいなと考えてみている。

(しっかりしたセンスで整備すれば、キリコ祭りと共にマリンリゾートとして、夏場の観光資源になるんじゃないかな。宿泊客を当て込んで民宿を始める人が増えるだろうし、メインは夏場のリゾートだけど、冬場の内浦の穏やかな侘び寂の味わいと、美味しい魚を食べに泊まりに来てくれる人がいるかもね。折角、能登空港が近くに在って、穴水町まで電車が来ているから、なんとか出来ればいいのにのにな)

 そうなれば良いと思うけれど、現実は穴水町に余りお金が無いからムリっぽい。それに、しょっちゅう大勢の観光客が来るのを嫌がる地元衆もいるだろうから、実現は厳しくて難かしいと思う。

「この浜は立戸の浜って言うの。以前の浜は、あそこの暗い影みたくて目障りな、消波ブロックの塊が無ったから今よりも明るくて、もっと水は青く透明で砂も白かったみたい。能登島や富山湾や立山連峰もくっきり見えて綺麗な浜だったそうよ」

 この浜に来る度に想像していた。南の島のような眩しくて白い砂浜に、コバルトブルーに輝く渚と艶々したエメラルドグリーンの波のうねりを。今もそれっぽいけれど、もっと条件さえ満たされれば立戸の浜も珊瑚礁の海の色になるかも知れない。それに、あの沖合いのテトラポットで組まれた防波を兼ねる離岸堤が無ければ、もっと明るく広々として開放的になるのにと思う。

(あんな海面上まで組まれるんじゃなくて、満潮で水面下一メートルばかりの高さになる、人工リーフだったら、砂の流失や溜まりは、どうなっちゃうのかな?)

「それが、諸橋ダムが出来てから、年々、砂が流失していって浜が小さくなったみたい。だから、あそこに浸蝕を防ぐ消波ブロックの提を造ったの。砂浜は戻って来たけれど、遠浅は以前の半分しかないと、地元の人達は言っているわ」

 ダムは灌漑や生活用水や災害防止に役に立つ。でも砂浜を削ってしまったりして景観を変化させるなど、生態の環境や大地の循環サイクルを不自然にしてしまう。以前、この前波の集落が在る穴水町よりもっと奥、能登半島先端近くの浜に原子力発電所を誘致しようとする政治的な動きが有った。

 青い松林が続く弓なりの浜で、一度だけ両親に連れられて泳ぎに行った事が有る。遊泳地区に指定されていない深みの多い渚は、夏の陽射しにキラキラとエメラルドグリーンに光る波のうねりが美しく、泳いでいて気持ちが良かった。沖の真っ青な海と霞むような藍色の空に真っ白な入道雲が湧き立ち、世界が開放感に溢れて自由で美しいと小学生ながらに感じた。

 真っ白い浜は砂粒じゃなくて全てが細かく砕かれた貝殻屑で出来ていたから、嬉しくてお姉ちゃんと走り回って喜んじゃった。透き通るピンク色の桜貝の欠片も多く流れ着いていて、お姉ちゃんと競っていっぱい集めたのを覚えている。まだ机の引出しの何処かに有ると思う。バーベキューを食べたりして一日中そこで遊んでいたから、全身が真っ赤になるほど日焼けして一週間くらい痛くて酷い目に遭った。今だったら染みになっちゃうかもね。

 そんな、すっごく綺麗な浜辺に原子力発電所が建てられたら景観が台無しだ。何より最後の廃棄まできちんと始末できない原子力なんて、リスクが大き過ぎる危なっかしい物はいらない。放射能物質を扱う事自体、核分裂反応が制御できても、放射線を無くせない限り安全じゃない。制御できなくなったら広範囲に汚染される。誘致など、とんでもない話で能登半島が駄目になってしまう。

 中能登の赤住町に在る活断層の上に建つ原子力発電所も同じだ。何度も偶然に助けられているだけのメルトダウン寸前の事故を繰り返していて危険極まりない。炉心容器や格納容器が破損すれば為す術も無い技術の癖に安全だと言い張っている。もしそうなったら未来永劫その場所に住めなくなってしまう。原子力発電のリスクを考えれば、どうとでも別の代替えエネルギーへ変更できるのに、国の政策的に原子力発電が推し進められているだけの、政治絡みの利害関係が優先されているだけだと思っている。そもそも本当に電力不足なの?

(SFみたいなテクノロジーで、錬金術みたいに放射能物質の電子や陽子を組み替えて、放射線を出さない性質にするようなクリーナーや、包み込む粒子が開発されない限り、能登から原子力発電所を無くしてよ。私の大好きな能登半島を苛めないで!)

 彼に話しながら内浦の海を見ていると、誘致反対派の父がした話しを思い出して少し憤ってしまう。

『穴水の牡蠣や能登牛が食べれなくなってしまったら厭だろう。鮑も、冬の美味しい魚も、香箱蟹もだ。能登の美味しい物全部、食べれなくなるんだぞ』

(なんか、お腹が空いちゃったな。やっぱり美味しい物が食べられなくなるのはヤダ)

 私の指差す先を眩しそうに見る彼の青ざめていた顔に、ほんのりと紅く生気が戻って来ている。

「毎年、来ているんだ?」

 彼の問い掛ける口調から此処が私のお里で、私が能登を大好きだと分かったみたいだ。

(少し恐い目に遭ったようだけど、彼は此処を気に入ってくれるだろうか?)

「うん! 夏休みに入って直ぐにこっちへ来るの。登校日は無視。夏期補習も合宿もブッチしてるの」

(今年はね、自動車の運転免許を取るんだぞ)

 数日前に私は十八歳になり、今、穴水の自動車運転教習所へ毎日通っている。今日も午前中は教習所内のコースを周る実技をダブルで受けてきた。既に普通二輪の免許を持っているから第一段階の学科は免除され、実技の運転も数時間は免除される。第一段階は、あと一、ニ日で終了だ。第二段階の学科は少しだけで実技の運転ばかりだけど、問題無くクリアできると思う。教習所を卒業すれば試験場は学科試験無しの無試験で、普通自動車運転免許証は即日に交付される。教習所の実技で大ミスをしない限り、夏休み中には楽勝で取得できるでしょう。

(まだ誕生日を過ぎていない彼には、羨望と悲観で落ち込みそうだから知らせない)

 夏休み前からお婆ちゃんに自動車の運転免許を取りたいとお願いしていたら、優しいお婆ちゃんは、大学へ行っても社会人になっても毎年必ず明千寺に遊びに来る事を条件に、私が運転するジレラ君の後ろに跨り、教習所まで行ってくれて入校手続きと受講料金を一括で支払ってくれた。

(ありがとう、お婆ちゃん! 絶対に毎年、遊びに来るね。車を買ったらいっしょにドライブしようね。約束だよ!)

 学校は在学中の運転免許の取得を厳しく禁止している。それは運転免許取得を起因とする風紀の乱れや進学率の低下、交通事故の加害者になった場合の学校名の失墜などを学校側が恐れているからだ。それに事故は物損や他人への危害だけじゃなく、本人も死傷する場合が多いから非常に危ない。そして、純粋なティーンエージャーは無謀で暴走し易い。したがって高校生の自動車や二輪の運転免許取得イコール危険となってしまう。実際、高校生の絡んだ悲惨な事故は多い。

 だけど、私の知った事じゃ無い。免許は取得しても卒業まで運転しないつもりだから、取得できる時に取得しておく。折角、夏季講習をブッチして来ているのだから一日中ブラブラしてるのは、勿体無いないじゃない!

(夏休み明けに普通車免許を取得しているのは、たぶん、クラスで私一人だけだろう。それに普通二輪の免許も。高校では話す相手もいないし、親しいクラスメートもいないから、私だけの秘密の優越感ってとこね)

「夏休み中の、補習授業か…。毎年、不参加なんだ…。それって、参加しないと担任や進学指導から、理由を追求されて責められるんじゃないのか? 心証も悪くしそうだし……」

(ああん?)

 彼が低く声で咎めるような事を言い、眦と鼻頭に力が入った。

(それ、本気で思ってるの? そぉ、あなたも『大勢の素直な日本の子供達』の一人ってわけ?)

 これから否定的な彼と、互いの感情を受け止めれる許容範囲や激昂していくだろう言葉尻に、不遜な態度も確認し合うのかと、顎を引きながら彼を睨んで気持ちを構える。そんな攻撃的な私のオーラを感じたのか、直ぐに彼は言葉を切り替えて続けた。

「半強制の夏休み学校行事はブッチかぁ……。それも有りだね。補習なんて、僕んところは進学校じゃないんだけど、受けるのは進学に変更した連中と赤点の奴だ。そっちのはわからないけど、サボってもいいんじゃないの。どうせ自分次第だし、成績がアップして志望する大学に合格すれば良いんだから」

 『参加した方が、良いんじゃないの』とか『みんなが受けてるのだから、必要だと思うけど』なんて、叱るような鬱陶しい事を言うのかと思ったけれど、それは間違っていた。

「あはっ、そうね。結果を出せれば良いんだよね。叱られるかと思っていたから、同じ考えで良かった! ありがとう、嬉しい」

 隠れ逸れ者モドキの私は、彼に肯定されたのがとても嬉しかった。家族以外で肯定してくれたのは、彼が初めてだ。嬉しくて弾む気持ちが私に地元のキリコ祭りを話させた。

「昨日は、この浜で御祭りがあったのよ。ほら、そこに大きな焚き火の跡があるでしょ。笛を吹き太鼓や鉦を敲き鳴らしてキリコが海に入って行くんだよ」

 首を傾げて聞く彼は、たぶん、キリコを知らないと思う。

(切り込み細工をしたガラスのコップの切子じゃないよ)

「お祭り? キリコ……?」

 案の定、彼は訊いてきた。

(能登の人じゃないと、ふつう、キリコは知らないよね)

 キリコは漢字で『切籠』と書き、フルネームの切子燈籠を縮めた言い方だけど、誰も今では切子燈籠なんて言わない。奥能登に発祥して中能登辺りまでの御祭りで担がれている。燈篭だから中に明かり灯して夜も練り歩く。

「あっ、キリコって言うのはね。上に大きな行灯が乗った御神輿なの……。ううん、ちゃうわ。灯篭なの。行灯なんて言ったら、おばあちゃんに叱られるわ。そう、四角くて大きな灯篭よ」

 能登独特のキリコは、小学校一、二年生の頃に上に乗せてもらった事が有った。鉦を叩いたり太鼓を打ち鳴らしたりして、けっこうはしゃいでいたのを覚えている。

「ここ遠浅でしょ。海の中でキリコ同士がバトルするのよ。けっこう豪快で凄いわよ。なんか、担ぎ衆はみんなカッコイイしね。金沢や県外に出た人達もお祭りに合わせて帰省して、大勢参加するんだよ。金沢に引っ越してからも毎年見に来ているの。で、帰省した人達は今朝早く戻って行ったから、またいつもの過疎でガラガラの田舎になっちゃいました」

 大きなキリコを担いで、ワイワイガヤガヤと囃子声や気合を掛け合いながら、町中の通りを押し通る大勢の若い衆が、幼い瞳にもかなり格好良く映った。

 この時間、既にキリコは点検して分解され保管庫に仕舞われている。担ぎ衆達は一晩中、集会所や町のあちこちの家で飲み食いして騒いで、午後になっても、まだ寝ている人は多い。帰省した人達も少しの仮眠だけで早朝から戻って行く。毎年、能登半島全域で繰り返される、地元衆の結束が堅い神事だ。

「バトル? 夜の海でキリコをぶつけ合う祭りなわけ? それって危ないだろう?」

(夜? 祭りは夜じゃないよ)

 あんなに大きくて重いキリコを大勢で担いで、いくら腰辺りしかない遠浅の海でも暗い夜に入って、ぶつけ合うように練り回るには危ない。しかも、キリコは四つも、五つも集まり、殆どの担ぎ衆は酒びたりの酔っ払いだから、ちょっとした不注意で大事故になってしまう。

 みんなは昼間でも安全と無事故に細心の注意を払っているのに、篝火の明かりしかない夜は暗い視界で注意が行き届かない為に、視認できないアクシデントやイレギュラーは気付けずに判断が遅れて、溺れたり、怪我をしてしまうでしょう。最悪は亡くなったり、行方不明になる人が出るかも知れない。それは、冬に雪が降って凍える街の路上で山車を曳き回す祭りをするくらいに、とても危険な行為だと思う。

「はあ、なんで夜なの。そんなわけないでしょ! 五つぐらいキリコが集まるから、暗いのは危な過ぎじゃない。昼間、バトルは明るい内にして、昼も夜も飲んで食べてで騒ぐのよ。お祭りなんだからね」

(いくら気が荒い能登の男衆でも、そんな無謀な事はしないわよ。まったく、推して知るべしなの!)

「僕も、その祭りに参加できるかな?」

(ん、キリコを担ぎたいの? 本気で祭りに出たいわけ?)

「祭りに参加しても…… いい…… かな?」

 どうやら彼は本気で参加したいらしい。キリコを担ぐのは地元の同級生だった子に頼めば問題無くできるだろう。でも、彼との関係をどんなふうに勘ぐられるか堪ったものじゃない。

 私は空を仰いで、彼が祭りでキリコを担げる方法を探りながら答えた。

「……できると思うよ」

 近所のお盆で帰省した娘さんの旦那や息子も担いでいるし、誰かの友人らしい知らない人もちらほら交じっていたり、観光の人達も飛び入り参加しているみたいだ。それに年々、過疎化で担ぎ衆が少なくなってきているから、インターネットでも参加者を募集していると思う。

 彼も私に釣られて空を見上げた。富山湾に湧き立つ入道雲が傾いた陽に照らされて、青みが深まる空をバックに、光る白さと染まる朱色のコントラストが美しい。

「金沢や県外に出た人が、友達や知り合いを連れて来て、参加させているみたいだしね」

 お祭りの半被を着た彼が、祭りに参加してキリコを担いで町内を練り歩いている様を、ちょっと想像してみる。担ぎ衆に合わせて大声を張り上げる彼が、浴衣の私の声援で足が縺れて転け、担ぎ衆のみんなに踏まれそうになっていた。……なんか可愛そう。

「あははは、いいんじゃない。来年から参加すれば。たぶん、募集してるかも知んないから、穴水町のホームページ見てよ」

 想像の可笑しさで笑いながら言う。彼は参加する気満々で目を輝かせて嬉しそうだ。額に鉢巻を締めて晒しを腹に巻いた祭り装束の凛々しい彼、団扇に浴衣姿で髪を上げた初々しい私、…凄くいいかも知れない。

(絶対にキリコを担いでね。でも、明千寺のキリコは海に入らないよ。祭りの後、夜の浜辺を歩きましょう。そして、夜の海も泳いでみる?)

 今日の私は金沢に居るのと違って開放的だと、自分で判るほど自覚が有った。でも不思議と違和感を感じなくて、寧ろ本来の人懐っこい自分に戻れて自然な感じがする。

「ありがとう。ウェブで調べてみるよ。無くても次に来るついでに直接、町役場へ行って問い合わせてみる」

(次に来る? また来るんだ! 来てもいいけど、いつなの? 夏休み中しか此処にいないよ)

 インターネットの応募で参加する事になると、彼は前日から来て、お祭りの準備やキリコ出しを手伝い、担ぐ練習もするのだろう。それなら宿泊は町内会や青年団から公民館が提供されて食事も用意されるはずだ。だから、彼が参加するのに何も心配しなくてもいい。でも、担ぎ手への参加が決まれば、ここの勝手を知らない彼を私がエスコートする事になり、それで、彼が私に会いに御里へ来れば紹介しなければならないでしょう。

(きっと伯父さんや伯母さんは、彼に『公民館じゃなくて、家へ泊まれ』と言うだろうし、彼が私を好きで、私も彼に、それなりの好意を持っているのを知っているお婆ちゃんは、絶対、『泊まれ』と言って譲らないよね)

 悪乗りで同じ部屋に寝る破目にはならないと思うけれど、御里で彼と一つ屋根の下に一夜を過ごすとなると、けっこう恥ずかしい。それに伯父さんが彼の泊まる旨を町内会へ知らせれば、夜は町内会の役員さん達や青年団の衆も御里に来て、凄く賑やかな前夜祭になるに違いなくて、彼と私は持て囃されたり、冷やかされたりして、フラフラになってしまったりして……。なんて想像してみただけで、顔が火照って来て俯いてしまう。これ以上、キリコ祭りをネタにしたら『今夜は御里に泊まって行けば』って、彼を誘ってしまいそうだ……。

(なに積極的になってんのよ、私! 彼が来てくれたのが、そんなに嬉しかったわけぇ? なんか、先走りし過ぎで、変じゃん!)

 来年に備えて今から御里で馴染まれても恥ずかし過ぎるので、私は俯いたまま話題を変える。

「朝は無理しなくてもいいよ」

 言ってから、『私って、馬鹿じゃん』って思った。これでは全く話の向きが変わってしまって、彼が着いて来れやしない。

「はあ?」

 やっぱり、彼は繋がらない言葉の意図が分からない。

「朝のバスはもっと早いのに乗って、早朝自習に参加しなくちゃならないの。だから無理に私と同じバスにしなくてもいいよ。夜も塾に通うから遅い帰りになっちゃうし」

 早朝自習に間に合うように登校するには、これまでより三十分は早いバスに乗らなければならないと思う。自由参加のはずの授業開始前の自習には既に春からクラスの大半が来ていて、夏休みが終われば半強制の全員出席のムードになり、参加しない生徒は異端な者というか、みんなの輪を乱す非協力者というか、ハミられて村八分される罪人にみたいに扱われて、学校行事や提出書類などの必要な連絡事項の情報は、その場に居ないと何も知らされなくなってしまう。

「大学受験は、……大変だな」

 彼が言う『大変だ』は、上級学業へ進学する為の必須課程のような普通高校に蔓延る受験至上主義の渦中にいる私への同情だろうか?

 クラスの担任や学年主任に教育指導の先生達は、『なぜ、参加しないんだ?』、『みんなで頑張るんだ』なんて常套句を繰り返し、みんなの為にならない悪い奴みたいな疎外を生んで、進学に関しても『勝手に受験しろ』と、非協力的になってしまうだろうけれど、それは進学目的の普通高校のシステムからして仕方が無い。懸命な努力のベクトルを揃える生徒達の受験は学校の為に行われている。

「あっ、 ごめん! 他人の事のように言ってしまった。ごめん」

(そう、他人事で正解よ。応援や労いは欲しいと思うけれど、試験の合否なんて、所詮は個人の意識と努力の結果。結局、自分次第ってことね。だから、『個人、個人の戦いだ』は有りだけど、『みんな、いっしょに頑張ろう』は、やめて!)

「いいよ。気にしないよ。受験するのは私で、……あなたじゃないから。私、気持ち的にはね、そんな受験が全ての毎日に抗ってみたいの。それでどうなるって訳じゃないのにね。抗うくらいなら進学校へ来るなと言われそうだけど、受験は嫌じゃないのよ。逃げたりさぼったりした附けは、自分に来るだけなのにね……」

(何がしたいんだろうな…… 私)

 受験しようとしている大学の専攻は医療技術系でネット資料のカリキュラムを見る限り、現場レベルの実習や座学が多いみたいだから、入学しても余り気楽になれないと思う。

 私は進路を決めた事も、彼に話す。

「私は相模原の大学へ行くわ」

 シルバーウィークには、キャンパスや周辺の環境や住まいの下見に行くつもり。

「サガミ……? ハラ……?」

 やっぱり彼はその地名を知らない。

「神奈川県の相模原市よ。出刃包丁で有名な所みたい。来月下見に行くから、お土産に買って来てあげようか?」

 私は出刃包丁を売っている場所も、本当に売っているかどうかも知らないのに適当な事を言っている。

「いらない。買って来なくてもいいよ」

 調べもしない根拠の無い出刃包丁を、彼は真面目に答えてくれた。何かで聴いた歌のフレーズで『あした相模原まで出刃包丁買いに行こ』って知っただけ。

(その歌詞の中の彼女はね、洗濯好きだから、彼氏の頭ん中まで洗っちゃうんだ。口から火を吹くほど大好きで彼氏に迫ってあげるのに、爆睡してるところを彼氏が出刃包丁で刺そうとするの。それって酷いよね。あなたは、そんなことをしないでよ……。っていうか、この先、あなたの傍らで眠りこけるなんて、いつになるのかなあ~)

「そこの医療工学科にいって、臨床工学技士になるの。ちょっとレベル高いから勉強しなくちゃね」

 話しながら掌で砂浜を均して指で『相模原』『医療工学科』『臨床工学技士』『出刃包丁』と書いた。彼は地名は理解したようだけど、あと二つの砂に書いた文字を指差しながら顔を傾ける。

「うう……、それって何するの?」

(でしょう? 医療関係を専攻したくて、だけど、医学部なんて自信も無いし、学力的にも無理だし、先月に大学の資料を捜していて目にしたの。私も初めて知ったんだ。そして、これだと思ったの)

 訊きながら彼は、差し示す指で『出刃包丁』の文字を掃い消した。

(刺すか、刺されるか、なんてね。ジョークだったに不吉と思われちゃったな)

 彼の問いに、私は資料内容を思い出しながら、私の回すべき車輪と道を見定め直すように説明した。

「人工臓器や生体材料や生命維持装置など。まあ、医療機器全般の取り扱いかな。国家試験を受けて資格を取らなくちゃならないの」

 医療ミス、いや医療事故には医療機器の誤操作や無知な指導による使用も多い。それは単に操作する側だけの問題ではないと、調べた関係資料や文献やインターネットの掲示板には記述されていた。複雑な操作や調整、しかも幾通りでも設定できる不確実な仕組みやシステム、それに電磁波などの外部干渉も誤操作や誤作動を招いている。医療現場のコストダウン優先の安易で安直な考えが、短絡的な医療の質の低下と人命軽視を誘発しているのかも知れない。

 それならば、私は医療機器の仕組みや操作に熟知して、現場の立場で医療機器の開発に関係して行くように、そんな、医療機器を開発する分野の神様的な存在になって遣ろうと思う。

「それって、人の生死に関する事だろう? 責任重大じゃん! できるん?」

(彼の言う通り、人の生き死にに、直接携わるから責任は大きい)

「さぁ、ちゃんと理解して上手くできるか、分かんないわ。きっと責任は重いよね。それに、何の仕事を目指しても責任が有るし。でね、地方公務員や国家公務員の試験も受けるつもり。何をする訳でもないんだけれど、取れそうな時に資格を取っておくの。まぁ、とにかく、そこへいくわ」

 今は医療の勉強をしたいと思っている。卒業後に医療の仕事ができるかどうか、大学の四年間で見極めれると思う。

「凄いね、君は。ちゃんと志が有って、自分にできる事を考えているんだ」

 彼から志が有ると言われた。

(志って言葉が、発音し難くて、重い……)

 黙って私は首を横に振る。

 発音のニュアンスが深く考えて決めたみたいな、私的じゃなくて公への奉仕を含むような、筋が通ったブレない真心って感じがする。

「君の志に、真心を感じるよ」

 志の言葉から私が受けた思いを、間に合わせ的で自分の希望を当て嵌めただけの志望理由に、感じると彼は言ってくれた。

(真心かぁ…、そんな志みたいな体裁の良い考えなんてしていないから。それは違うよ)

 私はまた、左右に顔を振る。

(そんなんじゃないの。凄いのはあなたの方、中学校三年には今を見越していたでしょう。そんなあなたに私は啓発されたのよ)

「そうなると一人で生活するのだろう? 近くに親戚でも住んでいるの?」

 授業料や教材費などの大学へ納めなけらばならない費用、向こうで暮らす部屋の賃貸料、毎月の生活費、それに多少の小遣いなどの実際必要な金額は、私が家から離れて一人暮らしをするからアルバイトで補っても、家から通っていたお姉ちゃんより大きくなる。……お姉ちゃんが短大を今年卒業して、両親の負担が少しは楽になったのに、来年から其れ以上の負担を私立大学へ進学する私が掛けてしまう。

 両親から進路を訊かれても高額の負担が迷惑になりそうで、言い難さに口篭っていると、『遣りたい事が有るなら、お前の好きなように進め、応援するから心配するな』と、父も,母も、そして姉も言ってくれた。毎年の必要額は計算されて金銭の捻出算段が纏まり、苦しい生活になるような負担ではないと、私に書き纏めた収支額を見せながら説明してくれたから、今は安心している。

(お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ありがとうございます。とても感謝しています)

 唯、生活環境が変わり大学という未知の教育システムに馴染んで行けるのか、それに、私が描く将来像と受講内容が繋がってくれるのか、そして、キャンパスライフのギャップが大きくて迷い悩んでも、学び続けて行けるのか不安だった。なにより一人での生活は心細いと思う。

 関東圏に親戚は居ないし、元々親しい友人を作らない私は首都圏に知り合いも居なかった。

「相模原の近くに親戚はいないわ。寮には入りたくないから、たぶんアパート暮らしね。学費や部屋代は親が払ってくれて、生活費も貰うけれど一人で自炊生活するの。アルバイトもするわ。今まで一人で生活したことがないから、ちょっとドキドキかな。遊びに来てくれる?」

 やっぱり、今日の私は変だ。話しの流れからとは言え、口からスラスラと言葉が続いて出て不確実な近未来の希望を話した。しかも、私が一人で暮らす相模原の部屋へ遊びに来てと彼を誘惑している。話し終わってから恥ずかしくなり自分の顔が火照って行くのが分かった。きっと耳の後ろまで真っ赤になっていると思う。無意識に指が砂に書いた文字を深くなぞる。

 暑中見舞いの葉書きを書くまでは、私から歩み寄る事は無かった。

(彼を誘うなんて、メールには絶対に打たないし、打てない)

 彼はこんなイレギュラーに近付き過ぎる私に戸惑っている。

「僕は就職だ。進学でもいいんだけど、社会に出れば自分のしたい事が、より早く見付かる気がする」

 喜んで受けてくれると思った私の超前向きで超積極的な提案に乗らずに、彼は自分の進路への思いを話す。自分が言った言葉のようにドキドキしていた私の誘いは、彼に虚しく躱されてしまった。

(別に、受け狙いの冗談じゃなかったのに……)

「そう……、就職なんだ」

 就職すると月曜から金曜まで、毎日八時間の労働時間プラス昼休息一時間の九時間は就業に拘束される。大学で学ぶのとは違って強制的な時間の不自由さが有る。授業料を払って大学へ通うのと、組織に組みされて与えられた遣るべき事を、時間内で正確に成し遂げた仕事の結果として金銭を稼ぐ就職とは大違いだ。

 普通高校卒で就職しても、一般事務やパシリ的な営業や組立ラインの作業ぐらいの仕事を与えられるだけだと思う。余程の実戦力や応用力がなければ抜擢されず、会社の即戦力として役に立たない。いつまでも安い賃金で遣り甲斐の無い簡単な事ばかりをさせられる。

 ブラインドタッチでキーを打ち込み、英検資格や商業簿記、パソコンでエクセル、ワード、パワーポイント、ピーディーエフなどのオフィスツールの使い熟しなんて、出来て当たり前だ。

 そんな生き残りと這い上がりを賭けて戦う過酷で厳しい実社会へ、彼は来春から工業高校卒業のスキルで入って行くと言っている。

(大学を卒業する四年後に、私は既に先を駆けて行く彼に、少しでも近付けているだろうか? 四年の間に学ぶ知識や経験と、それらを活かす責任の有る仕事に就く覚悟が、私に具わるのだろうか?)

「モノ造りがしたい。終生貫けれる生業を見極めたいんだ」

(見極めたい……?)

 覚悟だけじゃない彼の思いや願いの強さが羨ましい。漠然として不安だらけの大人の世界へ飛び込んで行く彼の強さと勇気が私に無かった。いくら志が会っても私には専攻課程の学業で資格を得て、大学を卒業できる見込みがないと、彼のような強い自信を持てないと思う。

(あなたは、何を追い求めているの?)

「どんな物を作るの?」

(生涯を貫けれる仕事って、何……?)

「まだ良く考えていないんだ。漠然と、こうなればいいなってイメージだけで。でも、自分が強く興味が有るところから始めたい。ノウハウを知って自分でもできるようになると、興味が失せて嫌いになるかも知れないけど。それでもヒントが掴めれたらと思うよ」

 対岸の能登島を見詰めて真摯に話す彼の顔は、近未来のイメージを固めていると思う。

「県外に出るの?」

(来て! 私の傍に来てくれるのでしょう?)

「それも、まだわからない」

(まだ不確定な事だから彼は、はぐらかしているのだろうか? それとも、ワザと惚けているのだろうか?)

 私の未来予想は大学のパンフレットの写真で見た満開の相模原の桜並木を、二人で楽しげに歩く姿だった。

「県外に出るなら絶対、近くに来てね。関東…… 首都圏にね」

(絶対って……、素直に成り過ぎじゃん、私)

 見知らぬ街で独り暮らしをする不安と寂しさが、『絶対』と願い最強にさせた。

「ああ。そうなればね」

 さり気無さそうに言う彼の内心は、絶対に相模原の近くへ行こうと決めているのを私は分かっている。まだ就職先や場所の確証が得られていないから無関心を装っているだけだ。そんな思いを私に悟られまいとしてなのか彼は空を見上げた。

 西に傾き真昼の熱を放たなくなった夏の太陽は、急速に冷えていく大地と温かさを蓄えた海原の熱の均衡で風が止まり、ムッと息を詰まらせるくらいに淀んだ暑さだけを残す今も、なかなか沈んで行かないように思えた。それでもゆっくりと確実に夕闇は迫って来ている。

 スポーツ防水のデジタルウオッチをチラ見して今の時刻を知る。彼が御里に現れて、逃げた彼に此処で追い着いて、海に沈めて、肩に凭れて、膝枕で寝かせて、話をして、そんなに長い時間を過ごしていないと思っていたのに、既に四時間余りも経っていた。徐々に光が陰り行く世界は闇を招き出して、今日とは違う昨日に近い明日へ向かっている。

「暗くなってきた。……もう帰るよ」

 デジタルウオッチを見る私に気付いた彼が立ち上がって言った。急いで私も立ち上がり、帰り支度に向かう彼に追い付いて砂浜を歩く。

 気心知れた相手がいて思いを伝え合えれるのが、こんなにも気持ちが良いなんて初めて知った。

(まだ、帰らないで……。ねえ、ゆっくりでも雲が流されているから、今夜は晴れ渡るわ。きっと、スターダストの残りが見えるわよ)

 ここへ来る途中の前波の海岸に在る弁天崎で大きな石の上に寝転び、満点の星空を見上げてみたいと思う。腕枕をされて彼の胸に凭れ、星降る夜空の下に波の音と彼の穏やかな息遣いを聞きながら眠りたい。だけど今、寄り添い歩く近さに触れる私の肩へ、彼は腕を回して来てくれない。それなら、手を繋いで歩こうかと迷っている内に、停めたバイクに着いてしまった。

「ジレラだ。こんなのに乗っているのか!」

 ジレラ君の前で立ち止まった彼が驚き顔で私に訊いた。けっこう自慢な赤と白のツートンカラーのイタリア製スクーターは、パワフルな加速と余裕で伸びていくスピードが気に入っている。

(でも、私のじゃないんだな)

「そう、良く知ってるね。おじさんのだけれど、こっちに来たら私が使うの。そっちのはオシャレにキュートだね」

 私の攻撃的な紅白のジレラ君と違って彼の白い原付は、どことなくペットの小動物みたくて可愛らしい。

「あっ、ああ。ダックテールじゃないのにダックスっていうんだ。なんでも、猟犬のダックスフントをイメージしたネーミングみたいだよ」

 確かにダックテールじゃないけれど、嘴を突き出して暴走するアニメのアヒルキャラに見えなくもない。

「そっか、径の小さな太いタイヤだからデビューした頃は、そんな感じに思えたのかもね」

 ダックス……、ジレラの事をよく知りたくてインターネットでスクーターとか、原付とか、いろいろ検索していたら、そのネームを中古車カテゴリーで見た気がする。

「そうなのかなぁ? 胴長短足のフォルムとも違うっぽいし……。うーん、わかんない」

 外装品のレトロさは否めないけれど、全体のキュートなデザインは今でも十分に通用すると思う。

「親父が知り合いから貰ってレストアしたレトロな奴だけど、可愛いだろ。いろいろチューンをしてあるから速いんだ。僕と親父のお気に入りさ。でも、ジレラには敵わないな」

 彼は自分の白い原付と見比べてから、私のジレラ君をあちこち触りながら羨望の眼差しで見回している。

「これ…、ジレラって、原付免許じゃ乗れないよな?」

(やはり彼はわかっている。そっちの白くてキュートなのより、一回り以上も大きいしね)

「うん、無理! 乗れないよ。普通自動二輪のライセンスは去年の夏休みに、こっちで取ったわ。学校はバイクにうるさいでしょ。だから、金沢じゃバレちゃうから、住民票をこっちに移してあるの。もう少ししたら金沢に戻さなくちゃね」

 金沢の家には自動二輪も原付きも無いから、私の運転できるのは明千寺の伯父が所有するこのジレラ君だけ。だから、交通ルールに違反して捕まったり、ニュース沙汰になるほどの大きな事故に関係しない限り、運転免許証の取得を学校に知られる心配は無い。それにまだ、住民票は自動車運転免許証を取得するまで金沢市へ戻さない。

「うふ、穴水まで送ろうか?」

 本当にもう帰ってしまうのなら、彼といっしょに走って送ってあげたいと思った。穴水から先は、人家や交通量が多くて何かと安心できる。彼さえ良ければ穴水でいっしょに晩御飯を食べても良い。それとも既に金沢へ帰ろうとしている彼を思い止まらせて御里に泊めようか。直ぐに暗くなるこの時間なら御里のみんなは危ない夜道を帰らせる事も無く、喜んで彼を泊まらせてくれるに決まっている。

(明千寺の御里で、みんなといっしょに、お酒やビールを飲まされるかも知んないけど、御飯食べて、お風呂に入って、涼みながらスイカ食べて、噴水花火や線香花火して、大部屋の蚊帳の中でみんなして眠りましょう。……私の知らない彼が見れるかも知んないし……)

「穴水まで送らなくていい。僕なら大丈夫だ。GPSが有るし道に迷わない。一人で問題ないさ。穴水まで行ったら、君の帰り道が真っ暗になるだろう。そっちの方が心配だよ」

(ここは、私が産まれ育った場所で、御里の神様に守られている気がするから、別に心配しなくてもいいよ)

 私へ心配するよりも、彼が気を付けて帰る事に専念できるように呪いを掛けてあげる。

「うふふふ。ありがとう。私は大丈夫よ。違うの、あなたが心配なの。あれに……、気に入られたみたいだから、攫われるかもね。神隠しになっちゃうかも。穴水の町に入るまで、途中で停まっちゃダメだよ。あははは。無事に着いたらメールちょうだい。無事じゃなくてもね」

 神隠しなんて、ちっとも心配していないのにワザとキツい冗談で脅かして遣った。

「海岸沿いは距離有るから、けっこう時間掛かるよ。来た道を戻ってトヤン高原を抜けた方が、全然速いから」

 御里の明千寺に来て素直になれても、つくづく私は意地悪だ。

「どっ、どうか、おっ、御願いです。頼むから、この浜で帰って下さい。本当に君が心配です……」

(アハハッ、ビビってる!)

 両手を顔の前で合わせて拝むように私に頼む、怯える彼が可愛い。

「うん……、ここで見送ってあげるね。気を付けて帰りなさいよ。夜道を飛ばしちゃダメなんだからね。夏の夜の田舎道は、本当にいろんなのが跳んで来て危ないから、ちゃんと家に着いたらメールちょうだいよ。じゃあ、バイバイ」

 彼は白いキュートな原チャに跨り、左のハンドルに付いたレバーを握る。そして、キックレバーを勢いよく蹴った。

(クラッチ……? それ、マニュアルミッションなんだ?)

 車のクラッチペダルを踏むのとは違って、原チャでもクラッチレバーを握る操作が、なんかメカニックぽい。

 ジレラくんは自動変速のATミッションだから、速度に合わせてギア比を切り替えなくて良いので、当然、クラッチレバーは無い。なので、ハンドルの両側に有るレバーは両方ともブレーキ用だ。エンジンの始動もセルモーターを回してのスターターだから、キックレバーは有るけれど非常時用で、まだ踏んだ事が無い。

 スカッ、スカッと二度のキックでも帰るのを憤ったエンジンは、

「あっれぇー? おっかしいなぁー」

 彼が不思議そう言いながら、屈み込むように手を伸ばして何かのレバーを動かした後の三度目のキックで掛かり、ダダッ、パシュン、ダダン、パシュンと不安定な撥ね音で回るエンジンを、あやすようにアクセルワークとレバーの操作で調整する姿が、彼の目指す物作りの人らしくて逞しく見えた。

(ふふ、物作りの人って、どんな人達か知んないけど、イメージ的に職人さんて感じね)

 『カコン!』ロータリー仕様と思しきミッションのチェンジペダルを踏み、彼はギアをニュートラルからローに入れる。その噛み込むギアの乾いた音に私は彼へ言い忘れていた事を思い出した。

「あっ、言い忘れてた!」

 メールでは伝えていたけれど、ちゃんと自分の声で御礼と謝りの言葉を言わなければならない。

「せっかく約束通り、薔薇を持って来てくれたのに、退院しちゃってごめんね」

 退院の日、病院の待合ロビーのベンチで母が医療費の精算を終えるのを待っていた時に、彼が近くを通ったのに気付いていた。彼が薔薇の花束を抱えているのも見えていて、花束をインフォメーションへ言付けていたのも聞こえている。なのに敢えて私は彼に声を掛けずに立ち去らせていた。それも含めての『ごめんね』だった。

「はっ、何を言っているん? 早く退院できて良かったじゃん」

 ここは『どういたしまして』とか『手渡しできなくて、残念』って言うだろうと思ったけれど、これは彼の気遣いだと気付いた。

「うん、そうだね」

 笑顔で返しながら、待合ロビーで深座りして隠れる私に彼は気付いていたのかも、と思う。

「それに、花束は受け取ってくれたんだろう?」

 名前を告げて受け取りを要求する私と、自動ドアのガラスの向こうに離れて行く彼の後姿を交互に見ながら、『なぜ、直接受け取らないの』と言わんばかりの表情で恭しく花束を差し出したのを思い出した。抱くように受け取った大きな花束が軽く揺れて香り漂い、しっとりと優しい薔薇の匂いが鼻腔の奥に嬉しく甦って来る。

「とても嬉しかったよ。綺麗で良い匂いだったわ……」

 幸せなプレゼントを頂いたら、その嬉しさを籠めた御返しをするのは、別に変じゃなくて普通だ。今し方、添える感謝の言葉は言った。御礼の言葉だけでも彼は素直に喜んで、更なる御返しを望むような不満を持たないだろう。だけど、『やっぱり言葉だけのアッサリ系?、ドライ系?』と、これまでのイメージを肯定され続けられるのは納得できないし、嫌だ。これからは彼に私がウエットで優しい女だと分からせてあげたい。

(……ずっと彼は、私の中のソレを求め探していたはず……)

 だから、言ってみた。

「うーん、……ちょっとだけ見てみる?」

 ようやく私の中の彼が形になりそうな感じに、きっとこれは、いつまでも忘れない夏の思い出になるかもと考えながら、右の下腹部をワンピースの上から摩る斜めに構えた姿勢で彼の視線を追う。

「ん……? 見る? 薔薇を? ……何を?」

 私の手の摩る先を見てから惚けた事を言う彼の、私を見る瞳が斜陽を受けて赤く光った。

「見せて上げるね。手術痕は意外に小さいんだよ」

 手術をした翌日のガーゼ交換の時に、私の容態を見に来た母がマジマジとオペ痕みながら、その小ささに感心していた。

「見せてくれるの? ……盲腸の手術痕を? 今……? ここで? 僕に? ……なんで?」

 一瞬、彼は目を見張ったけれど、直ぐに両耳が開くように動いて何かを思案する顔になり、そして薄っすらと綻んだ。その素早く移り変わった彼の表情を見て、『あっ、大胆な事を言ってしまったかも』と、ちょっと考え直してしまう。でも、今さら『じゃあ、無し!』と覆すのも、謝る気持ちが口先だけの薄っぺらな感じになりそうで言いたくない。

「本当に入院したのと、ちゃんとオペした証拠に。それに薔薇の御礼。約束守ってくれたし……」

 ただ、信じられないくらい綺麗な手術痕を見て貰おうとしていただけなのに、彼の躊躇う反応で『御礼』などと形付けて強引に見せ付けようとしている。

「証拠って……、疑ってなんかいない! にっ、入院してたのは知ってる。病院のインフォメーションで確認もしたよ。バラの御礼って、何それ? オペ痕を見せるのが御礼? そんなのしなくていいから。君の希望を叶えようと努力するのは当然で、僕は嬉しくて喜んでいたんだ。だから、見せなくてもいいし、見たくないぞ!」

 私のせっかくの好意なのに、見たくないと言われた。

(私が見せてあげるって言ってんだから、見なさいちゅうの!)

 ガツッ、ダックスのチェンジペダルを逆に踏んでギアをニュートラルへ戻して、カタンとサイドスタンドを出した私は、彼をダックスから強引に降ろそうと、クラッチレバーを握る左手の手首を掴んで強く引っ張った。

「あう! わっ、わかった! 見るから、そんなに引っ張るなあー」

 降り掛けに掴まれた手首を急に離された所為で転がりそうになりながらも、彼はエンジンを切って私の前に立った。

「見て!」

 もう御礼なんて、どうでもよくて、意地でも見せて遣りたい。

「ううん。是非、見て欲しいの。ほらっ、ここよ」

 彼の返事を待たずにバサッとワンピを脱いで、オペ痕を指し示して遣る。

(たぶん、この辺かな?)

 本当に綺麗な縫合だから自分でも良く見ないと分からない。

「うわっ! いっ、いきなり見せるなぁ。おっ、おおーっ」

(『おおーっ』って、なに驚いてんのよ。水着になればフツーに見れるじゃん。別に、水着も脱がなきゃ見れないような、きわどい場所じゃないんだからね)

「これよ。もっと近寄って見ないと分からないから」

 少し前屈みになった彼が五十センチメートルくらい離れて見る。直ぐに眉間に皺を立てて眉毛を寄せると、両肩がグッと下がって三十センチメートルほどに近付けて来た。そして、じっと見たと思ったら小さく溜め息を吐いて、更にググッと十センチメートルも無い至近距離まで顔が近付いた。

 確かに眼を凝らさないと見え難い細くて小さな痕だけど、その右へサッと動いて戻すと今度は左にスーと動いて戻し、それから上へチラッと見て戻す。そして、暫し下方へ流してから戻した眼の動きは何故?

「んっ、んー。本当に小さいんだな」

 オペ痕辺りへ顔を近付けたまま、彼が言った。

(なんか、適当っぽいなあ。あんた、本当に見えてんの?)

 今も小刻みに動いて焦点が定まらないような彼の眼に、ちゃんと素晴らしく目立たない縫合痕を見てくれているのか疑ってしまう。

「ねっ、細くて短いでしょう。しかも薄っすらしているし。良くみないと分からないのよ。だから、こんな水着も着れるんだよ」

 水着と言った途端、その言葉を確認するようにギロリと上目で私を見てから下がった視線が、サーッと私の微妙に恥ずかしいラインを流し見して行く。

「皮膚の細胞の目に沿って切るんだって。そんな筋目なんて、見えないし分かんないよねぇ。」

 私の下腹部の立体地図でも作るかの如く、食い入るような視線がスキャンするみたいに縦横斜めと動かす彼に、『どこ、見てんのよ』の疑りを込めて試すように言って遣る。

「すっごいなぁ、美容整形みたいだ! 指で示してくんなきゃ気付かないかも」

 サッとオペ痕へ視線を固定した彼の言う美容整形の手術痕が、どのようなモノなのか分からないのだけど、雑誌やテレビから知る限りでは外見から見えない部分へメスを入れるのだから、この下腹部の縫合の仕上がりとは全然違うと思う。

「切り口は、ホチキスみたいのじゃなくて、瞬間接着剤を使ったんだよ」

 速やかに再生癒着する接着剤の御蔭なのだろう、局部麻酔が薄れて下腹部の感覚が戻ると軽い痛みを感じるだけだった。その痛みも少し気持ちを逸らすと忘れてしまうくらい、急速に紛れて消えてしまった。

 包丁やカッターで指を切ったりすると、傷口をしっかり閉じ合わせて滲み出た血を拭き取ってから、お母さんやお姉ちゃんに瞬間接着剤を一滴落としてもらっている。瞬間接着剤は直ぐに硬化して塞いだ傷口の表面を固めて止血するし、固めた傷口や周りを強く圧迫しなければ調理を再開できた。でも、オペで使われた接着剤は、市販されている一般的な化学反応で硬化する瞬間接着剤より遥かに高性能だ。

「それ、瞬着でくっ付けたんだ。へぇーっ」

 オペ傷の縫合は確か、生物工学から開発した瞬間接着剤を使っていて、殆ど瞬間に接着されるから痛みが消えるのも速いと説明された。生物的と聞いた時にはナノサイズの粘菌みたいのでも垂らされたかと気持ち悪くなったけれど、閉じ合わせ目が開いて喋ったり、目玉が見えてギロリと睨むような気配は無く、何かが住み着いている感じもしていない。具体的には私から採った血液から分離した血小板に開発された成分を混ぜて作った糊だと、ドクターが言っていたけれど、血液や細胞なんて中学と高校で習った知識しかない私は、上手く想像ができない。

「医療用の特殊なタイプなんだって。局所麻酔のオペで、『もし勇気が有るなら、手術を見ていたいですか?』と、執刀医から訊かれたから、『はい』って答えると、モニターが用意されて映しながら手順や方法を一つ一つ説明してくれるの。患部を出して切るのは、ちょっとゲロって来たけれど、あれは、お腹の中を触ったからだと思う。映像は自分のじゃないみたいで平気だったよ。摘出した盲腸まで見せられたわ」

 彼の頭がフラフラと前後左右に揺れている。ちょっと振れて離れると揺れ戻しでグイッと触れる直前まで迫って来て、縫合痕以外も生々しく観察されている気がするし、彼が私に触れたい欲望を抑え込んで耐えているようにも思えた。

「全部、ちゃんと聞いて見てたんだ。グロい血や肉を見ても、気持ち悪くならずに平気なんだ。しかも自分のだろう。……君は、すげーよ」

(ちょっ、ちょっとぉ、いつまで見てんのよ。……顔、近過ぎだよ)

 腰を折る前屈みの姿勢で私のお腹に顔を近付けて傷痕を見る彼。それを仰け反るように恥らいながら見させ続けている私。彼の鼻先とお腹の隔たりは十センチメートルも無くて、急に恥ずかしさが増して来た。

(……これって、見る角度によっては彼が私のお腹にキスをして……、ううん、私が彼にお腹を舐めさせているようにも見えなくは、ないよね……)

 近いといえば、彼の胸を押さえ付けて沈めた時に、圧し掛かる勢いで泡立つ水の中で私の唇や頬が彼の顔に触れていたのかも知れない。

「うん、そう……。別に自分のでも平気よ。何かが触れてるって感じで、全然痛みは無かったよ。洗って見せてくれた盲腸は、全然、美味しそうには思えなかったけどね」

(はい、見るのは御仕舞い。……もう駄目、恥ずかしくて堪んないよ)

 脱いだワンピースを着ようと彼から離れかけた。すると突然、ダッシュの如く彼は渚へ駆けて行ってザバッと海へ飛び込んだ。彼の理解不能な異常に思える行動にびっくりしてしまう。

(ぷっつん? 熱中症? 日射病? それとも……)

「いきなり何してんのよぉ? ねぇ、大丈夫なの? 頭、おかしくなったあ?」

 そこは膝までの深さしかない浅さなのに、彼は風呂にでも浸かるように肩から下を沈めて、直ぐには戻って来ない。ワンピースを被り着しながら彼の身を心配する言葉を掛けてみる。

「話しの途中なのに、こんな遠くまで呼び付けたみたいになったから、疲れたのかな?」

(疲れと暑さで火照る体を冷やすだけならいいんだけど、そのまま沈まないでよ)

 私に沈められて彼はとても辛そうだった。あれから彼の体が十分に回復していないかも知れないのと、そんな状態で海水に浸かって体を冷やすのは、縮む血管に血栓が普段以上に出来易くなってしまう。だから、せめて今日は海に入るのを控えて欲しかった。沈まれるような事態になっても此処では救える確率が低い。

 彼を見詰める私の顔に、そんな心配が表れていたのだろう。

「いや、なんでもないんだ。ちょっと今が名残り惜しくなっただけ。……話しを続けていいよ。ちゃんと聞いていたから……」

 さらっとポイントの高い事を言ってくれるけれど、どこか言い訳がましく、海水に首まで浸かる意味が不明で怪しい。

「オペの次の日には、直ぐに退院できるって聞いていたから、入院やオペを知らせるつもりは無かったの」

(そんな浅いところで、何してんのよ。早く上がって…… 来てよ……。あっ! もっ、もしかして、何か、私に見られたくて隠してるでしょう。……だったら、それは……)

 私は知っている。二年前に金石の砂丘から見ていた。あの時の出逢いのように異性を私に意識して股間が張り詰めたから、それを悟られまいとして海へ逃げたんだ。この水着とプロポーションに鼻や口が触れそうな近さで下腹部を見ていたのだから、私に色香を感じてくれなければ女性の魅力が無いって事になって悲しくなるところだった。

(まあ、砂浜へ押し倒されても困るんだけど、彼の股間が反応するくらい、私の姿態がセクシーで良かったわ!)

 だからといって露骨にアピールしたり、私に迫るのは、まだまだ謹んで欲しいから、今の彼の行動は安心できる。

(私が、その気になったら、ちゃんと私から迫ってあげるから、それまで抑えていてよ)

「それなのに、夏風邪を拗らせちゃったから大事を取って入院したんだ。試合の応援に行けなくて、ごめんね」

 感謝と言い訳と謝罪を言って私は頭を下げる。

「応援に来る来ないなんて、どうでもいいんだ。来れない理由は知らせてくれたし、メールで応援もしてくれた」

 そう言って笑う彼から『来て欲しかった』の願いを感じて、私の『行きたかった』の想いと重なって行く。重なる切なさは今、声にしなければならない言葉を思い出させて、両の掌をメガホン代わりに、水面を渡り、彼を貫き、波間の果てまで響けと、大声で御祝いを言わせた。

「それじゃあ、改めて、石川県個人戦一位、おめでとうございます!」

 御祝いを言い終えた途端、びっくりする勢いで立ち上がった彼がビシッと気を付けの姿勢になると、バシッと直角に近い角度で背筋も、下半身も、真っ直ぐに御辞儀をした。頭もその角度の延長に揃えて目線は水面を見ていると思う。

 彼の左足の付け根辺りの水着の生地が、私の腕より少し細いくらいで盛り上がっていて、『ああ、やっぱり』って思ったら、ゾクゾクっと背中が勝手に震えた。

「優勝できたのは、君の励ましが有ったからです。本当に、ありがとうございました!」

 私の御祝いの言葉に彼は、低く抑揚の無い大きな声で返礼の言葉を返してくれる。その重い声は七尾湾を渡って来た一陣の強い風にフォローされて私の全てを貫いた。

「ううん、それはあなたの実力よ。私の応援力なんて、ほんのちょっちだけ。あなたは試合の日を知らせてくれて、私の応援を望んだから、私はあなたに勝って欲しいと願ったの。でも、知らされた時は既に入院していて、私はあなたの応援へ行けなかった……」

 身体も、心も、打ち震わせて貫く彼の声に大きな後悔が被さって来て、私を彼へと歩ませた。

「……そう、あなたが勝つ事を望んでいたのよ。私のはっきりとした応援が有れば、あなたは試合で集中力を途切れさせずに勝ち進んで、最後の一人になれると思ったわ」

 ずっと私は彼を傷付けて来た。

(ごめんなさい。これからは違うよ。ちゃんと寄り添うからね)

 ワンピースの裾が濡れて脛や膝に纏わり付く歩き難さを悟られないように、歩幅を半分にして静かに、そして速やかに彼の傍へ行く。驚きと戸惑いの表情で黙って見ている彼に私は言葉を続ける。

「だから、『がんばって、優勝しなさい』ってメールしたの」

 何の躊躇いも無く、自然に手が彼へ伸びる。

(はっ!)

 指が触れて私は彼の頬を撫でているのに気が付いた。

「そう…… だったんだ……」

 細かくて滑らかな肌の温かい感じと、途切れ気味にしゃべる頬の小さな震えが指先へ伝わって来る。

(愛おしい……。この柔らかくてモチモチした頬を、優しく抓って引っ張ってみたい)

「でも、励ましの文字だけじゃ、イベント性が無いから不十分だと気が付いたの。それで、薔薇の花をお願いしたんだ」

 五本の指先は羽二重餅のような頬から首へと触れて行き、硬質ゴムみたいな感触の肩からは掌で撫でなだら逞しさを確かめる。

(おおっ! 柔らかい頬との、この違い! 強そうな弓を引くだけの事は有るじゃん。Tシャツとか、服を着てたんじゃ、全然気付かないわよね。このボディは! 沈めた時も、胸やお腹が筋肉質な感じだったしねー)

 逞しく鍛えるのと擽ったさの耐性は関係無いのか、触れた指先に肌がヒクヒクと小さく振るえて、触れる指の動きに合わせて移って来る。それが楽しくて触られるのを嫌がらない彼から私の手は離れない。

「退院の日を知らされたのは、あなたの試合の前日で、そして退院の日は試合当日だった……。だから、あなたに知らせなかったの」

 自分の言葉が告白の前置きみたいになって、つい上目で彼の反応を窺ってしまう。

 キョトンと『なに言ってんの?』って顔で私を見る彼を、『あんた、全然、鈍いわ』とばかりに強く睨んでみるけれど、それが照れ隠しに思われそうで、恥ずかしさに俯いてしまった顔を更に横へ流す。

「だから知らせないって……? どうして?」

 察しの悪い彼が理由を訊いて来た。

 二の腕で更なる逞しさと堅さを感じて、彼の肩から撫で下ろす手が止まってしまう。明らかに太い力瘤は薄い皮膚の下に筋肉が詰まっているのが分る。

「だって、あなたに知らせたらきっと、集中力が途切れて、優勝できなかったのに決まっているわ」

 去年……、気紛れで学校近くの武道館まで弓道の試合を見に行った。その時に彼を応援している上級生がいて、『最後の最後に気を逸らしてしまうから集中力が途切れて、彼は的を外してしまうみたい』と言っていた。だから、気を逸らせないようにして遣っただけ。

「ううっ、よっ、良く分ってるじゃん……」

(でも、それだけじゃないの。分かるでしょう)

「それに、退院を知らせたら見舞いに行く必要なんか無くて、あなたは薔薇を持って来ないでしょう? 私は薔薇の花束が欲しかったのよ!」

 言葉を強めたのに私は本心を逸らしてしまう。『来て欲しかった』とは言えずに『薔薇の花束』にして強めた言葉尻の悔しさが、思わず無意識に彼の腕を握ってしまった。

「いやいや、負けていたら、僕はお見舞いに行けなかったし、バラを買う事も無かった。君の退院を知る事もなくて……。んにゃ、僕が負けると考えなかったのか?」

(おっ、けっこう堅いじゃん……)

 腕を握り締めて縋り付こうとした私の手は堅い力瘤に弾かれて腕を滑り落ち、そのまま彼の指に触れると今度は手を繋いだ。

「ううん、知ってるわ。あなたは集中力さえ途切れなければ、何事も成し遂げる人だと。私は…、そう信じている。どんなに接戦になっても、必ずあなたが勝ち残ると分っていた……」

 繋いだ手の指を絡ませようとしてやめる。いつまでも海に入っていると、また彼を沈めてしまいそうだ。

 『帰す』、『帰さない』、『もう少しだけ』、私のジレンマは水底へ押し沈めた彼をマウス・ツー・マウスの息継ぎで試してみたくさせる。上手く私から空気を吸えたら彼は生き延びれて……、なんて事に至る衝動に駆られないように砂浜へと彼を引いて行く。

「病院に来て私の退院を知っても、あなたは私に薔薇を届けようとすると思ったし、現にそうしてくれたから、私は薔薇の花束を受け取ったわ」

 穏やかな波でも強い離岸流が発生する外浦の長い砂丘浜に比べて、富山湾と七尾湾に面する内浦の浜は、戻る波の勢いが弱くて岸辺に多くの海草が寄せいる。この立戸の浜も例外ではなく、波打ち際の海中に寄せた海草が帯状になって漂い、ホンダワラにナガラモやテングサなどが足首にヌメヌメ、クタクタと纏わり付くのを一歩、一歩、水の中で掃いながら砂浜へ上がった。

 そんな私の足下を見続けていた彼の視線が不意に上がり、横目で彼の様子を見ていた私と目が合うと、半光沢で不鮮明な輪郭の彼の瞳に斜陽の赤みを帯びた光が輝いて、私は更なる心の声を吐かせてしまう。

「私は、あなたに見舞いに来て欲しいと思っていたの。本当に、ありがとう」

(あ~あ、とうとう本心まで言っちゃった……。これじゃあ、まるで私が告っているみたいじゃない!)

 彼の手を引いてサクサク踏む砂は、真夏の日射を浴びてサラサラに乾いていても、火傷するくらいの熱さには感じない。立戸の浜は、外浦の砂浜のようにこんがりと砂が深くまで焼けて、裸足で歩くと火渡りの苦行の如く、本当に火傷する程の熱気を溜めている事はなかった。

 細かい砂粒は遠浅の海底を波紋の文様を付けた、泥岩か、砂岩のような硬い表面にする。水底に沈めた彼が思った以上に浮き上がって来なかったのは、きっと、パニクった足掻きのバタつきで足掛かりになる硬い表層を剥がしてしまったからだと思う。

 外浦の羽咋市には、『千里浜なぎさドライブウェー』という大型観光バスが走っても埋もれない長い砂浜が在る。そんな大型バスの荷重を締まって受ける細かい砂よりも立戸の浜の砂粒は小さいから、その毛管現象は表層の乾いた砂の間近まで海水を湿らせて、足裏が耐えられないような熱さにならない。

 歩き易い熱さの硬い砂浜をキュートなホワイトダックスの横まで行くと、『私だけのハッピーが欲しかったのよ』と、向き直って彼を見る。

「僕を勝たせたくて……、見舞いに来て欲しくて……、バラの花束も欲しくて……」

(あっ! マジに心を読まれそう……)

 けっこう、言葉に告りのニュアンスを含ませていたのだけれど、それは『私も好きだから』程度なので、察しの鈍い彼が気付かない内に茶目っ気で誤魔化してしまう。

「なのでぇ、ワザと知らせなかったんだ。ごめんなさい」

 にっこりと出来るだけの笑顔で、私の後ろめたさと彼の不安が逸れて咎めが無くなるように可愛く言って、私の気持ちを整理する為にも彼を試してみる。

「うーん……、言っている意味は分かるけど、ワザとって、それはないよなぁ」

(あっ、悲しい顔をされた。余計な事まで言って不味ったかも)

「そうなんだ……。いいんだよ。謝らなくても、いいよ……」

 『そこまで僕を解っているのなら』とか、『弄ばれていたのか』や『今も甚振っているんだ』と言って、大抵は不機嫌に怒り出すだろうと思ったのに、彼は私の謝罪を受け入れて冷静でいてくれた。

「……インターハイも、応援して欲しかったな」

 石川県の個人代表へは薔薇の大きな花束、代表を選ぶ試合に優勝すれば、私は見舞いに来た彼からその花束を受け取るという勝利必須の応援条件。

(なら、インターハイでの勝ち残りは、私のファーストキスかしら。でも、それは無いわ。まだ有り得ないでしょう)

「嫌よ! あなたがインターハイで勝つ事と、私が、あなたと交際する事は、全然別よ! そんな等価交換はできないわ。そうでしょう?」

(あの時はね。今は……、これからは、……どうだろう? 親しくできるかな? ……たぶん、今日だけ……)

 だけど今は、彼がここに来れば、何度でも今日と同じにできると思う。

「ああっ、そうか。ごめん。僕は浮かれ過ぎている……。反省します」

(本当に、よく反省してよね。私は対価にされるような、美貌溢れる艶かしくスタイルの良い絶世の美女じゃないし、あなたへメイドのように甲斐甲斐しく振る舞う事もないの。だから、何かと戦って私を勝ち取ったり、競売で競り落とすみたいな真似は、必要ないのよ)

「そうよ。どこかのSF小説か、バイオレンス小説みたく、私を賭けの賞品にしないでくれる?」

 そもそも彼の望みが叶うだけで、別に競い合わせるようなテーマじゃなくて私は望んでいない。それに私の利は一つも無いから等価交換じゃないでしょう。それに今回は『私が、御付き合いする御一人様限定の彼氏になる』が賞なのだけど、それを認めたら以後は済し崩しで、『ディープなキス』に『パフパフ』とか、思わず『ライトって何よ?』ってツッコミしてしまう『ライトなエッチ』なんて、どんどんエスカレートして行くに決まっている。

 今日の私の気持ちは、『それでもいいかな』と思い掛けている。でも、彼自身のモチベーションアップとコンセントレーションで私のリアルをメインキャストにしなくてもよいでしょう。だから、例え賞でも私をモノ扱いするのは絶対に駄目で嫌!

(あなたと交際するのは、厭じゃないけど、全然、嬉しくないんだからね。それに全国優勝しなかったら、交際はしなくてもよくて、あなたは諦めるってことぉ?)

 だいたい、彼の栄光は私の誉れと違う。彼からは沢山の感動を貰っていて私も彼を感動させてあげたいと思っているけれど、それはもっと違う形になるから条件付けなんかして私へ求めなくてもいい。

「まあ、反省しているならいいわ。許してあげるから、二度としないでよ!」

 彼が条件付けをしたがるのは理解できる。中学二年生から今年のバス事故までフレンドリーなメールを送り合うのに、言葉を直接に交わす事は無かった。彼が望んでも私はずっと親しくするのを拒んでいて、彼を挨拶の言葉も掛けて来れないくらいに萎縮させていた。バス事故で救われて感謝しても、薔薇の花束で喜んでも、ここへ呼び寄せて親しげにしても、彼は私の気紛れを疑ってる。キャンセルしてリセットするみたいにドタキャンする私の豹変を恐れていると思う。

(あなたが今日のノリで明日、もしもメールでなくて電話をしてきたら、どんなに明るく楽しい口調で語られても、『電話はやめてって、言ったでしょう』と低い声で言い返して、直ぐに切ってしまうわ)

 気持ちは近付いても、ここ以外のリアルでは、まだ距離を置いていたい。

「……ごめんなさい、……です」

 申し訳無さそうに、でも、ちょっと不満気味に彼が謝った。五年近くの私の拒絶が彼に自らの枷を掛けさせている。

「でもね。……私の『ごめんなさい』は、まだ有るの」

(ええい! 『ごめんなさい』ついでに、みんな言ってしまえっ! 今日だけは素直な私の特別よ!)

 いろいろと葛藤や悩みを秘めたままに全てを他人の所為にするグークに陥るよりは、さっさと謝ってしまえばリセットされて気分はすっきりする。だけどそれは、相手にどう思われてしまったのか、きっと私は気になって然程じゃないけど新たな悩みを抱えてしまう。それでウジウジやクヨクヨしない性格的だけど、心の何処かに秘め込められて行く負荷は彼にして来たように、いつしか再び開放してしまうに違いない。それが解っているのに言わずにはいられない。

「武道館でも試合してるよね。去年、観に行ったよ」

 競い合う他校の選手達の刺さるような鋭い視線や、応援する大勢の人達が食い入るように注視する中を彼は臆する事も、驕る事もなく、冷静に矢を番え、弓を構えて的を狙う。そして、次々と放たれた矢は全て的の中心を貫いていた。

 彼を応援する人達に女子が多くて、さながら板張りの射場で催されるパフォーマンスを華麗に熟すアイドルと、それに想い焦がれるオーディエンスが群れる静かなライブステージのようだった。

「うん。来ているのを感じていた」

(私がいるのを、感じていたの……?)

 闇の中でも君を見付け出せるし、強い風の中でも君の声を聞けると、いつだったかメールに書かれていた。

(それじゃあ、ちょっばかし視界から隠れるくらいなら、感ずかれてしまうかもね)

「感じて? 私がいるのを見たのじゃなくて、感じていたの?」

 心から人を好きになって、その人に会いたいと強く強く願うと、何処か見えない処で繋がってしまうのかも知れない。

(なら、目覚めに、……彼が来てくれそうな予感がしていたのも……、私が心から彼に会いたいと願っていたからなんだ……)

「そう、射場に立って四本の矢を射終わるまで、弓矢と的から視線を逸らさないからね。だから君の気配かな。感じたのは、あの時だけだったけど……」

 彼は試合が行われる度に日時と会場をメールで知らせて来ていた。なのに、見に行ったのは去年の一試合だけだった。それも、こっそりと彼に知られないように隠れて少しだけ見ていた。そんな私の気配を感じていたのなら、他の試合には私が来ていない事も感じていたはずだ。毎試合、私が来てくれないところに幾つもの黄色いエールが送られる。

「あんなに、女子達が大きなエールしてたのも、気にならないの?」

 けっこう多くの女子が彼を熱烈応援していたのを見ていた。そんな彼女達の誰かが、いや、幾人かが彼へ積極的なアプローチをしていると思う。

(ねぇ、あなたは私のつれなさに、彼女達に寂しさを紛らわそうと思わなかったの? なんか、アイドルぽかったよ、あなたは……)

「ならない。八節……、八節っていうのは矢を射る立ち構えから、放ち終えて気持ちを静めるまでの一連の心と身体の動作なんだけど、八節に入ると的の中心へ矢を中てる事以外、何も見えないし聞こえなくなるんだ。その、自分自身との戦いで集中力が高まるっていうか……。へへっ、なのでぇー、戦っている最中は、なんも聞こえていないんだなぁー」

 あの時、観戦する人達の後ろから見ていた間中、矢を射る彼の顔も、瞳も、弓矢と的以外へは向けられても、動いても、いなかった。だから、彼は私を見付けたのではなくて、私が来ているのを感じていた……。『瞳に君を映すだけが、見ているという意味じゃない』と彼は言っている。

 的を射貫くのに集中する鋭く研ぎ澄ました感覚は、常に彼が求め続けている私を感知したのだろうか? 私には分からない。もしも、彼にシックスセンスみたいのが発現されるのならば、私が見る超リアルな夢も彼はいっしょに見ているのかも知れない……。

「で、私がいるのは感じていた……?」

 超リアルに見る夢は分岐した世界か、多次元に平行する別の宇宙の別の自分の現実が繋がっていて、向こうへも私の現実が流れ込んで超リアルな夢を見ているのかもと、SF的、精神世界的に意識しそうだ。

 彼がシックスセンスを感じるから、トヤン高原で幻聴と幻覚に惑わされたのだろうか? それは違うと思う。多分、研ぎ澄まされ易い彼の意識が、翌檜の森が放つ防虫成分のヒノキオールに中てられた中毒で白昼夢を見たのだろうと思いたい。

「君だからさ。でも……、あの試合はサドンデスまで競ったんだけど、ふっと気が抜けちゃって負けちゃいました。残念至極だよ」

 別々のクラスになった中学三年生の時、彼が仲良し三人組の女子達と下校するのを何度か見て、軽い疎外とジェラシーを感じて仕舞うと、ブラックな感情を剥き出したメールで私は彼を責めた。誹謗と中傷だらけの私の問い詰めに言い訳がましい彼の回答が繰り返された後、終わりに届いたの彼の返答を見たのと同じ気持ちを感じている。

(嬉しい……)

 『君だから』は、あの時のラストメールの『君だけ』と同じだ。

「やっぱり……、決勝戦が終わるまでいれば良かったかなって、ずっと気にしてたの。他にもメールで知らせてくれた試合もサイレントエールをしていれば、どの試合も、あなたは優勝できたんじゃないかって」

(あなたにとって、私が近くにいるのは全然プレッシャーじゃないのよね。私に意識されている方が、あなたの励みになるんだと、気付くのが遅かったわ。だから、あの試合は終わるまでいてあげれば良かったって、後悔しているの)

「かもね。決勝まで勝ち残る選手は、誰もが強いからなー。いつも必ずサドンデスになって、集中力が途切れちゃうんだ。だから、君がいてくれるだけで勝てていたかもね」

 彼の頭の中の大部分は、きっと、私への想いで詰まっている。だから彼の考えや行動は私への想いが基本になっているはずだ。なら、私が望んでいれば、インターハイでも全力で勝ち進んでいただろう。そして、弓道を続ける気が無い彼はヒーローからレジェントになれたのかも知れない。

 させなかったのは私のエゴの所為……。

「応援しなくて、そのぅ、ごめんなさい」

 故に彼にレベルアップさせなかった謝罪を『許して下さい』の意味で『ごめんなさい』と言った。

「いいんだよ。……もう。今年は君の励ましで勝てて、個人戦代表になれたんだからさ」

 得ていただろう栄光を断ち切った私に『過ぎた事で十分だ』と、言ってくれる彼は優しい。これからの私は彼を励まし続けて二度と嘆き悲しませたくないと思う。

「………………」

 まだ離していない手を握る彼の指に少し力が入ると、そのまま動かなくなった。私を見る彼が黙ったまま固まったように動かない。様子を伺うようでもなく、歪まない表情に身体の具合が急変したのではなさそうと思う。それとも異変は私に?

(それって驚いてるの? もしかして私の顔が変なったぁ? なんか付いてんのぉ? ううっ、もしかして後ろに何かが見えてるん?)

「……なに?」

 振り返って後ろを見るのが怖い。変なのに憑かれるのも嫌だ。気味悪さに背中が涼しくなる私は、そっと笑っていない顔に訊いてみる。

「……きれいだ!」

 想定外の……、私が期待していない言葉を彼は、笑わない顔で優しく言う。

(あっ、まずい! 彼の瞳が潤んじゃっている……)

「えっ……?!」

 潤った感情の言葉の次は、衝動的な欲情に囚われた行動に彼が移ると予想できて、今はまだ、そうなるのを避けたいとマジに思った。

 自分から挑発するみたいに接近してスキンシップをしているのに、彼が求めようとするのを察しただけで逃げてしまう私は本当に自分勝手だ。膝枕をしたり、背を凭れ掛けたり、手を繋いだりはできている。もし、彼が私の御里へ泊るようになったら、腕枕をさせて彼の胸へ顔を埋めながら丸まって眠りたくなるのも有りかも知れない。だけど彼から迫られるのは、まだ心の準備というか、気持ちの整理ができずに避けていたくて、もう少し私の勝手気儘にいさせて欲しいと思う。

 彼の手がピクッと動くとサッと握る手から抜けて抱き寄せようと私の脇へ回して来る。その手を振り解きながら掴み直して白い原付のハンドルへ押し付けると、逃れるように私はジレラ君の向こうへ回り込んで離れ、更に話題を変える。

「おっと、そうそう、これ渡すように頼まれていたっけ」

 お婆ちゃんから言われていた小銭を思い出す。危うく忘れるところで『賞品』と言って思い出した。渡さないとお婆ちゃんに叱られる彼のお金だ。

「それと、はい、これ。御釣りよ。缶コーヒーのお釣り」

 言いながら、私はジレラ君のシートを起こし、シート下の物入れからフルフェイスヘルメットを取り出す。そして、無造作に放り込んだ物入れの底に転がる小銭を、一つ残らず拾い上げて彼に差し出した。

(御釣りが手から零れているのに気付かないほど、慌てたんだね。……バカ)

「御釣り? 缶コーヒー? ああっ、受け取らなかったっけ? ……かな?」

(そうよ。あなたが落としたのを、私が陳列棚の下まで探して集めたんだからね)

 私は頷くと、広げる彼の掌に手を添えて御釣りを握らせた。

「お婆ちゃんが御釣りを渡したのに、あなたは床へ落としちゃって、全部、私が拾ってあげたんだからね!」

(知らずに入った御里で私を見たのが、御釣りを落としていたのに気付かないほど、びっくりして、逃げ去るくらいショックだったんだ……)

 落とした御釣りは拾い集めたけれど、コインが二つばかり足りなくて辺りの床を探し捲くっていた。何処へ転がったのか分からなくて、床に耳や頬まで着けて陳列棚の下を覗いても埃で見えないから、古い竹製の三尺物差しで溜まっていたゴミといっしょに掻き出して、やっと見付けた。

 彼が受け取らずに床に散らばった御釣りの御蔭でカビ臭かった陳列棚の下を、孫が掃除してくれたと、お婆ちゃんは喜んでくれて、まったくイレギュラーなお婆ちゃん孝行をしている。

(それとね。さっき食べたアイスキャンディーは奢りだから。お婆ちゃんが『せっかく、会いに来てくれたのでしょう。これは、細やかな御もて成し。あなたの御客さんだから、あなたが、ちゃんと接客

しなさい』なんて言うから、融けないように急いで走ってたんだよ。ほんと、御もて成しできて良かったわ)

 今度こそ、本当に今日の彼と御別れになる。

 彼が御里に現れてから私の胸はずっとときめいて、指先や掌や足裏に触れる全ての感じがふわふわと柔らかく、気持ちもサワサワと戦いで落ち着かない。でも、この気持ちの良さは夏休み後も残っていると思う。

(今夜の私は寝付き良く眠れるかな? それとも、今の昂りが続いて眠れないかも? もしかして、この切なさを思い返して泣き明かしちゃう? たぶん、夢見が好いよね。どうか、いつかの夢の続きが見れますように)

「それじゃあ、またね。今度こそバイバイだよ。気を付けてね」

 にこやかに笑う私は胸の前で手をヒラヒラさせてお別れをする。名残り惜しいのは私もいっしょ、こんなに長く男の子と話して多くの思いや考えを伝えたのは初めてだった。

「ああ、バイバイ。また……」

 彼も笑顔で別れの言葉を返す。『さようなら』じゃなくて、『また……』だ。『また』が小さく途切れて、『また…… ね』も、『また…… な』も、有って欲しいと私は願うけれど、彼と挨拶をちゃんと交わす事の無かった金沢では、まだ私からアクティブに接近はしないと思う。

 可愛らしい白い原付に乗って小さな岬を廻り甲へ向かう彼を、浜で大きく手を振り見送ってから私はジレラ君のシートに座る。これからトヤン高原を抜けて穴水町へ先回りしようと決めた。

 遠回りで時間が掛かるし、それに暗くなると危ないから止めたほうがいいと忠告したのに、彼は敢えて岬巡りのコースへ行くと譲らなかった。彼のビビリようから、トヤン高原の惑わしが余程怖かったみたい。

 トヤン高原を抜けて行く道は穴水の町まで、ずっと走り易い道なのに、それほど恐ろしい幻想に陥るような所が在っただろうかと考えてみる。思い当たるのは、幼い私が石板の上で寝ていた高い木立ちの茂る社の辺りしかなかった。

(幼い私の記憶と、今日の彼の幻想が全て、実体験の現実としたら……)

 東は鵜川の町、西は比良地区、南北は海岸線からR249までの間に連なる丘と幾つかの低い山全てを含む広い範囲が、トヤン高原と呼ばれている。彼が選んだ西回りのコースにも何箇所か山の尾のような丘を越えなければならない。

 少し心配になった私は、穴水で彼が無事に岬巡りを終えて金沢へ向かうのを見届ける事にした。

(岬巡りコースも色々と出てくるからね。……動物がね)

 手を振る彼の小さな姿が岬を回って向こうへ見えなくなると、まだしていないテレパスのようなセンスで此処へ来てくれた御礼と、謝り忘れていた事をメールに認める。

【気を付けて帰ってね。来てくれてありがとう。溺れさせてごめん】

 送信したメールを読み直して思う。

(御里のテリトリーから、確実に帰途のコースを走っているのを、見届けないと駄目よね)

 今日の想いを薄れさせたくない私は、自分への言い訳と次のすべき行動をジレラ君に跨りながらかんがえた。

 彼のキュートな白いのは原チャリだから能登縦貫道を走れない。間違っても遠回りになる逆方向の輪島市へ行って門前町へ向かい、日本海側の外浦から金沢へ戻る判断はしないでしょう。あとは中島町から外浦の志賀町へ出て羽咋市、河北市内灘と金沢へ行くか、七尾湾沿いを和倉温泉、七尾市、羽咋市、河北市津幡と通って金沢に帰ると思う。

 そのどちらが最短コースなのか分からないけれど、いずれも穴水町を抜けて内浦沿いに出なければならない。なら、彼を待ち伏せて見送るのはあそこだと、立戸の浜から沖波の集落の脇を通り、山中の八幡宮の下で交わる明千寺へ至る道を逆に穴水町へと、翌檜の森を抜けるワインデングロードをフルスロットルのジレラ君で疎らな先行車を次々と抜き去って行く。

 目指すポイントは、乙ヶ崎手前の町外れの交差点角に在るコンビニのパーキングだ。

 --------------------

 R249と県道一号線が交わる穴水の鵜島交差点のコンビニで彼を待つ。私は駐車場の脇に停めたジレラ君に腰掛けて国道の彼方を眺めている。トヤン高原を抜けるコースと岬巡りのコースでは、諸橋地区から穴水へ着くのに三十分以上も違う。岬巡りのコースは曲がりくねったアップダウンで、しかも遠回りで距離が有るからジレラ君でも凄く疲れる。彼は原付だから、きっとヘトヘトに疲れて来ると思う。

 待ちながらアイスキャンディーを齧り、焼きソバとプリンを食べ、冷たいミネラルウォーターを飲む。そして、またコンビニへ向かう。

 何度も飲み食いを繰り返してかなりの時間が経つのに、彼はまだ来ない。

(途中で迷ったかな? 捜しに行った方が良いかも……)

 暗くて寂しい道だけど分岐は少ないから、彼が道を知らない癖に近道を試みようとしなければ、途中の何処かで出逢えるはず。心細さに負けて分岐を近道だと思い逆に曲がると、トヤン高原の奥深く入り込んで、私でも探し出すのは難しくなる。それに私が通った事の無い知らない道も有る。この穴水の町中で迷っているのなら輪島方面へ向かわない限り、此処を通らなければならない。

(彼はGPSを使っていると思うけれど、余りにも、遅い……)

 手にしたアイスクリームの袋を破りながら彼を捜索するのは、取り敢えずこのチョコモナカアイスクリームを食べてからにしょうと決めた。

 チョコモナカを半分ほど食べた頃に彼が来ると思う方向の道の端から、怒った猫の叫び声のような小型エンジンのフル回転音が聞こえて来た。近付くヘッドライトの大きさと位置から原付だと分かる。

(来た! きっと彼だ! もう遅過ぎでしょう)

 能登縦貫自動車道の御蔭で交通量が激減した国道を、彼が走り抜けて来たのは待ち始めてから一時間近くも過ぎてからだった。ブレの無い真っ直ぐな走りはアクシデントも無さそうに見え、どんどん近付いて来る小さなヘッドライトの灯りを見詰めながら溜め息が漏れて、彼が無事で良かったと私の心配は薄れて行く。

 白地に濃淡の青色の模様が入ったフルフェイスヘルメットと、原付の白いボディが街路灯の明かりでオレンジ色に染められて、信号が黄色に変わった私の前の交差点を勢いよく走り抜けて行く。猫の悲鳴みたいなエキゾーストのサウンドと、前傾のライディング姿勢から全速で彼は必死に走っている。

(ふぅ~ん、アクセル全開でも原付は、それが限界でしょう。そんなに一生懸命で、警察に捕まんないでって言うか、私がジレラ君を飛ばす比じゃ全然ないけどね。精々、事故らないように気を付けて帰ってよ)

 走り抜けるバイザー越しの彼の表情は暗くて見えなかった。こっちに顔を向けたりもしなかったから、コンビニ前の交差点に立つ私に気付いていないと思う。過ぎ去る彼を気付かれないまま見送っていると、彼は突然、走行車が来ない対向車線一杯まで食み出して、緩やかにS字蛇行を二度繰り返した。

(あっ、危ない! んもう、びっくりさせて……)

 一瞬、扱けて転がるんじゃないかと私をヒヤリとさせたけれど、また元のラインを安定した走りで道路の果てへ見えなくなっていった。

(けっこう疲れているみたいだけど、まぁ、気力は保っているようだから、無事に金沢に帰れるでしょう)

 --------------------

 真っ暗なトヤン高原を明千寺へとジレラ君を急がせながら、S字蛇行は疲れで居眠り運転をしていたのじゃなくて、私に気が付いた彼の合図だったのかも知れないと思って、顔が笑ってしまうくらい嬉しくて楽しい。

(ずっと、こんな感じが続けば良いな。……続くかな……?)

 五年前に彼から告白された時、私のどこが好きなのかと訊いた。返された返事は『私が優しいと信じているから』だと、私の知らない私を彼は当てずっぽうに好きになっていた。そして、今日の午後、私の知らなかった私が彼と肌を触れながら話していた。その私は、ちゃんと彼に優しくできていたのだろうかと思う。

 満天の星空に星が本当に降り落ちるみたいに、幾つも流れ星が飛ぶ真夏の夜、私は彼を好きになりそうになっている。その想いを込めて、御里の車庫裏にジレラ君を停めた私は彼へメールを送る。

【今、明千寺に着いて御郷の前からメールしてる。だから心配しないで。……私に気付いたみたいね。もう少しいっしょにいても良かったかも、……残念かな。家に帰ったらメールでちゃんと知らせなさい。心配してんだから。途中で何か遭ってもね】

 彼の事だから無事に金沢の家に着けるだろうと思いつつ、流星の輝く光の筋が幾つも天の川を横切る夜空を見上げる。

(今日のように、彼とのスキンシップを躊躇わずに楽しくできるのは、いつになるだろう? ……彼のジレンマは私の所為です。拘泥とレジスタンスは私です。どうか、私を素直にさせて下さい)

 現れてはスーッと消えてしまう流れ星に、いつの間にか私は何度も願っていた。

 

 ---つづく