遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

彼女の想い(僕 高校三年生) 桜の匂い 第七章 七

「この浜は立戸(たっと)の浜って言うの。以前の浜は、あそこの暗い影みたくて目障(めざわ)りな、消波ブロックの塊(かたまり)が無かったから今よりも明るくて、もっと水は青く透明で砂も白かったみたい。能登島(のとじま)や富山(とやま)湾や立山(たてやま)連峰もくっきり見えて綺麗(きれい)な浜だったそうよ」

(消波ブロック? ああ、そうだった。あれは波を防ぐ防波堤じゃなくて、組んだテトラポットの凹凸(おうとつ)と隙間(すきま)で、波のパワーを散らす消波堤だっけ)

 確かに浜側の水面は穏(おだ)やかで効果が有ると思うけれど、彼女の言う通り、無ければ視界を煩(わずら)わす壁のような影が失(う)せて開放的に明るくなるだろう。でも、設(もう)けられたからこそ浜の消失を防げているし、除去して人口リーフにするのも不自然だなと考えてしまう。

 得体(えたい)の知れないオカルト的で不思議(ふしぎ)な体験から話題を変えた彼女の顔は、二つの消波ブロックの壁の間から夏の陽をキラキラと反射して寄せて来る、沖のうねりを眺(なが)めているようだ。でも、その眩(まぶ)しそうに細めた目の瞳(ひとみ)は何かを思い出そうとするように、更にもっと遠くの沖合を見ている気がする。

「それが、諸橋(もろはし)ダムが出来てから、年々、砂が流失していって浜が小さくなったみたい。だから、あそこに浸蝕を防ぐ消波ブロックの提(つつみ)を造ったの。砂浜は戻って来たけれど、遠浅(とおあさ)は以前の半分しかないと、地元の人達は言っているわ」

 青く透明な水と真っ白い砂浜で明るい海、白く輝(かがや)く浜辺、彼女の言葉に僕は珊瑚礁の入江のようだった立戸の浜を想い描(えが)く。透(す)き通って綺麗に底が見える、誘(さそ)うような海だったのに違いない。実際、能登内浦の浜は潮流に運ばれて来る貝殻(かいがら)屑(くず)で出来た真っ白な浜が多いみたいだ。

「毎年、来ているんだ?」

 金沢でのストレスを癒(いや)し、また金沢で一年間過(す)ごす新たな生気(せいき)をここで得ていたのか? ここが在るから、彼女は金沢で冷たく装(よそお)えているのだろうか?

「うん! 夏休みに入って直(す)ぐにこっちへ来るの。登校日は無視。夏期補習も、能力強化合宿も、ブッチしてるの」

 思いの外(ほか)、素直な彼女の返答に驚(おどろ)きながら、大きく強く連打する心臓の鼓動と荒く震(ふる)える呼吸が触(ふ)れる肩越しに彼女へ伝わって、僕の興奮を知られないか心配してしまう。

「夏休み中の、補習授業か……。毎年、不参加なんだ……。それって、参加しないと担任や進学指導から、理由を追求されて責(せ)められるんじゃないのか? 心証も悪くしそうだし……」

 溜(た)め息を吐(は)くように、口に出すべきではない思いが独り言で低く呟(つぶや)いてしまい、眉(まゆ)を顰(ひそ)めた彼女がキツイ眼差(まなざ)しで僕を睨(にら)む。

(あっ、ああっ、しっ、しまったぁー! なに言葉にしてんだよ~)

 次に彼女が答えて、更(さら)に僕が突っ込めば、今度は波打ち際(ぎわ)に埋(う)められて満潮で拷問されるかも知れない。

(きっ、……危険だ……。早くフォローしなければ……)

 僕の在学する工業高校は、工業の基礎・基本的応用を習得した地域産業の期待に応(こた)える即戦力の人材の育成を教育方針として、過去に卒業後の就職が普通だったらしいのだけど、今は同期の半数は進学を希望している。

「半強制の夏休み学校行事はブッチかぁ……。それも有りだね。補習なんて、僕んところは進学校じゃないんだけど、受けるのは進学に変更した連中と赤点の奴だ。そっちのはわからないけど、サボってもいいんじゃないの。どうせ自分次第(しだい)だし、成績がアップして志望する大学に合格すれば良いんだから」

 自分本位を平気で貫(つらぬ)く彼女に憧(あこが)れていた僕は、侮(あなど)られたくない思いからの強がりと、我が身の安全に急(いそ)いで彼女の意志を肯定してみせた。

「あはっ、そうね。結果を出せれば良いんだよね。叱(しか)られるかと思っていたから、同じ考えで良かった! ありがとう、嬉しい」

 肩に掛かる彼女の髪が擽(くすぐ)るように揺(ゆ)れて、傾(かし)げた顔が僕を見てニコッと笑った。

(叱られる…… と思った? 僕に? いつもドライに強気な態度で、何でも平気な素振(そぶ)りで行うのに? ホッとしたから笑ったのか? ……おい、僕はいつでも君の味方だぞ!)

 機嫌(きげん)を直(なお)した彼女に僕は安堵(あんど)しながら、またまた彼女の意外な一面を見てしまった事を嬉(うれ)しいと思う。

「昨日は、この浜で御祭りがあったのよ。ほら、そこに大きな焚(た)き火(び)の跡(あと)があるでしょ。笛を吹(ふ)き太鼓や鉦(かね)を敲(たた)き鳴(な)らしてキリコが海に入って行くんだよ」

 否定されたら言い返すつもりでいたのだろう。言い争(あらそ)うような気不味(きまず)いムードにならなくて気持ちが和(やわ)らいだ彼女は、笑顔のままに話題を御里(おさと)の夏祭りへと変えて行く。

 僕は御祭りの参加者全員が夜に海へ入って、リオのカーニバルのように賑(にぎ)やかに踊り捲(ま)くるようすを想像した。

 晒(さら)す顔や手足を白や黒に染(そ)め、更に点や線の文様を映(は)える色合いで刺青(いれずみ)の如(ごと)く描き入れた祭りの担(かつ)ぎ衆が、激しく躍りながら大声で叫(さけ)び、喚(わめ)き、歌う。浅瀬を巡(めぐ)るキリコ達は上下左右に大きく揺れて、それはまるで月の光が揺らめく水面に絡(から)み合う蛇の様。

(なんか、すっげーかも。神秘的で、不思議で、不気味(ぶきみ)な光景なんだろうな? ん……、キリコって何? 金沢の御盆では、墓の前に下げる切妻(きりづま)の四角い堤燈(ちょうちん)みたいのを、キリコって言ったっけな……)

「お祭り? キリコ……?」

 夜中に海に入って踊る騒(さわ)がしいダンサー達が持つ、四角い堤燈はどんなものだろう? 能登の風習に疎(うと)い僕には全(まった)く想像がつかない。

「あっ、キリコって言うのはね。上に大きな行灯(あんどん)が乗った御神輿(おみこし)なの……。ううん、ちゃうわ。灯篭(とうろう)なの。行灯なんて言ったら、おばあちゃんに叱られるわ。そう、四角くて大きな灯篭よ」

 話ながら彼女は砂浜に指でキリコを描(か)く。……キリコだと思う。

 砂に描かれたのは想像と違って彼女が言うように神輿風だった。それも金沢市内で良く見かけるのとは全然違い、中央に塔のような物が乗っている。

(これがキリコなんだろうな……。なんか、長くてデカイ)

 長い長方形の灯篭が塔のように立ち、その根元の前後には人が乗って太鼓や鉦や笛を鳴らしてる。それを大勢で担ぐらしい。描かれた絵は、たぶん? そう見えた。

 神輿が海に入るのを明るい昼間にしないとダメだろう。いくら消波堤の近くまで背が立つ遠浅のビーチでも、彼女が描く絵のような大きくて重そうな物に幾人(いくにん)も乗せ、浜に篝火(かがりび)が焚かれ、周りに松明(たいまつ)を持つ人達がいても、多くの人に担がれた幾つものキリコが暗(くら)い夜の海へ入るのは危(あぶ)ない。

「ここ遠浅(とおあさ)でしょ。海の中でキリコ同士がバトルするのよ。けっこう豪快で凄(すご)いわよ。なんか、担ぎ衆(しゅう)はみんなカッコイイしね。金沢や県外に出た人達もお祭りに合わせて帰省して、大勢参加するんだよ。金沢に引っ越してからも毎年見に来ているの。で、帰省した人達は今朝(けさ)早く戻って行ったから、またいつもの過疎(かそ)でガラガラの田舎(いなか)になっちゃいました」

 目を輝かせて楽しそうに体を揺すり、鼻歌(はなうた)雑(ま)じりに一気に話す彼女を見ているだけで、僕は豪快で勇壮な祭りに参加したくなってきた。

「バトル? 夜の海でキリコをぶつけ合う祭りなわけ? それって危ないだろう?」

 水の抵抗で脚(あし)が絡まったり、底の砂地で滑ったりして転んだら水中でみんなに踏まれてしまうし、もしかして自分が転んだ所為(せい)でキリコが倒れてきたら、マジに溺死(できし)だ。想像するかなりのデンジャラスさと、彼女に沈められて酷(ひど)い目に遭(あ)ったのを思い出して眩暈(めまい)がする。

「はあ、なんで夜なの。そんなわけないでしょ! 五つぐらいキリコが集まるから、暗いのは危な過ぎじゃない。昼間、バトルは明るい内にして、昼も夜も飲んで食べてで騒ぐのよ。お祭りなんだからね」

(そうか、やはりね。夜じゃないなら、より安心だな)

 バカにしたように僕の勘違(かんちが)いを諭(さと)す彼女は嬉(うれ)しそうだ。そんな彼女を興奮させ熱く語(かた)らせる祭りに参加して、キリコを担ぐ僕を見詰めさせたくなってしまう。

「僕も、その祭りに参加できるかな?」

 彼女はキョトンとして僕を見る。僕がこんな反応をすると思わなかったのだろう。暫(しば)らく黙ったまま僕を見ていた。いろいろ想像したり考えたりしているのかも知れない。やがて彼女は思いを纏(まと)め判断を仰(あお)ぐように空を見上げた。

(あれ、困(こま)らせたかな? ……ダメって言われたら、カッコ悪過ぎじゃん。即行で帰っちゃうしかねぇかも……)

 釣られて僕も見る。入道雲の天辺が斜陽を浴(あ)びて滲(にじ)むような朱に染まっている。見上げながら僕はもう一度、そっと言う。

「祭りに参加しても…… いい…… かな?」

 深い青色の空に赤く染まっていく入道雲が綺麗だ。

「できると思うよ」

 空を見上げる彼女の顔が綻(ほころ)び、目が笑った。

「金沢や県外に出た人が、友達や知り合いを連(つ)れて来て参加させているみたいだしね」

 笑顔が僕に振(ふ)り向いて、笑う唇が弾(はず)むように動く。

「あははは、いいんじゃない。来年から参加すれば。たぶん、募集してるかも知んないから、穴水町のホームページ見てよ」

(よし! 許(ゆる)しは貰(もら)った。彼女も喜(よろこ)んでいるみたいし、言ってみるもんだな)

 楽しく笑う彼女の優(やさ)しい表情が幸せそうに見えて、地元の祭りの話しで更に優しくなった気がした。

 彼女から構(かま)えを無くし無防備にさせているのは、やはり生まれ育ったこの場所にいるからなのだろうか? この御郷の地に守(まも)られてパワーを得ているのを感じているのだろうか? それとも、僕が彼女のメッセージに気付いて来たからなのだろうか? 逃(に)げ去(さ)らずにこの浜にいたから……? そして今、直ぐ隣りに僕がいるからなのだろうか?

 きっと……、それら全(すべ)てを彼女は望んでいて、全部が叶(かな)ったからだろう。明るく微笑(ほほえ)みながら頷(うなず)く彼女を見て、そう思った。

(ずっと、彼女を幸せな想いでいさせたい!)

「ありがとう。ウェブで調べてみるよ。無くても次に来るついでに直接、町役場へ行って問い合わせてみる」

 僕も彼女の幸せの一部になれているのならば、それはとても嬉しいと思う。

「朝は、無理しなくてもいいよ」

 空を見上げるのやめて俯(うつむ)いた彼女が伏せ目勝ちの顔を曇らせ、少し不満気味な口調で彼女は更に話題を変えた。

「朝のバスはもっと早いのに乗って、早朝自習に参加しなくちゃならないの。だから無理に私と同じバスにしなくてもいいよ。夜も塾に通うから遅い帰りになっちゃうし」

 工業高校を卒業と同時に就職するつもりの僕には、早朝の補習や放課後の塾も無い。それに部活を二年生に引き継(つ)いで三年生は引退するから、部活をしない分だけ帰りは早くなる。お互(たが)いの行動時間帯のズレで彼女を守り難(にく)くなる無念さが、在り来たりの無機質な言い方になってしまう。

「大学受験は、……大変だな」

 完全な他人事セリフが何気(なにげ)な無神経さで出てしまった。それに、彼女が遅くまで塾で勉強して、翌朝の早朝自習に一時間以上は早く登校しなければならなくなる事に、理不尽(りふじん)さを感じて腹が立つ。だったら、学校が放課後に受験対象の理工系、文科系に分けての補習を完全下校時間まで行えば良いと考えるけれど、其(そ)の様にできないのが大人社会の事情だと知っている。

「あっ、 ごめん! 他人の事のように言ってしまった。ごめん」

 羨望(せんぼう)と僻(ひが)みが根底に有るように思われたかも知れないと、僕は否定する思いで深く謝(あやま)った。

(今の言い方も不味い……。実際、僕は彼女に受け入れて貰えない片想いしているだけの、他人だ!)

 こんな気持ちの良い時間を僕の無神経な一言でフイにしたくない。彼女の機嫌を悪くして口を閉(と)ざさせ、不穏な沈黙が二人に訪(おとず)れるのを恐れた僕は真摯(しんし)に頭を下げた。

 そんな僕の不安と畏れを余所(よそ)に、彼女は言葉を続けてくれる。

「いいよ。気にしないよ。受験するのは私で、……あなたじゃないから。私、気持ち的にはね、そんな受験が全ての毎日に抗(あらが)ってみたいの。それでどうなるって訳じゃないのにね。抗うくらいなら進学校へ来るなと言われそうだけど、受験は嫌(いや)じゃないのよ。逃げたりさぼったりした附(つ)けは、自分に来るだけなのにね……」

 高校卒業後に社会に出る僕も不安だらけだ。遣(や)りたい事のぼんやりしたイメージはあるけれど、知らない事が多すぎて先の事はわからない。

(君とのことも…… 不安だ)

 ナーバスな思いを話した後、彼女は自分の進路を話し出す。

「私は相模原(さがみはら)の大学へ行くわ」

 聞いたことの無い、初めて聞く知らない名詞だった。

「サガミ……? ハラ……?」

(それは、地名ですか? それとも大学の名前? 日本のどこ?)

「神奈川県(かながわけん)の相模原市よ。出刃包丁で有名な所みたい。来月下見に行くから、お土産(みやげ)に買って来てあげようか?」

(出刃包丁って……? なぜ相模原? 関東(かんとう)の刃物名産地なのか? そうか、そこに在る大学に学びに行くのか……)

「いらない。買ってこなくてもいいよ」

(サプライズで刺されでもしたら、堪(たま)ったもんじゃない。……でも、彼女に刺されるのなら、構わないかも……。でもでも、刺される理由だけは知りたい。いきなりズブッと来るのは嫌だ!)

 土産の出刃包丁の受け取りを断(こと)わって刺されてしまう白昼夢を振り払いながら黙っていると、彼女の指が動いて砂地を平(たい)らに掃(はら)い、『相模原』『医療工学科』『臨床工学技士』『出刃包丁』と書いた。

(うっ! なになに、その最後に書いた出刃包丁は? すっげぇ不吉で猟奇的じゃん! 意味深なわけぇ? お願いだから勘弁して下さい)

「そこの医療工学科にいって、臨床工学技士になるの。ちょっとレベル高いから勉強しなくちゃね」

 初めて聞く地名に続いて難(むずか)しい医療専門用語を言う。医学と工学が上手(うま)く関連付けれない。

(医療にも工学が有るのか? 技士…… 技術者? エンジニアってこと?)

 僕は質問する二つの名称を指で差してから、刺されると脇腹を圧迫したサイドミラーのアームとは、比較にならないくらいの致命傷になってしまう凶兆の『出刃包丁』を掻(か)き消す。

「うう……、それって何するの?」

 僕の問いに彼女はゆっくりと説明してくれた。

「人工臓器や生体材料や生命維持装置など。まあ、医療機器全般の取り扱(あつか)いかな。国家試験を受けて資格を取らなくちゃならないの」

 医学の知識が全く無い僕は、漠然と救急車の中や運ばれた国立病院で見かけた機器と処置室の案内プレートのネームを思い出した。

(医療の工学って、腎臓の透析機や人工心肺や救急車の中に所狭しと並んだ機器などの事なんだろうな?)

「それって、人の生死に関する事だろう? 責任重大じゃん! できるん?」

 なんて責任の有る事を学ぶのだろう。僕のリスペクトする凄い彼女が増えた。

「さぁ、ちゃんと理解して上手くできるか、分かんないわ。きっと責任は重いよね。それに、何の仕事を目指しても責任が有るし。でね、地方公務員や国家公務員の試験も受けるつもり。何をする訳でもないんだけれど、取れそうな時に資格を取っておくの。まぁ、とにかく、そこへいくわ」

 まだ当面の生業(なりわい)を見つけられない僕と違い、彼女はしっかりと将来を見据(みす)えて挑戦しようとしている。

「凄いね、君は。ちゃんと志(こころざし)が有って、自分にできる事を考えているんだ」

 見据えた将来へ向かって進もうとする彼女の意志に志とは、成(な)し遂(と)げようとする思いや、揺るがない信念の事なのだろうと思った。やはり彼女は僕のずっと先を進んでいる。この目の前の彼女にいつの日か僕は追いつけられるのだろうか?

「そうなると一人で生活するのだろう? 近くに親戚でも住んでいるの?」

(それとも無難に、学生寮にでも入るつもりなのだろうか? まさか、いきなり間借(まが)りしての独り暮(ぐ)らしをするつもりじゃないだろう)

 人生を自分で決めて切り開いて行こうとしている彼女に僕は憧れてしまう。

(この彼女もリスペクトだ! 凄いぞ! やっぱり、彼女はアクティブで僕の女神だ!)

 彼女が一人で暮らすだろう相模原の街へ会いに行きたいと思った。

「相模原の近くに親戚はいないわ。寮には入りたくないから、たぶんアパート暮らしね。学費や部屋代は親が払(はら)ってくれて、生活費も貰うけれど一人で自炊生活するの。アルバイトもするわ。今まで一人で生活したことがないから、ちょっとドキドキかな。遊びに来てくれる?」

(おいおい、いきなりのアパート暮らしで自炊かよ。大丈夫かぁ?)

 語尾の『遊びに来てくれる?』が嬉しい。彼女の指が砂に書いた『相模原』をなぞり、その仕種(しぐさ)にいじらしさを感じた。

(寂(さび)しいのか……?)

 始めから独り暮らしをすると言う彼女の大胆(だいたん)さに驚きながら僕は頷いた。頷きながらも『遊びに来てくれる?』に、初めて一人で生活する不安で心細い思いを隠(かく)せない彼女を知った。

 僕が高校卒業後に県外に出ようと決めたのは、この時だった。できるだけ彼女の近くで似(に)たような間借りをして一人で生活してみたい。

「僕は就職だ。進学でもいいんだけど、社会に出れば自分のしたい事が、より早く見つかる気がする」

 独り暮らしをする彼女に負(ま)けたくない。彼女と同じ不安や心細さや頼(たよ)りなさ、それに悩(なや)みを感じたいという思いが、見栄(みえ)で言った言葉を決意に変えさせていく。

「そう……、就職なんだ」

 木目細(きめこま)かい白砂に書いた文字を見詰めるながら彼女がボソっと言った。俄(にわか)仕立(した)ての自分の決意に適当なフォローを急いで探す。

「モノ造りがしたい。終生貫けれる生業を見極(みきわ)めたいんだ」

 親父の受け売りを言った。でも実際に漠然とだけど、そう思っていた。物を造り出す事に興味が有って、無から有を生み出すような世の中に全く無かった新しい物や事柄を、簡単には行かないだろうと考えつつも、いつか創(つく)ってみたい。その為には物を造り出す仕組みを学んで経験しなければならないと理解している。

「どんな物を作るの?」

 指先で砂に書いた文字をなぞりながら、首を傾げて上目遣(うわめづか)いで訊いてきる。

「まだ良く考えていないんだ。漠然とこうなればいいなってイメージだけで。でも、自分が強く興味が有るところから始めたい。ノウハウを知って自分でもできるようになると、興味が失せて嫌(きら)いになるかも知れないけど。それでもヒントが掴(つか)められたらと思うよ」

 以前から趣味のプラスチックモデルの開発プロセスを知って、テクノロジーを理解したいと考えていた。僕が好(この)んで買うメーカーの商品は、パーツの一つ一つが細部まで精密で、部品の合わせや分割の良さで組み立て易(やす)く、完成品は縮小された模型なのに実物のようにリアルだった。パッケージのデザイン、楽しく理解できる組立説明書、透明なビニール袋の中のパーツ群、貼(は)り付けるマーク類、完成に至るまで全てが精(せい)緻(ち)な造りだ。僕はそのメーカーのモノ造りの姿勢に憧れている。確(たし)か、メーカーの所在地は静岡市(しずおかし)だ。

「県外へ出るの?」

 静岡市なら神奈川県の隣(となり)の県だ。箱根(はこね)の山が県境(けんざか)いだったはず。

「それも、まだわからない」

 静岡市のメーカーにリクルートを問い合わせて願書を送り、入社試験を受けて合格採用されないと彼女の近くへは行けない。

「県外に出るなら絶対、近くに来てね。関東…… 首都圏にね」

 いっしょに渚(なぎさ)に座り夕暮れの海を眺めながら話す彼女の言葉の一つ一つが、僕の中に奥深く入って行く。それは、とても気持ちが良くて……、特に『絶対、近くに』が、気が遠くなるほど嬉しい。彼女が絶対と言えば必死で、近くと言えば大接近すべきだろう。

(このまま永遠に、夕陽が沈まなければいいのに……)

 夏の夕暮れが、ゆっくりと確実に辺(あた)りを暗くしている。

「ああ。そうなればね」

(来て良かった。彼女と話せて良かった)

 褪(あ)せる光に朱色の映えが赤く滲み、だんだんと紫を帯びていく入道雲を眺めながら思う。彼女の中に自分の存在を確認できた。すべき事が有って遣る気が湧(わ)いて来ている。存在感に遣るべき事、僕は今、とても満ち足りて幸せな気持ちだ。

 彼女が腕時計を見ていた。

「暗くなってきた。……もう帰るよ」

(何か用事が有って、戻らなければいけないのだろう)

 そう思った僕は、もっともっといっしょにいたい最高の心地良い時間に踏(ふ)ん切りをつけて立ち上がると、彼女の返答も待たずにホワイトダックスへ向かった。

(ずっとこのまま、素直で、親しくて、そして、優しい君でいてくれ! ドライも、コールドも、リバーサルも無い、今の君をインプリンティングさせてくれ!)

 バス事故の日、近しく感じた君はドライだった。僕の想いを君は冷たく拒み続けていた。重ね合わされた絵馬や場所から新たな進展は無かった。そして、今日の君もノスタルジックなこの場所が開放させた君の気の迷いだと、僕は疑(うたが)っている。

 背後にパタパタとワンピースについた砂を払い落とすのが聞こえると、彼女は乾いた白砂をキュッ、キュッと踏み鳴らしながら小走りに駆(か)けて来て、肩が触れるくらいの間近に並んで歩く。ホワイトダックスまで五十メートルも無い距離だけど、触れ寄る肩に気の迷いでもいいから、指を絡めて手を繋(つな)いで来て欲(ほ)しいと心の中で願う。

 ホワイトダックスを見て歩きながら、涎(よだれ)を垂(た)らすほど爆睡して見た夢を思い出して、白いワンピースや水色のビキニの彼女には良くマッチするだろうなと見ていると、横にホワイトダックスよりひと回り以上も大きなスクーターが並べて停めてあった。

(こっ、これは……)

「あっ、ジレラだ! すっげーじゃんか! こんなのに乗っているんだ!」

 赤と白のツートンカラーで綺麗に塗装されたスポーティなスクーターは、百二十五CCのイタリア製だった。

「そう、良く知ってるね。おじさんのだけれど、こっちに来たら私が使うの。そっちのはオシャレにキュートだね」

 親父が勝手にグリーンベースのタータンチェックのシートにしたホワイトダックスを、彼女は『キュート』だと言ってくれた。

(親父ぃ、可愛(かわい)い女子高校生が『キュートね』と、誉(ほ)めてくれたぞ)

 僕が原付免許を取るまで『乗りもしないで邪魔』と、お袋に捨(す)てられそうだったんだから。親父に伝えたら、スッゲー喜ぶだろう。

(親父も、ホワイトダックスも、良かったじゃん)

「あっ、ああ。ダックテールじゃないのにダックスっていうんだ。なんでも、猟犬のダックスフントをイメージしたネーミングみたいだよ」

 確かにダックテールじゃないけれど、嘴(くちばし)を突き出して暴走するアニメのアヒルキャラに見えなくもない。

「そっか、径(けい)の小さな太いタイヤだからデビューした頃は、そんな感じに思えたのかもね」

 ダックス……、ジレラの事をよく知りたくてインターネットでスクーターとか、原付とか、いろいろ検索していたら、そのネームを中古車カテゴリーで見た気がする。

「そうなのかなぁ? 胴長短足のフォルムとも違うっぽいし……。うーん、わかんない」

 外装品のレトロさは否(いな)めないけれど、全体のキュートなデザインは今でも十分に通用すると思う。

「親父が知り合いから貰ってレストアしたレトロな奴だけど、可愛いだろ。いろいろチューンをしてあるから速いんだ。僕と親父のお気に入りさ。でも、ジレラには敵(かな)わないな」

 ジレラは、ジレラのみのレースがイタリアで開催されているくらい、高速スクーターの定評が有った。同じピアジオのクラシックなべスパと違いスポーティーなデザインのスクーターだ。簡単にウイリーができるほどパワフルなジレラは、僕が持つ原チャリの免許じゃ乗れない。

(ふっ、ジレラの戦闘的なフォルムは、彼女に似合っているな)

「これ……、ジレラって、原付免許じゃ乗れないよな?」

 彼女は、きっと自動二輪の運転免許を持っているのだろう。そう思うとジレラの横に立つ彼女が羨望と憧れで眩しく見えた。僕も乗りたいモンスターバイクがあって、社会人に成るまでに取得したいと考えている。

(よし、明日から即(そく)、行動だ。絶対、大型自動二輪の免許を取ってやる!)

 自動車教習所へ通い普通自動二輪免許を持たなければ、大型自動二輪の教習が受け難い。免許証の取得にはツーステップで挑(いど)むしかないだろうと思った。

「うん、無理! 乗れないよ。普通自動二輪のライセンスは去年の夏休みに、こっちで取ったわ。学校はバイクにうるさいでしょ。だから、金沢じゃバレちゃうから、住民票をこっちに移してあるの。もう少ししたら金沢に戻さなくちゃね」

 彼女の用心深さは相変(あいかわ)わらず徹底している。金沢で自動車教習所へ通ったり運転免許を取得したりすると、大抵(たいてい)の高校では校則違反とされて停学に罰(ばっ)せられてしまう。だけど、そんなに簡単に学校側に知られてしまうのだろうか?

 たぶん、違反の現行犯になるか、事故の当事者にならなければ、そして、浅ましい密告をされない限り学校側には知られないと思う。僕も其の類(たぐい)で堂々と運転免許センターで試験を受けて取得している。

 まして彼女は、住民票を移しているのなら運転免許証の記載住所が能登になり、軽い違反や検問で金沢市内の高校生だとバレる事は無く、違反者リストをチェックする先生からスルーされる。それに彼女の性格や人間関係から学校外での素行を知られて密告される事も無いだろう。

「うふ、穴水まで送ろうか?」

 恥ずかしそうに俯き加減で、彼女は其の大胆な行動力を何気にアピールしてくれる。

(ええっ、そっ、それは本当ですか? 穴水まで…… こんな寂しいところを…… 薄暗いトワイライトアワーに…… いっしょに走ってくれるんですか?)

 彼女の提案は僕を嬉しい驚きで一杯にさせた。

(いいぞ! 彼女といっしょにいる時間が、もう少し続きそうだ)

 それは願ったり、叶ったりの提案だったけれど、だめだ!

 送って貰うと穴水からの彼女の帰りは暗くなってしまう。それに、あの気味の悪い何かに気に入られた道を宵の口とはいえ、夜は通らせたくない。

 それと、僕の幸せを使い切ってしまいそうで恐(こわ)かった。今日はここまででいい。

(幸せの回数に限りがあって、まだ残っているのなら、それは次回に回してくれ)

「穴水まで送らなくていい。僕なら大丈夫(だいじょうぶ)だ。GPSが有るし道に迷わない。一人で問題ないさ。穴水まで行ったら、君の帰り道が真っ暗になるだろう。そっちの方が心配だよ」

 彼女は顔を上げ僕を見て、笑いながら、

「うふふふ。ありがとう。私は大丈夫よ。違うの、あなたが心配なの。アレに…… 気に入られたみたいだから、攫(さら)われるかも。神隠(かみかく)しになっちゃうかも。穴水の町に入るまで停まっちゃダメだよ。アハハハ。無事に着いたらメールちょうだい。無事じゃなくてもね」

 ぞっとすることを重ねて言う。

「海岸沿いは距離有るから、けっこう時間掛かるよ。来た道を戻ってトヤン高原を抜(ぬ)けた方が、全然速いから」

 悪寒(おかん)がして寒疣(さぶいぼ)が立ちそうだ。

「どっ、どうか、おっ、御願いです。頼むから、この浜で帰って下さい。本当に君が心配です……」

 親しげに物(もの)の怪(け)を『アレ』と言う彼女が信じられない。

(トヤン高原を通って帰るのは、絶対に厭(いや)だ! きっと、あそこには時空の狭間(はざま)が在って、次に迷い込んだら戻って来れるか分からない……)

 言霊(ことだま)どころか、あんなアレに取り憑(つ)かれでもしたら堪ったものじゃない!

 例(たと)え隣接する世界だとしても異世界で狭間を見付けて、またこの世界へ戻って来れる保障は何も無かった。やっとフレンドリーに彼女と話せたのに、これからが彼女との始まりかも知れないのに……。

 折角(せっかく)、辿(たど)り着いた彼女のいる僕の世界を失うのが怖(おそ)ろしい。

「うん……、ここで見送ってあげるね。気を付けて帰りなさいよ。夜道を飛ばしちゃダメなんだからね。夏の夜の田舎道は、本当にいろんなのが跳(と)んで来て危ないから、家に着いたらメールちょうだい。じゃあ、バイバイ」

 痞(つか)えながらも切実に丁寧(ていねい)言葉で御願いする僕の気持ちを解かってくれたのか、笑顔の彼女はジレラの横に立ち、小さく胸の前で手を振る。

 そんな可愛い仕種の彼女に僕は幸せを感じてながらも、彼女流の脅(おど)かすジョークかも知れない飛んで来る様々なモノの正体が気になって、ホワイトダックスに跨(またが)りエンジンを掛ける僕はキックスターターを、スコン、スコンと空踏(からふ)みのミスしてしまう。

『あっれぇー? おっかしいなぁー』と、アクセルを開き過ぎの単純ミスを不思議そうに誤魔化(ごまか)す演出をする僕は、かなり格好悪くてヘビーに恥ずかしい。

 キャブレターのチョーク弁を少し開いての三度目のキックで、ようやく掛かったエンジンのパシュン、パスッ、パシュンと不規則で頼り無いアイドリングのサウンドを、微妙にアクセルとチョークを調整しながら滑(なめ)らかに落ち着かせて行く。

 アイドリングが安定したのを確認して、カッコンとローギアに踏み入れ、アクセルを開(あ)けながらクラッチレバーを放そうとしたところで、彼女が言った。

「あっ、言い忘れてた!」

 スッと振っていた手を降ろして、真顔になった彼女が言った。まだ得たいの知れない何かが有るのかと、再び僕の気持ちが構える。

「せっかく約束通り、薔薇(ばら)を持って来てくれたのに、退院しちゃってごめんね」

(違う、そこは謝るんじゃなくて、ふつうに感謝でしょう)

「はっ、何を言っているん? 早く退院できて良かったじゃん」

(そうさ。僕が見舞いに行った事や、擦(す)れ違いだった事など、どうでもいいんだ。彼女が早く元気になるのに越した事はない)

「うん、そうだね」

 ニコッと、また彼女が笑顔になった。

「それに、花束は受け取ってくれたんだろう?」

 インフォメーションのお姉さんに言付けた花束も、折角の機会だから、本人の声で感想を聞いてみたい。

「とても嬉しかったよ。綺麗で良い匂いだったわ……」

 素直な感想が嬉しい。才能の無い僕が何事にも納得できる良い結果を得ようとするなら、成し遂げる努力と勇気が必要だと改(あらた)めて思う。努力しても必ず良い結果や高評価に繋がるとは限らないが、努力しなければ納得や慰(なぐさ)めにも至らずに悔(く)やみが残るだけだ。

「うーん、……ちょっとだけ見てみる?」

 ついでがてらのように全く繋がらない事を言い出す彼女の顔は、少し傾けながら顎を引いて悩んでいるようにも、迷っているようにも見えた。

「ん……? 見る? バラを? ……何を?」

 ワンピースの上から……、たぶん、右の腰骨辺りを指で触れながら、何か企(たくら)む悪戯(いたずら)っぽい顔で彼女は僕を覗(のぞ)くように見ている。

(触れている、そこって……)

「見せて上げるね。手術痕(あと)は意外に小さいんだよ」

(やっぱり、手術痕!)

 彼女の手術痕で思い当たるのは、初めての御見舞いと退院が擦れ違いをした入院した事情で、炎症を起こした盲腸(もうちょう)の虫垂(ちゅうすう)を切除した時に彼女の右下腹部へ入れられたメスの切り傷しかない。

(……それを? 僕に? 見せる? 訳が分からん!)

「見せてくれるの? ……盲腸の手術痕を? 今……? ここで? ……なんで?」

 疑問ばかりの言葉と裏腹に、黙(だんま)り助平(すけべえ)な僕は挑発的な笑みの彼女に期待してしまう。

「本当に入院したのと、ちゃんとオペした証拠に。それに薔薇の御礼。約束守ってくれたし……」

 約束を果たしてくれた御礼と言われた。確かに僕は自分の言葉通りに病院へ御見舞いに行った。だけど君は既に退院していて、花束が君へ渡ったのは偶然に過ぎない。

 君の退院が昼前ならば、退院手続きが速(すみ)やかに済(す)んでいたならば、そして、翌日に君が診察にこなければ、バラの花束は君へ渡される事はなかっただろう。僕は病院のインフォメーションに花束を言付(ことづ)けた事を、君へ知らせるつもりはなかったのだから、御礼をされる覚えなんてない。

「しょっ、証拠って……、疑ってなんかいない! にゅっ、入院してたのは知ってる。病院のインフォメーションで確認もしたよ。バラの御礼って、何それ? オペ痕を見せるのが御礼? そんなのしなくていいから。君の希望を叶えようと努力するのは当然で、僕は嬉しくて喜んでいたんだ。だから、見せなくてもいいし、見たくないぞ!」

(病院の待ち合いロビーで、ベンチに座る髪が撥ね捲くる君も見ているけれど、それは内緒だ)

 嬉しいやら、恥ずかしいやら、素(す)が晒されそうで困るけれど、本音は見てみたいです。しかし、ここはしっかり説得して御辞退するのがセオリーでしょう。どうせなら、ちょろりと見せられるだけの御礼よりも朝のバスで『おはよう』って笑顔で挨拶されたり、週に一度でいいから下校途中で隠れ家のような喫茶店でコーヒーとケーキをいっしょするとか、僕から御願いしたいくらいだ。

 『ガコッ』、金属の塊を大きな石に投げつけたような音がしてクラッチレバーを握る手から振動が薄れ、エンジンのアイドリング音が軽く滑らかになった。

(あっ! ギアが外された!)

 彼女のメカニック知識と予想もしなかった行動に驚いて、ニュートラルにされた左足下のシフトチェンジペダルを覗き込むと、彼女の足が蹴るように『カタン』とサイドスタンドを出すのが見えて更に驚いた。

(なっ、なにをす ……る。あっ!)

 『なんのつもりで』と彼女を見る間も無く、僕の左手は手首を掴まれてハンドルから離されると、そのまま強く引っ張られて強制的にホワイトダックスから降された。

「あう! わっ、わかった! 見るから、そんなに引っ張るなあー」

 左足を軸にして砂浜に顔からつんのめるのを捻る体で辛(かろ)うじて防ぐと、僕は彼女の前に立った。

 背後の僕といっしょに倒れたダックスは、サイドスタンドの半分まで砂に埋めて傾きながらもエンジンはアイドリングの律動(りつどう)を保っていて、それを体を起こしながらイグニッションキーをオフへ回して停める。

「見て!」

 僕の『辛うじて』を見ているはずなのに、それを無視してブレない彼女は至(いた)ってマイペースだ。

「ううん。是非(ぜひ)、見て欲しいの。ほらっ、ここよ」

(是非って? なぜ、そんなに強調して強行しようとするんだ?)

「うわっ! いっ、いきなり見せるなぁ。おっ、おおーっ」

(ちょっ、ちょっと待てー! いくら下に着けているのが水着だとしても、ワンピースを脱(ぬ)ぐかあー。少し裾(すそ)を捲り上げるだけでいいじゃんか! あっ、いや、その方がエッチかも……)

 さっさと彼女はノースリーブのワンピースを脱いで、ビキニパンツの上端から少し上辺りの右の腹部に付いた、殆ど気が付かなような細く掠(かす)れた線を指で指し示す。

 そんなに積極的に脱がれちゃうと、僕もTシャツを脱いで弓道で鍛(きた)えた分厚い胸板や太く逞(たくま)しい肩と腕を見せ付けるべきだろうかと、悩んでしまう。

「これよ。もっと近寄って見ないと分からないから」

 その大胆な行為に圧倒されながらも、あまりマジマジと見て厭らしく感じさせないようにと意識しながら、僕のエロい視線は彼女のスタイルをチェックして露出した腹部の肌を見る。

 そこそこのバストに、括(くび)れたウエスト、そして肉感的な腰幅と太腿、彼女はスタイルが良いと思う。

(くっそぉーっ、恥ずかしがってもしょうが無い。せっかくだから、ちゃんと見てやる!)

「んっ、んー。本当に小さいんだな」

 ワンピースで隠れていた下腹部の一端は、陽に焼けた小麦色のウエストや上腹部と同じで、眩しいくらいに艶々(つやつや)して滑らかな肌は、傾いた光に照らされて赤みを帯(お)び、オペ痕の細くて小さな切り傷は顔を近付けて眼を凝らさないと見えなかった。

「ねっ、細くて短いでしょう。しかも薄(う)っすらしているし。良くみないと分からないのよ。だから、こんな水着も着れるんだよ」

 確かに日焼けした小麦色の肌に残る傷跡は、腰骨に引っ掛けているだけのビキニパンツの低いウエストラインへ、さっと視線を覗かせて戻すだけで分からなくなるほど微(かす)かなモノだ。

「皮膚の細胞の目に沿って切るんだって。そんな筋目なんて、見えないし分かんないよねぇ」

(細胞の筋目……? なんだそれ? そんなの有るのか? 黒曜石(こくようせき)が割れる石の目という岩石の成形筋(すじ)みたいなのと同じなのかな? それとも、牡蠣貝(かきがい)の見分けが付かない閉じ合わせのような感じかな?)

 彼女の声が遠くに聞こえた。頭の直ぐ上から聞こえているはずなのに小さく聞こえる。どうしてだろうと、その距離と理由を確認したいのに顔を上げる事が出来ない。

 目の前に白くて木目細かい彼女の下腹部の肌と水色のビキニパンツの生地(きじ)が鮮明に迫(せま)り、胸深くに吸い込まれる彼女の良い匂いといっしょに視覚と嗅覚が相乗されて、胸元や肩がブルブルと震えているかと思うほど激しく強く打ち叩(たた)き始めた拍動(はくどう)で、視界の周りが暗くなって来た。

「すっごいなぁ、美容整形みたいだ! 指で示してくんなきゃ気付かないかも」

 美容整形の術痕など見た事も無いのに、適当な比喩(ひゆ)で返す自分の声が感情の篭(こも)らない早口に聞こえ、それも体から離れた所から言っているみたいだ。

「切り口は、ホチキスみたいのじゃなくて、瞬間接着剤を使ったんだよ」

(……ホチキス? 瞬着? まるで図工だな。でも、カッターで切った浅い傷ぐらいなら、僕も瞬着を使ってるぞ)

 方角もわからないずっと遠くから彼女の声が聞こえている。やっと聞き取れる小さな声だ。

「それ、瞬着でくっ付けたんだ。へぇーっ」

 今度も感情の篭らない鸚鵡(おうむ)返しで僕じゃない遠くの誰かが言っている。本当は凄く感心しているし、触れてもみたい。というか、抱きついてしまいそうだ。

(やっ、やばい! 下半身が……)

 股間がサワサワしだした。急いで彼女から離れなくてはと思うけれど、興奮しだした身体は麻痺(まひ)したかのように動けない。

「医療用の特殊なタイプなんだって。局所麻酔のオペで、『もし勇気が有るなら、手術を見ていたいですか?』と、執刀医から訊かれたから、『はい』って答えると、モニターが用意されて映しながら手順や方法を一つ一つ説明してくれるの。患部を出して切るのは、ちょっとゲロって来たけれど、あれは、お腹の中を触ったからだと思う。映像は自分のじゃないみたいで平気だったよ。摘出した盲腸まで見せられたわ」

『きっと、ダークグリーン色のオペ衣の下は、何も着ていなかったのだろう』と、軽く想像するだけでムクムクと硬(かた)くなって行く股間に、彼女の声を聞き取るどころじゃない。今も、『このビキニパンツを下げたら、いっしょじゃん』なんて思ってしまったら、その生々しい近さに思わずグッと股間をリキんでしまった。それでも、僕は彼女の話に懸命な相槌(あいづち)を入れる。

「全部、ちゃんと聞いて見てたんだ。グロい血や肉を見ても、気持ち悪くならずに平気なんだ。しかも自分のだろう。……君は、すげーよ」

 一度リキんだだけで直ぐに血液がフル充填されて、濡(ぬ)れたコピー用紙を簡単に破(やぶ)れるくらい堅(かた)くなってしまう。僕はそれを『貫き丸』と心の中では呼んでいる。今は以前に金石の砂丘で見られた時よりもリアルに張り詰めて来て彼女に気付かれでもしたら、どう言い訳をして繕(つくろ)っても僕のエログロい暗部を悟(さと)られてしまうだろう。

 顔を近づけ過ぎる不自然な前屈(まえかが)みを不思議に思われないように、彼女の気分を良くさせて話しに集中させたい。

(だっ、ダメだ! これ以上、力(リキ)が入ったら、絶対にダメだぞぉ……)

「うん、そう……。別に自分のでも平気よ。何かが触れてるって感じで、全然痛みは無かったよ。洗って見せてくれた盲腸は、全然、美味(おい)しそうには思えなかったけどね」

 カニバリズムでは自分の肉が一番美味しいそうだけど、彼女がそうであって欲しくない。でも、吸った吐き出させるように胸を押さえ付けて沈めてくれるくらいだから、きっと、彼女を激しく激情させると噛み付かれて肩や腕を齧(かじ)られるかもと、ちょっと気持ちが退いてしまう。

 自分の言葉で僕の顔が少し離れたのに気付くと脱いだワンピースを着るつもりなのか、彼女は僕から離れ掛けた。そのタイミングを逃さずに僕はくるりと彼女へ背を向けて、そのままロケットスタートする勢いでザバザバッと海へ入ってしゃがんだ。

 視覚が煽(あお)る扇情的な白い肌は遠避(とおざ)けた。包まれる水の異質感と押し付けた水底の砂の硬さに完全膨張が一秒でも早く縮めと、水面から顔だけ出して彼女を見る僕は焦る思いで願う。

「いきなり何してんのよぉ? ねぇ、大丈夫なの? 頭、おかしくなったあ?」

 膝(ひざ)までの浅さに、顔だけ出して僕は下半身のクールダウンを図(はか)る。直ぐには戻れない。せめて後、三分はダメだ。拾い上げたワンピースを着ながら彼女は僕を思い遣る言葉を続ける。

「話しの途中なのに、こんな遠くまで呼び付けたみたいになったから、疲れたのかな?」

(呼び付けた? やはり彼女は僕に来て欲しいと望んでいたんだ。僕は彼女に必要とされている……)

 嬉しい彼女の言葉に僕は顔を左右に振る。この後、金沢へ戻るのは疲れるだろうけれど、今は少しも疲れてはいない。

(寧(むし)ろ、元気過ぎるのに困ってるんだよ。んで、それを悟られても、見られても、それは羞恥心(しゅうちしん)の極(きわ)みで、耐えられそうになくて、……ヤケクソで暴走したら凄く不味いだろうなぁ……)

「いや、なんでもないんだ。ちょっと今が名残り惜(お)しくなっただけ。……話しを続けていいよ。ちゃんと聞いていたから……」

 大好きな彼女が話している最中に、いきなり、話しの腰を折るように海へ入ってしまった。これは彼女を軽(かろ)んじた凄く失礼で、僕が頭の変な奴と思われてしまう状況だ。とっさの苦しい言い訳を『彼女といっしょにいる今を、もっと引き伸ばせて長く居たい』の意味にとってくれるだろうか?

「オペの次の日には、直ぐに退院できるって聞かされていたから、入院やオペを知らせるつもりは無かったの」

(そりゃぁ、痛くて苦しんで、即、入院の緊急手術になったんなら、メールの打ち込みは無理でしょう)

「それなのに、夏風邪を拗(こじ)らせちゃったから大事を取って入院したんだ。試合の応援に行けなくて、ごめんね」

 彼女は申し訳無さそうに目を伏せて、ペコリと頭を下げた。

「応援に来る来ないなんて、どうでもいいんだ。来れない理由は知らせてくれたし、メールで応援もしてくれた」

 僕の勝利の女神を実際に射場で見れたら最高だったけれど、病(や)める彼女に無理をして貰いたくはない。

 そろそろと静まって来た過敏な股間に刺激を与えないように、水泳パンツの中でそろりそろりと摘(つま)み直しながら位置を整(ととの)える。萎(な)えて行くのを整え終えて安堵の溜め息を吐(つ)いた瞬間に、彼女の大きな声が怒鳴られたように聞こえて、気を抜いた身体が総毛立ちながらビクン跳(は)ねて固まった。でも、直ぐに彼女の大声で言った意味は理解できた。

「それじゃあ、改めて、石川県個人戦一位、おめでとうございます!」

 突然の、ザバッと水面から飛び出すように立ち上がって最敬礼するくらいに、ハッとする嬉しい彼女の言葉だった。だけど、成し遂げれたのは彼女の御蔭だ。

「優勝できたのは、君の励(はげ)ましが有ったからです。本当に、ありがとうございました!」

 気恥ずかしさやテレも無く、素直に心からの感謝が言えた。

「ううん、それはあなたの実力よ。私の応援力なんて、ほんのちょっちだけ。あなたは試合の日を知らせてくれて、私の応援を望んだから、私はあなたに勝って欲しいと願ったの。でも、知らされた時は既に入院していて、私はあなたの応援へ行けなかった……」

 彼女は僕が思っていた通り優しい。そして、彼女は既に僕を知っている。

「……そう、あなたが勝つ事を望んでいたのよ。私のはっきりとした応援が有れば、あなたは試合で集中力を途切れさせずに勝ち進んで、最後の一人になれると思ったわ」

 話しながら彼女は爪先をスーッと水に差し込むように入れると、切れ波を立てない静かさで僕に近寄って来る。裾が濡れるのを気にしていない彼女は白いワンピースをたくし上げもせず、僕の傍に一メートルも離れない近さで向かい合う。

 盲腸のオペ跡を見た時は、あまりの近さと興奮で全く見れていなかったけれど、波打ち際から近付いて来る彼女のプロポーションは落ち着いて観察できた。

 とても速く発汗の吸湿と蒸発をさせる布地なのか、膝までの水位で僅かしか水面に触れていないのに濡れた裾から繊維の毛細管現象で、既に腰の辺りまで湿らせた生地は彼女の下半身にぴったりと纏わり付いて、水着のビキニショーツの水色と形をはっきりと浮き出させている。

 濡れたワンピースを艶(なまめ)かしく貼り付かせた十八歳の誕生日が過ぎた彼女の肢体(したい)は、キュービーでもスレンダーでもなく、程好(ほどよ)い形で僕好みの大きさのバストに、しっかり括れたウエスト、更に下半身はワンピースの貼り付いた艶かしい姿が、ビキニ水着オンリー以上に大人の女性の色香(いろか)を漂わせて、僕が大きく吸い込んだ息を広がる鼻腔(びこう)から長く震えながら吐き出させた。

 息を吸い込んで吐き出す度に肩と背中がブルブルと震える。そんなフガッ、フガーッと鼻の穴を広げて興奮する顔を彼女に見られたくなくて、僕は俯いてしまう。

「だから、『がんばって、優勝しなさい』ってメールしたの」

 彼女の右手が上がり、指が顎(あご)に掛かるように頬(ほお)に触れ、俯く僕を覗き込んで傾げた笑顔の愛くるしい唇が、そう動くと顎に触れる指に軽く力が込められて僕に顔を上げるように促(うなが)す。

「そう…… だったんだ……」

 頬へ触れられた彼女の指にドギマギする気持ちの焦りが興奮で粗(あら)い過呼吸気味の息継ぎを乱して、返す声が掠れてさせてくれる。

「でも、励ましの文字だけじゃ、イベント性が無いから不十分だと気が付いたの。それで、薔薇の花をお願いしたんだ」

 白いワンピースを水色のビキニ水着の肢体に貼り付かせた彼女との抱(だ)き締めたくなるようなこの近さ、僕の起こした顔に彼女の指は顎筋から首筋へと慈(いつく)しむように流れるスキンシップの誘い。それに僕を知る彼女の優しく紡(つむ)ぐ甘い言葉……。

 このまま理性を駆逐(くちく)した激情に流されて、沈められた逆襲をと手足がピクつく。それで寄り添う可能性が有る未来を絶(た)たれても、押し倒して情欲を叶えた既成事実があれば満足できるのかも知れない。

 だけど、無理(むり)強(じ)いのレイプをする痴情の果(は)てに明るい未来は無いと思う。だから、僕は彼女を大切にしたい。今は明るい未来を築けそうな彼女の言葉に耳を傾けれる事が嬉しくて、もっと彼女の表情を見ながら言葉を交(か)わしたかった。

(イベント性ねぇ……)

 『がんばって優勝しなさい』も、『薔薇の花がいい』も、応援というよりは脅迫的な圧力を感じたけれど、そんなマイナス思考よりも、彼女の期待に応えて願いを叶えたいという、プラスの想いの方が遥(はる)かに強くて勝ち残れた。

 彼女の触れる指先が頬から慈しむように首筋を伝い終えると、今度は掌(てのひら)で肩を撫(な)でて行く。ウズウズとざわめく擽ったさに耐えながら僕は彼女の好きに触らせている。

「退院の日を知らされたのは、あなたの試合の前日で、そして退院の日は試合当日だった……。だから、あなたに知らせなかったの」

 だんだんと俯き気味になりながら上目遣いで僕を見て、言葉の終わりには眉間(みけん)に立て筋が入る攻撃的な眦(まなじり)でキツく睨まれた。それから瞳が泳ぐと俯き顔を横へ逸らしてしまう。

「だから知らせないって……? どうして?」

 怒られているのか、恥らわれているのか分からない。

 顔を逸らす彼女が胸が締め付けれるくらい切なく思えて抱き寄せたいほど可愛いけれど、その衝動をグッと抑(おさ)えて訊いてみると、髪を振り乱して僕に向き直った彼女が全然可愛げの無い事を言い返す。

 肩から二の腕へ移動すると力瘤(ちからこぶ)辺りを摩(さす)るように彼女の手がゆっくりと上下に動く。

「だって、あなたに知らせたらきっと、集中力が途切れて、優勝できなかったのに決まっているわ」

(勝てないのは決まってる…… か……。ハァ)

 そう、確信的な彼女の言葉通り、僕は、それまでの公式試合で優勝した事が無い。いつもトーナメント戦の決勝や的中(てきちゅう)同数者のサドンデスで敗退していた。

 彼女は二度計(ばか)り二の腕を縋(すが)るように摩ると再び触れながら肘を過ぎた腕まで移動させて停めた。

(これで胸に触れて来たら、彼女が僕を求めているっていうのは、それでも、僕の独りよがりの思い込みになっちゃうのかな?)

「ううっ、よっ、良く分ってるじゃん……」

 僕は彼女の言葉を肯定する。本当に、彼女の励ましと依頼が無かったら勝てていなかっただろう。

 動きを停めた彼女の手の指先に力が入って腕を掴まれた。

(もし、求められているのなら、彼女にリードされ続けられているのは、男子としてどうかな? ここは僕から積極的に行動すべきだろう)

「それに、退院を知らせたら見舞いに行く必要なんか無くて、あなたは薔薇を持って来ないでしょう? 私は薔薇の花束が欲しかったのよ!」

 腕を掴む彼女の指先の力が更に強まるのを感じて反射的に拳を握った。強く握る力に圧迫された腕の血流がガチッと筋肉を硬くさせて、締め付けて来る彼女の指の力を撥(は)ね返して失わせてしまう。

「いやいや、負けていたら、僕はお見舞いに行けなかったし、バラを買う事も無かった。君の退院を知る事もなくて……。んにゃ、僕が負けると考えなかったのか?」

 掴もうと触れていた指が腕を摩り下りて、彼女は僕と手を繋ぐ。さっき、二人で浜辺を寄り添いながら歩いていても、行動に移る勇気の無かった望みが達成されていた。

「ううん、知ってるわ。あなたは集中力さえ途切れなければ、何事も成し遂げる人だと。私は…、そう信じている。どんなに接戦になっても、必ずあなたが勝ち残ると分っていた……」

 身を翻(ひるがえ)して渚に向かう彼女は繋ぐ手で僕を引っ張りながら話し続ける。僕を肯定してくれる彼女の声が心地好い。

「病院に来て私の退院を知っても、あなたは私に薔薇を届けようとすると思ったし、現にそうしてくれたから、私は薔薇の花束を受け取ったわ」

 弱く打ち上げる波をパチャパチャと踏んで進む彼女は、僕へ向けようと見せる横顔の瞳が、ずっと僕を見続けていて、僕は顔も視線も逸(そ)らす事ができない。

「私は、あなたに見舞いに来て欲しいと思っていたの。本当に、ありがとう」

 渚の濡れた砂に足跡を付けて乾いた砂浜へ上がる彼女が御礼を言ってくれた。それを気持ち良く聞く僕は手を引かれて浜に上がりながら彼女の足跡の横に並べて砂を踏んで行く。並べて見る彼女の足形は僕よりも小さくて、今、僕の手をギュッと握ってくれている彼女の手と同じくらいに、とても可愛いと思う。

「僕を勝たせたくて……、見舞いに来て欲しくて……、バラの花束も欲しくて……」

 僕のモチベーションをコントロールして一石三鳥を為し得た彼女は、ジレラとホワイトダックスの脇で立ち止まると、繋いでいた手を離して僕の方へクルッと向き直り、またもや悪戯っぽい笑顔で言ってくれる。

「なのでぇ、ワザと知らせなかったんだ。ごめんなさい」

 今日の何度目になるのか分からなくなった『ごめんなさい』を言い終えると俯いて、爪先で砂を掃く。

 彼女の思惑(おもわく)だと分かっていたけれど、それをサラリと流すように言われるのは覚悟の想定外で悲しい。

「うーん……、言っている意味は分かるけど、ワザとって、それはないよなぁ」

 僕は嘆(なげ)きつつ、前日に知らされても病院のインフォメーションで聞いた時に思案した通り、彼女の家まで届けに行く勇気は無かったし、持って行ったとしてもインターホンを押しての手渡しはムリで、せいぜい『退院おめでとう』カードを添(そ)えた花束を玄関脇へ置いて来るのが精一杯だ。それに、そんな迷いを考えながらの試合に勝てる筈(はず)はなくて、どの彼女の願いも叶えて上げる事はなかっただろう。

「そうなんだ……。いいんだよ。謝らなくても、いいよ……」

 花束を受け取った彼女とのメールの遣り取りと今の彼女の言葉から、お互いの判断と行動は結果オーライになって良かったと思った。

(なら、僕の頼みを受けてくれれば、ワンランクアップを望めたかも、なのに……)

「……インターハイも、応援して欲しかったな」

 僕を勝たせたくてと言う彼女に、それならとばかり、優勝はダメでもベスト・エイトに残れたかもの悔やみを臭わせて断られた応援を責めた。自分の声が探るような厭らしさで聞こえる。敗退したのは心根の脆(もろ)い僕の所為で、真剣な戦いの勝敗に彼女は関係無いのに、試(ため)すみたいに狡(こす)く言ってみた。

「嫌よ! あなたがインターハイで勝つ事と、私が、あなたと交際する事は、全然別よ! そんな等価交換はできないわ。そうでしょう?」

 すっぱりと、もう済んでしまった事への恨み節を否定されてしまい、彼女の機嫌を損(そこ)ねまいと僕は条件反射の如く慌(あわ)てて謝ってしまう。

「ああっ、そうか。ごめん。僕は浮(う)かれ過ぎている……。反省します」

 確かに『全国優勝したら、交際してくれますか?』のメールを送ったのは失敗だった。欲張らずに『応援してくれますか?』だけにすべきで、僕に恋心を抱いていない彼女にとっては不愉快な等価交換の提案にしか過ぎない。

「そうよ。どこかのSF小説か、バイオレンス小説みたく私を賭(か)けの賞品にしないでくれる?」

 もし、僕の交際願いを彼女が受け入れてくれていたとして、ベストエイトにも入れずに敗退してしまい、その不名誉と不甲斐無さ故に彼女から拒絶されていたらと思うとゾッとする。現に願いを断られて一回戦で負けたヘタレだし……。

 だけど、美女を戦って勝ち取るとか、戦い抜いて救い出すとか、奪(うば)いに来る敵から守り通すとか、それは男のロマンだ。鍛錬(たんれん)を尽(つ)くし覚悟を固め、最大のリスクの中で栄光を極めるからこそ得られる最高の対価だから、負ければ全てを失う最悪の代償を払う事になるのだと思う。なのに、それを否定してしまう問題は、彼女が勝ち取られる事も、救い出される事も、守り抜かれる事も望んでいないのと、僕へ恋愛感情を抱(いだ)いていないのだから、男のアドベンチャーロマンが成り立たない事だ。

「まあ、反省しているならいいわ。許してあげるから、二度としないでよ!」

 この話題に触れてからは、叱るような真顔で怒りの角が出そうなタカビーさの言い方だったのが、声に丸みを帯びて彼女の顔が笑った。

 笑う顔に気分を害しているようには見えないけれど、ここで拗らせて最高の今日を台無しにはしたくない。だから一応の誠意を見せて謝っておく。

「……ごめんなさい、……です」

 だけど、石川県の個人戦代表になってインターハイという全国的な試合で戦うのに、彼女へ御願いした熱い応援が拒否されて、励まして貰えなかったのは悲しくて淋(さび)しかった。だから、はっきり言って彼女の言い分に僕は不満で納得できず、素直に謝り切れない。

「でもね。……私の『ごめんなさい』は、まだ有るの」

 ニコニコとした顔から笑みが消えて真顔に戻った彼女は、僕の『ごめんなさい』をスルーするかのように、自分の謝罪不足をアピールした。

「武道館でも試合してるよね。去年、観に行ったよ」

 それは弓道部の部長になって初めての試合だった。矢取(やど)り道の脇で観戦する人達の中に彼女を見掛けている。個人的に僕へエールを送ってくれる女子達の間に彼女はいた。矢を射る度(たび)に幾人もの女子が声を揃(そろ)えて大きなエールを送るのを、彼女はどう感じていたのだろう。

 弓道場の射場に立つ僕に女子のファンが多くて、彼女達のエールへ真摯に矢を射て応えているのは、自慢して得意になっても良いかなって思う。

「うん。来ているのを感じていた」

 得意ついでに、さらっと僕は嘘(うそ)を言う。瞳を動かさないだけで本当は視界の隅(すみ)に彼女の姿を映(うつ)していた。気配やテレパシーみたいなのを感じたいけれど、それは無い。

「感じて? 私がいるのを見たのじゃなくて、感じていたの?」

 恋焦がれるほど大好きな人を視線は常に自然と探し求めていて、見付け出すと無意識に見続けてしまうのは実際に経験しているし、今日もハガキの番地を尋(たず)ねようと立ち寄った明千寺(みょうせんじ)の雑貨屋が彼女の御郷(おさと)だったのは、偶然ではなくて強く求める故の必然だったのかも知れない。

「そう、射場に立って四本の矢を射終(いお)わるまで、弓矢と的から視線を逸らさないからね。だから君の気配かな。感じたのは、あの時だけだったけど……」

 一度有れば、二度、三度も有りかもって、試合が有る毎(ごと)にメールで知らせてギャラリーの中に彼女を探した。なのに、弓道部に在籍した高校三年間で観戦しに来てくれたのは、その一度切りだった。

「あんなに、女子達が大きなエールしてたのも、気にならないの?」

(気にならないどころか、寧ろ嬉しいのが本音。しかし、今は本音を隠して神秘的にしてしまおう)

「ならない。八節(はっせつ)……、八節っていうのは矢を射る立ち構えから、放ち終えて気持ちを静めるまでの一連の心と身体の動作なんだけど、八節に入ると的(まと)の中心へ矢を中(あ)てる事以外、何も見えないし聞こえなくなるんだ。その、自分自身との戦いで集中力が高まるっていうか……。へへっ、なのでぇー、戦っている最中は、なんも聞こえていないんだなぁー」

(いやいや、擽ったいくらい、ちゃんと聞こえているんだけど、ここは『君以外の女子に無関心』と『日頃の鍛錬の結果』を、しっかり強調せにゃならんでしょう)

「で、私がいるのは感じていた……?」

(そりゃあ、もちろん! いつも傍に君を感じていたいです)

「君だからさ。でも……、あの試合はサドンデスまで競(きそ)ったんだけど、ふっと気が抜けちゃって負けちゃいました。残念至極だよ」

 あと少しだけサドンデスで気持ちの張りが続いてくれれば勝てたと思うけれど、『いつまで当て続けさすんだ』とか、『外しいても準優勝だ』とか、『早く帰って寝たい』なんて甘えが出て、トップになれていなかった。

「やっぱり……、決勝戦が終わるまでいれば良かったかなって、ずっと気にしてたの。他にもメールで知らせてくれた試合もサイレントエールをしていれば、どの試合も、あなたは優勝できたんじゃないかって」

(あれっ?)

『ずっと気にしてたの』なんて意外で、彼女らしくないと思ったら目頭(めがしら)が熱くなってしまった。

(全然らしくなくて、優しくて、嬉しくて、ここに来たら、泣きそうになってばかりだ……)

「かもね。決勝まで勝ち残る選手は、誰もが強いからなー。いつも必ずサドンデスになって、集中力が途切れちゃうんだ。だから、君がいてくれるだけで勝てていたかもね」

 ちょっとだけ涙腺が緩んだ所為か、視界が滲み、声が少し鼻声になった。

 無言で見ているくらいでいいから彼女がいてくれるだけで、それが僕へ女神からのエールとなって彼女が来てくれた全ての試合は、絶対に優勝できていたと思う。

「応援しなくて、そのぅ、ごめんなさい」

 申し訳無さそうに言う彼女の表情は、心から悔いて悲しそうに見える。

「いいんだよ。……もう。今年は君の励ましで勝てて、個人戦代表になれたんだからさ」

 彼女が応援をしなかった事を悔いているなら、やはり『交際』の条件付けをしなければ、インターハイの戦いにエールを送ってくれていただろうか? その問いは、日頃の鍛錬での集中力を彼女へ伝えてしまったから、再びテーマにする事はできない。なのに、それでも…… と僕は自分の因果応報(いんがおうほう)を呪ってしまう。

「………………」

 そんな悔(くや)しくも虚(むな)しい蟠(わだかま)りを秘めて僕は黙って彼女を見ると、眉間を寄せて反省しているらしい真顔になっても、薄っすらと微笑むような優しい表情は以前から少しも変わっていなくて、その保(たも)たれている彼女らしさに僕の詰まらない拘りはスカッと消え失せてしまい、代わりに彼女への愛(いと)おしさが僕の胸の中を一杯にして行く。

 彼女を離したくない想いが指に力を加え、僕と繋ぐ彼女の手を握り返させた。

「……なに?」

 何も言わずに身体から力が抜けて行くような、フワッとした優しい気持ちで見ている僕を異様だと警戒したのか、ボソッと彼女は真剣な眼差しで訊いて来る。

「……きれいだ!」

 僕の心を湿(しめ)らす彼女を慈しむ優しい気持ちが返す。

 『綺麗だから好き』とか、『可愛いから好き』ではなくて、好きという中の『綺麗で可愛いところも』って意味で声にしたつもりだったのに、言ってから何だかズレた感じがして、ちゃんとした返事になっていないと思う。

「えっ……?!」

 ほんの一メートルも無い近さで、見れる優しげな彼女の顔、嗅(か)げる甘い彼女の匂い、聞ける心地好い彼女の声、そして、繋ぐ手から伝わる彼女の温もり。どれも全てが愛しい。

 ざわっと、彼女の肩を掴み僕の胸に抱き寄せたい衝動に駆られた。強く抱き締めて彼女の髪に触れる……。そこで彼女が身を捩(よじ)ろうとするならば、手を放して今日は御仕舞い。抗う気配が無ければ、項(うなじ)から首筋へ手を這(は)わせて彼女の顔を僕へ向けさせる。それで、ソフトな、でも、しっかりとキスをする。

(ちゃんとしたファーストキスだ。揺れるバスの中みたいな不意討ちじゃないぞ。疑われて惚(とぼ)けた嘘吐きの負い目も上書きされる……。今、しないと次のチャンスはいつになるかわからない。ロケーションも、シチュエーションも、ばっちりだ。ちゃんとしたキスは彼女も初めてだと思いたい。彼女も絶対に望んでいるさ。さあ、抱き締めて遣れ!)

 キスができても、それ以上を求めないでおこうと思う。その方がカッコイイし、クールだ。逆に彼女のハートはヒートアップするに決まってる。

 彼女の手を握り返している僕の手が彼女を抱きしめようと離れかけて、指先に一瞬の力が入った。

「おっと、そうそう、これ渡すように頼(たの)まれていたっけ」

 ゆっくりじゃなくて瞬発的に彼女の肩を抱こうと動いた僕の手を、さっと躱(かわ)して掴み、ホワイトダックスのハンドルへ置いた。

(あっ、あれぇー? きっ、気付かれたのか……?)

 衝動的な欲情が読まれて動きを躱されたのに驚く僕を尻目に、ジレラの向こうへ避けた彼女が僕を非難せずに全然違う事を言った。

「それと、はい、これ。御釣りよ。缶コーヒーのお釣り」

 ジレラのシート下の物入れからヘルメットを出すとサイドミラーへ掛け、彼女は再び物入れに手を入れて、チャリチャリと何度か金属音が聞こえさせてから握った手を揃えて僕へ差し出して来る。

「御釣り? 缶コーヒー? ああっ、受け取らなかったっけ? ……かな?」

 心臓がドキドキと高鳴って息苦しい躊躇(ためら)いも無く、『彼女を抱くように』と、弓道の八節を指導した先輩の言葉を冷静に実践できそうだった勢いを逸らされて肩を落とす僕の手へ、彼女は押し込むように御釣りを受け取らせた。広げてじっと見た掌には艶の無い銀色と黒ずむ銅色のコインが数枚捩(ねじ)じ込まれていた。

「お婆ちゃんが御釣りを渡したのに、あなたは床へ落としちゃって、全部、私が拾ってあげたんだからね!」

(落とした……? 拾ってくれた……? ああ、それで、此処へ来るのにタイムラグが有ったのか)

 僕が逃げた直後にジレラのパワーで追い駆ければ、チューンアップした原付のホワイトダックスの全速でも視界から見失う事は無いだろう。それにしても、僕の逃げた方向を読んだ彼女の感は鋭い!

(ただ、御釣りを渡すだけなら、拾い集めるのに時間も経っているし、何処へ向かったのかも分からないのに、僕を追い掛けたりしないよな)

 普段の彼女ならメールで知らせて来て、夏休み明けのバスの中で封筒へ入れて横に立つ僕へ無言で押し付けるのに決まってる。

 確認したコインの合計額は缶コーヒーの御釣りとして計算が合っている。アイスキャンデー代は引かれていない。それでも御釣りの受け取り場面を思い出せないのが心地良いと感じながら、感謝の言葉も言い忘れて僕はコインを小銭入れに仕舞う。

「それじゃあ、またね。今度こそバイバイだよ。気を付けてね」

 そう、彼女は満面の笑みの顔を傾けて言うと、再び胸の前で小さく手を振った。

「ああ、バイバイ。また……」

『またな!』と、言い掛けて語尾の『な』は声にするのを止めた。夏休みが終わると彼女に会える機会は、また朝のバスの中だけになってしまう。だけど、これまでと同じに『お早う』の朝の挨拶を交わす事をしなくて御互いは、それまで以上に意識し合っても無言のままだと予感がしている。

 明るく声を掛け合う『また』が次に有るとすれば、それはまだ日常的にならなくて、また、こんな暑い日に彼女から『会いに来て』の察(さっ)しを促すメールが届いて、逃げない僕が此処(ここ)へ全力で来る時だろう。でも、残りは二週間も無い夏休み中に再(ふたた)び彼女がナーバスになって、僕を呼び付ける事は無いと思う。

 だから、今の現実が有り得ないくらい嬉しくて楽しい。今日の日が本当に、何度も繰り返して欲しいと思う。

 御郷と知らずに入った雑貨屋で君を見て僕は逃げた。立戸の浜で追い駆けて来た彼女に沈められながらも、『彼女と親しく話せるかも知れない』というキーポイントはそのままに、他はがっかりするくらいズレる思いをしてもいいと覚悟しながら、彼女に会えたのが嬉しかった。

 そして、僕はいつもと違う明るくて素直で優しい表情豊かな彼女に驚いていた。彼女の多くの声を聞き、僕も多くの言葉を聞いて貰った。

(なんて近しい! こんなに親しく心が通えるような存在にいつからなったんだ? それに飛んで来るという、いろんなのって、なんだ?)

 立戸の浜で僕は躊躇いも無く普通に彼女と話せた。彼女もそうだと感じた。互いに心の壁を無くした熱い真夏の午後だった。

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 手を振る彼女と別れて左へ折れる崖際の僅かに傾斜する道を登り切ると、直ぐに道が岬を廻(まわ)り込んでいるのが見える。僕は今日一日を思い返していた。

(来て、良かった)

 急かされて引き寄せられるように強迫的な衝動で来たけれど、心からそう思った。そして、その小さな浜に留(とど)まって本当に良かったと思った。

 この先、彼女を身近に感じれなくなっても、これまでの彼女との遣り取りの、見て、聞いて、読んで、触って、感じた経験が、どれも未来に爽(さわ)やかさな鮮(あざ)やかさで繋がらなくても、甘酸(あまず)っぱくもホロ苦(にが)い思い出になれば良いと思う。それくらい今日の出来事に、……今日の僕が執(と)った行動と彼女の僕への態度や交わした言葉に……、僕は充実と満足を感じていた。

 彼女は立戸の浜でジレラの横に立ち、僕が小さな岬を廻って見えなくなるまで見送ってくれている。左手のずっと向こうの立戸の浜で大きく両手を振り続けて見送る彼女へ、心晴れやかに手を振り返す僕を乗せて、ナゴナゴとホワイトダックスは岬を廻って行く。

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 道は狭く海沿いの地形をトレースするように曲がりくねりスピードを出せない。

(思っていたより距離があるな…… 陽が有るうちに穴水の町に着けないかも)

 アップダウンが多くて鬱蒼とした木立が迫り、日没後の薄暗い道に闇を添える。イタチやテンの活動時間帯らしく、道端にひょいと現れて不意に姿を消す。太めの黒っぽいのはタヌキだろう。

 トワイライトタイムのセピア色は刻々と色褪(いろあ)せて穴水までの半分ほどしか来ていないのに、ライトを点(つ)けないと危険なくらいに路面が暗くなってしまった。

(彼女を、いっしょに来させなくて正解だったな)

 僕が不安一杯で走っている道を、彼女一人を心細く帰らせる事にならなくて良かったと思う。

 ヘッドライトに照らされる路面に大きな磯蟹が何匹も現れて、光に驚き慌てて道を渡って行った。その光に誘われて大小様々な昆虫が飛び込んで来る。明りに飛び込む無数の昆虫達は、バチバチとホワイトダックスのフロントやヘッドライトへ、それにヘルメットとバイザーへも勢いよく当たって潰(つぶ)れた。Tシャツを着た胸や露出した肌の首や腕にも虫が頻繁(ひんぱん)に当たり、取り付いた数匹のガサゴソした動きを感じて広い間隔の街灯の灯りで見た腕に、初めて見る気味の悪い大きな蟲(むし)が這(は)い回っていて思わず掃(はら)い飛ばす。

 昆虫に興味が有ったけれど、暗がりの中で這い回る不気味さに観察どころじゃなくて、街灯の下を通るたびに叩(はた)き落としていた。

 トンネルを抜けて穴水の町へ入る頃には、真上の雲が僅かに群青色に見えるだけの暗さになった。ゆったりと大きく右へ曲がる国道に連なる街灯りを一気に駆け抜けて帰りを急ぐ。

 町外れの家並みが途切れて登り坂になる国道と県道の交(まじ)わる交差点に……、彼女がいた!

 交差点が近付くにつれて角店のコンビニの灯りに照らされて立つ、女子の姿をフルフェイスヘルメットのバイザー越しに見付けた。立戸の浜で今日を忘れまいと瞼(まぶた)に焼き付けた彼女の姿とジレラが其処に有った。

(なぜ、ここに? あっそうか! トヤン高原越えで来たのか……。でも何故(なぜ)? ……僕が心配で……、見送る為に……。そっ、そうなのか?)

 何か食べ物の包(つつ)みを持ちながらジレラに凭れる彼女は、アイスモナカを咥えて僕を見ていた。新たな予感がして、其処にいる彼女の傍に行きたい衝動に駆られてしまう。ベリーハッピーな今日を出来る事なら延長したい。傍へ行けば望みは叶って僕のハッピーが延長される。でも、コンビニのパーキングにホワイトダックスを停めたら、気さくに話せなくても三十分以上は彼女の帰りを遅くしてしまうだろう。それに、今度は和倉(わくら)温泉や七尾市(ななおし)まで見送るとか言い出しかねない。そうなると、もっと遅い時間に彼女を真っ暗なトヤン高原を越えて帰らせる事になってしまう。あの気味の悪い何かに彼女を気に入らせたくない。

 僕は急速に近付く交差点の信号を見詰めて賭けをする。青信号と黄信号ならば彼女に気付かないふりをして駆け抜けて行く。赤信号で止まったら、そこで今気付いたかのように顔をゆっくりと彼女へ向かせて、ホワイトダックスをコンビニのパーキングに入れる。

 交差点の直前で信号は黄色に変わり交差点の真ん中を過ぎて赤信号になった。

 賭けの結果は彼女に気付かないまま走り去らなければならない。だけど、たぶん海沿いを廻(めぐ)って来る僕が心配で穴水まで見送りに出てくれた彼女に挨拶をしたい。

 交差点を過ぎて直ぐにセンターラインを越え、対向車が来ない道幅一杯を使って大きくS字の蛇行を二度する。一度目は『見送りをありがとう』、二度目は『君が好きです』の意味を込めて。

 穴水の町を抜けると再び街灯の疎(まば)らな、ジンジンと虫の声だけが喧(やかま)しいのに寂しくて心細くなる暗い湾岸道路を、アクセル全開でホワイトダックスを走らせる。

(七尾を過ぎた辺りで、給油しないと持たないな)

 小さなタンクのガソリンも心細い。

 すでに辺りはとっぷりと暮れて真っ暗だ。右手の灰色に光る海の向こう、すぐ近くに真っ黒なシルエットで能登島が平(ひら)たく臥(ふ)せている。その上空の暗い夜空の深淵(しんえん)を見て僕はホワイトダックスを停めた。

 月の出ていない夜空は、雲が吹き流されて晴れ渡っていた。

 ルート249が、ほぼ直角に曲がる広いカーブ脇に停める。小さな岩山の影に海に向いて鳥居(とりい)と社(やしろ)に太い注連縄(しめなわ)が張られた神社が在るだけの、行き交う車のライト以外に街路灯の灯りも無い暗闇を選んで停めた。たぶん中島町(なかしままち)のどこかだ。

 陽射しで焼かれた余熱で熱いコンクリート製の凹凸の護岸壁に仰向(あおむ)けに寝転んで、天頂の空を眺めた。

「おおっ、凄い!」

 思わず驚きの声が出て背筋がゾクゾクッと震えてしまうほど、漆黒(しっこく)の空に恐ろしいくらい無数の星が輝いていた。瞬(またた)く星の数が金沢よりずっと多い。

 今夜はいつもと違う。まだ八月だというのに大気が澄(す)んでいて、昨夜までの蒸(む)し暑さが淀(よど)む夏の夜とは違った。上空は秋の風が吹き込んで来ているのだろうか? 夜空が澄み切って、星々がはっきりと見えている。

 視界いっぱいに広がる夜空は、どこも圧倒的な数の星が鮮やかに瞬いていた。今にも振り落ちて来そうな星空を見上げながら思う。

(満天の星だ…… なんて綺麗なのだろう。夜空は、こんなに星が多くて光に満ちていたんだ)

 晴れやかな気持ちで眺める浪漫(ろまん)に満ちて美しい世界がそこに在った。

 大きな一筋の雲のような天(あま)の川(がわ)が富山湾を跨ぎ、天頂近くに小学校の理科の授業で習(なら)った夏の大三角形を成す白鳥座のアルファ星デネブ、鷲座の牛飼いアルタイル、琴座の機織(はたお)り娘のベガが一際(ひときわ)、光り輝(かがや)いている。

(ふっ、最高の日の星だらけの夜なのに、知っている星は超有名な三つしかないし……)

 ペルセウス座流星群の名残なのか、ときおり流れ星がフッと現われて、願い事をする間も無く消え失せる。

 今日の出来事を祝福するように遠くで花火が上がった。方角的に、たぶん和倉温泉で上げているのだろう。

(ここからでも、はっきり見えるなんて、だいぶ大きな花火玉だな)

 能登島へ掛かるツインブリッジのシルエットが、次々と炸裂(さくれつ)する花火の煌(きらめ)く光の色の重なりに照らし出されて綺麗だった。

(すっげー話せた。ふっつーに、彼女と話せていたぞ!)

 逃げたのに見付かり溺れて死に掛けた。でも、彼女の膝枕で眠れてベタベタと肌に触れた。ドギマギしたけど間近に水色のビキニと盲腸のオペ痕が見れた。そして、これまでメールに打てなかった多く想いを話せて、彼女の優しさを沢山知ったし貰ってしまった。僕たちは互いに、意外と多くの事を分かり合えているのかも知れない。僕が彼女を必要としているように、既に、彼女も僕に近付きたいと思っていると感じていた。思い返す今日の日に、僕の嬉しさと楽しさと幸せの興奮は尽きない。

(マジに今日は、アンビリーバブーな、すっげー日になっちまった!)

 ライトブルーのビキニが薄く日焼けしたスタイルの良いボディーに凄く似合っていた。裏返ったビキニの裏生地と日焼けをしていない下腹部が眩しいくらいに白くて、エキサイトする気持ちとエレクトしそうな自分を海へ飛び込ませて、クールダウンさせなければならないほど、セクシーだった。

「どうか、これからも彼女と、今日のように親しくできて、いつか彼女が本当に、僕の彼女になってくれますように!」

 僕は仰向けに寝そべって、天頂のアルタイルとベガへ一句(いっく)一句くぎりながら、ゆっくりと声に出してはっきりと御願いする。今月末近くの旧暦の七夕は、古くは棚機(たなばた)と書き、月齢七日目の半月の輝きが天の川の光を消し去り、恰(あたか)も彦星と織姫を隔(へだ)てる河を無すかの如(ごと)く、二人のデート日和(びより)のようにする天空ショーの夜だ。新暦の梅雨時期の野暮(やぼ)ったい七月七日じゃない。

 天空のラブロマンに想いを馳(は)せ、輝く二つの星と綺麗に尾を引く流れ星に願いを込めて祈っていると、携帯電話が画面を点(と)もらせ、着信メロディーを奏(かな)でながら震えた。電話の着信だ。

「どこにいるの? 今日、帰って来るの?」

 お袋(ふくろ)からの電話だった。

「今、能登。七尾湾のどっか。帰っている途中」

 僕は正直に居場所を言った。昼飯を食べずに出てきた。プールへ行かないと告(つ)げた電話も聞かれていただろう。それにハガキの文と差出し人と住所も見ていないはずがない。

「能登! どうして、そんなところまで行ってんの? 何してんのよ?」

 感が鋭いくせに、お袋はワザと訊いてくる。

「天の川と流れ星を見ていた」

 僕も惚ける。

「ふっ、嘘おっしゃい。好きな子に会いに行ったんでしょう? 晩御飯、食べるのかな~?」

 やはり、お見通しだ。

「食べる」

 晩御飯のワードで急に脱力感を感じてしまう。今日は口に押し込まれたアイスキャンディの他に何も食べていない。ガソリンスタンドで一気飲みしたサイダーも、立戸の浜で黄昏(たそがれ)た缶コーヒーも、意に反して飲み込んだ海水も全て吐き出した。重く感じる疲労感は脱水状態と空腹からだ。

「ちゃんと用意して置くから、気を付けて帰ってくるのよ。家に帰ったら、ちゃんと『ただいま』を言いなさいよ」

 お袋との電話が終わり、携帯電話の画面を閉じようとして着信アイコンが点滅しているのに気が付いた。メールが一件届いている。

【気を付けて帰ってね。来てくれてありがとう。溺れさせてごめん】

 彼女からのメールだった。今日、彼女が謝るのは何度目だろう。

 着信時間から僕を見送った直後に送っている。そんなに早く彼女から先にメールが来るなんて思ってもみなくて、僕は彼女からの着信に全く気付いていなかった。素直な彼女が書かせた文面が嬉しい。やはり、さっきのコンビニの駐車場へ入るべきだったのだろうか?

 握る携帯電話が省エネモードで暗くなった画面を再び明るく点すと、メロディーを奏でながら震出して新たなメールの着信を知らせた。着信音と光る画面に表示された画像から又してもメールは彼女からだった。

【今、明千寺に着いて御郷の前からメールしてる。だから心配しないで。……私に気付いたみたいね。もう少しいっしょにいても良かったかも、……残念かな。家に帰ったらメールでちゃんと知らせなさい。心配してんだから。途中で何か遭(あ)ってもね】

(今って……、さっき穴水の外れにいただろう。どんだけ飛ばして帰ってるんだ……)

 彼女の無謀運転ぶりに呆れながらも、信号の色に拘らずにコンビニの駐車場へ入って彼女と言葉を交わしていたなら、歯切れの良い声でメール内容と同じ言葉を語ってくれただろうと思い、自分自身の機転の利(き)かなさや判断と決断の遅さを悔んだ。

 星空を見上げながら腕時計の文字盤を灯(とも)す。

(家に着くのは、十一時ごろ……、いや、零時を回るかな……)

 

 ---つづく