遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

県外就職(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 玖

 肌寒い晩秋の日、入社試験を受けに静岡市まで行って来た。時雨れる中、バス停からかなりの距離を歩いて付いた試験会場となるその会社は、中規模ながら静岡市の地場産業を支える業種の中核だ。業界やマニアの間では世界的に有名なブランドでファンも多い。

 学校に求人が来ていなかったその会社に、先生と親父は『お前の志のままに』と、入社希望嘆願書を出してくれた。そして筆記試験と面接を受ける事になった。

 その一ヶ月前に、『僕は、その会社の物造りと品質プロセスを学びたいと思います。そんな物造りを生涯の生業にしようかと考えています。それが入社希望の理由です』と、親父と先生に伝えたら、『志が有る』と、言われた。

(志か……)

 それは、僕が立戸の浜で彼女に言った言葉と同じだ。

 彼女に啓発されたのは確かだけど、それよりも、彼女の近くに居たいと言う強い想いから至っただけの、取って付けたような理由なのに、それが志になってしまった。大儀など全く無くて後ろめたい気がするけれど、彼女から感じた『志』が、僕からも親父と先生に感じさせたのが嬉しい。

 彼女が行く大学の在る県に勤めるのは、あからさまに自分の気持ちに正直過ぎて抵抗が有った。それで、その隣の県に在る以前から興味が有った会社にした。

「それにしても……」

 入社試験を終えて家に帰った翌日の朝、朝飯を食べながら親父が独り言を言うように、僕へ話し掛けて来た。

「……どうして静岡なんだ? 金沢から静岡へ、北陸の中堅都市から東海の中核都市へ、東京、横浜、大阪、京都、名古屋の大都市の大企業なら就業や労働の条件や給料が良かったろうに? 遊ぶのにもな」

 僕が入社を希望する企業を選定した理由に、親父は十分に納得していないようだ。

「俺は、お前に志が有ると言ったけれど、俺の受け取り方は不十分だった。いいか、趣味を仕事にすると、趣味が嫌いになるぞ。特に出来合いの物を集めたり作ったりする趣味は尚更だ。無から有を生み出す創造性が有る事柄でも、それを生業とするプロは、気分でする趣味やアマチュアと大違いだ。お前には、その覚悟が有るのか?」

 暗示的な言い方で親父に就職する覚悟を問われた。

「でも……、お前はもっと単純な動機だろう?」

 時計をチラ見した親父が低い声で言う。早朝に加工が終わる加工マシンが一台、プログラムをミスったのか、まだ稼動中らしい。

(んん! 何か知っているのか? 親父ぃ……)

「あっ、もう時間ねぇじゃん。急いで仕事に行かにゃならんわ。お前……、それ、女が理由だろう。好きな女の子が、そこか、その近くの大学へでも行くんだろう?」

(うっ!)

 齧ったトーストを牛乳といっしょに飲み下し中だったのが止まった。

「やっぱりな。おい、吹き出して俺に掛けんなよ」

 親父は早く仕事場に行きたいのか、一気に話を終わらせようとストレートで畳み込みに来る。親父も御見通しだ。

「ブッ!」

 慌てて口に当てた両手に、飲み込もうとしていた牛乳と噛み砕いたトーストの細かい破片が、勢いよく飛び散って掌と顔中が牛乳漬けのパン屑だらけになった。前髪や学ランにも付いて鼻からも牛乳が流れ出て来る。

「うははっ! 汚い奴だなぁ~。俺に掛かってねぇか?」

 親父は立ち上がりながら、自分の服やテーブル周りが汚されていないかチェックして、更にシメのツッコミをニヤついた顔で僕に浴びせて行く。

「そんで、あれなぁ、あれから調子悪くってさぁ、エンジンとミッションを分解してオーバーホールしたんだぞ。いったいどれだけ飛ばして暑中見舞いに会いに行ったんだよ。レトロな可愛い子ちゃんなんだから、あんまり無茶させんなよ。俺の愛しくて大事なホワイトダックスなんだからな」

 親父は噎せる僕の耳許で坦々と呟くように言ってから、口で喘ぐように息をしている息子の窮地を余所に出勤して行った。

     *

 一ヶ月後、就職試験の合格の知せと採用通知が届いた。希望した金型部で三月中日からの出社勤務とあった。二月の終業式の後にアパートを探し、三月の卒業式の翌日には引っ越しをしなければならない。僕は社会に出て働く事が現実なんだと初めて実感できた。

 朝のバスで彼女の横に立つ事も少なくなった。彼女が早朝補習を受けるようになったのと、日毎に寒くなる朝に起きられなくて、彼女の乗車する早いバスに乗り損なうのが多くなったからだ。そしてインターハイ後、部活を引退して即行で早々と下校する僕と違い、塾の帰宅時間が深夜近くになった彼女と、帰りに出逢う事は全く無かった。

 今、以前のように僕の前の座席にはヘッドホンをした彼女が座り、僕はその横で吊革を握って立っている。目的の有る今朝はしっかりと早く起きれた。僕達は以前のように何も話さないけれど今は、無言でいても彼女の想いをちょっとだけ分かる気がする。以前とは確実に違って来ていて楽しく話を弾ませながら並んで歩ける日も近いと思う。

 大好きな彼女に逢える度に僕は、ずっと君を守り、君の為に生き、必ず君を幸せにすると心に強く誓う。

 横に立ちながら僕は携帯電話を操作して目的のメールを打つ。最近の送信は時々届く彼女の愚痴っぽいメールへの返信のみで、夏休み明けから彼女の受験勉強の邪魔にならないように、僕から打つのをずっと控えていた。でも、今は良いだろう。僅かな時間を置いて彼女から携帯電話の受信する小さな振動音が聞こえた。彼女のレインコートのポケットから取り出した携帯電話は、画面外周全体が発光して僕のメールの着信を知らせている。その慌てずに、嫌がるでもない、落ち着いた様子の彼女の仕種に、いつもの普通さ感じて愛おしく思ってしまう。

 そんな彼女のメールへの反応を、僕は期待して見ていた。

 発光する画面の表示で送信者が僕だと確認してからメールを開く。短いメールを読み終えると彼女の顔が動いて僕を見ようとした。でも僕を見上げかけた彼女の顔は、頬と口許を見せただけで思いとどまったように戻される。ちらっと見えた彼女の口許が、笑っているみたいだったのは見間違いじゃないだろう。

【おはよう! 就職が決まりました。静岡へ行くよ】

 僕は就職が決まって静岡へ行く事を彼女にサプライズした。

【おめでとう! 決まって良かったね。先に決まって県外の静岡か~、首都圏じゃないんだ。もう金沢には戻らないの?】

 慣れた指使いでタッチパネルを操作して、直ぐに御祝いの言葉が送られて来た。僕の就職を喜んでくれている。

(やっぱり関東圏にすれば良かったかな……?)

 今更、就職先を変更するのは面倒で難しい。それに変更する気も無かった。千葉の先っぽや栃木や茨城や群馬の向こうの端っぱしより、静岡市の方が相模原に近いだろう。

【ありがとう。静岡は首都圏じゃないけど、相模原まで近いさ。いずれは金沢へ戻ろうと思っている。親父を手伝うつもりだ。それに、海外で働くのも経験したいしさ。できるか分かんなっけどね。だから、いつ金沢へ戻れるのか分からないな。君はどうするんだ? 大学を卒業したら金沢に戻る?】

 親父の後を継がなけれならないと考えていた。海外へ出るのは彼女に自分を逞しく思わせようとして、咄嗟にくっつけた嘯いた見栄だった。でも根拠が無い訳じゃない。親父は仕事先の海外に生産拠点を持つメーカーから、海外拠点の近くへ進出を要請されている。でも今は親父一人だけだから要請に応じられないけれど、いずれ、近い将来に海外展開をしなければと僕は考えている、でも海外での仕事も生活も全く想像がつかなくて全然自信が無い。

【うん、静岡も近いね。私は大学を卒業したら金沢に戻るわ。金沢が好きだから。もう四年後の事を書いていて…… なんか変だな。その前に入試に合格しなくっちゃ。……あなたは凄いね。将来、海外で仕事するのも考えているんだ】

 彼女の期待通りの反応に、僕は嘯いた事を後悔した。

(僕は凄くない。君の言葉の御蔭で、僕は就職を決めれたんだから。本当に凄いのは君だ)

【そうなればいいなって適当に書いただけで、先の事はわかんないよ。君の受験勉強の妨げにならないように、メールは一旦停めるから。君の受験が終わるまでメールを送りません。受験勉強に頑張って下さい。君が合格するように心から祈っています】

 来年の桜の季節には相模原で君に会いたい。

【相模原へ行けるように受験勉強頑張ります。入試が済んだらメールするから、しっかり私を応援してなさいよ。それまでメールはお休み。絶対に合格しますように、頑張れ私。じゃあね。バイバイ!】

 兼六園下でバスを降りた彼女はいつものように立ち止って僕を見ている。だけど、その顔は今までの無表情ではなくて明るく微笑んでいた。僕は彼女の座っていた座席に座り、そんな以前とは違う彼女を笑わない顔で見ていた。僕は初めて彼女の温もりと匂いが残る座席に座っている。

 動き出したバスの中の僕へ彼女は胸の前で小さく手を振りバイバイする。彼女が初めて見せたバスの中の小さな動きと、バスを降りた後の微笑みやバイバイする仕種に、僕は噴出するかの如く湧き出す強烈な喜びと猛烈に感激する気持ちを、僕の表情や態度に現れないように無理矢理抑え付けて姿勢を正し、女王に忠誠を誓う白と黒の騎士ように僕は右手の拳を左胸に置いて返礼した。

(とうとう、こんなに嬉しい日が遣って来た!)

 その返礼ポーズは、彼女の乗るバスに合わせ始めた頃にしていたのだけど、一度目以降は無視されてしまい、それからは止めていた。でも、今は自信を持って出来る。

『今も、これからも僕は君の味方で、君を守り続けます』

 嬉しさにバスから降りて抱き締めに行きたいけれど、そんな衝動に駆られた行動は自制すべきだし、まだ出来ない。今は僕と彼女だけのパーソナルリアリティーが見えただけで充分だ。

(うーん! なんか、いい感じだ)

 彼女が大学に合格して、その喜びの内に一気に彼女との仲が進み、離れていても安心できる本当の彼氏と彼女になれるような気がした。 

     *

 一月末から卒業式まで学校へ行かなくてもよくなると、僕は直ぐに自動車教習所へ通った。静岡市へ移るまでに大型自動二輪のライセンスを取得する為だ。夏の白い渚の『ジレラくん』に……、 いや、彼女の実行力に僕は感化されてしまった。

(四月の後半は、モンスターバイクで彼女に会いに行きたい。深くて重いエキゾーストサウンドを響かせて、彼女の前に乗り付けて遣りたい。そしてタンデムでリアルデートだ!)

 今月中には静岡へ行ってアパートを探して契約をしなければならない。それは、まだ十八歳の僕に成人の保証人が必要な事柄で、その為にお袋は頼みもしない内から既に同行する気満々だ。一人での自炊生活に必要な物のリストをお袋は作り、リストに書き込んでいるのに一つ一つ僕に説明し、一人暮らしの注意事項や心構えを話してくれる。大半は向こうで新たに購入すればよい物ばかりだった。

【合格したよ!】

 二月中旬の青く高い空に雲一つ無い日本晴れの日、静岡で住まうアパートを五つ目の物件で決めた時に、彼女から志望の大学への合格を知らせるメールが届いた。

 彼女の願いが叶った。僕のような偽物の志じゃない本物の志を持つ彼女の願いは、これからもどんどん叶っていくだろう。そして願いを次々と叶えていく彼女に僕はずっと憧れ続けていくんだと、メールを開いて合格の文字を見た瞬間に、僕は二人の未来を知った気がした。その彼女にずっと憧れ続けている未来に、二人は結ばれているのか分からないけれど、きっと僕は彼女の傍に居られていると信じたい。

【合格、おめでとう! 受かって良かった。本当におめでとう】

 大学に合格したのは『おめでとう』だ。でも『良かった』のは、彼女が志望の大学に合格した事じゃない。僕は、僕が勝手に考えている僕らの都合に良かったと喜んでいた。

(良かった! これで二ヶ月後には、ここから彼女が住む街へ、モンスターバイクに乗って合いに行ける)

 そして、その後は毎月一度は合いに行くような仲になれるだろうと、お袋が不動産屋の人と賃貸条件を訊いて契約をしてくれようとしている。今はまだ何も無い部屋を眺めながら、僕は送信キーに近未来への願いを込めた。

 二月の金沢は毎日、雪が降り積る冬将軍の攻勢の真っ盛りで、毎年、三月に入っても、ちっとも暖かくならずに雪雲の分厚い鉛色の空が覆う薄暗い街のままで寒く、鉛色で低く垂れ込める雲の厚みが宇宙まで続くと思う程の暗く鬱陶しい重苦しさなのに、ここ静岡の空は、金沢の鉛色の雪雲を抜けた上空の成層圏まで広がっているはずの透明な蒼空が、逸れ雲一つ無い高く澄んだスカイブルーで染められていた。

 初めて来た静岡の冬は、信じられないくらいに大地と空の色がくっきりと彩られた明るくて鮮やかな世界だった。真冬の日本にこんな明るい場所が在るなんて、僕は全然知らなかった。今まで僕は知ろうとも思わなくて、知る機会も無かったけれど、日本の冬季の太平洋側はどこも、こんな日本晴れのような天気ばかりが続くのだろうか?

 光りや風も、空気の匂いや密度も、色彩も、音の響きや速度も、明らかに金沢と違った。新たに始まる初めての一人暮らしと相俟って、気分は最高にリバティーだ!

 この部屋は来月から借りる事になった。三月十六日は新入社員の入社式で、式後は直ぐにグループ分けされ、二ヶ月ほどで各部門をローテーションする研修カリキュラムが始まる。部署は予め決まっているけれど、正式な配属は研修後の評価で変わる事も有ると入社通知に記されていた。

 僕は三月十日の午前中にここへ来て、午後には金沢から送った引っ越しの荷物を受け取らなければならない。入社日まではアパートの住人や隣り近所に住む方々へ挨拶を済ませ、会社までの出勤や退勤時間帯の交通状況や所要時間を確認して、アパートの周辺を歩いたり自炊に必要な買い物する場所や、僕好みの外食ができる店を探すなどして、一日も早く生活環境と自活に慣れていくつもりだ。

 明日は金沢へ戻る。戻って自動車教習所の実技課程を終わらせ、大型自動二輪のライセンスを取得しなければならない。必要だと考えて選んだ引っ越しの荷物を梱包して発送をする。親父名義で買った心躍るモンスターバイクは、間も無く届いて少し改造の手を加える予定だ。などなど、僕の毎日はけっこう忙しい。

 今、彼女とオフで会おうと伝えれば、たぶん彼女は拒まないと思った。だけど、彼女もこれから大学の入学手続きや、僕と同じように住まいを探して引っ越しなければならない。体一つでできる就職と違い大学で学ぶのは荷物も多い事だろう。それに期待と不安だらけで大学が始まるまで、彼女の気持ちは落ち着かないと思う。実際、お互いの金沢に居られる残り少ない限られた日数の中では無理な事だった。

 相模原は首都圏で東京都町田市に隣接する都会的で喧騒な街だと思う。海から離れているから潮風が吹かない大気が滞留する場所かも知れない。でも、きっと静岡と同じ、高い青空の明るい世界に違いないだろう。だから、新たな世界で新たな生活に踏み出す彼女は、明るく開放的になれると僕は信じたい。二ヵ月後の近未来はそんな彼女に会えると思う。

 未来から現在・過去へと流れる時間の未来は明るいに決まっていると、僕は信じている。過去からの経緯と現在を認識しつつ、現在より良くなるように思い、考え、行動、選択し続ければ必ず未来は明るいに決まっている。

 絶対に僕らの未来は明るくさせて遣ろうと思う。

(僕が明るくなるようにして行くから、僕らの未来はこの空のように、きっと明るくなるに決まっている!)

 お袋と金沢へ戻る新幹線を待つ静岡駅のホームの東端に立ち、真っ直ぐに伸びる線路の果ての空、眩しい真っ青な蒼穹を見上げて僕は強く心に誓っていた。

 

 ---つづく