遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

超常現象(私 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 陸

 書中見舞いの葉書は、一昨日(おととい)に書いて昨日(きのう)の朝に投函(とうかん)した。
 今、私が居る場所は、能登(のと)半島内浦(うちうら)の明千寺(みょうせんじ)、私が産まれた石川県(いしかわけん)鳳珠郡(ほうすぐん)の穴水町(あなみずまち)諸橋(もろはし)地区に在る町だ。
 夏の能登半島の清々(すがすが)しさを、彼に知らせて遣(や)りたくて、書中見舞いを書いて投函した。
 夏休みに入ると、直(す)ぐに明千寺に来て、休みの期間中は、途中に家族旅行でも無い限り、ずっと、此処にいる。
 毎年、夏休みを御里(おさと)で過(す)ごすのは、金沢市(かなざわし)へ引っ越してからも、欠(か)かさずに続けていて、原点回帰のリセットをさせてくれる、私の夏のイベントだ。
 此処(ここ)の風や海や地域の匂(にお)いは、私の心を開かせてくれて、癒(いや)される気持ちは、なだらかに広がり、素直で寛容(かんよう)な私にさせてしまう。
 いつ来ても、ずっと、変わらない明千寺の風景は、私の原風景(げんふうけい)そのものだ。
 此処での癒しは、金沢で暮らす私を支(ささ)え、しっかりと前を見させて、強く後押してくれる。
 小学生の頃のように一日中、外で遊ぶ事もなくなり、日課は朝夕に磯へ行くのと読書をしながら昼寝をしてしまうくらいで、テレビは殆(ほとん)ど見ないし、パソコンやテレビのゲームもしない。
 此処は、街のような遊んだり、ショッピングする場所はなくて、気持ちが騒(さわ)ぐ事もなく、日々をゆったりと流れる時間の中で過ごせる。
 もちろん、学生だから、涼(すず)しい午前中や静(しず)かな夜には勉強もする。
 夏休み中の夏季補習や、合同合宿授業や、登校日などの学校行事は、中学でも、高校でも、全て、ブッチして…… 敢(あえ)て、無視して参加しない。
(だって、夏休みを学校へ行って、顔合わせしたり、お勉強会に出席して、粛々(しゅくしゅく)、黙々(もくもく)とするなんて、思春期の貴重なフリーダムディズが台無(だいな)しで、勿体無(もったいな)いじゃない!)
 学校特有の、建物の古さに見合っただけ沁(し)み込んだ、大勢の先輩方のムカつく臭(にお)いと、辛気(しんき)臭(くさ)く、殺伐(さつばつ)とした、息が詰まる教室よりも、此処の自然に囲(かこ)まれて、自由で健康的な生活をしながら、勉強した方が、よっぽど身に付いて憶(おぼ)える。
 『お前の好きにしろ。結果は、善(よ)きも、悪(あ)しきも、お前自信に行くんだからな』と、両親は因果(いんが)を諭(さと)しながら、私の好きに夏休みを使わせてくれた。
 ただ、夏休み末(まつ)の模試や学力テストだけは受けた。
 これらのテストの成績を良くして、学年順位を上げる事ができていれば、誰も私に文句は言えないでしょう。
 実際、今まではそうできていて、テストの点数が私の身勝手(みがって)の良き結果を証明していた。
 トップクラスの成績じゃないけれど、それに次ぐ上位で、成績順位をジリジリと上げて来た。
(私は今、退屈で、ちょっち寂(さみ)しいかな。……私に会いに来てくれる……?)
 受験勉強中の高校三年生にもなって、小学生の時のように毎日、海で泳いで、夏休み明けに全身真っ黒な肌のままでは登校できない。だから、余り日焼けをしないように、できるだけ外出を避(さ)けている。
 出掛けても、朝の内か、陽差(ひざ)しが弱くなる西陽(にしび)になってからだ。
(だいたい、一日中、泳ぎたいわけじゃないし、穴水や宇出津(うしつ)の大きい町まで買い物に行くのは、ちょっと遠くて、買い物などの明確な目的がないと、行動する意欲が湧かない。それに、あんまり欲しい物は無いし、パソコンやネットゲームをするのにも、週刊誌やコミックを読むのにも、飽(あ)きちゃったし、地域中が賑(にぎ)やかに盛(も)り上がる、夏祭りも終わちゃって、気分は開放的なのに、何もする気が無くて詰まらないだけ……。故(ゆえ)に、けっこう暇(ひま)してる。でもね、何か、ときめく刺激を求めたいし、期待したい。だって、ひと夏のラブっちい思い出が欲しい年頃じゃん!)
 そんな意味を含(ふく)ませた絵を描(えが)いて、認(したた)めた我(わ)が儘(まま)に添(そ)えた。
(気付いて、私を、ドキドキさせて)
 インターハイの直後に、彼からメールが届いた。
【予選落ちした……。ごめん】
(御免(ごめん)って何よ。なに謝(あやま)ってんのよ!)
 私は、『頑張って』と、応援を贈(おく)ったけれど、勝ちなさいと、強迫はしていない。
(私の為(ため)でなくて、あなたの弓道でしょう)
 メールを見て、そう思う。
 残念な試合結果を知らせる以外に、彼からメールは来ていない。
 予選落ちして、ウジウジと彼はメゲているのだろうか?
 私から慰(なぐさ)めや励(はげ)ましのメールはしない。
 それは、彼にイニシアチブを取られそうで嫌(いや)だった。でも、気になる……。
 その意味も含めて、葉書に想いの言葉を綴(つづ)った。
     *
 缶コーヒーを買いに来たお客さんが、彼だと分かった!
 御釣りを渡そうとする、お婆(ばあ)ちゃんの向こうに彼がいた!
(来た! ……来てくれた! ……彼だ!)
 胸がドキドキして来て、顔が火照(ほて)っていくのを感じながら、私は店に降(お)りずに敷居(しきい)に立って彼を見ていた。
 私の気配(けはい)を感じたのか、彼はゆっくり顔を上げる。
 起こした顔の瞳(ひとみ)が動いて、私に気付いた。
 ギョッと眼が見開いて、顔が驚(おどろ)きの表情に変わり、そして、彼の眼が泳いだ。
『チャリーン、チャリ、ヂャラッ、ヂャリーン!』
 次の瞬間、受け取り掛けた御釣りを手から零(こぼ)れるままに、彼は身を翻(ひるがえ)し、急(いそ)いで外に出て行ってしまった。
(あーっ、にっ、逃(に)げた……! ちょっとぉ~、ふつー、『やあ』とか、『オスッ』とか、笑顔で言うんじゃないの! ちゃんと、挨拶(あいさつ)しなさいよ!)
「まっ、待(ま)ってよ!」
 表の通りに小型のバイクのエンジン音が聞こえて、慌(あわ)てて裸足(はだし)のまま外へ飛び出したけれど、彼が既(すで)に左の坂上(さかうえ)へ登り切るのが見えた。
 彼が乗るのは白色の小さなバイクで、上辺の角(かど)を落とした変則六角形の金沢ナンバーから、排気量五十CC未満の原付だと知った。
「こらぁーっ、待てぇー、何処(どこ)行くのよぉー。戻(もど)って来てよぉー。御釣り、いらないのぉー?」
 後ろ姿に叫(さけ)んでも聞こえないのか、彼は振(ふ)り返りもせずに走り去(さ)ってしまった。
(くっそぉ、急いで、ジレラ君で追い掛けなくっちゃ)
 追い掛けようとしている私を、お婆ちゃんが私を見て言った。
「彼氏かい?」
 ドキッとした。
(そんなのなんかじゃないわ! 彼は……、まだ、違う……)
「違うわよ! ただの友達よ」
(まだ、違う……)
 彼に恋愛なんか、意識していない。
 それを否定する気持ちが、彼を友達にさせた。
(友達なの? つい、この間まで碌(ろく)に話もしていなかったのに……? 確(たし)かに、メル友なのかも知れないけれど……)
「此処まで、来たのに?」
 お婆ちゃんの突っ込みがきた。
(彼が一方的に、私を好きになって、恋をしていると想い込んでいるのよ。……恋……、ここに誘(さそ)ったのは、私だけど……)
 『恋』の単語が、思っただけなのに心に沁み込んで、胸の深い処(ところ)がキュンと鳴(な)った。でも、違う!
「友達よ!」
 切(せつ)なくなる気持ちを、私は振り払(はら)うように強く言った。
「あの子、あなたを、友達以上と想ってるんじゃないの?」
 クラっと来た。更(さら)に鋭(するど)く、お婆ちゃんは畳(たたみ)み掛けて来る。
(確かに、彼は私を好きで、何度も告白してきたわ。そして私は、それを全部、振ってきたんだから)
「そっ、そんなこと、……ないわよ!」
 語尾の声が、小さくなってしまった。
(あっ、いけない! 彼が逃げてしまう。早く追いかけなくちゃ)
 お婆ちゃんに言った言葉と、行動しようとする思いに矛盾(むじゅん)を感じながら、私はビーチサンダルを突っかけて急いだ。
「そう、お友達なの? まあ、いいけどね。これ、渡してちょうだいね」
 そう言って、外へ出ようとする私に、コンクリートの床に散(ち)らばった小銭を指差した。
 箒(ほうき)で隅(すみ)に転(ころ)がった小銭を集めながら、ブツブツ言いながら小銭を拾(ひろ)う私を見て、お婆ちゃんが笑っている。
「金沢のお友達が、此処まで会いに来たのね。きっと、あの子は、あなたの事が、とても好きなのよ。だから、あなたを見て固(かた)まっていたのね。さぁ、直ぐに追い駆(か)けて、御釣りを渡して来てちょうだい」
 お婆ちゃんが、お釣りの硬貨を拾い終わった私に言う。
 彼の気持ちと私の想いを言われて、ドキドキしてくる。
「帽子を被(かぶ)って行きなさい。それと、これもね。あの子が、買おうとしてたわよ」
 カチンコチンに凍(こお)った、二本のアイスキャンディを袋に入れて渡された。
「お婆ちゃん、ありがとう」
 直ぐに、車庫の裏に停めてあるスクーターで追い掛けた。
 排気量百二十五CCのイタリア製のスクーター。
 伯父(おじ)さんのだけど、私のお気に入りの『ジレラ君』だ。
 エンジンの噴(ふ)け上がりをチェックしてから、アクセル全開で彼を追い掛ける。
 原付なんかより、ずっと速い。
(ふふっ、ランナウェーを追い詰めるチェイサーは、やっぱり、ビックパワーで威圧的にだよね)
 明千寺の水田が広がる台地を降り、宇加川(うかがわ)の集落に入った。
 道は、ここで海岸沿(ぞ)いの道路とT字に交(まじ)わる。
 右は宇加川、前波(まえなみ)、沖波(おきなみ)と海岸沿に集落が連(つら)なって立戸(たっと)の浜に到(いた)る。
 左は花園(はなぞの)、古君(ふるきみ)、竹太(たけだ)の集落が在るけれど、海岸沿いは建物が少なくて寂(さび)しい。
 『諸橋』は、その七つの集落を全部含めた地域全体の呼(よ)び名だ。
「いない! ちょっとぉー、何処行ったあー」
 彼を求めて叫んだ私は、『ジレラ君』のエンジンを止めて、視界の限りに原付を走らす彼の姿を探し、その噴かすエンジン音に聞き耳を立てるけれど、姿は見えず、音も聞こえない。
 地図も、GPSも見ずに、感だけで走る人は、たいてい右へ行く。
 方向的にも、穴水町は右だ。でも、穴水町へ行くには左の方が、ずっと速い。
 左へ行けば、道は竹太の向こうの能登町(のとちょう)鵜川(うかわ)の町で、トヤン高原を内陸側へ迂回(うかい)していた国道二四九号線に繋(つな)がる。
 緩いカーブが連続しているだけの国道は広くて走り易(やす)く、海岸沿いのようにウネウネと頻繁に曲がりくねっていないから、穴水町へ戻るにも近くて早い。
(彼も、GPSぐらいは見ているはず。だけどきっと、見通しいの良い左には行かないわ)
 逃げる彼は、右に行くはずだと思う。
 彼を追い駆け、T字路を右に曲がって、宇加川、前波、沖波と海沿いの集落を一気に走り抜け、家並みが途切(とぎ)れて右側に一面の緑の田畑、左側に砂浜が広がる開けた場所で停まってみた。
 この先の道は海岸際を通り、小さな岬を廻(まわ)った向こう側に在る甲(かぶと)の町に至る。更に円山(まるやま)の麓(ふもと)を超え、一時間以上も海岸沿いを走って、やっと穴水の町に着く。
 水田の中を真っ直ぐにトヤン高原へと続く右側の道は、国道から明千寺へ行く道と交差する。
 左側には、松と雑木の生垣(いけがき)の向こうに細かい砂の渚(なぎさ)が広がっている。
 立戸の浜の白い砂浜だ。
 私はエンジンを止めて、耳を澄(す)まし、辺(あた)りの様子を伺(うかが)う。
 盆過ぎの風のない昼下がり、真夏の太陽にじりじりと照り焼きにされる中、蝉(せみ)の鳴き声だけが大きく聞こえ、逃げた彼の原付の爆音は、どこからも聞こえてこない。
(くっ、いない……。逃げ切られたか……? それとも、反対方向だったのかしら?)
 取り逃がしたものは仕方(しかた)が無いと、思い掛けてハッとした。
(取り逃がすって何? 今、私は彼を追い掛けていた ……んだ。捕まえてどうするつもりだったの? なぜ、彼は逃げたの? ……恥(は)ずかしいから? 金沢から遥々(はるばる)、明千寺まで遣ってきたのに?)
 私から顔を逸(そ)らして、逃げる彼の姿を思い出す。
(私と、どんなふうに会うつもりだったの?)
 彼は店で買い物をしていた……。
(私を見るだけで、いいの?)
 事前にメールを寄越さずに、彼は来た。
 私を見て、驚いていた。
 あそこが私の御里だと、彼は知らなかったんだ。
(どうして、逃げるのよ!)
 缶コーヒーを買っていたのは、演技じゃなかった。
 本当に買いに来て、偶然に私と遭遇(そうぐう)したんだ。で、逃げた。
(なんで! 私に会いに来たんじゃないのぉ?)
「せっかく、……私に逢(あ)えたのに、逃げるなんて、最低じゃん! なんか、がっかり!」
 イラつく気持ちが、ぼやきになって出た。
 ハイだったテンションが、急速に下がって行く。
(詰まらなくて、イラつくわぁ~。それに、暑いしぃ……)
 泳いで気分を変えようと、私は人気の無い浜辺にジレラ君を乗り入れる。
 いつでも海に入れるようにワンピースの下には水着を着ていて、夏休みに明千寺に遊びに来ると、天気の良い日は決まって磯へ行って泳いでいた。
 朝夕の凪(なぎ)ぎに、私はフィンを着けてシュノーケリングをする。
 朝の凪ぎは、水が冷たく澄んでいて気持ちがいい。
 サザエやウニや岩牡蠣(いわがき)が見つけ易くて、その日に食べたいのを獲(と)る。
 稀(まれ)に繁殖地から流れて来るのか、大きなアワビも見付けた。
 港の埠頭(ふとう)の石組みの間から素手で捕まえる蛸(たこ)は、私の腕に幾(いく)つもの丸い吸盤の痕(あと)を附(つ)けながら、逃げようとする。その蛸の頭を裏返して動きを止めさせてから、小さなクーラーボックスに入れて帰った。
 夕方は水着を替(か)えてサングラスを掛け、凪いだ海面に力を抜いて揺(ゆ)ら揺らと漂(ただよ)う。
 肩と腰にパットのような自作の小さな浮力補助を着けて浮くと、全身を弛緩(しかん)させた浮遊感が堪(たま)らなく気持ち良くて、時々そのまま寝てしまう。
 日焼け止めクリームを塗っているけれど、それでも、毎日そんな事ばかりしているから、けっこう黒くなってしまった。
 ツーリングの先客がいるのか、この辺りでは見た事も無い白い原付が一台、渚に停めて有る。
(ナンバーの上に横書きで、金沢市と書かれた変則六角形のナンパープレートに白いボディカラー、……もしかして、この原チャは彼の?)
 私は疑(うたが)いながら、その白い原付の真横に私はジレラ君を停めた。
 原付に触れるくらいの傍(そば)に立つと、つい今し方まで稼働(かどう)していたエンジンの熱気が、素足へ伝わって来た。
 フルフェイスのヘルメットとショルダーバッグが、ハンドルに掛けてある。
 バッグのポケットから、彼に宛てた私の暑中見舞いのイラストが覗いていた。
 私が描(か)いた、此処での私の顔……。
(あっ、やっぱり、この白い原付は、……彼のだ。もう、逃がさないからね!)
 『逃げちゃったモノは、仕方ないか』と、半分諦(あきら)めていたけれど、思いがけずに彼の所在を見付けてしまった。
 逃げ切りをしなかった彼は、此処(ここ)に留(とど)まって再び明千寺へ行こうか、迷っているのかも知れない。
(何処に彼は……? いるの……? ……いた、あれかな~? うっ、浮かんでいるの?)
 浜に、水面(みなも)に、彼を探す私の目へ、フロート付きのロープで囲まれた遊泳範囲の真ん中辺りに、彼らしきモノが浮いているが映(うつ)った。けれど、緩(ゆる)いうねりに合わせて浮き沈みするだけで動いていないように見える!
(ええーっ、そっ、そんなぁー。ヤバイの? あっーもう、泳げないクセに、海にはいるから! まっ、まだっ、間に合うよね!)
 急いで浜辺を駆けて二、三歩、渚へ入った所で、もっと良く状況を把握(はあく)しようと目を凝(こ)らして見ると、ゆるーく、ゆるーく、うねる波間に黒いゴーグルを着けた彼が仰向(あおむ)けで浮かんでいて、息はしているようだった。
 俯(うつむ)せで漂っているのじゃないから、溺(おぼ)れてはいないと思う。
(ちょっとぉ~、びっくりさせないでよ。竜宮の使いに、連れ去られそうとか、大祓(おおはら)いの姫様と、彼岸(ひがん)の川を渡り掛けているとか、思っちゃって、焦(あせ)ったじゃないのー。……でも、無事でよかったわぁ~。ふぅー)
 大きな溜(た)め息を吐いて、彼が生きていたのに安堵(あんど)しながら、怖(こわ)がらずに彼が水へ入り浮かべている事に驚いてしまう。
(えーっ、泳げているじゃん! いつの間に、泳げるように……? いっしょなクラスになった、小学六年と中学二年の夏は、いつも、見学か欠席で逃げて、一度も、プールに入らなかったくせに……)
 私はジレラ君を彼の原付の横に停めて、水が怖く無くなったのならと、彼の浮かぶ海へ静かに入り、顔だけを水面から出した屈(かが)んだ姿勢で波を立てずに、ゆっくりと進んで私は彼に近付いて行く。
 接近するにつれ、彼の胸が規則的なリズムで小さく上下していて、ただ浮かぶのを楽しんでいるだけだと知った。
 空を向いて沈まないように安定した呼吸をする彼は、近付く私に全然気付いていない。
 七、八メートル手前で潜(もぐ)り、波紋(はもん)が美しい海底の砂地スレスレに、アトランティスから来た男の泳ぎスタイルの二蹴(ふたけ)りで、一気に距離を詰める。
(逃げた仕返しに、驚かしてあげるわ)
 水面を漂うバランスを保(たも)つのに水中で水を掻(か)く、彼の手に触(ふ)れそうなくらい近づいて、私はスーッと彼の真横に立ち上がった。
 真横に出てくる私の気配を感じた彼は、一瞬、ピクッと痙攣(けいれん)したかのように震(ふる)えてから、手足の動きが止まった。
 彼にとっては、全(まった)く予想もしていなかった事態に違いない。
 海から亡霊(ぼうれい)か、死霊(しりょう)が浮き上がって来たとでも思ったのだろう。
 大抵(たいてい)の人は予想もしていなかった突発的な危機的事態に遭遇すると、驚きと、狼狽(ろうばい)と、焦りに恐怖、そして、状況の理解や状態の把握が脳内で同時に行われて、そのオーバーワークな処理に頭は真っ白になってしまう。
 故(ゆえ)に、危機の回避や対応する咄嗟(とっさ)の動きを出来ない身体は、金縛(かなしば)り状態になってしまう。
 水を掻くのを止めてピクリとも動かない彼は、息もいっしょに止めたのだろう。
 固まったまま徐々に沈(しず)んで行って、彼の口も、鼻も水面下になった。
 引き攣(つ)る顔の黒いゴーグルで隠れた見えない瞳は、私だと分りかけているはず。
 私は、両手を沈みゆく彼の胸に当てて被さり、体重を掛けて一気に沈めた。
 胸だけ押すと上半身だけ沈み、下半身が水面に出てしまうから、沈めている最中に、片手を彼の腹部に移(うつ)して押さえ込む。
 私の両手は彼の胸と腹を押さえ、彼は身を捩(よじ)る間も無く、私にされるがままに無抵抗で確実に沈めてられて行く。
 冗談でも、私は残酷だ。
(サプライズは、大成功だ! 予想以上だったかも……)
 彼を捕まえた嬉(うれ)しさと楽しさの勢(いきお)いで、私は笑いながら彼を沈める。
 ゴーグルをした顔を私に向け、彼は息を懸命に止めている。
(すっごく、楽しい!)
「アハハハッ」
 楽しくて可笑(おか)しくて、水中でも、彼を見ながら笑い声が出てしまう。
 被さった勢いと私の重(おも)みが、縞模様の波紋を固めた砂地の海底に背中が着底した彼を、更に押さえ付ける。
 瞬間、ガバッと、彼の口から大きな泡(あわ)が出た。
 突然の事で半分ぐらいしか吸い込んでいないだろうと見込んだ、彼の肺の空気が泡の塊(かたまり)になって出て行き、手足をバタつかせて身を捩る彼に限界が来た。                                                                                                        
(これ以上は、ダメ! 彼は限界よ)
 鼻と口から、泡を漏(も)れ出しながら踠(もが)く彼が、可愛(かわい)そうになって来て急いで彼から離(はな)れた。
 近くの水面に浮かぶ帽子を拾い、彼の様子を見守(みまも)った。
(もし、溺れたら、助けないといけないだろうな……。浮けているくらいだから、溺れないとは思うけど……)
 不安な思いでいると、ザバッ、ザバッーって、彼が水中から飛び出して来た。
 海水を吸い込んだのだろう、辛(つら)そうな彼の激(はげ)しい咳(せ)き込みを後に聞きながら、私はホォッと安堵の気持ちで浜辺に戻った。
 止まらない彼の咳き込みに振り返ると、ゴーグルを外(はず)し、泪(なみだ)と鼻水と涎(よだれ)だらけのグシャグシャな顔で、彼はゲホゲホと咳き込みながら、膝上ほどの深さの海面をヨロヨロと岸へ向かっている。
 彼が元気で安心したのと、サプライズが成功して嬉しいのと、彼のヨロけてふらつく姿が可笑しくて、私は、また笑ってしまう。
 もしかして、私は凄(すご)く酷(ひど)い女かも知れない……。
「アハハハハ。ねぇ、大丈夫(だいじょうぶ)?」
 飲み込んだ海水で喉(のど)が焼けるのだろう、辛そうに顔を顰(しか)めて盛(さか)んに唾(つば)を吐(は)く。
 砂浜に上がった途端(とたん)、彼は懸命に穴を掘り、ガハガハと激しく穴の中に嘔吐(おうと)した。そして、一頻(ひとしき)り吐瀉物(としゃもの)が出終わると、吐き気が残るのか、ゴボゴボと排水溝のような音を立てて空(から)嘔吐を繰り返し、そのまま穴に突(つ)っ伏(ぷ)した。
 気持ちが悪くて、直ぐにでもゲロを吐きたいのに、わざわざ穴を掘って白い砂浜を汚(よご)さないようにした彼に感心する。
(あっ、ヤバイ! 気絶したかも?)
 ビクン、ビクンと、彼が痙攣してから動かなくなったように見えて、私は焦って駆け出した。
 吐き気が治(おさ)まったのか、半分も近付かないうちに、彼は顔を起こしてゲロを吐いた穴に砂を掻き寄せたり、崩(くず)したりして埋めてから、ゴロゴロと波打ち際へ転がって行った。
 汚物(おぶつ)塗(まみ)れの頭と顔を海水で洗い、口も漱(すす)いだ彼は、海から上がったと思うや、チリチリに焼けて乾(かわ)き切った砂浜に俯せに倒れた。
「アハハッ、おっかしい」
 彼に酷い事をしたみたいだけど、彼の足搔(あが)く? 藻掻(もが)く? その様子がコメディのパフォーマンスみたいで面白(おもしろ)い。でも、本人は必死なんだろうと思う。
 彼は熱い砂浜へ突っ伏したまま、ピクリとも、手足を動かさない。だが、上下する背中から、息はしている。
(本当に辛そう。でも……、おもしろい)
 一旦(いったん)、ジレラ君まで戻っていた私は笑いを堪(こら)えて駆け寄り、彼の真横に勢いを付けて座った。
 横に向けた彼の顔や肩に、膝(ひざ)で押し分けて飛び散らかした砂が掛かる。
 突っ伏して「ハアハア」と、苦(くる)しそうに荒(あら)い息をする彼の下に手を入れて、一気に引っ繰り返した。そして、仰向けになった彼の砂だらけの口に、融(と)け始めていたアイスキャンディを押し込んだ。
「食べて。冷(つめ)たくて甘(あま)いよ」
 彼は、突然に口へ押し込まれて息を止めさせた白くて冷たい物を見定めようと、慌てて跳(は)ねるように上半身を起こして、それが、アイスキャンディだとわかると、やっと、彼は落ち着きを取り戻して食べ始めた。
「ブハッ!」
 目をパチクリさせながら、アイスキャンディを頬張(ほおば)る彼が可笑しくて、私はアイスキャンディを銜(くわ)えたまま噴き出して笑ってしまった。
 少し向きを変えて体を傾(かたむ)けると、彼の頭に私の被る白い帽子の大きな庇(ひさし)がコツンと当たり、次に肩が彼に触れた。
(ごめん!)
 沈めた事を心の中で謝りながら、彼に安らぎと温(ぬく)もりを求めている私がいる。
 『ビクッ』と、彼が震えたけれど、私はワザと気に留(と)めないフリで肩を触れたままにして置く。
 乾き始めた肌や髪の海水の雫と、少し粘(ねば)りのある汗で濡(ぬ)れた彼の皮膚に、貼(は)り付いた砂のザラ付きを感じて、それが、私を安心させてくれるけれど、体力を失った所為なのか、彼の肌は冷たくなっている。
(温(あたた)かくないじゃん)
 私が、肩を触れさせている事を信じられないと思ったのか、確かめるように彼の顔は、ゆっくりと私に向けられて、そのまま停まった。
(うふっ! おもしろい)
 そんな、彼の様子にも、気付かないふりをして、私はアイスキャンディを舐(な)める。
 アイスキャンディを齧(かじ)りながら、私を見続ける彼を、私は視界の隅で見ている。
 彼の視線は少し下がり、私の顔を見ていなかった。
 彼は、気が付いたみたい。
 アイスキャンディを握(にぎ)っている私の手を、彼は見ている。
 彼は、ネイルアートを施(ほどこ)した、私の指先を見詰めていた。
 昨日、穴水の町でネイルアートをした。
 伸ばした爪の形を整(ととの)えてから、持参した自分で描いたデザイン画で、造形と彩色をして貰った。
 彼は、左右の爪を良く見てから、私の顔を見る。
 あの小学校六年生の時と同じ、驚きと憧(あこが)れが一杯の顔だ。
 あれから六年も経(た)つのに、彼は同じ顔をしている。
 左手の爪は、常夏(とこなつ)のトロピカル風にした。
 ベースは、スカイブルーの空にエメラルドグリーンとコバルトブルーがグラデーションされた海、白い砂浜も小さく入れる。
 その、ベースの上から椰子(やし)の木を白いシルエットで描いた。
 右手の方は、淡(あわ)いライトグリーンにピンクと白の薔薇(ばら)の花を、立体的に造形した。
 見詰められる恥ずかしさと照れくささに、彼の表情が加わって、また、私は噴き出して笑った。
 やっぱり、彼は楽しい。
「アッハハハ、そんなに、見詰めつめないでよ。恥ずかしいじゃない」
 彼は笑わずに、真剣な目で私の爪を見ている。
 ネイルアートをした私の爪は、四角(しかく)い爪には見えない。
「素敵だ! とても、似合(にあ)っているよ。足の指のもいい。綺麗(きれい)だ……」
 ネイルアートを誉(ほ)めながら、彼の視線は足の爪のペディキュアもチェックしていた。
 ホログラムの重(かさ)ね塗(ぬ)りのパールピンクで、キラキラして可愛い感じが気に入っている。
 手の爪といっしょに塗って貰った。
 彼の言葉の語尾が掠(かす)れて、ゆっくりと滑(すべ)るように肩に触れていた彼の身体が崩れて、彼は砂浜に横になった。
 滑り崩れる彼に、ワンピースが引っ張られる。
(あっ、なにを……。ん?)
 沈められた仕返しでもされるかと思い、身構(みがま)えて彼を見ると、砂に顔の半分を付け、僅(わず)かに口を開けて目を閉じていた。
(あっ、倒れた? これって……? もしかして、マジにヤバイかも!)
 沈めた所為(せい)で溺れる寸前の脳が酸欠になって、昏睡状態になったのかも知れないと思った。
(もし、そうだったら、軽い意識障害などの後遺症が残るかも知れない。それも、目覚めればの話しだけど……、えっ、ええーっ!)
 楽しい思いは、一瞬で不安と焦りと後悔に変わった。
 目を閉じて、ちっとも動かなくなった彼の顔に、必死な思いで私は顔を近付けて状態を確認する。
 動かして刺激しないように、そっと見た彼は、私の焦燥(しょうそう)する心配を他所(よそ)に静かに安定した寝息をたてていた。
(ねっ、寝ている……? ほんとうに寝ているの?)
 試(だめ)しに、彼の片方の瞼(まぶた)を開けてみた。
 開けた途端に、もう一方も開いて、ギロッと私を睨(にら)んでから直ぐに閉じた。
 そして、また、眠(ねむ)ってしまった。
 今度は、ガー、ガーと鼾(いびき)をかいて寝ている。
(びっ、びっくりしたぁー。だっ、大丈夫みたいね。良かったぁー)
 私の惨(むご)いサプライズが、彼の体力を一遍(いっぺん)に奪ったのかも知れない。
(でも、私の所為? ……そうだよねぇ)
 彼が、こうなった責任は目一杯、私に有る。
 私は、そっと彼の頭を抱(だ)き起こして膝の上に乗せ、帽子の庇の影に入れた。
(ふざけ過ぎて、ごめんなさい)
 私の手は、彼の髪を優(やさ)しく撫(な)でる。
 軽く指で耳を挟(はさ)み、そっと頬(ほお)と唇(くちびる)に指先を滑らして付いた砂を落とす。それから、ついでに沈めた所為で耳の中に水が残ってないか、見て遣った。
 残っていたら帽子のリボンを紙縒りにして吸い取るつもりだったけれど、残念な事に全然、残ってはいない。
 彼の肌が、私より木目細(きめこま)かくて張(は)りが有るモチモチプリプリなのには驚いた。
 触っていて、気持ちがいい。
 私の膝の上で鼾をかいて気持ち良さそうに眠る彼は、直ぐに起きそうにないように思えた。
(こんなに、遠くまで来て、疲れたんだね)
 折角、私と巡(めぐ)り合えたのに眠ってしまうなんて、きっと彼は、ここへ全力で頑張って来たのだと思う。
 高校一年の時に、夕陽と彼を見に金石(かないわ)の浜まで行って、凄く疲れた事を思い出した。
 バスを乗り継いでも、一時間と掛からなかったのに、初めての場所へ行って疲れが出たのか、帰りのバスの中で眠り込んでしまい、その挙げ句に彼に起こされていた。そして、金沢から此処までは、錦町(にしきまち)の家から金石の浜への距離よりも、何十倍も遠い。
(ずっと、眠っていてもいいよ。もしも、このまま、目が覚めなくても、目覚めるまで、……傍に、……ずっといてあげるからね)
 いつ、彼が起きるのかわからないけれど、日が暮れてしまったら、御里へ運んで泊(と)まらせようと考えた。
 お婆ちゃんは分かってくれると思う。でも、伯父さんや伯母(おば)さんや従姉弟(いとこ)達に金沢から来た男の子をどう説明しようか迷った。
 絶対に勘繰られてからかわれるに決まっているし、そして、金沢の親と彼の家に電話して知らせなければならない……。
 もし、泊まる事になればだけれど……。それに、夜になっても目覚めなかったら病院へ連(つれ)ていかないと心配だ。
(ねぇ、暑中見舞いに込めたメッセージに気が付いて、金沢から一度も休まずに、原付きで走って来てくれたのでしょう? でも、私に逢った後の事は、何も考えていなかったでしょう?)
 私の御里だと知らずに来て、私がいたのに驚いて、休憩する間も無く逃げた。そして、追い掛けた私に海底に沈められ、けっこう危(あや)ういところまで行かされて、疲れた身体に残っていた体力を失ってしまったんだ。
(会いに来てくれて、ありがとう)
 気持ちいい彼の頬に手を添えて、私はずっと、彼の顔と身体を見ていた。
 三十分ほど経って彼が寝返りを打つと、俯せになった彼の顔は私の股間を向いて、それから、両腕が私の腰に回された。
(ちょっ、ちょっとぉ~。そんなつもりじゃ……、ない…… の…… に……。んん?)
 抱き付かれて押し倒され、強引に迫(せま)られるかと思う緊張に身構えたけれど、彼の腕に力は込められなかった。でも、体勢がヤバイ!
(あーっ、そっ、そこは汚くてーっ! じゃなくて、やめて! どいてよ!)
 起こして払い除(の)けようと彼の体に触れそうになった時、鼾が止まった彼の安らかで規則的な寝息が聞こえて来て、彼を払い除ける気持ちが薄(うす)らいだ。
 時折(ときおり)、聞き取れないくらいの小さな声で寝言を言って、ちょっと可愛いかなと思ってしまう。
 何か、良い夢を見ているみたい。
 そのまま、彼を俯せに寝かせて、更に十五分ほど過ぎた。
 さすがに、足が痺(しび)れて来て姿勢を変えようとして、そっと、憤(むずが)った時に彼が飛び起きた。
「目が覚めたぁ?」
 事態を理解しようとしているかのように、彼の大きく見開かれた瞳は世話(せわ)しなく瞬(まばた)き、私の太腿を見ている。
 ワンピースの裾(すそ)が股間近くまでズリ上がって、曝(さら)け出た太腿の陽に焼けた小麦色の肌が恥ずかしい。
(もう、どこ見てんのよ)
「わわわっ、ごめん」
 後退(あとずさ)りながら、見る見る紅(あか)くなって行く顔の彼は、私の機嫌(きげん)を損(そこ)なわないようにと、手を合わせ、頭を下げて謝る。
(大袈裟(おおげさ)だなぁ。そんなに紅くならないでよ。私まで紅くなるじゃない)
「元気になったぁ?」
 私の気持ちの具合を探(さぐ)るように見ている彼に、ワザと太腿を曝け出したままで戯(おど)けて言う。
「あっ、ごっ、ごめん。汚してしまったぁ」
 落とした彼の目線の先に、私の太腿の付け根近くに着いた涎が有った。
 彼が、私に抱きついて眠っていた時に垂(た)れた涎(よだれ)だ。
 それを私は、別に汚いと思わない。
 自分でも、鼻の通りが悪く、口で息をして眠っていた起き掛けに、枕が思い掛けないほど広い範囲に涎で濡れていてビックリしたり、その、濡れた冷たさと口周りや頬のベタベタ感が不快に思った。けれど、それは一過性の気持ち悪さだ。
 彼自身を私は、全然不快じゃないと思っている。
 汚い、臭い、喧(やかま)しいの不快大三源を、彼は持っても、放ってもいない。
 私は乾いた砂を掬(すく)い取り、その砂で太腿に着いた涎を無造作に拭(ふ)き取った。
 それを彼は、じっと見ている。
「気にしないよ。ごめんね、沈めちゃって。このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思っていたの。ああっ、本当に良かったわ!」
 詫(わ)びる言葉が口から出るけれど、私は悪怯(わるび)れていない。
 もっと、沈んでいた時間が長ければ、急いで駆け付けたと思うし、直ぐに彼は飛び出て来たから、私の経験上、そんなに問題は無いと思っている。
「もう、大丈夫だ。あれくらいじゃ、僕は、どうもならないさ」
 強がる彼に、死にそうな顔で、よろけながら浜に辿(たど)り着き、吐瀉物だらけの穴に頭を突っ込んで失神して、痙攣までしていたのを覚えていないのだろうか? と思う。
「ねぇ…… 座ってよ。何か、話ししょ!」
 付けた涎への私の怒(いか)りを怖(おそ)れて立ち上がり、いつでも、逃げを決めようとしていた彼に私は横に座るように促(うなが)す。
 七分丈(しちぶたけ)の半ズボンのような水着の裾を座るように引っ張る私が、怒りも、軽蔑もしていないのを知ると、彼は、すっと真横に腰を降ろした。
(紅くなって、逃げようとしたいたくせに、あははっ、遠慮無しな奴め……)
「さっき、不思議(ふしぎ)な体験をしたよ。でも、錯覚かもしれない」
 座るなり、彼は話し始めた。
 彼は、周囲の景色を見回す。
「森の中が真っ暗で、道の先が見えないんだ。明千寺へ向かっているはずなのに、何も見えなくて、何処を走っているのか、分からないんだ」
 明千寺に来る途中のトヤン高原で、何か怪(あや)しい事が有ったのだと直感した。
 トヤン高原は多くの果樹園が点在しているけれど、トヤン高原全体では真っ直ぐな木立(こだち)の森が多く、あちらこちらに広がっている。
「……森ねぇ、そんな、深い森なんて在ったかな? この辺(へん)の山の木々は、杉じゃなくて、翌檜(あすなろ)が多いけどね。能登じゃ、アテの木って言うんだよ。一般的には翌檜よりも、ヒバって呼ばれているみたい」
 トヤン高原内の殆どの道路は片側一車線だけど、路肩も整備されて広く、ジレラ君を高速で走らせられる対向車が少ない明るい道なのに、何処に鬱蒼(うっそう)とした場所が在ったのだろう?
「超常現象が起こる場所かも知れない。いや、きっと何かいる。そんな気がしたよ」
 彼の話し振りから、そんな気がしているのじゃなくて、何かを見たと察(さっ)した。
 腰を横に少しズラして、私は彼との間を詰め、肩を彼の二の腕に触れさせる。
 それから、過去の経験を思い出しながら、私は少し彼を脅(おど)かす。
「ふう~ん、超常現象が起きそうな場所かぁ……。そうね。あそこには何か棲(す)んでいるのよ」
 一瞬、触れられた彼の肩にビクンと避ける反射的な反応を見せながら、ギリッと口を結び、目を大きく開けて彼は私を見詰め、聞き耳を立て異常な音や不思議な気配を探っているみたいに、耳もピクピクと、獣(けもの)のように向きを変え、少しだけ拡がるように動いた。
 彼の咽喉仏(のどぼとけ)が上下に動き、唾を飲み込むのがわかった。
「神隠(かみかく)しの噂(うわさ)も有るしね。滅多に体験する人はいないのに。特別なのね、あなたは。選ばれたのかもね」
 触れる彼の肌が、ガサつく感じに変わっているのに気が付いた。
 見ると肩も、腕も、背中も、一面に鳥肌が立っている。
「もう止め! 話したのが失敗だった。今の話は、……忘れよう」
 彼は目を伏せて、マジに恐がっていた。
 顔が青褪(あおざ)めている。
(本当に、怯(おび)えるなんて……。脅かし過ぎたかも)
 能登半島を中心に北陸(ほくりく)地方には、縄文期の遺跡が多い。
 発掘された出土品の年代測定では一万年以上も昔の物も有ると、金沢市の埋蔵文化財センターで教わった。
 御里の在る明千寺地区でも、斧(おの)に使われたという磨(みが)いた石器が見付かっている。
 土と木の縄文文化は、現在と全く違う知力の社会で、能都町真脇(まわき)の巨木柱遺跡も、近代感覚的な祭祀に用(もち)いられたなんて曖昧(あいまい)な建築物ではなく、定住文化が六千年も続くくらいに、確固(かっこ)たる目的が有った建造物に違い無いと思っている。
 神代期(かみよき)以降、現在に至(いた)る文化とは異(こと)なる異質な感覚の安定した文明が有り、その欠片(かけら)みたいのが、今も此の辺を含む能登半島全域に未発掘で残っているのかも知れない。
 スーパーナチュラル……、超常現象……。
 この辺りには普段、目に見えない、気付かない何かが棲(す)んでいるのは確かだ。
 御郷の一階の座敷や居間に寝ると、決まって家中の部屋の灯りを消した深夜に、『ドタ、ドタ、ドタ。ドン、ドン、ドン。ドシン、ドシン』と、何か大きくて重い生き物が、二階を歩き回る音が一時間くらい聞こえて来て、其の度に襖戸(ふすまと)や縁側(えんがわ)のガラスの引き戸がビリビリと震(ふる)えている。
 それは、物心付いた子供の時も、金沢へ離れた今も同じで、時折(ときおり)、私や御客さんが泊まりに来たりしたら特に賑(にぎ)やかになって、二時間程は喧(やかま)しいのが治(おさ)まらない。
 姉と私の部屋が二階に新しく間仕切りして作られると、天井裏や誰もいない二階の空間から大きな音は聞こえていた。
 何度も喧しい最中に、姉といっしょに行き成り戸を開けて電灯を点(とも)しても、途端に音は鳴り止んで、誰も、何も見付けられなかった。
 祖父母と両親に訊いても、『昔から聞こえているし、何かが棲んどるがや』と、答えてくれるだけで、誰もが、音の正体を知らなかったけれど、何かが来て居て護(まも)られている感じはしていた。
 トヤン高原の中や周辺の集落に住んでいる同級生達も、上級生達も、下級生達も毎晩、同じ体験をしているから、きっと、得体の知れないモノの縄張(なわば)りに住まう人間達の状態を夜な夜な観察しているのだと思う。
(……私は慣れていて平気だけど、これを彼に話したら、もの凄くビビるだろうなあ……)
 それと、彼が話した不思議な体験に似(に)たような出来事を、私も小さい時に体験している。
 まだ、小学校に上がる前の年の夏、宇加川の磯で遊んでいて波に浚(さら)われた事が有った。
 突然に来た大波で、あっと言う間に磯から流され、直ぐにグルグルと波に揉(も)まれて水中へ沈められてしまった。
 私は水面の明るさを目指し、必死に踠いて水を掻き、どうにか浮き上がると磯は、ずっと向こうに見えた。
 大型船が通った波紋も、風に立つ波頭(なみがしら)も無い穏(おだ)やかな海面で、のんびりと一人で私は磯の岩場で、アメフラシを棒で突いて遊んでいた。
 『半透明のような体なのに、なんで、濃い色の体液が出て来るんだろう? 薄っすらとでも、透き通って見えないのかな?』と、紫色の中身を岩の上に撒(ま)き散らかさせていたところへ、磯で砕(くだ)けた大波が被さって来て、私は一瞬で海の中へ浚われていた。そして、やっと浮き上がった私を大きなうねりが徐々に沖へと運んで行く。
 深くなる海は足を伸ばしても、冷たい水ばかりで、全然、底に触れない。
 泳ぎは得意なのだけれど、翻弄(ほんろう)されるうねりに、どうにか浮いているだけで精一杯だった。
 ちょっと潜って底の様子を探ろうとしたけれど、近くの海面以外は、どちらを向いても果(は)ての無い暗闇が広がっているだけ、真下の方は真っ暗で心細くなってくる。
 内浦から富山湾への潮流に連れ去られる私は、更に、外洋へ押し流されようとしていた。
 もの凄く心細くなって、出るだけの大きな声で何度も、何度も叫ぶのに、遠くの岸には人影が見え無くて、小舟や漁船も視界に入らない。
 だんだんと岸が小さくなり、やがて、見えなくなってしまう。
 益々、うねりが大きくなって、何処を見ても、真っ青(まっさお)な波しか見えない。
 一人ぼっちだという現実が、とても気持ちを不安にさせて、小さくて非力な私は泣(な)きながら漂うだけしかなかった。
 足元の冷たい海水で足が攣り……、脹脛(ふくらはぎ)が腓返(こむらがえ)りを起こして、とても、痛(いた)かったのを覚(おぼ)えている。でも、不安なだけで不思議と怖いとは思わなかった。
 真上の太陽のギラギラした輝きの痛さと波間に反射する陽射しが眩しくて、目を開けていられない。
 流されて覚えているのは其処まで、其処から先の海上での記憶が欠落している。
 あれから何度も、波に浚われた磯へ行って思い出そうとしたけれど、未(いま)だに、どうしても思い出せない。
 眩しさと不安と疲れで、たぶん、私は意識を失ったのだろう。
 気が付くと、私は木立の中の大きな石の上に寝ていた。
 其処は木々が鬱蒼と茂る小さな丘の中腹に建つ、鳥居(とりい)が無い神社の境内(けいだい)だった。
 鳥居が無いのに、明らかに拝殿と本殿が連なる切妻(きりづま)屋根の簡素な社殿のみが在り、年月を経た大きな木の板に、『住吉宮(すみよしぐう)』と、神社の社名(やしろめい)が深く彫(ほ)られていた。
 なぜ、私は此処にいて、何処を、どう遣って来たのだろう。
 何も覚えていないし、知らないし、分からない。
 境内一面に青々と草原のように群生する羊歯(しだ)は、木立を揺らす風が群(む)れる葉を漣(さざなみ)の如(ごと)く戦(そよ)がせる度に、葉の下で何かが蠢(うごめ)いている気がして不安になって来る。
 恐る恐る羊歯の中を歩き回り、境内から見覚えのある物が見えないか探すけれど、辺りの斜面には太くて樹高の高い翌檜の木が林立して見通しが悪く、此処の位置を見当付ける物は何も見付からない。
 そんな状況で、社殿前の鳥居が有るべきの参道を兼ねた、朽(く)ち掛けて草だらけの石段の下に道路が見えた時は、海の上の一人ぼっちは全然怖ろしくなかったのに、この場所と得体の知れない不気味な出来事が急に不安を恐さに変えて、下の道へ人や自動車の影を求めて叫びながら石段を駆け下りた。
 道は境内から見たよりも、薄暗くて狭い。
 それに、草だらけの未舗装で、ジメジメしていた。
 薄暗い道のどちらを見ても、誰もいなくて、人家も無かった。
 境内とは違って、風が無くて動く物もないけれど、小動物や爬(は)虫(ちゅう)類(るい)のざわめく気配と臭いがしている。
 右手の奥は、暗過ぎて道が続いているらしいとしか判別できない。
 左手の方は同じくらい暗いけれど、遠くに射し込む光が見えて、取り敢(あ)えず其の光を目指して歩いて行く
 暫く歩くと、光が大きくなって近付いている事は確かなのに、何時(いつ)の間にか辺りが真っ暗で、空の色も見た事が無いくらい暗い。
 光の場所へ、肩から背中のゾクゾクが治まらない私は、全速で駆け出した。
 こんな、暗くて狭い初めての場所の、溝のような一本道で私は独(ひと)りっ切りだった。
 圧(の)し掛かる恐さに立ち止まったり、蹲(うずくま)ったりしていても、助けに誰も来てくれない。
 歩き始めた時から、後を着いて来る気配に掴(つか)まれるかも知れない。
 真っ暗な中、今も、真後ろを、溝の上の真横を、一緒(いっしょ)に走っているかも知れない。
 パシャッ、水溜(みずたま)りだ。
 ズルッ、泥濘(ぬかるみ)や苔(こけ)で足裏が滑る。
 ぐにゃり、何か、柔らかいモノを踏んだ。
 草じゃなくて、弾力が有った。きっと、生き物だ。
 聞こえるのは、足許(あしもと)からの駆け騒ぐ音に風切り音。
 それに、私の息遣いだけ、迫る気配の音や踏み付けた生き物の呻(うめ)きは聞こえない。
 光の場所は、目の前だ。
 右側から、明るい光が差し込んで来ている。
 其処を曲がれば、此処から出られると直感した。
 正面に続くだろう道は、艶(つや)の無い壁のような漆黒(しっこく)へ射し込む光と共に吸い込まれて、向こう側が、どうなっているのか、全然見えなくて分からない。
 全力で駆けながら転(ころ)ぶように曲がった私は、突然に眩しい光の中へ出て、足裏は硬(かた)くて平(たい)らな地面を踏んだ。
 直ぐに、真上の太陽からの真夏の陽射しが、ジリジリと肌を焦(こ)がす熱に汗ばんで来て、今ほどの戦(せん)慄(りつ)する肌寒さが嘘(うそ)みたいだ。
 近くにワイン工場が在る場所の、しっかりとセンターラインが引かれた舗装道路の上に私はいた。
 後ろを振り返って、今来た暗い道を見た。だが、其処に暗黒の穴のような道は無くて、路肩のラインの向こうには側溝と笹(ささ)に縁取られた栗(くり)の果樹園が在った。
 何処から、何時から、私は違う世界へ行っていたのだろうと思う。
 朽ちた石段を、降りた時から?
 鳥居の無い神社に、寝ていた時から?
 波に浚われて、沖に漂っていた時から?
 もしかして、不思議な体験をした私は蘇(よみがえ)りなの?
 不気味で不思議な場所は、黄泉の国なの? 異世界なの?
 熱中症が見せた白昼夢(はくちゅうむ)かも知れないけれど、生きて戻って来れて良かったと安堵して、色鮮(いろあざ)やかな世界を見回して感謝する。
 見知った道路と暑い陽射しに安心した気持ちが、再び、得体の知れない恐さに不可解(ふかかい)さの不安が重なって、私は大声で泣いた。そして、通り掛かった近所の人の軽トラックが泣きながら歩いている私に気付いて乗せてくれた。
 迷子になっていたと思われた私は、その人の軽トラックに乗せられて明千寺の家に帰って来た。
 あの時は、恐ろしくて確かめに行かなかったけれど、あの神社はトヤン高原を抜けて、国道へ出る道の脇(わき)に在る神社だと思う。
 小高い小さな丘の中腹に杉と翌檜の木立に囲まれて建つ、鳥居が無くて社だけの神社だから、記憶と同じだ。
 ずっと、怖い記憶は無意識に隅へ除けて、本当に有った事なのかも、分からないような朧(おぼろ)な記憶にしていた。
 一人ぼっちで、生死の淵(ふち)を彷徨(さま)よった事なのに、私は忘れようとしていた。
 それなのに、この海を去年の夏休みに見ていたら、ふと、思い出して確かめたくなった。
 お母さんと、お婆ちゃんに訊(き)いてみた。
『あった、あったねぇ。あんときは大変だったよ。あんたが、お昼になっても、帰って来(こ)んかったから、お母さんが、あんたが遊んでいた場所を、あちこち探し回ってねぇ。そしたら、あんたは岸に倒れとって、意識が無くてねぇ。医者を呼ぶわ。お巡(まわ)りさんは来るわで。えらい騒ぎになってしもうて、村の衆(しゅう)も大勢来てね。みんなで、穴水の大きな病院へ運ぼうってことになって、トラックの荷台に、あんたを寝かして行ったねぇ。でも、あんたが、行く途中で気が付いてねぇ。みんなで大喜びしたわ。あたしは、あんたを抱いてね、泣いて喜んだよ』
 お婆ちゃんが目頭(めがしら)を押さえながら、懐(なつ)かしそうに話してくれていた。
 トラックの荷台で気が付いたのは、憶えていない。
 私の忘れられていた記憶の中では、神社の石の上だった。
 確かに、波に浚われて目が覚めたら、神社の石の上で寝ていた。……と、金沢へ引っ越す前は思っていた。
 私は、忘れていた……。
 それが、お婆ちゃんの話で、別々の出来事だったのを思い出した。
 磯で波に浚われた事と、森で迷子になった事を……。
 身に迫った二つの窮地(きゅうち)を、いつの間にか、私は、一つの出来事にしていた。だけど、そうなのだろうか?
 森で迷子になった日も、磯で波に浚われていたんじゃないかと思う。
 森で迷子になる前の私と、今の私は、本当に同じ私なの?
 あんなに沖合に流されていたのに、どうして、岸に戻って来られたのだろう?
 そもそも、私を浚った大波は自然の波だったの?
 森の中で迷子になっていたのに、なぜ、神社の大きな石の上に寝ていたのだろう?
 あの暗くて狭い道は、何処だったのだろう?
 其処だけが、どうしても思い出せなかった。
 私が波間で気を失っている間に……、木々の間で泣き疲れて眠っている間に……、誰か……? いや、何かが救ってくれたのかも知れない。
 それが、彼の体験談でリアルに甦(よみがえ)る。
 彼は本当に、試されて選ばれたのかも知れない。
 お婆ちゃんの話しの後、私は神社へ見に行った。
 寝ていたと思っている大きな石は、確かに、びっしりと羊歯が生い茂る狭い境内の隅に横たわって有った。
 苔や枯れ葉に覆(おお)われて、石の表面は僅かしか見えていない。
 眠りから覚めた時に見た石の表面には綺麗にした痕が有って、誰かが苔生(こけむ)した表面を拭(ぬぐ)って汚れや埃を掃い、それから、私を横たえたのだと思っている。
 平らな境内に半(なか)ば埋もれた、その、大きくて平らな石は、もう、随分と昔に立っていた石板が倒れたようにも見えた。
 もし、石板だったら、碑文や呪文などが刻(きざ)まれていたのかも知れない。
(まだ、地面に埋まっている面に残っているかも。この夏休み中に調べてみよう……、ううん、今から彼を誘って、行ってみようかな)
 確か、鳥居の無い神社の下の道を折れて、脇道を通って来ると此処の場所、立戸の浜へ来れた。そして、その立戸の浜へ至る道の途中にも、不気味で不思議な神社が在って、私は気になっている。
 其処は、道沿いの幅三メートルほどの用水の向こう側で、向こう側に立つ石の鳥居から参道が森へと続いていた。
 森の縁(ふち)の木々の間には、ぽっかりと暗い穴のような空間が開き、参道は穴の奥の社まで続いているのだろうと思えた。
 道路からは、暗い穴の中が良く見えなくて、穴の奥の境内や社まで、どのくらいの距離が有るのか、窺(うか)がい知れない。だけど、不気味さは、暗い穴だけじゃなかった。
 不思議な事に鳥居は道路へ向いているのだけど、道路と鳥居の間に在る用水を渡る橋が無くて、簡単に行く事は出来ない。
 草深い用水の縁を見ても、以前に橋が掛けられていたようすも、跡(あと)も無かった。
 どうやって行くのか、どんな場所で、何が祭られているのか、興味が有ったけれど、お婆ちゃんからは、『町中の神社以外へは、立ち入るな』と、きつく言われていて、今でも行ってはいない。
 それに、社が隠(かく)れる森の奥の高い梢(こずえ)から、何かに見張(みは)られているような気配を感じて、近付くのを控(ひか)えていた。だけど今、異空間や邪神(じゃしん)? を体験した彼がいっしょなら、探検する勇気が湧(わ)くかも知れないかなと、そう思って彼を見る。
(うっ! うわわわっ! うっわぁー)
 蒼白(そうはく)な顔に目を見開いた真剣な表情で、彼は私を見ていた。
 幼(おさな)い頃の記憶に耽(ふけ)り、黙って海を見ていたのが不味(まず)かった。
(わわっ、話題を変えなくちゃ。……石板を見に行くのは、無理っぽい)
「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」
 そう言って、被っていた鍔の広い大きな白い帽子を彼の頭に乗せ、その影に入るのに彼の肩へ凭(もた)れ掛る。
 私の背が触れて、ビクッと振えた彼の肌が、びっしょりと濡れているのに驚いた。
 触れた時のヌタッとした感じに、『うっ』と思ったけれど、慣(な)れてくると、冷えた汗の冷たさが気持ち良い。
 冷たさを求めて、触れる位置を変える度(たび)に、ビクン、ビクンと振るえてくれる彼が面白(おもしろ)い。
(このべっとりとした、全身に掻く汗は、直射日光に曝される暑さを、冷却している汗? それとも、肌の乾燥を防ぐ粘膜? もしかして、戦慄(せんりつ)した寒気からの、冷たい汗なのかな?)
 ヌタッとした後に、今も感じるザラつく肌は、まだ、鮫肌になったままなのだろう。
 錯覚かも知れない不思議体験を怖がっている癖(くせ)に、弱音(よわね)の一言も吐かずに痩(や)せ我慢を通す。
 そんな彼を、私は楽しくて可愛いと思ってしまう。

 

 つづく