遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

超常現象(私 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 陸

 書中見舞いの葉書は一昨日に書いて昨日の朝に投函した。今、私が居る場所は能登半島内浦の明千寺、私が産まれた石川県鳳珠郡の穴水町諸橋地区に在る町だ。

 夏の能登半島の清々しさを彼に知らせて遣りたい。

 夏休みになると直ぐに明千寺に来て、休みの期間中は途中に家族旅行でも無い限り、ずっとここにいる。毎年、夏休みを御里で過ごすのは金沢市へ引っ越してからも欠かさずに続けていて、原点回帰のリセットをさせてくれる私の夏のイベントだ。ここの風や海や匂いは心を開かせて、癒される気持ちはなだらかに広がり、素直で寛容な私にさせてしまう。

 いつ来ても、ずっと変わらない明千寺の風景は私の原風景そのものだ。ここでの癒しは金沢で暮らす私を支え、しっかりと前を見させて強く後押してくれる。

 小学生の頃のように一日中、外で遊ぶ事もなくなり、日課は朝夕に磯へ行くのと読書して昼寝するくらいで、テレビは殆ど見ないしパソコンやテレビのゲームもしない。ここは街のような遊んだりショッピングする場所はなくて、気持ちが騒ぐ事もなく日々をゆったりと流れる時間の中で過ごせる。もちろん、学生だから勉強もする。涼しい午前中や静かな夜に。

 夏休み中の夏季補習や合同合宿授業や登校日などの学校行事は、中学でも高校でも全てブッチして…… 敢て無視して参加しない。

(だって、夏休みを学校へ行って顔合わせしたり、お勉強会に出席して粛々黙々とするなんて、思春期の貴重なフリーダムディズが台無しで、勿体無いじゃない!)

 学校特有の建物の古さに見合っただけ沁み込んだ大勢の先輩方のムカつく臭いと、辛気臭く殺伐とした息が詰まる教室よりも、此処の自然に囲まれて自由で健康的な生活をしながら勉強した方が、よっぽど身に付いて憶える。

 『お前の好きにしろ。結果は善きも悪しきもお前自信に行くんだからな』と、両親は因果を諭しながら、私の好きに夏休みを使わせてくれた。ただ、夏休み末の模試や学力テストだけは受けた。これらのテストの成績を良くして学年順位を上げれば誰も私に文句は言えない。実際、今まではそうだった。トップクラスの成績じゃないけれど、それに次ぐ上位で順位をジリジリと上げて来た。

(私は今、退屈でちょっち寂しいかな。……私に会いに来てくれる……?)

 受験勉強中の高校三年生にもなって小学生の時のように毎日、海で泳いで夏休み明けに全身真っ黒な肌のまま登校できない。だから余り日焼けしないように外出をできるだけ避けている。出掛けても朝の内か、陽差しが弱くなる西陽になってからだ。

(それに、一日中泳ぎたいわけじゃないし、穴水や宇出津の大きい町まで買い物に行くのは、ちょっと遠くてあんまり欲しい物も無いし、パソコンやネットゲームに週刊誌やコミックも飽きちゃったし、地域中が賑やかに盛り上がる夏祭りも終わちゃって、気分は開放的なのに何もする気が無くて詰まらないだけ……。故に、けっこう暇してる。それに夏のラブっちい思い出も欲しい年頃じゃん!)

 その意味を含ませた絵を描いて、認めた我が儘に添えた。

(気付いて、私をドキドキさせて)

 インターハイの直後に彼からメールが届いた。

【予選落ちした……。ごめん】

(御免って何よ。なに謝ってんのよ!)

 私は『頑張って』と応援を贈ったけれど、勝ちなさいと強迫はしていない。

(私の為でなくて、あなたの弓道でしょう)

 メールを見てそう思う。その試合結果を知らせる以外に彼からメールは来ていない。予選落ちしてウジウジと彼はメゲているのだろうか? でも私から慰めや励ましのメールはしない。彼にイニシアチブを取られそうで嫌だ。でも気になる……。

 そんな意味も含めて葉書に想いの言葉を綴った。

     *

 缶コーヒーを買いに来たお客さんが彼だと分かった。御釣りを渡すお婆ちゃんの向こうに彼がいた。

(来た……、来てくれた。彼だ……)

 胸がドキドキして顔が火照っていくのを感じながら、私は店に降りずに敷居に立って彼を見ていた。私の気配を感じたのか、彼はゆっくり顔を上げる。起こした顔の瞳が動いて私に気付いた。ぎょっと眼が見開いて顔が驚きの表情に変わり、そして、彼の眼が泳いだ。

『チャリーン、チャリ、ヂャラッ、ヂャリーン!』

 次の瞬間、受け取りかけた御釣りを手から零れるままに、彼は身を翻し急いで外に出て行ってしまった。

(あーっ、にっ、逃げた……! ちょっとぉ~、『やあ』とか笑顔で挨拶しなさいよ)

「まっ、まってよ!」

 表の通りに小型のバイクのエンジン音が聞こえて、慌てて裸足のまま外へ飛び出したけれど、彼は既に左の坂上へ登り切るのが見えた。彼が乗るのは白色の小さなバイクで、上辺の角を落とした変則六角形の金沢ナンバーから排気量五十CC未満の原付だと知った。

「こらぁーっ、まてぇー、どこ行くのよー。戻って来てよ」

 後ろ姿に叫んでも聞こえないのか、彼は振り返りもせずに走り去ってしまった。

(くっそぉ、急いでジレラ君で追い掛けなくっちゃ)

 追い掛けようとしている私を、お婆ちゃんが私を見て言った。

「彼氏かい?」

 ドキッとした。

(そんなのなんかじゃないわ! 彼は……、まだ違う)

「違うわよ! ただの友達よ」

 まだ、違う……。彼に恋愛なんか、意識していない。それを否定する気持ちが友達になった。

(友達なの? つい、この間まで碌に話もしていなかったのに……? 確かにメル友なのかも知れないけれど……)

「ここまで来たのに?」

 お婆ちゃんの突っ込みがきた。

(彼が一方的に私を好きになって、恋をしていると想い込んでいるのよ。……恋……、ここに誘ったのは私だけど……)

 『恋』の単語が思っただけなのに、心に沁み込んで胸の深いところがキュンと鳴った。でも違う!

「友達よ!」

 切なくなる気持ちを、私は振り払うように強く言った。

「あの子、あなたを友達以上と想ってるんじゃないの?」

 クラっと来た。更に鋭く、お婆ちゃんは畳み掛けて来る。

(確かに彼は私を好きで、何度も告白してきたわ。そして私はそれを全部、振ってきたんだから)

「そっ、そんなこと、……ないわよ!」

 語尾の声が小さくなってしまった。

(あっ、いけない! 彼が逃げてしまう。早く追いかけなくちゃ)

 お婆ちゃんに言った言葉と、行動しようとする思いに矛盾を感じながら、私はビーチサンダルを突っかけて急いだ。

「そう、お友達なの? まあ、いいけどね。これ渡してちょうだいね」

 そう言って、外へ出ようとする私に、コンクリートの床に散らばった小銭を指差した。ブツブツ言いながら小銭を拾う私を見て、箒で隅に転がった小銭を集めながらお婆ちゃんが笑っている。

「金沢のお友達が、ここまで会いに来たのね。きっとあの子は、あなたの事がとても好きなのよ。だから、あなたを見て固まっていたのね。さぁ、直ぐに追い駆けて御釣りを渡して来てちょうだい」

 お婆ちゃんが、お釣りの硬貨を拾い終わった私に言う。彼の気持ちと私の想いを言われてドキドキしてくる。

「帽子を被って行きなさい。それと、これも。あの子が買おうとしてたわよ」

 カチンコチンに凍った二本のアイスキャンディを袋に入れて渡された。

「お婆ちゃん、ありがとう」

 直ぐに車庫の裏に停めてあるスクーターで追い掛けた。排気量百二十五CCのイタリア製のスクーター。伯父さんのだけど私のお気に入りの『ジレラ君』だ。エンジンの噴け上がりをチェックしてからアクセル全開で彼を追い掛ける。原付なんかより、ずっと速い。

(ふふっ、ランナウェーを追い詰めるチェイサーは、やっぱり、ビックパワーで威圧的にだよね)

 明千寺の水田が広がる台地を降り宇加川の集落に入った。道はここで海岸沿いの道路とT字に交わる。右は宇加川、前波、沖波と海岸沿に集落が連なって立戸の浜に到る。

 左は花園、古君、竹太の集落が在るけれど、海岸沿いは建物が少なくて寂しい。『諸橋』は、その七つの集落を全部含めた地域全体の呼び名だ。

 地図もGPSも見ずに感だけで走る人は、たいてい右へ行く。方向的にも穴水町は右だ。でも左の方がずっと速い。道は竹太の向こうの能登町鵜川の町でトヤン高原を内陸側へ迂回していた国道二四九号線に繋がる。国道は広くて走り易く、海岸沿いのようにウネウネと曲がりくねっていないから穴水町へ戻るにも近くて早い。

(彼もGPSぐらいは見ているはず。だけどきっと、見通しいの良い左には行かないわ)

 逃げる彼は右に行くはずだと思う。T字路を右に曲がり、宇加川、前波、沖波と海沿いの集落を一気に走り抜け、家並みが途切れて右側に一面の緑の田畑、左側に砂浜が広がる開けた場所で停まってみた。この先、道は海岸沿いを通り小さな岬を廻った向こう側に在る甲の町に至る。更に円山の麓を超えて一時間以上も海岸沿いを走って、やっと穴水の町に着く。

 水田の中を真っ直ぐにトヤン高原へと続く右側の道は、国道から明千寺へ行く道と交差する。左側には、松と雑木の生垣の向こうに渚が広がる。立戸の浜の白い砂浜だ。私はエンジンを止めて耳を澄まし、辺りの様子を伺う。

 盆過ぎの風のない昼下がり、真夏の太陽にじりじりと照り焼きにされる中。蝉の鳴き声だけが大きく聞こえ、逃げた彼の原付の爆音はどこからも聞こえてこない。

(くっ、いない……。逃げ切られたか……? それとも反対方向だったのかしら?)

 取り逃がしたものは仕方が無い。と思いかけてハッとした。

(取り逃がすって何? 今、私は彼を追い掛けていた ……んだ。捕まえてどうするつもりだったの? なぜ彼は逃げたの? ……恥ずかしいから? 金沢から遥々、明千寺までやって来たのに?)

 私から顔を逸らして逃げる彼の姿を思い出す。

(私と、どんなふうに会うつもりだったの?)

 彼は店で買い物をしていた……。

(私を見るだけで、いいの?)

 事前にメールを寄越さずに彼は来た。私を見て驚いていた。あそこが私の御里だと、彼は知らなかったんだ。

(どうして逃げるのよ!)

 缶コーヒーを買っていたのは演技じゃなかった。本当に買いに来て偶然に私と遭遇したんだ。で、逃げた。

(なんで! 私に会いに来たんじゃないの?)

「せっかく、……私に逢えたのに、逃げるなんて、最低じゃん! なんか、がっかり!」

 イラつく気持ちがぼやきになって出た。ハイだったテンションが急速に下がって行く。

(詰まらなくてイラつくわぁ~。それに暑いし……)

 泳いで気分を変えようと、私は人気の無い浜辺にジレラ君を乗り入れる。いつでも海に入れるようにワンピースの下には水着を着ていて、夏休みに明千寺に遊びに来ると天気の良い日は決まって磯へ行って泳いでいた。

 朝夕の凪ぎに私はフィンを着けてシュノーケリングをする。朝の凪ぎは水が冷たく澄んでいて気持ちがいい。サザエやウニや岩牡蠣が見つけ易くて、その日に食べたいのを獲る。稀に繁殖地から流れて来るのか、大きなアワビも見付けた。港の埠頭の石組みの間から素手で蛸も捕まえる。私の腕に幾つもの丸い吸盤の痕を附けながら、逃げようとする蛸の頭を裏返して、小さなクーラーボックスに入れて帰った。

 夕方は水着を替えてサングラスを掛け、凪いだ海面に力を抜いて揺ら揺らと漂う。肩と腰にパットのような浮力補助を着けて浮く。全身を弛緩させた浮遊感が堪らなく気持ち良くて、時々そのまま寝てしまう。

 日焼け止めクリームを塗っているけれど、それでも毎日そんな事ばかりしているから、けっこう黒くなってしまった。

 ツーリングの先客がいるのか、この辺りでは見た事も無い白い原付が一台、渚に停めて有る。

(ナンバーの上に横書きで金沢市と書かれた変則六角形のナンパープレートに白いボディカラー、……もしかして、この原チャは彼の?)

 私は疑いながら、その白い原付の真横に私はジレラ君を停めた。

 原付に触れるくらいの傍に立つと、今まで稼働していたと思われるエンジンの熱気が素足へ伝わって来た。ハンドルにフルフェイスのヘルメットとショルダーバッグが掛けてある。バッグのポケットから、私が彼に送った暑中見舞いのイラストが覗いていた。私が描いた私の顔。

(あっ、やっぱり、この白い原付は、……彼のだ。もう逃がさないからね!)

『逃げちゃったものは、仕方ないか』と、半分諦めていたけれど、思いがけずに彼の所在を見付けてしまった。逃げ切りをしなかった彼は此処に留まって再び明千寺へ行こうか、迷っているのかも知れない。

(どこに彼は……? いるの……? ……いた、あれかな~? うっ、浮かんでいるの?)

 浜に、水面に、彼を探す私の目へフロート付きのロープで囲まれた遊泳範囲の真ん中辺りに、彼らしきモノが浮いているが映った。けれど緩いうねりに合わせて浮き沈みするだけで動いていない!

(ええーっ、そっ、そんなぁー。ヤバイの? まっ、まだっ、間に合うよね!)

 急いで浜辺を駆けて二、三歩、渚へ入った所で状況をもっと良く把握しようと目を凝らして見ると、ゆるーくうねる波間に黒いゴーグルを着けた彼が仰向けで浮かんでいて、息はしているようだった。俯せで漂っているのじゃないから溺れてはいないと思う。

(ちょっとぉ~、びっくりさせないでよ。竜宮の使いに連れ去られそうとか、大祓いの姫様と彼岸の川を渡り掛けているとか、思っちゃって焦ったじゃないのー。……でも、無事でよかったわぁ~。ふぅー)

 大きな溜め息を吐いて彼が生きていたのに安堵しながら、怖がらずに彼が水へ入り浮かべている事に驚いてしまう。

(えーっ、泳げているじゃん! いつの間に泳げるように……? いっしょなクラスになった小学六年と中学二年の夏は、いつも見学か欠席で逃げて、一度もプールに入らなかったくせに……)

 私はジレラ君を彼の原付の横に停めて、水が怖く無くなったのならと彼の浮かぶ海へ静かに入り、顔だけを水面から出した屈んだ姿勢で私は波を立てずにゆっくりと進んで行く。接近するにつれ彼の胸が規則的なリズムで小さく上下していて、ただ浮かぶのを楽しんでいるだけだと知った。

 空を向いて沈まないように安定した呼吸をする彼は、近付く私に全然気付いていない。七、八メートル手前で潜り、波紋が美しい海底の砂地スレスレに、アトランティスから来た男の泳ぎスタイルの二蹴りで一気に距離を詰める。

(逃げた仕返しに、驚かしてあげるわ)

 水面を漂うバランスを保つのに、水中で水を掻く彼の手に触れそうなくらい近づいて、私はスーッと彼の真横に立ち上がった。

 真横に出てくる私の気配を感じた彼は、一瞬ピクッと痙攣したかのように震えてから手足の動きが止まった。彼にとっては全く予想もしていなかった事態に違いない。海から亡霊が出て来たとでも思ったのだろう。

 大抵の人は予想もしていなかった突発的な危機的事態に遭遇すると、驚きと、狼狽と、焦りに恐怖、そして、状況の理解や状態の把握が脳内で同時に行われて、そのオーバーワークな処理に頭は真っ白になってしまう。故に危機の回避や対応する咄嗟の動きを身体は出来ない。

 水を掻くのを止めてピクリとも動かない彼は、息もいっしょに止めたのだろう。固まったまま徐々に沈んで、口も鼻も水面下になった。引き攣る顔の黒いゴーグルの見えない瞳は私だと分りかけているはず。

 私は両手を沈みゆく彼の胸に当てて被さり、体重を掛けて一気に沈めた。沈めている最中に片手を彼の腹部に移す。胸だけ押すと上半身だけ沈み下半身が水面に出てしまう。私の両手は彼の胸と腹を押さえ、彼は身を捩る間も無く私にされるがままに、無抵抗で確実に沈めてられて行く。冗談でも私は残酷だ。

(サプライズは大成功だ! 予想以上だったかも……)

 彼を捕まえた嬉しさと楽しさの勢いで、私は笑いながら彼を沈める。ゴーグルをした顔を私に向け彼は息を懸命に止めている。

(すっごく楽しい!)

「アハハハッ」

 楽しくて可笑しくて、水中でも彼を見ながら笑い声が出てしまう。

 被さった勢いと私の重みが、柔らかい砂地の海底に着底した彼を更に押さえ付ける。瞬間、ガバッと彼の口から大きな泡が出た。突然の事で半分ぐらいしか吸い込んでいないだろう空気が泡の塊になって出て行き、手足をバタつかせて身を捩る彼に限界が来た。

(これ以上はダメ! 彼は限界よ)

 鼻と口から泡を漏れ出しながら踠く彼が、可愛そうになって急いで彼から離れる。水面に浮かぶ帽子を拾い彼の様子を見守った。

(もし、溺れたら助けないといけないだろうな……。浮けているくらいだから、溺れないとは思うけど……)

 不安な思いでいると、ザバーッと彼が水中から飛び出して来た。辛そうな彼の激しい咳き込みを後に聞きながら、私はホッと気持ちで浜辺に戻った。止まらない彼の咳き込みに振り返ると、ゴーグルを外し泪と鼻水と涎でグシャグシャな顔でゲホゲホと咳き込みながら、彼はヨロヨロと岸へ向かっている。彼が元気で安心したのと、サプライズが成功して彼のよろけてふらつく姿が可笑しくて、私はまた笑っ

てしまう。

 もしかして私は凄く酷い女かも知れない……。

「アハハハハ。ねぇ、大丈夫?」

 辛そうに顔を顰めて、飲み込んだ海水で喉が焼けるのだろう盛んに唾を吐く。砂浜に上がった途端、懸命に穴を掘りガハガハと激しく穴の中に嘔吐した。そして一頻り吐瀉物が出終わると吐き気が残るのか、ゴボゴボと排水溝のような音を立てて空嘔吐を繰り返し、そのまま穴に突っ伏した。

 気持ちが悪くて直ぐにでもゲロを吐きたいのに、わざわざ穴を掘って白い砂浜を汚さないようにした彼に感心する。

(あっ、ヤバイ! 気絶したかも?)

 ビクン、ビクンと彼が痙攣してから動かなくなったように見えて私は焦って駆け出した。半分も近付かないうちに彼は顔を起こして吐き気が治まったのか、ゲロを吐いた穴に砂を掻き寄せたり崩したりして埋めてから、ゴロゴロと波打ち際へ転がって行った。汚物塗れの頭を海水で洗って口も漱いだ彼は、海から上がったと思うやチリチリに焼けて乾き切った砂浜に俯せに倒れた。

「アハハッ、おっかしい」

 彼に酷い事をしたみたいだけど、彼の足搔く様子がコメディのパフォーマンスみたいでおもしろい。でも本人は必死なんだろうと思う。彼は熱い砂浜へ突っ伏したままにピクリとも手足を動かさない。でも、上下する背中から息はしていた。

(本当に辛そう。でも……、おもしろい)

 一旦、私はジレラ君へ戻ってから笑いを堪えて駆け寄り、彼の真横に勢いを付けて座った。横に向けた彼の顔や肩に、膝で押し分けて飛び散らかした砂が掛かる。突っ伏して「ハアハア」と、苦しそうに荒い息をする彼の下に手を入れて、一気に引っ繰り返した。そして仰向けになった彼の砂だらけの口に、融け始めていたアイスキャンディを押し込んだ。

「食べて。冷たくて甘いよ」

 彼は突然に口へ押し込まれて息を止めさせた白くて冷たい物を見定めようと、慌てて跳ねるように上半身を起こして、それがアイスキャンディだとわかると、やっと彼は落ち着きを取り戻して食べ始めた。目をパチクリさせながらアイスキャンディを頬張る彼が可笑しくて、私はアイスキャンディを銜えたまま噴き出して笑ってしまった。

 少し向きを変えて体を傾けると、彼の頭に私の被る白い帽子の大きな庇がコツンと当たってから、肩が彼に触れた。

(ごめん!)

 沈めたことを心の中で謝りながら、彼に安らぎと温もりを求めている私がいる。

 『ビクッ』と彼が震えたけれど、私はワザと気に留めないフリで肩を触れたままにして置く。乾き始めた海水と少し粘りのある汗で濡れた彼の皮膚に、貼り付いた砂のざらつきを感じて、それが私を安心させてくれるけれど、体力を失ったのか彼の肌は冷たくなっていた。

(温かくないじゃん)

 私が肩を触れさせている事を信じられないと思ったのか、確かめるように彼の顔はゆっくりと私に向けられて、そのまま停まった。

(うふっ! おもしろい)

 そんな彼の様子にも気付かないふりをして、私はアイスキャンディを舐める。

 アイスキャンディを齧りながら私を見続ける彼を視界の隅で見る。彼の視線は少し下がり私の顔を見ていなかった。彼は気が付いたみたい。キャンディを握っている私の手を見ている。彼はネイルアートを施した私の手の指先を見詰めていた。

 昨日、穴水の町でネイルアートをした。伸ばした爪を整えてから、色を付け造形してもらった。自分で描いたデザイン画を持参して。

 彼は左右の爪を良く見てから、私の顔を見る。あの小学校六年生の驚きと憧れが一杯の顔だ。あれから六年も経つのに同じ顔をしている。

 左手は常夏のトロピカル風にした。ベースは、スカイブルーの空にエメラルドグリーンとコバルトブルーがグラデーションされた海、白い砂浜も小さく入れる。そのベースの上から椰子の木を白いシルエットで描いた。右手は淡いライトグリーンにピンクと白の薔薇の花を立体的に造形した。見詰められる恥ずかしさと照れくささに、彼の表情が加わって、また私は噴き出して笑った。やっぱり彼は楽しい。

「アッハハハ、そんなに見詰めつめないでよ。恥ずかしいじゃない」

 彼は笑わずに、真剣な目で私の爪を見ている。ネイルアートをした私の爪は、四角い爪には見えない。

「素敵だ! とても似合っているよ。足の指のもいい。綺麗だ……」

 ネイルアートを誉めながら彼の視線は足の爪のペディキュアもチェックしていた。ホログラム重ね塗りのパールピンクで、キラキラして可愛い感じが気に入っている。手の爪といっしょに塗ってもらった。

 語尾が掠れてゆっくりと滑るように、肩に触れていた彼の身体が崩れて砂浜に横になった。滑り崩れる彼にワンピースが引っ張られる。

(あっ、なにを……。ん?)

 沈められた仕返しでもされるかと思い身構えて彼を見ると、顔半分を砂に付けて僅かに口を開け目を閉じていた。

(あっ、倒れた? これって……? もしかして、マジにヤバイかも!)

 沈めた所為で溺れる寸前の脳が酸欠になって、昏睡状態になったのかも知れないと思った。

(もし、そうだったら、軽い意識障害などの後遺症が残るかも知れない。それも目覚めればの話しだけど……、えっ、ええーっ!)

 楽しい思いは一瞬で不安と焦りと後悔に変わった。目を閉じてちっとも動かなくなった彼の顔に、必死な思いで私は顔を近付けて状態を確認する。動かして刺激しないようにそっと見た彼は、私の焦燥する心配を他所に静かに安定した寝息をたてていた。

(ねっ、寝ている……? ほんとうに寝ているの?)

 試しに片方の瞼を開けてみた。開けた途端に、もう一方も開いてギロッと私を睨んでから直ぐに閉じた。そして、また眠ってしまった。今度は鼾をかいて寝ている。私の惨いサプライズが彼の体力を一遍に奪ったのかも知れない。

(びっ、びっくりしたぁー。だっ、大丈夫みたいね。良かったぁー)

 彼が、こうなった責任は目一杯、私に有る。私は彼の頭をそっと抱き起こして膝の上に乗せ帽子の庇の影に入れた。

(ふざけ過ぎて、ごめんなさい)

 私の手は彼の髪を優しく撫でる。軽く指で耳を挟み、頬と唇にそっと指先を滑らして付いた砂を落とす。肌が私より木目細かくて張りの有るモチモチプリプリなのに驚いた。触っていて気持ちがいい。

 私の膝の上で鼾をかいて気持ち良さそうに眠る彼は、直ぐに起きそうにないように思えた。

(こんなに遠くまで来て、疲れたんだね)

 せっかく私と巡り合えたのに眠ってしまうなんて、きっと彼は、ここへ全力で頑張って来たのだと思う。

 高校一年の時に、夕陽と彼を見に金石の浜まで行って凄く疲れた事を思い出した。バスを乗り継いでも一時間と掛からなかったのに、初めての場所へ行って疲れが出たのか、帰りのバスの中で眠り込んでしまい、挙げ句は彼に起こされていた。

 そして、金沢からここまでは、錦町の家から金石の浜よりも何十倍も遠い。

(ずっと、眠っていてもいいよ。もしも、このまま目が覚めなくても、目覚めるまで傍に、……ずっといてあげるからね)

 いつ彼が起きるのかわからないけれど、日が暮れてしまったら御里へ運んで泊まらせようと考えた。お婆ちゃんは分かってくれると思う。でも、伯父さんや伯母さんや従姉弟達に金沢から来た男の子をどう説明しようか迷った。もし泊まる事になればだけれど……。それに夜になっても目覚めなかったら病院へ連ていかないと心配だ。

(ねぇ、暑中見舞いに込めたメッセージに気が付いて、金沢から一度も休まずに原付きで走って来てくれたのでしょう? でも、私に逢った後は何も考えていなかったでしょう?)

 私の御里だと知らずに来て、私がいたのに驚いて休憩する間も無く逃げた。そして追い掛けた私に海底に沈められて、けっこう危ういところだった。

(会いに来てくれて、ありがとう)

 気持ちいい彼の頬に手を添えて、私はずっと彼の顔と身体を見ていた。

 三十分ほど経って彼が寝返りを打って、俯せになった彼の顔は私の股間を向き、そして両腕が私の腰に回された。

(ちょっ、ちょっとぉ~。そんなつもりじゃ……、ない…… の…… に……。んん?)

 抱き付かれて倒され迫られるかと思う緊張に身構えたけれど、彼の腕に力は込められなかった。でも体勢がヤバイ!

(あーっ、そっ、そこは汚くてーっ! じゃなくて、やめて! どいてよ!)

 起こして払い除けようと彼の体に触れそうになった時、鼾が止まった彼の安らかで規則的な寝息が聞こえて来て、彼を払い除ける気持ちが薄らいでしまう。時折、聞き取れないくらいの小さな声で寝言を言って、ちょっと可愛いかなと思ってしまう。なにか良い夢を見ているみたい。

 そのまま彼を俯せに寝かせたまま更に十五分ほど過ぎた。さすがに足が痺れてきて姿勢を変えようとして、そっとむずついた時に彼が飛び起きた。

「目が覚めたぁ?」

 事態を理解しようとしているかのように、彼の大きく見開かれた瞳は世話しなく瞬き私の太腿を見ている。ワンピースの裾が股間近くまでズリ上がって、曝け出た太腿の陽に焼けた小麦色の肌が恥ずかしい。

(もう、どこ見てんのよ)

「わわわっ、ごめん」

 後退りながら見る見る紅くなって行く顔の彼は、私の機嫌を損なわないように手を合わせて謝る。

(大袈裟だなぁ。そんなに紅くならないでよ。私まで紅くなるじゃない)

「元気になったぁ?」

 私の気持ちの具合を探るように見ている彼に、ワザと太腿を曝け出したまま戯けて言う。

「あっ、ごっ、ごめん。汚してしまった」

 落とした彼の目線の先に、私の太腿の付け根近くに着いた涎が有った。彼が私に抱きついて眠っていた時に垂れた涎だ。それを私は別に汚いと思わない。

 鼻の通りが悪く、口で息をして眠っていた起きがけに、枕が思い掛けないほど広い範囲に涎で濡れていてビックリしたり、その濡れた冷たさと口周りや頬のベタベタ感が不快に思った。けれど、それは一過性の気持ち悪さだ。彼自身を私は全然不快じゃないと思っている。汚い、臭い、喧しいの不快大三源を彼は持っても放ってもいない。

 私は乾いた砂を掬い取り、その砂で太腿に着いた涎を無造作に拭き取った。それを彼はじっと見ている。

「気にしないよ。ごめんね、沈めちゃって。このまま意識が戻らなかったらどうしようかと思っていたの。ああっ、本当に良かった!」

 詫びる言葉が口から出るけれど、私は悪怯れていない。沈んでいた時間がもっと長ければ急いで駆け付けたと思うし、直ぐに彼は飛び出て来たから私の経験上、そんなに問題は無いと思っている。

「もう大丈夫だ。あれくらいじゃ、僕はどうもならないさ」

 強がる彼に、死にそうな顔でよろけながら浜に辿り着き、吐瀉物だらけの穴に頭を突っ込んで失神して痙攣までしていたのを覚えていないのだろうか? と思う。

「ねぇ…… 座ってよ。何か話ししよ」

 私の怒りを怖れて立ち上がり、いつでも逃げを決めようとしていた彼に私は横に座るように促す。七分丈の半ズボンのような水着の裾を座るように引っ張る私が、怒りも軽蔑もしていないのを知ると、彼はすっと真横に腰を降ろした。

(紅くなって逃げようとしたいたくせに、遠慮無しな奴……)

「さっき、不思議な体験をしたよ。でも、錯覚かもしれない」

 座るなり彼は話し始めた。彼は周囲の景色を見回す。

「森の道が真っ暗で、どこを走っているのか分からないんだ」

 明千寺に来る途中のトヤン高原で何か怪しい事が有ったのだと直感した。トヤン高原は多くの果樹園が点在しているけれど、トヤン高原全体では真っ直ぐな木立の森が多く広がっている。

「……森ねぇ、そんな深い森なんて在ったかな? この辺の山の木々は、杉じゃなくて翌檜が多いけど、能登じゃアテの木って言うんだよ。一般的には翌檜よりもヒバって呼ばれているみたい」

 片側一車線だけど路肩も整備されて広く、ジレラ君を高速で走らせられる対向車が少ない明るい道なのに、どこに鬱蒼とした場所が在ったのだろう?

「超常現象が起こる場所かも知れない。いや、きっと何かいる。そんな気がしたよ」

 彼の話し振りから気がしているのじゃなくて、何かを見たと察した。

 腰を横に少しズラして私は彼との間を詰め、肩を彼の二の腕に触れさせる。それから、私は過去の経験を思い出しながら少し彼を脅かす。

「ふう~ん、そうね。あそこには何か棲んでいるのよ」

 一瞬、触れられた肩にビクンと避ける反射的な反応を見せながら、口を閉じ目を大きく開けて彼は私を見詰め、聞き耳を立て異常な音や不思議な気配を探っているみたいに、耳もピクピクといっしょに向きを変え拡がるように動いた。彼の咽喉仏が上下に動き唾を飲み込むのがわかった。

「神隠しの噂も有るしね。滅多に体験する人はいないのに。特別なのね、あなたは。選ばれたのかもね」

 触れる彼の肌がガサつく感じに変わっているのに気が付いた。見ると肩も腕も背中も一面に鳥肌が立っていた。

「もう止め! 話したのが失敗だった。今の話は忘れよう」

 彼は目を伏せてマジに恐がっていた。顔が青褪めている。

(本当に怯えるなんて……。脅かしすぎたかも)

 能登半島を中心に北陸地方には縄文期の遺跡が多い。発掘された出土品の年代測定では一万年以上も昔の物も有ると埋蔵文化財センターで教わった。御里の在る明千寺地区でも斧に使われたという磨いた石器が見付かっている。

 土と木の縄文文化は現在と全く違う知力の社会で、能都町真脇の巨木柱遺跡も近代感覚的に祭祀に用いられたなんて曖昧な建築物ではない、六千年も定住文化が続くくらいに確固たる目的が有った建造物に違い無いと思っている。神代期以降、現在に至る文化とは異なる異質な感覚の安定した文明が有り、その欠片みたいのが今も此処に残っているのかも知れない。

 スーパーナチュラル、……超常現象。彼が話した不思議な体験に似たような出来事を、私も小さい時に体験していた。

 まだ、小学校に上がる前の年の夏、宇加川の磯で遊んでいて波に浚われた。突然に来た大波で、あっと言う間に磯から流され、直ぐにグルグルと波に揉まれて水中へ沈められてしまった。私は水面の明るさを目指し必死に踠いて水を掻き、どうにか浮き上がると磯はずっと向こうに見えた。

 波頭の無い穏やかな海面で、のんびりと一人で私はアメフラシを棒で突いて遊んでいた。紫色の中身を岩の上に撒き散らかさせていたところへ、磯で砕けた大波が被さって来て、私は一瞬で海の中へ浚われていた。そして、やっと浮き上がった私を大きなうねりが徐々に沖へと運んで行く。

 深くなる海は足を伸ばしても冷たい水ばかりで全然底に触れない。泳ぎは得意なのに翻弄されるうねりに、やっと浮いているだけで精一杯だった。ちょっと潜って底の様子を探ろうとしたけれど、近くの海面以外はどちらを向いても果ての無い暗闇が広がっているだけ。

 私は内浦から富山湾への潮流に連れ去られ、更に外洋へ押し流されようとしていた。凄く心細くなって出るだけの声で何度も何度も叫んぶのに、遠くの岸には人影が見え無くて小舟や漁船も視界に入らない。だんだんと岸が小さくなり、やがて見えなくなってしまう。益々うねりが大きくなって、どこを見ても真っ青な波しか見えない。一人ぼっちだという現実が気持ちをとても不安にさせて、小さくて非力な私は泣きながら漂うだけしかなかった。

 足元の冷たい海水で足が攣り…… 脹脛が腓返りを起こし、とても痛かったのを覚えている。でも不思議と怖いとは思わなかった。真上の太陽のギラギラした輝きと波間に反射する陽射しが眩しくて目を開けていられない。

 流されて覚えているのはそこまでで、そこから先の海上での記憶が欠落している。あれから何度も波に浚われた磯へ行って思い出そうとしたけれど、未だに、どうしても思い出せない。

 眩しさと不安と疲れで、たぶん、私は意識を失ったのだろう。気が付くと私は木立の中の大きな石の上に寝ていた。其処は木々が鬱蒼と茂る小さな丘の中腹に建つ鳥居が無い神社の境内だった。鳥居が無いのに明らかに拝殿と本殿が連なる切妻屋根の簡素な社殿のみが在り、年月を経た大きな木の板に『住吉宮』と、神社の社名が深く彫られていた。

 なぜ、私は此処にいて、何処をどう遣って来たのだろう。何も覚えていないし、分からない。

 境内一面に青々と草原のように群生する羊歯は、木立を揺らす風が群れる葉を漣の如く戦ぐたびに、葉の下で何かが蠢いている気がして不安になって来る。

 恐る恐る羊歯の中を歩き回り、境内から見覚えのある物が見えないか探すけれど、辺りの斜面には太くて樹高の高い翌檜の木が林立して見通しが悪く、ここの位置を見当付ける物は何も見付からない。

 そんな状況で、社殿前の鳥居が有るべきの参道を兼ねた草だらけの朽ち掛けて石段の下に道路が見えた時は、海の上の一人ぼっちは全然怖ろしくなかったのに、この場所と得体の知れない不気味な出来事が急に不安を恐さに変えて、下の道へ人や自動車の影を求めて叫びながら石段を駆け下りた。

 道は境内から見たよりも薄暗くて狭い。それに草だらけの未舗装でジメジメしていた。薄暗い道のどちらを見ても誰もいなくて人家もなかった。境内と違って風が無くて動く物もないけれど、小動物や爬虫類のざわめく気配と臭いがしている。

 右手の奥は暗過ぎて道が続いているらしいしか判別できない。左手は同じくらい暗いけれど、遠くに射し込む光が見えて、取り敢えず其の光を目指して歩いて行く。暫く歩くと光が大きくなって近付いている事は確かなのに、何時の間にか辺りが真っ暗で空の色も見た事が無いくらい暗い。

 光の場所へ私は全速で駆け出した。こんな暗くて狭い初めての場所の溝のような一本道で私は独りっきりだ。圧し掛かる恐さに立ち止まったり、蹲ったりしていても、助けに誰も来てくれない。歩き始めた時から後を着いて来る気配に掴まれるかも知れない。真っ暗な中、今も、真後ろを、溝の上の真横を、一緒に走っているかも知れない。

 パシャッ、水溜りだ。ズルッ、泥濘や苔で足裏が滑る。ぐにゃり、何か柔らかいモノを踏んだ。草じゃない。弾力が有って。きっと生き物だ。聞こえるのは足許からの駆ける音に風切り音。それに私の息遣いだけ、迫る気配の音や踏み付けた生き物の呻きは聞こえない。

 光の場所は目の前だ。右側から明るい光が差し込んでいる。其処を曲がれば此処から出られると直感した。正面に続くだろう道は艶の無い壁のような漆黒へ射し込む光と共に吸い込まれて、向こうがどうなっているのか全然わからない。

 全力で駆けながら転ぶように曲がった私は、突然に眩しい光の中へ出て、足裏は硬くて平らな地面を踏んだ。直ぐに真上の太陽からの真夏の陽射しがジリジリと肌を焦がす熱に汗ばんで来て、今ほどの戦慄する肌寒さが嘘みたいだ。

 近くにワイン工場が在るセンターラインがしっかりと引かれた舗装道路の上に私はいた。後ろを振り返って今来た暗い道を見た。が、其処に暗黒の穴のような道は無くて、路肩のラインの向こうには側溝と笹に縁取られた栗の果樹園が在った。

 何処から私は違う世界へ行っていたのだろうと思う。朽ちた石段を降りた時から? 鳥居の無い神社に寝ていた時から? 波に浚われて沖に漂っていた時から? もしかして私は蘇りなの? 不思議な体験? 熱中症が見せた白昼夢かも知れないけれど、生きて戻って来れて良かったと安堵して、色鮮やかな世界を見回して感謝する。

 見知った道路と暑い陽射しに安心した気持ちが再び、得体の知れない恐さに不可解さの不安が重なって私は大声で泣いた。そして、通り掛かった近所の人の軽トラックが泣きながら歩いている私に気付いて乗せてくれた。迷子になっていたと思われた私は、その人の軽トラックに乗せられて明千寺の家に帰って来た。

 あの時は恐ろしくて確かめに行かなかったけれど、あの神社はトヤン高原を抜けて国道へ出る道の脇に在る神社だと思う。小高い小さな丘の中腹に杉と翌檜の木立に囲まれて建つ、鳥居が無くて社だけの神社で同じだ。

 ずっと怖い記憶は無意識に隅へ除けて、本当に有った事なのかも分からないような朧な記憶にしていた。一人ぼっちで生死の淵を彷徨よった事なのに私は忘れようとしていた。それなのに、この海を去年の夏休みに見ていたら、ふと思い出して確かめたなった。

 お母さんやお婆ちゃんに訊いたら、

『あった、あったねぇ。あんときは大変だったよ。あんたが岸に倒れとって、意識が無くてねぇ。医者を呼ぶわ。お巡りさんは来るわで。えらい騒ぎになってしもうて、村の衆も大勢来てね。みんなで穴水の大きな病院へ運ぼうってことになって、トラックの荷台にあんたを寝かして行ったねぇ。でも、あんたが行く途中で気が付いてねぇ。みんなで大喜びしたわ。あたしは、あんたを抱いてね、泣いて喜んだよ』と、お婆ちゃんが目頭を押さえながら懐かしそうに話してくれた。

 トラックの荷台で気が付いたのは憶えていない。私の忘れられていた記憶の中では神社の石の上だった。確かに波に浚われて目が覚めたら神社の石の上で寝ていた。……と金沢へ引っ越す前は思っていた。

 私は忘れていた……。それが、お婆ちゃんの話で別々の出来事だったのを思い出した。磯で波に浚われた事と、森で迷子になった事を……。

 身に迫った二つの窮地を、いつの間にか、私は一つの出来事にしていた。だけど、そうなのだろうか? 森で迷子になった日も磯で波に浚われていたんじゃないかと思う。森で迷子になる前の私と今の私は、本当に同じ私なの?

 あんなに沖合に流されていたのに、どうして岸に戻って来られたのだろう? そもそも私を浚った大波は自然の波だったの? 森の中で迷子になっていたのに、なぜ神社の大きな石の上に寝ていたのだろう? あの暗くて狭い道は何処だったのだろう?

 そこだけが、どうしても思い出せなかった。私が波間で気を失っている間に……、木々の間で泣き疲れて眠っている間に……、誰か……? いや何かが救ってくれたのかも知れない。それが彼の体験談でリアルに甦る。彼は本当に試されて選ばれたのかも知れない。

 お婆ちゃんの話しの後、私は神社へ見に行った。寝ていたと思っている大きな石は確かに、びっしりと羊歯が生い茂る狭い境内の隅に横たわって有った。苔や枯れ葉に覆われて石の表面は僅かしか見えていない。眠りから覚めた時に見た石の表面は、綺麗にした痕が有って、誰かが苔生した汚れや埃を拭ってから私を横たえたのだと思っている。

 その半ば埋もれた平らな上面の石は、もう随分と昔に立っていた石板が倒れたようにも見えた。もし、石板だったら碑文や呪文でも刻まれていたのかも知れない。

(まだ地面に埋まっている面に残っているかも。この夏休み中に調べてみよう…、ううん、今から彼を誘って行ってみようかな)

 確か、鳥居の無い神社下を折れて脇道を通ると、ここ立戸の浜へ来れた。そして、その立戸の浜へ至る道の途中にも不気味で不思議な神社が在って、私は気になっていた。

 そこは道沿いの幅三メートルほどの用水の向こう側で、向こう側に立つ石の鳥居から参道が森へと続いていた。森の縁の木々の間には、ぽっかりと暗い穴のような空間が開き、参道は穴の奥の社まで続いているのだろうと思えた。道路からは、暗い穴の中が良く見えなくて境内や社まで、どのくらいの距離が有るのか窺がい知れない。だけど、不気味さは暗い穴だけじゃなかった。

 不思議な事に鳥居は道路へ向いているのだけど、道路と鳥居の間に在る用水を渡る橋が無くて、簡単に行く事は出来ない。草深い用水の縁を見ても、以前に橋が掛けられていたようすも、跡も無かった。どうやって行くのか、どんな場所で、何が祭られているのか、興味が有ったけれど、お婆ちゃんからは町中の神社以外へは立ち入るなときつく言われていて、今でも行ってはいない。

 それに、社が隠れる森の奥の高い梢から何かに見張られているような気配を感じて近付くのを控えていた。だけど、異空間や邪神? を体験した彼がいっしょなら探検する勇気が湧くかも知れないかなと、そう思って彼を見る。

(うっ! うわわわっ! うっわぁー)

 蒼白な顔に目を見開いた真剣な表情で彼は私を見ていた。幼い頃の記憶に耽り黙って海を見ていたのが不味かった。

(わわっ、話題を変えなくちゃ。……石板を見に行くのは無理っぽい)

「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」

 そう言って、被っていた鍔の広い大きな白い帽子を彼の頭に乗せ、その影に入るのに彼の肩に凭れ掛る。私の背が触れてビクッと振えた彼の肌が、びっしょりと濡れているのに驚いた。触れた時のヌタッとしたのに『うっ』と感じたけれど、慣れてくると冷たさが気持ち良い。冷たさを求めて触れる位置を変える度に、ビクン、ビクンと振るえてくれる彼が面白い。

(このべっとりとした全身に掻く汗は、直射日光に曝される暑さを冷却している汗? それとも肌の乾燥を防ぐ粘膜? もしかして戦慄した寒気からの冷たい汗なのかな?)

 ヌタッとした後に今も感じるザラつく肌は、まだ鮫肌になったままなのだろう。錯覚かも知れない不思議体験を怖がっている癖に、弱音の一言も吐かずに痩せ我慢を通す。そんな彼を私は楽しくて可愛いと思ってしまう。

 

 ---つづく