遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

明千寺(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 伍

「もう、お昼よ。いつまで寝ているの! 早く起きなさい」

 お袋がお昼を食べさせようと二階の自室で惰眠を貪る僕を起こす。八月の盆過ぎ、インターハイで負けてから何事にも遣る気がでない。登校日でもない限り朝は起きれないし動かない。毎日、大抵は昼近くまで寝ていて、早くに目が覚めても昼まで部屋でウダウダしている。午後からは弓道部の友人に市民プールへ無理矢理つれて行かれた。そして、泳ぎの特訓を一週間以上も続けている。

「おまえ、この先、ずっと泳げなくてもいいのか。大切な人を守れなくてもいいのか」

(それは、嫌だ!)

 水は凄く怖い。嫌で嫌でしょうがなかったけれど、この言葉を親しい仲間から言われると、言い訳や逆らうのを諦めて覚悟を決めた。

 家族や親しい人が溺れて沈んで行くのを、岸で成す術も無く叫びながら呆然と見ているだけの自分を考えたくない。目の前で恋する女性が水難に遭うなら、僕は直ぐに飛び込んで救いに行く。最期まで諦めずに彼女だけは助けたい。最悪でも彼女を一人では逝かせたくなかった。

 毎日、溺れそうになる恐怖でパニくり、気持ちが退けて逃げ帰ろうとする僕に、友人はその言葉を繰り返し言って教えてくれた。そして僕は、言われる度に何度も覚悟を上書きしている。

 これまで潜ることも、水面に顔を着けることもできなかった。特に耳が水に浸かるときの、『ゾクッ』として、『ゾゾゾゾゾー』と来るのが、水の底に引きずり込まれるようで、気持ちが悪くて堪らなかった。

 逃げようとする僕を、彼は力ずくで水に引き込む。半泣きになりながら毎日、五、六時間は練習させられた。毎回、ツーンと鼻を刺激する次亜塩素酸ナトリウムがいっぱいの水をガバガバ飲んだ。鼻水を垂れ流し鼻の奥と咽喉はヒリヒリして、非常に気分が悪い。

 でも、御陰で水に潜れて浮けるようになった。平泳ぎで二十五メートルも泳げるようになったし、犬掻きも覚えたし、横泳ぎと立ち泳ぎも少しはできるようになった。それに、ほんの触り程度だけど背泳ぎまで出来て、今まで知らなかった新しい世界を手に入れたみたいで嬉しかった。初めて自転車や原チャリに乗れた時のような爽やかな感動と達成感を感じて嬉しい。これまで避けて知ろうとしなかった泳ぎを指導してくれた友達に僕は心から感謝した。

 同時に泳ぎを拒んでいた小学校や中学校や高校の夏を後悔した。言い訳や理由を作って避けたり、先延ばしをしてきただけで、自ら自身を変えていく勇気が無かった自分に、嫌気が差している。

 プールに行くのが嫌じゃなくなったけど、まだ楽しくはない。消毒薬臭い塩素臭は慣れないし嫌いだ。それに背が立たない深い場所での練習もこれからだ。足が着かない深さは非常に怖い。ほんの少しだけの深さの違いで爪先が底に触れないだけで、ずっと底が無いような錯覚に囚われてパニくりそうになった。まだまだ克服しなければならない水の怖さがたくさん有る。

 お袋の一階のキッチン辺りからだと思う声は続いた。

「暑中見舞いのハガキが来ているわよ。女の子からぁー。リビングのテーブルの上に置いてあるからねぇー」

 その言葉に跳ね起きた僕は、急いで階段を駆け下りてリビングへ向かう。

 暑中見舞いのハガキは、テーブルの上に宛名が見えるように置かれていた。家の住所と僕の名前が、角がへたったような丸っこい大きな字で書かれていた。どこかで見たような、無いような不思議な形の文字だ。僕は差出人の女子の名を見ようとハガキに触れた瞬間、誰から届いた暑中見舞いなのか分かった。

(彼女からだ!)

 何故だかわからないけれど、そう感じた。急いでハガキを裏返して差出人を確認すると、そこには表の字体の縮小版で彼女の名前と住所、そして、携帯電話のデジタル文字には決して打たれていなかったアナログのウエットな言い回しで、近況を知らせる文面が書かれていた。

『暑い日が続いていますね。元気していますか? ここは朝夕、涼しくて過ごし易いよ』

 優しい言い回しが繋がっていて、彼女らしくない……。それに、手書きのイラストまで描かれている。淡い青と光る緑の風に髪を靡かせる少女の微笑む顔だ。たぶん彼女自身だろう。

 隅に名前と共に小さく書かれていた差し出し住所は、『鳳珠郡穴水町明千寺』

(鳳珠郡の穴水町って、……能登? 彼女は今、能登半島にいる?)

 直ぐにインターネットで地図を調べた。気持ちが急上昇に舞い上がって、マウスを操作する手が震えている。

(逢いに行こう。今すぐ彼女に… これは彼女からのメッセージなんだ)

 彼女の切実な意思を感じる。優しい言葉の繋がりや空色と黄緑の風は、きっと、詰まらなさと寂しさを表しているのだろう。それに、一人だけの少女の微笑みは、『此処へ、来てくれるでしょう』と、訴えているのだ。

 彼女からは年賀状も暑中見舞いも、今までに送られて来た事は無かった。……初めての事だ……。

(勘違いじゃないぞ。これって、もしかして……? 今度こそ本当に……? 間違いなく……? 急速大接近に、密着ハグも有り?)

 僕はそう勝手に解釈して、友人へ電話した。

「すまん! 今日はプールへ行かん。これから能登に行って来る!」

 どぎまぎして息が荒くなってきた。もう気持が急いてしまっている。

 お袋に出かける旨を伝えて朝昼兼用の食事も摂らずにホワイトダックスに跨ると同時にキックペダルを踏み込みながらアクセルを開け、エンジンを吹かし上げた。

 友人と電話で話す声も、お袋に断る声も、自分の声じゃなかった。異様に高く上擦って微妙にビブラートが掛かっていた。

(ウエットな暑中見舞いには、ウエットな行動で、手渡し宅配の返信だ!)

 親父がレストアしたこの古い原チャリは、エンジンもアイドリングが安定すると、猫が咽喉を鳴らすようにコロコロとした音を立てるから、僕にとってダックスは犬じゃなくて、白い子猫だ。

 そのアイドリング音は、いつもホワイトダックスが喜んでいるみたいな気にさせて、乗り回した後は同じ事を言う親父といっしょに良く手入れをしている。親父がいろいろとチューンしている所為だろうけど、時々、喫茶店で連む仲間達の原チャリのエンジン音とは明らかに違う。吹かすと浮き上がるような鋭い音で鳴きながら、殆ど振動がしない滑らかさで回ってくれて、仲間達は今時の原チャリよりパワーが小さいのに、加速や走りの伸びの良さを不思議がっていた。

『オリジナルのシートは緑と青の花柄だったけど、紫外線による劣化の破損が酷くて交換したよ』と、親父は青と緑に薄いピンクの少し入るタータンチェック柄のシートを、ポンポンと敲きながら言っていた。それは、耐UV性フェイクレザーに親父が福井市だか鯖江市の知人の会社に頼んで、3Dプリント加工をしたらしい。耐油性に耐薬品性、それに超撥水の防水だと自慢していた。

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 八月初めの土曜の夜は、花火大会だった。大豆田の橋向うの河川敷で打ち上げられる。毎年、花火大会の日には、夕方早くに親父が帰ってきて、家族で揃いの浴衣を着て団扇を帯に挿し、バスに乗って見に行く。

 河沿いの土手道を出来るだけ打ち上げ場の近くまで歩いて行き、そこで筵を敷いてみんなで座る。夏の陽で焼けたアスファルトがまだ熱いけれど、筵の上はそれほど熱気を感じない。

 僕は担いで来たクーラーボックスから冷えた飲み物を出して配った。親父とお袋にはロング缶のビール。妹には麦茶。僕はいっしょに入れてきたグラスに、カチ割り氷を満たしてサイダーを注ぐ。冷たいサイダーが美味いんだ。

 親父が言う。

「花火は大好きな家族といっしょに見るに限る。愛する妻と息子と娘の浴衣姿。団扇と豚の蚊取り

線香とケツの下の筵。それにキンキンに冷えたビール。やっぱ、こうじゃないとね。最高だね」

 妙な拘りを何かにつけ親父は持っている。でもこうゆうのは嫌じゃない。

 僕はここに彼女もいれば良いと思っている。彼女といっしょに仰向けに寝転ろんで、僕らの為に炸裂するような花火を見たい。

 雑学の化学知識で仕入れた炎色反応の金色がチタンで、青色は銅、赤い色はストロンチウム、それから緑はバリウムで、黄色はカルシウムだとか。それに物理知識も加えて、光の三原色の緑、赤、青を重ねると白になるから大輪のスターマインが数え切れないくらいに連発しても、花火の色が濁ってがっかりな様になったりはしないとか。濁って汚くなるのは絵の具で、色の三原色の黄、赤紫、青緑を混ぜると黒になってしまう。などと、そんなロマンの無いウンチク話はしたくない。

 ただ黙っているだけでいいから……、いや、熱や匂いも分かる近さの傍に彼女を感じたい。

(今宵、どこかで彼女は、……花火を見ているのだろうか?)

 視界いっぱいに直上に広がる光の重なり、耳を聾するばかりに轟く炸裂音。降り注ぐように枝垂れ落ちる光の粒。圧倒的な光の煌めく美しさに、眼を見開き、口を開け、耳を塞いで驚きながら二人で感じたい。夜空の星がこのくらい鮮やかに輝いて見えれば、僕の世界は浪漫に満ちてより美しいのに。

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 彼女との淡い夢を思い描きながら、山側環状線から津幡町、宇ノ気町、羽咋市、七尾市と一気に抜けて七尾湾に出た。更に和倉温泉を経て内浦沿いの国道をアクセル全開で走り続けた。炎天下の夏の昼下がり、能登島の向こう陽炎が立つ富山湾に、高く大きな入道雲が立ち上がって、重く淀んだ大気は時折り熱気の壁を僕にぶつけて来る。

 真夏の緑多い田舎の幹線道路は、フルフェイスのヘルメットを貫いて蝉の大合唱が、布を切り裂くような甲高いエンジン音と共鳴して、ヘルメット内の熱で半ば朦朧とした汗だくの頭へガンガンと響いた。

 原チャリ……、原動機付き自転車の運転免許は一昨年の誕生日を過ぎた最初の日曜日に取得した。部活の先輩から教則本を譲り受けて、三、四日、授業中に目を通して付属の問題集を解いていただけで、あっさりと試験にパスしてしまった。生徒手帳に記載されている校則には、運転免許の取得を禁止しているから学校へは当然、知らせてはいないし、親にも親父がホワイトダックスをレストアした今年の春先まで隠していた。

 原チャリは能登縦貫自動車道を走れないから下道の内浦沿いの国道を走り抜けるしかない。勢いで辿り着いた穴水町で、既にタンクの非常用分まで使う小さな燃料タンクのホワイトダックスへ給油する。

(明千寺まで、あと少しだ)

 ガソリンスタンドに併設されたコンビニで、買ったサイダーを一気飲みし、冷えたボトル水を頭から被って、携帯電話のGPSで現在位置と残りの道程を確認した。やはり海沿いを走るよりトヤン高原を抜けた方が近い。午後四時前には明千寺に着けるだろう。

 国道が山間へ入りかけたところの交差点を右へ折れて、トヤン高原を横断する森の中の道を全速で明千寺へ向かう。殆ど対向車が来ない整備されたトヤン高原の森を通るワインディングロードをフルアクセルでかっ飛ばす。カーブでステップの先がアスファルトに擦れて激しく火花を散らした。

(どうしてトヤン高原と言うのだろう? しかもカタカナ表記だ! 能登半島の内浦は遺跡の多い土地で、北陸は神代以前の古代から大陸と盛んに交易をしていたと言うし、この辺りも栄えていたとしても、不思議じゃないよな。富山も古くはトヤンと呼ばれていたのかも……。朝鮮半島の人名に同じ発音も有るし……。古の昔は富山湾一円を、トヤンと言う一族が支配していたのかも知れない。そして彼女は古代人の直系の子孫かも……?)

 低い緩やかな丘陵が連なり、高原のイメージじゃない。ワイナリーの看板を通り過ぎる。

(へぇー、こんな所に、ワイン工場が在るんだ)

 こんな場所と辺りを見れば、確かに翌檜の森ばかりではなく、道沿いに栗の木が目立っていろいろと果樹園も多いみたいだ。それよりも高原らしく、丘陵全体を牧場にしたら、どんな感じになるのだろう? 森の木を伐採すると新たに真脇遺跡のような古代集落跡が発見されるかも知れない……。

 そんな、とめどもない事を考えていると、突然、妙に気が急いて心が騒いだ。蝉の鳴き声がワンワンと喧しく響いている中、誰かに呼ばれている気がした。上り坂の向こうから、カーブの先から、道の彼方から、僕を呼んでいる。

『アクセルを緩めたら、彼女が見つからないぞ』と、ヘルメットの中で誰かが囁いている。

 整備された明るい道が突然途切れて鬱蒼と生い茂る森に続く、暗く狭い林道に変っていた。後ろを振り返ると、遥か向こうに整備された道らしいのが光点になって見えた。

(いつの間に、林道に入ってたんだ? 迷ったのか?)

 忠告のような囁きに反してアクセルを緩めてしまうけれど、非現実的な異様な状況の不安さに一旦、停車して携帯電話のGPSで現在位置を調べる。現実に存在する場所らしく電波は受信できて、ここまでは標識通りに来ていた。ショルダーバックから暑中見舞いのハガキを取り出して住所を確認する。間違えてはいない。この道の向こうだ。残り五百メートルも無いだろう。

 ふと、誰かにハガキを覘き読まれた気がした。気がした方へ、眼だけをゆっくりと向けると、隣に何かがいそう。視界の隅に重量感の有る影が見え、背中に戦慄が走った衝動で、いきなり顔を向けて見るけれど何もいない!

 影が消えた。後ろを見る。周りを見回す。上も下も見た。何も不思議で怪しい物はいない。それより怪しいのは前だ。

 顔を上げ森の奥へ消える道を見た。まるで照明の無いトンネルか洞窟のようだ。奥が真っ暗で何も見えない。

(こんなに陽射しが強いのに、木漏れ陽の一つも無いなんて……。こっ、これは、けっこう怖いぞ!)

 異世界へ繋がるような迷路に入り込み、生還不能に陥るかも知れない果ての無い闇に僕は怯んでしまいそうだ。

(逃げるな。ビビってんじゃあないぞ! 戦え! 彼女に逢いに来たんだろう)

 闇の先を睨んでメゲそうな自分を奮い立たせる。ヘッドライトを点けるとアクセルを全開にして先を急いだ。

(くそ! 負けるか! ここを抜ければ彼女に逢えるんだ)

 高く生い茂る翌檜が陽を遮って薄暗い。湿気を増したカビ臭い空気は蒸して身体中に纏わり付いて腹立たしいくらいに不快だ。路面はところどころ濡れて苔でも生えているのか、時々ハンドルが取られ駆動する後輪が滑って空回りする。

 バックミラーに映る入口の光は急速に小さくなって消え入りそうだ。闇で出口が見えない前方とヘッドライトに揺らぐ影から、何か得体の知れない物体が飛び出して来そう。まるで、現実に重なる違う場所を走っているような感じがして不安で心細い。十秒も経たない内に蒸して粘っていた大気が、今度は重く冷たくなって纏わり付いて来た。切り裂く冷気が剥き出しの腕を刺激して泡立つように鳥肌を立たせた。更に先を急げと囁きは、頭の後ろからや脳天からも、右に、左に、耳の直ぐ傍からのように聞こえ続けている。

(……この感じは、似ている……)

 忘れもしない弓道試合の必勝祈願をした黒壁山の魔所の暗闇と同じ、いつ異形が現れても不思議じゃなかった光と闇の混ざり合う時刻と、艶の失せた暗がりが迫るように思い出されて、生ゴムのような臭いがした……。

 まだ夕暮れには早い時刻のはずなのに、辺りは何時の間にか湿りを帯びた夜のように暗い。益々、狭まる気がする長く暗い坂を全速で上り、追い立てられて逃げるように、暗くて先の見えない下り坂に突っ込んで行った。

 脇の茂みの向こう、暗く立ち並ぶ幹の間から、ずっと何かに見られて、何かが近くでいっしょに走っているような、不思議な気配がしている。横を見回す。上を見た。バックミラーには森の暗い影が映っているだけだ。でも、何かを感じる。

(この場所にも、……何かがいる)

 そう思うと、不気味さと不可解さに襲われ、ヘッドライトの光りで揺らぎ形を変える脇の木立ちの影へ視線を走らせる度に、怖れ慄く悪寒が背中を走り回って既に寒疣だらけの全身をゾクゾクさせ続けた。

 森に入ってから三分以上は経っている。距離にして二キロメートルは走っているだろう。それとも、もっと来ているのだろうか? 確かGPSでは五百メートル足らずだったのに、一向にそれらしい場所には到着しない。辺りは更に暗くなり殆ど闇に近くなっている。道は……、いつしか溝のような狭い切り通しになってターンする余地も無い。何かに誘導されて走っているのか?

(いったいどこを走っているんだ? 道を間違えたか?)

 急に不安と焦りに襲われて、叫びそうになったその時、ヘッドライトに照らし出されていた濡れた路面が、いきなり乾いた路面と草木に変わり道は直角に曲がった。必死のギアダウンと横滑りで辛うじて転倒せずに曲がれたと安堵する間も無く、そして、唐突に明るく広がる陽差しの中に弾き出されるように戻された。

 急ブレーキを掛けて停まり、僕は振り返って見た。ほんの五メートルほど離れて、今、出て来たばかりの道が真っ暗なトンネルのように、そこに在った。それは……、内部へ次々と木漏れ日が差し込んで来て、見る見る明るい森の道になっていった。ここは入道雲の湧き立つ眩しい上空からの光りを翳らせる遮りが何も無いというのに……。

 目の前に現れた明るい道路は緩やかな上りで、ゆったりと右曲がりに延びていた。道幅は暗闇の森へ入る前と同じ広さで、その整備され白線の引かれてたワインディングロードの延長線上だと知らせていた。信じられない事に今し方の転けそうになった直角に曲がる狭い急カーブも、トンネルような暗くて狭い道も、夢から覚めた後のように跡形も無く消え失せてどこにも無かった。

(ハッ!)

 頭上に影のようなものを感じて見上げると、木立の頂きの上に薄紫色の雲のような霞が漂っていて、それは吹き寄せた風に散らされるように薄れて消えてしまった。

(どうなっているんだ? ……ぼっ、僕はどこを走って来たんだ? たっ、確かめに戻るか……。でも、それは厭だ! 怖い……。次は出て来られないぞ)

 白昼夢でも見ていたのだろうか? 激しく瞬きをする目で陽炎の立つアスファルトの道を見つめた。僕は真夏の炎天下だというのに寒気がして背筋が震えた。鳥肌が立ち魔法の呪いの呪文で固められたみたいに動けなかった。

 どれだけ見ていたのだろう。寒疣が消え全身から汗を噴き出していた。いつのまにか暑さが戻ってきている。クラクションを鳴らしながら直ぐ脇を車が通り過ぎ、右曲がりで登る坂の向こうへ見えなくなった。

 気を取り直し、振り向いたままの顔を無理やり前に向かせて、前方に見える町並みを見た。

(着いた。ここが明千寺の町だ)

 逸る気持ちを抑え、アクセルを小さく開けて近づいて行く。

 町外れのこんもりした小さな森は、地図に有った能登の古刹、明泉寺だ。暑中見舞いの差出人住所は、その寺の近くだった。

 ゆっくりと明泉寺の前を過ぎて家並に入って行く。今し方の戦慄は興奮と高まる動悸に変わり、暑さにそれらが加わって更に汗が噴き出した。

 コンビニも無さそうな小さな町、……集落だ。

 明泉寺を過ぎて短い上り坂になる。その坂の途中の左側に雑貨屋が在った。店の前は駐車スペースで右手にガレージが有った。お客さんが来ているのだろう、ガレージ脇にスクーターが停めてある。

 正面脇に飲料の自動販売機が置かれていたが、店の中が気になった。

(せっかくだから、涼しい店の中で選ぼう)

 ホワイトダックスを入り口近くに停め、開けっ放しの玄関を抜けて中に入る。

(開けっ放しなんて、なんて無用心なんだろう。冷房がされてないのか? 田舎は、これが普通なわけ?)

 コンビニに慣れた僕には異質な感じがした。

 軒先の影に入った瞬間に風が僕の周りを巻いて、戸口から家の奥に見える開かれた縁側の向こうの木陰に吹き抜けた。風は次から次と絶え間なく僕を包む。風鈴の音が涼やかに響き、構えて尖った心が安らいで優しく広がって行く。

(いい気持ちだ。ああっ、癒される)

 店の中は冷房されていない。なのに、涼しく感じた。初めて来たのに、家に帰ったように安心する。

(ここは、不思議な空間だ)

 風鈴の透き通るような涼しげな音が小さくなって行き、僕は異空間を感じた。

「ごめんください」

 店の中を見回すけれど、誰もいなくて返事がない。

「こんにちはぁー」

 僕は大きな声で呼んだ。

「はーい」

 奥の座敷の、その奥から年輩の女性の声で返事がした。まもなく畳を踏む音が近づいてきて婆さんが現れた。

「はいはい、いらっしゃい」

 僕は冷蔵ケースから良く冷えたショート缶のコーヒーを選んでみる。

(ラムネやコーヒー牛乳も捨てがたかったな)

 財布に小銭が無くて札で店の婆さんに代金を支払う。

 レジスターへ行って釣り銭を持って戻って来る婆さんの向こう、座敷の縁に白い人影が見えた。缶コーヒーをポケットに捩じ込んで、更に玄関先で涼しい風に吹かれて食べようと、アイスクリームの冷凍ケースからアイスキャンディを右手で掴んで見せてながら、その代金も差っ引いた釣り銭を受け取ろうと掌を広げた左手を差し出す。

「このアイスキャンディも……」

 何気に視界へ入った白い影を習慣的な目の動きで見た僕の、婆さんに言い掛けた言葉が止まった。

 白い人影は彼女に良く似た女の子に見えた……。

(…いや、かっ、彼女ぉ~?)

 パチパチと反射的に瞬きが繰り返されて、クリアになった視覚が鮮明に彼女の顔を認識する。

(しっ、信じられない……。ここが、そうなのか……?)

 それはノースリーブの白いワンピースを着た彼女だった。

 掴んでいた指の力が緩んで、アイスキャンディは冷凍ケースの中へ落ちて行く。

(お釣りを受け取ってから、婆さんにハガキの住所を尋ねようと思っていたのに……、ここだったのか!)

 刹那、僕はついさっき、ヘルメットの中に低く響いた囁きを思い出す。

(一発で逢えるなんて。心の準備が出来てねーぞ)

 いきなり現れた彼女は僕を見ていた。

(僕が来たのに気付いて、見に出て来たんだ)

 カーッと血圧が上昇して過呼吸になった。瞬時に状況を把握し理解した僕は動揺して、行き過ぎた血流と酸素が脳を圧迫する。

(だっ、ダメだ。クラクラして来た)

 普通にしていられない。さっと彼女から視線を外して、僕は逃げた。

(にっ、逃げるしかない。とっ、取り敢えず出直そう……。だけど、出直せれるのか、自分?)

 婆さんが渡そうとした釣り銭は、受け取ることを忘れた僕の掌に当たり、次々と滑って零れて行く。コンクリートの床に落ちた幾つものコインが軽い金属音を響かせて転がった。

(ああっ、僕は何をやっているんだ)

 転がるコインをそのままに、表に停めたホワイトダックスに向かって、僕は駆け出した。背後に彼女の叫ぶような呼び止める声が聞こえるけれど、エンジンが噴け上がるのと同時にアクセルターンで向きを変え急発進した。

 バックミラーには、道に出て僕を見ている彼女が映っていた。僕は坂を下るトヤン高原の方には向かわずに、坂を上り海辺へと走る。

(あんな……、妖しげなトヤン高原へ向かってたまるか! 末恐ろしい)

 短い坂を登り切り明千寺の町を抜けて、緑の田園が広がる台地の先を右に曲がった。

(この海辺の道は海岸線をトレースするように、穴水町まで続いている。……はずだ)

 海沿いの町をいくつか過ぎて、殺風景な砂浜に出た。ここまでは夢中で逃げて来た。

(逃げて……、僕は逃げたんだな……)

 白砂の平坦な渚を見た瞬間、後悔が噴き出した。

(……僕は本当に逃げ出してしまった)

 砂浜は海水浴場らしく、仮設の更衣室やシャワーが有るし簡易トイレも設置され、海面はフロート付きロープで遊泳範囲を区切ってあった。

 スピードを緩め、僕はゆっくりと波打ち際まで進んでホワイトダックスを停めた。白い砂はとても木目細かく、車輪が全然沈まない。広い平坦な砂浜に大勢の足跡と、いくつもの焚火の跡があった。

 百五十メートルほどの沖合に、消波と浸蝕防止を兼ねて、テトラポットで組まれた防波堤が二つ並んで有った。その間に、能登島の北端が見える。テトラポットの先は盆を過ぎた八月の波が高い。でも内側の水面は、漣が立たないほど穏やかだ。海は青く透明に澄み切って輝き、僕を誘うように艶っぽい。

 ポケットに入れて、まだ冷えている缶コーヒーを息を整えて一気に飲み干し、火照る体も落ち着かせると、僕はザブザブと海に入って行った。毎日のプール通いの為にTシャツの下は直に七分丈の水泳パンツを穿いている。水泳パンツの生地は、ちょっと通気が悪くて蒸れて来るのを鬱陶しく思う。温かい海水が動揺して興奮した気持ちを静めるのと、逃げて目的を見失った想いを整理するのにちょうど良かった。

 歩みを進める浅く透き通った砂地の海底を、黄色い斑模様の渡蟹みたいのがいくつも逃げていく。キラキラ光る水面と海原を渡って来る湿気を帯びた風が心地良い。

 百メートルほど来て、胸の深さでフロート付きロープが張ってあった。遊泳範囲はここまでだ。けっこうな遠浅だ。試しにロープを超えてみた。一メートルも行かない内に顔までの深さになり、足元の水が冷たくなった。

 底の冷たい海水は更に五十メートルほど沖の防波堤へ流れている。足元を流れに掬われて深みに嵌まれば、テトラポットの隙間に吸い込まれてしまいそうだ。

 僕は恐くなり慌てて戻った。半分ほど戻ったところで水面に浮かぶ。深さは太腿の上端辺りだ。遠くにオートバイの爆音を聞きながら耳は水面下になった。手足の力を抜いて水面に浮き風と水の流れに弛緩した体を任せてみる。緩い大きなうねりがゆっくりゆっくり僕を浜に運ぶのを感じ取れた。心地良いうねりに漂いながら思う。

(彼女がいた。彼女に逢えて良かった。でも声を掛けられなかった。僕は挨拶もできていない)

 頭上に被さるように高く聳える白い入道雲が、『それでいいのか?』と問いかけているみたいだ。

 このまま逃げ帰ってしまいたい意気地無さと、会いに戻って後悔したくない想いで、気持ちが揺れ迷う。白く輝く雲の頂きをぼんやり眺めながら、六年生の音楽の授業で想像したピアノの調べに乗って、雲の峰を跳ね回る彼女を思い出した。

(よし、会いに戻ろう!)

 逃げない。僕は迷いに踏ん切りをつけた。

 浮くのをやめて行動を起こそうとしたその時、突如、真横の水面から音も無く、ゆっくりと白い影が立ち上がった。波が立ち、水面に浮かぶ僕の体を揺らして顔を洗う海水が息を詰まらすけれど、それどころじゃない! 暗い森の道で視界の隅に気配を感じた影が脳裏に一閃して漂う僕の体を金縛りに遭ったように固まらせた。もう顔は恐怖に引き攣っている。

 僕は息を飲んだ。肩に背に戦慄が走り、真夏の海水が氷のように冷たくなった。もうパニくる寸前で、泣き叫ぶ二秒前!

 影はその暗い顔を俯くように傾けて僕を見る。貼り付いて暗く見せていた顔の濡れた髪が解れて、水面の光の反射を受ける顔が明るく照らされた。照らされた影の顔は携帯電話の着信画面にした瞳で僕を見ていて、恐怖は驚きに変わった。

(ああっ、彼女だ! どっ、どうしてここに?)

 その瞳の眼が細められたと思う間も無く彼女は、僕の体に両手を着いて覆い被さって来た。

(グハッ! やっ やめろ! 胸と腹を押さえるな!)

 沈む上半身に足先が水面から持ち上がるのを感じる。波間に漂う為に広げた両腕は金縛りのまま、彼女を退けるのにも、水底に手掛かりを求めるのにも、全く動かない。

(じょっ、冗談だろ? もっ、もしかして、そんなに僕を嫌っていたのかー? 水の事故に見せかけての窒息死なのか! 嘘だろ! かっ、彼女に殺される! うっわあー)

 脳から手足を動かす信号を遮断されたみたいな仰向けで沈む体に、泳ぎを覚えたばかりの僕に水の怖さを蘇らせる。

 有り得ない彼女の行動に僕は一気に沈められて、体を捩れないまま背中が底の砂地に押し付けられた。

押さえ付けられて止めた息の半分が出てしまう。完全に不意を衝かれてパニくったけれど、思い出した友人の水の怖さを克服させたレクチャーと着けていたゴーグルで水中を見渡せた事が、気持ちを急速に落ち着かせて手足の感覚を戻してくれた。

 水中で見る彼女は笑っている。ゴーグルを着けずに開けている目は楽しそうに笑っていた。下弦の三日月の形になる僕の大好きな笑った彼女の目だ。

(なんて、嬉しそうに笑っているんだ!)

 大気中と変わらず、普通に笑い声まで聞こえて来る。楽しくて堪らない幸せそうな彼女の笑顔に『彼女が望むなら』と、納得しかけた刹那、酸素不足で息が出来ない苦しさに、パニックが治まり切らない僕は本能的に生命の救いを求め、彼女を撥ね退けて水面に出ようと踠いた。

 生き残りを求めても縋り付く物の無い海底に踵は空しく砂を抉り、手は崩れる砂地しか掴めない。仰向けのままで進入を防ぎ切れなくなった鼻腔と咽喉が、通る海水にツーンと痺れてヒリヒリする。頭もキンキンと痛み出した。苦しさに彼女の笑う目をみていた視界がジワッと滲んだ。

(くっ、やばい! ふつう底まで沈めるかよ? ゴボッ)

『や、やめろ……』

 音にならない自分の声は泡の連なりになって口から水面へ向かって行き、限界が直ぐ其処まで迫っているを悟った。

(あと数秒しかない! 視界が暗くなって来たらアウトだ!)

 次に肺へ吸い込まれてしまうのは海水だ。吸い込めば肺が数回くらいは噎せるだろうけれど、噎せても入り直すのは海水だから酸素を取り込めずに意識の失って、僕の身体は活動を停止する。そして、もう二度と彼女を見る事は出来ない。

 失われそうな未来への思いに焦って足掻けば足掻くほど、手足は砂地の海底に掘った溝を深くするだけで、救いは何も見付けれなかった。

 撥ね退けた彼女は再び僕に襲い掛からずに、水中に救いを捜す視界の端に離れ去る彼女の白い色が見えた。息を止めるのも限界だ。

(くそ! 溺れてたまるか! 落ち着け! 体の向きを変えろ!)

 もがきながらも速やかに俯せになって海底に両手を着き、そして、勢いよく立ち上がった。でも僕の体内に酸素は残ってなかった。息継ぎの限界は、水面に顔が出る瞬間にやってきた。。吸い込む息といっしょに海水が入って来て、激しく咳き込みながら海水を飲んだ。

 再び通り抜けた海水が涙目になるほど鼻の先までツーンと痺れるくらいに、ガバッと飲み込んだ海水は咽喉のヒリヒリと焼けるような痛みを更に強くさせた。垂れ流れる鼻水で口の中がネバネバして塩辛く気持ち悪い。涙でゴーグルが曇って何も見えない。更なる仕打ちが有るかも知れなくて、状況を知ろうと急いでゴーグルを外して辺りを見回すと、波打ち際に立って僕を見ている彼女がいた。僕が水中から現れて安心したのか、ゲラゲラと腹を抱えて笑っている。

「アハハハハ。ねぇ、大丈夫?」

(酷い! なんて奴だ。死ぬかと思ったのに)

 浜に急ぎながら、『大丈夫な訳ないだろう』と叫んだが、擦れて声にならない。

 やっと浜辺に着いたとたん、急に力が抜けて膝を付くと、涎がダラダラ出て来て猛烈な吐き気に襲われた。這いつくばって急いで砂浜に穴を掘り、底から海水が湧き出すその穴へ一気に吐き戻した。

「グハッ、ガハッガハッ」

 バシャバシャと薄いコーヒー色の海水を吐き出す。塩辛さと潮の香り、それにコーヒーとサイダーの甘味と臭い、そして胃液の苦い酸味を加えて、胃と横隔膜と食道が壊れたポンプのように、不規則に勢いを付けて次々と逆流させる。

「ゲッ、ゲホーッ、きっ、気持ち悪!」

 何も食べずに来た。寄り道もせずに家から真っ直ぐ、ここへ来た。胃に入っていたのは、穴水で飲んだサイダーとさっき買った缶コーヒーだけだ。……と、ガブ飲みした潮水だ。

 口だけじゃなく鼻からも押し出される。ますます鼻や咽喉が痺れるように痛い。それ以上に食道がヒリヒリからザクザクと刺すように痛くなった。もがいて少しでも楽になりたいが、痙攣したように押し寄せる吐き気で動けない。痛さと鼻水で涙も出て来た。

 鼻も口も吐瀉物が出て来る一方で、空気を吸い込んで肺に送れない。首筋やこめかみの血管が浮き出て、今にも弾けそうだ。

(あっ、やばっ!)

 キーンと耳鳴りといっしょにブラックアウトが来た。気を失う寸前に吐き気が治まり、なんとか息を吐くことができた。でも頭を穴の底に着けて額まで自分の吐瀉物塗れだ。失神して吐瀉物だらけの海水で危なく溺れるところだった。気を取り直して僕は穴を埋め戻し転がりながら渚に入る。頭を洗い流してから海水で口を漱ぎ、そしてまた、砂浜に突っ伏す。今ので一気に体力を失ってしまった。

(うう、無事に家に帰れるかな?)

 ゼーゼー肩で息をしながら思う。乾いた砂から太陽の匂いがする。

「あうっ! うぷっ、ぺっ」

 突然、眼の前に彼女が勢いよく座った。跳ね跳んだ砂が僕の顔に被る。涙目の視野にクローズアップで彼女の膝頭が迫った。更に小麦色に焼けた太腿と、その奥に水色の下着の股間も…… 見えた。

(おおっ!)

 でも、それは下着じゃなくて水着で、生地は透けてはいない。もっと良く見ようと目を凝らしてみるけれど、乾き残る海水の水分と附着した石英の多い白砂の粒の一つ一つが輝くように陽射しを反射して、その眩しさに僕はクラクラしてしまう。

(ああっ、生きていて良かった!)

 次の瞬間、彼女の手が胸の下に入り、僕は仰向けに引っ繰り返された。

 空が眩しい。傾きかけても太陽はまだまだ高い。サンサンと降り注ぐ夏の午後の日差しと水面を渡って来る熱気が、脱水と空腹で疲れた身体に眠気を誘う。

(でもこの暑さ…… 日陰が欲しいぞ。そうだ、こんな所にいたら彼女が日焼けしてしまう。熱中症になるかも知れない)

 そう思って見上げた彼女は鍔の広い大きな白い帽子を被っていた。眩しい真夏の青空を背景にして陰る彼女の顔に、薄く施した化粧と艶やかなピンクの唇が見て取れる。

(日焼け止めのファンディーション? 口紅もして? いつもしてたっけ?)

「食べて、冷たくて甘いよ」

 鼻水が溢れ出て、絶え絶えに大きく息をしている砂だらけの僕の唇に、びしょびしょで冷たくて堅い物が押し込まれた。いきなりな事に咄嗟に体を起こして口に刺された物を見ると、それは白いアイスキャンディだった。危篤状態からの生還と強い日差しの熱気で疲弊した身体に、冷たくて甘いアイスキャンディが気持良い。

(ふっ、準備がいいな。アイスキャンディに帽子だもんな。……ん、ノーヘルで来たのか?)

 全く彼女のする事は予測がつかない。冷たくて歯に沁みるけどアイスキャンディの甘さと冷たさが、痛みとむかつきと焦りを抑えて落ち着かせてくれた。

 真横で彼女もアイスキャンディを紅を差した唇に咥えている。帽子の庇がコンコンと僕の頭に当たり、向きを変えた彼女に肩が触れた。少し凭れるように彼女の体が触れて、救急車の中と県立美術館裏の小径での出来事を思い出してしまう。今も大接近の大接触だ!

 夏の陽に焼けた彼女の肌が冷えた僕の皮膚に温かさを感じさせた。素肌が触れ合う現実が信じられない。驚きだけど嬉しい。恐る恐る彼女を見るけれど気が付かないのか、ワザとなのだか、わからない。遠くの海を見ながら彼女はアイスキャンディを頬張っていた。

 いつもと違う。今日の彼女には違和感が有った。殺される寸前だったのに優しさと弱さを感じる。

(でも、今、気付くべき事はそこじゃない)

 アイスキャンディを持つ彼女の手の爪は伸ばされて、精緻で綺麗な3Dネイルアートがされていた。僕を引っ繰り返した時に砂で擦れたのか、少し筋傷が付いている。ネイルアートも薄化粧の顔も素敵だった。

(これは彼女のセンスなんだ)

 僕は感心して見とれていた。

「アッハハハ、そんなに見つめないでよ。恥ずかしいじゃない」

 じっと爪を見られたのが照れ臭さかったのか、ワザとらしく笑いながら彼女は言う。

 真っ白いワンピースと水色の水着に、そのトロピカルなネイルアートのデザインと彩色は、コーディネートされているように思えた。そして、彼女にとても似合っていた。気になって彼女の足の指を見る。足の爪はペディキュアをしていて、添加されたラメの効果なのだろうか、指が向きを変える度に、赤っぽいピンクや真珠のような白さに変化してキラキラと輝いた。

「素敵だ。とても似合っているよ。綺麗だ」

 やっと鼻の通りが良くなった僕はネイルアート以上に、彼女自身に言った。

 彼女と話せて安心したのかアイスキャンディを銜えたまま睡魔が襲って来る。このまま眠ったら熱中症になってしまうと思いつつ意識が遠のいて行く。僕は蕩けてしまいそうだ。

(もしかして僕は、とんでもない女の子を好きになってしまったんではないだろうか?)

 傍に大好きな彼女がいてくれる満ち足りた幸せの中、銜えたアイスキャンディのように意識が融けて薄れていった。

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 ホワイトダックスはナゴナゴと猫が摺り寄る鳴き声のようなサウンドで、鬱蒼と木々が生い茂る森の中を走っているけれど、見える限りどこまでも真っ直ぐな一本道は木漏れ陽だらけで明るい。

「いいよ。どこへでも。あなたといっしょなら、どこでもかまわないよ」

 その言葉に、手を僕の腰に回された彼女の手に添えた。彼女は添えた僕の手に指を絡め直して手を繋ぎ、汗ばんだ僕の背中に彼女が顔を付けるのを感じた。彼女の囁くような声が聞こえる。

「ねぇ。いつまでも私の傍にいてくれる?」

 僕達はヘルメットも被らずに、ゆっくりと二人乗りしたホワイトダックスを走らせる。彼女の問いに僕は振り返り答える。

「ああ、僕は君のものだ」

 サイドミラーに彼女の髪が、恥じらうように風に戦ぐのが映る。

「……うん」

 森の出口が見えてきた。森の向こうは夏色に満たされて明るく光っている。僕達を乗せたホワイトダックスは、森を抜けて夏色に犇めく陽射しの中にゆっくりと入って行く。夏の眩しく光る暑さに僕達は包まれて、思わず翳す手がシンクロしてしまう。

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 視界一杯に光の世界だ。眼を落すと光りの白さが途切れた暗がりの奥に、淡い青色が暈けて見える。ぼんやりする頭と気だるさで、ここがどこなのか、何をしていたのか、状況が理解出来ない。いつの間にか、僕は眠ってしまって彼女とデートしている夢を見ていたようだ。夢見心地が良い妙にリアルな夢で、繋いだ手や触れ合った肩や背に、彼女の感触や温もりが残っている。

 徐々に意識が覚醒して来た。薄い青色は水色の布だ。それは見覚えの有る縫い目が入った水色の布だった。

(ええーっ、ぼぼっ、ぼっ、僕は彼女の太腿に抱きついている?!)

「目が覚めたぁ?」

 その声に見上げると、彼女が優しい顔で覗くように僕を見ていた。一気に眼が覚めた。

「わわわっ、ごめん」

 僕の両手は彼女の腰に回っている。自分のしていることに驚いて慌てて転がり起きた。彼女は砂浜にぺたんと座って、膝枕をして僕を寝させてくれていた。そして、その鍔の広い帽子で日陰を作ってくれていたんだ。

「元気になったぁ?」

 彼女の太腿に付いた僕の涎に陽射しが反射してキラリと光った。

「あっ、ごっ、ごめん。汚してしまった」

 白いワンピースが捲れ上がって、彼女の太腿が晒け出ている。

(おおっ、なんか、すっげーセクシーだぞ!)

 その太腿の捲れ上がったワンピースの裾近くが僕の涎で濡れていた。

(直接……、太腿の素肌に膝枕をしてくれていたのだろうか? ……それとも、僕の寝返りがワンピースを捲くり上げてしまったのだろうか?)

「気にしないよ。ごめんね、沈めちゃって。このまま意識が戻らなかったらどうしようかと思っていたの。気が付いて、ああっ、本当に良かった!」

 乾いた砂で太腿の涎を拭き取りながら、彼女が申し訳なさそうに言った。

(それって……、後先を……、僕が戻って来られないかもなんて、全く考え無しに海の底へ沈めたってことぉ~? ええーっ、なんて恐ろしい彼女だ……。これから先、カレカノの仲になっても、どんな切っ掛けや拍子に、包丁で刺されたりするかも知れないなぁ~)

「もう大丈夫だ。あれくらいじゃ、僕はどうもならないさ」

 僕は余裕を嘯く。盆過ぎに合わせて彼岸に行きそうになるくらいにパニックっていたのに……。僕は沈められたことに拘り、彼女を責めるようなチンケな奴じゃない。それに、もう過ぎたことだ。

 胃液までゲロってグチャグチャになったまま目眩がして、ゲロ穴に突っ伏したスッゲー汚い顔を見られてしまった。

(ゲロゲロで渚でのたうち回る見っとも無い姿や、気絶した姿も見られてしまったな。……参った、いろいろと格好悪いぞ)

 今は新たな要素の格好悪さと、頬に残る張りの有った硬い弾力の感触が加わってクラクラしている。

(だって、彼女の太腿だぞう。ああ、そんなぁ、しまったぁ)

 膝枕の知覚された記憶の無いのが凄く後悔で恨めしい。どうゆう心境でしてくれたのか分からないけれど、初めてされた彼女の膝枕! お袋や妹がしてくれる耳掃除の時の膝枕じゃない憧れていた彼女の膝枕! 彼女の信じられないサプライズに僕は、涎を拭った砂が付いた彼女の太腿を見詰めながら、陽射しと大気と火照る身体の熱で、もう僕の意識と気力はドロドロに融けてしまいそうだ。

(もう一度、頭を乗せても……、そこへ倒れ込んでも…… いいですか?)

「ねぇ…… 座ってよ。何か話ししよ!」

 僕の海パンの裾を引っぱりながら俯き加減で言う。

 あの彼女が僕の話しを、僕の声をせがむ。逃げた僕を追い掛けて海底に押し沈め、アイスキャンディを銜えさせて膝枕で寝かしていた。そして今、とても親しげに横に座れと言う。今日は驚きっぱなしだ。これも全て彼女の計画的なサプライズなのだろうか?

 今日の彼女は、僕が今まで知り得た彼女と違い過ぎる……?

(明らかに違う……? でも、どうして?)

 彼女は不思議なほどストレートに素直でウエットだ。

(なにが彼女を、こんなに違わせているのだろう?)

 この御里の景色や空気などの環境が、彼女を優しく開放的にさせているのだろうか?

(そう言えば、小学校高学年以前の彼女を、僕は見た覚えは無いし、知らない)

 彼女はここで生まれ育ったのだろう。彼女の原風景はここに在って、ここは彼女にとって故郷なのだ。故郷とはこんなにも彼女を和ませて心を解き放す場所なのだろうか? 僕もいつかは金沢を離れ住んで生活を営み、そしていつの日か金沢に戻れば、彼女のように癒されるのだろうか?

(話しか…… 何を話そう……)

 僕は大胆に彼女の真横に、肩が触れんばかりの近さに並んで座ってみた。

「さっき、不思議な体験をしたよ。でも、錯覚かもしれない」

 彼女が期待する話しとは違うだろうけれど、掴みはリアルな超常現象にする。

 触れそうな距離で座った僕を避ける素振りも見せずに、黙って彼女は僕の話を聞いてくれているみたいだ。

「森の中が真っ暗で、道の先が見えないんだ。明千寺へ向かっているはずなのに、何も見えなくて、どこを走っているのか分からないんだ」

 僕は明千寺へ着く直前で体験した奇妙な感覚を話した。

「……森ねぇ、そんな深い森なんて在ったかな? この辺の山の木々は、杉じゃなくて翌檜が多いけど、能登じゃアテの木って言うんだよ。一般的には翌檜よりもヒバって呼ばれているみたい」

 彼女は別段、関心も示さずに森の木の呼び名を言った。たぶん暑さによる僕の錯覚と思っているのだろう。

「超常現象が起こる場所かも知れない。いや、きっと何かいる。そんな気がしたよ」

 でも、あれは僕の気持ちの焦りと不安と思い込みが、作り出した白昼夢だったのかも知れない。意識していなかったけれど、疲れて空腹だった。それに心は舞い上がっていた。

「ふう~ん、超常現象が起きそうな場所かぁ……。そうね。あそこには何か棲んでいるのよ」

 身を寄せて肩を僕に凭れさせた彼女が、日常的に良く知っている当たり前の『何か』のようにさらりと言う。『何か』に別段、驚きもしていない。

 彼女に触れられて僕の全身がビクッと萎縮する後退りの痙攣をした。

 以前、高校への進学相談した時にお袋は言っていた。分岐する世界へ繋がる多次元宇宙の平行世界。全ての平行世界に必ずしも僕が居るわけじゃない。きっと、僕の存在する平行世界はとても少なくて、フルカラーにステレオ音響で感触が残るリアル過ぎる目覚めの夢は、たぶん、平行世界の僕の現実とリンクしていると。そんな荒唐無稽で根拠の無い仮説でも今なら信じられそうだ。

 来る途中のどこを走っているのか分からない真っ暗な場所が、向こう側へ行けるゲートが在るボトルネックなポイントなのかも知れない。ラストのカーブを曲がらずに直進して暗闇へ突入していたらどうなっていただろうか? もし入っていたならば、あの深い暗闇の中から僕一人では同じ元の世界へ戻って来れないかも知れない。それに、携帯電話のGPS画面を覗き見した重い影の気配は、ゲートのガーディアンで異次元に入り掛けた僕を拒んで元の世界へ戻したのだろうか? それとも闇から異世界へ連れ去るだけの物の怪だったのだろうか? そして、今の現実は狭くて暗い林道へ入る前の世界と同軸に繋がっているのだろうか?

 不可解さだらけの疑問符は僕を不安と怖れに戦慄させるだけで、超常現象の情報を何も得ないばかりか、何の対策や解決にも至らない。

(彼女も、ゲートに触れたり……、何かを体験しているのだろうか?)

「神隠しの噂も有るしね。滅多に体験する人はいないのに。特別なのね、あなたは。選ばれたのかもね」

 『特別』『選ばれた』の個別限定たっぷりな優越感に浸れる言葉は、その前の『滅多に』で中和され、更に『神隠し』で、この世界から失踪する対象が僕になり、そして、絶望要素たっぷりの恐怖の代名詞にしている。

(ななっ、何を言っているんだ? なっ、何が何の為に僕を選んだと言うんだ。スッゲー寒い事を言ってくれる!)

 ブルッ、最後の直角のカーブが再び蘇る。あそこで転倒でもしていたら本当にどうなっていたのだろう。また背筋に戦慄が走り、全身に寒気がして、体中に寒疣が一気に立つ。

 彼女は何か思い詰めた顔をしている。

「もう止め! 話したのが失敗だった。今の話は忘れよう」

 自分から話題にしたのに、からかわれて引っ込めるなんて、男らしくないと思うだろう。いや、彼女はからかってはいない。真面目に聞いてくれていた。たぶん、彼女も何かを体験しているのかも知れない。黙って海を見ている彼女の憂い顔が僕にそう思わせた。

 視線だけを辺りに移し異変がないかとようすを探る。緑の田畑や木々や道路は陽炎に揺れる中にも、浜辺の白砂や渚の白波や漣が立ち出した波間にも、湧き上る白くて大きな入道雲と青空にも、怪しげな影は見えない。

 探り見た彼女の憂いた横顔に、僕の全身に再び戦慄の冷たい電流が走り、寒気に震える体を冷え切らせてしまう。だれど僕は……、異世界の物の怪に選ばれたなんて考えたくはなかった!

(いや……、やっぱりあれは、炎天下の酷暑にフルフェイスヘルメットの中で、蒸し過ぎの泡立ちに鬆の空洞だらけになった茶碗蒸のような、ボソボソに思考の抜けた脳味噌が、造り出した幻聴と幻覚だったんだ)

 きっと、そうだと僕は思いたい。見られているのに気付いた彼女は僕を見返して、座り位置を変えるように僕へ擦り寄った。その拍子に彼女が被っている帽子の鍔が、僕の顔にコツンと当たる。

「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」

 彼女はそう言って、白い大きな鍔の広い帽子を僕の頭に被せてから、僕の肩に凭れ掛かってくる。彼女の陽に焼けた熱くて乾いた肌が、ぴったりと戦慄で汗ばみ冷えた僕の肩や背に触れて、まるでヒーリングされているような温かさに気持ちがいい。パッションはキスの方が有るけれど、幸せ感は圧倒的に今までで最高だ! でも、この嬉しさを否定しそうな事ばかり僕は思い出してしまう。

 そんな思いの僕と体が触れていることを気に留めるようすも無く、彼女は眩しそうに目を細めて遠くの海を見ていた。

 

 ---つづく