遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

明千寺(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 伍

「もう、お昼よ。いつまで寝ているの! 早く起(お)きなさい」
 お袋(ふくろ)がお昼を食べさせようと、二階の自室で惰眠(だみん)を貪(むさぼ)る僕を起こす。
 八月の盆過ぎ、インターハイで負けてからは、何事にも遣(や)る気がでない。
 登校日でもない限り朝は起きれないし動かない。
 毎日、大抵(たいてい)は昼近くまで寝ていて、早くに目が覚(さ)めても、昼頃までは部屋でウダウダしている。
 午後からは、弓道部の友人に市民プールへ無理矢理(むりやり)つれて行かれた。
 其処(そこ)で、泳ぎの特訓を一週間以上も続けている。
「おまえ、この先、ずっと、泳げなくてもいいのか。大切な人を、守れなくてもいいのか」
(それは、嫌(いや)だ!)
 水に入るのは、凄(すご)く怖(こわ)い。
 嫌で嫌でしょうがなかったけれど、この言葉を親しい仲間から言われると、言い訳や逆(さか)らうのを諦(あきら)めて、覚悟(かくご)を決めた。
 家族や親しい人が溺(おぼ)れて沈んで行くのを、岸で成す術(すべ)も無く、叫(さけ)びながら呆然(ぼうぜん)と見ているだけの自分を考えたくない。
 目の前で恋する女性(ひと)が水難に遭(あ)うなら、僕は、直(す)ぐに飛び込んで救いに行く。
 最期まで諦めずに、彼女だけは助けたい。
 最悪でも、彼女を一人でけでは逝(い)かせたくない。
 毎日、溺れそうになる恐怖でパニくり、気持ちが退(ひ)けて、逃げ帰ろうとする僕に、友人は、その言葉を繰(く)り返し言って教えてくれた。そして僕は、言われる度(たび)に、何度も覚悟を上書(うわが)きしている。
 これまで、潜(もぐ)ることも、水面に顔を着けることもできなかった。
 特に、耳が水に浸(つ)かるときの、『ゾクッ』として、『ゾゾゾゾゾー』と来るのが、水の底に引きずり込まれるようで、気持ちが悪くて堪(たま)らなかった。
 コポコポと、耳の孔の中の空気が、内側を擽(くすぐ)りながら抜けて行き、代わりに、ズッ、ズッと水が入って来るのが、鼓膜を濡(ぬ)れた障子紙(しょうじかみ)のように破(やぶ)られて、浸透(しんとう)する水に頭の中を変にされそうで、僕には、拷問(ごうもん)に懸(か)けられている恐怖(きょうふ)だった。
 逃げようとする僕を、彼は、力ずくで水に引き込む。
 半泣きになりながら毎日、五、六時間は練習させられた。
 毎回、ツーンと鼻を刺激(しげき)する次亜塩素酸(じあえんそさん)ナトリウムがいっぱいの水を、ガバガバ飲んだ。
 鼻水を垂(た)れ流し、鼻の奥と咽喉(のど)はヒリヒリして、非常に気分が悪い。でも、御陰(おかげ)で水に潜れて、浮けるようになった。
 平泳ぎで二十五メートルも泳げるようになったし、犬掻(いぬか)きも覚(おぼ)えたし、横泳ぎと立ち泳ぎも、少しはできるようになった。それに、ほんの触(さわ)り程度だけど、背泳ぎまで出来て、今まで知らなかった、新しい世界を手に入れたみたいで嬉(うれ)しかった。
 初めて、自転車や原(げん)チャリに乗れた時のような、爽(さわ)やかな感動と達成感を感じて、凄く嬉しい。
 今まで、避(さ)けて知ろうとしなかった泳ぎを、指導してくれた友達に僕は心から感謝した。
 同時に泳ぎを拒(こば)んでいた、小学校や中学校や高校の夏を後悔した。
 言い訳や理由を作って避けたり、先延(さきの)ばしをしてきただけで、自(みずか)ら、自身を変えていく勇気が無かった自分に、嫌気が差している。
 プールに行くのが、嫌じゃなくなったけど、まだ、楽しくはない。
 消毒薬臭(くさ)い塩素臭(しゅう)は慣(な)れないし、嫌(きら)いだ。それに、背が立たない深い場所での練習も、これからは行うと言われている。
 足先が届(とど)かない深さは、非常に怖い。
 ほんの少しだけ、爪先(つまさき)が底に触(ふ)れなくなっただけの深さの違いで、ずっと、底が無いような錯覚(さっかく)に囚(とら)われて、僕はパニくりそうになった。
 まだまだ、克服(こくふく)しなければならない、水の怖さがたくさん有る。
 お袋の、一階のキッチン辺りからだと思う声は続いた。
「暑中見舞いのハガキがぁー、来ているわよー。女の子からぁー。リビングのテーブルの上に置いてあるからねぇー」
 その言葉に、跳ね起きた僕は、急いで階段を駆け下りて、リビングへ向かう。
 暑中見舞いのハガキは、テーブルの上に宛名(あてな)が見えるように置かれていた。
 家の住所と僕の名前が、角(かど)がへたったような丸っこい大きな字で書かれていた。
 何処(どこ)かで見たような、無いような、不思議(ふしぎ)な形の文字だ。
 僕は、差出人の女子の名を見ようと、ハガキに触れた瞬間(しゅんかん)、誰(だれ)から届いた暑中見舞いなのか分かった。
(彼女からだ!)
 何故(なぜ)だか、分からないけれど、そう感じた。
 急(いそ)いでハガキを裏返(うらがえ)して、差出人を確認すると、そこには、表の字体の縮小版で彼女の名前と住所、そして、携帯電話のデジタル文字には、決して打たれていなかったアナログのウエットな言い回しで、近況を知らせる文面が書かれていた。
『暑い日が続いていますね。元気していますか? ここは朝夕、涼(すず)しくて過ごし易(やす)いよ』
 優(やさ)しい言い回しが繋(つな)がっていて、彼女らしくないと思う……。それに、手書きのイラストまで描(えが)かれている。
 初めて見た彼女の描いたイラストは、淡(あわ)い青と光る緑の風に、髪を靡(なび)かせる少女の微笑(ほほえ)む顔だ。
 たぶん、彼女自身を描いたのだろう。
 隅(すみ)に名前と共に、小さく書かれていた差し出し住所は、『鳳珠郡(ほうすぐん)穴水町(あなみずまち)明千寺(みょうせんじ)』。
(鳳珠郡の穴水町って、……能登(のと)? 彼女は今、能登半島にいる?)
 直ぐに、インターネットで地図を調べた。
 気持ちが急上昇に舞(ま)い上がって、タッチキーをを操作する手が震(ふる)えている。
(逢(あ)いに行こう。今すぐ、彼女に…… 会いに行くぞ! これは、彼女からのメッセージなんだ!)
 彼女の切実(せつじつ)な意思を感じる。
 優しい言葉の繋がりや空色と黄緑の風は、きっと、詰(つ)まらなさと寂(さび)しさを表しているのだろう。それに、一人だけの少女の微笑みは、『此処(ここ)へ、来てくれるでしょう』と、訴(うった)えているのだ!
 探し迷って、偶然(ぐうぜん)に巡(めぐ)り逢うのではなくて、ちゃんと、会える場所が、彼女の文字で記されている!
 彼女からは、年賀状も、暑中見舞いも、クリスマスカードも、バースディーカードも、今までに送られて来た事は無かった。
 彼女からの誘(さそ)いを感じるのは、……初めての事だ……。
(勘違(かんちが)いなのか? いやいや、勘違いじゃないぞ。これって、もしかして……? 今度こそ本当に……? 間違(まちが)いなく……? 急速大接近に、密着(みっちゃく)ハグも有り?)
 僕はそう勝手に解釈(かいしゃく)して、友人へ電話した。
「すまん! 今日は、プールへ行かん。行く事ができなくなった。これから、能登に行って来る!」
 加速して来る焦(あせ)りに、どぎまぎして、息が荒くなって来た。
 もう、信じられない出来事に、気持が急(せ)いてしまっている。
 お袋に出かける旨(むね)を伝えて、朝昼兼用の食事も摂(と)らずに、ホワイトダックスのシートへ跨(またが)ると同時にキックペダルを踏(ふ)み込む。
 同時に軽くアクセルを開(あ)けながら、エンジンを吹(ふ)かし上げた。
 友人と電話で話す声も、お袋に断(ことわ)る声も、自分の声じゃなかった。
 異様(いよう)に高く上擦(うわず)って、微妙(びみょう)にビブラートが掛かっていた。
(ウエットな暑中見舞いには、ウエットな行動で、手渡し宅配の返信だ!)
 親父が、レストアしたこの古い原チャリのエンジンは、盛(も)り沢山(たくさん)の改造パーツを組み込まれていて、アイドリングが安定すると、猫が咽喉を鳴(な)らすようにコロコロとした音を立てるから、僕にとってダックスは犬じゃなくて、白い子猫だ。
 そのアイドリング音は、いつも、ホワイトダックスが喜(よろこ)んでいるみたいな気にさせて、乗り回した後は、同じ事を言う親父といっしょに良く手入れをしている。
 親父が、いろいろとチューンしている所為(せい)だろうけど、時々、喫茶店で連(つる)む仲間達の原チャリのエンジン音とは、明(あき)らかに違う。
 吹かすと、浮き上がるような鋭(するど)い音で鳴きながら、殆(ほとん)ど、振動がしない滑(なめ)らかさで回ってくれて、仲間達は、今時(いまどき)の原チャリよりパワーが小さいのに、加速や走りの伸びの良さを不思議がっていた。
『オリジナルのシートは、緑と青の花柄だったけど、紫外線による劣化(れっか)の破損が酷(ひど)くて、交換したよ』と、親父は、青と緑に薄(うす)いピンクが少し入るタータンチェック柄のシートを、ポンポンと敲(たた)きながら言っていた。
 それは、耐UV性フェイクレザーに親父が、福井市(ふくいし)だか、鯖江市(さばえし)だかの知人の会社に頼(たの)んで、3Dプリント加工をしたらしい。
 耐油性に耐薬品性、それに、超撥水の防水だと自慢していた。
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 七月の最後の土曜の夜と、八月初めの土曜の夜は、花火大会だった。
 別々のスポンサーが主催して、大豆田(おおまめだ)の橋向うの河川敷で二回、二週連続の打ち上げ花火大会が催される。
 毎年、花火大会の日には、夕方早くに親父が帰ってきて、家族で揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着て、団扇(うちわ)を帯(おび)に挿(さ)し、近くまでバスに乗って見に行く。
 バス停から河沿いの土手道を出来るだけ、打ち上げ場の近くまで歩いて行き、そこで筵(むしろ)を敷(し)いて、みんなで座る。
 夏の陽(ひ)で焼けたアスファルトが、まだ熱いけれど、筵の上はそれほど、熱気を感じない。
 毎回、僕は、担(かつ)いで来たクーラーボックスから、冷(ひ)えた飲み物を出して配(くば)った。
 親父とお袋には、それぞれの拘りの有るロング缶のビール、妹には、水筒に入れてきた凍る寸前の冷たさの麦茶、そして僕は、いっしょに入れてきた凍らせたグラスにカチ割り氷を満(み)たして、冷えたサイダーを注(そそ)ぐ。
 超キンキンの極冷(きょくび)えのサイダーが、超美味(うま)いんだ。
 親父が言う。
「花火は、大好きな家族といっしょに見るに限る。愛する妻と息子と娘の浴衣姿、団扇と豚(ぶた)の蚊取り線香とケツの下の筵、それに、キンキンに冷えたビール。やっぱ、こうじゃないとね。最高だね」
 妙(みょう)な拘(こだわ)りを何かにつけ親父は持っている。でも、こうゆうのは嫌じゃない。
 僕は、此処(ここ)に彼女も、いれば良いと思っている。
 彼女といっしょに仰向(あおむ)けに寝転ろんで、僕らの為(ため)に炸裂(さくれつ)するような花火を見たい。
 雑学の化学知識で仕入れた炎色(えんしょく)反応の金色がチタンで、青色は銅、赤い色はストロンチウム、それから緑はバリウムで、黄色はカルシウムだとか、それに、物理知識も加えて、光の三原色の緑、赤、青を重(かさ)ねると白になるから、大輪(たいりん)のスターマインが、数え切れないくらいに連発しても、花火の色が濁(にご)って、がっかりな様(さま)になったりはしないとか、濁って汚(きたな)くなるのは絵の具で、色の三原色の黄、赤紫、青緑を混(ま)ぜると黒になってしまう、などと、そんなロマンの無いウンチク話はしたくない。
 ただ、黙(だま)っているだけでいいから……、いや、熱や匂(にお)いも、分かる近さの傍(そば)に彼女を感じたい。
(今宵(こよい)、何処(どこ)かで彼女は、……花火を見ているのだろうか?)
 視界いっぱいに直上に広がる光の重なり、耳を聾(ろう)するばかりに轟(とどろ)く炸裂音、降(ふ)り注ぐように枝垂(しだ)れ落ちる光の粒(つぶ)、その、圧倒的な光の煌(きら)めく美しさに、眼を見開き、口を開け、耳を塞(ふさ)いで驚(おどろ)きながら二人で感じたい。
 夜空の星が、このくらい鮮(あざ)やかに輝いて見えれば、僕らの世界は凄く浪漫(ろまん)に満ちて、より美しいのに。
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 彼女との淡い夢を思い描きながら、山側環状線から津幡町(つばたまち)、宇(う)ノ(の)気町(けまち)、羽咋市(はくいし)、七尾市(ななおし)と、一気(いっき)に抜けて七尾湾に出た。更(さら)に、和倉(わくら)温泉を経(へ)て内浦(うちうら)沿(ぞ)いの国道をアクセル全開で走り続けた。
 炎天下の夏の昼下がり、能登島の向こう陽炎(かげろう)が立つ富山湾(とやまわん)に、高く大きな入道雲が立ち上がって、重く淀(よど)んだ大気は、時折(ときお)り、熱気の壁を僕にぶつけて来る。
 真夏の緑多い田舎の幹線道路は、フルフェイスのヘルメットの厚みを貫(つらぬ)いて蝉(せみ)の大合唱が、布を切り裂(さ)くような甲高(かんだか)いエンジン音と共鳴して、ヘルメット内の熱で半(なか)ば朦朧(もうろう)とした汗だくの頭へガンガンと響(ひび)いた。
 原チャリ……、原動機付き自転車の運転免許は、一昨年(おととし)の誕生日を過ぎた最初の日曜日に取得した。
 部活の先輩から教則本を譲(ゆず)り受けて、三、四日、授業中に目を通して付属の問題集を解(と)いていただけで、あっさりと試験にパスしてしまった。
 生徒手帳に記載されている校則には、運転免許の取得を禁止しているから学校へは当然、知らせてはいないし、親にも、親父がホワイトダックスをレストアした今年の春先まで隠(かく)していた。
 原チャリは、能登縦貫自動車道を走れないから下道(したみち)の内浦沿いの国道を走り抜けるしかない。
 勢(いきお)いで辿(たど)り着いた穴水町で、既にタンクの非常用分まで使う小さな燃料タンクのホワイトダックスへ給油する。
(明千寺まで、あと、少しだ)
 ガソリンスタンドに併設(へいせつ)されたコンビニで買ったサイダーを一気飲みし、冷えたボトル水を頭から被(かぶ)り、正常になった頭の僕は、携帯電話のGPSで現在位置と残りの道程(みちのり)を確認した。
 やはり、海沿いを走るより、トヤン高原を抜けた方が近い。
 午後四時前には、明千寺に着けるだろう。
 国道が山間(やまあい)へ入りかけたところの交差点を右へ折(お)れて、トヤン高原を横断する森の中の道を全速で明千寺へ向かう。
 殆ど、対向車が来ない整備されたトヤン高原の森を通るワインディングロードをフルアクセルで、かっ飛ばして行く。
 カーブでアスファルトの路面に擦(こす)れるステップの先が激(はげ)しく火花を散(ち)らして、足許を明るくしてくれる。
(どうして、トヤン高原と言うのだろう? しかも、カタカナ表記だ! 能登半島の内浦は、遺跡の多い土地で、北陸は、神代(かみよ)以前の古代から大陸と盛(さか)んに交易(こうえき)をしていたと言うし、この辺(あた)りも栄(さか)えていたとしても、不思議じゃないよな。富山も、古くはトヤンと呼(よ)ばれていたのかも……。朝鮮(ちょうせん)半島の人名にも、同じ発音が有るし……。古の昔は、富山湾一円(いちえん)を、トヤンと言う一族が支配していたのかも知れない。そして、彼女は、古代人の直系の子孫かも……?)
 低い緩(ゆる)やかな丘陵が連(つら)なり、山奥の大きなスキー場のように広がる、山頂の高原のイメージじゃない。
 途中、ワイナリーの看板を通り過ぎる。
(へぇー、こんな所に、ワイン工場が在るんだ)
 こんな場所にと、辺りを見れば、確かに翌檜の森ばかりではなく、道沿いに栗(くり)と胡桃(くるみ)の木が目立って多くて、姫林檎(ひめりんご)や棒仕立ての葡萄(ぶどう)などの果樹園に適した土地みたいだ。
 高原らしく海面より数十メートルだけ高くて、緩くうねる丘陵地全体を牧場にしたら、どんな感じになるのだろうと考えた。
 トヤン高原の森の木を伐採(ばっさい)すると、新(あら)たに鳳珠郡(ほうすぐん)能登町(のとちょう)の真脇(まわき)遺跡のような古代集落跡が発見されるかも知れない……。
 そんな、とめどもない事を想像していると、突然、妙に気が急いて心が騒(さわ)いだ。
 蝉の鳴き声が、ワンワンと喧(やかま)しく響いている中、誰かに呼ばれている気がした。
 上り坂の向こうから、カーブの先から、道の彼方(かなた)から、誰かが……、何かが……、僕を呼んでいる……。
 『アクセルを緩めたら、彼女が、見付からないぞ』と、ヘルメットの中で誰かが囁(ささや)いている。
 整備された明るい道が、突然途切(とぎ)れて鬱蒼(うっそう)と生(お)い茂(しげ)る森に続く、暗(くら)く狭(せま)い林道に変っていた。
 後ろを振り返ると、遥(はる)か向こうに整備された道らしいのが、光点になって見えた。
(いつの間に、林道に入ってたんだ? 迷ったのか?)
 忠告のような囁きに反してアクセルを緩めてしまうけれど、非現実的な異様な状況の不安さに、一旦(いったん)停車して携帯電話のGPSで現在位置を調べる。
 現実に存在する場所らしく、電波は受信できて、此処までは標識通りに来ていた。
 ショルダーバックから暑中見舞いのハガキを取り出して、彼女の居る住所を確認する。
 間違えてはいない。
 この道の向こうで、残りは、五百メートルも無いだろう。
 ふと、誰かに、ハガキを覘(のぞ)き読まれた気がした。
 気がした方へ、眼だけをゆっくりと向けると、隣に何かがいそう。
 視界の隅に、重量感の有る影が見え、背中に戦慄(せんりつ)が走った衝動(しょうどう)で、いきなり、顔を向けて見るけれど、……何もいない!
 影が、消えた!
 パパッと、後ろを見て、上下左右も見て、ぐるりと、 周(まわ)りを見回す。
 別に何も、不思議で、怪(あや)しい物はいない!
 それよりも、怪しいのは前だ。
 顔を上げ、森の奥へ消える道を見た。
 まるで、照明の無いトンネルか、洞窟のようだ。
 ……奥が真っ暗で、何も見えていない!
(こんなに陽射(ひざ)しが強いのに、木漏(こも)れ陽(び)の一つも無いなんて……。こっ、これは、けっこう怖いぞ!)
 異世界へ繋がるような迷路に入り込み、生還不能に陥(おちい)るかも知れない果(は)ての無い闇に、僕は怯(ひる)んでしまいそうだ。
(逃げるな。ビビってんじゃあないぞ! 戦え! 彼女に、逢いに来たんだろう!)
 闇の先を睨(にら)んで、メゲそうな自分を奮(ふる)い立たせる。
 ヘッドライトを点(つ)けると、アクセルを全開にして先を急いだ。
(くそ! 負けるか! 此処を抜ければ、彼女に逢えるんだ)
 高く生い茂る翌檜が、陽を遮(さえぎ)って薄暗(うすぐら)い。
 湿気を増(ま)したカビ臭い空気は蒸(む)して身体中に纏(まつ)わり付き、腹立たしいくらいに不快だ。
 路面は所々、濡(ぬ)れて苔(こけ)でも生(は)えているのか、時々、ハンドルが取られて、駆動(くどう)する後輪が滑(すべ)って空回(からまわ)りする。
 バックミラーに映(うつ)る入口の光は、急速に小さくなって消え入りそうだ。
 闇で出口が見えない前方とヘッドライトに揺(ゆ)らぐ左右の影から、何か得体(えたい)の知れない物体が飛び出して来そう。
 まるで、現実に重なる違う場所を走っているような感じがして、不安で心細い。
 十秒も経(た)たない内に、蒸して粘っていた大気が、今度は重く冷たくなって纏わり付いて来た。
 切り裂く冷気が、剥(む)き出しの腕を刺激して泡立(あわだ)つように鳥肌を立たせた。
 更に先を急げと、囁きは頭の後ろからや脳天からも、右に、左に、耳の直ぐ傍からのように聞こえ続けている。
(……この感じは、似(に)ている……)
 忘(わす)れもしない弓道試合の必勝祈願をした黒壁山(くろかべやま)の魔所の暗闇と同じ、いつ異形(いぎょう)が現(あらわ)れても不思議じゃなかった光と闇の混ざり合う時刻と、艶(つや)の失(う)せた暗がりが迫るように思い出されて、生(なま)ゴムのような臭(にお)いがした……。
 まだ、夕暮れには早い時刻のはずなのに、辺りは何時の間にか湿(しめ)りを帯びた夜のように暗い。
 益々(ますます)、狭(せば)まって来る気がする長く暗い坂を全速で上り、追い立てられて逃げるように、暗くて先の見えない下り坂に突っ込んで行く。
 脇の茂みの向こう、暗く立ち並ぶ幹の間から、ずっと、何かに見られて、何かが近くでいっしょに走っているような、不思議な気配がしている。
 横を見回して、上を見た。
 空は明るい青空なのに、木々の影が重なって、梢の
 バックミラーには、森の暗い影が映っているだけだ。でも、何かを感じる。
(この場所にも、……何かが居る)
 そう思うと、不気味さと不可解さに襲(おそ)われ、ヘッドライトの光りで、揺らいで形を変える脇の木立ちの影へ視線を走らせる度に、怖(おそ)れ慄(おのの)く悪寒(おかん)が背中を走り回って、既に寒疣(さむいぼ)だらけの全身をゾクゾクさせ続けた。
 森に入ってから、三分以上は経っている。
 距離にして二キロメートルは走っているだろう。それとも、もっと来ているのだろうか?
 確か、GPSでは五百メートル足らずだったのに、それらしい場所には一向に到着しない。
 辺りは、更に暗くなり、殆ど闇に近くなっている。
 道は……、いつしか溝のような狭い切り通しになってターンする余地も無い。
 何かに誘導されて走っているのか?
(いったい、何処を走っているんだ? 道を間違えたか?)
 急に不安と焦りに襲われて、叫びそうになったその時、ヘッドライトに照らし出されていた濡れた路面が、行き成り乾(かわ)いた路面と草木の路肩に変わり、道は直角に曲がった。
 必死のギアダウンと横滑りで、辛(かろ)うじて転倒せずに曲がれたと安堵(あんど)する間も無く、そして、唐突(とうとつ)に明るい陽差しの広がる世界の中へ、弾(はじ)き出されるように戻(もど)された。
 急ブレーキを掛けて停まり、僕は振り返って見る。
 戻り出た場所は、入道雲の湧(わ)き立つ青空からの眩(まぶ)しい陽の光りを翳(かげ)らせる遮りが、全く何も無いというのに……、ほんの五メートルほど離れて、今、出て来たばかりの道が真っ暗なトンネルのように、其処に在った。
 其処は……、漆黒の内部へ次々と木漏れ日が差し込み、見る見る、光り差す森の道になって行く。
 出て来て目の前に現れた明るい道路は、緩やかな上りで、ゆったりと右曲がりに延(の)びていて、その道幅は暗闇の森へ入る前と同じ広さで、白線が引かれる整備されたワインディングロードの延長線上だと知らせていた。
 信じられない事に、今し方、光が差し込んで行った森の道の、転けそうになった直角に曲がる狭い急カーブも、トンネルような暗くて狭い道も、夢から覚めた後のように跡形(あとかた)も無く消え失せて、辺りの何処にも見付けられ無くなってしまった。
(ハッ!)
 頭上に影のようなものを感じて見上げると、木立の頂(いただ)きの上に薄紫色の雲のような霞(かすみ)が漂っていて、それは、昇天(しょうてん)するかのように立つ一筋になって行ったが、吹き寄せた風に散らされるように薄れて消えてしまった。
(どうなっているんだ? ……ぼっ、僕は、何処を走って来たんだ? たっ、確かめに戻るか……。でも、厭(いや)だ! 行きたくない! 怖い……。きっと次は、出て来られないぞ!)
 白昼夢(はくちゅうむ)でも、見ていたのだろうか?
 激しく瞬(まばた)きをする目で、陽炎の立つアスファルトの道を見つめた。
 僕は真夏の炎天下だというのに、寒気がして背筋が震えた。
 鳥肌が立ち、魔法の呪(のろ)いの呪文(じゅもん)で固められたみたいに動けなかった。
 どれだけ見ていたのだろう。
 寒疣が消え、全身から汗を噴(ふ)き出していた。
 いつの間にか、暑さが戻って来ている。
 クラクションを鳴らしながら直ぐ脇を自動車が通り過ぎ、右曲がりで登る坂の向こうへ見えなくなった。
 気を取り直し、振り向いたままの顔を無理やり前に向かせて、前方に見える家並みを見た。
(やっと、着いたあ。ここが、明千寺の町だ!)
 逸(はや)る気持ちを抑(おさ)え、アクセルを小さく開けて近付いて行く。
 町外(まちはず)れのこんもりした小さな森は、地図に有った能登の古刹(こさつ)、明泉寺(みょうせんじ)だ。
 暑中見舞いの差出人住所は、その寺の近くだった。
 ゆっくりと、明泉寺の前を過ぎて家並に入って行く。今し方の戦慄と緊張は、これから起きる出逢いへの興奮と高まる動悸に変わり、それに加わる暑さで噴き出て来た汗が、冷や汗の寒疣を消して行く。
 コンビニも無さそうな小さな町、……集落だ。
 明泉寺を過ぎて、短い上り坂になる。
 その坂の途中の左側には雑貨屋が在った。
 店の前は駐車スペースで、右手にガレージが有った。
 お客さんが来ているのだろう、ガレージ脇にスクーターが停めてある。
 正面脇にドリンクの自動販売機が置かれていたが、店の中が気になった。
(折角(せっかく)だから、涼しい店の中で選ぼう)
 ホワイトダックスを入り口近くに停め、開(あ)けっ放(ぱな)しの玄関を抜けて中に入る。
(開けっ放しなんて、なんて無用心なんだろう。冷房がされてないのか? 田舎は、これが普通なわけ?)
 コンビニに慣れた僕には、異質な感じがした。
 軒先(のきさき)の影に入った瞬間に、風が僕の周りを巻(ま)いて、戸口から家の奥に見える、開かれた縁側(えんがわ)の向こうの木陰(こかげ)へと吹き抜けた。
 風は次から次と、絶(た)え間(ま)なく僕を包(つつ)む。
 風鈴の音が涼やかに響き、構(かま)えて尖(とが)った心が安らいで優しく広がって行く。
(いい気持ちだ。ああっ、癒(いや)される)
 店の中は、冷房されていない。なのに、涼しく感じた。
 初めて来たのに、家に帰ったように安心する。
(此処は、不思議な空間だ)
 風鈴の透(す)き通るような涼しげな音が小さくなって行き、僕は異空間を感じた。
「ごめんください」
 店の中を見回すけれど、誰もいなくて返事がない。
「こんにちはぁー」
 僕は大きな声で呼んだ。
「はーい」
 奥の座敷の、その奥から年輩の女性の声で返事がした。
 間も無く畳(たたみ)を踏む音が近付いて来て、婆(ばあ)さんが現れた。
「はいはい、いらっしゃい」
 僕は、冷蔵ケースから良く冷えたショート缶のコーヒーを選んでみる。
(ラムネやコーヒー牛乳も、捨(す)てがたかったな)
 いずれも、僕の家の近所とは違う銘柄が置かれていて、帰りに寄って飲んでいこうと思う。
 財布に小銭が無くて、御札で店の婆さんに代金を支払う。
 レジスターへ行って、釣り銭を持って戻って来る婆さんの向こう、座敷の縁(ふち)に白い人影が見えた。
 缶コーヒーをポケットに捩(ね)じ込んで、更に玄関先で涼しい風に吹かれて食べようと、アイスクリームの冷凍ケースからアイスキャンディを右手で掴(つか)んで、婆さんに見せながら、その代金も差っ引いた釣り銭を受け取ろうと、掌(てのひら)を広げた左手を差し出す。
「この、アイスキャンディも……」
 何気(なにげ)に視界へ入った白い影を、習慣的な目の動きで見た僕の、婆さんに言い掛けた言葉が止まった。
 白い人影は、彼女に良く似た女の子に見えた……。
(…いや、かっ、彼女ぉ~?)
 パチパチと反射的に瞬きが繰り返されて、クリアになった視覚が鮮明に彼女の顔を認識する。
(しっ、信じられない……。ここが、そうなのか……?)
 それは、ノースリーブの白いワンピースを着た彼女だった。
 掴(つか)んでいた指の力が緩んで、アイスキャンディは冷凍ケースの中へ落ちて行く。
(お釣りを受け取ってから、婆さんに、ハガキの住所を尋(たず)ねようと思っていたのに……、此処だったのか!)
 刹那(せつな)、僕はついさっき、ヘルメットの中に低く響いた囁きを思い出す。
(一発で、逢えるなんて。心の準備が出来てねーぞ)
 行(ゆ)き成(な)り現れた彼女は、僕を見ていた。
(僕が来たのに気付いて、見に出て来たんだ……)
 カーッと血圧が上昇して、過呼吸になった。
 瞬時に状況を把握(はあく)して理解した僕は動揺(どうよう)し、過剰供給された血液と酸素で太くなった血管が脳を圧迫(あっぱく)する。
(だっ、ダメだ。クラクラして来た)
 普通にしていられない。
 さっと、彼女から視線を外して、僕は逃げた。
(にっ、逃げるしかない。とっ、取り敢えず出直(でなお)そう……。だけど、出直せれるのか、自分?)
 婆さんが渡そうとした釣り銭は、受け取ることを忘れた僕の掌に当たりながら、次々と滑って零(こぼ)れて行って、コンクリートの床に落ちた幾(いく)つものコインが、軽(かる)い金属音を響かせて転(ころ)がった。
(ああっ、僕は、何をやっているんだ)
 転がるコインをそのままに、表に停めたホワイトダックスに向かって、僕は駆(か)け出した。
 彼女の叫ぶような呼び止める声が背後に聞こえるけれど、エンジンが噴け上がるのと同時にアクセルターンで向きを変え、僕はホワイトダックスを急発進させた。
 バックミラーには、道まで出て来て僕を見ている彼女が映っていた。
 僕は坂を下るトヤン高原の方には向かわずに、坂を上り海辺へと走る。
(あんな……、妖(あや)しげなトヤン高原へ向かってたまるか! 末恐(すえおそ)ろしい!)
 短い坂を登り切り、明千寺の町を抜けて、緑の田園が広がる台地の先を右に曲がった。
(この海辺の道は、海岸線をトレースするように、穴水町まで続いている。……はずだ)
 海沿いの町を幾つか過ぎて、殺風景な砂浜沿いに出た。
 此処までは、夢中で逃げて来た。
(逃げて……、僕は……、逃げたんだな……)
 白砂の平坦な渚(なぎさ)を見た瞬間、後悔が噴き出した。
(……僕は、……本当に逃げ出してしまった)
 砂浜は海水浴場らしく、仮設の更衣室やシャワーが有って、簡易トイレも設置され、海面はフロート付きのロープで遊泳範囲を区切ってあった。
 スピードを緩め、僕はゆっくりと波打ち際まで進み、ホワイトダックスを停めた。
 白い砂は、とても木目細(きめこま)かく、車輪が全然沈まない。
 広い平坦な砂浜に大勢の足跡と、いくつもの焚火(たきび)の跡があった。
 百五十メートルほどの沖合に、消波と浸蝕(しんしょく)防止を兼(か)ねて、テトラポットで組まれた防波堤が二つ並んで有った。
 その間に、能登島の北端が見える。
 テトラポットの向こう側は、盆を過ぎた八月の波が高い。でも、内側の水面は、漣(さざなみ)も立たないほど穏(おだ)やかだ。
 海は青く、透明に澄(す)み切って輝き、僕を誘(さそ)うように艶っぽい。
 ポケットに入れて来た、まだ冷えている缶コーヒーを息を整(ととの)えて、暑さと緊張で乾いた喉へと一気に飲み干(ほ)し、疲れと興奮で火照(ほて)る体も落ち着かせると、僕はザブザブと海に入って行った。
 毎日のプール通いの為に、Tシャツの下は直(じか)に七分丈(しちぶたけ)の水泳パンツを穿(は)いている。
 水泳パンツの生地(きじ)は、ちょっと通気が悪くて、遅い乾きに蒸れて来るのを鬱陶(うっとう)しく思う。
 温(あたた)かい海水が、動揺して興奮した気持ちを静めるのと、逃げて目的を見失った想いを整理するのにちょうど良かった。
 歩(あゆ)みを進める、浅く透き通った海の波紋が刻まれた砂地の海底を、黄色い斑(まだら)模様の渡蟹(わたりがに)みたいのが幾匹(いくひき)も逃げていく。
 キラキラ光る水面と、海原(うなばら)を渡って来る湿気を帯(お)びた風が、心地良い。
 渚から百メートルほど離れて、胸の深さでフロート付きのロープが張ってあった。
 遊泳範囲は此処までで、けっこうな遠浅(とおあさ)だと思う。
 試(ため)しにロープを超(こ)えてみたら、一メートルも行かない内に顔までの深さになり、足元の水が冷(つめ)たくなった。
 底の冷たい海水は、更に二十メートルほど沖の防波堤へ流れている。
 足元を砂ごと流れに掬(すく)われて深みに嵌(は)まれば、テトラポットの隙間(すきま)に吸(す)い込まれてしまいそうだ。
 僕は恐くなり、慌(あわ)てて戻った。
 半分ほど戻った、深さが太腿(ふともも)の上端辺りになる処(ところ)で水面に浮かぶ。
 遠くにオートバイの爆音を聞きながら、耳は水面下になった。
 手足の力を抜いて、水面に浮き風と水の流れに弛緩(しかん)した体を任(まか)せてみる。
 緩い大きなうねりが、ゆっくり、ゆっくり、僕を浜に運ぶのを感じ取れた。
 心地良いうねりに漂(ただよ)いながら思う。
(彼女がいた。彼女に逢えて良かった。でも、声を掛けられなかった。僕は挨拶(あいさつ)もできていない)
 頭上に被さるように高く聳(そび)える白い入道雲が、『それでいいのか?』と、問い掛けているみたいだ。
 このまま、逃げ帰ってしまいたい意気地無(いくじな)さと、やはり会いに戻って後悔したくない想いで、気持ちが揺れ迷(まよ)う。
 白く輝く雲の頂きを、ぼんやり眺(なが)めながら、六年生の音楽の授業で想像したピアノの調べに乗って、雲の峰を跳(は)ね回る彼女を思い出した。
(よし、会いに戻ろう!)
 逃げない。
 僕は、迷いに踏ん切りを付けた。
 浮くのを止めて行動を起こそうとした、その時、突如(とつじょ)、真横の水面から音も無く、ゆっくりと白い影が立ち上がった。
 波が立ち、水面に浮かぶ僕の体を揺らして顔を洗(あら)う海水が息を詰まらすけれど、それどころじゃない!
 暗い森の道で視界の隅に気配を感じた影が脳裏に一閃(いっせん)して、漂う僕の体を金縛(かなしば)りに遭ったように固(かた)まらせた。
 もう顔は、恐怖に引き攣(つ)っている。
 僕は、息を飲んだ。
 肩に、背に、戦慄が走り、真夏の海面が氷のように冷たくなった。
 パニくる寸前で、泣き叫ぶ、二秒前!
 影は、その暗い顔を俯(うつむ)くように傾けて、僕を見る。
 顔に貼(は)り付いて暗く見せていた濡(ぬ)れた髪が解(ほぐ)れて、水面に反射するの光を受ける顔が明るく照らされた。
 照らされた影の顔は、携帯電話の着信画面にしている瞳(ひとみ)で僕を見ていて、恐怖は驚きに変わった。
(ああっ、彼女だ! どっ、どうして、ここに?)
 其の瞳の眼が細められたと思う間も無く、彼女は、僕の体に両手を着いて覆(おお)い被さって来た。
(グハッ! やっ やめろ! 胸と腹を押さえるなぁ!)
 沈む上半身に、足先が水面から持ち上がるのを感じる。
 波間に漂う為に広げた両腕は金縛りのまま、彼女を退(の)けるのにも、水底に手掛かりを求めるのにも、全く動かない。
(じょっ、冗談だろ? もっ、もしかして、……そんなに、僕を嫌っていたのかー? 水の事故に見せかけての窒息死なのか! 嘘だろ! かっ、彼女に殺される! うっわあー)
 脳から手足を動かす信号を遮断されたみたいな無抵抗の仰向(あおむ)けで沈む体に、泳ぎを覚えたばかりの僕に水の怖さを蘇(よみがえ)らせる。
 有り得ない彼女の行動に、僕は一気に沈められて、体を捩(よじ)って逃げれないまま、背中が底の砂地に押し付けられた。
 背中が底に着いた事で、押さえ付ける力が彼女の重さに変わって強まり、止めた息の半分が出てしまう。
 完全に不意を衝(つ)かれてパニくったけれど、思い出した友人の水の怖さを克服させたレクチャーと、着けていたゴーグルで水中を見渡せた事が、気持ちを急速に落ち着かせて手足の感覚を戻してくれた。
 水中で見る彼女は笑っている。
「ガババババッ、ガボッ、ボバババッ」
 ゴーグルを着けずに開けている目は、楽しそうに笑っていた。
 下弦の三日月の形になる、僕の大好きな笑った彼女の目だ。
(なんて、嬉しそうに笑っているんだ!)
 大気中と変わらず、普通に笑い声まで聞こえて来る。
 楽しくて堪らない幸せそうな彼女の笑顔に、『彼女が、望むなら』と、納得しかけた刹那、酸素不足で息が出来ない苦しさに、パニックが治まり切らない僕は、本能的に生命の救いを求め、彼女を撥(は)ね退けて水面に出ようと踠(もが)いた。
 生き残りを求めても、縋(すが)り付く物の無い海底に踵(かかと)は空(むな)しく砂を抉(えぐ)り、手は崩(くず)れる砂地しか掴めない。
 仰向けのままで進入を防(ふせ)ぎ切れなくなった鼻腔(びこう)と咽喉が、通る海水にツーンと痺(しび)れてヒリヒリする。
 キンキンと、頭が痛み出した。
 息苦しさに、彼女の笑う目をみていた視界が、ジワッと滲(にじ)んだ。
(くっ、やばい! ふつう、底まで沈めるかよ? ゴボッ)
『や、やめろ……』
 音にならない自分の声は、泡の連なりになって口から水面へ向かって行き、限界が直ぐ其処(そこ)まで迫っているを悟(さと)った。
(あと、数秒しかない! 視界が暗くなって来たらアウトだ!)
 次に肺へ吸い込まれてしまうのは海水だ。
 吸い込めば、肺が数回くらいは噎(むせ)せるだろうけれど、噎せても、入り直すのは海水だから酸素を取り込めずに意識を失って、僕の身体は活動を停止する。そして、もう二度と、彼女を見る事は出来ない。
 失われそうな未来への思いに、焦って足掻(あが)けば足掻くほど、手足は砂地の海底に掘った溝を深くするだけで、救いは何も見付けれなかった。
 撥ね退けた彼女は、再び僕に襲い掛からずに、水中に救いを捜す視界の端(はし)に、離れ去る彼女の白い色が見えた。
 もう直ぐ、息を止めている限界が来る。
(くそ! 溺れてたまるか! 落ち着け! 体の向きを変えろ!)
 もがきながらも速やかに俯せになって、海底に両手を着き、そして、勢いよく立ち上がった。でも、僕の体内に酸素は残ってなかった。
 息継ぎの限界は、水面に顔が出る瞬間にやってきた。
 吸い込む息といっしょに、海水が入って来て、激しく咳(せ)き込みながら海水を飲んだ。
 入って戻り、通り抜けた海水が、鼻の先までツーンと涙目になるほど痺れさせるくらいに、ガバッと飲み込んだ海水は、咽喉のヒリヒリと焼けるような痛みを、更に強くさせた。
 垂れ流れる鼻水で、ネバネバする口の中が塩辛く気持ち悪い。
 涙(なみだ)でゴーグルが曇って何も見えない。
 更なる、仕打(しう)ちが有るかも知れなくて、状況を知ろうと急いでゴーグルを外して、辺りを見回すと、波打ち際に立って、僕を見ている彼女がいた。
 僕が、水中から現れて安心したのか、ゲラゲラと腹を抱(かか)えて笑っている。
「アハハハハ。ねぇ、大丈夫?」
(酷い! なんて奴だ。死ぬかと思ったのに……)
 浜に急ぎながら、『大丈夫な訳ないだろう』と叫んだが、擦(かす)れて声にならない。
 やっと浜辺に着いたとたん、急に力が抜けて膝を付くと、涎(よだれ)がダラダラ出て来て、猛烈(もうれつ)な吐(は)き気(け)に襲われた。
 這(は)いつくばって急いで砂浜に穴を掘り、底から海水が湧(わ)き出すその穴へ、一気に吐き戻した。
「グハッ、ガハッガハッ」
 バシャバシャと、薄いコーヒー色の海水を吐き出す。
 塩辛さと潮(うしお)の香(かお)り、それに、コーヒーとサイダーの甘味と臭い、そして、胃液の苦(にが)い酸味を加えて、胃と横隔膜(おうかくまく)と食道が壊(こわ)れたポンプのように、不規則に勢いを付けて、次々と逆流させる。
「ゲッ、ゲホーッ、きっ、気持ち悪!」
 何も、食べずに来た。
 寄り道もせずに、家から真っ直ぐ、ここへ来た。
 胃に入っていたのは、穴水で飲んだサイダーと、さっき買った缶コーヒーだけだ。……と、ガブ飲みした潮水だ。
 口だけじゃなく、鼻からも押し出される。
 ますます、鼻や咽喉がヒリヒリとして、痺れるように痛い。
 それ以上に、食道がヒリヒリからザクザクと刺(さ)すように痛くなった。
 もがいて少しでも楽になりたいが、痙攣(けいれん)したように押し寄せる吐き気で動けない。
 鼻と咽喉の痛さに鼻水と涎が垂れ流しだ。そして、涙も出て来た。
 鼻も、口も、鼻水と涎に混じって吐瀉物(としゃぶつ)が出て来る一方で、空気を吸い込んで肺に送れない。
 首筋やこめかみの血管が浮き出て、今にも弾けそうだ。
(あっ、やばっ!)
 キーンとした耳鳴りといっしょに、ブラックアウトが来た。
 気を失う寸前に吐き気が治(おさ)まり、なんとか息を吐くことができた。でも、頭を穴の底に着けて額(ひたい)まで自分の吐瀉物塗(まみ)れだ。
 失神して吐瀉物だらけの海水で、危(あぶ)なく溺れるところだった。
 気を取り直して僕は、穴を埋め戻し転がりながら渚に入る。
 頭を洗い流してから海水で口を漱(すす)ぎ、そしてまた、砂浜に突(つ)っ伏(ぷ)す。
 今の嘔吐で、一気に体力を失ってしまった。
(うう、無事に、家に帰れるかな?)
 ゼーゼーと、肩で息をしながら思う。
 乾いた砂から、太陽の匂いがする。
「あうっ! うぷっ、ぺっ」
 突然、眼の前に彼女が勢い良く座った。
 跳ね跳んだ砂が、僕の顔に被る。
 涙目の視野にクローズアップで彼女の膝頭(ひざがしら)が迫った。更に、小麦色に焼けた太腿と、その奥に水色の下着の股間(こかん)も…… 見えた。
(おおっ!)
 でも、それは下着じゃなくて水着で、生地は透けてはいない。もっと、良く見ようと目を凝(こ)らしてみるけれど、乾き残る海水の水分と附着した石英の多い白砂の粒の一つ、一つが、輝くように陽射しを反射して、その眩しさに僕はクラクラしてしまう。
(ああっ、生きていて良かったぁ!)
 次の瞬間、彼女の手が僕の胸の下に入り、僕は仰向けに引っ繰り返された。
 空が眩しい!
 傾(かたむ)きかけても、まだまだ太陽は高い。
 サンサンと降り注ぐ夏の午後の日差しと、水面を渡って来る熱気が、脱水と空腹で疲れた身体に眠気を誘う。
(でも、この暑さ…… 日陰が欲しいぞ。そうだ、こんな所にいたら、彼女が日焼けしてしまう。熱中症になるかも知れない)
 そう思って見上げた彼女は、鍔(つば)の広い大きな白い帽子を被っていた。
 眩しい真夏の青空を背景にして陰(かげ)る彼女の顔に、薄く施(ほどこ)した化粧と艶やかなピンクの唇(くちびる)が見て取れる。
(日焼け止めのファンディーション? 口紅もして? いつもしてたっけ?)
「食べて、冷たくて甘いよ」
 鼻水が溢れ出て、絶え絶えに大きく息をしている砂だらけの僕の唇に、びしょびしょで冷たくて堅(かた)い物が押し込まれた。
 行き成りな事に咄嗟(とっさ)に体を起こして口に刺された物を見ると、それは白いアイスキャンディだった。
 危篤(きとく)のような状態からの生還した脱力と強い日差しの熱気で疲弊(ひへい)した身体に、冷たくて甘いアイスキャンディが気持良い。
(ふっ、準備がいいな。アイスキャンディに帽子だもんな。……ん、ノーヘルで来たのか?)
 全く、彼女のする事は予測がつかない。
 冷たくて歯に沁(し)みるけれど、アイスキャンディの甘さと冷たさが、痛みとムカつきと焦りを抑えて落ち着かせてくれた。
 真横で彼女も、アイスキャンディを紅を差した唇に咥(くわ)えている。
 帽子の庇(ひさし)がコンコンと僕の頭に当たり、向きを変えた彼女に肩が触れた。
 少し凭(もた)れて来るように彼女の体が触れて、救急車の中と県立美術館裏の小径(こみち)での出来事を思い出してしまう。
 今も、大接近の大接触だ!
 夏の陽に焼けた彼女の肌が、冷えた僕の皮膚に温かさを感じさせた。
 素肌が触れ合う現実が、信じられない驚きだけど、キレキレダンスを舞いたいくらい凄く嬉しい。
 恐る、恐る彼女を見るけれど、気が付かないのか、ワザとなのだか、わからない。
 遠くの海を見ながら、彼女はアイスキャンディを頬張(ほおば)っていた。
 いつもと違うと思う。
 今日の彼女には、違和感が有った。
 僕が殺される寸前になるほど凶暴だったのに、今の彼女からは優しさと弱(よわ)さを感じる。
(でも、今、気付くべき事は、其処じゃない)
 アイスキャンディを持つ彼女の手の爪は伸ばされて、精緻(せいち)で綺麗な3Dネイルアートがされていた。
 僕を引っ繰り返した時に砂で擦(す)れたのか、少し筋傷が付いている。
 ネイルアートも、薄化粧の顔も、とても素敵だった。
(これは、彼女のセンスなんだ)
 僕は感心して、見惚(みと)れていた。
「アッハハハ、そんなに、見詰めないでよ。恥ずかしいじゃない」
 じっと、爪を見られたのが照れ臭さかったのか、ワザとらしく笑いながら彼女は言う。
 真っ白いワンピースと水色の水着に、その、トロピカルなネイルアートのデザインと彩色は、コーディネートされているように思えた。そして、彼女にとても似合(にあ)っていた。
 気になって、彼女の足の指を見る。
 足の爪はペディキュアをしていて、添加されたラメの効果なのだろうか、指が向きを変える度に、赤っぽいピンクや真珠のような白さに変化してキラキラと輝いた。
「素敵だ。とても、似合っているよ。足の指のもいい。綺麗だ……」
 やっと、鼻の通りが良くなった僕は、ネイルアート以上に、彼女自身に言った。
 彼女と話せて安心したのか、アイスキャンディを銜(くわ)えたまま睡魔が襲って来る。
 このまま眠ってしまったら、熱中症になってしまうと思いつつ、意識が遠のいて行く。
 僕は、蕩(とろ)けてしまいそうだ。
(もしかして、僕は、とんでもない女の子を、好きになってしまったんではないだろうか?)
 傍に大好きな彼女がいてくれる満ち足りた幸せの中、銜えたアイスキャンディのように、意識が融(と)けて薄れていった。
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 ホワイトダックスは、ナゴナゴと猫が摺(す)り寄る鳴き声のようなサウンドで、鬱蒼と木々が生い茂る森の中を走っているけれど、見える限り、何処までも真っ直ぐな一本道は、木漏れ陽だらけで明るい。
「いいよ。何処へでも。あなたといっしょなら、何処でもかまわないよ」
 その言葉に、僕は手を、僕の腰に回された彼女の手に添(そ)えた。
 添えた僕の手に、彼女は指を絡(から)め直して手を繋ぎ、汗ばんだ僕の背中へ、彼女が顔を付けるのを感じた。
 彼女の囁くような声が聞こえる。
「ねぇ。いつまでも、私の傍にいてくれる?」
 僕達は、ヘルメットも被らずに、ゆっくりと、二人乗りしたホワイトダックスを走らせる。
 彼女の問いに、僕は振り返り答える。
「ああ、僕は、君のものだ」
 サイドミラーに彼女の髪が、恥じらうように風に戦(そよ)ぐのが映る。
「……うん。知ってる……」
 森の出口が見えてきた。
 森の向こうは、夏色に満たされて明るく光っている。
 僕達を乗せたホワイトダックスは、森を抜けて、夏色に犇(ひし)めく陽射しの中にゆっくりと入って行く。
 夏の眩しく光る暑さに僕達は包まれて、思わず翳(かざ)す手がシンクロしてしまう。
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 視界一杯に、光の世界だ。
 眼を落すと、光りの白さが途切れた暗がりの奥に、淡い青色が暈(ぼ)けて見える。
 ぼんやりする頭と気だるさで、此処が何処なのか、何をしていたのか、状況と状態が理解出来ない。
 いつの間にか、僕は眠ってしまって、彼女とデートしている夢を見ていたようだ。
 夢見心地が良い、妙にリアルな夢で、繋いだ手や触れ合った肩や背に、彼女の感触や温もりが残っている。
 徐々に意識が覚醒(かくせい)して来た。
 薄い青色は、水色の布だ。
 それは、見覚(みおぼ)えの有る縫(ぬ)い目が入った水色の布だった。
(ええーっ、ぼぼっ、ぼっ、僕は、彼女の太腿に抱きついているぅ?!)
「目が、覚めたぁ?」
 その声に見上げると、彼女が優しい顔で覗くように僕を見ていた。
 一気に、眼が覚めた。
「わわわっ、ごめん」
 僕の両手は、彼女の腰に回っている。
 自分のしていることに驚いて、慌てて転がり起きた。
 両手を合わせて頭を下げ、真摯に謝るけれど、謝りが足くて彼女が機嫌を損ねたら、砂に顔を埋めるくらいの土下座をする低姿勢で許しを請うしかない!
 彼女は砂浜にぺたんと座って、膝枕(ひざまくら)をして僕を寝させてくれていた。そして、その鍔の広い帽子で日陰(ひかげ)を作ってくれていたんだ。
「元気に、なったぁ?」
 彼女の太腿に付いた僕の涎に、陽射しが反射してキラリと光った。
「あっ、ごっ、ごめん。汚(よご)してしまったぁ」
 白いワンピースが捲(めく)れ上がって、彼女の太腿が晒(さら)け出ている。
(おおっ、なんか、すっげぇー、セクシーだぞ!)
 その太腿の捲れ上がったワンピースの裾近くが、僕の涎で濡れていた。
(直接……、太腿の素肌に膝枕をしてくれていたのだろうか? ……それとも、僕の寝返りが、ワンピースを捲くり上げてしまったのだろうか?)
「気にしないよ。ごめんね、沈めちゃって。このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思っていたの。気が付いて、ああっ、本当に良かったわ!」
 乾いた砂で太腿の涎を拭(ふ)き取りながら、彼女が申し訳なさそうに言った。
(それって……、後先を……、僕が戻って来られないかもなんて、全く考え無しに、僕を海の底へ沈めたってことぉ~? ええーっ、なんて恐ろしい彼女だ……。これから先、カレカノの仲になっても、どんな切っ掛けや拍子(ひょうし)に、包丁で刺されたり、首を絞められたりするかも知れないなぁ~)
「もう大丈夫だ。あれくらいじゃ、僕は、どうもならないさ」
 盆過ぎに合わせて、彼岸(ひがん)に行きそうになるくらいにパニックっていたのに……、僕は、余裕を嘯(うそぶ)く。
 僕は沈められたことに拘り、彼女を責(せ)め立てるようなチンケな奴じゃない。それに、もう、過ぎたことだし、胃液までゲロって、グチャグチャになったまま目眩がして、ゲロ穴に突っ伏したスッゲー汚なくて、恥ずかしい顔を見られてしまってもいる。
(ゲロゲロで渚でのたうち回る ……見っとも無い姿や、気絶した姿も、見られてしまったな。……参(まい)った、いろいろと、凄く格好悪いぞ)
 今は、新たな要素の格好悪さと、頬(ほお)に残る、張りの有った硬(かた)い弾力の感触が加わってクラクラしている。
(だって、彼女の太腿だぞう。ああ、そんなぁ、しまったぁ)
 彼女の膝枕の知覚された記憶が無いのは、凄く残念で、後悔で、甚(はなは)だ恨(うら)めしい。
 どうゆう心境でしてくれたのか、分からないけれど、初めてされた彼女の膝枕!
 お袋や妹がしてくれる耳掃除の時の膝枕じゃない、憧(あこが)れていた彼女の膝枕!
 彼女の信じられないサプライズに僕は、涎を拭(ぬぐ)った砂が付いた彼女の太腿を見詰めながら、陽射しと大気と火照る身体の熱で、もう、僕の意識と気力は、ドロドロに融けてしまいそうだ。
(もう一度、頭を乗せても……、其処へ倒れ込んでも…… いいですか?)
「ねぇ…… 座ってよ。何か、話ししょ!」
 僕の海パンの裾(すそ)を引っぱりながら、俯き加減(かげん)の反則ポーズで言う。
 あの彼女が、僕の話しを、僕の声を、聞かせてとせがむ。
 逃げた僕を追い掛けて来て、無理矢理、僕を海底へ押し沈め、気絶している僕にアイスキャンディを銜えさせて膝枕で寝かしていた。そして今、とても、親しげに横に座れと言う。
 今日は、驚きっぱなしだ。
 これも全て、彼女の計画的なサプライズなのだろうか?
 今日の彼女は、僕が今まで知り得た彼女と違い過ぎる……?
(明らかに違う……? でも、どうして?)
 彼女は不思議なほど素直で、ストレートにウエットだ。
(何が、彼女を、こんなに違わせているのだろう?)
 この御里(おさと)の景色や空気などの環境が、彼女を優しく開放的にさせているのだろうか?
(そう言えば、小学校高学年以前の彼女を、僕は見た覚えは無いし、知らない)
 彼女は、此処で生まれ育ったのだろう。
 彼女の原風景(げんふうけい)は此処に在って、此処は彼女にとって故郷(ふるさと)なのだ。
 故郷とは、こんなにも彼女を和(なご)ませて、心を解き放す場所なのだろうか?
 僕も、いつかは金沢を離れ、遠くに住んで生活を営(いとな)み、そして、いつの日か、金沢に戻れば、彼女のように心が癒されるのだろうか?
(話しをしてか……、さて、何を話そう……)
 僕は大胆(だいたん)に彼女の真横に、肩が触れんばかりの近さに並んで座ってみた。
「さっき、不思議な体験をしたよ。でも、錯覚かもしれない」
 彼女が期待する話しとは違うだろうけれど、掴みはリアルな超常現象にする。
 触れそうな距離で座った僕を避ける素振(そぶ)りも見せずに、黙(だま)って彼女は僕の話を聞いてくれているみたいだ。
「森の中が真っ暗で、道の先が見えないんだ。明千寺へ向かっているはずなのに、何も見えなくて、どこを走っているのか、分からないんだ」
 僕は、明千寺へ着く直前で体験した、森の道での奇妙(きみょう)な感覚を話した。
「……森ねぇ、そんな、深い森なんて在ったかな? この辺(へん)の山の木々は、杉じゃなくて、翌檜(あすなろ)が多いけどね。能登じゃ、アテの木って言うんだよ。一般的には翌檜よりも、ヒバって呼ばれているみたい」
 彼女は別段、関心も示さずに森の木の呼び名を言った。
 たぶん、暑さによる僕の錯覚と思っているのだろう。
「超常現象が起こる場所かも知れない。いや、きっと何かいる。そんな気がしたよ」
 あれは、僕の気持ちの焦りと不安と思い込みが、作り出した白昼夢だったのかも知れない。
 意識していなかったけれど、疲れて空腹だった。それに、心は舞い上がっていた。
「ふう~ん、超常現象が起きそうな場所かぁ……。そうね。あそこには何か棲(す)んでいるのよ」
 身を寄せて肩を僕に凭れさせた彼女が、日常的に良く知っている当たり前の、『何か』のように、さらりと言う。
 『何か』に、別段、驚きもしていない。
 彼女に触れられて、僕の全身がビクッと萎縮(いしゅく)する後退(あとずさ)りの痙攣をした。
 以前、高校への進学相談した時に、お袋は言っていた。
 分岐(ぶんき)する世界へ繋がる、多次元宇宙の平行世界。
 全ての平行世界に必ずしも、僕が居るわけじゃない。きっと、僕の存在する平行世界は、とても少なくて、フルカラーにステレオ音響で感触が残るリアル過ぎる目覚めの夢は、たぶん、平行世界の僕の現実とリンクしていると、そんな、荒唐無稽(こうとうむけい)で根拠の無い仮説でも、今なら信じられそうだ。
 来る途中の何処を走っているのか分からない真っ暗な場所が、向こう側へ行けるゲートが在るボトルネックなポイントなのかも知れない。
 ラストのカーブを曲がらずに直進して暗闇へ突入していたら、どうなっていただろうか?
 もし入っていたならば、僕一人では、あの深い暗闇の中から同じ元の世界へ戻って来れないかも知れない。
 携帯電話のGPS画面を覗き見した重い影の気配は、ゲートのガーディアンで、異次元に入り掛けた僕を拒んで元の世界へ戻したのだろうか?
 闇から異世界へ連れ去るだけの物(もの)の怪(け)だったのだろうか?
 今の、この現実は、狭くて暗い林道へ入る前の世界と同軸に繋がっているのだろうか?
 不可解さだらけの疑問符は、僕を不安と怖れに戦慄させるだけで、超常現象の情報を何も得(え)ないばかりか、何の対策や解決にも至(いた)らない。
(彼女も、ゲートに触れたり……、何かを体験しているのだろうか?)
「神隠(かみかく)しの噂(うわさ)も有るしね。滅多(めった)に体験する人はいないのに。特別なのね、あなたは。選ばれたのかもね」
 『特別』、『選ばれた』の、個別限定たっぷりな優越感に浸(ひた)れる言葉は、その前の、『滅多に』で中和され、更に、『神隠し』で、この世界から失踪(しっそう)する対象が僕になり、そして、絶望要素たっぷりの恐怖の代名詞にしている。
(ななっ、何を言っているんだあ? なっ、何が、何の為に僕を選んだと言うんだぁ。スッゲー寒い事を言ってくれる!)
 ブルッ、最後の直角のカーブが、再び蘇る。
 あそこで転倒でもしていたら、本当に、どうなっていたのだろう。また、背筋に戦慄が走り、全身に寒気がして、体中に寒疣が一気に立つ。
 何か、思い詰めた顔をしている彼女が、僕の不安を煽った。
「もう止(や)め! 話したのが失敗だった。今の話は、……忘れよう」
 自分から話題にしたのに、からかわれて引っ込めるなんて、男らしくないと思うだろう。いや、彼女はからかってはいなくて、真面目(まじめ)に聞いてくれていた。
 たぶん、彼女も、何かを体験しているのかも知れない。
 黙って海を見ている彼女の憂(うれ)い顔が、僕にそう思わせた。
 視線だけを辺りに移し、異変がないかと様子を探(さぐ)る。
 緑の田畑や木々や道路が陽炎に揺れる中にも、浜辺の白砂や渚の白波や漣が立ち出した波間にも、湧き上る白くて大きな入道雲と青空にも、怪しげな影は見えない。
 探り見た彼女の憂いた横顔に、僕の全身に、再び戦慄の冷たい電流が走り、寒気に震える体を冷え切らせてしまう。だけど、僕は…… 異世界の物の怪に選ばれたなんて、考えたくはなかった!
(いや……、やっぱり、あれは、炎天下の酷暑(こくしょ)に、フルフェイスヘルメットの中で、蒸し過ぎの泡立ちに鬆(す)の空洞だらけになった茶碗蒸(ちゃわんむし)のような、ボソボソに思考の抜けた脳味噌(のうみそ)が、造り出した幻聴と幻覚だったんだな)
 きっと、そうだと僕は思いたい。
 見られているのに気付いた彼女は、僕を見返して、座り位置を変えるように、僕へ擦り寄った。
 その拍子に、彼女が被っている帽子の鍔が、僕の顔にコツンと当たる。
「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」
 彼女はそう言って、白い大きな鍔の広い帽子を僕の頭に被せてから、僕の肩に凭れ掛かってくる。
 彼女の陽に焼けた、熱くて乾いた肌が、ぴったりと、戦慄で汗ばみ冷えた僕の肩や背に触れて、まるで、ヒーリングされているような温かさに気持ちがいい。
 パッションはキスの方が有るけれど、幸せ感は、圧倒的に今までで最高だ! でも、この嬉しさを否定しそうな事ばかり、僕は思い出してしまう。
 そんな思いの僕と、体が触れていることを気に留(と)めるようすも無く、彼女は眩しそうに目を細めて遠くの海を見ていた。

 

 つづく