遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

可愛い薔薇(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 参

 六月初頭の日曜。今日は弓道の試合がある。

 全国高等学校総合体育大会、通称インターハイの出場選手を選抜する石川県地区大会だ。この試合で団体、個人の両方に負ければ三年生は部活から引退する。

 勝てると、団体優勝校と個人の優勝者と準優勝者が八月のインターハイに石川県代表として出場できる。これが事実上、高校生活で最後の公式試合になる。

 兎(と)に角(かく)、今日は最後まで勝ち残れないと、僕の弓道は彼女へ捧(ささ)げる結果が何も無いまま終わってしまう。

 --------------------

(弓道か……、この学校に弓道部が有るのか)

 高校に入学して少し落ち着いた頃、校内を探索して弓道場を見付けた。

 弓矢には、歴史の授業で習った平家(へいけ)の姫様が舟に揚(かか)げた扇(おおぎ)の的(まと)を射落(いお)とす那須与一(なすのよいち)や、大鎧(おおよろい)に身を固(かた)めた馬上の武士達が、赤と白の流れ旗を掲げて射合わせた倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いなど、雅(みやび)いた繊細(せんさい)な感じがして、血生臭(ちなまぐさ)さを感じないイメージが有った。

 --------------------

 各校が五名のチームで挑み、的中数を競う団体戦は二位の結果で終わり、石川県代表校には成れなかった。次は個人戦だ。これが高校最後の試合になるかも知れない。

 試合の出場者は弓道の作法に従(したが)って矢を射なければならない。八つある一連の基本動作に沿(そ)い行い礼を用いて一矢(いちや)と成(な)す。

 『足踏(あしぶ)み』『胴造(どうづく)り』『弓構(ゆがま)え』『打起(うちおこ)し』『引分(ひきわ)け』『会(かい)』『離(はな)れ』『残心(ざんしん)』

 これらを射法八節(しゃほうはっせつ)という。射法八節をあまりにも乱雑に行うと失格になってしまう。弓道など武道の道は、自分の所業を鍛錬(たんれん)する悟(さと)りの道で、礼に始まり礼に終わる。礼を失(うしな)ってはいけない。

 『足踏み』

 矢を射る姿勢は、足踏みで始まる。的を見ながら足を約六十度の外八(そとはち)の形に開く、両の爪先(つまさき)は的の軸線に合わせ開き巾は矢の長さほどだ。自分の体格に合った開き巾にしないとフラついて次の胴造りが定まらない。要はスタンスだ。

 『胴造り』

 射矢(しゃや)を安定させる姿勢は全て胴造りで決まる。週三日、金石(かないわ)の海岸への走り込みと、金石から金沢(かなざわ)港口の大野(おおの)までの砂浜や道筋の途中で行うサーキットトレーニングは、この胴造りの為(ため)だ。

 走り込みは上半身が振れないように走る。大抵(たいてい)は陸上競技の経験が無いと最初は前後左右に振れていて、人によってはダラけているようにも見えてしまう無駄(むだ)な動作が多い。これを意識付けさせて姿勢を矯正(きょうせい)すると二ヶ月ほどで余計な力みが無くなり、走る動作や呼吸が楽になる。

 臍(へそ)の下に気持ちを集中させて身体(からだ)全体の重心をそこへ置くように心掛ける。便意を我慢するみたいにお尻に力を入れ、くっ付けた臀部(でんぶ)の双丘を後方へ突き出す。腰に、股間(こかん)に、太腿に、膝(ひざ)に、脹脛(ふくらはぎ)に、足首に、踝(くるぶし)に、踵(きびす)に、爪先に、足の甲(こう)と裏に、下半身の全(すべ)てに強く力を入れ引き締めてから、柔(じゅう)の撓(しな)りを残すように力を抜(ぬ)く。

 背中を突然、強く押されても上半身はわずかしか揺(ゆ)らがない。普通に押すくらいなら微動もしない。このコツを掴(つか)むのに半年も掛かった。

 朝の通学バスで彼女の横へ立つ時も胴造りを意識した。八節の姿勢のままは見た目に誤解を招くかも知れないから、足踏みに開いた足の裏から腰までを微動もさせないように感覚を集中する。走行中の揺れるバスの中で不慮の事態が発生すれば、よろめく事なく適切に対処して速(すみ)やかに彼女を守る姿勢が取れるようにと思っていた。

 飛翔する武器の命中率は打ち出す時の安定に左右される。大砲に例(たと)えるならば、顔や目は照準器だ。距離を測(はか)り狙(ねら)う。右手はトリガー…… 引き金。左腕は砲身で、真っ直ぐで曲がりや歪(ひずみ)みが無いようにする。上半身は砲塔でしっかりと的に向かう。そして下半身は大地に固定された砲座だ。しっかり固定しなければ一射ごとに歪が出て外(はず)れてしまう。僕は、お尻の穴に力を入れて下半身を床と一体で繋(つな)がっているかのように意識する。

 『弓構え』

 弓に埋(う)め込んだピンクの糸が目印の一番良いグリップ感の位置で握(にぎ)れるように、握り具合を微妙に直(なお)しながら正面の目の高さで弓に矢を番(つが)えに掛かる。矢は筈(はず)の溝を毎回一ミリの四分の一とズラしてはいない。グリップや番える位置の一ミリのズレは、二十八メートル先へ到達する矢を十センチ以上もバラつかさせてしまう。

 矢を番える動作の両腕の形は、水平に円を作るような感じにする。先輩達の言い方だと、『女の子を、優(やさ)しく抱(だ)くように』だ。

(わかりません。女の子を抱擁(ほうよう)した経験はないです。それに優しくって…… なに? ……胸がキュンとなって、抱き寄せたい気持ちになった事は、はっきり言って有ります。でも、それ以上は想像しかできません。まして優しくなんて抱き加減は、感覚が想像できないです。妹には……、シ、シスコンじゃないので試(ため)せません。すいません、先輩)

 一年生の時、指導する先輩の例えに、そう思った。そして今でも未経験だ。抱き加減は知らない。でも弓構えの姿勢では毎回想像した。彼女を優しく抱きよせて…… 優しい言葉で胸がキュンとする。

(なんて話せばいいんだ? 僕は優しい言葉を見つけられるだろうか?)

 でも今は優しく抱き留(と)めるのを知っている。バス事故からは、救急車の中で僕に被(かぶ)さる彼女の背に、添(そ)えた感覚が右の腕に残っていた。押さえつけられた左の腕には、柔(やわ)らかな彼女の胸の感触が有る。触(ふ)れた彼女の背と胸。顔を起こせば唇が触れそうなくらい、間近で見た彼女の心配そうな顔。そのウルウルした瞳から溢(あふ)れ出て頬を伝う涙。そして僕を満たした彼女の匂(にお)い。今も鮮明に甦(よみがえ)る記憶だ。

 それは弓を引く僕に安らぎと愛(いと)おしさを与え、優しい気持ちで満たしてくれる。

(ちゃんと、キスをすれば良かったな)

 下校のバスの中で触れた眠る彼女の頬と唇を思い出す。木目(きめ)の細かいスベスベした弾力の有る肌、夕陽に焼けて熱かった事も、そして彼女の良い匂いを間近に憶(おぼ)えている。

 矢を番えた弓を左の膝頭(ひざがしら)に乗せ、二射目の矢は矢掛けを付けた右手に持つ。その右手を腰骨に宛(あて)がって待機の姿勢となる弓構えの形を作り、顔を的へ向けて射番を待つ。

 優しい気持ちは、直ぐに未経験で不甲斐無(ふがいな)い自分への憤(いきどお)りに変わってしまう。その勢いで弓を引き、矢を放ちに行く。想像で葛藤(かっとう)する気持ちが楽しい。僕は一瞬、白昼夢の中にいて優しい気持ちの形で矢を番えて構(かま)える。

 『打ち起こし』

 彼女を抱くように右手を弦へ宛がい、弓掛けの親指の段差を弦へ掛けてトリガーをセットする。そして顔を的へ向けたまま、矢を番え引き切る準備ができた弓を体の正面約四十五度の高さまで、すぅーと持ち上げて行く。弓を上げる事で、大きな力になり水平に引くよりも引き易(やす)くなる。こんなふうに彼女を抱き上げられるだろうか…、たぶん、重みに僕の腕力が耐えられないと思うし、それに今はまだ、絶対に彼女が暴(あば)れるから無理……。

 八節の動作は愈々(いよいよ)、自分自身との戦いの深みに入って行く。

 『引き分け』

 左手は弓をしっかり握って絞(しぼ)るように回しながら両腕を両外側へ弧(こ)を描(えが)くように弓を引く。背中の左右の肩甲骨が触れ合うくらいに胸を張って引き切る。弓は背筋(はいきん)で引く。腕の筋肉は弓や矢を保持するのに、肩の筋肉はフォームの形を整(ととの)えるのに使う。

 矢を番えた弦は、顔の真後ろまで引く。このまま何も工夫(くふう)無しで矢を放つと、まともに右耳や右頬に弦が当たってしまう。これは痛い! 一瞬何が起きたのか分からず、弓を落とす事も有った。落とした矢は外れ矢と同じだ。試合では、拾(ひろ)う事が出来ない。

 矢羽(やばね)で頬が切れる時もある。これが続くと矢を射る度に逃げるように顔を反(そ)らしてしまう。退(ひ)け反るのが癖(くせ)になってしまうと、矯正してもなかなか治(なお)ってくれない。それで弦が耳や頬を避けて戻るように、外向きの左回りへ弓が回転する捻(ひね)りで絞りながら引く。この絞り加減が大事で、絞りが弱いと頬を擦(す)って火傷(やけど)する。絞り過ぎると矢が踊り、狙いが定まらない。また弦や矢羽が頬を掠(かす)る覚悟をしたり、仰(の)け反らないように意識してしまうと、肩に力が入って離れの反動を吸収できず、射道(しゃどう)が乱(みだ)れてしまう。矢が有らぬ方向へ飛んだりもするから非常に危険だ。

 常(つね)に弦が頬に擦らないギリギリのところを通るように、絞り加減が出来なければならない。更に、矢を放った時に弓が跳ね上がらないように、手首で弓を下向きに押す。弓が跳ね上がると的場(まとば)の屋根を越えてしまう事も有るので要注意だ。

 『会』

 弓を引ききって的を狙う。腕を水平に伸ばして掌を立てると大抵の人は、肘(ひじ)の内側が45度より浅い角度で上に向いてしまう。弓を持つ左腕は弓を構えたら、肘の内側を立てなければならない。肘の内側が垂直の壁のように、真っ直ぐ立つと左肩に力が入らなくてすみ、上下方向の狙いが定まる。左腕と右腕が直線になって安定した構えの綺麗(きれい)な『会』の姿勢になる。

 八節の姿勢を綺麗に整える事は重要で、全ての節(せつ)の動作に余分な力が入らず、動きは滑らかになり矢の勢いと飛距離も増して鋭(するど)く飛翔してくれる。

呼吸を整えて的を狙う。和弓(わきゅう)に的を狙う為の照準具や目印を付けたりしてはならない。照準は日頃の練習によって体得した感のみだ。八節の全ては的に中(あ)てる故(ゆえ)の『会』で集約される、理(り)に適(かな)った弓道の動作であり作法だ。

 狙い目は弓巾一つ分の右、的一つ分の上だ。右に向けるのは、矢を放つと絞っている弓が回転するからだ。上向(うわむ)きは、放った矢がそれほど低伸(ていしん)しないからだ。僕の矢は二十五メートルぐらいで急速に沈んで行く。

 僕は弓道の教えにあるような無心になれない。外見だけは真摯(しんし)に弓道を行うフリをする。眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、目線を固定して、奥歯を噛み締めて口を閉(と)じる。顎(あご)を引いて背筋を伸ばして胸を張る。いかにも作法通りに弓道をしていますって感じに。

 他(ほか)にも三重(さんじゅう)十文字(じゅうもんじ)や五重(ごじゅう)十文字など、身体の部位や筋と弓矢のクロスする大切な基本体型がある。三重は初めの二節で、五重は八節を通して維持されるべき型なのだけど、的に当てる為の理に適う八節の動作を行うならば、自(おの)ずとその型を成すので僕は敢(あえ)て意識をしない。試合で的に当てる事だけに意識を集中させた。僕はできる限りシンプルに矢を射ちたい。

 だから僕の弓は、弓道じゃなくて弓術だ。矢を番えるとき、矢を射るとき、一矢一射に彼女を想う。一矢、一矢に彼女への想いを集中させる。

 僕の矢がキューピッドが射る恋の矢に成るならば、何本射れば黄金の矢と成って彼女を恋の虜(とりこ)にできるのだろう? 金の矢は絶対に重くて飛ばないから、きっと、凄(すご)く近くじゃないと当たらない。でも近付き過(す)ぎて憎悪を与えてしまう鉛の矢に、決して成らないように気を付けて……。

 『離れ』

 息を静かに吐(は)きながら矢を放つ。人の身体の先端は常に微妙に震(ふる)えていて、的に狙いを定めた矢の先も震えている。この振(ふ)れの振幅を読み、震えとシンクロさせて矢を放つタイミングを揃えなければ、着矢位置がバラついてしまう。そのシンクロさせながら矢を放つタイミングを探るのは難(むずか)しく、極(きわ)めた平常心の無心を保(たも)ち、心頭滅却(しんとうめっきゃく)できるまで鍛錬を積(つ)まなければ簡単にはできないらしく、いつも簡単で解(わ)かり易い方法でタイミングを合わせられないものかと、僕はいろいろ思考錯誤していた。

 そして震えが停まる時を見付けた。それは、呼吸する胸の膨張収縮の息を吐き出す動きと、身体の中の心臓の鼓動、内臓の拍動、流れる血液の脈動などの動きが干渉し、動きを打ち消し合って身体の震えを停める一瞬の間(ま)だった。深く息を吸い込むか、浅く吸い込むか、普通に吐き出すか、ゆっくりと静かに吐き出すか、鼻から吐くか、閉じた口から漏(も)らすように吐くか、少しでも長く完全に静止する干渉タイミングを探して、とうとう自分の射にマッチしたポイントを見付け出した。

 身体の震えが消える一瞬のタイミングで、ギリギリと力強く引き絞っている弦を静かに離す。

 僕は明るいグリーンと淡(あわ)いピンクのラインを入れた弓と矢で、彼女と白昼夢のデートをする。息を静かに吐きながら心の中で彼女に話す。

 道端(みちばた)でも、学校でも、バスの中でも、電話でも、いつも声にならなかった想いを言葉にする。囁(ささや)くような呟(つぶや)き声で微(かす)かに唇を動かして声にする。

「好きです」

 矢を射る瞬間、目を閉じてはならない。普通、鋭い音や反動で人は一瞬目を瞑(つむ)ってしまう。一瞬でも目を閉じると射線がぶれて矢は的に当たらない。目を瞑らずにいれば矢が離れた瞬間に、どこへどういう具合に飛んで当たるかが良く分かる。

 バシュッ… スパーン! 弓懸(ゆが)けを着けた右手の親指を僅かに開くと弦は滑(なめ)らかに離されて、引き切った弓の撓りが戻(もど)る弾(はじ)かれた響(ひび)きの消える間も無く、放たれた矢は二十八メートル先の的に勢(いきお)い良く当たり乾(かわ)いた大きな音を出す。矢を引き絞っていた両腕は放つ反動で胸を開くように後ろへと弾かれ、弓は握った手の中で回り弦が手首に当たって止まる。

「シャッ!」

 彼女から励(はげ)ましのメッセージが届いていて、今日は負けられない。果敢(かかん)に優勝を狙って行く。

 観戦者達から一斉(いっせい)に命中の掛け声が上がった。矢は直径三十六㎝の的の中心に描かれた直径九㎝の丸を射貫(いぬ)いた。黒と白の円を背景に矢羽根の明るいグリーンと淡いピンクが見える。的を貫(つらぬ)き、込めた想いは彼女のハートを射止めてくれ!

 『残心』

 着矢位置を見据え、射た矢に心を残さないように今の射を反省して次射の射意に反映させる。中世の戦(いくさ)だと矢の飛翔を見極め、外れたならば狙いの修正に、相手に中てたならば止(とど)めが必要かどうか、そして反撃を受けるかどうか判断する瞬間だ。雅に名乗り出て己(おのれ)の姿を晒(さら)し立ち会う射掛け合いなんて、相手からも同じ見極めをされてるのに、真(ま)っ平(ぴら)御免(ごめん)だ! 絶(た)えられない! だから、僕は正鵠(せいこく)を射貫き続けて一撃必殺を狙う。

 僕は願う。三秒の間、矢を放った姿勢のまま心の中で想いが適うように、お願いする。願いはいっしょに歩きたいとか、明るく話したいとか、笑顔が見たいなど、全て『好きです』の延長事だ。

 僕の残心は残身(ざんみ)の形だけの、射への反省は心の残らない真芯へ命中するか否(いな)かのみで、全く心の構えになっていない。僕の弓は、『位(くらい)』や『格(かく)』の無い『射』のみだけど、彼女への『真摯な想い』だけは乗せて射る。

 弓を倒して顔を戻す。そして、また的の中心を射貫く為に次の矢を番える……。矢が的の中心に重(かさ)ねた彼女のハートへ飛翔し射抜くようにと、僕の曇りなき真摯な想いと願いを込めて……。

 --------------------

 一ヶ月前のバス事故の後遺症は、当日から三日間も寝込んだ以外は殆(ほとん)ど無かったけれど、背中の痣(あざ)の消え具合が気になっていたから、弓の練習は、『高熱が出た後の、筋肉痛が有る』とか言い訳して大事を取り、一週間は弓を引くのと体力トレーニングを休んで後輩の指導に徹(てっ)していた。

 その後は日頃の練習の甲斐も有って、直ぐに感を戻して少ない日数ながら、今日の大会に出場する事ができた。変えたバス路線の始発に乗り、早朝に弓を引いて狭(せま)い範囲に矢を集中させる練習を繰り返して、次こそは絶対に彼女へ良い結果を伝えたいと思っていた。

 --------------------

 全射とも中心の白丸を射貫いた。代表を選出する個人戦は団体戦のトップ上位者だけで争(あらそ)われるが、今回は全射的中者が多く、ここからはサドンデスの戦いになる。上位者達が二矢を持ち、順番に一矢づつ射て、矢が的を外した時点で射手は失格になり、射場から去らなければならない。

 僕は他者を意識せず、的を矢で射抜く事だけに意識を集中させる。勝ち抜くには当て続けなければならない。

 八本の矢を中て続けて、二人だけの戦いになった。

 インターハイの個人戦へ出場する県代表の選手は、優勝者と準優勝者の二人が選ばれるから、既(すで)にサドンデスを勝ち続けている僕と相手の選手は代表権を手に入れている。ここからは優勝者を決定する個人と学校の名誉を掛けた戦いだ! これまでの勝ち残った試合では、ここで集中力が薄(うす)れて気力負けの二位ばかりだった。

 だけど今は、集中力が途切(とぎ)れても、甘えから気が緩(ゆる)んでも、絶対に負けられない。それに、競(せ)り合う相手は彼女が学ぶ高校の弓道部の主将で練習試合を何度もしていた仲だ。そして何よりも、必ず栄光を掴まないと彼女との約束を果(は)たせなかった。

 --------------------

 昨日は部活の練習を調子合わせ程度で早々に切り上げて、集合時刻と場所と持ち物の確認をマネージャーと済ますと、必勝の祈願をする為に下校した。祈願場所は以前、不信心な事を言った親父(おやじ)が祟(たた)られてしまった金沢市南東の山地に在る黒壁山(くろかべやま)。金沢駅でバスを乗り継(つ)いで向かう。一日一日と日が長くなる季節といえ、バスを降りると既に陽は翳(かげ)り始め、左右を竹林に覆(おお)われて殆どが暗い影になった山道を歩いて行く。九萬坊(くまんぼう)のお寺の参拝帳(さんぱいちょう)に現時刻と名前を記して、結界重ねの二つの鳥居が建つ参道へと進んだ。まだ山々は夕陽に照らされて紅(あか)いのに、誰とも出会わない沢沿いの参道は鬱蒼(うっそう)として薄暗(うすぐら)く、あちらこちらの藪(やぶ)から時折(ときおり)カサカサと聞こえる何かしらの不気味な気配に竦(すく)み上がりながら、奥の院の祠(ほこら)へと急(いそ)ぎ歩いた。参拝帳に昼過ぎからの記名は無くて、今、神域へは僕だけしか来ていない。

 古(いにしえ)から霊峰白山を信仰する修験者達(しゅげんじゃたち)が山々を渡り、伏見川上流の山科(やましな)地区の山間(やまあい)に至(いた)ったとしても不思議じゃない。山科地区の窪町(くぼまち)に在る満願寺(まんがんじ)の山頂の社にも同じ九萬坊権現(ごんげん)が祀(まつ)られている。神格は天狗(てんぐ)で九萬坊は白山を開山した泰澄(たいちょう)を祝福しに顕(あら)われたそうだ。修験者は苦行をしながら様々な事を調べ回るから、犀川源流の倉谷(くらたに)金山の所在も加賀藩(かがはん)が採掘する遥(はる)か昔に知っていた事だろう。だから金洗(かねあら)いの沢で有名な芋掘り藤五朗(とうごろう)の山芋の事も知っていて、その砂金塗(まみ)れの山芋はこの沢沿いの砂地で採(と)っていたのかも知れないと、脇を流れる暗い沢の流れを横目で見ながら、ふと思ってしまう。

 急(きゅう)な石段を息を切らせて登り詰(つ)めた岩窟の祠で蝋燭(ろうそく)を灯(とも)し、御本尊の前に設(もう)けられた棚へ金沢駅のコンビニで買った御神酒(おみき)と生玉子(なまたまご)を供(そな)え、直前の床に自分の弓道用具一式を並べる。それから御賽銭(おさいせん)を入れて人とは違う神様へ敬(うやま)いの二拝(にはい)の御辞儀(おじぎ)、願いを聞き入れて欲しいと呼び込みの三拍手、そして願いを呟く。

「明日の試合で放つ僕の矢は、全て魔弾となって的の正鵠を射貫かせて下さい。最後まで集中力を失わずに戦い優勝させて下さい。団体戦も優勝できますように。そして、彼女と親密になれますように」

 祠の中では、小さな声で囁くように唱(とな)えたはずの声が周囲の岩壁に反響してやたらと大きく聞こえて、思わずドキッと身震いしてしまう。

 岩窟の中は入り口からの外光や蝋燭の明かりの届かない角(かど)の隅(すみ)に、何かが潜(ひそ)みそうに渦巻(うずま)く小さな闇だらけで、僕の息遣(いきづか)いや動きで生(しょう)じる音以外に物音一つせず、少しも揺らぎのない空気はひんやりと湿(しめ)り気(け)を帯(お)びて重く感じた。その緊張した静謐(せいひつ)さに身も心も正(ただ)されてしまう僕は、両手を顔前で合わせ、頭(こうべ)を垂(た)れ、目を瞑って真剣に祈る。

 祈りを済ませて頭を起こし、唇を強く結び、願いを聞きに来て下さった神様へ『宜(よろ)しく御願いします』の感謝と御見送りの意味を込めた一拝(いっぱい)の御辞儀で、祈願は終わった。

 蝋燭を扇(あお)ぎ消して祠の外へ出ると、もう山の峰の頂(いただき)だけが深い青空に映(は)えるだけで、辺りはすっかり黄昏(たそがれ)て暗い黄色に靄(もや)っていた。眼下から聞こえる沢の流れや参道は山影の中に暗く沈み、殆ど見分けが付かない。凪(な)いだ風に大気が重く澱(よど)んでいる。

(しまったあ、こりゃ、あかん。もっと早く来れば良かった)

 後悔は直(ただ)ちに安全と安心の確保を求めて甘えに変わり、お袋へ『直ぐに迎(むか)えに来て下さい』と、取り出した携帯電話で懇願(こんがん)した。僕の帰りの遅さを心配していたお袋は碌(ろく)に理由も問わずに快(こころよ)く承諾してくれた。安心を得て、気の抜けた声が出てしまう。

「昨日から、御願いしてばかりだな」

 部活のスポーツバッグを襷掛(たすきが)けにして、左手に弓を、右手には空(から)の学生カバンと矢筒(やづつ)を持ち、踏み外して転げ落ちないように慎重に石段を降りる。踏み固められた土の参道は暗さに慣れた夜目にもぼうとしか見えず、不意の異形(いぎょう)との遭遇(そうぐう)に備(そな)えて弓を前へ突き出し出来るだけ足早(あしばや)に進んだ。来る時も聞こえていたカサカサは周り中から聞こえ、次第にガサッ、ガサッと近くへ集まって来ている気がする。

 陽が蔭(かげ)った沢沿いの空気は絡(から)み付くように重たくて冷たい。川が流れる狭隘(きょうあい)な谷底だからなのか、昨日の帰宅時刻に感じたよりも気温が下がって冷え込んでいる。まるで真冬のような初夏とは思えない寒さに、吐いた息が大きな白い霧(きり)になった。

 薄れ行く残光の空の明るさは、既(すで)に高い木立の森で遮(さえぎ)られる対岸の斜面や淵(ふち)へは届かなくなって真っ暗だ。沢の黒い流れに艶(つや)は無く、砕(くだ)ける流れる白さは霞(かす)む塊(かたまり)のよう。水墨画のような色を失った参道脇の茂(しげ)みは何かの蹲(うずくま)りや潜む暗闇(くらやみ)に目えて、連れ去られ、掴み込まれ、神隠しに遭(あ)ってしまいそうな不安で焦(あせ)らせた。

 お寺の本尊は満願寺と同じく修験者達の神格の天狗だけど、こっちは大権現だと親父は言っていた。でもきっと、生玉子と酒を御供えする奥の院の神様は大蛇のようで、黒壁山の在る内川(うちかわ)地区には大蛇に例えられたり、纏(まつ)わるような古の伝承が砂金伝説以外にも有るのじゃないか、それとも、古代に金沢城地の辰巳(たつみ)に居を構えていた悪鬼衆が追い遣(や)られて伏見川上流の黒壁の谷へ閉じ込められ、京都の羅刹谷(らせつこく)と同じように修羅(しゅら)の地として恐(おそ)れられていたのかもと考えてしまう。しかも悪鬼衆には人肉を好(この)んで食べる食性があって、沢の奥には貝塚ならず人骨の塚など、彼らの暮らした跡(あと)が残っていたりして……。

『そんな生きながら食べられて行方不明になるのは嫌だ!』と、 恐ろしさに駆られて根拠の無い妄想(もうそう)が幾(いく)つも過(よ)ぎり、小心者の僕は更(さら)に縮(ちぢ)み上がってしまう。

 さっきから漂(ただよ)う生臭(なまぐさ)いゴムのような臭いと、迫(せま)り来る得体の知れ無い気配に戦慄(せんりつ)が全身に走り、参道を踏み蹴(け)る足裏の感覚が薄れて行く。早足は駆け足になって、お寺の境内(けいだい)へと上がるコンクリートの階段を一気に駆け上る。

(怖(おそ)ろし過ぎでしょ、ここは!)

 不思議な事に階段へ辿(たど)り着くと、間近まで迫っていた気配の動きが停まった。強い二重の結界を示(しめ)す二つ鳥居は階段を上った寺の裏庭に建っていて、まだ魔所を脱(だっ)していないのに二段飛びで駆け上がる僕へ近寄る音は消えていた。辺りは静まり返って、階段脇の小さな滝が流れ落ちる水音の響きと、背後に細く沢のせせらぎが聞こえるだけだ。動きが無いだけで、其処(そこ)此処(ここ)の黒や暗い灰色の塊の中に気配を感じる。ちらっと真っ黒な木立(こだち)の間に仰(あお)ぎ見た空は、まだ黄昏の明るさを保っているのに、ここは夜の暗さと違う深い暗闇に呑(の)み込まれて行く。

 登るに連(つ)れて薄れる寒さに吐き出した白い霧が小さく掠れて、二つ目の鳥居を抜けた時には初夏らしい暖(あたた)かさへ戻っていた。

 逃げるような勢いで参道への門を兼(か)ねた本堂と住居を繋ぐ軒先を潜(くぐ)り、手水(ちょうず)が湧(わ)き出る前庭で振り返って見た門の、今し方(がた)駆け抜けた向こう側は、参道脇の杉の大木の幹が見えないほど真っ黒だった。それは、艶の無い黒色の壁みたく見えて、まるでゲートの向こうの異空間、異世界を閉ざしているように思えた。灯っていた軒先の明かりも届かない闇の密度で、再び入ると戻って来れない気がした。

「御参りは、済まされましたか?」

 近くから優しい声が聞こえて振り向くと、二メートルほど離れて住職と思(おぼ)しき男の人が心配そうな顔で立っていた。ドキッと心臓が瞬間停止しそうなくらい驚(おどろ)いた! ……全く気付かなかった。声よりも傍にいた事にビビった。いったい、いつから其処にいたのだろう? 戻った時は黄昏色に染まる前庭に誰も見ていなかったのに……。

 慄(おのの)いた自分の顔が、目を見開き引き攣(つ)っているのが分かった。

「あのぅ、大丈夫ですか?」

 僕をまじまじと見ながら、心配そうに掛けてくれる穏(おだ)やかな声に、気を取り直し、姿勢を正して、深々と頭を下げて、

「御願いを済(す)ませて来ました。ありがとうございました」

 参拝の御礼を言って顔を上げ住職を見ると、住職は微笑(ほほえ)みを浮かべコクコクと頷(うなず)いてくれていた。再び優しげな住職へ御暇(おいとま)の会釈(えしゃく)をして、竹林を抜けて幹線道路へと続く暗い道を走った。くるりと背を向けた僕へ掛けてくれた見送りの、『お気をつけて』の声が地を這(は)うような低い響きで聞こえ、今も駆け抜けた沢沿いの闇の気配に見張られている気がして、僕は全速で逃げた。

 竹林を抜けて幹線道路に出ると以外と思えるくらい黄昏に明るさが残っていて、ますます沢谷の黒々とした暗さが異様に思えて来る。

 腿や肩や背中が泡立(あわだ)つ寒疣(さぶいぼ)と戦慄でプルプルと振るえるままに、人や自動車(くるま)の往来(おうらい)の疎(まば)らな寂しい道路をバス停へ向かって歩いていると、程無くしてポジションランプとフォグランプを点灯した自動車が、長い坂道を猛スピードで登って来て僕の横を通り過ぎた。と思ったら、『ギャン』と甲高(かんだか)く一瞬の急ブレーキを掛け、ガクンとつんのめる車体のままにロックされ軋(きし)むリアタイヤに悲鳴を上げさせて、暮れ行く薄い光りの中でも見えるくらいの白いタイヤのゴムが焼ける煙を纏(まと)いながら、ぐるんと強引にサイドターンを決めた。

 そしてシャープにUターンを決めても、なお余る惰力(だりょく)でピタリと僕の真横へ、お袋は愛車のRV車を停めた。相(あい)も変わらずのポジティブなドライビングでお袋は驚してくれる。

「帰るよ。ちゃんと願えたの?」

 下げたウインドーから少し顔を赤らめたお袋が僕を見て、早く乗れと手招(てまね)きをして促(うなが)す。妹も同乗していて後部座席のウインドー越しに笑顔を傾(かし)げて僕を見ていた。妹は今のサイドターンに平気だったのだろうか? アップダウンの続くワインディングロードのコーナーをタイトに攻めるお袋のドライブに、何度か気持ち悪くなっていたのを思い出してしまう。

(お袋……、帰りは落ち着いた運転で御願いします)

「ありがとう。しっかり御願いして来たから、大丈夫かな」

 それだけで、戦慄の恐怖体験は語らない。

「寒かったでしょう? 風邪ひかないでよ。帰ったら直ぐに、お風呂に入りなさいよ」

 サイドシートに座り終えて安堵する僕は、緊張で強張(こわば)った腕を温(あたた)かく摩(さす)られながら聞くお袋の声が嬉しいと思う。

「あーあ、こんなに冷えちゃってぇ。試合、頑張ってよ」

 後ろから妹がガシガシと摩って、冷えて固くなった首筋や肩を解(ほぐ)してくれる。

「ああ、サンキュー! 明日は勝つよ」

 肩から背中へと親身に摩ってくれる妹へ恐怖体験を話して、すっきり散らして仕舞いたいと思うけれど、妹を怖がらせるだけで、『夜中にトイレへ行けなくなった』と、恨(うら)まれるから教えない。

「勝つ気満々だね。御願いして何かが憑(つ)いたのはいいけど、よく一人で、こんな怖(こわ)いところへ来るよねぇ。マジに逢魔時(おうまがとき)でヤバそうだよ、ここは。アニキは平気なの?」

(わっけないじゃん! 平気のはずが無いだろう)

「……まあね。さらりと恐ろしいことを言ってくれるね、おまえは……」

 そう、何かが現(あらわ)れて危害を加えられたわけじゃないけど、あの気配は本当に不気味で怖かった…。妹が言うように、何かに憑かれたかもと思うだけで、ブルブルっと全身が震えた。

「明日は、最後の試合になるかも知れないし、こんどこそは、優勝したいんだ」

 お袋と妹が摩る続けて温まり始めた身体に、あれは、黄昏の明るさが届かない谷底の暗さに、闇を怖がる僕が想像で生み出した錯覚と幻聴だったのだろうと、既に頭の中は明日の試合のイメージトレーニングと妹のからかいへと、アクティブな思考に切り替って行き、忘却(ぼうきゃく)の彼方(かなた)へ封印したい祈願帰りの出来事が、もう夢のように思えて来ている。

 宵闇が迫り灯された街灯の照明が明るく見え始めた道路を、カーステレオから流れるお気に入りの歌を口ずさみながら楽し気なお袋は、揺れの無い滑らかな運転で家路を急ぐ……。

「あたっ」

 妹が僕の髪を引っ張り、

「痛う! やめてぇ」

 僕が妹の指へ抓(つね)り返して、ふざけ始めた時に聞き慣れたメロディーを携帯電話が奏(かな)でて、彼女からのメールの着信を知らせた。

「それ、彼女からでしょう? いいなあ」

 開いたメールを読む僕に、髪を掴んで読むのを妨害しながら耳許で冷やかす妹を、これが彼女ならと思ってしまう……。

(さあ、これで実力プラス幸運を齎(もたら)す神頼みをした! オペラ『フライ・シュッツ』と同じように、僕も魔所と契約した魔弾の射手になってしまったかも……。射る矢はフライクーゲル! 彼女の愛を射止める魔弾だ! なーんてね。でも、物語みたいに悲しみを伴(ともな)う結末は、御免だな)

 --------------------

 夕べは迎えに来てくれたお袋のRV車の中で妹とじゃれ合いながら、着信した彼女からの命令を見て僕は、そう考えていた。だから…。

 僕は集中力を保ち、まるで魔弾の射手ように連続で的の中心へ命中させている。なのに、後ろで『弓構え』を済ませて射番を待つ相手も、バラつきは有るけれども的へ当て続けているから、どこかで悪魔と契約を交(か)わしているのだろうか? そういえば、必勝願いをした昨日は土曜日、英語でサタデー。その語源はローマ神話のサタンだ。

 十一射目、先に射る僕の矢は十射まで同じ的の中心の白丸を貫いた。残心の姿勢を戻して次に射る二矢の補充で控(ひか)え場の矢箱(やばこ)へ向かいながら、競い合う強敵の射を見る。後に射る相手は十分に間合いを取って『引き分け』から『会』へと的を狙う。

(当たるだろうな)

 大会試合でこれだけ当て続けると流石(さすが)に僕の集中力が途切れて来て、これ以上は、射貫き続ける自信がなかった。個人プレーの競技は競(きそ)い合う相手を意識した時、勢う気力と強い意志と集中力が無ければ負ける。

 ……予感がした。……自分が射る次の矢は外すと思う……。僕は次の二射で勝敗を着ける覚悟を決め、矢箱へ手を伸ばした、その時、

 『ビィッ』相手の離れの音がおかしい!

 『カツッン、サクッ』相手の矢は、的の枠縁(わくぶち)に当たって脇へと弾かれ安土(あづち)の砂に刺(さ)さった。

『おっ、おおっ、おーっ』惑星麻酔で静止していたみたいな観戦の人達の列が、一斉に大きくどよめいた。

 僕を応援してくれていたサポーター達の歓声が一際(ひときわ)大きく聞こえ、特に女子達の蕩(とろ)かすような黄色い声は、僕に勝ち残った実感と嬉(うれ)しさを染み込ますように繰り返されて、係員に静まるように促されるほどだった。そして、僕の優勝が決まった。

(やっ、やったあー! すっごいぞぉー! 黒壁山様、ありがとうございます)

「応援していただき、ありがとうございます。優勝できたのは、皆様の応援のおかげです。ありがとうございました」

 優勝者が行う大会終了の礼射(れいしゃ)の準備を待つ間、道場の外の控え場で応援して頂いた皆さんへ感謝の気持ちを伝えてから、個人代表になれた男子と女子の四人で記念撮影を済ませると、部員達が何度も胴上げをしてくれた。僕はめちゃくちゃ嬉しくて、ステップを踏んだり、バク転をしたりして全身で喜(よろこ)んだ。

 大勢の他校の女子生徒達も御祝いに来てくれて、『おめでとうございます』と、笑顔で祝ってくれる女子の一人一人みんなに『ありがとうございます』と、満面の笑(え)みで御礼を言った。殆どは知らない女子ばかりだけど、以前に手紙をくれた女子もいて握手をしてしまった。次々と女子達が話し掛けてきて、何人もの女子といっしょに写真に収まった。もう僕の心は舞い上がって彼女を見失いそうだ。

(もっ、もしかして、僕はもててるん?)

 これほど多くの女子に囲(かこ)まれたのは初めてだ。頬(ほほ)を紅に染め潤(うる)んだ目で手紙をくれる女子も何人かいた。こっそりと、中には堂々とみんなの前で渡す女子もいる。僕はドギマギしながら一人一人にお礼を言って受け取っていた。

 男子部員達は、お祝いに来てくれた女子達と話が弾んでいる。女子部員達もいっしょになってワイワイやっている。みんな楽しそうだ。アクションや華(はな)やかさが少ない地味(じみ)な武道の弓道が、こんなにも人気(にんき)が有るスポーツだなんて知らなかった。

 僕は試合後にするべき事が有った。取り囲む女子達で気持ちが昂(たか)ぶり興奮していたけれど、その事を考えると心が憂(うれ)いた。でも、その事が有ったからこそ、僕は今日の大会を最後まで集中力を途切らせずに勝てたんだ。

 顧問の先生が、団体戦も個人戦も矢が全て中心の円内に命中しているのを、驚きながら褒(ほ)めてくれた。それは彼女からの励ましと彼女への想い、そして、黒壁山へ神頼みした御蔭だと思う。

(良かったね、先生。優勝実績ができて。個人戦ので団体の優勝じゃないけれど、ここ二年間、試合の結果に優勝がなかったから。これで来年度も予算を確保できるね。僕も弓道部部長として自ら語った部長方針を実践できて良かったです)

 礼射用に交換された新しい的の正鵠のド真ん中に命中させると、弓道場全体が沸き返って、拍手喝采(はくしゅかっさい)を浴びるスマシ顔の僕は有頂天(うちょうてん)だった。気分良く礼射を済ませて控えに戻ると、帰りにファミレスで御祝いすると言う部員達や女子達の御招待を丁重に断(ことわ)り、急ぎ彼女の居る県立中央病院へ向かった。

(今日は凄いぞ! 最後まで全弾命中じゃん! しかも正鵠だけ。こりゃあ、彼女のハートも射抜けるかも!)

 --------------------

 三日前に、インターハイに出場する選手を選ぶ試合が開催される事を知らせ、加えて、『是非(ぜひ)、君に応援して欲(ほ)しい。僕の応援に来てくれますか?』 と、お願いすると、『盲腸(もうちょう)で入院したんだけど、夏風邪を拗(こじ)らせて入院が長引いているの。だから応援に行けない。……今、励ますよ。がんばって優勝しなさい!』と彼女に返信された。

 その返信文に打たれていた、『がんばって優勝しなさい!』の強い励ましの言葉は、僕に集中力を保ち続けさせた。本当に、優勝できたのは彼女の御蔭だ。

 見舞いに行こうかと思うけれど、病室には家の人や他の患者さんもいるかも知れないと考えたら、恥ずかしくて何か口実でもないと見舞いに行く勇気が無かった。

 昨日、黒壁山へ向かうバスの中で彼女へメールをした。

『試合に勝ったら見舞いに行くよ』と。勝った勢いでの報告が口実だ。

『見舞いに二十一世紀美術館のアップルタルトを持っていく』も追加する。報告だけの手ぶらじゃ行けないし、照れ臭くも明日はそうなれば良いと願う。黄昏が宵闇(よいやみ)に変わる頃、彼女から返信が来た。

 --------------------

 バスを乗り継ぐ金沢駅の花屋で見舞いに持って行く花束を作って貰(もら)った。ここに来るまでに何度も彼女に渡す場面を想い描いたバラの花束だ。

 彼女の希望は、『アップルタルト』ではなくて『可愛(かわい)い薔薇(ばら)』だった。

 店の人がバラを選んで下さいと、花だらけの店の一角(いっかく)を指(さ)した。バラに多くの種類が有ると初めて知った。様々な色、形、大きさが有る。

 一瞥(いちべつ)して迷わずに彼女のイメージ色のと、ちょっとキザな自分色のバラを選んだ。互いの歳の数で、彼女の周りを僕が守るようなラッピングを頼んだ。

「お見舞いの…… いえ、告白のラッピングで……」

 店の人は一瞬、驚いた顔をして僕を見たけど、直ぐに笑顔になってバラを包(つつ)み始めた。僕は僕自身に驚いていた。よくさり気なく言えたものだ。なぜ彼女には言えないのだろう。

(花束を渡しながら気持ちを、言葉に…… 声に…… できるだろうか)

「あなたの…… 想いが叶いますように」

 店の人は代金を払い終えた僕に、花束を渡しながら言葉を添えてくれた。

「はい。ありがとうございます……」

 添えてくれた言葉に礼を言いながら、急に気持が萎(な)えて来る。

(彼女に会いたい、彼女を見たい、彼女の笑顔を見たい……)

 でも、嫌(きら)われたくないし冷(つめ)たくされたくもない。せっかく今、良い友達になっているみたいなのに。

『告白のラッピング』なんて言葉に出来ない。声に出したら嫌われそうだ。きっと道端の石を見るような目で僕を見るだろう。

 三ヵ月分の小遣い額のバラをバス停に置いて、家に帰ろうかと思った。だけど、『試合に勝てば見舞いに行く』と、彼女にメールを送っている。

『花がいいな。可愛い薔薇の花。タルトは魅力的だけどいらないよ。太るから』と、返事が返って来ていた。萎えた気持が僕を迷わす。

(彼女は喜ぶかな…… 喜ばせたい。嘘(うそ)つきにはなりたくない)

 僕は弓とバラの花束を抱えて彼女が入院する病院行きのバスに乗り込んだ。

 告白の意味を込めたバラを彼女に渡す。でも僕はそれを言葉にせずに、お見舞いの花だと言って渡すだろう。今までがそうだったように想いを告げると、全てが振り出しに戻ってしまう。

 出来るだけ明るく今日の試合を報告しよう。話題が途切れたら何を話そう。弓と彼女への想いしか僕にはない。その弓も彼女への想いに到(いた)ってしまう。

 僕の考えや行動は全て彼女への想いに行き着く。それは、彼女が好きだという想いだけで、好きの行き先や想いの横展開は、漠然とした思いでしかなかった。

(彼女は、どうなのだろう? 彼女の気持ちや考えは、どんなのだろう?)

 僕の想いを受け入れてくれない彼女しか知らない。バス事故でのパーソナルスペース・ゼロは状況的に彼女の気の迷いでしかないだろう。事故以降の朝のバスでは、ムードが少し柔らかくなったみたいだけど、話し掛けれるような態度をとってはくれていなくて、僕の想いは突然断崖に辿り着く一方通行でしかない。僕は彼女にどう接して良いのか全然分からなかった。

(自分の事を話してくれるだろうか? いや、彼女は自分の内側を僕に見せないだろう)

 結局、今まで遣り取りした互いのメールの内容を繰り返すしかない。出来事の上辺(うわべ)だけを書き留めて提出したレポートを読むように。

 バスを降り、診療時間が終了して人気の無いロビーを、判決が言い渡される罪人のように、前へ進むのを躊躇(ためら)う足で歩く。足の裏からリノリュームの床を踏む感覚が伝わらない。それでも、金沢駅で…… バスの中でも…… そして、今も直ぐに霧散(むさん)して消えてしまいそうな勇気を奮(ふる)い立たせ、一直線にインフォメーションへ向かった。

 係りの人に彼女の病室を尋(たず)ねる。彼女の名を告げる僕の声は高ずり擦(かす)れた。僕の口ではなくて違う孔から音が出ているみたいだ。

 小学六年の何度も遣り直されて歌わされた、音楽の時間を思い出す。

 花屋での然(さ)り気無い言い方が出来ない。だんだんと顔が赤くなるのがわかり、なんだかクラクラしてきてカウンター越しにいる係りの人の声が、ずっと遠くから聞こえて来る。

「あのぅ…… 本日…… 退院されています」

 熱っぽく感じる。風邪をひいたのかも知れない。 それとも試合の疲(つか)れが出ているのかも……?

(ん! ……退院……?)

「ええっ!退院だって? それ本当ですか?」

(なぜ、僕に何も知らせず退院する?)

「はい、確かに入院されている方のリストには有りません。本日の退院になっています」

(そんんなぁ……。勝てば見舞うってメールしたのに)

 直ぐに携帯のメールをチェックした。彼女からのメールは届いていない。

(今日…… 退院したのか……。やはり、……勝てないと思われていたのか?)

 振り絞った勇気は、塩を掛けたナメクジのように溶(と)けて消えた。緊張が解(ほぐ)れて風邪を引いた感じや熱っぽい感じも消え失せたけれど、替わりに脱力感と疲労感の重みが加わった大気で、ガクッと落ちた肩と折れ曲がった腰が、そのまま砕けて潰(つぶ)れそうな気がした。

(あーん、ショックだぁ~。床に転(ころ)がって休みたい~)

 重くなった空気は上手(うま)く吸い込めなくて息苦しい。

「あっ、ありがとうございます。わかりました。退院してたんですか……」

 お礼を言いながら約束の花束を抱(かか)えているのを思い出した。

(バカみたいに持って帰れないよな。……今もバカみたいけど)

 まして、彼女の家まで届ける勇気は無かった。

「すみませんが彼女に連絡しておきますので、明日受け取り来たら渡して貰えますか? お願いします。来なかったら自由(すき)にして下さい」

 そう言って、インフォメーションのカウンターにバラの花束を置く。

 入院原因の急性虫垂炎と退院が延びた理由の夏風邪くらいで退院直後から通院するなんて、整形外科のリハビリ処方じゃ有るまいし普通に無いと思う。だけど、折角ラッピングまでして貰った花束を捨て置くに忍びない僕は、飾ってくれるかも知れないインフォメーションのカウンターへ渡すのに、この口実しか思い付かなかった。なのに、通院や入院して来る患者、見舞いに来る患者、それぞれに様々な事情が有る事をよく理解しているのだろう、『預(あず)かれません』とか、『ご自分で、お渡しになれば』なんて、非情な言葉で断わらずに、対応してくれた女性は『分かりました』と頷いて受け取ってくれた。

 アンブッシュを警戒しながらジリジリと侵攻するポイントマンのように緊張していた御見舞いは、退院の御祝いに変わってしまった。通院をするのかも知らない明日、彼女は花束を受け取りに来るだろうか? いや、必ず取りに来ると思う。

(でも、明日まで花束は持つのだろうか? まぁ、いいか……。約束は守ったのだから)

 張り詰めた気持ちが解れて帰ろうと向きを変えた時、我(わ)が目を疑(うたが)った。流れる視界の端(はし)に待合ロビーの隅に座(すわ)る彼女が写り込んだ。

(エッ、エネミー! じゃなくて、かっ、彼女ぉ~? ……なのか? なんでまだいるん? しかもなぜ、ここに?)

 退院したと係の人が言っていたのに、まだここにいるのは母親の所為なのだろう。母親らしき人が会計窓口にいる。きっと迎えに来るのが遅(おく)れて、今はたぶん、入院費の精算中なのだ。そして彼女は僕に気付いていない様子だった。

(どど、どうする? 声を掛けるのか? 花束を回収して渡すのか? どうしょう?)

 溶けた勇気を急いで掻(か)き集めて、それから大事な花束を掴んで声を掛けようかと思ったけれど、やめた。

 さっと、ほんの僅かな時間だけ見た彼女は、そんなパーマをしたんじゃないかと見間違(みまちが)うほど、見事にボサボサの髪だった。黒髪や白い肌に艶が無い。相変わらずヘッドホンを掛け古いポップスを聴(き)いているみたいだけど、元気もなさそうに見えた。そんな姿を彼女は、僕に見られたくないだろうし会いたくはないだろう。声を掛けて話すのが怖い。

 意気地(いくじ)の無い僕は、勝手で仕様が無い言い訳を集めてその場を離れ、彼女を横目で見ながら気付かれない内に帰ろうと出口へ向かう。

(すぐそこに、彼女がいるのに……)

 病室のベッドに半身を起こした彼女の横で試合の報告を笑顔でする。試合中に過ぎった想いを話して二人で笑い合う。そんな事を何度も思い描いてここに来たのに……、真(まこと)に残念な自分だと思う。

 金沢駅行きのバスは、あと十分待ちだ。バスを待つ間にしょぼくれながら退院祝いのメールを送る。

【退院おめでとう】

 優勝した喜びを、声を掛けられなかった情(なさ)けなさが覆って失せさせていく。

バスが来るころに、遠くのゲートを出て行く乗用車の助手席に乗っている女性が彼女だと分かり、そしてメールが着信した。

【ありがとう。退院したの、伝えなくてごめん。弓、勝ったみたいね。そっちこそ良かったじゃん】

 彼女からの御礼文だった。彼女は僕に気付いていたのかも知れない。そう思うだけで覆われていた情けない気持ちが薄れていく。僕は花曇りの気分でメールを打ち返す。

【お見舞いの花は、インフォメーションの人に言付けました。明日、通院の時にでも受け取って下さい】

(やっぱり声を掛ければよかったかな。あのボサボサ頭の彼女も可愛かったな)

 僕の気持はガサツでズーズーしい。鈍(にぶ)い僕は繊細な彼女の心を踏み躙(にじ)りそうだ。

【素敵(すてき)! 薔薇の花だね。嬉しい。名前はたぶん、ファーストラブ。白いのはスノードルフィンかな。綺麗(きれい)で可愛くていい匂いだよ。ありがとう】

(ふーっ… 声を掛けなくて良かった)

 声を掛けていたら、このメールは来なかっただろう。彼女の素直な気持ちが嬉しい。

(名を訊(き)かずに買ったピンクと白のバラはそんな名前だったんだ。彼女のピンクはファーストラブ…、僕の白はスノードルフィン……、いいね…… んん!? これって、やっぱり僕に気付いてバラを受け取ってくれたのか?)

 金沢駅へ向かうバスの中で、僕は一人、嬉しくて笑っていた。

     *

 インターハイ開催地へ移動する前日にメールをしてみる。

【全国優勝したら、交際してくれますか?】

 僕は賭(か)けに出た。自分を追い込んで集中力を高めるようとした。

【いやよ! 私をそんな対象にしないでよ。関係無いでしょ! 全国優勝すると、どうだって言うの。それに受験勉強で大変なの。今、そんな暇(ひま)は無いし考えたくもないわ。私に構わないで! まあ…… 応援するけど、一人でがんばりなさい】

 翌日、インターハイ開催地へ向かう列車の中で彼女から返信が届いた。

(いや…… よ。……か。賞品のように扱(あつか)った事になのか、僕が嫌いなのか、どちらだろう? きっと両方ともで、僕の発想や考えも含めて嫌なんだ)

 つれない文がショックだったけれど、それより僕は後悔した。気持ちを集中させる為とはいえ、彼女を利用しようとした。優勝を交際条件にして迫ったのは大間違いだ。確(たし)かに優勝する事と彼女の気持ちは関係無い。自分のせこさと小ささを呪(のろ)った。

 僕は有頂天(うちょうてん)になっていたんだ。大勢の女子達にチヤホヤされようが、たくさんラブレターを貰おうが彼女には知った事じゃない。

 自惚(うぬぼ)れと勘違いが僕を錯覚させていた。いつしか彼女の気持ちも僕に向いている気がして、彼女を自分の物のように思い込んでいた。彼女は物じゃないし、気持ちも僕に向いてなんかいない。僕は彼女に相応(ふさわ)しいなんて思えるような男じゃなかった。それ以前の問題だ。

 急速にインターハイに出場する魅力が失せていく自分に言い聞かせた。

(彼女は関係無い。いつも通り自分にできる事を精一杯しろ。後悔しないように) 

 明日は、午前中に開会式で予選は午後からだ。

     *

 八月初め、石川県の個人戦代表で出場したインターハイは予選落ちした。予選は、四射して三中以上が通過できるけど、二中しかしなかった。全国規模の大会は初めてで、レベルの高い試合に出られる事に、気持ちが舞い上がってしまった。

 足腰が落ち着かず、まるで砂浜の波打ち際に立っている気分だった。足裏の砂が流されて、今にもよろけそうで踏ん張れない、弓を持つ左手の震えは停まらなかった。全く集中できなかった。やっぱり僕は彼女を身近に感じていないとダメだ。

 でも、試合に負けたのは彼女の所為じゃない。それでも、……せめて、『がんばって!』とか、『デートぐらいは……』なんて直接的なメールが来ていたらと思った。取って付けたような、『まあ……、応援はするけど』ってのは、心が無い漫(そぞ)ろさで気持ち的に辛(つら)いと思う。

『いやよ!』構える一矢、一矢ごとに彼女からの文字が言葉になって、頭の中で彼女の声が響く。狙いをつける手先と呼吸がシンクロしないまま感だけで矢を放っていた。場数を踏める地方の試合じゃなくて一度切りの全国レベルの大会では、精神鍛錬を怠(おこた)っていた僕の弓は通用しない。きっと、教えの道の無我(むが)の境地を悟らなければならないのだろう。僕にはこじつけと人に頼ってばかりの軟弱な精神しかない。それとも、何事にも動じない強烈な我の心や考えが必要なのだろうか?

 予選落ちをしてしまった事が心を暗くさせる。

(晩御飯に特上の鰻丼(うなどん)を、御馳走(ごちそう)してくれた顧問の先生、予選落ちして御免なさい)

 これで三年生の部活は終わりで、これからは進学や就職活動に専念する事になる。これから先、社会人になっても弓道はしないだろう。この時にそう決めた。

 最後の試合だったのに、自分の不甲斐無さが情けなくて残念で悔(くや)しい。僕の弓は満開の桜の枝を折った瞬間に、枝の花が全て散ってしまったような思いで終わりそうだ。

 残りは定期審査の再挑戦だけだ。

     *

 晩秋の曇り空の下、弓道連盟の定期審査会が行われた。いわゆる昇段試験だ。今回は弦の切れる事は無く、八節の姿勢も乱れる事はなかった。放った矢はいずれも綺麗に的の中心を射抜き、僕は審査に合格した。

 即日、初段認定証が交付されて僕は、やっと弓道有段者の資格を得る事ができた。その証書は二年半の間、邪心(じゃしん)がいっぱいだったけれど弓に打ち込んできた証(あかし)のように感じる。そして僕が一矢、一矢に彼女を意識した日々の証明だった。

 定期審査会の後は学校へ行き、弓と懸けを弓道部へ寄贈した。

(ノウハウは教えたのだから、これからは自分達で創造して行って下さい)

 呟きで願(がん)を掛けてから放った矢は、後輩達から寄贈を御願いされたが誰にも譲(ゆず)らないと断った。

(まだ彼女のハートを射貫いていないから譲れないな)

 殆んど手作りの矢は彼女への縁起(えんぎ)担(かつ)ぎの為に自分が持っている事に決めていた。

(これで本当に僕の弓は終わりだ)

 白い羽に淡いピンクと明るいグリーンのラインの入った矢を握りしめて僕は実感した。

 深く一礼して僕は学校の弓道場を離れた。外は風を巻いて冷たい時雨(しぐれ)が降り頻(しき)り、時雨を巻いて吹き荒(すさ)ぶ風に北陸(ほくりく)の冬の匂いがする。傘を差しても時折吹く寒風で開(はだ)け、時雨の飛沫(ひまつ)で濡れるままのコートの前ボタンも留めずにバス停へ歩きながら、思春期の片想いの恋なんてアニメかライトノベルのような数ヶ月の短期間で成就するはずがないと思う。彼女と接近させるイベント性に満ちた出来事なんて年に一回か二回しか起きず、破(やぶ)れかぶれの大胆さは有っても内向的で彼女に対して明るく振舞えない僕に、急展開は有り得ない。

 もし、お互いがアニメのキャラのようにスラスラと歯切れ良く話せて、サクサクと行動するノリの良い性格で、告白に告白で返されるみたいな相思相愛の仲になり、中学二年生でファーストキスを経験していたならば、今は……、ディープなラブラブになっている…… と、後悔しかけたところで考え直す。

 身体と性の発育に、常識的な理性も、知識も、判断も、思春期の僕達は追い付かない。キスの次はタッチ、その次は肉体を求める性交となって、肉欲の果(は)ては一年と経たずに彼女の御懐妊(ごかいにん)だ。アニメみたく大人に成るまで待てない。そして子供が子供を産むか、堕胎(だたい)の二者択一(にしゃたくいつ)に追い込まれてしまうだろう。二人だけの問題ではなくなり友達や家族や学校も巻き込んで、その不自由さの中に二人の気持ちは離れてしまうかも知れない。

 それでも、相思相愛になれていたらと、舞う風に吹き上げた雨の繁吹(しぶ)きを頬に浴(あ)びながら悔やむ僕は戻れない過去に願う。だけど、今は違う。初夏から真夏までの一連の出来事は、たぶん、来年の大学入試の合否判定後に起こるだろう親密な急展開を予感させている。

 なのに、それまで大学受験勉強に集中して貰う為に送るメールを自粛(じしゅく)している自分と、そして、本当に久しく連絡を途絶(とだ)えさせている彼女に、苛(いら)ついて詛(のろ)いたいくらい落ち着かない僕の心を、肌を濡らす冷たい時雨の寂(さび)しさが浸(ひた)して、悲しいくらいに不安にさせた。

 

 ---つづく