遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

可愛い薔薇(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 参

 六月初頭の日曜。
 今日は、弓道の試合がある。
 正式名称が全国高等学校総合体育大会、通称インターハイへ出場する団体と個人の選手を選抜(せんばつ)する石川県地区大会だ。
 この大会で団体、個人の両方の試合に負ければ、三年生は部活から引退する。
 勝てると、団体優勝校と個人の優勝者と準優勝者が、八月のインターハイに石川県代表として出場できる。
 これが事実上、高校生の部活で参加できる最後の石川県の公式試合になる。
 兎(と)に角(かく)、今日は最後まで勝ち残れないと、僕の弓道は、彼女へ捧(ささ)げる結果が何も無いまま終わってしまう。
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(弓道か……、この学校には、弓道部が有るのか)
 高校に入学して少し落ち着いた頃、校内を探索して弓道場を見付けた。
 弓矢には、歴史の授業で習った、平家(へいけ)の姫様が舟に揚(かか)げた扇(おおぎ)の的(まと)を射落(いお)とす源氏(げんじ)の那須与一(なすのよいち)や、大鎧(おおよろい)に身を固(かた)めた馬上の武士達が、赤と白の流れ旗を掲げて射合わせた、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いなど、雅(みやび)いた繊細(せんさい)な感じがして、血生臭(ちなまぐさ)さを感じないイメージが有った。
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 各校が五名のチームで挑み、的中数を競う団体戦は、二位の結果で終わり、石川県代表校には成れなかった。
 次は個人戦だ。これが、高校最後の試合になるかも知れない。
 試合の出場者は、弓道の作法に従(したが)って、矢を射なければならない。
 八つある一連の基本動作に沿(そ)い行い、礼(れい)を用いて一矢(いちや)と成(な)す。
 『足踏(あしぶ)み』、『胴造(どうづく)り』、『弓構(ゆがま)え』、『打起(うちおこ)し』、『引分(ひきわ)け』、『会(かい)』、『離(はな)れ』、『残心(ざんしん)』。
 これらを射法八節(しゃほうはっせつ)という。
 射法八節を、あまりにも乱雑に行うと、試合に参加している其の射手は失格になってしまう。
 弓道など武道の道は、自分の所業を鍛錬(たんれん)する悟(さと)りの道で、礼に始まり礼に終わる。
 故に、礼儀(れいぎ)を失(うしな)ってはいけない。
 『足踏み』。
 矢を射る姿勢は、足踏みで始まる。
 的を見ながら、足を約六十度の外八(そとはち)の形に開く。
 両の爪先(つまさき)は、的の軸線に合わせ、開き巾は矢の長さほどだ。
 自分の体格に合った開き巾にしないと、フラついて次の胴造りが定まらない。
 要は、射にバランスの良いスタンスだ。
 『胴造り』。
 射矢(しゃや)の飛翔(ひしょう)を安定させる姿勢は、全て胴造りで決まる。
 週三日、金石(かないわ)の海岸への走り込みと、金石から金沢(かなざわ)港口の大野(おおの)までの砂浜や道筋の途中で行うサーキットトレーニングは、この胴造りの為(ため)だ。
 走り込みは、上半身が振れないように走る。
 大抵(たいてい)は陸上競技の経験が無いと、最初は前後左右に振れていて、人によっては、ダラけているようにも見えてしまう無駄(むだ)な動作が多い。
 意識付けさせて、ランニングフォームを矯正(きょうせい)して行くと、二ヶ月ほどで、余計な力みが無くなり、走る動作や呼吸が楽になる。
 臍(へそ)の下に気持ちを集中させて、身体(からだ)全体の重心をそこへ置くように心掛ける。
 便意を我慢するみたいにお尻に力を入れ、くっ付けた臀部(でんぶ)の双丘を後方へ突き出す。
 腰に、股間(こかん)に、太腿に、膝(ひざ)に、脹脛(ふくらはぎ)に、足首に、踝(くるぶし)に、踵(きびす)に、爪先に、足の表と裏に、下半身の全(すべ)てに強く力を入れ引き締めてから、柔(じゅう)の撓(しな)りを残すように力を抜(ぬ)く。
 背中を突然、強く押されても上半身はわずかしか揺(ゆ)らがない。
 普通に押すくらいなら微動もしない。このコツを掴(つか)むのに半年も掛かってしまった。
 朝の通学バスで、彼女の横へ立つ時も胴造りを意識した。
 八節の姿勢のままは、見た目に誤解を招くかも知れないから、足踏みに開いた足の裏から腰までを、微動もさせないように感覚を集中する。
 走行中の揺れるバスの中で、不慮の事態が発生すれば、よろめく事なく、適切に対処して、速(すみ)やかに彼女を守る姿勢が取れるようにと思っていた。
 飛翔する武器の命中率は、打ち出す時の安定に左右される。
 大砲に例(たと)えるならば、顔や目は照準器だ。
 距離を測(はか)り狙(ねら)う。
 右手はトリガー…… 引き金。
 左腕は砲身で、真っ直ぐにして曲がりや歪(ひずみ)みが無いようにする。
 上半身は砲塔でしっかりと的に向かう。そして、下半身は大地に固定された砲座だ。
 しっかりと固定しなければ、一射ごとに歪が出て外(はず)れてしまう。
 僕は、お尻の穴に力を入れて、下半身を床と一体で繋(つな)がっているかのように意識する。
 『弓構え』。
 弓に埋(う)め込んだピンクの糸が、目印の一番良いグリップ感の位置で握(にぎ)れるように、握り具合を微妙に直(なお)しながら、正面の目の高さで、弓に矢を番(つが)えに掛かる。
 矢は筈(はず)の溝幅の修正を、毎回一ミリの四分の一とズラしてはいない。
 グリップや番える位置の一ミリのズレは、二十八メートル先へ到達する矢を、十センチ以上もバラつかさせてしまう。
 矢を番える動作の両腕の形は、水平に円を作るような感じにする。
 先輩達の言い方だと、『女の子を、優(やさ)しく抱(だ)くように』だ。
(わかりません。女の子を抱擁(ほうよう)した経験はないです。それに優しくって…… なに? ……胸がキュンとなって、抱き寄せたい気持ちになった事は、はっきり言って有ります。でも、それ以上は、想像しかできません。まして、優しくなんて抱き加減は、感覚が想像できないです。妹には……、シ、シスコンじゃないので、試(ため)せません。すいません、先輩)
 一年生の時、指導する先輩の例えに、そう思った。そして、今でも未経験だ。
 抱き加減は知らない。でも、弓構えの姿勢では毎回想像した。
 彼女を優しく抱きよせて……、優しい言葉で胸がキュンとする。
(なんて話せば、いいんだ? 僕は、優しい言葉を、見付けられるだろうか?)
 だけど今は、優しく抱き留(と)める、肌の触れ合いを知っている。
 バス事故からは、救急車の中で、僕に被(かぶ)さる彼女の背に添(そ)えた感覚が、右の腕に残っていた。
 押さえ付けられた左の腕には、柔(やわ)らかな彼女の胸の感触が有る。
 触(ふ)れた彼女の、背と胸。
 顔を起こせば、唇が触れそうなくらい、間近で見た彼女の心配そうな顔。
 そのウルウルした瞳から溢(あふ)れ出て、頬を伝う涙。そして、僕を満たした彼女の匂(にお)い。
 今も、鮮明に甦(よみがえ)る記憶だ。
 それは、弓を引く僕に、安らぎと愛(いと)おしさを与え、優しい気持ちで満たしてくれる。
(ちゃんと、キスをすれば、良かったな)
 下校のバスの中で触れた、眠る彼女の頬と唇を思い出す。
 木目(きめ)の細かい、スベスベした弾力の有る肌、夕陽に焼けて熱かった事も、そして、彼女の良い匂いを間近に憶(おぼ)えている。
 矢を番えた弓を、左の膝頭(ひざがしら)に乗せ、二射目の矢は、矢掛けを付けた右手の薬指と小指で鏃(やじり)部分を握って持つ。
 その右手を腰骨に宛(あて)がって、待機の姿勢となる弓構えの形を作り、顔を的へ向けて射番を待つ。
 優しい気持ちは、直ぐに未経験で不甲斐無(ふがいな)い自分への憤(いきどお)りに変わってしまう。
 その勢いで、弓を引き、矢を放ちに行く。
 想像で、葛藤(かっとう)する気持ちが楽しい。
 僕は一瞬、白昼夢の中にいて、優しい気持ちの形で、矢を番えて構(かま)える。
 『打ち起こし』。
 彼女を抱くように、右手を弦へ宛がい、弽(ゆがけ)の親指の段差を弦へ掛けて、トリガーをセットする。そして、顔を的へ向けたまま、矢を番え、引き切る準備ができた弓を、体の正面約四十五度の高さまで、すぅーと持ち上げて行く。
 弓を上げる事で、大きな力になり水平に引くよりも、引き易(やす)くなる。
 こんなふうに、彼女を抱き上げられるだろうか……?
 たぶん、彼女の重みに、僕の腕力が耐えられないと思う。それに、今はまだ、絶対に彼女が暴(あば)れるから、お姫様抱っこするのは、無理な事だと知っている……。
 八節の動作は愈々(いよいよ)、自分自身との戦いの深みに入って行く。
 『引き分け』。
 弓を握る左手は、しっかりと弓を押して、左へ絞(しぼ)るように回しながら、両腕を両外側へ弧(こ)を描(えが)くように弓を引く。
 ギシギシ、キリキリと弓が撓って引かれて行く。
 背中の左右の肩甲骨が、触れ合うくらいに胸を張って引き切る。
 弓は、背筋(はいきん)で引く。
 腕の筋肉は、弓や矢を保持するのに、肩の筋肉は、フォームの形を整(ととの)えるのに使う。
 ちゃんと矢先が左手の親指の第三関節(MP関節)の凸部と弓の間に有るか、確認と意識しながら左手の人差し指をピンと的方向へ伸ばして引き切って行く。
 人差し指を伸ばさないと、押す力を入れる腕と手首の筋肉の張りが撓み、後の動作の『会』と『離れ』が緊張の緩んだ動作になって、狙いと射が安定しなくなる。それに、射姿(いすがた)が美しくない。
 矢を番えた弦は、顔の真後ろまで引く。
 このまま、何も工夫(くふう)無しで、矢を放つと、まともに右耳や右頬に弦が当たってしまう。
 これは痛い!
 一瞬何が起きたのか、分からず、弓を落とす事も有った。
 落とした矢は、外れ矢と同じだ。
 試合では、拾(ひろ)う事が出来ない。
 矢羽(やばね)で頬が切れる時もある。これが続くと、矢を射る度に、逃げるように顔を反(そ)らしてしまう。
 退(ひ)け反るのが癖(くせ)になってしまうと、意識的な矯正の努力をしても、なかなか治(なお)ってくれない。
 それで、弦が耳や頬を避けて戻るように、外向きの左回りへ弓が回転する捻(ひね)りで、絞りながら引く。
 この絞り加減が大事で、絞りが弱いと、頬を擦(す)って火傷(やけど)する。それは、益々、仰(の)け反(ぞ)りを矯正できなくしてしまう。
 絞り過ぎると矢が踊り、狙いが定まらない。また、弦や矢羽が頬を掠(かす)る覚悟をしたり、仰け反らないように意識してしまうと、肩に力が入って、離れの反動を吸収できず、射道(しゃどう)が乱(みだ)れてしまう。
 矢が、有らぬ方向へ飛んだりもするから、非常に危険だ。
 常(つね)に弦が、頬に擦らないギリギリのところを通るように、絞り加減が出来なければならない。更に、矢を放った時に、弓が跳ね上がらないように、手首で弓を下向きに押す。
 押す加減は、左手の手首から先の親指と人差し指の間の皮膚面が、立てた手の上面と同じ水平面になるまで、前へ傾ける様に下げるくらいが、丁度良い。
 弓が跳ね上がると、的場(まとば)の屋根を越えてしまう事も有るので、非常に要注意だ。
 『会』。
 弓を引き切って、的を狙う。
 この時に、的に当てようと気が逸(はや)ると、狙いを付ける前に、弦に宛がった弽の親指の力が緩み、弦を充分に引き切る前に矢を放ってしまい、射線は正確でも、射速の勢いの無い矢は的の手前で失速して落ちてしまう。
 一度、勇(いさ)み足で矢を放ってしまうと、今度は、しっかりと狙いを付けようと思うプレッシャーが、再び早く矢を放させて、厄介(やっかい)な癖(くせ)を付けて来る。
 この癖を早気(はやけ)と言い、上級者に指導されて上達したプライドの高い人が癖を付け易く、自分の意思や鍛錬だけで直すのは困難だった。
 直すには、仲間とマンツーマンで矯正(きょうせい)して貰うしかないが、独力で上達して行く者だと、早朝の誰も居ない射場で姿見の鏡に映る自分の姿勢を見ながら、何度も、何度も、矢を放って自力で矯正してしまう。
 『会』の弓を引き切る姿勢の時、腕を水平に伸ばして掌を立てると、大抵の人は、肘(ひじ)の内側が、45度よりも浅い角度で上に向いてしまう。
 弓を持つ左腕は、弓を構えたら、肘の内側を立てなければならない。
 肘の内側が、垂直の壁のように、真っ直ぐ立つと、左肩に力が入らなくてすみ、上下方向の狙いが定まる。
 左腕と右腕が直線になって、安定した構えの綺麗(きれい)な『会』の姿勢になる。
 八節の姿勢を綺麗に整える事は、重要で、全ての節(せつ)の動作に余分な力が入らず、動きは滑らかになり、矢の勢いと飛距離も増して、鋭(するど)く飛翔してくれる。
 呼吸を整えて的を狙う。
 和弓(わきゅう)には、的を狙う為の照準具や目印を付けたりしてはならない。
 照準は、日頃の練習によって体得した感のみだ。
 八節の全ては、的に中(あ)てる故(ゆえ)の、『会』で集約される、
 理(り)に適(かな)った弓道の動作であり、作法だ。
 狙い目は弓巾一つ分の右、的一つ分の上だ。
 右に向けるのは、矢を放つと絞っている弓が回転するからだ。
 上向(うわむ)きは、放った矢が、それほど低伸(ていしん)しないからだ。
 僕の矢は、二十五メートルぐらいで急速に沈んで行く。
 僕は、弓道の教えにあるような無心になれない。
 外見だけは、真摯(しんし)に弓道を行うフリをする。
 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、目線を固定して、奥歯を噛み締めて口を閉(と)じる。
 いかにも、作法通りに弓道をしていますって感じに、顎(あご)を引いて、背筋を伸ばして、胸を張る。
 他(ほか)にも、三重(さんじゅう)十文字(じゅうもんじ)や五重(ごじゅう)十文字など、身体の部位や筋と弓矢がクロスする、大切な基本体型がある。
 三重は、初めの二節で、五重は、八節を通して維持されるべき型なのだけど、的に中(あ)てる為の理に適う八節の動作を行うならば、自(おの)ずと、その型を成すので、僕は敢(あえ)て意識をしない。
 試合では、的に当てる事だけに意識を集中させる。
 できる限り、僕はシンプルに矢を射ちたい。だから、僕の弓は、弓道じゃなくて弓術だ。
 矢を番えるとき、矢を射るとき、一矢一射に彼女を想う。
 一矢、一矢に彼女への想いを、集中させる。
 僕の矢が、キューピッドが射る恋の矢に成るならば、何本射れば、黄金の矢と成って、彼女を恋の虜(とりこ)にできるのだろう?
 純金の矢は絶対に重くて飛ばないから、きっと、凄(すご)く近くじゃないと当たらない。でも、近付き過(す)ぎて憎悪を与えてしまう鉛の矢に、決して成らないように気を付けて……。
 『離れ』。
 息を静かに吐(は)きながら、矢を放つ。
 人の身体の先端は、常に微妙に震(ふる)えていて、的に狙いを定めた矢の先も震えている。
 この振(ふ)れの振幅を読み、震えとシンクロさせて矢を放つタイミングを揃えなければ、着矢位置がバラついてしまう。
 その、シンクロさせながら、矢を放つタイミングを探るのは難(むずか)しい。
 極(きわ)めた平常心の無心を保(たも)ち、心頭滅却(しんとうめっきゃく)できるまで鍛錬を積(つ)まなければ、簡単にはできないらしく、いつも、もっと、単純で簡単な解(わ)かり易い方法で、タイミングを合わせられないものかと、僕はいろいろ思考錯誤していた。そして、震えが停まる時を見付けた。
 それは、呼吸する胸の膨張収縮の、息を吐き出す動きと、身体の中の心臓の鼓動、内臓の拍動、流れる血液の脈動などの動きが、干渉し、動きを打ち消し合って、身体の震えを停める、一瞬の間(ま)だった。
 深く息を吸い込むか、浅く吸い込むか、普通に吐き出すか、ゆっくりと静かに吐き出すか、鼻から吐くか、閉じた口から、漏(も)らすように吐くか、少しでも長く、完全に静止する干渉タイミングを探して、とうとう、自分の射にマッチしたポイントを見付け出した。
 身体の震えが消える一瞬のタイミングで、ギリギリと力強く引き絞っている弦を、静かに離す。
 僕は、明るいグリーンと淡(あわ)いピンクのラインを入れた弓と矢で、彼女と白昼夢のデートをする。
 息を静かに吐きながら、心の中で彼女に話す。
 道端(みちばた)でも、学校でも、バスの中でも、電話でも、いつも声にならなかった想いを言葉にする。
 微(かす)かに唇を動かして、囁(ささや)くような呟(つぶや)きの声にする。
「好きです」
 矢を射る瞬間、目を閉じてはならない。
 普通、鋭い音や反動で、人は一瞬目を瞑(つむ)ってしまう。
 一瞬でも目を閉じると、射線がぶれて矢は的に中らない。
 目を瞑らずにいれば、矢が離れた瞬間に、どこへ、どういう具合に飛んで、中るかが良く分かる。
 バシュッ……、スパーン!
  弓懸(ゆが)けを着けた右手の親指を僅かに開くと、弦は滑(なめ)らかに離されて、引き切った弓の撓りが戻(もど)る、弾(はじ)かれた響(ひび)きの消える間も無く、放たれた矢は、二十八メートル先の的に勢(いきお)い良く中り、乾(かわ)いた大きな音を出す。
 カィィーン……、カツゥーン……。
 雉(きじ)の鳴き声に似た、良く通る澄(す)んだ弦の音が響くのは、的に中てようと意識を集中する向こうに在る無心で矢が放たれた証拠だ。
 僕の射法八節は邪心だらけの弓術だけど、この『離れ』の瞬間だけは無心になれていて、彼女への好きも、駆け引き無しの真摯に一途な想いだ。
 弽から弦が離れる音、撓りが無くなって握る手の中で回る弓と戻る弦の響き、矢の筈から弦が放れる音、これらの音が一つに混ざって、澱(よど)んで濁(にご)るようではなくて時空を貫(つらぬ)くような澄んだ音を響かす。
 この気持ちの良い弦音(つるね)で矢を放つ為に、日々、練習鍛錬に励(はげ)んでいる。
 野球のバットの真芯でジャストミートする音、ゴルフのクラブヘッドの真芯でジャストインパクトする音、これも同じだろう。
 『離れ』で放たれた瞬間、矢を引き絞っていた両腕は、放つ反動で胸を開くように後ろへと弾かれ、弓の撓りと左手首から先の押す力の開放は、緩んだ握りの中で僅かに御辞儀(おじぎ)をする弓を、弦が手首に当たって止まるまで、弦音を響かせながら左へ回らせる。
 これを、『弓返(ゆがえ)り』と言う。
 『会』から『離れ』までの弓を持つ左手の握りは、引き開かれる張力を緩ませて取り落とさない程度に、親指と人差し指で弓を挟み、中指、薬指、小指の三指で添えるように握るだけで良い。
 普通に棒を持つような手首を起こした握りでは、弓返りが発生しないか、綺麗に弓が回らなくて、静の中の動を現す美しい音(ね)で弓は鳴いてくれない。そして、強い握りは肘から先も上がらせて、射形を不細工(ぶさいく)にさせてくれる。
「シャッ!」
 彼女から励(はげ)ましのメッセージが届いていて、今日は負けられない。
 果敢(かかん)に優勝を狙って行く。
 観戦者達から、一斉(いっせい)に命中の掛け声が上がった。
 求愛の弦音を響かせて放たれた銀の矢は、直径三十六㎝の的の中心に描かれた、直径九㎝の丸を狙い通りに射貫(いぬ)いた。
 黒と白の円を背景に、矢羽根の明るいグリーンと淡いピンクが見える。
(的を貫き、込めた想いは、彼女のハートを射止めてくれ!)
 『残心』。
 着矢位置を見据え、射た矢に心を残さないように、今の射を反省して次射の射意に反映させる。
 中世の戦(いくさ)だと、矢の飛翔を見極め、外れたならば、狙いの修正に、相手に中てたならば、止(とど)めが必要かどうか、そして、反撃を受けるか、どうか、判断する瞬間だ。
 雅に名乗り出て、己(おのれ)の姿を晒(さら)し、立ち会う射掛け合いなんて、相手からも、同じ見極めをされてるのに、真っ平(まっぴら)御免(ごめん)だ!
  そんな、真正面からの命の遣り取りには、絶(た)えられない! だから、僕は正鵠(せいこく)を射貫き続けて、一射必中の一撃必殺を狙う。
 僕は願う。
 三秒の間、矢を放った姿勢のまま、心の中で想いが適うように、お願いする。
 願いは、彼女といっしょに歩きたいとか、明るく話したいとか、笑顔が見たいなど、全て、『好きです』の延長事だ。
 僕の残心は、残身(ざんみ)の形だけの、射への反省は、心の残らない真芯へ命中するか、否(いな)かのみで、全く、心の構えになっていない。
 僕の弓は、『位(くらい)』や『格(かく)』の無い、『射』のみだけど、彼女への『真摯な想い』だけは、乗せて射る。
 弓を倒して顔を戻す。そしてまた、的の中心を射貫く為に、次の矢を番える……。
 矢が、的の中心に重(かさ)ねる想いの、彼女のハートへ飛翔し、射抜くようにと、僕の曇りなき、真摯な想いと願いを込めて……。
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 一ヶ月前のバス事故の後遺症は、当日から三日間も寝込んだ以外は、殆(ほとん)ど無かったけれど、背中の痣(あざ)の消え具合が気になっていたから、弓の練習は、『高熱が出た後の、筋肉痛が有る』とか、言い訳して大事を取り、一週間は、弓を引くのと体力トレーニングを休んで、後輩の指導に徹(てっ)していた。
 その後は、日頃の練習の甲斐も有って、直ぐに感を戻して、少ない日数ながら、今日の大会に出場する事ができた。
 変えたバス路線の始発に乗り、早朝に弓を引いて、狭(せま)い範囲に矢を集中させる練習を繰り返して、次こそは絶対に、彼女へ良い結果を伝えたいと思っていた。
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 全射とも、中心の白丸を射貫いた。
 代表を選出する個人戦は、団体戦のトップ上位者だけで争(あらそ)われるが、今回は、全射的中者が多く、これからはサドンデスの戦いになる。
 上位者達が二矢を持ち、順番に一矢づつ射て、矢が的を外した時点で、射手は失格、敗者となり、射場から去らなければならない。
 僕は他者を意識せず、的を矢で射抜く事だけに意識を集中させる。
 勝ち抜くには、中て続けなければならない。
 八本の矢を中て続けて、二人だけの戦いになった。
 インターハイの個人戦へ出場する県代表の選手は、優勝者と準優勝者の二人が選ばれるから、既(すで)にサドンデスを勝ち続けている僕と、相手の選手は代表権を手に入れている。
 ここからは、優勝者を決定する個人と学校の名誉を掛けた戦いだ!
 これまでの勝ち残った試合では、ここで集中力が薄(うす)れて、気力負けの二位ばかりだった。だけど、今は集中力が途切(とぎ)れても、甘えから気が緩(ゆる)んでも、絶対に負けられない。それに、競(せ)り合う相手は、彼女が学ぶ高校の弓道部の主将で、練習試合を何度もしていた仲だ。そして何よりも、必ず栄光を掴まないと、彼女との約束を果(は)たせなかった。
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 昨日は部活の練習を、調子合わせ程度で早々に切り上げて、集合時刻と場所と持ち物の確認を、マネージャーと済ますと、必勝の祈願をする為に下校した。
 祈願場所は以前、不信心な事を言った親父(おやじ)が祟(たた)られてしまった、金沢市南東の山地に在る黒壁山(くろかべやま)。
 金沢駅で、バスを乗り継(つ)いで向かう。
 一日、一日と、日が長くなる季節といえ、バスを降りると、既に陽は翳(かげ)り始め、左右を竹林に覆(おお)われて、殆どが暗い影になった、山道を歩いて行く。
 九萬坊(くまんぼう)のお寺の参拝帳(さんぱいちょう)に、現時刻と名前を記して、結界重ねの二つの鳥居が建つ、参道へと進んだ。
 まだ、山々は夕陽に照らされて紅(あか)いのに、誰とも出会わない沢沿いの参道は、鬱蒼(うっそう)として薄暗(うすぐら)く、あちらこちらの藪(やぶ)から、時折(ときおり)、カサカサ、ゴソゴソと聞こえる、何かしらの不気味な気配に竦(すく)み上がりながら、奥の院の祠(ほこら)へと急(いそ)ぎ歩いた。
 参拝帳に、昼過ぎからの記名は無くて、今、神域へは、僕だけしか来ていない。
 古(いにしえ)から、霊峰白山を信仰する修験者達(しゅげんじゃたち)が、山々を渡り、伏見川上流の山科(やましな)地区の山間(やまあい)に至(いた)ったとしても、不思議じゃない。
 山科地区の窪町(くぼまち)に在る、満願寺(まんがんじ)の山頂の社にも、同じ、九萬坊権現(ごんげん)が祀(まつ)られている。
 神格は天狗(てんぐ)で、九萬坊は、白山を開山した泰澄(たいちょう)を祝福しに顕(あら)われたそうだ。
 修験者は苦行をしながら、様々な事を調べ回るから、犀川源流の倉谷(くらたに)金山の所在も、加賀藩(かがはん)が採掘する遥(はる)か昔に知っていた事だろう。だから、金洗(かねあら)いの沢で有名な芋掘り藤五朗(とうごろう)の山芋の事も知っていて、その、砂金塗(まみ)れの山芋は、この沢沿いの砂地で採(と)っていたのかも知れないと、脇を流れる暗い沢の流れを横目で見ながら、ふと思ってしまう。
 急(きゅう)な石段を、息を切らせて登り詰(つ)めた、岩窟の暗い祠で蝋燭(ろうそく)を灯(とも)し、御本尊の前に設(もう)けられた棚へ、金沢駅のコンビニで買った来た、御神酒(おみき)と生玉子(なまたまご)を供(そな)え、直前の床に、自分の弓道用具一式を並べる。それから、御賽銭(おさいせん)を入れて、人とは違う神様へ、敬(うやま)いの二拝(にはい)の御辞儀(おじぎ)、願いを聞き入れて欲しいと、呼び込みの三拍手、そして、願いを呟く。
「明日の試合で放つ、僕の矢は、全て、魔弾となって、的の正鵠を射貫かせて下さい。最後まで、集中力を失わずに戦い、優勝させて下さい。団体戦も、優勝できますように。そして、彼女と親密になれますように」
 祠の中では、小さな声で囁くように唱(とな)えたはずの声が、周囲の岩壁に反響して、やたらと大きく聞こえ、思わず、ドキッと身震いしてしまう。
 岩窟の中は、入り口からの外光や蝋燭の明かりの届かない角(かど)の隅(すみ)に、何かが潜(ひそ)みそうに渦巻(うずま)く小さな闇だらけで、僕の息遣(いきづか)いや動きで生(しょう)じる音以外に、物音一つせず、少しも揺らぎのない空気は、ひんやりと湿(しめ)り気(け)を帯(お)びて重く感じた。
 その、緊張した静謐(せいひつ)さに、身も、心も、正(ただ)されてしまう僕は、両手を顔前で合わせ、頭(こうべ)を垂(た)れ、目を瞑って真剣に祈る。
 祈りを済ませて、頭を起こし、唇を強く結び、願いを聞きに来て下さった神様へ、『宜(よろ)しく御願いします』の感謝と御見送りの意味を込めた、一拝(いっぱい)の御辞儀で、祈願は終わった。
 蝋燭を扇(あお)ぎ消して、祠の外へ出ると、もう、山の峰の頂(いただき)だけが、深い青空に映(は)えるだけで、辺りはすっかり黄昏(たそがれ)て、暗い黄色に靄(もや)っていた。
 眼下から聞こえる沢の流れと、沢沿いの参道は、山影の中に暗く沈み、殆ど見分けが付かない。
 凪(な)いで葉擦(はず)れも聞こえない大気が、重く澱(よど)んでいる。
(しまったあ、こりゃ、あかん。もっと早く来れば良かったぁ)
 後悔は、直(ただ)ちに安全と安心の確保を求めて甘えに変わり、お袋へ、『直ぐに、迎(むか)えに来て下さい』と、取り出した携帯電話で懇願(こんがん)した。
 僕の帰りの遅さを心配していた、お袋は、碌(ろく)に理由も問わずに快(こころよ)く承諾してくれた。
 安心を得て、気の抜けた声が出てしまう。
「昨日から、御願いしてばかりだな」
 部活のスポーツバッグを襷掛(たすきが)けにして、左手に弓を、右手には空(から)の学生カバンと矢筒(やづつ)を持ち、踏み外して転げ落ちないように、慎重に石段を降りる。
 踏み固められた土の参道は、暗さに慣れた夜目にも、ぼぉうとしか見えず、不意の異形(いぎょう)との遭遇(そうぐう)に備(そな)えて、弓を前へ突き出し、出来るだけ足早(あしばや)に進んだ。
 来る時も、聞こえていたカサカサと動き回る音や、ザワザワと群れてざわめく音は、周り中から聞こえ、次第にガサッ、ガサッと近くへ集まって来ている気がする。
 蔭(かげ)る陽に、薄暗い沢沿いの空気は、絡(から)み付くように重たくて冷たい。
 伏見川(ふしみがわ)の上流域になる狭隘(きょうあい)な谷底だからなのか、昨日の帰宅時刻に感じたよりも、もっと気温が下がって冷え込んでいる。
 参道を戻るにつれて、益々、空気は冷え込み、まるで、真冬のような、初夏とは思えない寒さに、吐いた息が、大きな白い霧(きり)になった。
 薄れ行く残光の空の明るさは、既(すで)に、高い木立の森で遮(さえぎ)られる、対岸の斜面や淵(ふち)へは届かなくなって真っ暗だ。
 沢の黒い流れに艶(つや)は無く、砕(くだ)ける流れる白さは、霞(かす)む塊(かたまり)のよう。
 水墨画のような色を失った参道脇の茂(しげ)みは、何かの蹲(うずくま)りや潜む暗闇(くらやみ)に目えて、連れ去られ、掴み込まれ、神隠しに遭(あ)ってしまいそうな不安で、足裏の土を踏む感覚を薄れさせて、足早に戻る気持ちを、更に焦(あせ)らせた。
 九萬坊のお寺の本尊は、満願寺と同じく、修験者達の神格の天狗だけど、こっちは大権現だと、親父は言っていた。
 それは、きっと、生玉子と酒を御供えする奥の院の神様は、大蛇のようで、黒壁山の在る内川(うちかわ)地区には、大蛇に例えられたり、纏(まつ)わるような古の伝承が、砂金伝説以外にも有るのじゃないか、それとも、古代から中世期に金沢城内の辰巳(たつみ)域で居を構えていた悪鬼衆が、この地に追い遣(や)られて、伏見川上流の黒壁の谷へ閉じ込められ、京都市の羅刹谷(らせつこく)と同じように修羅(しゅら)の地として、恐(おそ)れられていたのかもと考えてしまう。しかも、悪鬼衆には人肉を好(この)んで食べる食性があって、沢の奥には貝塚ならず、人骨の塚など、彼らの暮らした跡(あと)が残っていたりして……、と、辺りの不気味さに、不安を増長させる想像をしてしまう。
 『そんな、生きながら食べられて、行方不明になるのは嫌だ!』と、 恐ろしさに駆られて、根拠の無い妄想(もうそう)が幾(いく)つも過(よ)ぎり、小心者の僕は、更(さら)に、縮(ちぢ)み上がってしまう。
 さっきから漂(ただよ)う生臭(なまぐさ)いゴムのような臭いと、迫(せま)り来る得体の知れ無い気配に、戦慄(せんりつ)が全身に走り、参道を踏み蹴(け)る、足裏の感覚が薄れて行く。
 早足は駆け足になって、お寺の境内(けいだい)へと上がる、コンクリートの階段を一気に駆け上る。
(怖(おそ)ろし過ぎでしょ、ここは!)
 不思議な事に、階段へ辿(たど)り着くと、間近まで迫っていた気配の動きが停まった。
 強い二重の結界を示(しめ)す、二つ鳥居は階段を上った寺の裏庭に建っていて、まだ、魔所を脱(だっ)していないのに、二段飛びで階段を駆け上がる僕へ、近寄っていた音は消えていた。
 辺りは静まり返って、階段脇の小さな滝が流れ落ちる水音の響きと、背後に細く、沢のせせらぎが聞こえるだけだ。
 動きが無いだけで、其処(そこ)此処(ここ)の黒や暗い灰色の塊の中に、気配を感じる。
 ちらっと、真っ黒な木立(こだち)の間に仰(あお)ぎ見た空は、まだ、黄昏の明るさを保っているのに、ここは夜の暗さと違う、深い暗闇に呑(の)み込まれて行く。
 登るに連(つ)れて、薄れる寒さに吐き出した白い霧が小さく掠れて、二つ目の鳥居を抜けた時には、初夏らしい暖(あたた)かさへ戻っていた。
 逃げるような勢いで、参道への門を兼(か)ねた、本堂と住居を繋ぐ軒先を潜(くぐ)り、手水(ちょうず)が湧(わ)き出る前庭で、振り返って見た門の、今し方(がた)駆け抜けた向こう側は、参道脇の杉の大木の幹が、見えないほど真っ黒だった。
 その闇は、艶の無い黒色の壁みたく見えて、まるで、ゲートの向こうの異空間、異世界を閉ざしているように思えた。
 灯っていた軒先の明かりも、届かない闇の密度で、再び入ると、戻って来れない気がした。
「御参りは、済まされましたか?」
 近くから優しい声が聞こえて、振り向くと、二メートルほど離れて、住職と思(おぼ)しき、男の人が心配そうな顔で立っていた。
 ドキッと、心臓が瞬間停止しそうなくらい驚(おどろ)いた!
 ……全く、気付かなかず、声よりも、傍にいた事の気配の無さにビビった。
 いったい、いつから其処にいたのだろう?
 戻った時は、黄昏色に染まる前庭に、誰も見ていなかったのに……。
 慄(おのの)いた自分の顔が、目を見開き、引き攣(つ)っているのが分かった。
「あのぅ、大丈夫ですか?」
 僕をまじまじと見ながら、心配そうに掛けてくれる穏(おだ)やかな声に、気を取り直し、姿勢を正して、僕は、深々と頭を下げる。
「御願いを、済(す)ませて来ました。ありがとうございました」
 参拝の御礼を言って、顔を上げ住職を見ると、住職は微笑(ほほえ)みを浮かべ、コクコクと頷(うなず)いてくれていた。
 再び僕は、優しげな住職へ御暇(おいとま)の会釈(えしゃく)をして、竹林を抜けて幹線道路へと続く暗い道を走った。
 くるりと背を向けた僕へ、掛けてくれた見送りの、『お気をつけて』の声が、地を這(は)うような低い響きで聞こえ、駆け抜けた沢沿いの闇の気配に、今も、見張られている気がして、僕は全速で逃げた。
 竹林を抜けて幹線道路に出ると、以外と思えるくらい、黄昏に明るさが残っていて、益々、沢谷の黒々とした暗さが、異様に思えて来る。
 腿や肩や背中が、泡立(あわだ)つ寒疣(さぶいぼ)と戦慄でプルプルと振るえるままに、人や自動車(くるま)の往来(おうらい)の疎(まば)らな、寂しい道路をバス停へ向かって歩いていると、程無くして、ポジションランプとフォグランプを点灯した自動車が、長い坂道を猛烈(もうれつ)なスピードで登って来て、僕の横を通り過ぎた。
 高速で通過する自動車の強い風圧を受けながら、『逢魔時(おうまがとき)に、危ない運転だな』と思ったら、『ギャン』と甲高(かんだか)く、一瞬の急ブレーキを掛け、ガクンとつんのめる車体のままに、ロックされ、軋(きし)むリアタイヤに悲鳴を上げさせて、暮れ行く薄い光りの中でも、よく見えるくらいの白いタイヤのゴムが焼ける煙を纏(まと)いながら、ぐるんと強引にサイドターンを決めた。そして、シャープにUターンを決めても、尚、余る惰力(だりょく)で、ピタリと僕の真横へ、お袋は愛車のRV車を停めた。
 相(あい)も変わらずの、ポジティブなドライビングで、お袋は驚してくれる。
「帰るよ。ちゃんと、願えたの?」
 下げたウインドーから、少し顔を赤らめたお袋が、僕を見て、早く乗れと手招(てまね)きをして促(うなが)す。
 妹も同乗していて、後部座席のウインドー越しに笑顔を傾(かし)げて、僕を見ていた。
 妹は、今のサイドターンに平気だったのだろうか?
 アップダウンの続くワインディングロードのコーナーを、タイトに攻めるお袋のドライブに、何度か、気持ち悪くなっていたのを思い出してしまう。
(お袋……、帰りは、落ち着いた運転で御願いします)
「ありがとう。しっかり御願いして来たから、明日は、大丈夫かな」
 それだけで、戦慄の恐怖体験は語らない。
「寒かったでしょう? 風邪ひかないでよ。帰ったら直ぐに、お風呂に入りなさいよ」
 サイドシートに座り終えて、安堵する僕は、緊張で強張(こわば)った腕を、温(あたた)かく摩(さす)られながら聞くお袋の声が嬉しいと思う。
「あーあ、こんなに冷えちゃってぇ。試合、頑張ってよ」
 後ろから、妹がガシガシと摩って、冷えて固くなった首筋や肩を解(ほぐ)してくれる。
「ああ、サンキュー! 明日は勝つよ」
 肩から背中へと、親身に摩ってくれる妹へ恐怖体験を話して、すっきり、散らして仕舞いたいと思うけれど、妹を怖がらせるだけで、『夜中にトイレへ行けなくなった』と、恨(うら)まれるから教えない。
「勝つ気満々だね。御願いして、何かが、憑(つ)いたのはいいけど、よく一人で、こんな、怖(こわ)いところへ来るよねぇ。マジに逢魔時で、ヤバそうだよ、ここは。アニキは平気なの?」
(わっけないじゃん! 平気のはずが無いだろう)
「……まあね。さらりと、恐ろしいことを言ってくれるね、おまえは……」
 そう、何かが現(あらわ)れて、危害を加えられたわけじゃないけど、あの気配は、本当に不気味で怖かった……。
 妹が言うように、何かに、憑かれたかもと思うだけで、ブルブルっと全身が震えた。
「明日は、最後の試合になるかも知れないし、こんどこそは、優勝したいんだ」
 お袋と妹が摩り続けてくれて、温まり始めた身体と意識に、あれは、黄昏の明るさが届かない谷底の暗さを不安に思い、闇を怖がる僕が、想像で生み出した錯覚と幻聴だったのだろうと、思い始めていた。
 速やかに、思考を切り替えて行く頭の中は、明日の試合のイメージトレーニングと妹のからかいへの対応にと、アクティブな意識が殆どを占めて来ている。
忘却(ぼうきゃく)の彼方(かなた)へ封印したい、岩窟の祠で一生懸命に祈願をした以外の、帰りの参道での出来事が、望みどおりに、もう夢のように思えて来ている。
 宵闇が迫り灯された街灯の照明が明るく見え始めた道路を、カーステレオから流れるお気に入りの歌を口ずさみながら楽し気なお袋は、揺れの無い滑らかな運転で家路を急ぐ……。
「あたっ」
 妹が、僕の髪を引っ張る。
「痛う! やめてぇ」
 僕が、妹の指を抓(つね)り返して、ふざけ始めた時に、聞き慣れたメロディーを携帯電話が奏(かな)でて、彼女からのメールの着信を知らせた。
「それ、彼女からでしょう? いいなあ」
 開いたメールを読む僕に、髪を掴んで読むのを妨害しながら、耳許で冷やかす妹を、これが彼女ならと思ってしまう……。
(さあ、これで、実力プラス幸運を齎(もたら)す神頼みをした! オペラ『フライ・シュッツ』と同じように、僕も、魔所と契約した魔弾の射手になってしまったかも……。射る矢はフライクーゲル! 彼女の愛を射止める魔弾だ! なーんてね。でも、物語みたいに悲しみを伴(ともな)う結末は、勘弁(かんべん)だな)
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 夕べは、迎えに来てくれた、お袋のRV車の中で、妹とじゃれ合いながら、着信した彼女からの命令を見て僕は、そう考えていた。だから……。
 僕は集中力を保ち、まるで魔弾の射手ように、連続で的の中心へ命中させている。なのに、後ろで『弓構え』を済ませて射番を待つ相手も、バラつきは有るけれども、的へ当て続けているから、どこかで悪魔と契約を交(か)わしているのだろうか?
 そういえば、必勝願いをした昨日は、土曜日、英語でサタデー。その語源は、ローマ神話のサタンだ。
 十一射目、先に射る僕の矢は十射まで同じ的の中心の白丸を貫いた。
 残心の姿勢を戻して、次に射る二矢の補充で、控(ひか)え場の矢箱(やばこ)へ向かいながら、競い合う強敵の射を見る。
 後に射る相手は、十分に間合いを取って『引き分け』から『会』へと的を狙う。
(当たるだろうな)
 大会試合で、これだけ中て続けると、流石(さすが)に僕の集中力が途切れて来て、これ以上は、射貫き続ける自信がなかった。
 個人プレーの競技は、競(きそ)い合う相手を意識した時、勢う気力と強い意志と集中力が無ければ負ける。
 ……予感がした。
 ……自分が射る次の矢は、外すと思う……。
 僕は、次の二射で勝敗を着ける覚悟を決め、矢箱へ手を伸ばした、その時、矢離れの音がブレて聞こえた。
 『ビィッ』、相手の離れの音がおかしい!
 『カツッン、サクッ』、相手の矢は、的の枠縁(わくぶち)に当たって脇へと弾かれ、安土(あづち)の砂に刺(さ)さった。
『おっ、おおっ、おーっ』、惑星麻酔で、静止していたみたいな観戦の人達の列が、一斉に大きくどよめいた。
 僕を応援してくれていたサポーター達の歓声が、一際(ひときわ)大きく聞こえ、特に女子達の蕩(とろ)かすような黄色い声は、僕に勝ち残った実感と嬉(うれ)しさを染み込ますように繰り返されて、係員に静まるように促されるほどだった。そして、僕の優勝が決まった。
(やっ、やったあー! すっごいぞぉー! 黒壁山様、ありがとうございます)
「応援していただき、ありがとうございます。優勝できたのは、皆様の応援のおかげです。ありがとうございました」
 優勝者が行う、大会終了の礼射(れいしゃ)の準備を待つ間、道場の外の控え場で応援して頂いた皆さんへ、感謝の気持ちを伝えてから、個人代表になれた、男子と女子の四人で記念撮影を済ませると、部員達が何度も胴上げをしてくれた。
 僕は、めちゃくちゃ嬉しくて、ステップを踏んだり、バク転をしたりして、全身で喜(よろこ)んだ。
 大勢の他校の女子生徒達も、御祝いに来てくれて、『おめでとうございます』と、笑顔で祝ってくれる女子の一人、一人、みんなに『ありがとうございます』と、満面の笑(え)みで御礼を言った。
 殆どは知らない女子ばかりだけど、以前に手紙をくれた女子もいて、握手をしてしまった。
 次々と、女子達が話し掛けてきて、何人もの、女子といっしょに写真に収まった。
 もう、僕の心は舞い上がって、彼女を見失いそうだ。
(もっ、もしかして、僕はもててるん?)
 これほど、多くの女子に囲(かこ)まれたのは、初めてだ。
 頬(ほほ)を紅に染め、潤(うる)んだ目で手紙をくれる女子も、何人かいた。
 こっそりと、中には堂々と、みんなの前で渡す女子もいる。
 僕はドギマギしながら、一人、一人に、お礼を言って受け取っていた。
 男子部員達は、お祝いに来てくれた女子達と話が弾んでいる。
 女子部員達もいっしょになって、みんなは楽しそうにワイワイやっている。
 アクションや華(はな)やかさが少ない、地味(じみ)な武道の弓道が、こんなにも、人気(にんき)が有るスポーツだなんて知らなかった。
 僕には試合後に、するべき事が有った。
 取り囲む女子達の熱気と香りで、僕は気持ちが昂(たか)ぶり、興奮していたけれど、その事を考えると、心が憂(うれ)いた。でも、その事が有ったからこそ、僕は、今日の大会を最後まで、集中力を途切らせずに勝てたんだ。
 顧問の先生が、団体戦も、個人戦も、矢が全て、中心の円内に命中しているのを、驚きながら褒(ほ)めてくれた。それは、彼女からの励ましと、彼女への想い、そして、黒壁山へ神頼した御蔭だと思う。
(良かったね、先生。優勝実績ができて。勝ったのは僕の個人戦だけで、弓道部の団体の優勝でも、準優勝でもないけれど、ここ二年間は、試合の結果に上位入賞もなかったから。これで、来年度も予算を確保できるね。僕も、弓道部部長として、自ら語った部長方針を実践できて、凄く良かったです)
 礼射用に交換された、新しい的のド真ん中の正鵠へ命中させると、弓道場全体が沸き返って、スマシ顔の僕は、拍手喝采(はくしゅかっさい)を浴びて有頂天(うちょうてん)だった。
 気分良く礼射を済ませて、控えに戻ると、帰りにファミレスで御祝いすると言う、部員達や女子達の御招待を丁重に断(ことわ)り、急ぎ、彼女の居る県立中央病院へ向かった。
(今日は凄いぞ! 最後まで、全弾命中じゃん! しかも正鵠だけ。こりゃあ、彼女のハートも射抜けるかも!)
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 三日前に、インターハイに出場する選手を選ぶ試合が開催される事を知らせいる。
 試合前日の今日は、試合後に、『御見舞いへ行く』メールを彼女へ送った。
【明日は、試合で勝ったら、見舞いに行きたい。行ってもいいかな? ショートケーキか、花を、お見舞いに持って行くよ】
 インターハイ選手を選抜する石川県大会の弓道試合を知らせた三日前のメールには続けて、『応援依頼』メールも送っていた。
【是非(ぜひ)、君に、応援して欲しい。試合会場の弓道場へ応援に来て来てくれますか? 君の応援が欲しいです。御願いします。励ましてくれますか?】
 これまでの試合で、会場の弓道場へ来ている彼女を見たのは、一度しかなかった。
 お願いしても、これまでなら、来てくれないだろうと思っていたけれど、今回はバス事故の後だから、少しは、僕の願いを叶えてくれそうな気がしていた。
【ごめんね。県立中央病院にいるんだ。盲腸で、入院したんだけど、夏風邪を拗らせて、入院が長引いているの。だから、応援に試合場へ行けない。……今、励ますよ。がんばって優勝しなさい!】
 だが、送信直後に返信された彼女のメールは、応援に行けないという残念な内容だった。
 入院で病院から動けない旨を知らせて来た、その返信文には、『がんばって優勝しなさい!』の、強い励ましの言葉が綴(つづ)られていて、それは、僕に集中力を保ち続けさせた。
 本当に、優勝できたのは彼女の御蔭だ。
 見舞いに行こうかと思うけれど、病室には家の人や他の患者さんもいるかも知れないと考えたら、恥ずかしくて、何か口実でもないと見舞いに行く勇気が無かった。
 昨日は、黒壁山へ向かうバスの中で、彼女へ、『試合に勝ったら、見舞いに行くよ』とメールをしている。
 勝った勢いでの報告が、口実だ。
 『見舞いに、二十一世紀美術館のアップルタルトを持っていく』も、追加メールした。
 報告だけの手ぶらじゃ行けないし、照れ臭くも、明日はそうなれば良いと願う。
 黄昏が宵闇(よいやみ)に変わる頃、彼女から返信が来た。
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 バスを乗り継ぐ金沢駅の花屋で、見舞いに持って行く、花束を作って貰(もら)った。
 ここに来るまでに、何度も彼女に渡す場面を想い描いたバラの花束だ。
 彼女の希望は、『アップルタルト』ではなくて、『可愛(かわい)い薔薇(ばら)』だった。
 店の人が、バラを選んで下さいと、花だらけの店の一角(いっかく)を指(さ)した。
 バラに多くの種類が有る事を、初めて知った。
 バラには、様々な色、形、大きさが有る。
 一瞥(いちべつ)して迷わずに、彼女のイメージ色のと、ちょっと、キザっぽい自分色のバラを選んだ。
 互いの歳の数で、彼女の周りを、僕が守るようなラッピングを頼んだ。
「お見舞いの…… いえ、告白のラッピングで……」
 店の人は一瞬、驚いた顔をして僕を見たけど、直ぐに笑顔になって、バラを包(つつ)み始めた。
 僕は、僕自身に驚いていた。
 よく、さり気なく言えたものだ。今の感じで、なぜ、彼女には言えないのだろう。
(花束を渡しながら、気持ちを、言葉に…… 声に…… できるだろうか)
「あなたの…… 想いが叶いますように」
 店の人は、代金を払い終えた僕に、花束を渡しながら言葉を添えてくれた。
「はい。ありがとうございます……」
 添えてくれた言葉に、礼を言いながら、急に気持が萎(な)えて来る。
(彼女に会いたい! 彼女を見たい! 彼女の……、笑顔を見たい!)
 でも、嫌(きら)われたくないし、冷(つめ)たくされたくもない。
 折角(せっかく)、今は、良い友達になっているみたいなのに。
 『告白のラッピング』なんて、言葉に出来ない。
 声に出したら嫌われそうだ。きっと、道端の石を見るような目で、僕を見るだろう。
 三ヵ月分の小遣い額のバラを、バス停に置いて、家に帰ろうかと思った。だけど、『試合に勝てば、見舞いに行く』と、彼女にメールを送っている。
『花がいいな。可愛い薔薇の花。タルトは、魅力的だけどいらないよ。太るから』と、返事が返って来ていた。
 萎えた気持が、僕を迷わす。
(彼女は、喜ぶかな…… 喜ばせたい。嘘(うそ)つきには、……なりたくない)
 僕は、弓とバラの花束を抱え、て彼女が入院する病院行きのバスに乗り込んだ。
 告白の意味を込めたバラを、彼女に渡す。でも僕は、それを言葉にせずに、お見舞いの花だと言って渡すだろう。
 今までがそうだったように、想いを告げると、全てが振り出しに戻ってしまう。
 出来るだけ明るく、今日の試合を報告しよう。
 話題が途切れたら、何を話そう。
 弓と彼女への想いしか、僕にはない。その弓も、彼女への想いに到(いた)ってしまう。
 僕の考えや行動は、全て、彼女への想いに行き着く。それは、彼女が好きだという直情的(ちょくじょうてき)な想いだけで、好きの行き先や想いの横展開は、漠然とした思いでしかなかった。
(彼女は、どうなのだろう? 彼女の気持ちや考えは、どんなのだろう?)
 僕は、僕の想いを受け入れてくれない彼女しか知らない。
 バス事故でのパーソナルスペース・ゼロは、状況的に彼女の気の迷いでしかないだろう。
 事故以降の朝のバスでは、ムードが少し柔らかくなったみたいだけど、話し掛けれるような態度をとってはくれていなくて、僕の想いは、突然断崖に辿り着く一方通行でしかない。
 僕は、彼女にどう接して良いのか、全然分からなかった。
(自分の事を、話してくれるだろうか? いや、彼女は、自分の内側を僕に見せないだろう)
 結局、今まで遣り取りした、互いのメールの内容を繰り返すしかない。
 出来事の上辺(うわべ)だけを書き留めて、提出したレポートを読むように。
 バスを降り、診療時間が終了して人気の無いロビーを、判決が言い渡される罪人のように、前へ進むのを躊躇(ためら)う足で歩く。
 足の裏からリノリュームの床を踏む感覚が伝わらない。それでも、金沢駅で……、 バスの中でも……、 そして、今も直ぐに霧散(むさん)して、消えてしまいそうな勇気を奮(ふる)い立たせ、一直線にインフォメーションへ向かった。
 係りの人に、彼女の病室を尋(たず)ねる。
 彼女の名を告げる僕の声は、高ずり擦(かす)れた。
 僕の口ではなくて、違う孔から音が出ているみたいだ。
 小学六年の、何度も遣り直されて歌わされた、音楽の時間を思い出す。
 花屋での然(さ)り気無い言い方が、今は出来ない。
 だんだんと、顔が赤くなるのがわかり、なんだかクラクラして来て、カウンター越しにいる係りの人の声が、ずっと、遠くから聞こえて来るようだ。
「あのぅ……、本日…… 退院されています」
 聞こえた声が、耳の奥で熱っぽく感じて、風邪をひいたのかも知れないと思う。 それとも、今日の試合の疲(つか)れが出ているのかも……?
(ん! ……退院……?)
「ええっ!退院だって? それ本当ですか?」
(なぜ、僕に何も知らせず、退院する?)
「はい、確かに、現在、入院されている方のリストには有りません。その方は、本日の退院になっています」
(そんんなぁ……。勝てば、見舞うってメールしたのに)
 直ぐに、携帯のメールをチェックした。彼女からのメールは届いていない。
(今日……、退院したのか……。やはり、……勝てないと、思われていたのか?)
 振り絞った勇気は、塩を掛けたナメクジのように溶(と)けて消えた。
 緊張が解(ほぐ)れて風邪を引いた感じや熱っぽい感じも、消え失せたけれど、替わりに、脱力感と疲労感の重みが加わった大気で、ガクッと落ちた肩と折れ曲がった腰が、そのまま砕けて潰(つぶ)れそうな気がした。
(あーん、ショックだぁ~。床に転(ころ)がって休みたい~)
 重くなった空気は、上手(うま)く吸い込めなくて息苦しい。
「あっ、ありがとうございます。わかりました。退院してたんですか……」
 お礼を言いながら、約束の花束を抱(かか)えているのを思い出した。
(バカみたいに持って帰れないよな。……今もバカみたいけど)
 まして、彼女の家まで届ける勇気は無かった。
「すみませんが、彼女に連絡しておきますので、もし、明日受け取り来たら、渡して貰えますか? お願いします。来なかったら、それは自由(すき)にして下さい」
 そう言って、インフォメーションのカウンターにバラの花束を置いていた。
 入院原因の急性虫垂炎と、退院が延びた理由の夏風邪くらいで、退院直後から通院するなんて、整形外科のリハビリ処方じゃ有るまいし、普通に無いと思う。だけど、折角ラッピングまでして貰った花束を、捨て置くに忍びない僕は、飾ってくれるかも知れないインフォメーションのカウンターへ渡すのに、この口実しか思い付かなかった。
 赤の他人からすれば、ゴミになるだけなのに、通院や入院して来る患者、見舞いに来る患者、それぞれに様々な事情が有る事をよく理解しているのだろう、『預(あず)かれません』とか、『ご自分で、お渡しになれば』なんて、非情な言葉で断わらずに、対応してくれた女性は、『分かりました』と頷いて、受け取ってくれた。
 アンブッシュを警戒しながら、ジリジリと敵に迫るポイントマンのように、緊張していた入院治療への御見舞いは、退院の御祝いに変わってしまった。
 通院をするのかも知らない明日、彼女は、花束を受け取りに来るだろうか? いや、必ず取りに来てくれると、僕は信じたい。
(でも、明日まで、花束は持つのだろうか? まぁ、いいか……。約束は、守ったのだから……)
 張り詰めた気持ちが解れて、帰ろうと向きを変えた時、我(わ)が目(め)を疑(うたが)った。
 流れる視界の端(はし)に、待合ロビーの隅のベンチに座(すわ)る、彼女が写り込んだ。
(あう! エッ、エネミー! じゃなくて、かっ、彼女ぉ~? ……なのか? なんでまだいるん? しかもなぜ、ここに?)
 退院したと係の人が言っていたのに、まだ、ここにいるのは、母親の所為なのだろう。
 母親らしき人が、会計窓口にいる。きっと、迎えに来るのが遅(おく)れて、今は、たぶん、入院費の精算中なのだ。そして、彼女は僕に気付いていない様子だった。
(どど、どうする? 声を掛けるのか? 花束を回収して、渡すのか? どうしょう?)
 溶けた勇気を急いで掻(か)き集めて、それから、大事な花束を掴んで、声を掛けようかと思ったけれど、やめた。
 さっと、ほんの僅かな時間だけ見た彼女は、そんなパーマをしたんじゃないかと見間違(みまちが)うほど、見事にボサボサの髪だった。
 黒髪や白い肌に、艶が無い。
 相変わらずヘッドホンを掛け、古いポップスを聴(き)いているみたいだけど、元気も、無さそうに見えた。
 そんな姿を、彼女は、僕に見られたくないだろうから、会いたくはないだろう。
 声を掛けて、話すのが怖い。
 意気地(いくじ)の無い僕は、勝手な仕様も無い言い訳を集めて、其の場を離れ、彼女を横目で見ながら、気付かれない内に帰ろうと出口へ向かう。
(直ぐ其処(そこ)に、彼女がいるのに……)
 病室のベッドに、上半身を起こした彼女の横で、僕は、笑顔で試合の報告をする。
 試合中に過ぎった想いを話して、二人で笑い合う。そんな事を、何度も思い描いて、ここに来たのに……、真(まこと)に残念な自分だと思う。
 金沢駅行きのバスは、あと十分待ちだ。
 バスを待つ間に、しょぼくれながら退院祝いのメールを送る。
【退院、おめでとう】
 優勝した喜びを、声を掛けられなかった情(なさ)けなさが沈めるように覆って、失せさせて行く。
 バスが来るころに、遠くのゲートを出て行く乗用車の助手席に乗っている女性が、彼女だと気が付くのと、ほぼ同時に、メールが着信した。
【ありがとう。退院したの、伝えなくて、ごめん】
 彼女からの、御礼メールだった。
【弓、勝ったみたいね。そっちこそ、良かったじゃん】
 彼女は、試合に勝ったから、僕が病院へ来て、退院を知ったと思っているだろう。
 そう思うだけで、覆われていた情けない気持ちが薄れていく。
 僕は花曇りの気分で、メールを打ち返す。
【お見舞いの花は、インフォメーションの人に言付(ことづ)けました。明日、通院の時にでも、受け取って下さい】
(やっぱり、声を掛ければ良かったかなぁ? あの、ボサボサ頭の彼女も、可愛かったなぁ)
 僕の想いと態度は、ガサツでズーズーしい。
 鈍(にぶ)い僕は、繊細な彼女の心を踏み躙(にじ)りそうだ。
【素敵(すてき)! 薔薇の花だね。嬉しい】
(ふーっ… 声を掛けなくて、良かったぁ)
 声を掛けていたら、このメールは来なかっただろう。
【名前はたぶん、ファーストラブ。白いのは、スノードルフィンかな。綺麗(きれい)で可愛くて、好い匂いだよ。ありがとう】
 彼女の素直な気持ちが、僕は嬉しい。
(名を訊(き)かずに買った、ピンクと白のバラは、そんな名前だったんだ。彼女のピンクは、ファーストラブ……。僕の白は、スノードルフィン……。……いいねぇ。……んん!? これって、やっぱり、僕に気付いてバラを受け取ってくれたのか?)
 僕に気付いていた……、僕を見掛けて、薔薇の花束も見て、インフォメーションへ言付けるのも、見ていた……。それなのに、彼女も、彼女に気付いた僕も、お互いが声を掛けなかった。
(やはり、彼女は面白い。 僕達は、似た者同士なのかも知れないな)
 金沢駅へ向かうバスの中で、僕は一人、嬉しくて笑っていた。
     *
 インターハイ開催地へ移動する前日に、メールをしてみる。
【全国優勝したら、交際してくれますか?】
 僕は、賭(か)けに出た。
 自分を追い込んで、集中力を高めるようとした。
【いやよ! 私を、そんな、ギャンブルで大当たりするみたいな、対象にしないでよ。全国優勝すると、どうだって言うの? あなたが優勝するのと、私は関係無いでしょ! それに、今は、受験勉強で大変なの。そんな暇(ひま)は無いし、考えたくもないわ。私に構わないで! まあ……、応援はするけど、一人でがんばりなさいよ】
 翌日、インターハイ開催地へ向かう列車の中で、彼女から返信が届いた。
(いや…… よ。……か。賞品のように扱(あつか)った事になのか、僕が嫌いなのか、どちらだろう? きっと両方ともで、僕の発想や考えも含めて、全部が嫌なんだ)
 つれない返信文は、ショックだったけれど、それより、僕は後悔した。
 気持ちを集中させる為とはいえ、彼女を利用しようとした。
 優勝を交際条件にして、迫ったのは大間違いだ。
 確(たし)かに、優勝する事と彼女の気持ちは、関係無い。
 自分のせこさと、小ささと、小賢しさを呪(のろ)った。
 僕は、有頂天(うちょうてん)になっていたんだ。
 大勢の女子達に、チヤホヤされようが、たくさんのラブレターを貰おうが、彼女には知った事じゃない。
 自惚(うぬぼ)れと勘違いが、僕を錯覚させていた。
 いつしか、彼女の気持ちも、僕に向いている気がして、彼女を自分の物のように思い込んでいた。
 彼女は物じゃないし、彼女の気持ちも、僕に向いてなんかいない。
 僕は、彼女に相応(ふさわ)しいなんて思えるような男じゃなかった。
 彼女にとって、僕は、それ以前の、話しにならない程度の問題だった!
 急速に、インターハイに出場する魅力が、失せていく自分に言い聞かせた。
(彼女は関係無い。いつも通り自分にできる事を精一杯しろ。後悔しないように) 
 明日は、午前中に開会式で、予選は午後からだ。
     *
 八月初め、石川県の個人戦代表で出場したインターハイは予選落ちした。
 予選は、四射して三中以上が通過できるけど、二中しかしなかった。
 全国規模の大会は初めてで、レベルの高い試合に出られる事に、気持ちが舞い上がってしまい、足腰と思考が落ち着かず、まるで、砂浜の波打ち際に立っている気分だった。
 足裏の砂が流されて、今にもよろけそうで踏ん張れない。そして、弓を持つ左手の震えはシンクロしてくれなくて停まらなかった。
 試合中は、全く、集中できなかった。
 やっぱり僕は、彼女を身近に感じていないとダメだ。でも、試合に負けたのは彼女の所為じゃない。それでも、……せめて、『がんばって!』とか、『デートぐらいは……』なんて、直接的なメールが来ていたらと思った。
 取って付けたような、『まあ……、応援はするけど』ってのは、心が無い漫(そぞ)ろさで気持ち的に辛(つら)いと思う。
『いやよ!』、構える一矢、一矢ごとに彼女からの文字が言葉になって、頭の中で彼女の声が響く。
 狙いを付ける手先と呼吸がシンクロしないまま、感だけで矢を放っていた。
 場数を踏める地方の試合じゃなくて、一度切りの全国レベルの大会では、精神鍛錬を怠(おこた)っていた僕の弓は通用しない。きっと、教えの道の無我(むが)の境地を悟らなければならないのだろう。
 僕には、こじつけと人に頼ってばかりの軟弱な精神しかない。それとも、何事にも動じない強烈な我の心や考えが必要なのだろうか?
 予選落ちをしてしまった事が、心を暗くさせる。
(晩御飯に、特上の鰻丼(うなどん)を、御馳走(ごちそう)してくれた顧問の先生、予選落ちして、御免なさい)
 これで三年生の部活は終わりで、これからは、進学や就職活動に専念する事になる。
 これから先、社会人になっても、僕は弓道はしないだろう。
 この時に、そう決めた。
 最後の試合だったのに、自分の不甲斐無さが情けなくて、残念で悔(くや)しい。
 僕の弓は、満開の桜の枝を折った瞬間に、枝の花弁(はなびら)が、全て散ってしまったような思いで終わりそうだ。
 残りは、定期審査の再挑戦だけだ。
     *
 晩秋の曇り空の下、弓道連盟の定期審査会が行われた。
 いわゆる昇段試験だ。
 今回は、弦の切れる事は無く、八節の姿勢も、乱れる事はなかった。
 放った矢は、いずれも綺麗に的の中心を射抜き、僕は審査に合格した。
 即日、初段認定証が交付されて僕は、やっと、弓道有段者の資格を得る事ができた。
 その証書は、二年半の間、邪心(じゃしん)がいっぱいだったけれど、弓に打ち込んできた証(あかし)のように感じている。そして、僕が一矢、一矢に彼女を意識した、日々の証明だった。
 定期審査会の後は、学校へ行き、弓と懸けを弓道部へ寄贈した。
(ノウハウは、教えたのだから、これからは、自分達で創造して行って下さい)
 呟きで願(がん)を掛けてから、放った矢は、後輩達から、寄贈を御願いされたが誰にも、譲(ゆず)らないと断った。
(まだ、彼女のハートを射貫いていないから、譲れないな)
 殆んど手作りの矢は、彼女への縁起(えんぎ)担(かつ)ぎの為に、自分が持っている事に決めていた。
(これで、本当に、僕の弓は終わりだ)
 白い羽に、淡いピンクと明るいグリーンのラインの入った矢を握りしめて、僕は実感した。
 深く一礼して、僕は学校の弓道場を離れた。
 外の通りは、風を巻いて冷たい時雨(しぐれ)が降り頻(しき)り、時雨を巻いて吹き荒(すさ)ぶ風に、北陸(ほくりく)の冬の匂いを嗅いだ。
 傘を差しても、時折吹く寒風で開(はだ)け、時雨の飛沫(ひまつ)で濡れるままのコートの前ボタンも留めずに、バス停へ歩きながら、思春期の片想いの恋なんて、アニメかライトノベルのような数ヶ月の短期間で、成就するはずがないと思う。
 彼女と接近させるイベント性に満ちた出来事なんて、年に一回か、二回しか起きず、破(やぶ)れかぶれの大胆さは有っても、内向的で、彼女に対して明るく振舞えない僕に、急展開は有り得ない。
 もし、お互いがアニメのキャラのように、スラスラと歯切れ良く話せて、サクサクと行動するノリの良い性格で、告白に告白で返されるみたいな、相思相愛の仲になり、中学二年生でファーストキスを経験していたならば、今の僕達は……、ディープなラブラブになっている…… と、後悔しかけたところで考え直す。
 身体と性の発育に、常識的な理性も、知識も、判断も、思春期の僕達は追い付かない。
 キスの次はタッチ、その次は、肉体を求める性交の行為となって、その肉欲の果(は)ては、一年と経たずに彼女の御懐妊(ごかいにん)だ。
 アニメみたいにディープな行為を大人に成るまで待てない。そして、メロドラマのような子供が子供を産むか、堕胎(だたい)かの二者択一(にしゃたくいつ)に追い込まれてしまうだろう。
 二人だけの問題ではなくなり、友達や家族や学校も巻き込んで、その不自由さの中に、二人の気持ちは離れてしまうかも知れない。それでも、相思相愛になれていたらと、舞う風に吹き上げた雨の繁吹(しぶ)きを頬に浴(あ)びながら、悔やむ僕は、戻れない過去に願っていた。だけど、今は違う。
 初夏から真夏までの一連の出来事は、たぶん、来年の大学入試の合否判定後に起こるだろう、親密な急展開を予感させている。
 なのに、それまでは大学受験勉強に集中して貰う為に、送るメールを自粛(じしゅく)している自分と、そして、本当に久しく連絡を途絶(とだ)えさせている彼女に、苛(いら)ついて詛(のろ)いたいくらい、落ち着かない僕の心を、肌を濡らす冷たい時雨の寂(さび)しさが浸(ひた)して、悲しいくらいに不安にさせていた。

 

 つづく