遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

守護(私 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 弐

 朝、いつもの時刻に、家から一番近い停留所が始発のバスに乗る。そして、私はいつもの運転席の反対側に在る降車口前の最前列のシングル席へ座った。

 この座席位置は交通事故で特に多く被害を受けて、人命を失う確率も非常に高い。それが分かっていて此処へ座るのは、それなりの理由が有った。それは車体の最前部に在る降車口に最も近くて降り易い事。発車時刻ギリギリでも空席な事。シングルシートだから他の乗客と肩や体が触れない事。それに目の前がフロントウインドーで明るく視界が開けているから、探しモノと探させるのに都合が良くて気に入っていたからだ。

 いつも二つ目のバス停であいつは乗車して来る。今日もバス停で待っているのが、バスの大きなフロントガラス越しに見えて来た。

 耳に嵌めたイヤホンの白いコードが胸ポケットからだらりと長く垂れ下がり、袖口を二つ返して腕まくりをした学生服は開いた詰襟に第一ボタンを外し、左手には何も入れてなさそうなペッタンコにした革の学生鞄を怠そうに抱えて、右手は詰まらなそうにポケットに突っ込んでいる。そんな、いつものだらしない姿であいつはバス停に立っていた。

 バスが近付くとあいつも私を見ているのが分かって、互いに重なる視線が二人を見詰め合わさせた。この時、家や学校で嫌な事や、詰まらない思いや、些細な悩みが有ると直ぐに目を逸らす。あいつに心の中を読まれそうな気がして目を逸らしてしまう。

(あいつも時々、先に目を逸らしたりするから、私と同じなのかも……? 目は、けっこう語るからね)

 今日のあいつは目を逸らさずにバスへ乗り込み、フロアデッキを真っ直ぐに私の許へ遣って来る。そして、何気に当然の如くとばかり真横へ立つ。どんなにバスが立ち客で混み合っていても無理矢理、人を掻き分けて来て、あいつは必ず私の横に立ちに来る。それに気遣ってくれているのか、いつも先に降りる私が降車し易いように半歩ほど後ろへずれて立っていた。

 あいつが横にいる気配と匂いだけで、なぜか安心を感じてしまう私がいる。

(こいつは私を、守っている気でいるのかな?)

 そう思うだけで、黙って立つだけの何も話し掛けて来ないあいつに、私は優しい気持ちになれそうだった。私を守るアイギスの楯……!

(そうなると、私はパラス・アテナだよね。そのヴァージンゴッデスのイメージ、清純で勝手気儘な私には、ぴったりかも。実際、ヴァージンだし)

 この楯が傍に有る限り、あらゆる災厄は私に及ばない。外敵の攻撃を防いで呪いを跳ね返す強靭な魔除け。何も語らずに真横で静かな壁になるだけの、私の大切なサイレント・シールド。

(でも、アテナじゃないし……。戦闘力の無い私は我が儘だから、しっかり守りなさい!)

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 八月で十八歳になってしまう今の私の身体は、心や思考も含めて思春期の少女から青春期の女性へと変化して来ている。拒絶する自己中心から求めと受け入れに考えや行動が違って来ているのを自覚し始めていた。

 毎朝、あいつにジロジロと見られても良いように、シャンプーした髪をブローしてセットする。これまでのストレート一辺倒から目覚めの気分と時間の余裕次第で、外や内へカールさせたり、ポニーテールにアップしたり、バサバサっと散らしてみたり。で、今日は時間が無くて全体を膨らませてボブっぽく簡単に纏めてしまった。

 あまりしていなかった髪の生え際や産毛の処理、眉毛の形の整えに鼻毛と耳毛、などなどのお顔の見繕いは毎日欠かさない。メイクセットやアトマイザーも持ち歩くようになって、殆ど分からない程度にファンディーションとリップはしているし、香水は梔子か金木犀を胸元にちょんと軽く一吹きだけ。

 制服の襟や肩に埃やフケが付いていないように綺麗にブラシを掛け、後ろ姿もチェックしてから家を出る。あいつは絶対に私のセミロングの後ろ髪を見ていると思う。

 冬の暗い朝や雨の日は、車窓のガラスにあいつが映る。あいつは吊り革を握り締め、淡く影になる顔の瞳はガラスに映った私を見ている。そんな朝は、私は外を見る振りをしてあいつを観察した。

 着崩れた上着に寝癖が付いた髪形。怠くて眠いのか、それとも不貞腐れているのか、そんな風に見れる中途半端な表情。それに、虚ろで定まらない目付き。時折、車内灯の反射に照らされる顔は、何を考えているのか分からなくて、少し不気味な感じだけれど嫌いじゃない。あいつと私はガラスに左右反対に映る顔で見詰め合う。……リアルに上から目線が気に入らないけれど我慢して遣る。

 バスが大きく揺れる度に頭に触れそうな、あいつの小脇に抱えているカバンは、裏側の隅に白く太い文字で掌サイズに『ANTI・WAR』と、刻み込まれていて、モラリストでも気取っているのだろうけれど、中途半端感が否めなくて、擬きとしか思えない。

(似合わねぇー。……反戦って、あんた反戦の意味、知ってんの?)

 目覚めの良い朝は、あいつのペッタンコの鞄を膝の上に置かせてあげて、黒マジックで『ANTI・WAR』を塗り潰して遣ろうかと思うけれど、私もあいつへ声を掛けられない。

(膝の上に置いたバッグといっしょに、あんたの鞄を置いてあげようと、心では思うのに……)

 あいつの顔を見上げて明るく話す自信が無いというか、掛ける言葉に迷って言う気が失せてしまう。

 私は乗り換えの為に、あいつより先に兼六園下で降りる。たぶん、あいつは香林坊か武蔵が辻でバスを乗り継ぐはずだ。

(あんた、私と同じバスで学校に遅刻しないの? 何時始まりか知らないけど、金石近くの畝田町に在るから、あんたの学校の方が遠くて、時間が掛かるはずでしょう。実際、一年生の時に金石まで行ったけど、けっこう遠くて疲れると思ったんだから)

 いつも兼六園下でバスを降りて二、三歩進んでから上目であいつを見る。バスの広い窓ガラスの向こうに立つあいつは顔を私に向けて、バスに乗車する時の仰ぎ見るのとは違い、私の心を見透かすようにな上から目線で見ていた。

 あいつは立ったままで、私が降りて空いた席に座らない。やがて、バスは降車口と乗車口を閉めて軽くクラクションを鳴らしてから発車して行く。バスが視界から消え去るまであいつを見ているけれど、あいつは座らない。

(せっかく空いたんだから座ってよ。鞄は持って遣らなかったけど、私の体温でシートは温かいよ)

 寒い季節には、優しさと暖かさを求める気持ちにマジでそう思った。凍える朝は、人肌の温もりが恋しい、……人肌って誰のよ?

 目を逸らした朝はバスを降りても立ち止まらずに、私は向かい側のバス停へ急ぐ。あいつが、目を逸らした朝はバスを降りた私を見ていない。

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 バスは石引の通りに入り、小立野のバス停が近付いて来たので減速しだした。

 突然、歩道を急ぎ歩く通勤・通学の人達の間隙を狙ったように、左の小路から白いトラックがバスの直前へ飛び出して来た。全く減速せずに目の前へ現れたトラックは白く大きな脅威となって超速で迫って来る。その、眼前に広がって行く信じられない不吉な光景が、私を巻き込むのは確実で、もう避けられそうにない。

(あっ! だめ! ぶつかる!)

 予期しない災いから逃げようと慌てて気持ちは身構えるけど、怯えて竦む体は全然動いてくれない。その時、黒い物が目の前を遮って、フロントガラスいっぱいに迫った白いトラックが見えなくなった。

「きゃっ!」

 直後、急ブレーキが掛けられた激しい制動で、私は浮き上がり黒い物体に勢いよく突き当たった。それは、トラックとの衝突でバスの前面が破壊されるのと同時だった。大きな破壊音が響き渡り、衝突の衝撃で更に私は黒い物体に押し付けられた。

(うっ! 痛……)

 バスが衝突の反動に戻されて急停止すると、前に押し付けていた慣性が失われ、私は弾き返されるように座席に戻された。急制動されたダンパーの振るえで揺れていたバスの動きと振動が収まったのを見計らって、衝撃で瞑った瞼をそっと開けるとあいつがいた! ……私の目の前にあいつがいた?

(なに? ……なに?)

 座席をガードする前面の手摺りの向こうに、両手で手摺を握り締めてあいつが立っている。

(なんで、こいつが前にいるの?)

 あいつは目を瞑ったままでいた。苦痛に耐えているかのように顔を歪め、目を閉じていた。

(どうしたの? どこか痛い…… ああっ! そんな……)

 あいつの背後からは、大きな蜘蛛の巣のようになったフロントガラスが捩り曲がって被さるように迫っていた。そして、その向こう側にトラックの白い色が張り付いたみたいに見えて、私は私に何が起きたのか理解した。

(……私は、こいつにぶつかったんだ!)

 制服の胸の辺りに薄っすらと肌色が付いている。……私のファンデーションだ。

 ちょっと震えるように体が揺れた後、あいつはゆっくりと目を開けて私を見た。

「だっ、大丈夫か……? ううっ」

 微笑みながら私を気遣う顔は苦痛に歪んでいく。あいつは拉げたフロントガラスと手摺りに挟まれているみたい。

(助けてくれたの? こいつが……? ……そうなの、私を守ってくれたんだ!)

 いつの間にか、カタカタと私の体が震えている。息も不規則に粗くなっていた……。

 床に何人もが折り重なって倒れて呻いている。痛そうに顔を顰めて腕を押えている人、たらたらと頭から血が流れて泣いている人、私と運転席の間には重なって三、四人も俯伏せや蹲ったように倒れていて、運転手も血が付いた手で顔を押えている。乗客の大半が怪我をしていた。だけど、私は彼が守ってくれたからどこも怪我一つしていない。

 初めて遭遇する切迫した事態にドキドキと高鳴る胸が息を苦しくさせて、ハア、ハアと口と肩で粗い呼吸の私を、あいつの問い掛けが落ち着かせて震えも治まって来た。

(……こいつに、守られていなければ……、私も……)

「私は…… 大丈夫。そっち…… あんた……、……あ、あなたこそ、大丈夫じゃないでしょう」

 私は立ち上がって彼の状態を見た。ひび割れたフロントガラスが倒れかける壁のように彼の背中に圧し掛かっている。特に脇腹辺りが狭くなって潰されているように見えた。

「血は出ていないみたいだけど、どうなの? それ、痛くないの?」

 間抜けな質問だった。どう見ても痛そう。背中を激しく打ち付けて、一瞬で脇腹の厚みが半分以下になるくらいに挟まれているのに。もしかして内臓が破裂しているかも知れない。でも、彼は平静を装う。

「コン、ゴホッ、ゴホッ」

 吸い込みと吐き出しのリズムが乱れて、私は詰まる息に咳き込んでしまう。

「ちょっと痛いかも……。いや、けっこう痛い……。でもこの痛みは挟まれている外傷の感じだよ。動かなければ痛みが和らいでいる。もし内臓が潰れているのだったら、叫んでいるか意識が無くなっているかだね……。激痛だろうな……、たぶん。刺さっているのなら熱い感じがするんだ。その感じもないよ」

 彼の言葉に、粗い呼吸で咳き込んでいた胸が一杯になった。予期しない死線に触れる緊迫に彼の自己犠牲で得られた安堵、守護への慈しみ。そして、本当にアイギスの楯になってくれた彼を喪失してしまいそうな不安。状況と状態の理解が視覚と言葉に追い付かなくて、私はもう泣きそう!

「なに、呑気に痛みの分析してんのよ。横にずれて抜け出せないの?」

 辛さを押し殺し、息を整えてから私は彼に怒鳴るように言った。

「抜け出そうとしているんだけど、なんか筋や内臓がつぶれそうな感じで、無理っぽい」

 とっさに彼が盾になってくれていなければ、私は大怪我か、より深刻な状態になっていたはずだ。彼も私も圧壊するフロントガラスにぶつかって、頭から血を流してぐったりと床に倒れていたり、フロントガラスを割って車外に放り出され、意識不明の重態でぐんなりする私を、彼が抱きかかえて助けを求めていたかも知れない。……少し想像しただけでゾッとしてしまう。

「あとね、頭の後ろをぶつけたみたいで、痛いんだ。どうなっているか、ちょっと見てくれるかな。割れたり、陥没はしていないと思うけど」

 さらりと不安を加速させる事を言われた。脇腹の傷が見た目ほどじゃないと思った後だけに凄く心配になってしまう。と、同時に『これは厄介な事になりそう』だと思った。

 朝の出勤時間に路線バスと暴走トラックが衝突、重軽傷者多数……。これでもう地方ニュースのトップは確定だ。

 いつもの彼なら黙って言わないか、慎重に言葉を選ぶと思うけれど、怪我でテンションが上がっているからインタビューされてしまうと事故当時の状況を、馬鹿正直にベラベラと話してヒーローさをアピールしてしまうかも知れない。

『気がついたら彼女の前にいました。僕の体なんて、大事な彼女が無事なら、どうなってもいいんです』なんて語って、『命を懸けて彼は大切な人を守った』とか、『彼の無意識な行動が彼女を救う』みたいなタイトルの美談が、インターネットでワールドワイドのラブリーなオープンソースにでもされたりしたら堪ったもんじゃない。

(違う! そんな自分の御都合主義に拘っている場合じゃない! 彼は私を守ってくれたのよ!)

 そう、今は私の我が儘を押し付けるべきじゃない。目立ってしまう事よりも、恥ずかしく感じる事よりも、素性が晒される事よりも、彼の頭の怪我が心配で、脳へのダメージが無いようにと祈っていた。

「ちょっと、俯いてみて」

 『してみて』と行動をうながしたのに、『ちょっと』の言葉のまま通り少ししか傾かない頭が苛だたせたけれど、脇腹が苦痛で身体を傾けられないんだと思い直してあげる。

 彼の乱れた髪に触れながら真後ろから被さる罅割れたフロントガラスに、十センチメートルほどの直径で丸く凹む彼の頭部の衝突した痕が有った。放射状に入る幾筋もの罅で細かく割れて髪の毛も何本か附着している。

「あたっ! ううっ、……痛いから。そんなに強く触るのは、なしにして欲しいな? んで、傷……、酷い?」

(ちっとは我慢しろっちゅうの! うん? こいつは、こんなにしゃべる奴だっけ?)

 これまで、まともに話した事なんて無くて、口数が少ない奴だと思い込んでいただけに予想外のフレンドリーな喋りが、後頭部を打ち付けた所為かもと不安になった。だけど、メール文字の会話しか私が知らないだけで、普段は軽口をよく言う奴なんだと思う。

 触るのが気持ち良くて止められないくらいの、モフモフでフワフワした彼の髪を掻き分けている自分の指先を見ながら『そんなに痛いの?』って、弱々しく頭を振って私の手を避けようとする痛がり方が不安にさせた。だけど、外皮の弄くりを痛がるだけで脳は無事だと思いたい。

 鬱陶しいと思っていた。朝のバス停に彼がいないと『今日はどうしたのだろう。病気か怪我でも… した?』などと、つい心配してしまう。バス停にいるのを見て、乗り込む気配と近付く靴音が聞こえ、すぅーっと真横に立たれると『また来やがった』なんて、心で悪態を吐きながら下唇を噛む。でも唇の端は持ち上がって笑窪を作ってしまうのを自覚していた。

 指先に血の附くような傷は無かったけれど、代わりに大きなタンコブができていた。全身の震えが治まった私とは反対に彼の顔色が血の気が失せて白く真っ青になっている。もし脳内出血でもしていたらと焦る気持ちが、そんな不安を払拭させて安心を得たいと彼へ訊いてみさせた。

「頭痛がしたり、頭の中から小さく変な音が聞こえたり、首が痛かったりしてる?」

 そして、後悔していた……。

 今朝、このバスに走ってまでして間に合わせようとしていなかったら……、道路を横断しながらバス停で乗降を終えようとしていたバスに、駆け寄りながら乗る意思を示さなかったら……、寝坊したり、倒けたりして、このバスに全然間に合わなくて乗れていなかったなら……、私がバスに乗っていなかったら……、彼は空席の最前列の座席を見て毎朝の場所へは行かずに、もっと車体中央の乗車口辺りに立って何度も私が乗っていないか見回していたに決まってる。だから、この事故が起きても彼のことだから、たぶん、軽い怪我で済んでいたと思う。少なくとも今の、こんな辛い事態にはなっていない。

「してない。ぶつけたとこが痛いだけ」

(ああっ、神様!)

 私は焦っていた。一刻も早く彼を診察して貰わないと、……二度と会えなくなってしまうかも知れない。普段は神様なんて信じてはいない。精々、初詣の神社で身上の願いの成就と家族の末永い幸せを願うくらいだ。罰当たりで御都合的な困った時の神頼みだという事は知っている。でも今は神様に祈らずにはいられない……。

(どうか、この人を助けてあげて下さい。大した怪我じゃなくて、元通りの元気な身体になりますように…… 御願いします)

「気持ち悪い?」

 有り得ないくらい、彼に近付いて、心配して、話しかけていて、彼の為に神様に御願いまでしている自分が信じられない。なのに、心の中で『神様』を唱え続けながら私は彼に訊いてしまう。

「この状態に、クラクラしてる」

 そう言って私から目を逸らした青白い顔は、痛みを我慢する中に嬉しそうなヘラ顔が滲んでいて、……ムカついた。

(この状態って、フロントガラスを凹ませるほどに、ぶつけた頭の痛みでもなく、何かが喰い込んでいる脇腹の痛みでも、潰れたバスの前面に挟まれて身動きができないのでもなく、私が傍にいる所為でクラクラしてるって言うの? こいつぅ、ざけんなよ!)

 私が凄く心配して超真剣に訊いているのに、このシリアスな状況を和ませようとしてるのか、そして、見た目よりも至って平気で元気だとアピールしたいのか、彼のおふざけ言葉の回答に心配しているのが馬鹿莫迦しくなって、怒りを発現させて遣りたい。

「真面目に答えて!」

 怒りを放つ語気で、ぴしゃりと叱りつけてみる。

「ごめん、吐き気はしてないし、視界が暗くなったりもしてないよ」

 言葉尻を捻くれさす抵抗もせずに謝って来る素直さが、私に好感を抱かせてくれた。

 たぶん、頭の中の出血が止まらないと直ぐに昏睡に陥ってしまうだろう。そして、二度と目を覚まさなくなったら……。

(ブルッ、ぞっとしちゃうわ)

 彼のもしもを考えると、身震いがしてクラクラしてまう。

「眠い?」

(どうか……、疲れたから眠いとか、昨夜は遅かったから眠いのかなとか、言わないで……)

「いや、眠くなるどころじゃないし。ねぇ、頭はどうなってる?」

 彼の言う通り、少しも眠そうに見えないくて良かったと安心する。でも、気が動転してテンションの上がっている今は、体内圧力や細胞密度の変化で患部の崩壊を防いで、損傷の広がりを抑えている状態だけかも知れないから要注意だ。

「大きなタンコブができてる。切れていないし、血も出て無い。凹んでもいないよ」

 簡潔に問い、簡潔に答える。悪い方への心配ばかりで優しさを挿めない。

「話してて、意識は飛んでいない? 本当に眠くなっていないの?」

 私はしつこいくらいに、僅かでも不安が確信に変わる兆候を探り続ける。

「大丈夫! 気を失うなんて、勿体無いだろ」

 彼のジョークを皮肉る余裕も無く、もう一度、彼のタンコブに触れて遣る。『痛い』と聞こえてくるけど、今度はしっかり触ってみた。タンコブの盛り上がりは硬くてプニョプニョしていないし、触っていても大きく広がって行きそうな感じはしない。モフモフの髪を掻き分けて周りも探るけれど、タンコブ以外に傷は無くて触れても痛がらないし、指先にも血は着かなかった。ついでに項から首筋へも触ってみたけれど、耳や鼻からの出血はしていないし、痛がる素振りも無し。

 それに覗き込んだ彼の瞳は、しっかりと私を見詰めていて、揺れたり白目を剥くような動きは無かった。見詰め返されるのは恥ずかしいのに、……ゼロ距離のパーソナルスペースで異常な興奮を見せない彼は脳内の異常も無いと思う……。その落ち着く冷静さとジョークを放つ態度が腹立たしい!

 意味が通じるジョークだし、話すトーンと発音もちゃんと普通で、呂律も回ってラリったりはしていなかった。

「ふっ」

 馬鹿馬鹿しくて詰まらないジョークに呆れて鼻で笑ってしまう。たぶん、今のこいつの… いや彼のイタい頭の中はお花畑になっている。きっと自分が、ホワイトドラゴンに強襲されて為す術の無い無防備な窮地から、憧れのプリンセスを守り通したヒーローの黒騎士のようだと思っているはずだ。確かに捧げてくれた誓いの忠誠を感謝するかのように、私は目の前にいる男の子の髪を撫でながら肩に手を置いていた。

 描いた絵の構図と色彩、それに綴った作文の内容が殆ど一致するのなら、それは気の合う相手でしっくりと付き合えちゃうなんて、そんな愚かで歪んだ思い込みを私はしない。もし、殆どでなくて大体でも考えや行動や好みが一致する価値観が同じって相手なんか、自分みたくて全然、面白みも無いし、それに気色が悪い。そもそも自分とは違うから魅力を感じるのだと思う。だから、時々しか意気投合しないのに惹かれるくらいが、もっと相手を知って好きになりたいし、好きになって欲しいと努力しちゃいそうだ。

 だけど今、彼は死神を撃退してくれた私のヒーローでプリンス、そして、か弱い私は彼に救われたプリンセス、だから彼のヘブンな想いへシンクロしてあげてもいい。

(お願いだから、あんた、しっかりしてよ。頭ん中、大丈夫だよねぇ)

 たぶん、脳への損傷は無いだろうけれど、万が一も有るし、見た目だけじゃ判らない。私のような素人判断は危険だと思う。

(一刻でも早く、彼を助け出して検査して貰わないと……、ああ、誰か……)

 既に乗車口のドアが手動で開けられて幾人も車外へ逃れていた。

 無事だった乗客に歩行者の人達も手伝って、傷を負った乗客の大半がアーケードの歩道へ運ばれてに寝かされている。私の近くに倒れていた人達も救助の人に支えられたり、担がれたりして降ろされて行った。拉げて傾いたフロントガラスを仰ぐように見ている運転手は、『最後に降りる責任が有る』と言って、砕けたガラス片を浴びて顔中が血だらけの怪我をしているのに運転席から動かない。遠くから聞こえ出したサイレンの音が急速に大きくなって近付いて来る。

 私も降りるように促されたが、彼の傍にいると言って断った。

「降りろよ。もう直ぐ、レスキュー隊が助けに来るだろうし大丈夫さ。きっと、この後ろの白い奴をどかせば出られるから」

 少しずつ息が落ち着いて来て、私はもう安心なのに、彼は私の安全を優先させる。怪我をしている自分よりも私を心配してくれていた。

「怪我は有りませんか? さあ、あなたも降りてください」

 救助に来た人は私の手を掴み、開かれた乗車口へ引っぱる。

「彼の傍にいます」

 強い口調で言い、掴んだ手を振り払って彼の傍を動かなかった。

 ドキドキした。思わず自分でも信じられない言葉が出た。でも彼を一人にできない。彼から離れたくなかった。直ぐに助け出されるのなら、なおさら彼の傍にいたい。

「後ろの白いのって……、いやよ。レスキュー隊が来るまでここにいるわ」

 急に目頭が熱くなって眼に涙が溜った。この状況が悲しいのではなくて、こんな状況にならなければ互いに話せなかったのが哀しい。

 次々と負傷者が運び出されて行き、エンジンの停止したバスの中が次第に静かになるのに連れ、互いの衝撃でズレ落ちたスピーカーから小さく鳴るリズムが、ノイズのような耳障りさで聞こえて来る。

 彼にぶつかった勢いで頭に有ったヘッドホンは辛うじて私の首に引っ掛かり、私を守る咄嗟の動きと背後からの衝突の衝撃で、彼の耳に填めていた二つのイヤホンは仕舞い忘れていたかのように、だらしなく胸ポケットから垂れ下がっていた。

 彼が聴いていた曲を小さく響かすイヤホンの一つを手に取り、どのようなジャンルの曲をいつも聴いているのかを知りたいと湧き上がる興味に、私は顔を近付け無造作に耳へ填めて聴いた。

 学生服に触れそうなくらいの接近に鼻先が彼の匂いに擽られる。安心する悪くない匂いだったけれど、近付き過ぎたのを恥じた後退りで、ピンとコードが張って抜け落ちそうになったイヤホンから、女の子の可愛い声の歌が耳の奥で響くように聴こえた。

(これはJ-POPとは違う。これを聴きながら真横に立って私を見下ろし、黙って何を考えていたんだろう? 全くタッキーなんだから)

 少しだけ聴いてからイヤホンのコードを纏めプレーヤーをオフにして、彼の胸ポケットに戻した。変わったジャンルを聴く者同士の共感が私を楽しくさせた。

「へぇー、こんなの聴いていたんだ」

(なんかアニメの歌っぽくて楽しいじゃん。あなた、やっぱり変わってるね。でも、私のフレンチオールディーも人の事言えないな)

 私は顔を背けて首に引っ掛かっていたヘッドホンを外し、彼の耳へスピーカーを近付けながら優しく言ってあげる。

「私のも、聴かせてあげるね。ジャンルはフレンチオールディーよ」

 自らも顔を傾け耳をヘッドホンに付けて聴き入る彼は、涙目で少し笑いながら私を観察するようにじっと見ている。私を守ってくれた彼の悲痛な状態を見ているだけで何もできない無力さに、焦る苛立ちと悲しみが込み上げてヘッドホンを持つ手が震え出す。

(看取るとか、末期とか、今生の別れとか、その瞬間は今のようなのかも知れない……)

 別れの曲のメロディーが頭の中を流れる。

(そんなのは否よ! まだ、お互いに何も言えていないし、ちっとも愉しくないじゃない!)

 悲しさを誤魔化すようにヘッドホンをバックに片付けていると、いくつもの赤色灯が回る車外の慌ただしさに機敏に動き回るオレンジ色の制服で、レスキュー隊が到着したのを知った。

(ああ、良かった。これで彼は助かる……)

 傍に来たレスキュー隊員が、まず彼の状態を見る。彼が痛がっている左脇腹に後頭部もちゃんと看てくれていた。それから彼の救出で不手際や不慮の事態が発生しないように、挟まれ具合を手摺りに乗って上からや床に這い蹲って下からと隅々まで細かく確認している。更に救出の算段を再度、指差し確認してから真剣な顔で私に降車を促した。

「さあ、危ないから降りて下さい」

 その真剣な表情に事態の深刻さを感じた私は、彼の万が一を連想してしまう。だったら尚更、

「いやです。ここに、彼の傍にいます」

(だって、私が危ないって言うなら、彼はもっと危ないじゃないの。彼を安全に助け出せないの?)

「ここに居るなんて、むちゃ言わないで。彼を助け出す作業の邪魔になるから、ね」

 更にドカドカと乗り込んできたレスキュー隊の人達が、彼の傍から離れない私を両脇から抱きかかえるようにして車外へ運んだ。私は抱え出されながらも彼から目を離さない。彼は連れ出される私を笑顔で見送っていた。だけど彼の眼は笑っていなくて、その笑顔も固まって行く。

(不安? ……なんだ)

 私は居た堪れなくなって、

「彼は私を守ってくれたの! お願いだから助けてあげて!」

 思わず大声で言ってしまった。だけど、少しも恥ずかしいとは思わない。今の私の心からの切実な願いで寧ろ誇らしいくらいだ。

「頑張って……!」

 彼に掛ける言葉が上手く結べない……。固まっていた笑顔を緩ませて彼は頷いてくれた。

 事故見物の野次馬達を遠ざける警察官や消防団員の脇で、彼の無事を祈りながら救出作業を見守っていると、彼が言った通り、バスへ衝突したトラックを少し離しただけで拉げたフロントガラスは、崩れるように剥がれて簡単に取り除く事ができた。

 彼の体に食い込んでいたのはトラックの折れ曲がったサイドミラーの支柱で、それは鋭角に曲がり、先端が彼の脇腹を背中から押し潰していた。

 ストレッチャーに寝かされて運ばれる彼は、救急車の後部ドアからストレッチャーごと乗せられて行く。救急車の中へ運ばれる動きに合わせて、ストレッチャーのキャスターが軽く滑らかに畳まれて滑るように入って行った。

 初めて見る救急隊員の機敏な働きと設備の機構の作動に見入ってしまい、瞬間、彼を意識から飛ばしてしまう。直ぐにハッと感じた視線で流し見た彼は、痛みに耐える顔に優しく親しげな瞳で私を見続けていて、それに気付いて顔を向け直す私へ彼は目を細めて笑ってくれる。その寂しげな笑顔が私の胸を悲しさで締め付けて、息ができないくらいに切なくさせた。

(……いっしょに行かなくちゃ!)

思うよりも早く駆け出した私は、大急ぎで降車口の底に落ちていた彼の鞄を拾い、閉じられようとしていたサイドドアを腕で制して救急車に飛び乗った。

「乗せて下さい。私も彼といっしょに行きます」

 サイドドアを閉めようとしていた救急隊員は、私の表情と声や行動の勢いに圧されたのか、肯いてくれた。

 痛みと不安からなのだろう、彼の目を虚ろげに細めた顔は強張って歪んでいた。その目が大きく見開かれて傍に近寄る私を見ている。瞳の虹彩に彼の安堵を感じた。

(乗り込んで、良かったぁ……)

「……ありがとう。いっしょに、……いてくれて……」

 目を丸くした驚きの顔で乗り込んできた私を見ていた彼が、震える声で言った。

(違うわ。あなたが礼を言うのはおかしいでしょう)

 声の震えは付き添う私に嬉しくて感動した所為って思ったけれど、彼の唇も、肩も、手足も、全身が救出されて緊張が解れたからなのか、小さくブルブルと震えていた。

 震える彼の声と姿に、溜まり続ける泪で彼が滲んでしまい、溢れた涙が頬を温かく流れて行く。私は泣いている。

 彼は、痛さと戸惑いが混ざった瞳で見つめ、微笑んでくれる。

「私こそ、ありがとう」

 この言葉をあなたへ言う為に、私は救急車に飛び乗ったのだから。

 救急車は朝の通勤で混雑する道路を、けたたましくサイレンを捲し立てながら、猛スピードで縫うように走る。私は揺れる救急車の中で、彼の体が動いて痛がったり、ストレッチャーから滑り落ちたりしないように、小刻みに震える彼の体に被さるように押さえた。

 彼の匂いと広い胸が私を落ち着かせてくれる。涙顔を彼の胸に着けて彼の匂いを吸い込む。さっきまで横から漂っていた、いつもの安心する懐かしい匂い。安らぎを感じたのは一瞬で、直ぐに彼の速い鼓動と小刻みな震えが私を不安にさせた。

(大丈夫だよね。きっと酷い傷じゃないわ)

 ハラハラと涙がまた溢れて、彼の黒い学生服を染めるように濡らす。

(どうか、彼が助かりますように)

 そんな私を安心させるかのように、彼の手がそっと背に添えられた。

 彼の胸は筋肉で盛り上がっている。腹筋が有るのも分かった。掴むように押さえている肩は広くて分厚くて堅い。

(こんなに逞しくなったの? 着痩せして見えるんだね)

 息が吸い込まれて彼の胸が大きく膨らみ、そして切れ切れに吐き出された。それに小刻みな震えは治まらない。

「寒い……? 苦しい? 痛いの? それとも重い?」

 私は上目遣いで訊いた。彼の瞳は肩に添えた私の指を見ていた。

(爪を見ている……)

 急に救急車は右に曲がり、サイレンの音が止まった。

     *

 私達は、運ばれた金沢医療センターの救急外来で簡単な問診と外傷の確認をされて、彼だけは患部のレントゲン検査を受けた。私の身体に痛みや不調は無く、外部にも掠り傷一つ無かった。彼は他にも腹部や胸部への超音波エコーと全身の赤外線サーモを受けて、更に腹部と頭部のMRI検査をされた。それに脳波と心電図も取られていた。

 とても心配していた頭部の容態は、『一応』とか『念の為』とか言われて、緊急を要するような慌てた様子も無く検査を終えていたから、緊張するような問題は見られなかったと思えた。

 各種の検査を終えて救急センターで指示された診察場所は、治療を受けるバスの乗客や様々な関係の人達で混雑していた。私は混雑を避けて少し離れた所に彼のストレッチャーを停めて様子を見る。

(さて、早く彼の状態を診断して貰って、動かしても良いような検査結果だったら、こんな所から脱出しなくっちゃ)

 程なくして彼は巡回して来た医師にストレッチャーに横たわりながら診断を受けた。三十代中頃に見える男性医師に各検査から渡されていた検査結果を見せると、それぞれをチラ見するような確認をしただけで何かを書き込み、

『自分は診断と治療を指示するだけで、緊急治療を必要とする患者以外は、今暫く待って欲しい』と早口で告げて足早に去って行った。

(えーっ! ちょっとぉ~先生、彼は重傷じゃないの?)

 心配で私も見ていたカルテのような用紙には、巡回の医師先生が走り書きしたと思われる横文字の処方箋らしきものが書き込んいた。そのアルファベッドらしき文字は私に判読不能だった。

(こんな汚い字で、よく看護師の人達は読めるなぁ。医療事故の起きないのが不思議だわ)

 さすが専門資格を持つプロ達だと私は感心してしまった。

 私は通り掛かった忙しそうな看護師を無理矢理呼び止めて横文字の意味を訊いてみた。彼は内臓や血管に異常はなくて、腰背部打撲と診断されていた。暫らく痛みが残り一週間ほど青痣が消えないらしい。処方箋の内容を訊いたら、痛み止めと冷湿布だけだった。大きなタンコブになって心配だった脳も内出血は無くて、はっきりと問題が無いと分かった。そして、さっぱり解らない線の繋がりが解明されてしまうのに驚いた。

(ほんと、良かったわー!)

 それでも彼は一日入院して様子を診るようになっていると言われ、その入院手続きに病棟から看護師が彼を迎えに来て診察に同行するので、廊下のベンチで待つように言われた。

 彼の脳に損傷の無い事を知って安心できた私は、冗談交じりに励ましてみる。

「良かったね。中身が無事で」

 今まで自分の傷の状態が分からずに不安な表情で、ストレッチャーに横たわる彼は薄く微笑み、少し開いた口が言葉を出しかけて顔を顰めた。

(しゃべると、けっこう痛いみたい)

「因みに私の方は、御蔭さまで全然問題無し。外傷も全然無いよ」

 私の検査結果を聞いて彼の顔が嬉しそうに笑った。動き掛けた笑う口が止まり、黙った笑顔が少し歪む。

(無理に話さなくてもいいよ)

 自分の身体より私を心配してくれる笑顔の彼が愛おしく思う。

(本当に私が、怪我一つしていないのは、あなたが楯になって守ってくれた御蔭よ)

     *

 救急外来に到着した時は既に、負傷したバスの乗客で病院のフロアーは満員状態だった。ドクターや看護師達は応急の診断や治療に追われて、応援の人が来るまで誰も患者を検査に連れていけない。

「あのぅ、私が付き添って検査に連れて行きます。場所を教えて下さい」

 尋ねた看護師はメモ紙にレントゲン室の場所の簡単な地図を描いて教えてくれた。

 彼がレントゲン撮影やMRIで断層画像を写している間に、看護師から病院内の地図といっしょに渡された用紙へ、名前と住所を適当な名と近くの別の町名で記入した。電話番号も似たような数字を並べるけれど全くのでたらめだ。

(手術や入院にでもなったら、適当に誤魔化して訂正して貰えばいい。家や学校へも連絡されるだろうからね)

 それから、私の制服のブレザーと彼の脱いだ学生服から学校の記章を外した。そして互いの学校に欠席する旨を電話した… もちろん仮病で。

(これも、後でいくらでも訂正できる。生徒が大事故に巻き込まれたなんて分ったら、仮病の偽連絡なんか、あっさり上書きされるわ)

 そう考えて行動していたから、彼の診察と検査の結果が軽傷だと知って、端からの考えを実行する事に決めた。

 救急センターにも行き、診察の場所と時間を尋ねた。救急センターは、警察官とバス会社の人が患者から怪我の状態や事故当時の状況について、聞き取り調査をしていた。それに新聞社やテレビ局も既に来ていて、あちらこちらに人集りができている。知らせを受けた家族や友人達も来ているのだろう、大勢いてロビーやフロアは大混雑だ。

 診察場所は整形外科の外来で、検査結果が届き次第、診察と治療をするとの事だった。

 私は事情聴取や取材なんて受けたくない。無遠慮な質問と決め付けや想像される言葉が嫌だ。テレビのニュースやワイドショー、それにドラマの場面では不躾な感じがして、とても嫌だった。深刻で悲惨な事件もイベントになってしまう。好きな俳優がドラマの主人公で演じる、報道側の配役の場面でも気分が悪くなった。そして好きな俳優は嫌いな役者になってしまう。

     *

「家に帰ろう」

 私は端からそのつもりだった。こんなイレギュラーな事故の当事者なんかになりたくなかった。彼は頷いて私の言った意味を分かってくれた。

「逃げよう。裏口から出るよ」

 彼をストレッチャーに乗せたまま、時間外通用口を目指した。途中、彼に診察用紙に嘘の名前と住所を書いた事、制服の記章を外した事、監視カメラや防犯カメラに撮られないようにしてきた事、そして私はこのような事に関わるのが大嫌いな事を話した。

「はい、これ」

 彼に無断で制服から外した校章や徽章を彼の手に渡して見せ、それをまた掴んで彼の制服のポケットに仕舞ってあげた。

「いいよ。それで」

 通用口近くで、私に支えられてストレッチャーから降りる彼が笑顔で言った。

「君の好きにすればいいよ。僕も、いっしょに家に帰るよ」

 彼はストレッチャーから降りると、時々よろけながらも出来るだけ普通に歩いてくれた。声も普通に出してくれている。無理に普通を装ってくれていると思う。

「痛くても少しだけ我慢してね。これから一人づつ、そこの通用口を通って病院の敷地を抜け、兼六坂へ出るのよ。間隔は五分ほど空けるから防犯カメラに映っても、直ぐには私達だと分らないと思うよ。あなたから先に行って。向こうのゲートを出るまでは、お願いだから颯爽と歩いて欲しいの。兼六坂に出たら左へ進んでちょうだい。ゆっくりでいいよ。でも、途中で痛みに耐えられなくて蹲ったり、倒れたりして人目を誘ったら、絶対ダメよ」

(ごめん、痛いのに。私の我が儘に付き合ってくれて… 端から巻き込むつもりだったけどね。あなたのカバンは、私が持ってあげるから)

「オーケー、ノー プロブレム。行けるさ」

 笑顔で返す彼の声が震えていた。

「ゆっくりと県立美術館へ向かっていて。通りに出たら本当に休みながらでいいから、くれぐれも怪我人だと言わんばかりに歩かないようにね。休む態度にも、歩く姿勢にも気を付けてよ。直ぐに私が追い付くから、それまで我慢しててよね。目的地は本多の森を抜けた二十一世紀美術館よ。そこでお昼して休みましょう」

     *

 私達は一人ずつ、職員用駐車場を横切り通用ゲートの防犯カメラの死角を抜けて外へ出た。先に行かせた彼がよろけるながらでも無事にゲート脇を通過したのを確認してから、私は普通の歩きで防犯カメラのモニター範囲と彼の道筋をトレースしないように気を付けながら、誰に出逢う事も無く兼六坂の通りへ出た。

 ゲートを抜けて彼が歩道沿いの石垣に凭れて休んでいるのを認めると、私は駆け寄って彼に言った。

「私は薬局で痛み止めと湿布を買って来るから、先に行ってて! 県立美術館辺りで合流しましょう。でも、急がなくていいからね。倒れないでよ!」

(苦しそう…、痛くて辛いんだ!)

 抜け出て来た病院では検査しかしていないから、せめて応急処置で患部の解熱をして痛みと炎症を抑える薬を早く与えなくてはと、彼の容態が心配で気持ちが焦っている。

「向かうのは二十一世紀美術館だけど、県立美術館の裏を抜けて行くわよ。普通に広坂を降りて、広坂通りの市役所の方へ向かっちゃ駄目だからね、目立つから! わかったぁ?」

 駆け抜けてから言った私の念押しに頷く彼を見て、凭れている石垣が隙間無く赤と青の戸室石で組まれて表面が滑らかに整えられていて、痛めた背を凭れさせても更に傷を痛める事は無いと思った。

 私は走りながら振り返り、のろのろと歩む彼を見て少し安心した気持ちで、丁度、信号が青になった金沢医療センター前の横断歩道を駆け渡る。そして、向かい側に在る二軒の薬局と近くのコンビニで、痛み止めの瞬間冷却スプレーと冷湿布と抗炎症鎮痛剤、それに栄養ドリンクと滋養強壮液を買った。

     *

 護国神社の弓道場と厚生年金会館の間を走り抜け、石川県歴史博物館の横を駆け足で過ぎて、やっと県立美術館裏の階段で彼を見付けた。もう歩くのも、動くのも限界なのか、彼は階段途中に座り込んでいた。ハア、ハアと肩が上下する辛そうな息遣いが聞こえて来そうだ。

 急いで階段を三段飛びで駆け下りて、追い付いたその場で彼の傷を治療を始める。

「ハァ、ハァ、かなり辛そうね。顔色が悪いわ……、フゥ、肌が真っ白よ」

 走り続けて来た私も息が上がっているけれど、辛そうな彼の具合が心配で最優先だ!

「すぐに冷やして湿布を貼るね。ボタン外すわよ。それから捲って背中を看るけど、痛くても、ちょっと我慢してね」

 制服を捲って患部の状態を見ると、どす黒い小さな痣を囲むように青痣と赤痣が背中全体に広がっていた。

(……とても痛そう)

 皮膚を貫いていないのが不思議なくらい。

「ここ痛いでしょう?」

 どす黒い痣に触れてみる。

(熱い……)

 腫れて熱が有った。たぶんズキズキして、かなり痛いと思う。

「黒い痣になって痛そう。周りも赤や青の痣だらけだよ。腫れて熱を持っているし、ここ触れているのが分かる?」

 彼は横に首を振る。腫れから来る発熱と炎症が心配だ。

「スプレーするよ。冷たいかも」

(彼は、痛みに堪えているんだ。……感覚が無いんじゃないよね?)

 堪えているのは、きっと、私を動揺させないように装っているだけと思いたい。本当は痛がらないくらい麻痺してるのだとしたら、診断や検査で見付けれなかったダメージが有って、彼は更に精密な検査が必要になる。

(彼に、もしもの事が有れば、それは病院から連れ出した私の所為だ)

 今ならまだ、病院へ気付かれずに戻れる。

「うん……」

 肩まで服を捲り上げて背中の皮膚を撫でたり、押さえたりしながら痣の熱の持ち加減と腫れ具合を確認した。そして、湿布を貼る範囲を決めると、先に痛み止めスプレーを吹き掛けた。

「痛う!」

 瞬間、彼は小さく仰け反って固まった。

「大丈夫? 痛い?」

 苦痛で歪んだ彼の顔を見詰め、恐る恐る訊いた。

「いや……、冷たかったから、びっくりしただけだよ」

(ごめんね)

 彼の背中が小刻みに震えている。

(早く痛みを和らげてあげなくっちゃ)

「飲んで」

 直ぐに抗炎症鎮痛剤をいっしょに買った栄養ドリンクで飲ませ、冷湿布を貼った。

(こんな処で、男の子のズボンとトランクスを半分脱がせて、背中剥き出しで湿布を貼るなんて、ベタベタの彼女と彼だわ)

 痛い思いをして私を守ってくれた彼には悪いけれど、何か楽しい。

「ありがとう。痛みが退いて楽になったよ」

 明るく笑顔で言う彼は、本当に痛みが薄れて楽になったみたい。彼の安心した笑顔は優しくて、ちょっとドキッとした。

「ありがとうは要らないわ。私の感謝の気持ちだから。それと、今日はお風呂もシャワーもダメよ。入らないでね」

 鎮痛剤と湿布が入った袋を彼の鞄に入れる。

「薬の代金を支払うよ。今日は持ち合わせが無いから、次に会う時に渡したい」

 鞄に入れるのを見ていた彼が言う。

「いらないから、受け取らないよ。絶対に受け取れないから」

(渡す? どこで返すつもり? バスの中? 次っていつよ? 私を庇って怪我しているのに、そんなの受け取れるはずないでしょう)

 彼の手を肩に掛けて支えながら、ゆっくりと立たせた。こうして並ぶと彼は背が高い。私より十センチメートル以上は高いだろう。中学校を卒業するまで私より背が低かったから、ずっと彼には私より小さいイメージを持っていた。私に掴まりながら立つ彼が別人のようで、不思議な感じがする。彼の背丈は何時の間にか私を追い抜いていた。

(いつから? こんなに背が伸びたのよ。生意気だわ。お願いだから、私に上から目線の言い方をしないでよ)

「大丈夫。一人で歩ける」

 と言いながら彼は少しヨロめいた。

「下の中村美術館の前まで、こうしている。私は、こうしたいの!」

 背中の痣を見たらこうせずにはいられない。それなのに私は彼を病院へ戻さない。

(これは私の義務なの!)

 彼の右手は手摺に掴まり、左手は私の左肩に回された。軽く掛けるように回された手に、私に重みが負担にならないようにしている彼の気遣いを感じる。私の右手は彼の背の傷を刺激しないように優しく添えて、左手は私のショルダーバックと彼のペッタンコの鞄を持った。

 斜面を下りきった所に在る中村美術館から緑の小径を通って鈴木大拙館の裏面へ行ける。中村美術館と鈴木大拙館は中学三年生でクラスごとに見学に来ていたから知っている。両施設に長時間の休息や飲食をする場所は無いけれど、緑の小径なら今の時刻に殆ど人が来ないと思う。

 緑の小径は寂しいけど静かな所だし、今日は体感的に過ごし易い気温だから、そこで二、三時間ほど休んで居れば彼の辛い痛みが少しは落ち着くかもと、アウトドアの緑の小径へ行くか、それとも予定通りに二十一世紀美術館のインドアへ行くか、彼の身体と気持ちを楽にする為には、どちらが良いか、私は迷った。

 階段が終わり平坦になったところにベンチが有った。彼を休ませようと近付いたけれど、苔むして座れた物じゃない。

(なによ、このベンチ。苔で座れないじゃない! こんな陽当たりの悪い場所で木のベンチはないわ。直ぐに湿気って、座ると服が汚れるでしょう。これオブジェじゃないわね。普通、磨いた石を使うんじゃないの!)

 今日のイレギュラーな出来事への苛立ちを、私は木製ベンチにぶつけた。

「あっ!」

 苛つく勢いでベンチを蹴ったら簡単に木材が折れて砕け散り、ベンチは向こうへ引っ繰り返ってしまった。びっくりして彼を見ると、目を丸くして崩れたベンチと私を交互に見ていた。

(しまったぁ~。私はこんな乱暴な女の子じゃないのよ~)

 故意にベンチを破壊した後ろめたさに、こんな人が少ない場所に居ると、逆に目立って通った人に疑われるかも知れないからと、やはり私は二十一世紀美術館へ向かう事にした。

     *

 私達は二十一世紀美術館内のカフェで、休息を兼ねて今後の事を打ち合わせた。このカフェは以前、彼が二十一世紀美術館へ鑑賞に行くとメールにあったから、インターネットで調べてみた二十一世紀美術館のホームページで知った。

 店内が白色を基調としてコーディネートされたお洒落なカフェで、一度は来てみたいと思っていたから、痛みに耐えながら無理して歩いてくれた彼には悪いけれど、内緒で私の我が儘に付き合って貰った。まあ、ゆったりとしたソファ席だから、彼の傷めた身体を休めれると思う。

 軽い食事ができてスイーツやドリンクのメニューも多いので楽しめそう。それに建物の外壁を兼ねた弧を描く大きなガラスが、外の明るさを取り込んで清潔感が溢れる白い光に満たして、気持ちが良い。

(ここの雰囲気は、アート鑑賞の後に来た方がいいかも)

「ここへは、着た事が有るの?」

 私を見詰める彼の顔が、赤くなっていく。

「無い。ここのカフェは、今、君と来たのが初めて……」

(あっ、あれあれぇ~、これって…… デートじゃないのよ。わかるでしょう。誤解しないで……。でも……)

 来ようと思えば何時でも来られたのだけど、美術館内だという事に抵抗が有った。それは全く意味の無い抵抗で、彼の美術の才能と美術館が根拠のない繋がりを私に意識させ拘らせた。そのバカバカしい理由だけで私はここに来られずにいた。

(本当は、とても来たかったに……)

 彼はときおり、痛みが戻るのか顔を顰めながら聞いてくれて、相槌を打ち納得してくれた。二人が病院からいなくなった事はニュースになって一週間ぐらい捜索されるから、二週間は違う時刻のバスに乗る事。バスは三十分ほど早いのに乗って、互いに路線を変える事。疑われて質問されても、知らない、分からない、人違いで通す事。家の人や学校の友達にも気付かれないようにする事などを取り決めた。

 私は彼と普通に話している。彼は私の考えの一つ一つに同意して意見をくれた。一つ一つの考えを聞いた後に彼は私を見詰める。口が開くまで間が有るのは、言葉を選んでいるのだろう。彼と話しているのを楽しく感じている私がいた。

 今まで彼と親しく話そうとは思わなかった。時々メールの遣り取りはするけれど、無口でシャイな鈍臭いイモで、融通が利かない自己満足野朗だと勝手に思っていた。でも違っていた。少なくても融通は利く、私の意に添うように努めてくれている。

 事故に遭い。怪我をして救急車で運ばれたけれど病院から逃げ出し学校もサボった。彼を私の我が儘で振り回した。そして今は美術館内のカフェで遅いランチを摂っている。

 オーダーしたのは、いずれも見た目を裏切らない味だった。ブリオッシュと言うフランス発祥の菓子パンは熱いクリームスープと程好く絡んで、その豊かな美味しさが私の今日の幸運を祝うように、更に幸せな気持ちにしてくれた。

 しっかりした風味のベーコン入りトマトソースパスタは、ちゅるんと全部私が食べてしまった。パスタを全部、私に食べられてしまったのは、弾力の有るパスタの巻き取りに試みたフォークの片手遣いを失敗してから、手を出さなくなった彼がいけない。

(両手を使ってスプーンの上で、ゆっりとフォークに巻き付ければいいのよ)

 でも私は、その考えを彼に伝えない。きっと左腕を上げると患部が痛むのだと思う。終始、カフェで彼は右手しか使わなかった。

 彼と美術館のカフェでランチ……。

(経緯は変わっているけど、これって、ちょっとデートっぽいよね。やっぱり誤解されるわ)

 そう思うと独り言のように言葉が出て来た。幸せな美味しさは口を軽くさせて思いを声にしてしまった。別に、彼へ話し掛けたつもりじゃないのに……。

「普通に、しゃべれるんだね」

 私を見詰めていた瞳が泳ぎ、急に彼の元気がなくなって返事をしない。視線が伏せ目勝ちになって悲しそう。

(ちょ、ちょっとぉ~、なにメゲてんのよ。そんなつもりで言ったんじゃないのに)

 雰囲気が気まずい。私も余計な事を言ってしまった思いで、言い訳の言葉を探すけれど見付からなかった。

 もうお昼近くなのに、いっしょに食べようと思ってオーダーした料理やスイーツを、彼は少ししか食べていない。 彼がオーダーしたチョコレートパフェは脚付きの背の高いパフェグラスの底にチョコレートソースを沈めたコーンフレークの層へバニラアイスを重ねて、更に生クリームとスライスバナナとチョコシロップのトッピングに二本のチョコポッキーを刺して私の前へ置かれたのを、彼の方へ運ばれた私のオーダーと交換する。そしてパフェグラスの脇へいっしょに置かれていた細長いパフェスプーンを、動かしても脇腹の傷が痛まない右手に握らせた。

 スプーンを摑んだ手は、そのままチョコパを掬って口へ運んだけれど、アイスの冷たさが熱を持つ背中の傷を刺激して辛くなったのか、二、三口を食べた後は手を付けなくなった。

(もっと食べてよ。早く元気になって欲しいのに)

「どうしたの? 食欲無いの? 食べないなら全部、私が食べてもいい? あれ?」

(しまった!)

 言ってから思った。とても空腹で食べたがっている自分がいる。思ったのとしゃべったのが全然違っていた。耳まで赤くした彼が小さく頷きながら言う。

「いいよ……、食べて」

(むっ、イジケたかも)

 彼から引き継いだチョコパはブラッキーなチョコ味がなかなか美味しくて、林檎の香りが豊潤で控えめな甘さのアップルタルトに絡めて食べてみた私を、益々、明るく幸せにさせた。

 スイーツの幸せで軽くなる気分は、拗ねる彼へ何かサプライズをして遣りたい。

(ごめんねぇー。私ばかり幸せになって。あなたも、食べれば気分が変わって、私の無神経な言葉なんか、笑って聞き流せるのに……)

 食後のコーヒーと追加オーダーしたホットケーキが運ばれて来てテーブルに並ぶ。

 焼き上げられたばかりの美味しそうな芳ばしい匂いを胸一杯に吸い込みながら、頂上に乗せられて程好く融け始めているキャラメル大の四角いバターの塊を、ホットケーキ上に広げるように塗り付けてから、残りを二枚のホットケーキの間に挟んで熱で融けるままにした。そして、やっと指で摘めるくらいの取っ手が付いた金属の小さなカップに、なみなみと入れられたシロップを上から円を描くように掛けた。その独特の甘い香りで森林を連想させるメープルシロップは、しつこく粘らない甘みと後に引く風味が好きで、母や姉と焼き上げる自家製のクッキーのレシピにも入っている。

 バターとメープルシロップの艶が美味しそうなホットケーキを慎重に一口大に切り分けてからフォークで刺して、しっかりした甘みが痛みを和らげるかも知れないと、皿へ流れたメープルシロップをぐっちゃり絡ませると、彼の口の前へ突き付けた。

「はい、食べて! このホットケーキ美味しいよ。香りと甘さの風味で元気が出るから」

(あーんして、食べて……、んっ? あっ……)

 我が身を乗り出して、彼の口へ触れんばかりに突き付けたホットケーキと私を交互に見詰める彼を見て気付いた。

(あっちゃぁー、こっ、これって、どう見てもラブラブモードじゃん!)

 見詰められた顔が火照り出して来た。

(ちょっとしたサプライズのつもりだったのに、完璧に勘違いされてる。もう、ホットケーキを刺したフォークを彼に握らせて、……逃げたい)

 ここで突き付けたフォークを戻したり、落としたり、置いたりしたらそれこそ、自分の告白まがいの態度にデレるミーハーな女子になってしまう。だから、染み込んだシロップが滲み出すくらい、彼の唇に押し付けてテレて遣る。

(ほら、早く喰えっちゅうの!)

 一瞬、たじろいでから口を開けた彼は押し込んだホットケーキをフォーク毎、勢いよく銜え込んだ。

「……ほんとだ。美味しいよ。このパンケーキ」

 口に押し込まれたホットケーキを二噛みほどで食べた彼が、紅い笑顔で言う。

(なに、そのすっごく嬉しそうなスマイルは! そんなに嬉しいのなら、もっと味わって食べなさいよ!じゃなくて、やっぱし、ラブラブと勘違いしてるし……)

 彼の明るく弾ませた声に、気遣いのワザとらしさを感じる私は素直じゃない。

「違う! パンケーキじゃない。ホットケーキ!」

 ここは彼の『パンケーキ』をウンチクのツッコミで攻めて、デレも、ラブラブも、散らして薄めたいけれど、自分から始めたのに最初の一切れで止めるのは意識してるのを知られそうだ。

「えっ? だってそれは、妹がいつも『パンケーキ焼けば食べる?』って、訊いてくるのと同じので……。うーん? ……違うのか?」

(おっ、乗って来た)

 再び、食べさせたくなる心配ムードにならないように、ちゃんと会話を続ける。

「ホットケーキだってば! 私の家では『ホットケーキ』って言っているの!」

 本当は、パンケーキとか、ホットケーキとか、ネームなんてどうでもいいんだけど、話していると彼の痛みが薄れているみたいだし、否定から始まる強制洗脳的指導で刷り込んで遣る。

「そっ、そう? 君ん家ではホットケーキなんだ……?」

(あなたは私の守り神だけど、イニシアチブは私のモノよ。逆らわないで私に従順でいて)

「そうよ! だいたいパンケーキは、ホットケーキのカテゴリに入るんだからね!」

(適当だけど、種と亜種と属性の関係みたいな、そんな感じでしょう)

「ううっ……、分類的にもそうだったんだ……。君が、そう言うのならホットケーキなんだろうな……」

 これでウンチクのレクチャーは御仕舞い。私は全然似合わないラブコメを終了してホットケーキを食べるのに専念したい。

「そうなの! 覚えて置いてね」

 それから目を伏せた俯き加減の姿勢でホットケーキを切り分けてはフォークに刺して食べた。私は噛んで飲み込みながら視線を一口大に切り分けるホットケーキへ向け、一切れをフォークに刺すとそのまま彼の顔を見ずに差し出す。そして、彼が少し身を乗り出して銜えたのを感じるとフォークを引いて次ぎのを切り分ける。繰り返す切り分けをフォークに刺しての食べさせと、こんがり焼いたホットケーキと蕩けるバターの匂いに甘いメープルシロップの香りが、私の視界の隅を霞ませて目眩がしそう。

 使うフォークはしっかり間接キスになってしまうけれど、最初にチョコパのスプーンで間接キスをしたのは私だ。絡める甘さの相乗で共用するスプーンとフォークの恥らいを忘れていたのは、『今日の感謝の気持ち』の発現という事で。

(まあ、今は仕様が無いか……。不覚は、許しちゃる……)

 オーダーした全ての料理を食べ終わった私達は、暫く黙ったままコーヒーを飲んだ。チビチビと冷めたコーヒーを飲みながら、まだ混乱が治まらない頭で感情の勢いばかりの今日の行動と態度を、ぼんやりと思い返している私は、上目でのチラ見が精一杯で、まともに彼の顔を正視できない。

(感謝知らずな、私かも……)

 カップはとっくに空になっている。私は、ちょうど飲み終わった振りをして言った。

「出ましょう。帰るわよ」

 また『僕が払う』と、食後の支払いで彼が言い出したのを聞き流して伝票を掴み取ると、私は強い語気で言い返す。

「今は、私が払うの! お願いだから払わせて」

(それに、キャッシュの持ち合わせが無いのでしょう)

     *

「あっ、レスキュー隊や救急車の人や医者と看護師さん、それに救助の人らに『ありがとう』を言うのを忘れた」

 脇腹を摩りながら彼は微笑んで言った。私は無意識に、事故に巻き込まれた私達に責任は無くて、助けられて治療保障されるのが当たり前だと思っていた。消防署や病院は、それが日常の仕事でその為の資格を持ったプロによって、事務的に行われるだけだと思っていた。テレビのニュースや報道番組で流れる画面を見ても、大変な仕事だと思いはしても『ありがたい』とは感じなかった。でも、職業上の責任やプロ意識だけじゃできない。

 必ず救い出そうとする思いや、どうか助かって欲しいと願う気持ちが有るはずだ。有るからこそ、迅速で丁寧な作業や処置になり、誠実で優しい思い遣りの言葉と態度に表れるのだ。救助を手伝った通り掛かりの人や近くの人達もそうだ。無意識的な無償で全くの誠実な思い遣りだけでの行動だったのだろう。

 彼の一言は、その事を私に気付かせて教えてくれた。

(病院から逃げて、不味かったかな?)

 痛みを堪える彼の表情に少し後悔したけれど、別れ際に彼の赤面した顔が明るく笑って、私を安心させてくれた。

 彼の胸ポケットから小さくてスリムなミュージックプレーヤーを取り出して彼に握らせた。プレーヤーに繋がるイヤホンも彼の両耳に付けてあげる。フロアーで黙って私の為すがままにされる彼に、

「演出よ」

 私の考えを伝えた。それから私もバックからヘッドホンを取り出して耳に当てた。

「ここからは別行動よ。湿布で冷やしても歩くと痛いでしょうけど、怪しまれないように音楽を聴きながら、できるだけ普通に歩いてね」

 案内板を見て彼に広坂通りへの北出口を促して歩かせる。後姿を見る限り彼は普通に歩けているように見えて少し安心した。それから私は携帯電話のメディアプレーヤー機能のパネルをスクロール選曲と、プレイ記号のアイコンに触れながら市役所方向の西出口へ向かう。

 私は郷土資料館前から、彼は市役所前から別々のタクシーで家に帰る。彼がタクシーに乗り込むのを、横断歩道の信号が青に変わるのを待ちながら見ていた。持ち合わせが無い彼のタクシー代は二十一世紀美術館内の広いホールで渡してある。

『返さなくてもいいよ』と言って彼の学生服のポケットに無理矢理押し込んだ。彼はタクシー代の受け取りを拒んだけれど、懇切丁寧に説得したら受け取ってくれた。

 彼の乗ったタクシーは、横断歩道を渡る私の横をUターンして行く。タクシーの中から彼が笑わない顔で私を見続けていた。あんなに体を捻って、後ろを向き私を見ている。

(そんなに後ろを見ていたら痛いでしょう…… 痣が酷くなるよ)

 タクシーが視界から走り去るまで、広坂通りの用水の傍らに立ち尽くし、私の瞳は彼を追い続けた。

(そんな顔で、私を見詰めないでよ……)

 普通にしゃべれたのは私だった。

(あなたに言ったように聞こえたのは、勇気も根性も無い私への励ましだったの)

 彼が何の躊躇いも無く普通に話し掛けて来たら、たぶん私は拒絶してしまう。酷い言葉を連ねて彼を二度と私に近寄れなくしている。

(今のままのはにかむ、あなたでいいの)

 傍を流れる辰巳用水のせせらぎが私を正直にさせた。

(ねぇ、私はこんな女の子なのよ。こんな私のどこがいいの?)

 --------------------

【大丈夫? 痛みはどう? 腫れは引いてきた? 熱は有るの? 学校行ってる?】

 彼が心配でメールを打つけれど、返事は来ない。

     *

 彼とぶつかった額には掠り傷一つ無かった。脱衣場でも、風呂場でも、背中を含めて身体のあちこちを鏡に映して見ても、どこにも傷や赤みや痣は無くて、シャワーを浴びたり、湯船に浸かってみても、ヒリつきや痛みの感じは無い。

今日の事故の痕跡をどこかに探すとすれば、私の意に反して蹴りでベンチを粉砕した靴先に潰した苔痕が残っているくらいだろう。

(ありがとう)

 それくらい、私は彼に守られていたと改めて感謝した。

 もう流石に逃げて避ける訳には行かない。昼間は対面的に『彼』と他人行儀に呼んでいたけれど、直接の呼び掛けは『あんた』から『あなた』に変わっている。私を自らの身体で守ってくれた男性……、男の人……、異性を『あいつ』と中性的な異物意識する事は、もうできない。いつか起こるかも知れないだろう程度の今日の事故の為に、毎朝のバスで私の横にいてくれた。

 これからは、逃げる事も、避ける事も、気付かない事にも、無かった事にも、無視する事もをせずに、彼を意識して、彼を見て、彼を感じて、しっかりと彼を判断しなくてはならないと思う。

(彼の良い点や好きなところは、一つでも有ったっけ?)

 私は鏡を見て逃げようとしていない内なる私に訊く。

(少なくとも~、一つ以上は有ったよ)

 嫌いなところは? 許せないところは? 気に障るところは? 今度は避ける要因を探す。

「四角い爪と言った……。でも、もういいや。まだ、気付かない厭なところが有るかも知れないけど、今は他に無いよ」

 鏡の中の口が、そう動いて私の声が風呂場に篭るように木霊した。

 案の定、夕方のニュースからバス事故で怪我をしながら治療を受けずに失踪している、高校生らしい男女二人の行方が話題になっていた。

 翌日は、同じバスに乗り合わせた近所の人が私もいたとか、見たとか、心配して来るし、それに、ちゃんと病欠の連絡を学校へ入れたのに、事故を知った先生が欠席を怪しんで家に確認したから仮病エスケープがバレて、家族に身体の無事を心配され、何処へ行っていたのかと問い質されっぱなしだった。けれど、早く来た別のバスに乗り市内をぶらついていたと終始惚け通した。何より私には傷一つ無いのだから、誰もそれ以上の疑いようも、詮索もしようが無かった。

 念の為にチェックしたインターネットには、バス事故の様子を携帯電話のカメラで撮ったと思われる動画が、いくつかのサイトにアップされていたけれど、いずれも遠巻きで撮影していたみたいで、映っていた彼と私は、ズーム画面でも個人を特定できるほどの画質では無くて安心できた。

     *

 予想通り事故から一週間ほど経つと、バス事故など起きていなかったかのように、テレビや新聞やみんなの話題から、あっさりと出なくなった。まるで無理に忘れ去せるようにしているみたいだ。

【心配させてごめん。もう痛みは無くなったよ。痣も薄くなっている。君が治療してた御蔭だ。ありがとうございます。あれから少し熱が出て三日間も休んでしまった。明日からは学校へ行けそうだよ。それから当面、通学のバスは笠舞を通る路線にするよ。そして二週間くらい過ぎたら、そっちの路線へ戻るよ。君こそ本当に大丈夫なのか?】

 バス事故から三日目、何度もメールしても返事がなかった彼から漸くメールが来た。

(私こそ、ありがとう。あなたが私を守ってくれたの。あなたの御蔭で傷一つ負わなかったわ。それに楽しかったよ)

 やっと気持が落ち着いて、私は心から彼に感謝した。

 事故から二日目の昨日、下校帰りに二つ手前の停留所でバスを降り、一気に駆け降りれば上昇気流に乗って飛べそうな気がする急な石段を、一段、一段、恐る恐る弔辞の不吉な気配がしないかと気持ちを構えながら下り切り、中学校の卒業アルバムの名簿で調べた彼の住所の前に立って、普通じゃない変化が無いかと暫く様子を見ていた。

 暫く経っても、私が立つ生活道路と下りて来た階段に行き交う人も無く、近付く初夏の暖かな陽射し受ける入母屋作りの彼の家は静かに佇み、磨りガラスの窓や格子戸の玄関から中の様子を伺い知れなかった。

 少し時間を潰してから再び様子を見に来ようと思い、生活道路をそのまま進むと幹線道路沿いに在る古いショッピングセンターの脇に出た。幹線道路が通る方角と彼の家との距離を考えると、彼が私の言い付けを守っていたならば、ここでタクシーを降りたのだろうと想像ができて、私が無理やり連れ回したのと今来た道を痛みを堪えて帰った挙句、音信不通になってしまったのは私の所為だと思う。

 勝手な心配から神経を使う寄り道をしてしまい小腹を空かせてしまった私は、ショッピングセンター内の麺房のテナントでオニギリを二つ食べ、それから本屋で立ち読みをして、ベーカリーでも菓子パンを買う。そして、更にカップのアイスクリームをマーケットで買って屋上の駐車場で彼の家の方を眺めながら食べた。

 帰りも彼の家の前を様子を伺いながら通り過ぎてみるけれど、彼の家は相変わらず人通りの少ない住宅街と共に、何の喧騒も無く静かに落ち着いている。それでも、もしもと安心しきれていない私は、三日目の明日もメールが来なければ、明後日には彼の家へ行って彼と会おうと決めていた。

 だから、連絡が届いて本当に良かったと思う。

【私は大丈夫よ。あの日以外に学校を休んでいないから。……私を守ってくれてありがとう】

 一字一字、確かめながらゆっくりと携帯電話のキーを押す。

 バスの中で私の前に立っていた彼、救急車へ運ばれながら私を見ていた彼、救急車の中で胸にしがみつく私を見る彼の瞳、私の我が儘を押し付けられて頷く彼の笑顔、ストレッチャーに横たわり私に運ばれるままの彼、痣で斑模様の彼の背中。ベンチを破壊した私に驚く彼、私のさり気無い言葉にいじける彼、タクシーの中で痛い体を捩って私を見続ける彼。次々と彼の姿が浮かんできて、携帯電話の画面に表れる文字に重なった。

 真摯な感謝の気持ちでアイコンキーを打ち込んでいるのに、思い出す彼の顔はどれも面白くて、いつしか私は笑っていた。

【それと、全ての支払いを私にさせた事を、あなたは随分と負い目に感じて、悩んでいたみたいけれど、それは全然違うから。あの日、あなたのメジャーでヒーローになれるチャンスと最適な治療を、私の身勝手が奪ったのよ。だから、全く割に合わない代償で申し訳なくて、あなたには悪い事をしたと思っているの。……私を恨んでも感謝しないで】

 後半は互いの人生を違えた向きへ分岐させた思いと反省で、笑いが固まったまま送信してしまう。、

(これで良かったのだろうか? でも、これまで通り、近くに彼がいて欲しい……)

 直ぐに彼はメールを返して来た。

【それでも、君を守れて僕は嬉しいです。だからこそ、僕に守らせてくれた君へ感謝します】

(感謝しないでって、打ったのに……。バカ……)

 ラジカルなメール文字が滲み、発光する画面の光に照らされて落ちる涙が仄かに輝いて見えた。

(ほんとうに、ありがとう。……バカは、もっと素直になれない私の方だ……)

 あらゆる意味で、私は彼に救われて来た。今も救われているし、これからもきっと、彼は私を救い続けてくれると思う。

 

 ---つづく