遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

守護(私 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 弐

 朝、いつもの時刻に、家から一番近い停留所が始発のバスに乗る。そして、私はいつもの運転席の反対側に有る、降車口前の最前列のシングル席へ座(すわ)った。
 この座席位置は交通事故で特に多く被害を受けて、人命を失う確率も非常に高い。それが、分かっていて此処(ここ)へ座るのは、それなりの理由が有った。
 それは、車体の最前部に在る降車口に最(もっと)も近くて降り易(やす)い事。
 発車時刻ギリギリでも、空席な事。
 シングルシートだから、他の乗客と肩や体が触(ふ)れ合わない事。
 それに、目の前がフロントウインドーなので、視界が開けて明るいから、カバンの中の探(さが)しモノを探すのに都合が良くて、気に入っていたからだ。
 いつも二つ目のバス停であいつは乗車して来る。
 今日も、バス停で待っているのが、バスの大きなフロントガラス越しに見えて来た。
 耳に嵌(は)めたイヤホンの白いコードが、胸ポケットからだらりと長く垂(た)れ下がり、袖口(そでぐち)を二つに折(お)り返して腕まくりをした学生服は、開いた詰襟(つめえり)に第一ボタンを外(はず)し、左手には何も入れてなさそうなペッタンコにした革の学生鞄を怠(だる)そうに抱(かか)えて、右手は詰まらなそうにポケットに突っ込んでいる。そんな、いつものだらしない姿で、あいつはバス停に立っていた。
 バスが近付くと、あいつも私を見ているのが分かって、互(たが)いに重なる視線が、二人を見詰(みつ)め合わさせた。この時、家や学校で嫌(いや)な事や、詰まらない思いや、些細(ささい)な悩みが有ると、直(す)ぐに視線を外して目を逸(そ)らす。
 あいつに心の中を読まれそうな気がして、私は目を逸らしてしまう。
(あいつも時々、先に目を逸らしたりするから、私と同じなのかも……? 目は、けっこう語(かた)るからね)
 今日のあいつは、目を逸らさずにバスへ乗り込み、フロアデッキを真っ直ぐに私の許(もと)へ遣(や)って来る。そして、何気に、当然の如(ごと)くとばかり、私の真横へ立つ。
どんなにバスが立ち客で混(こ)み合っていても、無理矢理、人を掻(か)き分けて来て、あいつは必ず私の横に立ちに来る。それに、気遣(きづか)ってくれているのか、いつも先に降(お)りる私が降車し易いように、半歩ほど後ろへずれて立っていた。
 あいつが、横にいる気配と匂(にお)いだけで、なぜか、安心を感じてしまう私がいる。
(こいつは私を、護(まも)っている気で、……いるのかな?)
 そう思うだけで、黙って立つだけの何も話し掛けて来ないあいつに、私は優(やさ)しい気持ちになれそうだった。
 私を護る、私だけのアイギスの楯(たて)……!
(そうなると、私はパラス・アテナだよね。その、ヴァージンゴッデスのイメージ、清純で勝手気儘(かってきまま)な私には、ぴったりかも。実際、ヴァージンだし)
 この楯が傍(そば)に有る限り、あらゆる災厄は、私に及(およ)ばない。外敵の攻撃を防(ふせ)いで、呪(のろ)いを跳(は)ね返す強靭(きょうじん)な魔除(まよ)け。
 何も語らずに私の真横で、静かな壁になるだけの、私の大切なサイレント・シールド。
(でも、私はアテナじゃないし……。戦闘力の無い私は、……我が儘だから、あんた、しっかり護りなさいよ!)
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 八月で十八歳になってしまう私の身体(からだ)は、心や思考も含(ふく)めて、思春期の少女から青春期の女性へと変化して来ている。
 彼を拒絶する自己中心的から、彼に求めてみてと、彼を受け入れてみてへ、考えや行動が違って来ているのを、私は自覚し始めていた。
 毎朝、あいつにジロジロと見られても良いように、シャンプーした髪をブローしてセットする。
 これまでのストレート一辺倒(いっぺんとう)から、目覚(めざ)めの気分と時間の余裕次第で、外や内へカールさせたり、ポニーテールにアップしたり、バサバサっと散(ち)らしてみたり。それで、今日は手間を掛ける時間が無ったから、全体を膨(ふく)らませてボブっぽく簡単に纏(まと)めてしまった。
 あまりしていなかった髪の生(は)え際(ぎわ)や産毛(うぶげ)の処理、眉毛(まゆげ)の形の整(ととの)えに鼻毛と耳毛、などなどのお顔の見繕(みつくろ)いは毎日欠(か)かさない。
 メイクセットやアトマイザーも持ち歩くようになって、殆(ほとん)ど、分からない程度にファンディーションとリップはしているし、香水は梔子(くちなし)か、金木犀(きんもくせい)の香りを胸元(むなもと)に、ちょんと軽く一吹(ひとふ)きだけ。
 制服の襟や肩に埃(ほこり)やフケが付いていないように、綺麗(きれい)にブラシを掛け、後ろ姿もチェックしてから家を出る。
 あいつは、絶対に私のセミロングの後ろ髪を見ていると思う。
 冬の暗(くら)い朝や霙(みぞれ)のような雨の日は、車窓のガラスにあいつが映(うつ)る。
 あいつは吊り革を握(にぎ)り締(し)め、淡(あわ)く影になる顔の瞳(ひとみ)はガラスに映った私を見ている。そんな朝は、私は外を見る振りをして、ガラスの中のあいつを観察した。
 着崩(きくず)れた上着に寝癖(ねぐせ)が付いた髪形。怠くて眠いのか、それとも、不貞腐(ふてくさ)れているのか、そんな風に見れる中途半端(ちゅうとはんぱ)な表情。それに、虚(うつ)ろで定まらない目付き。
 時折(ときおり)、車内灯の反射に照らされる顔は、何を考えているのか分からなくて、少し、不気味(ぶきみ)な感じだけれど、嫌(きら)いじゃない。
 あいつと私は、ガラスに左右反対に映る顔で見詰め合う。
 ……リアルに、上から目線が気に入らないけれど、我慢(がまん)して遣る。
 バスが大きく揺(ゆ)れる度(たび)に、頭に触れそうな、あいつの小脇に抱えているカバンは、裏側の隅角(すみかど)に太い掌(てのひら)サイズの白文字で、『ANTI・WAR』と、刻(きざ)み込まれていて、モラリストでも気取っているのだろうけれど、中途半端感が否(いな)めなくて、思想の甲斐性(かいしょう)も無い、擬(もど)きとしか思えない。
(似合(にあ)わねぇー。……反戦って、あんた反戦の意味、知ってんの?)
 目覚めの良い朝は、あいつのペッタンコの鞄を膝(ひざ)の上に置かせてあげて、持っている太い黒マジックペンで、『ANTI・WAR』を、塗(ぬ)り潰(つぶ)して遣ろうかと思うけれど、私もあいつへ声を掛けられない。
(膝の上に置いたバッグといっしょに、あんたの鞄も置いてあげようと、心では思うのに……)
 あいつの顔を見上げて、明るく話す自信が無いというか、掛ける言葉に迷(まよ)ってしまい、いつも、言う気が失(う)せてしまう。
 私は乗り換(か)えの為(ため)に、あいつよりも先に途中下車して、兼六園下(けんろくえんした)のバス停で降りる。
 たぶん、あいつは香林坊(こうりんぼう)か、武蔵が辻(むさしがつじ)でバスを乗り継(つ)ぐはずだ。
(あんた、私と同じバスで、学校に遅刻しないの? 何時始まりか、知らないけど、金石(かないわ)近くの畝田町(うねだまち)に在るから、あんたの学校の方が遠くて、時間が掛かるはずでしょう。実際、一年生の時に金石まで行ったけど、けっこう遠くて、疲れると思ったんだから)
 いつも、兼六園下でバスを降りて、二、三歩進んでから上目(うわめ)で、あいつを見る。
 バスの広い窓ガラスの向こうに立つあいつは、顔を私に向けて、バスに乗車する時の仰(あお)ぎ見るのとは違い、私の心を見透(みす)かすように、上から目線で見ていた。
 あいつは立ったままで、目の前の、私が降りて空(あ)いてた席には座らない。
 やがて、バスは、降車口と乗車口を閉(し)めると、軽くクラクションを鳴らしてから発車して行く。
 バスが視界から消え去るまで、あいつを見ているけれど、あいつは座らない。
(せっかく空いたんだから、座ってよ。鞄は持って遣らなかったけど、私の体温でシートは温(あたた)かいよ)
 寒い季節には、優しさと暖(あたた)かさを求める気持ちにマジでそう思った。
 凍(こご)える朝は、人肌の温(ぬく)もりが恋しい。
(……人肌って、誰(だれ)のよ?)
 私が目を逸らした朝は、バスを降りても立ち止まらずに、向かい側のバス停へ急(いそ)ぐ。
 あいつが、目を逸らした朝は、バスを降りた私を見ていない。
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 バスは石引(いしびき)の通りに入り、小立野(こだつの)のバス停が近付いて来たので、減速しだした。
 突然、歩道を急ぎ歩く通勤・通学の人達の間隙(かんげき)を狙(ねら)ったように、左の小路から白いトラックが、バスの直前へ飛び出して来た。
 全(まった)く減速せずに目の前へ現(あらわ)れたトラックは、白く大きな脅威(きょうい)となって、超速で迫(せま)って来る。
 その、眼前に広がって行く、信じられない不吉な光景が、私を巻き込むのは確実で、もう避(さ)けられそうにない。
(あっ! だめ! ぶつかる!)
 予期しない災(わざわ)いから逃げようと、慌(あわ)てて気持ちは身構(みがま)えるけど、怯(おび)えて竦(すく)む体は、全然、動いてくれない。
 その時、黒い物が目の前を遮(さえぎ)って、フロントガラスいっぱいに迫った白いトラックが見えなくなった。
「きゃっ!」
 直後、急ブレーキが掛けられた激(はげ)しい制動で、私は浮(う)き上がり、黒い物体に勢(いきお)いよく突き当たった。
 それは、トラックとの衝突で、バスの前面が破壊されるのと同時だった。
 大きな破壊音が響(ひび)き渡り、衝突の衝撃で、更(さら)に私は、黒い物体に押し付けられた。
(うっ! 痛(つう)……)
 バスが、衝突の反動に戻(もど)されて急停止すると、前に押し付けていた慣性が失われ、私は弾(はじ)き返されるように座席に戻された。
 急制動されたダンパーの振るえで揺れていたバスの動きと、振動が収まったのを見計(みはか)らって、そぉっと、衝撃で瞑(つむ)った瞼(まぶた)を開(あ)けると、其処に、あいつがいた!
 ……私の目の前に、あいつがいた?
(なに? ……なに?)
 座席をガードする前面の手摺(てす)りの向こうに、両手で手摺を握り締めて、あいつが立っている。
(なんで、こいつが……、前にいるの……?)
 あいつは、目を瞑ったままでいた。
 苦痛に耐(た)えているかのように、顔を歪(ゆが)めて目を閉(と)じていた。
(どうしたの? どこか痛い…… ああっ! そんな……)
 あいつの背後からは、大きな蜘蛛(くも)の巣(す)のようになったフロントガラスが、捩(ねじ)り曲がって被(かぶ)さるように迫っていた。そして、その向こう側にトラックの白い色が、張(は)り付いたみたいに見えて、私は私に何が起きたのか理解した。
(……私は、こいつにぶつかったんだ!)
 制服の胸の辺りに、薄っすらと肌色が付いている。
(……私のファンデーションだ!)
 ちょっと、震えるように体が揺れた後、あいつは、ゆっくりと目を開けて私を見た。
「だっ、大丈夫(だいじょうぶ)か……? ううっ」
 微笑(ほほえ)みながら、私を気遣う顔は苦痛に歪んでいく。
 拉(ひしゃ)げたフロントガラスと手摺りに、あいつは挟(はさ)まれているみたい。
(助けてくれたの? ……こいつが? ……そうなの、私を、護ってくれたんだ!)
 いつの間にか、カタカタと、私の体が震えている。
 息も、不規則に粗(あら)くなって来た……。
 床に何人もが、折(お)り重なって倒れて呻(うめ)いている。
 痛そうに顔を顰(しか)めて、腕を押えている人、たらたらと、頭から血が流れて泣いている人、私と運転席の間には、三、四人が重なって、俯伏(うつぶ)せや蹲(うずくま)ったように倒れていて、運転手も、血が付いた手で顔を押えている。
 乗客の大半が怪我(けが)をしていた。だけど、私は彼が護ってくれたから、どこも怪我一つしていない。
 初めて遭遇(そうぐう)する切迫(せっぱく)した事態に、ドキドキと高鳴る胸が、息を苦しくさせて、ハア、ハアと、口を開けて肩を上下させる粗い呼吸の私を、あいつの問い掛けが、落ち着かせて震えも治(おさ)まって来る。
(……こいつに、守られていなければ……、私も……)
「私は…… 大丈夫。そっち……、あんた……、……あ、あなたこそ、大丈夫じゃないでしょう」
 私は立ち上がって、彼の状態を見た。
 罅割(ひびわ)れたフロントガラスが、倒れかける壁のように彼の背中に圧(の)し掛かっている。
 特に脇腹辺りが狭くなって、潰されているように見えた。
「血は、出ていないみたいだけど、どうなの? それ、痛くないの?」
 間抜(まぬ)けな質問だった。どう見ても、痛そう。
 背中を激しく打ち付けて、一瞬で、脇腹の厚みが半分以下になるくらいに挟まれているのに……。
 もしかして、内臓が破裂しているかも知れない。でも、彼は平静を装(よそお)っている。
「コン、ゴホッ、ゴホッ」
 吸(す)い込みと吐き出しのリズムが乱(みだ)れて、私は、緊迫(きんぱく)した状況と彼の悲壮(ひそう)な状態に胸が塞がれたように詰まり、乱れる息に咳(せ)き込んでしまう。
「ちょっと痛いかも……。いや、けっこう痛い……。でもこの痛みは、挟まれている外傷の感じだよ。動かなければ、痛みが和らいでいる。もし、内臓が潰れているのだったら、叫(さけ)んでいるか、意識が無くなっているかだね……。激痛だろうな……、たぶん。刺(さ)さっているのなら、熱い感じがするんだよ。その感じも無いよ」
 彼の言葉に、粗い呼吸で咳き込んでいた胸が一杯になった。
 予期しない死線に触れる緊迫に、彼の自己犠牲で得られた安堵(あんど)、守護(しゅご)への慈(いつく)しみ。そして、本当にアイギスの楯(たて)になってくれた彼を喪失(そうしつ)してしまいそうな不安。
 状況と状態の理解が、視覚と言葉に追い付かなくて、私はもう泣きそう!
「なに、呑気(のんき)に痛みの分析してんのよ。横にずれて、抜(ぬ)け出せないの?」
 辛さを押し殺し、息を整えてから私は、彼に怒鳴(どな)るように言った。
「抜け出そうとしているんだけど、なんか、筋(すじ)や内臓が潰れそうな感じで、無理っぽい」
 とっさに、彼が盾になってくれていなければ、私は大怪我か、より、深刻(しんこく)な状態になっていたはずだ。
 彼も、私も、圧壊(あっかい)するフロントガラスに激しくぶつかって、頭から血を流して、ぐったりと床に倒れていたり、フロントガラスを割って、車外に放り出され、頭蓋骨(ずがいこつ)骨折(こっせつ)の意識不明の重態で、ぐんなりする私を、顔中の裂傷(れっしょう)に血だらけの彼が抱(だ)きかかえて、助けを求めていたかも知れない。
 ……少し想像しただけで、ゾッとしてしまう。
「あとね、頭の後ろを、ぶつけたみたいで、痛いんだ。どうなっているか、ちょっと、見てくれるかな。割れたり、陥没(かんぼつ)はしていないと思うけど」
 さらりと、不安を加速させる事を言われた。
 脇腹の傷が、見た目ほどじゃないと思った後だけに、凄く心配になってしまう。
 同時に、『これは、厄介な事になりそうだ』と思った。
 朝の出勤時間に、路線バスと暴走トラックが衝突、重軽傷者多数……。
 これでもう、地方ニュースのトップは確定だ。
 いつもの彼なら黙って言わないか、慎重に言葉を選ぶと思うけれど、怪我でテンションが上がっているから、インタビューされてしまうと事故当時の状況を、馬鹿正直(ばかしょうじき)にベラベラと話してヒーローさをアピールしてしまうかも知れない。
『気がついたら、彼女の前にいました。僕の体なんて、大事な彼女が無事なら、どうなってもいいんです』なんて語って、『命を懸(か)けて、彼は大切な人を護った』とか、『彼の無意識な行動が、彼女を救う』みたいなタイトルの美談が、インターネットでワールドワイドのラブリーなオープンソースにでもされたりしたら、堪(たま)ったもんじゃない。
(違う! そんな、自分の御都合主義なんかに拘(こだわ)っている場合じゃない! 彼は、私を護ってくれたのよ!)
 そう、今は、私の我が儘を押し付けるべきじゃない。
 目立ってしまう事よりも、恥ずかしく感じる事よりも、素性が晒(さら)される事よりも、彼の頭の怪我が心配で、脳へのダメージが無いようにと祈っていた。
「ちょっと、俯いてみて」
 『してみて』と、行動をうながしたのに、『ちょっと』の言葉のままの通り、少ししか傾(かたむ)かない頭が私を苛(いら)だたせてくれたけれど、脇腹が苦痛で身体を傾けられないんだと思い直(なお)してあげる。
 彼の乱れた髪に触れながら、真後ろから被さる罅割(ひびわ)れたフロントガラスに、十センチメートルほどの直径で丸く凹(へこ)む、彼の頭部の衝突した痕(あと)が有った。
 放射状に入る幾筋もの罅で細(こま)かく割れて、彼の髪の毛が何本も附着している。
「あたっ! ううっ、……痛いから。そんなに強く触(さわ)るのは、無しにして欲(ほ)しいな? んで、傷……、酷(ひど)い?」
(ちっとは、我慢しろっちゅうの! うん? こいつは、こんなにしゃべる奴だっけ?)
 これまで、まともに話した事なんて無くて、口数が少ない奴だと思い込んでいただけに、予想外のフレンドリーな喋(しゃべ)りが、後頭部を打ち付けた所為(せい)かもと不安になった。
 だけど、メール文字の会話しか私が知らないだけで、普段は軽口をよく言う奴なんだと思う。
 触るのが気持ち良くて止(や)められないくらいの、モフモフでフワフワした彼の髪を掻き分けている自分の指先を見ながら、『そんなに痛いの?』って、弱々しく頭を振って私の手を避けようとする痛がり方が不安にさせた。だけど、外皮の弄(いじ)くりを痛がるだけで、脳は無事だと思いたい。
 ……鬱陶(うっとう)しいと思っていた。
 バス停にいるのを見て、乗り込む気配と近付く靴音が聞こえ、すぅーっと真横に立たれると、『また来やがった』なんて、心で悪態を吐(つ)きながら下唇を噛(か)む。でも、唇の端は持ち上がって笑窪(えくぼ)を作ってしまうのを自覚していた。
 朝のバス停に彼がいないと、『今日はどうしたのだろう。病気か、怪我でも…… した?』などと、つい心配してしまう。
 彼の頭には、触った指先に血の附くような傷は無かったけれど、代わりに大きなタンコブができていた。
 全身の震えが治まった私とは反対に、彼の顔色が血の気が失せて白く真っ青(まっさお)になっている。
 もし、脳内出血でもしていたらと、そんな、不安を払拭(ふっしょく)させて安心を得たい気持ちの焦(あせ)りが、彼へ訊(き)いてみさせた。
「頭痛がしたり、頭の中から、小さな、変な音が聞こえたり、首が痛かったりしてる?」
 そして、後悔していた……。
(今朝、このバスに走ってまでして、間に合わせようとしていなかったら……、道路を横断しながら、バス停で乗降を終えようとしていたバスに、駆け寄りながら、乗る意思を示さなかったら……、寝坊したり、倒(こ)けたりして、このバスに、全然、間に合わなくて、乗れていなかったなら……、私が、バスに乗っていなかったら……、彼は、空席の最前列の座席を見て、毎朝の場所へは行かずに、もっと、車体中央の乗車口辺りに立って、何度も、私が乗っていないか、見回していたに決まってる。だから、この事故が起きても、彼の事だから、たぶん、軽い怪我で済(す)んでいたと思う。少なくとも、今の、こんな辛い事態にはなっていない!)
「してない。ぶつけたとこが、痛いだけ」
(ああっ、神様!)
 私は焦っていた。一刻(いっこく)も早く彼を診察して貰わないと、……二度と会えなくなってしまうかも知れない。
 普段は神様なんて信じてはいない。
 精々(せいぜい)、初詣(はつもうで)の神社で、身上の願いの成就と家族の末永い幸せを願うくらいだ。
 罰当たりで御都合的な困(こま)った時の神頼みだという事は知っている。でも今は、神様に祈らずにはいられない……。
(どうか、この人を助けてあげて下さい。大(たい)した怪我じゃなくて、元通りの、元気な身体になりますように…… 御願いします)
「気持ち悪い?」
 有り得ないくらい、彼に近付いて、心配して、話しかけていて、彼の為に神様に御願いまでしている自分が信じられない。なのに、心の中で『神様』を唱(とな)え続けながら、私は彼に訊いてしまう。
「この状態に、クラクラしてる」
 そう言って、私から目を逸らした青白い顔は、痛みを我慢する中に嬉(うれ)しそうなヘラヘラ顔が滲(にじ)んでいて、……ムカついた。
(この状態って、フロントガラスを凹ませるほどに、ぶつけた頭の痛みでもなく、何かが喰い込んでいる脇腹の痛みでも、潰れたバスの前面に挟まれて、身動きができないのでもなく、私が傍にいる所為で、クラクラしてるって言うの? こいつぅ、ざけんなよ!)
 私が、凄(すご)く心配して超真剣に訊いているのに、このシリアスな状況を和(なご)ませようとしてるのか、そして、見た目よりも至(いた)って平気で、元気だとアピールしたいのだろうか?
 彼のおふざけ言葉の回答に、心配しているのが馬鹿莫迦(ばかばか)しくなって、怒(いか)りを発現させて遣りたい。
「真面目(まじめ)に、答えて!」
 怒りを放つ語気で、ぴしゃりと叱(しか)りつけてみる。
「ごめん、吐き気はしてないし、視界が暗くなったりもしてないよ」
 言葉尻(ことばじり)を捻(ひね)くれさすような抵抗もせずに謝(あやま)って来る素直(すなお)さが、私に好感を抱(いだ)かせてくれた。
 たぶん、頭の中が出血しているとすれば、……止(と)まらないと、直ぐに、昏睡に陥(おちい)ってしまうだろう。そして、二度と目を覚(さ)まさなくなったら……。
(ブルッ、ぞっとしちゃうわ)
 彼のもしもを考えると、身震いがしてクラクラしてまう。
「眠い?」
(どうか……、疲れたから、眠いとか、昨夜(ゆうべ)は遅かったから、眠いのかなとか、意識を失う予兆(よちょう)のような事は、言わないで……)
「いや、眠くなるどころじゃないし。ねぇ、頭はどうなってる?」
 彼の言う通り、少しも、眠そうに見えなくて良かったと安心する。でも、気が動転してテンションの上がっている今は、体内圧力や細胞密度の変化で患部の崩壊(ほうかい)を防いで、損傷の広がりを抑(おさ)えている状態だけかも知れないから要注意だ。
「大きな……、タンコブができてる。切れていないし、血も出て無い。凹んでもいないよ」
 簡潔に問い、簡潔に答える。
 悪い方への心配ばかりで、優しさを挿(はさ)めない。
「話してて、意識は飛んでいない? 本当に、眠くなっていないの?」
 私はしつこいくらいに、僅(わず)かでも、不安が確信に変わる兆候(ちょうこう)を探(さぐ)り続ける。
「大丈夫! 気を失うなんて、勿体無(もったいな)いだろ!」
 彼のジョークを皮肉る余裕も無く、もう一度、彼のタンコブに触れて遣る。
 『痛い』と、聞こえてくるけど、今度はしっかり触ってみた。
 タンコブの盛り上がりは、硬くてプニョプニョしていないし、触っていても、大きく広がって行きそうな感じはしない。
 モフモフの髪を掻き分けて、周りも探るけれど、タンコブ以外に傷は無くて、触れても痛がらないし、指先にも血は着かなかった。
 ついでに項(うなじ)から首筋へも、触ってみたけれど、耳や鼻からの出血はしていないし、痛がる素振りも無し。それに、覗き込んだ彼の瞳は、しっかりと私を見詰めていて、揺れたり、白目を剥(む)くような動きは無かった。
 見詰め返されるのは恥ずかしいのに、……触れるゼロ距離のパーソナルスペースで、異常な興奮を見せない彼は、脳内の異常も無いと思う……。
 その落ち着く冷静さと、ジョークを放つ態度が腹立たしい!
 捻りが無いけれど、意味が通じるジョークだし、話すトーンと発音も普通で、呂律(ろれつ)も回っていて、ちゃんとしっかりしているから、ラリったりはしていなかった。
「ふっ」
 馬鹿馬鹿しくて詰(つ)まらないジョークに呆(あき)れて、鼻で笑ってしまう。
 たぶん、今のこいつの……、いや、彼のイタい頭の中は、お花畑になっている。
 きっと自分が、ホワイトドラゴンに強襲されて、為す術(すべ)の無い無防備な窮地(きゅうち)から、憧(あこが)れのプリンセスを守り通したヒーローの黒騎士のようだと思っているはずだ。
 確かに、捧(ささ)げてくれた誓(ちか)いの忠誠を感謝するかのように、私は、目の前にいる男の子の髪を撫(な)でながら肩に手を置いていた。
 ……描(えが)いた絵の構図と色彩、それに、綴(つづ)った作文の内容が殆ど一致するのなら、それは、価値観を共有できる気の合う相手で、しっくりした御付き合いができちゃうなんて、そんな愚(おろ)かで、歪(ひず)んだ思い込みを私はしない。
 もし、殆どでなくて、大体でも、考えや行動や好(この)みが一致する価値観が同じって相手なんか、自分みたくて全然、面白(おもしろ)みも無いし、それに気色が悪い。
 そもそも、自分とは違うから、魅力を感じるのだと思う。
 それは、時々しか意気投合しないのに惹(ひ)かれるくらいが、もっと、相手を知って好きになりたいし、好きになって欲しいと、努力しちゃいそうだ。
 だけど今、彼は死神(デス)を撃退してくれた、私のヒーローでプリンスだ! そして、か弱い私は、彼に救われたプリンセス! だから、彼のヘブンな想いへ、私はシンクロしてあげてもいい。
(お願いだから、あんた、しっかりしてよ。頭ん中、大丈夫だよねぇ)
 たぶん、脳への損傷は無いだろうけれど、万が一も有るし、見た目だけじゃ判らない。
 私のような素人(しろうと)判断は、危険だと思う。
(一刻でも早く、彼を助け出して、検査して貰わないと……、ああ、誰か……)
 既(すで)に乗車口のドアが、手動で開けられて幾人も車外へ逃(のが)れていた。
 無事だった乗客と歩行者の人達も手伝って、傷を負(お)った乗客の大半がアーケードの歩道へ運ばれて寝かされている。
 私の近くに倒れていた人達も、救助の人に支(ささ)えられたり、担(かつ)がれたりして降ろされて行った。
 拉げて傾いたフロントガラスを仰ぐように見ている運転手は、『最後に降りる責任が有る』と言って、砕(くだ)けたガラス片を浴(あ)びて、顔中が血だらけになる大怪我をしているのに、運転席から動かない。
 遠くから聞こえ出したサイレンの音が、急速に大きくなって近付いて来る。
 私も降りるように促(うなが)されたが、彼の傍にいると言って断(ことわ)った。
「降りろよ。もう直ぐ、レスキュー隊が助けに来るだろうし、大丈夫さ。きっと、この後ろの白い奴をどかせば、出られるから」
 少しずつ息が落ち着いて来て、私はもう安心なのに、彼は私の安全を優先させる。
 怪我をしている自分よりも、私を心配してくれていた。
「怪我は有りませんか? さあ、あなたも降りてください」
 救助に来た人は私の手を掴(つか)み、開かれた乗車口へ引っぱる。
「彼の傍にいます!」
 強い口調で言い、掴んだ手を振り払って彼の傍を動かなかった。
 ドキドキした。
 思わず自分でも信じられない言葉が出た。でも、彼を一人にできない。
 彼から離(はな)れたくなかった。
 直ぐに助け出されるのなら、なおさら彼の傍にいたい。
「後ろの白いのって……、何よそれ、いやよ! レスキュー隊が来るまで、……私は、ここにいるわ!」
 急に目頭(めがしら)が熱くなって、眼に涙(なみだ)が溜(たま)った。
 この状況が悲(かな)しいのではなくて、こんな状況にならなければ、互いに話せなかったのが哀(かな)しい。
 次々と負傷者が運び出されて行き、エンジンの停止したバスの中の喧騒(けんそう)が次第に静かになるのに連れ、事故の衝撃でズレ落ちた私のヘッドホンと彼のイヤホンのスピーカーから小さく鳴るリズムが、ノイズのような耳障(みみざわ)りさで聞こえて来る。
 彼にぶつかった勢いで頭に有ったヘッドホンは辛(かろ)うじて私の首に引っ掛かり、私を護る咄嗟(とっさ)の動きと背後からの衝突の衝撃で、彼の耳に填(は)めていた二つのイヤホンは仕舞い忘れていたかのように、だらしなく胸ポケットから垂れ下がっていた。
 その、小さく響かすイヤホンの一つを手に取り、いつも彼が、どのようなジャンルの曲を聴いているのかを知りたいと湧(わ)き上がる興味に、私は顔を近付け、無造作に耳へ填めて聴いた。
 彼の学生服の胸へ触れそうなくらいの接近に、鼻先が彼の匂いに擽(くすぐ)られる。
 安心する悪くない匂いだったけれど、近付き過ぎたのを恥じた後退(あとずさ)りで、ピンとコードが張って抜け落ちそうになったイヤホンから、女の子の可愛(かわい)い声の歌が耳の奥で響くように聴こえた。
(これはJ-POPとは違う。これを聴きながら、真横に立つ彼は私を見下ろし、黙って何を考えていたんだろう? 全く、オタッキーなんだから)
 少しだけ聴いてからイヤホンのコードを纏め、プレーヤーをオフにして、彼の胸ポケットに戻した。
 変わったジャンルを聴く者同士の共感が、私を楽しくさせた。
「へぇー、こんなの、聴いていたんだ」
(なんか、アニメの歌っぽくて楽しいじゃん。あなた、やっぱり変わってるね。でも、私のフレンチオールディーも、彼の事を言えないな)
 私は顔を背(そむ)けて首に引っ掛かっていたヘッドホンを外し、彼の耳へスピーカーを近付けながら優しく言ってあげる。
「私のも、聴かせてあげるね。ジャンルはフレンチオールディーよ」
 自らも顔を傾け、耳をヘッドホンに付けて聴き入る彼は、少し笑いながら私を観察するように、じっと涙目で見ている。
 私を守ってくれた彼の悲痛な状態を見ているだけで、何もできない無力さに焦る苛立ちと悲しみが込み上げて、ヘッドホンを持つ手が震え出す。
(看取(みと)るとか、末期(まつご)とか、今生(こんじょう)の別れとか、その瞬間は、今のようなのかも知れない……)
 別れの曲のメロディーが、頭の中を流れる。
(そんなのは否(いや)よ! まだ、お互いに何も言えていないし、ちっとも、愉(たの)しくないじゃない!)
 悲しさを誤魔化(ごまか)すようにヘッドホンをバックに片付けていると、いくつもの赤色灯が回る車外の慌ただしさに、機敏に動き回るオレンジ色の制服で、レスキュー隊が到着したのを知った。
(ああ、良かったぁ。これで、彼は助かる……)
 傍に来たレスキュー隊員が、先ず、彼の状態を見る。
 彼が痛がっている左脇腹に、後頭部も、ちゃんと看てくれていた。
 それから、彼の救出で不手際(ふてぎわ)や不慮(ふりょ)の事態が発生しないように、挟まれ具合を、手摺りに乗っての上からや床に這(は)い蹲(つくば)っての下からと、隅々(すみずみ)まで細かく確認している。
 更に、救出の算段を再度、指差し確認してから真剣な顔で私に降車を促した。
「さあ、危(あぶ)ないから降りて下さい」
 その真剣な表情に事態の深刻さを感じた私は、彼の万が一を連想してしまう。
(だったら尚更(なおさら)、私は、此処に居なければならない!)
「いやです。ここに、彼の傍にいます」
(だって、私が危ないって言うなら、彼は、もっと危ないじゃないの。彼を安全に助け出せないの?)
「ここに居るなんて、むちゃ言わないで。彼を助け出す作業の邪魔(じゃま)になるから、ね」
 更に、ドカドカと乗り込んできたレスキュー隊の人達が、彼の傍から離れない私を両脇から抱きかかえるようにして車外へ運んだ。
 私は抱え出されながらも、彼から目を離さない。
 彼は連れ出される私を、笑顔で見送っていた。
 だけど、彼の眼は笑っていなくて、その笑顔も固(かた)まって行く。
(……不安? そう、なんだ……)
 私は、居た堪れない……。
「彼は、私を守ってくれたの! お願いだから、助けてあげて!」
 思わず、大声で言ってしまった。だけど、少しも、恥ずかしいとは思わない。
 今の私は、心からの切実な願いで、寧(むし)ろ誇(ほこ)らしいくらいだ。
「頑張(がんば)って……!」
 彼に掛ける言葉が、上手(うま)く結(むす)べない……。
 固まっていた笑顔を緩(ゆる)ませて、彼は頷(うなず)いてくれた。
 事故見物の野次馬達を遠ざける警察官や消防団員の脇で、彼の無事を祈りながら救出作業を見守っていると、彼が言った通り、バスへ衝突したトラックを少し離しただけで、拉げたフロントガラスは剥(は)がれるように崩(くず)れて、簡単に取り除く事ができた。
 彼の体に食い込んでいたのは、トラックの折れ曲がったサイドミラーの支柱で、それは、鋭角に曲がり、先端が彼の脇腹を背中から押し潰していた。
 ストレッチャーに寝かされて運ばれる彼は、救急車の開かれた後部ドアからストレッチャーごと乗せられて行き、救急車の中へ運ばれる動きに合わせて、ストレッチャーのキャスターが軽く滑(なめ)らかに畳(たた)まれて滑(すべ)るように入って行った。
 初めて見る、救急隊員の機敏な働きと設備の機構の作動に見入ってしまい、瞬間、私は彼を意識から離してしまう。
 直ぐに、ハッと感じた視線で流し見た彼は、痛みに耐える顔に、優しく親しげな瞳で私を見続けていて、それに気付いて顔を向け直す私へ、彼は目を細めて笑ってくれる。
 その寂しげな笑顔が、私の胸を悲しさで締め付けて、息ができないくらいに切(せつ)なくさせた。
(……いっしょに、行かなくちゃ!)
 思うよりも早く駆け出した私は、大急ぎで降車口の底に落ちていた彼の鞄を拾(ひろ)い、閉じられようとしていたサイドドアを腕で制して救急車に飛び乗った。
「乗せて下さい。私も、彼といっしょに行きます」
 サイドドアを閉めようとしていた救急隊員は、私の表情と声や行動の勢いに圧(お)されたのか、肯(うなず)いて中へ入れてくれた。
 痛みと不安からなのだろう、彼の、目を虚ろげに細めた顔は強張(こわば)って歪んでいた。その目が大きく見開かれて、傍に近寄る私を見ている。
 瞳の虹彩の輝きに彼の安堵を感じた。
(乗り込んで、良かったぁ……)
「……ありがとう。いっしょに、……いてくれて……」
 目を丸くした驚きの顔で、乗り込んできた私を見ていた彼が、震える声で言った。
(それは違うわ。あなたが御礼を言うのは、おかしいでしょう)
 彼の声の震えは、付き添う私に嬉しくて感動した所為って思ったけれど、彼の唇も、肩も、手足も、全身が、救出されて緊張が解(ほぐ)れたからなのか、小さくブルブルと震えていた。
 震える彼の声と姿に、溜まり続ける泪(なみだ)が彼を滲ませて、溢(あふ)れる涙が両の頬(ほお)を温かい筋となって流れて行く。
 泣いている私を見詰める彼は、痛さと戸惑(とまど)いが混(ま)ざった瞳で、嬉しそうに微笑んでくれる。
「私こそ、ありがとう」
 この言葉をあなたへ言う為に、私は、初めて救急車に飛び乗ったのだから。
 救急車は、通勤の乗用車で混雑する朝の幹線道路を、けたたましくサイレンを捲(まく)し立てながら、猛スピードで縫(ぬ)うように走る。
 私は揺れる救急車の中で、彼の体が動いて痛がったり、ストレッチャーから滑り落ちたりしないように、小刻(こきざ)みに震える彼の体に被さるようにして押さえた。
 彼の匂いと広い胸が、私を落ち着かせてくれる。
 涙顔を彼の胸に着けて、彼の匂いを吸い込む。
 さっきまで横から漂(ただよ)っていた、いつもの安心する懐(なつ)かしい匂い。
 安らぎを感じたのは一瞬で、直ぐに、彼の速い鼓動と小刻みな震えが私を不安にさせた。
(大丈夫だよね。きっと、酷い傷じゃないわ)
 ハラハラと、また涙が溢れて、彼の黒い学生服の胸を点々と濡らし、筆先から墨(すみ)が垂れ落ちたような艶消(つやけ)しの黒色に染めた。
(どうか、彼が助かりますように)
 そんな私を安心させるかのように、彼の手が、そっと私の背に添(そ)えられた。
 彼の胸は、筋肉で盛り上がっている。
 腹筋が有るのも分かった。
 掴むように押さえている肩は、広くて分厚くて堅(かた)い。
(こんなに逞(たくま)しくなったの? 着痩(きや)せして見えるんだね)
 息が吸い込まれて彼の胸が大きく膨らみ、そして、切れ切れに吐き出された。
 それに、小刻みな震えは治まらない。
「寒い……? 苦しい? 痛いの? それとも重い?」
 私は、上目遣(うわめづか)いで訊いた。
 彼の瞳は、肩に添えた私の指を見ていた。
(爪(つめ)を、見ている……)
 急(きゅう)に救急車は右に曲がり、サイレンの音が止まった。
     *
 私達は、運ばれた金沢医療センターの救急外来で、簡単な問診と外傷の確認をされて、彼だけは患部のレントゲン検査を受けた。
 私の身体に痛みや不調は無く、外部にも、掠(かす)り傷一つ無かった。
 彼は、他にも、腹部や胸部への超音波のエコースキャンと全身の赤外線サーモスキャンを受けて、更に腹部と頭部のMRI検査もされて、損傷や異常部分を探された。
 それに、脳波と心電図も取られていた。
 とても、心配していた頭部の容態は、『一応』とか、『念の為』とか、言われて、緊急を要するような慌てた様子も無く、検査を終えていたから、緊張するような問題は見られなかったと思えた。
 各種の検査を終えた後、救急センターで指示されて向かった診察場所は、治療を受けるバスの乗客や様々な関係の人達で混雑していた。
 私は混雑を避けて、少し離れた所に彼のストレッチャーを停めて様子を見る。
(さて、早く、彼の状態を診断して貰って、動かしても良いような検査結果だったら、こんな所から脱出しなくっちゃ)
 程無(ほどな)くして、彼はストレッチャーの上で横たわりながら、巡回して来た医師に診断を受けた。
 三十代中頃に見える男性医師に、各検査から渡されていた検査結果を見せると、それぞれをチラ見するような確認をしただけで、何かを書き込んだ。
『自分は、診断と治療を指示するだけで、緊急治療を必要とする患者以外は、今暫(いましばら)く待って欲しい』と、早口で告(つ)げて足早に去って行った。
(えーっ! ちょっとぉ~先生、彼は重傷じゃないの?)
 心配で、私も見ていたカルテのような用紙には、巡回の医師先生が書き加えたと思われる、走り書きの横文字の処方箋(しょほうせん)らしきものが書き込んであった。
 そのアルファベッドらしき文字の羅列(られつ)は判読不能で、私には、その、極めて簡素化された究極の筆記体を理解する事が、全然できなかった。
(こんな汚(きたな)い字で、よく看護師の人達は、読めるなぁ。医療事故の起きないのが、不思議だわ)
 さすが、専門資格を持ったプロ達だと、私は感心してしまった。
 私は通り掛かった忙(いそが)しそうな看護師を無理矢理呼(よ)び止めて、横文字の意味を訊いてみた。
 用紙には、彼の内臓や血管に異常は無くて、腰背部打撲(ようはいぶだぼく)と診断されていた。
 暫らく痛みが残り、一週間ほど青痣(あおあざ)が消えないらしい。
 彼の処方箋の内容を訊いたら、痛み止めと冷湿布(れいしっぷ)だけだった。
 大きなタンコブになって心配だった脳も、内出血は無くて、はっきりと問題が無いと分かった。そして、さっぱり解(わか)らない横文字らしき線の繋がりが、本当に解明されてしまうのに驚(おどろ)いた。
 看護師さんって、凄い!
(ほんと、良かったわー!)
 それでも、彼は一日入院して様子を診(み)るようになっていると言われ、そして、その入院手続きに病棟から看護師が彼を迎(むか)えに来て、処方の診察に同行するので、廊下のベンチで待つようにと言われた。
 彼の脳に損傷の無い事を知って、安心できた私は、冗談交(ま)じりに励(はげ)ましてみる。
「良かったね。中身が無事で……」
 さっきまで、自分の傷の状態が分からずに、不安な表情だった彼が、ストレッチャーに横たわりながら薄く微笑んで、言葉を出しかけて少し口が開いたけれど、顔を顰(ひそ)めると、声を発しないまま閉じてしまった。
(しゃべると、けっこう痛いみたい)
「因(ちな)みに私の方は、御蔭さまで、全然問題無し。外傷も全然無いよ」
 私の検査結果を聞いて、彼の顔が嬉しそうに笑った。
 動き掛けた笑う口が止まり、黙った笑顔が少し歪む。
(無理に、話さなくてもいいよ)
 自分の身体より、私を心配してくれる、笑顔の彼が愛(いと)おしく思う。
(本当に私が、怪我一つしていないのは、あなたが楯になって、守ってくれた御蔭よ)
     *
 救急外来に到着した時は、既に、負傷したバスの乗客で病院のフロアーは満員状態だった。
 ドクターや看護師達は、応急の診断や治療に追われて、応援の職員達が来るまでは、誰も患者を検査に連れていけない。
「あのぅ、私が付き添って、検査に連れて行きます。場所を教えて下さい」
 尋(たず)ねた看護師は、メモ紙にレントゲン室の場所の簡単な地図を描いて教えてくれた。
 彼がレントゲン撮影やMRIで断層画像を写(うつ)している間に、看護師から病院内の地図といっしょに渡された受診用紙へ、適当な名前で患者名を、近くの別の町名で住所を記入した。
 電話番号も、似たような数字を並べるけれど、全くのでたらめだ。
(手術や入院にでもなったら、適当に誤魔化して、訂正して貰えばいい。家や学校へも、連絡されるだろうからね)
 それから、私の制服のブレザーと、彼から脱(ぬ)がした学生服の学校の記章類を外した。そして、互いの学校に欠席する旨(むね)を電話した……、もちろん仮病で。
(これも、後でいくらでも訂正できる。生徒が、大事故に巻き込まれたなんて分ったら、仮病の偽(にせ)連絡なんか、あっさり上書きされるわ)
 そう考えて行動していたから、彼の診察と検査の結果が軽傷だと知って、端(はな)からの考えを実行する事に決めた。
 救急センターへも行って、診察の場所と時間を尋ねた。
 救急センターは、警察官とバス会社の人が患者から怪我の状態や事故当時の状況について、聞き取り調査をしていた。
 それに、新聞社やテレビ局も既に来ていて、あちらこちらに人集(ひとだか)りができている。
 知らせを受けた家族や友人達も来ているのだろう、大勢いてロビーやフロアは大混雑だ。
 診察場所は整形外科の外来で、検査結果が届き次第、診察と治療をするとの事だった。
 私は、事情聴取や取材なんて受けたくない!
 無遠慮な質問と決め付け、それに、乏(とぼ)しい情報から勝手に想像される言葉が嫌だ!
 テレビのニュースやワイドショー、それに、ドラマの場面では不躾(ぶしつけ)な感じがして、とても嫌だった。
 視聴率を稼(かせ)ぎたい報道によって、深刻で悲惨(ひさん)な事件も、イベントになってしまう。
 好きな俳優がドラマの主人公で演じる、報道側の配役の場面でも気分が悪くなった。
 そして、好きな俳優は、嫌いな役者になってしまう。
     *
「家に帰ろう」
 私は、端からそのつもりだった。
 こんな、イレギュラーな事故の当事者なんかになりたくなかった。
 彼は頷いて、私の言った意味を分かってくれた。
「逃げよう。裏口から出るよ」
 彼をストレッチャーに乗せたまま、時間外通用口を目指した。
 途中、彼に、診察用紙に嘘(うそ)の名前と住所を書いた事、制服の記章を外した事、監視カメラや防犯カメラに撮られないようにしてきた事、そして、私はこのような事に関わるのが、大嫌いな事を話した。
「はい、これ」
 彼に無断で制服から外した校章や徽章を、彼の手に渡して見せ、それを、また掴んで彼の制服のポケットに仕舞ってあげた。
「いいよ。それで」
 通用口近くで、私に支えられてストレッチャーから降りる彼が、笑顔で言った。
「君の好きにすればいいよ。僕も、いっしょに家に帰るよ」
 彼はストレッチャーから降りると、時々よろけながらも、出来るだけ普通に歩いてくれた。
 話す声も、普通に出してくれている。
 でも、それは、無理に普通を装ってくれていると思う。
「痛くても、少しだけ我慢してね。これから一人づつ、其処の通用口を通り、病院の敷地をから出て、兼六坂(けんろくざか)へ出るのよ。間隔は五分ほど空けるから、防犯カメラに映っても、直ぐには、私達だと分らないと思うよ。あなたから先に行って。向こうのゲートを出るまでは、お願いだから、颯爽(さっそう)と歩いて欲しいの。兼六坂に出たら左へ進んでちょうだい。ゆっくりでいいよ。でも、途中で痛みに耐えられなくて蹲ったり、倒れたりして人目(ひとめ)を誘(さそ)ったら、絶対ダメよ」
(ごめん、痛いのに。私の我が儘に付き合ってくれて……、端から巻き込むつもりだったけどね。あなたのカバンは、私が持ってあげるからね)
「オーケー、ノー プロブレム。行けるさ」
 笑顔で返す、彼の声が震えていた。
「ゆっくりと、県立美術館へ向かっていて。通りに出たら、本当に休みながらでいいから、くれぐれも、怪我人だと言わんばかりに歩かないようにね、休む態度にも、歩く姿勢に気を付けてよ。私も、出たら通りの薬局で、痛み止めと冷やす湿布(しっぷ)を買って来るから、直ぐに、私は追い付くから、それまで、我慢しててよね。目的地は本多(ほんだ)の森を抜けた二十一世紀美術館よ。其処で休んで、お昼を食べましょう」
     *
 私達は一人ずつ、職員用駐車場を横切り、通用ゲートの防犯カメラの死角を抜けて外へ出た。
 先に行かせた彼が、よろけるながらでも無事にゲート脇を通過したのを確認してから、私は普通の歩きで防犯カメラのモニター範囲と彼の道筋をトレースしないように気を付けながら、誰に出逢(であ)う事も無く兼六坂の通りへ出た。
 ゲートを抜けて、彼が歩道沿いの石垣に凭(もた)れて休んでいるのを認(みと)めると、私は駆け寄って彼に言った。
「私は、薬局で痛み止めと冷湿布を買って来るから、先に行ってて! 県立美術館辺りで合流しましょう。でも、急がなくていいからね。倒れないでよ!」
(苦しそう…、痛くて辛いんだ!)
 抜け出て来た病院では検査しかしていないから、せめて、応急処置で患部の解熱(げねつ)をして、早く痛みと炎症を抑える薬を与えなくてはと、彼の容態が心配で気持ちが焦る。
「向かうのは、二十一世紀美術館だけど、県立美術館の裏を抜けて行くわよ。普通に広坂(ひろさか)を降りて、広坂通りの市役所の方へ向かっちゃ駄目(だめ)だからね、目立つから! わかったぁ?」
 駆け抜けながら言った私の念押しに頷く彼と、彼が凭れている石垣を見て、表面が滑らか整えられた赤と青の戸室石(とむろいし)で隙間(すきま)無く組まれてる様に、彼の痛めた背を凭れさせても、更に傷を痛める事は無いと思った。
 私は走りながら振り返り、のろのろと歩む彼を見て、少し安心した気持ちで、丁度(ちょうど)、信号が青になった金沢医療センター前の横断歩道を駆け渡った。そして、向かい側に在る二軒の薬局と近くのコンビニで、痛み止めの瞬間冷却スプレーと冷湿布と抗炎症鎮痛剤、それに、栄養ドリンクと滋養強壮液も買った。
     *
 護国神社の弓道場と厚生年金会館の間を走り抜け、石川県歴史博物館の横を駆け足で過ぎて、県立美術館裏の階段で、やっと彼を見付けた。
 もう限界なのか、歩くのも、動くのも止めて、彼は階段途中に座り込んでいた。
 ハア、ハアと、肩が上下する、辛そうな息遣いが聞こえて来そうだ。
 急いで階段を三段飛びで駆け下りて、追い付いた其の場で彼の傷を治療を始める。
「ハァ、ハァ、かなり辛そうね。顔色が悪いわ……、フゥ、肌が真っ白よ」
 走り続けて来た私も、息が上がっているけれど、辛そうな彼の具合が心配で、最優先だ!
「直ぐに冷やして湿布を貼(は)るね。ボタンを外すわよ。それから、捲(めく)って背中を看るけど、痛くても、ちょっと我慢してね」
 制服を捲って患部の状態を見ると、ドス黒い小さな痣を囲(かこ)むように、青痣と赤痣が背中全体に広がっていた。
(……とても、痛そう)
 皮膚を貫(つらぬ)いていないのが不思議なくらい。
「ここ、痛いでしょう?」
 ドス黒い痣に触れてみる。
(熱い……)
 腫れて熱が有った。
 たぶんズキズキして、かなり痛いと思う。
「黒い痣になって痛そう。周りも、赤や青の痣だらけだよ。腫れて熱を持っているし、ここ、触れているのが分かる?」
 彼は、横に首を振る。
 腫れから来る発熱と炎症が心配だ。
「スプレーするよ。冷たいかも」
(彼は、痛みに堪えているんだ。……感覚が、無いんじゃないよね?)
 堪えているのは、きっと、私を動揺させないように装っているだけと思いたい。
 本当は、痛がらないくらい麻痺(まひ)してるのだとしたら、診断や検査で見付けれなかったダメージが有って、彼は、更に精密な検査が必要になる。
(彼に、もしもの事が有れば、それは、病院から連れ出した私の所為(せい)だ……)
 今ならまだ、病院へ気付かれずに戻れる。
「うん……」
 肩まで服を捲り上げて、背中の皮膚を撫でたり、押さえたりしながら、痣の熱の持ち加減と腫れ具合を確認した。
 そして、湿布を貼る範囲を決めると、先に痛み止めスプレーを吹き掛けた。
「痛(つ)う!」
 瞬間、彼は小さく仰(の)け反(ぞ)って固まった。
「大丈夫? 痛い?」
 苦痛で歪んだ彼の顔を見詰め、恐る恐る訊いた。
「いや……、冷たかったから、びっくりしただけだよ」
(ごめんね)
 彼の背中が、小刻みに震えている。
(早く、痛みを和らげてあげなくっちゃ)
「飲んで」
 直ぐに、抗炎症鎮痛剤をいっしょに買った栄養ドリンクで飲ませ、冷湿布を貼った。
(……こんな処(ところ)で、男の子のズボンとトランクスを半分脱がし、背中も剥き出にさせて、湿布を貼るなんて、ベタベタの彼女と彼だわ……)
 痛い思いをして、私を守ってくれた彼には悪いけれど、何か楽しい。
「ありがとう。痛みが退(ひ)いて、楽になったよ」
 明るく笑顔で言う彼は、本当に痛みが薄れて、楽になったみたい。
 彼の安心した笑顔は、優しくて、ちょっとドキッとした。
「ありがとうは、要(い)らないわ。私の感謝の気持ちだから。それと、今日は、お風呂(ふろ)も、シャワーも、ダメよ。入らないでね」
 鎮痛剤と湿布が入った袋を、彼の鞄に入れる。
「薬の代金を支払うよ。今日は、持ち合わせが無いから、次に会う時に渡したいんだ」
 鞄に入れるのを見ていた彼が言う。
「いらないから、受け取らないよ。絶対にぃ、受け取れないから!」
(渡す? どこで返すつもり? バスの中? 次っていつよ? 私を庇(かば)って怪我しているのに、そんなの受け取れるはずないでしょう)
 彼の手を肩に掛けて支えながら、ゆっくりと立たせた。
 こうして並ぶと彼は背が高い。
 私より、十センチメートル以上は高いだろう。
 中学校を卒業するまで、私より背が低かったから、ずっと彼には、私より小さいイメージを持っていた。
 私に掴まりながら立つ彼が、別人のようで不思議な感じがする。
 彼の背丈(せたけ)は何時(いつ)の間にか、私を追い抜いていた。
(いつから? こんなに背が伸びたのよ。生意気(なまいき)だわ。お願いだから、私に、上から目線の言い方をしないでよ)
「大丈夫。一人で歩ける」
 そう言いながら、彼は少しヨロめいた。
「下の中村美術館の前まで、こうしている。私は、こうしたいの!」
 背中の痣を見たら、こうせずにはいられない。
 それなのに私は、彼を病院へ戻さない。
(これは、私の義務なの!)
 でも、一応は彼の意思を確認して尊重しなければいけない。
「痛くて辛いのなら、病院へ戻ろうか?」
 私の建前の言葉に、顔を私へ向け、視線は私の目を見る。
「あの紙に入院と書かれていたじゃない、戻れば、安心して休めて、痛みを鎮めて貰えるよ……」
 『戻りたい』と彼が言うのなら、戻したくないけれど、彼の意思に従うつもり。
「戻らないね! あっ、いや、僕は戻らないよ」
 ボソッと返事されると思っていたのに、強く言い返されて、更に穏やかに言い直された。
 彼は、はっきりと強く、『病院へは戻らない』と、頑迷な意思を示した。
「僕は、此処にいる。……君といっしょにいる。……君といっしょにいたいんだ」
 彼は、私の目を見る視線を逸らさずに、はっきり言い切ってくれる。
「……うん、それで、いいよ」
 私の返事を聞くと、彼の右手は手摺に掴まり、左手は私の左肩に回された。
 軽く掛けるように回された手に、自分の重みが、私に負担を掻けないようにしている彼の気遣いを感じる。
 私の右手は、彼の背の傷を刺激しないように優しく添えて、左手は、私のショルダーバックと彼のペッタンコの鞄を持った。
 斜面を下りきった所に在る中村美術館から、緑の小径を通って鈴木大拙(すずきだいせつ)館の裏側へ行けるのを、中学三年生のクラス毎に中村美術館と共に見学に来ていた時に知っていた。
 長時間の休息や飲食をする場所は、両施設に無いけれど、今の時刻の緑の小径なら殆ど人が来ないと思う。
 緑の小径は寂しいけど静かな所だし、今日は体感的に過ごし易い気温だから、そこで二、三時間ほど休んで居れば、彼の辛い痛みが少しは落ち着くかもと、アウトドアの緑の小径へ行くか、それとも予定通りに二十一世紀美術館のインドアへ行くか、彼の身体と気持ちを楽にする為には、どちらが良いか、私は迷った。
 階段が終わり、平坦になったところにベンチが有った。
 彼を休ませようと近付いたけれど、苔(こけ)むして座れた物じゃない。
(なによ、このベンチ。苔で座れないじゃない! こんな陽当たりの悪い場所で、木のベンチはないわ。直ぐに湿気(しけ)って、座ると服が汚れるでしょう。これオブジェじゃないわね。普通、磨(みが)いた石材を使うんじゃないの!)
 今日のイレギュラーな出来事への苛立(いらだ)ちを、私は木製ベンチにぶつけて遣る。
「あっ!」
 苛つく勢いでベンチを蹴(け)ったら、簡単に木材が折れて砕け散り、ベンチは向こうへ引っ繰(く)り返ってしまった。
 びっくりして彼を見ると、目を丸くして崩れたベンチと私を交互に見ていた。
(しまったぁ~。私は、こんな乱暴な女の子じゃないのよぉ~)
 故意にベンチを破壊した後ろめたさに、こんな人が少ない場所に居ると、逆に目立って通った人に疑われるかも知れないからと、やはり私は、二十一世紀美術館へ向かう事にした。
     *
 私達は二十一世紀美術館内のカフェで、休息を兼(か)ねて今後の事を打ち合わせた。
 このカフェは以前、彼が二十一世紀美術館へ鑑賞に行くとメールに有ったから、インターネットで調べてみた二十一世紀美術館のホームページで知った。
 店内が白色を基調としてコーディネートされたお洒落(しゃれ)なカフェで、一度は来てみたいと思っていたから、痛みに耐えながら、無理して歩いてくれた彼には悪いけれど、内緒で私の我が儘に付き合って貰った。
 まあ、ゆったりとしたソファ席だから、彼の傷めた身体を休めれると思う。
 軽い食事ができて、スイーツやドリンクのメニューも多いので楽しめそう。
 それに、建物の外壁を兼ねる弧(こ)を描く大きなガラスが外の明るさを取り込んで、清潔感が溢れる白い光をカフェの空間に満たして、気持ちが良い。
(ここの雰囲気は、アート鑑賞の後に来た方がいいかも)
「ここへは、着た事が有るの?」
 私を見詰める彼の顔が、赤くなっていく。
「無い。ここのカフェは、今、君と来たのが、初めて……」
(あっ、あれあれぇ~、これって…… デートじゃないのよ。わかるでしょう。誤解しないで……。でも……)
 来ようと思えば、何時でも来られたのだけど、美術館内だという事に抵抗が有った。
 それは、全く意味の無い抵抗で、彼の美術の才能と美術館が根拠のない繋がりを私に意識させ、拘らせていた。
 そのバカバカしい理由だけで、私はここに来られずにいた。
(本当は、とても、来たかったに……)
 彼は時折(ときお)り、痛みが戻るのか、顔を顰めながら聞いてくれて、相槌(あいづち)を打ちながら納得してくれた。
 病院から二人がいなくなった事は、ニュースになって一週間ぐらい捜索されるから、当事者と疑いを持たれないようにする注意すべき行動を、私は彼に話す。
 二週間は、違う時刻のバスに乗る事。
 バスは三十分ほど早いのに乗って、互いに路線を変える事。
 疑(うたが)われて質問されても、知らない、分からない、人違いで通す事。
 家の人や学校の友達にも、気付かれないようにする事、などを取り決めた。
 私は、彼と普通に話している。
 彼は、私の考えの一つ一つに同意して意見をくれた。
 一つ、一つの考えを聞いた後に、彼は私を見詰める。
 口が開くまで間が有るのは、言葉を選んでいるのだろう。
 彼と話しているのを、楽しく感じている私がいた。
 今まで、彼と親しく話そうとは思わなかった。
 時々メールの遣り取りはするけれど、無口でシャイな鈍臭(どんくさ)いイモで、融通(ゆうずう)が利(き)かない自己満足野朗だと、私は、彼の性格を勝手に作り込んでいた。
 でも、違っていた。
 少なくても、融通は利き、私の意に添うように努(つと)めてくれている。
 交通事故に遭(あ)い、怪我をして救急車で運ばれたけれど、治療を受けずに病院から逃げ出し、学校をサボった。
 私の我が儘で彼を連れ回していた。そして今、二人は、美術館内の白いカフェで遅いランチを摂(と)っている。
 オーダーしたのは、いずれも、見た目を裏切らない味だった。
 ブリオッシュと言うフランス発祥(はっしょう)の菓子パンは、熱いクリームスープと程好く絡(から)み、その豊(ゆた)かな美味(おい)しさが、私の今日の幸運を祝(いわ)うように、更に幸(しあわ)せな気持ちにしてくれた。
 しっかりした風味のベーコン入りトマトソースパスタは、ちゅるんと全部、私が食べてしまった。
 パスタを全部、私に食べられてしまったのは、弾力の有るパスタの巻き取りに試(こころ)みたフォークの片手遣(かたてづか)いを失敗してから、手を出さなくなった彼がいけない。
(両手を使って、スプーンの上で、ゆっりと、フォークに巻き付ければいいのよ)
 でも私は、その考えを彼に伝えない。
 きっと、左腕を上げると患部が痛むのだと思う。
 終始、カフェで彼は右手しか使わなかった。
 彼と、美術館のカフェでランチ……。
(経緯(いきさつ)は変わっているけど、これって、ちょっと、デートっぽいよね。やっぱり、誤解されるわ)
 そう思うと、独(ひと)り言(ごと)のように言葉が出て来た。
 幸せな美味しさは、口を軽くさせて思いを声にしてしまった。
 別に、彼へ話し掛けたつもりじゃないのに……。
「普通に、しゃべれるんだね」
 私を見詰めていた瞳が泳ぎ、急に彼の元気がなくなって返事をしない。
(!)
 視線が伏せ目勝ちになって悲しそう。
(ちょ、ちょっとぉ~、なにメゲてんのよぉ。そんなつもりで、言ったんじゃないのにぃ)
 雰囲気が気不味(きまず)い。
 私も、余計な事を言ってしまった思いで、言い訳の言葉を探すけれど、見付からなかった。
 もう、お昼近くなのに、いっしょに食べようと思ってオーダーした料理やスイーツを、彼は少ししか食べていない。 
 彼がオーダーしたチョコレートパフェは、脚付きの背の高いパフェグラスの底にチョコレートソースを沈めたコーンフレークの層へバニラアイスを重ねて、更に、生(なま)クリームとスライスバナナとチョコシロップのトッピングに二本のチョコポッキーを刺して私の前へ置かれたのを、彼の方へ運ばれた私のオーダーと交換する。そして、パフェグラスの脇へいっしょに置かれていた細長いパフェスプーンを、動かしても脇腹の傷が痛まない右手に握らせた。
 スプーンを摑んだ手は、そのままチョコパを掬(すく)って口へ運んだけれど、アイスの冷たさが熱を持つ背中の傷を刺激して辛くなったのか、二、三口を食べた後は、手を付けなくなった。
(もっと、食べてよ。早く、元気になって欲しいのに)
「どうしたの? 食欲無いの? 食べないなら全部、私が食べてもいい? あっ! あれぇー?」
(しまったあ!)
 言ってから思った。
 とても空腹で、食べたがっている自分がいる。
 思ったのと、しゃべったのが、全然違っていた。
 耳まで赤くした彼が、小さく頷きながら言う。
「いいよ……、食べて」
(むっ、イジケたかも)
 彼から引き継いだチョコパは、ブラッキーなチョコ味がなかなか美味しくて、林檎(りんご)の香(かお)りが豊潤(ほうじゅん)で控(ひか)えめな甘さのアップルタルトに絡めて食べてみた私を、益々、明るく幸せにさせた。
 スイーツの幸せで軽くなる気分は、拗(す)ねる彼へ、何かサプライズをして遣りたいと企(くわだ)てさせる。
(ごめんねぇー。私ばかり幸せになって。あなたも、食べれば気分が変わって、私の無神経な言葉なんか、笑って聞き流せるのにぃ……)
 食後のコーヒーと追加オーダーしたホットケーキが運ばれて来てテーブルに並ぶ。
 焼き上げられたばかりの美味しそうな芳(こお)ばしい匂いを胸一杯に吸い込みながら、頂上に乗せられて程好く融(と)け始めているキャラメル大の四角いバターの塊を、ホットケーキ上に広げるように塗り付けてから、残りを二枚のホットケーキの間に挟んで熱で融けるままにした。そして、やっと指で摘めるくらいの取っ手が付いた金属の小さなカップに、なみなみと入れられたメープルシロップを上から円を描くように掛けた。
 その独特の甘い香りで森林を連想させるメープルシロップは、しつこく粘らない甘みと後に引く風味が好きで、母や姉と焼き上げる自家製のクッキーのレシピにも入っている。
 バターとメープルシロップの艶が美味しそうなホットケーキを、慎重に一口大に切り分けてからフォークで刺して、しっかりした甘みが痛みを和らげるかも知れないと、皿へ流れたメープルシロップをグッチャリ絡ませると、彼の口の前へ突き付けた。
「はい、食べて! このホットケーキ美味しいよ。香りと甘さの風味で、きっと、元気が出るから」
(あーんして、食べて……、んっ? あっ……)
 我が身を乗り出して、彼の口へ触れんばかりに突き付けたホットケーキと私を、交互に見詰める彼を見て気付いた。
(あっちゃぁー、こっ、これって、どう見ても、ラブラブモードじゃん!)
 見詰められた顔が、火照(ほて)り出して来た。
(ちょっとしたサプライズのつもりだったのに、完璧に勘違いされてる。もう、ホットケーキを刺したフォークを彼に握らせて、……逃げてしまいたい)
 ここで突き付けたフォークを、戻したり、落としたり、置いたりしたら、それこそ、自分の告白まがいの態度にデレるミーハーな女子になってしまう。だから、染み込んだシロップが滲み出すくらい、彼の唇に押し付けてテレて遣る。
(ほら、早く、喰えっちゅうの!)
 一瞬、たじろいでから口を開けた彼は、押し込んだホットケーキをフォーク毎(ごと)、勢いよく銜(くわ)え込んだ。
「……ほんとだ。美味しいよ。このパンケーキ」
 口に押し込まれたホットケーキを、二噛(ふたか)みほどで食べた彼が、紅(あか)い笑顔で言う。
(なに、その、すっごく嬉しそうなスマイルは! そんなに嬉しいのなら、もっと、味わって食べなさいよ! じゃなくて、やっぱし、ラブラブと勘違いしてるし……)
 彼の明るく弾ませた声に、気遣いのワザとらしさを感じる私は素直じゃない。
「違う! パンケーキじゃない。ホットケーキ!」
 ここは彼の『パンケーキ』をウンチクのツッコミで攻(せ)めて、デレも、ラブラブも、散らして薄めたいけれど、自分から始めたのに最初の一切れで止めるのは、ラブラブっぽいを意識してるのを知られそうだ。
「えっ? だってそれは、妹(いもうと)がいつも、『パンケーキ焼(や)けば、食べる?』って、訊いてくるのと同じので……。うーん? ……違うのか?」
(おっ、乗って来たね)
 再び、食べさせたくなる心配ムードにならないように、ちゃんと会話を続ける。
「ホットケーキだってば! 私の家では、『ホットケーキ』って言っているの!」
 本当は、パンケーキとか、ホットケーキとか、ネームなんてどうでもいいんだけど、話していると彼の痛みが紛(まぎ)れているみたいだし、否定から始まる強制洗脳的指導で刷(す)り込んで遣る。
「そっ、そう? 君ん家では、ホットケーキなんだ……?」
(あなたは、私の守り神だけど、イニシアチブは私のモノよ。逆(さか)らわないで、私に従順でいて)
「そうよ! だいたいパンケーキは、ホットケーキのカテゴリに入るんだからね!」
(適当だけど、種と亜種と属性の関係みたいな、そんな感じでしょう)
「ううっ……、分類的にもそうだったんだ……。君が、そう言うのならホットケーキなんだろうな……」
 これで、ウンチクのレクチャーは御仕舞い。
 私は全然似合わないラブコメを終了して、ホットケーキを食べるのに専念したい。
「そうなの! 覚えて置いてね」
 それから、目を伏せた俯き加減の姿勢で、ホットケーキを切り分けてはフォークに刺して食べた。
 私は噛んで飲み込みながら、視線を一口大に切り分けるホットケーキへ向け、一切れをフォークに刺すと、そのまま彼の顔を見ずに差し出す。そして、彼が、少し身を乗り出して銜えたのを感じると、フォークを引いて次ぎのを切り分ける。
 繰り返すように何度も、切り分けた一片をフォークに刺して食べさせるのと、こんがり焼いたホットケーキと蕩けるバターの匂いに、甘いメープルシロップの香りがコラボして漂い、私の視界の隅を霞ませて目眩がしそう。
 使うフォークは、しっかり間接キスになってしまうけれど、最初にチョコパのスプーンで間接キスをしたのは私だ。
 絡める甘さの相乗で共用するスプーンとフォークの恥(はじ)らいを忘れていたのは、『今日の、感謝の、気持ち』の発現という事で納得しよう。
(まあ、今は仕様が無いか……。不覚は、許(ゆる)しちゃる……)
 オーダーした全ての料理を食べ終わった私達は、暫く黙ったままコーヒーを飲んだ。
 チビチビと冷めたコーヒーを飲みながら、まだ、混乱が治まらない頭で感情の勢いばかりの今日の行動と態度を、ぼんやりと思い返している私は、上目でのチラ見が精一杯で、まともに彼の顔を正視できていない。
(感謝知らずな、私かも……)
 カップはとっくに空になっている。
「出ましょう。帰るわよ」
 私は、ちょうど飲み終わった振りをして言った。そう言って、私はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「僕が、払う」
 彼がまた、食後の支払いで、『僕が……』と、言い出したのを聞き流して、伝票を掴み取ると、私は強い語気で言い返す。
「今は、私が払うの! お願いだから払わせて!」
(それに、キャッシュの持ち合わせが無いのでしょう)
     *
「あっ、レスキュー隊や救急車の人や医者と看護師さん、それに救助の人達に、『ありがとう』を言うのを忘れた」
 脇腹を摩(さす)りながら、彼は微笑んで言った。
 私は無意識に、事故に巻き込まれた私達に責任は無くて、助けられて治療保障されるのが当たり前だと思っていた。
 消防署や病院は、それが日常の仕事で、その為の資格を持ったプロによって、事務的に行われるだけだと思っていた。
 テレビのニュースや報道番組で映される画面を見ても、大変な仕事だと思いはしても、『ありがたい』とは感じていなかった。でも、職業上の責任やプロ意識だけじゃできない。
 必ず救い出そうとする思いや、どうか助かって欲しいと、願う気持ちが有るはずだ。
 その思いが有るからこそ、迅速(じんそく)で丁寧(ていねい)な作業や処置になり、誠実で優しい思い遣りの言葉と態度に表れるのでしょう。
 救助を手伝った、通り掛かりの人や近くの家の人達もそうだ。
 無意識的な無償で、純粋に誠実な思い遣りだけでの行動だったのだろう。
 彼の一言(ひとこと)は、その事を私に気付かせて、教えてくれた。
(病院から逃げて、不味(まず)かったかな?)
 痛みを堪える彼の表情に少し後悔したけれど、別れ際に彼の赤面した顔が明るく笑って、私を安心させてくれた。
 彼の胸ポケットから、小さくてスリムなミュージックプレーヤーを取り出して彼に握らせた。
 プレーヤーに繋がるイヤホンも、彼の両耳に付けてあげた。そして、フロアーで黙って私の為すがままにされる彼に、言ってあげる。
「演出よ」
 私の考えを伝えた。それから、私もバックからヘッドホンを取り出して耳に当てた。
「ここからは、別行動よ。湿布で冷やしても、歩くと痛いでしょうけど、怪(あや)しまれないように、音楽を聴きながら、できるだけ、普通に歩いてね」
 案内板を見て、彼に広坂通りへの北出口を促して歩かせる。
 後姿を見る限り、彼は普通に歩けているように見えて少し安心した。それから、私は携帯電話のメディアプレーヤー機能のパネルをスクロール選曲と、プレイ記号のアイコンに触れながら、市役所方向の西出口へ向かう。
 私は郷土資料館前から、彼は市役所前から別々のタクシーで家に帰る。
 彼がタクシーに乗り込むのを、横断歩道の信号が青に変わるのを待ちながら見ていた。
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 持ち合わせが無い彼のタクシー代は、二十一世紀美術館内の広いホールで渡してある。
「これは、帰りのタクシー代ね。返さなくてもいいよ」
 そう言って私は紙幣を三枚、受け取るまいと体を反らす、彼の学生服のポケットに無理矢理押し込んだ。
「タクシーじゃなくていいよ……。バスに乗るから。……だから、このお金は、受け取れない」
 ポケットから取り出した金額を見て、困った顔の彼が言う。
「タクシーに決まってるでしょう。そんだけ有れば、充分でしょ。お釣りはいらないわ」
 笑顔の私は、懇切(こんせつ)丁寧にタクシー代の受け取りを拒(こば)む彼を説得してあげる。
「タクシーも、バスと同じだろ? タクシーだと運転手とマンツーマンだから、話し掛けて来ると思うし……」
(ムカッ! 何をごちゃごちゃとぉ~。もぉ、何でもいいから、私の言う事を聞けっちゅうねん!)
「全然違うわよ!」
 しつこく拒否ろうとする彼に、私は強く返金を拒絶しながら、タクシーに乗る場所、タクシーの中での態度、タクシーを降りる場所を、細かく指示して受け取らせた。
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 彼の乗ったタクシーは、横断歩道を渡る私の横をUターンして行く。
 タクシーの中から彼が、笑わない顔で私を見続けていた。
 あんなに体を捻って、後ろを向き私を見ている。
(そんなに後ろを見ていたら、痛いでしょう…… 痣が酷くなるよ)
 タクシーが視界から走り去るまで、広坂通りの用水の傍(かたわ)らに立ち尽(つ)くし、私の瞳は彼を追い続けた。
(そんな顔で、私を見詰めないでよ……)
 普通にしゃべれたのは、私だった。
(あなたに言ったように聞こえたのは、勇気も根性も無い、私への励ましだったの)
 彼が、何の躊躇いも無く、普通に話し掛けて来たら、たぶん私は拒絶してしまう。
 酷い言葉を連ねて、彼を二度と私に近寄れなくしている。
(今のままの、はにかむ、あなたでいいの)
 傍を流れる辰巳(たつみ)用水のせせらぎが、私を正直にさせた。
(ねぇ、私はこんな女の子なのよ。こんな私の何処がいいの?)
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【大丈夫? 痛みはどう? 腫れは引いた? 熱は有るの?学校へは、もう行ってんの?】
 彼が心配で、メールを送るけれど、返事は来ない。
     *
 彼とぶつかった額には、掠り傷一つ無かった。
 脱衣場でも、風呂場でも、背中を含めて身体のあちこちを鏡に映して見ても、どこにも、傷や赤みや痣は無くて、シャワーを浴びたり、湯船に浸(つか)かってみても、ヒリつきや痛みの感じは無い。
 今日の事故の痕跡を、何処かに探すとすれば、私の意に反して、蹴りでベンチを粉砕した靴先に潰した苔痕が残っているくらいだろう。
(ありがとう)
 それくらい、私は彼に守られていたと改(あらた)めて感謝した。
 もう、流石に逃げて避ける訳には行かない。
 昼間は対面的に『彼』と、他人行儀(たにんぎょうぎ)に呼んでいたけれど、直接の呼び掛けは、『あんた』から『あなた』に変わっている。
 私を自(みずか)らの身体で護ってくれた男性……、男の人……、異性を『あいつ』と、中性的な異物意識する事は、もうできない。
 いつかは起こるかも知れないだろう程度の今日の事故の為に、毎朝のバスの中で、私の横に彼はいてくれた。
 これからは、逃げる事も、避ける事も、気付かない事にも、無かった事にも、無視する事もをせずに、彼を意識して、彼を見て、彼を感じて、しっかりと彼を判断しなくてはならないと思う。
(彼の良い点や好きなところは、一つでも有ったっけ?)
 私は鏡を見て、逃げようとしていない内なる私に訊く。
(少なくとも~、一つ以上は、有ったよ)
 凄く、嫌いなところは?
 絶対に、許せないところは?
 殴りたいくらい、気に障(さわ)るところは?
 今度は、避ける要因を探す。
「四角い爪と言った……。でも、もういいや。まだ、気付かない厭なところが、まだ、有るかも知れないけど、今は、他に無いよ」
 鏡の中の口が、そう動いて、私の声が風呂場に篭(こも)るように木霊(こだま)した。
 案の定、夕方のニュースからバス事故で怪我をしながら、治療を受けずに失踪(しっそう)している、高校生らしい男女二人の行方(ゆくえ)が話題になっていた。
 翌日は、同じバスに乗り合わせた近所の人が、私もいたとか、見たとか、心配して来るし、それに、ちゃんと病欠の連絡を学校へ入れたのに、事故を知った先生が欠席を怪しんで家に確認したから、仮病エスケープがバレて、家族に身体の無事を心配され、何処へ行っていたのかと、問い質(ただ)されっぱなしだった。けれど、早く来た別のバスに乗り、市内をぶらついていたと終始惚(とぼ)け通した。
 何より、私には傷一つ無いのだから、誰も、それ以上の疑いようも、詮索もしようが無かった。
 念の為にチェックしたインターネットには、バス事故の様子を携帯電話のカメラで撮ったと思われる動画が、いくつかのサイトにアップされていたけれど、いずれも、遠巻きで撮影していたみたいで、映っていた彼と私は、ズーム画面でも、個人を特定できるほどの画質では無くて安心できた。
     *
 予想通り事故から一週間ほど経つと、バス事故など起きていなかったかのように、テレビや新聞やみんなの話題から、あっさりと出なくなった。
 まるで、無理に忘れ去せるようにしているみたいだ。
【心配させてごめん。もう、痛みは無くなったよ。痣も薄くなっている。君が治療してくれた御蔭だ。ありがとうございます。あれから、少し熱が出て、あの日プラス三日間も休んでしまった。明日からは学校へ行けそうだよ。それから当面、通学のバスは、笠舞(かさまい)を通る路線にするよ。そして、二週間くらい過ぎたら、そっちの路線へ戻るよ。君こそ、本当に大丈夫なのか?】
 バス事故から三日目、何度もメールしても、返事がなかった彼から漸(ようや)くメールが来た。
(私こそ、ありがとう。あなたが、私を護ってくれたの。あなたの御蔭で、傷一つ負わなかったわ。それに、楽しかったよ)
 やっと気持が落ち着いて、私は、心から彼に感謝した。
 事故から二日目の昨日、下校帰りに二つ手前の停留所でバスを降り、一気に駆け降りれば、上昇気流に乗って飛べそうな気がする急な石段を、一段、一段、恐る恐る弔辞(ちょうじ)の不吉な気配がしないかと、気持ちを構(かま)えながら下り切り、中学校の卒業アルバムの名簿で調べた彼の住所の前に立って、普通じゃない変化が無いかと、暫く彼の家の様子を見ていた。
 暫く経(た)っても、私が立つ、生活道路と下りて来た階段に行き交(か)う人も無く、近付く初夏の暖かな陽射(ひざ)し受ける入母屋作(いりもやづく)りの彼の家は、静かに佇(たたず)み、磨(す)りガラスの窓や格子戸の玄関から中の様子を伺(うかが)い知れなかった。
 少し時間を潰してから、再び、様子を見に来ようと思い、生活道路をそのまま進むと、幹線道路沿いに在る古いショッピングセンターの脇に出た。
 幹線道路が通る方角と彼の家との距離を考えると、彼が私の言い付けを守っていたならば、ここでタクシーを降りたのだろうと想像ができて、私が無理やり連れ回したのと、今来た道を痛みを堪えて家まで帰った挙句(あげく)、音信不通になってしまったのは、私の所為だと思う。
 勝手な心配から神経を使う寄り道をしてしまい、小腹を空かせてしまった私は、ショッピングセンター内の麺房(めんぼう)のテナントでオニギリを二つ食べ、それから本屋で立ち読みをして、ベーカリーでも菓子パンを買う。更にカップのアイスクリームをマーケットで買って、屋上の駐車場で彼の家の方を眺(なが)めながら食べた。
 帰りも、彼の家の前を様子を伺いながら通り過ぎてみるけれど、彼の家は相変(あいか)わらず人通りの少ない住宅街と共に、何の喧騒(けんそう)も無く、静かに落ち着いている。
 それでも、もしも、もしかしてと、安心しきれていない私は、三日目の明日もメールが来なければ、明後日には彼の家へ行って、彼と会おうと決めていた。だから、彼から連絡が届いて本当に良かったと思う。
【私は、大丈夫よ。あの日以外には、学校を休んでいないから。……私を守ってくれて、ありがとう】
 一字一字、確(たし)かめながら、ゆっくりと携帯電話のキーを押す。
 バスの中で私の前に立っていた彼、救急車へ運ばれながら私を見ていた彼、救急車の中で胸にしがみつく私を見る彼の瞳、私の我が儘を押し付けられて頷く彼の笑顔、ストレッチャーに横たわり私に運ばれるままの彼、圧力痕の痣で斑模様(まだらもよう)の彼の背中。そして、ベンチを破壊した私に驚く彼、私のさり気無い言葉にいじける彼、タクシーの中で痛い体を捩って私を見続ける彼、そんな彼の姿が次々と浮かんできて、携帯電話の画面に表れる文字に重なった。
 真摯(しんし)な感謝の気持ちでアイコンキーを打ち込んでいるのに、思い出す彼の顔はどれも面白くて、いつしか私は笑っていた。
【それと、全ての支払いを私にさせた事を、あなたは、随分(ずいぶん)と負い目に感じて、悩んでいたみたいけれど、それは、全然違うから。あの日、あなたのメジャーでヒーローになれるチャンスと最適な治療を、私の身勝手が奪ったのよ。だから、全く、割に合わない代償で申し訳なくて、あなたには、悪い事をしたと思っているの。……私を恨んでも、感謝しないで】
 後半は、互いの人生を違えた向きへ分岐(ぶんき)させた思いと反省で、笑いが固まったまま送信してしまう。、
(これで、良かったのだろうか? でも、これまで通り、近くに彼がいて欲しい……)
 直ぐに彼は、メールを返して来た。
【それでも、君を護れて僕は嬉しいです。だからこそ、僕に護らせてくれた、君へ感謝します】
(感謝しないでって、打ったのに……。バカ……)
 ラジカルなメールの文字を滲ませる落ちた涙が、発光する画面の光に照らされて、仄(ほの)かに輝いて見えた。
(ほんとうに、ありがとう。……バカは、もっと、素直になれない私の方だ……)
 あらゆる意味で、私は彼に救われて来た。
 今も救われているし、これからも、きっと彼は、その身を犠牲にしてまでも、必ず私を救い続けてくれると思う。

 

 つづく