遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

バス(僕 高校三年生 ) 桜の匂い 第七章 壱

 暫(しば)し、気絶していたかも知れない……。
(……僕は目を閉(と)じている。閉じた瞼(まぶた)の裏が、明るくて紅(あか)い……)
 目を瞑(つむ)っている理由(わけ)が分からないまま、ゆっくり瞼を開けると、目の前の座席に合いの制服を着た彼女が座(すわ)り、びっくりしたような、困(こま)ったような、唇(くちびる)を僅(わず)かに開いて、顰(しか)める目付きの唖然(あぜん)とした顔で僕を見ていた。
(えっ、ええっ! どうして、僕は彼女の前にいるんだ? なぜ、彼女は、僕を見て驚(おどろ)いているのだろう? うーん?)
 目の前に彼女を見た瞬間、この大胆(だいたん)な立ち位置が僕らしくない不自然さで、そして、彼女に見られているのが恥(は)ずかしいと思った。
 直(す)ぐに、いつもの彼女の横の立ち位置へ戻(もど)ろうと、顔と体を左へ向けるけれど、幾許(いくばく)も向けない内に頬(ほお)にゴツゴツした硬い物が当たり、僕が試(こころ)みていた動作を初っ端(しょっぱな)から、その真横に存在していた覚(おぼ)えの無い物体が遮(さえぎ)ってくれた。
 諦(あきら)めず、頭を傾(かたむ)け、無理に左へ捻(ひね)ろうとしたら、首の付け根辺りが傷付きそうなくらいに痛(いた)くて動かせない。
 ならばと、右側の降車ドアの方へ顔を向ければ、行き成り、ゴツンと米神(こめかみ)をぶつけて左側よりも向ける事ができない。そして、右肩に密着して焦点(しょうてん)が合わせられないくらいの近さに、バスの内壁が迫(せま)っていて、体を捻ろうにも右側へ微動もしない。
 ずっしりと、何かが僕の体に被(かぶ)さって左肩は重く、後ろからも、その何かが背中を押し付けて来ていて、左へも、右へも、向きを変える事も、此処(ここ)から抜け出す事もできない。
 僕は、背後から圧(お)し付けている重量の有る何かと、彼女の座席の前の手摺(てす)りとの間に挟(はさ)まれてしまっていた。
 背中全体が、強い圧迫(あっぱく)でズーンと痺(しび)れている感じだ。それは、深く息をする度(たび)に体の中のどこかがキリキリと痛んで、呼吸をし辛(づら)くしている。
 この、かなり激(はげ)しい勢(いきお)いで、訳が分からない物に挟まれた自分の、どう仕様(しよう)も無いくらい悲しい状況にクラクラと目眩(めまい)がして、再び意識が霞(かす)みそうになった。
(この…… 重くて硬(かた)いのは何だ? 僕は挟まれて、潰(つぶ)されているのか?)
 挟み潰される恐怖(きょうふ)から来た、本能的な危機回避(ききかいひ)の重さの圧迫を感じない右側への反射的な咄嗟(とっさ)の身体(からだ)の捩(よじ)りは、左の脇腹に抓(つね)って引っ張るような激痛が走らせて、思わず叫(さけ)びそうになった。
 瞬間、激しい不安の動揺(どうよう)で血の気が引て、ブラックアウトしそうになった。
(くぅ~……、痛い……、すっごく痛い……)
 鋭(するど)く深い痛みと得体(えたい)の知れない何かが、ズッシリと後ろから被さり、挟まれて身動きの取れない状態が不安を強め、今にも潰されそうな状況から抜け出せない焦(あせ)りを、更なる恐怖に変えた。
(ぼっ……、僕はどうなってしまったんだ? もう、……ダメなのか? まだ……、彼女と何も始まっちゃいないのに……)
 現状を理解できずに、動転する脳が思考を停滞させる。
(うう、いっ、いやだぁ! だっ、誰(だれ)か、助けてー)
 翳(かげ)りそうな意識に、視界の周りが暗くなって、気持ちが悪い。
(逃げ出したい! 叫んで、喚(わめ)いて、助けを呼(よ)ぶんだ! 誰でもいいから、早くここから出してくれーっ)
 初めての体験する、人生が終了しそうな危機に、もう、僕はパニックに陥(おちい)る寸前だ。
(彼女の驚きと、悲しげな顔……、この痛み……、どんなに酷(ひど)い傷を、僕は負(お)っているんだ? このまま僕は、ここで……、息も、心臓も、止まってしまうのだろうか?)
 僕から見えない僕の何処(どこ)かが、血だらけなのかも知れない……。
 膝下(ひざした)がプルプルと震えて、直(じき)に身体全体も震え出しそうなのが分かる。それでも、引き攣(つ)りそうになる眼に映(うつ)る彼女の不安げな顔に、情(なさ)けない醜態を彼女へ曝(さら)すわけにはいかないと、辛(かろ)うじて崩壊直前の神経を繋(つな)ぎ止めた。
(……彼女がいる、前に、彼女がいる……。彼女が目の前にいるんだぞ。彼女が見てる……。彼女に見られてるぞ。おおっ、おっ、落ち着け! 我慢(がまん)しろ! ちゃっ、ちゃんと息をしろ! そうだ、大丈夫(だいじょうぶ)だ……。彼女が居(い)てくれる。このまま逝(い)っても、彼女が看取(みと)ってくれるんだ。……彼女に看取られながら、僕は逝けるんだぞ!)
 突かれたような痛みを、歯を食い縛(しば)りながら耐え抜いて、噛(か)み殺した無言の悲鳴を静かに吐(は)き出すと、息をする度の痛みも同じ左の脇腹辺りから来るのが分かった。
 脇腹の皮膚(ひふ)に何かが、グリッと食い込んでいると思う……、でも、皮膚を破(やぶ)って突き刺(さ)さってはいなさそうだ。
 知覚した眼前の彼女と突くような鋭い痛みで、次第(しだい)に意識は鮮明(せんめい)になり、徐々に記憶が戻って来る。
(ああっ、ここは、バスの中だ……。そして、事態は非情に悪くて、身動きができなくて、息苦しい!)
 床に多くの乗客が、折り重なるように臥(ふ)して呻(うめ)いている。
 吊り革や手摺りに摑(つか)まっていた立ち客達は一人残らず床に倒れてしまい、幾つか見える空の座席も、座っていた乗客が床へ投げ出されていた。更(さら)に視線を左へ向けると、両手で血だらけの顔を押さえている運転手が見えた。
 はっきりと戻って来た意識に、自分の現在状況を確認する。
 僕の動きを阻(はば)んでいる左真横の硬い物体は、細かく罅割(ひびわ)れて拉(ひしゃ)げた積層ガラスの塊(かたまり)で、バスのフロントウインドーだった。
 蜘蛛(くも)の巣状に皹割れて、波打つように変形したフロントガラス越しに、衝突したトラックの白いボディカラーが見えた。
(そうだ、思い出したぞ! 飛び出して来たトラックに、バスが衝突する直前、体が勝手に瞬発して、僕は、彼女の前に立ったんだ!)
 彼女が、投げ出されて大怪我(おおけが)をしないように直ぐ前の降車口に瞬発(しゅんぱつ)で立った僕は、衝突の衝撃を背中で受け止めようと、左肩をポールバーに掛け、柵状の手摺りを両手で力一杯に握(にぎ)り、全身の筋肉をフルパワーで硬直(こうちょく)させた。……そこまでは思い出せた。だが、そこから先は気を失(うしな)っていたのか、今し方に意識が戻るまでの、ほんの少しの時だけだと思うけれど、記憶が欠落している。それでも、恐(おそ)ろしい衝突の瞬間と、その衝撃で挟まれ押し潰される悲惨(ひさん)な体験記憶が無いというのは幸(さいわ)いだ。
(覚えていたら、彼女の前で、泣き喚いていたかも知れないな……。今も、泣きたいくらいだけど……)
 僕は、朝の通学のバスの中で彼女といっしょになると、必(かなら)ず、彼女が座る座席の横に立つ。
 彼女は、僕よりも先に降りるから、いつでも、彼女が座席から降り易(やす)いようにと、少し横へズレて立っている。
 彼女が、降車するまでの十数分間の僅かな時間だけれど、僕は、不測の良くない事態から彼女を守っているつもりだった。
 何か不慮(ふりょ)の災(わざわ)いが、彼女を襲(おそ)いそうになった時、僕は、僕自身を盾(たて)にして彼女を守り通す覚悟でいた。それなのに、挟まれて気を失っていた。
(僕は、彼女を、ちゃんと守れたのだろうか?)
 衝撃に圧迫された肺の息苦しさと、薄(うす)れ切らない痛みから、声が震えて掠(かす)れてしまう。
「だっ、大丈夫か……? ううっ」
 心配そうに僕を見上げる彼女へ訊(き)いた自分の声が、途切(とぎ)れて呻き、知らない誰かの、細くて弱々しい声に聞こえた。
 額(ひたい)には、僕にぶつかった所為(せい)なのか、ほんのりと赤く丸い痕(あと)が付いている。
 彼女のフワッとした髪に掛けていたはずのヘッドホンは、たぶん、僕にぶつかった際に頭頂から外(はず)れたのだろう、ズリ落ちて首に掛かっていた。
 外見をマジマジと見ても、それ以外に異質な変化は無くて、特に怪我をしているようには見えない。
 取り敢(あ)えず今は、火災の発生や燃料が漏(も)れたりしている臭(にお)いもしていないので、彼女に差し迫る新たな危険は無いようだ。
(良かった。顔に傷は無い。僕は、彼女を守れている)
 彼女を守れていた安堵感(あんどかん)に気負(きお)った緊張が緩(ゆる)んだからなのか、背中と脇腹の強まって来る痛みに耐える僕は、顔を顰(しか)めていたのに気付いた。
 痛みを我慢して歪(ひず)めた顔は、頬と唇が引き攣り、強く噛み締めている奥歯で眉間(みけん)に縦皺(たてじわ)が寄っていると思う。
(だめだ! 彼女に心配させるな。普通にしろ)
 僕の問い掛けに、有り有りと、どうしょうって不安を浮かべた黙り顔で、僕の様子を見ていた彼女が、静かに応(こた)えてくれる。
「私は…… 大丈夫。そっち……、あんた……、……あ、あなたこそ、大丈夫じゃないでしょう」
 彼女の視線は下がりながら、左右に流れ、そして、左の脇腹辺りで止まった。
 どうやら、その辺りが、一番酷い状態に見えるらしい……。
 僕の背中には、歪んで罅割れた、バスのフロントガラスが被さっていた。
 圧迫されて血行が悪くなり、痺れの増した左半身に、ずっしりと感じていた重みが薄れて来ている。
 手摺を握る左手は細くなった血流で青白(あおじろ)く、自由な右手は青紫色に変色して、血中の酸素量が減っていると判断した。
 身動きできない体は浅く息をしても、背中にズキンと痛みが刺して来る。
 このまま長時間も挟まれ続けたらヤバイ事態になりそうだと、焦りが込み上げて、内心、一刻(いっこく)も早くレスキューされる事を願う。
 僕を見詰める彼女の背後に、車外へ逃(の)れて行く人達が見え、倒れている人が次々と助け起こされたり、抱(かか)えられたりして運ばれていた。
 歪んだ窓ガラスの向こうに見える歩道に、バスから運ばれた怪我人達が並んで寝かされて行く。
「血は、出ていないみたいだけど、どうなの? それ、痛くないの?」
 挟まれている僕の脇腹の具合が分ったのか、下げた視線を戻して、僕を見上げた彼女が言った。
「コン、ゴホッ、ゴホッ」
 彼女が、苦しそうに咳(せ)き込んだ。
 余りにも突然の災厄(さいやく)に驚いて、気持ちが圧迫されているのだろう。
 一過性の軽い呼吸不全だから、安心させる事を言って少し落ち着かせれば、きっと、直ぐに治(おさ)まってくれるはずだ。
「ちょっと痛いかも……。いや、けっこう痛い……。でもこの痛みは、挟まれている外傷の感じだよ。動かなければ、痛みが和らいでいる。もし、内臓が潰れているのだったら、叫(さけ)んでいるか、意識が無くなっているかだね……。激痛だろうな……、たぶん。刺(さ)さっているのなら、熱い感じがするんだよ。その感じも無いよ」
 この不測の現実に慣(な)れて来ると、彼女に過度の心配をされないように、不安を退(しりぞ)ける気概(きがい)を持ち直(なお)したからなのか、少し長く話せた声が、自分の声らしく聞こえる。でも、経験からの推測しか言えていなかった。
 実際は痛みで気付けないまま、更に、深刻な状態へ急変しようとしているのかも知れない。
(あれ? 落ち着かせれる事を、言えているのか……?)
 小学校の頃、建ったばかりの親父(おやじ)の工場で遊んでいた時に、怪我をした事が有った。
 まだ、整理を終えていない敷地内を走り回っていたら、突然、脹脛(ふくらはぎ)に鋭い痛みがして、一瞬の痛みは熱さに変わって行く。
 見ると、太い針金が脹脛を貫通していた。
 呆然(ぼうぜん)と見入る傷に、痛みではなく、熱さを感じていた。
 針金が貫(つらぬ)いている状態のまま、父に病院へ連れて行かれ、レントゲンを撮り、貫通状態を診断してから針金を抜き、消毒と化膿止めと破傷風(はしょうふう)の予防をして事なきを得た。
 それ以来、親父の工場は、整理・整頓・掃除が徹底されている。
「なに、呑気(のんき)に痛みの分析してんのよ。横にずれて、抜け出せないの?」
 その言葉に、再び、体が勝手に反応して僅かに捻(ひね)ると、ズキンと筋肉を掴まれたような強く深い痛みに息が停まり、脇腹がヒクヒクと痙攣(けいれん)した。
(耐えろ! 顔に出すな。ポーカーフェイスでいろ。彼女を不安に…… 心配をさせるな)
 痛みに奥歯を噛み締める僕は、そう自分に言い聞かせて耐える。そして、彼女に悟(さと)られて、余計な心配をさせないように無表情を装(よそお)う。
(くそぅ…… 倒れる時は、彼女の見えないところで倒れろ、……がんばれ、自分!)
「抜け出そうとしているんだけど、なんか、筋(すじ)や内臓が潰れそうな感じで、無理っぽい」
 声が震えたり、途切れたりしないように一気に言った。
 彼女は僕の表情から状態を読み取ろうと、真剣な顔で僕を見詰めている。それに、悲しそうだ。
 そんな、顔を突き合わせる近距離で、僕を心配そうに見ている彼女に、僕はドギマギしながら嬉しいと思う。
 激痛の脇腹が致命傷じゃないと判断したのに、休まらない痛みの疼きで、イライラ感が治まらない。
 この時になって初めて、脇腹以外にも痛みが有るのに気付いた。
 それは後頭部からの痛みで、脇腹のようにキリキリする尖(とが)った痛みじゃないけれど、さっきからズキズキと疼いて、僕をイラつかせて来る。
「あとね、頭の後ろを、ぶつけたみたいで、痛いんだ。どうなっているか、ちょっと、見てくれるかな。割れたり、陥没(かんぼつ)はしていないと思うけど」
 間近で僕を見ていた彼女の顔が、『ぎょっ』と目を見開いて、視線が僕の頭へと移った。だけど、直ぐに、拉げたフロントガラスに阻まれて上手く見れないと知ると、
「ちょっと、俯いてみて」
 言われるままに、そっと、軽く顔を前に倒してみる。
 旋毛(つむじ)が見えるくらいに倒して行くと、やっぱり、脇腹が抓られたみたいに痛み出し、頷くように顎(あご)を引く程度しかできない。
「あたっ! ううっ、……痛いから。そんなに強く触るのは、無しにして欲しいな? んで、傷……、酷い?」
 位置的に高くて後頭部が良く見えないのか、彼女の手が僕の頭に触れると、ガサゴソと髪を掻(か)き分けてダメージの程度を探し始めた。
 何度も髪を分けたり、押しやったり、引っ張ったりして地肌を見ているみたいだ。
 時々、ヒリッと触れられるのが、けっこう痛くて、触れた後もヒリヒリしている。
 黙って頭の傷を見てくれる彼女は、ちっとも、そっと触ってくれなくて頻(しき)りと痛くして来る。
「頭痛がしたり、頭の中から、小さな、変な音が聞こえたり、首が痛かったりしてる?」
 彼女は頭の天辺(てっぺん)辺りで手の動きを止めて、ヒリヒリするところを指先で揉(も)みながら訊く。
「してない。ぶつけたとこが、痛いだけ」
 痛いって言ったのに、尚(なお)も、僕の頭を見ながら弄(いじく)る手を戻そうとはしない。
「気持ち悪い?」
 僕の顔を見ずに、伸ばした両手で髪を掻き分けるまま、指先でヒリヒリしたところを、更に、ぐいっ、ぐいっとなぞりながら訊いて来た。
(うっひぃー! いっ、痛いっちゅうねん! ワザと、やってるのとちゃうん?)
 あまりの痛さに身を捩ると、今度は、左の脇腹がギリッと抉(えぐ)られるように痛い。
 両方の強い痛みに不安が増して、顔や手足から血の気が失せて行くのを感じてしまう。
 何か凄く恨(うら)みを買っているのではなかろうかと彼女を見ると、早く答えなさいとばかりに、ギロッと睨(にら)んでいる彼女の目と合ってしまう。
 その瞳の深い光に、くっ付きそうなくらいに大接近しているのも気付かないほど、自分の指先の感触に確信が持てないのか、彼女はズイズイと懸命に何度も背伸びをしていて、僕の頭の傷を真摯(しんし)に調べようとしているのが分かった。
「この状態に、クラクラしてる」
(うひゃーっ、彼女の真剣な瞳が堪(たま)らなくて、空元気(からげんき)と余裕を咬(か)ませたくて、つい言ってしまった!)
 あまりに緊張感の無い寒いジョークは、エマージェンシー状態の僕を見捨てさせるかも知れないほどの詰まらなさだった。
 悔(く)やみと恥ずかしさに、頬骨辺りがヒクヒクと引き攣ってしまう。
 ヒリヒリさせていた指の動きが止まり、彼女の手が僕の頭から離れると、触られていたところがヒリヒリからズキズキと、痛みが強くなって来た。
(おい、おい、傷口を広げたんだろう?)
「真面目(まじめ)に、答えて!」
 笑わない顔の険(けわ)しい眼差(まなざ)しが僕を睨み、低く抑揚(よくよう)の無い声で、僕を冷たく戒(いまし)める。
「ごめん、吐き気はしてないし、視界が暗くなったりもしてないよ」
 今、吐き気がするとすれば、痛みから来る胃のムカつきだと思う。
 目が回ったり、頭痛を伴う吐き気なら、頭の中が損傷しているからで、その感じはしていなかった。
「眠い?」
 眠気も無い。
 眠気は、クラッと来て目が霞むようなら、其処で人生が終わりになっちゃいそうだ。
 脳にダメージが有って、それっきり意識は戻らないと思う。
 眠るとしたら、此処から出た後に、君の膝枕(ひざまくら)で眠りたいです。
(膝枕、してくれますか?)
「いや、眠くなるどころじゃないし。ねぇ、頭はどうなってる?」
 それにしても、触られてズキズキと痛み出した頭の傷の状態が気になった。
「大きな……、タンコブができてる。切れていないし、血も出て無い。凹(へこ)んでもいないよ」
 頭をぶつけているのだから、皮下で内出血すれば、当たり前にタンコブが膨(ふく)らむ。
 血が出るほども切れていない傷なら、鋭い物で突かれてはいないだろう。
 これだけ触って陥没が見付からなければ、きっと、骨は大丈夫で割れていないし、脳内の出血も無くて、心配は無いと思いたい。
「話してて、意識は飛んでいない? 本当に、眠くなっていないの?」
 そう言いながら、ぐいっと彼女は顔を近付けて、その瞳は、表面に浮き出る粗(あら)を探すように僕の顔の隅々(すみずみ)までジロジロと動き回ると、僕の目を覗き込んで来る。
(ちっ、近い! けど、すっげー嬉(うれ)しい! それに、チョー気持ち好い匂(にお)いだ!)
 焦点が合うギリギリの顔の近さに蕩(とろ)けるどころか、キスができそうで却(かえ)って緊張してしまう。
 だけど、この悲惨な状態を心配する故(ゆえ)の近さだから、キスをされる気配は無く、間違った反応をしては大(おお)いなる反省に至(いた)っちゃうから、此処は最高レベルの警戒をすべきだろう。
 胸の高鳴りを抑(おさ)えて気持ちは冷静に……。でも、これからの為に何か啓発(けいはつ)しておきたい。
(瞼を閉じて眠りたくない。このままずっと君を見続けていたい。もし、これで最期になるとしても、突然に真っ暗になって、遠くに聞こえた君の呼びかけが掠れ失せるように、僕の身体から魂(たましい)が離(はな)れて行って欲(ほ)しい)
 切(せつ)に、この先の将来も、君を護っていたいけれど、これが最初で最後の護りになったとしても、仕方が無いと思っていた。
「大丈夫! 気を失うなんて、勿体無(もったいな)いだろ!」
 二年前の下校のバスでいっしょになった時くらいの超間近にいる彼女の、あの時と同じウェットに魅惑的な唇を見ながら僕は、またまた、彼女を安心させたくて仕様も無い冗談を言った。
「ふっ」
 今の僕が言える精一杯の冗談に、言葉を返そうと開き掛けた彼女の口が、言葉の代わりに鼻で笑う息を吐き出して閉じてしまう。
 和(なご)み狙(ねら)いが軽くスルーされてしまった空(むな)しさを誤魔化(ごまか)すスマイルもできずに、僕は吊り上げて歪(ゆが)めた口角(こうかく)だけでテレていた。
 冗談が詰まらなくて気に入らなかったのか、再び、彼女は僕の頭のダメージ部分を、僕の『痛い』と抗議する呻きを無視して、さっきよりも強く虐めるようにゴリゴリと触れてから、脈を診るつもりなのか、項(うなじ)と首筋を指の腹で触れて来る。
 血の気が失せた僕の首へ触れる彼女の指の温(ぬく)もりは、現在、過去、未来の恐れを全て取り除いてくれたような安心感を与えてくれて、僕は、そっと首を寄せてしまう。
 通り掛かりの人や付近の人達が救助に来て、怪我やショックで動けずにいた乗客達の殆(ほとん)どを運び出し終わり、残る運転手と彼女に降りるよう促(うなが)した。
 人が降りて軽くなるにつれ、バスの伸びるサスペンションに脇腹の圧迫位置は下り、押さえて擦るような痛みも混(ま)ざって来た。
(痛(つ)ぅー、……もうちっと、バスを揺(ゆ)らさないように、そぉっと、動いてくれー)
 助け出せそうにない僕よりも、直ぐに助けれる多くの人を優先するのは当たり前の事だ。
「降りろよ。もう直ぐ、レスキュー隊が助けに来るだろうし、大丈夫さ。きっと、この後ろの白い奴をどかせば、出られるから」
 血だらけの顔を押さえながら運転手は、小さくて良く聞き取れない声で、『最後に降りる責任が有る』と言って、大層(たいそう)な怪我なのにバスから降りるのを拒(こば)んでいた。
「怪我は有りませんか? さあ、あなたも降りてください」
 傍(そば)に来た救助の人は、彼女にも、優しく降車を勧(すす)める。
 その人は、僕に向き直ると、僕の下から上まで、まじまじと観察してから、青褪(あおざ)めた顔で言った。
「さっき、消防と警察に連絡して救急車を呼びました。君の状態も伝えたので、間も無く消防からレスキュー隊が来ると思います。もう少しの辛抱(しんぼう)だから頑張ってください」
 丁寧(ていねい)な言葉遣(ことばづか)いの落ち着いた声は、直ぐに救援が来ると励(はげ)まして安心させてくれた。
 明(あき)らかに年上の人なのに、小生意気(こなまいき)そうな年下の高校生へ対しても、相手を気遣う言い方が嬉しい。
 確(たし)かに僕は、自分では身動きができなくて抜け出せなくて、励ましの『頑張れ』は『諦めるな』の意味だと理解した。
 自分じゃ良く分からないけれど、傍目(はため)には僕の状態が、かなり深刻に見えるみたいだ。
「彼の傍にいます!」
 きっぱりと彼女は、そう言い切って動かない。
 彼女の言葉に、救助の人は強制せず、それ以上は何も言わなかった。
 僕の傍にいるなんて、これまでの彼女の言葉や態度を思うと、涙が出そうになるくらい嬉しい。
(でも、それじゃあ、君が降りるまで、運転手を救出できないじゃんか)
 嬉しさを裏返した皮肉を思い付いていると、僕へ向き直った彼女が悲しい顔をして言う。
「後ろの白いのって……、何よそれ、いやよ! レスキュー隊が来るまで、……私は、ここにいるわ!」
(おおっ、なんと! リッ、リアリィー?)
 本当ですか?
 あまりにも意外な彼女の言葉に思わず、日本語より英語で疑(うたぐ)ってしまった。しかも、いつの間にか僕を『あんた』や『あいつ』じゃなくて、『あなた』とか『彼』と呼んでいる。
(これは、どうしたことだろう? なぜ? 僕などと……)
 戸惑(とまど)う僕は凄(すご)く嬉しいのに、彼女の突然の変化が信じられなくて素直に喜(よろこ)べない。
(僕の呼び方を変えたのは、このヒーロー的な僕の活躍の所為なのか?)
 これを機に彼女の気持ちが僕へ向き、二人の仲は急接近するかも知れない……。
(なーんてね。今までの彼女の態度や性格から鑑(かんが)みると、有り得ない! ……有るはずが無い! 有り得ても一時的な事で、思わせ振りな親しい態度は、彼女の気が動転している、今だけだろう)
 こんなデンジャラスな状況下なら、中学校の同級生が近くに居れば、例(たと)え、無視し続けた嫌(きら)いな異性でも、不安からの気の迷いで話しもするだろう。
 明日になれば、昨日までと同じように互(たが)いに声を掛ける事も無く、僕はオフで無視されるメル友のままだ。
 僕は淡(あわ)い期待を振り払い、心配そうに僕を見詰める彼女を見ながら、そう考えていた。
 エンジン止まったバスの中で、バタバタと助け出される負傷者の呻き声に混ざり、小さくシャカシャカとリズムが聴こえる。
 彼女は三年生になってから以前の光るイヤホンを、新しいガンメタリックのスリムなヘッドホンに換(か)えた。
 指向性が強くて音漏(おとも)れの無いタイプだけど、今は、その彼女の首に引っ掛かったヘッドホンからのオールディーのようなポップスと、激突して挟まれた衝撃で僕の耳から抜けたカナルタイプのイヤホンのスピーカーからのアニメソングがハモるように流れていた。
 だんだんと静かになって行くバスの中で、僕達は互いの聴いている楽曲に聞き耳を立てる。
 すぅーと彼女の手が伸びて、僕の胸ポケットから垂(た)れ下がって手許(てもと)の手摺りに絡(から)まるイヤホンを摘み、顔を寄せて近付けた耳介(じかい)に嵌(は)めて聴く。
 今し方まで僕の耳に嵌(はま)り、耳垢(みみあか)が付着して汚(よご)れているだろうに、彼女が汚れのチェックも、不潔だという躊躇(ちゅうちょ)も無く、自身の耳に挿(さ)し込んだのは驚きだった。
 僕も勿論(もちろん)、彼女のイヤホンならば、大喜びしてノーチェックで使い、耳垢をブレンドするだろう。
(……そうか、彼女は、僕を毛嫌いしているわけじゃない……)
 もう、僕は痛みと感動で泣きそうだ。
 視界の下縁に溜(た)まる熱いモノが彼女の姿を滲(にじ)ませて、ゆらゆらと揺らす。
 彼女は暫し聴いた後、イヤホンコードを指に巻いて纏(まと)め、作動しっぱなしのプレーヤーを僕の胸ポケットから取り出して電源をオフにすると、纏めたコードといっしょに、再び胸ポケットに戻しながら言った。
「へぇー、こんなの聴いていたんだぁ」
 怪我をした僕を心配する不安と緊張で強張(こわば)っていた彼女の表情が、少しだけ緩み、小さく笑った唇が切なくて愛(いと)おしい。
 僕の聴いていたのは『♪ いろは(わ)、にほへ(おえ)ど……』に始まるゲームソングで、弾幕ゴッコの巫女(みこ)さんが歌う曲だった。
 オタッキーな歌を彼女に聴かれてしまった恥ずかしさが、脇腹の痛さを紛(まぎ)らわしてくれる。
 首に掛かっていたヘッドホンを外して、彼女は言う。
「私のも、聴かせてあげるね。ジャンルはフレンチオールディーよ」
 そう言いながら、僕の耳に片方のスピーカーを押し当てた。
 丁度(ちょうど)、曲のラストのフレーズが先細るように綺麗(きれい)に消えて、次の歌が愉(たの)しげに始まる。
 とても、透明感が有る女性っぽい声なのに、これって男性ボーカルかもと、性別が判断できない伸びと切れの良い声の歌唱に、思わず引き込まれ聴き入ってしまう。
『♪ トゥー トゥー プゥ マ シェリー マ シェリー……』
 十数秒ほど僕に聴かせてから、彼女はグルグルとコードをヘッドホンに絡ませると、床に落ちていたバックを拾(ひろ)い上げて中へ仕舞(しま)った。
 そのバックのファスナーを閉じ終わる頃、遠くからいくつものサイレンの音が近づいて来てバスの傍で次々と止まり、バスの車内が回転する赤色灯の光で溢(あふ)れさせてくれる。
 車内灯が消えて、乗客達の手荷物が散乱する無人の車内を、いくつもの赤い光が駆け回って交差していた。
 拉げたフロントガラスに挟まれて取り残された僕は、大好きな彼女に寄り添(そ)われる嬉しさと安らぎに、其の赤い光が乱舞する光景を、ドーモの赤い系統色でコーディネートしたステンドグラスみたくて美しいと思ってしまう。
 慌(あわ)ただしく到着したレスキュー隊は直ぐに駈(か)け寄って来て、応急処置を施(ほどこ)す救急隊の人といっしょに質問をしながら僕の状態と状況を把握(はあく)すると、考え得(う)る最善の救出方法を説明してくれた。
 本当に乗客が退去するまで運転席に座り、血だらけの顔を押さえていた運転手は、レスキュー隊員に担(かつ)がれて運び出されて行く。
 顰めっ面で歯を食い縛り、無言で痛みに耐える運転手の顔と姿が、感動的に格好良(かっこうい)い。
 僕の傍から離れようとしない彼女は説得され、其の躊躇う足取りに隊員が付き添ってバスから降す。
 傍にいたいと言ってくれるのは、凄く嬉しくて心強いけれど、かなり危険を伴(ともな)う救出作業になると思うからバスを降りてくれたのは、割れたガラス片やフレームの金属部品が飛び散って、彼女に怪我をさせる心配をしなくて済(す)むので有り難い。
「彼は、私を守ってくれたの! お願いだから助けてあげて!」
 降り際に彼女が振り向いて、大きな声でレスキュー隊員に僕の救助を頼(たの)んだ其の感激する言葉は、溜まっていた僕の涙を溢れさせて両頬に熱く流れ落とした。
「頑張(がんば)って……!」
 身体が震えて泣いてしまうほど、懇願(こんがん)する彼女の声は僕を感動させ、心の中で強く僕は彼女に誓(ちか)う。
(今も、これからも、僕の身が、最悪な結果に陥ろうとも、僕は、絶対に君を守る!)
 パトカーがバスの周囲を取り囲んで通行を遮断(しゃだん)する中、何台もの救急車が負傷者の収容を終え、サイレンを響かせて病院へ向かって慌ただしく走り出して行った。
 バスはジャッキで固定されたのか、僕の救助にドカドカと何人ものレスキュー隊員が乗り込んで来ても揺れなくなり、隊員の人達は僕を気遣いながら、背中と被さったフロントガラスの間に緩衝材(かんしょうざい)や分厚いビニールなどを手際良く次々と詰(つ)めて行く。
 緩衝材を詰め終わり、頭にヘルメットと保護マットを被せられると、直ぐに合図を掛ける隊員の大声が聞こえ、背後にエンジンカッターの物騒(ぶっそう)な唸(うな)りが鳴り始めて、暫しの振動で痛みが疼いた後、不意に脇腹の痛みと圧迫が消えてしまう。
 なのに、脇腹を圧迫していた物が取り除かれても、まだ、僕は挟まれたままで抜け出せていない。
 下がり落ちるの防いでいた何かを取り除(のぞ)かれたフロントガラスが強く被さり、その重みに圧し着けられる僕は全く身動きができずに、一気に苦しさの限界が迫って来たのを知った、その刹那(せつな)、エアーバックの脹(ふく)らんでいく大きな音が背中でして、足元から……、たぶん、ぶつかっていたトラックが離される金属同士の擦(す)れる音が聞こえたと思うと、いきなり背中のフロントガラスが後ろへ崩(くず)れ落ちて、重みに耐え兼(か)ねて息の止まる寸前状態から、僕は完全に解放された。
 倒れ落ちそうになる僕を隊員の人達が左右から支(ささ)えて助け出してくれる。そして、待機しているストレッチャーに寝かされた。
 直ぐ様、救急隊員が怪我の程度や身体の状態を診(み)てから、僕は救急車へ運ばれる。
 搬送先の病院も、既に受け入れが決まっているみたいだ。
 ストレッチャーに寝かされた僕は、ブルブルと全身が小刻(こきざ)みに震えていて、それはきっと、助けられて気が緩んだのと、挟まれた身動き出来ない状態に鬱積(うっせき)した極度のストレスが開放されている所為だと思う。
 運ばれながら、僕は彼女を探(さが)していた。
 彼女は歩道に立って、救急車に乗せられる僕を硬い表情で見ている。
(本当に怪我が無くて、元気そうだ。彼女が無事で……、護れて良かった)
 初めて入った救急車の中は、いろんな救命医療機器が所狭(ところせま)しと並ぶ圧迫感で息苦しい。それに、引っ切り無しで入る無線のノイズ混じりの遣り取りが不安を煽(あお)って来る。
「乗せて下さい。私も、彼といっしょに行きます」
 後部ドアが閉(し)まる間際に、彼女が自分のバッグと、衝突後は行方不明(ゆくえふめい)になって忘れていた僕の鞄(かばん)を抱えて飛び乗って来た。
 衝突の後、彼女のバッグは足元に転(ころ)がっていた。でも、僕の鞄は何処に有ったのだろう。
 挟まれていた僕の目が届く範囲には見当たらなかったから、死角になっていた降車階段の一番下まで落ちていたのか、バスの外まで飛ばされていたのかも知れない。
 それを、彼女がバスの中から探し出して来てくれたんだ。
 全く、彼女の言葉と行動に驚くばかりだ。そして、感動しっぱなしの僕は感謝に堪えない。
 救急車に乗り込んで来てくれた彼女は傍(かたわ)らで、じっと、僕の脇腹を見ていて、。その、俯(うつむ)き加減の顔の瞳(ひとみ)は、キラキラと涙に潤(うる)んでいるように見えた。
(どこか怪我をして、痛いのを我慢しているか? ……んん? 違う! 僕の所為だ! 僕が泣かせたいる……。だめだ! いけない! ……彼女に自責の言葉を言わせてはいけない!)
 早く彼女が負担にならない言葉を、僕は掛けなければならないと思う。それも、今直ぐ、素直でシンプルに、さり気無く。
「……ありがとう。いっしょに、……いてくれて……」
 震える声で呟くように感謝の言葉を言うと、その潤んだ瞳から大粒の涙が幾つも落ち、とうとう僕は彼女を泣かせてしまった。
 走り出した救急車の中で肩を震わせて嗚咽(おえつ)する彼女を僕は見詰めるだけで、続く言葉を探せない。
「私こそ、ありがとう」
 ポロポロと涙が零(こぼ)れる瞳で僕を見詰め返しながら、彼女は言った。
 朝の渋滞の間を縫(ぬ)うように左右に揺れながら加速して走る救急車の中で、寝かされているストレッチャーの簡易ベッドからズリ落ちないように、掌(てのひら)で溢れる涙を拭いながら彼女は僕を支えてくれる。いや、支えるのじゃなくて、動かないように押さえてくれていた。
 揺れに身を捩り、その痛みに耐える僕の身体と、僕の彼女を見詰める顔が、余程、不安気(ふあんげ)に見えたのか、いきなり、抱(だ)き付くように僕へ覆い被さって、ズレ動かないように彼女の上半身の重みで押さえられた。
 彼女の顔が、胸が、腰が、腕や手が、僕にぴったり触(ふ)れているのが分かる。そして、涙に濡れる瞳が僕を見る。
(頬と口許(くちもと)、鼻筋と唇も濡(ぬ)れているのは、涙を拭(ぬぐ)ったから?)
 彼女の優しい温もりと重みが、僕から魂を離脱させそうだ。
(すっごいぞ! 僕に抱きついて来るなんて! ……いやいや、これは違うでしょう)
 嬉しさと感激のあまり、妄想(もうそう)が過ぎる。でも、勘違(かんちが)い男になっちゃだめだ。
 今、僕の心臓は全力疾走(しっそう)を繰り返した後のように、バクバクと大きく早鐘(はやかね)を打っている。
 水色の制服にヘルメットを被って横に座る救急隊員の人が、彼女の行動に驚きながら、僕と目が合ってニッコリ笑ってくれた。
 いつも、思い描(えが)いていたシチュエーションなのに、もう、何も考えられない。
(ああっ、ダメだ。こんなにバクバクしたら、彼女に聞こえてしまう。治まってくれ!)
 気持ちを落ち着かそうとすれば、するほど、冷静さは遠のき、更に興奮して心臓が高鳴った。
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 これまで彼女に触れたことは、中学二年生の体育祭でのフォークダンスだけだ。
 掌にべったりかいた汗を拭ってから手を繋いだ。それも、軽く添えるように、指に触れただけだ。
 手を繋ぐ彼女に、一瞬の躊躇いが有った。
 彼女は、僕を意識しているみたいで、ダンスの動きが僅かに遅れてしまう彼女を、思わず僕は見詰めてしまう。
 初めてマジマジと、間近で見る事ができた彼女の横顔。
 目許(めもと)に睫毛(まつげ)、鼻筋と頬の色、眉毛(まゆげ)と額、キリッと結んだ口許と唇、顎の形と首筋、耳とうなじ、髪の生(は)え際と眉間に寄った皺。
 ジロジロと観察するように見て、しっかりと一生忘れないくらいに脳裏に焼き付ける。
 自分に顔を向けている僕に気付いて、彼女の瞳が動いた。
 その上目遣いの瞳は、『なに、ジロジロ見てんのよ』と、非難するように僕をジロリと睨み、少し遅れて回された顔が僕と向き合ってしまう。
 リズミカルな楽しいフォークダンスのメロディーなのに、ニコリともしない無表情さに落ち着かなく動く目だけが、互いに相手を探(さぐ)り合っていた。
 僕に向けた笑わない顔で見詰め合ったまま、彼女は飛び跳(は)ねるように僕の周りを一周する。
 バラードを聴くみたいに思い詰めた無言の表情で楽しげにステップを踏む彼女は、テレビ画面の中で演じるパントマイムのように見えて、不思議(ふしぎ)な感じがした。もう、僕の心臓はレッドゾーン域を振り切りそうな急連打の鼓動を打ち鳴らし、悴(かじか)んだ手の皮膚のように指先や掌から感覚が消えて行く。
 無感覚になった身体がメロディーに合わせて反応して、繰り返した練習で覚え取り込まれた動きをした。
 僕もステップを踏(ふ)みながら彼女の周りを一周して、視線を離し難い彼女の表情から進行方向へ泳がせつつ、次の男子へと彼女を導(みちび)く。
 掌から指先へと粘るように離れて行く手が距離を開かせて、視界の隅に暈(ぼ)やけて映る彼女の姿を余韻のように楽しみながら、僕は糸を引くように離れた手を伸ばして次の女子と手を繋いだ。
 彼女と踊る一分弱ほどの至福のダンスは、その一回だけで、二周目を待たずに曲は終わり、彼女と再びダンスをするチャンスは無くなった。
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 今までに携帯電話のメールと手紙で告白していたが、二回とも、無碍(むげ)にされた。
 今も、好きで、好きで、堪らない。
 その彼女が、僕にしがみ付いている。
 痛みを忘れるくらい高揚している僕は、何度も躊躇いながら空(あ)いている手を震えるままに、そっと、彼女の背に添えた。
(このまま、時間が止まってくれ!)
 お風呂(ふろ)の匂いがした。
 シャボンの香(かお)りに混じって、良い匂いもする。
 これが、彼女の匂いなのだろう。
 僕の身の回りには無い匂いで、初めて嗅(か)ぐと思うけれど、初めてなのに何処か懐(なつ)かしい。
 なんだか、心が落ち着いて安心する匂いだ。
 香水なのだろうか?
 ほんのりと甘い花のような匂いを感じて、ゼロ距離の彼女との相乗で、僕は凄い幸せ感に気が遠くなってしまう!
 バスの中で彼女の横に立つと、いつもシャボンの匂いがした。
 彼女の香り立ち、艶(なま)めかしく光る、サラサラな髪は毎朝の洗髪を僕に教えていた。
 その艶々(つやつや)の髪が揺れて、僕の唇や鼻をシャボンの香りで擽(くすぐ)る。
(花のような彼女の匂いに、髪から香るシャボンの匂い……、ああっ、堪らない!)
 顔に触れる髪の、こそばゆさが、気を失う寸前まで高まった、僕の興奮と震えを静めて気持を楽にしていく。
 雨の日は、傘を閉じてからバスの乗車ステップを踏む。
 この、僅かなタイミングに降り掛かった雨滴(うてき)で、彼女の後ろ髪の雫(しずく)や制服の襟と肩に点々と付いた丸い小さな染みが、ゆっくりと乾いて消えて行く様を見ていた。
 その髪と制服の布地が、僕の顔に触れて埋もれる、彼女の色と匂いに心と身体が蕩けるように安らぐ僕は、ずっと、このままでいたいと、切に願う。
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 今、僕の肩を動かないように掴む、彼女の指の爪は短くて四角い。
 『私、ピアノ習(なら)っているの』、初めて彼女に声を掛けた小学六年生の時に、僕は彼女から、そう言われた。
 それは、僕がした彼女の四角い爪への不躾(ぶしつけ)でぶっきらぼうな質問への返答だ。
 不思議な気がしたけれど、ピアノのキーを敲(たた)き続けると、爪の先が平(たい)らに変形するのだと、素直に僕は信じていた。しかし、それは違った思い込みをさせられていたのだった。
 高校一年生の時にブラスバンドメンバーのクラスメートが、上手(じょうず)にピアノを弾(ひ)いているところへ偶然に通り掛り、近くへ行って、そいつの指先を見てみた。
 そいつの指は太くて短いけれど、爪の先は平らじゃなかった。
 弾き終わったそいつに、『おい、なぜ、爪の先っぽが平らになっていないんだ? ピアニストは、みんな爪が変形するんだろう?』って、普通に失礼な事を訊いてみた。
 『あはは、おまえ、からかわれたな。それ、騙(だま)されているぜ。多少の変形は有るかもしんないけど、爪先が平らになるほどに、形は変わらないね。指先も潰れないし、爪切ったのを、見間違えじゃないのか? ははは』
 そいつは、大笑いしながら僕を小突(こづ)いて教えてくれた。
 音楽雑誌のピアニストの写真で確認したプロの爪の先端は、真っ直ぐに切り揃(そろ)えたような平らな変形などはしていなくて、老若男女、どの人の爪の先も、普通の人と変わらなかった。
(そうだよな。キーを敲き続けて指先が潰れても、直線に切ったように平らにはならないよな)
 でも、あれは爪切りでワザと作った形じゃなかった。
(彼女が、僕に答えた言葉は……、嘘(うそ)だ!)
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 四角い爪は、彼女のコンプレックスだったのだ。
(そんな事を、気にしていたのか?)
 でも……、僕にはそんなことでも、彼女にとっては、とても悩(なや)んで苦しむことなのだろう。
 聞き流したり、生まれ付きだとか、さらりと言えずに、わざわざ嘘を吐(つ)くくらいに……。
 それを知った僕は、爪の形なんかを気にして悩む彼女につまされて、更に彼女が愛おしくなった。そして今も、間近に大きく見える四角い爪が愛おしい。
 大きく息をして、胸一杯に彼女の匂いを吸い込む。
 全身を、彼女の匂いで満たしたい。
 この匂いを、ずっと覚えていたい。
 息を吐き出して、また、大きく吸い込む。
 僕の動きに気が付いた彼女が、少し顔を起こして上目遣いで見る。
「寒い……? 苦しい? 痛いの? それとも重い?」
 心配そうな顔で、矢継ぎ早に訊ねてくる彼女の瞳が、まだ涙でウルウルしていた。
(かっ、可愛(かわい)い!)
 でも、君の笑顔の方が百万倍好きです。
 急に救急車が右に曲がり、サイレンを止めて停車した。
 直ぐに降車した救急隊員が後部ドアを開くと、彼女は静かに僕から離れて何も言わずに降りて行く。
 その、薄まる彼女の匂いに、一時(ひととき)の至福の時間は終ってしまう。
 運び込まれた金沢(かなざわ)医療センターで、彼女は積極的に動いてくれて、看護師から渡(わた)された検査リストの用紙と院内の案内地図を頼(たよ)りに、ストレッチャーに寝かされた僕を、リストの検査場所へ次々と運んでくれた。
 レントゲン、CTスキャン、超音波エコー、心電図、脳波、赤外線サーモへと、驚くほど手際良く最短コースで移動して、彼女は、医療技師や医師に僕の事故状況や患部を説明し、最優先すべき状態だと急がせて、検査を速(すみ)やかに済まさせて行く。
 ストレッチャーを運ぶ、スピーディで流れるような動作にも、僕が痛がらないようにと気を配る彼女の心遣(こころづか)いを感じる。
 全(すべ)ての検査が終わり、ストレッチャーに寝かされたまま通路で治療待ち順番についていると、廻(めぐ)って来たドクターが、検査結果を見ながら僕を診察して何か書き込み、聴き取り難(にく)い声の早口で彼女と話してから、足早(あしばや)に次の患者へと行ってしまった。
「今の、解(わか)ったのか?」
 息継ぎをしない途切れ無しの長い話し方は、まるで、御経(おきょう)のような外国語みたくて、彼女が適当に入れているとしか思えない相槌(あいづち)以外、僕は一つも解らない。
 彼女が理解できているのなら、僕の聴覚がおかしいのか、言語を理解する頭脳部位に障害が発生したのかも知れない。
「全然!」
(やっぱりねぇ)
 彼女も理解できていなかった、というよりは聞き取れていなかった。
 僕は難聴でも、事故の症状でも、何でも無くて、ほっと安心する。
 僕達二人の検査結果を暫く眺(なが)めていた彼女は、忙(いそが)しく急ぎ通る看護師の一人を呼び止めて、ドクターの書き込んだ内容を、それぞれ説明して貰う。
「ありがとうございます」
 じっと神妙な顔で記述内容を聞いていた彼女は、検査内容を伝え終わって記述の確認で僕の患部を看(み)ると、求(もと)められた要件は済んだと立ち去る看護師へ礼を告(つ)げてから、検査用紙を僕へ見せて言った。
「良かったね。中身が無事で……」
 零(こぼ)しそうで零さなかったカップのジュースや、落としたレジ袋の中の玉子が割れなかった時のような軽い、その嬉しそうに弾(はず)む声と笑顔に、『僕の中身は、本当に無事だったんだな』と、安堵(あんど)の長い溜め息を吐くと、心身の隅々まで強張っていた緊張が、すうーと解(と)けて行った。
 心配していた内臓の損傷は無く、腰背部打撲(ようはいぶだぼく)と診断された過度の局部圧迫の所為での脇腹と背中の痛みや腫(は)れや痺れは、痺れや痛みが徐々に薄れて無くなり、一週間程度の投薬で腫れも退(ひ)くと書いてあるみたいと、彼女は続けた。
「因(ちな)みに私の方は、御蔭さまで全然問題無し。外傷も全然無いよ」
 彼女の検査はレントゲンだけで、身体の内部に異常は無く、外身(そとみ)にも傷一つ無かった。もう、僕の『好きだ』なんて想いなど、どうでもよくなり、そんな想いなどを超(こ)えた気持ちが、僕を満たしていく。
 僕は無事な彼女と、彼女を護れ切れた事に改(あらた)めて感謝した。
 検査用紙を僕の脇へ置くと彼女は、ゆっくりと僕の耳許(みみもと)に笑顔の口を近付けて小さな声で言った。
「家に帰ろう」
 そう言ってストレッチャーを押し出す彼女の意図は、直ぐに理解できた。
「逃げよう。裏口から出るよ」
 至極当然に躊躇(とまどい)無く言う彼女は、通路の案内標識から時間外通用口を目指しているようだ。
(帰ろう、逃げようって、僕と二人でって意味なんだろうな? 誘(さそ)っているんだよな?)
 ストレッチャーを押しながら、彼女は診察の用紙か、受診の用紙か知らないけれど、記入欄に嘘の名前と住所を書いた事、制服の記章を外した事、監視カメラに写らないようにしてきた事、このような事に関(かか)わるのが大嫌いな事を僕に話す。
「はい、これ」
 彼女の言葉と渡された小さなバッジ類に、いつの間にか、互いの制服の校章や徽章が外されているのに気付いた。
(彼女だけがバックれても、僕から身元がバレてしまうって事か……。全く用意周到だね、君は。それって、もう、僕は共犯にされてるじゃんか!)
「いいよ。それで」
 彼女から看護師に説明された処方箋(しょほうせん)は、患部を冷(ひ)やして安静にするだけだと聞かされていたから、僕は素直に彼女の提案に従(したが)ってエスケープする気になった。
「君の好きにすればいいよ。僕もいっしょに家に帰るよ」
 そう言いながらも、身体の向きを少し変えようとしただけで、ズキンと痛みが来た。
 彼女に助けられながら、僕は通用口近くに停めたストレッチャーから降りる。
 彼女に支えられても、姿勢を変える度に背中一面に、血流の滞(とどこお)った筋肉特有の重い痛みが走った。
 特に左の脇腹へ鋭い痛みが、何度も身体の中に深く抉(えぐ)るように来ている。
(どれだけ勢い良く、僕の脇腹を突いたんだよ、あの曲ったサイドミラーは!)
 奥歯を食い締めて無表情に痛みに耐えているけど、引き締めた唇と鼻から吐く息は震えた。
「凄く痛そうだけど、大丈夫?」
 両手を僕の頬に添えて間近に覗き込む彼女の瞳は、苦痛に泳ぐ僕の瞳を探っていた。
 今のシチュエーションは、正(まさ)に望みが叶(かな)っているのだけど、背中の痛みが楽しむ余裕を与えてくれない。
「痛くても、少しだけ我慢してね。これから一人づつ、其処の通用口を通り、病院の敷地をから出て、兼六坂(けんろくざか)へ出るのよ。間隔は五分ほど空けるから、防犯カメラに映っても、直ぐには、私達だと分らないと思うよ。あなたから先に行って。向こうのゲートを出るまでは、お願いだから、颯爽(さっそう)と歩いて欲(ほ)しいの。兼六坂に出たら左へ進んでちょうだい。ゆっくりでいいよ。でも、途中で痛みに耐えられなくて蹲(うずくま)ったり、倒れたりして人目を誘ったら、絶対ダメよ」
 よくまあ、この短時間で作戦的になれるものだと、僕は彼女に感心した。
 僕は彼女の作戦の主役だから、期待に応えなければならない。
(ヒーローは、痛みに耐え、颯爽と、格好良くだ!)
「オーケー、ノー プロブレム。行けるさ」
 返事をした声が、震えた。
「ゆっくりと、県立美術館へ向かっていて。通りに出たら、本当に休みながらでいいから、くれぐれも、怪我人だと言わんばかりに歩かないようにね、休む態度にも、歩く姿勢に気を付けてよ。私も、出たら通りの薬局で、痛み止めと冷やす湿布(しっぷ)を買って来るから、直ぐに、私は追い付くから、それまで、我慢しててよね。目的地は本多(ほんだ)の森を抜けた二十一世紀美術館よ。其処で休んで、お昼を食べましょう」
 彼女へ頷(うなず)いてから、息を止めるように痛みに耐えて僕は外へ出た。
 一歩、一歩、痛みの一番薄い姿勢を探しながら、彼女に御願いされたように颯爽と歩く。痛みで猫背になり勝ちな背を無理矢理伸ばして僕は懸命に歩いた。
 途中、足裏の感覚が無くなって立ち止まり掛けたのと、膝(ひざ)が折れて転けそうになっただけで、どうにか職員と業者用のゲートから兼六坂へ見咎め(みとが)られる事も無く無事に出れた。だけど、痛みで背中と腰が周期的にブルブルと大きく振るえている。
 正面の兼六坂を下ると、金沢城の石川門(いしかわもん)が見える兼六園下へ、右側は、こんな急坂を自動車(くるま)で上るのも、下るのも難(むずか)しいだろうと考えるくらいの片側脇に階段を備(そな)える八坂(やさか)が、緑の杜(もり)の間にポッカリと空間を開き、浅野川(あさのがわ)を挟む対岸の卯辰山(うたつやま)を望ませている。
 僕は彼女との取り決めた通り、目の前で左に直角に曲がる兼六坂の緩い上りを出羽町(でわまち)方向へと、気を取り直して、そろりそろりと痛みを抑えながら進んだ。
 兼六坂上の横断歩道の手前で、医療センターの敷地沿(ぞ)いを囲む土塀の石垣に凭(もた)れながら、僕は彼女を待った。
 背中を任せる石垣は切り込み接(は)ぎ積(づ)みで、その平らな表面が触れる背中の痛みに優しい。
 程無(ほどな)くして、バタバタと走る足音が近付いて来たかと思うと、僕に追い着いた彼女は、ややスローペースになるだけで立ち止まらずに左に折れて、医療センターの正門の方へと駆(か)けて行く。
 僕の前を駆け抜けながら、彼女は右手を上げて成巽閣(せいそんかく)の海鼠塀(なまこべい)の向こう、県立美術館の更に向こうを指し示して、僕に言った。
「私は、薬局で痛み止めと冷湿布を買って来るから、先に行ってて! 県立美術館辺りで合流しましょう。でも、急がなくていいからね。倒れないでよ!」
 そして、五、六メートル過ぎて振り返った彼女は、目的地と道順まで指定して来た。
「向かうのは、二十一世紀美術館だけど、県立美術館の裏を抜けて行くわよ。普通に広坂(ひろさか)を降りて、広坂通りの市役所の方へ向かっちゃ駄目(だめ)だからね、目立つから! わかったぁ?」
 滑らかな歩道が在って歩き易い広坂より、一段毎(ごと)に垂直に体重を移動させる階段を降りて行けと言っている。きっと、痛みが増して辛い歩(あゆ)みになってしまうだろう。だけど、確かに石浦神社辺りで痛みに堪え兼ねて倒れたり、蹲っていたら目立ってしまう。
 誰かに助けられたり、救助を呼ばれたりして病院へ連れて行かれたら、元の木阿弥(もくあみ)になってしまう。
 階段は痛みが酷くなりそうで不安だけれど、再び、彼女と会えないのは路頭に迷うみたいに、もっと、気持ちが不安で不幸になりそうだから、僕はコクコクとしっかり首を縦に振った。
 目の前の横断歩道が青信号に変わり、よろけないように気を付けながら急いで渡る。
(ここは見通しが良過ぎて、人目に付き易い……。それに、自動車の通りも多い。せめて、県立美術館横の木立の多い場所まで行かなくては、休めない……)
 彼女は僕の身体を気遣って言ってくれたけれど、彼女の考えに賛同して行動した以上、彼女の足手纏いになりたくなかった。
 痛みを無視するかのように耐えて、姿勢を正(ただ)し、颯爽と出来る限りの全力で歩いているつもりだけれど、普段のスピードの半分ぐらいのノロさで歯痒(はがゆ)い。
 最短距離で進む為(ため)に成巽閣前を斜めに渡り、更に出羽町交差点を越えて、やっと、県立美術館前に着いた。
 後ろを振り返って今来た道を見て、彼女が向かった薬局の場所から厚生年金会館裏や護国神社脇を抜けて来るかもと、そちらの方の右側を見ても、まだ、彼女の姿は見えなかった。
 その日の石川県立美術館は、人気(にんき)の有る特別な展示が催(もよお)されているようで、平日にも拘(かか)わらず、出入りする人と自家用車が、思いの外(ほか)多い。
 そんな場所を蹌踉(よろ)けながら、美術館脇の散策路で隠れて座れるようなベンチを物色する学生服姿の僕は、怪(あや)しくも、何かと人目を引きそうに思えて、耐える痛みで膝が笑ってしまう上がらない足を引き摺るように、もっと、目立たない場所だと思える県立美術館の裏へと向かう。
 県立美術館の建物の脇と裏を抜けて本多町へと至る小径(こみち)は、中学校の美術部で顧問の先生に引率されて何度も通っていた。
 県立美術館の敷地内を巡(めぐ)る小径から続く裏手の階段を降りて、少し行くと、辿り着ける広坂通りの二十一世紀美術館は、度々(たびたび)、絵画や造形の鑑賞と創作のテクニックを学びに来ていた。
 県立美術館の裏手で、やっと、人の気配の無い場所を見付けて、辺りを窺(うかが)いながら腰を曲げて座ろうとした。
 足元から、せせらぎの小径の階段が、台地の急斜面に広がる本多の森と呼ばれる雑木林を抜けて、下の中村美術館の敷地へと続いている。
 痛みに耐えるのは、もう限界かも知れない。
 膝がガクガク震えて頬もプルプルしている。それでも、僕は大好きな女の子といっしょにいたい。
 どんなに痛くても、病院へ戻る気は、全(まった)くなかった。
 僕は、ここで彼女が来るのを待とうと決めた。……はずだった。
 ふと、人の視線を感じて振り向くとガラス張りになった県立美術館の壁の向こう、イスに腰掛けてテーブルのスイーツを食べる婦人と目が合ってしまった。
 其処は、県立美術館内に常設された人気のカフェで、婦人はスイーツを食べながら僕の様子をジーっと見ている。
 他(ほか)にも、何人も客が見えて、こちら側へ出入りできるガラスの扉(とびら)も有った。
(ここも、ダメじゃん! 丸見えだ。見られてると、いろいろと、面倒(めんどう)になるかも知れない……。もっと、見えなくなるまで、下に移らなくちゃだめだ)
 歯を食いしばり、痛みを堪えて、せせらぎ脇の手摺を伝いながら階段を降り始める。
 ガンガンと寒気がするほど響く頭の中の酷い痛みに、米神(こめかみ)のズキズキと捩じ込む痛みが加わり、気分は最悪だ!
 はっきりと早鐘のように激しく動悸が高まり、吐きそうなくらいの気持ちの悪さに涎(よだれ)が喘ぐ口の中に、どっと溢れ出して来た。 
(あかん! もうダメだぁ。倒れて吐きそう……)
 二段目の踊り場まで、どうにか降りて来られた。もう、これ以上は進めない。
 ダラダラと口から涎を溢(こぼ)しながら、グルグルする目眩に全身がガクガクと激しく震えて、身体は動かなくなった。
 その場に蹲り、両手で項垂(うなだ)れた頭を抱え込み、背中の痛みと頭痛、それに、吐き気が治まるのを待つ。
(早く、早く、彼女が来るまでに治まってくれ!)
 動きを停めた身体から、急速に痛みや吐き気が薄れて、青褪めた気分が回復して行く。
 静まる動悸と喘ぎに気持ちの余裕ができて、口や涎で濡れた顔や制服をポケットから取り出したハンカチで拭いた。
 頭痛と吐き気が治まって来た頃、上から降りて来るバタバタと荒い、そして、力強い意志を感じる足音が聞こえて来た。
(彼女だ! 彼女が来てくれた!)
 まだ、吐き気と痛みが襲って来そうで、じっと動かずに痛みを抑えているだけの僕は、まだ振り向く余裕が無いけれど、階段をバサッ、タン、バサッ、タン、と数段飛びで降りて来る足音は彼女だと確信できた。
 ずっと駆けて来たのか、ハァハァと粗い息遣(いきづか)いが間近で聞こえて、ガサッと買い物のビニール袋を脇へ投げ置くと、彼女は僕の横に座った。
 その慌ただしい動きで立つ風に、中学ニ年生のフォークダンスで僕の手を取り周った時と同じ、彼女の甘い汗の匂いが香(かお)る。
「ハァ、ハァ、かなり辛そうね。顔色が悪いわ……、フゥ、肌が真っ白よ」
 息を切らし、額や頬に汗の雫(しずく)を浮かべた彼女が、心配そうに僕の顔を覗(のぞ)き込みながら言う。
(息絶(いきた)え絶(だ)えの君の方が、熱っぽくて、辛そうに見えるぞ。いったい、どこまで買いに行ってたんだ?)
「直ぐに冷やして湿布を貼(は)るね。ボタンを外すわよ。それから、捲(めく)って背中を看るけど、痛くても、ちょっと我慢してね」
 学生服を捲り上げて、背中に触れる彼女の指が、擽ったいけれど嬉しい。
「ここ、痛いでしょう?」
 触れられても、痛くはなかった。
 患部を触(さわ)っていると思うのだけど、痺れていて鈍(にぶ)い感じしかしない。
 痛みは、表面の皮膚からではなくて、筋肉の中からだ。たぶん、炎症を起こしていると思う。
「黒い痣(あざ)になって痛そう。周りも、赤や青の痣だらけだよ。腫れて熱を持っているし、ここ、触れているのが分かる?」
 彼女は触っているらしいけれど、麻痺(まひ)しているのか、全然、触れられているのが分からない。
 僕は、残念ながらと首を横に振る。
(そっ そんなに、……酷いのか?)
 彼女が触れているはずなのに、麻痺の、その感覚の無さが、僕を不安にさせた。
(病院で、きちんと治療を受けずに脱走して、本当に良かったのだろうか?)
 安静にせずに、痛みを我慢してまで無理にここまで来たから、患部が悪化してしまったのじゃないかと少し恐くなった。
 皮膚の感覚は麻痺しているのに、背中全体からズキンと、息をする度に痛みが来る。
「スプレーするよ。冷たいかも」
 彼女の急ぐ声が、優しく響き、回して来た手がベルトを緩めて、少し下げられたズボンに、露出した尻が樹蔭の涼気に晒(さら)され、散らされる汗の熱気が涼(すず)しさを感じさせた。
(彼女は、……僕のズボンと、トランクスを脱がせている……?)
 感じる涼しさがそうだとすると、ベルトを緩めた彼女の手と指の動きが、卑猥(ひわい)に思えて……。
「うん……」
 急に心が騒(さわ)ぎ、愛おしく感じた彼女を、抱きしめたくなった。
 抱き締(し)めて、驚かれて、抗(あらが)われても、『君を、守れて良かった』と、クールに言ってしまえば、たぶん、許されるだろう。
(……言えれば、だけど……)
「痛う!」
 ズキーンと鋭い痛みが来た。
 衝動的に抱き締めようとして、急に彼女の方へ向きを変えた為に、挟まれた脇腹を強く捩じって激痛が走った。
 呻き声が出るのと、背中と尻に冷たさを感じて、痛みが、薄れて行くのが同時だった。
「大丈夫? これ痛かったぁ? 掛け過ぎたかな?」
 捩じった方向から、僕の眼前に冷却スプレーを翳し、心配そうな顔で、彼女は僕を見詰めて訊いて来た。
「いや……、冷たかったから、びっくりしただけだよ」
 僕はごまかした。たくし上げた服を戻して、ズボンのベルトを締め直してくれている彼女には悟られていない。
(君を抱きしめようとして、痛かった、なんて言えるか)
 本当に僕は、優柔不断でドジな奴だ。
 我ながら、情けないと思う。
(救急車の中で、もっと、しっかりと抱き寄せれば、良かった……)
 ギリッ、キュルッ。背後で何か、ボトルのキャップを開ける音がして、目の前に彼女の両手が差し出された。
 片方の手には、暗い色の艶々した色ガラスを握り、もう一方の広げた掌には、白い錠剤が二つ乗せられていた。
「飲んで」
 すっぽりと、手に収(おさ)まる大きさの色ガラスは、初めて見た滋養強壮液が注入された、頑丈(じょうぶ)そうな褐色(かっしょく)のガラスの小瓶だった。そして、白い錠剤は鎮痛剤。
 僕は、少しでも早く楽になりたいと、錠剤を二つ口に含(ふく)み、ガラス瓶の中身全部で一気に仰ぎ飲む。
 鎮痛剤は、たまにする頭痛に飲んで治めていたが、滋養強壮液は初めてだ。
 初めて飲んだ滋養強壮液は、咽喉、食道と、飲み下す通り道を次々と熱くして行き、胃に至ると、直ぐに、カァーッと身体の芯から発熱したかのように、指の先、頭の中まで熱くして、これは、身体に効(き)くと思う。
「ありがとう。痛みが退いて、楽になったよ」
 その場で動かずに五分はど様子を診ていると、さっきまでの気持ちの悪さが、嘘のように無くなってすっきりした気分になって来た。
 気分の良くなった僕は、少し体を揺すりながら彼女に礼を言った。
 吐き気と頭痛が消えたのは、鎮痛剤の効果で、急速に気持ちと身体が元気になったのは、滋養強壮液の力だと解かる。
 背中の痛みも殆ど消えていて、脇腹の患部が少し疼くくらいに治まったのは、瞬間冷却スプレーと冷湿布、それに、鎮痛剤が効いている御蔭だ。そして、何より、大袈裟(おおげさ)でもなく、彼女の看護の賜物(たまもの)だった。
 本当に彼女は、エイドキッドを良く知っていて、その使い方と効果の知識や行動を起こす実行力に、僕は改めて彼女に憧(あこが)れてしまう。
「ありがとうは、要(い)らないわ。私の感謝の気持ちだから。それと、今日は、お風呂も、シャワーも、ダメよ。入らないでね」
(風呂に、入っちゃダメなのか……?)
 風呂は、毎日入るのが習慣になっていた。
 風邪(かぜ)を引いて熱が三十八度でも、僕は風呂に入って、ささっと頭と体を洗い、湯船で温まってから湯冷めしない内に薬を飲んで寝ていた。
 要(よう)は長風呂して、お湯に体力を奪(うば)われない事だ。でも、今は風邪じゃない。
 やはり、外部からの圧力による腫れは、冷やさなければならないと思った。
 炎症を起こして腫れている患部を温めたら、炎症が加速されて、生体組織の急速に拡大する破壊や、白血球の爆発的増大やらで、高熱を併発(へいはつ)した窮地(きゅうち)に陥るだろう。
 僕は、彼女の忠告に納得して頷いた。
 それにしても、これだけの治療剤や薬に、いったい幾ら支払って来たのだろう?
 足元に置かれたビニール袋を覗くと、更に二つのビニール袋が入っていた。
 買った品物は、三つの袋に別々に入れられて、少なくても、三個所の店から購入した事を示している。
 他にも、未使用のアルコールティッシュペーパーや傷バンに予備らしき冷却スプレーが有って、栄養ドリンクも二本見えた。
(どこまで、用心深くて、用意周到なんだ……!)
 彼女は僕の鞄を開けて、それらをビニール袋を中に仕舞う。それから、コンクリートの階段に散らかしたゴミを拾いだした。
 僕は、自分の学生鞄の事を痛みに感(かま)けて、すっかり忘れていた。
 救急車に乗せられた時から、ずっと彼女は僕の鞄を持っていてくれている。
 教室のロッカーに教科書を置きっぱなしにしている僕の軽い鞄と違い、きっと、教科書以外にも受験勉強の参考書が何冊も入って、重いだろうと思われる彼女のバックといっしょに、嵩張(かさば)る僕の革の硬い鞄まで持ってくれていた。
(愛おしい……)
 僕が思っていたとおり、気配りも、思い遣りも、優しさも、彼女はいっぱい持っていて、一生懸命だった。
 滋養強壮液による熱さとは違う暖かさが、彼女の内なる尊(とうと)さを知った僕の心と身体を満たして行く。
 ゴミになった包装材や容器を片付けている彼女の手を停めさせて、僕は言った。
「薬の代金を支払うよ。今日は、持ち合わせが無いから、次に会う時に渡したいんだ」
(違う!)
 口から出たのは、金銭の事だった。僕は言った端から後悔した。
(ここは、彼女の優しさに、御礼を言わなければならないところだろう)
 そして、愛しさも伝えたい……。でもそれは、自己犠牲で彼女を護った日に言うべき事ではないと思う。それを言ってしまうと、僕の行為が陳腐になりそうだし、それに、何か、恩を売った御返しを無理強(むりじ)いするみたいで、フェアじゃない気がする。
 その僕の後悔は、言葉を間違えただけではなく、真に不幸な事に、今日は現金の持ち合わせが無かったのだ。
 昨日は、お好(この)み焼き屋で弓道部の部員達と散財してしまい、長財布の中に紙幣は無く、今日の現金の持ち合わせは、小銭入れの中に昼飯の食券を買えるぐらいの僅かなコインが有るだけだ。だけど、これ以上は彼女の世話(せわ)になれない。
 僕の傷を治療する為に、彼女は何軒も薬局やコンビニを廻って薬を買って来てくれた。
 それだけでも、面倒で大変な事なのに、少しでも早く僕を治療しようと彼女は、交通事故に遭(あ)ったり、転んで怪我をしたりする危険が有るのに、走って行って来てくれた。
 すっごく嬉しいけれど、バスの中で身を挺(てい)して彼女を守ったのは、彼女に危険な行為と苦労させてまで僕の面倒を診させる為じゃない!
 職員ゲートを抜けた時に、彼女へ別れを告げて兼六坂を下り、兼六園下のバス停から家へ帰るべきだった。
 少しでも長く、彼女といっしょにいたい僕の甘えが、彼女に気遣いをさせて危険な事をさせてしまった。
「いらないから、受け取らないよ。絶対にぃ、受け取れないから!」
 『なんで? お金の話しをするのよ』と、まるで薬と治療剤の費用が、知られてはいけない私だけの禁断の数字だと言わんばかりに、口をへの字に曲げた不機嫌(ふきげん)な顔で僕を睨み、薬代の受け取りを彼女は頑(かたく)なに拒んだ。
 『行こう』と、立ち上がった彼女は僕に手を差し伸べ、僕がその手を掴むと、ゆっくりと引き寄せて僕を立たせた。
 直ぐに彼女は、掴んだ僕の手を肩に回しながら、ぴったりと身を寄せて僕を支えようとしてくれる。
 またまた信じられない行動をする彼女に、僕は至福の焦りに包まれた。
 中学二年生から、ずっと切望していた僕の願いを、今日の彼女は次々と叶えて行く。でも、護った彼女に助けられているのは想定外だ!
「大丈夫。一人で歩ける」
 彼女の手を払おうとした途端に立ち眩(くら)みが来て、僕はよろめいてしまった。
 ギュッと脇に回された彼女の手に力が入り、バランスを崩すまいと、二、三歩、足を踏鞴(たたら)を踏んで、ふらつく僕を傍の手摺に押し付けて、彼女は抱き留めてくれた。
「下の中村美術館の前まで、こうしている。私は、こうしたいの」
(きっ、君の、その胸に……、顔を埋(うず)めたい!)
 僕の身体を抱き締めて重なる彼女に、揺れる頭が妄想と願望を醸(かも)し出すけれど、今の僕には思いを現実にする体力も、気力も、勇気も無かった。
 辛そうな僕の様子に、彼女が訊いて来る。
「痛くて辛いのなら、病院へ戻ろうか?」
 『……ここまで来て、今更、なぜ?』と、僕は彼女の顔を見て、表情に意図を探った。
「あの紙に入院と書かれていたじゃない、戻れば、安心して休めて、痛みを鎮めて貰えるよ……」
 彼女の言葉に、『戻らないで』が含まれているのを感じた。
「戻らないね! あっ、いや、僕は戻らないよ」
 僕は、はっきりと強く言い返す。そして、静かに優しく言い直した。
「僕は、此処にいる。……君といっしょにいる。……君といっしょにいたいんだ」
 もしかして、傷が悪化してデッドラインを彷徨う事になるのなら、僕が斃れるまで彼女といっしょに居たいし、彼女が傍に居て欲しいと、痛みの不安から、つい、本音が口から出てしまう。
「……うん、それで、いいよ」
 何度も否定されていた本音が、例え、イレギュラーなバス事故に因る動揺からの肯定でも凄く嬉しい僕は、彼女の為にも今日を耐え切ると心に誓う。
 階段を降り切ったところに木製のベンチが有った。
 少しの間、休憩したいと思ったけれど、ベンチは全体が苔生(こけむ)していて、とても、座れた物じゃない。
(だめだな。木が腐(くさ)っている)
 近寄って、じいっと、ベンチを見ていた彼女が、いきなり、ベンチに蹴(け)りを入れた。
「あっ!」
 僕も、彼女も、びっくりした。
 彼女が放った、ノーアクションからの鋭い蹴りに、ベンチは砕(くだ)けて、土台から引っ繰り返ってしまった。
(なっ、なんて事を……!)
 僕は唖然として、リングのマットに相手を倒す蹴りを入れ終わった、格闘戦の武闘家のように構(かま)えて立つ彼女と、バラバラに砕け散ったベンチを見ていた。
(すっ、凄い!)
 まだまだ隠(かく)された実力が、彼女には有りそうだ。
 蹴りを放った彼女の顔付は戦闘的で、とても険(けわ)しい目付きは攻撃的だった。
 彼女は行動力と計画力がある。それに破壊力も……。たぶん、瞬時にシミュレーションしてしまうのだろう。
こういう事には、頭の回転が速くて狡賢(ずるがしこ)いのかも知れない。
 ちょっと怯(ひる)んだ僕は、今までより、少しだけ彼女への怖(おそ)れを強めた。
 破壊したベンチをそのままに、せせらぎの小径を下り切って道が広く平坦になると、僕は彼女の支えを断り単独で歩くと促した。
「だいぶ楽になったよ。ここからは、一人で歩いてみるから」
 左手には中村記念美術館が在り、更に横の林を抜ける緑の小径を行くと、哲学者の鈴木大拙(すずきだいせつ)館が在って僕的には、この辺りの方が近くて楽なのだけど、彼女は見向きもぜずに二十一世紀美術館を目指している。
(世界に禅(ぜん)を知らしめた鈴木大拙先生や、河北市の砂丘上に記念哲学館が在る哲学者の西田幾太郎(にしだいくたろう)先生は、悟(さと)りの心理や人生の悲哀(ひあい)を追求して、真の自由を説く善の研究を発表したそうだけど、まだまだ、僕には難し過ぎて、それらしく感じる現実の悟りと悲哀なんて、僕が大好きな彼女は、僕を好きじゃないって事だけだね)
 普通の姿勢でも、少し遅く歩けば、薄らいでいる痛みに耐えられるだろう。その、痛みの薄ぎは、背中一面から尻の一部まで張られた冷湿布と、飲み下した鎮痛剤が効いている所為だと分かっている。
 こうして此処まで来られたのは、本当に彼女の実行力と知識の御蔭だと、僕は感謝していた。
 もう少しで、行き交(か)う自動車も、人通りも多い、市内の幹線道路に出るから、其処の交差点を渡って右方向へ進み、広坂交差点近くの二十一世紀美術館まで行く事になるので、流石(さすが)に女子高校生に支えられて歩くのは目立ち過ぎだろう。
 接していた体を離そうとしたのに、彼女は、ぐいっと体を寄せて、支え直しながら言ってくれる。
「交差点手前の並木まで、こうしてる。ほら、あそこまで」
 再三の嬉しい言葉と態度に、くっ付きそうなくらい近くの、彼女の横顔に視線を流しながら息が止まるほど、僕は、今日の幸せに感動していた。
 ほんのりと赤く染める頬も、耳も、伏せ目に潤んだ瞳も、どれもが愛しいと見惚(みと)れていたら、僕に見られているのに気付いてか、彼女は僕に顔を向け、それに応えるように、反射的に視線を逸らすどころか、いつもと真逆に、僕の顔は彼女へ向き合ってしまう。
 パーソナルスペース数センチメートルの大接近、今の彼女は寝ていないし、時刻も真昼で明るい。
 僕達は、見詰め合っていた。
 僕の瞳に映るのは、大好きな彼女の瞳に、唇に、頬に、鼻に……、うっとりと、眠そうに潤んだ瞳が誘うように熱っぽく、僕を見詰めている。
 魅惑的な唇が、近い、近い!
 これまで、十七年間の人生に於(お)いて、罪を犯した二年前のロスト・ファーストキス以外に経験の無い僕は、このナチュラルにセクシーなマクロのシチュエーションを、拒む事ができない。
 全ては、彼女の為(な)せるままに……、
 なぜ、彼女が、何かに取り憑(つ)かれたように、エロチックなムードを醸(かも)し出しているのか、よく分からないが、ここで僕が積極的に応じてしまうと、彼女の呪縛(じゅばく)が解(と)かれてしまって、僕から離れるだろうから、彼女の気が済むまで……、自由にさせたいと思った。
(これは、これは……。もしかして、もしかする?)
 表の幹線道路までの数メートルを残して、僕達の足は停まった。
 彼女の体が、僕に触れたまま向けられて、胸の柔らかい膨らみの感触に、僕は更に、彼女へ体を寄せてしまう。
 彼女は掴んでいたバックと鞄を離して、ドサッと道路に落すと、その手を僕の脇へ回して行く。
(おっ、おっ、キっ、キスを…… するのか……?)
 イニシアチブは彼女が持ち、彼女にリードされるがままの僕は、夢を見ているみたいで、またもや、何も考えられなくなった。
(…………)
 その時、予期せずに、並木の間から人が出て来て、彼女の背後を横切った。
 人が近付いた気配に、僕の背に腕を回し掛けていた彼女が、過敏な超速反応をして、パッと、手と体が離れたかと思うと、優(ゆう)に二メートルも離れてた。
(なんて、素早(すばや)いんだ! ……なんだ、この反応は、恥ずかしい…… のか? でも、そこまで離れなくてもいいじゃん!)
 その超速反応で、不意に支えを失ってバランスを崩した僕は、よろけて、危(あや)うく路上に転がるところだった。
 横切ったのは、全然知らない赤の他人だったから、こんなに恥ずかしがらなくてもいいのにと、よろけながら彼女を見る僕は思う。
 反射的に、倒れまいと広げたスタンスと、両手を大きく広げた踏ん張りに、ビリビリッと、電流のような鋭い痛みが脇腹に走る。
(痛ぅーっ! いててて。いっ、いきなり退くのは、ないんじゃないのぉ~。表通りの手前までって、君が言ってたのに~)
 痛みを彼女に悟られまいと、僕は息を潜(ひそ)め、歯を食い縛った。
「ごめん……」
 へなへなと転けそうになる僕を慌てて支えながら、彼女が謝(あやま)った。
 そして、僕が彼女の支え無しで歩けるのを見定めると、路面に落としたバックと鞄を持って、二メートルは離れて表道路を歩く。
 少し距離を置いた彼女は、横断歩道を渡る時も、『まるびぃ』までの残りの歩きも、彼女は僕を励ましながら、いっしょに歩いてくれた。
「颯爽とよ。格好好くね。頑張って!」
 どうせ明日になれば、今日の親しげな言動や態度や行動なんて無かったかの如(ごと)く、今までと同じ、冷たい『あんたの声は、聞きたくない』と、オーラを放つに決まっている。
 だから、一過性の気の迷いでも、チャンスを逃したくないと思うけれど、脇腹の痛みが、自(みずか)らの積極的な行動を許(ゆる)さない、というより、その気にさせてくれなかった。
 とにかく、痛みを静ませて眠りたい。
     *
 どうにか到着できた、金沢市街の中央部に広がる緑(みどり)の杜(もり)の外れに在る建物は、金沢市民に通称『まるびぃ』と呼ばれて、親しまれている二十一世紀美術館だ。
 常緑の芝生の敷地に、座りの良い一階だけの平たい姿で建つ白い美術館で、上空から見ると円形の真ん丸い形だから、『まるびぃ』だ。
 僕達はエントランスを抜けて、壁も、テーブルも、イスも、床も、真っ白なカフェの居心地の良さそうな空間に落ち着いた。
「ここへは、着た事が有るの?」
 イスに座り、やっと人心地付けた僕に、彼女は訊く。
 『まるびぃ』には、中学校の美術部で何度も来ていたし、高校生になってからも興味の湧(わ)く展覧会へは観に来ている。だけど、この白いカフェへ入った事は無かった。
 メニューブックには、スイーツや軽食のセットにアートな感覚のランチプレート、それに、明るく開放的な店内のムードと美術館内という立地から、リストアップされているとは思っていなかったヘビーなディナーセットも品揃えされていて、どれも、脇腹の痛みを忘れてしまうくらい興味と食欲を唆(そそ)られた。そして、アートで魅力的なランチメニューから彼女がチョイスしてオーダーした料理は、想像していた以上に美味(おい)しい。
(今、事故と怪我の非日常のついでに、ここに彼女と差し向かいで居るっちゅうのは、彼女にリードされたデートっぽいよな)
 大胆で行動的な彼女の指示に従った御陰で、予定外の非日常的な事ばかりが続いている、そんな心の準備ができていない強引なデートっぽさに、ドギマギして顔が火照(ほて)るけれど、気分は超晴れやかで超嬉しい。
 料理が盛られたプレート皿から、一口サラダを食べると、彼女へリードされたデートっぽさを含ませて答える。
「無い。ここのカフェは、今、君と来たのが、初めて……」
 更に熱いコクのあるスープを浸(つ)けたパンの一切れとサラダを一掴(ひとつか)みして頬張(ほおば)っていると、スープの熱に刺激されたのか、チクチクと左脇腹の内側からの痛みが走り出して、空腹で食欲が有るのに食べる気力を散らされてしまう。
 それでも、これなら食べれそうだと、フォークを向けたベーコンとトマトのパスタは、撓る麺の強さにフォークへ絡め切れず、巻き付けられない失敗を何度も彼女に見られるのが厭で、食べるのを止めた……。
 香りの良いアップルタルトも美味しそうで、スプーンで上手(じょうず)に切り分けてパクつく彼女を恨(うら)めしそうに見ていると、スプーンを口に含んだまま、彼女は窓ガラスの向こうの広場を眺めて、独(ひと)り言(ごと)を呟くように言った。
「普通に、しゃべれるんだね」
 ハッとして表情の固まる僕は、無碍に自らの口から出たらしい言葉に、『しまったぁ~』と、目をぱちくりさせる彼女と見合ってしまい、直ぐに、目を逸(そ)らして視線を下げた。
 これまでも、僕は彼女のメール文の作意や使われている文字の一つ一つまで、なぜ彼女が其の言葉を其処に用いたのか、心理的や状況的な意図を探っていた。
 今も、彼女の気持ちになって考えてみる。
(そうさ、今までずっと、こんなふうに君と話したいと思っていたんだ。それなのに、いつも、君を見ただけで、なぜか想いは言葉にならなくて、出せない声に、話なんてできなかったよ)
 黙り込んだ彼女をチラッと上目で見ると、伏せ目で料理を見詰めていて、やはり、気不味(きまず)そうに思えた。
(今まで、君に話し掛けようと思って、口が開いても、声が上手く出せなかったんだ)
 いつも、言葉は咽喉(のど)の直ぐ其処まで来て出かかっていたのに……。
 出そうになるのは、聞こえないほど小さな笛のような音ばかりで、話し掛ける事ができなかった。
 今朝までを思い返すと、気持ちが、更に落ち込んでしまう。
 『普通にしゃべれない』と、思われていただけの言葉へ明るく言い返すだけなのに、それを言葉にできない僕は、自分自身への情け無さで俯いてしまい、自分がオーダーしたチョコレートパフェは、冷たさが気持ち良くて口の中で蕩かしたチョコが美味しいのに、三口(みくち)ほどで柄(え)の長いスプーンの動きも止まってしまう。
(やはり、僕はダメだ。今が、『普通にしゃべれない』を覆(くつがえ)すチャンスなのに……)
 持ち合わせが無くて彼女の世話になるしかないというのも、プレッシャーになっている。
 そんな僕の様子で察(さっ)した気遣いなのか、晒した内心への惚(とぼ)けなのか、彼女が声を掛けて来た。
「どうしたの? 食欲無いの? 食べないなら全部、私が食べてもいい? あっ! あれぇー?」
 手の動きを停めて料理を見詰める僕に気付いた彼女が、僕の食べ掛けも食べたいと言って来た。
「いいよ……、食べて」
 食欲は有ったのだけれど、気持ちの中で事故のショックが整理仕切れていないのと、挟まれた脇腹の痛みに疼くストレスで少し目を回して気力が殺(そ)がれていたのに加えて、彼女の無作為な言葉が僕を自閉にさせた。
 それでも、料理をローテーションに減らしていく彼女の食べっぷりは、見ていて楽しい。
 先(ま)ずはブリオッシュのスーププレートとトマトパスタを食べ終えて、次は僕から取り上げたチョコパをアップルタルトといっしょに食べる。それから、運ばれて来た食後のホットコーヒーを、追加オーダーしたパンケーキをスローペースに一口大づつ切り分けてパクつきながら飲んだ。
 目の前で、二人のオーダーした料理の殆どを食べてしまう彼女の旺盛(おうせい)な食欲が羨(うらや)ましくて、見ているだけで傷(いた)んで疲れた身体が治癒(ちゆ)されて行くような、気分の良い幸せを僕は感じていた……。
 何色にでも染めれそうな白いカフェの空間に彼女と二人で居る幸せな気分は、少し眠気を誘い、僕をちょっとだけウトウトとさせてしまう。
 眠気混じりに、『それまでのより、バターとシロップを入念に絡ませているな』と、彼女が切り分けてフォークを刺す五つ目のパンケーキを、ぼんやり見ていたら、いきなり、僕の口から三センチメートル辺りの目の前へ突き出された。
(あっ、危ないし……)
「はい、食べて! このホットケーキ美味しいよ。香りと甘さの風味で、きっと、元気が出るから」
 勢い良く突き付けられたフォークの危なさに、睡魔は一瞬で消え去り、フォークに刺された眼前のパンケーキと、身を乗り出してまでフォークを突き付ける笑顔の彼女を交互に見て、これを素直に食べても良いものかと迷う。
 パクつこうとして引っ込められて、『うっそー!』とか、『ジョーダンよ!』とか、『誰があんたなんかに!』なんて、からかれるのは堪らない。
 彼女も、僕がパクつくタイミングを探るように、僕の眼と口を見ている。
 それにしても、この彼女が僕にスイーツを食べさせるシーンだけをカットすれば、誰が、どこからどう見ても、ラブラブの高校生カップルだろう。
 僕的には、最高の気分だけど……。
(おい、いいのか? ラブラブに見えても?)
 彼女も、ラブラブシチュエーションに気付いたのか、僕にパンケーキを突き付けたまま、顔が紅くなって行く。
 考え無しからの恥ずかしさに、少し俯いた彼女が、『きっ』と上目で僕を睨み、更に、フォークを突き出してパンケーキ押し着けて来た。
 唇にべっとりとシロップとバターが付き、パンケーキを貫通したフォークの先が唇に刺さりそうなくらい痛い。
 これ以上、間を持たせたらマジに刺して来るか、冷たく引っ込められそうな気がして、恐る恐る口を開けると、素早くパンケーキが押し込まれた。
 彼女が切り分けた残りのパンケーキも、彼女と僕の口へ交互に運ばれて、嬉しさにフォークを持って帰りたいと思う。
(あのう、フォークは、間接キスしてるけど、これは抵抗無いのか?)
 彼女に食べさせて貰うパンケーキは、彼女が言った通り幸せな眠気を心地良い甘味の覚醒(かくせい)にしてくれて、痛みに疲れた身体を活性させた。
「……ほんとだ。美味しいよ。このパンケーキ」
 確かに、チョコレートパフェの冷たく芳ばしい甘さよりも、樹液っぽい香りのシロップの甘味にバターの味と匂いが絡む温かさを、僕は美味しく感じた。
「違う! パンケーキじゃない。ホットケーキ!」
 僕の言う『パンケーキ』を、彼女が『ホットケーキ』と言い直す。
 僕の家では、妹とお袋と僕が、『パンケーキ』と呼び、焼くと親父だけが、『ホットケーキ』だと言って、嬉しそうに食べていた。
「えっ? だってそれは、妹がいつも、『パンケーキ焼けば、食べる?』って、訊いてくるのと同じので……。うーん? ……違うのか?」
 店の人は彼女の言った『ホットケーキ』を訂正せずに復唱し、オーダーを承(うけたまわ)っていた。
「ホットケーキだってば! 私の家では、『ホットケーキ』って言っているの!」
(まあ、パンケーキのパンはフライパンのパンで、食パンのパンじゃない。両面を平らな鉄板や平底鍋で焼き上げるから、パンケーキなんだろう)
 しかし、熱してから温かく食すので、『ホットケーキ』と呼んでも妥当(だとう)だと思う。
「そっ、そう? 君ん家では、ホットケーキなんだ……?」
 『パンケーキ』と『ホットケーキ』が、同じ物だろうという事で理解した。だけど、どちらの呼び名が世間で一般的な通称なのだろう?
 語尾の後切れの悪い疑問形に気付いた彼女は、回答してくれる。。
「そうよ! だいたいパンケーキは、ホットケーキのカテゴリに入るんだからね!」
(……カテゴリねぇ?)
 ムキになって断定する彼女の言い分に、インターネットで調べて遣ろうと考えながら、話しを纏めて終息へ持って行く。
「ううっ……、分類的にもそうだったんだ……。君が、そう言うのならホットケーキなんだろうな……」
 肯定する僕の言葉に、彼女は短く返すと黙ってしまい、表情から笑いを消した。
「そうなの! 覚えて置いてね」
 刺し出されるままに口に入れた『ホットケーキ』は、全て食べ終わり、カップのコーヒーを飲み干(ほ)すまで三十分ほどの間は、二人に会話は無かった。
 毎朝のバスで彼女の横に立ちながら話せるチャンスが有れば、あれも、これもと、いろいろ訊いたり話そうと考えていたのに、いざそうなると一つも、テーマを思い出せない。
 明日から、また、無言で真横に立つ日々の繰り返しになるのを暗示しているようで、気不味いムードだ。
「出ましょう。帰るわよ」
 そう言って、ずっと口許から離さなかった珈琲(こーひー)カップをテーブルに置き、彼女は立ち上がり掛けた。その彼女へ今の僕には不可能な建前を押し立てる。
「僕が、払う」
 ここのカフェの飲食代を払うと言っても、金欠な僕は彼女に立て替えて貰うしかない、恥ずかしくて悲しい現実を曝す事になるだけだと分かっている。
 彼女はさっきと同じ反応をするだけで無駄(むだ)だと思うけれど、僕の心情的に言わなくてはいられない。 それに、礼儀でもある。
「今は、私が払うの! お願いだから払わせて」
 さっと彼女は、テーブルの支払い伝票を手に取り、足早に向かったレジでカフェでの清算を済ませてくれた。
(あぅ、また彼女に支払わせてしまった……。なんという不甲斐無(ふがいな)い奴だ、僕は……)
 彼女の後に続いて、ドアの開け放されたカフェのゲートを抜けながら、自分の不甲斐無さを呪(のろ)う。
 悔んだ不甲斐無さが忘れていた、いつもの言葉を僕に思い出させた。
 それは、不甲斐無さで凹んだマイナスを一気に対等まで均(なら)してくれる、ちょっとだけ、ズルい魔法の言葉だ。
 白いカフェを出て直ぐのエントランスホールで呟いた言葉は、彼女への語り掛けではなく、僕自身への自戒だった。
「あっ、レスキュー隊や救急車の人や医者と看護師さん、それに救助の人達に、『ありがとう』を言うのを忘れた」
 確かに、言ってはいなかった。
 不意に思い出した事が口から出てしまい、彼女の優しくなった目が動いて僕を見た。
 いつもなら、何気(なにげ)なく素直に言える言葉を、僕はすっかり忘れていた。
 彼女には、言えたのに。
 僕は、『助かって良かった』、『大した怪我じゃなくて良かった』と、彼女と自分の状態を心配するばかりで、当たり前のように駆けつけて来て、僕達を助けてくれた人達への感謝の気持ちが無かった。
 忘れていていたのと、それに、気付かなかった自分がショックだった。
 僕の呟きに無言で頷いていた彼女は、エントランスホールの隅(すみ)で、まだ、バッグに仕舞われていない財布から数枚の紙幣を抜き取り、僕の学生服のポケットへ押し込んだ。
 思いもしない彼女の行為に驚く僕を見据(みす)えて、彼女は言った。
「これは、帰りのタクシー代ね。返さなくてもいいよ」
 薬と治療材の代金も、カフェの飲食代も、帰りの車代も、彼女は返さなくてもよいと言う。
『返さなくてもいいよ』の声の響きが、『今日のお助け事は、これで清算してチャラだから』と、念を押されたようで悲しくなった。
 学生服のポケットから取り出した、彼女からの紙幣を眉を顰めて、困った顔で眺める僕を、彼女は顔を傾(かし)げて見ている。
「どうやって、家に帰るのよ?」
 この金額だと、タクシーで帰れと、言わんばかりだ。
「タクシーじゃなくていいよ……。バスに乗るから。……だから、このお金は、受け取れない」
 バスの乗客に紛れて、ルームミラーの死角になるシングルシートに、ちょこんと座っていれば、乗客たちと運転手に注目されないと思っていた。
 人が隠れるのは、大勢の人の中が一番確実と、ミステリーやサスペンスの本で読んだ覚えがある。
「バーカ。 今の時刻のバスだったら、客は数人しかは乗っていないし、それにまだ、お昼を過ぎたばかりだから、授業は終わっていないし、怪しまれて、顔を覚えられるかもね。それに、近所の人も乗っているかも知れないしね」
(うう、馬鹿呼ばわりされて、あっさり否定された……)
 確かに、乗客の少ないバスだと、中途半端な時間に乗り込む学生は、かえって目立つかも知れない。
「それじゃぁ……?」
 僕は渡された紙幣を、小銭しか入っていない財布に入れながら、ワザと首を傾げる。
「タクシーに決まってるでしょう。そんだけ有れば、充分でしょ。お釣りはいらないわ」
 彼女は鋭く切り返して、ニコっと笑う。
 彼女が笑うだけで、僕は、暖かで優しい幸せな気持ちになれる。
 いつも僕は、この笑顔を守りたいと思っていた。
(そうだ、君の笑った顔は、可愛いぞ。ずっと、笑っていてくれ)
 直接言う勇気も無い言葉を、胸の内で呟く。
「タクシーも、バスと同じだろ? タクシーだと運転手とマンツーマンだから、話し掛けて来ると思うし……」
 僕は、彼女が気を付けている秘匿性(ひとくせい)に、詰めが甘くならないか心配していた。
「全然違うわよ! いいこと、良く聞いて。私達は別々の場所から、別々のタクシーに乗って、別々のルートで帰るのよ。あなたは市役所前から乗るの。きっと、タクシーはUターンして向きを変えると思うから、角(かど)に石浦(いしうら)神社が在る広坂交差点を右折して、桜橋(さくらばし)の方へ走らせて。解かる? 石浦神社と桜橋って知ってる? それから、鱗町(うろこまち)交差点を左折させて笠舞(かさまい)を通り、そうやって三口新町(みつくちしんまち)へ行くのよ。解かったぁ? 私は郷土資料館の前から乗って、広坂を真っ直ぐに、小立野台へと上がって行くから。ねぇ、大丈夫?」
 僕の心配に、あっさりと駄目出ししてから、彼女は帰りのタクシーのコースまで詳しく指示してくれた。
 それにしても、地名やランドマークを良く知っている。
 僕が最近知ったばかりの地名も有り、普段の彼女は、どんな行動をしているのか不思議に思わせて、僕に軽いジェラシーと羨望(せんぼう)と焦りを湧かせた。
「だ、大丈夫だよ。石浦神社も、鱗町交差点も、知っているよ」
 タクシーに乗り込んで運転手に、『三口新町まで』と告げれば、大体、彼女の指示のように走ってくれるだろう。
「運ちゃんが話し掛けてきたら、テスト期間だとか、そうだ! あなたは風邪の振りをしてちょうだい。顔色の悪さをごまかせるし、時々、それらしく咳き込めば、バッチリ疑われないわ。ちゃんと、ゴホゴホやケホケホと咳をするのよ」
 僕を自己や存在の意識を喪失(そうしつ)させてくれそうなくらい、彼女は幼児に御使いをさせるように事細かく……、咳の音まで擬音を用いて指導する徹底ぶりには、全く感心させられる。
 この調子じゃ、タクシーの降り方まで指示が有るのだろう。
「それと、『まるびぃ』も、別々のゲートから出るよ。私は市役所側から出て、あなたは広坂通り側から出るのよ。出た後は、互いが近くに居ても、声を掛けちゃだめだからね。あっと、言い忘れるところだった。タクシーは、家から百メートル以上離れた大通りで降りるのよ。痛くて、苦しくて、疲れるでしょうが、頑張りなさい。近所の人達にも、見られないようにね」
 それぞれ違うゲートから、美術館を出るのは懸命だと思う。
 外へ出たら互いに相手を見掛けたり、相手に接近したりしても、気付かぬフリをして無視する事だ。
 他人に知られずにできる合図は、精々(せいぜい)アイコンタクトでの意思表示ぐらいしかない。
 降り方まで指導された降車場所は、時々、買い物に行く、笠舞町に在る中規模な老舗(しにせ)のショッピングセンターの前にしようと思う。
 三口新町の手前だけど大通りからは、ショッピングセンターの中を抜けるのが一番近道だ。
 それでも、家まで二百メートル以上の距離がある。
「うん、分かっている」
 それから、僕達は別々の出口へ向かう分岐点となるミュージアムショップへと向かう。
 辿り着いたミュージアムショップの前で彼女の手が動き、僕の胸ポケットからミュージックプレーヤーを取り出して、プレーヤーから伸びたコードの先のイヤホンを僕の耳に差し込んだ。
「演出よ」
 僕の手にプレーヤーを握らせながら言った彼女も、バックからヘッドホンを取り出して耳に当てる。
「ここからは、別行動よ。湿布で冷やしても、歩くと痛いでしょうけど、怪(あや)しまれないように、音楽を聴きながら、できるだけ、普通に歩いてね」
 僕達は、『まるびぃ』の中で別れて、それぞれ、別々の出口へ向かう。
 広坂通りに向かう北口の前で振り返ると彼女は、まだ、ミュージアムショップの脇に立って小さく手を振りながら、僕を見送っていた。
 頭に掛けるガンメタリックカラーのスリムなヘッドホンは、制服姿の彼女にキュートにマッチして、くらくらする僕の脳へ焼き付くように記憶された。
 目眩がするほどキュートな彼女に鷲掴(わしづか)みされた僕の心臓が、呼吸を萎縮(いしゅく)させて息が詰り、深呼吸のように喘ぐ苦しさに、今日のスキンシップな時間を終わらせたくないと思った。だけど、小さくバイバイする彼女の手が僕を促がし続け、戻る事を許さない。
『♪ 壊(こわ)れそうで~、♪ 大切すぎて……、♪ 触れなかった~』、オンにしたプレーヤーからお気に入りのアニメソングが聴こえ、大きく深く震える呼吸をしながら、僕は広坂通りへと二十一世紀美術館を後にした。
 計画通りに、僕は市役所前で客待ちのタクシーへ少し咳き込みながら乗り込んだ。
 行き先を告げると彼女の予想通りに、タクシーは彼女が渡る横断歩道の手前を右折し、そのまま彼女が予想した通り対向車線へUターンして行く。
 車窓越しに見る彼女は、心配そうな顔で僕を見ていた。
 横断歩道を渡りながら不安げな表情を僕に向けたまま、いつもの優しそうな眼差しで僕を見続けている。
 曲がるタクシーの動き合わせて身を捩り、僕も彼女を見続けた。
 ズキン! ズキッ、ズキズキと強い痛みが走り、背中をプルプルと痙攣させる。だけど、彼女に痛みで歪めた顔を見せるわけにはいかない。
 痛みに堪えて笑えない顔は無表情を装い、彼女の瞳の優しい光だけを見続ける。
(ああっ、こんなに我慢しなければならない痛みが無ければ、笑顔で彼女を見れるのに……。そうすれば彼女も、そんな不安な顔でなくて、返す笑顔で、僕を見送ってくれたのに……)
 広坂交差点に差し掛かる頃には、横断歩道を渡り終えて歩道の縁(ふち)に立ち、僕を見送ってくれる彼女が遠くに、とても小さくなっても、はっきりと彼女の僕を見守り続ける優しげな眼差しが見えていた。
 タクシーが広坂交差点を曲がって、彼女が完全に見えなくなると捩った身体の向きを戻す。
(……でも、事故に遭って傷付かなければ、彼女は優しくしてくれるどころか、近付く事もできなかったな……)
 そんな自虐的な思いに浸りながら、上半身を捩って一時的に激しさを増した痛みが落ち着くまで、タクシーの運転手に気付かれないように僕は前屈みに蹲り、握った拳を口に噛ませて声を殺し、ズキン、ズキンと刺す痛みに耐えた。そして、時々、激しく咳き込んで重症の風邪引きを装うけれど、咳き込むと患部が鋭く痛み、強い痛みが、更に咳を誘発して苦しい。
【それと、全ての支払いを私にさせた事を、あなたは随分と負い目に感じて、悩んでいたみたいけれど、それは、全然違うから。あの日、あなたのメジャーでヒーローになれるチャンスと最適な治療を、私の身勝手が奪ったのよ。だから、全く割に合わない代償で申し訳なくて、あなたには悪い事をしたと思っているの。……私を恨んでも、感謝しないで】
 悪化した気がする痛みに苦しみながら、フォークに刺したホットケーキを突き付ける彼女の笑顔を思い出していた。
 楽しくて、嬉しくて、笑う彼女を凄く見たいと思う。
 タクシーからの降車は、ちゃんと二百メートルほど離れた大通りでした。
 人目に付かないように路地裏をソロリソロリと歩いても、一歩毎に鋭い痛みが刺して苦しい。
 ここでも、彼女に支えられて歩きたいと切に思う。
 彼女の予言は当たり、家に着くと変に冷たい汗塗(あせまみ)れで疲れ切り、心底、脱力のヘタヘタだった。
     *
【大丈夫? 痛みはどう? 腫れは引いた? 熱は有るの?学校へは、もう行ってんの?】
 毎日、同じメールが彼女から届いていた。
 事故当日の一昨日(おととい)は夕方と夜に、昨日は朝昼、夕晩と四度、今日も朝と昼に着信している。
 一昨日と昨日は熱が出て、携帯電話の着信音が気付けないほど、ずっと、意識が朦朧(もうろう)として終日寝ていた。
 食欲は無く、働かない頭に何もする意欲が湧かなくて、携帯電話の操作も、着信履歴(りれき)を確認するのが漸(や)っとだった。
 お袋(ふくろ)に、熱が出たのを風邪だろうと誤魔化すと、お袋は僕に常備薬の風邪薬と解熱剤を飲ませ、そして、用意した水枕に僕を寝かし付けてから、心配顔で冷たい濡れタオルを僕の額に優しく当てながら言った。
「学校に二、三日、休むと、連絡しておくからね。たぶん、風邪だと思うけれど、少し元気になったら、医者へ行きなさいよ」
 お袋が部屋から出て行くと、ベッド下から彼女がくれた冷湿布を取り出して苦労の末に、どうにか貼り替え、水枕を移して熱を持つ背中を冷やした。
 お袋が運んでくれる御粥(おかゆ)の病人食を時間を掛けて、熱で味覚が麻痺した口で食べる三度の飯(めし)と、ふら付きながら漸っとの事で用を足(た)しているトイレ以外は、ぐったりと眠り込んでいた。
 お袋の介護(かいご)と自前の治療と大人しくしていた甲斐があって、熱は漸(ようや)く四日目の朝になって下がり、意識がはっきりして来るに連れて、食欲も出て元気になって来た。
【心配させてごめん。もう、痛みは無くなったよ。痣も薄くなっている。君が治療してくれた御蔭だ。ありがとうございます。あれから、少し熱が出て、あの日プラス三日間も休んでしまった。明日からは学校へ行けそうだよ。それから当面、通学のバスは、笠舞を通る路線にするよ。そして、二週間くらい過ぎたら、そっちの路線へ戻るよ。君こそ、本当に大丈夫なのか?】
 彼女を心配させまいと少しの熱と打ち込んだけれど、本当は魘(うな)されるくらいの高熱で、鏡で見る痣の色も範囲も僅かしか快方へと変化していない。
 今朝に熱が下がり元気に成(な)らなかったら、お袋に病院へ連れて行かれて、医者に背中を見られるところだった。
【私は、大丈夫よ。あの日以外に、学校を休んでいないから。……私を護ってくれて、ありがとう】
 僕は、額にほんのりと赤い小さな痕を付けて、心配そうに僕を見上げる彼女と、スリムなヘッドホンをして小さく手を振る制服姿の彼女を、『……私を護ってくれてありがとう』と、画面に表示された文字を見ながら思い出していた。
(ほんとうに、彼女を護れて良かった……!)
 気になっていた彼女へ初めて声を掛けた麗(うら)らかな春の日、舞い上がる気持ちに胸がときめいて、一瞬で恋に陥た風光る春の日、穏(おだ)やかな春風に髪をそよがせて、淡いピンクの桜色をバックにした彼女は、そのカーテンを優しく揺らす春風の眩(まぶ)しさに、目を細めて微睡(まどろ)む彼女の表情は幸せそうに見えた。
 嘘みたいなバス事故に、有り得ないほどの僕の瞬発的反射、夢のような彼女の行動、それらは、熱で朦朧とする僕の夢見る脳が、事実の一部を勝手に脚色した錯覚なのかもと思い懐疑的(かいぎてき)になっていた。それが、彼女からの感謝の文字で、彼女が気になり初めた頃の情景と、彼女を好きになってしまった場面が、思い出した事故当日の彼女の愛くるしい姿と重なり、僕は叫び回りたいくらいに嬉しくなった。
 僕の全身がブルブル震えて、『ずっと彼女を好きでいて、僕の、この命が尽きるまで、ずっとずっと、彼女を守って遣るんだ』と、画面の彼女の文字に誓う。
(おおおおおっ、ほんとうに、僕は、彼女を護れていたんだ!)
 バスの急ブレーキで飛ばされ、更に、衝突の衝撃と破壊が彼女の眼前で僕を剪(はさ)み込んで潰そうとした。その剪まれて身動きできない僕へ、彼女はぶつかっただけで怪我をしなかったという、偶然が重なっただけで、大した事のない出来事を、熱でふやけて記憶の曖昧(あいまい)になった脳が、願望いっぱいの白昼夢(はくちゅうむ)に変えてしまったのだろうと思っていた。そして、熱が退いた直後の頭で、記憶の曖昧な部分を思い出そうと努(つと)めたけれど、直ぐに違う記憶に流れて、どうしても思い出せずにいたのに……。
(僕は誓う! これから先も、僕の、この身体が朽ち果て、命を失う事になるとしても、無意識、無自覚に動き、彼女の盾になり、必ず彼女を護り、救い続けると!)
 僕の顔や手や胸や肩が覚えている、彼女の柔らかい感触と温かみは本物だった。
 肺や鼻孔の奥に残る匂いも、本物だ!
 深く吸い込んで吐き切る息に、彼女の匂いが幽(かす)かに混ざって思い出される。
 僕の僕だけに都合の良い脳の一角(いっかく)が、大接近に加えてスキンシップの密着接触で迫って来た彼女を、今のヒーローっぽいノリと勢いで一気に彼彼女(かれかの)の御付き合いになるかもと甘く、彼女の意思を確かめもしないのに真剣に考えてしまう。
 彼女のメール文は自戒の言葉で、締め括(くく)られていた。
【それと、全ての支払いを私にさせた事を、あなたは、随分と負い目に感じて、悩んでいたみたいけれど、それは、全然違うから。あの日、あなたのメジャーでヒーローになれるチャンスと最適な治療を、私の身勝手が奪ったのよ。だから、全く、割に合わない代償で申し訳なくて、あなたには悪い事をしたと思っているの。……私を恨んでも、感謝しないで】
(あの日の、どれをどう思えば、そうなる。恨むなんて無いだろう)
 それにしても彼女は、お金持ちだった。
 薬局で買って来てくれた治療薬類、白いカフェでの飲食代、帰りのタクシー代、ざっと見積もっても一万円くらいは支払っているだろう。
 昼飯の饂飩(うどん)と部活後に寄る茶店(さてん)の珈琲へ充(あ)てる小銭しか持ち合わせていなかった僕とは大違いだ。
 支払ってくれた金額を返済すると言った僕の申し訳無い気持ちは、彼女に拒絶(きょぜつ)されている。
 あれは、唯(ただ)、彼女を守りたいだけの行動だった。
 感謝されるとしたら救急車でのハグが、僕の前に天国の扉が降りて来そうなくらいの、彼女の気持ちの現れで充分過ぎていた。
 確かに、死に掛けて、入院すべきだったかも知れない病院から連れ出されたけれど、彼女に治療して貰ったし、いっしょに行動できて、二人だけの秘密を持てたのは、僕の心からの喜びだ。なのに、彼女は私を恨んでと言う。
(違う! それは、全くの逆だろう! この彼女から受けた恩恵と歓喜を、僕は返す事が出来るだろうか?)
 それはきっと、今までの僕と彼女の関係なら出来なったと思う。だけど、彼女を守護できた今は、これからは出来そうな予感がしてする。
(ならば今、彼女の感じている負い目は、全て、否定して遣らなければならない!)
【それでも、君を護れて僕は嬉しいです。だからこそ、僕に護らせてくれた君へ、感謝します】
(そして僕は、イレギュラーじゃなくて真っ当に、自身の努力で人生を変えれる事を、見せつけて遣る)
 取り敢えずは人生を変えれそうな、次ぎのインターハイへの石川県代表を選出する弓道の試合に、応援に来て頂(いただ)けるよう丁重(ていちょう)に頼んで……、いや、心から御願いしてみようと思う。

 

 つづく