遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

金石の海 (私 高校一年生) 桜の匂い 第五章 弐

 大きな赤い太陽と金波銀波に煌(きら)めく波が美しい。この感動する綺麗(きれい)な景色を見る為(ため)にバスを乗り継(つ)いで、市内を流れる犀川(さいがわ)が日本海へ注(そそ)ぐ河口に在る金石(かないわ)の町へ遣(や)って来た。古くは砂丘の上に鎮座していた神社…… お宮さんの麓(ふもと)で宮腰(みやこし)と呼ばれ、北前船の海商で栄えた古(いにしえ)からの港町だ。神社の祭神は天照(あまてらす)と猿田彦(さるたひこ)で、金沢(かなざわ)市の旧市街地よりもずっと歴史が有る町らしい。あいつのメールに有ったこの場所へ来る為にインターネットで調べたら、町名の由来にそう書かれていた。私の御里(おさと)の明千寺(みょうせんじ)が在るトヤン高原の名もそうだけど、何か古代のロマンを感じてしまう。

 私は金石の町の迷路のように入り組んだ路地を抜(ぬ)けて、土手みたいに草が生(お)い茂(しげ)る砂丘の上に立ち、透明な朱色に輝く水平線に見蕩(みと)れていた。幻想的で水平線の向こうが透(す)けて見えそうな色彩の誘惑へ、私は引き込まれてしまう。

 私の育った能登(のと)半島内浦に在る諸橋(もろはし)の浜からは水平線は見えない。夕陽は能登の低い山並みの向こうに落ちて行き、その山並みの影に覆(おお)われると急速に宵闇(よいやみ)が迫(せま)って来て、外で遊んでいたりすると速(すみ)やかに家に帰っていた。

 水平線の彼方(かなた)へ綺麗に沈んで行く夕陽を見るのは初めてで、その美しい日没の様(さま)に私はすっかり魅了されてしまった。

     *

 手前の道路の遥(はる)か向こう、埋立地を隔(へだ)てた遠くの砂浜にあいつがいた。遠くて良く分からないけど、たぶん一番後ろを付いて行くのが、あいつだ。部活の人達といっしょにランニングや筋肉トレーニングをしている。

 先週の初めに、あいつから長いメールが届いていた。

【週の前半の三日間は、天候が良ければ学校から金石までランニングです。金石の砂浜でトレーニングのメニューを四、五回繰り返します。それからまた、ランニングをして大野(おおの)新橋の袂(たもと)を曲がり学校へ戻ります。これで体格と筋力を造っています。雨降りや寒い日は、校舎内で同じようにランニングとトレーニングメニューをします。陽を受けて金波銀波に輝く波頭(なみがしら)が綺麗です。水平線に落ちて行く真(ま)っ赤(か)な太陽と、金色(こんじき)に棚引く雲は本当に綺麗です。トレーニングは辛(つら)くて、走り出す直前まで気持ちがナーバスですが、その夕陽の海を見ると辛いことを忘れてしまいます。きっと僕は、この景色が見たくて走るのかも知れません。暇(ひま)が有っても、無くても、一度、金石の砂丘の上から見て下さい】

 その砂丘は、草やニセアカシヤや松の木が生い茂り、ちっともそれらしくないけれど金石から大野に続く小さな砂丘で、風致地区になっていた。私は今、金石の住宅地の外(はず)れに在る海の方へ小さく飛び出した砂丘の上に立っている。

 砂浜でのトレーニングを終え、彼らは堤防から目の前の道路に出て来て、大野の方へ駆(か)け抜けて行く。一人一人、みんなが私を見て行く。

 一番後ろのあいつは私に気付いていたみたいで、ずっとこっちを見ながら走って来た。真下の海岸道路に出た所で躓(つまづ)いたみたいによろめいたけれど、両手を広げてバランスを取り、転(ころ)ぶのを上手(うま)く防いで立ち止まった。そして、その姿勢のままあいつは私を見上げた。私の瞳はあいつを捉(とら)え続けていて見下ろすように見詰(みつ)め合ってしまう。

 あいつは、息が上がって辛そうだけど、

『充実していて、けっこう楽しいぞ』と、言いたげな気持ちが表情から溢(あふ)れている。

 不意にあいつの私を見ていた視線が下がり、そして、ゆっくりと上がって来た。私の爪先(つまさき)から足首、脹脛(ふくらはぎ)、膝小僧(ひざこぞう)、そして腿(もも)へと、視線は絡(から)み付きながら上(のぼ)って来る。あいつの視線の動きは部位に移る度(たび)に遅(おそ)くなり、視線がレーザーポインターの赤や緑の光線で照射するように私の足の各部位を指し示して行く。

 あいつに探(さぐ)られるように観察されているのを感じて、背筋(せすじ)がズクゾクと震(ふる)えた。

(なっ、何こいつ! 気持ちワルー)

 ポインターの動きは太腿(ふともも)辺(あた)りで更(さら)に遅くなり、そして止まった。あいつは堂々と私のスカートの中を覗(のぞ)いている。

(ちょっ、ちょっとぉ~。露骨にどこ見てんのよ! もう信じられない)

 下校時は、大きな桜の木が立ち並ぶ遅刻坂を降りて学校の敷地から抜け出ると、裏路地の家影で制服のスカートのウエストを二、三回折(お)り返して、ミニスカートのようにする。制服のスカートはボックスタイプのプリーツで、風に捲(まく)れ上がることが少ないけれど、ミニスカっぽくすると下着が見え易(やす)くなるから、ワザと見せパンツを穿(は)く。

 ショーツはブラジャーとコーディネートで、シックな柄物(がらもの)かダークな単色で揃(そろ)えている。妖艶(ようえん)で扇情的な感じの下着ほど、けっこう楽しくてストレス解消になると姉の友達から手解(てほど)きを受けた。もう中学生の時のような白色は使わないし、フリルやレースも好きじゃない。

 シンプルなデザインのカラーは、サテンブラックにミッドナイトブルー、チャコールグレーやショコラブラウン、それにテカテカのメタリックスチールなんて戦闘的なイメージで、あいつのプレッシャーと強く敏捷に激しい戦いができるみたいな、そんな厨二病的な気分に私を浸らせた、その秘密めいたアンダーは、本当に不思議(ふしぎ)とストレス解消をしてくれた。

(今日はサテンブラックよ。それにティーバックじゃなくてスタンダートだから)

 ハァハァと息をする口が更に大きく開いて、あいつは締(し)まりの無い厭(いや)らしくてバカみたいな顔になり、その日焼けした顔が紅(あか)く高揚(こうよう)していくのが分かる。私のスカートの中を注視していたアホ顔の目が、ハッと上目(うわめ)になって両手を腰(こし)に宛(あ)て仁王立ちで睨(にら)む私の目と合った。

 ストレス解消になる欲情的な下着は見られても構(かま)わないと思っているから、別にチラ見されるくらいは平気だけど、流石(さすが)にジロジロと注視されるのは恥ずかしい。それでも敢(あ)えてスカートの裾(すそ)を押さえたりして恥じらうようなマネはせずに、ワザとあいつに横柄なポーズで見せ付けて遣る。

 一瞬そのまま、あいつは固(かた)まった。直(す)ぐに私を見上げた上目の瞳が揺(ゆ)れ迷い、視線を逸(そ)らすタイミングを探る。赤ら顔のあいつの股間がそれなりに張らんで、姉から教えられた男子の性的興奮現象だと察(さっ)した。

 気分転換とストレス解消の下着は、確(たし)かに情欲をそそる効果が有った。

(凄(すご)いよ、お姉(ねえ)ちゃん! 本当に煽情的だよ。効果バッチシだわ ……って……、あっ、ああっ)

 しまった! 憤(いきどお)る気持ちが暴走している。あいつに見せ付けて遣る為の下着じゃない!

(ううん、ちゃうちゃう! あいつに効果が有ったのを喜(よろこ)んでどうすんのよ。ううっ、ちょっとぉ~私、バカじゃん!)

 秘密めいた下着を着ける目的が何かズレて来ているけど、これも楽しいストレス解消になりそう。

(このスケベ野郎!)

 私はあいつを睨み付けたまま、声を出さずにゆっくりと唇だけを動かす。

『バーカ』私の口の動きを読んだあいつは、バカみたいなセーフポーズのままで逃げるタイミングを失って動けない。

「おーい、早く来―い!」

 部活の仲間が大声であいつを呼んだ。視界を声の方へ移すと二、三十メートル先で部活の仲間達が立ち止って全員でこっちを見ていた。

「なにしてんだよ! 女子に見蕩れてんじゃねーよ」

(そりゃ、あいつは見蕩れるでしょう。告(こく)った相手の可愛(かわい)い女の子がメールを読んで、ここに来てるんだから、驚(おどろ)いて見蕩れてしまうのは当然でしょう)

「おまえの知り合いか?」

(確かに、そいつとは知り合いです。でもメル友だよ)

 あいつは無反応を装(よそお)っている。

「スケベな奴だなぁ~。スカートの中、覗いてただろ? あそこもデカくしてるしなぁー」

 私の思っている事を、仲間達がそのまま大声で言った。あいつは彼らに向き直(なお)り両手を下(お)ろして足のスタンスを変える。

 私の下着を見て紅潮したあいつの顔が傾(かたむ)く西陽に照らされて更に赤く見えた。そして仲間達の図星の大きな囃(はや)し声で、見る見る耳の後ろや首まで真っ赤になり慌(あわ)てて走って行く。そんなあいつの姿が、ちょっとコメディアンぽくって少し口許(くちもと)が笑ってしまった。

 待ってくれていた部員達と合流したあいつは、みんなと大野方面へ走り去って行き、やがて見えなくなった。あいつのメールに書かれていた大野新橋の袂を曲がってしまったのだろう。

(金沢港の在る大野の町へも、まだ行った事がないなぁ~)

 あいつの部活で走るコースに興味が湧(わ)いたけれど、斜陽を受けて濃いピンクに映(は)える遠くの灯台と橋を見て気持ちが失せた。

(今から、あそこまで歩いて行くのは、絶対に無理!)

 遠くの浜から走って来て、それから私の真下で暫し停まっただけで、ずうっと向こうへ休みもせずに走り続けて見えなくなったあいつを、素直(すなお)に凄いと思った。

     *

 太陽があと五つ分くらいの傾きで、夕陽は水平線に沈もうとする頃になって、やっと私は家路へ向かう気になった。今なら辺(あた)りが明るい内に帰宅できると思う。でも、あいつが私に見て欲(ほ)しいサンセット色はこれからだ。もう三十分も経(た)てば、真紅の太陽の下端が水平線に触(ふ)れて始まる落日の大スペクタクルが観れる。だけど、このまま帰ってしまうと、私のスカートの中を覗き見て逃走するあいつのヘタレ具合(ぐあい)を見学しに来ただけになってしまう。

 暗くなる前に帰宅しようか、このままサンセットを見続けようか、迷う私は一旦、下の広見(ひろみ)まで降りて、その場、その時の気分に任(まか)せる事にした。取り敢えず心配させないように母へ電話だ。

「あっ、お母(かあ)さん。今、まだ学校。部活を見学してるの。……うん、まだ帰れないから。……うん、うん。あまり遅くならないようにする」

 夕陽を見に金石まで来ているとは言えず、私の帰りを心配する母に嘘(うそ)を吐(つ)いた。連(つ)るむ友達はいなくて、学校のどの部活へも入るつもりは無いのに、まだ学校にいると言ってしまった。

 正直に一人で夕焼けを見ていると言えば、絶対に方向違いの詮索をされてしまう。もっと正直に、あいつに言われて夕陽を見に金石まで来ているなんて言ったら、きっと『あいつって誰(だれ)よ』とか、『あの、あなたを好きだって言った男の子なの』なんて、男女交際を絡めたツッコミが入って、恥ずかしい思いをするに決まっている。だから言いたくない。

(それに、まだ、あいつしか見ていなくて、夕陽を見てないし……)

     *

 嘘は姉にも吐いている。ローマのスペイン広場近くの雑貨屋で持ち金が足(た)りなくて買えなかったレター挿(さ)しは、『あれーっ! それ、どうしたの? それってぇ……、確かスペイン広場の店で、買うのを諦(あきら)めたのと同じじゃないの?』って、あいつから贈(おく)られた日に早々と姉が見付けてしまった。

 中学二年生の後期の終業式の日、学校から持ち帰り自室で机の上に飾(かざ)って眺(なが)めていると、ショッピングを誘(さそ)いに来た姉がレター挿しを見て入手経緯を訊(き)いてきた。

『竪町(たてまち)の雑貨屋に同じのが有ったんだよ。ほら、お姉ちゃんが連れて行ってくれた、通りの中程、里見町(さとみちょう)への小路の近くに在る店よ。お姉ちゃんと行くとよく入る、あの店……』とっさに嘘を言った。

 あいつから貰(もら)ったなんて言えなかった。説明も面倒臭(めんどうくさ)いし、因果(いんが)を感じて赤い糸が見えるなんて言われたら堪(たま)ったもんじゃない。あれから一年以上も経ち金沢市内のいろんな店に入る度に探すけれど、嘘は本当の事で償(つぐな)われていない。

 あいつからレター挿しといっしょに贈られたコモシルクのスカーフはランドリーから仕上がったパッケージのまま、防虫剤と共に机の引き出しの奥深くに仕舞われている。初詣(はつもうで)にしていたら、『やっぱり、似合(にあ)ってるね。温(あたた)かそうだよ』と、自分が選んで私へプレゼントしてくれたのと色違いなのに、お姉ちゃんは気付いていなかった。家族みんなからプレゼントされた、そのスカーフはファンシーケースのハンガーに掛けられて時々、姉にも使われている。

     *

 砂丘を降り嘘の言い訳に感(かま)けて母と電話しながら住宅地を歩いていると、いつの間にか小さな広見に在る神社まで来ていた。鳥居に掲(かか)げられている額束(がくづか)の社名(やしろめい)は『西(にし)の宮(みや)』、鳥居脇の神社名を記した石柱には『西之宮社(にしのみやしゃ)』とあり、私的には『の』の方が親しみ易い感じがする。

「御飯……、うーん。たぶん、みんなと何か食べると思うから、心配しなくていいから。……うん、わかってる、気を付けて帰るよ。じゃあ、電話切るからね」

 私は境内(けいだい)を囲(かこ)む石柵脇の欅(けやき)の木の袂に有るベンチに腰掛けて、そこで母への嘘吐き電話を切った。

「ふーっ、どうしょっかなぁ」

(低い砂丘だけど戻(もど)るのは面倒だし…。それに、ヘタレなあいつだけじゃなくて、西日に照らされた綺麗な海も見れたしね。まあ、もういいかな)

 ベンチに凭(もた)れ掛かり、溜(た)め息を吐きながら母に言った通り家へ帰ろうかと思う。断(ことわ)った晩御飯はバスを降りる錦町(にしきまち)の停留場近くの中華料理屋で食べれば良い。

「さぁて、帰ろう…… かな……」

(ん?)

 伸(の)びをするように立ち上がり、金石のバス停へと向う小路に顔を向けた私の眼に、不思議な光景が飛び込んで来た。

(あれは何(なん)なの? 何か、飛んでる……?)

 それは、小路に差し込む夕方の陽差しの中でキラキラと無数に舞い飛んでいた。その小さな銀色の輝き達は甲虫のようでもあり、ゆっくりと舞い上がり漂う様はタンポポの白い羽毛(はねげ)のようにも見えた。

 揺ら揺らと漂う光の正体を確かめたくて、小路に近付きながら私はじっと眼を凝(こ)らして行く。

(風に漂う得体の知れない微生物? じゃないよね。風、吹いて無いし。でも、そうだったら刺(さ)されたりして凄く痛いかも……)

 それは近くへ行くと虫でも種子でもなくて、毒を持つ生物か、身体(からだ)に良くない有害物質の揮発かもと思う警告も、正体を見たい好奇心には勝てず、直ぐ傍(そば)まで駆け寄った私は掴むように振り回す手に幾(いく)つかのキラキラを捕(つか)まえた。

「えっ、あれっえー?」

 捕まえた光の正体を確かめようと、そっと手を開いて見るけれどキラキラは一つも無くて、手に何かを捕まえた跡(あと)や感触は無かった。それでも、確かに幾つかのキラキラを捕まえたはずだと思えて、覗き込みながら光に翳(かざ)す掌(てのひら)の向きを変えてみる。

 すると、掌にチカチカと小さく光の瞬(またた)きが見え、私は、何が光るのか更に眼を凝らして見ようと努力するけれど、何も見付ける事ができない。それでも瞬く反射の具合からきっと、それは掌の汗の水分や塩分の結晶じゃなくて何か微小な埃(ほこり)や塵(ちり)のような気がした。

 辺りを見回すと私の周りの路地は、夕凪(ゆうなぎ)で留(とど)まった大気のそこら中に埃や塵が漂いながら夕陽に照らされてキラキラと銀色や金色に光り、まるで、別の世界の金石の町が重(かさ)なる不思議な異空間に迷い込んでいるみたいに見える。

 夕陽に照らされた通りは、冷(ひ)えて行く大気と温められていた路面の温度差で生(しょう)じた気流が、眼に見えないくらいの小さな塵や極軽(ごくかる)い埃をゆっくりと浮き上げて、あちらこちらの長く伸びる影の中にキラキラと舞うように漂わせていると思う。

 もっと良く不思議な光景を確かめたくて、小路から近くの十字路まで行ってみる。左右に交差する影になった通りは向こうの陽が差し込んでいる交差点にキラリ、キラリと多くの黄色い光りが舞い、そして、西日の差す前後の通りは先の方までキラキラして、町全体が異次元の金石の町との重なりで金色や銀色の光の粒に分解して行くみたいに錯覚してしまう。

 一斉(いっせい)に舞い上がって行く金色の光の粒…。

(初めて…… 見た、不思議な光景……。異世界の町……。あっ!)

 さっき見付けた時に光りは白っぽい銀色だけだったのに、今は赤味を帯(お)びた金色ばかりに見える。

 空を見てから陽が当たる家を見て、深く青い空の色と随分(ずいぶん)と紅く照らされた家の白壁に、私は直に陽が沈むのを悟った。

(まだ、間に合う!)

 世界の美しい様を、もっと見たいと思う私は、さっきまでいた小さな砂丘を目指して駆け出した。世界から明るさが少しづつ陰(かげ)って行くのを感じながら、戻り着いた砂丘の上で見た夕陽は、下の縁が水平線に触れる寸前だった。

     *

 太陽が触れそうな辺りの海の縁がヌラリと朱(あけ)に輝き、鋭(するど)い光りと熱を失(うしな)った紅球が二、三回の瞬(まばた)きの間に朱色の溶けるような水平線と繋(つな)がりだす。沈む深紅の太陽が水平線の縁へヌメヌメと融けて広がって行くみたいだ。湧き立つ雲の壁に遮(さえぎ)られたり、水平線の彼方から押し寄せる雲や低く広がる靄(もや)で途切れたりせずに、はっきりと水平線へ融けるように沈む美しい夕陽を見るのは、初めてだった。

 熱の均衡が失われて風が私の背後から吹き寄せた。後ろ髪を梳(す)かして項(うなじ)を擽(くすぐ)る風に私はコモ湖の風を思い出す。でも、あの時の春一番のような掻(か)き回す疾風(はやて)じゃなくて、優(やさ)しく髪を撫(な)でる気持ちの良い海へと吹く微風(そよかぜ)だ。この穏(おだ)やかな風に路地で舞う不思議な煌(きらめ)き達も吹き払わてしまったかも知れない。

(……キラキラが消える瞬間も、見たかったな)

 火花を失い紙縒(こよ)りから落ちる寸前の線香花火の溶融玉みたいな太陽が、徐々に水平線の彼方へ沈んで行き、さっきまでの金波銀波のサンセットロードは海上全面の紅色に変わる。一段と赤味を増した夕陽が波をテラテラと紅く光らせ、暗くなり始めた世界に美しく添えるアクセントように波頭を鮮(あざ)やな紅色に煌かす。雲一つ無い世界の果(は)てに太陽が融けるように隠(かく)れて行き、刻一刻(こくいっこく)と変わる世界の色は、『早く明日(あした)へ行こう』と誘っているみたいだ。

(綺麗……、なんて美しいの…)

 太陽の残りが少なくなるに連れて加速され、少しも止まってくれない変化する色の美しさに私は感動して見蕩れた。

(あいつはこの色を、私に見せたかったんだ!)

 太陽が水平線の向こう側に去った直後の世界の縁は、今日を名残(なごり)惜(お)しむように透明な朱色に彩(いろど)られて、その揺ら揺らと光る縁は別の世界に繋がるゲートのように思える。

 日没を見届けて私は金石の町へと砂丘を降りた。

(急(いそ)がないと、家に帰るのが遅くなっちゃう。まだ明るい内にバス停に着かなくっちゃ)

 砂丘に上がる前に通った金石の町は想像していたより広くて、港町の入り組んだ小路に海の方角を見失いそうになった。バス停から砂丘まで思ったより距離が有って暗くなれば迷子になりそう。

 トワイライトタイム。黄昏時(たそがれどき)……。日没後の残光の中、町の大気が影の無いセピア色に染(そ)まり黒ずんで行く。それは、異質な終焉(しゅうえん)の予感に心細くなってしまう黄色い暗闇だ。光量が減り続け暗くなって行く世界の様に、孤独な憂(うれ)いと切(せつ)ない哀愁(あいしゅう)がさわさわと私の心を惑(まど)わせさせる。

 初めて来た金石の町は、不思議な感じがした。幾つもの通りの彼方、曲がり角の向こう、狭い路地の先が夕暮(ゆうぐ)れに薄暗く霞み、まるで違う世界の違う時間の中の金石の町を彷徨(さまよ)い歩いているみたいだ。初めて体験する異世界に迷い込んだような錯覚が楽しい。バス停に急いでいたのもすっかり忘れて歩き廻っていたら、いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていて、今は、そこここの影に得体の知れない何かが潜(ひそ)んでいそうで怖(こわ)い。

 市街地の白金町(しらがねちょう)から直線に伸びる街道の果てに在る河口の漁港町。明るい内はどこにでも在りそうな気にも留(と)めない普通に潮臭(うしおくさ)い町なのに、夕焼けに染まる家並みは光子に分解する不思議な異次元の町のよう。夕暮れの黄昏時の街路は、どこかで開く狭間(はざま)に異世界から何か得体の知れないモノが行来(ゆきき)していそうだ。家々から夕餉(ゆうげ)の支度をする人の気配がするのに、人気(ひとけ)の無い通りは無事にバス停へ辿(たど)り着けるか不安にさせた。

 迷路のような町の通りを彷徨っていたら御腹(おなか)がすっかり空(す)いて、明るい内の帰宅するのは諦めてしまい、途中で見付けた中華ソバ屋でラーメンと餃子(ぎょうざ)を食べしまった。初めて食べるドロッとしたスープの、超こってりラーメン。

 刻(きざ)み葱(ねぎ)をたっぷりトッピングして、卓上に置かれていたピリピリ風味を付ける辛味噌(からみそ)と、疲れ取りにニンニク味噌を入れてみる。初めてだから見た目は異様に映(うつ)るけど、嗅(か)いでみた香りは美味(おい)しそうに思えた。

 細い麺に卓上の調味料と刻み葱を加えたドロドロスープを良く絡ませて、恐(おそ)る恐る口に運ぶ。

(美味しー。この味って私好(ごの)みじゃん! グッジョブだよ!)

 水を飲まず、無言でスープも残さず一気に完食した。会計の際にバス停を教えて貰いながら、『御馳走様(ごちそうさま)でした。初めて食べました。美味しかったです』と、店員さんに御礼を言ったら本店は京都(きょうと)に在って関西(かんさい)じゃ有名だと教えてくれた。何かで京都へ行く機会が有れば、絶対に本店で食べてみたい気持ちになったけれど、この店には、あいつのトレーニングを見なくても夕陽の海を見て、夕暮れの不思議な町を歩き、そして、美味しいラーメンを、また食べに来ようと思う。

 親切な店員さんに教えて貰った金石のバス停は直ぐ近くで、丁度、待機時間でバス停に停車していた金石が始発のバスに乗り込んだ。この路線のバスは錦町の家へ帰る為に、乗り換えが必要だ。金石から湯涌(ゆわく)温泉や東部車庫行きの直通バスは無くて、香林坊(こうりんぼう)のバス停で降りて中央公園前から乗り継がねばならない。その香林坊はずっと先のバス停だ。どうせこの時間帯の乗客は少なくて、香林坊までに大半は降りてしまうだろうと判断して最後尾席の窓側に座った。

 座席に座ると丸めて絡んだラバーコードを解(ほど)きながら、携帯電話のオーディオ端子にピンジャックを挿し込み、それから耳にイヤホンを付けて、中学生の頃から嵌(は)まっているお気に入りのフレンチオーツディーズを聴く。私は楽曲をパソコンのアプリやネットサービスから携帯電話へダウンロードしている。私のミュージック機能に優(すぐ)れた携帯電話は殆(ほとん)どプレーヤーとして使っていた。

 電話の通話と、メールの送受信の履歴は家族ばかりだ……。

(ん! いや、メールは、あいつが一番多かったっけ)

 暫くして乗降のドアが閉(し)まり軽くクラクションを響(ひび)かせてバスは出発した。私は窓際にスクールバッグを置いて膝(ひざ)を組む。車窓に凭れ掛かるように頬杖を突き、窓ガラスの向こうに流れる灯(あか)りを見ながら、沈みゆく真っ赤な太陽と鬩(せめ)ぎ合う宵闇が美しいサンセットの空と、トワイライトカラーに染まる町、そして私を見上げて固まるあいつを思い出す。

(ふふっ)

 とても新鮮な気持ちで満たされて嬉(うれ)しい私は一人、微笑(ほほえ)んでしまう。

(今日、此処(ここ)へ来て…… あいつに会えた事も含めて…… 本当に良かった)

 --------------------

 バス停を二つほど過ぎた辺りから、イヤホンから聴こえる曲がノリの良いシャンソンスタンダードから、スローなバラードに変わった。短いバラードが二曲続いた後はスィングなディスコ調ばかりだった。遠くの初めての場所へ来て浜風に吹かれ、見知らぬ町を当ても無く歩き廻った所為(せい)で疲れたのと、御腹も満たされた今はジャズバラードの優しい調べで少し眠りたい。武蔵(むさし)が辻(つじ)を過ぎる頃には、四曲目から始まるアップテンポのスィングなノリで起こされるはずと考えていた。

 更に幾つかのバス停を過ぎてとろんとした頃、あいつの通う工業高校近くのバス停に着き乗車口のドアが開いた。開いた乗車口からドタドタと勢(いきお)いよく先頭で乗り込んで来たのはあいつだった。

 とっくに部活が終わり、既(すで)に下校していると思っていた私は慌てて顔を逸らした。窓枠に頬杖を突いたまま身体ごと捻(ひね)ってシートに凭れ掛かる。そして左眼を瞑(つぶ)り、あいつから死角になった右眼は窓ガラスに映るあいつを追う。

 窓ガラスの中のあいつは私に気付いて一瞬停まった。そして、ちょっと戸惑(とまど)ってから私の横に来る。近寄るにつれてあいつの臭(にお)いが鼻孔を刺激した。汗臭い少し饐(す)えた臭い。それに天日干(てんぴぼ)しした蒲団(ふとん)の臭いもする。日焼けの太陽の匂(にお)いだ。

(部活臭?)

あいつが横に座った反動の揺れを感じながら、未(いま)だに回答を返していないあいつの質問メールを思い出した。それは、もう答える必要が無くなった質問内容だった。

 --------------------

 兼六園下(けんろくえんした)のバス停から乗った帰りのバスの中に偶々(たまたま)あいつがいた。座席に座ると直ぐにポケットの携帯電話が着信で震える。あいつからのメールだ。

【君もバス通学なのですか? 朝はどのバスに乗るのですか?】

(いきなり質問かよ! 『同じバスに乗ってる』とか、ふつう前置きするだろう)

『捜せば』と打とうとしたけれど、私が捜し出されるのを望んでいるみたいで止めた。だから返信はしなかった。それに私が乗る朝のバスを、あいつは勝手に捜し出すに違いない。

 十日ほど過ぎた朝、二つ目のバス停にあいつがいた。あいつはジッとバスを……、私を見ていて降車口横の最前席に座る私は、逃げ場が無くて動揺してしまう。もろ丸見えなのに顔を背(そむ)けるのは無神経過ぎる。気持ちの動揺を気付かれまいと抑(おさ)えて、私は無表情を装いあいつを見返す。

(とうとう、あいつに見付かってしまった……)

 バスのフロアを歩く足音が近づいて来る。あいつは多くの座席が空席なのに躊躇(とまど)う事も無く真っ直ぐに来て私の横に立った。何か言われるというよりも、何かされるのじゃないかとビビってしまい、反射的に避(さ)けるように頭が傾いでしまう。

(何かされる覚(おぼ)えは有ったっけ? ……無いよね?)

 不安にドックンドックンと胸が強く鳴って、絶対、真横のあいつに聞こえていると思った。

(こっ、こいつ…… なんか怖い!)

 予想に反して、あいつは無言で立っているだけで何もしてこなかった。

(朝の挨拶をしてくれれば、私も挨拶を返すのに……。でも私からはしないよ)

 あいつは見下ろすように頭や髪や後ろ襟(えり)や肩や……、きっと、私の見える限りの部分を隅々(すみずみ)まで観察しているだろう。そうしているだろうと分かっていても、私は、あいつを見返すことができない。

 その日から朝の通学バスに、あいつは乗って来て私の真横に立つ。兼六園下のバス停で私が降車するまでの、毎朝、十二、三分間の私の真横があいつの定位置になった。大好きな私の傍にいて私を守っているつもりでいると思う。それに、余計なモノが私に言い寄ったり付いたりしないように見張っているのだ。

 最初は周りの乗客の視線を気にしての恥ずかしさと、壁の如く横に立つあいつのプレッシャーでどぎまぎしていたけれど、いつも無言で何もせずに立っているだけなのだからシールドかバリアーみたいな物で、いつしか横にいるのが当たり前に感じていた。あいつの視線は感じるけれど、私も見られても良いように身嗜(みだしな)みの手入れとチェックを怠(おこた)らなくなった。

(バスの中で異性から迫られたり不粋(ぶすい)な真似(まね)をされる事は、まず無いと思うけれど、もし言い寄って来る奴がいたら、あいつ以上に強く撥(は)ねつけて、二度と私に近寄れなくしてやる)

 降車で立ち上がった際に私は無感情な目であいつを見ると、少し紅くした無表情な顔で私を見詰めるスケベそうな厭らしいあいつの眼と合ってしまった。

(ちょっとぉ~。なに、その厭らしい目付きは? お願いだから、私に変な事をしないでよ! もう信じられない。さぁ、大好きな女の子の座っていた席が空いたわよ。早く座って私の温もりを感じて身悶(みもだ)えなさい)

 降車後、立ち止まってあいつが私のいた席に座るか見ていた。バスの窓ガラス越しに私を見ているあいつは、ソドムとゴモラを滅(ほろ)ぼす神罰の炎(ほのお)を見て塩の柱にされたように立ったまま動かない。私は雷(いかずち)を浴びせる身勝手な裁定者じゃなくて、タカビーなSの女王様気分であいつを見ていた。

間も無くバスは発車して金沢城の石川橋(いしかわばし)をくぐり広坂(ひろさか)方向へと見えなくなった。バスが見えなくなるまで、あいつは、私の期待に反して温(ぬく)もりの残る座席に座る事はなかった。

 --------------------

 心地良いバラードを聴きながら、ぼんやりと車窓を流れる街の灯りを見ていると、そんな、あいつが初めて私の横に立った時の可笑(おか)しくも安らいだ気持ちを思い出したのと、それに遠出の疲れも加わって揺ら揺らと振れ遠のく意識が眠気を誘い、次第に重くなって行く瞼(まぶた)は、いつしか隣にスケベなあいつが居るのに私を無警戒に眠り込ませてしまう。

 夢を見ていたのを覚えている。夢の中の私は、紅い色の世界で真っ赤な夕陽を見ていた。しかも私は一人じゃない。誰かと手を繋いで夕陽を見ている。誰かの顔が間近に迫り、その唇が私に話し掛けて、私は嬉しそう。言われるまま目を閉じると唇に誰かの唇が触れ、『ああ、キスをされたんだな』と、思ったところで目が覚(さ)めた。

 私が見る夢の中の世界と客観的な私の姿、たぶん相手の誰かから見た私。初めて見たリアルで不思議な夢……。

(うっ、うう……、なっ、なに? 何かが顔に…… 付いた?)

 目覚(めざ)める直前の浅い眠りの中、顔に何か当たった気がした。でも痛くはなくて押し付けられた感じだっだと思い直した。

(ううん、違う。何かが…… 頬(ほほ)に。ううん、頬と、……唇にも触れた!)

 楽しい夢心地の気持ち良い眠りが妨(さまた)げられる。バスの揺れで窓ガラスに触れたのかも知れない。でも、ガラスみたいに硬(かた)いのじゃなくて冷(つめ)たくもなかった……。寧(むし)ろ、夢の中のキスがオーバーラップしたような温もった柔(やわ)らかさの触れた感じが、うっとりと気持ち良くて、まだ目覚めたくないと目を閉じたまま夢現(ゆめうつつ)に思う。

(うーん、目が覚めそう。もっと夢の中にいたい)

 心地良い夢見が虚(うつ)ろな覚醒へ移って行く。

(あうっ! いっ痛(つ)う……)

 背中に鈍(にぶ)い重みの鋭い物が当たった。

(なっ、なにすんのよ! 夢見が良かったし、この半起きが気持ちいいのに)

 いっぺんに目が覚めて、ちょっと気持が悪い。振り向くと立ち上がって降車ブザー押すあいつが私を見ていた。頬の違和感と背中の痛みに睨み返す。口を尖(とが)らせるようにへの字に噛み締め、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、眉(まゆ)を吊り上げて、そして寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)で睨み付けたつもり。

 目頭と眦(まなじり)に力を込めて睨み付けるけど、エネルギーや質量の無い私の眼光は、レーザーの熱量やビームの粒子加速や超振動の波動も伴(とも)わない全(まった)くの無力な眼力でしかない。しかも、あいつは私の睨みに気付いていないみたいだし……。

(あいつに…… 無視された?)

 私の眼力を無視したあいつは、

『降りないのなら置いて行くぞ。降りるのなら付いて来い』と言わんばかりに、『フッ』と薄笑いを浮かべる。

 車窓の向こうに香林坊の街路樹のイルミネーションが見え、バスの減速ブレーキで車体前部の沈みと慣性に引かれるように私は前方の降車口へ急ぐ。あいつに小突(こづ)かれていなかったら危なく寝過ごしていまうところだった。

(ちょっ、ちょっと~。私を置き去(ざ)りにするつもり? ……置いて行かないでよ)

 耳の中に超ノリの良いアップテンポのスィングジャズが、ジャンジャン響いているのに私は起き切れていない。自分の不甲斐(ふがい)無さに唇を噛む私はバックを掴(つか)み直して、あいつの後を追うように急いでバスを降りた。バスを降りたあいつは私を待たずにスタスタと足早に歩いて行く。

(待ちなさいよう……。迷子になっちゃうじゃない。ここからバスで帰ったことが無いのよ)

 香林坊や片町(かたまち)へは偶(まれ)に両親と明るい時間に自家用車(くるま)で買い物に来るくらいで、バスを利用して来たことはなかった。片町から桜橋(さくらばし)の袂へ繋がるリアルでレアな若者の街、ダウンタウンの竪町や新竪町(しんたてまち)へは姉と中学生の頃に何度か来たけれど、いつも放課後で行き帰りは毎回歩きだった。

 乗り継ぐバス停の所在を知らない私は、小走りであいつに追い付いて真後ろを歩いた。

(……なっ、なんか変! この位置関係って、彼氏の後を従順に付いて行く、内気な彼女みたいに見えるじゃない! それか下僕(しもべ)……? しっ、しまったぁ~)

 目の前を進むあいつの背中を見ながら、顔を左右に振り位置関係を否定し悔(く)やむ。とうとう乗り継ぎの中央公園前のバス停まで、あいつに先を歩かれてイニシアチブを取られてしまった。

 後に付いて歩いていると自分の息が臭った気がした。両手を口に翳して吐く息を吸(す)ってみるとラーメンの匂いがする。

(あっ! 金石でラーメン食べたんだっけ。もしかして私の息…… ニンニク臭(くさ)い? 擂り下ろしニンニク味噌と辛味噌を入れたのが、不味(まず)ったかも……) 

 バス停に着くとあいつの後ろ一メートルほど距離を取って風下に立ち、私の息の臭いがあいつの方へ漂わないように気を使う。程無くしてバスが到着すると、乗車順番の先頭にいたあいつが無言で脇に避けて先に私を乗車させ、先にあいつが乗れば離れた席に行こうと考えていた私を少し戸惑わせた。私は誰もが嫌がるニンニクの臭いを意識して、あいつも嫌がらないか心配していたのに……。

(レディーファーストなの? ちょっと嬉しいかも。でも、確かにエチケットだけど、これって古いヨーロッパの貴族達が自分の身を守る為に、危険の察知と盾代(たてが)わり露払(つゆはら)い役を女達にさせる体裁の良い言い方だったのでしょう? いかにも女性に優しくて、大切にしているって感じに思えるけれど、当時の社会地位的に低い無能な女をコントロールする意味も含(ふく)まれていそうだし……。まぁ、いいっか。あいつは微塵(みじん)にも私に露払いをさせようと思っていないだろうから、素直な優しさでしょう)

 乗り継いだ東部車庫行きのバスは僅(わず)かな乗客で空席だらけだった。私は空いていた降車口直前の最前席にいつものように座る。

 あいつは後部に行いって、毎朝のように私の真横には立たなかった。やはり、あいつもニンニクの臭いが厭なのだと思う。でも……、私を先に通しバスに乗せる際に、必要以上に体を避けたり顔を背けたりしていなかったから、私のニンニク臭い息の所為じゃないかも知れない。

(どうして近くに来ないの? 私を守ってくれていたんじゃないの? 夜間の方が酒に飲まれたおっさんや、挙動不振な若いのや、連るまないと何もできない輩達(やからたち)が乗って来るから、いろいろと非情に危険だと思うんですけど。あんた、普通ヘタレでにストーカーっぽいわけ?)

 真横の居るべき場所にあいつが居ない。

(そうよ、あいつは乗車口のステップで、ニンニク臭い私を避けているように見えなかったな)

 見通しの良い横の空間に詰(つ)まらなさを感じながら疑(うたが)いを持つ。

(なぜ、あいつは横に来なかった?)

 中途半端に起こされた疲れて気怠(けだる)い身体を車窓に凭れ掛け、傾けた頭も窓ガラスへ預(あず)けるように着けて、頬杖を装いながら唇を撫でてみる。唇の半分に残る違和感が何かに触れられた気にさせていた。さっきは触れられたと感じた直後に、偶然に触れたかのように目覚め切らない私は背中を押された……。

(たぶん、私はあいつに起こされた……。背中に当たったのはワザとで、乗り換えのバス停が近づいたのを私に知らせたんだ。ああっ、きっとそうだ。……でも、背中は痛かったぞ!)

 起こすにしては優しくなかった。

(あいつらしくない……?)

 香林坊での降車で立ち上がって私を見るあいつを思い出す。あの時も私の眠気眼に映ったあいつは赤味の差した熱っぽい顔をしていた。

(この唇と頬に残る感触も、私の眠りを確認するのに指先で撫でたから…… なのかなぁ? 私が気付いて起きるように……? 指で? ……あいつは私に触れてみたかった?)

 降車口へ向かうバスの中でも、乗り継ぎのバス停への移動でも、私を無視するかのように先を急ぎ歩いたあいつ。降り際と乗り際でのあいつの紅い顔。乗車口のステップに足を掛ける際にも視界に入ったあいつの顔が紅っぽく見えた。でも、それは車内灯の灯りで照らされて紅く見えただけなのかも知れない。

(私を起こしたのは背中の痛み……? 唇と頬に残るこの感じ……? そして今、私に近付こうとしないあいつ? ……変だ)

 本当に、あいつらしくない。

(ん! もしかして、寝ていた私はキスをされたの……? そんなぁ、きっと指か息ね。息! でも、あいつはスケベだ。夕方、私のスカートの中を覗いていた! あいつは私に何をしていた? ……近付いて? 息が掛かるほど近くに…、触れるほど……? ううん、あいつにそんな度胸なんて無いわ。有るはずが無い! 無いと思う……、だけど…)

 このバスに乗る時もあいつの横顔が紅かった。

(然(さ)り気(げ)無くレディーファーストしたくらいで、どうしてそんなに紅くなる? 私が傍にいたから? 毎朝の私の横の立っている時は紅くならないのに……)

 車内灯の白い光りに照らされると紅く映えるのだろうか?

(そう、車内灯は青白い明かりだ!)

 後方の座席にいるあいつを意識しながら、唇の違和感への不審な思いが堂々巡りをしている。

(夢の中でも、キスされていたし……?)

 すっかり夜の帳(とばり)が下りて暗い車窓のガラスに映る自分の唇と頬を見ながら、気持ちが焦り出す。

(もっ、もしかして、ほんとにキスされたかなぁ…….ってことはファーストキス? まっ、まっさかぁ……、あいつがー? えー?) 

 車窓に映る私は、もうキスをされたと思い込みそうになっている。また否定と肯定を繰(く)り返す堂々巡りになりそうで、

(いやいや、あいつはスケベだし……、でもでも夢まで見て熟睡していたから、キスされたかどうかなんて……。だけど、夢も唇もリアルな感じ……?。うーん、わからない。わからないから、まあ……、どうでもいいか。されてないってことにしちゃえ。だって覚えてないもんね。そう、覚えていない……。でも、……夢の中のキスの相手は……)

 唇に残る感じは、まだ記憶に無い未経験のはずのキスみたくて、夢の中のキスだと思っていたのは、本当にされていたのかも知れない。だけど、もういい加減にしよう。

 やっと堂々巡りの思いを強引に纏(まと)めて包(つつ)み込み、記憶の忘却域へ払拭(ふっしょく)した頃合いで携帯電話が不意打ちのように震え、その予期せぬ驚きは弛緩(しかん)させてぼんやりしていた私の全身をビクンと跳(は)ねさせた。

【見に来てくれて、ありがとう】

 あいつからのメールだった。いっしょにバスの中で揺られていて、まだどちらも降車していないのに送信してくるなんて、私が寝過ごさないようにと親切の目覚まし代わりなのだろう。離れた席でも私を見守って送られて来たあいつにの気遣(きづか)いが、ちょっと粘付(ねばつ)くけど嬉しい。

 唇を摩(さす)りながら返信を打つ。

【別に。あんたに会いに行ったんじゃないよ。金石の海を見に行ったんだからね】

 返信は無かった。やがて、あいつが降りるバス停に着いて、バスの最前部に有る降車口からあいつは降りて行った。降りがけに私を見た顔は、悲(かな)しげで寂(さび)しそうだった。

(しょうが無いなぁー)

【ほんとに夕陽が綺麗だった。あんたもイイ顔していたよ。でもスケベだね】

 私は冷酷になりきれない。末尾に軽く皮肉るくらいで、好きでも無いスケベな男の子に誤解し兼(か)ねない優しげな文でフォローしてしまう。他の男子には冷たく酷い言葉を重ねて突き放せられるのに、あいつには何故(なぜ)かできない。たぶん、小学校六年生の私を見ていた、あいつの顔の所為だ。

 家に帰ったら案の定、家族全員、……両親と姉から、

『二メートル以上離れてろ』って、ニンニク臭いと避けられてショックだった。

(そんなぁ……、二メートルって酷い、離れ過ぎじゃん! せめて一メートル半でいいじゃん)

 やっぱり、ニンニクは家族みんなで食べなければいけないと改(あらた)めて思う。無情な家族の反応から、あいつはニンニク臭いのを我慢してくれていたのだと知った。

     *

 翌朝のバスの中でチラッと仰(あお)ぎ見たあいつは、無表情でバスの進行方向を見ていた。その注意深く動く一重瞼の瞳からは、全く気持ちや思いは窺(うかが)い知れない。昨夜(ゆうべ)のニンニクの臭いの感想も……。

(やっぱりアイコンタクトは無理! 普通、喜怒哀楽ぐらいしかわからないわよね)

 バスを降りた後も車窓越しに私を見ているあいつと目が合うけれど、あいつはニコリともしなくて何を考えているのか分からない。

(今度、金石のラーメンをいっしょに食べよっか? そして、ニンニク臭い息を掛け合うのよ)

 その気も無いのに、あいつを乗せて走り去るバスを見送りながら胸の内で呟(つぶや)いてみる。

     *

『どうでもいいや』と、昨日(きのう)は思っていたのに朝、目が覚めても唇は触れられた感じを覚えていた。

 金石へ行った翌朝から洗髪の仕方を変えた。昨夜はいつものようにお風呂で洗っていたけれど、朝に再(ふたた)び入り直した。今までのように洗面所でちゃちゃっと寝癖(ねぐせ)を取るだけの横着なのじゃなくて、ちゃんとバスルームで洗い湯船に浸(つ)かった。

 朝のシャンプーは姉や母と同じように早起きして、早朝にお風呂へ入って今までより念入りに洗髪する。

『朝早く起きるのはキツイから、私は無理よ』と、それまで億劫(おっくう)がって拒(こば)んでいたから姉や母は、『やっと、女に目覚めたかな』と、私がいっしょの朝のお風呂に入るのを喜んでくれた。

(別に、あいつの視線を意識したからのヘアーケアじゃないの。普通に大勢の人と接する女性の身嗜みなんだから。マナーよ!)

 姉といっしょに入って互いに洗うのを手伝う。最初は髪を洗い、いつもより多くいっぱい泡立てる。シャンプーはヘアカラーの色落ちをさせなくて、髪や頭皮の皮脂を傷(いた)めないように油性は使わない。頭皮を軽く揉みながら丁寧に洗ってシャンプーの泡が消えるまでシャワーでしっかり濯(すす)ぐ。次は毛髪の内側からダメージケアしてくれるトリートメントを、適当に馴染ませてから髪をタオルで包(くる)んで湯船に浸かる。それから、コンディショナーでしっかりと髪の毛をコーティングガードして光沢(こうたく)の有るしなやかな髪になると完成だ。

 ふっくらとしたボリュームの髪はサラサラして軽く、櫛通(くしどお)りは滑(なめ)らかで良い気持ちだった。

(さぁ、これで私の髪は、お風呂の匂いね)

 今日から、就寝前はシャワーで体を洗うのと歯磨きだけにする。これで夜にお風呂で湯船に浸かるのは父だけになってしまった。朝食の時に、『お前も朝に入るようになっちまったか……』と、父は一日に二度の湯張(ゆば)りは不経済だと以前からブーブーと嘆(なげ)いていたけれど、その抗議は父への感謝の気持ちを付けて差し戻されてしまった。

『だったら、お父(とう)さんも朝にお風呂に入ればいいじゃん』私が勧(すす)めると、『朝はギリギリまで寝ていたいし、お風呂に入った清潔な体で眠りたいんだ』などと嫌がる父へ、『なら、しょうがないじゃん』姉の父に習慣を変えろと言わないから朝風呂を否定するなのニュアンスに、『あなたの稼(かせ)ぎの御蔭で私達三人が幸せで、とても嬉しいわ』と、母がキメて来た。

(ごめんね、お父さん。髪の手入れは女性の重大事項なの。それに、朝からシャボンの匂いのがする妻や娘の方が、目覚めが良いよね)

 女性の命とも言う髪のケアが相手の三対一じゃ、父に勝ち目は全然無い!

 朝食後の歯磨きも丁寧にして仕上げは、毛先が柔らかくて細く尖った歯ブラシで、歯周トラブル防止の歯磨き粉(こ)を付け、食べ滓(かす)を除きながら歯の付け根と歯茎(はぐき)をマッサージするみたいに磨く。歯間ブラシも上下全(すべ)ての歯の間に通す。これで歯垢(しこう)は落とせるし着かない。そして、歯槽膿漏(しそうのうろう)も予防して口臭も防げる。いつもの三倍は時間を掛けた。

 思春期のお年頃でポツポツと出ているニキビを増やさないように、洗顔も薬用石鹸で三度も洗った。両頬にニキビの白、黒、赤の三種類全部が揃い踏みだから、お肌ケアの最優先対象だ。

(昨夜のお風呂と歯磨きは、いつもと同じ、普通にしたのに…。どうしてこれからは、こんなに身繕(みづくろ)いをちゃんとしなくちゃと思うんだろう? 夢の所為?)

 夢を二つ見た。

 一つ目はキスの夢の続きのような夢で、夜中のトイレで思い返していたから良く憶えている。

 寝直して見た二つ目の夢のステージは朝のバスの中だった。いつものように、車窓に映る真横に立つあいつの姿を私は外を見るフリをして観察している。窓ガラスに映る今日のあいつは、いつもと違い顔を私に向けていなくて、対面の運転席の方へと顔を向けていた。

『運転手に、何か問題でも?』と、チラリと運転手と運転席周りを見ても別に異常な変化は無くて、年配の運転手は職務に専念していた。

(どうして、そっちを向いているのよ? あっ、それは、もしかして……!)

 ピンと来た私は、急いで振り返ってあいつを直視した。

(ああーっ、こっ、こいつぅ……)

 あいつは顎(あご)を上げて私を避けるように顔を逸らし、逸らし顔の上から目線の眼は蔑(さげす)むように私を見ていた。そして鼻腔を広げてヒクつく鼻は辺りの臭いを嗅いでいる。振り返った私と目が合っても、あいつは冷たい視線で私を見据(みす)えたまま、私の臭いを嗅ぐのを止めようとはしない。

(やっ、やめてー。そんなこと、しないでー!)

 私はあいつの失礼さにムカつくのと、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い俯(うつむ)いてしまう。

(いっ、嫌よ! お願いだから…、そんな眼で私を見ないでー)

 あいつの私を見下す視線が耐えられない。

(ちっ、違う! ……わっ、私は、……くっ、臭くないよー!)

 そこで目が覚めた。あまりの夢の悲しさに目覚めの私は、涙目に視界が暈(ぼ)やけ鼻もグズついて、まったくトラウマになりそうな夢だった……。

 だから、今朝からは身嗜みも身繕いも今まで以上に丁寧にする。これからのウィークデーは毎朝髪を真面目(まじめ)に洗い、もっと身嗜みを良くしなければいけないと、神の御告(おつ)げを受けたように、朝起きて直ぐに実行した。

 そして、出掛けにオードトワレをチョンとワンプッシュ。時々しか付けなかった香水を毎日付けるようにしよう。トワレはチェリーブロッサム、私のお気に入りのフレグランス。

     *

(唇に触れられた気がしたから…… ううん。頬に残る感じが嫌だから…… ううん、違う。それともキスをしたいから…… 私?)

 昨夜見た一つ目の夢は、抱(だ)き締められた私がキスをしていた。昨日、金石からのバスの中で見た夢の続きだ。夕陽を見ていた小さな砂丘の上で、夕陽色に映える顔の唇にキスをした。私を抱き締めて、私もしがみ付くように腕を回していた相手は……、あいつだった!

(むう……、選(よ)りに選ってあいつだなんて……。夢って、ずっと気付かずに潜んでいる潜在意識、それとも、無意識のようなディープに抱(かか)え込んでる深層心理、もっと、ずっと軽い表層心理、どれが現(あらわ)れ易いんだろう?)

 黄色の町を手を繋いで歩き路地裏で、またキスをする。キスの相手が納得できず腹立たしいけれど、なぜか夢見が良かった。夜中のトイレに目覚めても、手に、背に、唇に、あいつが触れた感じがリアルに残っていて、また夢の中のあいつと歩いた黄色の町に戻りたいと思ってしまう。また、同じ夢の続きが見れるのだろうか?

 一つ目の夢が昨日からずっと気になっていた。でも放課後にあいつへメールしたのは、夢見が良かっただけのただの気紛(きまぐ)れで、余計な詮索だったかも知れない。無かった事にしようとしたのに私もしつこい。

【バスの中で、起こしてくれてありがとう。……ねぇ、あんた、私にキスした?】

 私は直球で訊く。でもあいつは、まともに答えないと思う。『した、しない』どっちを私は期待しているのだろう。

【していない】

 あいつの部活が終わる頃に、素っ気無い返信が来た。簡単明瞭過ぎる素っ気無さが却(かえ)って怪(あや)しさを臭わせた。

【本当に?】

 私は疑惑(ぎわく)を問う。

【ほんとうに。なぜ、そう思う?】

 逆にあいつが訊いてきて、私は返信するのを止めた。

『頬に……、唇に……、キスされた感じが残っていて、気になるから……』なんて返せる訳ないじゃない。

 それっきりバスの中のキスは忘れる事にした。三日も経つと唇の半分に残っていた感じは薄(うす)れ、やがて消えて無くなった。感覚が薄れるにつれて気にしなくなり、思い出す事も稀(まれ)になって行った。

     *

 夢の続きは時々見て、多少の違いは有るけれど同じパターンの繰り返しだ。夢の中でも私の想いは先へと進めない。夢の後半は決まって、日没後の余光に包まれてセピア色に染まる懐(なつ)かしい感じの町並みで、一人っ切りで寂しげな私は誰かを捜している。通りを抜け、角を曲がり、捜し続けていた。人影の無い通りだらけのセピア色の町は、人の気配を感じて生活臭が有るのに静かで誰にも出逢わない。

 夢の見初めの前半は確かに誰かといっしょにいたのに、誰だったのか全然、思い出せなかった。誰かと手を繋いでいっしょに夕焼け空や紅く染められた海を見ていたはずなのに……。それなのに誰だか分からず見付けることもできなくて、いつの間にか、私が一人ぼっちになってしまう夢だった。その寂しさと切なさに……、そして、焦っていた想いで目覚めると溜め息をついてしまう。

 そんな夢を見ると目覚めの後も本当に手を繋いでいたような感じが、決まって指や掌や腕に残っている気がいつまでもしていた。だけど、金石に行った翌朝のように背中や頬や唇にまでリアルな感触の残る事は滅多(めった)に無くて、はっきりと『誰』かが、あいつだと分かるキスをしていたシーンを見る事は全然無くなってしまった。

(いったい私は、夢と現実に何を求めているんだろう……?)

『あいつを気にしているのは確かだけど、キスをする夢を見るくらいに、好きになって来ているのだろうか?』と思う自分を否定したかった。でも、本当は否定したいなんて嘘……。私の気持ちがあいつと寄り添いたがっているのは解(わか)っている。それでも、それが、あいつを好きになって来ている所為だなんて、まだ、私は素直に認めたくない……。

 

 ---つづく