遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

金石の海 (私 高校一年生) 桜の匂い 第五章 弐

 大きな赤い太陽と、金波銀波(きんぱぎんぱ)に煌(きら)めく波が美しい。
 この、感動する綺麗(きれい)な景色を見る為(ため)に、バスを乗り継(つ)いで、市内を流れる犀川(さいがわ)が日本海へ注(そそ)ぐ河口に在る、金石(かないわ)の町へ遣(や)って来た。
 古くは、砂丘の上に鎮座していた神社……、お宮さんの麓(ふもと)のに在る集落だから、宮腰(みやこし)と呼ばれ、北前船の海商で栄えた古(いにしえ)からの港町だ。
 神社の祭神は、天照(あまてらす)と猿田彦(さるたひこ)で、金沢市(かなざわし)の旧市街地よりも、ずっと、歴史が有る町らしい。
 あいつのメールに有った、この場所へ来る為にインターネットで調べたら、町名の由来に、そう書かれていた。
 私の御里(おさと)の明千寺(みょうせんじ)が在る、トヤン高原の名もそうだけど、何か古代のロマンを感じてしまう。
 私は、金石の町の迷路のように入り組んだ路地を抜(ぬ)けて、草が生(お)い茂(しげ)る土手みたいな砂丘の上に立ち、透明な朱色に輝く、水平線に見蕩(みと)れていた。
 何処(どこ)か違う世界へのゲートのように幻想的で、水平線の向こうが透(す)けて見えそうな色彩の誘惑へ、私は引き込まれてしまう。
 私の育った、能登(のと)半島内浦に在る諸橋(もろはし)の浜からは西方の水平線が見えない。
 夕陽は能登の低い山並みの向こうへ落ちて行き、その急速に伸びる山並みの影に、辺りは宵闇(よいやみ)が覆(おお)われて行く。、
 ググゥーっと伸びて迫(せま)って来る暗い山影に、外で遊んでいたりすると、急いで切り上げたり、片付(かたづ)けたりして速(すみ)やかに家に帰っていた。
 水平線の彼方(かなた)へ綺麗に沈んで行く、夕陽を見るのは初めてで、その美しい日没の様(さま)に私は、すっかり魅了(みりょう)されてしまった。
     *
 手前の道路の遥(はる)か向こう、埋立地を隔(へだ)てた遠くの砂浜に、あいつがいた。
 遠くて良く分からないけど、たぶん、一番後ろを付いて行くのが、あいつだ。
 部活の人達といっしょに、ランニングや筋肉トレーニングをしている。
 先週の初めに、あいつから長いメールが届いていた。
【週の前半の三日間は、天候が良ければ、学校から金石までランニングです。金石の砂浜で、トレーニングのメニューを四、五回繰り返します。それからまた、ランニングをして大野(おおの)新橋の袂(たもと)を曲がり、学校へ戻ります。このトレーニングで、体格と筋力を造っています。雨降りや寒い日は、校舎内で同じように、ランニングとトレーニングメニューをします。夕陽を受けて、日本海の金波銀波に輝く波頭(なみがしら)が綺麗です。水平線に落ちて行く真っ赤(まっか)な太陽と、金色(こんじき)に棚引(たなび)く雲は、本当に綺麗です。トレーニングは辛(つら)くて、走り出す直前まで、気持ちがナーバスですが、その夕陽の海を見ると、辛いことを忘れてしまいます。きっと僕は、この景色が見たくて走っているのかも知れません。暇(ひま)が有っても、無くても、一度、金石の砂丘の上から、夕焼けの海を見て下さい】
 その金石の砂丘は、草やニセアカシヤや松の木が生い茂り、ちっとも、それらしくないけれど、金石から大野の河口まで続いて、金沢市指定の風致地区になっている。
 私は今、金石の住宅地の外(はず)れに在る、海の方へ小さく飛び出した砂丘の上に立っている。
 砂浜でのトレーニングを終え、彼らは堤防から目の前の道路に出て来て、大野の方へ駆(か)け抜けて行く。
 一人一人、みんなが、私を見て行く。
 既に、一番後ろのあいつは、私に気付いていたみたいで、ずっと、こっちを見ながら走って来た。
 真下の海岸道路に出た所で、躓(つまづ)いたみたいによろめいたけれど、両手を広げてバランスを取り、転(ころ)ぶのを上手(うま)く防いで立ち止まった。そして、その姿勢のまま、あいつは私を見上げて来た。
 私の瞳は、あいつを捉(とら)え続けていて、見下ろすように見詰(みつ)め合ってしまう。
 あいつは、息が上がって辛そうだけど、『充実していて、けっこう楽しいぞ』と言いたげな気持ちが、表情から溢(あふ)れている。
 不意に、あいつの私を見ていた視線が下がり、そして、ゆっくりと上がって来た。
 私の爪先(つまさき)から足首、脹脛(ふくらはぎ)、膝小僧(ひざこぞう)、そして、腿(もも)へと、視線はじっとりと、絡(から)み付きながら上(のぼ)って来る。
 あいつの視線の動きは、部位に移る度(たび)に遅(おそ)くなり、視線がレーザーポインターの赤や緑の光線で照射するように、私の足の各部位を指し示して行く。
 あいつに、探(さぐ)られるように観察されているのを感じて、背筋(せすじ)がズクゾクと震(ふる)えた。
(なっ、何こいつ! 気持ちワルー)
 ポインターの動きは太腿(ふともも)辺(あた)りで、更(さら)に遅くなり、そして止まった。
 あいつは堂々と、私のスカートの中を覗(のぞ)いている。
(ちょっ、ちょっとぉ~。露骨に、どこ見てんのよ! もう、信じられない)
 下校時は、大きな桜の木が立ち並ぶ遅刻坂を降りて学校の敷地から出てしまうと、裏路地の家影で制服のスカートのウエストを、二、三回、折(お)り返して、ミニスカートのようにする。
 制服のスカートはボックスタイプのプリーツで、風に捲(まく)れ上がる事が少ないけれど、ミニスカっぽくすると下着が見え易(やす)くなるから、ワザと見せパンツを穿(は)く。
 ショーツはブラジャーとコーディネートで、アダルトテーマのシックな柄物(がらもの)か、ダークな単色で揃(そろ)えている。
 妖艶(ようえん)で扇情的な感じの下着ほど、けっこう楽しくてストレス解消になると、姉の友達から手解(てほど)きを受けた。もう、中学生の時のような白色や明るいピンク系は着(つ)けないし、フリルやレースも好きじゃない。
 シンプルなデザインのカラーは、サテンブラックにミッドナイトブルー、チャコールグレーやショコラブラウンのアダルト系、それに、テカテカのメタリックスチールやガンメタルの戦闘的なイメージで、あいつが放つ強力なプレッシャーパワーに対して、強靭で敏捷な激しい戦いができるみたいな、そんな厨二病的な気分に私を浸らせた、その秘密めいたアンダーファッションは、本当に不思議(ふしぎ)とストレス解消をしてくれていた。
(今日はサテンブラックよ。それに、ティーバックじゃなくてスタンダートだから、普通に厭らしくないよ)
 ハァハァと息をする口が、更に大きく開いて、あいつは締(し)まりの無い厭(いや)らしくてバカみたいな顔になって、その日焼けした顔が、紅(あか)く高揚(こうよう)していくのが分かる。
 私のスカートの中を注視していたアホ顔の目が、ハッと上目(うわめ)になって、両手を腰(こし)に宛(あ)てる仁王立ちで睨(にら)む、私の目と合った。
 ストレス解消になる欲情的な下着は、見られても構(かま)わないと思っているから、別にチラ見されるくらいは平気だけど、流石(さすが)にジロジロと注視されるのは恥ずかしい。それでも、敢(あ)えて、スカートの裾(すそ)を押さえたりして恥じらうようなマネはせずに、ワザと堂々とした横柄なポーズで、あいつに見せ付けて遣る。
(何だか、気分がいい)
 一瞬、そのまま、あいつは固(かた)まった。
 直(す)ぐに、私を見上げた上目の瞳が揺(ゆ)れ迷い、視線を逸(そ)らすタイミングを探る。
 赤ら顔のあいつの股間がそれなりに張らんで、姉から教えられた男子の性的興奮現象だと察(さっ)した。
 気分転換とストレス解消の下着は、確(たし)かに情欲をそそる効果が有った。
(凄(すご)いよ、お姉(ねえ)ちゃん! 本当に煽情的だよ。効果バッチシだわ ……って……、あっ、ああっ)
 しまった! 憤(いきどお)る気持ちが暴走している。
 あいつに見せ付けて遣る為の、下着じゃない!
(ううん、ちゃうちゃう! あいつに効果が有ったのを、喜(よろこ)んでどうすんのよ。ううっ、ちょっとぉ~私、バカじゃん!)
 秘密めいた下着を着ける目的が、何かズレて来ているけど、これも、楽しいストレス解消になりそう。
(このぉ、スケベ野郎!)
 私は、あいつを睨み付けたまま、声を出さずにゆっくりと、唇だけを動かす。
『バーカ』
 私の口の動きを読んだあいつは、バカみたいなセーフポーズのまま、逃げるタイミングを失って動けない。
「おーい、早く来―い!」
 部活の仲間が、大声であいつを呼んだ。
 視界を声の方へ移すと、二、三十メートル先で部活の仲間達が立ち止って、全員でこっちを見ていた。
「なにしてんだよぉ! 知らない女子にぃ、見蕩れてんじゃねーよぉ!」
(そりゃ、あいつは、見蕩れるでしょう。告(こく)った相手の、可愛(かわい)い女の子がメールを読んで、ここに来てるんだから、驚(おどろ)いて見詰めてしまうのは当然でしょう)
「もしかしてぇ、おまえの知り合いかぁ?」
(確かに、そいつとは知り合いです。でも、メル友だよ)
 あいつは、無反応を装(よそお)っている。
「やっぱぁ、知った女子じゃねぇだろう。スカートの中ぁ、覗いていたしなぁ? スケベな奴だなぁ~。しっかりぃ、見たかぁ。おまえのぉ、あそこもぉ、デカくしてるしなぁー」
 私の思っている事を、仲間達が、そのまま大声で言った。
 あいつは、彼らに向き直(なお)り、両手を下(お)ろして足のスタンスを変える。
 私の下着を見て紅潮したあいつの顔が、傾(かたむ)く西陽に照らされて、更に、赤く見えた。そして、仲間達の、図星の大きな囃(はや)し声で、見る見る耳の後ろや首まで真っ赤になり、慌(あわ)てて走って行く。
 そんなあいつの姿が、ちょっとコメディアンぽくって、少し口許(くちもと)が笑ってしまった。
 待ってくれていた部員達と合流したあいつは、みんなと大野方面へ走り去って行き、やがて見えなくなった。
 あいつのメールに書かれていた大野新橋を渡って行かずに、袂を曲がって大野の川沿いへと向かってしまったのだろう。
(金沢港の在る大野の町へも、まだ、行った事がないなぁ~)
 あいつの部活で走るコースに興味が湧(わ)いたけれど、斜陽を受けて濃いピンクに映(は)える遠くの灯台と橋を見て、気持ちが失せた。
(今から、あそこまで、歩いて行くのは、絶対に無理!)
 遠くの浜から走って来て、それから、私の真下で暫し停まっただけで、ずうっと向こうへ休みもせずに走り続けて見えなくなったあいつを、素直(すなお)に凄いと思う。
     *
 太陽が、あと五つ分くらいの傾きで、夕陽は水平線に沈もうとする頃になって、やっと私は、家路へ向かう気になった。
 今なら、辺(あた)りが明るい内に帰宅できると思う。でも、あいつが、私に見て欲(ほ)しいサンセット色は、これからだ。
 あと三十分も経(た)てば、真紅の太陽の下端が水平線に触(ふ)れて始まる、落日の大スペクタクルが観れる。だけど、このまま帰ってしまうと、私のスカートの中を覗き見て逃走する、あいつのヘタレ具合(ぐあい)を見学しに来ただけになってしまう。
 暗くなる前に帰宅しようか、このままサンセットを見続けようか、迷う私は一旦、下の広見(ひろみ)まで降りて、その場、その時の気分に任(まか)せる事にした。
 取り敢えず、心配させないように母へ電話だ。
「あっ、お母(かあ)さん。今、まだ学校。部活を見学してるの。……うん、まだ帰れないから。……うん、うん。あまり、遅くならないようにする」
 夕陽を見に金石まで来ているとは言えず、私の帰りを心配する母に嘘(うそ)を吐(つ)いた。
 連(つ)るむ友達はいなくて、学校のどの部活へも入るつもりは無いのに、まだ、学校にいると言ってしまった。
(どうか、事件に巻き込まれず、事故に遭(あ)わず、迷いもせずに、無事に家へ帰れますように)
 正直に、一人で夕焼けを見ていると言えば、絶対に方向違いの詮索をされてしまう。
 もっと正直に、あいつに言われて、夕陽を見に金石まで来ているなんて言ったら、きっと、『あいつって誰(だれ)よ』とか、『あの、あなたを好きだって言った、男の子なの』なんて、男女交際を絡めたツッコミが入って、恥ずかしい思いをするに決まっている。だから言いたくない。
(それに、まだ、あいつしか…… 見ていなくて、夕陽を見てないし……)
     *
 嘘は、姉にも吐いている。
 ローマのスペイン広場近くの雑貨屋で、持ち金が足(た)りなくて買えなかったレター挿(さ)しは、『あれーっ! それ、どうしたの? それってぇ……、確かスペイン広場の店で、買うのを諦(あきら)めたのと同じじゃないの?』って、あいつから贈(おく)られた日に、早々(はやばや)と姉が見付けてしまった。
 中学二年生の後期の終業式の日、学校の机の中から持ち帰り、自室の机の上に飾(かざ)って眺(なが)めていると、ショッピングを誘(さそ)いに来た姉が、レター挿しを見て、入手経緯を訊(き)いてきた。
『竪町(たてまち)の雑貨屋に、同じのが有ったんだよ。ほら、お姉ちゃんが連れて行ってくれた、通りの中程、里見町(さとみちょう)への小路の近くに在る店よ。お姉ちゃんと行くと、よく入る、あの店……』、とっさに嘘を言った。
 あいつから貰(もら)ったなんて、言えなかった。
 説明も面倒臭(めんどうくさ)いし、因果(いんが)を感じて、『赤い糸が、見えるみたいね』なんて言われたら堪(たま)ったもんじゃない。
 あれから一年以上も経ち、金沢市内のいろんな店に入って探してみるけれど、嘘は本当の事で償(つぐな)われていない。
 レター挿しといっしょに、あいつから贈られたコモシルクのスカーフは、ランドリーから仕上がったパッケージのまま、防虫剤と共に机の引き出しの奥深くに仕舞われている。
 初詣(はつもうで)に首に巻いて出掛けたら、『やっぱり、似合(にあ)ってるね。温(あたた)かそうだよ』と、自分が選んで私へプレゼントしてくれたのと色違いなのに、いっしょに御参りに行った、お姉ちゃんは気付いていなかった。
 家族みんなからプレゼントされた、その、お姉ちゃんが選んでくれたスカーフは、ファンシーケースのハンガーに掛けられて時々、姉にも使われている。
     *
 砂丘を降り、嘘の言い訳に感(かま)けて母と電話しながら住宅地を歩いていると、いつの間にか、小さな広見に在る神社まで来ていた。
 鳥居に掲(かか)げられている額束(がくづか)の社名(やしろめい)は『西(にし)の宮(みや)』、鳥居脇の神社名を記した石柱には、『西之宮社(にしのみやしゃ)』とあり、私的には、『の』の方が親しみ易い感じがする。
「御飯……、うーん。たぶん、みんなと何か食べると思うから、心配しなくていいから。……うん、わかってる。気を付けて帰るよ。じゃあ、電話切るからね」
 私は西の宮神社の境内(けいだい)を囲(かこ)む石柵脇に有る欅(けやき)の木の袂のベンチに腰掛けて、其処で、母への嘘吐き電話を切った。
「ふーっ、どうしょっかなぁ」
(低い砂丘だけど戻(もど)るのは面倒だし……。それに、ヘタレなあいつだけじゃなくて、西日に照らされた綺麗な海も見れたしね。まあ、もういいかな)
 ベンチにダルく凭(もた)れ掛かり、溜(た)め息を吐きながら母に言った通り、家へ帰ろうかと思う。
 断(ことわ)った晩御飯は、バスを降りる錦町(にしきまち)の停留場近くに在る中華料理屋で食べれば良い。
「さぁて、帰ろう…… かな……」
(ん?)
 伸(の)びをするように立ち上がり、金石のバス停へと向う小路に顔を向けた私の眼に、不思議な光景が飛び込んで来た。
(あれは何(なん)なの? 何か、飛んでる……?)
 それは、小路に差し込む夕方の陽差しの中で、キラキラと無数に舞い飛んでいた。
 その小さな銀色の輝き達は、甲虫のようでもあり、ゆっくりと舞い上がり漂う様は、タンポポの白い羽毛(はねげ)のようにも見えた。
 揺ら揺らと漂う光の正体を確かめたくて、小路に近付きながら、私はじぃっと眼を凝(こ)らして行く。
(風に漂う得体の知れない微生物? じゃないよね。風、吹いて無いし。でも、そうだったら刺(さ)されたりして、凄く痛いかも……)
 それは、近くへ行くと、虫でも種子でもなくて、毒を持つ生物か、身体(からだ)に良くない有害物質の揮発かもと思う生存心理の警告も、正体を見たい好奇心には勝てず、直ぐ傍(そば)まで駆け寄った私は掴むように振り回す手に、しっかりと幾(いく)つかのキラキラを捕(つか)まえた。
「えっ、あれっえー?」
 捕まえた光の正体を確かめようと、そっと手を開いて見るけれど、キラキラは一つも無くて、手に何かを捕まえていた跡(あと)や感触は無かった。それでも、確かに幾つかのキラキラを捕まえたはずだと思えて、覗き込みながら光に翳(かざ)す掌(てのひら)の向きを変えてみる。
 すると、掌にチカチカと小さく光の瞬(またた)きが見え、私は、何が光るのか更に眼を凝らして見ようと努力するけれど、何も見付ける事ができない。それでも、瞬く反射の具合からきっと、それは掌の汗の水分や塩分の結晶じゃなくて、何か微小な埃(ほこり)や塵(ちり)のような気がした。
(もしかして、フェアリーテールなの?)
 辺りを見回すと私の周りの路地は、夕凪(ゆうなぎ)で留(とど)まった大気の、そこら中に埃や塵が漂いながら夕陽に照らされてキラキラと銀色や金色に光り、まるで、別の世界の金石の町が重(かさ)なる不思議な異空間に迷い込んでいるみたいに見えた。
 夕陽に照らされた通りは、冷(ひ)えて行く大気と温められていた路面の温度差で生(しょう)じた気流が、ゆっくりと眼に見えないくらいの小さな塵や極軽(ごくかる)い埃を浮き上げて、あちらこちらの長く伸びる影の中に、キラキラと舞うように漂わせていると思う。
 もっと良く、不思議な光景を確かめたくて、小路から近くの十字路まで行ってみた。
 左右に交差する影になった通りは、向こうの陽が差し込んでいる交差点にキラリ、キラリと多くの黄色い光りが舞い、そして、西日の差す前後の通りは、先の方までキラキラして、町全体が異次元の金石の町との重なりで、金色や銀色の光の粒に分解して行くみたいに錯覚してしまう。
 一斉(いっせい)に舞い上がって行く、金色の光の粒……。
(初めて…… 見た、不思議な光景……。異世界の町……。あっ!)
 さっき見付けた時には、光りが白っぽい銀色だけだったのに、今は、赤味を帯(お)びた金色ばかりに見える。
 空を見てから陽が当たる家を見て、深く青い空の色と、随分(ずいぶん)と紅く照らされた家の白壁に、私は直に陽が沈むのを悟った。
(まだ、間に合う!)
 世界の美しい様を、もっと見たいと思う私は、さっきまでいた小さな砂丘を目指して駆け出した。
 世界から明るさが少しづつ陰(かげ)って行くのを感じながら、戻り着いた砂丘の上で見た夕陽は、下の縁が水平線に触れる寸前だった。
     *
 太陽に触れそうな辺りの海の縁が、ヌラリと朱(あけ)に輝き、鋭(するど)い光りと熱を失(うしな)った紅球は、二、三回の瞬(まばた)きの間に、朱色の溶けるような光沢の水平線へ繋(つな)がって行く。
 沈む深紅の太陽が、水平線の縁へヌメヌメと融けて広がって行くみたいだ。
 湧き立つ雲の壁に遮(さえぎ)られたり、水平線の彼方から押し寄せる雲や低く広がる靄(もや)で途切れたりせずに、はっきりと水平線へ融けるように沈む、真円の美しい夕陽を見るのは初めてだった。
 熱の均衡が失われて、風が私の背後から吹き寄せた。
 後ろ髪を梳(す)かして、項(うなじ)を擽(くすぐ)る風に私はコモ湖の風を思い出す。でも、あの時の春一番のような掻(か)き回す疾風(はやて)じゃなくて、優(やさ)しく髪を撫(な)でる気持ちの良い海へと吹く微風(そよかぜ)だ。
 この穏(おだ)やかな風によって、路地で舞う不思議な煌(きらめ)き達も吹き払わてしまったかも知れない。
(……キラキラが消える瞬間も、見たかったな)
 放つ火花を失って紙縒(こよ)りの先から落ちる寸前の線香花火の溶融玉みたいな太陽が、徐々に水平線の彼方へ沈んで行き、さっきまでの金波銀波のサンセットロードは海上全面の紅色に変わった。
 一段と赤味を増した夕陽が波をテラテラと紅く光らせ、暗くなり始めた世界に美しく添えるアクセントように波頭を鮮(あざ)やな紅色に煌かす。
 雲一つ無い世界の果(は)てへ太陽が融けるように隠(かく)れて行き、刻一刻(こくいっこく)と変わる世界の色は、『速く明日(あした)へ行こう』と誘っているみたいだ。
(綺麗……、なんて美しいの……)
 太陽の残りが少なくなるに連れて、加速され、少しも止まってくれない変化する色の美しさに、私は感動して見蕩れていた。
(あいつは、この色を、私に見せたかったんだ!)
 真っ赤な太陽が水平線の向こう側に去った直後の世界の縁は、今日を名残(なごり)惜(お)しむように透明な朱色に彩(いろど)られて、その、揺ら揺らと光る縁は別の世界に繋がるゲートのよう思えてしまう。
 日没を見届けて、私は金石の町へと砂丘を駆け降りた。
(急(いそ)がないと、家に帰るのが遅くなっちゃう。まだ、明るい内にバス停に着かなくっちゃ)
 砂丘に上がる前に通った金石の町は想像していたよりも広くて、港町の入り組んだ小路が海の方角を見失いそうにさせた。
 バス停から砂丘までは思ったより距離が有って、暗くなれば迷子になりそうだから要注意だ。
 トワイライトタイム! 黄昏時(たそがれどき)……。
 日没後の残光の中、町の大気が影の無いセピア色に染(そ)まり黒ずんで行く。
 それは、異質な終焉(しゅうえん)の予感に心細くなってしまう黄色い暗闇だ。
 減り続ける光量で暗くなって行く世界の様に、孤独な憂(うれ)いと切(せつ)ない哀愁(あいしゅう)が、さわさわと私の心を惑(まど)わせさせる。
 初めて来た金石の町は、不思議な感じがした。
 幾つもの通りの彼方、曲がり角の向こう、狭い路地の先が夕暮(ゆうぐ)れに薄暗く霞み、まるで、違う世界の違う時間の中の金石の町を彷徨(さまよ)い歩いているみたいだ。
 初めて体験する、異世界に迷い込んだような錯覚が楽しい。
 バス停に急いでいたのも、すっかり忘れて歩き廻っていたら、いつの間にか辺りは、とっくに暗くなっていて、今は、得体の知れない何かが、其処此処(そこここ)の影の中に潜(ひそ)んでいそうで怖(こわ)い。
 金石の町は、市街地の白金町(しらがねちょう)から直線に伸びる街道の果てに在る河口の漁港町。
 明るい昼間は、何処にでも在りそうな気にも留(と)めない普通に潮臭(うしおくさ)い町なのに、夕焼けに染まる家並みは、光子に分解する不思議な異次元の町の様。
 夕暮れの黄昏時の街路は、何処かで開く狭間(はざま)に異世界から何か得体の知れないモノが、ぞろぞろと行来(ゆきき)していそうな気がする。
 家々から夕餉(ゆうげ)の支度をする人の気配がするのに、人気(ひとけ)の無い狭い通りの絡みは、無事にバス停へ辿(たど)り着けるか不安にさせた。
 迷路のような町の通りを彷徨っていたら、すっかり御腹(おなか)が空(す)いて、明るい内の帰宅するのは諦めてしまい、途中で見付けた中華ソバ屋でラーメンと餃子(ぎょうざ)を平(たい)らげてしまった。
 ……初めて食べる、ドロッとしたスープの、超こってりラーメン。
 刻(きざ)み葱(ねぎ)をたっぷりトッピングして、卓上に置かれていたピリピリな風味を付ける辛味噌(からみそ)と、疲れ取りにニンニク味噌を入れてみる。
 初めてだから、見た目は異様に映(うつ)るけれど、嗅(か)いでみた香りは美味(おい)しそうに思えた。
 細い麺に、卓上の調味料と刻み葱を加えたドロドロスープを良く絡ませて、恐(おそ)る恐る口に運ぶ。
(美味しー。この味って、私好(ごの)みじゃん! グッジョブだよ!)
 水を飲まず、スープは残さずに飲み干して、無言で一気に完食した。
 会計の際に、バス停を教えて貰いながら、『御馳走様(ごちそうさま)でした。初めて食べました。美味しかったです』と、店員さんに御礼を言ったら、本店は京都(きょうと)に在って関西(かんさい)じゃ有名だと教えてくれた。
 何かの用で京都へ行く機会が有れば、絶対に本店で食べてみたい気持ちになったけれど、この店には、あいつのトレーニングを見なくても、夕陽の海を見て、夕暮れの不思議な町を歩き、そして、美味しいラーメンを、また食べに来ようと思う。
 親切な店員さんに教えて貰った金石のバス停は直ぐ近くで、丁度、バス停に待機時間で停車していた金石が始発のバスに乗り込んだ。
 この路線のバスは錦町の家へ帰る為に、乗り換えが必要だ。
 金石から湯涌(ゆわく)温泉や東部車庫行きの直通バスは無くて、香林坊(こうりんぼう)のバス停で降りて中央公園前から乗り継がねばならない。
 その香林坊は、ずっと先のバス停だ。
 どうせ、この時間帯の乗客は少なくて、香林坊までに大半は降りてしまうだろうと判断して、最後尾席の窓側に座った。
 座席に座ると、丸めて絡んだラバーコーティングのコードを解(ほど)きながら、携帯電話のオーディオ端子にピンジャックを挿し込み、それから耳にイヤホンを付けて、お気に入りの中学生の頃から嵌(は)まっているフレンチオールディーズを聴く。
 私は、楽曲をパソコンのアプリやネットサービスから携帯電話へダウンロードしている。
 私のミュージック機能に優(すぐ)れた携帯電話は、殆(ほとん)どプレーヤーとして使っていた。
 電話の通話と、メールの送受信の履歴は家族ばかりだ……。
(ん! いや、メールは、あいつが一番多かったっけ)
 暫くして乗降のドアが閉(し)まり、軽くクラクションを響(ひび)かせてバスは出発した。
 私は、窓際にスクールバッグを置いて膝(ひざ)を組む。
 車窓に凭れ掛かるように頬杖を突き、窓ガラスの向こうに流れる灯(あか)りを見ながら、沈みゆく真っ赤な太陽に鬩(せめ)ぎ合う宵闇が美しいサンセットの空と、トワイライトカラーに染まる町、そして、私を見上げて固まるあいつを思い出す。
(ふふっ)
 とても新鮮な気持ちで満たされて嬉(うれ)しい私は、一人、微笑(ほほえ)んでしまう。
(今日、此処(ここ)へ来て……、あいつに会えた事も含めて……、本当に良かった)
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 バス停を二つほど過ぎた辺りから、イヤホンから聴こえる曲がノリの良いシャンソンスタンダードから、スローなバラードに変わった。
 短いバラードが二曲続いた後は、スィングなディスコ調ばかりだった。
 遠くの初めての場所へ来て浜風に吹かれ、見知らぬ町を当ても無く歩き廻った所為(せい)で疲れたのと、御腹も満たされた今は、ジャズバラードの優しい調べで少し眠りたい。
 武蔵(むさし)が辻(つじ)を過ぎる頃には、四曲目から始まるアップテンポのスィングなノリで起こされるはずと考えていた。更に幾つかのバス停を過ぎてとろんとした頃、あいつの通う工業高校近くのバス停に着いて、乗車口のドアが開いた。
 開いた乗車口からドタドタと勢(いきお)い良く先頭で乗り込んで来たのは、あいつだった。
 とっくに部活が終わり、既(すで)に下校していると思っていた私は、慌てて顔を逸らす。
 窓枠に頬杖を突いたまま、身体ごと捻(ひね)ってシートに凭れ掛かる。そして、左眼を瞑(つぶ)り、あいつから死角になった右眼は、窓ガラスに映るあいつを追う。
 窓ガラスの中のあいつは、私に気付いて一瞬停まった。そして、ちょっとだけ戸惑(とまど)いながらも私の横に来る。
 近寄るにつれて、あいつの臭(にお)いが鼻孔を刺激した。
 汗臭い少し饐(す)えた臭い。それに天日干(てんぴぼ)しした蒲団(ふとん)の臭いもする。
 日焼けした肌の太陽の匂(にお)いだ。
(部活臭?)
 あいつが横に座った反動の揺れを感じながら、未(いま)だに回答を返していなかった、あいつの質問メールを思い出した。でもそれは、もう答える必要が無くなった質問内容だった。
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 兼六園下(けんろくえんした)のバス停から乗った帰りのバスの中に、偶々(たまたま)あいつがいた。
 座席に座ると直ぐに、ポケットの携帯電話が着信で震える。
 あいつからのメールだ。
【君も、バス通学なのですか? 朝は、どのバスに乗るのですか?】
(いきなり、質問かよ! 『同じバスに乗ってる』とか、ふつう、前置きするだろう)
 『捜せば』と、打とうとしたけれど、私が捜し出されるのを望んでいるみたいで止めた。だから、返信はしなかった。それに、私が乗る朝のバスを、あいつは勝手に捜し出すに違いない。
 十日ほど過ぎた朝、二つ目のバス停に、あいつがいた。
 あいつは、ジッとバスを……、私を見ていて、降車口横の最前席に座る私は、逃げ場が無くて動揺してしまう。
 もろ丸見えなのに、顔を背(そむ)けるのは無神経過ぎる。
 気持ちの動揺を気付かれまいと抑(おさ)えて、私は無表情を装い、あいつを見返す。
(とうとう、あいつに見付かってしまった……)
 バスのフロアを歩く足音が近づいて来る。
 あいつは多くの座席が空席なのに、躊躇(とまど)う事も無く、真っ直ぐに来て私の横に立った。
 何か言われるというよりも、何かされるのじゃないかとビビってしまい、反射的に避(さ)けるように頭が傾いでしまう。
(何かされる覚(おぼ)えは、有ったっけ? ……無いよね?)
 不安にドックンドックンと胸が強く鳴って、絶対、真横のあいつにも聞こえていると思った。
(こっ、こいつ…… なんか怖い!)
 予想に反して、あいつは無言で立っているだけで、何もしてこなかった。
(朝の挨拶をしてくれれば、私も、挨拶を返すのに……。でも、私からはしないよ)
 あいつは見下ろすように頭や髪や後ろ襟(えり)や肩や……、きっと、私の見える限りの部分を隅々(すみずみ)まで観察しているだろう。
 そうしているだろうと分かっていても、私は、あいつを見返す事ができない。
 その日から朝の通学バスに、あいつは必ず乗って来て私の真横に立つ。
 兼六園下のバス停で私が降車するまでの、毎朝、十二、三分間の私の真横が、あいつの定位置になった。
 大好きな私の傍にいて、あいつは私を守っているつもりでいると思う。それに、余計なモノが私に言い寄ったり、付いたりしないように見張っているのだ。
 最初は、周りの乗客の視線を気にしての恥ずかしさと、壁の如く横に立つあいつのプレッシャーでどぎまぎしていたけれど、いつも無言で何もせずに立っているだけなのだから、シールドかバリアーみたいな壁物として、いつしか横にいるのが当たり前に感じていた。
 あいつの視線は感じるけれど、私も見られても良いように、身嗜(みだしな)みの手入れとチェックを怠(おこた)らなくなった。
(バスの中で異性から迫られたり、不粋(ぶすい)な真似(まね)をされる事は、まず無いと思うけれど、もし、言い寄って来る奴がいたら、あいつ以上に強く撥(は)ねつけて、二度と、私に近寄れなくしてやる!)
 降車で立ち上がった際に私は、無感情な目であいつを見ると、少し紅くした無表情なスケベそうな厭らしい顔で私を見詰める、あいつの眼と合ってしまった。
(ちょっとぉ~。なに、その厭らしい目付きは? お願いだから、私に変な事をしないでよ! もう信じられない。さぁ、大好きな女の子の座っていた席が、空いたわよ。早く座って、私の温もりを感じて身悶(みもだ)えなさい)
 降車後、立ち止まって、あいつが私のいた席に座るか見ていた。
 バスの窓ガラス越しに私を見ているあいつは、ソドムとゴモラを滅(ほろ)ぼす神罰の炎(ほのお)を見て、塩の柱にされたように立ったまま動かない。
 私は雷(いかずち)を浴びせる身勝手な裁定者じゃなくて、タカビーなSの女王様気分であいつを見ていた。
 間も無くバスは発車して金沢城の百間堀(ひゃくけんぼり)に掛かる石川橋(いしかわばし)を潜(くぐ)り、広坂(ひろさか)方向へと見えなくなった。
 バスが見えなくなるまで、あいつは私の期待に反して、温(ぬく)もりの残る座席へ座る事はなかった。
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 心地良いバラードを聴きながら、ぼんやり、車窓を流れる街の灯りを見ていると、そんな、あいつが初めて私の横に立った時の、可笑(おか)しくも、安らいだ気持ちになったのを思い出したのと、それに、遠出の疲れも加わって、揺ら揺らと振れ遠のく意識が眠気を誘い、次第に重くなって行く瞼(まぶた)は、いつしか、隣にスケベなあいつが居るのに、私を無警戒に眠り込ませてしまう。
 夢を見ていたのを、覚えている。
 夢の中の私は、紅い色の世界で、真っ赤な夕陽を見ていた。しかも、私は一人じゃない。
 誰かと手を繋いで、夕陽を見ている。
 誰かの顔が、間近に迫り、その唇が私に話し掛けて、私は嬉しそう。
 言われるまま目を閉じると、唇に誰かの唇が触れ、『ああ、キスをされたんだな』と、思ったところで目が覚(さ)めた。
 私が見る夢の中の世界と客観的な私の姿、たぶん、相手の誰かから見た私。
 初めて見た、リアルで不思議な夢……。
(うっ、うう……、なっ、なに? 何かが顔に…… 付いた?)
 目覚(めざ)める直前の浅い眠りの中、顔に何か当たった気がした。でも、痛くはなくて、押し付けられた感じだっだと思い直した。
(ううん、違う。何かが…… 頬(ほほ)に。ううん、頬と、……唇にも、触れた!)
 楽しい夢心地の、気持ち良い眠りが妨(さまた)げられる。
 バスの揺れで窓ガラスに触れたのかも知れない。でも、ガラスみたいに硬(かた)い感じゃなくて、冷(つめ)たい触りでもなかった……。
 寧(むし)ろ、夢の中のキスがオーバーラップしたような、柔(やわ)らかい温(ぬく)もりの触れた感じが、うっとりと気持ち良くて、まだ目覚めたくないと、目を閉じたままの夢現(ゆめうつつ)に思う。
(うーん、目が覚めそう。もっと、夢の中にいたい)
 心地良い夢見が、虚(うつ)ろな覚醒へ移って行く。
(あうっ! いっ痛(つ)う……)
 背中に鈍(にぶ)い重みの、鋭い物が当たった。
(なっ、なにすんのよ! 夢見が良かったし、この、半起きが気持ちいいのに!)
 いっぺんに目が覚めて、ちょっと、気持が悪い。
 振り向くと、立ち上がって降車ブザー押す、あいつが私を見ていた。
 頬の違和感と背中の痛みに、睨み返す。
 口を尖(とが)らせるようにへの字に噛み締め、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、眉(まゆ)を吊り上げて、そして、寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)で睨み付けたつもり。
 目頭と眦(まなじり)に力を込めて睨み付けるけど、エネルギーや質量の無い私の眼光は、レーザーの熱量やビームの粒子加速と超振動の波動も伴(ともな)わなくて、全(まった)くの無力な眼力でしかなかった。それに、あいつは私の睨みに気付いていないみたいだし……。
(あいつに…… 無視された?)
 私の眼力を無視したあいつは、『降りないのなら、置いて行くぞ。降りるのなら、付いて来い』と言わんばかりに、『フッ』と薄笑いを浮かべる。
 車窓の向こうに香林坊の街路樹のイルミネーションが見え、バスの減速ブレーキで車体前部の沈みと慣性に引かれるように、私は前方の降車口へ急ぐ。
 あいつに小突(こづ)かれていなかったら、危なく寝過ごしていまうところだった。
(ちょっ、ちょっと~。私を置き去(ざ)りにするつもり? ……置いて行かないでよぉ)
 耳の中に超ノリの良いアップテンポのスィングジャズが、ジャンジャン響いているのに、私は起き切れていない。
 自分の不甲斐(ふがい)無さに唇を噛む私はバックを掴(つか)み直して、あいつの後を追うように急いでバスを降りた。
 バスを降りたあいつは、私を待たずにスタスタと足早に歩いて行く。
(待ちなさいよう……。迷子になっちゃうじゃない。ここから、バスで帰った事が無いのよ……)
 香林坊や片町(かたまち)へは、偶(たま)に両親と明るい時間に自家用車(くるま)で買い物に来るくらいで、バスを利用して来た事はなかった。
 片町から桜橋(さくらばし)の袂へ繋がるリアルでレアな若者の街、ダウンタウンの竪町や新竪町(しんたてまち)へは、姉と中学生の頃に何度か来たけれど、いつも放課後で、行き帰りは毎回歩きだった。
 乗り継ぐバス停の所在を知らない私は、あいつに小走りで追い付いて真後ろを歩いた。
(……なっ、なんか変! この位置関係って、彼氏の後を従順に付いて行く、内気な彼女みたいに見えるじゃない! それか下僕(しもべ)……? しっ、しまったぁ~)
 目の前を進む、あいつの背中を見ながら、顔を左右に振り、この位置関係を否定して悔(く)やんだ。
 とうとう乗り継ぎの中央公園前のバス停まで、あいつに先を歩かれてイニシアチブを取られてしまっていた。
 後に付いて歩いていると、自分の息が臭った気がして、両手を口に翳して吐く息を吸(す)ってみると、ラーメンの匂いがする。
(あっ! 金石でラーメン食べたんだっけ。もしかして、私の息…… ニンニク臭(くさ)い? 擂り下ろしニンニク味噌と、辛味噌を入れたのが、不味(まず)ったかも……) 
 バス停に着くと、あいつの後ろ、一メートルほど距離を取って風下に立ち、私の息の臭いが、あいつの方へ漂わないように気を使う。
 程無くしてバスが到着すると、乗車順番の先頭にいたあいつが、無言で脇に避けて先に私を乗車させて、先にあいつが乗れば、離れた席に行こうと考えていた私を少し戸惑わせた。
 私は誰もが嫌がるニンニクの臭いを意識して、あいつも嫌がらないか、心配していたのに……。
(レディーファーストなの? ちょっと嬉しいかも。でも、確かにエチケットだけど、これって古いヨーロッパの貴族達が、自分の身を守る為に、危険の察知と盾代(たてが)わりの露払(つゆはら)い役を女性達にさせる、体裁の良い言い方だったのでしょう? いかにも、女性に優しくて、大切にしているって感じに思えるけれど、当時の社会的地位の低い無能な女達をコントロールする意味も、含(ふく)まれていそうだし……。まぁ、いいっか。あいつは微塵(みじん)にも、私に露払いをさせようと思っていないだろうから、素直にあいつの優しさでしょう)
 乗り継いだ東部車庫行きのバスは、僅(わず)かな乗客で空席だらけだった。
 私は空いていた降車口直前の最前席に、いつものように座る。
 あいつは後部に行いって、毎朝のような私の真横には立たなかった。
 やはり、あいつもニンニクの臭いが厭なのだと思う。でも……、私を先に通してバスに乗せる際に、必要以上に体を避けたり、顔を背けたりしていなかったから、私のニンニク臭い息の所為じゃないかも知れない。
(どうして、近くに来ないの? 私を守ってくれていたんじゃないの? 夜間の方が、酒に飲まれたオッサンや、挙動不振な若いのや、連るまないと何もできない輩達(やからたち)が乗って来るから、いろいろと、非情に危険だと思うんですけど。あんた、普通にヘタレでストーカーっぽいわけ?)
 真横の居るべき場所に、あいつが居ない。
(そうよ、あいつは、乗車口のステップで、ニンニク臭い私を避けているように見えなかったな)
 見通しの良い横の空間に、詰(つ)まら無さを感じながら、私は疑(うたが)いを持つ。
(なぜ、あいつは、横に来なかった?)
 中途半端に起こされた、疲れて気怠(けだる)い身体を車窓に凭れ掛け、傾けた頭も、窓ガラスへ預(あず)けるように着けて、頬杖を装いながら唇を撫でてみる。
 唇の半分に残る違和感が、何かに触れられた気にさせていた。
 さっきは、触れられたと感じた直後に、偶然に触れたかのように、目覚め切らない私は、背中を押された……。
(たぶん、私は、あいつに起こされた……。背中に当たったのは、ワザとで、乗り換えのバス停が近づいたのを。私に知らせたんだ。ああっ、きっとそうだ。……でも、背中は痛かったぞ!)
 起こすにしては、優しくなかった。
(あいつ、らしくない……?)
 香林坊での降車で、立ち上がって私を見るあいつを思い出す。
 あの時も、私の眠気眼に映ったあいつは、赤味の差した熱っぽい顔をしていた。
(この唇と頬に残る感触も、私の眠りを確認するのに、あいつが、指先で撫でたから…… なのかなぁ? 私が気付いて起きるように……? 指で? ……あいつは、私に触れてみたかったのか……? 唇と頬に触(さわ)ってみたかった……?)
 降車口へ向かうバスの中でも、乗り継ぎのバス停への移動でも、私を無視するかのように先を急ぎ歩いた、あいつ……。
 降り際と乗り際での、あいつの紅い顔。
 乗車口のステップに足を掛ける際にも、視界に入ったあいつの顔が、紅っぽく見えた。だけど、それは、車内灯の灯りで照らされて、紅く見えただけなのかも知れない。
(私を起こしたのは、背中の痛み……? 唇と頬に残るこの感じ……? そして今、私に近付こうとしないあいつ? ……変だ!)
 本当に、あいつらしくない。
(ん! もしかして、寝ていた私は、キスをされたの……? そんなぁ、きっと、指か息ね。息! でも、あいつはスケベだ。夕方、私のスカートの中を覗いていた! ……あいつは私に何をしていた? ……近付いて? 息が掛かるほど、近くに……?、触れるほど……? ううん、あいつには、そんな度胸なんて無いわ。有るはずが無い! 無いと思う……、だけど……)
 このバスに乗る時も、あいつの横顔が紅かった。
(然(さ)り気(げ)無く、レディーファーストしたくらいで、どうして、そんなに紅くなる? 私が傍にいたから? 毎朝の私の横の立っている時は、紅くならないのに……)
 車内灯の白い光りに照らされると、紅く映えるのだろうか?
(そう、車内灯は、青白い明かりだ!)
 後方の座席にいるあいつを意識しながら、唇の違和感への不審な思いが、堂々巡りをしている。
(夢の中でも、キスされていたし……?)
 すっかり夜の帳(とばり)が下りて、暗い車窓のガラスに映る、自分の唇と頬を見ながら、気持ちが焦り出す。
(もっ、もしかして、ほんとに、キスされたかなぁ…….ってことは、ファーストキス? まっ、まっさかぁ……、あいつがー? えっ、えー?) 
 車窓に映る私は、もう、キスをされたと思い込みそうになっている。
 また、否定と肯定を繰(く)り返す、堂々巡りになりそうだ。
(いやいや、あいつはスケベだし……、でも、でも、夢まで見て熟睡していたから、キスされたか、どうかなんて……。だけど、夢も、唇も、リアルな感じ……?。うーん、わからない。わからないから、まあ……、どうでもいいか。されてないって事にしちゃえ。だって、覚えてないもんね。そう、覚えていない……。でも、……夢の中のキスの相手は……)
 唇に残る感じは、まだ記憶に無い未経験のはずのキスみたくて、夢の中のキスだと思っていたのは、本当にされていたのかも知れない。だけど、もういい加減にしよう。
 やっと、堂々巡りの思いを強引に纏(まと)めて包(つつ)み込み、記憶の忘却域へ払拭(ふっしょく)した頃合いで携帯電話が不意打ちのように震え、その予期せぬ驚きは、弛緩(しかん)させてぼんやりしていた私の全身をビクンと跳(は)ねさせた。
【見に来てくれて、ありがとう】
 あいつからのメールだった。
 いっしょにバスの中で揺られていて、まだ、どちらも降車していないのに送信してくるなんて、私が寝過ごさないようにと、親切の目覚まし代わりなのだろう。
 離れた席でも、私を見守って送られて来た、
 あいつにの気遣(きづか)いが、ちょっと、粘付(ねばつ)くけど嬉しい。
 唇を摩(さす)りながら、返信を打つ。
【別に。あんたに、会いに行ったんじゃないよ。金石の海を、見に行ったんだからね】
 返信は無かった。
 やがて、あいつが降りるバス停に着いて、あいつはバスの最前部に有る降車口から降りて行った。
 降りがけに私を見た顔は、悲(かな)しげで寂(さび)しそうだ。
(しょうが無いなぁー)
【ほんとに夕陽が綺麗だった。あんたも、イイ顔していたよ。でも、スケベだったね】
 私は、冷酷になりきれない。
 末尾に軽く皮肉るくらいで、好きでも無いスケベな男の子を、誤解を与え兼(か)ねない優しげな文でフォローしてしまう。
 他の男子へは、冷たく酷い言葉を重ねて突き放せられるのに、何故(なぜ)か、あいつにはできていない。
 たぶん、小学校六年生の私を見ていた、あいつの顔の所為だ。
 家に帰ると案の定、家族全員、……両親と姉が私に、ニンニク臭いから『二メートル以上、離れてろ』と言って、避けられたのはショックだった。
(そんなぁ……、二メートルって酷い! 離れ過ぎじゃん! せめて、一メートル半くらいでいいじゃん)
 やはり、ニンニクは家族みんなで食べなければいけないと改(あらた)めて思い、私は反省する。
 無情な家族の反応から、あいつはニンニク臭いのを我慢してくれていたのだと知った。
     *
 翌朝のバスの中で、チラッと仰(あお)ぎ見た真横に立つあいつは、無表情でバスの進行方向を見ていた。
 その注意深く動く一重瞼の瞳からは、全く、気持ちや思いは窺(うかが)い知れない。
 昨夜(ゆうべ)のニンニクの臭いの感想も……。
(やっぱり、アイコンタクトは、無理! 普通、喜怒哀楽ぐらいしか、わからないわよね)
 バスを降りた後も、あいつの車窓越しに私を見ている目が合うけれど、あいつはニコリともしなくて何を考えているのか分からない。
(今度、金石のラーメンを、いっしょに食べよっか? そして、ニンニク臭い息を掛け合うのよ)
 その気も無いのに、あいつを乗せて走り去るバスを見送りながら、胸の内で呟(つぶや)いてみる。
     *
『どうでもいいや』と、昨日(きのう)は思っていたのに、朝、目が覚めても、唇は触れられた感じを覚えていて、それは、金石へ行った翌朝から、私に洗髪の仕方を変えさせた。
 いつものように昨夜は、お風呂で洗っていたけれど、再(ふたた)び翌朝に入り直した。
 今までのように洗面所で、ちゃちゃっと寝癖(ねぐせ)を取って直すだけの横着なのじゃなくて、ちゃんとバスルームで洗い、湯船に浸(つ)かった。
 朝のシャンプーは、姉や母と同じように早起きして、お風呂へ早朝に入って、今までより念入りに洗髪する。
『朝早く起きるのは、キツイから、私は無理よ』と、それまで億劫(おっくう)がって拒(こば)んでいたから、姉や母は、『やっと、女に目覚めたかな』と、私が朝のお風呂へいっしょに入るのを喜んでくれた。
(別に、あいつの視線を意識したからのヘアーケアじゃないの。普通に大勢の人と近接する女性の身嗜みなんだからね! ……マナーよ!)
 姉といっしょに入って、互いに洗うのを手伝う。
 最初は髪を洗い、いつもより多くいっぱい泡立てる。
 シャンプーは、ヘアカラーの色落ちをさせなくて、髪や頭皮の皮脂を傷(いた)めないように油性仕様は使わない。
 頭皮を軽く揉みながら丁寧に洗って、シャンプーの泡が消えるまでシャワーでしっかり濯(すす)ぐ。
 次は、毛髪の内側からダメージケアしてくれるトリートメントを、適当に馴染ませてから髪をタオルで包(くる)んで湯船に浸かる。それから、コンディショナーでしっかりと髪の毛をコーティングガードして、光沢(こうたく)の有るしなやかな髪になれば、納得の完成だ。
 ふっくらとしたボリュームの髪はサラサラして軽く、櫛通(くしどお)りは滑(なめ)らかで良い気持ちだった。
(さぁ、これで私の髪は、お風呂の匂いね)
 今日から、就寝前はシャワーで体を洗うのと歯磨きだけにする。
 これで、夜にお風呂で湯船に浸かるのは、父だけになってしまった。
 朝食の時に、『お前も、朝に入るようになっちまったか……』と、一日に二度の湯張(ゆば)りは不経済だと、父は以前からブーブーと嘆(なげ)いていたけれど、その抗議は、父への感謝の気持ちを付けて差し戻されてしまった。
『だったら、お父(とう)さんも、朝に、お風呂に入ればいいじゃん』、私が勧(すす)めると、『朝は、ギリギリまで寝ていたいし、お風呂に入った清潔な体で、眠りたいんだ』などと、嫌がる言葉を返す父へ、『なら、しょうがないじゃん』と、姉は父に『習慣を変えろとは言わないから、朝風呂を否定するな』のニュアンスを言葉に含ませ、『あなたの稼(かせ)ぎの御蔭で、私達三人が幸せで、とても嬉しいわ』と、母がキメる言葉で締(し)めて来た。
(ごめんね、お父さん。髪の手入れは、女性の重大事項なの。それに、朝からシャボンの匂いのがする妻や娘の方が、お父さんの目覚めが良いよねぇ)
 女性の命とも言う髪のケアが相手の三対一じゃ、父に勝ち目は全然無い!
 朝食後の歯磨きも丁寧にして、毛先が柔らかくて細く尖った歯ブラシで、歯周トラブル防止の歯磨き粉(こ)を付け、食べ滓(かす)を除きながら、歯の付け根と歯茎(はぐき)をマッサージするみたいに磨く。
 仕上げの歯間ブラシも、上下全(すべ)ての歯の間に通す。
 これで、歯垢(しこう)は落とせるし、残って歯石になる事はない。そして、歯槽膿漏(しそうのうろう)も予防して口臭も防げる。
 いつもの三倍は、お口の中ケアに時間を掛けた。
 思春期のお年頃で、ポツポツと出ているニキビを増やさないように、洗顔は薬用石鹸で三度も洗ったのは、両頬にニキビの白、黒、赤の三種類全部が揃い踏みだから、お肌ケアの最優先対象だ。
(昨夜の、お風呂と歯磨きは、いつもと同じ、普通にしたのに……。これからは、こんなに身繕(みづくろ)いをちゃんとしなくちゃと、どうして思うんだろう? やっぱり、夢の所為よね……?)
 初めてだらけで、ゆっくりと時間が過ぎていた昨日は、夢を二つ見た。
 一つ目は、キスの夢の続きのような夢で、夜中のトイレで思い返していたから良く憶えている。
 寝直して見た二つ目の夢のステージは、朝のバスの中だった。
 いつものように、車窓に映る真横に立つあいつの姿を私は外を見るフリをして観察している。
 窓ガラスに映る今日のあいつは、いつもと違い顔を私に向けていなくて、対面の運転席の方へと顔を向けていた。
『運転手に、何か問題でも?』と、チラリと運転手と運転席周りを見ても、別に異常な変化は無くて、年配の運転手はバスを安全・正確に運行する職務に専念していた。
(ねぇ、どうして、そっちを向いているのよ? あっ、それは、もしかして……!)
 ピンと来た私は、急いで振り返って、あいつを直視した。
(ああーっ、こっ、こいつぅ……)
 あいつは顎(あご)を上げて、私を避けるように顔を逸らし、逸らし顔の上から目線の眼は、蔑(さげす)むように私を見ていた。そして、鼻腔を広げてヒクつく鼻は、辺りの臭いを嗅いでいる。
 振り返った私と目が合っても、あいつは冷たい視線で私を見据(みす)えたまま、私の臭いを嗅ぐのを止めようとはしない。
(やっ、やめてー。そんなこと、しないでー!)
 私は、あいつの失礼さにムカつくのと、恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆い俯(うつむ)いてしまう。
(いっ、嫌よ! お願いだから…、そんな眼で、私を見ないでー)
 あいつの、私を見下す視線が耐えられない。
(ちっ、違う! ……わっ、私は、……くっ、臭くないよー!)
 そこで目が覚めた。
 あまりの夢の悲しさに、目覚めの私は、涙目に視界が暈(ぼ)やけ、鼻もグズついて、まったくトラウマになりそうな夢だと思う……。
 これからのウィークデーは、毎朝、髪を真面目(まじめ)に洗ってから良く梳(と)いで、もっと、身嗜みも、身繕いも、今まで以上に丁寧に良くしなければいけないと、神の御告(おつ)げを受けた気がして、翌朝は、それらを起きて直ぐに実行した。そして、出掛けにオードトワレを、チョンとワンプッシュ。
 時々しか付けなかった香水を、毎日付けるようにしよう。
 トワレはチェリーブロッサム、私のお気に入りのフレグランス。
     *
(唇に触れられた気がしたから……、ううん。頬に残る感じが嫌だから……、ううん、違う。それとも、キスをしたいから……? 私が……?)
 昨夜見た一つ目の夢は、抱(だ)き締められた私がキスをしていた。
 それは昨日、金石からのバスの中での居眠りで見ていた夢の続きだった。
 夕陽を見ていた小さな砂丘の上で、夕陽色に映える顔の男性の唇にキスをした。
 私を抱き締めて、私も、しがみ付くように腕を回していた相手は……、あいつだった!
(むう……、選(よ)りに選って、あいつだなんて……。夢って、ずっと気付かずに潜んでいる潜在意識、それとも、無意識のような、ディープに抱(かか)え込んでる深層心理、それよりも、もっと、ずっと軽い表層心理、う~ん、どれが現(あらわ)れ易いんだろう?)
 黄色の町を手を繋いで歩いて路地裏で、またキスをする。
 キスの相手が納得できず、腹立たしいけれど、なぜか、夢見が良かった。
 夜中のトイレに目覚めても、手に、背に、唇に、あいつの触れた感じがリアルに残っていて、夢の中のあいつと歩いた黄色の町へ、また、戻りたいと思ってしまう。再び、あいつと帰りのバスがいっしょになれば……、また、金石の砂丘の上で夕陽を眺めれば……、同じ夢の続きが見れるのだろうか?
 一つ目の夢が昨日から、ずっと気になっていた。でも、放課後にあいつへメールしたのは、夢見が良かっただけのただの気紛(きまぐ)れで、余計な詮索だったかも知れない。
 無かった事にしようとしたのに、私もしつこい。
【バスの中で、起こしてくれてありがとう。……ねぇ、あんた、私にキスした?】
 私は、直球で訊く。
 直球勝負に、あいつは、まともに答えないと思う。
 『した、しない』、どっちを、私は期待しているのだろう。
【していない】
 あいつの部活が終わる頃に、素っ気無いメールが返されて来た。
 簡単明瞭過ぎる素っ気無さが、却(かえ)って怪(あや)しさを臭わせた。
【本当に?】
 私は、疑惑(ぎわく)を問う。
【ほんとに。 なぜ、そう思う?】
 逆に、あいつが訊いてきて、私は返信するのを止めた。
 『頬に……、唇に……、キスされた感じが残っていて、気になるから……』なんて、返せる訳ないじゃない。
 それっきり、バスの中のキスは忘れる事にした。
 三日も経つと、唇の半分に残っていた感じは薄(うす)れ、やがて消えて無くなった。
 感覚が薄れるにつれて気にしなくなり、思い出す事も稀(まれ)になって行った。
     *
 夢の続きは、時々見て、多少の違いは有るけれど、同じパターンの繰り返しだ。
 夢の中でも、私の想いは先へと進めない。
 夢の後半は決まって、日没後の余光に包まれてセピア色に染まる懐(なつ)かしい感じの町並みで、一人っ切りで寂しげな私は誰かを捜している。
 通りを抜け、角を曲がり、捜し続けていた。
 人影の無い通りだらけのセピア色の町は、人の気配を感じて、生活臭が有るのに静かで誰にも出逢わない。
 夢の見初めの前半は、確かに、誰かといっしょにいたのに、誰だったのか全然、思い出せなかった。
 いっしょの誰かと、手を繋いで、夕焼け空や紅く染められた海を見ていたはずなのに……。それなのに、誰だか分からず、見付ける事もできなくて、いつの間にか、私が、一人ぼっちになってしまう夢だった。
 一人ぼっちになった寂しさと切なさに……、そして、一人になった焦りの想いで目覚めると、いつも、夢見の物足りない不満さに、深くて長い溜め息を吐いてしまう。
 そんな夢を見ると、目覚めの後も、本当に手を繋いでいたような感じが、決まって指や掌や腕に残っていて、その錯覚の感触は、いつまでも消えてくれなかった。だけど、金石に行った翌朝のような、背中や頬や唇にまでリアルな感触の残る事は滅多(めった)に無くて、はっきりと、『誰』かが、あいつだと分かるキスをしていたシーンを見る事は、全然無くなってしまった。
(いったい私は、夢と現実に、何を、求めているんだろう……?)
『あいつを気にしているのは、確かだけど、キスをする夢を見るくらいに、好きになって来ているのだろうか?』と、思う自分を否定したかった。でも、本当は、否定したいなんて嘘……。
 私の気持ちが、あいつと寄り添いたがっているのは解(わか)っている。それでも、それが、あいつを好きになって来ている所為だなんて、まだ、私は素直に認めたくない……。

 

 つづく