遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

金石の浜(僕 高校一年生 ) 桜の匂い 第五章 壱

 畝田町(うねだまち)の学校から金石(かないわ)街道を三キロメートルほど走り、金石の浜と防波堤沿いの海岸道路で、腕立て伏せ、腹筋に背筋、ジャンプにダッシュにスクワット、それに基本となる八節(はっせつ)の動作と礼節を叩(たた)き込まれる。そんなトレーニングメニューを四、五回は繰り返す。

 同じメニューを繰り返すこのトレーニングを、先輩達はサーキットトレーニングと呼(よ)んでいた。そしてまた走り、大野(おおの)の港橋の袂(たもと)を曲がって学校に戻(もど)る。

 コース全長約六キロメートル、二時間半のトレーニングコースだ。月曜から水曜までの三日間は、持久力と体格を得る為(ため)にトレーニングを行う。

 中学校ではスポーツクラブに入っていなかったけれど、陸上競技は好きだった。でも、こんなに遠い距離を走った事はなかったし、これほど長い時間を運動に費(つい)やした事もなかった。

 最初の一ヶ月は先輩達に全(まった)く付いて行けない。新入部員の指導に数人の先輩が付き添(そ)って走ってくれているけれど、僕はいつも五分以上も遅(おく)れて金石の浜に着いてしまう。トレーニングメニューは三分の一も熟(こな)せない。

 息が切れて声を出せない。心臓がバクバク激(はげ)しく動悸して、今にも世界が終わりそうだ。視界の周りに糸蚯蚓(いとみみず)のような、ウネウネ動く光る銀線が、次々とたくさん現(あらわ)れては消えて行く。これが、初めて見た星が出ると言う事らしいけれど、少しも星らしく見えない。

 目眩(めまい)いと頭痛がする。米神(こめかみ)がズキズキと痛み、もうちょっとで脈動する太い血管が破(やぶ)れて、一気に血が噴(ふ)き出て来そうだ。胃から酸っぱいのが上がって来て咽喉(のど)がヒリヒリと焼けるように痛い。胸がムカムカしてやたらと唾(つば)を吐(は)き、海水で口を漱(すす)いだら更(さら)に痛みとムカつきが酷(ひど)くなってしまった。僕は一年生の中で一番遅くて鈍(にぶ)い。全くのヘタレだった。

 高校に入学して間(ま)も無く僕は部活に弓道部を選んだ。弓を射(い)るのは、ただ弓を引いて的(まと)に矢を当てるだけのゲームみたいなイメージだったのに、こんなにトレーニングをするなんて思ってもみなかった。

 日本の武道で個人競技、柔道や剣道のような技と体力と体格差、それに気合いの勝負じゃない。少ない静かな動きで矢を的に当て、より多く当てた者が勝つ。的は反撃して来ない。自分自身との戦(たたか)いだけで、何より物臭(ものぐさ)な僕向きだった。

 僕は彼女の気を引こうと思い、部活を弓道に決めた。既(すで)にピアニストの夢を諦(あきら)めてしまった彼女だけど、いつも僕は『僕には何もない』という引け目も、負(お)い目も無く、彼女の横へ立ちたいと思っていた。楽器は何も奏(かな)でれないから協奏は無理。ならば、彼女のパフォーマンスに負けない感動させる何かを探していて、弓道を見つけた。

 僕に弓道の才能が有るのか分からない。けれど、弓道なら自分自身の努力で得た技能とセンスでヒーローになれるし、ヒーローになればスタンドプレーのパフォーマンスも或(あ)る程度(ていど)は許(ゆる)されるだろう。それに部長に成れれば、弓道部の戦い方も自分色にできる。

 初めて弓道部の練習を見た時に、彼女と並べる自分探しができると、そう思った。

(大会で優勝したらモテモテで、彼女は僕の虜(とりこ)になるかも……)

 そうなる可能性は大きい。……そんなチャラくて不純な動機で入部した。しかし実際は全然違う。現実は厳(きび)しくてこの様だ。何事も鍛錬(たんれん)を無くして事は成(な)さない。

(ううっ…… 気持ち悪くて吐きそう)

 再(ふたた)び胃から続けに酸っぱい物が上がって来て、頬(ほお)が膨(ふく)らむくらいに閉じた口の中をいっぱいにする。それを先輩達に悟(さと)られないように両手で顔を覆(おお)いながら無理矢理飲み下す。酸っぱくてネバネバする口の中がムカつきがブリ返すほど気持ち悪い。

 砂浜で二度、トレーニングメニューを熟した後(あと)、みんなが海岸道路の方を見ながらザワついている。

「あれ女子高校生だよな。珍(めずら)しいな、あんなところに一人で何してんだろ?」

 誰ともなしに言ったのが聞こえた。見ると海岸道路の向こう、土手のような小さな砂丘の端(はし)に、高校の制服を着た女の子が立っていた。

(あの制服は……)

 遠くでも僕は一目(ひとめ)で分かった。

(彼女だ! 来たんだ。……僕に会いに……、違う! 夕陽を見に来てくれたんだ)

 金石の浜でのトレーニングの事は、一週間ほど前に彼女へメールで知らせていた。

 彼女とは相変(あいか)わらず中学校卒業の日の距離感のままに、リアルはメール文のフレンドリーさに程遠(ほどとお)く、通学コースも違う離(はな)れた別々の高校に進学した為に先日の偶然の出逢いまで姿を見る事は無かった。だから勘違いは出来ない。メールに誘(さそ)われて見に来る事は有っても、まだ、僕に会いに来てくれる事は無い。

(メールの返事は寄越さない癖(くせ)に、いきなり見に来るんだ……)

 でも、此処(ここ)まで見に来るだけアクティブになっているから、ちっとは彼女の気持ちに揺(ゆ)らぎが出始めているのかも知れない。

「おい! 近くまで見に行くぞ! 今日はコースを変更する」

 部長が大声で指示を出し、浜でのトレーニングをいつもの半分で切り上げて、海岸道路へと部長を先頭に全員が走りだした。ランニングコースをショートカットして彼女が立つ砂丘の正面へ向かう道路を走る。

 近付くにつれて彼女だと確信した。みんなから遅れて最後尾を走る頃には、もう彼女は間近になっていて、そこに彼女が居て僕を見ていると意識しただけで、一気に気持ちが高揚(こうよう)して走りで喘(あえ)ぐ僕を更に息苦しくさせた。

 先輩や同期達は僕を置いて先を走り、せっかく彼女が来てくれたのに、僕はカッコイイところを少しも見せられない。

 海岸道路に出るころには、息絶(た)え絶(だ)えに仰(あお)ぎ見る僕を彼女は砂丘の上から見下(みお)ろしていた。浜でのダッシュやジャンプを繰り返したトレーニングで、乱れた呼吸を整(ととの)えられないまま走り続けた僕は、海岸道路の高機能アスファルトの路面を踏んだ途端にブラックアウトに襲(おそ)われた。

 視野の周囲から急速に暗くなり視力が失(うしな)われていく。襲って来た一時的な貧血を遣(や)り過(す)ごそうと僕は立ち止まり、既に光りが殆(ほとん)ど失われた目を閉じた。同時に光りの無い世界がぐるりと回って、よろけて倒れそうになった。

 倒れまいと足を前後に開き、立ち位置のスタンスをしっかり確保する。バランスを保(たも)つのと倒れる時の衝撃緩和(かんわ)に両手が無意識に広がった。グルグルする身体(からだ)が傾(かたむ)く度(たび)に足を踏み直(なお)す。僕は必死で転(ころ)がらないように堪(た)えた。

 ブラックアウトを巻き戻すように、視野の中心から急速に視界と平衡(へいこう)感覚が回復した。腰を落とし両手と両足を広げて、まるで野球のアンパイアがホームスチールしたランナーに、セーフのジャッジをするような姿勢で身構(みがま)えたまま、僕は海岸道路の路上で固(かた)まっていた。僅(わず)か四、五秒の出来事なのに意識が飛んで直(す)ぐに事態を理解できない。

(どうしたんだ? ここはどこだ?)

 左の方から人のざわめきと群(む)れる気配がして、僕は捻(ひね)るように顔を向けた。トレーニングウエアの集団が走り去って行く。最後尾の数人がこちらを見て何かを叫(さけ)びながら身振り手振りで招(まね)いている。どうやら僕を呼んでいるみたいだ。

 速(すみ)やかに広がって鮮明になり行く視界と状況が僕を儚(はかな)い微睡(まどろみ)から呼び覚(さま)し、眼前に迫(せま)る現実で圧倒した。

(はっ! そうか! 僕はランニング中に目眩を感じて、ここに立ち止ったんだ)

 目の前に広がる草地の斜面が僕の意識を引き戻す。

(そうだ! 彼女は?)

 急(いそ)いで斜面の上を見る。

(いた!)

 正面の草で覆われた砂丘から、僅かに突出した見晴らし台みたいな場所の上に彼女は立っていて、ニコリともしない無表情な顔で僕を見下ろしていた。彼女の瞳は笑えない顔で見上げる僕の目を見ていた。

 彼女を見るその視界の下半分に、西陽(にしび)で照らされた彼女の素足(すあし)が眩(まぶ)しく見えて、悩ましくも美しいと思う。

(んん!)

 彼女の目線が気になるけれど、僕は視線の焦点を一旦、草地の斜面まで下げて、それから彼女の足元から上へ移動させて行く。短いスカートに隠(かく)れていくスラリとした足の白さは、急速に光りを失い暗い漆黒(しっこく)の闇に消えていて、汗で湿(しめ)っぽい股間がサワサワと熱くなりだした。

(くっ、黒の… 下着……?)

 その眺(なが)めは、バクつく心臓の動悸と息絶え絶えの肺(はい)の喘ぎを急加速させる。

(くっ、黒なんだあ。しっ、下のパンツが黒いってことは、普通は上もコーディネートさせて……、合(あ)いの制服の下は……? ブラも黒? ゴクッ!)

 生唾(なまつば)を飲み込むような不確実な思い込みの情報が想像を生む。白い太腿の付け根を隠すスカートの奥に、黒い下着を着けていると思うだけで居た堪れない。その暈(ぼや)けたイメージが固まるに連(つ)れて、ムクムクと股間が痛くなって来ている!

(あぅ、やばい! そっ、想像するな! 見るな! 目を逸(そ)らせ! かっ、彼女に気付かれてしまう……)

見ないようにしなければと思うほど、その闇をもっと良く見てみたくて眼が離れなくなり、瞬(またた)きもしないで僕は見据(みす)え続けた。

(あっちゃー。だっ、だめだ! こっ、こんな時に! もう、だめだぁー)

 疲労から来る生殖本能も加わって、ビクビクと股間が痛いくらいに張って来る。そのむず痒(がゆ)さを伴(ともな)う痛みに思わず反射的に力(りき)むと、ジャージの中で一気に張り詰(つ)めて持ち上がってしまう。

(あーっ、まずい! 彼女を……、彼女の顔を見ろ!)

 さっと彼女の顔を見て僕は青ざめた。いつポーズをとったのか気が付かなったけれど、恥ずかしがってスカートの裾(すそ)を押さえて覗(のぞ)かれるのを隠そうとする素振りも見せず、両手を腰に宛(あ)てがい仁王像のように堂々と構(かま)え、眉間(みけん)に寄せる皺(しわ)と米神に青筋を立てる彼女は、じっと僕を見下ろし睨(にら)み付けていた。そして、無言を決める唇はへの字だった!

(げげっ!)

 その恐(おそ)ろしげで冷(つめ)たい表情に恥ずかしさと驚きでビビってしまった。彼女の顔に戻した僕の瞳は逃げ場を求めて揺れ惑(まど)う。僕の視線が戻るのを見計(みはか)るように彼女の口が動く。それは、ゆっくりと二つの発音の動きをした。

『バーカ』

 声にせず唇だけが動いて言った。そうはっきりと聞こえた気がした。

 上から目線そのものの彼女の冷たい視線は、ヘタレでスケベな僕に容赦(ようしゃ)なく突き刺さり、道の真ん中でセーフポーズで固まったまま、彼女のスカートの中を覗くような痴漢行為を働く僕は本当にバカみたいだ。

 今にも河川敷の堤(つつみ)ほどの砂丘から彼女が駆け降りて来て、僕の頬を平手打ちしそうな気配がする。

 動く…… いや、逃げるタイミングを失った僕を呼ぶ声が聞こえた。その声の方を向くと三十メートルほど離れて、弓道部の同期達が大声で僕を呼んで急(せ)かしていた。

「おーい、早く来―い」

(ハッ、そうだった!)

 部活のトレーニングの真っ最中(さいちゅう)だった。部活中だという事をすっかり忘(わす)れるくらいに、夕陽を見に来た彼女に出逢っただけで、それほど僕は舞い上がって萎縮(いしゅく)している。

「なにしてんだよ! 女子に見蕩(みと)れてんじゃねーよ」

 同期の仲の良い奴が叫ぶような大声で言った。

(バカ野郎! いらんことを言うんじゃねぇ)

「おまえの知り合いか?」

 先輩の一人がデカイ声で言う。そうだけど、あとで話がややこしくなるから聞き流す。

「スケベな奴だなぁ~。スカートの中、覗いてただろ? あそこもデカくしてるしなぁー」

 同期達と先輩達が、みんなで僕をからかう。

(あっちゃー、めっちゃ図星で、すっげー恥ずかしい!)

 くっきりと外見からでも分かると思う股間の張りは、彼女もしっかりと見ているのに違いない。

(やめてくれー、そんな大きな声で言うなぁー! ばっちし彼女に聞こえているし……)

 恥ずかしさに俯(うつむ)いたまま、僕はみんなに追い着こうと全力で駆け出した。

 良し悪しは兎(と)も角(かく)、それは思いがけない非常にラッキーなタイミングの出来事だった。

(見た! 黒のショーツだった! しっかりと見てしまった!)

 学校へ戻るトレーニングコースの殿(しんがり)を走る僕の股間は、繰り返し蘇(よみが)える鮮明な記憶の映像にズキズキと痛いほど張り詰めていた。

(……でも? なぜ、彼女は恥じらわなかったのだろう?)

     *

 上級生達は既に帰り、一年生達が日課となっている弓道場の後片付けと掃除を済(す)ませ、戸締まりをして退場の一礼をする頃には、夜の帳(とばり)が辺(あた)りを包(つつ)み掛けていた。

 金石街道のバス停で来るべきバスを待つ視線の果(は)て、西の空の低空と地平際に残るカーマインレッド色とオレンジ色の明るさが、漆黒の上空から迫る深い藍色(あいいろ)で急速に色褪(いろあ)せて閉ざされて行く。

 程なくして濁(にご)って行く空を背景にバスが来るのが見えた。金石を始発とするそのバスで香林坊(こうりんぼう)まで行き、錦町(にしきまち)、土清水(つっちょうず)方面へのバスに乗り換える。別に香林坊まで行かなくて武蔵(むさし)が辻(つじ)で橋場町(はしばちょう)経由に乗り換えるのも有りだれど、少しでも長く眠りたいから香林坊まで行く。それに気が向いたら片町(かたまち)や竪町(たてまち)界隈(かいわい)でラーメンやお好(この)み焼きを食べるか、喫茶店でブレンドコーヒーを飲んでから帰った。乗客の殆どが武蔵が辻までに降車して、香林坊以遠まで行く者は少ない。

 いつもの最後尾の窓際の席を確保して誰(だれ)にも邪魔されず爆睡する為に、バス待ちの最前列に立つ。この時刻、バス待ちの連中は部活の後片付けで遅(おそ)くなった一年生ばかりだ。

 勢いよくバスに乗り込み、いつもの一番後ろの座席へ向かうと、既に女の人が座っていた。

(珍しいな……)

 帰宅で混(こ)み合う時間帯の過ぎたバスの車内はガラガラの空(す)き具合で、大抵(たいてい)はバス待ちの生徒達全員が座れる。僕の場所と決めている最後尾のその席に、これまで座る乗客を見た事がなくて僕はどこに座ろうかと迷ってしまう。仕方が無いので反対側の最後尾の座席に向かおうとした。僕の後ろからは、次々と部活が終わった生徒達が乗り込んで来る。

 五人掛けの最後列の座席は、僕のいつもの席以外は空(あ)いていて、わざわざ女性の横に行って座るのは抵抗が有り躊躇(ためら)った。それにワザとらしさが厭(いや)らしい下心を含(ふく)んでいると思われそうだ。

 いつもの座席に座っていたのは大人(おとな)の女性じゃなくて女子高校生だった。尚更(なおさら)、抵抗は強まり横には座れない。

 僕の場所に座る女子高校生の頬杖(ほおづえ)を突いて上半身ごと窓の外へ向けた顔は、影になって良く見えない。音楽でも聴いているのだろうか、耳に掛かる髪の間から白いイヤホンコードが見えて、その先端の髪で隠れた耳の辺りがチカチカと小さく光っていた。たぶん、イヤホンに組み込まれたLED素子が曲のリズムに連動して瞬いているのだろう。

 組んだルーズっぽい白いハイソックスを穿(は)いた足は、短めなスカートから曝(さら)け出た太腿(ふともも)が車内灯の灯(あか)りに白く映(は)えて眩しい。夕方の砂丘の上に見えた白い太腿の果て、思い出した黒い下着で赤裸々(せきらら)に厭らしい気持ちが湧(わ)き上がり、間近で眺(なが)めたい欲望に再び股間が痛み出しそうだ。

 ハイソックスをズリ落ちないように留めている細いライトブルーのバンドがキュートだ。キュートさに再び顔を見ようとした僕は、暗い窓ガラスに映(うつ)る女子高校生の顔に気付き固まった。

(彼女だ……)

 そこに彼女がいた。

(こんなに暗くなるまで、浜にいたのか……?)

 暗くて分からない彼女の目が、僕を見ているのが分かった。 後ろから来た同学年の奴が、立ち止まった僕の横を擦(す)り抜(ぬ)けて彼女の方へ行こうとする。強引にそいつを遮(さえぎ)り反対側へ追いやって、急いで僕は彼女の隣に座った。

「なんだよう」

 進路を妨害され追い払われる不機嫌顔のそいつが、低い声で脅(おど)すように言う。

「すまん! 彼女だ!」

 隣りに聞こえないように手で遮蔽(しゃへい)しながら小声で返すと、そいつの僕を睨んでいた顔が驚いた。

「マジ?」

 そいつは体と顔を傾けて頷(うなず)く僕越しに、そっぽを向き不貞腐(ふてくさ)っているみたいな彼女を、ジロジロとあからさまに値踏みすると、信じられないと驚く表情に羨望(せんぼう)を混(ま)じらせ、この状況をどのように理解したのか分らないが、大人しくなったそいつは肩を落とし無言で反対側へ移った。

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 雨が降り続く梅雨(つゆ)時期の朝は暗くて物寂(ものさび)しい。朝のバスの中で彼女の座席横に立つ僕は彼女を見ていた。彼女の髪に付いた雨の雫(しずく)や、雨に濡(ぬ)れた制服の肩や背の小さな染(し)みを見ていた。

毎朝、同じバスに乗って来て黙って横に立つ僕は、きっとストーカーや痴漢もどきの気持ち悪い奴と思われているだろう。携帯電話のメールには横に立つ事を書かない。時々返信されてくる彼女のメールも、そこには触れてこなかった。

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 高校に入りバス通学が始まった。香林坊でバスを乗り継(つ)いで畝田まで行く。始めは遅刻しないように余裕をみて、朝はもっと早い時刻のバスに乗っていた。

 立夏(りっか)も既に過ぎて大気が湿りだす頃、学校帰りのバスに兼六園下(けんろくえんした)のバス停から彼女が乗車して来た。僕に気付かないのか、無表情に僕を無視して空いた席に座る。

(彼女もバスで通学しているんだ)

 さっそく確認した。彼女にメールを送る。

【君もバス通学なのですか? 朝はどのバスに乗るのですか?】

 相変わらず直ぐにメールの返事は来ない。翌日から彼女が乗る朝のバス探(さが)しが始まる。彼女が通(かよ)う高校への距離から僕より早い時刻のバスに乗らないだろうと考え、僕の乗るバスから一つずつ遅い時刻のバスに乗り込み彼女を探すことにした。彼女の諸々(もろもろ)の突発的な事情や僕の見落としが有るかも知れないので、同じ時刻のバスを二日続けて乗る。金沢駅行きは橋場町経由と香林坊経由の二路線が有り、他に粟崎(あわがさき)行(ゆ)きも有った。朝の通勤時間帯は特に本数が多い。

 朝の彼女探しを始めてから既に十日が過ぎた。今朝(けさ)はいつも乗っていたバス時刻より四十分以上も遅い時刻のバスに乗る。これ以上遅い時刻のバスには乗れない。バスの運行や僕自身の行動に少しでもイレギュラーが起きると遅刻してしまう。

(これに乗っていないと、本当に偶然の出逢いだけになってしまうな……)

 憂(うれ)いと僅かな期待が混ざり合う不安な気持ちでバスを待つ。程無くして僅かに右に折れる道路の彼方(かなた)にバスが見え、やがて一つ先のバス停の乗降を済ませて近付いて来た。

 バスが近づいて来るにつれて、フロントガラス越しに内部の様子が初めは薄(う)っすらぼんやりと、そして段々はっきりと見え出して来る。二つ向こうのバス停が始発なので、混み合っていなくて乗客はみんな座席に座り、車内に立っている人影は無い。バスは間近に迫り、運転手や座席の乗客の顔が見分けれるようになって来た。

(いた! やっと見付けた!)

 バスの最前席、降車口前の座席に彼女は座っていた。彼女も僕に気付いているようだけど、その姿勢や表情は少しも変わらず、減速して停車するバスの中の無感情な目線だけが僕と交差して行く。

 車体側面の中央に有る乗車口からバスに乗り込んだ僕は、さり気無く彼女の横に立つ。空いている座席がたくさん有っても、彼女の後ろの座席が空いていても、僕は座らずに彼女の横に立った。彼女は僅かに顔を傾けて僕が横に来たのを察(さっ)したようだが、顔を上げて僕を見る事はな無かった。

 僕も彼女に声を掛ける勇気が無くて朝の挨拶もできない。一言(ひとこと)も話せなくて会話は全く無かった。それでも彼女を見付け出して近くに立って居られるだけで、僕は嬉(うれ)しくて幸せな気持ちで満ち足りていた。

 香林坊から二つ手前の兼六園下のバス停でバスを降り、彼女は対向車線側の白鳥路入り口前に在るバス停から、柳橋(やなぎばし)方面行きのバスに乗り換えてで学校へ向かう。……足早(あしばや)に向かうはずなのに、降車した彼女はバスの脇で立ち止まり、いつもの薄(うす)く微笑(ほほえ)みを浮かべているような顔で僕を見上げている。バスが動き出しても百間堀(ひゃっけんほり)に掛かる石川橋(いしかわばし)の石垣に隠れるまで、彼女は僕を見続けていた。

 僕と出逢えて彼女は嬉しいのだろうか? それとも、鬱陶(うっとう)しさと不可解さで嫌気がしているのだろうか? 僕を睨むように見送る表情から僅かに察したのは、第六感のように曖昧(あいまい)で不確実だけど、彼女との見詰め合いに心が通い合えたように思えた事だった。

 だから僕は抱えていた学生鞄を足許(あしもと)に置いて右手の掌を握(にぎ)り、僕を見上げる彼女に向けて胸に当ててみる。

『貴女(あなた)に忠誠を誓(ちか)い、御守り致します』と、騎士が王女に我が身を捧(ささ)げるように忠誠ポーズを取って示した。更に跪(ひざまず)き頭(こうべ)を垂(た)れたいのだけれど、バスの中じゃできない。怪訝(けげん)な顔をされるかと彼女の反応を見ていると、驚いた事に僕を見ていた彼女が自分の胸を見てから右手を胸に付け、そして、僕を見た。その時、バスが発進して、手を添えた自分の胸と忠誠ポーズを取る僕を交互に見遣(みや)る彼女を、車窓の彼方へと置き去ってしまった。

(マジ? マジ? 彼女が誓いを受け入れてくれたぁ? 本当に? それじゃあ……)

 見たままが彼女の意思ならば、誓いは守り通さなければならない!

 とうとう彼女を探し出せて再び逢えた。中学二年生の時のように彼女の真横にいられて、中学校の卒業式の日のように彼女と向き合えたし、彼女は僕が横にいるのを厭がらずに真横にいさせてくれた。彼女の事だから僕を嫌(きら)っていて傍(そば)にいられるのが厭で許せないなら、彼女はさっさと途中のバス停でバスを降りていたし、忠誠ポーズへの返礼もしないと思う。

(彼女は、……僕と出逢うのを望んでいたんだ!)

 アクティブな思いを秘めてパッシブに待ち続けてくれた彼女に僕は感動していた。彼女が降車して空いた席に座りシートに残る彼女の温(ぬく)もりを感じたいのに、僕の足は彼女に出逢えた感動で小刻(こきざ)みに震(ふる)えて竦(すく)み、乗り継ぎをする香林坊のバス停に着くまで動く事ができなかった。

 翌日の朝も彼女は同じ時刻のバスの同じ降車口前の最前席に座り、バス待ちしている僕を目線が追い続けていた。通学のバス路線を尋(たず)ねても何も答えず、まるで、『探せば』とか『見付けてみれば』のライトノベルのミステリー調に、金澤(かなざわ)神社への初詣(はつもうで)で彼女に気付かなかった僕の想いを試(ため)していたのかも知れない。

(やはり彼女は、僕に見付けてられるのを待っていた……のか? ……そっ、そうなのか?)

 昨日に続いて今日からの毎朝、この時刻のバスのこの立ち位置が僕の定位置になった。

(彼女の近くにいて、彼女を守りたい!)

 彼女から断られているから今は声を掛けられないけれど、そのうちに彼女から話し掛けてくれて普通にカレ、カノで話せるようになると思う。……どうしても、話せるようになりたいです。……御願いだから、話せるようになるようにして下さい。

(僕はもう、五体投地で君に御願いしたい!)

 だけど、昨日と同じ忠誠ポーズをしても、彼女はチラ見する事も、見送る事もなく、さっさと乗り継ぎのバス停へ向かってしまった。

(あの彼女のポーズは、返礼じゃなかったのか? 単なる僕の勘違い?)

 以後も乗車するバスを変更される事はなかったから、僕を見たくもないくらいに、近寄られたくないほどに、厭で厭でしょうがなくて避けたいとは思っていないみたいだった。でも、返礼がされなくなった忠誠ポーズは一週間ほどで恥ずかしくなって止めてしまう。

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 彼女の隣に座った直後にマナーモードにした携帯電話が震えた。振動リズムがメールの着信を知らせる。メールの送り主(ぬし)は中学生の時からのダチだった。

『あとで遊びに行く』とあり、『OK』と返信する。さっきもメールが有った。弓道部の同級生からで、『帰りに八番ラーメンかチューで食っていこう』と誘われたが、『すまん。もうバスに乗った。今日は帰る。明日(あす)行こう』と返した。

(八番ラーメンなら、味噌バターチャーシューだな!)

 いつもオーダーする、『八番ラーメン』の味噌野菜ラーメンのバターとチャーシューをトッピングした大盛りは、とても魅力的で独特の味噌味にキャベツ主体の野菜の旨味(うまみ)がコラボしたスープを、バターの風味とラー油の辛味(からみ)を加えて、ばっちし太い縮(ちぢ)れ麺に絡(から)ませた味を思い出すだけで涎(よだれ)が出て来る。パリパリな餃子(ぎょうざ)のダブルと共に、部活で体力を消耗して空腹な僕の食欲を大(おお)いにそそった。

 『チュー』のパラパラっと一粒一粒離れた御飯粒に、しっかりと旨味が絡んだチャーハンも捨(す)て難(がた)い。

(うーん、迷うな……)

 でも、今からは絶対にだめだ。僕のメールを読み金石の浜まで来て、僕のトレーニングや金波銀波(きんぱぎんぱ)の海と沈む夕陽まで見ていてくれた彼女の近くにいたかった。遠くの浜へ初めて行き、窓に凭(もた)れ掛かるくらいに疲れている彼女を僕は大切に守りたいと思う。

 横に座るのが僕だと気付いているはずなのに、姿勢を正(ただ)さず無防備に背を向けたまま、無警戒に僕を居させてくれる彼女が愛(いと)おしい。……この場合、やはり友情や仲間意識よりも恋だろう。

 彼女の横で何も話し掛けず、顔も会わさず、前を見て座っているだけだけど、背中に翼が生(は)えて舞い上がるかも知れないほど、気持ちが高揚して心が満たされている。僕の至福の時間を邪魔されたくなかった。これから先、こんなチャンスは無いかも知れない。

(うっ……)

 不快な臭(にお)いが僕の鼻腔を通り肺に吸い込まれた。鼻腔の嗅覚細胞を全部一遍(いっぺん)に針の先で突かれたような、チクチクでツーンと息が詰まって、呼吸が苦しくなってしまうニンニクを食べた後の息の臭いがした。僕は周りを見渡す。辺りはどの席もうちの高校の生徒ばかりで、バスを待つ間にニンニク臭を嗅(か)いだ憶(おぼ)えは無かった。

(となると、ニンニク臭の犯人は彼女か……?)

 鼻を近付けて確(たし)かめると、やはり独特の空気を圧(あっ)する臭いで息が詰まり目に刺さる辛さで涙ぐみ、犯人は隣の彼女に間違いなかった。仄(ほの)かにラーメンの匂(にお)いも漂(ただよ)っている。まるで彼女が人を寄せ付けない無色透明な化学兵器のバリアーに覆われているようだ。

 彼女は海を見ていて遅くなったのじゃなかった。

(そうか、金石でラーメンを食べていたから、こんな時間になってしまったんだ)

 臭いの元凶が彼女だと分かると、僕はニンニクの臭さなんて全く関係無くなってしまう。臭くても、身窄(みすぼ)らしくても、大好きな彼女に変わりは無い。無自覚で他人に迷惑や害を与え見るに堪えない事をする彼女でも、僕は彼女を庇(かば)い、諭(さと)し、改(あらた)めさせなければならないだろう。でも、どうしてもと彼女が言うのならば、僕もいっしょに罪を責負うと心に決めていた。

 人を好きになり恋をするという事は、そういう事だと思っている。

 南町(みなみちょう)のオフィス街を過ぎ、バスは乗り継ぎの為に降りなければならない香林坊のバス停に近付いた。家に帰るのならば彼女は僕と同じ路線に乗り継いで、僕の降りる家の近くのバス停より更に二つ先だから次でいっしょに降りなければならないはずだ。

 そっと彼女を見ると、相変わらずイヤホンをしたまま頬杖をして外を見ていた。規則正しい静かな呼吸が小さく肩を上下させている。その小さく揺れるような動き以外は微動だにしない……。

(……これは、もしかして……、やはり寝ている?)

 僕は体を回して彼女の横顔を見た。ニンニクの臭いがキツくなるけれど構わない。

(やっぱり寝ていた…… 目を瞑(つむ)っている)

 閉じた瞼(まぶた)の睫毛(まつげ)が愛らしい。僕の荒(あら)い息で彼女の髪が揺れた。

(僕に凭れて眠ってくれれば良いのに)

 僕は今、キスができるほど彼女へ大接近している。リップグロスやシャインリップを使っているのだろう、潤(うるお)った艶(つや)やかな唇が愛くるしい。触れるくらいの近さを意識するだけで僕の興奮した荒い息は震え、心拍はマーチングバンドのドラムのように急連打して、部活のトレーニングと弓道場の後片付けで、疲労した身体にアドレナリンを駆け巡(めぐ)らせる。

 いつもの通学コースと違う遠くまで来て疲れたのだ。きっと金石まで行ったのも初めてで、夕陽が沈んでも小さな砂丘の上から更(ふ)け行く海を見ていたのだろう。疲れて眠る彼女の髪を撫(な)で上げて、少し陽に焼けた感じの綺麗な頬を慈(いつく)しみたい。

(ゴックン!)

 無意識に唇を舐(な)め生唾を飲み込んだ。バスは新聞社前の交差点を越して行く。あと二百メートルほどだ。僕は震える息を深く吐き出して、彼女の息でニンニクの臭いが充満するバリアーの中の空気を大きく吸い込んだ。

(いっ、今がチャンスだ!)

 彼女の耳に付けたインナータイプの光るイヤホンから小さく音が漏(も)れていた。その小さく漏れ聴こえる急(きゅう)テンポなスイングダンス風のリズムは、まるでエンターテインメントやサーカスショーの、クライマックスに集中させるドラムロールのように響(ひび)いて、恋焦(こいこ)がれる想いに後戻りできない焦(あせ)りの意識がプラスされた僕を激しく突き動かす。

(しょっ、しょうがないなぁ……。うう……、やっ、やるぞ!)

 明確に自分が欲(ほっ)する望みなのにブラックピンクな自分と、魅惑的に誘う彼女のリップの所為(せい)にする免罪符が欲(ほ)しい。アドレナリンの興奮に疲労で分泌(ぶんぴつ)された脳内麻薬物質のエンドルフィンが合わさり、僕の自制と冷静さを麻痺(まひ)させて衝動に走らせて行く。

 バスの揺れに合わせ、かなり無理な体勢で顔を窓ガラスの摺(す)り付ける。

(揺れのタイミングを誤(あやま)ると、顔ごとぶつけてしまいそうだ……。……あっ! うっ!)

 慎重にしなければと思った瞬間、大きく振られるような揺れが車窓のガラスで反射した車内灯の光りに、青白く照らされる妖艶(ようえん)な唇の直ぐ横の頬と、くすむピンク色の悩ましい唇の端に強く印を押すようなハードタッチのキスをさせた。

(げっ、げげっ!)

 キスを気付かれたら終わりだ! キスに動揺した彼女は怒(いか)りだすだろう。僕の頬を力任(ちからまか)せに思いっ切り引っ叩(ぱた)き、軽蔑され、未来永劫(みらいえいごう)嫌われる。僕は一巻の終わりでサドンデスだ。そう思ったけれど、この卑怯(ひきょう)でも巡り逢わせたチャンスを失いたくないと、脅迫めいたどうしようも無い衝動を抑(おさ)え切れなかった。

(た、頼む…… 今、目を開けないでくれ……。気付いても、気付かないフリをしてくれー)

 彼女の閉じた瞼の脇と眉間に皺が寄った刹那(せつな)、揺れの頂点で瞬間的なキスは終り、揺れ戻しに押さえ込まれないように唇が離れるタッチ・アンド・ゴーのタイミングで、さっと身を戻す。直ぐに彼女がビクっと身体を震わせて起き出したのが分かった。僕は急いで体勢を整えながら、バスの揺れの不可抗力で体が当たったフリをして彼女の背を押す。いや、押すというより突くように当たってしまった。

 背中を押されたのに気付いて覚醒した彼女は、慌てて顔を起こしバスの中を見てから窓の外を見た。そして勢い良く振り返って僕を見る。今、自分のいる場所、状況、すべき事を瞬時に理解したようだ。僕を見る彼女の顰(しか)めっ面(つら)に背中を押したのが、かなり痛くて恨(うら)みを買ったかも知れないと思う。

 視界の隅(すみ)に映る彼女の仕種(しぐさ)に、それらを感じながら僕は立ち上がり天井の手摺を掴(つか)む。天井にも設置されている降車ブザーを押して彼女を見ると、彼女は僕を追うように急ぎ立ち上がったところで、怪訝な目付きで僕を見る。その見合う目を反射的に逸らし、僕はバスの前部に在る降車口へと視線を流す。

(さぁ、僕に付いて来い。バスを乗り継ぐぞ!)

 僕の唇を二つに分けて残る彼女の唇と被ってしまった頬の温かさが嬉しく、その張りの有る柔(やわ)らかさが愛しい。それは少しラーメンと餃子の味と匂いのする僕の一撃離脱のファーストキスだった。

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 乗り継ぎのバス停へ歩く間、ニンニクの臭いで僕の真後ろに彼女が付いて来ているのを分かっていた。歩いて疲れを思い出した身体がエンドルフィンを追加分泌させ、悟られず知られずの罪深いキスで、ドキドキさせていたアドレナリンの興奮を冷(さ)まし、気怠い気分でも落ち着いた思考を回復させた。

 乗り継いだバスの中で彼女は前方の座席に座っている。車窓に凭れて、どうも居眠りの続きをしているように見えた。彼女は僕が降車するバス停より更に二つ先のバス停で降りる。このバスの終点は彼女の降りるバス停よりずっと先の湯涌(ゆわく)温泉だ。

 バスは空いていて僕ら以外に乗客は二、三人だけ。流石(さすが)に今は気恥ずかしくて朝のバスのように彼女の横に立てない。互(たが)いに相手を意識しながら顔を逸らして何も語(かた)らない二人は、無言で無視し合う痴話喧嘩(ちわけんか)をする高校生バカップルに見えるかも知れない。きっと横に立つ僕は嫌がられ避(さ)けられている女子高校生に、しつこく無理強(むりじ)いを迫るストーカーや執念深い野郎と思われるに決まっている。それに、こんなに空いていると近しく仲の良い男女ならば二人掛けの座席へ座るはずだと思う。

 居眠りする彼女は降車するバス停を乗り過してしまうかも知れない。バスは小立野(こだつの)の通りを過ぎて行く。そろそろ乗り過さないように彼女を起こしてあげなければならない。でも、さっきみたいにキスはできない。それとも僕が降りる時にワザとらしくぶつかってみるか。

 彼女に気が付いて隣に座った畝田からここまでの間、彼女の携帯電話に一度も着信が無かった。乗り継ぎのバスが来るバス停まで、僕の後ろを少し離れて歩いていた時も、バス停で会話も無くバスを待つ間も、着信を知らせるメロディーやマナーモードの振動音は聞こえなかった。

 携帯電話をチェックする素振りや、メールを操作する仕草もしなかった。この時間帯にメールを交換しあう相手はいないのだろうか?

(彼氏(かれし)がいるなら普通、しょっちゅうメールをしているはずだよな)

 それならと僕はキーを打ち込み彼女にメールを送る。直ぐに低くて小さなバイブレーション音が、前部の座席に座る彼女の方から聞こえ、静かな車内に響いた。

 ほんの数メートル前の彼女の後ろ姿がビクッと揺れる。そして携帯電話を取り出し僕からのメールをチェックしているのだろう、そんな様子に見えた。それから、たぶん僕宛てへ返信すると思われる一連の画面操作をするような肩を揺らす後ろ姿の後、彼女の動きは停まった。

(良かったぁ! 彼女は起きてくれた……)

 乗り越さないようにと、居眠りしていた彼女をメールの着信で起こす。

(凄(すご)くリアルだ! これは、ちょっと良い感じのムードだ。嬉しいシチュエーションかも知れない)

『起きたぁ~?』とか、『乗り過さないように!』なんて、ウザい老婆心みたいなのはメールに打っていない。

 高まる返信の期待で鼓動は限界寸前のフォルティッシモを繰り返す。体中で激しく脈打ち、あっちこっちがズキズキと痛くて息が詰まる中、ぎゅっと握り締めた携帯電話が震え着信を知らせた。彼女からの返信だ。

『見に来てくれて、ありがとう』と送ったメールに、ないしょでキスしたとは、とても書き加えられなかった。

【別に。あんたに会いに行ったんじゃないよ。金石の海を見に行ったんだからね】

 つれなくて寂(さび)しい文面に悲(かな)しくなる。

(わかっているよ……)

 彼女が、そう返して来るのは分かっていた。楽しさがほんの少しでもいいから、そのままメールの遣り取りを続けたいと思っていたのに、これじゃあ無理だ。これに返信すれば、きっと更に惨(むご)いメールが届くだろう。

 ハイテンションなモチベーションが急角度で落下して地(じ)べたを這(は)いずり廻り、気持ちは急冷却され畏縮した。

 ほどなくして家の近くのバス停に着き彼女の脇を通り降車口へ急いだ。通りがけに振り返り彼女を見る僕と、横を通り過ぎる僕を見上げた彼女と目が合った。なのに直ぐに互いが顔を逸らしてしまう。無表情に見上げる何も読み取れない彼女の瞳が、僕の畏縮する気持ちに追い打ちをかけて締め上げる。それでも、僕は背を伸ばすと胸を反(そ)らして姿勢を正し、精一杯に気丈夫を装(よそお)う見栄(みえ)を張ってバスを降りた。

 後ろを振り向かずに歩く僕をバスは追いこして行く。脇を通るバスの車窓に僕を見下ろす彼女の横顔が見え、僅かでも彼女の表情に希望を抱(いだ)ける色が見えないかと目を凝(こ)らすけれど、遠ざかる無表情な彼女は忽ち夜の闇に紛(まぎ)れてしまう。

     *

 バスを降りてから目の前の交差点の横断歩道を渡り、百メートルほどの長さしかない需要性を失って頓挫(とんざ)した都市計画道路の証(あかし)のような広い道路を進む。向こうの端は旧湯涌街道とT字に交(まじ)わる。その突き当りを左へ折れて狭っ苦しい旧街道へ入ると直ぐに、右手の家並みの間にポッカリと歯が抜けたような二間(けん)ほどの巾で、空の見える何も無い空間が在る。そして、僕の家はそこに在った。

 別の次元に繋(つな)がるような何も無い空間の縁(ふち)に立つと、向かい側に昼間は緑多き寺町(てらまち)台地の家並みと緩(ゆる)やかに曲がる野田山(のだやま)の濃緑の稜線が広がり、夜は俯瞰(ふかん)した住宅街の灯(あか)りで見る度に逸(はや)る帰宅心と相俟(あいま)って、温かい安らぎで心が潤う。

 足元の空間の縁からは、その別次元に繋がる立坂(たてざか)が在る。僕が立つ小立野台地と下の犀川河岸段丘を行き来する通路だ。河川沿いの平地と河岸段丘と台地は、それぞれに生活圏を持ち、ある意味、別々の世界のようなものかも知れない。子供の頃、夜は本当に眼下の暗闇に広がる異世界へ行く、物(もの)ノ怪(け)が潜(ひそ)む暗がりだらけのゲートのように思えて怖(こわ)がっていた。

 金沢市は台地と丘の街で短い急坂が多い。中央の小立野台地を挟むように、北に卯辰山、南に寺町台地が在り、卯辰山との間に流れる浅野川(あさのがわ)が河北潟(かほくがた)へ注(そそ)ぎ、寺町台地側には犀川が日本海まで流れている。三小牛山(みつこうじやま)から連なる野田山と大乗寺山(だいじょうじやま)が、緩やかな起伏で伏せている寺町台地は、犀川側が段丘の急斜面を成し、その先端は滑(なめ)らかに金沢平野へと続いている。

 小立野台地の先端には、全国的にけっこう有名な兼六園と金沢城が在る。金沢城は兼六園と地峡のような百間堀で切り離されていて、そこを渡る情緒の無いコンクリート製の橋が、金沢城の石川門(いしかわもん)と兼六園の北西の端を繋げている。

 立坂は坂とは名ばかりで、実際はコンクリート製のやや『くの字』に折れた六十八段の階段だ。脇の水路は辰巳(たつみ)用水から分けられた水が流れて、大雨の時には引き込まれそうになるほどの大量の水が、怖いくらいの勢いで流れ落ちる。

 立坂を降り切ると直ぐに僕の家だ。立坂を降りようとした時に携帯電話が、メールのリズミカルな着信震動とメロディーを奏でた。

【ほんとに夕陽が綺麗だった。あんたもイイ顔していたよ。でもスケベだったね】

 返されたメールの文面にホッとした。確かに僕はスケベだ。魔が差したとはいえ、彼女の黒い下着を覗き見て、寝ていて気付かない彼女の頬と唇に断わりも無く黙って勝手にキスをした。

(単純だ! 僕は本当に単純だな。……ん! もしかして、彼女はキスに気付いていたのか?)

 彼女からのメールでモチベーションを持ち直した自分に呆(あき)れながら、僕は救われたような、すっきりした晴れやかな気分で立坂を駆け降りた。

(僕はスケベだ! でもイイ顔してるんだ!)

 何か勘違いっぽいけれど、そう彼女に思われたのが無性に嬉しかった。

 翌日の朝のバスで彼女の横にたつ僕は、彼女の頬と唇ばかり見ていた。魅力的な白い頬と少しだけ触れた唇の弾力と匂いを思い出しながら、僕は反省していた。大好きで恋焦がれる彼女だけど、寝ていて気付かない彼女へ衝動に駆られてしたキスは、いろいろと考えた言い訳のどれで繕(つくろ)っても卑怯だった。バスから降りて僕を見上げる彼女に、今後、二度と卑怯な振る舞いはしないと心から誓った。

 その日の放課後、部活中に彼女からメールが届いていた。

【バスの中で、起こしてくれてありがとう。……ねぇ、あんた。私にキスした?】

 ギクッと来てドッと冷(ひ)や汗が出た。部活中は携帯電話の電源を切っていたから、部活が済み次第に受信チェックをして帰りのバスの中で返信する。

【していない】

 僕は惚(とぼ)けた。やはり彼女は疑惑を持っている。でも正直に答えれるはずが無い。

 黙って執(と)った無断行為は中学二年生での無記名メール告白に続いて二度目だ! とても許される事ではないに決まっている!

『頬にキスをした』と返信したら、きっと一気に責(せ)め上げられて性犯罪者や変態や変質者呼ばわりされる。認(みと)めたら最後、彼女の事だから宇宙の果てほどの距離で避けられて、一生気不味いままになるだろう。

【本当に?】

 彼女は念を押しに来る。まるで尋問だ。知らぬ存知ぬで通して回答は暈すしかない。

【ほんとに。なぜ、そう思う?】

 逆にキス疑惑の根拠を質問して遣った。彼女の返答によっては、『夢でも見てたんじゃないの? 夢で見るほどキスしたいわけ?』って冗談まじりに夢落ちにしてやろうと思う。実際、彼女は寝ていたんだから夢落ちでも成立する。でも、それだと更に疑われそうで、この先キス疑惑が僕の恋路の障害になりかねない。

 その後、彼女からの返信は無くて、数日後に僕から新(あら)たなメールを送るまで彼女からのメールは途絶(とだ)えた。再開されて交換する互いのメールは、日常の在り来たりな愚痴(ぐち)や悩みばかりで、再びキス疑惑に触れる事は無かった。メール不通の数日間と日常的なメールの内容から僕は、敢(あ)えて彼女がキス疑惑に自ら触れるのを避けている感じがした。

 それからも、毎朝のバスの中で真ん前に座る彼女の脇へ立つ度に、僕は二度と卑怯な真似(まね)をしないと心に誓う。

 後悔が薄れるまでかなりの月日が必要だったけれど、誓いはしっかりと心に刻まれている。

 

 ---つづく