遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

金石の浜(僕 高校一年生 ) 桜の匂い 第五章 壱

 畝田町(うねだまち)の学校から、金石(かないわ)街道を三キロメートルほど走った、金石の浜と防波堤沿いの海岸道路で、腕立て伏せ、腹筋に背筋、ジャンプにダッシュにスクワット、それに、基本となる八節(はっせつ)の動作と礼節を、ビシッ、バシッと、擬音(ぎおん)通りにドツかれてながら、叩(たた)き込まれる。
 そんな、トレーニングメニューを四、五回は繰り返す。
 この、同じメニューを繰り返すトレーニングを、先輩達は、サーキットトレーニングと呼(よ)んでいた。
 サーキットトレーニングを熟(こな)すと、また走り、大野(おおの)の港橋の袂(たもと)を曲がって、学校へ戻(もど)る。
 コース全長、約六キロメートル、二時間半のトレーニングコースだ。
 月曜から水曜までの三日間は、持久力と体格を得る為(ため)に、筋力トレーニングを行う。
 中学校では、スポーツクラブに入っていなかったけれど、陸上競技は好きだった。でも、こんなに遠い距離を走った事は無かったし、これほど、長い時間を運動に費(つい)やした事も無かった。
 最初の一ヶ月は、先輩達に全(まった)く付いて行けない。
 新入部員の指導には、数人の先輩が付き添(そ)って走ってくれているけれど、僕はいつも、五分以上も
遅(おく)れて金石の浜に着いてしまう。それに、トレーニングメニューは、三分の一も熟せていなかった。
 息が切れて、声を出せない。
 心臓が、バクバク激(はげ)しく動悸して、今にも世界が終わりそうだ。
 視界の周りに糸蚯蚓(いとみみず)のような、ウネウネと動く光る銀線が、次々と、たくさん現(あらわ)れては消えて行く。
 これが、初めて見た、星が出ると言う事らしいけれど、少しも、星らしく見えない。
 目眩(めまい)いと頭痛がして来る。
 米神(こめかみ)が、ズキズキと痛み、もうちょっとで、脈動する太い血管が破(やぶ)れて、一気に血が噴(ふ)き出て来そうだ。
 胃から酸っぱいのが上がって来て、咽喉(のど)がヒリヒリと焼けるように痛い。
 胸がムカムカして、やたらと唾(つば)を吐(は)き、海水で口を漱(すす)いだら、更(さら)に、痛みとムカつきが酷(ひど)くなってしまった。
 僕は、一年生の中で一番遅くて鈍(にぶ)い、全くの、ヘタレだった。
 高校に入学して間(ま)も無く、僕は、部活に弓道部を選んだ。
 弓を射(い)るのは、ただ、弓を引いて的(まと)に矢を当てるだけの、ゲームみたいなイメージだったのに、こんなに、トレーニングをするなんて思ってもみなかった。
 日本の武道で個人競技、柔道や剣道のような技と体力と体格差、それに、気合いの勝負じゃない。
 極(ごく)少ない静かな動きで、矢を的に当て、より多く、当てた者が勝つ。
 的は、反撃して来ない。
 自分自身との戦(たたか)いだけで、何より、物臭(ものぐさ)な僕向きの武道だと思えた。
 僕は、彼女の気を引こうと思い、部活を弓道に決めた。
 既(すで)に、ピアニストの夢を諦(あきら)めてしまった彼女だけど、いつも僕は、『僕には、何もない』という、引け目も、負(お)い目も無く、彼女の横へ立ちたいと思っていた。
 楽器は、何も奏(かな)でられない僕だから、協奏は無理。
 ならばと、彼女のピアノのパフォーマンスに負けない感動させる何かを、常に探していた。そして、僕は弓道を見付けた。
 僕に、弓道の才能が有るのか分からない。けれど、弓道なら、自分自身の努力で得た技能とセンスでヒーローになれるし、ヒーローになれば、スタンドプレーのパフォーマンスも、或(あ)る程度(ていど)は許(ゆる)されるだろう。それに、部長に成れれば、弓道部の戦い方も、自分色にできる。
 初めて、弓道部の練習を見た時に、彼女と並べる自分探しができると、そう思った。
(大会で優勝したら、モテモテで、彼女は、僕の虜(とりこ)になるかも……)
 そうなる可能性は、大きい……。そんな、チャラくて不純な動機で入部した。しかし、実際は全然違う。
 現実は厳(きび)しくて、この様だ。
 何事も、鍛錬(たんれん)を無くして事は成(な)さない。
(ううっ…… 気持ち悪くて、……吐きそう)
 再(ふたた)び、胃から続けに酸っぱい物が上がって来て、頬(ほお)が膨(ふく)らむくらいに、閉じた口の中をいっぱいにする。
 それを、先輩達に悟(さと)られないように両手で顔を覆(おお)いながら、僕は、無理矢理飲み下している。
 酸っぱくて、ネバネバする口の中は、ムカつきがブリ返すほど気持ち悪い。
 砂浜で、二度のトレーニングメニューを熟した後(あと)、みんなは、海岸道路の方を見ながらザワ付き出だした。
「あれは、女子高校生だよな。珍(めずら)しいな、あんなところに立って、一人で何してんだろ?」
 誰ともなしに、言っているのが聞こえた。
 見ると、海岸道路の向こう、土手のような小さな砂丘の端(はし)に、見覚えの有る高校の制服を着た女の子が立っていた。
(あれ! あの、制服は……)
 遠くでも、僕は一目(ひとめ)で分かった。
(彼女だ! 来たんだ。……僕に会いに……、いや、違うだろ! 夕陽を見に来てくれたんだ)
 金石の浜でのトレーニングの事は、一週間ほど前に彼女へメールで知らせていた。
【週の前半の三日間は、天候が良ければ、学校から金石までランニングです。金石の砂浜で、トレーニングのメニューを四、五回繰り返します。それからまた、ランニングをして大野(おおの)新橋の袂(たもと)を曲がり、学校へ戻ります。このトレーニングで、体格と筋力を造っています。雨降りや寒い日は、校舎内で同じように、ランニングとトレーニングメニューをします。夕陽を受けて、日本海の金波銀波に輝く波頭(なみがしら)が綺麗です。水平線に落ちて行く真っ赤(まっか)な太陽と、金色(こんじき)に棚引(たなび)く雲は、本当に綺麗です。トレーニングは辛(つら)くて、走り出す直前まで、気持ちがナーバスですが、その夕陽の海を見ると、辛いことを忘れてしまいます。きっと僕は、この景色が見たくて走っているのかも知れません。暇(ひま)が有っても、無くても、一度、金石の砂丘の上から、夕焼けの海を見て下さい】
 送ってしまったメールを読み返すと、後半が、何処かの岬に建つペンションからの宿泊を誘(さそ)う観光案内みたいで、恥ずかしくなった。
 とても、『頑張る僕を、見に来てくれ』とは、ヘタレな自分を晒すようで打ち込めず、週の後半のトレーニングをしていない曜日に来るかもしれないのに、『魅力的な風景を観ましょう』の誘いをした。
 彼女とは相変(あいか)わらず、中学校卒業の日の距離感のままに、リアルはメール文のフレンドリーさに程遠(ほどとお)く、通学コースも違う、離(はな)れた別々の高校に進学した為に、先日の偶然の出逢いまで姿を見る事は無かった。
 だから、勘違いは出来ない。
 メールに誘われて、見に来る事は有っても、まだ、僕に会いに来てくれる事は無い。
(メールの返事は、寄越さない癖(くせ)に、いきなり、見に来るんだ……)
 でも、此処(ここ)まで見に来るだけ、アクティブになっているから、ちっとは、彼女の気持ちに揺(ゆ)らぎが出始めているのかも知れない。
「おい! 近くまで見に行くぞ! 今日は、コースを変更する」
 部長が大声で指示を出し、いつもの半分で浜でのトレーニングを切り上げて、海岸道路へと部長を先頭に全員が走りだした。
 ランニングコースをショートカットして、彼女が立つ、砂丘の正面へ向かう道路を走る。
 近付くにつれて、彼女だと確信した。
 みんなから遅れて最後尾を走る頃には、もう彼女は、間近になっていて、そこに彼女が居て、僕を見ていると意識しただけで、一気に気持ちが高揚(こうよう)して、走りで喘(あえ)ぐ僕を更に息苦しくさせた。
 先輩や同期達は、僕を置いて先を走り、せっかく、彼女が来てくれたのに、僕はカッコイイところを少しも見せられない。
 海岸道路に出るころには、息絶(た)え絶(だ)えに仰(あお)ぎ見る僕を、彼女は砂丘の上から見下(みお)ろしていた。
 浜でのダッシュやジャンプを繰り返したトレーニングで、乱れた呼吸を整(ととの)えられないまま、走り続けた僕は、海岸道路の高機能アスファルトの路面を踏んだ途端に、ブラックアウトに襲(おそ)われた。
 視野の周囲から急速に暗くなり、視力が失(うしな)われて行く。
 襲って来た一時的な貧血を治(おさ)まるまで遣(や)り過(す)ごそうと、僕は立ち止まり、既に、光りが殆(ほとん)ど感じられなくなった目を閉じた。
 同時に光りの無い状態の水平と垂直の感覚が分からなくなって、ぐるりと暗闇(くらやみ)の世界が回り、よろける僕は、ブランコから落ちるみたいに倒れそうになった。
 倒れまいと足を前後に開き、しっかりと立ち位置のスタンスを確保する。
 バランスを保(たも)つのと、倒れた時の衝撃緩和(かんわ)に両手が無意識に広がった。
 グルグル回る感じに身体(からだ)が傾(かたむ)く度(たび)に、足を踏み直(なお)す。
 僕は必死で転(ころ)がらないように堪(た)えた。
 ブラックアウトを巻き戻すように、視野の中心から急速に視界と平衡(へいこう)感覚が回復して行く。
 腰を落とし両手と両足を広げて、まるで、野球のアンパイアがホームスチールしたランナーに、セーフのジャッジをするような姿勢で身構(みがま)えたまま、僕は海岸道路の路上で固(かた)まっていた。
 僅(わず)か四、五秒の出来事なのに意識が飛んで、直(す)ぐに事態を理解できない。
(どうしたんだ? ここは、どこだ?)
 左の方から人のざわめきと群(む)れる気配がして、僕は捻(ひね)るように顔を向けた。
 トレーニングウエアを着た集団が走り去って行く。
 こちらを向いている最後尾の数人が何かを叫(さけ)びながら、身振り手振りで招(まね)いている。
 どうやら、僕を呼んでいるみたいだ。
 速(すみ)やかに広がって鮮明になり行く視界と状況が、僕を儚(はかな)い微睡(まどろみ)から呼び覚(さま)し、眼前に迫(せま)る現実で圧倒した。
(はっ! そうか! 僕は、ランニング中に目眩を感じて、ここに立ち止ったんだ)
 目の前に広がる草地の斜面が、僕の意識を引き戻す。
(そうだ! 彼女は?)
 急(いそ)いで、斜面の上を見る。
(いた!)
 正面の草で覆われた砂丘から、僅かに突出した見晴らし台みたいな場所の上に彼女は立っていて、ニコリともしない無表情な顔で僕を見下ろしていた。
 彼女の瞳は、笑えない顔で見上げる、僕の目を見ていた。
 彼女を見る、その視界の下半分に、西陽(にしび)で照らされた彼女の素足(すあし)が眩(まぶ)しく見えて、悩ましくも美しいと思う。
(んん!)
 彼女の目線が気になるけれど、僕は視線の焦点を一旦、草地の斜面まで下げて、それから、彼女の足元から上へ移動させて行く。
 短くしている制服のスカートに隠(かく)れていく、スラリとした足の白さは、急速に光りを失い暗い漆黒(しっこく)の闇に消えていて、汗で湿(しめ)っぽい股間がサワサワと熱くなりだした。
(くっ、黒の… 下着……?)
 その眺(なが)めは、バクつく心臓の動悸と、息絶え絶えの肺(はい)の喘ぎを急加速させる。
(くっ、黒なんだあ。しっ、下のパンツが黒いってことは、普通は、上もコーディネートさせて……、合(あ)いの制服の下は……? ブラも黒? ゴクッ!)
 生唾(なまつば)を飲み込むような、不確実な思い込みの情報が想像を生む。
 白い太腿の付け根を隠すスカートの奥に、黒い下着を着けていると思うだけで居た堪れない。
 その暈(ぼや)けたイメージが固まるに連(つ)れて、ムクムクと股間が痛く固まって来ている!
(あぅ、やばい! そっ、想像するな! 見るな! 目を逸(そ)らせ! かっ、彼女に気付かれてしまう……)
見ないようにしなければと思うほど、その闇をもっと良く見てみたくて眼が離れなくなり、瞬(またた)きもしないで僕は見据(みす)え続けた。
(あっちゃー。だっ、だめだ! こっ、こんな時に! もう、だめだぁー)
 疲労から来る生殖本能も加わって、ビクビクと股間が痛いくらいに張って来る。
 むず痒(がゆ)さを伴(ともな)う痛みに思わず反射的に力(りき)むと、ジャージの中で一気に張り詰(つ)めて持ち上がってしまう。
(あーっ、まずい! 彼女を……、彼女の顔を見ろ!)
 さっと彼女の顔を見て、僕は青ざめた。
 いつポーズをとったのか気が付かなったけれど、恥ずかしがるようにスカートの裾(すそ)を押さえて、覗(のぞ)かれるのを隠そうとする素振りも見せず、両手を腰に宛(あ)てがい、仁王像のように堂々と構(かま)え、眉間(みけん)に寄せる皺(しわ)と米神に青筋を立てる彼女は、じっと、僕を見下ろして睨(にら)み付けていた。そして、無言を決める唇は、への字だった!
(げげっ!)
 その恐(おそ)ろしげで冷(つめ)たい表情に、恥ずかしさと驚きでビビってしまった。
 彼女の顔に戻した僕の瞳は、逃げ場を求めて揺れ惑(まど)う。
 僕の視線が戻るのを見計(みはか)ったように、彼女の口が動く。
 それは、ゆっくりと二つの発音の動きをした。
『バーカ』
 声にせず、唇だけが動いて言った。
 そうはっきりと、聞こえた気がした。
 上から目線そのものの彼女の冷たい視線は、ヘタレでスケベな僕に容赦(ようしゃ)なく突き刺さり、道の真ん中でセーフポーズで固まったまま、彼女のスカートの中を覗くような痴漢行為を働く僕は、本当にバカみたいだ。
 今にも、河川敷の堤(つつみ)ほどの砂丘から彼女が鬼の形相で駆け降りて来て、僕の頬を往復で平手打ちしそうな気配がする。
 動く……、いや、逃げるタイミング…… を失った僕を呼ぶ声が聞こえた。
 その声の方を向くと三十メートルほど離れて、弓道部の同期達が大声で僕を呼んで急(せ)かしていた。
「おーい、早く来―い」
(ハッ、そうだった!)
 部活のトレーニングの真っ最中(まっさいちゅう)だった。
 部活中だという事を、すっかり忘(わす)れるくらいに、夕陽を見に来た彼女に出逢っただけで、僕は舞い上がって思考は停滞してしまった。そして今は、股間とは対照的に、気持ちは萎縮(いしゅく)している。
「なにしてんだよぉ! 知らない女子にぃ、見蕩(みと)れてんじゃねーよぉ!」
 同期の仲の良い奴が、叫ぶような大声で言った。
(バカ野郎! いらんことを、言うんじゃねぇ)
「もしかしてぇ、おまえの知り合いかぁ?」
 先輩の一人が、デカイ声で言う。
 そうですけど、あとで話がややこしくなるから聞き流す。
「やっぱぁ、知った女子じゃねぇだろう。スカートの中ぁ、覗いていたしなぁ? スケベな奴だなぁ~。しっかりぃ、見たかぁ。おまえのぉ、あそこもぉ、デカくしてるしなぁー」
 同期達と先輩達が、みんなで僕をからかう。
(あっちゃー、めっちゃ図星で、すっげー恥ずかしい!)
 くっきりと、外見からでも分かると思う、股間の張りは、彼女も、しっかりと見ているのに違いない。
(やめてくれー、そんな大きな声で言うなぁー! ばっちし、彼女に聞こえているし……)
 恥ずかしさに俯(うつむ)いたまま、僕は、みんなに追い着こうと、全力で駆け出した。
 良し悪しは兎(と)も角(かく)、それは、思いがけない非常にラッキーなタイミングの出来事だった。
(見た! 黒のショーツだった! しっかりと見てしまった!)
 学校へ戻るトレーニングコースの殿(しんがり)を走る僕の股間のイチモツは、繰り返し蘇(よみが)える鮮明な記憶の映像にズキズキと痛いほど張り詰めていた。
(……でも? なぜ、彼女は恥じらわなかったのだろう?)
     *
 上級生達は既に帰り、一年生達が日課となっている弓道場の後片付けと掃除を済(す)ませ、射場の戸締まりをして退場の一礼をする頃には、夜の帳(とばり)が辺(あた)りを包(つつ)み掛けていた。
 金石街道のバス停で来るべきバスを待つ視線の果(は)て、西の空の低空と地平際に残るカーマインレッド色とオレンジ色の明るさが、漆黒の上空から迫る深い藍色(あいいろ)で急速に色褪(いろあ)せて閉ざされて行く。
 程なくして濁(にご)って行く空を背景に、バスが来るのが見えた。
 金石のバスターミナルを始発とするそのバスで香林坊(こうりんぼう)まで行き、錦町(にしきまち)、土清水(つっちょうず)方面へのバスに乗り換える。
 別に香林坊まで行かなくて、武蔵(むさし)が辻(つじ)で橋場町(はしばちょう)経由に乗り換えるのも有りだれど、少しでも長く眠りたいから香林坊まで乗っている。それに、気が向いたら片町(かたまち)や竪町(たてまち)の界隈(かいわい)で、ラーメンやお好(この)み焼きを食べるか、喫茶店でブレンドコーヒーを飲んでから帰っていた。
 乗客の殆どが武蔵が辻までに降車して、香林坊以遠まで行く客は少ない。
 いつもの最後尾の窓際の席を確保して、誰(だれ)にも邪魔されずに爆睡できるようにする為、バス待ちの最前列に立つ。
 この時刻、バス待ちの連中は、部活の後片付けで遅(おそ)くなった一年生ばかりだ。
 勢い良くバスに乗り込み、いつもの一番後ろの座席へ向かうと、既に女の人が座っていた。
(珍しいな……)
 帰宅で混(こ)み合う時間帯の過ぎたバスの車内はガラガラの空(す)き具合で、大抵(たいてい)はバスを待っていた生徒達の全員が座れていた。
 僕の場所と決めている最後尾の其の席に、これまで座る乗客を見た事がなくて、僕は何処に座ろうかと迷ってしまう。
 仕方が無いので、反対側の最後尾の座席に向かおうとした。
 僕の後ろからは、次々と部活の終わった生徒達が乗り込んで来る。
 五人掛けの最後列の座席は、僕のいつもの席以外は空(あ)いていて、わざわざ女性の横に行って座るのは抵抗が有って躊躇(ためら)った。それと、ワザとらしさが、厭(いや)らしい下心を含(ふく)んでいると思われそうだ。
 いつもの座席に座っていたのは、大人(おとな)の女性じゃなくて女子高校生だった。
 尚更(なおさら)、抵抗は強まって、横には座れない。
 いつもの僕の指定席のような場所に座る女子高校生の、頬杖(ほおづえ)を突いて上半身ごと窓の外へ向けた顔は、暗く影になって良く見えない。
 音楽でも聴いているのだろうか、耳に掛かる髪の間から白いイヤホンコードが見えて、その先端の髪で隠れた耳の辺りがチカチカと小さく光っていた。たぶん、イヤホンに組み込まれたLED素子が曲のリズムに連動して瞬いているのだろう。
 組んだルーズっぽい白いハイソックスを穿(は)いた素足は、短めなスカートから曝(さら)け出た太腿(ふともも)が車内灯の灯(あか)りに白く映(は)えて眩しい。
 夕方の砂丘の上に見えた白い太腿の果て、思い出した黒い下着で赤裸々(せきらら)に厭らしい気持ちが湧(わ)き上がり、間近で眺(なが)めたい欲望に再び股間が痛み出しそうだ。
 ハイソックスをズリ落ちないように留めている、細いライトブルーのバンドがキュートだ。
 キュートさに、再び顔を見ようとした僕は、暗い窓ガラスに映(うつ)る女子高校生の顔の瞳に気付き固まった。
(彼女だ……)
 其処(そこ)に、彼女がいた!
(こんなに暗くなるまで、浜にいたのか……?)
 暗くて分からない彼女の目が、僕を見ているのが分かった。
 後ろから来た同学年の奴が、立ち止まった僕の横を擦(す)り抜(ぬ)けて彼女の方へ行こうとする。
 強引に、そいつを遮(さえぎ)って反対側へ追いやり、急いで僕は彼女の隣に座った。
「なんだよう」
 進路を妨害され、追い払われる不機嫌顔のそいつが、低い声で脅(おど)すように言う。
「すまん! 彼女だ!」
 隣りに聞こえないように、手で遮蔽(しゃへい)しながら小声で返すと、そいつの僕を睨んでいた顔が驚いた。
「マジ?」
 そいつは体と顔を傾けて頷(うなず)く僕越しに、そっぽを向いて不貞腐(ふてくさ)っているみたいな彼女を、あからさまにジロジロと値踏みすると、信じられないと驚く表情に羨望(せんぼう)を混(ま)じらせ、この状況をどのように理解したのか分らないが、大人しくなったそいつは、肩を落として無言で反対側へ移って行った。
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 雨が降り続く梅雨(つゆ)時期の朝は、暗くて物寂(ものさび)しい。
 朝のバスの中で、彼女の座席横に立つ僕は彼女を見下ろしていた。
 彼女の髪に付いた雨の雫(しずく)や、雫や露(つゆ)に濡(ぬ)れた制服の肩や背に付いた小さな染(し)みを見ていた。
 毎朝、同じバスに乗って来る彼女の座席の横へ黙って立つ僕は、きっと、ストーカーや痴漢もどきの気持ち悪い奴と思われているだろう。
 携帯電話のメールには、横に立つ事を書かない。
 時々、返信されてくる彼女のメールも、そこには触れてこなかった。
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 高校に入り、バス通学が始まった。
 香林坊のバス停で、バスを乗り継(つ)いで学校の在る畝田まで行く。
 始めは遅刻しないように余裕をみて、朝はもっと早い時刻のバスに乗っていた。
 立夏(りっか)も既に過ぎて大気が湿りだす頃、学校帰りのバスに兼六園下(けんろくえんした)のバス停から彼女が乗車して来た。
 僕に気付かないのか、無表情に僕を無視して空いた席に座る。
(彼女も、バスで通学しているんだ)
 さっそく、確認した。
 直ぐ様、彼女にメールを送ってみる。
【君も、バス通学なのですか? 朝は、どの時刻のバスに乗るのですか?】
 相変わらず、直ぐにメールの返事は来ない。
 翌日の朝から、あからさまに彼女が乗るバス探(さが)しが始まる。
 彼女が通(かよ)う高校への距離から、僕より早い時刻のバスに乗らないだろうと考え、僕の乗るバスから一つずつ遅い時刻のバスに乗り込み、彼女を探すことにした。
 彼女の諸々(もろもろ)の突発的な事情や僕の見落としが有るかも知れないので、同じ時刻のバスには二日続けて乗って確認している。
 金沢駅行きは、橋場町経由と香林坊経由の二路線が有り、他に粟崎(あわがさき)行(ゆ)きも有って、特に、朝の通勤時間帯は本数が多い。
 バス通学をしていると思う彼女探しを始めてから、既に十日が過ぎた。
 今朝(けさ)は、探し始める前に乗っていたバスより、四十分以上も遅い時刻のバスに乗る。
 これ以上、遅い時刻のバスには乗れない。
 バスの運行や僕自身の行動に、少しでもイレギュラーが起きると遅刻してしまう。
(これに乗っていないと、本当に、偶然の出逢いだけになってしまうな……)
 憂(うれ)いと僅かな期待が混ざり合う不安な気持ちで、僕はバスを待つ。
 程無くして、僅かに右に折れる道路の彼方(かなた)にバスが見え、やがて、一つ先のバス停の乗降を済ませて近付いて来る。
 バスが近付いて来るにつれて、フロントガラス越しに内部の様子が、初めは薄(う)っすらぼんやりと、そして、段々はっきりと見え出して来た。
 二つ向こうのバス停が始発なので、混み合っていなくて乗客はみんな座席に座り、車内に立っている人影は無い。
 バスは間近に迫り、運転手や座席の乗客の顔が、はっきりと見分けられるようになって来た。
(いた! やっと、見付けた!)
 バスの最前席、降車口前の座席に彼女は座っていた。
 彼女も、僕に気付いているようだけど、その姿勢や表情は少しも変わらず、減速して停車するバスの中の無感情な目線だけが、僕と交差して行く。
 車体側面の中央に有る乗車口からバスへ乗り込んだ僕は、さり気無く彼女の横に立つ。
 空いている座席が沢山有っても、彼女の後ろや向かい側の座席が空いていても、僕は座らずに彼女の横に立った。
 彼女は僅かに顔を傾けて、僕が横に来たのを察(さっ)したようだが、顔を向けて僕を見上げて来る事は無かった。
 僕も、彼女に声を掛ける勇気が無くて、朝の挨拶もできていない。
 一言(ひとこと)も話せなくて、会話は全く無かった。それでも、彼女を見付け出して近くに立って居られるだけで、僕は嬉(うれ)しくて幸せな気持ちで満ち足りていた。
 香林坊から二つ手前の兼六園下のバス停で、彼女はバスを降り、対向車線側の白鳥路入り口前に在るバス停から、柳橋(やなぎばし)方面行きのバスに乗り換えて、大樋町に在る学校へと向かう。
 ……足早(あしばや)に向かうはずなのに、降車した彼女はバスの脇で立ち止まり、いつもの薄(うす)く微笑(ほほえ)みを浮かべているような顔で僕を見上げている。
 バスが動き出しても、百間堀(ひゃっけんほり)に掛かる石川橋(いしかわばし)の石垣の向こうへバスが隠れて行くまで、彼女は僕の方を見続けていた。
 僕と出逢えて、彼女は嬉しいのだろうか?
 それとも、鬱陶(うっとう)しさと不可解さで嫌気がしているのだろうか?
 僕を睨むように見送る表情から僅かに察したのは、第六感のように曖昧(あいまい)で不確実だけど、彼女との見詰め合いで心が通い合えたように思えた事だった。
 だから、僕は抱えていた学生鞄を足許(あしもと)に置いて右手の手を握(にぎ)り、僕を見上げる彼女に向けて自分の胸に当ててみせる。
 『貴女(あなた)に忠誠を誓(ちか)い、御守り致します』と、騎士が王女へ我が身を捧(ささ)げるように忠誠ポーズを取って示した。更に跪(ひざまず)き頭(こうべ)を垂(た)れたいのだけれど、バスの中じゃできないし、彼女からは見えない。
 怪訝(けげん)な顔をされるかと、彼女の反応を見ていると、驚いた事に僕を見ていた彼女が、彼女の……、自分の胸を見てから、自分の右手を胸に付け、そしてまた、僕を見た。
 その時、バスが発進して、手を添えた自分の胸と、忠誠ポーズを取る僕を、交互に見遣(みや)る彼女を、車窓の彼方へと置き去ってしまった。
(マジ? マジ? 彼女が、誓いを受け入れてくれたぁ? 本当に? それじゃあ……)
 見たままが、彼女の意思ならば、誓いは、守り通さなければならない!
 とうとう、彼女を探し出せて、再び逢えた。
 中学二年生の時のように、彼女の真横にいられて、中学校の卒業式の日のように、彼女と向き合えたし、僕が横にいるのを厭がらずに、彼女は僕を真横にいさせてくれた。
 彼女の事だから、僕を嫌(きら)っていて傍(そば)にいられるのが厭で許せないなら、彼女は、さっさと途中のバス停でバスを降りていただろうし、忠誠ポーズへの返礼もしなかったと思う。
(彼女は……、僕と出逢うのを…… 望んでいたんだ!)
 アクティブな思いを秘めて、パッシブに待ち続けてくれた彼女に僕は感動していた。
 彼女が降車して空いた席に座り、シートに残る彼女の温(ぬく)もりを感じたいのに、僕の足は彼女に出逢えた感動で小刻(こきざ)みに震(ふる)えて竦(すく)み、乗り継ぎをする香林坊のバス停に着くまで動く事ができなかった。
 翌日の朝も、彼女は同じ時刻のバスの降車口前の同じ最前席に座り、バス待ちしている僕を、彼女の視線が追い続けていた。
 通学のバス路線を尋(たず)ねても何も答えず、まるで、『探せば』とか、『見付けてみれば』のライトノベルのミステリー調に、金澤(かなざわ)神社への初詣(はつもうで)で、直ぐ近くにいた彼女に気付かなかった僕の想いと知覚を試(ため)していたのかも知れなかった。
(やはり、彼女は、僕に見付けてられるのを…… 待っていた…… のか? ……そっ、そうなのか?)
 昨日に続いて、今日からの毎朝、この時刻の、バスの、この立ち位置が、僕の定位置になった。
(彼女の近くにいて、彼女を守りたい!)
 彼女から断られているから、今は声を掛けられないけれど、そのうちに彼女から話し掛けてくれて、普通にカレ、カノで話せるようになると思う。
 ……どうしても、話せるようになりたいです。
 ……御願いだから、話せるようになるようにして下さい。
(僕はもう、五体投地で、君に御願いしたい!)
 だけど、昨日と同じ忠誠ポーズをしても、彼女はチラ見する事も、見送る事もなく、さっさと乗り継ぎのバス停へ向かってしまった。
(あの彼女のポーズは、返礼じゃなかったのか? 単なる、僕の勘違い?)
 以後も、乗車するバスを変更される事はなかったから、僕を見たくもないくらいに……、近寄られたくないほどに……、厭で、厭でしょうがなくて避けたいとは、思っていないみたいだった。でも、返礼がされなくなった忠誠ポーズは、一週間ほどで恥ずかしくなって止めてしまう。
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 彼女の隣に座った直後に、マナーモードにした携帯電話が震えた。
 振動リズムが、メールの着信を知らせる。
 メールの送り主(ぬし)は、中学生の時からのダチだった。
 『あとで、遊びに行く』とあり、『OK』と返信する。
 さっきも、メールが有った。
 弓道部の同級生からで、『帰りに八番ラーメンか、チューで食っていこう』と誘われたが、『すまん。もうバスに乗った。今日は帰る。明日(あす)行こう』と返した。
(八番ラーメンなら、味噌バターチャーシューだな!)
 いつもオーダーする、『八番ラーメン』の味噌野菜ラーメンのバターとチャーシューをトッピングした大盛りは、とても、魅力的で独特の味噌味にキャベツ主体の野菜の旨味(うまみ)がコラボしたスープを、バターの風味とラー油の辛味(からみ)を加えて、ばっちし太い縮(ちぢ)れ麺に絡(から)ませた味を思い出すだけで涎(よだれ)が出て来る。
 パリパリな餃子(ぎょうざ)のダブルと共に、部活で体力を消耗して空腹な僕の食欲を大(おお)いにそそった。
 ラーメンがメインの大衆的中華料理の『チュー』は、パラパラっと一粒一粒離れた御飯粒に、しっかりと旨味の絡んだチャーハンが捨(す)て難(がた)い。
(うーん、迷うな……)
 でも、今からは絶対にだめだ。
 僕のメールを読んで金石の浜まで来て、僕のトレーニングや金波銀波(きんぱぎんぱ)の海と沈む夕陽まで見ていてくれた彼女の近くにいたかった。
 遠くの浜へ初めて行き、窓に凭(もた)れ掛かるくらいに疲れている彼女を、僕は大切に守りたいと思う。
 横に座るのが僕だと気付いているはずなのに、姿勢を正(ただ)さず、無防備に背を向けたまま、無警戒に僕を居させてくれる彼女が愛(いと)おしい。
 ……この場合、やはり、友情や仲間意識よりも、恋だろう。
 彼女の横で、何も話し掛けず、顔も会わさず、前を見て座っているだけだけど、背中に翼が生(は)えて舞い上がるかも知れないほど、気持ちが高揚して心が満たされている。
 この僕の至福の時間を、邪魔されたくなかった。
 これから先、こんなチャンスは、無いかも知れない……。
(うっ……)
 不快な臭(にお)いが僕の鼻腔を通り、肺に吸い込まれた。
 鼻腔の嗅覚細胞を全部一遍(いっぺん)に針の先で突かれたような、チクチクでツーンと息が詰まって、呼吸が苦しくなってしまう、ニンニクを食べた後の息の臭いがした。
 僕は、周りを見渡す。
 辺り席は何処も、うちの高校の生徒ばかりで、バスを待つ間にニンニクの臭いを嗅(か)いだ憶(おぼ)えは無かった。
(と、なると、ニンニク臭の犯人は、彼女か……?)
 鼻を近付けて確(たし)かめると、やはり、独特の空気を圧(あっ)する臭いで息が詰まり、チクチクと目に刺さる辛さで涙ぐみ、犯人は隣の彼女に間違いないと確信した。
 仄(ほの)かに、ラーメンの匂(にお)いも漂(ただよ)っている。
 まるで、触れ合いを拒む彼女が、人を寄せ付けない無色透明な化学兵器のバリアーに覆われているようだ。
 彼女は、海を見ていて遅くなったのじゃなかった。
(そうか、金石でラーメンを食べていたから、こんな時間になってしまったんだな)
 臭いの元凶が彼女だと分かると、僕の意識はニンニクの臭さなんて、全く関係無くなってしまう。
 臭くても、身窄(みすぼ)らしくても、大好きな彼女に変わりは無い!
 無自覚で他人に迷惑や害を与え、見るに堪えない事をする彼女でも、僕は彼女を庇(かば)い、諭(さと)し、改(あらた)めさせなければならないだろう。でも、どうしてもと彼女が言うのならば、僕もいっしょに罪を被って責負うと心に決めていた。
 人を好きになり、恋をするという事は、そういう事だと思っている。
 南町(みなみちょう)のオフィス街を過ぎ、バスは、乗り継ぎの為に降りなければならない香林坊のバス停に近付いた。
 家に帰るのならば、彼女は僕と同じ路線に乗り継いで、僕の降りる家の近くのバス停より、更に二つ先だから、次でいっしょに降りなければならないはずだ。
 そっと、彼女を見ると、相変わらずイヤホンをしたまま、頬杖をして外を見ていた。
 規則正しい静かな呼吸が、小さく肩を上下させている。
 その、小さく揺れるような動き以外は微動だにしない……。
(……これは、もしかして……、やはり、寝ている?)
 僕は体を回して、彼女の横顔を見た。
 ニンニクの臭いがキツくなるけれど、僕は構わない。
(やっぱり、寝ていた…… 目を瞑(つむ)っている)
 閉じた瞼(まぶた)の睫毛(まつげ)が愛らしい。
 僕の荒(あら)い息で、彼女の髪が揺れる。
(僕に凭れて、眠ってくれれば良いのに)
 僕は今、キスができるほど、彼女へ大接近している。
 リップグロスやシャインリップを使っているのだろう、潤(うるお)った艶(つや)やかな唇が愛くるしい。
 触れるくらいの近さを意識するだけで、僕の興奮した荒い息は震え、心拍はマーチングバンドのドラムのように急連打して、部活のトレーニングと弓道場の後片付けで、疲労した身体にアドレナリンを駆け巡(めぐ)らせる。
 いつもの通学コースと違う、遠くまで来て疲れたのだ。きっと、金石まで行ったのも初めてで、夕陽が沈んでも、小さな砂丘の上から更(ふ)け行く海を見ていたのだろう。
 疲れて眠る彼女の髪を撫(な)で上げて、少し陽に焼けた感じの綺麗な頬を慈(いつく)しみたい。
(ゴックン!)
 無意識に唇を舐(な)め、生唾を飲み込んだ。バスは新聞社前の交差点を越して行く。
降車する香林坊のバス停まで、あと二百メートルほどだ。
僕は震える息を深く吐き出して、彼女の息でニンニクの臭いが充満するバリアーの中の空気を大きく吸い込んだ。
(いっ、今がチャンスだ!)
 彼女の耳に付けた、インナータイプの光るイヤホンから小さく音が漏(も)れていた。
 その小さく漏れ聴こえる急テンポなスイングダンス風のリズムは、まるで、エンターテインメントやサーカスショーの、クライマックスに集中させるドラムロールのように響(ひび)いて、恋焦(こいこ)がれる想いに後戻りできない焦(あせ)りの意識がプラスされた僕を、激しく突き動かす。
(しょっ、しょうがないなぁ……。うう……、やっ、やるぞ!)
 明確に自分が欲(ほっ)する自己中で淫(みだ)らな望みなのに、ブラックピンクな自分と、魅惑的に誘う彼女のリップの所為(せい)にできる免罪符が欲(ほ)しい。
 アドレナリンの興奮に、疲労で分泌(ぶんぴつ)された脳内麻薬物質のエンドルフィンが合わさり、僕の自制と冷静さを麻痺(まひ)させて衝動に走らせて行く。
 バスの揺れに合わせ、かなり無理な体勢で顔を窓ガラスに摺(す)り付ける。
(揺れのタイミングを誤(あやま)ると、顔ごと、ぶつけてしまいそうだ……。……あっ! うっ!)
 慎重にしなければと思った瞬間、大きく振られるような揺れが、車窓のガラスで反射した車内灯の光りに、青白く照らされる妖艶(ようえん)な唇の直ぐ横の頬と、くすむピンク色の悩ましい唇の端に、強く印を押すようなハードタッチのキスをさせた。
(げっ、げげっ!)
 キスを気付かれたら、終わりだ!
 キスに動揺した彼女は、怒(いか)りだすだろう。
 僕の頬を力任(ちからまか)せに思いっ切り引っ叩(ぱた)き、軽蔑され、未来永劫(みらいえいごう)嫌われる。
 僕は一巻の終わりで、サドンデスだ!
 そう思ったけれど、この卑怯(ひきょう)でも、巡り逢わせたチャンスを失いたくないと、己(おのれ)の中の脅迫めいた、どうしようも無い衝動を抑(おさ)え切れなかった。
(た、頼む…… 今、目を開けないでくれ……。気付いても、気付かないフリをしてくれー)
 彼女の閉じた瞼の脇と眉間に皺が寄った刹那(せつな)、揺れの頂点で瞬間的なキスは終り、揺れ戻しに押さえ込まれないように唇が離れる、タッチ・アンド・ゴーのタイミングで、さっと、身を戻す。
 直ぐに、彼女がビクっと身体を震わせて、起き出したのが分かった。
 僕は急いで体勢を整えながら、バスの揺れの不可抗力で体が当たったフリをして、彼女の背を押す。
 いや、押すというより、突くように当たってしまった。
 背中を押されたのに気付いて覚醒した彼女は、慌てて顔を起こし、バスの中を見てから窓の外を見た。そして、勢い良く振り返って、僕を見る。
 今、自分のいる場所、状況、すべき事を瞬時に理解したようだ。
 僕を見る彼女の顰(しか)めっ面(つら)に背中を押したのが、かなりの痛さと驚きで、恨(うら)みを買ったかも知れないと察した。
 視界の隅(すみ)に映る彼女の仕種(しぐさ)に恨み混じりを感じながら、僕は立ち上がり、天井の手摺を掴(つか)む。
 天井にも設置されている降車ブザーを押して彼女を見ると、彼女は僕を追うように急ぎ立ち上がったところで、怪訝な目付きを僕に向けて来る。
 その互いに見合った目を反射的に逸らし、僕はバスの前部に在る降車口へと視線を流す。
(さぁ、僕に付いて来い。バスを乗り継ぐぞ!)
 僕の唇の半分はを彼女の唇へキスをして、もう半分は食み出して頬へとキスをしてしまい、その被った頬の温かさが嬉しく、頬肌の張りの有る柔(やわ)らかさが愛しくて、僕の掌と頬で触れ直したいと思う。
 その一回で二度美味しい、少しラーメンと餃子の味と両方の匂いが香る、僕の一撃離脱のファーストキスだった。
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 乗り継ぎのバス停へ歩く間、漂うニンニクの臭いで、僕の真後ろに彼女が付いて来ているのを分かっていた。
 少し歩いただけで部活のトレーニング疲れを思い出した身体が、エンドルフィンを追加分泌させて、悟られず、知られずの罪深いキスでドキドキさせていたアドレナリンの興奮を冷(さ)まし、気怠い気分と身体でも落ち着いた思考を回復させた。
 乗り継いだバスの中で、彼女は前方の座席に座っている。
 車窓に凭れて、どうも、居眠りの続きをしているように見えた。
 彼女は、僕が降車するバス停より、更に、二つ先のバス停で降りる。
 このバスの終点は、彼女の降りるバス停より、ずっと先の湯涌(ゆわく)温泉だ。
 バスは空いていて、僕ら以外に乗客は、二、三人だけ。
 流石(さすが)に今は、気恥ずかしくて朝のバスのように彼女の横に立てない。
 互(たが)いに相手を意識しながら、顔を逸らして何も語(かた)らない二人は、無言で無視し合う痴話喧嘩(ちわけんか)をする高校生バカップルに見えるかも知れない。
 それはきっと、横に立つ僕は嫌がられ避(さ)けられている女子高校生に、しつこく無理強(むりじ)いを迫るストーカーや執念深い野郎と思われるに決まっている。それに、こんなに座席が空いていると、近しく仲の良い男女ならば、二人掛けの座席へ座るはずだと思う。
 居眠りする彼女は、降車するバス停を乗り過してしまうかも知れない。
 バスは、小立野(こだつの)の通りを過ぎて行く。
 そろそろ、乗り過さないように彼女を起こしてあげなければならない。でも、さっきみたいにキスはできない。
 それとも、ワザとらしく、僕が降りる時にぶつかってみようか。
 彼女に気が付いて隣に座った畝田の停留所から此処までの間、彼女の携帯電話に一度も着信が無かった。
 乗り継ぎのバスが来るバス停まで、僕の後ろを少し離れて歩いていた時も、バス停で会話も無くバスを待つ間も、彼女への着信を知らせるメロディーやマナーモードの振動音は聞こえなかった。
 携帯電話をチェックする素振りや、メールを操作する仕草もしなかった。
 この時間帯に、メールを交換しあう相手はいないのだろうか?
(彼氏(かれし)がいるなら、普通、しょっちゅう、メールをしているはずだよな)
 それならと、僕はキーを打ち込み彼女にメールを送る。
 直ぐに、低くて小さなバイブレーション音が、前部の座席に座る彼女の方から聞こえ、静かな車内に響いた。
 ほんの数メートル前の彼女の後ろ姿が、ビクッと揺れる。そして、携帯電話を取り出し僕からのメールをチェックしているのだろう、そんな、様子に見えた。それから、たぶん、僕宛てへ返信すると思われる、一連の画面操作をするような肩を揺らす後ろ姿の後、彼女の動きと姿勢は起き続けているように思えた。
(良かったぁ! 彼女は、起きてくれた……)
 乗り越さないようにと、居眠りしていた彼女をメールの着信で起こす。
(凄(すご)くリアルだ! これは、ちょっと良い感じのムードだ。嬉しいシチュエーションかも知れない)
 『起きたぁ~?』とか、『乗り過さないように!』なんて、ウザい老婆心みたいなのは、メールには打っていない。
 高まる返信の期待で、鼓動は限界寸前のフォルティッシモを繰り返す。
 体中で激しく脈打ち、あっちこっちがズキズキと痛くて息が詰まる中、ぎゅっと握り締めた携帯電話が震え、着信を知らせた。
 彼女からの返信だ。
 『見に来てくれて、ありがとう』と、送ったメールに、ないしょでキスしたとは、とても、書き加えられなかった。
【別に。あんたに、会いに行ったんじゃないよ。金石の海を、見に行ったんだからね】
 つれなくて寂(さび)しい文面に、悲(かな)しくなる。
(わかっているよ……)
 彼女が、そう返して来るのは分かっていた。
 楽しさが、ほんの少しでもいいから、そのまま、メールの遣り取りを続けたいと思っていたのに、これじゃあ無理だ。
 これに返信すれば、きっと、更に、惨(むご)いメールが届くだろう。
 ハイテンションなモチベーションが急角度で落下して地(じ)ベタを這(は)いずり廻り、気持ちは急冷却されて畏縮した。
 ほどなくして家の近くのバス停に着き、彼女の脇を通り降車口へ急いだ。
 通りがけに振り返って彼女を見る僕と、横を通り過ぎる僕を見上げた彼女と目が合った。なのに、直ぐに、互いが顔を逸らしてしまう。
 何も読み取れそうもない彼女の無表情に見上げる顔の瞳が、僕の畏縮する気持ちに追い打ちをかけて締め上げる。それでも、僕は背筋を伸ばすと、胸を反(そ)らして姿勢を正し、精一杯に気丈夫を装(よそお)う見栄(みえ)を張りながらバスを降りた。
 後ろを振り向かずに歩く僕を、停留所を発進したバスは追いこして行く。
 脇を通るバスの車窓に、僕を見下ろす彼女の横顔が見え、僅かでも、彼女の表情に希望を抱(いだ)ける色が見えないかと目を凝(こ)らすけれど、無表情を崩さない彼女は遠ざかり、忽ち夜の闇に紛(まぎ)れてしまう。
     *
 バスを降りてから目の前の交差点の横断歩道を渡り、需要性を失って頓挫(とんざ)した都市計画道路の証(あかし)のような、百メートルほどの長さしかない広い道路を進むと、向こうの端は、旧湯涌街道とT字に交(まじ)わっている。
 その突き当りを左へ折れて、狭っ苦しい旧街道へ入ると直ぐに、右手の家並みの間にポッカリと歯が抜けたような二間(けん)ほどの巾で、空の見える何も無い空間が在る。そして、其の空間の下に、僕の家は在った。
 別の次元に繋(つな)がるような、何も無い空間の縁(ふち)に立つと、向かい側に、昼間は緑多き寺町(てらまち)台地の家並みと緩(ゆる)やかに曲(ま)がる野田山(のだやま)の濃緑の稜線が広がり、夜は逸(はや)る帰宅心と相俟(あいま)って、俯瞰(ふかん)した住宅街の灯(あか)りを見る度に、温かい安らぎで心が潤う。
 足元の空間の縁からは、その別次元に繋がる立坂(たてざか)が在る。
 今、僕が立っている小立野台地と下の犀川河岸段丘を行き来する通路だ。
 河川沿いの平地と河岸段丘と台地は、それぞれに生活圏を持ち、ある意味、別々の世界のようなものかも知れない。
 階段状の河岸段丘のが多い場所では、犀川の上菊橋と雪見橋の中間辺りで、川縁(かわべり)から城南(じょうなん)一丁目、笠舞(かさまい)本町、笠舞町、小立野三丁目と、四段になっていて、商業圏も別々だ。
 子供の頃、夜は本当に、眼下の暗闇に広がる異世界へ行く、物(もの)ノ(の)怪(け)が潜(ひそ)む暗がりだらけのゲート通路のように思えて怖(こわ)がっていた。
 金沢市は、台地と丘の街で、短い急坂が多い。
 中央の小立野台地を挟むように、北に卯辰山、南に寺町台地が在り、卯辰山との間に流れる浅野川(あさのがわ)が河北潟(かほくがた)へ注(そそ)ぎ、寺町台地との間には犀川が流れていて金石の河口から日本海へと注いでいる。
 三小牛山(みつこうじやま)から連なる野田山と大乗寺山(だいじょうじやま)が緩やかな起伏で伏せて来ている寺町台地は、犀川側が段丘の急斜面な崖を成し、台地の先端は滑(なめ)らかに金沢平野へと繋がっている。
 小立野台地の先端には、全国的に、けっこう有名な兼六園と金沢城が在る。
 因(ちな)みに金沢城は、兼六園と地峡のような百間堀で切り離されていて、そこを渡る情緒の無いコンクリート製の橋が、金沢城の石川門(いしかわもん)と兼六園の北西の端を繋げている。
 立坂は坂とは名ばかりで、実際はコンクリート製の、やや『くの字』に折れた六十八段の階段だ。
 脇の水路は辰巳(たつみ)用水から分けられた水が流れて、大雨の時には引き込まれそうになるほどの大量の水が、怖いくらいの勢いで流れ落ちる。
 立坂を降り切ると直ぐに僕の家だ。
 立坂を降りようとした時に携帯電話が、メールのリズミカルな着信震動とメロディーを奏でた。
【ほんとに夕陽が綺麗だった。あんたも、イイ顔していたよ。でも、スケベだったね】
 返されたメールの文面にホッとした。
 確かに、僕はスケベだ。
 魔が差したとはいえ、彼女の黒い下着を覗き見て、寝ていて気付かない彼女の頬と唇に、断わりも無く黙って勝手にキスをした。
(単純だ! 僕は本当に単純だな。……ん! もしかして、彼女はキスに気付いていたのか?)
 彼女からのメールで、モチベーションを持ち直した自分に呆(あき)れながら、僕は救われたような、すっきりした晴れやかな気分で立坂を駆け降りた。
(僕はスケベだ! でも、イイ顔してるんだ!)
 何か、勘違いっぽいけれど、そう彼女に思われたのが無性に嬉しかった。
 翌日の朝のバスで、彼女の横にたつ僕は、彼女の頬と唇ばかり見ていた。
 魅力的な白い頬と、少しだけ触れた唇の弾力と匂いを思い出しながら、僕は反省していた。
 大好きで恋焦がれる彼女だけど、寝ていて気付かない彼女へ、衝動に駆られてしたキスは、いろいろと考えた言い訳の、どれで繕(つくろ)っても卑怯だった。
 バスから降りて僕を見上げる彼女に、今後、二度と卑怯な振る舞いはしないと、心から誓った。
 その日の放課後、部活の間に、彼女からメールが届いていた。
【バスの中で、起こしてくれてありがとう。……ねぇ、あんた。私にキスした?】
 ギクッと来て、ドッと、冷(ひ)や汗が出た。
 部活中は、携帯電話の電源を切っていたから、部活が済み次第に、受信メールのチェックをして下校のバスの中で返信する。
【していない】
 僕は、惚(とぼ)けた。
 やはり、彼女は疑惑を持っている。でも、正直に答えれるはずが無い。
 黙って執(と)った無断行為は、中学二年生での無記名メール告白に続いて、二度目だ!
 とても、許される事でないに決まっている!
 『頬にキスをした』と返信したら、きっと、一気に責(せ)め上げられて、性犯罪者や変態や変質者呼ばわりされる。
 認(みと)めたら最後、彼女の事だから、宇宙の果てほどの距離で避けられて、一生、気不味いままになるだろう。
【本当に?】
 彼女は、念を押しに来る。
 まるで、尋問だ。
 知らぬ、存知ぬで通して、回答は暈すしかない。
【ほんとに。なぜ、そう思う?】
 逆に、キス疑惑の根拠を、質問して遣った。
 彼女の返答によっては、『夢でも、見てたんじゃないの? 夢で見るほど、キスしたいわけ?』って冗談まじりに夢落ちにしてやろうと思う。
 実際、彼女は寝ていたんだから夢落ちでも成立する。でも、それだと、更に、疑われそうで、この先キス疑惑が、僕の恋路の障害になりかねない。
 その後、彼女からの返信は無くて、数日後に僕から新(あら)たなメールを送るまで、彼女からのメールは途絶(とだ)えた。
 再開されて交換する互いのメールは、日常の在り来たりな愚痴(ぐち)や悩みばかりで、再び、キス疑惑に触れる事は無かった。
 メールを不通にしていた数日間と、日常的なメールの内容から僕は、敢(あ)えて、彼女がキス疑惑に自ら触れるのを避けていると察した。
 そういう、夢現の、現実だったのか、夢だったのか分からない、唇に残るキスのような感触を意識している事を、その有無の事実に拘っている事を、彼女は僕に知られたくないと感じた。
 それからも、毎朝のバスの中で、真ん前に座る彼女の脇へ立つ度に、僕は、二度と卑怯な真似(まね)をしないと心に誓う。
 後悔が薄れるまで、かなりの月日が必要だったけれど、誓いは、しっかりと心に刻まれている。

 

 つづく