遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

恋と別れ (僕 中学三年生) 桜の匂い 第四章 参

 進学相談で担任の先生に、『受けるのはお前の勝手だが、今の成績では危ないぞ。受かってもキリにギリギリだな。本気で受験するのなら、もっと一生懸命に勉強しろ』と、言われてしまった。

 笑う顔と確信と希望に満ちた瞳を持つ大人になると目標を決めたからには、彼女との繋がりを保つ為にも合格したい。担任に諭された日から僕は真面目に、真剣に、毎日深夜まで受験勉強に励んだ。

(彼女と僕の未来の為に、何が何でも必ず合格してやるんだ!)

 確信の無い不透明な二人の未来だけれど、記憶容量が小さくて出来の悪い頭を、深夜まで働かせていた甲斐があって、僕の成績は少しづつ上がっていった。

 そんな受験勉強の佳境期の深夜に模試プリントの解答で頭を抱えて悩んでいた僕を、イスから転げ落とすほど驚かせて着信した彼女のメールは、またまた意図不明の質問系だった。よく来る落とし所の分からない問い方は彼女の癖なのか、思慮深いのか、それともワザとなのか気になる。

【あんた、高校でも美術やんの?】

 こんな丑三つ時を廻る時刻だから彼女も受験勉強の最中なのだろう。彼女の家まで直線距離で約五百メートル足らず、ぶらぶらと散歩がてらに歩いても二十分で着く。……と彼女の部屋の灯りでも見に行こうかと思うけど止めた。

(それにしても、これは深夜の受験勉強中に、訊かなくてはならない事なのか?)

【やらない】

 授業や美術部で僕が 作ったり描いたりした作品を、彼女が良く観ていたのを覚えている。作品に興味が有ったのか、作風が気に入っていたのか、それとも僕に興味が有ったのか、まだ彼女に訊いていない。

【なんで、やんないのよ?】

 何だか怒っているような感じだ。彼女と同じ高校を受験できなくて、違う高校を受験すると知らせたからだろうか?

(去年の元旦の年賀メールの『同じ高校へ、いっしょに行けるといいね』は、本気だったのか?)

【スポーツがしたい】

 僕は何かしらのスポーツをして身体を鍛えて逞しくしたかった。背が伸び続けて背丈は高い方に入るくらいになっているけれど、コーラス祭のソロで歌った時も、もっと声を遠くへ飛ばし伸びさせるには、筋骨隆々とまではいかなくても今以上に、しっかりした体格にならなければいけないと思った。そして彼女を守る為にも。

【美術の才能が有るのに、勿体無いなぁ~。美大を目指せばいいのに】

 僕の美術の才能なんて高が知れている。高校の美術部で活動して、進学した美術工芸大学で学んでも飛躍的に伸びるとは思えない。問題は美大を卒業した後だ。美の天才的な感覚など持ち合わせていないから、芸術家として興して軌道に乗せ大成するまで、どれだけ僕は親に世話を掛け続けるのだろうか?

【美大は目指さない。美大に進学する目的が分からないんだ……。僕はただ、イメージを造形したいだけなんだ。造形や作画は僕の趣味だよ】

 名の知れた芸術家の作品は、芸術家の他界後に価格が高騰したと、美術の雑誌で読んだ覚えが有る。世界的に有名な過去の芸術家達で生前に十分な評価を受けた人はどれくらいいるのだろうか? 現在も過去も未来も芸術家は、より多くを知り、見て、聞いて、訊き、語り、感じなければ、インスパイアされる活きた作品を創作できないと思う。

 それは、チャンスに恵まれて財力を持ち、生活に余裕が有るか、また、才能を見出され作品が投資

の対象になると評価されて、創作資金を提供するパトロンが現れないと存命中に大成できないだろうと、僕は悲観的に考えている。

【趣味でも美大に行けば、洗練されるんじゃないの?】

 確かに美大で技能や技術は洗練され知識も増え技法のレパートリーに困らなくなるだろう。それらを学ぶ中で僕の作品は評価される。そして良い評価を得ようと作風を改善し続けていくと思う。

 実際、創作を続けていると、いつの間にか作風は変化して以前の作品が拙く見えた。でも、それは本当に改善や洗練しているのだろうか? 美大に進学してまで、すべき事なのだろうか? ただの他人受けが狙いだけの変化なのかも知れないのに、僕は納得できるのだろうか? 僕には良く判らない。

【うーん、どうかな~。上手く伝えれないかも知れないけれど僕は、美大の科目を活かすような就職をしたくないんだ。まだ、漠然としているけれど、美術と違う職に就きたいと思っている。僕の趣味の延長ごときに、親の金で四年間も大学へ行って学ぶのは、申し訳なくて耐えられないよ】

 僕は取り繕う言い訳ばかりを彼女に伝えている。美術の先生ほどの美への感性も、想像力も、持ち合わせていない。先生のような恐ろしいまでの気概も、切れるような真剣さも、僕には無かった。僕は先生みたいになれない……。

 そう……、美大で学んでも感性や感覚が増長されて、その後に成就大成できるとは限らない。学ぶのは手法や技法や基礎美術で、それらを熟して取り込み、自分のオリジナルを完成させインスパイアを受けイマジネーションを発露させても、それが大勢に受け入れられなければ芸術家として世界を目指せない。そこまでの覚悟と自信が僕に無かった。

【ふう~ん。いろいろ考えてんだね】

 趣味について僕は、創作と発想や感性に自由でいたいだけだ。他人に評価され続けられていると次第に自分の作品じゃなくなっていくような気がする。

【それに、造形に特化した技巧の勉強なら独学でもできるしね。頭に浮かんだイメージを速く具現化する手段が技巧や技法なんだ。方法の手持ちは、多い方が良いに決まっている。それは見て、触って、感じてたりして盗み学び、本当に解らないところだけを調べたり、教えられたりして身に備わるものだと思っている】

 僕は自分の趣味を嫌いになりたくないだけで、趣味はいつまでも自由で生業にする自信や展望も無かった。趣味への想いにプレッシャーを与えたくはない。

【そう、そうかも知れないね。私もピアノで、それを痛いほど知らされたよ……。それで嫌になりそう】

(痛いほど知る……。それはスランプや壁じゃ無い! 彼女は自分の限界を知ったんだ……)

 彼女が打ち込んだ文字が僕にそう悟らせた。それでも彼女は自分の夢に向かって努力していると思いたい。

【ピアノ、嫌になりそうなくらい頑張ってるんだな。大学の音楽学部を目指すんだろ? 君の夢が叶えられるように応援してるよ】

 彼女に僕が恐れているような好きな事にプレッシャーや限界を感じて、避けるようになって欲しくなかった。

 いつもツンとした ……僕だけにかも知れないが。自信と余裕に満ちた…… 僕にはそう見えて、そう思えた……。そんな彼女でいて欲しい。

(僕と同じにならないでくれ!)

【ううん、残念。もう応援しなくてもいいよ。本当はね、嫌になりそうじゃなくて嫌になったんだ。ピアノは八月で止めたの。自分の限界を知ったし。駄目だったの…… 私。そんなに真剣じゃなかったんだ。……もう決めて済んだ事だから何も訊かないで!】

 夏で彼女はピアノを止めていた。今までピアノの事には触れて来なかったのに、振って来たから触れろと、『残念』『嫌になった』『限界』『駄目』『真剣じゃ無い』『済んだ事』とか吐して、既に挫折して已めているくせに理由は訊くなと来た。

(どうしたんだ? それは君の夢じゃなかったのか? ピアニストになりたいと、小学校の卒業アルバムに書いていたじゃないか! 痛いとは、そういう事なのか? 君はもう夢を諦めるのか?)

 世界を駆けるピアニストになれなくても、自宅でピアノ教室の先生をする彼女を思い描いていた。ピアノ教室に彼女の生徒達へ教える優しくて明るい声と、たどたどしい子供達の弾くピアノの音色や楽しそうな声が聞こえる。そんな日常の幸せを彼女に望んでいた僕の夢も消えてしまう。

 自宅のレッスンルームの遮音床に置かれたグランドピアノを弾く彼女の傍らに、寄り添うように立つ僕は彼女の奏でる音色に聴き入っている。そんな近未来の憧れた二人の姿が消えてしまった。彼女の夢は僕の夢でもあったのに。

【そうなんだ……。やめていたんだ。……もう一度、君のピアノを聴きたかったのにな。小学六年生の雨の日、君が弾くピアノに凄く感動してたんだ。あのアンコールで弾こうとしていた曲を、いつか聴けるチャンスが有るかな?】

 事象に敏感な彼女は強い感受性を持っていると思う。あの春の光と風が身体を透過して行くような透明さで、彼女は曲を繊細にイメージしてグランドピアノを弾いていた。気持ちを込めて一音、一音、丁寧にキーを押さえた。だから、一度しか聴いていない彼女が弾いた音色を、今でもはっきりと耳の奥に聴くことができる。それほど、初めて聴いた彼女のピアノの音は僕の心に深く染み込んでいた。

 あの時、音楽教室にいたクラス全員が彼女のメロディを記憶していて、ピアノを連想する何かの切っ掛けで彼女の音色を思い出しているだろう。

【今の私じゃ無理! いつの日か自分が変われて、ピアノを弾きたい気持ちに駆られたら、機会が有るかもね】

 画面の文字が諦めと寂しさと悲しさの呟きに聞こえた。

【自分が変わる……? どういう意味?】

 何が有って、どれはど悩んだのか、彼女は僕に弱みを見せない。

(夢を諦めるなんて……。彼女のことだから、きっと悔しい思いをしたのに決まっている)

【さあね。それなら美大じゃない大学へも行かないつもり?】

 僕が知りたい肝心なところは相変わらずはぐらかしてくる。しかも切り返して僕の進路へ突っ込みを入れて来た。

(まだ、メールを尻切れトンボで終わらせないだけましか……)

 彼女の悩みが分かれば微力な僕でも役に立てるかも知れないのにと思う。

【ああ、今のところは大学へ行く気がないんだ。受験は今だけでいいよ。三年後も受験で苦しみたくないね。勉強は嫌いだから】

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 中学生レベルの学力がちゃんと有れば社会人として優れている方だと、親父は知人の会社や研究所へ見学に行く途中の自動車の中で言っていた。

「加工や設計は、数学の微分や積分が少し解るくらいで上等だ。それ以上は実務から学べば良い。科学や物理は、化学記号や物性の意味が読めて、力関係が理解できれば問題無いぞ。国語や文法は5W1Hで書けば、レポートやEメールはばっちりで、恥を掻く事は無いだろう。要は読む相手の立場になって、伝えたい事を解かり易いようにレイアウトして文を作成する事だな。そうした方が自分でも書き易いんだ。英語などの外国語は、最初はブロークンで良いさ。耳が慣れるまで辛いけど相手の意思を聞きとろう、汲み取ろうと身振りや表情も良く見るんだ。そして、自分の思考を伝えようと努力する事が肝心で、いろんな言い回しを考えて使うように心掛ける事だ。最低限の単語は覚えるしかないな。まっ、必要に迫られれば否応でも覚えるしかないんだから」

 家では空気読めない系とか妹やお袋に言われて、揶揄されている親父だけど、なかなかどうして、一人で事業を起こし、今も順調な経営を維持しているだけあって、その実践経験に起因する言葉は、流石に解り易くて納得できた。

「お前は、真心の意思を真心の言葉で語る。そして、真心で相手の声を聞き、真心で事物を見て、真心で相手に触れる。そうして、お前の真心を感じさせるんだ。然すれば大概、互いの思いは伝わって行くものさ」

 いつも彼女に僕は真心で想いを伝えたいと思う。でも、それは、駆け引きや利害や欲望の絡む企みであって、真心とは呼べない、真心には程遠い僕の勘違いな思いなのかも知れない。

「社会や歴史は、一般常識程度は覚えておけよ。社会人に成るとテレビ番組は知らなくても時事に疎いと困るぞ」

 あまりテレビを観なくて、ドラマやバラエティーは良く知らないけれど、ニュースやドキュメンタリーも全然観ていない。

(これから観るように心掛けて、学ぶように努力したいです)

「高校卒は大学受験の資格に必要だし、普通高校は大学への階段やゲートみたいなもんだ。普通高校に進学するなら更に大学や専門学校に行くべきだな。高校で将来の目的意識が湧かなくても大学で見出せれば良いし、個人差は有るけれど、大学の四年間はそれ成りに有意義なものになると思うぞ。高校卒業で社会人に成っての四年間と大学での四年間も然程代わりはしない。個人個人の意識や認識の問題さ。それと大学へ行けば大卒の肩書きは付くな。一流大学なら大企業や有名企業に就職して出世もし易い、官公庁の国家公務員になってエリートコースに就けるぞ」

 大学のレベルはピンからキリまで有って、特にキリは学ぶべき事も、求めるモノ見付からないまま自動的に卒業させる大学が多いと聞く。高校卒レベルの学力もまともに無くて就職率は低いらしい。二十年後、三十年後に大学卒の肩書きが必要だったと振り返れるのか、良く考えて受験する高校を選びたいと、親父の話で思った。

「学歴重視の社会だから、一般に会社や役所の初任給は高校卒より高額で、より重要な仕事のポストに付いて昇進も速い。だけど、大学選びや文系か、理系かの選択で社会の受け入れも違ってくる。大学卒業時にそれに捕らわれない選択も有るが、大学在籍中は社会に選ばれる側だろう。まぁ、俺のアドバイスはこんな感じだな。そして、最後に俺の経験から一言、どんな進路でも決めるのはお前で、お前自身の未来だからな」

 二度ばかり着信した携帯電話での仕事の応対で遮られた親父の言う意味と、言いたいことは大体解る。僕はそんな社会に選ばれるシステムに巻き込まれる為の勉強をしたくなかった。

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【そっか、まあ、お互い高校入試に頑張りましょう。これから合格発表が出るまでメールは無しにしてね。もう寝るわ。おやすみなさい】

 僕がまだ起きているのを確信しているかのように、彼女から始まった深夜のメールの遣り取りは終了する。

     *

 十二月末に定番の、『メリークリスマス!・君の幸せを祈ります』を送り、元旦は寒空に響く除夜の鐘の音の中、『迎春・二人にとって喜びに満ちた年でありますように』と送っただけで、十一月後半からの受験勉強の佳境時期は彼女へのメールを控えていた。

 なにより受験勉強の『邪魔だ』とか『煩い』『ウザイ』とか邪険にされそうで、僕は彼女の怒りを怖れた。だから今夜、この時刻に彼女から送られて来たメールは嬉しくて励みになった。

【ラジャー! 受験勉強に集中して頑張ろう。おやすみ】

 携帯電話を閉じて入れた熱いココアを飲みながら、今のメールの遣り取りを反芻する。僕の美術と彼女のピアノがテーマになった。僕の進路を確かめたかっただけかも知れないけれど心配してくれて、自分の夢の挫折まで書き綴ってくれた。

 これで彼女への連絡は入試の合否判定まで御預けだ。僕は思う、入試に合格していれば良いけれど不合格ならば彼女と同じ土俵に立てず、自然と僕は身を退くしかない。身を退くも何も元々そんなに相手にもされていないのくせに、自分に都合良く考えてしまう。

 不安で後が無く焦り捲くりの僕だけど、不思議と彼女が不合格になると思わなかった。

(僕の彼女が、合格しないはずがない!)

 彼女への決め付けを肯定した時に、再び携帯電話が震えて既に寝付いているはずの彼女のメロディーを奏でた。

【まだ起きている? 伝え忘れがあったわ。言霊に気を付けてね。】

 言霊? アニメや漫画で描かれているのは樹木に宿る精霊の『木霊』で、墓場に青白く漂い飛ぶのは『人魂』だ。言霊は何かの本で読んだ気がするけれど分からない。

【言霊?】

 背中がひんやりとしてゾクゾクする。腕に寒疣が立ち始めた。彼女は何か不吉な事を僕に伝えようとしていると思った。僕は振り返り部屋の中を隅々まで見回す。床も、天井も、壁も、見るけれど何もいない。

【知らないの? 言った事が本当に起きるという呪詛のアレ】

 言霊ではないと思うけれど神社での御参り……、賽銭箱前での祈願は音を立てるんだと親父とお袋は言っていて、僕は両親から教わった通りに実践している。

 親父が言うには、神様はとても人間臭くて、何かをしていたり、隠れていたり、寝ていたり、離れていたりしているだろうから、神様に御願い事をしているのを気付かせる必要があるのだそうだ。だから、鈴はガランガランと大きな音で鳴らし、拍手はパンパンと辺りに聞こえるように打ち、願い事は黙って心で唱えるのじゃなく、呟くような小声でも良いから、はっきりと聞き取り易いように言わなければならないそうだ。

【アレ? 呪詛?】

 言霊は呪詛で呪いなのか? 吉兆や凶兆の願いではないのだろうか?

【受験で自分や周りの人が、言ってはいけない言葉があるでしょ。ソレよ。自分で言わないでね。現実になっちゃうわよ】

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 僕は思い出していた。本で読んだのじゃない。言霊は親父や妹といっしょに体験している。あれは夏の始まり頃に金沢市の南側の丘陵地帯に在る、金沢の地で一番多く瘴気が集まる黒壁山を探険した時の事だ。いや、探険ではなかった。岩の崖壁に穿った奥ノ院の祠までの沢沿いの道筋に靄が立ち込めて、何かが纏わり付いたようにゾクゾクするリアルな探険みたいだったけれど、真面目な御参りに行って来た。

 黒壁山の奥の院へ来るには山峡に在るお寺の境内を通らなければならない。通るには代表者の名と人数を社務所に有る参拝帳に記入してから、御供えの生卵と御神酒を携えて向かう。

「ここのお寺は普通とちょっと違うから、御参りの仕方を訊いて来る。この寺の紋は羽団扇、神格は行者の守護神の天狗だからな!」

 親父は、そう言って御参り作法を住職に尋ねていた。

 祠の賽銭箱に紙幣を入れて二拝三拍手する。親父の言った通り住職に教えられたのは、一般的な二拍手じゃなくて三回の『かしわで』を打つ。他よりも一拍多い打三拍目にった拍手に妖艶な自己主張の強さと気配を感じる。それから親父は声を出して御願いをした。

「家族健康で長生き、家内安全で世界平和、無事故、無事件、商売繁盛で安定高収入」

 僕は親父に倣いながら、彼女との恋の成就と入試の合格を願う。

「願いが叶えられますように、よろしく御願い致します」

 終わりの一拝をして……、

「願いを叶える力が有るのなら、証拠を見せて下さい」

 親父が余計な事を言ってしまった。

「御祓いもせずに、ここに立ち入ったから祟りが有るかもな。帰りは事故らないように気を付けようぜ。家に入る前に清めの塩を掛けてもらおうな」

 辺りの不気味に静まり返る黒壁山の雰囲気を怖れながらも、僕は笑いながら言う親父の単なる脅かしだと思って、言い返す。

「冗談でしょう。御願いしたのに、そんな訳ないじゃん。脅かさないでよ」 

 それに住職は、御祓いが必要なんて言っていなかった。せっかく三拍手をして言霊の御願いをしたのだから、親父も冗談で言っていたはずだ。僕は息を潜めゴクリと生唾を飲み込んだ。それに気付いたのか、手を繋ぐ妹の握る力が強くなり、もう一方の手で僕の腕にしがみ付く。

「アニキ、恐いかも……」

 帰り道でフルチューンした親父のスポーツカーが突然止まってしまった。何度もスターターを掛けてみるけれどエンジンは回らなくて、メカに強い親父がトラブルの原因を探しても見付からない。問題個所は分からず電気系統でも、燃料系統でも、機械的でもなくて親父の自動車はマジに壊れてしまった。挙句にとうとうレッカー車を呼ぶ始末になり、親父と僕と妹は祟りを経験したとビビってしまう。

 迎えに来たお袋のワンボックス車の中で親父がぼそりと言った。

「言霊だ! 俺があんな魔所で余計な事を言ったばかりに、この様だぁ……」

 横に座る妹が僕の手を握り、話した声が驚きと畏れを含んでいた。

「祟られちゃったのかなぁ。神様って本当にいて力が有るんだ!」

 妹のビビリ声に悪乗りした親父が更に言う。

「さっきのお寺から犀川の支流の内川へ行く途中に、瀬織津姫という早瀬に住まいて穢れを流す、魂を黄泉の国へと送る死神のような、神話には登場せずに神々を祝う、大晦日の大祓詞だけで読み上げられる、そんな、不思議な女神が祭られる神社が在る。瀬織津姫の名の社は全国に三つしかない。その一社が金沢のこの近くに在るんだ。寄ってみない? それに浅野川上流の湯涌温泉の近くにも、大杉少彦名という十六弁の菊の紋の神社が在って、天皇が境内に植樹をしている。石の鳥居には立派な注連縄が結ばれて俗界と隔てられている神社だ。金沢の山手の郊外というよりも、北陸地方は出雲と同じように、神世の代は大陸と因縁浅からず関係だったのだろうな。両方、今から行ってみる?」

(親父ぃ! 何が、古代は大陸と因縁浅からずだ!)

 いつも超能力と魔法やに憧れていてパワースポットなどは流石に詳しいけれど、本当に空気の読めない親父で困る。今し方、因果関係は解らないけれど不用意な言霊で自分のスポーツカーを壊したばかりなのに、全く反省の色の無さ過ぎに呆れてしまう。

「行かない!」

 ハモるほど強く、僕と妹は親父の提案を拒否した。運転するお袋は一言、親父を嗜める。

「バーカ!」

 本当に神様の力なのか分らないけれど、発した言葉通りの結果をもたらすという、古から言葉に宿ると信じられている不思議な力。

 不吉な言霊にフルネームを添えると呪いになってしまう。

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【ソレって迷信じゃ?】

 僕は文字を打ち込みながら迷信じゃないと思っていた。神社で祈願や厄除けを家族でした事が有る。

 先ず、神主さんの振る祓串を家族四人が頭を垂れて受けてから、神主さんが祈願の祓詞を読み上げる。それから、親父が神前に榊の玉串を捧げた。そして、巫女さん達が神様に供える神楽を太鼓や笛や笙の音に合わせて鈴を鳴らしながら舞う。舞が終わると巫女さんは、再び頭を垂れた僕らの頭上で鈴を振り鳴らす。最後に御供えした御神酒の残りを唇を湿らせる程度に飲んだ。

 神主さんが読み上げる祓詞が言霊と似ているかも知れない。

【そうかもね。でも、私は信じて気を付けてるよ。それじゃ、おやすみなさい。かしこ】

 改まるかように文の終わりに彼女は『かしこ』を付けてきた。初めて付けられてきた『かしこ』は、手紙の文末だと様になるけれど電子メールには似合わない。かなり違和感が有る。彼女はいったい何に畏まり何を恐れているのだろう。

 確かに人は人の言葉を……、特に自分に向けられた言葉を信じ込み易い。でも自分が発した何気無い呟きまでが言霊になって自分自身が呪詛されるなんて知らなかった。

【ありがとう。僕も言霊には気を付けるよ。では合格発表が出るまで。恐惶敬白】

(僕を心配してくれる君に、敬意を表して恐惶敬白……)

 彼女のメール自体が呪いの言霊だった。

『私にここまで気を使わせて、もし合格しなかったら、それまでよ!』と言われた気がした。

 例え彼女の呪詛でも僕は凄く嬉しい。それも受験が迫った余裕の無い時に、彼女は僕が不用意に不幸を呼び込むのを心配してメールで励ましてくれた。しかも追伸で僕の合否の心配までしている。それは、まるで教室の席が真横だった時のように彼女を凄く身近に感じさせた。空気も、匂いも、時間も、感覚も、心も共有している気がした。

 もう、入試を落とす事はできない……。

     *

 黒壁山でレッカーに運ばれて行ったスポーツカーは、二週間後に動くようになってディーラーから戻って来た。しっかりエンジンが掛かり、ちゃんと走れるようになったのに、『故障の原因は不明でした』と、納車に来たサービスの人が言っていた。

 当初、ディーラーの整備工場で故障原因が分らず、故障がリコールに至るかも知れない市場クレームに為り兼ねないと懸念したメーカーが、本社工場の開発研究部門へ持ち込みエンジンや電装品まで降ろして徹底的に点検・調査をした。それでも、突然エンジンが止まるような重大欠陥は全く見付からなくて、故障の原因は掴めなかった。

 ところが、故障に至る問題を発見できないまま再び組み立てられた車は、あっさりエンジンが掛かってしまい、不可解この上ない不可思議にメーカーの関係者は首を傾げていたそうだ。結局、数日の試験走行でも何も問題の無かったスポーツカーは、整備・修理代無料で帰って来た。と、ディーラーで直接メーカーのメカニック担当者から説明を聞いた親父が言っていた。

 以来、親父のスポーツカーは、突然のエンジン停止で動かなくなる事は一度も無く、親父は神域や乗車中に祟られるような軽口を言わなくなった。

     *

 昨夜から全天を覆う雪雲で空は真っ黒だ。外は陽が落ちた後のように暗く、身体の芯まで冷える寒さくは息苦しい胸の痞えを更に重くした。

 バスを乗り継いで受験した高校まで合格発表の掲示を見に来ている。入試に合格した受験番号は玄関ホール前の特設掲示板に張り出されていた。僕は自分が受験した専攻科と番号を探す。

 バス停からここに来る途中に彼女からのメールが着信した。

【合格したよ!】

 合格を知らせるベタな短い一言に、彼女の嬉しそうな笑顔とプレッシャーから解放された安堵の喜びが見えた。

 彼女が受かって、とても良かった! 僕も凄く嬉しい。『おめでとう』メールを一字一字、声にして打ち込む。

【コングラチュレーション! 僕はこれから番号を確認するところ】

 僕らは互いに合格発表までメールを交換して来なかった。久し振りの彼女のメールに僕の胸は嬉しく高鳴る。これで僕も合格していればモアベターだ。でも不合格ならば彼女と決定的に差が付いてしまう。今でもそうなのに……、彼女が僕をバカと思わずに見下さなくても、僕は頭の賢さの違いにコンプレックスを抱き、益々、彼女と話すのを躊躇うようになると思っていた。

 入試の当日は、今日のような空模様に湿気の多い雪が一日中降り続いた。足下が滑り易くて危ない。行き帰りで滑って転んだりでもしたら、それまで気を付けてきた言霊の呪詛を唱えてしまい、アクシデントの多い将来を暗示するような気がして、不安な人生の第一歩にならないように慎重に歩いて縁起を担いでいた。

 初詣は、金沢の受験の神様、金澤神社で友人達と大晦日から元旦にかけて、除夜の鐘が鳴る中、御賽銭に紙幣を大奮発して願を掛けた合格祈願の二年参りをした。ちゃんと『夢牛』に手を置いて合格を願い、合格と縁結びの願いを書き込んだ絵馬も掛けた。御神籤は、『願い、遅きに叶う。恋愛、強き想いは必ず伝わる。待ち人、やや遅れて来る』の大吉で、お持ち帰りして社務所で購入した合格祈願の御守りに今も挟んでいる。

 連るむ仲間達はそれぞれ別々の高校を受験する。誰一人として同じ高校を受験しない。僕達は別々の高校に進学しても変わらぬ友情を二年越しに誓い合った。

 今朝は、地元の上野八幡神社へ行って念押しの神頼みも済ませて来た。ちゃんと初詣と同じ大奮発した御賽銭を入れて二拝二拍手一拝をし、鈴をしっかり鳴らして小声で願いを唱えている。神頼みはばっちりだ。

『どうか、彼女にバカだと知られて、避けられませんように』と、掲示された受験番号の列に自分の番号を探す。バカでない事を願いながら見た合格者発表は、一念発起した受験勉強と神頼みした甲斐が有ったのか、掲示板に僕の受験番号が載っているのを見付けて、安堵に胸を撫で下ろしながら大きく溜め息を吐いた。胸の息苦しい痞えは直ぐには無くならなかったけれど、心から安心した僕は彼女へメールを打つ。

【僕も受かったよ】

 互いに志望校へ合格したのは喜ばしい事だけど、四月からは方角も授業カリキュラムも違う交流事情や行動接点の無い別々の高校へ進学する。今日から確実に僕の人生は彼女と別れ出して行く。もう同じ狭い時空にいて同じ空気を吸う事は稀だ。今までのように日常的に通学路や校内で彼女を探して見付け出す事はできない。これからは、アナログなリアルを拒む彼女との出逢いは本当に偶然のみになってしまう。

 別れ始めた二人の人生は再び交差するのだろうか? デジタルなメールは、きっと離れて行く彼女のハートを掴み切れなくて、高校での新たな出会いに掻き消されるだろう……。そして、僕は決定的に失恋してしまうんだ。そう考えると僕の心は憂いた。

【おめでとう! 良かったね】

(ああっ、最高だ!)

 メールを文字を見た瞬間、コーラス祭の時のように彼女の声が聞こえた… 気がする。たとえドライに打たれた言葉でも、この発光画面に浮き上がるデジタル文字に込められた彼女の気持ちは本物だと思いたい。

 誰からよりも、どれほどの褒め称える美辞麗句よりも、文字にされた彼女の御祝いの言葉が一番嬉しい。

【言霊に気を付けたのと、金澤神社の御神籤が大吉だった御蔭ね。私と、あんた自身と、金澤神社に感謝しなさい!】

(驚いた! 彼女は、僕が大吉を引いたのを知っている? なぜ?)

 直ぐに僕は電話やメールでダチ達に問い合わせた。

『僕は合格していた。そっちはどうだった? それから彼女は、僕が金澤神社の御神籤で大吉を引いたのを知っていたぞ! びっくりだ! その事を誰かに話したか? 初詣で彼女を見たか?』

 回答は直ぐに来て、誰もが友達以外に話していないし、あの場で彼女を見掛けていなかった。そして皆一様に、『お前らの異常で、不自然な関係など知らん』などと、打たれていた。

 そして友人達みんなも志望校に合格していた。

【どうして、大吉だと知っているんだ?】

 彼女からの疑問は、彼女へプレッシャーを与えない限り、彼女自身へ訊くのが一番だ。

 大吉の御神籤の事は友達以外に話してもいないし、見せてもいない。クラスメート達に出逢ったのは、参拝が済んで境内から出た後で、それも擦れ違い様の軽い挨拶だけだ。僕達が気付いていないクラスメートがいたとしても、孤立主義と思われている彼女へ挨拶以外の会話などしない。彼女を知る男子や女子は敢えて彼女と必要以上に親しくしようとしていない。

【秘密、教えない】

 きっと二年参りの初詣の場に彼女がいたと思う。離れた場所から僕を見ていて僕が御神籤を結ばなかったから、御神籤が大吉で合格の御守りにする為に持ち帰ったと考えたのだ。

(いったい彼女は何処にいて、僕を見ていたんだ? 境内で同級生らしき女子はいなかったよなぁ……)

 彼女に諭されたので帰りに金澤神社へ立ち寄って志望高校合格の御礼参りをした。あの時、彼女もここに初詣に来ていたのなら、絵馬を納めているのに違いないと思い絵馬掛けに彼女の絵馬を探す。最初に僕の絵馬を探した。僕の行動を見ていたのならば、僕の絵馬の近くに掛けているかも知れないと考えたからだ。それに近くに掛けていて欲しかった。

 絵馬掛けには、多くの絵馬が何層にもビッシリと隙間無く掛けられて、場所もうろ覚えで分らない。適当に当りを付けて根気良く一枚づつ捲り、やっと捜し当てた僕の絵馬は十枚ほども下に埋もれていた。

 捜し当てた僕の絵馬には、菅原道真の絵が描かれた面同士を重ね合わせて、もう一枚の絵馬が結ばれている。手前に願い事が書かれた面を見せるのは僕の絵馬だ。直ぐに反して結ばれている裏の絵馬を見ると彼女の名前が有った。

『志望校へ合格しますように!』『願いが叶う幸せな年になりますように』

 ピッタリと合わせられた彼女の絵馬に、ヘタったような丸っこい大きな字で、そう書かれていた。そして僕の絵馬の結びを一度解き、互いの絵馬の結び紐を一本づつ絡ませながら二枚の絵馬は合わせて縛られ、そして残り一本づつの紐で掛け結び直されている。

(こっ、これは……)

 友人達とはしゃぎながら慌ただしく済ませた二年参りで、直ぐそこにいた彼女を見い出せなかった自分に、焦りと苛立ちを感じて胸が苦しくなる。僕を見てくれていた彼女に……、自分の絵馬を僕の絵馬に重ねて結び直す彼女に…、痛いほど胸が締め付けられる愛しさと切なさを感じて、嬉しさで全身が小刻みに震え、肩や背中が加速して流れる血液で熱く、顔は火照り、ジンジンする耳の後ろの小さな痛みが、頭の中を白い靄が掛かるようにぼやーっと痺れさせて行った。

(……もしかして、社務所の売り場脇でぶつかりそうになった女の子が、彼女だったのか……?)

 違う学校の子だと思って気にもしていなかった。

(あーっ! そういえば、ぶつかる寸前にまで近づいた時、漂った懐かしい感じの匂いが、そうだったんだーっ。大好きなら直ぐに気付かなきゃ、全然ダメじゃんかー)

 あの時、もし気付いて立ち止まり、フードを被って俯いていた彼女が顔を上げたとしても、僕は何が言えただろう? きっと、互いにメールで交わした新年の挨拶を声で繰り返しただけで、それ以上は何も言えないままにいて、僕は巡り逢えたチャンスをロマンスにできていなかったと思う。

(ふっ、まったく、いつどこで、彼女に見られているか分らないな)

 そう思うと、そのくすぐったい嬉しさと入試に合格した喜びで、僕はヘラヘラニヤニヤと一日中笑っていた。もう、頭の中は幸せのバラ色だ!

 だけど、表裏に記された願いと名前が晒されているから、絶対に学校の誰かしらに見られていると思う。いくら合格祈願力を強める効果と、あと三ヶ月足らずで卒業してしまう時期の、一度切りの事とはいえ、人目を気にしない彼女の大胆さには敵わない。

     *

 卒業式の朝、いつものように徒歩で学校へ向かう。三年間通ったこの道で起きた出来事や場面や想いを思い出しながら歩く。

(これから先、将来、この道をこうして歩いても、今のこの思いを再び同じように感じるだろうか?)

 そう考えると、足裏から伝わる路面と見慣れた町並みや、学校に近付くほど騒がしくなる朝の喧騒と漂う朝独特の臭いも、全て感慨深く大切な気がしてくる。

 熊走りの坂を上り、小立野三丁目の曲がりくねった旧道を抜け、左に亀坂を見ながら下馬に出る。小立野通りと白山坂が交わる石引の交差点だ。ここから湯涌街道から小立野通りに繋がる幹線道路は、石引通りと名前を替えて直線で兼六園に至る。その兼六園から四百メートルほど手前に今日が最後の登下校になる、中学校は在った。

 この三年間を忘れたくなかった。暫し校門の前で立ち止まり、冬の青空に映える三尖塔を見上げて思う。

(ずっと、忘れないでいたい。僕は決して忘れないぞ!)

 彼女も僕も互いの志望した高校に合格した。四月から場所が離れた方向も違う高校へ通う。通学するコースや手段や時間帯は違い、彼女を見掛ける機会は殆ど無くなるだろう。合格発表日から彼女との唯一の繋がりとも言える携帯メールは再開されているけれど、高校で彼女のハートを射止める新たな出逢いが有れば、僕にときめきと安らぎを与える彼女のフレンドリーなメールは来なくなるに決まっている。

 電話や直接話すのは彼女から拒否されているけれど、僕はずっと彼女と親しげに話したいと思っていた。楽しいアニメを観た後や感動する物語を読んだ後の嬉しさが染み込んで来て、泣きたくなるような気持ちで彼女と話したかった。

 どうせ話すなら高尚な話しでもと思うけれど、『高尚とは何ぞや?』と考えてしまう。学校の成績で遥か高みにいる彼女に、僕の考える高尚な教養の有る話題など御呼びじゃないだろう。下手に理屈っぽいウンチクなど垂れてドン退きされるのはいやだ。テレビのドラマやバラエティーをテーマに、あーだこーだも軽くてスカスカと思われる。それに僕はテレビを見ないから話にならない。日常の身の回りの出来事や思いや考えなどは、携帯メールで普通にダチに話すかのような口語体で交わしている。同じ内容を繰り返すのも無粋だと悩んでしまい、結局、話しどころか挨拶もできないくらいに声を掛けるのを躊躇ってしまう。

 どうも順番が逆のような気がする。姑息に携帯メールで告白したのがいけなかったと思う。それからずっと彼女にイニシアチブを取られっぱなしだ。隣どうしのクラスに分かれた三年生では、教科書を忘れたふりをして彼女に借りに行き会話のきっかけをと考えたけれど、その後の展開を悪い方ばかりに想像してしまって実行できなかった。

 この中学生の三年間で彼女と話したのは、二年生の時の朝の挨拶と電話での謝罪だけだ。

(生声は挨拶を返した一言だけ……。不甲斐無さ、勇気の無さ、意気地の無さ、全く自分が情けない)

 高校生になっても当分、この情けない関係は覆せないだろう。それでも僕は彼女に恋をし続ける。

 今は氷壁の態度と凍て付く言動でスノーホワイトのような彼女だけど、いつかは和らいで霞み立つ春の穏やかな光りに咲き誇る満開の桜のように、優しく僕に接してくれると信じていたい。そうなるように僕は彼女に想いを送り続けよう。もし無念の定めで絶望に鎖されても彼女の幸せを願う男でありたいと思う。

 見上げた三尖塔から既に定位置に固定された校訓の像へ目を落とす。

(彼女といつの日にか、この像のような寄り添う二人になりたい)

 モデルになった熱い夏の日、横に並んでポーズをとる女子部員を見て僕はそう思っていた。

     *

 卒業式にはお袋が来ていた。式が終わると、『これから買い物に行くけど、いっしょに来る? 行くなら待ってるから』講堂から退出中の僕の傍へ来て誘う。僕が断ると、『わかった。じゃあ、行くわ』と、あっさり僕を置いて、さっさと行ってしまった。

 玄関脇のゴミ箱に使い古した内履きを捨てながら校舎の外へ出た時、校門を出て行く彼女が見えた。既に親といっしょに帰ったと思っていた僕は、慌てて校門へ走る。序幕を終えた『校訓の像』を一瞥し彼女を追い駆けた。

 あれだけ僕がモデルをしたのに、男子像の顔は輪郭が僕っぽいだけで、目鼻立ちは僕らしくなかった。製作中や完成後も設置される前に何度も見たけれど、美術雑誌で見るモデルのような標準的な日本人少年顔の他人だった。真夏の熱く蒸れる美術教室でモデルをしてジンマシンになったり、別の日にも表情や身体の各部位のモデルになって、スケッチを描かれたり写真も撮られたりした。なのに、

(全然、僕じゃない! 彼女が見ても、僕がモデルだと分んないじゃん!)

 青信号が点滅する横断歩道を駆け渡り、そそくさと彼女が歩く対面の歩道を歩く。中学生最後の下校は、いつもの彼女の前後を少し離れて歩くのとは違って、真横に彼女を感じながらの下校になった。

 ちらちらと真横の彼女を見て、僕に気付いた彼女が僕を見そうになると、さっと顔を前に戻す。時々、同時に向き合ってしまい一瞬、見詰め合ってから恥ずかしくなり互いに慌てて顔を逸らした。これで車道が無ければ初々しい初デートみたいだ。

 T字交差点で彼女が停まったり遅くなったりすると、ワザと僕はスローに歩いて、彼女が横に並ぶを待つ。僕が信号待ちした時や小路から出て来る自動車を遣り過ごす時も、同じように彼女もスローに歩いてくれて、僕は嬉しさで心臓がドキドキと高鳴り、自動車の行き交う車道を飛び越えて、彼女の肩に触れるほど近くを並んで歩きたい衝動に駆られた。

 下馬地蔵を過ぎると片側二車線の道路は片側一車線になり、ぐっと狭くなった道幅で彼女との距離は半分になった。髪の揺れ、服の皺や靡く様、瞳の虹彩までが鮮明に見て取れて、その愛らしさに締め付けられる心臓は痛く、送り過ぎた血液で視界の隅が少し暗くなった。胸は切なさに大きく喘いで息をするのも苦しい。過呼吸で喘ぐ息に思考が鈍り自分の手足の動きもぎこちなく思える。

 今の口で息をしながら歩く僕の姿は以前、お袋が言っていたように彼女からバカっぽく見えているのかも知れない。キリッと口を閉じて背筋を伸ばし、大股でスッ、スッと颯爽(さっそう)と歩こうとするのだけれど、意識すればするほどバラけた不自然な動きになって、彼女を茶化しているように思われないか心配になってしまう。

 僕はリアルに何か行動を起こして彼女に近付きたいのに、とても行き交う自動車を避けて通りを渡れそうになくて、目の前の僅かな距離を押し渡る勇気も出なかった。

 二十分ほど歩いて着いた僕の家の方へ向かう通りへは折れずに、そのまま彼女の真横を進む。いっしょに歩ける登下校もこれが最後と思う名残惜しさと、彼女の傍にもっと居たい気持ちと、僕が考える諸悪の全てから守りたいとの独占欲から僕は恥ずかしげも無く。帰宅コースから外れた通りを僕は彼女と並んで歩いた。

 いつもは曲り角で彼女を見送るのに、そうせずに歩いて来る僕を不思議がるように彼女は僕をじっと見ながら歩く。僕も彼女を見続けて歩いてみた。高鳴る鼓動が更にテンポと強さを増したのを意識しながら、初めて目も顔も逸らさずに彼女を見詰め続けたまま僕は歩いている。

 見ていると慌てたように彼女は携帯電話を取り出し、素早くキーを打ち込んでメールを発信した。直ぐ様、僕の携帯電話が反応して彼女からのメール着信コールを奏でる。着信コールに気付かないみたいに僕は、顔を彼女に向け続けてワザと携帯電話を取らない。

 道路の向かい側を、携帯電話を手に持ちながら僕を見て並んで歩く彼女、その彼女からのメールを受けたのを、ポケットの中で震えながら彼女専用のメロディーを奏でて知らせる僕の携帯電話。今にも、『なぜ、付いて来るの? あんたの家は、そっちでしょう?』や、『なぜ、メールを見ないの?』と、彼女の思っている問いを携帯電話がしゃべり出しそうだ。

 彼女が放つ僕への嫌悪感と疑惑のプレッシャー、不可解と思われる行動を取る後ろめたさと羞恥心、そして限界に高まる動悸で僕は、今にも震える足が縺れて倒れそうだ。

 何度も脇道へ逃げて走り去りたい衝動に駆られる。だけど、僕を見てくれている彼女が堪らなく嬉しい。そんな彼女を目を逸らさずに見てる僕は、プレッシャーに勝る楽しさで心はときめいている。僕は奏で続ける彼女のイメージで選定したメロディーを、もう暫く聴いていたいと思う。

【そっちの広い通りへ曲がれば、あんたの家じゃないの?】

 着信音の楽曲を一曲フルに鳴らして開いたメールは、予想した通りの文面で顔が笑ってしまう。曲り角はもう疾っくに過ぎてバス停一つ分以上も後方だ。返信をせずに僕は画面を閉じて携帯電話を仕舞った。彼女との別れは直ぐそこに迫っている。携帯電話の発光する画面のドット文字じゃなくて生声で伝えたい。

 きっと彼女は向かいの小路へと折れて行くだろうと思い、信号の無い小路が交差する小さな交差点の角で立ち止まり、大型車の過ぎ去るのを待って見送りの視線を流す。すると驚いた事にいつも冷たい彼女が立ち止まって道路の向う側から僕を見ていた。まさかドライな彼女まで立ち止まるとは思わなくて心が震えてしまう。

 彼女が背にする小路の向こうに彼女の家が在り、角を折れて家へと向かう彼女に僕が声を掛けて振り向かせ、冷やかな反応の彼女を見えなくなるまで見送るという、片思いで終わって仕舞う中学生最後の思い出作りをしようと考えていたのに……。これでは見送れない。 

 已む無く生声で彼女に伝えて、さっと格好良く立ち去る事に決めた。ゆっくりと拡声器のように両手を口に添えて大きく息を吸う。覚悟はできている。これで彼女と意志の疎通は断たれてメル友は終了するだろう。ここで望みが絶たれて悔やまれる思い出にしてしまうかも知れないけれど、僕はどうしても言いたい。言おうか迷うより、言えなくて悔やむより、言ってから後悔したいと思う。

 コーラス祭の時のように一瞬の溜めを置いて一気に叫ぶ。

「大好きです! 今も、これからも、大好きです。僕と付き合って下さい!」

 言い放った瞬間、大きな車が続け様に轟音を立てながら目の前で交差して彼女を隠し、押し退けられた大気は旋風を巻いた風圧となって僕を襲う。放った声が向こうへ抜け通って彼女へ届いたのか不安だったけれど、全ての音を一瞬に潰した大きな音と顔を逸らし眼を瞑らせて吹き抜けた風が、テンパって限界寸前の気持ちを更に殺がして二度目を叫ぶのはとても無理だった。

 体裁などを気にする余裕の無くなった僕は、そそくさと身を翻して旧湯涌街道へと逃げる。今度こそ颯爽と歩き去ろうと決めていたのに歩調は速くなる。大股歩きは早足になり、早足は小走りになった。背後から彼女の声がした時は小走りから駆け足に移っていた。二度ほど聞こえた彼女の声は風に巻かれて途切れ勝ちで、何を言っているのか分らない。

(やっぱり嫌だ! きっと、絶対、僕はフラレてしまう!)

 本当に僕は言ってから後悔している。駆け足はダッシュになった。

(僕がフラレる言葉を、彼女の生声で聞きたくない!)

 僕は全力で走って逃げた。

「さようなら。またね!」

 はっきりと聞こえた。

(彼女の声だ……)

 彼女の声に振り向くと旧湯涌街道の車道に立ち僕を見ている彼女の姿があった。

(僕は……、彼女にフラレていないのか……?)

 叫んだ生声の告白が彼女に聞こえているのか、いないのか、確信は持てなかったけれど、彼女が終わりに言った、『またね!』は、とても親し気に聞こえて凄く嬉しい。

(僕は、まだ完全にフラレてないじゃん!)

 彼女は、嫌だとは言わなかった。『またね!』なら当分、メル友は続けていられそうだと思う。

 それでも、僕は走り続けながら何度も何度も振り返り、その度に車道の真ん中に立ち僕を見続ける彼女を見た。それは、僕が描いていた思い出作りの中の僕役をするように、僕が見えなくなるまで見送り続けている彼女の姿だった。

 

 ---つづく