遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

恋と別れ (僕 中学三年生) 桜の匂い 第四章 参

 進学相談で、担任の先生から言われてしまった。
 『受けるのは、お前の勝手だが、今の成績では危(あぶ)ないぞ。受かっても、キリにギリギリだな。本気で受験するのなら、もっと、一生懸命に勉強するんだ』
 相変わらず、成績は芳しくなかったけれど、『幸せそうに笑う顔と、確信と希望に満ちた瞳(ひとみ)を持つ、そんな大人』になると、目標を決めたからには、その、第一歩の高校受験に合格しなければならない!
 それは、彼女との繋(つな)がりを保つ為(ため)の自分に科した必須(ひっす)の条件で、是(ぜ)が非(ひ)でも全力で合格に持って行きたい!
 担任に諭(さと)された日から、僕は真面目に、真剣に、毎日、深夜まで受験勉強に励(はげ)んだ。
(彼女と僕の未来の為に、何が何(なん)でも、必ず合格してやるんだ!)
 確信の無い不透明な二人の未来だけれど、記憶容量が小さくて、出来の悪い頭を、深夜まで働かせていた甲斐(かい)があって、僕の成績は少しづつ上がっていった。
 そんな、受験勉強の佳境期の深夜に、模試プリントの解答で頭を抱(かか)えて悩(なや)み、塞(ふさ)ぎ込んでいた僕を、イスから転(ころ)げ落とすほど驚(おどろ)かせて、着信した彼女のメールは、またまた意図不明の質問系だった。
 度々、送られて来る、落とし所の分からない問い方は、彼女の癖(くせ)なのか、思慮深いのか、それとも、ワザとなのか気になる。
【あんた、高校でも、美術やんの?】
 こんな、丑三つ時(うしみつどき)を廻る時刻だから、彼女も受験勉強の最中なのだろう。
 彼女の家まで、直線距離で約五百メートル足らず、ぶらぶらと散歩がてらに歩いても、二十分で着く。
 ……と、励(はげ)みに彼女の部屋の灯りでも、見に行こうかと思うけど止めた。
(それにしても、これは、深夜の受験勉強中に、訊(き)かなくてはならない事なのか?)
【やらない】
 授業や美術部で僕が 、作ったり、描(えが)いたりした作品を、彼女が良く観ていたのを覚(おぼ)えている。
 作品に興味が有ったのか、作風が気に入っていたのか、それとも、僕に興味が有ったのか、まだそれを、彼女に訊いていない。
【なんで、やんないのよ?】
 何だか、怒(おこ)っているような感じだ。
 彼女と同じ高校を受験できなくて、違う高校を受験すると知らせたからだろうか?
(去年の元旦の年賀メールの、『同じ高校へ、いっしょに行けるといいね』は、本気だったのか?)
【スポーツがしたい】
 僕は、何かしらのスポーツをして、身体(からだ)を鍛(きた)えて逞(たく)しくしたかった。
 背が伸び続けて、背丈(せたけ)は高い方に入るくらいになっているけれど、コーラス祭のソロで歌った時も、もっと、声を遠くへ飛ばし伸びさせるには、筋骨隆々とまではいかなくても、今以上に、しっかりした体格にならなければいけないと思った。そして、彼女を守る為にもだ!
【美術の才能が有るのに、勿体無(もったいな)いなぁ~。美大を目指せばいいのに】
 僕の美術の才能なんて、高が知れている。
 高校の美術部で活動して、進学した美術工芸大学で学んでも、飛躍的に伸びるとは思えない。
 問題は、美大を卒業した後だ。
 美の天才的な感覚など持ち合わせていないから、芸術家として興(おこ)して軌道に乗せ大成するまで、どれだけ僕は、親に世話を掛け続けるのだろうか?
【美大は目指さない。美大に進学する目的が、分からないんだ……。僕はただ、イメージを造形したいだけなんだ。造形や作画は、僕の趣味だよ】
 名の知れた芸術家の作品は、芸術家の他界後に価格が高騰(こうとう)したと、美術の雑誌で読んだ覚えが有る。
 世界的に有名な過去の芸術家達で生前に十分な評価を受けた人はどれくらいいるのだろうか?
 現在も過去も未来も芸術家は、より多くを知り、見て、聞いて、訊き、語(かた)り、感じなければ、インスパイアされる活(い)きた作品を創作できないと思う。
 それは、チャンスに恵(めぐ)まれて財力を持ち、生活に余裕が有るか、また、才能を見出され作品が投資
の対象になると評価されて、創作資金を提供するパトロンが現(あらわ)れないと、存命中に大成できないだろうと、僕は悲観的に考えている。
【趣味でも、美大に行けば、洗練されるんじゃないの?】
 確(たし)かに、美大で技能や技術は洗練され、知識も増え、技法のレパートリーに困(こま)らなくなるだろう。
 それらを学ぶ中で、僕の作品は評価される。そして、良い評価を得ようと、作風を改善し続けていくと思う。
 実際、創作を続けていると、いつの間にか、作風は変化して以前の作品が拙(つたな)く見えた。でも、それは、本当に改善や洗練がされているのだろうか?
 美大に進学してまで、すべき事なのだろうか?
 ただの他人受けが狙(ねら)いだけの、変化なのかも知れないのに、僕は納得できるのだろうか?
 僕には、良く判らない。
【うーん、どうかな~。上手(うま)く伝えれないかも知れないけれど、僕は、美大の科目を活かすような就職をしたくないんだ。まだ、漠然としているけれど、美術関係と違う職に就(つ)きたいと思っている。僕の趣味の延長ごときに、親の金で、四年間も大学へ行って学ぶのは、申し訳なくて、耐えられないよ】
 僕は、取り繕(つくろ)う言い訳ばかりを彼女に伝えている。
 美術の先生ほどの美への感性も、想像力も、持ち合わせていない。
 先生のような、恐(おそ)ろしいまでの気概(きがい)も、切れるような真剣さも、僕には無かった。
 僕は、先生みたいになれない……。
 そう……、美大で学んでも、感性や感覚が増長されて、その後に、成就大成できるとは限らない。
 学ぶのは、手法や技法や基礎美術で、それらを、熟(こな)して取り込み、自分のオリジナルを完成させ、インスパイアを受け、イマジネーションを発露させても、それが、大勢に受け入れられなければ、芸術家として世界を目指せない。
 そこまでの覚悟と自信が、僕に無かった。
【ふう~ん。いろいろ、考えてんだね】
 趣味について僕は、創作と発想や感性に自由でいたいだけだ。
 他人に評価され続けられていると、次第に自分の作品じゃなくなっていくような気がする。
【それに、造形に特化した技巧の勉強なら、独学でもできるしね。頭に浮かんだイメージを、より速く具現化する手段が、技巧や技法なんだ。方法の手持ちは、多い方が良いに決まっている。それは、見て、触(さわ)って、感じてたりして、盗み学び、本当に解らないところだけを、調べたり、教えられたりして、知識や器用さや段取りとして、身に備(そな)わるものだと思っている】
 僕は、自分の趣味を嫌(きら)いになりたくないだけで、趣味はいつまでも、自由で生業(なりわい)にする自信や展望も無かった。
 趣味への想いに、プレッシャーを与えたくはない。
【そう、そうかも知れないね。私もピアノで、それを、痛いほど知らされたよ……。それで、嫌になりそう】
(痛いほど知る……。それは、スランプや壁じゃ無い! 彼女は、自分の限界を知ったんだ……)
 彼女が、打ち込んだ文字が僕に、そう悟(さと)らせた。それでも僕は、彼女が自分の夢に向かって、努力し続けていると思いたい。
【好きなピアノが、嫌になりそうなくらい、とても、君は頑張ってるんだな。大学の音楽学部を目指すんだろ? 君の夢が叶(かな)えられるように、応援してるよ】
 彼女に、僕が恐れているような、好きな事にプレッシャーや限界を感じて、避(さ)けるようになって欲しくなかった。
 いつもツンとした、……僕だけにかも知れないが、自信と余裕に満ちた……、僕には、そう見えて、そう思えていた……。
 そんな彼女で、いて欲しい。
(僕と、同じにならないでくれ!)
【ううん、残念。もう、応援しなくてもいいよ。本当はね、嫌になりそうじゃなくて、嫌になったんだ。ピアノは八月で止めたの。自分の限界を知ったし。駄目だったの…… 私。そんなに真剣じゃなかったんだ。……もう、決めちゃって、済(す)んだ事だから、何も訊かないで!】
 この夏で、彼女はピアノを止めていた。
 今まで、ピアノの事には触れて来なかったのに、振って来たから触れろと、『残念』、『嫌になった』、『限界』、『駄目』、『真剣じゃ無い』、『済んだ事』とか、吐露(とろ)して、既に、挫折して已(や)めているくせに、理由は訊くなと来た。
(どうしたんだ? それは、君の夢じゃなかったのか? ピアニストになりたいと、小学校の卒業アルバムにも、書いていたじゃないか! 痛いとは、そういう事なのか? 君は、もう夢を諦(あきら)めるのか?)
 世界を駆けるピアニストになれなくても、自宅でピアノ教室の先生をする彼女を思い描いていた。
 ピアノ教室に、彼女の生徒達へ教える優(やさ)しくて明るい声と、子供達の弾(ひ)くピアノの、たどたどしい音色(ねいろ)や楽しそうな声が聞こえる。
 そんな、日常の幸せを彼女に望んでいた、僕の夢も消えてしまう。
 自宅のレッスンルームの遮音床に置かれたグランドピアノを弾く彼女の傍(かたわ)らに、寄り添うように立つ僕は、彼女の奏(かな)でる音色に聴き入っている。
 僕の憧(あこが)れていた、近未来の二人の姿が消えてしまった。
 彼女の夢は、僕の夢でもあったのに。
【そうなんだ……。既に、やめていたのか。……もう一度、君のピアノを聴(き)きたかったのにな。小学六年生の雨の日、君が弾くピアノに、凄く感動してたんだ。あのアンコールで弾(ひ)こうとしていた曲を、いつか、聴けるチャンスが有るかな?】
 事象に敏感な彼女は、強い感受性を持っていると思う。
 あの春の光と風が身体を透過して行くような透明さで、彼女は、曲を繊細(せんさい)にイメージしてグランドピアノを弾いていた。
 気持ちを込めて一音(いちおん)、一音、丁寧(ていねい)にキーを押さえた。
 だから、一度しか聴いていない、彼女が弾いた音色を、今でも、はっきりと耳の奥に聴くことができる。
 それほど、初めて聴いた彼女のピアノの音(ね)は、僕の心に深く染み込んでいた。
 あの時、音楽教室にいたクラス全員が、彼女のメロディを記憶していて、ピアノを連想する何かの切っ掛けで、彼女の音色を思い出しているだろう。
【今の私じゃ、無理! いつの日か、自分が変われて、ピアノを弾きたい気持ちに駆られたら、機会が有るかもね】
 画面の文字が、諦めと寂しさと悲しさの呟(つぶや)きに聞こえた。
【自分が変わる……? どういう意味?】
 何が有って、どれほど悩んだのか、彼女は、僕に弱みを見せない。
(夢を諦めるなんて……。彼女のことだから、きっと、悔(くや)しい思いをしたのに決まっている)
【さあね。それなら、美大じゃない大学へも、行かないつもり?】
 僕が知りたい肝心なところは相変わらずはぐらかしてくる。しかも切り返して僕の進路へ突っ込みを入れて来た。
(まだ、メールを、尻切れトンボで終わらせないだけましか……)
 彼女の悩みが分かれば微力な僕でも役に立てるかも知れないのにと思う。
【ああ、今のところは大学へ行く気が無いんだ。受験は、今だけでいいよ。三年後も、受験で苦しみたくないね。勉強は嫌いだから】
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 中学生レベルの学力が、ちゃんと有れば、社会人として優(すぐ)れている方だと、親父は、知人の会社や研究所へ見学に行く途中の自動車の中で言っていた。
「加工や設計は、数学の微分や積分が少し解るくらいで上等だ。それ以上は、実務から学べば良い。科学や物理は、化学記号や物性の意味が読めて、力関係が理解できれば、問題無いぞ。国語や文法は、5W1Hで書けば、レポートやEメールはばっちりで、恥を掻く事は無いだろう。要は、読む相手の立場になって、伝えたい事を、解かり易(やす)いようにレイアウトして、文を作成する事だな。そうした方が自分でも書き易いんだ。英語などの外国語は、最初はブロークンで良いさ。耳が慣(な)れるまで辛(つら)いけど、相手の意思を聞きとろう、汲(く)み取ろうと、身振りや表情も良く見るんだ。そして、自分の思考を伝えようと努力する事が肝心で、いろんな言い回しを、考えて使うように心掛ける事だ。最低限の単語は覚えるしかないな。まっ、必要に迫(せま)られれば、否応(いやおう)でも覚えるしかないんだから」
 家では、空気読めない系とか、妹やお袋に言われて、揶揄(やゆ)されている親父だけど、なかなかどうして、一人で事業を起こし、今も、順調な経営を維持しているだけあって、その、実践経験に起因する言葉は、流石(さすが)に解り易くて、納得できた。
「お前は、真心の意思を、真心の言葉で語る。そして、真心で相手の声を聞き、真心で事物を見て、真心で相手に触れる。そうして、お前の真心を感じさせるんだ。然(さ)すれば大概、互いの思いは伝わって行くものさ」
 いつも、彼女に僕は、真心で想いを伝えたいと思う。でも、それは、駆け引きや利害や欲望の絡(から)む企(たくら)みであって、真心とは呼べない、真心には程遠い、僕の勘違いな思いなのかも知れない。
「社会や歴史は、一般常識程度は覚えておけよ。社会人に成(な)ると、テレビ番組は知らなくても、時事に疎(うと)いと困るぞ」
 あまり、テレビを観なくて、ドラマやバラエティーは良く知らないけれど、ニュースやドキュメンタリーも、全然観ていない。
(これからは、観るように心掛けて、学ぶように努力したいです)
「高校卒は、大学受験の資格に必要だし、普通高校は、大学への階段やゲートみたいなもんだ。普通高校に進学するなら、更に、大学や専門学校に行くべきだな。高校で将来の目的意識が湧(わ)かなくても、大学で見出せれば良いし、個人差は有るけれど、大学の四年間は、それ成りに有意義なものになると思うぞ。高校卒業で社会人に成っての四年間と、大学での四年間も、然(さ)程(ほど)代わりはしない。個人個人の意識や認識の問題さ。目的意識が持てなけりゃ、何歳になっても輝く事はできないぞ! それと、大学へ行けば、大卒の肩書きは付くな。一流大学を卒業なら、大企業や有名企業に就職して、出世もし易いかもな。官公庁の国家公務員になって、エリートコースに就(つ)けるかもだぞぉ。……もし、そうなったら、いいだろう。……う~ん、……いいのかなぁ?」
 大学のレベルは、ピンからキリまで有って、特に、キリは学ぶべき事も、求めるモノも、見付からないまま、自動的に卒業させる大学が多いと聞く。
 高校卒レベルの学力も、まともに無くて、就職率は低いらしい。
 二十年後、三十年後に、大学卒の肩書きが必要だったと、イフやスターティングオーバーを求めて嘆くのか、必要なかったと肯定的に生き様を振り返れるのか、自分の性格や趣向を良く考えて、受験する高校を選びたいと、親父の話で思った。
「学歴重視の社会だから、一般的に、会社や役所の初任給は、高校卒より高額で、より、重要な仕事のポストに付いて昇進も速い。だけど、大学選びや文系か、理系かの選択で、社会の受け入れも違ってくる。大学卒業時に、それに捕らわれない選択先も有るが、まあ、大学在籍中は社会に選ばれる側だろう。まぁ、俺のアドバイスは、こんな感じだな。そして、最後に、俺の経験から一言(ひとこと)、どんな進路でも、決めるのはお前で、お前自身の未来だからな」
 話の途中に二度ばかり着信した、携帯電話からの仕事の応対で遮(さえぎ)られた親父の言っている事の、大体の意味と、言いたい事は解った。
 だがしかし、僕は、そんな、社会に選ばれるシステムに巻き込まれる為の、勉強はしたくなかった。
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【そっか、まあ、お互い高校入試に頑張りましょう。これから、合格発表が出るまで、メールは無しにしてね。もう寝るわ。おやすみなさい】
 僕が、まだ起きているのを確信しているかのように、彼女から始まった、深夜のメールの遣り取りは終了する。
     *
 十二月末に定番の、『メリークリスマス!・君の幸せを祈ります』を送り、元旦は、寒空に響く除夜の鐘の音の中、『迎春・二人にとって、喜びに満ちた年でありますように』と送っただけで、十一月後半からの受験勉強の佳境時期は、彼女へのメールを控(ひか)えていた。
 なにより、受験勉強の『邪魔だ』とか、『煩(うるさ)い』、『ウザイ』とか、邪険にされそうで、僕は、彼女の怒(いか)りを怖(おそ)れた。
 だから今夜、この時刻に彼女から送られて来たメールは、嬉しくて励みになった。
【ラジャー! お互い、受験勉強に集中して、頑張ろう! おやすみ】
 携帯電話を閉じて淹れた、熱いココアを飲みながら、今のメールの遣り取りを反芻(はんすう)する。
 僕の美術と彼女のピアノが、テーマになった。
 僕の進路を、確かめたかっただけかも知れないけれど、心配してくれて、自分の夢の挫折まで書き綴(つづ)ってくれた。
 これで彼女への連絡は、入試の合否判定まで御預(おあず)けだ。
 僕は思う、入試に合格していれば良いけれど、不合格ならば、彼女と同じ土俵に立てず、自然と僕は身を退(しりぞ)くしかない。
 身を退(ひ)くも、何も、元々、友人程度にも相手にされていない、せいぜい、お知り合いみたいなくせに、僕は、自分に都合良く考えてしまう。
 不安で後が無く、気持ちが焦り捲(ま)くりの僕だけど、不思議と、彼女が不合格になるとは、思わなかっていなかった。
(僕の彼女が、合格しないはずがない!)
 彼女への決め付けを肯定した時に、再び携帯電話が震えて、既に、寝付いているはずの彼女のメロディーを奏でた。
【まだ、起きている? 伝え忘れがあったわ。言霊(ことだま)に気を付けてね。】
 言霊? アニメや漫画で描かれているのは、樹木に宿る精霊の『木霊(こだま)』で、墓場に青白く漂い飛ぶのは、『人魂(ひとだま)』だ。
 言霊は、何かの本で読んだ気がするけれど分からない。
【言霊?】
 背中が、ひんやりとしてゾクゾクする。そして、腕に寒疣(さぶいぼ)が立ち始めた。
 彼女は、何か、不吉な事を僕に伝えようとしていると思った。
 僕は振り返り、部屋の中を隅々(すみずみ)まで見回す。
 床も、天井も、壁も、見るけれど、何もいない。
【知らないの? 言った事が、本当に起きるという、呪詛(じゅそ)のアレ】
 言霊ではないと思うけれど、神社での御参(おまい)り……、賽銭箱(さいせんばこ)前での祈願は、音を立てるんだと、親父とお袋は言っていて、僕は、両親から教わった通りに実践している。
 親父が言うには、神様は、とても人間臭くて、何かをしていたり、隠れていたり、寝ていたり、離れていたりしているだろうから、神様に御願い事をしているのを、気付かせる必要があるのだそうだ。
 だから、鈴はガランガランと、大きな音で鳴らし、拍手(かしわで)はパンパンと、辺(あた)りに聞こえるように打ち、願い事は黙って心で唱(とな)えるのじゃなく、呟くような小声でも良いから、はっきりと聞き取り易いように言わなければならないそうだ。
【アレ? 呪詛?】
 言霊は呪詛で、呪(のろ)いなのか?
 吉兆や凶兆の願いではないのだろうか?
【受験で、自分や周りの人が、言ってはいけない言葉が有るでしょ。ソレよ。自分で言わないでね。現実になっちゃうわよ!】
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 僕は、思い出していた。
 本で読んだのじゃない。
 言霊は、親父や妹といっしょに体験している。
 あれは、夏の始まり頃に、金沢市(かなざわし)の南側の丘陵地帯に在る、金沢の地で一番多く瘴気(しょうき)が集まる黒壁山(くろかべやま)を探険した時の事だ。
 いや、探険ではなかった。
 岩の崖壁に穿(うが)った奥ノ院(おくのいん)の祠(ほこら)までの沢沿いの道筋に、靄(もや)が立ち込めて、何かが纏わり付いたようにゾクゾクするリアルな探険みたいだったけれど、僕は親父と妹と、真面目な御参りに行って来た。
 黒壁山の奥の院へ来るには、山峡に在るお寺の境内を通らなければならない。
 通るには、代表者の名と人数を、社務所に有る参拝帳に記入してから、御供(おそな)えの生卵(なまたまご)と御神酒(おみき)を携(たずさ)えて向かう。
「ここのお寺は、普通とちょっと違うから、御参りの仕方を訊いて来る。この寺の紋は、羽団扇(はねうちわ)、神格は行者の守護神の天狗(てんぐ)だからな。高い木立の中や上空から、見張られているぞ!」
 親父は、そう言って、御参り作法を住職に尋ねていた。
 祠の賽銭箱に紙幣を入れて、二拝三拍手(にはいさんはくしゅ)する。
 親父の言った通り住職に教えられたのは、一般的な二拍手じゃなくて、三回の『かしわで』を打つ。
 他所(よそ)の社(やしろ)よりも、一拍多い打三拍目にった拍手に、妖艶(ようえん)な自己主張の強さと気配を感じる。
 拍手を打った次は、声を出して親父は御願い事をした。
「家族健康で長生き、家内安全で、世界平和、無事故、無事件、商売繁盛で安定高収入」
 僕は、親父に倣(なら)いながら、彼女との恋の成就と入試の合格を願う。
「願いが、叶えられますように、よろしく御願い致(いた)します」
 終わりの一拝(いっぱい)をして……、垂(た)れた頭(こうべ)を起こしていると、隣から親父の呟(つぶや)き声が聞こえた。
「願いを叶える力が有るのなら、証拠を見せて下さい」
 親父が、余計な事を言ってしまった。
「御祓(おはら)いもせずに、ここに立ち入ったから、祟(たた)りが有るかもな。帰りは事故らないように気を付けようぜ。家に入る前に清めの塩を掛けてもらおうな」
 辺りの不気味に静まり返る黒壁山の雰囲気を怖れながらも、笑いながら言う親父の単なる脅(おど)かしだと思って、僕は言い返す。
「冗談でしょう。御願いしたのに、そんな訳ないじゃん。脅かさないでよ」 
 それに住職は、御祓いが必要なんて言っていなかった。
 せっかく、三拍手をして言霊の御願いをしたのだから、親父も冗談で言っているはずだ。
 僕は息を潜(ひそ)め、ゴクリと生唾(なまつば)を飲み込んだ。
 それに気付いたのか、手を繋ぐ妹の握(にぎ)る力が強くなり、もう一方の手で僕の腕にしがみ付く。
「アニキ、恐(こわ)いかも……」
 妹が心配した途端に、フルチューンした親父のスポーツカーが、帰り道の上り坂で突然止まってしまった。
 何度もスターターを掛けてみるけれど、エンジンは回る気配の微動もしなくて、メカに強い親父がトラブルの原因を探しても、見付からないし、見当も付かず、全く分からない。
 問題個所は分からず、電気系統でも、燃料系統でも、機械的でもなくて、親父の自動車(くるま)はマジに壊(こわ)れてしまった。
 挙句に、とうとうデーラーから小型のカーキャリアを呼ぶ始末になり、親父と僕と妹は、祟りを経験したとビビってしまう。
 親父の愛車のコスモを運ぶカーキャリアが到着する頃に、お袋のワンボックス車が迎(むか)えに来て、コスモが引き取られて行く様を家族全員で見ていた。
 帰りのワンボックス車の中で、親父がぼそりと言った。
「言霊だ! 俺が、あんな魔所で余計な事を言ったばかりに、この様(ざま)だぁ……」
 横に座る妹が僕の手を、ぎゅっと握り、話す声が驚きと畏(おそ)れを含(ふく)んでいた。
「祟られちゃったのかなぁ。……神様って、本当にいて力が有るんだ……!」
 妹のビビリ声に悪乗りする親父が、更に、ビビる事を言う。
「さっきのお寺から、犀川(さいかわ)の支流の内川(うちかわ)へ行く途中に、瀬織津姫(せおりつひめ)という早瀬に住まいて穢(けが)れを流す、魂(たましい)を黄泉(よみ)の国へと送る死神のような、日本神話には登場せずに神々を祝う、大晦日の大祓詞(だいはらえのことば)だけで読み上げられるという、そんな、不思議な女神が祭られる神社が在るんだ。瀬織津姫の名の社(やしろ)は全国に三つしかない、その一つの社が、金沢のこの近くに在るんだな。寄ってみたくないかぁ? それに、浅野川(あさのがわ)上流の湯涌(ゆわく)温泉の近くにも、大杉少彦名(おおすぎすくなひこな)神社という、天皇が境内に植樹をしている、十六弁の菊の紋の社が在って、、そこの石の鳥居(とりい)には、立派な注連縄(しめなわ)が結(むす)ばれて俗界と隔(へだ)てられているから、金沢の山手の郊外というよりも、北陸(ほくりく)地方は出雲(いずも)と同じように、神世(かみよ)の代は、大陸と因縁(いんねん)浅(あさ)からずの関係だったのだろうなぁ。両方、今から行ってみるぅ?」
(親父ぃ! 何が、古代は、大陸と因縁浅からずだぁ!)
 いつも、超能力と魔法やに憧れていて、パワースポットなどは流石に詳(くわ)しいけれど、本当に空気の読めない親父で困る。
 今し方、因果関係は解らないけれど、不用意な言霊で自分のスポーツカーを壊したばかりなのに、全く、反省の色の無さ過ぎには、親父を除く家族全員が呆(あき)れてしまう。
「行かない!」
 ハモるほど強く、僕と妹は、親父の提案を拒否した。
 運転するお袋は一言、親父を嗜(たしな)める。
「バーカ!」
 本当に神様の力なのか分らないけれど、発した言葉通りの結果をもたらすという、古(いにしえ)から言葉に宿ると信じられている、言霊という不思議な力。
 不吉な言霊にフルネームを添えると、呪いになってしまう。
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【ソレって、迷信じゃ?】
 僕は、文字を打ち込みながら、迷信じゃないと思っていた。
 神社の本殿で祈願や厄除(やくよ)けの御祓(おはら)いを、家族一同でした事が有る。
 先(ま)ず、神主(かんぬし)さんの振る祓串(はらえぐし)の清めを、家族四人が頭(こうべ)を垂(た)れて受けてから、神主さんが祈願の祓詞を読み上げる。
 それから、家族代表の親父が、神前に榊(さかき)の玉串(たまぐし)を捧(ささ)げた。そして、巫女(みこ)さん達が、神様に供(そな)える神楽(かぐら)を太鼓や笛や笙(しょう)の音に合わせて、鈴を振り鳴らしながら舞う。
 舞が終わると、巫女さんは、再び、頭を垂れさせた僕らの頭上で鈴を振り鳴らす。
 最後に、御供えした御神酒の残りを唇を湿(しめ)らせる程度に飲んで、神事は済まされた。
 神主さんが読み上げる祓詞は、言霊と似ているかも知れない。
【そうかもね。でも、私は信じて、気を付けてるよ。それじゃ、おやすみなさい。かしこ】
 改(あらた)まるかように、文の終わりに彼女は、『かしこ』を付けてきた。
 初めて付けられてきた『かしこ』は、手紙の文末だと様になるけれど、電子メールには似合わない。
 かなり、違和感が有る。
 彼女は、いったい何に畏(かしこ)まり、何を恐れているのだろう。
 確かに、人は人の言葉を……、特に自分に向けられた言葉を信じ込み易い。でも、自分が発した何気無い呟きまでが言霊になって、自分自身が呪詛されるなんて知らなかった。
【ありがとう。僕も、言霊には気を付けるよ。では、合格発表が出るまで。恐惶敬白(きょうこうけいはく)】
(僕を心配してくれる君に、敬意を表して、恐惶敬白……)
 彼女のメール自体が、呪いの言霊だった。
 『私に、ここまで気を使わせて、もし、合格しなかったら、それまでよ!』と、言われた気がした。
 例(たと)え、彼女の呪詛でも、僕は凄く嬉しい。
 それも、受験が迫った余裕の無い時に、彼女は、僕が不用意に不幸を呼び込むのを心配して、メールで励ましてくれた。しかも、追伸で、僕の合否の心配までしている。
 それは、まるで教室の席が真横だった時のように、彼女を凄く身近に感じさせた。
 空気も、匂いも、時間も、感覚も、心も共有している気がした。
 もう、入試を落とす事はできない……。
     *
 黒壁山でレッカーに運ばれて行ったスポーツカーは、二週間後に動くようになってディーラーから戻って来た。
 しっかりとエンジンが掛かり、高回転域まで勢い良く噴け上がって、ちゃんと高速クルージングの走れるように成されていたのに、『故障の原因は不明でした』と、納車に来たサービスの人が、申し訳無さそうに言っていた。
 当初、ディーラーの整備工場で故障原因が分らず、故障がリコールに至(いた)るかも知れない、市場クレームに為(な)り兼(か)ねないと懸念したメーカーが、本社工場の開発研究部門へ持ち込み、エンジンや電装品まで降ろして徹底的に分解・点検・調査をした。
 それでも、突然エンジンが止まるような重大欠陥は、全く見付からなくて、故障の原因は掴めなかった。
 ところが、故障に至る問題を発見できないまま、再び、組み立てられた車は、あっさりエンジンが掛かってしまい、不可解この上ない不可思議に、メーカーの関係者は首を傾(かし)げていたそうだ。
 結局、数日の試験走行でも、何も問題の無かったスポーツカーは、整備・修理代無料で帰って来た。
 そんな、愛車が無償修理で戻って来た経緯を、ディーラーで直接、メーカーのメカニック担当者から説明を聞いた親父が言っていた。
 以来、親父のスポーツカーは、突然のエンジン停止で動かなくなる事は一度も無く、親父は神域や乗車中に祟られるような軽口(かるくち)を言わなくなった。
     *
 昨夜(ゆうべ)から全天を覆(おお)う雪雲で、空は真っ黒だ。
 外は陽が落ちた後のように暗く、身体の芯まで冷(ひ)える寒々しさは、更に、息苦しい胸の痞(つか)えを重くした。
 今朝は、バスを乗り継(つ)いで受験した高校まで、合格発表の掲示を見に来ている。
 入試に合格した受験番号の一覧は、玄関ホール前の特設掲示板に張り出されていた。
 僕は、自分が受験した専攻科と番号を探す。
 バス停から、ここに来る途中に、彼女からのメールが着信した。
【合格したよ!】
 合格を知らせるベタな短い一言に、彼女の嬉しそうな笑顔と、プレッシャーから解放された安堵の喜びが見えたようだった。
 彼女が受かって、とても良かった!
 僕も、凄く嬉しい。
 『おめでとう』メールを、一字一字、声にして打ち込む。
【コングラチュレーション! 僕は、これから番号を確認するところ】
 僕らは互いに合格発表まで、メールを交換して来なかった。
 久し振りの彼女のメールに、僕の胸は嬉しく高鳴る。
 これで、僕も合格していれば、モアベターだ。でも、不合格ならば、彼女と決定的に差が付いてしまう。
 今でも、そうなのに……、彼女が僕をバカと思わずに見下さなくても、僕は、頭の賢(かしこ)さの違いにコンプレックスを抱き、益々、彼女と話すのを躊躇うようになると思っていた。
 入試の当日は、今日のような空模様に、湿気の多い雪が一日中降り続いた。
 足下(あしもと)が滑(すべ)り易くて危ない。
 行き帰りで滑って転んだりでもしたら、それまで、気を付けてきた言霊の呪詛を唱えてしまい、アクシデントの多い将来を暗示するような気がして、不安な人生の第一歩にならないように慎重に歩いて縁起(えんぎ)を担(かつ)いでいた。
 初詣(はつもうで)は、金沢市の受験の神様、金澤(かなざわ)神社で友人達と大晦日(おおみそか)から元旦にかけて、除夜の鐘が鳴る中、御賽銭に紙幣を大奮発して願を掛けた、合格祈願と恋愛成就の二年参りをした。
 ちゃんと、『夢牛(ゆめうし)』に手を置いて合格を願い、合格と縁結びの願いを書き込んだ絵馬も掛けた。
 御神籤(おみくじ)は、『願い、遅(おそ)きに叶う。恋愛、強き想いは必ず伝わる。待ち人、やや遅(おく)れて来る』の大吉で、お持ち帰りして、社務所で購入した合格祈願の御守りに今も挟(はさ)んでいる。
 連るむ仲間達は、それぞれ、別々の高校を受験する。
 誰一人として、同じ高校を受験しない。
 僕達は、別々の高校に進学しても、変わらぬ友情を二年越しに誓(ちか)い合った。
 今朝は、地元の上野八幡(うえのはちまん)神社へ行って、念押しの神頼みも済ませて来た。
 ちゃんと、初詣と同じ、大奮発した御賽銭を入れて、二拝二拍手一拝をし、鈴をしっかり鳴らして、小声で願いを唱えている。
 神頼みは、ばっちりだ。
 『どうか、彼女にバカだと知られて、避けられませんように』と、掲示された受験番号の列に、自分の番号を探す。
 バカでない事を願いながら見た、合格者発表は、一念発起した受験勉強と神頼みした甲斐が有ったのか、掲示板に僕の受験番号が載(の)っているのを見付けて、安堵に胸を撫(な)で下ろしながら、大きく溜め息を吐(は)いた。
 胸の息苦しい痞えは、直ぐには無くならなかったけれど、心から安心した僕は彼女へメールを打つ。
【僕も、受かったよ】
 互いに志望校へ合格したのは、喜ばしい事だけど、四月からは方角も、授業カリキュラムも違う、交流事情や行動接点の無い、別々の高校へ進学する。
 今日からは、確実に僕の人生は、彼女と別れ出して行く。
 もう、同じ狭い時空にいて、同じ空気を吸う事は稀(まれ)だ。
 今までのように、日常的に通学路や校内で、彼女を探して見付け出す事はできない。
 これからは、アナログなリアルを拒む彼女との出逢いは、本当に偶然のみになってしまう。
 別れ始めた二人の人生は、再び、交差するのだろうか?
 デジタルなメールは、きっと、離れて行く彼女のハートを掴み切れなくて、高校での新たな出会いに掻き消されるだろう……。そして、僕は、決定的に失恋してしまうんだ。
 そう考えると、僕の心は憂(うれ)いた。
【おめでとう! 良かったね】
(ああっ、最高だ!) 
 メールを文字を見た瞬間、コーラス祭の時のように彼女の声が聞こえた…… 気がする。
 例え、ドライに打たれた言葉でも、この発光画面に浮き上がるデジタル文字に込められた、彼女の気持ちは本物だと思いたい。
 他の誰の、どれほどの、褒(ほ)め称(たた)える美辞麗句よりも、文字にされた彼女の御祝いの言葉が、僕は一番嬉しい。
【言霊に気を付けたのと、金澤神社の御神籤が、大吉だった御蔭ね。私と、あんた自身と、金澤神社に感謝しなさい!】
(驚いた! 彼女は、僕が大吉を引いたのを知っている? なぜ?)
 直ぐに僕は、電話やメールでダチ達に問い合わせた。
『僕は合格していた。そっちはどうだった? それから、彼女は、僕が金澤神社の御神籤で、大吉を引いたのを知っていたぞ! びっくりだ! その事を、誰かに話したか? 初詣で彼女を見たか?』
 回答は直ぐに来て、友人達みんなは、志望校に合格していた。
 彼女の件については、誰もが、友達以外に話していないし、あの場で彼女を見掛けていなかった。そして、皆一様に、『お前らの異常で、不自然な関係など、知らん!』などと、打ち返えして来ていた。
【どうして、金澤神社の大吉だと、知っているんだ?】
 彼女からの疑問は、彼女へプレッシャーを与えない限り、彼女自身へ訊くのが一番だ。
 大吉の御神籤の事は、友達以外に話してもいないし、見せてもいない。
 クラスメート達に出逢ったのは、参拝が済んで境内から出た後で、それも、擦(す)れ違い様の軽い挨拶だけだ。
 僕達が気付いていないクラスメートがいたとしても、孤立主義と思われている彼女へ、挨拶以外の会話などしない。
 彼女を知る、男子や女子は敢(あ)えて、彼女と必要以上に親しくしようとしていない。
【秘密、教えない】  
 きっと、二年参りの初詣の場に彼女がいたと思う。
 離れた場所から僕を見ていて、僕が御神籤を結ばなかったから、御神籤が大吉で、合格の御守りにする為に持ち帰ったと考えたのだ。
(いったい彼女は、何処にいて、僕を見ていたんだ? 境内で、同級生らしき女子はいなかったよなぁ……)
 彼女に諭されたので、帰りに金澤神社へ立ち寄って、志望高校合格の御礼参りをした。
 あの時、彼女も、ここに初詣に来ていたのなら、絵馬を納めているのに違いないと思い、絵馬掛けに彼女の絵馬を探す。
 最初に、僕の絵馬を探した。
 僕の行動を見ていたのならば、僕の絵馬の近くに掛けているかも知れないと考えたからだ。それに、近くに掛けていて欲しかった。
 絵馬掛けには、多くの絵馬が何層にもビッシリと、隙間無く掛けられて、場所も、うろ覚えで分らない。
 適当に当りを付けて根気良く、一枚ずつ捲(めく)り、やっと捜(さが)し当てた僕の絵馬は、十枚ほども下に埋もれていた。
 捜し当てた僕の絵馬には、菅原道真(すがわらのみちざね)の絵が描かれた面同士を重ね合わせて、もう一枚の絵馬が結ばれている。
 手前に願い事が書かれた面を見せるのは、僕の絵馬だ。
 直ぐに反(かえ)して結ばれている裏の絵馬を見ると、彼女の名前が有った。
『志望校へ合格しますように!』、『願いが叶う、幸せな年になりますように』
 ピッタリと合わせられた彼女の絵馬に、ヘタったような丸っこい大きな字で、そう書かれていた。
 彼女の絵馬の紐の結びと僕の絵馬の結びを解(ほど)き、それから、互いの絵馬の結び紐(ひも)を一本ずつ絡ませながら、二枚の絵馬は合わせて縛られ、そして、残り一本づつの紐で掛け結び直されている。
(こっ、これは……)
 ダチ達と、はしゃぎながら慌ただしく済ませた二年参りで、直ぐそこにいた彼女を、見い出せなかった自分に焦りと苛立(いらだ)ちを感じて、胸が苦しくなる。
 僕を見てくれていた彼女に……、自分の絵馬を、僕の絵馬に重ねて結び直す彼女に……、痛いほど胸が締め付けられる愛しさと切なさを感じて、嬉しさで全身が小刻みに震え、肩や背中が、加速して流れる血液で熱く、ポカポカと顔は火照(ほて)り、ジンジンする耳の後ろの小さな痛みが、頭の中を白い靄が掛かるように、ぼやーっと痺(しび)れさせて行った。
(……もしかして、社務所の売り場脇で、ぶつかりそうになった女の子が、彼女だったのか……?)
 違う学校の子だと思って、気にもしていなかった。
(あーっ! そういえば、ぶつかる寸前にまで、近づいた時、漂った懐かしい感じの匂いが、そうだったんだーっ。大好きなら、直ぐに気付かなきゃ、全然、ダメじゃんかー)
 あの時、もし気付いて立ち止まり、フードを被って俯いていた彼女が、顔を上げたとしても、僕は何が言えただろう?
 きっと、互いにメールで交わした新年の挨拶を声で繰り返しただけで、それ以上は何も言えないままにいて、僕は巡(めぐ)り逢えたチャンスを、ロマンスにできていなかったと思う。
(ふっ、まったく、いつどこで、彼女に見られているか分らないな)
 そう思うと、その擽(くすぐ)ったい嬉しさと入試に合格した喜びで、僕はヘラヘラニヤニヤと一日中笑っていた。
 もう僕の頭の中は、幸せのバラ色に彩られている! だけど、表裏に記された願いと名前が晒(さら)されているから、絶対に、学校の誰かしらに見られていると思う。
 いくら合格祈願力を強める効果と、あと、三ヶ月足らずで卒業してしまう時期の、一度切りの事とはいえ、人目を気にしない彼女の大胆さに、敵(かな)わないと羨(うらや)んでしまう。
     *
 卒業式の朝、いつものように徒歩で、学校へ向かう。
 この三年間、通(かよ)ったこの道で起きた出来事や場面や想いを思い出しながら、僕は歩く。
(これから先、将来、この道をこうして歩いても、今のこの思いを、再び、同じように感じるだろうか?)
 そう考えていまうと、足裏から伝わる路面と見慣れた町並みや、学校に近付くほど騒(さわ)がしくなる朝の喧騒(けんそう)と漂う朝独特の臭いも、全てが感慨深く、大切な気がしてくる。
 熊走(くまばし)りの坂を上り、小立野(こだつの)三丁目の曲がりくねった旧道を抜け、左に亀坂(がめさか)を見ながら下馬(げば)の広見(ひろみ)に出る。
 小立野通りと白山坂(しろやまざか)が交わる、石引(いしびき)の交差点だ。
 ここから、湯涌(ゆわく)街道が小立野通りに繋がる幹線道路は、石引通りと名前を替えて、直線で兼六園(けんろくえん)に至る。
 その兼六園から四百メートルほど手前に、今日が最後の登下校になる、市立中学校は在った。
 この三年間を、忘れたくなかった。
 暫し、校門の前で立ち止まり、冬の青空に映(は)える三尖塔を見上げて思う。
(ずっと、忘れないでいたい。僕は決して、忘れないぞ!)
 彼女も、僕も、互いの志望した高校に合格した。
 僕達は四月から、場所が離れた、方向も、違う高校へ通う。
 通学するコースや手段や時間帯は違い、彼女を見掛ける機会は殆ど無くなるだろう。
 合格発表日から彼女との唯一の繋がりとも言える携帯メールは、再開されているけれど、高校で彼女のハートを射止める、僕以外の新たな出逢いが有れば、僕にときめきと安らぎを与える彼女のフレンドリーなメールは、来なくなるに決まっている。
 電話や直接話すのは、彼女から拒否されているけれど、僕はずっと、彼女と親しげに話したいと思っていた。
 楽しいアニメを観た後や感動する物語を読んだ後の嬉しさが染み込んで来て、泣きたくなるような気持ちで、彼女と話したかった。
 どうせ話すなら、高尚(こうしょう)な話しでもと思うけれど、『高尚とは何ぞや?』と、考えてしまう。
 学校の成績では、遥(はる)か高みにいる彼女に、僕の考える高尚な教養の有る話題など、御呼びじゃないだろう。
 下手(へた)に理屈っぽいウンチクなど垂れて、ドン退きされるのは嫌だ。
 テレビのドラマやバラエティーをテーマに、あーだこーだも軽くて、頭の思考とメモリーがスカスカと思われる。それに、僕はテレビを見ないから、話にならない。
 日常の身の回りの出来事や思いや考えなどは、携帯メールで、普通にダチに話すかのような口語体で交わしている。
 同じ内容を繰り返すのも無粋(ぶすい)だと悩んでしまい、結局、話すどころか、挨拶もできないくらいに、声を掛けるのを躊躇(ためら)ってしまう。
 どうも、順番が逆のような気がする。
 姑息(こそく)に携帯メールで告白したのがいけなかったと思う。それからは、ずっと、彼女にイニシアチブを取られっぱなしだ。
 隣どうしのクラスに分かれた三年生では、教科書を忘れたふりをして彼女に借りに行き、会話のきっかけをと考えたけれど、その後の展開を悪い方ばかりに想像してしまって、実行できなかった。
 この中学生の三年間で、彼女と話したのは、二年生の時の朝の挨拶と電話での謝罪だけだ。
(生声(なまこえ)は、挨拶を返した一言だけ……。不甲斐(ふがい)無さ、勇気の無さ、意気地の無さ、全く、自分が情(なさ)けない)
 高校生になっても、当分は、この情けない関係は覆せないだろう。
 それでも僕は、彼女に恋をし続ける。
 今は氷壁の態度と凍(い)て付く言動でスノーホワイトのような彼女だけど、いつかは和(やわ)らいで、霞(かす)み立つ春の穏(おだ)やかな光りに咲き誇(ほこ)る満開の桜のように、優しく僕に接してくれると信じていたい。
 そうなるように、僕は、彼女に想いを送り続けよう。
 もし、無念の定めで絶望に鎖(とざ)されても、彼女の幸せを願う男でありたいと思う。
 見上げた三尖塔から、既に、定位置に固定された校訓の像へ目を落とす。
(彼女と、いつの日にか、この像のような寄り添う二人になりたい)
 モデルになった熱い夏の日、横に並んでポーズをとる女子部員を見て、僕は、そう思っていた。
     *
 卒業式には、お袋が来ていた。
 式が終わると、お袋が、講堂から退出中の僕の傍(そば)へ来て誘う。
『これから、買い物に行くけど、いっしょに来る? 行くなら待ってるから』、
 これが休みの日なら、買い物の荷物持ちに同伴して、小遣いがピンチな時にはオネダリもするのだけど、今日の今からは、僕の人生の最前線で行うべき大事な事が有るから、お袋とは残念ながら、いっしょに帰れない。
 僕が断ると、『わかった。じゃあ、行くわ』と、いつもの如く、あっさりと後腐れ無く、親子の大事な絆(きずな)は違う処に在るからと言って、上辺の体裁(ていさい)に拘らない母親は、僕を置いて、さっさと行ってしまった。
 玄関脇のゴミ箱に使い古した内履(うちば)きを捨て、校舎の玄関から外へ出た時に、校門を出て行く彼女が見えた。
 既に、親といっしょに帰ったと思っていた僕は、慌てて校門へ走る。
 序幕を終えた『校訓の像』を一瞥(いちべつ)して、彼女を追い駆けた。
 あれだけ、僕がモデルをしたのに、男子像の顔は、輪郭が僕っぽいだけで、目鼻立ちは僕らしくなかった。
 製作中や完成後も、設置される前に何度も見たけれど、美術雑誌で見るモデルのような標準的な日本人少年顔の、僕に似ていない他人だった。
 真夏の熱く蒸れる美術教室でモデルをして、ジンマシンになったり、別の日にも、表情や身体の各部位のモデルになって、スケッチを描かれたり、写真も撮られたりしていた。
 ……それなのにだ。
(全然、僕じゃない! 彼女が見ても、僕がモデルだと、分んないじゃん!)
 青信号が点滅する横断歩道を駆け渡り、そそくさと彼女が歩く対面の歩道を歩く。
 中学生最後の下校は、いつもの彼女の前後を少し離れて歩くのとは違って、真横に彼女を感じながらの下校になった。
 ちらちらと、真横の彼女を見て、僕に気付いた彼女が、僕を見そうになると、見詰め合っても構わないと思っているのに、さっと、顔を前へ戻してしまう。
 時々、同時に向き合ってしまい、一瞬、見詰め合ってから恥ずかしくなり、互いに慌てて顔を逸(そ)らした。
 これで車道が無ければ、初々(ういうい)しい初デートみたいだ。
 T字交差点で彼女が停まったり、遅くなったりすると、ワザと僕はスローに歩いて、彼女が横に並ぶを待つ。
 僕が、信号待ちした時や、小路から出て来る自動車を遣り過ごす時も、同じように彼女もスローに歩いてくれて、僕は嬉しさで心臓がドキドキと高鳴り、自動車の行き交う車道を飛び越えて、彼女の肩に触れるほど近くを、並んで歩きたい衝動に駆られた。
 下馬地蔵を過ぎると、片側二車線の道路は、片側一車線になり、ぐっと狭くなった道幅で、彼女との距離は半分になった。
 髪の揺れ、服の皺(しわ)や靡(なび)く様、瞳の虹彩(こうさい)までが、鮮明に見て取れて、その愛らしさに締め付けられる心臓は痛く、送り過ぎた血液で、視界の隅が少し暗くなった。
 胸は切なさに大きく喘いで、息をするのも苦しい。
 過呼吸で喘ぐ息に思考が鈍(にぶ)り、自分の手足の動きも、ぎこちなく思える。
 僕は、リアルに何か、行動を起こして彼女に近付きたいのに、とても、連なって行き交う自動車を避けて通りを渡れそうになくて、目の前の僅かな距離を押し渡る勇気が出なかった。
 二十分ほど歩いて着いた、僕の家の方へ向かう通りへは折れずに、そのまま、彼女の真横の位置を、彼女の歩みと向きに合わせて進む。
 いっしょに歩ける登下校も、これが最後と思う名残惜(なごりお)しさと、彼女の傍に、もっと居たい気持ちと、僕が考える諸悪の全てから彼女を守りたいとの独占欲から、僕は恥ずかしげも無く、帰宅コースから外れた通りを、僕は彼女と並んで歩いた。
 いつもは、曲り角で彼女を見送るのに、そうはせずに歩いて来る僕を不思議がる彼女は、じぃーっと、僕を見ながら歩いて行く。
 僕も、彼女を見続けて歩いてみた。
 高鳴る鼓動が、更に、テンポと強さを増したのを意識しながら、初めて、目も顔も逸らさずに、彼女を見詰め続けたまま、僕は歩いている。
 見ていると、慌てたように彼女は携帯電話を取り出し、素早くキーを打ち込んでメールを発信した。
 直ぐ様、僕の携帯電話が反応して、彼女からのメール着信コールを奏でる。
 着信コールに気付かないみたいに、僕は、顔を彼女に向け続けて、ワザと携帯電話を取らない。
 道路の向かい側を、携帯電話を手に持ちながら、僕を見て並んで歩く彼女、その彼女からのメールを受けたのを、ポケットの中で震えながら彼女専用のメロディーを奏でて知らせている、僕の携帯電話。
 今にも、『なぜ、付いて来るの? あんたの家は、そっちでしょう?』や、『なぜ、メールを見ないの?』と、彼女の思っている問いを、僕の携帯電話がしゃべり出しそうだ。
 彼女が放つ、僕への嫌悪感と、疑惑のプレッシャー、不可解と思われる行動を取る後ろめたさと、晒し者にされるような羞恥心(しゅうちしん)、そして、限界に高まる動悸で僕は、今にも、震える足が縺(もつ)れて倒れそうだ。
 何度も、脇道へ逃げて、走り去りたい衝動に駆られる。だけど、僕を見てくれている彼女が、堪らなく嬉しい。
 そんな、彼女を目を逸らさずに見てる僕は、プレッシャーに勝(まさ)る楽しさで、心はときめいている。
 僕は、奏で続ける彼女のイメージで選定したメロディーを、もう暫く聴いていたいと思う。
【そっちの広い通りへ曲がれば、あんたの家じゃないの?】
 着信音の楽曲を一曲、フルに鳴らして開いたメールは、予想した通りの文面で顔が笑ってしまう。
 曲り角は、もう、疾(と)っくに過ぎていて、バス停一つ分以上も後方だ。
 返信をせずに、僕は画面を閉じて携帯電話を仕舞った。
 彼女との別れは、直ぐ其処に迫っている。
 携帯電話の発光する画面のドット文字じゃなくて、生声で伝えたい。
 きっと、彼女は向かいの小路を自宅の方へ折れて行くだろうと思い、信号の無い小路が交差する小さな交差点の角で、僕は立ち止まり、大型車の過ぎ去るのを待って見送りの視線を流す。
 すると、驚いた事に、いつも、僕の方を見向きもしないで無視して行くだけの、冷たい彼女が立ち止まって、道路の向う側から僕を見ていた。
 まさか、ドライな彼女までが立ち止まるとは思わなくて、心が震えてしまう。
 彼女が背にする小路の向こうに彼女の家が在り、角を折れて家へと向かう彼女に僕が声を掛けて振り向かせ、冷(ひや)やかな反応の彼女を見えなくなるまで見送るという、自虐(じぎゃく)的な片思いで終わって仕舞う、中学生最後の思い出作りをしようと考えていたのに……。
 これでは、見送れない。
 已む無く、生声で彼女に伝えて、さっと、格好良く立ち去る事に決めた。
 ゆっくりと、拡声器のように両手を口に添えて、大きく息を吸う。
 覚悟は、できている。
 これで、彼女と意志の疎通(そつう)は断たれて、メル友は終了するだろう。
 ここで望みが絶たれて、悔(く)やまれる思い出にしてしまうかも知れないけれど、僕はどうしても言いたい。
 言おうか迷うより、言えなくて悔やむより、言ってから後悔したいと思う。
 コーラス祭の時のように、一瞬の溜めを置いて、一気に叫ぶ。
「大好きです! 今も、これからも、大好きです。僕と付き合って下さい!」
 言い放った瞬間、大きな車が続け様に轟音を立てながら、目の前で交差して彼女を隠し、押し退(の)けられた大気は、旋風を巻いた風圧となって僕を襲う。
 放った声が向こうへ抜け通って、彼女へ届いたのか不安だったけれど、全ての音を一瞬に潰(つぶ)した大きな音と、眼を瞑(つむ)った顔を逸らさせるほど、強く吹き寄せた風が、テンパって限界寸前の気持ちを、更に殺(そ)がしてくれて、二度目を叫ぶのは、とても無理だった。
 体裁などを気にする余裕の無くなった僕は、そそくさと身を翻(ひるがえ)して、旧湯涌街道へと逃げる。
 颯爽(さっそう)と歩き去ろうと、決めていたのに、歩調は速くなる。
 大股歩きは、早足になり、早足は、小走りになった。
 背後から、彼女の声がした時は、小走りから駆け足に移っていた。
 二度ほど聞こえた彼女の声は、風に巻かれて途切れ勝ちで、何を言っているのか分らない。
(やっぱり嫌だ! きっと、絶対、僕はフラレてしまう!)
 本当に、僕は言ってから、後悔している。駆け足はダッシュになった。
(僕がフラレる言葉を、彼女の生声で聞きたくない!)
 僕は、全力で走って逃げた。
「さようなら。またね!」
 はっきりと、聞こえた。
(彼女の声だ……)
 彼女の声に振り向くと、旧湯涌街道の車道に立ち、僕を見ている彼女の姿が有った。
(僕は……、彼女に、フラレていないのか……?)
 叫んだ生声の告白が、彼女に聞こえているのか、いないのか、確信は持てなかったけれど、彼女が終わりに言った、『またね!』は、とても、親し気に聞こえて凄く嬉しい。
(僕は、まだ、完全にフラレてないじゃん!)
 彼女は、嫌だとは言わなかった。
 『またね!』なら、当分、メル友は続けていられそうだと思う。
 それでも、僕は走り続けながら、何度も、何度も、振り返り、その度に車道の真ん中に立ち、僕を見続ける彼女を見た。
 それは、僕が思い描いていた、思い出作りの中の僕役をするように、僕が見えなくなるまで、見送り続けている彼女の姿だった。

 

 つづく