遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

ラブソング (僕 中学三年生) 桜の匂い 第四章 壱

 今日は、朝から美術の先生が制作する彫刻像のデッサンモデルをしている。彫刻像は『校訓の像』のタイトルで、どうも我々三年生一同が卒業記念として学校に寄贈するらしい。途切れ途切れに話す先生の言葉を纏めるとそういう事になった。男女の生徒が寄り添って旧校舎の三尖塔を見上げるポーズの像で、僕はその男子像のモデルをしていた。

『和親・協力・自主・責任』、四つの熟語は我が中学校の校訓だ。『校訓の像』は旧校舎を見上げるポーズで、通学する生徒達を迎え見送る場所に置かれると先生は言った。石引の通りからも生垣越しに見えるようになるらしい。卒業後も表通りから『校訓の像』が見えると、きっと僕はここに在学した三年間と今日の日を思い出すだろう。彼女も僕を意識したり思い出してくれるのだろうか?

 夏休み前半の暑い一日、朝から学ラン…… 冬服の学生服を着て、僕は『校訓の像』のモデルになっていた。そして今、美術の先生が四方八方からモデルの僕をデッサンしている。美術部の部員達は先生の助手をして使いっ走りや小道具係などを懸命に熟している。

(うーん、セーラー服を着て、甲斐甲斐しく働くメイド達みたいだ)

 キュートな女子達を眺めながらアホな妄想をする僕の頭は、もう暑さで茹りそうだ。

 写真部も僕を写真に撮りまくっていて、『校訓の像』といっしょに製作記録も学校に掲示してから寄贈する。どんな写真が掲示されるのか分からないけれど、こんなヘタレな僕はけっこう恥ずかしく写ってしまうと思う。せめて外見だけでもシャンとしなければと力むが一分と保てない。仕様が無いから体裁なんか諦めて自然体でいく。それに掲示されるのは卒業後だから僕は見れない。

     *

 美術部員でも遣る気が無く、殆ど部活に参加しなくて作品も稀にしか作らない、そんなチャライ僕を何故か先生は気になるようだった。その御蔭で呼び出されてここにいる。

「おまえ、モデルやれ。たぶん七月末か、八月の初め頃だ。連絡するから空けとけよ。予定を入れるな。それと冬の制服、学ランを持ってこい」

 日展会員で著名な美術の先生は、不精な部員の僕に強制した。

「はい……」

 強引で頑固な、人とは違った視点を持っていて、自分の感性を信じて意思を曲げない先生に僕は逆らわない。

 近くに在る美術館で絵画や彫刻の展覧会が催されると、美術部員達を連れて行って作品を説明しながら感覚や技法の指導をする。そういう機会が有ると先生はわざわざ僕を呼んで連れて行ってくれた。でも僕には、いつも部員達と離して自由に観賞をさせた。そして、美術館の帰りに決まって先生は僕に訊く。

「今日は何を見た?」

 先生は前を見て歩きながら、僕だけに聞こえる声で話す。『どれを?』ではなくて、『何を?』だ。

「光の表現。光り具合と光らせるポイント。それと淡い影の発色」

 僕も先生にだけ聞こえるように言うけれど、ぼそぼそ声になってしまう。

「どんな絵だ」

 間髪を入れず横で先生の声がした、

「緑の奥行きのある絵、……絵の感じと題名が合わない気がしました」

 横で先生が頷くのが分かった。

「ああ、あれか。緑色の濃淡だけで描かれていたな」

 先生は僕を見て、

「他には? チェックポイントは?」

(先生、これは僕の感性の見極めをされているのでしょうか?)

「構図も。それは感覚で見るだけです。今日は、ちょっと…… 緑の絵以外は有りませんでした」

 彫刻ならば、

「丸みと曲線の繋がり方。綺麗な曲線の繋がりはうねりですよね。うねりって凄いです。あとオーラ、光ってます」

 なんて、美術で身を立てる気が無い僕は適当に答えていた。

(本当は、人前に出るような作品には必ず光が有ります。それが部分的なのか、全体なのかの違いだけで、僕はどちらも魅力的に感じます。先生)

 そんな僕の回答に先生は、

「曲線……、綺麗なうねりは凄いか……、う~ん。オーラが見えるか……」

 と呟きながら真剣に唸っていた。先生はいつものクリっとした目をギョロっとさせて、僕の横に並んで歩く。

 眉間に皺を寄せて、真剣に考えたり悩んだりしている先生は、普段の角ばった恐ろしげな顔を更に角ばらせて、怒りの熱線ビームを発射寸前のような形相になる。先生が僕と同じ方向を向いて同じ景色や物を見ていても、先生は僕と全く違う感覚で風景を見ていると思う。

     *

 八月の初日、その先生が僕の前で自ら彫像のポーズをとり、僕に真似をするように促す。ビシッとポーズをとる先生の表情と動きには、躊躇いやテレが少しも無くて真剣その物だ。先生の熱く真剣な注文に応じようと、僕も一生懸命頑張っている。

 並べた机の上に立ち、右手を空の彼方を指し示すようにモップの柄を支えにして掲げ、左手を胸の前で握ったポーズを取る僕に先生は早口で細かく指示を出す。

『明るい表情だぞ!』『顔は、指し示す空の彼方を仰ぎ見るように!』『左足は、半歩下げろ!』『胸を張れ!』などなど……。

 いっしょに並んで立つ女子の像のモデルをする女子部員に僕の横でポーズをとらせて、先生は像の全体のイメージを掴んでいく。僕は学生服を着たまま、微動もせず黙って立ち続けた。

(これはデフォルメという、それらしく見えるようにする技法なのだろうか?)

 銅像の形としては様になっていると思うけれど、実際にポーズをとるとバランスが悪くて、なんだか不自然っぽい感じがした。

 ポーズの立体イメージや様々な角度から見た画像を得るだけなら、3Dスキャナーの装置で立体スキャンすれば直ぐにパソコンの画面内に3Dイメージを表示できる。対象の色合いもスキャンしているからフルカラーで全方位の立体写真だ。色も質感も変えれて木目調、岩肌調、金属光沢などに、勿論、完成後と同じブロンズカラーにも出来る。縦横斜めなど自由に断面を見れるし、寸法測定も出来る。だけど、それでは芸術性は無く、正に芸が無いと思う。

 直ぐに学生服の下の素肌は梅雨時期に雨合羽を着て走り回ったように、ムンムンムレムレグショグショの汗だくになった。ヘタレな僕はポーズを維持できなくて何度もぐらつく。その度に先生の怒号が熱気を圧する。

「動くな!」

 先生は芸術家の真剣な顔で僕を睨む。ぐらつくのは気力の無さだけじゃない。この美術教室の部屋にはエアコンが設置されてなくて、全開に開け放たれた窓の外は、ヒラリとも戦がない木々の葉を真夏の炎天下に立つ陽炎が揺らしている。そんな見るだけで遣る気を蒸発させて行く無風の外からは、滞留した部屋の熱い空気を換気する風が吹き込みそうになかった。

 一応は熱気対策の努力がされていて、教室と同じ広さの部屋の四隅には何処から持ち込まれたのか所属不明の扇風機が置かれて、強風モードでブンブン回りながら首振りをして部屋全体へ風を送っている。だけど、それは滞留する熱気を掻き回して圧縮するだけで、少しも涼風感を与えてはくれない。特に部屋のほぼ中央になるモデルの立ち位置は、四つの風が同時に重なると無風となり熱気の圧縮は倍化されて、上昇する熱気温度に露出する顔や手の肌がチリチリと焦げるような臭いがした。

(あっつぅー)

 吸い込む空気の熱さに胸が燃えそうだ!

(ああっ! 倒れ込んで横になっていいですか? 先生、早く帰って水風呂に入って寝たいです)

 自分の芸術の世界に入り様々な位置から高速でデッサンを描き続ける先生は、そんな限界寸前の僕を気遣う事は無く、僕もヘタレを気付かれまいとポーズをとり続けた。

 午前中に十五分のインターバルが四回、カチ割り氷が沢山入った麦茶のがぶ飲みし放題と、お昼に二時間の休憩が摂られて、先生が注文してくれた出前の、冷やし中華とトコロテンが届いてみんなで食べた…。今時の中学生の昼食に冷やし中華とトコロテンというのが、この先生らしい。

(けど、美味しかったです。御馳走様でした)

 残り時間は爆睡の昼寝。午後も四回のインターバルが摂られ、それ以外は午前も午後も振ら付き怒鳴られながら、ひたすら机の上でポーズをとって立ち続けた。

 モデルは女子が四名、男子が二名で、モデルの女子達はこの暑さの中、頻繁に交代を繰り返して楽しそうにしていた。モデルをしている今だけとはいえ、美形でスタイルの良い女子が入れ替わり立ち替わり、ぴったりと僕に寄り添ってくれるのは、けっこう嬉しい。途中、麦茶を飲ませてくれたり、冷たい御絞りで顔や首の汗を拭いてくれて、僕はこういう幸せを彼女からも求めたいと思う。

 それに、間近に迫る女子達から漂う汗ばむ匂いは甘くて、ずっと嗅いでいたいと願う程の好い香りで、身体が宙に浮きそうなくらい僕の気を遠くさせた。

(これがフェロモンという匂いなのかな? だとしたら……)

 学生服の表まで、汗の染みを作る僕の青臭くて中途半端な男の汗臭さは、どんな臭いに女子達は感じるのだろうかと思う。

 男子は、先生の求めていたモデルの体格が僕だったらしくて、全体の七割を僕が勤めた。ガッチリと逞しくなく、痩せて脆弱そうでもなく、大人びず、ガキっぽくもない。異性と世の中に関心を持ち始めた、思春期真っ最中の中学三年生の体付きが僕なのだそうだ。

(それは、つまり僕の体付きや顔付きがフェロモンの発散始めで、厭らしく見えているという事なんですか……、先生?)

 同じような、それなりの理由で女子のモデルも美術部の女子達から選ばれているらしい。そこそこの人数がいる美術部部員の殆どは女子だ。それもあって僕は滅多に部活に参加していない。

(先生は、いつも、そんなふうに生徒達を見ていたのか……。芸術家らしいと言えば、らしいと思うけど…… うーん、微妙だ)

 もう一人の男子モデルは、暇を持て余して美術部の女子達と楽しそうにお喋りをしている。

(ううっ、羨ましいぞ!)

 僕も早くモデル交代を済ませ、インターバルはイスに座り麦茶を飲みながら、モデルや製作助手を勤める女子部員達や、『校訓の像』を制作する記録写真を撮りに来ている写真部の女の子達と、制服に染み込んだテレピン油と現像液の酢酸の香りが嗅げるくらい、ぐぐっとプライベート・スペースを狭めて話したい。

 詰め襟まで留めた冬服は、土砂降りの中を傘を差さずに歩いて来たみたいにグッショリと濡れしょぼり、蒸れ過ぎた制服の裏生地が、張り付く素肌は高温高湿で体調不全直前だ。太陽が西に傾くの感じさせる頃、沸騰しそうなくらいに茹った脳が、エンドルフィンを分泌させて朦朧としていた僕の意識をハイにさせる。

     *

【見えない赤い糸の絆って信じていますか?】

 春先からずっと考えていた想いをメールに認めて初夏の雨降りの日に彼女へ送った。小学六年生の春の日に彼女を意識して、そぼ降る梅雨の日に更に強く意識させられ、そして一年前の告白から彼女との絡みが増えている気がしている。

【そういうのって、有るのかも知んないけど……。見えない糸なのに赤色ってわかるのは、なぜ? なんで赤くて糸なのよ?】

 一応、肯定しつつ、可視化や赤色の物性にまで、彼女は変なツッキミを入れて来る。

【さぁ? そう一般的には言われているけど、単純に目立つから赤いのだと思うよ。色も糸も見た人の例えれる知識が、そこまでだったんだろう。うーん、本当は知らないです】

 適当な知識の無さを暴露する返信を、いい加減な気持ちで送信した途端、後悔した。絶対に僕の希望を打ち砕く否定し捲くりで返されるに決まっている。

【もしかして、私と見えない赤い糸で繋がっていると思っているの? 確かにいろいろ有ったけどさぁ、あんたと私に絆なんか無いから。赤い糸なんか、見えても、見えなくても、無いからね】

(来た、来た、来たぁー。こっ、こうじゃなくっちゃね。めっちゃ、嫌がられているけど、なんか、スッゲー嬉しいぞ)

 この予想通りの彼女の反応に僕は楽しくなってしまう。やはり彼女は僕を裏切らない。

【あんたが、私と赤い糸で結ばれているって信じ込んじゃうと、それ呪いになるから本当に止めてよ。呪われるなんてイヤよ! それにキモイから】

 返信しかけた僕へ続け様に彼女からのメールが届く。

(呪いとか、イヤだとか、キモイなんて、けっこう意識されてるじゃん)

 なんて、メールしようかと迷っていたら、更に彼女から着信が来た。

【あんたと私の糸は赤くないわね。……今のところは】

(フォロー? ……なんだろうな? やっぱり意識してるじゃんか)

 ちょっとだけ素直な気持ちを覗かせたメールに、続きを引き出せそうな気がした。

【ほんのちょっとでも、うっすく赤くなってない? ピンクっぽくもない?】

 いつか、きっと、赤い糸で彼女と僕が結ばれていると思わせて遣りたい。

【全然、なってないわよ!】

 テレが入っている。きっと彼女のことだから、唇を噛み締めてメールを打っていたのだろう。

 まだまだ絆なんて親密な感じは全く無いけれど、確かな因果は有りそうだ。これ以上絡むのは、薮を突き過ぎそうなので返信はしない。今の遣り取りだけでも充分に楽しくて、近い将来、彼女と間近で普通に話せそうだと思った。

     *

 ぼんやりと楽しい事を考えさせて、嬉しい事ばかりを思い出させる。

(これって、フラッシュバック? 熱中症寸前で、けっこうヤバイんじゃないの!)

 最近の楽しい思いはコーラス祭だ。あの一瞬だけは、予想外の彼女の反応に気分は最高だった。気持ち良くハイになって行く脳が僕に白昼夢を見させ始めた

「おまえ、この間のコーラス祭じゃカッコ良かったぞ」

 ぼーっと意識が飛びそうになっていた僕に、先生はスケッチブックにデッサンを描く手を休めずに話し掛けて来た。

「あの時、ソロで歌うおまえを見て、今日のモデルに決めた」

 脳内麻薬の分泌で白昼夢のように思い出していたコーラス祭の事を言われて、ハッと意識を戻された脳が先生の言う場面を白昼夢に重ねて行く。

 先月の初めに学年別クラス対抗コーラス戦が行われた。学校行事の表記ではコーラス祭と書かれているけれど、賞が贈られるから祭りじゃなくてコンクールだ。コンクールなら戦いだ! 僕は僕自身とクラスの為に、そして、彼女へ捧げる為に他の全学年のクラスと戦った。

「そう、君、歌上手くてさ、堂々としてカッコ良かったよ。ファンレター来たぁ?」

 モデルの女子の一人が相槌を入れる。

「あんなに歌を唄えて、人前が平気な人だと知らなった。美術が好きな目立たないタクっぽい男の子だとばかり思ってた。うん、凄くて感動しちゃったわ。ふふっ、あの子、彼女でしょう」

 隣の女子も言い、それから部屋にいたみんなから御褒めの言葉を頂いた。

 毎日のように家でイヤホンから流れる曲に合わせて口パクしていたのと、足繁くカラオケ屋に通い、思いっ切り歌ってステップを踏んでいた成果が出せて良かった。

 僕は一人一人に礼を言った。

「動くな!」

 軽く頭を下げる僕に、もう何度目か分からない叱りの声が飛ぶ。でも鉛筆を持つ手を忙しく動かしながら、スケッチ用紙と僕を交互に見遣る先生の顔は笑っていた。

     *

 七月のコーラス祭、僕は、やっと小学校六年生の雪辱を果たす事ができた。

 クラスで合唱する曲に選ばれたのは、雷に打たれた銀杏の大木から、芽吹いた桜を絡ませた恋愛時代劇のエンディングソングだった。コーラス用にアレンジされた曲にソロは無かったのだけど、更にインパクトを持たせる事になって、ソロのパートを最初と中程と終盤に入れてしまった。合唱の段取りは直ぐに纏まりソロの担当の選出になった。

 今年もクラス全員が合唱するソロ無しの曲にして、好い加減に口パクでもして誤魔化していようかと考えていたのに……、選出が始まるや否や、いつもカラオケへいっしょに行く遊び仲間達が僕を指名してくれて、抗いも虚しく僕は終わりのパートを唄う担当に決まってしまった。

 今、コーラス祭で僕はクラスのみんなとステージに立って歌う。間も無く僕がソロで唄う終わりのパートが巡ってくる。最初のソロパートが済んだ頃から両足がちょっと震えだした。最初のソロ担当は上手く歌った。みんなの合唱も揃っていてミスはしていない。

 コーラス祭は学校内の施設を使わないで、市民ホールの広いステージを借り切って本格的に行われている。一つ先に歌い終わった彼女のクラスも全員が客席で視聴しているはずだ。

 全学年を合わせてもクラス数が少ないので、ステージの入れ替えは急がない。次に歌うクラスも、歌い終わった直後のクラスも全学年、全クラスが客席で視聴する。どのクラスも練習を重ねて頑張っていたのだから、ステージのコーラスはみんなでしっかり視聴してあげなければならない。

 昨年、同じクラスだった彼女は、練習通りクラスのみんなと揃えて最上列で体を左右に振りリズムを取りながら、しっかりと口を開けて合唱していたと思う。男子の中段で歌う僕から彼女は死角になって見えていなかった。ステージ中に一瞥でも首を傾けたり振り返って彼女を見る事はできない。でも直ぐ傍にいる彼女を感じて声も聴き分けれた。

 今回、三年生への進級でクラス違いになった彼女はピアノ伴奏を担当していた。曲と歌詞に合わせて強弱や高低を協調させ軽やかに弾き、小学六年生の時よりも格段とテクニックがアップしていた。でも、僕の耳に聴こえてくる彼女のピアノの音色では、曲の流れを立体にイメージできず僕の期待を燻らせた。彼女はコーラスの盛り上がりをリズムとメロディーで支えるだけの演奏に徹していて、せめてピアノのパートがもう少し長ければ、もっともっと、彼女の想いを響かせて、僕や客席のみんなをときめかせたに違いなかった。

 透明感も豊かな感受性も無い。飛び舞う高揚感を与えてくれた小学六年生の彼女と違い、感動も無い音は突き抜けて行かなくて、伴奏を弾いていた彼女の何もかもが、小学六年生の彼女と重ならなかった。それはきっと、コーラスの伴奏のみに徹していた所為だと思う。決して彼女の気持ちが冷めているからじゃないと思いたい。

 彼女はコンダクターの指揮に目線を上げた後、時々そのまま視線を客席に移して何かを探すように見ていた。その流すような目付きに僕は小学六年生の音楽の授業で歌っていた彼女を思い出した。あの時の、歌い終わって後ろを振り向き掛けた彼女の眼差しと同じだと僕は気付いた。

(なぜ…… 振り向き掛けたのだろう? 彼女は何を見ようとしたのだろう? それとも、もしかして…、僕を探していたのだろうか……?)

 薄影の客席に彼女を探す。だけど、客席は奥へ行くほど暗くて良く見えず、夏服の白さだけが視覚に白壁のように広がって見付けられない。

『♪ あなたの熱で……』コーラスパートをみんなに合わせて歌いながら、冬の奇跡のような出逢いを僕は思い出していた。

 --------------------

 三月初め、北イタリアのコモ湖の畔とローマのスペイン広場で彼女と二度も信じられない遭遇をした。まさか親父と行ったイタリア旅行で彼女を見掛けるとは想像もしていなかった。行きの飛行機の中ではツアーのパンフレットを見ながら、もしも彼女がいっしょならどんなに楽しいだろうと想像していたのだけど、まさか、その心ときめく白昼夢が、本当に現実になるとは今も信じ切れなくて……、思い返す場面は鮮明で写真も撮ったのに、記憶の実感が夢を見た後のように淡くて朧だった。

 コモ湖の湖畔でも、スペイン広場でも、僕が先に気付いて彼女に見られないようにしていた。だから……、少なくとも僕の方に向いたり、見たりする事は無かった。だから、彼女は僕に気付いていないと思う。

 まさか日本を遠く離れたイタリアの地に、しかも自分の直ぐ近くに僕がいたなんて思いもしなかっただろう。

 最初はコモ湖で彼女と似た背格好の女子を見掛けて、持たされていた親父の望遠レンズ付き一眼レフカメラを構えた。『湖畔の少女・冬のコモ湖にて』と、写真の題名を考えながら液晶モニター越しに、斜め後方から見る少女の水色のカチューシャをした黒髪と、白くない肌の頬は明らかに東洋人の女の子だった。ちょっとリッチそうな服装や持ち物などの外見から国籍を見分ける術は何も見い出せず、黄色い肌だけでは日本人かどうか分からない。

 カチューシャの色をコーディネートさせたのか、空色と白のベースに青を散らした明るいシティ迷彩柄のボアコートは、遠めにも人目を引いた。襟の返しや白いファ付きのフードの内側に見える裏地は白い羊の毛のようで、モコモコとした表地と相俟ってとても暖かそうに思えた。

(へぇーっ、いいセンスじゃん)

 僕は被写体として良い感じの、どこの誰とも知りもしない東洋系の少女を写真に写す事に決めた。

(これは彼女につれなくされている反動の所為でも、浮気心でも、ナンパ目的のアバンチュール願望でもないぞ! 単に美的な絵になるから撮るだけで他意は無いんだ。第一、お近付きになろうにも、日本人でなければ言葉が通じないじゃんか!)

 これは、互いに人生の中での一瞬の交差にしか過ぎなくて、しかも、密かで一方的な僕の干渉行為で、少女が気付きもしない事だ。この先の人生に於いて、世界のどこかで再び交差したとしても二人の共通の接点は無く、今と同じ状況を繰り返すだけだろうし、その時に僕が少女の話す外国語をマスターしているならば、この場面が出逢いの切り出し言葉になるかも知れないと思う。

(どうする? ダメもとでも一応、声を掛けてみるか? やっぱ、最初は『ハロー』からだよな?)

 自分の英語力ではどうにもならないと思うけれど、ソロを撮り終えたら次はツーショットだとばかりに、旅の恥は掻き捨て的な衝動に駆られて、僕は行動を起こす気になっていた。

 肯定してくれる宛ても無い言い訳と空虚な未来を考えながら、カメラの撮影モードを最大画素にセットして、レンズを二百ミリの最大ズームで向ける。それから、ズームで十数倍に拡大された画面がブレないようにベンチの上にカメラを置き、ベンチの陰にしゃがんで液晶モニターを覗く。

 胸から上で拡大された少女の僅かに見える頬が、どこか懐かしくも愛おしい気持ちにさせた。しかし、こんな姿勢で女子へカメラを構えるなんて、これじゃまるで盗撮しているみたいだ。

(いや、事実、これは隠れ撮りだから、どう見られても盗撮だろう……)

 イタリアでも盗撮はちゃんとした犯罪なんだろうなと思いながら、まずはパシャと後ろ姿を一枚。一眼レフカメラ特有の内部ミラーが跳ね上がる音とシャッター幕の移動音が心地良い。液晶モニターへ記録された少女の後ろ髪のアップに、再びデジャビュのような懐かしさを感じた。

 益々、少女の顔を見たいという思いに駆られ、シャッターモードを連射に切り替えて少女が横顔を見せるベストシャッターチャンスを待つ。早く横顔でも見せてくれないと親父とツアー参加者達が戻って来てしまう。

 突然、北アフリカから地中海を飛び越えて来たかと思えるほど、生暖かい一陣の大きな風の塊が僕の後方から地表を強く舐めながら吹き抜けて行き、急速に迫る風の気配を感じたのか、振り返り掛けた少女を突風が直撃した。風圧が少女を湖畔の欄干に押さえ付けてボアコートと黒髪を掻き乱す。

 瞬間、液晶モニターが風に吹き上げられる後ろ髪に、露わにされた少女の白いうなじをズームで写し撮り、僕の心臓を跳ね上げた。

 パシャシャシャッと連写モードでシャッターが切れて、風に舞い上がる黒髪と晒された絶対領域の白いうなじの時間を切り撮って行く。僕は無意識にシャッターを切っていた。パシャシャシャッ、少女を連写モードで撮り続けているカメラに気付いても、僕の指はシャッターボタンを押すのを止めようとはしない。

 だけど、十枚余りのレンズと数千万画素のモニター越しに、鮮やかな白いうなじを見たのは一瞬だけだった。直ぐに風に捲くれ上がってバタつくフードが絶対領域を隠してしまう。

 乱れ舞う髪とフードのはためきを抑えようと、風上へ体と顔を立たせようとする少女の髪を押さえる手の影から現れた横顔は、見慣れた僕好みの輪郭だった!

(おおっ、可愛いじゃん! 彼女似で僕のタイプ ……って、あっ! 見慣れた横顔って……、そんなはずは……)

『ドックン』心臓が一際大きく鳴った。去年、新学年になった教室で彼女を見付けた時と同じくらいに心臓が強く跳ねた。

 パシャシャシャシャッ、勢い良くフル連写でシャッターが切れて、メモリーに蓄積し続ける東洋人の少女の横顔は……、

(ああっ! 彼女……? ……だ?)

 彼女だと見知った瞬間、僕は驚きの余り凍りついたように固まった。フル連写で切り撮り続ける少女が彼女だと認識できたけれど、とても、この場に存在している事が信じられない。

(なっ、なぜ? ここに……。どうして?)

 理解できない驚きで固まる身体にカメラを構える腕が揺れてモニターの画像を乱す。僕のシャッターボタンを押し続けた指が少女の呪縛から解かれ、間断無く連続したメカニカルな作動音が消えた。

(いや、人違い? 錯覚? イリュージョン? ……でも、動いているし、似ているし……)

 視覚と識別中枢は彼女だと認識判別できているのに、信じられない気持ちが疑い、画像を否定したがる。

 高まる気持ちを落ち着かせてカメラを構え直し、再度シャッターボタンに触れると、画面が鮮明に再調整され、ピピッと鳴る電子音が彼女の頬にフォーカスロックした事を知らせた。そして、パシャシャシャッと連写モードが再開された。

 大風が吹き去って穏やかになった大気に、彼女は乱れた髪を纏め直し、再び湖の方へ顔を巡らせながら僕に背を向けようとした時に、彼女の家族…… たぶん父親と母親と姉がアウトレットから戻り、僕のカメラの写線を遮るように彼女の前に並び、そして、高校生ぐらいの姉らしき人が彼女の首に、光沢の有る淡い色合いが綺麗なスカーフを巻いた。それがアウトレットで買ったばかりのコモシルクのスカーフだと分かった。

 --------------------

『♪ 今も想うよぉ……』フレーズが僕の想いと重なって、胸が熱くときめいた。僕はいつも……、君と遠く離れたと思っていたイタリアでも、そして今も、君だけを想って探している。

 --------------------

 首元に綺麗な淡い色合いのスカーフを巻いた被写体の横顔が動いて、再びカメラのモニター画面全体が暈やけた。フォーカスポイントの四角い枠がグリーンからレッドに変わり、そしてコンマ数秒でフォーカスロックを示すグリーン枠になる。

 一瞬のグリーン枠に重なるように瞳へ映る反対色の淡い残像枠が、彼女と繋がる危うい運命の赤い糸のように思えた。

 (幻でも、見間違いでもなければ、ここ冬の北イタリアの地に、僕の女神様が降臨だ!)

 --------------------

『♪ あなたといたい……』中盤のソロのフレーズが心に沁み入る。

 あの時も僕はそう思っていた。たった一人で湖畔に立ち、アニメに出て来た伯爵城の蒸気船みたいな白い遊覧船を見ている彼女の傍へ駆け寄りたかった。

 --------------------

 ツアーに付き物の名産品のアウトレットへ親父は行っている。ここの名産は、コモシルクと呼ばれる絹の染物で繊細な色合いの模様の緻密さが有名らしい。親父は染色工場の見学を兼ねたアウトレットで妹とお袋に頼まれたスカーフを買うと言っていた。コモシルクに興味の無い僕は、行かなかった人達とパーキングに隣接する石畳の広場で写真を撮りながら親父の帰りを待つ事にした。

(一人…… なのか? ふっ、そんなわけないか)

 最初、なぜ彼女が一人でいるのか分らなかったけれど、親父が向かったアウトレットへ彼女の家族達も行っていたのだと直ぐに知った。でも、なぜ彼女はアウトレットや広場のショップへも行かずに湖畔に一人だったのだろう? と、不思議に思う。

 --------------------

『♪ 叫び続けて……』彼女の傍へ駆け寄れたなら僕は、そう、叫んで遣りたかった。

『好きだー! 君が大好きだー!』と、風上に立つ僕は追い風に乗せて叫ぶ。……そうして遣りたかった。

 結局、駆け寄る事はできず、叫べなかった想いは燻ぶるだけに終わった。だけど、叫びたい想いは今も変わらない。イタリアで僕を驚愕させてくれた彼女は、客席のどこかで僕を見ているはずだ。

『♪ 求め続けて……』僕はいつも彼女を探し求めている。

 同じクラスだった時も、教室で、廊下で、校内で、通学路で、隣の席の彼女を僕の瞳は常に探していた。違うクラスになった今学年も同じだ。そして今、観客席に彼女を探している。

 その、常に探し求めていた彼女が、イタリア旅行で最初に訪れた観光地のコモ湖に……、探しても彼女を求められない場所に……、奥に見える高い山並みが雪を頂いたスイスのアルプスというロケーション、緯度がずっと北寄りなのに金沢よりも寒さの薄い、そんな山狭の湖の畔にいた。

 --------------------

 冬の季節の時差は八時間。こっちの今の時刻だと日本は宵の口で今頃、晩御飯を済ませた彼女は自室で勉強中のはずだ。そして、こっちが真夜中になると、彼女は向こうで学校へ行く… はずだろう?

 僕は目の前の、彼女がいる情景を信じられなかった。

(まさか……、もしかして……、僕の旅行に合わせて彼女も……。うんにゃ、ない、ない。有り得ない! そんな事は絶対ない!)

 大体、こんな費用と日数が掛かる事に、家族の中で僕や妹がそうなのと同じで、彼女にも決定権は無いだろう。有るとしたら、『家族で旅行へ行こうよ』と提案して『ここへ行きたい』と希望案を言うくらいだ。

 友人達には親父と海外旅行へ行くとしか言っていないし、先生には、親が全然別の理由で一週間休むと伝えている。だから、僕がイタリアに来ている事を彼女に知られていないはずだ。僕は彼女に許された唯一のコミュニケーション手段の携帯電話メールでも知らせていない。

 --------------------

 液晶モニターを通してなんかじゃなくて間近で彼女の顔を見れば良かった。彼女が突風に攫われないように、その両肩をしっかりと両手で掴んで彼女の顔を見詰めたかった。

『♪ 幻なんかじゃない……』

 中盤のソロも綺麗に歌い切り、続いた合唱の終わりが伸びて、次は僕のソロだと告げている。小刻みに震える膝から下がサワサワと冷たく感じて落ち着かない。まるで高い場所の縁に立ったみたいに足裏がブクブクと泡だってムズムズしている。なのに擽ったいとは思わない。

 次のパートの為に何十回も練習した。コーラス部の女子が発声と呼吸を指導してくれて、クラスのみんなと通しを揃え、何度も一人だけでピアノの伴奏に合わせて歌わせて貰った。

『君ねぇ、ただ声を出して歌えばいいってもんじゃないのよ』彼女達の指導は厳しく、ねちねちと細かい注意のしつこさが卓袱台返しをしたいほど煩わしい。

『ちゃんとリスナーへ歌詞と、その意味に込めた思いが、聴き取れて伝わるように歌わないとダメじゃん! ああん、わかってんの?』ブラスバンドのクラスメイトが楽譜の読み方を教えてくれた。

『おまえ、自分が歌う曲の楽譜に有る記号や音符を、ろくすっぽ、わかっちゃいねぇだろう』軽音部の男子と女子が口を揃えて言ってくれる。

『喚いているようにしか聞こえないよ! でも、リズムのノリは良くなって来てる』自信と責任を持って自分の想いを彼女へ伝える為に、僕は音痴で鈍臭いセンスの自分自身と戦う。全生徒下校時間になるまで屋上の片隅で空に向かい一人のアカペラをして、その後も一人カラオケで繰り返し歌い身体に覚えさせた。

 このタイミングで三歩前に出て歌わなければならない。足裏の感覚が無くなったプルプルと小刻みに震える足を膝ごと引き摺るように前に出す。

 その時、客席に彼女を見付けた。彼女は真顔で食い入るように僕を見ていて、その真剣で美しい瞳に励ましてくれていると思う。僕も彼女を見据えて目を逸らさない。瞬間、ピタリと震えが止まり感覚が戻った足で一歩を踏んだ。

 顔を上げ、息を吸いながら大きく口を形作る。そして一瞬、溜めを持たせてから声を出す。濁らない大きな声で深く伸びやかに。

 足は肩幅に開いてリズムを取り、両手を大きく使い歌に合わせてフリを付ける。歌詞がはっきりと聞き取れるように、発音に合わせて口を大きく開いて形を作り声を放つ。耳はしっかりと伴奏のリズムと音色を聴く。繰り返した歌い込みで、声も、口も、姿勢も、手振りも、身振りも、そしてリズムとタイミングを身体がしっかりと憶えていて、僕は曲に合わせて上手く唄えていた。

(飛べ、僕の声! この広い会場の隅々まで響け! 響いて彼女の心を振るわせろ!)

 彼女の目は大きく見開かれ、瞬きもしないで僕を見続けている。小学校六年生での赤っ恥の屈辱を彼女の前で繰り返したくなかった。彼女はちゃんと歌っている僕に驚いているみたいだ。

(あの梅雨の日の雪辱が、……できているのだろうか?)

 彼女の驚きの顔は、きっと彼女のピアノを聴いたあの時の僕と同じだと歌いながら思う。僕が歌うこの歌を君に捧げたい。彼女の心に聞こえて欲しい。

『♪ あなたの声で……』君と話したい……、君の声で僕を呼んで……。君の声を聞いていたい。

『♪ あなたと手を……』君と手を繋いで歩きたい。想いもいっしょに……、ずっと二人、いっしょに……。

 真っ直ぐ彼女を見て僕は歌う。胸に手を当て、両手に拳を握り締め、僕は彼女への想いを唄う。クラスの合唱が僕の声に重なって。

『♪ あなたとの瞬間が……』想いを強く込めて、彼女の魂に響くように…… 両手を広げて。僕は声を振り絞り叫ぶように歌う。

 --------------------

 湖畔での出逢いは僅か二十分ほどで、カメラのモニター越しに希薄な赤い糸で真っ直ぐに結ばれていたのは三分にも満たない。あれから直ぐに、タイムスケジュールを合わせる為に慌ただしくアウトレットから戻って来た親父達は、広場に残っていた僕や同じツアーグループの人達と合流してバスに乗り込み、急ぎ彼女達のグループより後に来たのに、彼女達よりも先に次の観光スポットへと向かった。

 彼女をアウトレットから戻って来た人達の中に見失ってしまった僕は、バスにシートに着いてからも車窓に彼女の姿を探す。動き出したバスがパーキングを湖畔道路へと折れる頃に、やっと僕の凝らした瞳はツアーの人達の前を歩く空色の彼女を見付け出した。その小さくなって行く彼女が石造りの町並みの向こうへ隠れ切ってしまうまで、車窓のガラスに睫毛が触れるくらい眼を近付けて見続けた。

 サイコロを振り上げた瞬間に、回転しながら落下して跳ね転がった挙句に静止したサイコロの、その出る目を知る事ができるという超能力的な、加わる諸々の要因の集大成説と偶然の必然性要因説を今は信じられそうだ。

 その日の晩にミラノ郊外のシックなホテルの部屋で、お袋と妹へ今日のツアースポットの感想メールと写真をインターネットに接続した親父のミニパソコンで送り、それから、親父と明日のツアー予定の確認を済ませて、湯を張った大きなバスタブにゆっくり沈んでいたら、『着信してるぞ』と、親父がタオルといっしょに僕の携帯電話を持って来た。

 丁度、熱めの湯に浸かり、コモ湖やミラノ市内の観光とショッピングや食事で出歩いて冷えた身体を温めながら、今日一日の出来事を思い返していた。

 思い出しても体中がゾワゾワするような信じられない出逢いを観光に行った山狭の湖畔でした。その時刻なら金沢の自宅でいつものように過ごしているはずの彼女が、まさか、同じ日に学校を休み、同じ時差時間、同じ異国の地にいるとは全く思っていなかった。既に彼女を写した一眼レフカメラの画像データは、先に親父がシャワーを浴びている間に、こっそりとミニパソコンを通して抜き出し、僕のメモリーへ移している。気も良く湯気を吸い込みながらチェックした彼女の画像を思い浮かべていた時に、聞き慣れた着信音を奏でる携帯電話を親父は持って来てくれた。

 メイン画面には『僕を見ている瞳』の画像、送信者は『Ying Hua』、中国語で『インファ』と発音する。意味は『桜の花』だ。

(こんな時間に……、まだ起きているのか? んっ、これって国際回線を使う事になるんだよな……)

 イタリア時間の午前零時近くに彼女から国際送信されて来たメールに、『時差で眠れないにしても……』と不思議に思いつつ、ふやけた手から滴り落ちる湯の雫を親父から受け取ったタオルで拭き取り、神妙に開いてみた。

【おはよう。今、どの辺?】

(おっ、これは……、日本に居ると思われている僕宛へのメールだ!)

 幸いなのか、残念なのか、コモ湖では気付かれていなかった。この状況に同じイタリアのミラノの地に居る希少な現実を彼女へ知らせれば、今現在、同じミラノに居るのか、又は高速道路の太陽の道でベネチアまで移動したのか、それとも、ユーロスターの列車に乗りフェレンツェへ行ってしまっているかも知れない彼女と、互いの旅行行程を照らし合わせれば再びどこかの観光地で、計画的に会えるのではないかと考えが頭を過ぎる。

 だけど、一方通行な想いを自覚している僕からは、そんな大胆な提案はできない。例え、提案できたとしても素っ気無い彼女は賛同しないに決まっている。

 直ぐにネットで金沢市小立野台地の天候と気温を調べた。昨夜から降雪が続き現在の気温はマイナス一度。この天気だと新たに積もった新雪は軽くてサラサラだけど、路面や路肩に残っていた雪はバリバリに硬く凍っている。それに通学路の大半を占める幹線道路の融雪装置から地下水が流れ出て、マイナスに下がった凍える朝の時間なら、まだ雪をシャーベット状に融かしたぐらいだろう。

 きっと道路は、カチカチとツルツルとグチャグチャの三パターンが入り混じる斑模様だ。

【上野本町の通り、鶯坂と亀坂の中間ぐらい。雪で滑るし歩き難いな】

 これまで朝の登校時に彼女から先にメールを送って来た事はなかった。……彼女らしくない。

 一分を待たずに、ツッコミのような返しが来た。別にボケていたつもりはないのだれど、突っ込まれてしまった。

【そう? 歩き難いかしら?】

 上手く解釈できない『かしら?』に、頭を傾けてちょっと訝しむ。このニュアンスは雪の無い場所にいるのを前提としているのじゃないかと疑ってしまう。ひょっとしてコモ湖で見られているのかも知れないと思った。ならば、意図を訊き出して遣ろう。

【近く? どこにいんの?】

 メールを送ってから、もし彼女がイタリアに来ている事を知らせて来て、それもミラノにいて、しかも宿泊しているホテル名まで打ち込まれて返されたら、どうしょうかと悩んでしまう。

 先ずは親父のミニパソコンからルームのネット回線でホテルの所在地を調べ、イタリア語と英語でタクシーの手配と往復の指示会話を書き出し、彼女に会いに行く行動を取れるのかとマジに悩んだ。泊まっているホテル名まで書かれているなら、それは会いに来いという意味になるだろう。その返信はエキゾチックな気持ちへ傾かせた東洋人の女の子に抱いたのと同じ衝動を、僕に湧かせてくれるのだろうか?

 結局、翌朝になっても彼女からの返信は着信しなかった。イタリア旅行が終わって帰国してからも、彼女からのメールは無く、何かと気不味さを感じている僕も送れなくて、メール交換は終業式の日まで途絶えてしまう。

 偶然にも再び見付けたローマのスペイン広場で、ショーウインドー越しに彼女を見ていたのも三分ぐらいだった。レリーフを諦め支払いを済ませて姉と店から出て来る彼女を、素早く隠れた脇の狭い小路の角で遣り過ごしてから店に入り、それから彼女が諦めたレリーフを買い求めた。その所要時間は通りから彼女を見付けて、二つのレリーフの代金が支払い終わるまでに十分と経っていなかった。

 本当に一瞬の出逢いで、刹那の発見だった。僅か数秒でも、数メートルでも、ポイントがズレていたならば、彼女を識別する事もなくて二度の出逢いは無かっただろう。ミラクルが二度も起これば必然なのに、僕は彼女へ声を掛けようとも思わなくて二度ともピーピングするだけの遭遇になってしまった。一方通行になる因果の空しさに悲しみと寂しさばかりを感じてしまう。それでも、ただの遭遇のみの因果で終わって欲しくない。

 --------------------

 いつもと違う新たな時空で君と出逢う、信じられない偶然に二度も驚愕させられた。それに不思議が加われば奇跡だ! ファーストミラクルのコモで髪を舞い上げながら風に顔を立てる君の横顔と、首にコモシルクのスカーフを巻かれて嬉しそうな君の写真は今もポケットに持っている。

(いつの日か、いっしょに僕らの奇蹟の場所へ行って、手を繋いで歩こう。湖畔や広場の階段を二人でジェラードを食べながら歩くんだ。桟橋のアニメチックな遊覧船にも乗って、風が吹き抜けた湖の奥へも行ってみたいな)

 僕は今、君との奇蹟の出逢いに感慨と感動を込めて唄う。

 合唱をバックコーラスに僕は歌い上げて行く。そしてラストのソロで歌うワンフレーズ。

(澄み切って、晴れ晴れと彼女に届け、僕の熱い想い!)

『♪ あなたと……』フリに託けて伸ばした右手の指は彼女を指し示して曲は静かに終わった。

 曲が終わっても合唱の余韻が沁み入り、会場はシンと静まり返っている。客席やステージから咳払いや衣擦れの物音一つしない、まるで時が止まったかのような不思議な静寂の中、僕は上げた右手をゆっくりと下ろし足を揃えた。

(終わった……。後はコンダクターの号令に、みんなで礼をしてステージから退場するだけだ)

 拍手が聞こえた。会場が一瞬ざわついて全校生徒の視線が集まる。一人、すーっと立ち上がった彼女がスタンディングオベーションをしてくれていた。あの彼女が立ち上がって大勢の視線を浴びている事も気付かないほどに、夢中で拍手してくれている。

(嬉しい……。彼女に感動を届けれたことが…… 嬉しい)

 僕は涙が出そうだった。僕を見て一人だけで一生懸命に拍手をくれる彼女の姿に、僕は感動した。会場のざわつきと客席のみんなの姿が消えて、立ち上がって拍手をする彼女と、その拍手の音だけが、僕の目に映り、僕の耳に聞こえる。

 彼女を指差して歌い終わった僕を見ていた全生徒の目が、パチパチと聞こえて来た拍手の音に顔を巡らせて、立ち上がり拍手をし続ける彼女に注がれた。

(『ねぇ……』! 彼女の声が聞こえた……)

 僕に呼び掛ける彼女の声が、頭の中で聞こえた気がした。その一瞬に間違いなく僕と彼女はヒーローとヒロインだった。ステージを飛び降りて彼女の下へ駆け寄りたい。

 彼女に気付かされて次々と立ち上がり大勢が拍手をし始める。そして、僅かな間を置いて会場は一斉の拍手と歓声で沸き返った。アンコールの声や口笛も鳴る大きな拍手と冷やかしも混ざる歓声の中、僕のクラスは一礼をしてステージを降りた。こうして僕の心にときめきを掻き立ててコーラス祭は終了した。

 --------------------

 コーラス祭の結果は、声をみんなと揃えなければならないソロ間のパートも、勢いで僕は声を飛ばして響かせ続けコーラスをリードしたので、最が付かない優秀賞になってしまう。

「コーラス祭に参加されたクラスの皆様、ごめんなさい。あんなに練習して来て、本番もきっちり熟していたのに、……僕が潰して仕舞いました」

 終礼前のホームルームに行われた反省会で僕は一人、前に出て教壇で向き直ると深々と頭を下げ、クラスのみんなに謝った。

「楽しかったよ。君は暴走しちゃったけど、みんな一生懸命で揃っていたし、まあ、良かったんじゃない」

 クラスの女子達のリーダー格が遠回しに僕を責める。

「はっきり言って、お前の暴走さえなければグロリアでローレルだったよなぁ。たぶん……」

 近しくしている男子がプラス責め的に、僕への責めをカバーしてくれた。でも普通に『栄光の月桂冠』とか『最優秀賞』と言って欲しい。

 僕の『暴走』に、『グロリア』の可能性、これで僕への非難は揃い踏みだ。

(全くその通りで、申し訳有りませんです)

「やっぱり、あの子が君の彼女だったんだね。ねぇ、あの子と、どこまで行ってるの?」

 クラス委員の女子までが、囃し掛けるように彼女との関係進展を詮索してくるけれど、ここは笑って誤魔化すしかない。

(それ、ホームルームでは訊かないで欲しいです)

「君のパートから、完全に二人だけのラブソングになっちゃったよねー。私達のコーラスは、そのバックコーラスだったねー」

 普段もコーラス祭の時のようにラブラブだったら良いのだけど、現実は彼女と手を繋ぐどころか並んで歩いた事も無い。何より話す事は禁じられているし挨拶も交わせ無いから、声を聞く事もできないなんて、悲し過ぎるリアルは恥ずかしくて言いたくない。

「なに、勝手な事してんだよ! って言って遣りたいけど、自分の彼女へは、あれくらいのパフォーマンスをしないと男じゃないさ。あれは絶対、伝説になるぞ! 賞よりもレジェンド作りだな!」

 幻想に飢えている男共は僕の身勝手な暴走に肯定的だ。好きだけれど彼女に成っていないし、僕も彼氏に成れていない。

 三年生への進級に伴うクラス分けで別々になった友人達は、御祝いの言葉を掛けに来てくれた。

「無愛想なあいつが、一人立ち上がってお前に拍手したのには、驚きの感動もんだったな。あいつ、涙まで流してたって、あいつのクラスの女子達が言ってたぞ。お前も、あいつも、恥ずかし過ぎだっちゅうの! ほんと、すっげーよ。大した奴だぜ、お前は!」

 まさか、彼女が真っ先にスタンディングオベーションをするなんて信じられなくて、僕こそ眼が潤んで泣きそうになるくらい、彼女に感動させられていた。

(彼女は泣いていたのか……?)

 あの時は距離と暗さで、彼女の表情が良く分からなくて気付けなかった。

「こらぁ、ラブソングにしてんじゃねーぞ! ―たく、知らない内に彼女と、よろしく遣りやがって羨ましいぜ」

 僕はブンブンと顔を横に振り否定する。あの場の勢いでラブソングになってしまったのは反省してます。

 最近のメールから彼女の気持ちに多少の変化が起きているらしいのは、読み取れていた。だけど、態

度や表情に親しげさは無くて、僕を無視するような素っ気無さは変わっていなかった。表面的には少しもラブリーになっていない。

「もう、お前ら二人はできているって、全校に認知されちゃったぞ。良かったじゃん。これで、あいつに告る奴は誰もいないさ」

 みんなに僕らの関係を知られたのは、彼女が望んでしたのかも知れないから別に構わない。でもきっと、これからも僕へのつれなさは変わらないと思う。

「そうそう、俺は見たぞ! あいつ、お前のパフォーマンスに泣きながら、めっちゃ、感動してたよな。これから二人は急速接近してくんですかぁ?」

 相槌を打って茶化す友の言う通り、確かに彼女はしっかりと僕の歌を受け止めて感動してくれていた。

(本当に彼女は泣いていたんだ! 僕はこれからも、……彼女に感動を与え続けていけるのだろうか?)

 僕の暴走が与えたに過ぎない彼女の感動を不安に感じながら、それでも僕は彼女と急速接近する新たな展開を願いたい。

     *

「おーし、もういいぞ。構図の下絵ができたから、今日は終わりだ」

 先生が恐ろしげな顔を綻ばせて、デッサンモデルの終了を告げたのは、西に傾いた陽がまだまだ高い午後五時を少し回った頃だった。普段は仁王像の様なギョロ目が怖いけれど、偶に見せる笑顔は妙に可愛いと女子達に評判だ。

 夏の明るい夕暮れは長くて蒸し暑い。あと二時間余り経たないと宵闇が涼しさを連れて来ない。

「次は後期が始まってから、時々、彫刻のモデルで手伝って貰うからな! なあに、ちょっとだけだ」

 後期に入ると高校受験の勉強を頑張らないといけないけれど、抗えない決定事項を伝えるみたいな強制力を感じる。それに時々で良いなら、僕は先生の作品作りに参加していたかった。

 今日のモデル役は終了。そそくさと冬の制服を脱いでTシャツに着替えて下校する。脇に抱える素肌に直接着て表地まで汗を染み込ませた学ランは、ところどころ白く塩の線を描いて生地に張りが無く、ボタッとして見窄らしくて汚しい。それに、生乾きの汗の饐えたような酸っぱい臭いがして、鼻が歪みそうで気持ちが悪い。

(う~、くっさあ。女子達は、よくこんなのを着ていた隣へ、何気に立ってくれたなぁー)

 女子はこの臭いが嫌じゃないのかと思いながら、『これが男の臭いなのかも』と考える。もしかして男らしい臭いなのか?

 家に着くなりお袋に『風呂に入る』と告げて、脱衣場の洗濯籠へ学ランを放り入れ、急ぎ湯船に入り込み蛇口を全開にして勢い良く水を出す。家の風呂は電気温水器の全自動でお湯張りができるけれど、体が熱くて本当に水風呂に入りたい。そして蛇口から迸る水に顔を近付けてガバガバの飲んだ。もう身体が脱水状態で体力の限界寸前だ。

 湯船の底に水が溜まりだし、徐々に水位が上がって熱中症寸前の熱い身体を少しづつ冷やして行く。手で水を掬って心臓麻痺を起こさないように胸や首に浴びせながら摩る。

 美術教室の茹る暑さに、真夏の無風の炎天下、通気を抑えた保温性充分の学ラン、周りの塵や埃といっしょに熱する西陽を直射されながらの下校路。もう頭は熱射病、身体は熱中症だ! まだ意識を保ってる自分に驚いてしまう。甲斐甲斐しい女子達がいなければ、全く救われない酷い一日になるところだった。

 陽がだいぶ傾いたのか、窓の磨りガラスが薄っすらと紅く染まり出した。

(めっちゃ疲れた……。すっげーだるい……。こんなにだるくなるほど疲れたのは、……初めてかも知れない)

 水位が上がった気持ち良い水風呂に浸かりながら、ポリポリとさっきから痒いと感じていた右の腕を無意識に掻いた。次に左の腕も痒くなってポリポリと爪を立てる。あんまり痒いから学校か脱衣場で蚊に喰われたのかと両の腕を見て、湯船から飛び出るほど驚いた。

「うおおぉぉぉーっ! なっ、なんだこれーっ!」

 体中どこもかしこも肌に赤い斑点の浮腫みというか、発疹が浮き出て変に突っ張った感じがしている。首筋や頬にも違和感が有って鏡に映すと顔中に発疹していた。初めての異常な自分の肌に、もうパニックだ!

(変な病気になっちまった! もう治らない不治の病……、いや伝染病だったらどうしよう……。どこで感染したんだ?)

 慌てて風呂場から飛び出して、お袋に一縷の望みを託して救いを求める。驚愕する気持ちの焦りとは裏腹に体全体がチリチリと熱くて、ガリガリと掻き毟りたいほど痒くなって来た。それに頭が熱っぽくてだるい。

「母さん、なにこれ! 体中が赤く斑模様になってる! 痒くて堪んないよ!」

 叫んでお袋を呼んだ!

(この異常な体じゃ何処へも行けない! 誰とも会えない! 特に彼女には見られたくない!)

「あっらーっ! どうしたのそれ? ジンマシンだわね。今日はどこで何してたの?」

 お袋は目を見開いて僕の異常な皮膚の状態に驚いたけれど、直ぐにジンマシンという病気だと判断して、冷静に原因と生り得る経緯を訊いて来た。

(ジンマシン? なんだそれ? カブレみたいなもん?)

 小学校の時に家族で近くの山へ山菜採りに行って、漆の葉に触れてカブレて酷く腫れて痒がった事があった。でも、その時に腫れたのは漆の葉に触れた部分だけで、今は全身に赤い斑点だ!

「直ぐ、皮膚科の医者へ行くわよ。さあ早く服を着なさい」

 お袋の言葉に、全裸でお袋と向き合っていたのに気付き、慌てて滴る雫を拭きもせずにTシャツと半ズボン着る。服を着て水風呂で冷やされた身体に体温が戻って来ると、全身が居た堪れないくらい痒くなった。

 蕁麻疹は体内部からの病的反応のアレルギーやストレスによる心因性、そして物に触れたりする物理的な要因の過敏反応のショックで現れる急性皮膚病で蚯蚓腫れもそうだと、診てくれた医者先生が教えてくれた。毛虫に刺されて腫れ上がるのや、盆栽の黄櫨の木を植え替える時に飛び散る根周りの土を浴びたり、水母の触手に刺されて蚯蚓腫れになるのは、それらが持つ毒によるカブレでジンマシンと違うそうだ。

 病院で注射と点滴を受け毎日飲む内服薬を貰ってから家へ帰った。少なくても一週間、普通で二週間、薬が合わないと一ヶ月は治癒しないと言われ、とにかく刺激味は食べないで安静に寝て過ごした。

 夏休み、八月初旬から想定外のジンマシンの熱で物憂げに身体が火照って寝込んでしまった。クーラーが利いた自室のベッドで、お袋が用意してくれた氷枕に頭を乗せ、氷水で冷やしたタオルを額に当てて寝ようとするけど、直に頭だけが冷やし過ぎでキンキンと痛んで寝付けない。

 寝苦しく熱に魘されながら、枕許に彼女がいて時々額のタイルを冷たくして欲しいと、そして、赤く浮き出た発疹だらけの痒い体も拭いて欲しいと、泣きながら御願いしている自分の悲しい夢を見た。そんな嬉しい悪夢を見ながら思うのは、

(彼女も僕を好きになってくれて、互いが相手の傍にいて安らぎたいと願うようになりたい。でも今は、僕が求めれば求めるほど、迫れば迫るほど、僕を好きじゃない彼女は僕の想いを躱して僕を避けるようになるだろう。遠ざけれれるのは怖い。二人がリアルで普通に話すようになれば、より彼女を知ってもっともっと好きになれると思う。だけど、僕の身繕いしながらの語りがハリボテで中身の無いと知られて、徐々に彼女が離れて行ってしまう不安に苛まれてしまうだろう。好きなのに、好きになってくれるのが怖い。それでも……、僕は彼女が大好きだ!)

 めげる身体が夢見の悪い悲観的な結末の夢ばかり見させてくれた。

 二週間ほどで腫れと痒みは退いて身体は楽になったけれど。赤い斑点は消えてくれない。少しづつ薄くかって行ってはいるが、まだまだ夏休みだというのに再発の不安と格好悪さに外出は控えた。ダチ達にも見られたくないから、『そっちへ遊びに行く』コールを悉く断っている。

 TVゲームをプレイするのも、レンタルや録画したアニメや映画を観るのも飽きたし、好みのコミックも最新号まで全て読み終えた。とうとうする事が無くなってしまったので、高校の受験勉強をする事にした。日がな一日、暇が有れば参考書と教科書を覗き、メモリーが少なくて忽ち消去する脳に化学記号と英単語を暗記させ、頭痛がするくらい苦手な方程式と古典を理解できるように努力した。

 ジンマシンの斑点は夏休み最終日の朝に、漸くすっきりと綺麗に全身から消えてくれて、翌日の後期始業式へ安心して出席できた。その後、残暑日の放課後に学ランを着て彫像の部分補正のモデルを何度かしたけれど、肌に免疫ができてしまったようで一度もジンマシンを発疹していない。

     *

 高校受験……。初めは彼女と同じ高校へ進みたいと考えていたけれど、僕の成績が障害になった。そこは学力レベルの高い普通科の県立高等学校で、それなりの大学へ進学する為の登竜門的な存在だった。それに、彼女と同じ高校へ行く事よりも、大人びた彼女に少しでも近づきたいと思う。目標を見つけ、それに向かって自分で切り開き、道を造っていく彼女が羨ましくて憧れていた。彼女への憧れが僕を一日も早く自立したいという思いにさせた。

 彼女からのメールも自立への思いを加速させる。コーラス祭の一瞬の感動だけでは、彼女を急変化させて僕へ急接近させる事はなく、相も変わらず携帯電話メールを交換するだけの互いに声を掛ける事もしない、とても交際と言えるものではなかったけれど、彼女からのメールに僕の進路を心配しているのが増えていた。

【あんた、真面目に勉強してんの? 学校じゃ、あんたのふざけてるとこしか、見たことないんですけど。どこ受けるのよ?】

 僕はコセコセして心にゆとりが無く、小さな事に拘っていた。それにオドオドして落ち着きが無くて、きっとそれらが彼女に不誠実や不信感や不真面目感を感じさせて、僕の将来を不安に思わせているのだろう。真剣に進路を考えなければならないと思う。

(彼女は僕を心配してくれている……?)

     *

 僕は受験校を決める前に進路を両親に相談した。

 自分の将来なんて全く漠然として具体的に思い描けなかった。乏しい知識や情報からでは、しっかり仕事を熟すようになってから結婚して家族を持ち、そして、幸せな生活を送るくらいにしかイメージできない。

(なんか、在り来たりで保守的だな)

 自分の将来の展望なんて、どれも客観的な目的や結果ばかりで、自分の主体性もストーリーやプロセスも無く、どうすればそう成れるのか、その第一歩の選択が分からない。社会や大人を漠然としか捉えられない僕は、お袋と親父の具体的なアドバイスに期待した。

 最初はお袋に訊いた。

「自分で考えて判断しなさい。決めるのは自分よ。自分自身の人生でしょ。他人に任せたり委ねたりしないでちょうだい」

 お袋は笑顔で明るく張りの有る声で言い放つ。

(ぎょっ! いっ、いきなり、それはないんじゃん……)

 予想以上のつれない言葉に僕は怯んでしまった。日頃のお袋の態度から、ある程度は予想していたけれど初っ端から冷たく突き放された。お袋は、僕の描く自分の未来イメージに希薄さを感じたからだろうか? 僕は大人になっていく事への現実的なイメージを、ちっとも想像できない。

「親子も他人よ。あなたの将来は、どうなるのか良く分からないわ。でも、いつも願っているの。あなたにとって良い人生であるようにと。良い人生の判断は人それぞれ違うけれど、私達、家族にとって、そう思えるあなたの人生であって欲しいの。それに、今のあなたは身体も、心も、まだ子供なの。自分で成長したと思って大人びていても、まだまだ成長するのよ。今は見えていない事も見えて来るのよ。考え方や感じ方も変わっていくわ」

 確かに、お袋は、お袋であって僕じゃない。お袋が深く大きな愛情で僕を包みながら見守ってくれているのを知っている。だけど、僕が経験していない将来の振り返りみたいな事を、お袋から言われても現在の自分に当て嵌めて考えられない。

(ちょっとぉ~。そんなんじゃなくてさぁー、『大学行けばぁ』とか、『商業? 工業?』とか、『専門学校の選択肢もあるわよ』なんて、言ってくんないの~?)

「親は子供に躾や教育とアドバイス、それにお金や物を与え、見守る事しかできないのよ。道標でしかないわ。経験や体験、聞いたり、見たり、読んだり、そんな事しか伝えるしかないの。でもそれは参考でしかないでしょう? あなたに当て嵌まらない事が多いと思うわ」

 要するに親は道標っていう意味だと思う。決定権は自分に有るから、自分が決断しろって事だ。受験のような人生を左右する大事な事柄の指針は、親や他人に委ねずに自分で責任を持って決めろって言っている。

 お袋の言葉一つ一つが、僕を追い込んで畏縮させていくような気がする。

(ううっ、ビシバシと言ってくるなぁ。高校受験は僕にとって、自分の人生を左右する第一歩なんだぞ。そうだから、もっと真剣に考えろって意味で言っているんだろうけど、そこが分からないから訊いてるのに……)

 具体的な方向を示して貰おうと甘えた軽い気持ちでした進路相談は、お袋の言葉で漠然と幸せを期待していた明るい将来への展望を、段々と負担の重い暗くて不安な枷に変えて行った。

「例えば、志を持ちなさい。夢を持つ事よ。それに向けて進みなさい。これから先、今のように迷う事が多いでしょう。あちこちに目移りして羨んで、後悔したり、反省したりするでしょう。分岐する人生は、そこで一つしか選べないの。引き返しや並行世界に行く事はできないわ。でも、交わせて合わす事はできるわ。それができるように人生を貫く志と夢を持ちなさい。で、高校へは行きなさい。高校でそれが見付けられるように努力しなさい。高校で見付けられなければ大学で探しなさい。それでも……、なら……、ううん、探し求め続けるのが、人生かな?」

(漸く具体的っぽい事を言ってくれたけど、分岐する人生…… 多次元宇宙に並行世界か……)

 野暮ったいお袋が、観念的でSF的な言葉を使うのに驚いたけれど、お袋の言った事に実感は無かった。僕の十五年の人生じゃ経験や試練や迷いが足りない。少な過ぎて良く分からなかった。でも、その通りなのだろう。それに、

(『探し求め続けるのが、人生かな?』って、なんか、適当っぽいぞ)

 志か夢になるのか知らないけれど遣ってみたいことが有った。漠然として繋がるのか分からない。僕は趣味のプラスチックモデル作りや、美術の授業での絵画や彫刻造りの意欲を活かせればと思う。

「良く分からないけれど、何かを創り出したいんだ」

 お袋は頷いて、

「そう、それなら、お父さんに相談しなさい。あの人なら、きっと夢を探す光をくれるかもね」

 いつもはアダ名に『さん』を付けて親父を呼ぶくせに、親子の真面目な会話になると決まって、お袋は親父を『お父さん』と言う。我が子相手だと自然に改まって口から出てしまうのだろう。

 親父を指す三人称の『あの人』に、ふと、お袋へ尋ねてみたい事を思い付いて、……訊いてみた。

「ちょっと話が変わるけど、母さんは、父さんと結婚して、今、幸せだと思っている?」

 お袋と親父が結婚して何年経つのか? どこでどんなふうに知り合って、どれくらいの期間を付き合い結婚に至ったのか? 詳しい事は知らないけれど、少なくとも僕の歳以上はいっしょにいる。十五年以上も連れ添った親父の評価や今の幸せ度を、お袋から聞いてみたいと思った。

「そうねぇ、お父さんが元気で働いていて、息子も、娘も、私も元気で、家族四人の仲に問題は無く、当面のお金の心配も無い。それって、とても幸せな事よね! だから今、私は凄く幸せよ!」

 お袋の僕を諭す顔が、パァッと笑顔になった。

『善くぞ、訊いてくれた』って感じの、嬉しい笑みがお袋の顔中から零れている。僕は今からも、近未来も、親父がお袋にできているように、彼女を笑顔にさせ続けて行けるだろうか?

 親父は小さな工場を一人で運営している。小学校の頃はお袋と何度か行ったけれど、ここ数年、久しく訪れていない。たった一人で自営して頑張っている親父なら、何かを諭してくれるかも知れないと僕は期待した。

「人生は一度ぽっきりだ。他人に相談しても、それは道標にしかならないからな。俺も母さんも同じだ。物理的や精神的に助け諭して道を示すだけだ。でも、それは俺や母さんや他人の尺度での判断であって、お前自身のスケールじゃない」

 親父も『お母さん』と言った。ふだんは名前に『さん』を付けて呼ぶのに、夫婦で示し合わせてケジメをつけているみたいだ。全く良く似た者同士の夫婦だ。

(う~ん! 親父も、そう来るのですか~)

 出だしから、お袋と同じだと言い切られて、僕は内心がっかりした。

(だから、具体的に諭して助けてください……)

「おまえの人生の決定権は、お前自身にあって、おまえが決めなくてはならないんだ」

 言い切るだけあって、そっくり同じことを言う。

(……ではなくて、何かヒントを下さい。ビシッとこうしろと言ってくれたら、願ったり叶ったりです)

 甘えている自分だと分かっていた。でも、甘えさせて欲しい。親だからこそ、頼って決めたい。今が……、この時点が、これからの僕の生き方を左右するのだと、僕の中から声が聞こえている。

(親父も、お袋も、道標なら方角や距離や到達地が描いてあるんだろう?)

「自分の人生を他人の所為にしたり、させたりしてはダメだ。他人に自分の人生を委ねるな!」

 やはり似た者夫婦なのだろうか?

 親父にもお袋へ質問した夫婦仲を訊いてみようかと思ったけれど、止めた。

(どうせ、同じような返事を言うだろうし、……いや、親父からコクったのだから、きっと惚気(のろけ)られて長い話になりそうだ)

 親父は続ける。

「人生はフリーダムだ。人生に枷を嵌めたり、枷になるような人生にするな。人生を楽しめ。楽しめる人生をスタートさせろ! これから行くところがある。ちょうどいい、お前もいっしょに来い。そこの人達を見て話して感じて学べ」

 親父は僕を知人の会社や大学の研究室や工業試験場へ連れて行って、見学させたり話を聞かせたりさせた。どこも最新の工作機械や設備が揃い、最先端のモノ造りや研究開発を行っていた。会う人や話を聞かせてくれた人は、どの人も明るい笑顔で接してくれて、夢と自信を持ち眼が輝いて生き生きとしていた。

(楽しめる人生か……)

 その人達と話す親父は真剣に楽しそうで明るく笑っている。笑う顔と瞳は確信と希望に満ちていた。身近過ぎて気付かなかった。不思議な感じがするけれど、親父もこの人達と同じだと理解した。

(僕も、この人達のような大人になりたい)

 僕は、感覚的に、創造的に、実際的にも自分が納得できる方向を探して進みたい。そして、考え悩

んだ末に市立の工業高等学校を受験することに決めた。

 工業系志望なら国立や私立の工業高等専門学校、それに、県立の工業高等学校などの選択肢もあったが、津幡という遠方な町に在る国立は列車通いになり所要時間的に億劫なのと、何より学力レベルが雲の上で無理。私立は、彼女が狙う高校と逆方向に在り、彼女と偶然に出逢う確率がうんと低くなってしまう。県立は中学校と同じくらいの距離に在るけれど、たぶん、彼女の通学のバス路線と違って、僕がワザと避けたと誤解されると思うからやめた。そんな色々考え悩んだ挙句に僕は、色恋中心の自己中な仕様も無い選択理由で市立に決めた。

     *

【あんた、私をやめて他の女子にしたの?】

 どうにか自分の将来への気持ちの持ち様をイメージし始めた頃、彼女から意味不明のメールが届いた。メール文から察するところ、僕が彼女を諦めて他の女子を好きになったという事なのだろうか? それとも、僕に彼女以外にも好きな女子がいて、その子と宜しく浮気をしているっていうのだろか? 僕は彼女だけを一途に惚れ抜いている僕以外の僕を知らない。

(僕以外の僕が、好きになった女の子は誰だ?)

 それとも逆も有りで、僕を好きになってくれた女子がいるのだろうか? それはそれで非常に喜ばしい事だけれど、残念ながら、『ごめんなさい』だ。

【違うけれど、なぜそう思うわけ?】

 コーラス祭以来、僕に話し掛けてくる女子が多くなった気がする。みんなの僕に対する評価が美術系オタクっぽいのから脱して、意外と明るい奴に変わって来たって感じだった。いや、以前から根暗じゃないし男の友達は多かったから、女子ウケが良くなったって事かな?

 長距離を歩いた野外学習では、連む仲間達と彼女を見失わない程度の距離を保ちながら、彼女のテンポに合わせてダラダラと歩いた。仲間達は僕と彼女の関係状態を理解していて、彼女を話題にする事は少ないけれど、歩きながら次々と加わって来た女子達は、『彼女と歩かないのぉ~』や、『あっ、あんな前を歩いているよ。呼んでこようか?』と、彼女ネタでからかい捲くり、僕が、『やめてくれ』と、断ると、『あんた達って、どんな関係なの?』と、核心を訊いてくる。

 彼女との関係を訊かれて悪い気はしないが、話せるような浮いたり、翔んだりした内容は無く、彼女についても語るわけにいかない。結局コーラス祭で僕の歌に込めた想いをテーマして盛り上りながら、十五、六人ほどのグループになってゴールした。

     *

【あんた、八方美人でしょう?】

 また、彼女から根拠不明の決め付けメールが来た。直ぐに返信するけれど慎重に言葉を選ぶ。

【……そうかも知れない。そんなところが有ると思う。でも、……なぜ、そう思うの?】

 少し迷ったけれど八方美人だと認めたらどうなるだろうと、 彼女の反応を知りたかった。

【あんたのクラスに、みんなから嫌われて、避けられている三人の女子がいるでしょ。その子らといっしょに帰っているって噂になっているよ】

 確かに三人の女子と帰りがいっしょになることはある。

【それで?】

 悪い予感がした。

【この前、見たよ。教室で楽しそうに三人と話しているのを】

 後の展開が読める。どうせ彼女は誤解した勝手な想像を発展させていると思った。誤解を押し通して僕にとって悲しい結末に持って行くのだろうか? それとも誤解が誤解を招いて互いの憤慨で終了させるつもりなのか?

 先日、なんの前フリもなく問われた。

【あんたのブス判断はなんなの? 顔? スタイル? そんな外観重視?】

(ブスの判断基準? なんだぁ~? 彼女に何か有ったのか?)

【性格ブスのほうが、余っ程、醜いと思うけどなぁ】

 間髪を置かず直ぐに返信していたけれど、質問の出所が気になっていた。

 ブス判断……、どんなに外見が綺麗でなくても、必ず魅力的な表情や仕種が有る。それは一瞬かも知れないけれど美しく可愛いと思えれば、価値観や感覚の問題かも知れないけれど、もう一度、その一瞬を見たいとか感じたいとか僕は思う。でも天邪鬼的な性格ブスは堪ったものじゃない。どんなに超絶美人でチョー可愛い子でも、屈折し過ぎの性格を僕好みにする自信は無いし、矯正させる根気も全く無い。そして彼女は性格ブスと違う。

 彼女は、自分自身をどう分析しているのか知らないが、絶対に性格ブスじゃない。

(こんな、つまらない疑惑の裏付けの為に質問されたのか……)

【君には、どう見えたの?】

 バカバカしいと思いながら彼女に問う。気移りの口実を作り難癖を付けて、彼女は僕を突き放す機会にしようとしているのかも知れない。

【親しそうに見えた。付き合っているんじゃないかって?】

(三対一でデートですか? 僕を持ち回りするデートなわけ?)

 それはムリが有るだろう。笑ってしまいそうだ。

【三人と?】

 僕って、どれだけ色ボケなんだ?

(マジでそう思われていたら、凄く悲しいぞ!)

 彼女の狙うオチは、やはりお別れなのか?

【そう……】

 彼女は三対一のデートで、どんなシチュエーションになると考えているのだろう? 本当にそう考えているのなら、心の渇いた寂しい人だ。でも、彼女はそんな心根の狭い女性じゃない。

【でね、思ったの。あんたは誰でも好きになるんだなって?】

 八方美人は彼女にとって、気が多くて節操の無い好色な奴って意味と同義語なのか? それに誰でもじゃない。僕にだって好き嫌いは有る。そして親しいと好きとは似ているけど、恋と同じじゃない。

【あの子達は、みんなに嫌われているじゃない。あんたは、そんな子らと仲良しで、良く付き合っているなって?】

 さらっと酷い事を打って来る。

(それは言い方も、言う心も、悲しいだろう)

 それがどんなに悲しくて寂しいことだと、彼女は気付いていないのだろうか? 彼女達の何を知っていて嫌われていると言うのだろうか?

(なぜ、こんなメールを寄越すんだ? 僕は君から虚しさを感じたくない)

【みんなじゃない。嫌っていない人達もいるよ】

 避けたり嫌っているようにしているのは、クラスの男子の一部とその取り巻きの女子達だけだ。少なくともクラスの過半数以上はそうじゃない。

 みんなは日常を楽しそうにしているけれど、気持ちはストレスで一杯だ。いつもストレスの捌け口を求めている。ストレスの原因は多くて、些細で単純な発端のそれらが複雑に入り混じっている。勉強、成績、学校、先生、部活、友達、異性、親、兄弟、姉妹、家族、親族、病気、将来、金銭、社会、そして自分自身、全部が不安と不満だらけだ。それは自分次第の、自分が招いた結果や自分の気持ちの持ち様なのに、自分が不幸だと思う事の全てを他人の所為にしたいと思う。だから身近に解消できる捌け口を求める。一瞬、一時だけの解消だと分かっていても求め続ける。

 中学校の三年間で僕達は、まだ知りたくないのに世の中の出来事や仕組みをちょっぴり知ってしまう。ちょっとずつ世の中が自分に入って来て、自分が混沌として不浄と不条理だらけの世の中に組み込まれて行くのを知ってしまう。自分も、家族も、学校も、こんなに規則だらけでも少しも良くならない薄幸な社会の一部で、一部になってしまう抗えない自分の将来を知る。

 僕達のストレス解消は楽しい事に向けれなければ、暴力や虐待や窃盗などの単純で簡単な事ばかりになってしまう。三人の女子達は見下して優越感を持ちたいという慰みに虐める対象になった。虐めや暴力は連鎖し過激になって行く。酷くなると死に追い遣るだろうし、報復も有るだろう。でも、一方的に虐めるのは楽しい。虐め方を変えて相手が更に嫌がったり、苦しみ悶えるのが予想通りなら、尚更、楽しくて止められない。

 いっしょにいるのも一学年の短い間だけかも知れないのに。こんなちっぽけな教室でも格差の優越感を得る為だけの虐めをする。

 散らしても散らしても、不満や不安は集まり溜まって行くだけなのに……。

 --------------------

 先週の休みの日、朝からお袋と妹は出掛けていて、遅い朝飯が親父といっしょになった。できあがった親父の分のピザトーストを持って行きながら、ちょっと気になっていた事を親父に話してみる。

「ねぇ、ちょっと訊くけど、お父さんは中学校や高校で、虐めたり、虐められたりした事が有るの?」

 親父はテーブルに置かれたばかりの皿から取り上げた、熱々のピザトーストを一口齧って、

「虐められても、先生や警察に知らせるんじゃないぞ。知らせて助けを求めても、何の解決に至らないからな」

 親父の経験を聞こうと思っていたのに、いきなりヘルプの話しで来た。

「どうして、先生じゃ、助けにならない?」

 親父の口火の言葉に、直感的に分かってる事への裏付けを得ようとする。

「最高学歴までの学校という閉鎖空間を卒業して、またまた閉鎖空間の学校へ先生として就職……。閉鎖空間名『学校組織』の頂点位置に君臨する存在、それが先生職だ。虐めなんか、どっち側へでも裁定できるし、見て見ぬ振りもできる。気分次第で自らが生徒を虐めたり、蔑むのも至極簡単。一人の生徒の三年間を虐め抜くのも面白い」

 先生達が放つ薄い経験値の不確実で浅はかな諭しもどきの言葉。授業のカリキュラムさえ教えてい

ればいいものを、児童達や生徒達の思春期の人生へ圧し付けて来る道徳意外の借り物と偽物の余計な御世話的指導。

「視野も経験範囲も狭い、単一線上の考えや判断しかできない先生達が虐められっ子を、しっかり助けられると思うか? まあ、無理だね。せいぜい虐めていた連中を集めて注意程度に叱り、それから反省文を書かせたら御仕舞い……、それが何になる! 効果なんて無いだろう」

 先生になる人達は、どれだけ生き様や人生に限界を感じて超えようとしたのだろう? 真剣に苦しんで深く悩んだ挙句、デッドラインに迫るほどの体験をして来たのだろうか? 肉体的や精神的なプレッシャーから人生を諦めるくらいに追い込まれた経験はしたのだろうか? そんなバックグラウンドも無しに他人の心の痛みが解かるというのだろうか? 死を選ぼうとするほどの人の痛みを知ろうとする洞察の思考や覚悟が有るのだろうか? 僕は疑ってしまう。

「いろいろな公的なケア機関が在るみたいだけど、公務的な団体の職務じゃ先生と同レベルさ。たった一人の虐めの抜本的な解決にも至らない。今どき、どれだけの大人が子供達の道標になれるのだろうな? 教員や先生は大勢いても、教師や教諭はほんのちょっぴりだけだろう」

 一つでも他人に語れるような人生の深遠を経験していれば、軽はずみで薄っぺらな言葉や態度は、言えないし執れないはずだ。虐められている生徒へ絶望を退かせる勇気を持たせる為に、先生達はいったい何を経験して学んでいるのだろう?

「中国語で『先生』は名前の後ろに尊重の意で添える『~さん』や『~くん』と同じ。日本語の『先生』は『教師、老師』と呼ばれて、『老師』は尊敬の気持ちが含まれている。日本での『先生』は敬う人への呼び掛けなのに、彼らは本当に敬える人達なのか? 『先生』の意味の掛け違いかも知れないな」

 親父は『先生』を尊敬的でなくて尊重的でしかないと言っている。確かにそうかも知れない。学校で義務教育を学習させてくれる『教員さん』だ。閉鎖空間で得た経験の対処マニュアル的な諭しや指導は感情に偏り、悟りや魂なんて籠められない気がしてしまう。

(そんな先生達の判断や評価が、個々の生徒の将来を左右しているんだ……)

 どんなに個性や才能が秀でていても、それが教育方針に合わないだけで、要注意対象にされてしまう。そして、先生の要注意評価を受け入れて、我が子が病んでいると嘆き、軽はずみな矯正をしていまうような、薄い考えしか出来ない親が多い。

 小中学校や高校では異端児扱いされ、大学で才能が発現すれば逸材と持て囃される。個性に問題が有るとされて矯正された子供達の刈り取られた才能はどうしてくれるのだろう? 良し悪しの評価を軽く決め付けてしまう元凶の先生達は、その浅はかな判断の行く末に責任を負う覚悟が有るのだろうか? 在学中の当事者としては、全く遣り切れなくて詰まらない現実だと思う。

 納得いかないところが多いのか、親父の話は終わらない。

「専守防衛的な警察は、非情や悲惨な結末を迎えて事件性を帯びないと、勇ましく出て来て横柄な態度で対処してくれないから、虐められていた子が反撃して虐めていた子達に危害を与えると、動機なんか、そっちのけで事件性と罪は虐められていた子に起因するという、理不尽で不条理な事になってしまうんだ」

(そうだ! 親父の言う通りだ!)

 公的な社会組織なんて公的な学校組織と同じだ。是正の処理も発生の予防もいい加減で、虐め被害の子供を追い込むだけの上辺のレスキューでは誰も救えない。

「小学校のトイレで大きい方も我慢せずに、済ませていたのか? 個室で用を足すだけで虐められて、学校へ行けなくなる男子もいるらしいぞ。だったら、男子トイレは全て洋式の個室にすればと思うけれど、『嫌な物を覆い隠す事になる』とか、『個室だと数が確保できない』とか、『飛び散るしぶきで掃除が大変』などのマイナス思考だらけで、改善が進まないらしい。『掃除』は立ちションだからだろう。それは家での躾と、学校の得意な教育じゃんか。子供の時から汚さないように、次に使う人の迷惑にならないように諭さすべきだ。『隠す』と『数』にしても、じゃあ、女子トイレはどうなんだよってな。今は集合住宅でも一戸建てでも洋式便器ばかりの個室で、戸は閉めてするだろう。洋式便器についても『男児たるもの、座ってするとは何事か』と、前世紀の遺物みたいな反対意見や、『公共施設や商業施設に小便器は有る』と、学校の外へ逸らすのも出たそうだ。ふっ、学校や教育委員会の先生達にとって、男子児童の大半が悩む今、此処に有る問題への意識が所詮、この程度って事だ」

 小学四年生の時に個室の上から覗かれてから教室でからかわれた。覗きは何度か続いた後、エスカレートしてドアや仕切り板を叩き続けたり、掃除モップを差し込まれたり、水を掛けられたりした。そんな悪戯をするのは、いつも決まってクラスのみんなからは避けられている三人の粗野な悪ガキで、僕だけじゃなくて何人もが同様な被害に合っていた。

 いつまでも執拗に悪戯とからかいを繰り返すので、とうとう上から覗いていた二人の顔に排泄したばかりの大便を撫で付けて遣った。『あーっ、きったねー』『うわっ、寄るなーっ』とバタバタ叫びながら個室前で騒ぐ奴等に、いきなりドアを開けて、流さずにいた大便と小便が混ざったトイレの水に浸したビショビショのトイレットペーパーの塊をぶつけて遣る。更に水底の大便を掴んで擦り付けて回った。

 自分も汚れるけれど相手へ与えるダメージが重要だから構わない。逃げ去る奴等を追わずに手洗いの水道と消毒液で、まず服を洗い、顔と髪も洗う。濡らした下着をタオル代わりに全身を洗った。洗い直して絞った下着と服を着て、そして、学校に置きっぱなしにしている体操着に着替えてから教室へ戻って授業を受けていた。その後、二度ばかり同じ連中からトイレで虐めに合ったけれど、その都度、顔中の大便を擦り付けて遣ったら、トイレで誰にも悪戯はしなくなり、僕への虐めも無くなった。

 最後は先生にも知られるところとなって厳しく叱られたけれど、先生なんて知った事じゃない。悪ふざけと違う虐めには、相手へ実力で強く抗議しなければならない。

「不登校を頭ごなしに叱る、子供の気持ちに不理解な親もいるけれど、なぜ子供が不登校になるかなんだよなぁー。真摯に子供を心配していないだろう」

 うんうんと僕は頷く。

「それも、育ての親の対応次第で、とんでもない結末になってしまう」

 そんな親も一辺倒の物の見方と考えしかできなくて子供を圧し付けるから、決して思慮深い解決には至らない。虐めを受ける我が子を軟弱者と思い込んでいるかも知れない。

「僕ん家は違うね。自由奔放にさせてくれるのは、別に放任されているのじゃなくて、個人の自主性を重んじてくれているからだよね。良く解っているよ。もし、僕が虐められるようになって絶望し切る前に、御願いだから助けて下さい」

 僕から訊いた真剣なテーマなのに、ふざけるように両手を合わせながら上目で親父を覗き込む。

「ああ、息子も、娘も、しっかり助けてやるぞ! でも、お前の事だから虐められる事も、絶望し切る事もないだろう」

 絶対に親父とお袋は僕を救ってくれるだろう。絆を感じるってのは、こんな事なのだと思った。

「助ける……、結局それは、親や兄弟、姉妹でしか、本当に助ける事ができないんだ。こうやってお前は俺や母さんにちゃんと相談してくれる。そして俺と母さんは、どんなことをしても、お前を助け救って遣る自信が有る。そんな悩みを相談できる家族でいる事が、家族の誰をも助けられる環境なのだと思う。家族は家庭の危機に敏感じゃなくちゃいけないんだ!」

 親父の言葉に魂を感じる。

「だから、くれぐれも勝手に悩んで、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞ!」

 自分の息子や娘の目線や立ち位置で見も聞きも考えもしない親には、子供は悩みの相談をできなくてストレスやフラストレーションばかりを溜めてしまうから、遅い反抗期は荒れ方も酷くて、そして長期化してしまう。

「ああ、飛ばないよ。もう僕の反抗期は小学生で済んじゃったからね。そん時は、ちゃんと相談します」

 互いに僕の反抗期の顛末を思い出して、顔を見合わせて苦笑いをした。

 親父の話しを聞きながら、もしも、彼女が虐めを受けたなら、彼女の支えとなって僕が守り抜こうと心に誓う。

 --------------------

 連む仲間達も三人と良く話す。厭がってはいないし嫌ってもいない。自然に、連れ達も、僕も、三人も、いつもと同じ、普通に話す。話す内容は豊富で、みんなは楽しんでいると思う。

【いないよ! みんな嫌っているよ。あんたもそっち側だったんだ】

(そっち側って……、なにを考えているんだ? 頑迷な……。マジでそう思っているのか?)

 まだオチにならないところをみると、どうも彼女は僕を突き放すつもりはないらしい。拒まれるのも否定されるのも慣れているけれど、こんな理由は間違っている。でも彼女の本意ではないと思う。だから諭すような事はしないし、必要ない。

【ふ~ん、そう見えたのか。だけど恋愛感情じゃないよ。クラスメートじゃん。それに、なぜ嫌う必要があるの? そういう仕切りや壁を作らないといけないのかなぁ?】

 僕は少しがっかりした。彼女がこんな詰まらない事をメールの文字にするなんて思いもしなかった。

【嫌っている人達がいるかも知れないけれど、僕には嫌う理由が無いよ。彼女達は僕に酷いことをしていないし、悪口や陰口も言ってはいない。避けたり嫌ったりすることはできないよ】

 全くどうでもよい事だ。僕は百聞や一見じゃなくて自分で接して判断している。

(違う……)

 彼女は三人を嫌がっていないと思う。彼女達は僻んだり、いじけたり、屈折したりしていない。続けてメールを打ち込み送信する。

【いつものように彼女達と日常の挨拶を交わし、何気ない会話をしているだけ。友達と話すような話題ばかりで、毎日がそんな繰り返しだよ】

 少し腹が立つ。彼女に言い訳することじゃない。彼女は分かっている。僕がそんな浮気性じゃないことを。友達と接するのと同じ気持ちや感情で、三人の女子達と接して話すことも。

 更にメールを送る。

【僕が彼女達を嫌わない故に、除け者にされたり嫌がらせを受けたりしても、僕は気にしないし構わないよ。それに僕の友人達は、そんなくだらないことで僕を避けたりしない】

 分かっているのに僕は彼女に問う。上辺の判断で偏見を持たない彼女だと知っているのに、僕は彼女を責める。硬質で艶やかな防壁面で構成された彼女の精神的なイメージが、ざらついた不快な突起で覆われていく。

【そういう普通な事が偏った意識を持って見ると、そう映るんだね。それは悲しいことだと思うよ】

 彼女の真意を質す。できれば彼女を追い詰めてしまうメールは送りたくなかった。

【私の見方と意識が、偏っているって言うの?】

(ああっ、やっぱり、そこへ持っていくのか……。確認したかったのか……? そっ、それってジェラシー?)

【君のことじゃない。僕が好きな女の子は一人しかいない。知っているだろ】

 彼女から返信は無いと思った。これでもう、メールの応酬はギリギリだ。彼女はテンパっているだろう。はっきり『好きなのは君だけだ』なんて書いたら、強い反発を招くだけだ。

 その日から僕は彼女の道向かいを歩いて帰る。なのに、思った通り暫らく彼女からのメールは来なくなった。

 

 ---つづく