遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

メール (私 中学二年生) 桜の匂い 第三章 弐

『VINO・BLANCO』

(また知らないメールアドレスだ。ビーノ・ブランコ…? スペイン産の白ワイン? 変なの!)

 最近、知らないアドレスからのメールが多い…。

 今朝(けさ)、空(から)になったワインボトルを見ていた。朝食を食べ終わり汚(よご)れた食器をキッチンのシンクに置いた時に、飲み終わった二つのワイングラスと空のボトルが目に入った。それは、お父(とう)さんが箱買いしたワインで、毎晩、お母(かあ)さんと二人で飲んでいる。そのワインボトルに貼(は)られたラベルの印刷された文字のスペルが、着信したばかりの知らないアドレスと同じだった。

 去年、中学生になったばかりの時に、『あなたも、これから何かと必要でしょう』と、お母さんが携帯電話を買ってくれた。

 お姉(ねえ)ちゃんも中学校の入学時に持たされていた。私はとても羨(うらや)ましくて、それまでは良く弄(いじ)らせて貰(もら)っていた。

 大容量でパワフルな林檎(りんご)マークの平(へら)べったい最新スマートフォンは、何軒も携帯電話ショップを廻(めぐ)って自分で選んだ、お気に入りのモバイル端末(たんまつ)だ。私は凄(すご)く嬉(うれ)しくて、嬉しさの勢(いきお)いがクラスの女の子達と電話番号やメールアドレスを交換(こうかん)させた。

 中学一年のクラスメイトの殆(ほとん)どが携帯電話を持(も)っていた。その時以外に、私は誰(だれ)にもメールアドレスを教えていない。

     *

 校則(こうそく)では、学校に携帯電話の持ち込み使用を禁止している。でも、大半の生徒はこっそりと持ち込んでメールを打つ。当然、持ち物検査では激(はげ)しいブーイングの中で先生に没収(ぼっしゅう)されていった。

 そんな或(あ)る日、先生による生徒一人一人のボディチェックと鞄(かばん)や机の中やロッカー内の徹底(てってい)した検査が終わる頃(ころ)、没収されて教卓(きょうたく)の上に置かれた携帯電話が次々と鳴り出した。短(みじか)いコールが鳴っては消えていく。短いコールは全(すべ)てメールの着信を知らせていた。

 生徒達は持ち物検査が始まると、あらかじめ用意していたメールを発信してマナーモードをオフにする。着信するメールは親達からだ。リアルタイムで我(わ)が子と連絡を取りたい親は多い。

 一連のメールの着信音が鳴り止(や)み、先生は授業を始めた。

 暫(しばら)くすると、また携帯電話が鳴り始める。今度のコールは鳴り止まない。電話の着信だった。子と親、子同士、親同士が結託(けったく)して連絡網を張り巡(めぐ)らしていた。

 緊急時の連絡にタイムロスは避(さ)けたい。学校へ連絡して先生に取り次(つ)いで貰い、事情を説明し電話口に子供を呼び出してから、やっと用件を伝えられるのは面倒(めんどう)で、じれったくて、イライラする。

 子供にしても職員室まで行って親と電話するのは、多少なりに抵抗(ていこう)が有った。子供に携帯電話を持たせれば取り次いでもらう手間(てま)を省(はぶ)いて直接連絡ができるし、プライバシーが守られる。メールならより確実に用件が伝わって安心だろう。

 それよりも、事件や事故に遭遇(そうぐう)した子供からのヘルプやエマージェンシーコールと、常にオープンにされているGPSで、親は状況と位置の情報を得(え)て子供の安全を確保する緊急対応に備(そな)えたい。例(たと)え学校内にいて授業中でも突発的な不慮(ふりょ)の事態は発生するから、親の気持ちとしては当然だ。

 教卓上に並べられた携帯電話の多くが、受着信を告(つ)げるLEDパイロット灯の点滅(てんめつ)する輝(かがや)きとメインやサブ画面を発光させながら、メロディーやソングを奏(かな)でて歌う。先生は鳴り止まない携帯電話を無視できず、みんなに着信を受けるよう促(うなが)した。

 電話に出た生徒の一人が携帯電話を先生に渡(わた)し、話してくれるようにお願いした。

 メールの返信ができず、電話に出られない理由は幾(いく)つも有る。テスト中や何かの回答中や発表中とか、体育授業のプレー中やスイミング中でも出られない。音楽の授業での演奏中や合唱中、全体集会もそうだろう。

 先生が話す電話の相手は生徒の母親だった。先生の受け答えのようすから一方的な会話のようだ。聞こえてくる会話から、相手は直(す)ぐにでも学校に乗り込んで来る勢いみたいだ。電話に出た生徒達はみんなニヤニヤして、先生の電話の遣(や)り取りを聞いている。

 謝(あやま)り宥(なだ)める言葉を繰(く)り返して先生は電話を切り、没収した携帯電話を生徒達に返した。先生は、……説得(せっとく)され? 脅(おど)かされて……? 結局、相手の話す勢いに負(ま)けてしまった。

 このようなトラブルはクラスや学年を問(と)わず発生し、先生や学校側と父兄の対談が何度も行われ、PTA総会のテーマにも取り上げられた。しかし所詮(しょせん)、義務教育の学校や先生達に徹底した強制力は無い。教育カリキュラムを妨(さまた)げ、教育委員会レベルまでに発展させる問題ではなかった。

 それ以来、授業の進行に支障(ししょう)にならない限り、マナーモードでの使用が暗黙(あんもく)の了解となった。故(ゆえ)にみんなは机の陰(かげ)でコソコソとタッチパネルを操作している。

     *

『ビーノ・ブランコ』それは、私の携帯電話に登録されていないメールアドレスだった。

【好きです。貴女(あなた)は、桜(さくら)がとても似合(にあ)って春風の中で輝いていました。貴女からは、桜の香(かお)りがしました。でも、とても眠(ねむ)そうに見えました】

 朝の登校時に突然、そのメールは来た。ポケットの中のマナーモードにしていた携帯電話が、いきなりプルプル震(ふる)えて飛び上がりそうなくらいびっくりした。

(……『輝いていました』って、過去形かよ! 香りって、それ、身体の匂(にお)いなの? スメルマニア? それに『眠そう』ってなによ! 何見ているのよ! 誰? こいつ!)

 見られている。私は誰かに観察されていた。

(寝ている私……、桜咲(さ)く季節……、私の様子を知っている? 麗(うら)らかな春の陽気(ようき)に微睡(まどろ)む私を見ていたんだ。……以前のクラスメート?)

 好きな言葉が連(つら)なる、そのメールを何度も読み返した。

(……桜の香り……、私からするの? 私の匂い?)

 私の気持ちを擽(くすぐ)る文字が気になる。

【私は過去形? 私は眠そうにボーっとしているの? 私が臭(くさ)い? あんた誰? イスパニアの白ワイン】

 名無しで失礼なメールは無視しようかと考えたけれど、私を観察していた相手が誰か気になって夕方にメールを返した。

 一年生の七月に三人、十二月には五人から告白や、お付き合いをお願いされ、上級生の二年生や卒業間近(まぢか)の三年生からも申(もう)し込(こ)まれた。下駄箱(げたばこ)の中へ置かれた手紙や、直接に面と向き合っての言葉で告白され、、同級生からは電話とメールでされた。

 申し出は暑い夏休みや聖夜と年末年始の冬休み、そしてフリーダムな春休みの前に集中しているから当然、イベントと休みの期間をいっしょに遊んで過(す)ごしたいって意味を含(ふく)めてるのでしょう。

 どれもが私を可愛(かわい)いとか、綺麗(きれい)だとか、素敵(すてき)だとかの理由で、好きになったと書かれていたし伝えられた。だけど私は、自分の容姿に褒(ほ)め称(たた)えられるだけの意義(いぎ)や価値を見出すことができない。

(そりゃ、見苦(みぐる)しくないように鏡を見て、髪を梳(と)き、産毛(うぶげ)を剃(そ)り、人並みに体裁(ていさい)は整(ととの)えるけれどね)

 誰だって寝起きのままで学校や職場へ行かないと思う。毎日、顔を洗(あら)って歯を磨(みが)く以外にする自分の手入れはそれだけ。自分の外見なんかに興味が無くて、ほとんど無関心だった。

 容姿を褒められて悪い気はしない。でも、嬉しいとは思わず、はっきり言ってどうでも良かった。

『ごめんなさい。お断(ことわ)りします』

 私は、全て即答(そくとう)する。

(私のどこが、綺麗なのですか? 私は、どんなふうに可愛いのですか? 私の何が、素敵なのですか?)

 返答は、誰も私の上辺(うわべ)しか見ていなかった。

『今、付き合っている人や、好きな人がいるのですか?』

 断っても誰も納得しない。断られても決まって訊(き)いてくる。

『いません!』

 私は、はっきり否定(ひてい)する。

(『いる』と、言ったほうが良いのだろうか?)

『お友達から、始めてくれませんか?』

 殆どが、そう返って来る。

(お友達ってどんなのよ? いっしょに歩いたり話したりするのが、嫌(いや)だから断っているのに!)

『いやです!』

 曖昧(あいまい)には答えない。謝りはしない。再度、いや何度でも、はっきりと強く断っていた。

 暫くしてマナーモードを解除(かいじょ)していた携帯電話が、メロディーを奏でながら震えてメールの着信を知らせる。『名無し』からのメールだ。

【突然メールを送って、ごめんなさい。麗らかな春の光りや風や匂い、そして桜が貴女に溶(と)け込むように似合っていました。それは、いつも僕が貴女を慕(した)う時に想(おも)うイメージです。優しい貴女が大好きです】

 謝りと言(い)い訳(わけ)めいたのが届いた。だけど送り主の名前は無くて、『名無し』が誰なのか分らない。

(無記名(むきめい)で、よく送ってくるよ。こいつは!)

 また私を擽る文字が並んでいてイラつかす。

(私が優しいだってぇ~? こいつムカつくう! 一方的に私を刺激して卑怯(ひきょう)な奴(やつ)!)

【なぜ、私を好きなわけ? 優しいから? 眠そうだから? 匂うほど春眠(しゅんみん)が似合っているから?】

 書かれていない私を好きになった理由を訊いてみる。

【春眠が似合うのも、眠そうなのも、可愛いと思います】

(微睡む私のアホ顔が、可愛いと来たですか……)

 変わった外観重視をしてくれる。もしかして変態(へんたい)野朗(やろう)かも知れない。それに、小学四年生からの金沢市での生活で優しさを見せるほど親しく男子に接(せっ)した覚(おぼ)えは、まだ無い。

【どうして、私が優しいと知ってるの? 優しくなかったら嫌いなわけなの?】

 直接話した男子は片手(かたて)で数えるほどだけど、優しさや、素直(すなお)さは見せていないはずだ。

(やはり、私を観察してたんだ……。ちょっとキモイかも)

【貴女は優しいと信じています。でも優しくなくても貴女が大好きです。何か理由がないと好きになってはいけないのですか? 好きなるのに理由が必要なのでしょうか? なら……、貴女だから好きです】

(……『私が好き』を、幾つも返信して来遣(きや)がった)

 確かに恋(こい)は盲目(もうもく)になって、相手の良し悪しなどは関係無くなると漫画か、ライトノベルで読んでいた。経験の無い私もそう思っているけれど、これでメールを終わらせるわけにはいかない。

【それで、好きだからどうなの?】

(あっ、返信にテレが入ってしまったぁ! くそぉー)

 卑怯な奴のメールにテレた恥(は)ずかしさは私をリベンジへと掻(か)き立てる。こいつを言葉で散々遊んで、最後は徹底的に責めて、辱(はずか)しめて、蔑(さげす)んで遣りたい。

【貴女を見かける度(たび)に心がときめきます。でも、胸が苦しくなって切(せつ)ない気持ちになります。僕は貴女が好きなのです。だから告白しました。本当に大好きです】

(あんたが、私を好きなのは分かったから、だからどうなのよ?)

 私が訊いたのに暈(ぼ)かされた返信をされて、何か遊ばれている気がした。

(こいつ、ワザと惚(とぼ)けている……?)

【好きだけで終わり? 続きは? 何がしたいの?】

(どうせ、こいつもスケベな事をしたいのに決まっている)

 十四歳、思春期の極(きわ)め初め。男の子も、女の子も、誰もが異性に興味を持つ。

【貴女と並(なら)んで歩きたい。笑顔の貴女と、いっしょに楽しく話しながら通学したいです】

 期待に反して厭らしい言葉は綴(つづ)られていない。

(ふう~ん、悪くないかも)

 私はいつも一人で通学している。こいつはきっと同じ小学校の卒業生で同じ通学路なのだと思う。たぶん、私の近くを歩いているのだろう。けれど、それはいっしょに歩いているとは言わない。こいつもそう思うから、こんなメールを寄こすのだ。こいつは私の真横を歩きたいと言っている。

 毎日、同じ風景の中を行き帰りするけれど、全く同じ日は無くて、毎日が違うと思う。雨の日、風の日、雷鳴(らいめい)の日、雪の日、晴れ渡る日、暗くずっしりと重い曇りの日、明るくて軽い曇りの日、様々な雲の層の日、空だけでもこれだけ違う。一度だけ、雲一つ無い青空の真ん中に稲妻(いなずま)が走る『晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)』のを見た。これらの天候は更(さら)に細分化されて季節の光りや温度や湿度で、もっともっと細かく微妙に違う。同じような雨でも昨日(きのう)の雨と今日の雨は違う。

 限り無く同心円(どうしんえん)に近い毎日でも、世界は緻密(ちみつ)で刻一刻(こくいっこく)と確実に変化して、留(とど)まらない時間に同じ場面は無い等しいと感じている。私の周りの人達や眼に映(うつ)る出来事や聞こえてくる音、吸い込む匂いも全てが同じようであっても違う。

 一人で歩いていても私は無限(むげん)の違いを感じて楽しい。それでも違いを掻きまわして私の日々を更に違わしてくれる、いっしょに歩く人がいればもっと楽しいかも知れない。

【いっしょに並んで歩くの? 私と話しをして楽しいの? それで何?】

 私の真横を並んで歩くのは、受け入られるかも知れない。でも女の人が男の人と腕を組んだり、凭(もた)れ掛かるように寄り添(そ)って歩くのは、まだ理解できなかった。それは煩(わずら)わしいかも……。

(それは、ちょっと気持ち悪いかな……)

【もちろん! 凄く楽しいと思います。貴女と手を繋(つな)いで歩きます】

 小さい頃から男の子と手を繋いだ事が無かった。

(……無理矢理、掴(つか)まれた事は有ったけどぉ)

 近所の男の子には苛(いじ)められていただけで、仲良く遊んだ事など一度も無い。小学校でも、中学校でも、これまで男子と親しくした事はなかった。だけど、こうして堂々と文字にされて求められると、私が男子と手を繋いで歩く想像する姿と状況に、多少の抵抗は有るものの、そうなっても悪くないかなと思ってしまう。

(まあ、手を繋いで歩くくらいは、今は…… 許(ゆる)せるかな)

【手を繋いで、それから?】

 こいつはいっしょに遊びたいとか、デートして映画を観ようとは打って来ない。でも、私に触(ふ)れたがっている。

(さあて、どこまで私に、スキンシップを求めてくるかな? こいつは!)

【優(やさ)しく抱(だ)き締(し)めたい。そして、ギュッと、息が詰(つ)まるほど、強く抱き締めて上げたい】

 ドキッとした。顔も知らない男の子に私が抱き締められる場面を想像する。背筋が小刻(こきざ)みにプルプル震えて胸が小さくキュンと鳴った。携帯画面の文字が暈やけていく。

 映画やアニメや漫画で、感動のあまりに我(われ)を忘れて勢いで強く抱きついてしまう場面を見た。そこへ至(いた)る経緯(いきさつ)は経験の無さから良く分からないけれど、そんな感動のシチュエーションが私にも有るかなと思いながら見入っていた。胸がキュンと鳴った瞬間、それらのシーンがスライドショーを見るように次々と暈やけた視界に広がった。

【抱きしめてから?】

 ワザと素(そ)っ気(け)無い文字の組み合わせで返す。私の動揺を悟(さと)られたくない。

(私から抱きにいく、展開も有るかも……)

 そう思ったら急(きゅう)に凄く恥ずかしくなった。

(やだ! 誰だか分からない相手が打った電子メールの文字なんかで、動揺してるなんて……、どうかしてるわ。何考えてんのよ…… バカみたい!)

 勝手に相手を都合(つごう)の良いイメージにしている自分に苛立(いらだ)つ。

(こいつは名前も名乗らなくて、どこのどいつか分からない、卑怯で卑劣(ひれつ)な奴なのよ!)

【君とキスがしたい】

 胸が噛まれた気がした! 君の文字で増した苛立ちが、キスの文字にドキドキして焦(あせ)りに変わる。

(もう、タメ呼びかよ。この名無しは……)

 図々しくも私の敬称が、敬(うやま)いの貴女から君へと対等になっていた。

(キスって……、ふつう、ストレートに持って来るかなぁ……)

 次の展開が読めそうで、焦りはムカつきになった。

【ふーん。私とキスがしたいの? そして?】

(こいつ、虫歯が有るかな? ……んん! あーっ、違うって! ないない! こいつとキスするわけないじゃん! ほんとムカつくわ!)

 酷(ひど)い虫歯が有ると、厭(いや)な口臭がするのを知っていた。口臭の臭いが違う。そんな人とはちょっち離れて話し、風下の位置にならないように気を付けている。

 抱き締められてキスをするムード有るシチュエーションを想像する私は、想像の中で私の唇(くちびる)に迫(せま)る相手の口から発する口臭を理由にキスを拒(こば)む……。でも、ムカつく焦りや怯(ひる)む虫歯の口臭話しも、私のキスに対するテレだと分かっている。本当は日常的な世界観や、異性との距離感や、自分の生理的な感覚が変わるかも知れないと憧(あこが)れに似たキスへの興味が有った。それとキスをするに至る私の気持ちの変化や、状況の経緯にも……。

 返しで来る文面がエッチをしたいとかの、厭らしい内容だったら変態や変質者呼ばわりしてやろうと思った。

(そんなのだったら…… メールを公開して辱しめて奈落(ならく)の底へ落とし込んでやる! 絶対、誰なのか突き止(と)めて、二度と私にメールできないように激しく罵(ののし)ってやる)

 回答は来なかった。暫くしてもメールの着信は無くて、送ったメールが届いているのかどうか分からなくて私を不安にさせる。

(直ぐに返信して来てたのに…… この間(ま)はワザとなの? 何を溜(た)め持たせているわけ? 厭らしい奴!)

 いつ着信するのか、送られて来るのか、届いているのか分からなくて、苛立ちと焦りと不安を混ぜ合わせた強い憤(いきどお)りが渦巻(うずま)いて凄くイライラする。

 晩御飯を上の空で掻き込んで、テレビも見ずに急(いそ)いで部屋へ行って机に向かい参考書を広げるけれど勉強など手に着かない。立ち上がって壁のハンガーに掛けた制服のポケットから、携帯電話を取り出して画面を開く。

 画面にメールの着信を示す点滅するアイコンは出ていなかった。落ち着かない私は、送信したメールが相手に届いていないと判断して、私は指先を画面パネルに素早くタッチさせて再送操作をする。

 再送準備が終わって送信アイコンに触れようとした時に、握(にぎ)っていた携帯電話が震え、くぐもったメロディーが掌(てのひら)で塞(ふさ)がれたスピーカーから聞こえた。

【君は、何をして欲しいの?】

 着信した『名無し』のメールを開いた私は、髪の毛が逆立つ思いだった。全身の毛を逆立たせて威嚇(いかく)を噴(ふ)く猫のように、私は唸(うな)っていた。

 更なる展開、行き着く文面と想像、それを求めていたのは私の方だった。

(こいつは、私を試(ため)していた……? 返されるメール内容は予想されていて、この局面になるのを読まれていた? この逆展開も織り込み済みだったの?)

 からかって恥を曝(さら)してやろうと嘗(な)めて掛かった見知らぬ計算高い相手に、逆に嵌(は)められて辱しめられたと感じた。

(悔(くや)しい!)

 私はメール画面を閉じて携帯電話を机の上に置いた。とてもメールを返す気にはならない。得体の知れない不安が返信できなくさせてしまった。私は誰だか分からない名無しのメール相手を恐(おそ)れている。

(誰だ、こいつは? 納得がいかない…… 必(かなら)ず誰なのか見付けてやる!)

 一度っ切りで会って、はっきり断れば良いのかも知れない。

 物事を素直に受け入れられない捻(ひね)くれた私の性格の悪さが、『名無し』への報復(ほうふく)へと駆(か)り立てる。この初動の対応と判断と拘(こだわ)りが先々までずっとしこりになると思った。だけど今はそうせざるを得ない。一瞬の予感は憤りに掻き消されてしまう。

 私の外見は冷静そうな無口で大人しく優しげに見えても、内面の葛藤(かっとう)や荒(あら)ぶった感情が行動や態度や言葉に現れてしまい、これまでに何度も失敗や後悔をしていた。それなのに今回も『名無し』を見付け出し、軽く落とし前をつけてしまえば不快な気持ちは速(すみ)やかに終わりになると、私は浅はかに考えていた。

     *

「お早う!」

 気持ちが軽(かろ)やいだ弾(はず)みで、あいつに挨拶をしてしまった。しかも顔の筋肉を弛緩(しかん)させて…。無警戒に気が緩(ゆる)んだ自分を後悔した。

「おっ、おう、おはよう」

(ほーら、親しげに挨拶(あいさつ)を返してきた。まっ、常識的だけど誤解しないでね。自分勝手な単なる弾みだったんだから。近しくするつもりは無いの。『名無し』に遣り返すので、それどころじゃないのよ)

 驚いて明るくなった顔のあいつに言い聞かせるように思いながら、首を傾(かたむ)けて笑顔のまま挨拶を受ける。余程、私の突然の挨拶に驚いたのか、あいつの吐(は)き出す息に乗せた声は弾んで異常に高く聞こえた。

 あいつの顔に、初めて交(か)わした挨拶で恥ずかしさと照れ臭さが現れ、伏せ目勝ちに目が泳(およ)ぎ紅(あか)くなった。次に嬉しさで目許(めもと)と口許(くちもと)が緩み、それから不意に顔を上げ、驚きで見開かれた瞳で私を見て、現れる表情の変化や変わる順序の不思議さと面白さに見入っていた私と、目が合ってしまった。そして私に見られていたのに居(い)た堪(たま)れなくなったのか、あいつはそそくさと教室を出て行ってしまった。

 二年前の春の日に私の爪を見て『四角い爪』と言い放ち、コンプレックスを私に抱かせ暗い気分にさせたあいつと、再び同じクラスになった。

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 新学年の初日の朝、指定されていた席に座り麗らかな春の陽射しと風を浴びて心地良くしていると、あいつが教室に入って来た。

(あーあ、また、あいつと同じクラスか……)

 教室に入るなり私に気付いたあいつは動きを停めて固まり、半(なか)ば口を開いた驚いた顔で私を見続けていた。その見開いた目からサクサク私に刺さる好奇心の視線を感じながら、私はプイッと窓の外の明るく麗らかな世界へ顔を向けてあいつを無視した。気分はブルーだ。

 音楽の授業で歌えずに大恥を掻いていたあいつの美術の作品は、校内の賞を何度も取って廊下に展示された。『四角い爪』で避けるべき相手だったけれど、あいつの作風が好(この)みで私は良く観ていた。でも学校のイベントや集会では、なるべくあいつから離れ、あいつが近付きそうになると移動して避けていた。一度、作品を観ていた私へあいつが近寄るのに気付いて逃げると、追い掛けて来てトイレに隠れたことも有った。

 あいつは席決めの抽選で私の真横の席になったけれど、私に避けられているのを知っているのか、私へ言い放った『四角い爪』を意識しているのか、いつも無言で私と一度も会話どころか挨拶もしなかった。だから……、いや、……私も意識してあいつを無視し無言を通していた。

 いっしょのクラスの間はずっとそうしていよう思っていたのに、高揚(こうよう)した気持ちが、あいつに挨拶させてしまった。

 あいつが席を離れるのを視界の隅(すみ)に意識しながら、手の中の携帯メールを再(ふたた)び見た。その画面に開かれた送信後のメールが、あいつに『お早う』と明るく声を掛けてしまった原因だった。

 メールを送信した丁度その時にあいつが真横の自分の席に来た。送信メールは送信先である『名無し』の望(のぞ)みを悉(ことごと)く拒否し、そして『名無し』が誰なのか探(さぐ)る企(たくら)みを秘めた文面だった。

【あんたが、誰だかわからないけれど、キスされるのは嫌よ。抱き締められるのもいや! 手を繋いで並んで歩くのもダメ! いやよ! それと電話は絶対ダメよ! 絶対しないで! 声は聞きたくないわ。誰とも話したくないの。話すのは鬱陶(うっとう)しいし、面倒臭いから……。ときどきなら、メールだけは我慢してあげる】

 これでオフで会う事は無くなり電話もして来ないだろう。

(メールには、メールで決着をつけてやる!)

 文字を打ち込みながら『名無し』の望みは拒否だけど、メール交換だけは許す文面を読む『名無し』の心境や反応を想像する楽しさと、今後の展開に期待している自分が可笑(おか)しくて、きっと口許が緩んで顔が笑っていたと思う。上擦(うわず)った気持ちになってしまい思わず笑窪(えくぼ)も作っていたに違いない。そのタイミングであいつが机の上にカバンを置いた。

 私は軽い気持ちで悪戯(いたずら)な遊びをするような楽しい思いを誰かに伝えて、いっしょにはしゃぎたかったのかも知れない。だから明るく弾んだ声であいつに挨拶をしてしまった。

(あいつは何故(なぜ)、あんなに嬉しそうな顔をしてハスキーな声だったのだろう?)

 着信の画面を開いて俯(うつむ)いたあいつの顔と、教室から出て行く姿が重(かさ)なる。

(もしかして、あいつが『名無し』だったら……)

 日頃、私に関心が無さそうなあいつの態度が挙動不審に思えた。

(あの反応はなに?……でも、そんなはず無いじゃん! 真横の席だよ。……ふつう、気が付くでしょう……? あいつは違うでしょ)

 一瞬過(よ)ぎった思いを振(ふ)り払う。

     *

 また隣の奴の美術の作品が廊下に展示された。脇に金色のリボンを添えられた鉛筆デッサン画は、先週の美術の授業で描(えが)かされたものだ。

(あっ! あの絵は……)

 金賞に選ばれた作品は、窓辺に片(かた)肘(ひじ)を突(つ)いて外を眺(なが)める女子の後姿で、そのポーズとセーラー服姿の容姿を見た瞬間、私の背中がゾクゾクと悪寒(おかん)で震えた。

(わっ、私じゃん!)

 絵の顔は後姿だから後頭部しか描かれていないけれど、髪形(かみがた)は明(あき)らかに私だ。

(いっ、いつのまに……。どうしてモデルが私なのよ)

 輪郭(りんかく)を暈かした私の後姿が鉛筆の濃淡(のうたん)と太さの違いで綺麗に描かれていた。

(ううっ、デッサン正確だし……)

 私のラインが良く観察されている。確かに、そのポーズで十五分ぐらい美術室の窓から外を見ていた。

(たった十五分ほどで、私の後姿をトレースしたってこと? そして残りの時間で仕上げたわけなの?)

 改(あらた)めてあいつの美術の才能に関心した。

(いや、違うでしょ!)

 これは関心するわけにいかない。私の承諾無しで勝手にモデルに使われた。ここは怒(おこ)るのが筋(すじ)だけど、思いの外(ほか)、バックシャンに描けてるから許(ゆる)してやろう。

(あんたが金賞になったのは、モデルが良いからだからね!)

 隣の席に座る奴を意識しながら自分を納得させた。こいつにせよ、『名無し』にせよ、渚(なぎさ)に漂(ただよ)うビニール袋のように私を苛付かす。

(ん! 漂うゴミのビニール袋を避ける為(ため)に泳ぐ場所を変えたのに、同じビニール袋が流れて来たっていう感じの不快感! なんで黙(だま)って私をモデルにしんのよ! 『名無し』も名乗れっちゅうの!)

 そう思って私はハッとした。

(似(に)ている!『名無し』と同じ無視された不快感だ…。 もしかして…… やはり?)

     *

(疑(うたが)うのならば、試してやれば良い)

 私は『名無し』へ空メールを送信した。僅(わず)かな間を置いて携帯電話の振動する唸りが、近くで小さく聞こえて数秒で途絶(とだ)えた。教室内の誰かの携帯電話が着信している。

 一分待って二度目の空メールを『名無し』へ送る。また僅かな間を置いて小さなバイブレーションが聞こえ直ぐに止(や)んだ。近くだった。私の顔の筋肉が動いて頬(ほほ)が突っ張った。耳が唸りを捕(と)らえようと向きを変えて広がり、その筋肉の動きに釣られて横目で見ている目の端が吊(つ)り上がるのがわかる。

(やはり、 私のメールが直ぐ近くで着信している。『名無し』は、……隣のこいつなのか?)

 間の長さ、唸りの響き、音の大きさは同じぐらいだ。私は横目でずっと隣の奴を見ていた。一度目も、二度目も、携帯電話に触れているような動きは無い。

 また一分待って三度目の空メールを『名無し』へ送る。着信の振動音がした方向を見ながらメールを送る。今度はバイブレーションの音が聞こえない。

(バイブレーションを切られた? こいつじゃなかったのか……? ん! んん!)

 そう思ったのも束(つか)の間で、真横のあいつが机の影で携帯電話を握り締めていた。手の中の携帯電話はLEDの光を瞬(またた)かせて、着信する電波が有ることを知らせている。あいつの携帯電話を握り締めた手の親指が僅かに動いて画面が開かれた。LED光の瞬きが消えるのと、コール中の私のメールが受け取られたのと殆んど同時だった。疑いは確信に変わる。

(えーっ、こいつぅ~! やっぱり、あんただったのー)

『わかった!』お隣さんを睨(にら)みながらメールタイトルを打ち込む。

(あんた! 今まで散々観察して、私の反応を楽しんでくれていたわけね)

 確信を決定にする為のメールを送信する。

【あんたが、誰か、わかったわ】

 あいつの手の中の携帯電話が再びLED光を点滅させた。携帯電話に被(かぶ)せた手が微(かす)かに震えていて、小さくくぐもった振動音が聞こえる。バイブレーションは作動中だ。もはや決定的だった。こいつが『名無し』に間違い無い。

(くそぉ! 私を弄(もてあそ)んだ償(つぐな)いに、どう甚振(いたぶ)ってやろうか?)

【そう、名無しは、やっぱり、あんたなんだ】

 名無しメールの厭らしい奴は、いつも朝の登校時に向い側の歩道を、少し後ろに離れて歩いているあいつだった。

 そいつは今、教室の隣の席で背を丸め、目線を下げた顔を少し向こうに回して座り、私からの続け様の着信で四度震えた携帯電話を両手で隠(かく)すように握り締めていた。それから終わりのチャイムが鳴って、そそくさと教室から逃(に)げるように出て行くまで、あいつは一度も私へ顔を向けなかった。

(逃げた! あんただとバレたんだから、ちゃんと私を謀(たばか)って楽しんでいた事を詫(わ)びなさい。それから改めて私に告白すべきでしょう)

 本日の授業が全て済み、終礼を終えても私を一瞥(いちべつ)する事も無く、無言のまま謝りもせずに帰って行ったあいつが信じられない。

(あいつは隣の席から私の反応を楽しんでいたの……? 私は弄ばれてバカにされていた!)

 今まで、ちょっとでもあいつを意識していたのが悔しい。でも……。

(もしかして、今のあいつの逃げ帰りは、私の所為(せい)? 私の所為で謝る事ができないっていうの…?)

 私の態度や物言いが、あいつに声を掛け難(にく)くさせているのだろう。

(しょうが無いでしょう。私の性格なんだから)

 私は、自分の性格が好きで気に入っている。性格を直(なお)す理由が無いし必要だとも思わない。

(大体、あいつが勝手に私を好きになっただけの、あいつ自身の問題で有って私はなんにも関係無いじゃん!)

 あいつの告白対象になった私は、私に言い寄って来る他のウザったい相手と同じように、あいつもあしらって遣っただけ。

(だったら、こんな性格の私を好きにならなければいいじゃん! そりゃあ、ちょっちは仕返しして、恥を掻かせて遣ろうと考えていたけれど。って言うか、まだ何もしてないでしょう)

     *

 翌朝、白い封筒と水色の封筒が靴箱の内履(うちば)きの上に置かれていた。

(あっ、手紙! ……また、ラブレター?)

 二つのラブレターらしき手紙は教室まで持って行き、机の影に隠しながら読んだ。白い封筒が水色の封筒の下に置かれていたので、白い封筒から先に見た。表に赤い大きなハートのシールが貼(は)られ、大きな字で名前が書かれていた。

『一目(ひとめ)で君に恋をした。僕と付き合えば、絶対幸福になる』

(何これ! いやに一方的で断定的じゃない。こんなデリカシーに欠(か)ける人と、幸せになれる訳ないじゃない。絶対やだ!)

 水色の封筒の表には『ごめんなさい』とだけあった。裏に女の子の顔がマンガ風に可愛く描かれていた。

(かわいいじゃん! これ、私だよね?)

 それ以外、名前すらも書かれていない。でも私は誰からの手紙なのか察(さっ)した。

(あいつからだ)

 封を開けると薄い黄色と緑色の横縞便箋(びんせん)に、あいつの文字が青いインクで書かれていた。

『ごめんなさい。今まで名前を明(あ)かさずにメールをしていました。貴女にメールするのが嬉しくて、楽しくて…… そう感じると益々(ますます)、名前を言えませんでした。初めて声を掛けた、あの春の日からずっと貴女が好きです。いつも貴女を探(さが)していました。だから、やっと見付けてメル友になれた時は、薄くても赤い糸が見えたような気がして、凄く嬉しかったです。だけど今…、めちゃくちゃ反省しています。卑怯で勇気(ゆうき)も根性(こんじょう)も無い僕を、軽蔑(けいべつ)して嫌っても構(かま)いません。それでも僕は、今も、これからも、ずっと貴女が好きです』

(間違いない。やはり『名無し』は隣のあいつだった。小賢(こざか)しい奴)

 ずるいのは悪いことだと私は思わない。ずるく感じるのは被害に遭(あ)った人に、たぶん、その賢(かしこ)さが無いからだ。そう、賢いからずるくできるんだ。悪事のように思えるのは、先読みができずに騙(だま)されたれたり出し抜(ぬ)かれた人達が、言い訳と非難を含めて卑怯な悪意だと言うからだ。

 ずるい目に遭(あ)った人は自分の財(ざい)やプライドを守る為に大声で罵り誹謗(ひぼう)する。でも、それは所詮、後(あと)の祭(まつ)りで河向こうの叫(さけ)びだ。河幅の距離と水の流れに打ち消されて聞こえはしない。騙した相手には届かず無音で実態の無い虚(むな)しいパフォーマンスになるだけだ。

 私は時々ずるくなりたいと思うけれどできない。こいつのように賢く出来ないから気持ちや思いをストレートに相手へぶつけるだけ。

 一限目が始まっても、あいつは席に来なかった。靴箱に手紙が置かれていたから学校に来ているはずだと思う。休憩時間に聞こえて来るあいつの友達連中の会話から、どうも体調が悪くて保健室で寝ているらしい。午後からは教室に来るつもりみたいだとも言っていた。

 午後の授業になっても教室にあいつは現(あらわ)れなかった。誰彼(だれかれ)ともなくあいつは体調が良くならずに早退(そうたい)したとの声が聞こえて来る。

(あいつぅ~、また逃げたなぁ!)

 全くあいつは私を苛立たせてくれる。手紙を置きに学校に来ているくせに、私の隣に座ることなく帰るなんて有りえない。一人で勝手に緩和(かんわ)時間を作って、反省? それとも新たな策を練(ね)っているのかも知れない。

(謝る気が有るのなら、ちゃんと誠意を見せろっちゅうの! 逃げてんじゃねぇーの!)

     *

 テレフォンナンバーだけが表示された。無登録の電話の相手を誰か探りながら、そっと電話を受ける。翌日の登校時に着信した電話は、全然心当たりのない知らない番号だった。

「……もしもし……」

 知らない電話番号には、いつも先に相手の声を確認してから応答していた。暫し空電音が続いて怪(あや)しい感じだから切ってやろうかと思ったけど、なんだか知っている相手のような気がして、取り敢(あ)えず声を落として恐る恐る呼びかけてみる。

 呼び掛けると空電音に呼吸音が被った。受話スピーカーの向こうから荒い息が聞こえる。荒い息は周期を徐々に詰まらせながら大きく聞こえて来るだけで、言葉を発する気配が感じられない。

(だっ、誰この人? 知っている人じゃないの? ……なっ、なに……! 変態からの無言電話なの?)

 気色(きしょく)悪くなって今度こそ切ろうと思い、指が通話終了アイコンへ動き掛けた時、スピーカーからブツブツと、か細(ぼそ)く途切(とぎ)れ勝(が)ちな声が聞こえた。

「ぼっ、ぼく…… は……」

 その小さな声は聞き覚えが有る…。変態の悪戯電話じゃなかった。

(隣の席のあいつだ!)

「誰、あんた? なんか用?」

 相手が誰だか分かっているのに、ワザと訊く。

(憐(あわ)れっぽくしても無駄(むだ)よ。どうせ、謝ってオフで付き合いたいと言うつもりでしょう?)

「て、手紙…… よっ、読ん…… だか……?」

 水色の封筒とイラスト、横縞の便箋に青いインクが浮かぶ。謝罪の言葉で始まり、私への想いで終わる文(ふみ)。無愛想(ぶあいそ)で冷(さ)めた私のメールに怯む事も無く私への想いが、綴られているのが歯痒(はがゆ)かった。私を謀(たば)っていたあいつを許すべきなのだろうか?

「そう、やっぱりあんたなの。……なに電話してんのよ。電話は嫌だって伝えてなかったっけ? もう電話しないで! 電話であんたの声は聞きたくないわ。…メールなら我慢(がまん)するけど。わかったあ? 何度も言わせないでよ」

 声を聞きたくないと念(ねん)を押したのは、あいつへ反省を促す意味と私の拘りだった。

『声は聞きたくない』、『メールは我慢する』と、前にも伝えた。

『名無し』があいつだと分かっただけで、既に伝えた事や認(みと)めた事を覆(くつがえ)すわけにはいかない。

 はぐらかさず、暈かさず、あいつは自分だと素直に認めた。同じ惑(まど)わしをしないのは、あいつの誠意だと思う。誠意には誠意で応(こた)えなければならない。

 あいつは誰だか明かさなかっただけで、他人や架空(かくう)の名を語って私を騙してはいなかった。それだけで、あいつを晒(さら)し者にしたり、落とし込む事はできないと思う。私はそんな心根(こころね)の歪(ひず)んだ狭い考えの残虐(ざんぎゃく)な女じゃない。

(もっと違う意味で、私の濁(にご)る気持ちの捌(は)け口として楽しませて貰うから……)

 あの二年前の春の日から気になっていたあいつを、今まで以上に意識している。毎朝、教室に入るあいつに気付くと、思わず振り向いてチラッと見てしまう。そんな自分を否定したくて、キッと眉を顰(ひそ)めたキツイ目付きで私はあいつを見ていた思う。

 朝、気色悪いけど元気そうな電話を掛けて来たくせに、今日もあいつは教室へ来なかった。

(もしかして、私が追い詰めたから、あいつは保健室登校の痛い子になっちゃったわけなの? そんなデリケートな奴だっけ?)

 いつしか、私は知らず知らずにあいつを捜(さが)している。

(なに、あいつを意識しているんだろう、私! あいつは私を騙していたんだから、簡単(かんたん)に許せるはずないじゃない……)

 名無しがあいつだとバレてから四日目の朝、やっと、あいつは教室に現れた。二日間のインターバルは計算高く仕組んだあいつの企みだったのかも知れない。

 当日、無言のあいつは速やかに逃げ帰った。

 二日目、謝罪メッセージを靴箱に置いて早退した。

 三日目、朝の電話でメールは許したのに、あいつは教室に来なかった。

(あいつは全然、ヘタレじゃん! でも私の所為じゃないよね……?)

 実際はともあれ、二日間も体調を崩(くず)して早退したと聞けば多少は責任を感じる。あいつが教室に現れて隣の席に着くのを見て、ホッと安らいでいる私がいた。

【メールには、余計な事をしないでちょうだい。写真や資料を添付(てんぷ)するのは絶対ダメ。音楽もダメよ。一度でも添付したらメル友は終わりだからね。それっきりにします。言葉でも、文章でも、メールは文字だけよ。メールを重くしないで。それと、GPS探索(たんさく)も絶対に使ったらダメ! 絶対に私の居場所を詮索しないで下さい。GPSで探索したら誰だか相手の履歴(りれき)が残ります。その時は、何者でもない論外(ろんがい)な存在になるからね!】

 その日の夕方にメールのルールを決めて、あいつへ送り付けた。

 今でもあいつの煩わしさが増え続けているのに、これ以上、あいつを意識させられたら堪らない。あいつを意識する気持ちが今後、強まろうが、同じだろうが、無くなろうが、それは私のペースでの変化だ。そう考えていたのに、あいつをメル友にしてしまった御蔭で今まで以上に、気に掛けるようになってしまった。

(色々と添付でもされたら、それこそ重い負担になっちゃう)

 あいつの添付して来る写真や音楽は、きっと私の気持ちを揺(ゆ)さぶり、あいつへの意識を加速させる。自分の気持ちの動揺と変化を理解できないまま、私はあいつの気になる情報に振り回されて、いつしかイニシアチブを、あいつに取られてしまっている事に気付くだろう。

 それは私にとってヘビーなプレッシャーになるかも知れない……。何(ど)の道(みち)、『ます』や『下さい』で、私を締め付ける言い回しを寄越して来たら、金輪際(こんりんざい)、未来永劫(みらいえいごう)、あいつを拒絶して遣る。

     *

 あいつのメールは週に二度届く。

 改めて送られて来た最初のメールは、再び謝罪と感謝の文字が綴られ、そして文末には、曜日と時間帯を決めずにランダムで週に二つメールを送ると、私に断わりも無くルールが追加された。

『ふーん。それでいいじゃん。二つまでだからね』

 週に二度のメールの了承(りょうしょう)を送信した。

『それに何度も謝らないで。私を好きになるのは、あんたの勝手だから』

 メールを許した事で、あいつが勘違い男にならないように太く長い釘(くぎ)を刺(さ)す。

『私も、ランダムにメールするからね。それと、週二度の規制対象外にしてあげるから、私の質問メールには、ちゃんと回答しなさい』

 無断で私をデッサン画のモデルにしたのも詫(わ)びていた。

『すれば、問題無いよ』

 そう文字を打たせるほど、私をモデルにしたデッサン画は上手(じょうず)に描けていた。

(モデル料を請求したら…、払ってくれるかな?)

 私の言い付けを律儀(りちぎ)に守って、あいつは隣の席にいるのに全然話し掛けて来ない。話さないけれど届くメールは普通に話すような口語体で書かれていて、どの文面にも物怖(ものお)じは何も感じられない。でも、考えてから打たれているようで不用意で不躾(ぶしつけ)な言葉は無い。有り得ない事だけど、もし親しくなって私と話すのなら、あいつはそんな話し方をするのだろうと思った。

『だから、なに? どうなの?』

 初めの内はツッコミを何度も入れた。

『今週は雨続きで鬱陶しい』とか、『晴れて青空が綺麗だ』だとか、交換日記の書き出しみたいのも着信して、その度に私はツッコミを送った。

 大体、真横にいる奴とメールで交換日記などするつもりは無い。

(くっそ~! こんなくだらない文面を見る為に、メールを許したんじゃない。互いが直面している問題や抱えている悩(なや)みや将来の夢、それに物事への考えなどを伝え知り相談し合いたいと思っているのに……。こいつは、私と何をメールしたいのか考えていないんじゃないの? 本当にヘタレな奴! バッカじゃないの?)

【相合傘(あいあいがさ)をしても、良いですか?】

 互いの様子を見るようなメール応酬(おうしゅう)は終わり、あいつのアライブなメールが届いた。

(これって、あいつの望みの、並んで歩くことになるのだろうな……? 梅雨(つゆ)時期だから、そんなチャンスも有るかもね。メールを許したから当然、更なる展開に進みたいと狙(ねら)っているわよね……。話すには私に接近しないといけないでしょう。でも面倒臭い……)

【できるならね】

 下校時に雨が降り私が傘を忘れているのを、あいつが気付いたらそうなるかも知れない。あいつが大きい傘を持っていれば良いけれど……。

(小さいのなら、私の肩が濡(ぬ)れちゃうからヤだ! きっと、私はあいつの傘を取り上げて一人で帰っちゃうね)

 あいつが二本傘を持って来るほど、気が利(き)けばベストだ。

(それじゃあ、相合傘にならないか……)

 などと、勝手な想像をする私はバカみたいだ。

【夏休みになったら、いっしょにプールへ行こうよ?】

 私からも魅力的(みりょくてき)な提案をしてみた。

(健民プールか、市営プールへ自転車で行って水着の私とデートだよ。ふふ、こんな素敵な話しを無碍(むげ)にはしないわよね。ねえ、あんた!)

 メールを入力しながら唇が歪む。小学六年の夏、あいつは一度もプールに入らなかったのを知っている。入るどころか水着に着替えもしなかった。七月と九月の体育の授業を水泳じゃない雨の日以外は風邪や腹痛で見学している。泳(およ)ぐのを拒むように欠席してまでも、真夏のプール日和(びより)の体育の水泳に参加していなかった。八月……、夏休み中も学校のプールへ来ているのを見ていない。

 私は思う、絶対あいつは泳げない!

【いやだ! 行かない。プールも海も近付きたくない! 川へも行かない。泳ぐのは嫌いだ!】

 予想通りの、あいつの返信文に笑っちゃう。

 いつしか私は、送るメール文に苛立ちと不満、そして焦りと不安をしたためて、あいつにぶつけているのに気付いていた。ワザとつれなくした短い文で送る。

(きっと私のメールの文字に、あいつの気持ちは振り回されているに決まっている)

 けっこう楽しくて止められない。想像するあいつの反応が、私のストレスを解消してくれていた。私は携帯電話のメールで、あいつを虐(いじ)めて喜んでいる。

     *

 新学期の三日目、お昼の休息時間は昼食を速く済ませ、いつものように机に頬杖を突き窓の外へ顔を向けて眺めるように微睡む。

 ズカズカと近付く気配が私の蕩(とろ)ける寸前の微睡みを妨げた。動きの感じと押されて来る空気の臭いで女子だと思う。それに一人じゃない。そして、忙(せわ)しない足音と気配は私のところで止まった。

「ちょっといい? 訊きたい事が有るの」

 一番近くの気配がそう言って、警戒して気付かないフリをする私の肩を軽く小突(こづ)く。

「返答次第じゃ、文句が有るから」

 小突きながら更に放たれた無遠慮な言葉が、私をムカつかせて気持ちを戦闘的にさせた。即(そく)、有事行動になっても良いように構(かま)えた気持ちで、ゆっくりと相手に向き直ると、気の強そうな顔の女子が机の直ぐ横に立ち私を見下ろしている。まだ、いっしょなクラスになった事の無い小学校が違う名前の知らない女子の顔だ。両脇にも知らない子がいて、計三人の女子が私を見下ろしていた。

 徽章(きしょう)の色から三人とも同じ二年生だけど、どの子も面識が無く無遠慮な物言(ものい)いをされたり、小突かれたりされる覚えは全然無い。

(あんたら、どこの誰? 何様のつもり?)

「あなた今、付き合っている男子は、いるの?」

 正面に立つ私を小突いた女子が不躾で下らない質問を言う。

(S系が似合いそうだけど、ユリじゃないみたいね。それじゃあ、いい男の紹介に来てくれたのかな? あっはっ、そんなわけないじゃん。それにしてもタカビーな女だ。こんなのが来るなんて、やっぱりフった男子達の因縁(いんねん)絡(がら)みだろうな?)

「……いない」

 隣の席で友人達と駄弁(だべ)るあいつをチラッと見て、面倒臭くならないように素直に答えて遣る。

「だったら、あなた、どうして、告白を断ったのよ?」

 新学期初日に登校した初(しょ)っ端(ぱな)から校舎の玄関先で朝練中の男子に告白された。着ていたユニフォームから見て、たぶん、サッカー部の男子だ。顔も、態度も、しゃべりも、見てくれも、良い人っぽい感じだったけれど、いつものごとく、あっさりと『ごめんなさい』にした。

(もしかして、その最新お断りを言った相手絡みかも?)

「彼氏がいないなら、付き合ってあげれば、いいじゃないの?」

(付き合ってあげても……? 誰と? その最新お断りした男子と? 私が? はあん、なんで?)

「……凄(すご)く、かっこ良いんだから……」

(それって、あんた達基準の格好好いでしょ!)

「……あの人の告白を断るなんて、信じられない……」

(いやいやいや、全然、私のタイプじゃないし)

「付き合って、あげなさいよ!」

(あーっ、面倒臭い! あーっ、鬱陶しい! なに、こいつら!)

 どうして、目の前の気の強そうな女子は、男子の儚(はかな)く破(やぶ)れた恋路(こいじ)の修復とリベンジのキューピットになろうとしているのだろう?

「あなたに告白した人は、サッカー部のレギュラーでポジションはフォワードよ。しかも、センターなの。プレーする彼は凄くかっこ良いんだから。あなた、彼のプレーを見た事有るかしら?」

(へへん! ビンゴだ。やっぱり、因縁絡みってわけね。……キャプテンじゃないんだ)

 小学校と中学校の義務教育期間は、同級生、上級生、下級生とも、みんな同じ条件の狭い環境下で思考し行動する。学校の校舎や敷地の狭い空間、校下の狭い地域、自宅と地元と学校の単純な行動パターン、そんな範囲内での限られた選択肢(せんたくし)と、自分なりの少ない評価リストでの僅かな迷いの判断、そして逸脱(いつだつ)できない思いと行動。

「ふぅ~ん、……ないと思う」

(全然、興味ねぇっちゅーの!)

 親身な家族がいて、酷く窮乏(きゅうぼう)していない家庭ならば衣食住が保障(ほしょう)されて育てて貰えるから、季節に適応(てきおう)する服や、身体を成長させる食べ物と安全に寝起きする場所を私達は心配しなくてもよい。そして健康に恵(めぐ)まれなくても最低限の学力さえクリアすれば進級できる。

 そんな閉鎖(へいさ)空間と時間の中の限られた閉鎖的情報によって女子達が選ぶ男子の個人評価なんて、顔が良くてスポーツマンで成績優秀の明るく楽しい男の子なら、高得点を得てしまうという単純さだ。例え将来に於(お)いて梲(うだつ)が上がらず、生活力の乏(とぼ)しいプーやヒモになろうとも、今の現実でモテモテだ。

(まあ、男子も見てくれの格好良さは、けっこう重要だよね)

 目の前の、この煩わしい女子も限られた選択肢しかない狭い閉鎖空間で、格好良いサッカー部のエースに恋焦(こいこ)がれたのだろう。エースのファンクラブを作ってクラブの会長なっているのかも知れない。そして、それ故の自己犠牲。

 そう考えると、あいつも同じだ。私は狭い選択範囲と閉鎖的条件内で、あいつに好きになられてしまった。

 女子の独(ひと)り言(ごと)のようなエースへの説明は、まだ続く。

「それに、優しくて人望(じんぼう)が有って、成績も良いのよ。それなのにあなた、彼の告白を断るなんて、信じられない。そうよ、あなたには勿体無(もったいな)くて、彼には釣り合わないのに……、なんで……」

 これは返答次第で、これからの中学校生活は、この三人に虐められそうなムードだ。虐められて寂(さび)しいところへ追い詰められる私は、悲しくて可哀想で厭だ!

(あんたが身を退(ひ)いてまで、大事にしたい片想いのエースに、幸せな将来性が有るといいね。ちょっちだけ、祈(いの)ってあげるわ)

「……好きなんだ」

 私は女子の言えない想いを呟(つぶや)いて遣る。好きな男子へ好きと言えない癖(くせ)に、その男子をフった私へ男子の事を考え直して、友達から付き合い始めてくれと御願いしに来ている……。

(それで良いの? おかしくない? 好きな男子の幸せ優先? 自分の執(と)り成(な)しで自分じゃない女子と付き合っても平気なの? 自分の幸せはどこに在るのよ? 感謝されても、恋して貰えないね)

 気が強そうな感じなのに痛い子だと思う。その痛い女子の向こうに、友達と話すのに夢中で私を見ようともしないあいつが見えた。

(おーい、こっちを見なさいよ。あんたの彼女がピンチじゃん! ……でも、まあ、いいっか。あんたには全然関係無いしね……)

「ううっ、そっ、そんなのどうでもいいじゃない! あなたには関係無いでしょう?」

余計なお世話の痛い子が、私には関係無いと言って来た。だったら、私の気持ちを無視した私への要求は筋違いで矛盾(むじゅん)している。

「付き合って、あげなさいよ!」

 脇の女子も、強い口調でゴリ押しを迫る。

「いやよ!」

 矛盾をゴリ押しするほどまでに、憧れのサッカー部のエースの取り巻きでいたいものだろうか? その健気(けなげ)な価値観の押し付けの所為で私が迷惑してるのだから、大(おお)いに関係有りでしょう?

(鬱陶しいな、こいつ。速く、どっか行けちゅうの!)

 被害者は私だ。だんだんと腹が立って来た。

「とにかく、お願いしているのよ。あなたは、彼と……」

 しつこい女子の言葉が、私の我慢の臨界点(りんかいてん)を越えさせた。

(んもう、イライラするー。とにかくって何よ! 私に取り敢えず友達から始めてくれって言うの? そんな好きでも無い男子と付き合うなんて、まっぴら御免(ごめん)よ!)

『バァン!』両手で力一杯に机を叩(たた)いて勢いよく立ち上がり、『キッ』と、よくしゃべるリーダー格の女子を睨んだ。

(いっ、痛い……、強く叩き過ぎて掌が痛い……。でも、このムカつきとイラつきは、こいつらとの戦争で終わらせて遣る!)

『うわっ!』っと一瞬、女子達を驚かせ半歩ほど後退(あとずさ)りさせた。

(くっそぉ、手が痛いのも、こいつらの所為よ!)

 更に一瞬の間も空(あ)けず、リーダー格の胸倉(むなぐら)を掴んで、引き寄せざまに一発グーパンチを鳩尾(みぞおち)に入れて遣ろうと、相手に向き直った瞬間、あいつの立ち上がるのが三人の女子達のたじろぐ姿越しに見えた。

『バン! ガガーン! ガシャーン!』

 いきなり、予期せぬ大きな音が直ぐ傍(そば)の真横からした。

 正体不明の鋭(するど)く大きな音と衝撃は、飛び上がりそうになるくらい私をびっくりさせて目を瞑(つむ)らせ、先制パンチを喰らわそうと身構え始めた全身を、ビックンと仰(の)け反(ぞ)らし硬直(こうちょく)させた。

 目を閉じていたのは僅か一秒くらいなのに、体を固めたまま何が起きたのか薄目で確かめると、私を囲んでいた三人の後ろ姿が見え、その向こうにあいつがこちらを見いていた。あいつの腿(もも)の高さに有るべき机は前の席の椅子といっしょに倒れていて、私をビビらせた大きな音の発生源が解(わか)った。

(びっ、びっくりさせないでよ! ……助けてくれた ……の? ……かしら?)

 間近で三人と対峙するあいつの瞳は、女子達の間から真っ直ぐ私を見ていた。

(うっ、今、目を閉じてたのを見られた? ビビったのを知られたかも……)

『おまえ、何、遣ってんだ?』

 そんんあ感じに言いたげな、無表情なあいつの結(むす)んだ口許。

 あいつとじゃれていた男子達は、あいつの周りに集まって、煩わしい三人の痛い女子達を無言で見詰め始めた。

(うっせーよ! 今から反撃するところだったんだから。しっかり机叩いて、ちゃんと立ち上がってんじゃんか!)

 言い訳したいのを我慢して、私はあいつを見返す。

 教室にいるみんなの顔も『何事が起きているのか』と、一斉(いっせい)にこちらへ向けられた。

「なによ! あなた? あぶないじゃないの!」

 私に啖呵(たんか)を切っていた気の強そうな女子が、あいつに絡む。通路に立つ女子の足許には、あいつの椅子が倒れていて足に当たりそうだったのだろう。当たったら痛いし怪我をするかも知れなかったのに、あいつは後先を考え無い無責任な奴……、いや、無茶をしてくれる。

「外野は、黙ってて!」

 ほんの一メートルと離れていないあいつを、ビビリも後退さりもせずに、大きな一喝(いっかつ)でピシャリと抑(おさ)えに行く。私に背を向けるリーダー格の女子は、きっと夜叉(やしゃ)のような形相(ぎょうそう)であいつを睨み付けているのだろう。

(……鬼女(おにおんな)とか、夜叉って、見た事が無いけれど、たぶん、こんな恐ろしい女じゃないかな……)

「なによ!」

 気の強い一喝で、棒立(ぼうだ)ちになってしまっているようにしか見えないあいつに、責めが入る。

「何か、文句が有るの? あなたには関係無いでしょう。私達は、この子だけに用が有るのよ」

 金魚の糞(ふん)のような両脇の子分の一人が懸命にリーダーを守りに来る。

「あなた達も、邪魔しないでよ」

 あいつといっしょになって無言で睨み付けている男子達に向かって、子分の片割れも『何もするな』と、制(せい)して来た。

(すっごいなぁー。またまた啖呵切って、上等(じょうとう)じゃん! あんたら三人、私に手ぇ上げたら、負けてないからね! ずっと報復してやるから)

 クラスメイト達からは無関心だったエリアで私へ優勢に迫っていた三人は、今やクライシスゾーンでエネミー達に囲まれている状態だ。それでも、包囲を警戒しながらジャッジが入るまで私を責め続けるつもりなのだろうか?

 高飛車(たかびしゃ)に威嚇する女子達の言葉に、あいつは黙ったままで返事をせずに、私を無表情で見詰め続けている。

(ちょっとぉ、ビビって逃げないでよ)

 だけど、その瞳の深い黒色には絡む女子など影形(かげかたち)も無く、ただ真っ直ぐに私だけを映(うつ)していた。

(うう、なに、そんなに見てんのよ。私は悪くないんだからね。……恥ずかしいから、見ないでよ……)

 事態を察してクラスの二、三人の女子もこっちを見ながら、あいつの傍へ急いでいる。

「私が何したっていうのよ? ちょっと、おかしいんじゃないの、このクラス?」

 リーダー格がビビって来て、悪役の負け惜しみセリフを吐く。

 あいつと、あいつと駄弁っていた男子達と駆け付けて来たた女子達は、黙って見ているだけで何もしない。でも無表情な顔の瞳は咎(とが)めと哀(あわ)れみの色だ。あいつの瞳の色だけが、怒りと悲しみの色が加わって私だけを見ていた。

「私達、悪者まの? 何か悪い事した? どうして?」

『どうして?』って、あんたらは理不尽(りふじん)で一方的な要求を、私に強要(きょうよう)してるでしょう。

(甚(はなは)だ迷惑だっちゅうの。だから、あんたらは悪者に決まってんじゃん!)

「もう、いいじゃない。行こ!」

 脇の一人がリーダー格に撤退(てったい)を促す。このクラスに乗り込んで来た時から既に防壁(ぼうへき)は張り詰めていたのだろう。展開過ぎた防壁は私だけにしか抗(あらが)わず、予想外の無言の圧力には耐え切れなくて、痛い三人は教室から弾(はじ)かれるように急いで出て行った。

 なのに、あいつの視線は去って行く女子達を追わずに私を見続けている。

(なんで、まだ見てんのよぉ。何か、怖(こわ)いぞ! 私も悪者なの? ちょっとぉ、私は言い掛かりを付けられた被害者(ひがいしゃ)なんだからね! 見ないでよ)

 あいつの傍に集った連中は、三人が教室から出て行くと大爆笑になり、見ていたクラスの子達も拍手していた。それでも、拍手をしないあいつは、笑わずに黙って私を見ていた。

『ははっ、出て行ったぞ! あれは逃げたんだな!』

 あいつの友人達の誰かが、勝利宣言を告げた。

 別に勝ち負け判定するような内容じゃなかったけれど、それでも、私への御願い事はみんなに聞かれると恥ずかしくて、三人には分(ぶ)が悪いだろう。

『ざまあみろ!』

 根拠の無い罵り声も聞こえた。でも、それは言い過ぎ。

(何が、『ざまあみろ』なんだよ? 不適切で意味不明)

 三人、特にリーダー格の好きな男子への想いと察しに気配り、そして優しさと誠意に失礼だ!

(言った奴、馬(ば)っ鹿(か)じゃないの!)

『あははっ、俺達の勝ちだ!』、男子って本当に勝ち負けが好きだ。負けて出て行ったのでもない三人が可哀想(かわいそう)に思えた。

(だから、何に勝ったわけ? こいつも馬鹿!)

『やったな!』と、あいつと話していた男子が、あいつの肩をパンパンと軽く叩く。

(あいつに助けられた……?)

『もう、大丈夫だから』と、加勢(かせい)? 応援(おうえん)? に駆け付けてくれた女子が私を見て言った。

(やはり、傍目(はため)には、私が虐められていたように、見えたのだろうなぁ……)

 さっと女子と目を合わせ、また、あいつを見ると、ずっと笑わない顔で視線を反(そ)らさずに私を見詰めていたのが、少し笑ったように見えた。優しく微笑(ほほえ)むように一瞬だけ。

(あっ、なに、その笑いは? ねぇ、私を助けれたとか、救えて良かったとか、思ってんじゃないでしょうね。あんたが何もしなくても、全然問題無いのに……。でも……)

 見詰め合う二人に気付いてなのか、あいつの取り巻き達やクラスのみんなが、いつのまにか笑うのを止めて、あいつと私を見ていた。

『ちぇっ、助けられてしまった』って情(なさ)けなさと、『もっと早く助けろちゅうの』の嬉しさと、『くっそぉ、自分でケリを付けれたのに』の悔しさが交差して、私は居た堪られない。

「……ありがとう」

 小声で御礼を言った。でも、ちゃんと顔を上げて言った。それから、あいつと、あいつの友達と、教室に居るみんなへ、きちんと頭を下げた。もうイニシアチブはあいつに取られそうだ。

     *

 九月中旬の運動会のフォークダンスで、初めてあいつに触れた。男子と女子が二重の人の輪(わ)で並び、パートナーと踊(おど)り終わると、互いが逆方向に進みダンスの相手を変えていく。

 やがて順番が回って来て向かい合ったあいつは、焦点(しょうてん)を暈した伏せ目勝ちの瞳で私を見詰め、黙って手を取った。そして、リズミカルな曲に合わせて軽やかにステップを踏(ふ)み、滑(なめ)らかな振りで私をリードする。

 あいつのスムーズで軽やかな動作に驚いて戸惑(とまど)った私は、合わせる動きがぎこちなくなってしまう。

(あんた……! こんなにリズム感良かったっけ? 確(たし)か、すごく音痴(おんち)だったよね?)

 私の戸惑いを見透(みす)かすように無表情なあいつの顔が私に向き、忙しなく瞬(まばた)きをしながら眼だけが動いてジロジロと私を見る。同時に、私の手に添えたあいつの指が次のステップへと私を導(みちび)く。

(なに見ているのよ! 私の顔に何か付いている? それに、このくらいは踊れるからリードしないでちょうだい!)

 私もあいつへ顔を向け、瞬きもしないでジロリと見返してやる。間近で見る、照れずに唇を一文字に結んだこいつの真顔は、ちょっぴり精悍(せいかん)で、けっこう可笑しい。

(こんな真剣(しんけん)な顔で私を見詰めながら、何を考えているんだろう?)

 あいつと私は見詰め合いながらリズムに合わせて跳ねる様にステップを踏む。ふと、周りに視線を走らせると、フォークダンスを踊る生徒の大半が私達を見ていた。

(ちょっと恥ずかしいけれど、おもしろいかも……)

 あいつとダンスを踊る、この状況を楽しみたいのに、温(あたた)かみの有るサラサラしたあいつの手に触れているだけで、私の手は汗ばんでいく。

(どうして緊張するのよ、私! どうしてあんたの掌は、乾いてんの? 私に触れて緊張しないの?)

 互いの周りを一周する時に指先へ力が入り、あいつの手を握り締めそうになっている自分に気が付いた。もっと、あいつに触れていたい私がいる。

 慌(あわ)てて視線を泳がす私は、あいつの手を急いで離(はな)す。

(なんか、悔しい……!)

 できるだけ落ち着いている振りをして動揺(どうよう)する気持ちを隠(かく)しながら、回転する輪の動きに合わせて位置を一つズラして、私はあいつへ顔を向ける事も無く次の男子と手を繋いだ。

     *

 クリスマスイブの朝、また靴箱の内履きの上の置かれた封筒を見付けるのと同時に、携帯電話が震えメールの着信を知らせた。

【メリークリスマス!】

 在り来たりで捻りの無い、だけど心地良いクリスマス・メッセージが、あいつから送られて来た。きっとイブの日をスペシャルなロマンスメモリーにしようとでも企(くわだ)てているのだろう。直ぐには返信せずに携帯電話をしまって置かれた封筒を取り出す。

 封筒はクリスマスカラーの赤色、緑色、金色の三通で、ダブらない色の違いは個性の違いを教えている。

 赤い一通目、『Merry - Christmas!』と、クリスマスカードに大きくプリントされたロゴ文字の下に、小さな字でメッセージが綴られていた。

『俺は可愛いお前に告白したいと思う。去年、お前が入学して来た時から気になっていた。何度もお前の靴箱にラブレターが置かれているのを見て来た。ずっと俺も手紙を置きたかった。今日はイブだからクリスマスカードを置く。ライバルが多いのを俺は知っている。でも自分の声で直接お前に言いたい。断られるのは覚悟している。俺の財力ではファミレスのディナーが精一杯(せいいっぱい)だ。そこでお前に告白したいんだ。振られても構わない。ディナーだけだ。いっしょに食べてくれ』

 粗(あら)い文章だけど、書いた人の気持ちが伝わって来た。

 入学当初から私を気にしていたなんて告(つ)げられたのは、初めてだったから素直に嬉しい。この『ファミレス』はロマンチストだ。でも、ファミリーレストランよりも焼肉屋の炭火で焼く上(じょう)シロと、冷たくてシコシコした喉越(のどご)しの冷麺(レーメン)が食べたい。でも、どっちへも行かない。あいつだけでも面倒臭いのに、私をこれ以上、煩わせないで!

 緑の二通目、クリスマスカードといっしょに入れられた便箋に、お誘いが書かれていた。

『思い切って聖なるイブの今日、あなたを誘(さそ)います。ずっとあなたが好きで見ていました。放課後、アニメの映画を観に行きましょう。きっと、あなたも観て気に入ると思います。その後は喫茶店(きっさてん)でアニメの感想を語(かた)り合いましょう。それからは、僕は家族といっしょにクリスマスパーティをするので、明るい内に帰らなければなりません。昼休みに返事を訊きに行きます。良い返事を期待しています』

 アニメムービーのお誘いが書かれていた。そして、中にアニメ映画の前売り券が二枚も挟まれていた。

(二枚の券は、このアニメファンの人と私の分だろうな? 自分の券まで便箋に挟んじゃったわけなのかな? 故意(こい)に? じゃぁなかったらドジ?)

 この人は、『アニメおたく』だと思う。

(しかし、初っ端のデートの誘いからアニメームービーでは、無理があるでしょう。それにアニメを観た後は喫茶店で駄弁って終りなの? ディナーやショッピングは無し? 明るい時刻(じこく)に御開(おひら)きって、私を安心させる意味も有るだろうけれど、私より家族と過ごすのが優先って……、なに、こいつ!)

 劇場版のアニメは嫌いじゃないけれど、けっこう好き嫌いが分かれるジャンルだから、互いの趣向(しゅこう)って言うか、属性(ぞくせい)を知ってから誘うべきだ。

(観に行くアニメと、『アニメおたく』の感動のセンスが良ければいいんだけれど、残念ながら御付き合いはお断りするから、属性もセンスも分らないわねー。遠くで大人しく私に憧れて見ているだけなら構わないけど……、ストーカーになったら呪詛(じゅそ)って遣るからね)

 金の三通目は、あっさりしていたが鬱陶しい。

『今宵(こよい)はサプライズを用意しました。僕に御付き合い下さい。後(のち)ほど御返事を伺(うかが)いに参(まい)ります。SAY YES!』

 これは末尾(まつび)で、丁寧(ていねい)さが台無しだ。『SAY YES!』のタカビーさに閉口する。

 時間を空けずにメールには返信メールで、電話にはその電話にて、口頭にはその場で、名前と所在(しょざい)を記されている封筒には、返事を直接本人に速やかに伝えるようにしている。それが誠意だと私は考えていた。

 始業までに、まだ十分も有る。

 三通とも三年生からだ。

 三人とも封筒や便箋に名前とクラス名、それに携帯電話番号とメールアドレスまで御丁寧に記載(きさい)していてる真面目な方々だ。受験勉強の真っ最中のはずなのに息抜きか、中学校時代の思い出作りなのだろうか?

 私は教室を飛び出して、三年生のフロアへの階段を駆け上がる。

 最初は『ファミレス』だ。

「あの、返事は直ぐでなくても……」

 恥ずかしそうに社交辞令的な応対をする『ファミレス』の言葉を遮(さえぎ)り、私は赤い封筒を渡しながら言う。

「ディナーにはいけません。私、先約(せんやく)が有りますから」

 いつものようにストレートな断り文句を並べれば良いものの、脳裏(のうり)にあいつの『メリークリスマス!』と紅くなった顔が浮んで、余計な意味有り気の言葉を付けてしまった。

「先約がいる?……」

 私は、またしても『ファミレス』の言葉を遮って、すらすらと嘘(うそ)を付く。

「彼氏が……、イブは彼氏とデートなんです。だから、彼氏に悪いから、もう私を誘わないで下さい!」

 終わりの語句(ごく)が強くなってしまった。あいつを彼氏にでっち上げて、私の都合を一方的に巻くし立て『ファミレス』に背を向けた私は次へ急ぐ。

(駄目(だめ)! 今のじゃ駄目よ……)

 背を向け一、二歩進んでハッと気付いた。こんな私と知らずに好(す)いてくれて、せっかくのイブを私の為に使おうとしていた人に、私の喧嘩越しな言葉遣いと態度は余りにも不躾で失礼だった。私は斜(なな)めに振り向いて先輩に謝った。

「ごめんなさい」

 謝りの言葉を聞いた先輩は悲しそうな笑顔で無言のまま、胸の前に小さく手を振り見送ってくれた。その先輩の態度に感謝して次の『アニメおたく』へ急ぎながら思う。

(三年生にもなると、大人になれるんだな)

 教室の戸口で尋(たず)ねて教えて貰い、既に席に着いている『アニメおたく』らしい人の横まで行って、机の上にスッと緑の封筒を置いた。ぎょっとした顔で私を見上げた上級生の胸に付けたネームの文字は、便箋の下角(したすみ)に書かれた名前と一致した。

 本人確認は済(す)んだ。

(間違えていない。こいつが『アニメおたく』だ……。ちょっとウザそう)

「先輩、すみません。映画にはいけません。今日は出掛けるので駄目ですって言うか、うーん、実は私、彼がいるんです。出掛けるのも彼といっしょだから…… そのぅ、お付き合いはできません。先輩、ごめんなさい」

『先輩』を二つも入れて敬いを装(よそお)いながら両手を合わせて御願いする。アニメ好きには堪らないだろうなと思いながら、できる限り、ミーハーぽい仕種(しぐさ)と可愛いしゃべりで、『アニメおたく』の誘いを断った。

(拒絶されてるって、分かってもらえたかなぁ?)

「既に彼がいたのですか……。気付きませんでした。……分かりました。彼と楽しいひとときを、メリークリスマス!」

 以外にあっさりと退き下がっていただけたので拍子(ひょうし)抜(ぬ)けしてしまった。『アニメおたく』だから、キツイ拒絶タイプにならなくては駄目かなって考えていたのに、ちょっと詰まらない。

『可愛く話す子が、突然ドスを効(き)かせた声で罵りだすと、やっぱ退くよなー』って感じに持って行きたかったのに、必要がなくなってしまい残念(ざんねん)至極(しごく)だ。

(先輩、退いていただき、誠にありがとうございます。せっかくのお誘い残念でした)

『アニメおたく』は言葉を続ける。

「あなたは、僕が初めて好きになった女の子です。……最後に握手してください」

(初めて好きになった女の子が私って、本当ですか? 私にフラれても、トラウマにならないで下さいね)

 と、思う間も無く握手と言いながら、いきなり手首を掴まれ握手をさせられた。

(返事も待たずに……、この卑怯者!)

『アニおた』の握手する手は、汗がびっしょりでヌチャッと熱く、しかも強く握り締めてくる。背筋を戦慄(せんりつ)が走った。

(厭だ、キモイ!)

 汗ばみよりも掴む手に力が込められて、私の手を離そうとしないのが気持ち悪い。でも、私はそれを表情に出さない。

(やっ、やめてよ。くっそぉー、あんたなんか、私にフられた事が、……トラウマになってしまえばいいのよ!)

 握り締められた手を引き抜くのにグッと力を込めたら、多量の汗で滑(すべ)ってスポンと簡単に抜けた。

「失礼します」

 抜け出た手の反動で別れを告げながらくるりと向きを変え、逃げ出すとは悟られない動きで『アメおた』から急速に離れた。

(ううっ、一刻(いっこく)も早く手を石鹸(せっけん)で良く洗(あら)いたい)

 バタバタと亜全速(あぜんそく)で廊下を駆け水場へ急ぐ。水道の蛇口を開け迸(ほとばし)る水で十分に泡立てて臭いを嗅(か)ぎながら三度は洗い直し、手首も擦(こす)るように良く洗った。

 気を取り直して金の『SAY YES』へ向かう。

「わざわざOKを言いに着てくれたのか? 今日は君へのサプライズをいろいろ考えてあるんだが、君は何を二人でしたい? どこか、行きたい所は有る?」

(いきなり、そう来るわけ? 私の意思確認も無しで進めちゃうって、有り得ないでしょう?)

 かなりの自信家らしいと思った。メッセージの末尾に『SAY YES!』と加えるだけあって、全然私に拒否されるとは思っていない。

 屈託(くったく)無く明るい笑顔で私を迎(むか)えた『SAY YES』の先輩は、スラリと長身で軽く茶髪のファッとしたロングヘアがカッコイイ。顔も校内トップクラスの美形で、プラス優しげな明るい表情と言葉から絶対にモテていて、ファンの女子達がいるはずだと思った。これだけモテる条件ていうか、要素が揃(そろ)いまくりだから、確かに自分の魅力を自覚して自信が持てるのだろう。

 でも、私は『はい』と言うつもりは無い。もし『はい』なんて返事をして申し込みを受けたら、どれだけ大勢の女子に虐められる事になるのだろう。考えただけでゾッとする。

 視界の奥に人の動きを感じて視線を流すと、『SAY YES』の背後に少し離れて四、五人の女子がじっと睨むように無言で私を見ている。

(あわわっ、こいつらが先輩の取り巻きの女子達で、返事次第で私は虐め抜かれるってわけ? ファンクラブ? それとも親衛隊なの?)

「ごめんなさい。先輩とは御付き合いできません。彼がいますから無理です」

 クリスマスカード入りの封筒を返しながら、また『彼氏がいる』と言ってしまう。私は無意識にカウンター的な断る言葉として使っていた。でも『彼氏』のイメージは……。

(……あいつを意識してる?)

「そうか、彼氏がいたのか……。うん、それじゃぁ、残念だけど諦(あきら)めるしかないな」

 断わりを納得した『SAY YES』の諦めの言葉に、険(けわ)しい目付きで私を睨んでいた親衛隊の皆(みな)さんの顔が穏(おだ)やかになった。

「先輩、私なんかじゃなくて、もっと身近にいるんじゃないのですか?」

 去(さ)り際(ぎわ)に呟くように言って私は『SAY YES』の後ろへ視線を流した。私の目の動きを追って『SAY YES』が振り返った。

「あっ!」

『SAY YES』の悲鳴(ひめい)にも似た驚きの声を背後に聞きながら廊下に出る。

 その後の事は見ても聞こえてもいないから、『SAY YES』がどうなったのか知らない。いつもはフッた相手を気にも留めないのに、ちょっと後味(あとあじ)が悪くて、『モテる先輩だから心配ないだろう』とか、『親衛隊は、そこそこ小奇麗な女子ばかりだから、先輩は、今まで通り上手(うま)く遣って行くさ』なんて、思いながら鳴り始めた始業チャイムの中、慌てて自分の教室に戻った。

 嘘でも彼氏がいると告げると、三人の先輩達は素直に身を退いてくれた。本当は、彼氏なんかいないけれど固定した男友達はいる。たった一人だけのメールのみの付き合いだけど、不特定多数じゃないから取り敢えず表面上は彼氏の代用になるだろう。あくまでも本人が知らない、本人へ知らせない秘密の代用だ。

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 冬の夜の訪(おとず)れは早い。びっしりと冬雲に敷(し)き詰められた鉛色の空は日没も分からないまま、あっと言う間に暗くなり夜の漆黒(しっこく)に覆(おお)われる。あいつがイブにどんな企てを考えていようとも夜に行動できないだろうと思い、すっかり辺りが暗くなった頃合(ころあい)を見計(みはか)らかってメールを返す。

【取り敢えずメリークリスマス! 私、あんたのクリスマスと全然関係したくないから。冬休みも、正月も、同じよ。あんたと全然関係無い。それと『明けましておめでとう』のメールは、寄越さなくていいからね】

 更に、あいつの想いを殺(そ)ごうと、私はメールを送る。

【それに、バレンタインディーのチョコは渡さないからね。義理(ぎり)チョコでもよ。私、今までに、お父さんとお爺(じい)ちゃん以外に、贈った男の人はいないから】

 まだ二ヶ月近くも先の来年の恋のイベントを、例え上辺上の行為でも、あいつに期待を持たせるような接点を、私は拒む。

 日中は、ずっと返信を躊躇(ためら)っていた。架空(かくう)の彼氏の対象にしたあいつのイブの思い出作りに、協力して既成(きせい)事実(じじつ)にすべきか、どうかと迷っていた。たぶん、あいつは建設的な計画を立てていて、それが、はにかみと緊張で私をリードできなくとも、あいつと二人きりで出掛ける初めてのデートは楽しい体験になるだろうと思う。だけど私は、あいつとの仲が進展するのを警戒していた。

 ビビリでヘタレなのは、あいつじゃなくて私の方だった。いつも確実な事など何も無いと考えて、確実になるように努力しなければならないと思っているのに、確かめもせずに自己中心的な想像だけで、あいつを拒むと決めた。

 私はあいつを信用できずに、ワザと暗くなるまで返信しなかった。

(先輩達のイブの誘いを悉く振って、あいつの想いまで弄び無碍にした私は、なんて酷いあいつの彼女なのだろう……)

 サプライズしていたイブのデートを拒絶される悲劇の主人公にあいつを仕立て上げ、私は拒絶する冷徹(れいてつ)な悪女を演(えん)じる。現実的じゃない私の身勝手な楽しさは、あいつが可哀想だと思わせてくれた。

     *

 元旦、言いつけを守り本当にあいつはメールを寄越さなかった。余程、私の機嫌(きげん)を損(そこ)ねたり、怒らせたりして嫌われたくないらしい。きっと、イブに苛めたからメゲてしまってイジケているのに決まっている。

(―たく、しょうがないなぁ~。あんたも日本人なら、私のメールを真に受けないで、正月の仕来(しきた)りと礼節(れいせつ)を重んじなさい。折角(せっかく)、メル友にしてあげたんだから、『明けまして、おめでとうございます』とか、『謹賀(きんが)新年(しんねん)』とか、送って来なさいよ)

 クリスマスイブの誘いを邪険(じゃけん)にした後ろめたさもあって、新年のサプライズを送信して遣る。

【迎春(げいしゅん)。今年は貴方(あなた)にとって最良の年でありますように。―私にとっても―。お互い高校受験に向けてがんばろう! 同じ高校へ、いっしょに行けるといいね】

 送信したメールを読み返して、歪(ゆが)む口許を意識しながら思う。

(まだ、私から離れて行かないでね。あんたは私のストレスの捌(は)け口だから、私の気が済むまで付き合いなさい)

     *

 二年生の最後になる終業式の日、帰り際に持ち帰り忘れが無いか、棚や掲示板や机周りを確認する。机の中も覗(のぞ)き込んで……。

(……ん?)

 奥の隅に寄せて、怪(あや)しい包(つつ)みが有った。

(……こんな物は知らない。私が入れたの物じゃない……?)

 さっき中を掃除した時には、こんな包み無かった。こんなのが入っていれば絶対に気が付いている。

(不審物(ふしんぶつ)だ!)

 耳を澄(す)ます。機械的や動物的な音はしない。

 鼻を向けて机の中の臭いを嗅ぐ。いつもの机の臭い以外の異臭(いしゅう)はしない。

 薄暗い机の中の包みは、僅かな動きも無く静止している。

(ビニールじゃなくて紙製……? 触れても、大丈夫そうね……)

 ガサガサッと、紙包みに触れると中に堅(かた)い小箱のような物が入っていた。大きさは私の携帯電話を七つ八つ重ねたくらい。

(誰が、入れたのだろう?)

 そっと机から出した包みは、どこかの店の袋なのだろうか? ロゴマークと一行の横文字がプリントされているだけて、他に紙袋のどこにも書き込まれたメッセージらしい文字や、貼り付けた紙片などの類(たぐい)は何も無かった。でもこの紙袋は、どこかで見たような気がする。もう一度、目を凝らして机の中を覗き込むけれど、添えた手紙も無く、紙袋を取り出した机の中は全くの空っぽだった。

(新たな告白のサプライズ? それとも私にフられた誰かさんの恨(うら)み節(ぶし)? 開いたらドッカーンと来てベチャベチャになったりして……。いやいや、もっと威力(いりょく)があって、危(あぶ)なかったりしてね……)

 そんなバラエティー番組のお約束みたい悪戯を想像する。でも有り得ない事じゃない! 軽く戦慄が背中を走り、薄情で酷いフリ方をして来た自覚が有る私は警戒した。

 陰湿な逆恨(さかうら)みで怪我(けが)をするのも、気持ち悪い変なのを浴びるのも嫌だ! だけど、コクられた全員…… お断りした皆さんに、異常人格者っぽい人はいなかった。それに、私は誠意を尽(つ)くしてお断りしているから、恨(うら)まれる覚えは全然無い。

 紙袋を恐る恐る開いて見ると、綺麗なパステルカラー柄(がら)の薄い布(ぬの)に小箱は包まれていた。

(こっ、この柄は……? たしか……)

 このパステルカラー柄の薄い布を、私は知っている……。

 この暖(あたた)か味(み)の有る淡(あわ)い色調柄の色違いを、私は持っている……。

 結びの無い包まれているだけの布を解くと、中には光沢(こうたく)の有る白い厚紙で、しっかりとできた小箱が入っていた。その小箱も見覚えが有った。家の屑(くず)入(い)れへ捨(す)てたのに良く似ている。

(それじゃあ、はたまた現在進行形で、もしかしてのお隣さん? でも、なんで?)

 年賀状や初詣(はつもうで)やバレンタインデーのチョコは、メールのテーマになる前に私から受け取るのを拒否った。だから当然、あいつはホワイトデーのクッキーなど、用意するはずが無い。

(それでなの?)

 横を見た。終礼を終えた後だったから即行(そっこう)で下校したのか、既にあいつは隣の座席にいないかった。それでも、まだ近くにいないかと視点を広角(こうかく)に移し、教室中を視界に入れて私はあいつを探す。

(いた!)

 あいつは友人連中といっしょにドアを開けて廊下へ出るところだった。あいつの笑う声も聞こえて来る。楽しそうに友達と話すあいつは、……その笑い顔の細めた眼が廊下に出てからも、視界から消え去るまで、ずっと私を見ていた……。

(……? あいつ?)

 明日からは二週間近くの春休みに入る。その間、帰宅部の私は学校に来る用事もないから、例え、あいつが美術部の部活で登校していても、新学年度の始業式までは、あいつを見る事はない。

(それで、……終業式の今日にしたわけ?)

 三年生でのクラス分けは、成績アベレージの均等や生徒の素行(そこう)と人間関係、それに仲良しグループの分解などが考慮されて決められる。まさか、先生達にあいつとペアだと思われていないだろうけれど、いっしょのクラスになるとは限らない。別々なクラスになれば、近くにあいつの気配を感じたのも、今日を限りとなってしまう。そう考えると少し寂しくなった。

 持ち帰り忘れがないか確認しているフリをしながら教室に誰もいなくなるのを待った。教室に私だけになると紙袋からゆっくりと箱を取り出して慎重に蓋(ふた)を開けて行く。変な臭いはしない……。テグスの透明糸や赤や青のコードも見えない。機械的な音や動物的な動きも聞こえない。

 安全を確認してから蓋の上箱を除(の)けると、シュレッターに掛けた紙の裁断片みたいな緩衝材(かんしょうざい)に包まれて、ミニチュアの置物が入っていた。

(えっー! こっ、これは……!)

 そのミニチュアには、見覚えが有って凄く驚いた。

 それは、ただ実物を小さくしたようなミニチュアではなくて、街並みをレリーフしたレター挿(さ)しだった。挿し方を工夫(くふう)すれば写真立てに使えるかなと、考えていた……。

(そうだ! ローマの店で、見ていた物だ!)

 今月の初めは、家族と一週間のイタリアツアーに行っていた。

 初めて行った外国で期待と不安と感激の毎日だった。クラスメイトは固(もと)より、あいつにも知らせずに、学校へは親戚(しんせき)の法事で休ませると、母が口実(こうじつ)の連絡をして、イタリアの観光旅行に家族四人全員で行って来た。

『一週間も休む法事なんて、どこの地方の風習(ふうしゅう)よ』

 重い病気じゃなく、登校拒否や素行不良でもないのに、長く休むってどうよと、母にツッコミを入れて遣った。

『休むのはウィークデーの五日間だけよ。それに義務教育なんて一年間休んでも、最低学力さえ満(み)たせば? 進級できるし、卒業だってできるのよ。あらっ、学力は無視で、とにかく三年間全部休んでも卒業させるのだったかしら? まあ、理由がいるでしょうけど』

 当然の如くのように悪びれも無く、あっさりと、言い返された。

 なんて、母親らしくない扇動(せんどう)的で適当な事をいうのだろうと考えてしまう。母の言い分が本当かどうか分からないけれど、実際はそんなものかも知れない。殆ど学校に来ない不登校の生徒でも卒業していると噂(うわさ)を聞いた事が有る。だけど母の言う通り、それなりの理由は必要だと思う。

 このレター挿しを見た店はローマのスペイン広場の脇に在って、お姉ちゃんといっしょに入った。

 ツアーの四日目の自由行動の日、オフシーズンで観光客が少ないスペイン広場を、ジェラードを食べようと移動アイスクリーム屋を探している時に、ショーウインドーの飾(かざ)り付けが可愛いくて入った店で見付けた。店内に入って直ぐに、『これと、これも見せて』と、店員さんにベネチアグラスのペーパーウエイトとレター挿しを指差して言ったら、手に取って見せて貰えた。

 レッド、オレンジ、イエローのとても細かいガラス細工(ざいく)の花がキュートに丸く集まったデザインのクリスタルウエイト。それと、棚(だな)に五つほど並んだ中から選んだ一番明るい発色で目を引いたレリーフのレター挿し、裏の接地面に大きな掻(か)き傷(きず)が斜めに入っていたのを覚えている。

 両方とも買いたくて二、三分迷ったけれど、既に財布の中身が心細くなっていた事もあって結局、レター挿しは諦めた。……だのに、それがここ、私が通う日本の中学校の教室で、今、自分の手に持って見ている。

(ああっ、そんな……! あいつ……)

 裏面を見て、私は言葉を失(うしな)った。そこには斜めに大きな傷が付いていた……。

(同じ引っ掻き傷が…… 有る!)

 息が詰まった! 目頭が熱くなって視界が少し滲(にじ)んだ。

 ローマで手に持って見ていた諦めた品を、私はまた、手にしている……。

 イタリアに着いた当日、ツアーコースで行った山間(やまあい)の美しい湖の畔(ほとり)の街、コモであいつを見た。

 別のツアーグループの観光バスからあいつが降りて来た時には、あいつの眼前に迫って周りをぐるぐると回りながらジロジロと確かめてから、『あんたぁ、なんで、ここにいんのよ?』って、胸倉掴んで詰問(きつもん)して遣りたい衝動に駆られたほど、びっくりして我が目を疑った。

 まさか、私を追い掛けて来たわけじゃないと思ったけれど、落ち着いた北イタリアの街並みの中に、あいつがいて、私の目に映るのが信じられない。ふと、運命と赤い糸の二つの言葉が心に浮かんだけれど、直ぐに手袋をした拳(こぶし)で額(ひたい)を叩いて思考の中から強制排除して遣った。

 あいつには、気付かれないように、見られないように、体ごと向きを逸(そ)らして知らないフリをした。やがて、あいつも私に気付いたようだけど、私はコモ湖から離れるまで、あいつに気が付かないフリをして、あいつと目を合わす事も顔を向ける事もしなかった。だからあいつは、私が気付いていた事を今も知らないと思う。

 それっきり、イタリアツアーの間に再びあいつと出逢う事はなかった。……ううん、違う。出逢っていないと私は思っていた。故にコモ湖での遭遇は、お互いの行動の稀(まれ)に見る偶然の一致で、運命とか、赤い糸とか、全然関係無いと考えていた。

 ……それなのにレター挿しの傷を見て、これってやっぱり、デスティニーかも知れないと思い掛けた。でも、例え、万が一にそうだとしても、今はそう思いたくないし、否定思考で力の限り抗いたい。

(見られていた! あいつは見ていたんだ……。私が迷った末(すえ)に諦めたのを……)

 その時の場面を思い出す。そして映画やドラマの中で見た、記憶を呼び出し過去の状況や状態をチェックするシーンのように、店の中での自分の行動をトレースする。

 広場から見た店構(みせがま)えに、中の雰囲気と臭い、目に留(と)まる綺麗に陳列(ちんれつ)された品々、店員さんの表情と声、手に持ち回転させて眺めるミニチュアとクリスタルガラス、青空がイメージされた明るい色遣(いろづか)いとキラキラと透明で鮮(あざ)やかな光りの反射、お姉ちゃんの困(こま)った顔に閊(つっ)かえる英語の発音、白人客の大きな後ろ姿と擦(す)れ違うと香る風に成る空気、そして、はしゃぐ私の声。

 店の中には、他にも数人の先客がいたけれど、東洋人はいなかった。私の其(そ)の記憶が確かだとすると、あいつは店の窓ガラス越しに表の通りから私を見ていたのだ。

(凄い!)

 素直に凄いと思った。この重力に丸められた広大な世界で、無限ほども有る視界の届く限りの狭い範囲の一つの更にピンポイントの座標(ざひょう)で、時間と空間を重ねていたなんて……。しかも出逢う確率が日本より遥(はる)かに少なくて、それも、殆ど無いに等(ひと)しい地球の裏側で、互いの人生が交差するなんて、本当に奇跡(きせき)みたいなもので、なんと素敵で素晴らしい事だと思う。

 それに、包まれていた薄い布はコモシルクのスカーフだ。あの日、コモ湖でアウトレットへ行ったお姉ちゃんと、お母さんと、お父さんが選んで、私へ買って来てくれたのは、淡いパープルとイエローにライトブルーを散(ち)らしたペーズリー柄のスカーフだった。

 お姉ちゃんの見立てが選ばれてプレゼントされたのは嬉しいんだけど、色調が真冬に寒々(さむざむ)しいかもって思っていたところに、この淡いピンクとイエローに明るいグリーンを小さく散らした暖かそうな色違いのスカーフが、あいつから贈られた。

(こういう偶然も、ロマンチックに有りなのかな?)

【ありがとう! 貰って良いの? 世界って、意外と狭いよね】

 とにかく、お礼を送る。諦めた品物をプレゼントされるのは、凄く嬉しい。

 レター挿しとスカーフをお姉ちゃんに見られたら、いろいろと詮索(せんさく)されそうだけど全然構わない。それよりも、こんな凄くて楽しい事は、ちゃんとお姉ちゃんに話さなければいけないと思う。

【そうかも。でも、けっこう遠い場所だったな】

 私も、そう思う。十二時間以上も飛行機を乗り継(つ)いで行くくらいだから確かに遠い。地球の裏側まで後少(あとすこ)しで行けそうな気がしていた。

(だから尚更(なおさら)、凄い事なんだぞ。こいつ、本当に凄いミラクルな事だと、ちゃんと分ってんのかな?)

 お互いが同じ期間に家族と旅行に行く事も、相手の旅行先も周遊スケジュールも知らなくて、自分で決めたのは参加とオプションツアーの一部だけの、事前の接点なんて、全然なかった事なのに……。

(鈍(にぶ)いんか? こいつは!……それとも、ワザと鈍いフリを……)

 ちょっと残念な、あいつの回答メールに私は奥深い意味を見出せず、返信はしなかった。でも、新年度になったら私もお返しに、ミラノで買ったミニチュアのサーベルみたいなペーパーナイフを、彼の靴箱に入れておこうかと思う。

 

 ---つづく