遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

メール (私 中学二年生) 桜の匂い 第三章 弐

 『VINO・BLANCO』
(また、知らないメールアドレスだ。ビーノ・ブランコ…? スペイン産の白ワイン? 変なの!)
 最近、知らないアドレスからのメールが多い…。
 今朝(けさ)、空(から)になったワインボトルを見ていた。
 朝食を食べ終わり汚(よご)れた食器をキッチンのシンクに置いた時に、飲み終わった二つのワイングラスと空のボトルが目に入った。それは、お父(とう)さんが箱買いしたワインで、毎晩、お母(かあ)さんと二人で飲んでいる。そのワインボトルに貼(は)られたラベルの印刷された文字のスペルが、着信したばかりの知らないアドレスと同じだった。
 去年、中学生になったばかりの時に、『あなたも、これから何かと必要でしょう』と、お母さんが携帯電話を買ってくれた。
 中学一年生からは、クラスメイトの殆(ほとん)どが携帯電話を持(も)っていた。
 お姉(ねえ)ちゃんも、中学校の入学時に持たされていて、私は、とても羨(うらや)ましくて、それまでは良く弄(いじ)らせて貰(もら)っていた。
 大容量でパワフルな林檎(りんご)マークの平(へら)べったい大画面の最新スマートフォンは、お母さんに何軒も携帯電話ショップを廻(めぐ)って自分で選んだ、お気に入りのモバイル端末(たんまつ)だ。
 私は凄(すご)く嬉(うれ)しくて、クラスの女の子達に電話番号やメールアドレスを交換(こうかん)して貰った。
 あの嬉しさの勢(いきお)いが有った時以外に、私は、誰(だれ)にもメールアドレスを教えていない。
     *
 校則(こうそく)では、学校に携帯電話の持ち込み使用を禁止している。でも、大半の生徒は、こっそりと持ち込んでメールを打つ。
 当然、持ち物検査では激(はげ)しいブーイングの嵐(あらし)の中で、先生に没収(ぼっしゅう)されていった。
 そんな或(あ)る日、先生による生徒一人一人のボディチェックと、鞄(かばん)や机の中やロッカー内の徹底(てってい)した検査が終わる頃(ころ)、没収されて教卓(きょうたく)の上に置かれた携帯電話が、次々と鳴り出した。
 短(みじか)いコールが、鳴っては消えていく。
 短いコールは、全(すべ)て、メールの着信を知らせていた。
 生徒達は持ち物検査が始まると、あらかじめ用意していたメールを発信してから、マナーモードをオフにする。
 着信するメールは、親達からだ。リアルタイムで我(わ)が子と連絡を取りたい親は多い。
 一連のメールの着信音が鳴り止(や)み、先生は授業を始めた。
 暫(しばら)くすると、また携帯電話が鳴り始める。
 今度のコールは、鳴り止まない。それは電話の着信で、相手が出るまで鳴り止まない。
 子と親、子同士、親同士が結託(けったく)して連絡網を張り巡(めぐ)らしていた。
 緊急時の連絡に、タイムロスは避(さ)けたい。
 学校へ連絡して先生に取り次(つ)いで貰い、事情を説明し電話口に子供を呼び出してから、やっと、用件を伝えられるのは、面倒(めんどう)で、じれったくて、イライラする。
 子供にしても、職員室まで行って親と電話するのは、多少なりに抵抗(ていこう)が有った。
 子供に携帯電話を持たせれば、取り次いでもらう手間(てま)を省(はぶ)いて直接連絡ができるし、プライバシーが守られる。
 最低限の文章構成の力量は必要だが、メールなら、より確実に用件が伝わって安心だろう。
 それよりも、事件や事故に遭遇(そうぐう)した子供からのヘルプやエマージェンシーコールと、常にオープンにされているGPSで、親は状況と位置の情報を得(え)て、子供の安全を確保する緊急対応に備(そな)えたい。
 例(たと)え学校内にいて授業中でも、突発的な不慮(ふりょ)の事態は発生するから、親の気持ちとしては当然だ。
 教卓上に並べられた携帯電話の多くが、受着信を告(つ)げるLEDパイロット灯の点滅(てんめつ)する輝(かがや)きとメインやサブ画面を発光させながら、メロディーやソングを奏(かな)でて歌う。
 先生は鳴り止まない携帯電話を無視できず、みんなに着信を受けるよう促(うなが)した。
 電話に出た生徒の一人が携帯電話を先生に渡(わた)し、躊躇(ためら)う先生に話してくれるようにお願いした。
 メールの返信ができず、電話に出られない理由は幾(いく)つも有る。
 テスト中や何かの回答中や発表中とか、体育授業のプレー中やスイミング中でも出られないし、音楽の授業での演奏中や合唱中、それに、静かに拝聴していなければいけない全体集会もそうだろう。
 不安顔の先生が、おどおどしながら話ている電話の相手は、生徒の母親だった。
 電話向こうの見えない相手に、頭を下げたり、頷(うなず)いたりを繰り返す、先生の受け答えのようすから一方的な会話のようで、聞こえてくる会話から、相手は直(す)ぐにでも、学校に乗り込んで来る勢いみたいだ。
 電話に出た生徒達は、みんなニヤニヤして、先生の電話の遣(や)り取りを聞いている。
 謝(あやま)り、宥(なだ)める言葉を繰(く)り返して先生は電話を切り、没収した携帯電話を生徒達に返した。
 先生は、……説得(せっとく)され? 脅(おど)かされて……? 結局、相手の話す勢いに負(ま)けてしまった。
 このようなトラブルは、クラスや学年を問(と)わずに発生し、先生や学校側と父兄の対談が何度も行われ、PTA総会のテーマにも取り上げられた。しかし、所詮(しょせん)は義務教育の学校や先生達に、徹底した強制力は無い。
 教育カリキュラムを妨(さまた)げ、教育委員会レベルまでに発展させる問題ではなかった。
 それ以来、授業の進行に支障(ししょう)にならない限り、マナーモードでの使用が暗黙(あんもく)の了解となった。
 故(ゆえ)に、みんなは机の陰(かげ)でコソコソとタッチパネルを操作している。
     *
『ビーノ・ブランコ』、それは、私の携帯電話に登録されていないメールアドレスだった。
【好きです。貴女(あなた)は、桜色(さくらいろ)が、とても似合(にあ)って、春風の中で輝いていました。貴女からは、桜の香(かお)りがするようでした。でも、とても、眠(ねむ)そうに見えました】
 朝の登校時に突然、そのメールは来た。
 ポケットの中のマナーモードにしていた携帯電話が、いきなり、プルプル震(ふる)えて、飛び上がりそうなくらいびっくりした。
(……『輝いていました』って、過去形かよ! 香りって、それ、身体の匂(にお)いなの? スメルマニア? それに、『眠そう』ってなによ! 何見ているのよ! 誰? こいつ!)
 見られている!
 私は誰かに、……観察されている!
(寝ている私……、桜咲(さ)く季節……、私の様子を知っている? 麗(うら)らかな春の陽気(ようき)に、微睡(まどろ)む私を見ていたんだ。……以前のクラスメート? ……誰よ?)
 好きな言葉が連(つら)なる、そのメールを何度も読み返した。
(……桜の香り……、私からするの? 私の匂い?)
 私の気持ちを擽(くすぐ)る文字が気になる。
【私は、過去形? 私は、眠そうにボーっとしているの? 私が臭(くさ)い? あんた誰? イスパニアの白ワイン】
 名無しで失礼なメールは、無視しようかと考えたけれど、私を観察していた相手が誰か気になって、夕方にメールを返した。
 一年生の七月に三人、十二月には五人から、告白や、お付き合いをお願いされ、上級生の二年生や卒業間近(まぢか)の三年生からも申(もう)し込(こ)まれた。
 下駄箱(げたばこ)の中へ置かれた手紙や、直接に面と向き合っての言葉で告白され、、同級生からは電話とメールでもされた。
 申し出は、暑い夏休みや聖夜と年末年始の冬休み、そして、フリーダムな春休みの前に集中しているから当然、イベントと休みの期間をいっしょに遊んで過(す)ごしたいって意味を含(ふく)めてるのでしょう。
 どれもが、私を可愛(かわい)いとか、綺麗(きれい)だとか、素敵(すてき)だとかの理由で、好きになったと書かれていたし伝えられた。
 だけど、私は、自分の容姿に褒(ほ)め称(たた)えられるだけの、意義(いぎ)や価値を見出すことができない。
(そりゃ、見苦(みぐる)しくないように、鏡を見て、髪を梳(と)き、産毛(うぶげ)を剃(そ)り、人並みに体裁(ていさい)は整(ととの)えるけれどね)
 誰だって寝起きのままで、学校や職場へ行かないと思う。
 毎日、顔を洗(あら)って、歯を磨(みが)く以外にする、自分の手入れはそれだけ。
 自分の外見なんかに興味が無くて、ほとんど無関心だった。
 容姿を褒められて、悪い気はしない。
 でも、私は、嬉しいとは思わず、はっきり言って、どうでも良かった。
『ごめんなさい。お断(ことわ)りします』
 私は、全て即答(そくとう)する。
(私のどこが、綺麗なのですか? 私は、どんなふうに可愛いのですか? 私の何が、素敵なのですか?)
 返答は、誰も彼もが、私の上辺(うわべ)しか見ていなかった。
『今、付き合っている人や、好きな人がいるのですか?』
 断っても、誰も納得しない。
 断られても、決まって訊(き)いてくる。
『いません!』
 私は、はっきり否定(ひてい)する。
(『いる』と、言ったほうが良いのだろうか?)
『お友達から、始めてくれませんか?』
 殆どが、そう返って来る。
(お友達ってどんなのよ? いっしょに、歩いたり、話したりするのが、嫌(いや)だから、断っているのに!)
『いやです!』
 曖昧(あいまい)には、答えない。
 謝りはしない。
 再度、いや、何度でも、はっきりと強く断っていた。
 暫くして、マナーモードを解除(かいじょ)していた携帯電話が、メロディーを奏でながら震えて、メールの着信を知らせる。
 『名無し』からのメールだ。
【突然メールを送って、ごめんなさい。麗らかな春の光りや、風や、匂いと桜が、貴女に溶け込むように似合っていました。それは、いつも、僕が、貴女を慕(した)う時に想(おも)うイメージです。優しい貴女が、大好きです】
 謝りの言葉と、言(い)い訳(わけ)めいた文を、綴ったのが届いた。
 だけど、送り主の名前は無くて、『名無し』が、誰なのか分らない。
(無記名(むきめい)で、よく送ってくるよ。こいつは!)
 また、擽る文字が並んでいて、私をイラつかす。
(私が、優しいだってぇ~? こいつ、ムカつくう! 一方的に私を刺激して、卑怯(ひきょう)な奴(やつ)!)
【なぜ、私を好きなわけ? 優しいから? 眠そうだから? 匂うほど、春眠(しゅんみん)が似合っているから?】
 メールには書かれていない、私を好きになった理由を訊いてみる。
【春眠が、似合うのも、眠そうなのも、可愛いと思います】
(微睡む私のアホ顔が、可愛いと、来たですか……)
 変わった外観重視をしてくれる。
 もしかして、変態野朗(へんたいやろう)かも知れない。それに、小学四年生からの金沢市での生活で、優しさを見せるほど、親しく男子に接(せっ)した覚(おぼ)えは、まだ無い。
【どうして、私が、優しいと知ってるの? 優しくなかったら、嫌いなわけなの?】
 直接話した男子は、片手(かたて)で数えるほどだけど、優しさや、素直(すなお)さは見せていないはずだ。
(やはり、私を観察してたんだ……。ちょっと、キモイかも)
【貴女は優しいと、僕は信じています。でも、優しくなくても、僕は貴女が大好きです。何か理由がないと、好きになってはいけないのですか? 好きなるのに、理由が必要なのでしょうか? なら……、貴女だから、好きです】
(……『私が好き』を、幾つも、返信して来遣(きや)がった)
 確かに、恋(こい)は盲目(もうもく)になって、相手の良し悪しなどは関係無くなると、漫画か、ライトノベルで読んでいた。
 経験の無い私も、そう思っているけれど、ここで、メールを終わらせるわけにはいかない。
【それで、好きだから、どうなの?】
(あっ、返信に、テレが入ってしまったぁ! くそぉー)
 卑怯な奴のメールにテレた恥(は)ずかしさは、私をリベンジへと掻(か)き立てる。
 こいつを言葉で散々遊んで、最後は徹底的に責めて、辱(はずか)しめて、蔑(さげす)んで遣りたい。
【貴女を見かける度(たび)に、心がときめきます。そして、胸が苦しくなって、切(せつ)ない気持ちになります。僕は、貴女が好きなのです。だから、告白しました。本当に大好きです】
(あんたが、私を好きなのは分かったから、だからどうなのよ?)
 私が訊いたのに、暈(ぼ)かされた返信をされて、何か遊ばれている気がした。
(こいつ、ワザと惚(とぼ)けている……?)
【好きだけで終わり? 続きは? 何がしたいの?】
(どうせ、こいつも、スケベな事をしたいのに決まっている)
 十四歳、思春期の極(きわ)め初め。
 男の子も、女の子も、誰もが、異性に興味を持つ。
【貴女と並(なら)んで歩きたい。笑顔の貴女といっしょに、楽しく話しながら通学したいです】
 期待に反して、厭らしい言葉は綴(つづ)られていない。
(ふう~ん、悪くないかも)
 私はいつも、一人で通学している。
 こいつは、きっと、同じ小学校の卒業生で、同じ通学路なのだと思う。
 たぶん、私の近くを歩いているのだろう。
 けれど、それは、いっしょに歩いているとは言わない。
 こいつも、そう思うから、こんなメールを寄こすのだ。
 こいつは、私の真横を歩きたいと言っている。
 毎日、同じ風景の中を行き帰りするけれど、全く同じ日は無くて、毎日が違うと思う。
 雨の日、風の日、雷鳴(らいめい)の日、雪の日、晴れ渡る日、暗くずっしりと重い曇りの日、明るくて軽い曇りの日、様々な雲の層の日、空だけでも、これだけ違う。
 一度だけ、雲一つ無い青空の真ん中に稲妻(いなずま)が走る、『晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)』のを見た。
 これらの天候は、更(さら)に、細分化されて季節の光りや温度や湿度で、もっと、もっと、細かく微妙に違う。
 同じような雨でも、昨日(きのう)の雨と今日の雨は違う。
 限り無く同心円(どうしんえん)に近い毎日でも、世界は緻密(ちみつ)で刻一刻(こくいっこく)と確実に変化して、留(とど)まらない時間に、同じ場面は無い等しいと感じている。
 私の周りの人達や眼に映(うつ)る出来事や聞こえてくる音、吸い込む匂いも、全てが同じようであっても違う。
 一人で歩いていても、私は、無限(むげん)の違いを感じて楽しい。
 それでも、違いを掻きまわして、私の日々を更に違わしてくれる、いっしょに歩く人がいれば、もっと、楽しいかも知れない。
【いっしょに並んで歩くの? 私と話しをして楽しいの? それで何?】
 私の真横を、並んで歩くのは、受け入られるかも知れない。
 でも、女の人が男の人と腕を組んだり、凭(もた)れ掛かるように寄り添(そ)って歩くのは、まだ、理解できなかった。
 ちょっと、それは煩(わずら)わしいかも……。
(それは、ちょっと、気持ち悪いかな……)
【もちろん! 凄く楽しいと思います。貴女と手を繋(つな)いで歩きます】
 小さい頃から、男の子と手を繋いだ事が無かった。
(……無理矢理、掴(つか)まれた事は有ったけどぉ)
 近所の男の子には、苛(いじ)められていただけで、仲良く遊んだ事など一度も無い。
 小学校でも、中学校でも、これまで、男子と親しくした事はなかった。
 だけど、こうして、堂々と文字にされて求められると、私が想像する、男子と手を繋いで歩く姿と状況に、多少の抵抗は有るものの、そうなっても、悪くないかなと思ってしまう。
(まあ、手を繋いで歩くくらいは、今は…… 許(ゆる)せるかな)
【手を繋いで、それから?】
 こいつは、いっしょに遊びたいとか、デートして映画を観ようとは、打って来ない。
 でも、私には、……触(ふ)れたがっている。
(さあて、どこまで私に、スキンシップを求めてくるかな? こいつは!)
【優(やさ)しく抱(だ)き締(し)めたい。そして、ギュッと、息が詰(つ)まるほど、強く抱き締めて上げたい】
 ドキッとした。
 顔も知らない男の子に、私が抱き締められる場面を想像する。
 背筋が小刻(こきざ)みにプルプル震えて、胸が小さくキュンと鳴った。
 携帯画面の文字が、暈やけていく。
 映画やアニメや漫画で、感動のあまりに我(われ)を忘れて、勢いで強く抱きついてしまう場面を見た。
 そこへ至(いた)る経緯(いきさつ)は、経験の無さから良く分からないけれど、そんな、感動のシチュエーションが私にも有るかなと思いながら見入っていた。
 胸がキュンと鳴った瞬間、それらのシーンが、スライドショーを見るように次々と、暈やけた視界に広がった。
【抱き締めてから?】
 ワザと素っ気(そっけ)無い文字の組み合わせで返す。
 私の動揺を悟(さと)られたくない。
(私から抱きに行く、そんな、展開も有るかも……)
 そう思ったら、急(きゅう)に凄く恥ずかしくなった。
(やだ! 誰だか分からない相手が打った、電子メールの文字なんかで、動揺しているなんて……、どうかしてるわ。何考えてんのよ…… バカみたい!)
 勝手に相手を、都合(つごう)の良いイメージにしている自分に苛立(いらだ)つ。
(こいつは、名前も名乗らなくて、どこのどいつか分からない、卑怯で、卑劣(ひれつ)な奴なのよ!)
【君と、キスがしたい】
(あいたぁ!)
 バクッと、胸に噛み付かれた感じがして、痛かった!
 『君』の文字で増した苛立ちが、『キス』の文字に、ドキドキして焦(あせ)りに変わる。
(もう、タメ呼びかよ。この名無しは……)
 図々しくも、私の敬称が、敬(うやま)いの貴女から君へと対等になっていた。
(キスって……、ふつう、ストレートに持って来るかなぁ……)
 次の展開が読めそうで、焦りはムカつきになった。
【ふーん。私と、キスがしたいの? そして?】
(こいつ、虫歯が有るかな? ……んん! あーっ、違うって! ないない! こいつと、キスするわけないじゃん! ほんと、ムカつくわ!)
 酷(ひど)い虫歯が有ると、厭(いや)な口臭がするのを知っていた。
 口臭の臭いが、違う。
 そんな人とは、ちょっち離れて話し、風下の位置にならないよう、気を付けている。
 抱き締められてキスをする、ムード有るシチュエーションを想像する私は、想像の中で、私の唇(くちびる)に迫(せま)る相手の口から発する口臭を理由に、キスを拒(こば)んでしまう……。
 でもそれは、焦る自分へのムカつきや酷い虫歯の口臭の怯(ひる)む話しも、私のキスに対するテレからだと分かっている。
 本当は、日常的な世界観や、異性との距離感や、自分の生理的な感覚が変わるかも知れないと、憧(あこが)れに似たキスへの興味が有った。
 それと、キスをするに至る、私の気持ちの変化や、状況の経緯にも……。
 返しで来る文面が、エッチをしたいとかの、厭らしい内容だったら、変態や変質者呼ばわりしてやろうと思った。
(そんなのだったら…… メールを公開して辱しめて、奈落(ならく)の底へ落とし込んでやる! 絶対、誰なのか突き止(と)めて、二度と、私にメールできないように、激しく罵(ののし)ってやる!)
 回答は、来なかった。
 暫くしても、メールの着信は無くて、送ったメールが届いているのか、どうかも分からなくて、私を不安にさせる。
(直ぐに、返信して来てたのに…… この間(ま)は、ワザとなの? なんで、溜(た)めを持たせているわけ? 厭らしい奴!)
 いつ、着信するのか、送られて来るのか、届いているのか、全然、分からなくて、苛立ちと焦りと不安を混ぜ合わせた、強い憤(いきどお)りが渦巻(うずま)いて、私は、嘗(かつ)て無いほど凄くイライラする。
 晩御飯を上の空で掻き込んで、テレビも見ずに急(いそ)いで部屋へ行って、机に向かい、参考書を広げるけれど、勉強など手に着かない。
 立ち上がって、壁のハンガーに掛けた制服のポケットから、携帯電話を取り出して画面を開く。
 メールの着信を示すアイコンの点滅やメッセージは、画面に出ていなかった。
 落ち着かない私は、送信したメールが相手に届いていないと判断して、指先を画面パネルに素早くタッチさせて再送操作をする。
 再送準備が終わって、送信アイコンに触れようとした時に、握(にぎ)っていた携帯電話が震え、くぐもったメロディーが掌(てのひら)で塞(ふさ)がれたスピーカーから聞こえた。
【君は、何をして欲しいの?】
 着信した『名無し』のメールを開いた私は、髪の毛が逆立つ思いだった。
 全身の毛を逆立たせて威嚇(いかく)を噴(ふ)く猫のように、苛立(いらだ)つ私は唸(うな)っていた。
 更なる展開、行き着く文面と想像、それを求めていたのは、私の方だった。
(こいつは、私を試(ため)していた……? 返されるメール内容は、予想されていて、この局面になるのを読まれていた? この逆展開も、織り込み済みだったの?)
 からかって恥を曝(さら)してやろうと、嘗(な)めて掛かった見知らぬ計算高い相手に、逆に嵌(は)められて辱しめられたと感じた。
(悔(くや)しい!)
 私は、メール画面を閉じて、携帯電話を机の上に置いた。
 とても、メールを返す気にはならない。
 得体の知れない不安が、返信をできなくさせてしまった。
 私は、誰だか分からない、名無しのメール相手を恐(おそ)れている。
(誰だ、こいつは? 納得がいかない…… 必(かなら)ず、誰なのか見付けてやる!)
 一度っ切りで会って、はっきり、断ると良いのかも知れない。
 物事を素直に受け入れられない捻(ひね)くれた私の性格の悪さが、『名無し』への報復(ほうふく)へと駆(か)り立てる。
 この初動の対応と判断と拘(こだわ)りが先々まで、ずっと、しこりになると思った。
 だけど今は、そうせざるを得ない。
 一瞬の予感は、憤りに掻き消されてしまう。
 私の外見は、冷静そうな無口で大人しく、優しげに見えても、内面の葛藤(かっとう)や荒(あら)ぶった感情が、行動や態度や言葉に現れてしまい、これまでに何度も、失敗や後悔をしていた。
 それなのに、今回も『名無し』を見付け出し、軽く落とし前をつけてしまえば、不快な気持ちは速(すみ)やかに終わりになると、私は浅はかに考えていた。
     *
「お早う!」
 気持ちが軽(かろ)やいだ弾(はず)みで、あいつに挨拶をしてしまった。
 しかも、顔の筋肉を弛緩(しかん)させて……。
 無警戒に気が緩(ゆる)んだ、自分を後悔した。
「おっ、おう、おはよう……」
(ほーら、親しげに挨拶(あいさつ)を返してきた。まっ、常識的な御挨拶だから、誤解しないでね。自分勝手な単なる弾みだったんだから。近しくするつもりは無いの。これから、『名無し』に遣り返さすんだから、それどころじゃないのよ)
 驚いて明るくなった顔のあいつに、言い聞かせるように思いながら、首を傾(かたむ)けて笑顔のまま、挨拶を受ける。
 余程、私の突然の挨拶に驚いたのか、あいつの吐(は)き出す息に乗せた声は、弾んで異常に高く聞こえた。
 あいつの顔に、初めて交(か)わした挨拶で、恥ずかしさと照れ臭さが現れ、伏せ目勝ちに目が泳(およ)ぎ、頬と、額と、耳が、紅(あか)くなった。
 次に嬉しさで、目許(めもと)と口許(くちもと)が緩み、それから、不意に顔を上げ、驚きで見開かれた瞳で私を見て、現れる表情の変化や、変わる順序の不思議さと、面白さに見入っていた私と、目が合ってしまった。
 そして、私に見られていたのに、居(い)た堪(たま)れなくなったのか、そそくさと、あいつは教室を出て行ってしまった。
 二年前の春の日に私の爪を見て、『四角い爪』と、言い放ち、コンプレックスを私に抱かせ、暗い気分にさせたあいつと、再び、同じクラスになった。
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 新学年の初日の朝、指定されていた席に座り、麗らかな春の陽射しと風を浴びて、心地良くしていると、あいつが、教室に入って来た。
(あーあ、また、あいつと……、同じクラスかぁ……)
 教室に入るなり、私に気付いたあいつは動きを停めて固まり、半(なか)ば口を開いた驚いた顔で私を見続けていた。
 その見開いた目から、サクサク私に刺さる好奇心の視線を感じながら、私はプイッと、窓の外の明るく麗らかな世界へ顔を向けて、あいつを無視していた。
 気分は、ブルーだ。
 音楽の授業で歌えずに大恥を掻いていた、あいつの美術の作品は、校内の賞を何度も取って、其の度に廊下の大きな掲示板に展示されていた。
 『四角い爪』の件で、避けるべき相手だったけれど、あいつの作風が好(この)みで、私は良く観ていた。
 『四角い爪』発言で、不快感を与えてくれた、あいつと話したくない私は、学校のイベントや集会では、なるべく、あいつから離れ、あいつが近付きそうになると移動して避けていた。
 一度、あいつが作品を観ていた私へ、近寄ろうとしているのに気付いて、其の場を離れたら、あいつは走って追い掛けて来て、不安になった私は、ささっと、トイレに隠れて逃(のが)れていた。
 あいつは席決めの抽選で私の真横の席になったけれど、私に避けられているのを知っているのか、私へ言い放った『四角い爪』を意識しているのか、いつも、無言で私と一度も会話どころか挨拶もしなかった。
 だから……、いや、……私も意識して、あいつを無視して無言を通していた。
 いっしょのクラスの間は、ずっと、そうしていよう思っていたのに、私の高揚(こうよう)した気持ちが、あいつに挨拶させてしまった。
 隣の席を離れて行くあいつを、視界の隅(すみ)に意識しながら、手の中の携帯メールを、再(ふたた)び見た。
 その画面に表示されている、まだ、閉じていない送信したばかりのメール文が、あいつに、『お早う』と明るく声を掛けてしまった原因だった。
 メールを送信した丁度その時にあいつが真横の自分の席に来た。
 送信メールは、送信先である『名無し』の望(のぞ)みを悉(ことごと)く拒否し、そして、『名無し』が誰なのか探(さぐ)る企(たくら)みを秘めた文面だった。
【あんたが、誰だか、わからないけれど、キスされるのは嫌よ! 抱き締められるのもいや! 手を繋いで、並んで歩くのもダメ! いやよ! それと、電話は絶対ダメよ! 絶対しないで! 声は聞きたくないわ。誰とも、話したくないの。話すのは、鬱陶(うっとう)しいし、面倒臭いから……。ときどきなら、メールだけは、我慢してあげる】
 これで、オフで会う事は無くなり、電話もして来ないだろう。
(メールには、メールで、決着をつけてやる!)
 文字を打ち込みながら、『名無し』の望みは拒否だけど、メール交換だけは許す文面を読む、『名無し』の心境や反応を想像する楽しさと、今後の展開に期待している自分が可笑(おか)しくて、きっと、口許が緩んで顔が笑っていたと思う。
 上擦(うわず)った気持ちになってしまい、思わず、笑窪(えくぼ)も作っていたに違いない。
 そのタイミングで、あいつが机の上にカバンを置いた。
 私は、軽い気持ちで悪戯(いたずら)な遊びをするような楽しい思いを、誰かに伝えて、いっしょにはしゃぎたかったのかも知れない。
 だから、明るく弾んだ声で、あいつに挨拶をしてしまった。
(あいつは何故(なぜ)、あんなに嬉しそうな顔をして、ハスキーな声だったのだろう?)
 着信の画面を開いて俯(うつむ)いた、あいつの顔と、教室から出て行く姿が重(かさ)なる。
(もしかして、あいつが、『名無し』だったら……)
 日頃は、私に関心が無さそうなのに、今の、あいつの態度が挙動不審に思えた。
(あの反応は、なに?……でも、そんなはず無いじゃん! 真横の席だよ。……ふつう、気が付くでしょう……? あいつは違うでしょ)
 一瞬過(よ)ぎった思いを、私は振(ふ)り払う。
     *
 また、隣の机の奴の美術の作品が、廊下に展示された。
 脇に金色のリボンを添えられた、鉛筆デッサン画は、先週の美術の授業で描(えが)かされたものだ。
(あっ! あの絵は……)
 金賞に選ばれた作品は、窓辺に片(かた)肘(ひじ)を突(つ)いて外を眺(なが)める女子の後姿で、そのポーズとセーラー服姿の容姿を見た瞬間、私の背中がゾクゾクと悪寒(おかん)で震えた。
(わっ、私じゃん!)
 絵の顔は後姿だから、後頭部しか描かれていないけれど、髪形(かみがた)は明(あき)らかに私だ。
学校には、私と同じ髪形の女子が幾人かいるけれど、絵の構図バランスが性格に描けているならば、後姿からの背格好、曲線の連なりの輪郭、ポーズ癖、肉付きは、どう見ても、私しかいない!
(いっ、いつのまに……。どうして、モデルが、私なのよ!)
 輪郭(りんかく)を暈かした私の後姿が、鉛筆の濃淡(のうたん)と太さの違いだけで、綺麗に描かれていた。
(ううっ、デッサン正確だし……)
 私のボディラインが、良く観察されている。
 確かに、そのポーズで十五分ぐらい、美術室の窓から外を見ていた。
(たった、十五分ほどで、私の後姿を、トレースしたってこと? そして、残りの時間で仕上げたわけなの?)
 改(あらた)めて、あいつの美術の才能に関心した。
(いや、違うでしょ!)
 これは、関心するわけにいかない。
 私の承諾無しで、勝手にモデルに使われた。
 ここは怒(おこ)るのが筋(すじ)だけど、思いの外(ほか)、バックシャンに描けてるから許(ゆる)してやろう。
(あんたが、金賞になったのは、モデルが良いからだからね!)
 隣の席に座る奴を意識しながら、自分を納得させた。
 こいつにせよ、『名無し』にせよ、渚(なぎさ)に漂(ただよ)うビニール袋のように私を苛付かす。
(ん! 漂うゴミのビニール袋を避ける為(ため)に、泳ぐ場所を変えたのに、同じビニール袋が、流れて来たっていう感じの不快感! なんで、黙(だま)って私をモデルにしんのよ! 『名無し』も、名乗れっちゅうの!)
 そう思って、私はハッとした。
(似(に)ている!『名無し』と同じ、無視された不快感だ…。 もしかして…… やはり?)
     *
(疑(うたが)うのならば、試してやれば良い)
 私は『名無し』へ、空メールを送信した。
 僅(わず)かな間を置いて、携帯電話の振動する唸りが、近くで小さく聞こえて、数秒で途絶(とだ)えた。
 教室内の誰かの携帯電話が、着信している。
 一分待って、二度目の空メールを、『名無し』へ送る。
 また、僅かな間を置いて、小さなバイブレーションが聞こえ、直ぐに止(や)んだ。
 とても、近くのようだった。
 私の顔の筋肉が動いて、頬(ほほ)が突っ張った。
 耳が唸りを捕(と)らえようと、向きを変えて広がり、その筋肉の動きに釣られて、横目で見ている目の端が吊(つ)り上がるのがわかる。
(やはり、 私のメールが、直ぐ近くで着信している。『名無し』は、……隣のこいつなのか?)
 間の長さ、唸りの響き、音の大きさは同じぐらいだ。
 私は横目で、ずっと、隣の奴を見ていた。
 一度目も、二度目も、携帯電話に触れているような動きは無い。
 また、一分待って、三度目の空メールを、『名無し』へ送る。
 着信の振動音がした方向を見ながら、メールを送る。
 今度は、バイブレーションの音が聞こえない。
(バイブレーションを切られた? こいつじゃなかったのか……? ん! んん!)
 そう思ったのも束(つか)の間で、真横のあいつが机の影で、携帯電話を握り締めていた。
 手の中の携帯電話は、LEDの光を瞬(またた)かせて、着信する電波が有ることを知らせている。
 あいつの携帯電話を握り締めた手の親指が、僅かに動いて画面が開かれた。
 LED光の瞬きが消えるのと、コール中の私のメールが受け取られたのと、殆んど同時だった。
 疑いは、確信に変わる。
(えーっ、こいつぅ~! やっぱり、あんただったのー)
 『わかった!』、お隣さんを睨(にら)みながら、メールタイトルを打ち込む。
(あんた! 今まで散々観察して、私の反応を楽しんでくれていたわけね)
 確信を決定にする為のメールを送信する。
【あんたが、誰か、わかったわ】
 あいつの手の中の携帯電話が、再び、LED光を点滅させた。
 携帯電話に被(かぶ)せた手が、微(かす)かに震えていて、小さくくぐもった振動音が聞こえる。
 バイブレーションは、作動中だ。
 もはや、決定的だった。
 こいつが、『名無し』に、間違い無い。
(くそぉ! 私を弄(もてあそ)んだ償(つぐな)いに、どう甚振(いたぶ)ってやろうか?)
【そう、名無しは、やっぱり、あんたなんだ】
 名無しメールの厭らしい奴は、毎朝の登校時に向い側の歩道を、いつも、少し後ろに離れて歩いている、あいつだった。
 そいつは今、教室の隣の席で背を丸め、目線を下げた顔を少し向こうに回して座り、私からの続け様の着信で四度震えた携帯電話を、両手で隠(かく)すように握り締めていた。
 それから、終わりのチャイムが鳴って、そそくさと、教室から逃(に)げるように出て行くまで、あいつは一度も、私へ顔を向けなかった。
(逃げた! あんただと、バレたんだから、ちゃんと、私を謀(たばか)って楽しんでいた事を詫(わ)びなさい。それから、改めて、私に告白すべきでしょう)
 本日の授業が全て済み、終礼を終えても、私を一瞥(いちべつ)する事も無く、無言のまま、謝りもせずに帰って行ったあいつが、信じられない……。
(あいつは、隣の席から、私の反応を楽しんでいたの……? 私は弄ばれて、バカにされていた!)
 今まで、ちょっとでも、あいつを意識していたのが、悔しい。でも……。
(もしかして、今の、あいつの逃げ帰りは、私の所為(せい)? 私の所為で、謝る事ができないっていうの…?)
 私の態度や物言いが、あいつに、声を掛け難(にく)くさせているのだろう。
(しょうが無いでしょう。私の性格なんだから)
 私は、自分の性格が好きで、気に入っている。
 性格を直(なお)す理由が無いし、必要だとも思わない。
(大体、あいつが勝手に、私を好きになっただけの、あいつ自身の問題で有って、私は何にも関係無いじゃん!)
 あいつの告白対象になった私は、私に言い寄って来る他のウザったい相手と同じように、あいつも、あしらって遣っただけ。
(だったら、こんな性格の私を、好きにならなければいいじゃん! そりゃあ、ちょっちは、仕返しして……、恥を掻かせて遣ろうと考えていたけれど。って言うか、まだ何もしてないでしょう)
     *
 翌朝、白い封筒と水色の封筒が、靴箱の内履(うちば)きの上に置かれていた。
(あっ、手紙! ……また、ラブレター?)
 二つのラブレターらしき手紙は、教室まで持って行き、机の影に隠しながら読んだ。
 白い封筒が、水色の封筒の下に置かれていたので、白い封筒から先に見る。
 表に赤い大きなハートのシールが貼(は)られ、大きな字で名前が書かれていた。
『一目(ひとめ)で君に恋をした。僕と付き合えば、絶対、幸福になる』
(何これ! いやに一方的で、断定的じゃない。絶対って、なによ! どんな根拠が有んのよ! こんなデリカシーに欠(か)ける人と、絶対とは言わないけれど、幸せになれる訳ないじゃない。絶対やだ!)
 水色の封筒の表には、『ごめんなさい』とだけあった。
 裏に女の子の顔が、マンガ風に可愛く描かれていた。
(かわいいじゃん! これ、私だよね?)
 それ以外、名前すらも書かれていない。
 でも私は、誰からの手紙なのか察(さっ)した。
(あいつからだ!)
 封を開けると、薄い黄色と緑色の横縞便箋(びんせん)に、あいつの文字が、青いインクで書かれていた。
『ごめんなさい。今まで、名前を明(あ)かさずにメールをしていました。貴女にメールするのが、嬉しくて、楽しくて…… そう感じると、益々(ますます)、名前を言えませんでした。初めて声を掛けた、あの春の日から、ずっと貴女が好きです。いつも、貴女を探(さが)していました。だから、やっと見付けて、メル友になれた時は、薄くても、赤い糸が見えたような気がして、凄く、嬉しかったです。だけど今…、めちゃくちゃ反省しています。卑怯で、勇気(ゆうき)も、根性(こんじょう)も無い僕を、軽蔑(けいべつ)して嫌っても構(かま)いません。それでも僕は、今も、これからも、ずっと貴女が好きです』
(間違いない。やはり、『名無し』は、隣のあいつだった。小賢(こざか)しい奴)
 ずるいのは悪い事だと、私は思わない。
 ずるく感じるのは、被害に遭(あ)った人に、たぶん、その賢(かしこ)さが無いからだ。
 そう、賢いから、ずるくできるんだ。
 悪事のように思えるのは、先読みができずに騙(だま)されたれたり、出し抜(ぬ)かれたりした人達が、言い訳と非難を含めて、卑怯な悪意だと言うからだ。
 ずるい目に遭(あ)った人は、自分の財(ざい)やプライドを守る為に大声で罵り、誹謗(ひぼう)する。
 でも、それは所詮、後(あと)の祭(まつ)りで河向こうの叫(さけ)びだ。
 既に、本祭りは済んでいて、全ての取り決めは終わり、契約(けいやく)の時に不安を過(よ)ぎらせてくれた、恵(めぐ)みと救(すく)いの神は、社(やしろ)の奥や天上界へ去ってしまっている。
 後悔の嘆きと巻き戻しを要求する叫びは、河幅の距離と水の流れに打ち消されて、聞こえはしない。
 叫びは、騙した相手にも、救いの神へも届かず、無音で実態の無い虚(むな)しい自責(じせき)のパフォーマンスになるだけだ。
 私は時々、ずるくなりたいと思うけれど、できていない。
 こいつのように賢く出来ないから、気持ちや思いをストレートに、相手へぶつけるだけ。
 一限目が始まっても、あいつは席に来なかった。
 靴箱に手紙が置かれていたから、学校に来ているはずだと思う。
 休憩時間に聞こえて来る、あいつの友達連中の会話から、どうも、体調が悪くて保健室で寝ているらしい。
 午後からは、教室に来るつもりみたいだとも、言っていた。
 午後の授業になっても、あいつは教室に現(あらわ)れなかった。
 誰彼(だれかれ)ともなく、あいつは体調が良くならずに、早退(そうたい)したとの声が聞こえて来る。
(あいつぅ~、また、逃げたなぁ!)
 全く、あいつは、私を苛立たせてくれる。
 手紙を置きに学校へ来ているくせに、私の隣に座る事無く帰るなんて有りえない。
 一人で勝手に、インターバルか、緩和(かんわ)時間か、知んないけど、作って、反省?
 それとも、新たな打開策を練(ね)っているのかも知れない。
(謝る気が有るのなら、ちゃんと、誠意を見せろっちゅうの! 逃げてんじゃねぇーの!)
     *
 テレフォンナンバーだけが表示された。
 無登録の電話の相手が誰なのか探りながら、そっと、電話を受ける。
 翌日の登校時に着信した電話は、全然心当たりのない知らない番号だった。
「……もしもし……」
 知らない電話番号には、いつも、先に相手の声を確認してから応答していた。
 暫し、空電音が続いて怪(あや)しい感じがするから、切ってやろうかと思ったけど、なんだか、知っている相手のような気がして、取り敢(あ)えず、恐る恐る、声を落として呼び掛けてみる。
 呼び掛けると、空電音に呼吸音が被った。
 受話スピーカーの向こうから、荒い息が聞こえる。
 荒い息は、周期を徐々に詰まらせながら、大きく聞こえて来るだけで、言葉を発する気配が感じられない。
(だっ、誰、この人? 知っている人じゃないの? ……なっ、なに……! 変態からの、無言電話なの?)
 気色(きしょく)悪くなって、今度こそ切ろうと思い、指が通話終了アイコンへ動き掛けた時、スピーカーからブツブツと、か細(ぼそ)く途切(とぎ)れ勝(が)ちな声が聞こえた。
「ぼっ、ぼく…… は……」
 その小さな声は、聞き覚えが有る…。変態の悪戯電話じゃなかった。
(隣の席の、あいつだ!)
「誰、あんた? なんか用?」
 相手が、誰だか分かっているのに、ワザと訊く。
(憐(あわ)れっぽくしても、無駄(むだ)よ。どうせ、ちゃんと謝るから、オフで付き合いたいとか、言うつもりでしょう?)
「て、手紙…… よっ、読ん…… だか……?」
 水色の封筒とイラスト、横縞の便箋に青いインクが浮かぶ。
 謝罪の言葉で始まり、私への想いで終わる文(ふみ)。
 無愛想(ぶあいそ)で冷(さ)めた私のメールに、怯む事も無く、私への想いが、綴られているのが歯痒(はがゆ)かった。
 私を謀(たば)っていた、あいつを許すべきなのだろうか?
「そう、やっぱり、あんたなの。……なに電話してんのよ。電話は、嫌だって伝えてなかったっけ? もう、電話しないで! 電話で、あんたの声は聞きたくないわ。……メールなら、……我慢するけど。わかったあ? 何度も、言わせないでよ」
 声を聞きたくないと、念(ねん)を押したのは、あいつへ反省を促す意味と、私の拘りだった。
 『声は聞きたくない』、『メールは我慢する』と、前にも伝えた。
 『名無し』が、あいつだと分かっただけで、既に、伝えた事や認(みと)めた事を覆(くつがえ)すわけにはいかない。
 はぐらかさず、暈かさず、あいつは自分だと素直に認めた。
 同じ惑(まど)わしをしないのは、あいつの誠意だと思う。
 誠意には、誠意で応(こた)えなければならない。
 あいつは、誰だか明かさなかっただけで、他人や架空(かくう)の名を語って、私を騙してはいなかった。
 それだけで、あいつを晒(さら)し者にしたり、落とし込む事はできないと思う。
 私は、そんな、心根(こころね)の歪(ひず)んだ狭い考えの残虐(ざんぎゃく)な女じゃない。
(もっと、違う意味で、私の濁(にご)る気持ちの捌(は)け口として、楽しませて貰うから……)
 あの二年前の春の日から、気になっていたあいつを、今まで以上に、意識している。
 毎朝、教室に入るあいつに気付くと、思わず振り向いて、チラッと見てしまう。
 そんな自分を否定したくて、キッと、眉を顰(ひそ)めたキツイ目付きで私は、あいつを見ていた思う。
 朝、気色悪いけど、元気そうな電話を掛けて来たくせに、今日も、あいつは教室へ来なかった。
(もしかして、私が、追い詰めたから、あいつは、保健室登校の痛い子になっちゃったわけなの? そんな、デリケートな奴だっけ?)
 いつしか、私は知らず、知らずに、あいつを捜(さが)している。
(なに、私は、あいつを意識しているんだろう! あいつは、私を騙していたんだから、簡単(かんたん)に許せるはずないじゃない……)
 名無しが、あいつだとバレてから四日目の朝、やっと、あいつは教室に現れた。
 二日間のインターバルは、計算高く仕組んだ、あいつの企みだったのかも知れない。
 当日、無言のあいつは、速やかに逃げ帰った。
 二日目、謝罪メッセージを、私の靴箱の中に置いて早退した。
 三日目、朝の電話で、メールは許したのに、あいつは教室に来なかった。
(あいつは、全然、ヘタレじゃん! でも、私の所為じゃないよね……?)
 実際はともあれ、二日間も体調を崩(くず)して早退したと聞けば、多少は責任を感じてしまう。
 あいつが、教室に現れて、隣の席に着くのを見て、ホッと安らいでいる私がいた。
【メールには、余計な事をしないでちょうだい。写真や資料を添付(てんぷ)するのは、絶対ダメ。音楽もダメよ。一度でも添付したら、メル友は終わりだからね。それっきりにします。言葉でも、文章でも、メールは文字だけよ。メールを重くしないで。それと、GPS探索も、絶対に使ったらダメ! 絶対に、私の居場所を詮索しないで下さい。GPSで探索すると、調査される側にも履歴(りれき)が残り、履歴から、探索を行った相手が誰なのか分かります。私に使用した瞬間、あんたは他の何者でもない、論外な存在になってしまうからね!】
 その日の夕方に、メールのルールを決めて、あいつへ送り付けた。
 今でも、あいつの煩わしさが増え続けているのに、これ以上、あいつを意識させられたら堪らない。
 あいつを意識する気持ちが今後、強まろうが、同じだろうが、無くなろうが、それは、私のペースでの変化だ。
 そう考えていたのに、あいつをメル友にしてしまった御蔭で、今まで以上に、気に掛けるようになってしまった。
(色々と、添付でもされたら、それこそ、重い負担になっちゃう)
 あいつの添付して来る写真や音楽は、私の気持ちを揺(ゆ)さぶり、あいつへの意識を加速させてしまうかも知れない。
 自分の気持ちの動揺と変化を理解できないまま、私は、あいつの気になる情報に振り回されて、いつしか、イニシアチブを、あいつに取られてしまっている事に気付くだろう。
 それは私にとって、ヘビーなプレッシャーになるかも知れない……。
 何(ど)の道(みち)、『ます』や『下さい』で、私を締め付ける言い回しを寄越して来たら、金輪際(こんりんざい)、未来永劫(みらいえいごう)、あいつを拒絶して遣る。
     *
 あいつのメールは、週に二度届く。
 改めて、送られて来た最初のメールは、再び、謝罪と感謝の文字が綴られ、そして、文末には、曜日と時間帯を決めずに、ランダムで週に二つまでメールを送ると、私に断わりも無く、ルールが追加されたいた。
『ふーん。それでいいじゃん。二つまでだからね』
 週に二度の、送られて来るメールの了承(りょうしょう)を、あいつに送信した。
『それに、何度も謝らないで。私を好きになるのは、あんたの勝手だから』
 メールを許した事で、あいつが、勘違い男にならないように、太く長い釘(くぎ)を刺(さ)す。
【私は、ランダムにメールするからね。それと、週二度の規制対象外にしてあげるから、私の質問メールには、ちゃんと回答しなさい】
 無断で私を、デッサン画のモデルにしたのも、詫(わ)びていた。
『すれば、問題無いよ』
 そんな返信を打たせるほど、私をモデルにしたデッサン画は、上手(じょうず)に描けていた。
(モデル料を、請求したら…、払ってくれるかな?)
 私の言い付けを律儀(りちぎ)に守って、あいつは隣の席にいるのに、全然、話し掛けて来ない。
 話さないけれど、届くメールは普通に話すような口語体で書かれていて、どの文面にも、物怖(ものお)じは何も感じられない。
 でも、考えてから打たれているようで、不用意で不躾(ぶしつけ)な言葉は無い。
 有り得ない事だけど、もし、親しくなって私と話すのなら、あいつは、そんな話し方をするのだろうと思った。
『だから、なに? どうなの?』
 初めの内は、ツッコミを何度も入れた。
 『今週は、雨続きで鬱陶しい』とか、『晴れて、青空が綺麗だ』だとか、交換日記の書き出しみたいのも着信して、その度に、私はツッコミを送った。
 大体、真横にいる奴と、メールで交換日記などするつもりは無い。
(くっそ~! こんなくだらない文面を見る為に、メールを許したんじゃない。互いが直面している問題や、抱えている悩(なや)みや、将来の夢、それに、物事への考えなどを、伝え知り、相談し合いたいと思っているのに……。こいつは、私と何をメールしたいのか、考えていないんじゃないの? 本当に、ヘタレな奴! バッカじゃないの?)
【相合傘(あいあいがさ)をしても、良いですか?】
 互いの様子を見るようなメール応酬(おうしゅう)は終わり、あいつのアライブなメールが届いた。
(これって、あいつの望みの、並んで歩く事になるのだろうな……? 梅雨(つゆ)時期だから、そんなチャンスも有るかもね。メールを許したから、当然、更なる、展開に進みたいと、狙(ねら)っているわよね……。話すには、私に接近しないといけないでしょう。でも面倒臭い……)
【できるならね】
 下校時に雨が降り、私が傘を忘れているのを、あいつが気付いたらそうなるかも知れない。あいつが大きい傘を持っていれば、良いけれど……。
(小さいのなら、私の肩が濡(ぬ)れちゃうからヤだ!
 きっと私は、あいつの傘を取り上げて、一人で帰っちゃうね)
 あいつが、二本、傘を持って来るほど、気が利(き)けばベストだ。
(それじゃあ、相合傘にならないか……)
 などと、勝手な想像をする私は、バカみたいだ。
【夏休みになったら、いっしょにプールへ行こうよ?】
 私からも、魅力的(みりょくてき)な提案をしてみた。
(健民プールか、市営プールへ自転車で行って、水着の私とデートだよ。ふふ、こんな素敵な話しを、無碍(むげ)にはしないわよね。ねえ、あんた!)
 メールを入力しながら、唇が歪む。
 小学六年の夏、あいつは一度も、プールに入らなかったのを知っている。
 入るどころか、水着に着替えもしなかった。
 七月と九月の体育の授業を、水泳じゃない雨の日以外は、風邪や腹痛で見学している。
 泳(およ)ぐのを拒むように、欠席してまでも、真夏のプール日和(びより)の体育の水泳に参加していなかった。
 八月……、夏休み中も、学校のプールへ来ているのを見ていない。
 私は思う、絶対あいつは泳げない!
【いやだ! 行かない。プールも、海も、近付きたくない! 川へも、行かない。泳ぐのは嫌いだ!】
 予想通りの、あいつの返信文に笑っちゃう。
 いつしか私は、送るメール文に、苛立ちと不満、そして、焦りと不安を認(したた)めて、あいつにぶつけているのに気付いていた。
 ワザとつれなくした、短い文で送って遣る。
(きっと、私のメールの文字に、あいつの気持ちは、振り回されているに決まっている)
 けっこう楽しくて、止められない。
 想像するあいつの反応が、私のストレスを解消してくれていた。
 私は携帯電話のメールで、あいつを虐(いじ)めて喜んでいる。
     *
 新学期の三日目、お昼の休息時間は昼食を速く済ませ、いつものように机に頬杖を突き、窓の外へ顔を向けて眺めるように微睡む。
 ズカズカと近付く気配が、私の蕩(とろ)ける寸前の微睡みを妨げた。
 動きの感じと、押されて来る空気の臭いで、女子だと思う。
 それに、一人じゃない。
 そして、忙(せわ)しない足音と気配は、私のところで止まった。
「ちょっといい? 訊きたい事が有るの」
 一番近くの気配が、そう言って、警戒して気付かないフリをする私の肩を、軽く小突(こづ)く。
「返答次第じゃ、文句が有るから」
 小突きながら、更に、放たれた無遠慮な言葉が、私をムカつかせて気持ちを戦闘的にさせた。
 即(そく)、有事行動になっても良いように構(かま)えた気持ちで、ゆっくりと、相手に向き直ると、気の強そうな顔の女子が机の直ぐ横に立ち、私を見下ろしている。
 まだ、いっしょなクラスになった事の無い、小学校が違う、名前の知らない女子の顔だ。
 両脇にも、知らない子がいて、計三人の女子が私を見下ろしていた。
 徽章(きしょう)の色から三人とも、同じ二年生だけど、どの子も面識が無く、無遠慮な物言(ものい)いをされたり、小突かれたりされる覚えは、全然無い。
(あんたら、どこの誰? 何様のつもり?)
「あなた、今、付き合っている男子は、いるの?」
 正面に立つ、私を小突いた女子が、不躾で下らない質問を言う。
(S系が、似合いそうだけど、お隣の女子達とは、ユリじゃないみたいね。それじゃあ、いい男の紹介に来てくれたのかな? あっはっ、そんなわけないじゃん。それにしても、タカビーな女だ。こんなのが来るなんて、やっぱり、フった男子達の因縁(いんねん)絡(がら)みだろうな?)
「……いない」
 隣の席で友人達と駄弁(だべ)る、あいつをチラッと見て、面倒臭くならないように素直に答えて遣る。
「だったら、あなた、どうして、告白を断ったのよ?」
 新学期初日に、登校した初っ端(しょっぱな)から、校舎の玄関先で、朝練中の男子に告白された。
 着ていたユニフォームから見て、たぶん、サッカー部の男子だ。
 顔も、態度も、しゃべりも、見てくれも、良い人っぽい感じだったけれど、いつものごとく、あっさりと、『ごめんなさい』にした。
(もしかして、その最新の、お断りをして遣った相手絡みかも? ……そうなの?)
「彼氏がいないなら、付き合ってあげれば、いいじゃないの?」
(付き合ってあげても……? 誰と? その最新の、お断りした男子と? 私が? はあん、なんで?)
「……凄(すご)く、かっこ良いんだから……」
(それって、あんた達基準の、格好良いでしょ!)
「……あの人の告白を、断るなんて、信じられない……」
(いやいやいや、全然、私のタイプじゃないし)
「付き合って、あげなさいよ!」
(あーっ、面倒臭い! あーっ、鬱陶しい! なに、こいつら!)
 どうして、目の前の気の強そうな女子は、男子の儚(はかな)く破(やぶ)れた恋路(こいじ)の、修復とリベンジのキューピットになろうとしているのだろう?
「あなたに告白した人は、サッカー部のレギュラーで、ポジションはフォワードよ。しかも、センターなの。プレーする彼は、凄くかっこ良いんだから。あなた、彼のプレーを見た事有るかしら?」
(へへん! ビンゴだ。やっぱり、因縁絡みってわけね。……キャプテンじゃないんだ)
 小学校と中学校の義務教育期間は、同級生、上級生、下級生とも、みんなは、同じ条件の狭い環境下で思考し行動する。
 学校の校舎や敷地の狭い空間、校下の狭い地域、自宅と地元と学校の単純な行動パターン、そんな、範囲内での限られた選択肢(せんたくし)と、自分なりの少ない評価リストでの、不安に満ちた迷いの愚(おろ)かな判断、そして、逸脱(いつだつ)できない思いと行動。
「ふぅ~ん、……ないと思う」
(全然、興味ねぇっちゅーの!)
 親身な家族がいて、酷く窮乏(きゅうぼう)していない家庭ならば、衣食住が保障(ほしょう)されて育てて貰えるから、季節に適応(てきおう)する服や、身体を成長させる食べ物と、安全に寝起きする場所を、私達は心配しなくてもよい。そして、健康に恵(めぐ)まれなくても、最低限の学力さえクリアしていれば、進級できる。
 そんな、閉鎖(へいさ)空間と時間の中の、限られた閉鎖的情報によって、女子達が選ぶ、男子の個人評価なんて、顔が良くて、スポーツマンで、成績優秀な明るくて、楽しい男の子なら、高得点を得てしまうという単純さだ。
 例え、将来に於(お)いて梲(うだつ)が上がらず、生活力の乏(とぼ)しい、日々の糧(かて)も稼げない、プーやヒモになろうとも、今の現実で、モテモテだ。
(まあ、男子も、見てくれの格好良さは、けっこう、重要だよね)
 目の前の、この煩わしい女子も限られた選択肢しかない狭い閉鎖空間で、格好良いサッカー部のエースに、恋焦(こいこ)がれたのだろう。
 エースのファンクラブを作って、クラブの会長なっているのかも知れない。そして、それ故の自己犠牲、一粒の麦になる……。
 そう考えると、あいつも同じだ。
 私は、狭い選択範囲と閉鎖的条件内で、あいつに好きになられてしまった。
 女子の独(ひと)り言(ごと)のような、エースへの説明は、まだ続く。
「それに、優しくて人望(じんぼう)が有って、成績も良いのよ。それなのにあなた、彼の告白を断るなんて、信じられない。そうよ、あなたには勿体無(もったいな)くて、彼とは釣り合わないのに……、なんで……」
 ここは、返答次第で、これからの中学校生活が、この三人に虐め通されて、鬱陶しく成りそうなムードだ。
 虐められて寂(さび)しい処へ、追い詰められて行く私は、想像するだけで、痛くて、暗くて、悲しくて、惨めで、厭になるくらいに可哀想だ!
(あんたが、身を退(ひ)いてまで、大事にしたい片想いのエースに、幸せな将来性が有るといいね。ちょっちだけ、祈(いの)ってあげるわ)
「……好きなんだ」
 私は、女子の言えない想いを呟(つぶや)いて遣る。
 好きな男子へ、好きと言えない癖(くせ)に、その男子をフった私へ、男子の事を考え直して、友達から付き合い始めてくれと御願いしに来ている……。
(それで良いの? おかしくない? 好きな男子の幸せ優先? 自分の執(と)り成(な)しで、自分じゃない女子と付き合っても平気なの? 自分の幸せは、どこに在るのよ? 感謝されても、恋して貰えないよね!)
 気が強そうな感じなのに、痛い子だと思う。
 その痛い女子の向こうに、友達と話すのに夢中で、私を見ようともしないあいつが見えた。
(おーい、こっちを見なさいよ。あんたの彼女がピンチじゃん! ……でも、まあ、いいっか。彼女じゃないし、あんたには、全然関係無いよね……)
「ううっ、そっ、そんなの、どうでもいいじゃない! あなたには、関係無いでしょう?」
 余計なお世話の痛い子が、私には、関係無いと言って来た。
 だったら、私の気持ちを無視した、私への要求は筋違いで矛盾(むじゅん)している。
 これは、言い掛かり、全く意味不明で、変てこな話し、筋違いも甚だしい!
「付き合って、あげなさいよ!」
 脇の女子も、強い口調でゴリ押しを迫る。
「いやよ!」
 矛盾をゴリ押しするほどまでに、憧れのサッカー部のエースの、キャー、キャーと声援を送る取り巻きでいたいものだろうか?
 その健気(けなげ)な価値観の押し付けの所為で、私が迷惑してるのだから、大(おお)いに関係有りでしょう?
(鬱陶しいな、こいつ。速く、どっか行けちゅうの!)
 女子達の理屈が、全然、おかしい!
 被害者は、私だ!
 私は、告白して来て、お断りした男子にも、今、目の前にいる女子達にも、何一つ、理不尽な間違った事をしていない!
 だんだんと、腹が立って来た。
「とにかく、お願いしているのよ。あなたは、彼と……」
 しつこい女子の言葉が、私の我慢の臨界点(りんかいてん)を越えさせた。
(んもう、イライラするー。とにかくって何よ! 私に、取り敢えず、友達から始めてくれって言うの? そんな、好きでも無い、男子と付き合うなんて、まっぴら御免(ごめん)よ!)
『バァン!』
 両手で力一杯に机を叩(たた)いて、勢いよく立ち上がり、『キッ』と、よくしゃべるリーダー格の女子を睨んだ。
(いっ、痛い……、強く叩き過ぎて掌が痛い……。でも、このムカつきとイラつきは、こいつらとの戦争で終わらせて遣る!)
 『うわっ!』っと、一瞬、女子達を驚かせ、半歩ほど後退(あとずさ)りさせた。
(くっそぉ、手が痛いのも、こいつらの所為よ!)
 更に、一瞬の間も空(あ)けず、リーダー格の胸倉(むなぐら)を掴んで、引き寄せざまに一発、グーパンチを鳩尾(みぞおち)に入れて遣ろうと、相手に向き直った瞬間、あいつの立ち上がるのが、三人の女子達のたじろぐ姿越しに見えた。
『バン! ガガーン! ガシャーン!』
 いきなり、予期せぬ大きな音が、直ぐ傍(そば)の真横からした。
 正体不明の鋭(するど)く大きな音と衝撃は、飛び上がりそうになるくらい私をびっくりさせて、目を瞑(つむ)らせ、先制パンチを喰らわそうと、身構え始めた全身を、ビックンと仰(の)け反(ぞ)らし、硬直(こうちょく)させた。
 目を閉じていたのは、僅か一秒くらいなのに、体を固めたまま、何が起きたのかと、薄目で確かめると、私を囲んでいた三人の後ろ姿が見え、その向こうに、あいつが立って、こちらを見いていた。
 あいつの腿(もも)の高さに有るべき机は、前の席の椅子といっしょに倒れていて、私をビビらせた大きな音の発生源が解(わか)った。
(びっ、びっくりさせないでよ! ……助けてくれた ……の? ……かしら?)
 間近で三人と対峙するあいつの瞳は、女子達の間から、真っ直ぐ私を見ていた。
(うっ、今、目を閉じてたのを、見られた? ビビったのを、知られたかも……)
 『おまえ、何、遣ってんだ?』
 そんな感じに言いたげな、あいつの無表情に結(むす)んだ口許。
 あいつとじゃれていた男子達は、あいつの周りに集まって、煩わしい三人の痛い女子達を、無言で見詰め始めた。
(うっせーよ! 今から、反撃するところだったんだから。しっかり、机叩いて、ちゃんと、立ち上がってんじゃんか!)
 言い訳したいのを我慢して、私は、あいつを見返す。
 教室にいるみんなの顔も、『何事が起きているのか』と、一斉(いっせい)にこちらへ向けられた。
「なによ! あなた? あぶないじゃないの!」
 私に啖呵(たんか)を切っていた、気の強そうな女子が、あいつに絡む。
 通路に立つ女子の足許には、あいつの椅子が倒れていて、女子の足に当たりそうだったのだろう。
 当たっていたら痛いし、怪我をするかも知れなかったのに、あいつは、後先を考え無い無責任な奴……、いや、無茶をしてくれる。
「外野は、黙ってて!」
 ほんの、一メートルと離れていないあいつを、女子は、ビビリも、後退さりもせずに、大きな一喝(いっかつ)でピシャリと抑(おさ)えに行く。
 私に背を向けるリーダー格の女子は、きっと、夜叉(やしゃ)のような形相(ぎょうそう)で、あいつを睨み付けているのだろう。
(……鬼女(おにおんな)とか、夜叉って、見た事が無いけれど、たぶん、こんな、恐ろし気な女じゃないかな……)
「なによ!」
 気の強い一喝で、棒立(ぼうだ)ちになってしまっているようにしか見えないあいつに、責めが入る。
「何か、文句が有るの? あなたには、関係無いでしょう。私達は、この子だけに用が有るのよ」
 金魚の糞(ふん)のような両脇の子分の一人が、懸命にリーダーを守りに来る。
「あなた達も、邪魔しないでよ!」
 あいつといっしょになって、無言で睨み付けている男子達に向かって、子分の片割れも、『何もするな』と、制(せい)して来た。
(すっごいなぁー。またまた啖呵切って、上等(じょうとう)じゃん! あんたら三人、私に手ぇ上げたら、負けてないからね! ずっと、報復してやるから)
 クラスメイト達からは無関心だったエリアで、私へ優勢に迫っていた三人は、今や、クライシスゾーンでエネミー達に囲まれている状態だ。
 それでも、包囲を警戒しながら、ジャッジが入るまで、私を責め続けるつもりなのだろうか?
 高飛車(たかびしゃ)に威嚇する女子達の言葉に、あいつは黙ったままで、返事をせずに、私を無表情で見詰め続けている。
(ちょっとぉ、あんたぁ、ビビって、逃げないでよ)
 だけど、その瞳の深い黒色には、絡む女子など影形(かげかたち)も無く、ただ真っ直ぐに、私だけを映(うつ)していた。
(うう、なに、そんなに見てんのよ。私は、全然、悪くないんだからね。……恥ずかしいから、見ないでよ……)
 事態を察して、クラスの二、三人の女子も、こっちを見ながら、あいつの傍へ急いでいる。
「私が、何したっていうのよ? ちょっと、おかしいんじゃないの、このクラス?」
 リーダー格がビビって来て、悪役の負け惜しみセリフを吐く。
 あいつと、あいつと駄弁っていた男子達と駆け付けて来たた女子達は、黙って見ているだけで、何もしない。
 でも、無表情な顔の瞳は、咎(とが)めと哀(あわ)れみの色だ。
 あいつの瞳の色だけが、怒りと悲しみの色が加わって、私だけを見ていた。
「私達、悪者なのぉ? 何か、悪い事したぁ? どうしてよ!」
 『どうしてぇ?』って、あんたらは、理不尽(りふじん)で一方的な要求を、私に強要(きょうよう)してるでしょう。
(甚(はなは)だ迷惑だっちゅうの。だから、あんたらは、悪者に決まってんじゃん!)
「もう、いいじゃない。行こ!」
 脇の一人が、リーダー格に撤退(てったい)を促す。
 このクラスに乗り込んで来た時から、既に、防壁(ぼうへき)は張り詰めていたのだろう。
 展開過ぎた防壁は、私だけにしか抗(あらが)わず、予想外の無言の圧力には、耐え切れなくて、痛い三人は教室から弾(はじ)かれるように、急いで出て行った。
 なのに、あいつの視線は、去って行く女子達を追わずに、私を見続けている。
(なんで、まだ見てんのよぉ。何か、怖(こわ)いぞ! 私も悪者なの? ちょっとぉ、私は言い掛かりを付けられた、被害者(ひがいしゃ)なんだからね! 見ないでよ)
 あいつの傍に集った連中は、三人が教室から出て行くと、大爆笑になり、見ていたクラスの子達も、拍手をしていた。
 それでも、拍手をしないあいつは、笑わずに黙って私を見ていた。
『ははっ、出て行ったぞ! あれは、逃げたんだな!』
 あいつの友人達の、誰かが、勝利宣言を告げた。
 別に、勝ち負けの判定するような内容じゃなかったけれど、それでも、私への御願い事は、みんなに聞かれると恥ずかしくて、三人には分(ぶ)が悪いだろう。
『ざまあみろ!』
 根拠の無い、罵り声も聞こえた。
 でも、それは、言い過ぎ。
(何が、『ざまあみろ』なんだよぉ? それは不適切で、意味も不明でしょう)
 三人、特にリーダー格の、好きな男子への想いと察しに気配り、そして、優しさと誠意に失礼だ!
(言った奴、馬っ鹿(ばっか)じゃないの!)
『あははっ、俺達の勝ちだ!』
 男子って、本当に、勝ち負けが好きだ。
 負けて出て行ったのでもない三人が、可哀想(かわいそう)に思えた。
(だから、何に勝ったわけ? こいつも馬鹿!)
 『やったな!』と、あいつと話していた男子が、あいつの肩をパンパンと軽く叩く。
(あいつに、助けられた……?)
 『もう、大丈夫だから』と、加勢(かせい)? 応援(おうえん)? に駆け付けてくれた女子が、私を見て言った。
(やはり、傍目(はため)には、私が、虐められていたように、見えたのだろうなぁ……)
 さっと、女子と目を合わせ、また、あいつを見ると、ずっと、笑わない顔で視線を反(そ)らさずに私を見詰めていたのが、少し、笑ったように見えた。
 優しく微笑(ほほえ)むように、一瞬だけ。
(あっ、なに、その笑いは? ねぇ、私を、助けれたとか、救えて良かったとか、思ってんじゃないでしょうね。あんたが何もしなくても、全然問題無かったのに……。でも……)
 見詰め合う二人に気付いてなのか、あいつの取り巻き達やクラスのみんなが、いつのまにか、笑うのを止めて、あいつと私を見ていた。
 『ちぇっ、助けられてしまった』の、情(なさ)けない思いと、『もっと早く助けろちゅうの』の、嬉しさと、『くっそぉ、自分でケリを付けれたのに』の、悔しさが交差して、私は居た堪られない。
「……ありがとう」
 小声で、御礼を言った。
 でも、ちゃんと、顔を上げて言った。
 それから、あいつと、あいつの友達と、教室に居るみんなへ、きちんと頭を下げた。
 もう、イニシアチブは、あいつに取られそうだ。
     *
 九月中旬の運動会のフォークダンスで、初めて私は、あいつに触れた。
 男子と女子が二重の人の輪(わ)で並び、パートナーと踊(おど)り終わると、互いが逆方向に進みダンスの相手を変えていく。
 やがて、順番が回って来て、向かい合ったあいつは、焦点(しょうてん)を暈した伏せ目勝ちの瞳で、私を見詰めながら、私が差し出した手を黙って取った。そして、リズミカルな曲に合わせて、軽やかにステップを踏(ふ)み、滑(なめ)らかな振りで、私をリードする。
 あいつの、スムーズで軽やかな動作に驚いて、戸惑(とまど)った私は、合わせる動きがカクカクして、ぎこちなくなってしまう。
(あんた……! こんなに、リズム感良かったっけ? 確(たし)か、物凄(ものすご)く音痴(おんち)だったよね?)
 私の戸惑いを見透(みす)かすように、無表情なあいつの顔が私に向き、忙しなく瞬(まばた)きをしながら、眼だけが動いて、ジロジロと私を見る。
 同時に、私の手に添えた、あいつの指が、次のステップへと、私を導(みちび)く。
(なに、見てんのよ! 私の顔に、何か付いている? それに、このくらいは、リズムを掴んで踊れるから、リードなんて、しないでちょうだい!)
 私も、あいつへ顔を向け、瞬きもしないで、ジロリと見返してやる。
 間近で見る、照れずに唇を一文字に結んだこいつの真顔は、ちょっぴり精悍(せいかん)で、けっこう可笑しい。
(こんな真剣(しんけん)な顔で私を見詰めながら、何を考えているんだろう?)
 あいつと私は見詰め合いながらリズムに合わせて跳ねる様にステップを踏む。ふと、周りに視線を走らせると、フォークダンスを踊る生徒の大半が私達を見ていた。
(ちょっと、恥ずかしいけれど、おもしろいかも……)
 あいつとダンスを踊る、この状況を楽しみたいのに、温(あたた)かみの有るサラサラした、あいつの手に触れているだけで、私の手は汗ばんでいく。
(どうして、緊張するのよ、私! どうして、あんたの掌は、乾いてんの? 私に触れて、緊張しないの?)
 互いの周りを一周する時に、指先へ力が入り、あいつの手を握り締めそうになっている、自分に気が付いた。
 もっと、あいつに触れていたい私がいる。
 慌(あわ)てて、視線を泳がす私は、あいつの手を急いで離(はな)した。
(なんか、悔しい……!)
 できるだけ、落ち着いている振りをして、動揺(どうよう)する気持ちを隠(かく)しながら、回転する人の輪の動きに合わせて、位置を一つズラし、私は、あいつへ顔を向けて、『バイバイ』する事も無く、次の男子と手を繋いだ。
     *
 クリスマスイブの朝、また、靴箱の内履きの上の置かれた封筒を見付けるのと同時に、携帯電話が震えメールの着信を知らせた。
【メリークリスマス!】
 在り来たりで、捻りの無い、だけど、心地良いクリスマス・メッセージが、あいつから送られて来た。
 きっと、イブの日を、スペシャルなロマンスメモリーにしたいみたいな企(くわだ)を考えているのだろう。
 あいつの祝福(しゅくふく)メールへは、返信を直ぐはせずに携帯電話をしまうと、先に、便箋に記されている厄介(やっかい)事を片付けてようと、置かれていた封筒を取り出した。
 封筒は、クリスマスカラーの赤色、緑色、金色の三通で、ダブらない色の違いは、個性の違いを教えている。
 赤い一通目、『Merry - Christmas!』と、クリスマスカードに大きくプリントされたロゴ文字の下に、小さな字でメッセージが綴られていた。
『俺は、可愛いお前に告白したいと思う。去年、お前が入学して来た時から気になっていた。何度も、お前の靴箱にラブレターが置かれているのを見て来た。ずっと俺も手紙を置きたかった。今日はイブだから、クリスマスカードを置く。ライバルが多いのを俺は知っている。でも自分の声で、直接お前に言いたい。断られるのは覚悟している。俺の財力では、ファミレスのディナーが精一杯(せいいっぱい)だ。そこでお前に告白したいんだ。振られても構わない。ディナーだけだ。いっしょに食べてくれ』
 粗(あら)い文章だけど、書いた人の気持ちが伝わって来た。
 入学当初から、私を気にしていたなんて告(つ)げられたのは、初めてだったから、素直に嬉しい。
 この『ファミレス』は、ロマンチストだ。
 でも、ファミリーレストランよりも、焼肉屋の炭火で焼く、上(じょう)シロと、冷たくてシコシコした喉越(のどご)しの冷麺(レーメン)が食べたい。
 でも、どっちへも、行かない!
 あいつだけでも、面倒臭いのに、私をこれ以上、煩わせないで!
 緑の二通目、クリスマスカードといっしょに入れられた便箋に、お誘いが書かれていた。
『思い切って、聖なるイブの今日、あなたを誘(さそ)います。ずっとあなたが好きで見ていました。放課後、アニメの映画を観に行きましょう。きっと、あなたも、観て気に入ると思います。その後は、喫茶店(きっさてん)でアニメの感想を語(かた)り合いましょう。それから、僕は今夜、家族といっしょにクリスマスパーティをするので、暗くならない内に帰らなければなりません。昼休みに返事を訊きに行きます。良い返事を期待しています』
 アニメムービーへの、お誘いが書かれていた。
 そして、カードの中には、アニメ映画の前売り券が二枚も挟まれていた。
(二枚の券は、このアニメファンの人と、私の分だろうな? 自分の券まで、便箋に挟んじゃったわけなのかな? 故意(こい)に? じゃぁなかったら、ドジ?)
 この人は、『アニメおたく』だと思う。
(しかし、初っ端のデートの誘いから、アニメームービーでは、無理があるでしょう。それに、アニメを観た後は喫茶店で駄弁って終りなの? ディナーやショッピングは無し? 明るい時刻(じこく)に御開(おひら)きって、私を安心させる意味も、有るだろうけれど、私より、家族と過ごすのが優先って……、なに、こいつ!)
 劇場版のアニメは、嫌いじゃないけれど、けっこう好き嫌いが分かれるジャンルだから、互いの趣向(しゅこう)って言うか、属性(ぞくせい)を知ってから誘うべきだ。
(観に行くアニメと、『アニメおたく』の感動のセンスが、良ければいいんだけれど、残念ながら、御付き合いはお断りするから、属性も、センスも、分らないわねー。遠くで大人しく、私に憧れて見ているだけなら構わないけど……、ストーカーになったら、呪詛(じゅそ)って遣るからね)
 金の三通目は、あっさりしていたが、鬱陶しい。
『今宵(こよい)は、サプライズを用意しました。僕に御付き合い下さい。後(のち)ほど、御返事を伺(うかが)いに参(まい)ります。SAY YES!』
 これは末尾(まつび)で、丁寧(ていねい)さが台無しだ。
 『SAY YES!』のタカビーさに、閉口する。
 時間を空けずにメールには、返信メールで、電話には、その電話にて、口頭には、その場で、名前と所在(しょざい)を記されている封筒には、返事を直接、本人に速やかに伝えるようにしている。
 それが誠意だと、私は考えていた。
 始業までに、まだ十分も有る。
 三通とも、三年生からだ。
 三人とも、封筒や便箋に名前とクラス名、それに、携帯電話番号とメールアドレスまで、御丁寧に記載(きさい)していてる真面目な方々だ。
 受験勉強の真っ最中のはずなのに、気紛(きまぐ)れな息抜きなのか、それとも、中学校時代の思い出作りなのだろうか?
 私は、教室を飛び出して、三年生のフロアへの階段を駆け上がる。
 最初は、『ファミレス』だ。
「あの、返事は、直ぐでなくても……」
 恥ずかしそうに社交辞令的な応対をする、『ファミレス』の言葉を遮(さえぎ)り、私は、赤い封筒を渡しながら言う。
「ディナーにはいけません。私、先約(せんやく)が有りますから」
 いつものように、ストレートな断り文句を並べれば良いものの、脳裏(のうり)にあいつの、『メリークリスマス!』と、紅くなった顔が浮んで、全く余計に、意味も無い、意味有り気な言葉を付けてしまった。
「先約が、いるの?……」
 私は、またしても『ファミレス』の言葉を遮って、すらすらと嘘(うそ)を付く。
「彼氏が……、イブは、彼氏とデートなんです。だから、彼氏に悪いから、もう、私を誘わないで下さい! お願いします!」
 終わりの語句(ごく)が強くなってしまった。あいつを彼氏にでっち上げて、私の都合を一方的に巻くし立て、『ファミレス』に背を向けた私は、次へ急ぐ。
(駄目(だめ)! 今のじゃ駄目よ……)
 背を向け、一、二歩進んで、ハッと気付いた。
 こんな私と知らずに好(す)いてくれて、せっかくのイブを、私の為に使おうとしていた人に、私の喧嘩越しな言葉遣いと態度は、余りにも不躾で失礼だった。
 私は斜(なな)めに振り向いて、先輩に謝った。
「ごめんなさい」
 謝りの言葉を聞いた先輩は、悲しそうな笑顔で無言のまま、胸の前で小さく手を振りながら見送ってくれた。
 その先輩の態度に感謝して、次の『アニメおたく』へ急ぎながら思う。
(三年生にもなると、大人になれるんだな)
 教室の戸口で尋(たず)ねて教えて貰い、既に、席に着いている『アニメおたく』らしい人の横まで行って、机の上にスッと緑の封筒を置いた。
 ぎょっとした顔で、私を見上げた上級生の胸に付けたネームの文字は、便箋の下角(したすみ)に書かれた名前と一致した。
 本人確認は済(す)んだ。
(間違えていない。こいつが『アニメおたく』だ……。ちょっと、ウザそう)
「先輩、すみません。映画にはいけません。今日は、出掛けるので駄目ですって言うか、うーん、実は私、彼がいるんです。出掛けるのも、彼といっしょだから…… そのぅ、お付き合いはできません。先輩、ごめんなさい」
 『先輩』を、二つも入れて、敬いを装(よそお)いながら、両手を合わせて御願いする。
 アニメ好きには、堪らないだろうなと思いながら、できる限り、ミーハーぽい仕種(しぐさ)と可愛いしゃべりで、『アニメおたく』の誘いを断った。
(拒絶されてるって、分かってもらえたかなぁ?)
「既に彼がいたのですか……。気付きませんでした。……分かりました。彼と楽しいひとときを、メリークリスマス!」
 以外に、あっさりと退き下がっていただけたので、拍子(ひょうし)抜(ぬ)けしてしまった。
 『アニメおたく』だから、キツイ、拒絶タイプにならなくては駄目かなって考えていたのに、ちょっと詰まらない。
 『可愛く話す子が、突然、ドスを効(き)かせた声で罵りだすと、やっぱ、退くよなー』って感じに、持って行きたかったのに、必要がなくなってしまい残念(ざんねん)至極(しごく)だ。
(先輩、退いていただき、誠にありがとうございます。せっかくのお誘い、残念でした)
『アニメおたく』は、言葉を続ける。
「あなたは、僕が、初めて好きになった女の子です。……最後に握手してください」
(初めて好きになった女の子が私って、本当ですか? 私にフラれても、トラウマにならないで下さいね)
 と、思う間も無く握手と言いながら、いきなり、手首を掴まれ握手をさせられた。
(返事も待たずに……、この卑怯者!)
 『アニおた』の握手する手は、汗がびっしょりでヌチャッと熱く、しかも、強く握り締めてくる。
 背筋に、戦慄(せんりつ)が走った。
(厭だ、キモイ!)
 汗ばみよりも、掴む手に力が込められて、私の手を離そうとしないのが気持ち悪い。でも、私はそれを表情に出さない。
(やっ、やめてよ。くっそぉー、あんたなんか、私にフられた事が、……トラウマになってしまえばいいのよ!)
 握り締められた手を引き抜くのに、グッと力を込めたら、多量の汗で滑(すべ)ってスポンと簡単に抜けた。
「失礼します」
 抜け出た手の反動で、別れを告げながら、くるりと向きを変え、逃げ出すとは悟られない動きで、『アメおた』から急速に離れた。
(ううっ、一刻(いっこく)も早く、手を石鹸(せっけん)で良く洗(あら)いたい)
 バタバタと、亜全速(あぜんそく)で廊下を駆けて水場へ急ぐ。
 水道の蛇口を開け、迸(ほとばし)る水で、十分に泡立てて、臭いを嗅(か)ぎながら、三度は洗い直し、手首も擦(こす)るように良く洗った。
 気を取り直して、金の『SAY YES』へ向かう。
「わざわざ、OKを言いに着てくれたのか? 今日は、君へのサプライズを、いろいろ考えてあるんだが、君は、何を二人でしたい? どこか、行きたい所は有る?」
(いきなり、そう来るわけ? 私の意思確認も無しで進めちゃうって、有り得ないでしょう?)
 かなりの、自信家らしいと思った。
 メッセージの末尾に、『SAY YES!』と加えるだけあって、全然、私に拒否されるとは思っていない。
 屈託(くったく)無く、明るい笑顔で私を迎(むか)えた、『SAY YES』の先輩は、スラリとした長身で、軽く茶髪のファッとしたロングヘアがカッコイイ。
 顔形(かおかたち)も、校内トップクラスの美形で、プラス、優しげな明るい表情と言葉から、絶対にモテていて、ファンの女子達がいるはずだと思った。
 これだけ、モテる条件ていうか、要素が揃(そろ)いまくりだから、確かに、自分の魅力を自覚して、自信が持てるのだろう。
 でも、私は『はい』と言うつもりは無い。
 もし、『はい』なんて返事をして、申し込みを受けたら、どれだけ、大勢の女子に虐められる事になるのだろう。
 考えただけで、ゾッとする。
 視界の奥に人の動きを感じて、視線を流すと、『SAY YES』の背後に、少し離れて四、五人の女子が、じっと、睨むように無言で私を見ている。
(あわわっ、こいつらが、先輩の取り巻きの女子達で、返事次第で、私は虐め抜かれるってわけ? ファンクラブ? それとも、親衛隊なの?)
「ごめんなさい。先輩とは、御付き合いできません。彼がいますから、無理です」
 クリスマスカード入りの封筒を返しながら、また、『彼氏がいる』と言ってしまう。
 私は、無意識にカウンター的な断る言葉として、『彼氏』を使っていた。
 でも、『彼氏』のイメージは……。
(……あいつを、意識してる?)
「そうか、彼氏がいたのか……。うん、それじゃぁ、残念だけど、諦(あきら)めるしかないな」
 断わりを納得した『SAY YES』の諦めの言葉に、険(けわ)しい目付きで、私を睨んでいた親衛隊の皆(みな)さんの顔が穏(おだ)やかになった。
「先輩、私なんかじゃなくて、もっと、身近にいるんじゃないのですか?」
 去(さ)り際(ぎわ)に呟くように言って、私は、『SAY YES』の後ろへ視線を流した。
 私の目の動きを追って、『SAY YES』が振り返った。
「あっ!」
 『SAY YES』の悲鳴(ひめい)にも似た、驚きの声を背後に聞きながら、廊下に出る。
 その後の事は、見ても、聞こえても、ないから、『SAY YES』が、どうなったのかは知らない。
 いつもは、フッた相手を気にも留めないのに、ちょっと、後味(あとあじ)が悪くて、『モテる先輩だから、心配ないだろう』とか、『親衛隊は、そこそこ小奇麗な女子ばかりだから、先輩は、今まで通り、上手(うま)く遣って行くさ』なんて、思いながら鳴り始めた始業チャイムの中、慌てて自分の教室に戻った。
 嘘でも、彼氏がいると告げると、三人の先輩達は素直に身を退いてくれた。
 彼氏なんか、本当はいないけれど、固定した男友達はいる。
 たった一人だけのメールのみの付き合いだけど、不特定多数じゃないから、取り敢えず表面上は彼氏の代用になるだろう。
 あくまでも、本人が知らない、本人へ知らせない、秘密の代用だ。
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 冬の夜の訪(おとず)れは早い。
 びっしりと、冬雲に敷(し)き詰められた鉛色の暗い空は、日没も分からないまま、あっと言う間に夕闇(ゆうやみ)が迫り、直ぐに夜の漆黒(しっこく)に覆(おお)われる。
 あいつが、イブにどんな企てを考えていようとも、夜に行動できないだろうと思い、すっかり、辺りが暗くなった頃合(ころあい)を見計(みはか)らかってメールを返す。
【取り敢えず、メリークリスマス! 私、あんた関係のクリスマスと、全然関係したくないから。冬休みも、正月も、同じよ。それに、どうせ知らないでしょうが、誕生日もよ。『ハッピー、バースディ!』なんて、有り得ないから。あんたとは全然、関係無いよね。無関係だから! それと、『明けましておめでとう』のメールは、寄越さなくていいからね】
 更に、あいつの想いを殺(そ)ごうと、私はメールを送る。
【それに、バレンタインディーのチョコは、渡さないからね。義理(ぎり)チョコでもよ。私、今までに、お父(とう)さんと、お爺(じい)ちゃん以外に、贈った男の人はいないから】
 まだ、二ヶ月近くも先の来年の恋のイベントを、例え、上辺上の行為でも、あいつに期待を持たせるような接点を、私は拒む。
 日中は、ずっと、返信を躊躇(ためら)っていた。
 架空(かくう)の彼氏の対象にしたあいつのイブの思い出作りに、協力して既成(きせい)事実(じじつ)にすべきか、どうかと迷っていた。
 たぶん、あいつは建設的な計画を立てていて、それが、はにかみと緊張で私をリードできなくとも、あいつと二人きりで出掛ける、初めてのデートは楽しい体験になるだろうと思う。
 そう思うのに、私は、あいつとの仲が進展するのを警戒していた。
 ビビリでヘタレなのは、あいつじゃなくて、私の方だ。
 いつも、確実な事など何も無いと考えて、確実になるように努力しなければならないと思っているのに、確かめもせずに、自己中心的な想像だけで、あいつを拒むと決めた。
 私は、あいつを信用できずに、ワザと暗くなるまで返信しなかった。
(先輩達のイブの誘いを悉く振って、あいつの想いまで弄び、無碍にした私は、なんて酷い、あいつの彼女なのだろう……)
 あいつを、サプライズしたいイブのデートを拒絶される悲劇の主人公に仕立て上げ、私は、真心のサプライズを拒絶する冷徹(れいてつ)な悪女を演(えん)じる。
 現実的な気遣いの欠片もない、身勝手な私の楽しむ気持ちは、あいつを可哀想だと思わせてくれた。
     *
 元旦、言いつけを守り、本当に、あいつはメールを寄越さなかった。
 余程、私の機嫌(きげん)を損(そこ)ねたり、怒らせたりして嫌われたくないらしい。
 きっと、イブに苛めたから、メゲてしまって、イジケているのに決まっている。
(―たく、しょうがないなぁ~。あんたも、日本人なら、私のメールを真に受けないで、正月の仕来(しきた)りと礼節(れいせつ)を重んじなさい。折角(せっかく)、メル友にしてあげたんだから、『明けまして、おめでとうございます』とか、『謹賀新年(きんがしんねん)』とか、送って来なさいよ)
 クリスマスイブの誘いを邪険(じゃけん)にした後ろめたさもあって、新年のサプライズを送信して遣る。
【迎春(げいしゅん)。今年は、貴方(あなた)にとって、最良の年でありますように。―私にとっても―。お互い、高校受験に向けて、頑張ろう! 必ず、合格できますように。同じ高校へ、いっしょに行けるといいね】
 送信したメールを読み返して、歪(ゆが)む口許を意識しながら思う。
(まだ、私から離れて行かないでね。あんたは、私のストレスの捌(は)け口だから、私の気が済むまで、付き合いなさい)
     *
 二年生での最後の登校日になる終業式の日、帰り際に、持ち帰り忘れが無いか、棚や掲示板や机周りを確認する。
 自分の机の中も、覗(のぞ)き込んで……。
(……ん?)
 奥の隅に寄せて、怪(あや)しい包(つつ)みが有った。
(……こんな物は、知らない。私が入れた物じゃない……?)
 さっき、机の中を掃除した時には、こんな包み無かった。
 こんなのが入っていれば、絶対に気が付いている。
(……不審物(ふしんぶつ)だ!)
 危険な物かも知れない。
 私を恨み、私に報復や復讐をしたいと考えている男子と女子は、少なくないと思う。
 耳を澄(す)ます。
 機械的や動物的な音はしない。
 鼻を向けて、机の中の臭いを嗅ぐ。
 いつもの、机の臭い以外に、不審な異臭(いしゅう)はしていない。
 薄暗い机の中の包みは、僅かな動きも無く、静止している。
(ビニールじゃなくて、紙製……? 触れても、大丈夫そうね……)
 ガサガサッと、紙包みに触れると、中に堅(かた)い小箱のような物が入っていた。
 大きさは、私の携帯電話を七つか、八つ、重ねたくらい。
(誰が、入れたのだろう?)
 そおっと、机から出した包みは、何処かの店の袋なのだろうか?
 ロゴマークと一行の横文字が、プリントされているだけて、他に紙袋の何処にも、書き込まれたメッセージらしい文字や、貼り付けた紙片などの類(たぐい)は、何も無かった。
 でも、この紙袋は、何処かで見たような気がする。
 もう一度、目を凝らして机の中を覗き込むけれど、添えた手紙も無く、紙袋を取り出した机の中は、全くの空っぽだった。
(新たな告白のサプライズ? それとも、私にフられた誰かさんの恨(うら)み節(ぶし)? 嫌がらせなの? 開いたらドッカーンと来て、ベチャベチャになったりして……。いやいや、もっと威力(いりょく)が有って、危(あぶ)なかったりしてね……)
 そんな、バラエティー番組の、お約束みたい悪戯を想像する。
 でも、有り得ない事じゃない!
 ゾワッとした戦慄が、軽く背中を走り、薄情に酷いフリ方をして来た自覚が有る私は警戒した。
 陰湿な逆恨(さかうら)みで、怪我(けが)をするのも、気持ち悪い変なのを浴びるのも、嫌だ!
 だけど、コクられた全員…… お断りした皆さんに、異常人格者っぽい人はいなかった。それに、私は誠意を尽(つ)くしてお断りしているから、恨(うら)まれる覚えは全然無い。
 紙袋を、恐る恐る開いて見ると、小箱を綺麗なパステルカラー柄(がら)の薄い布(ぬの)が包んでいる。
(こっ、この柄は……? たしか……)
 この……、パステルカラー柄の薄い布を、私は知っている……。
 この……、暖(あたた)か味(み)の有る淡(あわ)い色調柄の、色違いを、私は持っている……。
 結びの無い、包まれているだけの布を解くと、中には光沢(こうたく)の有る白い厚紙で、しっかりとできた小箱が入っていた。
 その小箱も、見覚えが有った。
 家の屑入(くずい)れへ捨(す)てたのに、良く似ている。
(それじゃあ、はたまた、現在進行形で、もしかしてのお隣さん? でも、なんで?)
 年賀状や初詣(はつもうで)やバレンタインデーのチョコは、メールのテーマになる前に、私から受け取るのを拒否った。
 だから当然、あいつはホワイトデーのクッキーなど、用意するはずが無い…… と思う。
(それでなの?)
 横の席を見た。
 休み前日の終礼を終えた後だったから、何か、何処かへ行く予定が有るから、それで、即行(そっこう)で下校したのか、既に、あいつは隣の座席にいないかった。
 それでも、まだ、近くにいないかと、視点を広角(こうかく)に移し、教室中を視界に入れて、私はあいつを探す。
(いた!)
 あいつは、友人連中といっしょにドアを開けて、廊下へ出るところだった。
 あいつの笑う声も、聞こえて来る。
 楽しそうに友達と話すあいつは、……その笑い顔の細めた眼が廊下に出てからも、視界から消え去るまで、ずっと、私を見ていた……。
(……? あいつ?)
 明日からは、二週間近くの春休みに入る。
 その間、帰宅部の私は、学校に来る用事もないから、例え、あいつが美術部の部活で登校していても、新学年度の始業式までは、あいつを見る事はない。
(それで、……終業式の今日にしたわけ?)
 三年生でのクラス分けは、成績アベレージの均等や生徒の素行(そこう)と人間関係、それに、仲良しグループの分解などが考慮されて決められる。
 まさか、先生達に、あいつとペアだと思われていないだろうけれど、いっしょのクラスになるとは限らない。
 別々なクラスになれば、あいつの気配を近くに感じるのも、今日を限りとなってしまう。
 そう考えると、少し寂しくなった。
 持ち帰り忘れがないかと確認しているフリをしながら、教室に誰もいなくなるのを待った。
 教室に私だけになると、紙袋からそろそろと箱を取り出して、慎重に蓋(ふた)を開けて行く。
 変な臭いはしない……。
 テグスの透明糸や赤や青のコードも、見えない。
 機械的な音や動物的な動きも、聞こえない。
 安全を確認してから蓋の上箱を除(の)けると、シュレッターに掛けた紙の裁断片みたいな緩衝材(かんしょうざい)に包まれて、ミニチュアの置物が入っていた。
(えっー! こっ、これは……!)
 そのミニチュアには、見覚えが有って、凄く驚いた。
 それは、ただ実物を小さくしたようなミニチュアではなくて、街並みをレリーフしたレター挿(さ)しだった。
 挿し方を工夫(くふう)すれば、写真立てに使えるかなと、考えていた……。
(そうだ! ローマの店で、見ていた物だ!)
 今月の初めは、家族と一週間のイタリアツアーに行っていた。
 初めて行った外国で、期待と不安と感激の毎日だった。
 クラスメイトは固(もと)より、あいつにも知らせずに、学校へは親戚(しんせき)の法事で休ませると、母が口実(こうじつ)の連絡をして、イタリアの観光旅行に家族四人全員で行って来た。
『一週間も休む法事なんて、どこの地方の風習(ふうしゅう)よ!』
 重い病気じゃなく、登校拒否や素行不良でもないのに、長く休むってどうよと、母にツッコミを入れて遣った。
『休むのはウィークデーの五日間だけよ。それに義務教育なんて一年間休んでも、最低学力さえ満(み)たせば? 進級できるし、卒業だってできるのよ。あらっ、学力は無視で、とにかく三年間全部休んでも卒業させるのだったかしら? まあ、多少の理由がいるでしょうけど、留年した生徒が出たっていうのは、校長の不名誉だわねぇ』
 当然の如くのように悪びれも無く、あっさりと、言い返された。
 なんて、母親らしくない扇動(せんどう)的で、適当な事をいうのだろうと考えてしまう。
 母の言い分が、本当か、どうか、分からないけれど、実際はそんなものかも知れない。
 殆ど学校に来ない不登校の生徒でも、学力が低レベルな生徒でも、校長先生の判断や生徒の意思次第で卒業させて貰えると、そんな噂(うわさ)を聞いた事が有る。
 だけど、母の言う通り、それなりの理由は必要だと思う。
 このレター挿しを見た店は、ローマのスペイン広場の脇に在って、お姉ちゃんといっしょに入った。
 ツアーの四日目の自由行動の日、オフシーズンで観光客が少ないスペイン広場を、ジェラードを食べようと、移動アイスクリーム屋を探している時に、ショーウインドーの飾(かざ)り付けが可愛いくて入った店で見付けた。
 店内に入って直ぐに、『これと、これも見せて』と、店員さんにベネチアグラスのペーパーウエイトとレター挿しを指差して言ったら、手に取って見せて貰えた。
 とても細かい、レッド、オレンジ、イエローのガラス細工(ざいく)の花が、キュートに丸く集まったデザインのクリスタルウエイト。
 それと、棚(だな)に五つほど並んだ中から選んだ、一番明るい発色で目を引いたレリーフのレター挿し、裏の接地面に大きな掻(か)き傷(きず)が、斜めに入っていたのを覚えている。
 両方とも買いたくて、二、三分迷ったけれど、既に、財布の中身が心細くなっていた事もあって結局、レター挿しは諦めた。
 ……だのに、それがここ、私が通う日本の中学校の教室で、今、自分の手に持って見ている。
(ああっ、そんな……! あいつ……)
 裏面を見て、私は、言葉を失(うしな)った。
 そこには、斜めに大きな傷が付いていた……。
(同じ…… 引っ掻き傷が…… 有る!)
 息が詰まった!
 目頭が熱くなって、視界が少し滲(にじ)んだ。
 ローマで手に持って見ていながらも、迷い悩んで買うのを諦めた品を、私はまた、自分の掌の上に持っている……。
 イタリアに着いた当日、ツアーコースで行った山間(やまあい)の美しい湖の畔(ほとり)の街、コモであいつを見た。
 別のツアーグループの観光バスから、あいつが降りて来た時には、あいつの眼前に迫って周りをぐるぐると回りながら、ジロジロと確かめてから、『あんたぁ、なんで、ここにいんのよ?』って、胸倉を掴んで詰問(きつもん)して遣りたい衝動に駆られたほど、びっくりして、我が目を疑った。
 まさか、私を追い掛けて来たわけじゃないと思ったけれど、落ち着いた北イタリアの街並みの中に、あいつがいて、私の目に映るのが信じられない。
 ふと、運命と赤い糸の二つの言葉が心に浮かんだけれど、直ぐに手袋をした拳(こぶし)で額(ひたい)を叩いて、思考の中から強制排除して遣った。
 あいつには、気付かれないように、見られないように、体ごと向きを逸(そ)らして知らないフリをした。
 やがて、あいつも、私に気付いたようだけど、私はコモ湖から離れるまで、あいつに気が付かないフリをして、あいつと目を合わす事も、顔を向ける事もしなかった。
 だから、あいつは、私が気付いていた事を、今も、知らないと思う。
 それっきり、イタリアツアーの間に、再び、あいつと出逢う事はなかった。
 ……ううん、違う。
 出逢っていないと、私は思っていただけだ!
 故に、コモ湖での遭遇は、お互いの行動の稀(まれ)に見る偶然の一致で、運命とか、赤い糸とか、全然、関係無いと考えていた。
 ……それなのに、レター挿しの傷を見て、これってやっぱり、デスティニーかも知れないと思い掛けた。
 でも、例え、万が一にそうだとしても、今は、そう思いたくないし、全力的否定思考で力の限り抗いたい。
(見られていた! あいつは、見ていたんだ……。私が、どちらにするか、迷った末(すえ)に…… 諦めたのを……)
 その時の場面を思い出す。
 そして、映画やドラマの中で見た、記憶を呼び出して過去の状況や状態をチェックするシーンのように、店の中での自分の行動をトレースする。
 広場から見た店構(みせがま)えに、中の雰囲気と臭い、目に留(と)まる、綺麗に陳列(ちんれつ)された品々、朗(ほが)らかな店員さんの表情と声、手に持ち回転させて、眺めるミニチュアとクリスタルガラス、青空がイメージされた明るい色遣(いろづか)いと、キラキラと透明で鮮(あざ)やかな光りの反射、お姉ちゃんの困(こま)った顔に、閊(つっ)かえる英語の発音、白人客の大きな後ろ姿と、擦(す)れ違うと香る風に成る空気、そして、はしゃぐ私の声。
 店の中には、他にも、数人の先客がいたけれど、東洋人はいなかった。
 私の、其(そ)の記憶が確かだとすると、あいつは、表の通りから店の窓ガラス越しに、私を見ていたのだ。
(凄い!)
 素直に、凄いと思った。
 この、重力に丸められた広大な世界で、無限の数ほども有る、視界の届く限りの狭い範囲の一つの、更に、ピンポイントの座標(ざひょう)で、二人が時間と空間を重ねていたなんて……。
 しかも、出逢う確率が日本よりも遥(はる)かに少なくて、それも、殆ど無いに等(ひと)しい地球の裏側で、互いの人生の行動が交差するなんて、本当に奇跡(きせき)みたいなもので、なんと、素敵で素晴らしい事だと思う。
 それに、包まれていた薄い布は、コモシルクのスカーフだ。
 あの日、コモ湖でアウトレットへ行った、お姉ちゃんと、お母さんと、お父さんが選んで、私へ買って来てくれたのは、淡いパープルとイエローにライトブルーを散(ち)らした、ペーズリー柄のスカーフだった。
 お姉ちゃんの見立てが選ばれて、プレゼントされたのは嬉しいんだけど、色調が真冬に寒々(さむざむ)しいかもって思っていたところに、この淡いピンクとイエローに明るいグリーンを小さく散らした、暖かそうな色違いのスカーフが、あいつから贈られた。
(こういう偶然も、ロマンチックに有りなのかな?)
【ありがとう! 貰って良いの? 世界って、意外と、狭いよね】
 とにかく、お礼を送る。
 諦めた品物を、サプライズ・プレゼントされるのは、凄く嬉しい。
 レター挿しとスカーフを、お姉ちゃんに見られたら、いろいろと詮索(せんさく)されそうだけど、全然構わない。それよりも、こんな凄くて楽しい事は、ちゃんと、お姉ちゃんに話さなければいけないと思う。
【そうかも。でも、けっこう、遠い場所だったよな】
 私も、そう思う。
 十二時間以上も、飛行機を乗り継(つ)いで行くくらいだから、確かに遠い。
 地球の裏側まで、後少(あとすこ)しで行けそうな気がしていた。
(だから尚更(なおさら)、凄い事なんだぞ。こいつ、本当に凄いミラクルな事だと、ちゃんと分ってんのかな?)
 お互いが、同じ期間に家族と旅行に行く事も、相手の旅行先も、周遊スケジュールも、知らなくて、自分で決めたのは、参加とオプションツアーの一部だけの、事前の接点なんて、全然なかった事なのに……。
(鈍(にぶ)いんか? こいつは!……それとも、ワザと鈍いフリを……)
 ちょっと残念な、あいつの回答メールに、私は奥深い意味を見出せず、返信はしなかった。でも、新年度になったら私もお返しに、ミラノで買ったミニチュアのサーベルみたいなペーパーナイフを、彼の靴箱に入れておこうかと思う。

 

 つづく