遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

あいつ (私 小学六年生) 桜の匂い 第一章 弐

 この街は、桜の木が多い。
 四年生の終業式が済(す)んでから、引っ越して来た街は、桜の花が多く咲(さ)き乱れて、私は嬉(うれ)しくなった。
 去年は、学校の屋上から見ていた。
 この学校が建つ小立野(こだつの)台地も、右手の卯(う)辰山(たつやま)も、左手の寺町(てらまち)台地と野田山(のだやま)も、視界に広がる金沢(かなざわ)市の街は、どこも桜色が沢山(たくさん)咲いている。
 ずうっと向こうに、日本海が見えた。
 見えているだけなのに波の音が聞こえて、潮(しお)の香(かお)りが匂(にお)って来る気がした。
 引っ越して来る前は、明千寺(みょうせんじ)に住んで居た。
 能登(のと)半島、内浦(うちうら)の諸橋(もろはし)地域の町。
 金沢へ来るのに、車で二時間近くも掛かってしまう田舎(いなか)の町。
(ううん! 町じゃなくて地区。でも村よ。暮(く)らす人達も少なくて、なんにも無いところ)
 コンビニどころか、スーパーマーケットも無くて、ショッピングモールやデパートなんて在るはずがなかった。
 私の住んで居た所は、海沿いの町じゃないけれど、自転車を七、八分も漕(こ)げば、磯(いそ)に着き、よく港や浜で遊んでいた。
 海岸へ行く途中に線路の跡(あと)らしい場所が在って、以前に電車が走っていたけれど、廃線になったと、お婆(ばあ)ちゃんが言っていた。
 金沢へも直通で行けたみたいだけど、本当か、どうか、分からない。
(それって、電車じゃなくてディーゼルカーでしょう? それも、直通で金沢へ行くのは、たぶん、穴水(あなみず)の駅で乗り換(か)える急行だったんじゃないの?)
 あんな田舎の線路が、電化されていたはずが無いし、それに、急行なんて停(と)まる訳が無い。
(線路の跡は、豚草(ぶたくさ)や背高泡立草(せいたかあわだちそう)に大荒地野菊(おおあれちのぎく)と、姫昔蓬(ひめむかしよもぎ)だらけで荒(あ)れ放題よ。すっごく密集していて、害虫の発生源になっているかもね)
 豚草は花粉症の原因の一つだから要注意、しっかり駆除して欲(ほ)しいです。
(駅の跡には自動販売機など設置して、サイクリングロードにでも、整備し直(なお)せばいいのに)
 線路の跡を横切る度(たび)に、そう思った。
(町外(まちはず)れに古いお寺が在って、その前からトヤン高原の翌檜(あすなろ)の森まで、田んぼが広がっているの)
 春は、野の暖(あたた)められた軟(やわ)らかい土と息吹(いぶ)いた新芽の匂いで噎(むせ)せ返りそう。
 凍(い)て付きを運んで来た強い潮風は、磯臭(いそくさ)い春の香りに変わり、海の色も拒絶するような緑灰色の冷(つめ)たい暗さから、誘(さそ)うように艶(つや)っぽいサファイヤブルーなる。
 諸橋は好きだけど、大きな桜の木は廃駅跡や小学校跡に植(う)わっているくらいで少ない。
 私は、春風で桜色の花片(はなびら)が舞(ま)う景色を眺(なが)めながら、安らかな気持になった。
 桜色、それは、単にピンクの濃淡(のうたん)の配色だけじゃない。
 桜の色は、何か良い事が有りそうな予感で私を満たして、嬉しくさせてくれる。そして、香る桜の匂いが、春のムズムズした気持ちを淡(あわ)く広げて落ち着かせてくれた。
 その時から転校した不安は無くなり、私は、金沢の街が大好きになった。
     *
 外の柔(やわ)らかい明るさが眩(まぶ)しく、窓から入る穏(おだ)やかな風は心地良い。
 目を細めて見る窓の外は、プール際の桜が満開で、運動場の向こうにある高校の桜も、そのずっと向こうの卯辰山の桜も満開だ。
 風が光り、春の暖かさを桜の匂いといっしょに運んで来てくれる。
(なんて、気持ちいいの)
 身体中から力が抜(ぬ)けてしまいそうで、クラゲみたいに、グニャグニャになりそう。
(もうダメ、寝(ね)ちゃう)
 眠る寸前の弛緩(しかん)した身体と脱力感を、私は楽しむ。
(ダメよ、眠(ねむ)っちゃ。今、寝たら爆睡(ばくすい)するわ)
 両手を机の上に投げ出し、背を椅子に凭(もた)れ掛けて身体の力を抜く。
(桜が、いい匂い)
 緩(ゆる)やかな風に漂(ただよ)う優(やさ)しく懐(なつ)かしい香りが、私を平(ひら)たくさせてくれる。
(ああっ、ほんとに寝ちゃうかも)
 あと一限で帰れるのに、あまりの気持ちの良さに瞼(まぶた)がくっ付きそう。
「どうして、そんな形?」
(……? 誰(だれ)かが、近くにいる!)
 人の体温と男の子の匂いを感じた。
(誰こいつ? 私に言ってんの?)
 薄目で、瞳(ひとみ)だけ動かして見てみる。
 距離約一メートル、一人の男子がふざけない態度の真面目な顔で、突っ立っていた。
(知ってる、席が二列向こうの一番前の子だ)
 この子とは、まだ、話したことがない。
(うん、もう、人が気持良くしてんのに、いったい、なにようなん?)
 思わず、ムッとしてジロジロ見てしまった。
(あっ、ちゃうちゃう。ちゃんと、顔を相手に向けて優しい顔で、田舎者と思われないように、返事をしなくちゃね)
「なにが?」
(ちゃんと、スマイルして言えたかな?)
「爪、おまえの四角い爪の事」
 切羽(せっぱ)詰(つ)まったように、早口で言われた。
(見られた! なに見てるの。こいつ鬱陶(うっとう)しいわ。それに、そのぶっきらぼうで偉(えら)そうな言葉遣(づか)いは、なによ)
 爪の形は、ちょっと気にしていた。
(そんなの、私に分かるわけないでしょう。なんか、傷付くなぁ)
 お姉(ねえ)ちゃんの友達の、私にピアノを教えてくれる女子中学生の人にも言われていて、言われるまで、意識も、気付も、していなかった。
(そうだ!)
「私、ピアノ習っているの」
 言いながら、そっぽを向いた。
(騙(だま)してやった。信じたかな?)
 好きなピアノに引っ掛けて騙した事に、後ろめたさが迫(せま)った。でも、
(ナイーブで可憐な乙女の、ちっちゃなハートを大きく傷つけた罰(ばつ)よ)
 そう思うと、更(さら)に腹立(はらだ)たしくなった。
(いつか思い出して、自分の無神経さに気が付いて、私に謝(あやま)りに来なさい)
 騙した台詞(せりふ)が可笑(おか)しくて、眼尻(めじり)と口許(くちもと)が少し笑ってしまった。
 そいつは、まだ、傍(そば)に立って不思議(ふしぎ)そうに私を見ている。
(本当に信じているんだ。うふふ、楽しい!)
 心地好い風に吹(ふ)かれていると、また、眠くなって来る。
(まだいる。早く、どっか行けっちゅうの!)
 しつこく訊(き)いて来たら、張り倒そうと思いながら微睡(まどろ)んでしまう。
(……私の爪、やっぱり変なのかな……)
     *
 朝からの雨降り。
 私は、みんなが言っているほど、雨は嫌(きら)いじゃない。
 梅雨(つゆ)時期のジトッとする空気やベタベタしている物も、みんなが厭(いや)がるほど嫌いじゃない。
 腕や足が雨に濡(ぬ)れたり、服の袖口が湿(しめ)ったりしても気持ち悪くならない。それは、私が海辺に近い町で潮風に吹かれて育ったからかも知れない。
 私は、大勢で何かをするのが苦手(にがて)。
 団体行動とか、チームプレイのスポーツとか、上手(うま)くできない。
 自分のポジションが、チームの中で何をどうするのか、良く解らない。
 自身が、どこまでしても良いのか、駄目(だめ)なのか、良く解らない。だから、団体競技のある体育の授業は仮病で休む。
 この音楽の授業もそうだ。
 合唱や合奏は、自分が、みんなの中に埋め込まれているみたいで、気持ちが悪くなってしまう。
(どうして、揃(そろ)ってないと駄目なの? バラバラでも、ジャズみたくスイングすれば、少しは楽しく歌えそうなのにな)
 階段状の席に着く時に、あいつが見えた。
いつもは遅く来て前の方の席なのに、既(すで)に後ろの席に座っている。
 あいつが私より、後ろの席になるのは初めてだ。
 教室でも、他の授業でも、私より前の席で、時々、私は、あいつを観察している。
 今は、その逆をされていると思う。
 爪の形を指摘して私のコンプレックスを強めさせた、あいつ。
 私の言い返しに騙されている、あいつ。
 そんなあいつに、後ろから見られていると思うだけで、私はちょっぴり恥(は)ずかしくて落ち着かなくなる。
 想像したあいつの視線に背中がムズムズして、じっとしていられない。
(んもうっ、うざったい! 私を見ないでよ!)

「揃ってないわね。そっちの端から、一人づつ、歌ってみてちょうだい」
 みんなで合唱しているのを、いきなり、先生は止めさせて言った。
(そっかなぁ? 揃ってないの? 揃ってなくてもいいじゃん)
 コンクールに出る訳でもないのに、揃っていないのが悪いみたいな、命令調の言い方にムカついた。
 クラス全員がハモっていても、点数や成績に関係ない。
(各自が、揃えようと努力する姿勢は、大事だけど、音程やリズム感は、個人差が有るし、揃えれない人がいても、おかしくないでしょう。有志の集まりじゃないんだからね。個人レッスンでもしてくれるの? カラオケが上手(じょうず)になるように?)
 腹立たしい私の気持ちを余所(よそ)に、一人一人順番に歌い出した。
 私はそっぽを向き、頬杖(ほおづえ)を衝(つ)いて暈(ぼ)やけた視線をピアノに落とす。
(まぁ、どうでもいいわ)
 二人が遣(や)り直された。
 独唱の順番は左横の列を上がって行く。
(先生、遣り直しは一回でいいよ。三回もさせなくても。そんなの、すぐ上手くなるはずないわよ)
 三回も遣り直させる先生に悪意を感じる。そのサディスチックさに、ムカつきが段々と腹立たしさに変わって行く。
(げっ! 普通、ここまで外さないでしょう!)
 突如、裏返った甲高(かんだか)い掠(かす)れ声が聞こえて来た。
 リズムも音程も無視……、いや、自分でもどうにもならないのだろう。
 あまりの調子外れの歌声モドキに、みんなが笑う……。
「下手(へた)ねえ、初めっから歌い直してちょうだい」
 先生の命じた遣り直しが、一回、二回、三回、四回!
 羞恥(しゅうち)で息継ぎが上手くできず、震(ふる)える掠れ声は詰まって途切れ途切れだ。
(まだ歌わすの?)
 私は頬杖をしたまま振り返った。
 裏返った声で気付かなかったけど、歌っていたのは、あいつだった。
 耳や首を真っ赤(まっか)にして、顔は酔っ払(よっぱら)って帰って来た時の、お父さんみたいに赤黒く腫(は)れぼったい。もう口が小さくしか開いていない。
 これは地方都市の小学校の担任教師が、自分の意に添(そ)わない不出来な教え子に行う虐(いじ)めだ。
 発声や音程の指導が、何もなされていなくて、ただ繰(く)り返し歌わすだけ!
(こんなのは、教育じゃない! 先生は、あいつを笑い者にしようといている!)
 私は笑えない。
 私に騙されて、先生に苛(いじ)められているあいつが、少し可哀想(かわいそう)に思えた。
(ちょっとぉ、可哀想じゃん)
 クラスの半分は、笑い顔で見ている。
 三分の一は、あいつの酷(ひど)い音痴に呆(あき)れていて、残りは同情しているみたい。
「はい、だっめぇ~。あなたの耳、聴覚異常かしら? はい、もう一回。歌いなさい!」
(差別だ! 駄目出しついでに、この女教師、めっちゃ酷い事を言っている! 負(ま)けないでよ、あんた!)
 あいつは、俯(うつむ)いてはいなかった。
 あいつは、蔑(さげす)まれる恥ずかしさに負けてない。
 背筋を伸ばし、顔を上げ、掌(てのひら)を握(にぎ)り締(し)めて、まるで、サド先生の苛(せ)めに負けないように、卑屈(ひくつ)にならないように自分と戦っているように見えた。
(あんた、頑張(がんば)れ!)
 五回目、先生からはっきりと悪意を感じる。
 あいつは、屈(くつ)しないように必死で一生懸命だ。
(いつまで真面目にやっているの。もう歌うのを止めればいいじゃん)
 黙って先生の命じるままに、音痴を繰り返すだけのこいつが、憐(あわ)れ過ぎて腹が立って来た。
 いくら憐れに思えても、『四角い爪』と言ったあいつに、私は同情はしないけれど、察(さっ)しの感じられ無い無神経な気遣いしかできないあいつは、羞恥を曝(さら)し捲(ま)くりで可哀想だった。
(何、まだ頑張っているのよ! 声が出ないほど上がっているのに。意地になっているわけぇ? 膝(ひざ)が震えて立っているのも、やっとなくせに。もう、頑張んなくていいから。六回目を命じられても、黙って座っちゃえ)
 まだ、先生が繰り返しを命じたら、手を挙(あ)げて私は立ち上がり、
『先生! いつまで一人に構(かま)ってるんですか? 時間の無駄(むだ)です。次の人に行って下さい』と、言って遣ろう。
「もういいわ。次の人」
 六回目は無かった。
 サディスチックな気が済んだのか、先生は溜息(ためいき)を吐(は)いて無慈悲な独唱を止めさせた。
 先生の言い方は、あいつへの蔑みでしかない!
(可哀想な、意気地無しのあいつ)
 みんなに笑われながら項垂(うなだ)れて座るあいつを、蜘蛛(くも)の巣(す)を引っ掛けたような粘(ねば)ついたザラ付く気分で私は見ていた。
 私の番が来て粘っこいザラ付いた気分のまま歌う。
 ゴツゴツした何かが胸の中をズルズル転(ころ)がり、体の内側を抉(えぐ)って傷付けていく感じがする。
 声が掠れて、全然伸びないし、途中で途切れてしまうし、尻切れトンボで恥ずかしい中途半端な歌唱になってしまった。
(私も全然、ヘタじゃん)
 そう思いながら、あいつを見ようと振り向き掛けたけれど、止めた。
(あんたと同じで、私も遣り直しだわ)
「はい、次」
 遣り直しをさせられるだろうと覚悟していたけれど、先生は次の人に歌うよう促(うなが)した。
 少し遊ぼうかと思っていた分だけ、拍子抜けだ。
(こんなのでも、OKなのよ)
 視界の隅(すみ)に、ちょっと、仲間意識を持ちそうになったあいつが映(うつ)った。
(もう少し、あんたも上手く遣りなさいよ)
「誰か、ピアノ弾(ひ)ける人。ピアノを習っている人いる?」
 誰も上手くない中途半端な独唱が一巡した後、いきなり先生が訊いた。
     *
 ピアノは、お姉ちゃんの友達に教えて貰(もら)っている。
 四年生の時に、お姉ちゃんに連(つ)れられて遊びに行ったのがきっかけで、週に二回は習っている。
 お姉ちゃんと友達は、引っ越して来て直ぐに仲良しになった。
 御近所さんで学校に通うのも、買い物や遊ぶのも、二人いっしょで、私も、通学時には二人の後ろに付いて歩いていた。
 お姉ちゃんの友達はピアノ教室で習っていて、自分の部屋にピアノが有った。
 初めて遊びに行った時、広い部屋の壁際にアップライトピアノが聳(そび)えていてびっくりした。そして、その広いフローリングの部屋が、自分の部屋だと言われて、更にびっくりしてしまった。
(私の……、お姉ちゃんといっしょの部屋の四倍は有りそう……。広い庭の大きな家……)
 私は壁際のアップライトピアノに魅(ひ)かれて近くへ行って良く見ると、高級な漆器のように黒光りする表面に、私の姿が映っている。
 過疎化で諸橋や周辺地域から小学校が無くなり、穴水町までスクールバスに乗って通った、穴水の学校にグランドピアノが有って、音楽の先生が良く弾いていた。
 とても上手に、そして、凄(すご)く格好良く弾いていた。
 私はそんなふうに、いつか弾けるようになりたいと思っていた。
(弾いてみたい。弾きたい! ピアノの音を鳴らしたい!)
 その強い衝動に駆られた私は、艶々した漆黒(しっこく)のピアノに、そっと指を触れていた。
 鍵盤の蓋をゆっくりと丁寧(ていねい)に上げて、私はお姉ちゃんの友達を見る。
「私も、弾けるようになれる?」
(お願い、弾かせて!)
 懇願(こんがん)するように、お姉ちゃんの友達を見詰めた。
「教えてあげようか」
 その言葉に目の前がパッと明るくなって、ぺったんこの胸は期待と憧(あこが)れに膨(ふく)らみ、私の瞳は輝(かがや)いた。
「教えられる日と時間は、前の日に、お姉ちゃんに言うから、学校が終わったら来てね」
 嬉しくて体を揺(ゆ)すりながらキーに触れる私の顔を覗(のぞ)き込んで、お姉ちゃんの友達は優しく言ってくれた。
     *
 今、弾けるのは二つだけ。
 解り易い教え方で、増す増すこの曲が大好きになって、その二曲ばかりを練習した。
 二曲とも、目を瞑(つぶ)っても弾ける。
 悲(かな)しい曲と、嬉しくなる曲。でも、お姉ちゃんら以外の前で弾くのは初めて…。
(うまく弾けるかな)
 私は、ゆっくりと手を挙げた。
「はい! 習っています」
「じゃあ、何か弾いてくれる? ここに来て座って」
『うん』と頷(うなず)いて私はピアノの前に行った。
 近くで見たグランドピアノは薄(う)っすらと濡れて、雫(しずく)の流れた筋も幾つか付いている。まるで、自分が置かれている環境に悲しんで泣いているみたいだ。
 私の気分は、再び、ザラ付いて粘って来る。
 気遣いと気配りの無い先生の大人気の無さに腹が立つ。
(ピアノが可哀想。ピアノがこんなになっていても、何も感じないの? 先生!)
 丁寧に、指が滑(すべ)らないようにしっかりと持って、ゆっくり鍵盤の蓋を上げた。
(良かった。鍵盤までは、……露(つゆ)が入り込んでいない)
 椅子に座って音を確かめる。
 高い音、低い音、連音、和音、半音、ペダルを踏(ふ)む。
 音は澄(す)んで伸びるように滑(なめ)らかに響く。
 くぐもったり、べたついたりしていない。
 ピアノが置かれた場所の環境や見た目の状態からの、想像していたような音色(ねいろ)の劣化は無かった。
(毎日の授業で、良く使われているからなのかな?)
 想像した澱(よど)んだ色と違い、以外にも、透明な音色が維持されていて驚(おどろ)いたけれど、音が傷付いていないのに安心した私は、きっと、そんな理由からだろうと思った。
(音は痛んで、震えも、掠れも、途切れたりもしていないわ! ……大丈夫(だいじょうぶ)みたいね)
「何を弾いてくれるのかな?」
 先生はみんなに聞こえるように、声に弾(はず)みを付けて私に訊いた。
「別れの曲」
 私も、みんなに聞こえるように言った。でも、力を込めずに普通に澄ました声で。
(教えて貰って、何百回も練習した悲しい調(しら)べが、これなの)
 譜面が無くても問題無い。
 もうキーの位置や間隔を指と手が覚えているから、譜面を見ずに目を瞑っても弾ける。
(グランドピアノは初めてだけど、きっと、いつも通りに音を出せるわ)
 座り直して姿勢を正す。
 俯いてキーを見ながら最初の音に指を合わせた。
 その時、あいつの顔が浮かぶ。
 一人取り残されたように悲愴(ひそう)な、それでも顎(あご)を上げて必死な、あいつの顔が浮かんだ。
(あいつは、どこ?)
 私は顔を上げて、あいつを探した。
(いた!)
 興味津々な顔で、私を凝視している。
(うふっ、ピアノを弾くと、爪が四角くなるのよ。四角い爪の女の子が負けていなかった、あんたに聴(き)かせてあげる。弾く曲は、あんたへのレクイエムよ)
 あいつの表情と、私の思いに笑っちゃった。
 優しい気持ちでキーを敲(たた)くタイミングを計(はか)る。
 人は何故(なぜ)か、息を吸い込む時に動作が僅(わず)かにズレてしまう。
 それはきっと、息を吸い込む膨らみが身体中を引っ張っちゃうからだと思っている。だから、緊張(きんちょう)の緩む息を吐き出す時の方が、曲の弾き始めのイメージに指の動きをマッチさせ易い。
 一息目、吸い込みと吐き出しが切り替わる息の頂点は、反応が鈍(にぶ)くなるので避(さ)けろようにしなければならないと、経験から学んだ。
 二息目、音楽教室中が静(しず)まり返って、みんなが私の音を待っている。
 上目であいつを見ると、また、目が合う。
 未知との遭遇のような期待に不安の混(ま)ざる瞳が、なんか気持ちいい。
 そして三息目、息を静かに吸い込んで吐き、指がキーを捉(とら)えて音を弾(はじ)き出す。
 弾き出された音は、教室の隅々まで綺麗に響(ひび)いている。
 この曲はピアノの練習曲なのだけれど、日本では『別れの曲』と呼ばれていると、お姉ちゃんの友達が教えてくれた。
 私は、お姉ちゃんの友達が演奏してくれた『別れの曲』を聴いて一遍(いっぺん)で好きになった。
 まだ、小学六年生で人生経験の乏(とぼ)しい私には難(むずか)しいけれど、この曲には、強烈な別れを経験したイメージが有った。
 たぶん、逆(さか)らえない、避けられない、強い別れが有ったのだろうと感じた。そして、相手にとても強い好意を抱(いだ)いていたのだと思う。
 その想いを想像して、私は弾く。
 私なら、どんな気持ちになるだろう。
 静かに、冷静に、別れを受け入れようとする思い。
 相手への想い。
 良き思い出。
 楽しかった日々。
 優しかった気持ち。そして、後悔。
 戻せない時間。
 絶ち切れた願い。
 避けられなかった永遠の別れ。
 許(ゆる)せない別れ。
 そんな、遣り切れなさ、寂しさ、悲しさ、切なさ、愛しさを、私だったら、どんな気持ちになるのか想像してキーを押す。
 穏やかに、優しく、強く、激(はげ)しく、丁寧に、私の気持ちを響かせる。
 私もいつか本当に『別れの曲』を知る時が有るのだろうか。
 想像で舞い上がった私の気持は、静かに降りて来て演奏は終わった。
 拍手が聞こえた。
 誰かが、手を叩(たた)いている。
 私は目を閉(と)じて、曲が終わるその向こう、別れの果(は)てを想像していた。
(別れても、相手が生きているのなら、再び出会えないのかなぁ? 別れを強く後悔するなら、再び会いたい想いも強くないの……? 私なら、どうするだろう?)
 胸が一杯になって、息は細くなっている。
 私は大きく深呼吸して目を開け、それから顔を上げた。
 みんなが、拍手をしてくれている。
 驚いた顔、悲しい顔、憂(うれ)えた顔、曲に乗せた私の抱いた想いを、みんなは感じてくれたのかも知れない。
 嬉しくなって、私の顔が笑ってしまう。
 あいつの顔には、憧れが表れていた。
 拍手もせずに私を見ていて、少しムカついた。
 四角い爪は、あいつに言われる前に、お姉ちゃんの友達が気付いた。
「あら、爪が平(たい)らなのね。キーを押え易いかも……、なんてね。そんなのピアノ弾くのに関係ないわ。気にしないでね」
 お姉ちゃんの爪も、小学生の頃はそうだった。
「お姉ちゃんも、そんな爪だったの。でも、今は丸くなっているよ。あと一、二年で丸くなり始めると思うから、気にすることないのよ」
 三つ年上のお姉ちゃんは、すっかり丸い爪になっている。だから、あいつが言うまで全然気にしていなかったのに。
(私の爪も、もう直ぐ、……丸くなるのかな?)
 私の中に、小さな棘(とげ)のような不安が刺さる。
「アンコール」
 拍手に『アンコール』の声が交(ま)じり、次第に大勢の大きな声になっていった。
 私は俯いて二曲目の最初のキーに指を添(そ)えた。
 あるアニメの中の曲。高知の高校で出会うけど、お互いの気持ちに気付いているのか、気付いていないのか、よく分からないまま大学生になって、東京の吉祥寺(きちじょうじ)の駅で再会する、
 そんな、ちょっとだけクールな学園ラブストーリー。
 『アンコール』に応えるのは、その再会した時に流れる曲。
 みんなは聴いて、どう感じるか分からないけど、私は嬉しくなる曲だと思う。
 この曲もお姉ちゃんの友達が弾いてくれて直ぐに好きになった。
 アニメも借りて観た。でも、そういう場面の経験は無いから、この曲も巡(めぐ)り逢(あ)いを想像の思い入れで弾く。
 『別れの曲』を弾けるようになってから練習を始めて、まだ練習中だけど、これも目を瞑って弾けるくらいになっている。
(アンコールか……、これも、あいつに聞かせてやろう)
「あなた、うまいわね」
 ワザとらしい間合いで入った先生の声に、余韻と勢いが崩(くず)れて千切(ちぎ)られるように消えた。
 さっきの歌よりも、大きくて上手く滑り落ちないザラザラした蟠(わだかま)りが残る。
 胸に閊(つっ)かえる蟠りは、ちょっと苦(くる)しくて、けっこう鬱陶しい。
(消化不良になっちゃった。ムカつく……)
「私の練習曲なんです」
(語気を強めずに、さらりと言えたかな?)
「そう、ピアノを習っているのね。いいわ。あなたには次から伴奏をして欲しいの。できるわよね? してちょうだい!」
 先生は、大人の狡(ずる)さと教師の権力の言葉を重(かさ)ね、そして強制力を強く含(ふく)めて命令した。
 みんなの方を向いて顔を上げながら、私の眼(め)はあいつを見ていた。
 私への言い方、あいつへの仕打ちにデリカシーの無さを先生に感じて、強い反発が湧(わ)き上がる。
「いやです」
 あいつを見て、先生に言った。
 私は消化不良の気持ちの悪さと、閊かえている欲求不満の蟠りを出所に返しに行く。
 教室中がざわついて、あちらこちらからヒソヒソとトーンを落として囁(ささや)き合う声が聞こえて来る。
(どうも私は、みんなからイメージダウンされたみたい。……疎外(そがい)されるかもね……)
 不自然さや違和感を感じても抗(あらが)わないみんなから、疎外される結果になっても、私は全然かまわなかった。それどころか、息を止めて諸橋の海に潜(もぐ)り、サザエを捕まえて浮き上がった時のように、明るい大気の中に出て新鮮な空気を大きく吸い込むのに似(に)た、満足感と開放感が有った。
 先生の指示や指導が、全(すべ)て適切で正しいわけじゃないと思う。
(あんたも、このくらい言いなさいよ)
「私は、歌いたいんです。伴奏はしません」
 私は再び、語気を強めて反抗した。
「先生は、あなたにして欲しいのだけど」
(悪いけど、従(したが)う気はないわ)
「いやです」
 あいつを見たまま、大きな声でピシャリと言った。
 今度も、みんながどよめいたけれど、それは一瞬だけで、みんなは直ぐに黙り込んで、私と先生を見た。
(誰にも、意見させないわ)
 私は、先生を無視して席に急(いそ)いで戻る。
 誰も私に注意や意見をしないし、できない。
 手に獲(と)れたての大きなサザエを握(にぎ)っている気がしていた。
 空気が甘くて、久し振りの懐かしい感じ。
 翌檜の森の奥で、蕨(わらび)や姫林檎(ひめりんご)や栗を抱(かか)え切れないほど穫(と)った時の気分に似ている。
(あはっ、すっごく、楽しい!)
「仕方(しかた)が無いわね。じゃあ、他に弾ける人は?」
 先生は、頑(がん)として言う事を利(き)かない私に呆れてしまったのか、伴奏を強要するのを諦(あきら)めてくれた。
 その後、小学校を卒業するまでみんなは、音楽の先生に反抗した私と親しくしようとはしなかった。
(音楽は、楽しめばいいのよ。そう書くじゃない。楽しめない音楽の成績なんて、どうでもいいわ)
 そう思う度に、あいつの必死な顔と憧れる顔が浮かんだ。
(ううっ、イラつくわ! いきなり、あいつの背中をガーンと蹴って遣りたい!)
 いつの日か、意地らしくも、情(なさ)けないあいつを、蹴り倒すか、怒突(どつ)いて引っ叩(ひっぱた)くか、水に沈めて遣りたいと思う。

 

 つづく

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