遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

天空人 (僕 小学六年生) 桜の匂い 第一章 壱

「どうして、そんな形?」

 何も考えずに訊(き)いた。

爪の形が四角くて短い。

それが不思議(ふしぎ)に思えて相手の気持ちを考えもせずに訊(たず)ねてしまった。

春の陽射(ひざ)しと風が心地好(ここちよ)くて眠(ねむ)くて堪(たま)らなくなる午後の休息時間に、僕は初めて気になっていた女の子に声を掛けた。

 爪の先端が裁断機(さいだんき)で切った紙のように真(ま)っ直(す)ぐに平(たい)らなのだ。

十本の指先の全(すべ)てに爪がその形で付いている。

 目の前で窓際の席に座る彼女はイスの背に凭(もた)れ、両手を机の上に投げ出していた。

目を細め犬のように鼻をヒクつかせて外を眺(なが)めていた彼女は、ゆっくりと顔をこちらに向け上目遣(うわめづか)いで僕を見た。

彼女の表情から、『だれ? こいつ!』の意思が言葉にしなくてもはっきりと読める。

 警戒(けいかい)から詮索(せんさく)、吟味(ぎんみ)、判定(はんてい)へと変わって行く。

なんて解(わか)り易(やす)い表情をするのだろう。

胸がドキドキしてくる。

「なにが?」

 僅(わず)かに微笑(ほほえ)んで彼女は逆に僕の問い掛けの含(ふく)みを探(さぐ)って来て、大人(おとな)びた少し鼻に掛かる掠(かす)れ気味(ぎみ)な声と彼女の読み取れる表情の変化に、僕はちょっとびっくりして怯(ひる)んでしまった。

優(やさ)しく微笑む顔の眠たげな瞳(ひとみ)の輝(かがや)きが彼女を素直(すなお)そうに思わせ、加速された胸のドキドキは息を圧迫して、空気を上手(うま)く肺に吸(す)い込(こ)めていない。

「爪、おまえの四角い爪の事」

 気持ちが焦(あせ)って、声に勢(いきお)いが付き早口になった。

乱(みだ)れた呼吸の息苦しさに言葉も偉(えら)そうになる。

「私、ピアノ習っているの」

 彼女は教室の窓のカーテンを優しく揺(ゆ)らす風のような響(ひび)きで答えて、再(ふたた)び窓の外へ顔を向け目を細めた。

一瞬、意味が解らない。

予期しない返答に僕は、それ以上何も訊けなくなった。

(ピアノだって!)

 僕はあまり音楽を好(この)まない家庭に育った。

家に有る楽器は教材のハーモニカと縦笛(たてぶえ)ぐらいだ。

家の中では大きな音を出して煩(うるさ)くする音楽系の物が一切(いっさい)ダメでステレオも無い。

それは僕をリズム感の無い音痴(おんち)にさせて、楽器の演奏も、歌を唄(うた)うのも大嫌いになっだ。

だから『ピアノ』の一言(ひとこと)で、彼女が違う世界の……、異世界人(いせかいびと)のように思えた。

(ピアノを習うと、そんな爪になるのか……、すげぇな!)

 ぼんやりとテレビで観たピアノコンサートの画面が思い浮(う)かぶ。

ピアノは音楽教室で見掛けたけれど触(さわ)ったことは無かった。

でも、形が近いオルガンなら一度有る。

鍵盤(けんばん)を押すと風邪(かぜ)を引いたようにフガフガと鼻が詰(つ)まったような音を出した。

全(まった)く漠然(ばくぜん)としたイメージだけでピアノについて僕は何も知らない。

 彼女の眺める窓の外は、校庭の幾本(いくほん)もの大きな桜が満開になっている。

その色が彼女の背景になって、猫のように目を細める横顔が幸せそうに見えた。

桜色に白いブラウスと黄色いカーディガンが似合(にあ)っていて、微笑むような横顔が麗(うら)らかな色達に囲(かこ)まれていた。

人を和(なご)ます優しげな瞳と意志の強さを示すように結(むす)んだ口許(くちもと)が、彼女に利発(りはつ)さを感じさせた。

 静(しず)かに微睡(まどろ)む彼女とは反対に、僕の息は詰まり、胸が絞(し)め付けられたように苦(くる)しい。

加速されたドキドキがはっきりと聞こえ、体中に響く心臓の高鳴りが彼女にも聞こえていそうだ。

親に連(つ)れられて行った美術館で一つの大きな絵に魅(み)せられていた時のように、僕は昂(たか)ぶる気持ちに緊張したまま、その場で身動きもせず暫(しばら)く彼女を見詰め続けた。

 窓から入る穏(おだ)やかな風と光に満ちた麗らかな春の日の昼下がり、新鮮な驚(おどろ)きと出会いで、僕は言葉を失(うしな)い立ち尽(つ)くしていた。

 小学校最終学年になっても、僕は自分の気持ちや思いを上手く言葉に紡(つむ)げない。

(それにしても、ピアノを弾(ひ)くだけで、爪の先が変形するなんて……?)

 無知(むち)で未経験な僕には全く解らない事だった。

(世の中、本当に知らない事だらけで、多過(おおす)ぎだ!)

     *

 六月中旬の雨の日、今日も朝から雨降りで鬱陶(うっとう)しい。

まるでプールの底で溺(おぼ)れ掛けそうになった時みたいなバツの悪い厭(いや)な気分なる。

 例年通りだと梅雨明(つゆあ)けは一ヶ月以上も後だ。

長雨の続く梅雨時期は、ぐっしょりと湿(しめ)った空気の世界になって、まるで家の中も学校も水の中へ潜(もぐ)って来たみたいに、そこら中がベタベタになった。

 僕の部屋にエアコンは付いていなくて、除湿ができない。

だから、この雨の続く季節は、部屋の畳や壁がカビ臭(くさ)く、寝起きする布団(ふとん)はジメっとして眠る気持ちをメゲさせてくれる。

着替えのランニングシャツとティーシャツは湿って肌に纏(まと)わり付き、濡(ぬ)れたティッシュペーパーが破(やぶ)れてべっとりと貼(は)り付いたみたいで、とても気持ちが悪い。

それに体中の汗ばんだ肌へ湿気(しけ)た生地(きじ)が貼(は)り付いて突(つ)っ張(ぱ)り、動き難(にく)さでイライラする。

 傘(かさ)を差しながら歩いて学校に来るだけで、ぐっしょり汗を掻(か)いた。

二限目には、殆(ほとん)ど乾(かわ)いて肌に違(い)和(わ)感(かん)が無くなるけど、昼休みに友達らと騒(さわ)いでまた汗だくになってしまう。

 音楽の授業で今から使うこの音楽教室も、どこからか煙(けむ)った雨の湿気が入り込んでいて、机の上が水で薄(う)っすらとスプレー塗装をしたように、小さな水の粒子だらけになっている。

塩っ気のある汗ばんだ腕(うで)が触(ふ)れると、粘(ねば)ついて不快感が目一杯だ。

音楽教室は正面に黒板で、その前に教壇と教卓が有る。

手前に少し広く間を空(あ)けて階段状に机が並べられているので、生徒達からは先生を見下ろす形になる。

先生の声や呼(よ)ばれて前でさせられる歌唱や演奏が、みんなに良く聞こえるようにと考慮した造(つく)りなのだろう。

 この音楽と夏の体育の授業が一番嫌(いや)で苦痛だった。

夏の体育の憂(うれ)いは泳(およ)げないからだ。

 少し広い間の右側には黒光(くろびか)りして威圧(いあつ)感(かん)の有るグランドピアノが置かれている。

こいつも憂鬱の原因だ!

いつかピアノを使う授業になって練習させられる。

そして、順番に課題曲の発表演奏を遣(や)らされるのだ。

 それはきっと、音痴でリズム感の無い僕が、赤(あか)っ恥(ぱじ)を掻くのに決まっている。

 土砂降(どしゃぶ)りの雨の中、帰り道が分からず走り廻(まわ)った挙(あ)げ句(く)、転(ころ)んで階段から落ちた時と、同じような不安が気持ちを暗くして行く。

 脛(すね)と膝(ひざ)の皮が捲(めく)れ上がり、赤い肉の中の生(なま)白(じろ)い物を蹲(うずくま)って泣きながら見詰めていた。

打ち付ける雨が涙(なみだ)と血を洗い流すけれど、涙も血も止まってくれない。

結局、通り掛かった親切な大人の人に近くの交番へ連れて行かれ、手当てをして貰(もら)った。

(夏の体育は仮病(けびょう)を使えるけど、音楽は見学できないし、誰(だれ)も助けてくれないな)

 諦(あきら)めきった遣る気の無さで、暈(ぼや)けた視線をグランドピアノから手前に戻(もど)す。

(ん!)

 気になる後ろ姿に、視線を二列斜(なな)め前で停めて焦点を合わせた。

(彼女だ!)

 あの四角い爪の彼女が僕より前の席に座っている。

あれから彼女とは話していない。

 教室の席位置(せきいち)は、背の低い僕が教卓の直ぐ前で、彼女は後ろから二番目の窓際だ。

彼女の席とは離(はな)れていて一日中、殆ど視界には入らない。

それに班分けでいっしょになった事も無い。

きっと、彼女は異世界人なのだから、いつも違う時空にいて近くに来ても分からないのだと思う。

 音楽教室はその造り上、背の高さに関係なく好きな所に座って良い事になっている。

早い者勝ちで、今日の僕の席位置は後ろの方だ。

 いくら考(かんが)えても、四角(しかく)い爪(つめ)とピアノ(ぴあの)がうまく繋(つな)がらない。

鍵盤を敲(たた)くだけで爪の先が潰(つぶ)れるのだろうか?

そして潰れた爪は成長できなくて平らになってしまうのだろうか?

僕の乏(とぼ)しい知識では、そう考えるのが精一杯(せいいっぱい)だった。

ピアノを習っている彼女にとって音楽は、楽譜を読めて趣味や遊びと同じように気軽な感じで楽しめるのだろう。

 娜(しな)やかそうな背中と、横の友達に明るく話し掛ける仕種(しぐさ)が余裕と楽しさを放(はな)ち、僕はそんな彼女を羨(うらや)ましく見ていると、急に懐(なつ)かしい気がして、なぜか来年の桜を眩(まぶ)しそうに眺める彼女の姿が浮かんだ。

その時、中学生になった彼女は何を想い、何を考えているのだろう。

再来年(さらいねん)も……、その次の年も……。

 前半はみんなで合唱だ。

「揃(そろ)ってないわね。そっちの端(はし)から一人づつ歌ってちょうだい」

(あっちゃー!)

 左の前から一人ずつ音程のチェックが始まった。

三人が音程を外(はず)して、遣り直(なお)しをさせられていたが二、三回でクリアした。

 案の定、僕は『夏の思い出』の音程を思いっ切り外した。

酷(ひど)い外しでクラスのみんながゲラゲラ笑(わら)う。

前方の列の子達は振り向いて僕を笑っている。

みんなに笑われながら見られて自分の顔が火照(ほて)り熱っぽくなって行く。

そして、晒(さら)し者(もの)にされている恥(は)ずかしさと焦りと緊張はみんなの笑い声を小さくしてくれて、やがて聞こえなくさせた。

先生の歌い直しを命じる声も途切れ途切れにしか聞こえない。

自分の外しっぱなしのアカペラで歌う鼻声だけが妙(みょう)にはっきりと聞こえていた。

「もういいわ。次の人」

 五回目で先生は『フゥ』と溜息(ためいき)をついて、そう言った。

(先生に、見限られてしまっただろうな……)

 音程を外した自覚と見限られた事実が惨(みじ)めで恥ずかしい。

既(すで)に僕の顔は茹(ゆ)でた香箱蟹(こうばこがに)や大正海老のように、鮮(あざ)やかに真(ま)っ赤(か)なのだろう。

これ以上は唄えない。

もう俯(うつむ)かないように顔を上げているだけでいっぱいいっぱいだ。

クスクスとまだ収まらない笑い声の中、座りを直しながら僕を見ている彼女が見えた。

(彼女は、笑っていない!)

 頬杖(ほおづえ)をしたまま振り向いている顔は、工作室の黄ばんだ石膏像のような無表情だ。

黒目(くろめ)勝(が)ちな瞳は瞬(またた)きせずに、取り壊(こわ)し中のビルの崩(くず)れた壁面から内部の破砕(はさい)具合(ぐあい)を探るみたいに、僕のバサバサでボソボソになった粗雑な内面を見透(みす)かしているように思えた。

 彼女に軽蔑(けいべつ)された、そんな感じがしていた。

 汗が吹(ふ)き出し、息が荒(あら)くなる。

僕はもう、赤色を通り越して黒くなりそうだ。

冬の鉛色(なまりいろ)の夕方、夜の帳(とばり)が下(お)りだす暗い西の空に、真っ黒い山脈ような高く迫る雪雲に感じるのと同じ不安が僕を襲(おそ)う。

暗い孤独な気持ちで朦朧(もうろう)と時間を過(す)ごす中、彼女に順番が回って来て無難(ぶなん)に歌い終わった。

別に是(これ)といって上手いわけでなく、みんなと同じように普通に歌っていた。

 だけど僕は、この普通に歌う事ができない。

 彼女は歌い終わると後ろへ振り返ろうとした。

でも、途中で思い留(とど)まったのか正面に向き直して座ってしまう。

半面まで振り返った彼女の顔は誰(だれ)か親しい友達に向けるように明るく回されたのに、一瞬、僕と視線が合ってしまった目だけがギロリと睨(にら)み、横顔の僕を見た瞳は雨模様(あめもよう)の空を見るように艶(つや)が消えていた。

……今のは、僕を上から目線で見ようとしたのか?

 彼女以外のクラスのみんなは僕の番が済(す)むと、僕には無関心になっているのに、彼女だけが歌い終わると手本にしなさいとばかりに僕を見ようとした。

酷い音痴で何度も遣り直されたのが、そんなに愚(おろ)かで鈍(にぶ)く思われて、同情される事なのだろうか?

(なんだぁ……?)

 嘲(あざけ)るでもなく、蔑(さげす)みでもなく、悲(かな)しくて寂(さび)しそうな僕を哀(あわ)れむ瞳が気になった。

僕は彼女に嫌われるような事を、何かしたのだろうか?

 授業の半(なか)ば頃、やっと『夏の思い出』が終わった。

次は縦笛だろう。

これならなんとか、みんなに合わせられる。

あと二十分ほどで音楽の時間も終わる。

今日の授業は音楽が最後だ。

 雨はまだ降り続いている。

高い湿度に肌が溶けて流れそうな大気の中を、歩いて帰るのは憂鬱だけど、ここには居(い)たくない。

「誰か、ピアノ弾ける人。ピアノ習っている人いる?」

 先生の高い声が響く。

(あ~あ、次からピアノか~)

 とうとうピアノが使われる。

恨(うら)めしくグランドピアノを見ると、視界を分断するように誰かの手が、ゆっくりと上がって行く。

「はい! 習っています」

 彼女が手を挙げていた。

「じゃあ、何か弾いてくれる? ここに来て座って」

 先生は彼女にピアノのイスに座るように促(うなが)した。

彼女は立ち上がり軽い足取りでイスの横に立つ。

ゆっくりと丁寧(ていねい)に鍵盤の蓋(ふた)を上げてイスに座り、調律(ちょうりつ)を確(たし)かめるように幾つかの音を出した。

「何を弾いてくれるのかな?」

 彼女の仕種を感心するように見ていた先生が訊いた。

「別れの曲」

 さり気ない口調だけど、はっきりとみんなに聞こえる声で言った。

(別れの曲!?)

 聞き慣(な)れない単語に、僕は頭の中を大急ぎで探(さが)す。

 彼女は座る位置を何度か整(ととの)え直し、それから姿勢を正して顔を上げた。

何かを探すように動いた視線は僕で止まり、彼女の目と口が笑う。

それは一瞬で、僕がそう見えただけかも知れない。

直ぐに目を細めながら息を吸い込み、そして彼女の演奏が始まった。

(ああっ、聞いたことがある。知ってるぞ)

 テレビのドラマかクラシック音楽の番組で聴(き)いた曲だ。

彼女は本当にピアノを弾けていて、それも上(じょう)手(ず)に弾いている。

彼女の弾(はじ)く一音、一音が響きながら体中の隅々(すみずみ)まで駆(か)けて行く。

鍵盤を敲く彼女は楽しそうで眩しく見えて、悲しい調(しら)べなのに青空に湧(わ)き上がる雲の白い峰を、楽しげに飛び渡る彼女が重(かさ)なるように見えた気がした。

 異世界人が天空の彼方(かなた)の人になってしまった。

もう重力の底の地上を歩いてはいけない。

僕は見上げる人だ。

彼女は下を向いては……、そう地上や地面を見てはいけない。

これから音楽の授業を僕は、顔を教壇脇のグランドピアノに向けて、心は彼女を仰(あお)ぎ見るだろう。

ピアノを弾く彼女と調べは、赤っ恥なんか吹き飛ばして、梅雨の曇り空のような気持ちを晴れ渡らせてくれるだろう。

驚きは憧(あこが)れになり、音楽の時間が少し楽しみになった。

 演奏が静かに終わる。

教えた人が優(すぐ)れているのか、彼女のセンスが良いのか分からないけれど、終わり方も上手だ。

(凄(すご)いな!)

 暫く余韻に浸(ひた)りたかったのに、みんなが拍手(はくしゅ)をした。

喧(やかま)しい拍手の中、彼女は鍵盤に向いたまま目を瞑(つむ)り深呼吸をしてから顔を上げた。

満足げな顔で少し微笑んでいるように見え、そして、その顔を笑顔に変えると目が笑いながら開いた。

 その笑う目の視線が動いて、また僕を探し出して一瞬、彼女の鼻筋と眉間(みけん)に皺(しわ)が寄る。

余韻に浸ろうと努力する僕は拍手をしていない。

僕だけが拍手をしていなかった。

拍手を忘(わす)れた僕を瞬間、眉端(まゆはし)を持ち上げ縦皺を眉間に刻(きざ)んだ彼女が咎(とが)めていた。

「アンコール!」

 鳴り止まない拍手の中、誰かが言った。

直ぐにクラスの半数が声を揃えてのアンコールになった。

更(さら)に、みんなの声は大きくなりそうだ。

彼女は俯き加減に鍵盤を見詰めて、アンコールに応(こた)えるタイミングを計(はか)っているように見えた。

(弾くのか?)

「あなた、うまいわね」

 先生の声で拍手とアンコールを願う掛け声が止(や)んで、みんなの霧散(むさん)し出した期待を追うように僕の冷(さ)めて行くテンションが天井を見上げさせる。

(あ~あ、余計な事を……。先生の方がタイミング、うまいですよ)

 アンコールに応えて、もう一曲弾いてくれそうな気配が消えた。

「私の練習曲なんです」

 先生の褒(ほ)め言葉へ控(ひか)えめに返す彼女の冷(つめ)たい声が、静かになった音楽教室に響く。

「そう、ピアノを習っているのね。いいわ。あなたには次から伴奏(ばんそう)をして欲(ほ)しいの。できるわよね? してちょうだい!」

 先生は、辞退は許(ゆる)さないと言わんばかりに矢継(やつ)ぎ早(ばや)に言葉を強くして行く。

児童教育のセオリーなのか、ワンパターン的に同じような言い方をする先生は多い。

 爪が変形するほどピアノを弾く彼女は、きっと伴奏をしたいだろうと思う。

でも、

(伴奏だけなら先生が自分ですりゃあ、いいじゃん!)

 天井の煤(すす)けた隅(すみ)を見ながら何度も遣り直しをさせられたアカペラの憤(いきどお)りと、アンコール曲を聴けなかった詰まらなさに気持ちが反抗的に騒ぐ。

「いやです!」

(断(ことわ)った!)

 『断るわけがないだろう』と思っていた僕は驚いた。

教室中がどよめいた。

(えっ! なんで断るの?)

 断る不可解(ふかかい)さに見上げていた顔を戻し、僕は彼女を見た。

(ぎょっ?)

 なぜか彼女は僕を見ている!

顔を逸(そ)らさずに僕が彼女を見る前から、じっと僕を見ていたのだろうか?

「私は歌いたいんです。伴奏はしません」

(歌いたいのか!?)

「先生は、あなたにして欲しいと、御願いしているのだけど」

 先生の言葉に呆(あき)れと願いが混(ま)ざる。

「いやです!」

(また言った。でも、なぜ、僕を見ながら言うんだろう?)

 彼女は鍵盤の蓋を静かに閉じてイスを戻した。

そして、行った時と同じ跳(は)ねるような軽い足取りで席に戻って来る。

彼女の言い切る言葉遣いと悪(わる)びれない態度に、みんなは圧倒されて声も出ない。

誰も彼もが唖然(あぜん)として彼女に意見を言えなかった。

僕の気持ちの中で騒ぐ反抗性(はんこうせい)など、さらりと拒否権(きょひけん)の発動を実行する彼女の足許(あしもと)に平伏(ひれふ)すしかない。

 彼女は、みんなの前でピアノを弾いてみたかっただけなのだ。

(ピアノだけでなく、態度もかなわないや)

 階段を上がって来る彼女は口許に薄く笑(え)みを浮かべて、まるで学園物アニメの小悪魔的美少女みたいに思えた。

その顔が席に座ろうと横を向いた途端(とたん)、しょんぼりとメゲた表情になって俯き、そのまま正面を向いて座った。

ワザとらしく肩を落としてみせる後ろ姿の態度と僅(わず)かに見せる赤く恥じらう頬(ほほ)が、僕には切(せつ)なくも羨(うらや)ましく思えてしまう。

「仕方(しかた)が無いわね。じゃあ、他に弾ける人は?」

 先生は自分のテリトリーに発生した負の因子(いんし)を『仕方が無い』カテゴリーへ除外して、結局、ピアノを習い始めたばかりの男子に決まった。

はっきり言って彼は下手(へた)だ。

音楽の授業は、また憂鬱で苦痛の時間に戻る。

 四角い爪の天空人(てんくうびと)は、憧れを通り越して畏(おそ)れになった。

僕のような地上人とは、口を利(き)いてはいけない。

直接見るのもだめだ。近付くのも、向き合うのも許されない。

そして僕には、彼女が見えなくなった。

 その後、彼女は要注意児童のカテゴリーに入れられたようで、先生達の彼女を見る目付きや表情が変った。

彼女に対する態度も余所(よそ)余所(よそ)しい感じになり、順番で指名する時にも短い間が入るようになってしまった。

 そんな、先生達に睨まれるようになった彼女を、クラスのみんなは避(さ)けているみたいで、元々、話しても言葉足(た)らずで無口な彼女は、その口の利き方からも誤解や反感を招(まね)き易く、みんなからそれとなく敬遠されていたのが、今や、はっきりと距離を置かれている。

それ以後、彼女が話題になる事も無く、また、僕が彼女に話し掛ける機会(きかい)もなかった。

 せっかく、みんなからアンコールが掛かるほどのピアノ演奏をしたのに、サディスチックな先生に一度逆(さか)らっただけで、関係したり仲良(なかよ)くしていると思われたくないばかりに、僕も含(ふく)めて人の気持ちなんて冷たいものだ。

 一学期の出来事は、だんだんと記憶が薄れ、中学への進学で彼女とクラスも別になり新しい友達が出き始めると、僕の天空人への想いも薄れてしまった。

でも、あの上目遣いと四角い爪は、ずっと忘れられない。

 

 つづく

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