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遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

桜の匂い (私 大学三年生)桜の匂い 第十章 壱

 いつか使いたくてウズウズしていたスタンガンを、勢(いきお)いに任(まか)せて思いっ切り電撃させまくった『危(あや)うし乙女(おとめ)の夜』以来、私の苛付(いらつ)いた気分は無くなった。スタンガンは今も催涙(さいるい)スプレーやフォールディングナイフと共に、バックの底に入っているけど、あれから一度も使っていない。

     *

 明日は、落とせない大学の授業があるから、どうしても今夜の飛行機で金沢(かなざわ)市から相模原(さがみはら)市へ戻(もど)らなければならない。それは学業として大事な授業だけど、大学の敷地内に在る付属病院で、先日、偶然(ぐうぜん)に見掛けた事象(じしょう)が自分の将来に不安と迷(まよ)いを持たせて、医療(いりょう)技師(ぎし)の仕事の魅力(みりょく)を急速に失(うしな)いつつあった。

 最初それは、噯(おくび)が出るような軽い不快(ふかい)感で、私は敢(あ)えて気に留(と)めないようにしていた。だけど意識して忘(わす)れようとすればするほど、目に焼き付いた場面が思い出されて圧迫(あっぱく)されるようなムカつきを感じた。日が経(た)つに連れてムカ付く気持ち悪さは酷(ひど)くなり、今では思い出すだけで、吐(は)きそうになるくらい嫌悪(けんお)している。

 スタンガンで始末(しまつ)したファーストキスのザラつきとは異質に違う。排除(はいじょ)した卑劣(ひれつ)な先輩のとは違う意味の嫌悪感に私は悩(なや)まされていた。でも、この迷いも、悩(なや)みも、彼なら救(すく)ってくれると思う。

(あなたは、私の守護神(しゅごしん)でしょう。私を助けて……)

 それよりも、まだ彼と出逢(であ)えていなかった。予感は有るのだけど見付けられない。学業の悩みなどよりも、今の、私の最優先事項は彼を探(さが)して出逢う事だ!

 いつも、いつの間にか、無意識の内に私は彼を探している。相模原でも、横浜(よこはま)でも、そして今、金沢でも……。通り一つ一つで、角(かど)を曲がる度(たび)にも、いるはずがないと分かっていても、もしかしてと思いながら彼を探していた。視線の配(くば)りが、焦点(しょうてん)の合わせが、自然と彼を捜(さが)していた。

     *

 以前、前まで行った事が有る彼の金沢市の住所を再(ふたた)び年末に行ってみたけれど、もうそこには、私の覚(おぼ)えていた入母屋(いりもや)造(づく)りの家は何処(どこ)にも無くて、違う苗字(みょうじ)の表札で真新しい洋風の家が建(た)っていた。彼の家族は去年に引っ越していて、その新築の家の人に行方(ゆくえ)を訊(たず)ねてみたが、転居先どころか以前の土地所有者の名前さえ知らない無関心さに、何だか虚(むな)しくて切(せつ)ないセンチメンタルな気持ちになってしまう。

 私も同じだ。他人をロストするのも自分をドロップアウトするのも、またその逆(ぎゃく)も簡単な事だ。私は彼をワザとロストして、携帯電話内の登録リスとから彼の電話番号とメールアドレスを消去(しょうきょ)した。彼とのメールの遣(や)り取りの全(すべ)てをメモリーから消し去った。掛けない電話番号にいちいち打ち込まないメールアドレスなんか記憶しているはずもなく、削除(さくじょ)したメールアドレスに違法なGPSサーチでも居場所を探る事はできない。

 彼と全然関係の無い人達が住む真新しい家を見ながら思う。以前、彼はこの場所に住んでいて、ここから毎朝、私と同じバスに乗り込んで来た。明千寺(みょうせんじ)へもここから来たのだ。

(彼はここで、どんな暮(く)らしをしていたのだろう? 何を考え、どんな思いで毎日通学していたのだろう?)

 私は過去の記憶へ想いを馳(は)せる。だけど、もう彼はここにいない。自分の感情に素直(すなお)になって気持ちを受け入れ、初めて彼の住まいを訪ねると、既(すで)に彼も、彼の家族もいなくて、家すらも無くなっていた。現実は厳(きび)しく、決(けっ)して思い通りにさせてくれない。

 私は彼を意識していたけれど、ワザと私の中で重要な位置付けへ置いていなかった。私は気持の中で彼に好意を持つ事を否定(ひてい)していたから、携帯電話番号も携帯メールアドレスも暗記(あんき)していないし、メモすらもしていなかった。

(彼を失ったのは、自業自得(じごうじとく)だ!)

 年明け早々(そうそう)に、うろ覚えの彼のメール内容から静岡市の会社をインターネットで探し出して連絡をしてみた。彼について分かったのは年末に一身上(いっしんじょう)の理由で退職した事だった。

 退職後の消息(しょうそく)は、『たぶん金沢に帰って、お父さんの仕事を、お手伝いしていると思います』と、応対の電話に出た女性が話してくれた。

 そして、私が誰(だれ)なのか確信しているように、『あの人を、大切にしてあげて下さい』と言って、彼の電話番号を訊(き)く間も無く、一方的に電話を切られた。

(ちょっとぉ、この女なに? あの人? 彼の事情に詳(くわ)しいじゃん! 彼と、どういう関係なの? 感じ悪(わる)!)

『あの人を……』、彼を示(しめ)す、その言い方が気に障(さわ)り、私をザワつかす。

(電話の応対に出た女性は、彼と親しい間柄(あいだがら)だった? ……のかも知れない)

 私の女の感が、彼とはただならぬ関係だったと悟(さと)らせた。言葉から関係が過去形だと伺(うかが)い知れて、それに、私へ譲(ゆず)ったかのように彼を御願(おねが)いしていた。しかも、自分から身を退(ひ)いたような言い方だった。それを問い質(ただ)そうとして、携帯電話画面のリダイアルアイコンに触(ふ)れたけれど、思い直してキャンセルを押(お)す。

(彼に訊けばいい。彼を見付け出したら、問い質して遣ろう)

     *

 彼と連絡を取ろうとした電話の応対で出た女性は、彼の呪詛(じゅそ)がかった酷い中傷(ちゅうしょう)と侮蔑(ぶべつ)のメール『酷い目に遭(あ)わされて棄(す)てられるさ。その時になってから、僕を振った事を後悔しても遅(おそ)いぞ!』と共に、彼を探し出そうとするモチベーションになった。

『彼は金沢へ帰った』と、電話応対の女は言っていた。

 だけど今まで、本当に彼が金沢市に戻っているのか確信を持てなかった。でも今日は不思議(ふしぎ)だけど彼の気配を感じて、出逢える予感がしている。

 満開の桜の中、彼が興味を持っていた金沢城内を巡(めぐ)り歩いてから二十一世紀美術館内の白いカフェへ来た。いつか金沢城の門や櫓(やぐら)のミニチュアを作りたいと彼は言っていた。私が折(お)った流れ旗はそのままに、相模原の部屋で埃(ほこり)を被(かぶ)る西洋城館のミニチュアを思い出す。捨(す)て切れなかった彼の作品。

 あの日、彼と来たカフェの同じ席に着き、あの日と同じプレートをオーダーする。熱いクリームスープが絡(から)んだブリオッシュを口に運びながら、向かいの席に座っていた伏せ目勝ちの彼を思い出してしまう。

『普通に、しゃべれるんだね』

 この私の不用意な一言で急に彼の眼(め)が泳(およ)いで無口になり、背中の痛みの所為(せい)も有ったと思うけれど、オーダーした料理に彼は殆(ほとん)ど手を付けてくれなかった。その後も空の珈琲(コーヒー)カップを握(にぎ)り続ける彼の俯(うつむ)く顔の瞳(ひとみ)を思い出す。やはり無神経な一言だった。

 春だというのに暗(くら)くどんより曇(くも)った空の下、二十一世紀美術館を出た途端(とたん)、湿(しめ)り気と冷気を帯びた風が身体に纏(まと)わり付く冷たさに、私はブルっと震(ふる)えた。

 白いカフェで温(あたた)かいカフェ・オ・レを飲んだばかりだというのに、二十一世紀美術館前に出店していた小型のワンボックスカーの移動カフェで再び暖(だん)を取る。

 逢いたいくせに、会いに来たと知られたくない。出会うべくしての出会いじゃなくて、偶然ばったり逢うのが爽(さわ)やかでいい。探していたなんて知られたくない。温かい豆乳カフェキャラメルを飲みながら巡らした想いで気持ちが塞(ふさ)ぎ沈んでしまう。そんな私の気持ちを暖(あたた)めるかのように陽射しが照(て)り付け始めた。

 見上げると雲が千切(ちぎ)れて疎(まば)らになった空に澄(す)んだ青色が広がっていた。大気が動き出している。辺(あた)りの景色(けしき)が一変に明るくなって、暖められた優(やさ)しい風が春の麗(うら)らかさを乗せて来て頬を擽(くすぐ)る。風が変わった。この感じ……、予感が広がって行く。春風は冷気を吹き払いながら、片町(かたまち)や香林坊(こうりんぼう)から柿木畠(かきのきばたけ)や広坂(ひろさか)通りを抜(ぬ)けて、小立野台へ吹き上げて行く。

 風が光り、その風の中に彼と同じの匂(にお)いが薫(かお)った。……彼を感じた懐(なつ)かしい匂いが出会いの予感を強くさせて、私の全身をプルプルと小刻(こきざ)みに奮(ふる)わせている……。近くに居(い)る彼を知って、素直になれない心に『正直になれ』と、私の身体は彼との触れ合いを求めていた。

(広坂通りを下がり、香林坊へ行ってみよう)

 私は匂いを運んで来た風の方へ向う。風の中に紛(まぎ)れる微(かす)かな彼の匂いを頼(たよ)りに、彼の行きそうな場所の在る通りを歩いてみようと思った。

 途中、市役所前の横断歩道の縁(ふち)で立ち止まり、彼の笑わない顔を思い出す。

(ここで彼は、乗り込んだタクシーのリアウインドー越しに痛い体を振り向かせ、いつまでも私を見詰め続けていた……)

 あの時、私は横断歩道の中程で渡った辰巳(たつみ)用水の傍(かたわ)らで、彼が乗るタクシーが見えなくなるまで、彼の顔を、瞳を、……見ていた。

 香林坊の鞍月(くらつき)用水沿いの裏通りを通って長土塀(ながどべい)まで来た。ここまで来ると彼の匂いを感じられない。

(違う……、ここじゃない。もうここにはいない)

 この辺りにいると感じていたのに彼を見付けられない。彼は風下へ移動している。心は騒(さわ)ぐ。

 彼は、片町のスクランブル交差点を渡(わた)り犀川(さいかわ)大橋へ? あるいは竪町(たてまち)を抜け、新竪町(しんたてまち)を通って桜橋へ? それとも柿木畠を、私がさっきまでいた二十一世紀美術館へと行ったのだろうか? 彼の向かいそうなルートを選ぶ。

(一人で犀川の川縁(かわべり)には行かないわよね。いくら岸辺の桜が満開でも、彼は一人じゃ行かないよねぇ)

 今日、彼は一人でいると勝手(かって)に決め付けていた。中学校での人気や弓道(きゅうどう)でのモテ具合から、連絡を取っていた女子がいてもおかしくない。そんな女子と金沢に戻ってから急速に親(した)しくなっていて、今日はデートしているのかも知れないのに……。静岡市の会社の電話に出た女のような恋人が、金沢にいても不思議じゃない……。

 でも……、私の想像する彼はいつも一人でいた。私は理由や根拠(こんきょ)も無く勝手に、そう確信して信じていた。故意(こい)の拒絶と自然な寛容(かんよう)を繰り返し、彼とのラストタイムは一方的な絶対拒絶で終焉(しゅうえん)している。全く私の独(ひと)り善(よ)がりも良いとこだ。

(どこかで行き違ったのかも知れない。……戻ろう。彼の懐かしい匂いがした場所へ……、彼を感じたところへ)

 彼は見てくれだけの安易な場所は選ばない。常にクリエイティブであり、イマジネーションを高め、インスピレーションが湧(わ)くように努(つと)めていたのを、私は分かっている。絶対にそんな場所へ彼は行く。

 焦(あせ)る気持ちで私は二十一世紀美術館へ戻る事にした。戻りのルートは彼の趣味と趣向から柿木畠の路地(ろじ)を選んだ。

(二十一世紀美術館に着くまでに彼と逢えなければ、兼六園下(けんろくえんした)からバスに乗り、金沢駅へ向かおう)

 二十一世紀美術館に着いたら、そこで……、それで、彼の捜索は終りにする。そして私は駅周辺で程々に時間を潰(つぶ)してから、小松空港行きのリムジンバスに乗るだろう。突発的な問題がルートに起きなければ、相模原の部屋へは夜半前に戻れるだろうと考えていた。

 次は夏休みに金沢へ帰って来る予定。その時も今日のように彼の気配や匂いを感じられるか分らない。

 出逢えない時間の経過(けいか)に想いが薄れ、離れる気持ちは彼の切れた糸を手繰(たぐ)り寄せようにも、糸を見させてくれない。既に彼の糸は別の新しい糸と繋(つな)がっていて、私の彼と繋がる望(のぞ)みを叶えるには遅過ぎてしまう。そして、その先の長い人生で再び二人が交(まじ)わる事は無い。

(ずっと彼を追い詰めていた私に相応(ふさわ)しい、虚しくて、寂(さび)しい、そして悲(かな)しい結末だ)

 そうならない為にも私は、心から彼と出逢いたいと切に願った。

(お願い神様。彼に会わせて……)

 香林坊坂下の信号を渡り柿木畠の通りに入る。通りは千切れ雲の影で薄暗(うすぐら)いけれど、小さなブティックが犇(ひし)めく通りは春のウィークエンドらしく、多くの人が行き交(か)っている。私の瞳は次々と現(あらわ)れる人達の中に彼を探す。

(んん!)

 柿木畠の広見(ひろみ)の向こう、狭(せま)い通りから歩いて来る一人の男の人が目に留まった。その人は私と同じくらいの歳で上背(うわぜい)が有り、落ち着いた感じのカジュアルウエアはシックな色合いにコーディネートされ、品藻(ひんそう)良く見える。

(彼……?)

 彼のように見えたけれど違ったのかも知れない。男性の独り善がりじゃないセンスの良さが、私の記憶を惑(まど)わせて彼なのか、判断を鈍(にぶ)らせた。疑(うたが)うように目を凝(こ)らしながら視線を流そうとした。

 だけど、流れて行くはずの私の視線は流れずに、暈(ぼ)かして深度を変えるつもりの瞳のフォーカスはピンポイントに絞(しぼ)られて行く。目を凝らすと、直(す)ぐに見間違いじゃないと分かった。

「あっ!」

 思わず悲鳴のような声が小さく漏(も)れて、そのまま息が詰まってしまう。

 その時、空気が彼の匂いに変わり、まるで世界が静止したかのように、とてもとてもゆっくりと動いて、連続していた時間や音が点にしか感じられなくなった。色彩豊(ゆた)かな明るい光の粒(つぶ)で構成された一枚の絵のように見える。頬を擽るように優しく触れているのは風だと思う。

 全てが切り取られたかのように止まって見える今、時間の中に瞬間が在るのではなく、瞬間の中に時間が在るという異質な考え方も解(わか)るような気がした。明るく光る絵のように見える瞬間の中心に彼がいて、その瞬間の中で私は彼を見ている。時間がアニメーションのセル画のように一つ一つの瞬間の連続だとしたら、彼に気付いた瞬間が、私の瞬間が連続していた時間を一瞬だけど確(たし)かに静止させた。

 一瞬の静止画は直ぐにコマ送りのように動き始め、連続する繋ぎ目の無い画面はいつもの滑(なめ)らかな動に戻った。そして私の視界の真ん中に彼がいる。

 でも、視界の真ん中に見える彼は、以前の彼じゃない。

(見付けた! でも、本当に彼なの?)

 私の五感の意識は彼だと認めているのに、以前のイメージと違い過ぎる外見の彼を私の想いが、まだ疑っていた。

 そのイメチェンした彼を認めたくないのに、こちらへ歩いて来るのは確かに彼だ。胸がドキドキして私の想いが塗り替えられて行く。彼の新たな色に想いが染まるのといっしょに、私の中でピアノが聞こえた。小学六年の音楽の授業で弾けなかった二曲目。私は短い坂の下に在る小さな公園の前で立ち止まった。

 彼のファッションセンスが違っている。自分の都合(つごう)だけの楽な格好(かっこう)じゃない。自分をアピールしていっしょに集(つど)う人達に気持ち良く受け入れられる服装だ。大桟橋(おおさんばし)の時よりも、ずっと洗練(せんれん)されてクールに見える。

(イメージチェンジは、自分で気付いて、学(まな)んだのかしら……?)

 いや違う。絶対に誰かにアドバイスされたセンスが身に付いている。彼の歩き方も以前とは違う。

 どこと無く妙(みょう)に落ち着いて、しっかりと地に足の着いた物腰(ものごし)に感じた違和感(いわかん)が、私の知らない彼を詮索(せんさく)させる。

(なに? その腰の落ち着きは……! さては女を知ったかな……? ファッションセンスを変えさせた相手は、同じ、あの電話の女性? えっ、なになに! ……彼を変えさせるなんて……、あの女は何なのよ?)

 やはり電話の応対に出た女性は、彼とただならぬ関係だったのだと分からせ、彼に多大な影響を与えたのを私に見せ付けた。

(今も、関係が続いているのかしら? でも、電話の女性は『あの人を大切にしてあげて下さい』と、私に言ったじゃない。だったら、今は……)

 電話の女性と終わっているのか、そもそも親密な関係だったのか、確信が持てなかった。それに、さっきも考えたように金沢で親しくしている女性がいて、これからデートへ向かう予定で今はたまたま一人でいるだけなら、私は軽(かる)い挨拶(あいさつ)を交わされるか、素通(すどお)りで無視されてしまう。そして、彼は既に私への想いなど失っているのなら、もう、どうしようも無いかも知れない……。

 いくら私が一方的に彼を切り離していたとしても、僅(わず)か一年半足らずで彼を変えてしまうほどの女性が彼にいた事と、彼が私より先にディープな異性関係を経験しているだろうと思える事、それに、彼を変えたのが私じゃなかった事に、とてもショックを受けたけれど、今は、それより先にすべき事が有る。

(すべき事が叶(かな)った後、それはいつでも訊けるわ……)

 彼は私に気付いた!

 驚きと戸惑(とまど)いと気不味(きまず)さが、彼の顔に次々と表れて表情が歪(ゆが)む。彼は躊躇(ためら)うように立ち止まり、俯いてから祈るように空を見上げた。

 でもそれは一瞬で、直ぐに私を見据(みす)えて意を決したように、しっかりした足取りでゆっくりと近づいて来る。

 太陽が雲から抜け出て辺りを春の陽の淡(あわ)く麗らかな光りで満たしていく。

(私が一方的に断絶した一年半、彼はどう過ごしていたのだろう?)

 暖かな光りで明るく照らされた彼の顔が違って見える。大人びた精悍(せいかん)さが有った。弓道場で見た凛々(りり)しさじゃなくて、生活感が漂(ただよ)う逞(たくま)しさだ。

(女性の事にしても、私の知らない、いろんな事が有ったのだろうな……)

 私を見据える彼の瞳は、彼の意思と春の陽射(ひざ)しに輝(かがや)いている。

(彼はいつも夢を持って目指している。……夢を諦(あきら)めない)

 私はそれを羨(うらや)ましく思っていた。

「やっ……、やあっ……」

 彼の少し微笑(ほほえ)んだ顔の唇(くちびる)が動いた。私は黙(だま)って会釈(えしゃく)をする。

「久しぶり、金沢に来ているんだ」

 まるで県外に嫁(とつ)いでいったクラスメートだった女子に、同窓会で再会した時に言うような挨拶だ。挨拶の言葉に彼を遠くに感じてしまう。

(ああっ、やっと逢えたのに、そんな言い方をしないで)

 他人行儀(たにんぎょうぎ)な彼の挨拶にショックを受けながら、余裕の有る寛大で尊大(そんだい)な挨拶を返そうと努める。

(さあ、さり気無くクールに話すのよ。私)

「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、履歴(りれき)を全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも変えたわ」

(私、いきなり何を言っているの。全然クールじゃないわ。また彼に酷いことを言っている)

 彼は戸惑い、薄く微笑んだ顔が悲しみで溢(あふ)れた。

「だから、あなたにメールできなくしたの」

(違う、なに駄目(だめ)押(お)ししているの! こんな話をしちゃだめ)

 さり気無くクールに言おうと思うほど、歯切(はぎ)れ良く酷い言葉が出てしまう。言葉が上手(うま)く見付からない。気持ちが高まり、胸が一杯になった。息がうまくできない。

「そうだったんだ。全然繋がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は君に随分(ずいぶん)と嫌われていたんだな」

 悲しみに寂しさを重ねられた表情の彼は、そう言って直ぐ近くの広見脇に在る小さな公園へ行くとオブジェのようなベンチに座り、俯いて両手で顔を覆(おお)った。

「君の気持ちを全く考えていなかったんだ。僕の都合だけの好意は一方的だった。君を、どうにか僕だけの女にできたと、苦労してやっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換(か)えにしてもいいと思ってしまっていた」

 彼は声を少し震わせながら素直な気持ちで話している。

(もうクールなんて、どうでもいい。私も素直に……、素直に私の心を伝えるのよ)

「違うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」

 彼の顔が暈やけて来て良く見えない。私はしゃべりながら泣(な)いている。

「僕は、何度も君にフラれたよね。その度に、どうすれば君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰(もら)えるように努力したんだ」

 彼は私を見ながら穏(おだ)やかな口調で静(しず)かに、でも、はっきりと聞こえるように話す。

「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)話し掛け辛(づら)くなって、察(さっ)しも、思い遣りも、気配(きくば)りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再びってわけじゃないから、もう安心してくれ」

 私が見詰め返しても、その瞳は逃(に)げない。

「君が元気そうで何よりだよ。……幸(しあわ)せなんだろう?」

(まだ……、幸せになってないよ……)

 彼の涙ぐんだ瞳は、優しい眼差(まなざ)しで私を見詰めている。だけど、彼の視線は私を通り越して遠くを見ている気がして、頬(ほお)をポロポロと温かい涙が、いくつも、いくつも、流れ落ちて行く。

「最後のメールで送った『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」

 私を見上げる彼の暈やけた顔からは、とても悲しんでいるのが分かる。

(そうじゃない……、彼はまだ、わかっていない)

「私、わかったの」

 もう泪(なみだ)で滲(にじ)んで彼の顔が見えない。

(どんな顔で私を見ているの。でも、嫌(きら)われていても、はっきりと彼に伝えなくちゃ)

「あなたが、私を大切にしていたことが…… どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」

 私は彼の前に跪(ひざまず)いて彼の手を握(にぎ)った。話しながら彼に顔を近付けていく。彼の顔をもっと良く見たい。

(私に、あなたの顔を、もっと良く見せて)

 彼は驚(おどろ)いた顔で私を見詰めていた。

「あなたは、私が嫌いな、私の残酷(ざんこく)で冷たい部分を、いつも受け止めていてくれたわ」

(それを私は、ずっと気付いていなかったの)

「僕は、君を嫌(いや)な人だと思ったことはないよ」

 彼は、私の手を握りかえしてから、乱(みだ)れて垂(た)れ下がった私の髪(かみ)を分けて頬に触れた。陽射しのように暖かで安(やす)らぎを感じる手だ。初めて彼から私に触れた。

(暖かい……、もっと私を温めて)

「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕はいつも不安だった」

 彼の手が小さく震えている。

「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは間違(まちが)っていたの。あなたは私にいつでも一生懸命(いっしょうけんめい)だったわ」

 涙が一杯流れている。手で拭(ぬぐ)うけど拭い切れない。

「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖(こわ)かった。でも、そうなってしまったよ」

 涙が彼の頬を伝う。彼も泣いている。

「僕でなくても……、君に…… 相応(ふさわ)しい人がいるよ」

 自分へ諭(さと)すように言う彼が、愛(いと)おしい。

「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。好きなのがわかったの」

 彼は信じられないという顔で私を見ている。

「あなたじゃないと嫌なの。……じゃないと私、ダメなの」

 鼻声で、悲しさや戸惑いや嬉しさが、複雑に入り混(ま)じった優しい顔の彼に問(と)う。

「……まっ、まだ、間に合うの? 私、まだ間に合う?」

 手足の指先から頭の奥や身体の芯(しん)まで掻(か)き集めた私の勇気を全部出して、顔が強張(こわば)るのを感じながら彼に訊いた。やっと言えた自分の声は小さく震える身体と同じで、か細く震えている。焦りと不安が絶望色に変わって私の明るい未来への想いを圧(お)し潰して行く。諦めの悪さが堪(た)え切れなくて、もう大声で泣き叫(さけ)びそう。

「……いつも、僕は探していたよ。いつか、どこかで君に会えると信じていた。その時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」

 暗い不安と焦りの広がりに奈落(ならく)の淵(ふち)へ追い込まれて、迫(せ)り上がる暗黒の絶望に掴(つか)み掛けられている私は、彼の言葉に絶望から救われて行く。だけどまだ、不安は消え去ってくれない。

(そっ、それって……、あなたも私を探していたの? ああっ、わっ、私もよ。あなたを探していたわ!)

「今……、おっ、お付き合いしている女性(ひと)が、……いるの?」

 電話の女性は、彼が私に想いを寄(よ)せていた事を知っていた。彼と女性が親密な関係だったとしても、『大切にしてあげて』の言葉通りの過去形で彼を縛(しば)ってはいない。それでも、以前と違う感じがする彼に不安を抱(いだ)いてしまう。

「いないよ」

 あっさりと彼が言った。そのストレートで軽い返答に思い出すべきじゃないはずの、スタンガンで痛めつけた男の嫌なタバコ臭(しゅう)が重(かさ)なった。

(……本当に?)

 私が望んでいた事を彼は言ってくれたのに、私は素直に信じられなくて疑ってしまう。

「私でいいの? 凄(すご)く酷いことを言ったし、とても冷たくしたわ」

 私の問い掛けに彼は、はっきりと頷(うなず)いてくれた。

 ポロポロと私の両頬を伝って涙が落ちている。あとからあとから涙が溢れて止まらない。

「わぁーっ」

 遣り場のない気持が込み上げて私は大声で泣いた。彼を蔑(さげす)み無視したことへの後悔(こうかい)と懺悔(ざんげ)。逢いたくて探していた、繋げたい望み。間に合わないかも知れない不安と焦り。逢えた喜(よろこ)びと安心した気持ち。私を受け止めて抱(だ)き締(し)めて欲(ほ)しい願い。彼の変わらない優しい言葉。そして、今の今まで彼を疑っていた事への懺悔と『彼が好きだ』という強い私の想いが混じり合い、いっぱいになっていた心が解(と)き放されて更(さら)に大きな声で泣き続けた。

「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」

 しゃくり泣きながら許しを請(こ)う甲高い声は、途切れてばかりの小さな悲鳴のようになってしまう。まだ私の想いを言えていない。

(大きな声で言葉を、はっきり聞こえるように言わなくちゃ。今、言うのよ。さあ、彼の中の私に届くように言って)

「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」

 鼻がくっつきそうな近さで、ヒクヒクと泣きじゃくりながら、やっと言えた。

「今でも僕は……、君に好きになって貰えるように、がんばっているんだ。だから僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。そこは、とても広くて僕の全てなんだ」

(ああっ、彼はいつも優しい。……嬉(うれ)しい)

「僕は、君に初(はじ)めて声を掛けたあの日から、ずっと君が好きだ」

 携帯の画面に三度表示され、手紙で二度伝えられ、そして電話で叫ばれた彼の言葉を、初めて彼の口から直に聞いた。

 携帯電話の向こうで叫ぶ彼の声を思い出す。通話を一方的に切るまで、携帯電話の小さなスピーカーを何度も震わせて聞こえていた彼の叫びを思い出した。彼の私への想いは少しも変わっていない。

 握った私の手を彼は自分の頬に触れさせた。拭(ふ)いた涙に濡れて、鼻水と涎(よだれ)で汚(よご)れた私の手に彼の温かさが伝わる。涙で濡(ぬ)れた温かい彼の頬……。ビクッと私は反射的に手を引こうとしたけれど、握る彼の手に力が入り私の手を逃がさない。

「手が……、汚れて、汚いよ……」

 触れる掌(てのひら)に、彼は頬を強く押し付けてくる。

「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」

 彼が握る、彼の温かい頬に触れる私の手を、彼は好きだと言ってくれる。四角い爪(つめ)だと言わずに愛しい指と爪と言ってくれた。

 私は愛おしさで彼に抱き付いた。頬ずりした彼の頬に熱(あつ)い涙を感じて、言葉が途切(とぎ)れた彼の唇に、そっと唇を重ねる。暖かい春の陽射しと風の中、彼と初めてキスをした。

 ヒクつき震える肩に彼の腕が優しくまわり、そしてしっかりと私を抱きしめてくれた。

「あなた、が、好き、よ」

 唇を重ねながら漏れ出る息に乗せて掠(かす)れる小さな声で言った。

 彼の滑らかで弾力の有る唇が、唇に残っていたザラついたファーストキスの感触を打ち消していく。上唇と下唇が彼の唇に交互に吸われて軽く噛まれた。舌先でなぞられる唇がサワサワと擽ったくて、気持の良い初めて体感する感覚だった。瞼を閉じたまま、

(キスが、上手(じょうず)なんだ……?)

 そう思いながら、トロンとしていく自分が分かった。

「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」

 重ねた時と同じように、そっと唇を離して行く私に、彼は再びはっきりと『好きだ』と言った。はっきりと聞こえた彼の優しい言葉は、心地好(ここちよ)い響(ひび)きでキスでうっとりした私を満たしてくれる。もう泪の溢れは止まらずに次々と粒になって零れ落ち、流れ伝う涙が火照(ほて)る頬に付けた温かい筋を消さない。

「君を……!」

 優しく動く彼の唇に、再び私は静かに唇を合わせた。

「愛しているわ」

 彼が言おうとする愛を紡(つむ)ぐ言葉に、私の満たされた想いを被せていく。

(いいの、言わなくても。あなたの愛は十分感じているよ)

「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」

 静かに頷(うなず)く彼を見詰めながら、はっきりと彼の愛を私は感じていた。

(本当に、愛し合うことは、こんなにも嬉しい喜びを感じて、安らぎと愛おしさに満たされ、心が優しく広がっていけるんだ)

 今、私は心の中で彼に『嬉しくなる曲』をリズミカルに弾(ひ)いている。あの時アンコールで弾けなかった『嬉しくなる曲』。彼に聞かせるつもりだった曲。彼の為に弾くはずだった曲。彼に聞いて欲しかった曲。

(そうだ! この曲を弾いて彼に聞かせよう。今なら彼の為に、もっと私の気持ちを込めて弾けるはずだから)

 ピアニストになる夢を諦めてから、久(ひさ)しく鍵盤(けんばん)に触れていない指。

(上手く動いてくれるかしら? ……大丈夫(だいじょうぶ)よ。今なら弾けるわ。きっと)

 彼に小学六年生で弾いたピアノの続きを聴(き)かせようと決めた。

(それをサプライズでしたいのだけど、さて、どんな理由で誘(さそ)って、何処(どこ)で弾けるかしら?)

「これからどうする? 僕は休みだから時間は十分有るよ」

 いいタイミングで彼が、これからの行動予定を訊いて来る。私の都合に合わせてくれそうだ。

「羽田への最終便をリザーブしてあるから、それまで私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言ってきちゃったし、今からデートしよう。訊きたいこともあるしさ。それから小松空港まで送ってくれる? 私を見送ってくれる?」

(おおっ、積極的だ! 結構(けっこう)大胆(だいたん)に恥(は)ずかしげも無く、さらりと言えている。しかもイニシアチブは私側だ)

「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初はどこから行こうか?」

(今日は互(たが)いに良い感じのカジュアルだから、大桟橋のような失敗はしないわ。昼間っからムードを演出しちゃおうかな)

 積極的ついでに、嬉しさをイケイケで開放させる。

「お腹が、空(す)いたわ」

 言いながら立ち上がり、彼と手を繋いで歩き出す。私は憶(おぼ)えている。中学二年の告白メールの送り主にした質問の回答を。

『あれは、こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と、彼の表情を探ると、恥ずかしがるように少し逸(そ)らして顔を空へ向けながら言った。

「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」

(それってギャグなの? それともリベンジ?)

 彼のカツ丼好きは知っている。相模大野(さがみおおの)駅近くのうどん屋でシンプルなカツ丼を美味(おい)しそうにパクついていた。

(私もカレーうどんが好きだけど、今日のランチは違うよ)

「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先にランチもしているダイニングバーが在るの。そこでライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」

 ピアノライブは私が演奏しようと思う。少し他人に気配りできるようになった優しい彼へ、私からの小さなサプライズ。お店のラウンジマネージャーと交渉(こうしょう)してみなくては分からないけれど、きっとさせてくれる。いいえ、だめでもゴネて無理矢理(むりやり)させてもらう。オブジェっぽくなっていても、音階の違いが大体分かる音の鳴(な)るピアノなら、それでいい。そう決めた。

     *

 音楽を聴く聴覚と匂いを嗅(か)ぐ臭覚は、記憶を蘇(よみがえ)らせる効果が強いと思っている。過去のアルバムを見たり、辛く悲しい思いや、楽しくて嬉しい思いをした場所へ行く事もそうだけど、強く意識した臭いとか、口遊(くちずさ)むくらい好きだったり、絡んで来る想いと共に感動した歌や曲は、健康な状態でも懐かしさや、安らぎや、ときめきを伴(ともな)って忘れていた事や人や場所を思い出させ、センチメンタルにしてくれる。

 今日のランチはこの店でと最初から決めていた。

 竪町通りに在るこのダイニングバーは、両親とディナーで一度、姉とランチに一度、能登牛(のとぎゅう)の柔(やわ)らかいステーキを食べに来た事が有った。そして今日は彼と来ている。

 別にディナーで薦(すす)められるお高い特選ビーフじゃなくても、ランチのビーフで充分に柔らかくて味が有るし、それに口の中で蕩(とろ)けてしまうフォアグラステーキをトッピングするのが、私のお気に入りだ。

 オーダーは彼に訊かずに私が勝手に、フォアグラステーキをトッピングした能登牛ステーキのランチコースにして、自動車を運転する彼にはジンジャーエール、アルコールを飲んじゃダメな彼は少し不満顔だったけれど、私は肉とマッチする赤のグラスワインのドリンクにした。

 運(はこ)ばれてテーブルに並べられたランチメニューは、期待を裏切らない美味しさで、レアの焼き加減(かげん)にして貰ったビーフステーキは思っていた通り、口の中に広がる柔らかさだった。それと蕩けてしまっても濃(こ)い味わいが残るフォアグラステーキを、……チリの銘柄(めいがら)だっけかな? 広がる香りがスウッと通る口当たりの良い辛さと切れの良い後味なら何処のでも良いんだけど……、赤ワインで流して絡み合う残り香が堪(たま)らない!

 私と同じ様に幸せな顔でステーキをパクつく彼が、携帯電話の番号とアドレス、そしてSNSアカウントの交換を望んだ。

 『永遠(とわ)の別れ』と切り捨てた日、私の意識から彼を抹殺(まっさつ)した。

 電話帳や住所録の全てのリストから彼を消去した、あの日、私は電話番号を取得し直し、メールアドレスを中国語の『Yinghua、インファ』からスペイン語の『Cerezo、セレッソ』に変えた。

 意味は、どちらも桜の花だ。

 電話帳のリストから削除して記憶からも忘れさせた彼のナンバーとアドレスは、以前と同じだった。パソコンのメールアドレスと互いの現在の住所も教え合う。

(ビーノ・ブランコのスペルが、懐かしい……)

 彼は、私が彼の携帯電話の番号とアドレスを削除した経緯(いきさつ)も、忘却(ぼうきゃく)していた時の事も、訊いて来ない。私も今はまだ言いたくなかった。いつか、私から思い出のように話すまで、既に過去になり、覆された今、彼は知りたくもないのだと思う。

 ゆったりとした気分の良い食事を終(お)え、食後のコーヒーを飲むと、既にラウンジマネージャーから許可を得た一曲だけのピアノライブを弾く。

(気に入って、喜んでもらえれば……、嬉しいんだけどな)

 ずっと彼の想いを拒み避け続けていた私は、大学で知り合った美形な先輩へと安易に靡(なび)いてしまった。そして自業自得(じごうじとく)で招(まね)いたクライシスゾーンからの脱出が、彼の大切さと居心地(いごこち)の良さと私の気持ちをディスカバリーさせた。

(こんな、気持ちのふらついた自分に、……自分の都合だけが良い女に、いつまで、彼は愛を与えて続けてくれるのだろう?)

 いつでも私は、彼に愛想(あいそ)を尽(つ)かされ突き放されても不思議じゃなかった。そう考えると、やっと彼に逢えた嬉しさと彼の変わらない優しさに、こんなにも安らぎと愛おしさに満たされた気持ちが不安で揺らいだ。

『あなたは、もういいの……』最後の電話は、思い通りに遊べなくて飽(あ)きたゲームソフトを捨(す)てるみたいに、彼の強い想いの足掻きを否定して私が一方的に断絶した。そして、私に完全否定されて行き場を失った彼の私への想いや情熱は、私以外の彼が好(この)みと感じた女性へ向けてしまうのは、浮気性(うわきしょう)でも、色情(しきじょう)的でもなく、青春期の性(さが)として当然だろう。

 だから、彼と親しくする現在進行形の女性がいても、不思議じゃない。

 弓道部で活躍する彼は、他校の女子達にも人気が有ってファンクラブも作られているみたいだった。彼の働いていた会社へ掛けた電話に出た女性は彼を良く知っている感じだった。

 性格は、たぶん同じだと思うけれど、彼は容姿も、態度も、進化していた。好感の持てるファッションセンスに自信を持った積極的な態度で、以前と全然違う。そして、彼のキスは私が蕩(とろ)けるくらい上手(じょうず)だった。

 今度は逆に彼から、『今でも、君を好きだと言ったけれど、実は既に、付き合っている女性がいるんだ』、『だから、もう君は……、いらない!』みたいな事を淡々と無慈悲に言われるのが恐い。私は自分の短絡(たんらく)さと戻せない時間を悔(くや)みながら、彼に棄(す)てられて忘れ去(さ)られるのを怖(おそ)れた。

 だけど、それでも彼に、今の私の気持ちを聴かせたい。

 自分の実力を気付かされて、既に未練(みれん)も吹っ切れて弾くのを止めたピアノだけど、今は彼に聴いて貰いたい。彼が聴いてくれて喜んでくれるのなら、それが彼に否定される私の気持ちでも、私は彼の為にピアノを弾きたい。

(聴いて! あなただけに弾くわ。今の私の気持ちよ!)

「五年ぶりにキーを敲(たた)くのよ。上手く弾けるように祈っていて」

 意を決してイスから立ち上がると、私はそう言ってテーブルの上に置いていた彼の手を握った。彼は握る私の手を握り返してくれて、私の指は彼の指に絡まり、しっかりと私達は結ばれる。

 何の躊躇いも無く、私は彼を見て、彼は私を見上げ、手を触れ合わせて指が絡み合う私達の繋がりは、これまで、いつもそうしていたみたいに全くの自然な動作だった。

 私は、その絡ませる指の力を緩(ゆる)ませながら、彼の手を離してピアノへ向かう。

 白いグランドピアノの前に来て鍵盤を見降ろすと、ピアノを避けていた五年間のブランクがプレッシャーとなって、私の身体を座らせてキーに触れるのを拒(こば)んだ。

(動きなさい! 私を座らせて、キーに指を添(そ)えるのよ! そして、私の想いを彼に届ける為に、彼だけに聴かせる為に、ピアノを弾くのよ!)

 瞳が彼を捉えて、私の目尻と頬と口許(くちもと)が笑う。

 あの時に届けられなかった私のメロディーを、今から彼に聴かせる為に、鍵盤の前に座った私は細く息を吸い込んで行く。

 横浜港へ向かう彼の大きなオートバイにタンデムして嗅(か)いだ潮(しお)の香りは、立戸の浜と金石の海を思い出させてくれた。音楽は小学六年生の彼の音痴(おんち)さと、楽しく弾けた『別れの曲』に、中学三年生のコーラス祭での雪辱(せつじょく)の彼の歌声、そしてバス事故でのイヤホンジャックから聴こえたゲームミュージックが、その時の二人を伴(ともな)って覚えている。

 そして、これから弾く曲も新たな二人のファーストディのメモリーとして深く刻(きざ)み付けて遣りたい。

 キーが八十八も有るピアノの盤面は広い。その音域の巾を私は自由に出来ずに中学三年の春でソロリストへの夢を諦(あきら)めてしまった。そして、その年の初夏のコーラス祭の伴奏を最後に人前での演奏はしていない。

 自分の想いをカラフルな音色で響(ひび)かせてオーディエンスを感動させたかったのに、自分の限界に挫折(ざせつ)した。だけど、最後の伴奏をしたコーラス祭で聴いた彼のソロ歌唱(かしょう)の声は、私の身体を貫(つらぬ)いて響き、震える魂(たましい)の感動は私に涙を流させた。

 いつか、彼の透明(とうめい)な歌唱の貫きに、私のカラフルに弾く鍵盤の響きで、その時の感動を彼に届け返したいと、私はずっと思っていた。

 今は、彼一人だけの為に弾いて聴かせたい。届けたい私の心は、彼の心に響かせたい。

(響くかな? 届くかな?)

 吐(は)き出す息が震えて願う心の指先は躊躇い勝ちにキーを敲いて、弾かれた音が微(かす)かにブレてしまう。

『私を愛してくれて嬉しい』、『愛してくれて、ありがとう』、『あなたが愛しい』、『ずっといっしょにいて』、弾むメロディーを優しい気持ちで弾く。

(音は、暖かなパステルカラーに色付いたかな? 穏やかに彼の中に入って、優しく響いてくれたかな?)

 最後の一音を高く、優しく、長く、響かせて曲が終わる。

 顔を上げて向けた視界に映(うつ)る彼は、泣きたいのを堪(こら)えて笑っているみたいな顔でスタンディングオベーションをしている。彼に続いて店内中の皆(みんな)が一斉に拍手(はくしゅ)をしてくれた。

 店内の皆さんに御清聴(ごせいちょう)と拍手への感謝の御辞儀(おじぎ)をして、ピアノを元の状態にしてから彼の許(もと)へ向かう途中も拍手は鳴り止まない。お客さん達も、店員さん達も、皆が喜んでくれていて、まるで、リサイタルか、ライブのようにざわめいている。

(彼に、届いてくれた!)

 触れ合えた心に、私の顔は満面の笑みになっていると思う。

(凄く、嬉しい!)

「アンコール」

 来店している人達からの『アンコール』の掛け声と手拍子。でも私はアンコールに応(こた)えない。

 彼だけへの私からの一曲だけのサプライズだからアンコールはしない。拍手の中を彼の待つテーブルへ戻り、もう一度、皆さんへ大きく、深く、御辞儀をしてから笑顔で手を振り、席に着いた。

「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度、聴きたかったな」

 席に着くなり、嬉しそうに笑顔の彼は言った。

(うっ、にっ、鈍(にぶ)いよ……。それに今日、『別れの……』ってフレーズを使う?)

 私の気持ちを読めない彼に少し退(ひ)いた私は、思い付きのサプライズを俄(にわ)かに後悔した。

「バカ!」

 自然と口が動いて出た小さな呟(つぶや)き声に、『彼に聞こえていないよね』なんて気にしながらも、しまったと思った。

(どうか、言霊(ことだま)になりませんように!)

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 『小松空港まで送るよ』と彼に誘(さそ)われて、竪町通りから春風に桜の花弁(はなびら)と仄(ほの)かに桜の匂いが香(かお)る路地を抜け、二十一世紀美術館の市役所側の西口へ歩いて来た。

 その円形の建物を形作る全面ガラス張りが丸まるように連なる外壁を見ると、反対側の東口に在る白いカフェで向かいの席に伏せ目勝ちに座っていた彼を思い出す。

 四年前の通学の朝に遭遇(そうぐう)したバス事故の日、怪我をした彼を治療も受けさせずに私は白いカフェへ連れて来た。私の独断で一方的な行動に抗(あらが)いもせずに痛みに堪(た)えている彼に、不用意な一言、『普通にしゃべれるんだね』と、言ってしまっていた。

 私を好きな彼が、私の反応を気にしての言葉選びで口数が少ないのを知っていたのに、そう言ってしまい、下がるテンションの彼に、私達は気不味(きまず)いムードになった。

 今思う。此処もリベンジしたい!

「今度、ゆっくりと鑑賞しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんとお茶してさ。いい?」

 彼も同じ事を思い出していたのか、眉間(みけん)に立てた一本の筋と少し険(けわ)しくしていた眦(まなじり)が失(う)せて、下がる眉毛(まゆげ)の困(こま)ったような顔をする。

「ああ、いいよ」

 声のトーンも困ってた。

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 二十一世紀美術館の地下駐車場で私をSUV車のサイドシートに乗り込ませて、彼は本多町通りから桜橋(さくらばし)を渡り、窪町(くぼまち)で山側環状道路へと走らせて行く。

 乗り心地の良い車内は時折(ときおり)、ロードナビゲーションのコース上の注意を促す合成声のアナウンスが自動的に話される以外は、アニメのエンディング曲だと思うのだけど、アニメらしくないシックな歌が小さく聞こえて来るだけで、とても静(しず)かだ。

 小松市(こまつし)と河北郡(かほくぐん)津幡町(つばたまち)を結ぶ、金沢市内を山地沿いに連続した緩いカーブで迂回する山側環状道路は広くて走り易(やす)い。それに、この時間の交通量は少なくて、ドライブプレッシャーが少し緩和(かんわ)された彼に、メロディーに合わせて鼻歌を弾(はず)ませたり、口ずさんだ歌詞をハモらせたり、させている。

 金沢市の市街地を山側環状道路へ抜けるまで、スムーズにSUV車を走らせながらも、発進、停車、コーナーの曲がり、などを険しい顔をして慎重(しんちょう)に行い、大きなオートバイにタンデムした時と同じ、先読(さきよ)みに、察しに、観察と、視界の上下左右に絶(た)えず瞳(ひとみ)を動かせていた。

 想定外や不可抗力(ふかこうりょく)の不慮(ふりょ)の事態に陥(おちい)る発生確率が、ぐんと減った今は、穏(おだ)やかになった顔の目が笑ってる。

(サイドシートに相思相愛(そうしそうあい)になった私を乗せているのが、嬉しいんだろうなぁ。私も嬉しいなぁ。……なら、ダメ押しのチェックをしても、いいよね!)

「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく嬉しかったよ」

 運転しながら『うん、うん』と頷(うなず)く彼に、私は再び探りの問い掛けをする。

「……でね。本当に今、親しく付き合っている女の人は、いないのぉ?」

(気分屋で、紛(まぎ)らわしい態度の私から返される、ドライな態度や冷酷(れいこく)な言葉を恐れていた彼は、ずっとこんな気持ちだったのかも知れない)

「いっ、いるわけないじゃん! 僕は一途(いちず)だぞ! いたら君を好きだと……」

『好きだと……』言い掛けて、続ける言葉を『ゴクン』と飲み込んで小さく息を吐き、そして、彼は深呼吸をするように大きく息を吸い込んでから、大きな声で言い直した。

「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」

(その躊躇い、その言い方。今はいないけど、この前までは、女がいましたって意味で、いいのかな?)

 思った事を考えてから言葉にして、はきはき言う、まだ私の知らない彼がいる。これまで知らなかった彼が現れている。空白(くうはく)の一年半の間に新たに造られた部分の彼なのか、ずぅっと私に見せていなかった彼が洗練されて来たのか、分からない。

「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」

 積極的で、明るく意思を伝えてくれる逞(たくま)しい彼がプラスされて、より彼を愛して行けると想った。

「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、心配だったの」

 この先ずうっと、死が私達を別ち合うなんて関係無くて、前世とか、現世とか、来世とか、そんなのを全部超えて、あなたが私を愛し続けさせるのと、私があなたを愛し続けるのを、誓(ちか)いたい!

「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」

 そうだった。中学生になってから、突然に私に好意を持つ男子が多く現れて、時々、告白されていた・

(中学三年生のコーラス祭で、ソロで高らかに歌いながら、あなたは私を指差し、涙を流す私が、一人、スタンディングオベーションで応(こた)えるまでわね)

 コーラス祭以後、私とあなたの仲が誤解されたみたいで、接近して来る男子は誰もいなくなり、高校生になっても彼氏持ちの噂が広がっていたのか、ラブリーな展開は全然無かった。

(あなた以外はね)

「鈍(にぶ)いね、あなたは。好きになった女の子には一途で一生懸命なのに、周りにあなたを好きになった女子が、大勢いても気付かないなんて……」

 あなたの弓道の試合を応援するつもりで行った武道館で、多くの女子が凛(りん)んと弓を引くあなたを真剣に応援しているのを知った。あなたと親しくしたい、幾人(いくにん)もの女子がいる事も知った。

(なのでぇ、応援せずに帰っちゃったわ)

 そして今、あなたは鈍くなくて、惚(とぼ)けているだけなのも知っている。

「そうなのか? 僕は鈍いのか……」

(そうよ。あなたは鈍いから、鈍いフリをしないでね)

 二度、探りを入れても彼のこの反応……。以前に御付(おつ)き合いしていた女性がいたとしても、今は終わっていて、そんな関係の女性はいないと思う。

 私の男性関係を訊いて来ない彼に、女性関係の疑りを抱いたけれど、これで私の気が済み、疑りは薄れて行く。

 彼が、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、私を探していてくれたのなら、彼が勤(つと)めていた会社の受付か、何だか、知らないけれど、電話の応対をした女性が彼と寄りを戻そうと迫っても、きっと彼はきっぱりと断わるはずだと信じれる。

 彼も私の男性関係に不安と疑いを持っていると思うから、これからは彼に不安を抱かれるような態度や言動に気を付けようと、これも心の中で誓う。

(だから、私達は上手く遣って行けて、これからも大丈夫だ!)

「あの大きなオートバイは、まだ持っているの?」

 気が済んで話題を変える私の問い掛けに、彼は一瞬、眉を顰(ひそ)める。

(あっちゃー、やっちゃったかな?)

 こんなに気持を暗くさせてしまうなんて、あのラストタイムになった横浜市の大桟橋(おおさんばし)へ行った日を思い出させてしまったのかも知れない。

「ああ、V-MAXだろ。まだ持っているよ」

(V-MAXっていうんだ。これからは、覚えとかなくっちゃね)

 険しくさせた目尻と口許で曇らせた彼の横顔と言葉の語気(ごき)から、不機嫌(ふきげん)と警戒が溢(あふ)れていた。

 彼の瞳は頻繁(ひんぱん)に私へ動いて、私の表情から続く言葉を探ってる。

(あっ、マズイ! 違うのよ。誤解(ごかい)しないで!)

「夏になったら乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」

 彼の曇り顔が何かの反射光に照らされたように明るくなって、『マジに?』、『乗りたい?』と横目で私を見ながら頭を傾げて問い返して来る。

 『だよ』って頷くと、前を見ながらも『うん、うん』と笑顔で首を縦に振ってくれた。

「勿論! いいさ。ぜひ乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」

 失言(しつげん)したかもと不安気に表情を覗き見ようとする私に、彼は明るく言った。つられて気持が曇り掛けていた私は、そんな彼の明るい表情に救われてホッと安堵する。

(機嫌(きげん)が直ったみたいね)

 目的地を教える前に、ダメ押しの意地悪(いじわる)を言う。

「あのヘルメットも、有るの?」

 私の残り香を後悔とジェラシーの思いで彼が嗅いでいたかも知れない、大桟橋の往復で私が被っていた、あのフルフェイスヘルメットだ。

 彼の眉間に一瞬、何かを思い悩んでいるような、探しているような、筋が現れて消えた。

「有るよ」

 眉間に現れた筋の意味は、たぶん、電話の女性も同じヘルメットを使っていて、その残り香を私に気付かれてしまうと思ったのだろう。

(私が使う時に、ワザと『あれっ、私のとは違う香水の香りがするよ』って、意地悪を言ってみたりして……)

「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸(たっと)の浜もね。休みを取って時間を作ってくれる?」

 私の望みを言った。近年は砂の堆積(たいせき)が多くて、遠浅の海は狭(せば)まっているかも知れないけど、もう沈めたりしないから、いっしょに泳いだり、潜(もぐ)ったりしたい。

(私のアトランティスから来た男泳ぎに、サザエとウニの採り方も教えてあげるわ。あっ、そうそう、一番多く採れるシタダメもね。シタダメはね、関東のナガラミっぽいんだけど、もっと尖(と)がっていて、岩の欠片(かけら)みたいんだよ)

「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」

(日帰りじゃないから、支障が無いようにして来てね。お泊りは明千寺の御里で、あなたをみんなに紹介して、楽しく宴会するの)

 網戸(あみど)の窓と縁側(えんがわ)から夜風が通る部屋に吊られた蚊帳(かや)の中の布団(ふとん)で、あなたに寝て貰う。

(たぶん、抵抗無く出来ると思う私は、添(そ)い寝(ね)をして腕枕で寝かして貰うんだ。熱帯夜だったら、汗っかきのあなたと私は寝苦しくて、凄く寝相(ねぞう)が悪いかも。きっと私はあなたを蚊帳から蹴(け)り出しているから、ごめんなさい。それに、二人とも裸で転がっているよね)

「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」

 以前、彼が遣ってみたいと言ってくれた事を訊く。

「うん!」

 初めて担ぎ手になった彼が、みんなにからかわれたり、要領を得ずにもたつく彼が、海の中や浜で倒(こ)けて、担ぎ手衆に踏み潰(つぶ)され捲(ま)くりにならないように、キリコを担ぎ出すまで、ずっと、あなたの傍(そば)に私はいるつもり。

(連中が勧(すす)める酒は、飲ませてあげないよ。あなたは私が選んだモノだけ食べて、コーラやジュースで乾杯するの。幼馴染(おさななじみ)や地元衆へのフォローは、私に任(まか)せなさい!)

「それと相模原(さがみはら)へ来たら、いっしょに行きたい処(ところ)があるんだ」

 たぶん、そこは彼にとって負のトラウマの場所になっていると思う。そして、私も彼とは違う意味で厭な場所だ。

「どこ?」

 直ぐ様、一度行った場所をトレースするとは、全然思っていない彼が明るいトーンの声で訊いた。

「もう一度、大桟橋を歩きたい」

 『大桟橋』で顔が強張(こわば)り、自分の小さくなる口の動きと声の沈むのが分かる。

「……いいよ」

(あなたと行った大桟橋を、何度も私は、上書きしようとして果たせなかったのよ……)

 その拘った上書きの試みはレイプの窮地を招いて、私は弄ばれる事態に陥(おちい)る寸前まで気付けなかった。それは絶対に、私の操(みさお)を失わせて身体と心に深くて大きな傷を負わせたはずで、その先の私の人生を縛り、自由は奪われていたと思う。

 だけど、絶望の奈落に陥る寸前、あなたの代わりのスタンガンが徹底的にレイプの窮地を砕いてくれた。

(そう、私は人生最大のクライシスで汚れ切ってしまうのを、あなたに救われていたんだ)

「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。そこでディナーを食べよ!」

(これまでの『大桟橋』の全てを、あなたとの思い出だけにしてしまいたいの……)

 私は『大桟橋』を気持が退けて躊躇う場所にしたくなかった。今度は、あの陽溜(ひだ)まりをあなたと手を繋いで歩きたい。

「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」

(ディナークルージング? なんか、そんなのが有ったような……)

 確か、大桟橋に横付けしている白い客船で、二時間くらい東京湾の夜景を楽しみながらディナーを食べる洋上レストランだ。選択肢としてプランを要チェックしておこう。

(ディナークルージングも有りだけど、それは、その次ね)

「うん、二人で夕方のセピア色に染(そ)まる横浜港を見て、それから二階のレストランで食べるの。……電車で行くからお酒飲めるよ。そして夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ、そうそう、セッティングは、私がするから心配しないで」

 あれから何度か、あなたは行っているでしょうが、それは一人で来て黄昏ていただけで、大桟橋内のテナントのどれも見たり、利用したりしていないと思う。

「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」

(今度はね、伯父さんから去年の暮れに贈られたジレラ君で、タンデムして行くのよ)

 ジレラ君は伯父さんに御願いしたら、クリスマスに赤と緑のリボンで彩(いろど)られたリースを付けてプレゼントしてくれた。防犯のセキュリティ的に危(あぶ)な気(げ)な歩きよりも、戦闘的になれるジレラ君は嬉しい。

 本当に、相模原と相模大野の街は大桟橋と合わせて、彼の匂いで上書きして仕舞いたい!

「ん! まだ?」

 三つの地名は、見ても、聞いても、最初に浮かぶイメージを彼にしたい。

(厭な記憶は、地名の他に一つか、二つ、単語を聞かないと思い出さないようにするんだ!)

「来年の春は相模原の、満開の桜並木を歩かない?」

 母と歩いた桜並木の通りを、あなたと二人で桜吹雪の中を歩きたい。

(ごめんねぇー。自動車のライセンスは高校三年の夏に取ったけれど、まだ、私の専用車が無いの。別に中古の安いので良いのに、両親とお姉ちゃんが、軽はダメとか、古いのは危ないとか、さんざん言ってから、お金の余裕は無いなんて言うんだよ。お姉ちゃんは、新車を買って貰っているのにだよ! だから、ジレラ君で行くね。あと、雨降りだとバスになっちゃうわ)

「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」

(知ってんのかぁ……。ああ、やっぱり。相模原で私が感じていた、あなたの気配は、錯覚じゃなかったんだぁ)

 彼は去年の桜咲く春にV-MAXに乗って来て、私との遭遇を求めて相模原や相模大野の通りを走り回っていた。

「決まりね。それじゃあ、約束よ」

 彼の前へ右手の小指を立てて突き出し、彼の小指が絡むのを期待する。

「約束は、……しないよ……」

(えっ!)

 予想外の思いもしなかった彼の否定する言葉と、指切りを拒絶した彼の態度に、私の瞳は泳いでしまう。でも直ぐに『どうして』と彼の顔を見据えて睨(にら)んで遣った。

「約束しない? 約束できないの?」

 両肩が小さくプルプルと震え、両足の膝下もガクガクしている。

(なんでなの? 約束してよ! 私は不安なの! これからも音信不通にならないように、連絡を取り続ける為の保険なのに!)

 もう、焦りを声に出してしまいそう。あなたのその言葉の理由(わけ)を知りたい!

「違う! もう、約束なんかで縛られたり、確かめ合う仲じゃないと思うからだよ!」

(それって、約束で縛る権利の仲じゃなくて、互いに縛られるのが義務って事ぉ?)

「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」

 涙が出そうになった……。彼が今まで、どんな想いで私を好きでいてくれたのか、朝のバスで私の横に立っていた彼の気持ちを知った。私への権利ではなくて、私への義務だと告げる彼が嬉しくて愛しい。

「早く着き過ぎちゃうな。どこか寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」

 彼の提案は、私も同じ気持ちになっていたから嬉しい。この時間に空港へ着いても、それなりに時間を潰せるのだけど、せっかく彼と再会できたのだから二人っきりになれる静かな場所へ行きたい。

(この近くだと……)

 パッと思い付いたのは、確か金沢市へ引っ越して来た年に行った事がある、この辺りに在る温泉。

(あれは……、赤、赤穂……、……谷、そう『赤穂谷(あかほだに)温泉』だ!)

 母が近所の人から聞いて来て、家族みんなで行く事にした『赤穂谷温泉』。明千寺に居た頃に行っていた能登の和倉(わくら)温泉や真脇(まわき)温泉以外で、私が初めて行った温泉だったから、その印象的な名前も有って良く覚えている。

 温泉の宿は一軒しかなくて、その一軒しかない宿が『赤穂谷温泉』だった。たぶん小松市の山手側だったと思うけれど、奥まった静かな場所に隠(かく)れ家(が)みたく在って、周りに目印(めじるし)になるような高い山も無かったから、記憶も曖昧(あいまい)で場所の自信は全然無い。

 夕食の料理の魚は鯉(こい)や岩魚(いわな)、お肉は猪(いのしし)と鴨(かも)、それと山菜をいろいろ食べたのも覚えている。川魚とお肉は初めて食べる物ばかりだったけれど、とても美味しかった。ゆっくりと入ったお風呂でお姉ちゃんと、『癒(いや)されるね』なんて、テレビドラマのOLのようなセリフを言っていた。

 温泉宿は別に山奥でもない町外れの低い山際に在るだけなのに、夜は建物の脇を流れる小川のせせらぎしか聞こえなくて、明千寺の御里よりも心細くて不安になった。

(『静か過ぎて、ちょっと恐いかも』って言ったら、お母さんとお姉ちゃんの間に寝かされたっけ)

 二人とも近くに寄って来て手を握っていてくれた。

 その『赤穂谷温泉』へ彼と行きたいと思った。

(日帰り客として、鯉料理を食べて、お風呂入って、男の人と……、じゃなくて、彼と人生初の御休息をしちゃう? ランチでも個室の座敷が使えて、伝えれば、二時間は干渉(かんしょう)されないはず……)

 それは彼に操を捧(ささ)げるって事。気持ち的には全然構わなくて、寧(むし)ろ、そうなりたい気分なのだれど、再会した初日だと流石(さすが)に節操(せっそう)が無いと思われそう。それに、お昼メニューの過ぎた時刻だし、既にランチを食べて来ている。でも、週末だからお風呂だけでも入れると思う。でも二人っきりになれない。

 これからだと食事は夕食になるけれど、夕食は宿泊客のみだし、それに時間的にも無理だ。だったら立戸の浜の時のようになれるといい。

「海……、海が見たい。日本海を……」

(港じゃなくて、海! 砂浜だ!)

 彼と海に行けば、心が全て晴れると思った。今日、彼と出逢えて混沌(こんとん)としていた気持ちの三分の二が晴れ渡った。残りの三分の一も早く晴らさないと、せっかく晴らした気持ちが侵食(しんしょく)されそうに思えた。

(もう、以前みたく、三つに一つの嘘や聞き流しを、彼にしたくない……)

 金石の砂丘で私の拘りを薄れさせた。立戸の浜で蟠(わだかま)る気持ちを軽くしてくれた。横浜大桟橋で眩しい陽射しの暖かさに感動させてくれた。今日もまた、海辺で私の迷いを無くして欲しい。

「行ける? 時間は大丈夫かな? 夕陽を見たいのだけど?」

 昼前に空一面を覆い尽くしていた千切れ雲の密集は、海からの偏西風(へんせいふう)に散らされて、ついさっきまで間隔を広げて羊雲(ひつじぐも)の群れになっていたのに、それも吹き払われて疎(まば)らになっている。

 国道から見える海の上空は、すっきりと晴れて斜陽の暖かな陽射しに私達は照らされていた。

(二人で顔を紅く染めて、鮮(あざ)やかな夕陽が見れそうだね)

「時間は……、空港での夕食時間に余裕を持たせて……、二時間は大丈夫だ。行けるよ」

 彼は優しい。きっと、空港近くのビューポイントへ連れて行ってくれるつもりだ。

「ほんと? 行ってくれるの?」

 私の顔が嬉しくて笑っている。

 彼と見る夕陽の海は、とても、私を幸せにさせて、もっと開放的にしてくれると思う。

「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀(かが)の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから気持ち良いかもな」

(片野の浜? 名称に『片』が付くから片山津温泉の近くかな? でも片山津は柴山潟っていう湖の畔だし……、違うな)

「その片野の浜って知らないけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」

 小松空港と赤穂谷温泉以外に加賀地方の有名処を、私は行った事も無くて殆ど知らない。福井県なら石川県の近くに在る東尋坊(とうじんぼう)の断崖岬と、浅瀬に掛かる橋を歩いて渡る神の住まう島、雄島(おしま)は中学生の時に行っている。

 行き帰りの車中では連れて行かれるままに、お姉ちゃんといっしょに寝ていて何も景色を見ていなかったけれど、東尋坊の柱状の岩が連なる岩壁(がんぺき)の高さと、島全体が神域になる雄島の海側の草地へ抜けるまで通る、鬱蒼(うっそう)とした原生林の暗くて不気味(ぶきみ)な周遊道は覚えている。

「でも、日没まではいられないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、その時刻には空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と思うけど」

 大体のタイムスケジュールを彼が知らせてくれる。残念ながら、彼といっしょに夕陽を見るまでの時間が今日も無かった。

(トヤン高原での不思議体験が有る、あなたとなら、水平線がぬらぬらと紅く輝くトワイライトタイムに、凪(なぎ)で大気が停まった金石の町のような、セピア色の摩訶(まか)不思議が起きるかもと、期待していたのに……。まぁ、いいか)

「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は次回ね」

 サンセットに感動するのが目的じゃない。私は彼に救いを求めている。

(あなたに迷いを打ち明けたいの。私は、あなたに救われたいの)

「それじゃあ、行こう」

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「あそこに、寄ってもらえるかな?」

 山側環状道路から続く加賀産業道路が国道八号線へ合流して更に高架を終えた平地の交差点で、彼に近くのコンビニエンスストアへ寄ってくれるように促した。

「えっ、ここに用?」

 疑問と詮索と好奇(こうき)が入り混じった顔を傾げた彼が訊く。

 金沢市内から一時間も走らずに着いてしまう小松空港まで、食事も、土産物を買うのも、空港で済むはずだから、途中のコンビニに寄るとは思ってもいなかった彼が訊いた。

(たぶん、これから行く浜には無いかも知れないし、有っても仮設みたいのしかなくて、そんな個室へ入るのを彼に見られているのは、まだ堪えられないかも……)

 空港までは我慢できそうになくて、ここの御手洗いを借りたかった。それに買いたいモノも有る。

「そう、ちょっと用なの。……用を足(た)すの」

 彼が言った『用』に、『足す用』を引っ掛けて答えてみる。

(これで察してくれると、いつも安心ね。分からなかったら、鈍くて要注意でしょう!)

「ああっ、OKだ!」

 ピンと来た顔の彼は、頷いて察してくれた。

(良かったぁ。彼はできる男かも?)

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 コンビニの御手洗いで用を済ませて、アイスフリーザーから御目当ての品を見付けてレジへ持って行く。濃い緑色の地にオレンジ色の花を散らしたのと、白地に薄いピンクの花房をプリントした銀紙で包まれた四角い棒のアイスクリームを、それぞれ一本づつ買った。

「それなに? 買ったんだ?」

 さっき、コンビニのパーキングにSUV車を停めた時、三十分ばかり運転していただけの彼が額と耳筋に汗を掻いていた。何もせずにサイドシートに座るだけの私も項に小さな汗の玉を浮かせていた。

「うん、アイス」

 車内循環にしたエアコンディションは、ドライメインの温かくもない温度設定なのに上半身が汗ばんでいた。

「アイスクリーム? 今、食べるん?」

 汗ばんだ彼の匂いと、自分の襟元から臭い立つ私の汗の臭い。

(彼も、汗っ掻きなんだ)

 私は二人とも、暑がりで汗(あせ)っ掻(か)きなのを初めて知った。

(だから、火照る身体を冷ますのは、アイスクリームでしょう!)

「ううん、後で。浜辺で食べようよ」

 片野の浜ってところまで、まだ少し走ると思うし、折角、いっしょに食べるのだから、立戸の浜の時のように寄り添って食べたい。

(私は彼の臭いが厭じゃないけれど、彼は私の臭いを、どう感じているのだろう?)

 寄り添いながら、それを訊いて遣りたい。そして、彼と二人で大桟橋へ行った日、相模大野駅前から急いで着替えに戻った往復を駆けていて、彼の大きなオートバイにタンデムした時には汗が噴き出していたから、あの朝も私は汗の臭いが強かったはずだ。それも訊きたい。

「だったら、そのままだと車内のエアコンで溶けるかも。だから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」

 そう言って笑う彼は、私から渡されたレジ袋を後部シート脇のボックスへ仕舞った。

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 コンビニから八号線を更に南へ進み、大聖寺(だいしょうじ)の街を抜けて地元の人しか知らないような農道を走ると片野の浜に着いた。片野海水浴場と護岸壁に書かれた駐車場に停めて、忘れずにアイスが入ったレジ袋を持つ彼に『砂浜を歩こう』と促(うなが)されて、斜陽を浴びて眩しい白い砂浜を彼に寄り添いながら歩く。

「よく道を知っているねぇー」

 木々が生い茂る丘沿いの道を、幾つかの集落を通り過ぎて進んだ所の突き当りが、片野海水浴場だった。

「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」

 自慢げに答える彼に、ちゃんと予備知識や経験値を持つ逞しさを感じた。

「うん、大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」

 車内の暖気に温められて汗ばんでいた身体は粗めの砂浜を少し歩いただけで、額や項に汗の玉が浮くらいに熱くなっている。雲を吹き払って晴れ渡らした風は凪いで、頬にひんやりと触れる四月初旬の大気も涼しげにしか感じられない。だから、ギブミー・アイスクリーム・ナウ!

「ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」

 彼が指差した間近に迫るそれは、浜を歩き始めた時から異様な形で見えていて気になっていた。全体が緑色と黄色が混ざったような白っぽい灰色で、ドロドロ、ウニウニ、ニョキニョキと巨大な異形が融(と)け果(は)てた一片(いっぺん)のように見えた。石川動物園近くに在る能美市の和気(わけ)の岩(いわ)とは全然違う。

(たしか和気の岩石は、二千万年前に形成された流紋岩(りゅうもんがん)の大きな露頭(ろとう)だったかな……)

 スイスイと足場を確保して登る彼に手を引かれながら、どうにか私も攀(よ)じ登って一番広い塊の上に立てた。

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 目の前に春の陽に輝く真っ青な海原が広がり、右には今し方歩いて来た海水浴場の砂浜と海に張り出す岩盤の岬が見え、左にもずっと向こうまで白い砂浜が幅広く続いていて、保全されているらしい低く平らな砂丘は一面の緑に覆われている。背後の広い松林もずっと続いていて、こんなにも世界は広くて美しいんだと思わされてしまう。

「ここは初めて。広い砂浜がずっと続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生(ぐんせい)はハマナスでしょう。すごいねー、ずっと向こうまで群生してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙(きみょう)な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀にこんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたね」

『はい、これ』と、アイスが入ったレジ袋を渡して来る彼に訊いた。

「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕もこの岩が不思議で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だったよ」

 子供の知識欲や自主性を促す彼の父親は素敵だと思いながら、パッケージを破って取り出したアイスを咥(くわ)えた。

(冷たい……、でも、気持ちいいし、甘くて美味しい)

「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に金持ちの長者様が住んでたの? 今も、何か変なのが棲(す)んでいそう」

(長者……。普通、何々長者っていったら、お金持ちだよね。こんな場所に屋敷を構えていたの? でも大きな岩盤の上だから、外的から守り易いし、自然災害にも安全かも)

「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承(でんしょう)じゃ、近くの大池に棲んでいた大蛇(だいじゃ)みたいな龍(りゅう)が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮(く)らしていたんだってさ。この岩も軽石疑灰岩(かるいしぎょうかいがん)という、何億年も前に噴火(ふんか)した海底火山の火山灰の堆積層(たいせきそう)で、その成(な)れの果てだって」

(やはり、得体(えたい)の知れないモノがいたという伝承が有った。大金持ちと若くて美人な娘。いつの世も強い男はエロに満ちているなあ。でも、娘は龍なんだ)

 齧(かじ)るアイスが汗ばんだ体を冷まし、ストロベリー味の甘さは気持ちを優しくさせる。

「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっとみんなに慕(した)われていたんだよ。そう龍が娘なって寄り添うくらいにね」

 そういえば、福井県と滋賀県と岐阜県の県境に在る夜叉(やしゃ)ヶ(が)池(いけ)にも龍が棲みついている伝承が有ったっけ。

 人の来ない山奥の分水嶺(ぶんすいれい)に在る池に棲む引き篭(こ)もりの雄龍(おすりゅう)が、雨を降らす代わりにセコく代官の娘を嫁(とつ)がせるのだったか、剣岳(つるぎだけ)に棲まう彼氏を持つ雌龍(めすりゅう)が池を氾濫(はんらん)させてまで逢引(あいびき)に行くのだったか、節操(せっそう)の無い龍の伝説だ。

 兎(と)に角(かく)、雄に雌、小さな蛇(へび)に、大蛇に、蝶(ちょう)と、大小の形や性別なんて関係無く変化(へんげ)が上手な龍だったはず。

 そっちも、こっちも、縄文(じょうもん)時代に繰り返した大海嘯(だいかいしょう)で遣って来た水竜(すいりゅう)の末裔(まつえい)だったかもね。

(今も、池底の泥深く、眠り棲んでいたりして……)

「かもね。この辺(あた)りは明治(めいじ)の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠(さばく)みたいな砂丘(さきゅう)だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周(まわ)りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」

 確か、彼氏持ちの雌龍の話は大正(たいしょう)の初め頃で年代が近し、大旱魃(だいかんばつ)の話の水飢饉(みずききん)で雨乞(あまご)いをするのは、どこか、砂漠に植林するのと似(に)ている。

「牛首長者が亡(な)くなってから、龍は大池に戻(もど)ったんだね。龍は大地の精(せい)を食べて水気(みずけ)を放つそうだから、今も水底深くに潜(ひそ)んでいるかも。で、その大池っていうのは、どこなの? 」

 夜叉が池は、龍が池から離れるだけで氾濫して大洪水(だいこうずい)。でも、加賀地方の湧水池が湧(わ)き出す水で氾濫した伝承を聞いた事も、読んだ事も無い。

 高熱の炎(ほのお)を噴(ふ)くゴールドマニアの西洋のドラゴンと違って、東洋の龍は水脈(すいみゃく)を司(つかさど)り、雨と雷を纏(まと)う。

(龍が翔(と)べば、水気も動く。だから氾濫するのじゃなくて、水脈を断(た)たれた池は干上(ひあ)がって行くと思うな)

「さっき通って来た片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬に熊手形(くまでがた)の網(あみ)を投げて鴨を生(い)け捕(ど)りにする猟で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期(はんせいき)の初め頃までは、もっと大きくて深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」

 一万年もの長い縄文期に何度、大海嘯が有った事だろう。現在の山並みの際まで海が迫り、大きな川筋は入り江になっていて、当時の縄文人達は台地上や丘陵上の横穴や竪穴の住居で暮らしていた。

 その大海嘯とは逆に、海辺が現在の水平線の彼方まで退(しりぞ)いた年代には、岸辺に集落が作られて海を越えた交流をしていたと思う。

 牛首はきっと、そんな縄文人、越の国人(くにびと)の末裔(まつえい)だ。

「そうねぇ、きっと、娘になって龍が牛首長者の屋敷(やしき)に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」

(越の国の末裔で貿易長者の牛首と、大海嘯の名残りに棲む雌の水龍の出逢いなんて、これは時空を越えたラブロマンスだあ。サクセスガイ ミー ツー ドラゴンガール なぁんてね)

「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼(たよ)らなくても迷(まよ)わずに来れたしね」

 彼が横浜港の大桟橋へ辿り着くまでに何度も迷っていたのは、行き当たりばったりの思い付きで、しかも、初めて行く場所なのに、ろくすっぽネット地図でルートを覚えずに、通りの雰囲気と方向の感で行ったからだと分った。

「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」

(感で走って迷うくらいなら、私に頼ってくれれば良かったのに……)

 二人で調べながら辿り着ければ、もっとずっと、違った想い出になっていたと思う。

(でも、あの日は、あなたも、私も、素直になれていなかったな……)

「今も一緒に仕事をして稼げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」

 照れ臭そうに私を見ながら、彼が言う。

 彼は家族に恵まれていた。決して周りに流されない彼の思考と性格は、彼と家族の意思の力だ。

「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」

 彼との意味深な未来を、素直な言葉にしてみた。

「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹もいっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」

 大きく見開かれた目が左右に振られてから伏せ目勝ちに止まると、口が少し開いて彼は笑顔になる。

「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」

 私達の躊躇いと、迷いと、空白を埋め切れないまま、ハッピーパラダイスへ人生がシフトしそうな気がして来る。

(なら、人生の価値観を確認しなくちゃね)

 嬉しい気分で水平線の曲線を眺めながら、これから先、まだまだ続いて何が有るか分からない二人の人生を幸せ豊かに寄り添う為にと、私は思う。

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「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと答えてくれる?」

 授業の臨床実習で行った病棟で垣間見た治療が迷いの蟠(わだかま)りとなって、私の気持を拘(こだわ)らせていた。

「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから言ってみて」

 『変な事』ってフレーズだけで、大抵の人は嫌がって聞くのを避けようとするのに、彼はワクワク顔でノリノリだ。

「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」

 瞳に光を宿した彼のワクワク顔が、瞼を閉じて眉毛を寄せ、眉間に皺を立てたまま唇を固く結ぶ、怪訝(けげん)な表情になった。

「外見には全く動かないの。たとえ、もし意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻も。耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。でも、検査や装置のデータでは脳死なの」

 呼吸が無い心肺停止状態でも、脳の働きが完全に失われているとは限らない。

 脳死の死亡判断域だけど、ほぼ脳死で完全死亡に到っていない奇蹟みたいな仮死状態。最先端医学でも甦生(そせい)は期待できないと、私に説明してくれた人も、自身の理解に多くの想像が入っていると言っていた。

「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に死亡の認識じゃなかったっけ?」

 脳の機能が停止すれば、自律神経のパルスは無くなり、心臓や肺臓などの臓器は動かなくなり血流も停まる。

「ううん、ほぼ脳死状態。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が永久停止して腐(くさ)り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」

 瞳孔が全開になっていても、厳密には脳が死んでいるとは限らない。でも、生物学的、社会的、法律的、倫理的に生死を仕切る必要が有り、悲しい御臨終(ごりんじゅう)とされてしまう。だけど、もしも、肉体が腐らないのなら、それは魂(たましい)が宿り続けているからで、その究極の仮死状態は何かしらのスイッチが入れば、再起動してリライフできるかも知れない。

「それは、コーマっていう昏睡(こんすい)状態の事?」

 コーマという言葉自体が昏睡の意味だ。人事不省(じんじふせい)でも目覚めを期待できる泥酔のような眠りだはなくて、重度の意識を失う障害によって外部からの刺激に無反応状態で眠り続けている昏睡を指す。

「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと半年以上も反応のない永続的な植物状態」

 深昏睡は、コーマよりも更に危険な最も重度な昏睡状態。眠っていても発生する体動を自発的に行えず、筋肉が弛緩(しかん)して失禁などの排泄(はいせつ)行為を無意識下でしてしまう。植物状態のような深く眠り込んでいるのか、脳の機能が完全に失われているのか、分らない状態だ。

 更に超深昏睡の状態は、あらゆる強い刺激に対して何の反応も無く、角膜(かくまく)反射対光反射などの各種反射も無い。自発呼吸もなくて人工呼吸器などの生命維持装置を付けなければ生存できず、普通は脳死の判定がなされてしまう。仮に本人に意識が有っても、他人からは死亡と認められてしまう。

(生きたまま埋められて土葬されたり、火葬で焼かれたり、されてしまうみたいな……)

「自分が、そうなったとしたら……、あなたはどうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して期待し続けて貰いたい?」

 皮下組織まで燃える重度の全身火傷から奇蹟的に再生した兵士が最前線へ復帰したと、戦争中の傷病事例の文献(ぶんけん)で記述(きじゅつ)を読んだ事が有った。全身黒焦げの兵士が、どんな体質や遺伝子を持ち、何処の出身なのか不明だと書かれていたが、事実らしい。

 破壊され燃え尽きた戦車の車内から発見された時は、炭化して動かない五体でも、見開いた目が動き、口と咽(のど)は焼けていたが肺は鼻腔から息を吸い、焼けなかったのか、再生したのか分らないが、鼓膜(こまく)は声と音を聞き分けていたそうだ。

 そんな、有り得ない事が起きるのだから、愛する人の肉体が朽(く)ち果てるまで、この世からいなくなったとは認めたくない。

「その状態は、喩(たと)えるなら棺桶(かんおけ)くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」

(何、それ! その極端な閉鎖空間の例えは……)

「真っ暗で何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも意識が有るかも知れないんだ……」

 凄く厭な、とても自分の身に起きて欲しく無い状態を、彼は想像で話す。

「現在の医療機器では検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」

 現代医学的に矛盾(むじゅん)だらけの生と死だけど、生きているのなら、せめて夢を見ていて欲しいと思っていた。

「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど本人は覚えていないでしょう」

(どんな夢かは覚えていなくても、せめて、夢を見ていた自覚だけでも、有ればねぇ……)

「検診で瞼を開いても瞳孔反射の虹彩収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても明暗がわかるくらいが精々。……固定焦点になっているかも? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも痛いのも感じていて、精神だけは生きて思考しているとしたら……」

 概念的にも、実際的にも、死亡状態。だから、私の想像域での仮説に過ぎない事は解っている。

「たとえ、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて匂いも分っていても、僕はそれを君に伝えられない。瞼を開けられて愛しい君の顔や姿が見えても、それを君へ知らせる事はできない、……のだろうなあ……」

(そうよ。そんなあなたの状態を、誰も知る事ができないの。)

「そんな状態で僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、やはり、今日明日に陥っても、百歳になって陥っても、そうなったら、そんな僕は死んでいるのと同じだ」

(ううん、違うよ。そうはならないわ。……私だけは、あなたの様子に気付くから……)

「だけど、あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界のそこにあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」

 言ってしまった言葉は、私の我(わ)が儘(まま)だ! 気付いてあげれても、『苦しんでいるのか?』までは分らないと思う。私はあなたに、私の身勝手な思い込みを押し付けて、苦しみを長引かせてしまうかも知れない。

「私は……、私は、そうするけど、あなたは、そんな状態の身体になっても生きていたい? あなたはそれすら分らないでしょうけれど、私に奇蹟を求めて待ち続けていて欲しい?」

 彼に問い掛けながら、自分自身に問う。

(私は愛の告白をしながら、彼に死の宣告をしてるの?)

「延命処置を、続けて行くと?」

(うっ、早くも、それを訊いて来るかなあ)

「生命力が有る限り元気で眠り続けるわ。でも延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いずれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)になって目覚めが無いまま、寿命が尽きてしまう……」

 現在の最先端医学の延命技術でも、細胞の分裂回数以上に寿命を伸ばせない。細胞分裂の回数には個人差が有るみたいだけど、百二十歳代が限界らしい。でも、近未来は分らない。

 自身の新たに作られた細胞をクローンして増殖させてから、自身へ移植すると置き換わった新細胞が分裂して行く。

 記憶や能力を保ち、脳や神経の細胞までクローン細胞に置き換われば、単純に寿命は長くなる。それを繰り返せば、不死だ!

 だけど、それは問題が有るらしい。クローン細胞が置き換わる際の旧細胞の情報を引き継ぎで、細胞が突然変異の癌(がん)細胞化するかも知れないという。それに旧情報を取り込んだクローン細胞のアポトーシス回数は、ずっと少なくなるとの研究予測も公表されている。

(まあ、いずれにせよ、神の領域だわね)

「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」

 外側の皮は皺皺で、中身がトロトロに熟(う)れ過ぎて腐る発酵(はっこう)寸前。近付くと、腐り始めた小動物の死体みたいな甘く絡みつく臭いがするのかと、彼は私に訊く。

(腐った果物(くだもの)や死骸(しがい)じゃないから、いくら最末期でも皮膚臭は、そんなふうになんないよ)

「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」

 加齢臭は皮膚層の変質と腐敗の臭いで、老人臭は、それまで消臭していた消毒物質が生成できなくなって漏れてしまう内部組織の腐臭。特に高齢老人は、乾いた土と乾燥した木材を混ぜたような臭いの皮膚と、カサカサな肌に塗る軟膏やオキシフルの臭いが鼻に付く。

「そのブレンドは、ちょっと嗅ぎたくないな」

(まあね。体臭は、人それぞれに違うけれど、生活臭じゃなくて、肉体からの個人個人に違う臭いに起因するモノは、なんだろうなあ?)

「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」

 『推(お)して知るべし』的な事を彼は訊いて来る。

 この世と彼岸(ひがん)との狭間(はざま)に居るような、三途(さんず)の川を漂うみたいな、境界線を越えて常世(とこよ)に近い場所の患者さんばかりなのを彼は理解しているはずだから、きっと、最期の刹那(せつな)に断末魔(だんまつま)の苦しい様相を見せるか、安らぐように穏やかな事切れなのか、知りたいのだと思う。

「接続しているシステムをダウンすると、まず壁のパネルの表示光とベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示してアラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。そこで患者を監視しているからね」

 彼の問いに答えて、生きさせるのをオフにすると、どうなるかを説明する。

「機械の作動は直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで暫く動いているんだ。患者さんは自律で呼吸していないから……」

 機械の再起動は一旦、システムを完全に停止させたニュートラルの状態からでないと行えない。

 既に生死が確定できないような患者の延命にシステムを使っているから、例え、シャットダウンが単純なミスだと気付いて、直ぐに全てのスイッチを正しい手順でオンにしても、検知不可な微小微動な拍動で緩慢な血液循環の肉体が再起動で強制的に維持され続けられるだけだ。

 そこに在っただろう魂が再起動後も、居続けてくれているのか、完全に離れてしまったのか、外観やシステムのデータからは分らず、ただ、そうであって欲しいとの願いと信じる思いのみで延命され続けられる。

「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応はそれだけ。そして酸欠で死ぬの」

(それは、死なせる……、殺(ころ)す事なんだよ)

「そうか……。やっぱり死んじゃうしかないのか……」

(そう……。延命を望んだ本人からは同意を得れないけれど、家族からの依頼と同意が無くて、勝手に機器を停めたり、電源を落としてしまうと、殺人になっちゃうの……)

 私の最期は彼の負担になりたくないと思うけれど、私は彼へ殺すと同義な事を絶対にしたくない。

「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」

 彼は自分の命が死で失われるままに末期(まっき)を看取(みと)ってくれるよう、遺言のように私へ願ってくれて、私も彼に遺言みたいな言葉を返してあげる。

「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私もそんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」

 『殺す』って言葉の気味悪さに、ぎょっとした顔になった彼が私を見詰める。

(そうよ。あなたの言葉で私は延命治療をしないで、死んじゃうんだから、極端でも、あなたに殺されるのと同じでしょう)

「そ、そうだったんだ……?」

(だから後悔しないように、ずうっと、あなたを愛し続けたいの。あなたも私を愛し続けてね。愛し、愛されながら死にたいな)

「君がそうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいとおもうよ。でもね、僕は君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて君に語り掛けるんだ」

(うふっ、いったい何を話してくれるかな? それは、あなたが私へ声にしなかった、私との物語かな? それとも、私の知らない、あなたの物語なのかなぁ? でも、どっちでもいいの。人生を終える時は、絶対に恐ろしいと、私は思うから、あなたは私の間近にちゃんといて、私を励(はげ)ます話をして欲しいよ)

「私が皺皺になって、萎びても?」

 二人で長生きして、とても高齢になってからの延命処置のつもりで彼は言っているのだろうか? そんなヨボヨボの年寄りになったら、あなたと私は、どんな顔になっているのだろう?

「ああ、皺皺になって凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」

(外観が変わってもねぇ……。一応、私も死に際まで美しくありたい乙女(おとめ)なんだけどな。……でも……)

「それって、なんか、……微妙に、いいかな」

(歳を取っても、あなたと私は手を繋いで歩いて、買い物も、レストランでの食事も、喫茶店で寛ぐのも、二人いっしょで、きっと、同じベッドで、並んで眠っているんだよ)

「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」

 眼が潤んで来ちゃう。

「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」

 彼が見た目だけで、私を好きなのじゃないって知っているし、今も聞いた。だけど、もう一度、確かめておきたい。

「何度でも言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに歳を取っても、見て呉れが変わっても君は君だ!」

(ああっ! 彼はなんて素敵な事を言ってくれるのだろう)

「それは、……凄く嬉しいかな」

(再び目覚めなくても、絶対に私は、傍にいるあなたを感じて、あなたの声を聞いているよ)

「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は二度と御免だ。だから、必ず僕よりも長生きしてくれ!」

(うん! でも、それって逆だから。私も、あなたが何処にもいない世界なんて、堪えられそうにないよ……)

「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと願っているの」

 やっと巡り逢えて、お互いが理解を深め合えた今、これから先の、互いを愛しみ敬う想いを持ち続けて、二人が別たれる瞬間までも、ずっと私は願ってると思う。

「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送ってもらう」

(うん、うん)

 彼も、私と同じ想いでいる。

(肯定して、受理するわ)

「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶(かな)えましょう」

(私はね。見詰めて、手を握っているだけじゃないわよ。あなたに抱き着いて、揺さぶって、大声で呼んで、泣いて、薄れいくあなたの意識を戻してあげるの。何度も、何度も、……ね)

「だって、君がいないと寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」

(その気持……、とても良く分かるよ)

「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」

 私達が育てた子供達は、孫達と一緒に気持ち良く訪れてくれるから、あなたが逝(ゆ)なくなっても、慕われる私は楽しくも穏やかに過ごして、静かな悲しみの中で人生を終える…… かな?

(だけど、だからこそ、あなたが逝ってしまうのは、嫌だ!)

「わっ、分かってる……。分かってるさ……。」

 唇と頬は微笑んでいるけれど、私を見詰める眼差しは寂しくて泣きそうで、零れ落ちそうなくらい涙を湛えている。きっと私も、悲しみの顔に眼が潤んでいるんだと思う。

 私がはっきり、『あなたが先に逝くのは、嫌だ!』と言えば、きっと彼は私を看取れるように、私より長生きする努力をしてくれると思う。

 相思相愛を知った今日の素晴らしい出逢いは、新たに始まった二人で歩む人生の、途中のプロセスを省いて、とうとう死が二人を別つまで話してしまった。

「あはっ、真剣に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃったけれど、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、迷っているんだ」

 死の床へ臥してからの愛まで、約束事のように話してしまったけれど、更に私の死に際から死に至るまでを彼に訊いてみたい。

「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」

 確か、彼には三年前の夏に立戸の浜で、私は臨床(りんしょう)工学(こうがく)技士(ぎし)になると話していたはず。

「ああ、憶えているよ」

 答える彼の声は明るく弾んでいる。

(三年前の夏の事は、彼を否定していた私より、しっかりと憶えていそうだ)

「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。その実習の中に延命装置の取り扱いも有ってね。それで、その機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況を見て来るの」

 今から何を話すのかと、彼は神妙な顔で私の目と唇を見ている。

「その病棟は深昏睡の患者さんばかりで、病室のみんなが酸素マスクと点滴の管とせンサーのコードを付けて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便、排尿の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」

(違ったぁ! ホラー映画やスリラーゲームのステージになる、見捨てられた町の朽ち果てた病院みたいのじゃなくて、全然、煤(すす)や錆(さび)で汚れてない、真(ま)っ新(さら)に綺麗な病棟なの。そう、近未来的に多機能化されたシンプルで清潔な病室だよ)

「透明なスクリーンに仕切られた真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾も無い白色の病室で、明かりは天井と床の四周の縁(へり)からの間接照明。空調は天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄な空気が静かに吹き出して、床の四周の際(きわ)に有る排気溝へ吸い込まれていくの」

 無菌室のレベルではないけれど、テレビのドキュメンタリーやテクノロジー番組で映(うつ)る工場のクリーンルームと同じ無塵状態の管理がなされていると思った。

「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は、集約されてナースステーションで集中管理しているんだ。何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が実際に在るって思ってなかったから、ちょっと信じられなかったわ……」

 全てのセンサーデーターと対応がナースステーションで一元管理されていた。プライベートな動きをする患者はいないから、病室全体に個人別までCCDカメラでモニターも為されていた。

「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人個人に合わせた調整をして維持させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態の維持が必要で、患者さんの反応が全く無いんだから」

 エレベーターから降りてからナースステーションを通り抜けないと病室への廊下には出られない。ナースステーションへの出入りは、病棟へ外部の汚れやダストを持ち込まないように、全身に圧搾空気を噴き付けられるエアシャワールームを通らなければならなかった。

「もっとも、ほんの僅かでも覚醒の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」

 はっきりとは知らないけれど、たぶん、身内の人が患者と間近で接する事ができるようになるのだと思う。でも、高齢の方は完全覚醒まで至らずに寿命を迎えるのが普通だと、見学後の噂で聞いた。

「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もうトラウマになりそう」

 父方も、母方も、祖父母に兄弟姉妹の親戚は、私が誕生して以来、全員が健在だ。これまで親しい友人や知人の、その家族の訃報(ふほう)も知らされてはいない。

 だから私は、亡くなった人の肌の青白さや硬直の硬さを知らない。

「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体を成長する極初期の細胞が生成したり、分裂して増殖するどの過程で人間としての命と魂が宿るのか……、みたいな。……なあんてね」

 理論的には魂と命は同義だ。科学的には発祥や肉体に何故宿るのか不明だけれど、心と気持を司(つかさど)るのが脳の前頭葉だと解明されていて、外部からの電気信号で基本的な感情のコントロールが可能になっている。でも、五つのセンスが発生する要素やプロセスと、何故、六つ目のセンスが導けないのかは分っていない。そして、観念的には別々に区別されていながらも、互いに深く関わっている。

「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」

(万物の真理は意外と偏ったモノかも知んないけど、不安や不穏な心の逃避に身体を飛ばないから、安心して)

「あはははは。うん。その方向には行かないから大丈夫。安心していいよ」

(それに、ルート変更して逃げるのも有りだしね。間違いもしちゃうけど、いつも、疲れ果てていようとも、苦しくても、辛くても、空虚で得体の知れない自由へは、飛びたくないねぇー)

 年齢、性別に関わらず、必ず迫り来る様々な試練の壁が在る。その最(さい)たる壁は長く、高く、広く、厚い。そして、乗り越えるたり、突き破ったりする困難さに自分の身体も、心も酷く痛んで泣き叫びたい。とても辛くて、苦しくて何も食べられないのに吐瀉(としゃ)を繰り返すくらい気持ち悪さが続き、遣る瀬無い惨めさに悩んだ果て、終(つい)に自ら己の命を絶ってでも逃れて楽になりたいと思ってしまう。

 だけど、そんな人生のサドンデスを実行しても、楽になったと知る事も、感じる事も無く。開放感も、爽快感(そうかいかん)も無く。最高に厭な局面を体現したままで意識を消去した命は肉体を離れて行く。

(自らが途中下車で人生を終わらせるくらいなら、やはり、在るか、無いか、分らない来世よりも、現世でリセットだよねー)

 幸せに満ち足りた時にも、瞳を照らす狭間(はざま)の光に誘われて向こう側へ逝(い)ってしまいたくなるのも有るけれど、厭な現実から逃げたいだけの限りなく黒に近い灰色を漆黒(しっこく)にするのと、パステルカラーに導かれるままに真っ白や透明にするのとは、全然違う。……なのだけど、どちらも其処で人生は途絶えて、それっきりだ。

(やっぱし、現世で、スターティング・オーヴァーしないと、楽しくないわね)

「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘には絶対に係わらないように。信じて頼れる存在は此処にいるから。其処の処よろしく」

 彼の嬉しい言葉に、頼もしいと思う。彼は私を信じて守ってくれるし、必ず助けに来て絶対に救ってくれる。

「他にも、魂とは脳の思考の根底なのとか、肉体の全機能停止の死が命と魂を無に帰さすとか、それは同時に帰すのでなくて別々でも無に帰れないのと、然(しか)も魂の抜け殻になった、まるで無機質な空の入れ物を整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」

 何かで読んだ天上界に在る『ガフの部屋』の逆場面って感じが見学した時にインスピレーションしていた。

 真っ白な空間に均等に区切られたトレーのような桝目(ますめ)が並んでいて、その一つ一つに天界へ戻される順番を待つ、疲弊(ひへい)し切って微動の震えもしない魂(たましい)が入れられているように思えた。

「その病棟を見てからは、それまでは大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと今年と来年の授業を受け続けるべきか迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ卒業できるんだけどね……」

 それは、たぶん、生理的に厭なんだと思う。志(こころざし)を貫(つらぬ)くのは普通に有りだけど、関わるにつれて肉体的や精神的に耐えられないのなら、仕方が無いでしょう。

(不安や不満のプレッシャーに耐え過ぎて、メンタルダメージを抱え込むのは嫌だし……。だから故に、ルートチェンジをしてもいいじゃん)

「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」

(そうだよ。あなたに感化されて、見付けたはずだったのにね。意外と私、メンタルが弱かったみたい)

「けっこう、真剣に悩んでいるんだ。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に私の遣りたい事なのかも、分からなくなってきてるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも相談していないし……」

 無機質な延命処置への生理的嫌悪は、愛する人の末期を延命するのと矛盾している。

(だけど、それはそれ、これはこれ。彼への愛は、私の生理的苦痛を凌駕してるんだ)

「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」

 流石に大学と病院は、そんな高度で倫理的な処置を医療の無資格者に、 例え学校の実習授業でも行なわせる事は無い。

 見学は一度だけと知らされていたし、私的にも一度の訪問で充分だった。

「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が最初で最後よ」

 ベッドに横たわる全ての患者が生かされているのだけど、全然、生物的にも、有機的にも思えなくて、とても無機質な印象だけが、今もイメージとして残っている。

(はっきり言って、気持の悪い異様な静寂と静止に、気分が悪くなってたよ)

「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は考え方の問題だけだ」

(そう、ないよ。あなたの言いたい事は分かるけど、それは考え方じゃなくて、生理的な問題だね)

「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」

 見て学んでSF的再生を秘めた末期医療は、私の記憶層に擦り付けるように摺り込まれてしまい、単に異なる上書きでは消えてくれそうに思えなかった。

「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない病院や医療機関に就職すればいいじゃん」

(あなたの、……言う通りなんだけれどね。でも違うの……)

「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」

 私の感性は普通じゃなくて、医療系に向いていないのかもと、深刻に悩んでいる。

「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングでプロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安はみんな同じで、いろいろ悩むさ。実社会へ出てからも、様々な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い早い、深い浅いの程度の差があるけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴うプロ意識を持って、仕事に従事しいるんだ」

(ああ、そうだった。彼は志を立てて働いていて、既に仕事というモノを理解してるんだっけ)

「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないから分からないけれど、君は医療技師になって医療以外にも、工学を学んでいて機材や機器を扱うのだから、切った縫ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……、言い方が良くないかな? 間違っていて気を悪くしたら謝るよ」

 検査機器に処方装置と有るけれど、いずれも二次治療で処方判断を導いたデータや適切な数値で管理できる必要処置に使われ、設置や接続や入力のミスをしない限り、直接的な責任を問われる事はない。

「いいの、気を悪くしないから、続けて」

 彼が思っている通り、患者さんから聞こえて来る声は、信頼できるメッセンジャーに徹っして直接的医療を支援担当する看護師へ伝えれば良いだけだ。

「それに、在学中にいろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とかな。卒業時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか警察関係も有りじゃん」

 高校生の時に私は仕事への考えを彼から聞き、それを体現している彼を知っているからこそ、自分の仕事への目標意識を持って専攻課程の有る大学へ進学している。それを『目標は一つじゃなくて、選択肢を増やすのも在学中にすべき事だろう』と、彼は言っている。

「そうかな?」

 彼を知らなかったら、進学を目標としただけで普通高校を卒業して、自分探しや遣るべき事の見極めを理由に大学の四年間を過ごし、ただ周りに流され続けて玉の輿を求めた腰掛程度に就職した会社で寿退社をするかもね。

(……なあんて、これって人生目標が専業主婦と育児だけって事ぉ?)

「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が自分で判断して決めるしかないんだ」

(……そう、かもね)

 分ってる。チヤホヤされて慰(なぐさ)められたいのと、的確な指摘と導きが欲しい。だけど、現在と未来の構図を描いて幾つかの判断助言を授(さず)かっても、最後に決定するのは私自身だ。

「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる君の正解なんだ」

(そうなんだけどね……、正確かどうか、分かんないよ)

 でも、彼が私を支えていてくれる限り、きっと私の判断を正解にしてくれる。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」

 口では、『気がする』って言っていたが、彼に話して本当に気持が吹っ切れて晴れ晴れとしている。

 偏頭痛(へんずつう)がしなくなったように、肩凝(かたこ)りの痛みや強張(こわば)りが無くなったように、腰周りの鈍い痛みやしこりが消えたように、顔や手足の浮腫(むく)みが退(ひ)いたように、身体と気持が軽い。

「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」

(あなたで良かった……)

 上辺だけのペラさは全く感じない。厚く、重く、深くの印象が残るけれど、纏わり付きやプレッシャーじゃなくて、信じられる想いと頼もしさに彼の優しさが有った。

 私達が同じ出来事に触れて、同じ感動や感情を感じて、それが瞬間的なシンクロだけで持続しなくても、もう私は疑わないし、迷わない。

「OK、勿論さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」

 思っていた通りの返事が返ってきた。

「うん、支えてちょうだいね」

(私も、ずっと、あなたを支え続けるわ)

「ところで、臓器提供はどうするの?」

 延命治療の果ての臓器や部位組織が移植可能な状態か分らないけれど、そこそこ若い健康な肉体で事故や病気で亡くなったのなら、損傷の無い正常な器官は全て移植提供できる。

「ん、それはしてほしい。使える部分は全て提供してもらって。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。それは有りかな?」

 移植されて何度も細胞の分裂や死滅や増殖を繰り返しても、彼の成分が限りなく薄れて行くだけで、完全に置換されて消滅する事はない。

「そうね、有りかも」

 例えば、移植された臓器が心臓なら、生前の彼の鼓動の速度や強さや血液の送り量を憶えていて、彼と同じ心臓の動きと働きをしてくれるだろう。そうなれば、もし、私が移植された方の胸に耳を寄せて心音を聞けるのなら、きっと私は彼を思い出して、行き続けている彼をイメージできると思う。

「私も、そうしてくれるの?」

(なら、その永遠の生のイメージを、私へもして欲しいかも……。あなたも、既に私のモノではなくなった私の心臓だった鼓動を聞いて、私を思い出してくれるのかしら……)

「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは誰にも渡さない」

 彼は、私の臓器や生体組織の部位を部品呼ばわりする。

(確(たし)かに部品だけど、私を成仏(じょうぶつ)させないつもりなの?)

「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」

 身体の部位を、メンテナンスで交換できる部品のように、彼は言ってくれる。

(やっぱり、あなたは、いろいろとマニアックだね)

「君の亡骸(なきがら)は、僕が手厚く葬(ほうむ)って弔(とむら)うんだから、勿体無(もったいな)いじゃないか」

(それって、私を骨まで愛してくれるって事ぉ?)

「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか、弔うまでも、……そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」

 大事にされるのは、とても嬉しい。

 葬りは火葬だろうけど、弔いはマニアックな彼の事だから、燃え残った頭蓋骨から中学か高校の頃の私を復元するかも知れない……。

(御願いだから、そんなの絶対にしないでね。もし、復元なんてしたら、髪を伸ばし続けて、瞳はあなたを探して見詰め、喜怒哀楽(きどあいらく)に変える表情と動く口は、笑ったり、泣いたり、話し掛けたりするかもだよ)

 そんなふうに、迷う私の魂が宿れば良いけれど、それも何か不気味で厭だ。でも、彼の言葉尻からしそうな気がする。匠(たくみ)な造形テクニックとセンスを持つ彼なら、何気に造りそうだと思う。

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 以前に、死ぬ事っていうか、死んでから行く所っていうか、そんな死と死後を考えたみた事が有る。

 死ぬと肉体は店で売られている生鮮食材の徐々に腐(くさ)って、ドロドロから干物のようなカサカサに朽ち果てるのは分かるのだけど、人格の意識や記憶を司っていた魂は死後にどうなるのだろう?

 延命治療は家族や親戚からの希望、それに医学倫理や研究都合で行なうのではなくて、本人の意思ならば、五感の感覚豊かな自分に戻りたい、もっと元気で人生を楽しみたい、などの誰でも抱く生への執着が有るからだろう。

 それに、得体の知れない死への恐怖からが一番大きいのに違いない。

 自分の死は眠りに陥(おちい)る時のように、その瞬間を自分で自覚できないし、知る事もできなくて、睡眠のような目覚めはなく、二度と瞳の虹彩(こうさい)に光りを宿す事はない。

 視覚的にはフェードアウトするみたいに、徐々に視界が暗くなって行って全てが漆黒に埋もれて御仕舞いか、テレビやパソコンの画面が消えるように、プツンと突然に閉じて真っ暗になって、それっきり。

 自分の人生は其処で終焉を迎え、魂とか、心とか言われる自分の人格を形成していた意識は、リセットの為に霧散(むさん)消滅(しょうめつ)。死によって開放される記憶は刹那(せつな)の時空を超えて逆戻りの人生を見せながら消去されてしまう。

 例えば、どんなに死が刹那の瞬間でも、百歳の天寿(てんじゅ)で肉体が逝ったのなら、その死が確定した魂の離れる一瞬の刹那に、百年間の人生の逆戻りを見せてくれる。それは世間で真(まこと)しなやかに、走馬灯のようにとか、フラッシュバックとか、呼ばれている事なのかも知れないけれど、辛い事ばかりの悲しい人生であっても、嬉しさの多い幸せな人生であっても、散り死にする心に見せて欲しいと、私は願っている。

 その逆戻りの間に、生きていた時には分からなかった全てを知り、自分を取り巻いていた全てに気付き、自分への人の思いを五感以上の感覚で感じて、三十三の真理を悟(さと)る。

 そして、魂は記憶の開放が終わると同時に浄化(じょうか)されるんだ。

 何故、真理を悟らなければならないかは、私が思うに、それが生で沁(し)み付いた穢(けが)れを払って無垢(むく)になる条件というか、浄化の過程なのだろう。

 死んだ後は、どんな弔いでも肉体組織は分子に分解されてしまい、重力に引かれる地球上の物質は有限だから、やがてバラバラに多様な生物の一部として再生されて行く。

 高校生の頃、私は『仏教の開祖、仏陀(ぶっだ)(目覚めた人)』という本を読んだ。

 その本には、ゴーダマ・シッダッタはブラフマンに、『死は肉体を失わすが、魂は輪廻(りんね)転生(てんせい)して、現在、過去、未来の全ての時空の生き物に宿る』の教えを説かれたと書かれていて、その意味を私は、魂は一つだけで、生命の根幹を成すモノだと考えた。

 生き物の行いや思考には因果(いんが)応報(おうほう)が付き纏うが、生き死は同じ魂だから、我欲の善や悪の持ち回りは無くて無垢に生まれ、無垢になって死するのだと思った。

 善行の徳(とく)の積み重ねも、繰り返す悪行の罪(つみ)も、人生を生きる葛藤(かっとう)に過ぎない。

 もしもパラレルワールドの平行世界が限り無く重なっていたとしても、その全てのワールドで魂は無限に転生し続けている。そして、その魂は時空を超越して、たった一つだけなのだ。

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(私のガフの部屋にも、あなたのガフの部屋にも、同じ魂が宿っているように思えるけれど、魂にとっては違う場所と時間なの。だから、あなたは私じゃないし、私もあなたじゃないのよ)

 人格や認識や記憶は、ガフに部屋に宿った魂が生きる過程で添付されるだけ。稀に一部の消去ミスが有るかも知れないけれど、転生に持ち越す事はできない。

(ふうぅ~)

 こんなふうに死ぬ事を理解しようとした事を思い出すだけで、矢鱈(やたら)と頭が疲れてプスプスする。それに痺(しび)れてクラクラした。

 もしかして死後を考える事はタブーな事で、それを深く探求する思考にはロックが掛けられていて、それは悟りの真理がキーと成って開放するのかも知れない。

 けれど、宗教家でも、禅僧(ぜんそう)でもない私は、彼との楽しい思い、嬉しい言葉一つで直ぐに忘れてしまい、何かのついでに記憶の片隅(かたすみ)から、屁理屈や言い訳と説得の辻褄合わせに引っ張り出すくらいだろう。

 それに、私利私欲の因果応報塗(まみ)れの私に真理は、彼への真心だけで充分でしょう。

「さぁ、そろそろ行きましょう。冷えて来たことだし」

 車内を温かくしたエアコンの微風と砂浜の歩きで汗ばむ身体をアイスクリームで折角(せっかく)冷(さ)ましたのが、更に傾いて熱を弱めた太陽は海原を温められずに、渡る潮風が冷えて行く大地といっしょになって私の素肌に触れて、指先や頬や首筋に撫でるような肌寒さを感じさせた。

「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」

 彼は手を私の手に重ねて、今日の日への別れと再会を約束する場所へと誘(いざな)う。

 私の冷たくなった手の甲に、しっかりと触れる彼の掌が、とても温かい。

「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」

 まだ、充分に余裕を持って小松空港へ着けそうだと思う。

「そうだな。温かい麺類ってのは、どうだろう? 僕はカレー饂飩(うどん)にするよ」

 そう言った彼は、私の手を取って安全に長者屋敷から降ろしてくれると、そのまま手を繋いで波打ち際近くの硬めな砂地を駐車場へと向かった。

(カレー饂飩って、それ絡みなの?)

「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦にするわ」

 普通に話す彼との会話が楽しい。

 斜陽の弱まる陽の光で冷める砂が足裏に冷たく感じながら、握る彼の掌の温かさが悴(かじか)み始めた私の指先を穏やかに解(ほぐ)してくれるのを嬉しく思う。

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 北陸自動車道の片山津インターへ入る交差点を過ぎ、空港ターミナルへの分岐路が在る安宅の町へ至る直線道路の右手に、夕陽で赤く染められたゴルフ場の松林を見た時、唐突(とうとつ)に私は思い出した。そして、それを実際の事実にする事に決めた。

「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」

 私の言葉を聞いた彼は、直ぐにSUV車を減速させながら答える。

「時間は、まだ余裕。ん? 海岸って、浜辺へ?」

 左折して私の願いを聞き入れてくれる彼は、北陸自動車道の上を渡る陸橋を越えて下ると、護岸堤が続く海岸縁まで行ってSUV車を停めた。

「そうよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」

 夕闇の中、金石の町から帰るバスの最後部の端座席で眠り込んでしまった私が目覚めた時に、鼻腔の上側と目尻を刺すニンニク臭が多分に自分の吐く息にするのと、仄(ほの)かに美味なラーメンの味がする唇に、柔らかい何かを押し付けられた感触が残っていた。

 高校一年生の春の終わり、彼のメールに誘われて金石の浜まで、部活のトレーニングでへたばる彼を見に行った。

 あの時の彼との会合はスカートの中を覗かれただけの一瞬くらいだったが、その後の真っ赤な夕陽が少しも翳(かげ)り無く水平線に沈む日没の美しさに見蕩れていた。更に黄昏の金石の町で異世界の狭間に入り込んだような不思議な体験をした。

「外へ出ましょう」

 夢見の良さを現実で再現したい!

 リアルな夢の触感を現実で試したい!

 そして、夢の中と同じような私の胸の高まりと、熱くなる顔や首を感じたい!

 あの日、彼へ無関心でいられるように私は夕暮れの黄昏(たそがれ)に抱かれる金石の町へ行った。

 その夜の就寝で、金石の砂丘の上に立つ私は横に居る彼と優しく蕩けそうなキスをするリアルな夢を見た。キスの夢は、金石から戻るバスの中で転寝した私が同乗して来た彼に小突れて起こされた際に、唇に感じた感触の所為かも知れないと思うけれど、夢の中なのに覚醒しても唇に残る、そのリアルな感触は何日も消えてくれなかった。

 彼のマイナス面を見い出す為に金石の町へ行ったのに、私は彼への意識を大きくしてしまった。

「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」

 彼の腕に手を回して身体を寄り添わせる私は、驚きの躊躇いが半分、嬉しい喜びが半分の彼の横顔を見ながら私は思う。

 目覚めても感触が残るリアルな夢見だとしても、既に四年も過ぎた事だから大筋以外は思い違いが多く有ると思うけれど、夢の中で私の横に居て心地好いキスの感触を残してくれたのは、確かに彼だった。

 全身を彼の方へ向き直すと、そっと爪先立ちで背を伸ばす。それから私は、少し顎を上げると期待を込めて眼を閉じる。

 キスを求める私の唇に、彼の唇が触れるのを感じた。

 最初はそっと軽く確かめるように彼の唇が触れ、次に少し押し付けるように触れると、離れ際に私の結んだ唇が釣られて小さく開き、直ぐに触れ直した唇が更に開かせて、彼の舌が入って来る。

(うぅ……、あぁ……)

 私を抱き留める手が首筋に仰(の)け反(ぞ)らないように添えられて、舌先が私の舌の脇や裏を、口の天井や底を転がすように撫でて行く。

(なっ、なんか、てっ、手際がいいわ…… ね。ううん、気持いい……、あはぁ……)

 彼の舌を吸い、私の舌を絡ませると、彼も私の舌に吸い付き。舌を絡み返す。

 喘(あえ)ぎ始めた息に、私の胸と肩が振るえている。

 あのリアルなキスの夢は、その後も何度か見ていた。どの夢もキスの感触と気持の良さは同じだったけれど、そのリアルなキス以上に現実の、とろんとする心地好さに薄く眼を開いて彼を見ると、彼が優しげな眼差しで私の瞳を見ていた。

(ずっと私を……、見てたの? 反応を…… 観察ぅ? ええっー?)

 彼に私の表情や身悶(みもだ)えの反応が観察されていた恥ずかしさに、耳の後ろや項まで熱くなって行く。

 私の薄目に気が付くと、私を見ていた眼が微笑んでから閉じた。

 こんなにも心臓が高く、強く、速く、鼓動して、凄い勢いで血管を脈打たせながらアドレナリンが全身を駆け巡っているはずなのに、興奮が激しくなるよりも蕩ける意識に気を失いそう。

(ああっ! 大好きよ!)

 身体の全てから力が抜けて行きそう。

(一番長い中指を咥えたら、ゆっくりと口の中を指先でなぞるように触れてくれて、その擽ったさに身悶えしちゃうかもね?)

 過ぎる卑猥(ひわい)な想いに、股間が湿(しめ)るのが分った。

 瞬間、腰と膝の力が抜けて、キスをしたままカクンと小さくヨロけたのを、彼の私に廻した腕と手に力が入り、それ以上に私がヨロけても大丈夫なように支えてくれる。そして、ゆっくりと彼が唇を話して行く。

 戻る彼の舌と離れる唇に、全ての方向へ何処までも広がって仕舞うような気持の好さに何も考えられずに、翔(と)び過ぎて召(め)さる寸前だった魂と意識が戻って来た。

 立ち眠りの寝起きのようなフラ付く感覚に、思わず彼の腕をしっかりと掴み直してしまう。

「うふっ、あそこも、こんな感じで歩きたいわね」

 くらりと浮き上がるような気持にさせる彼のキスから離れた上唇を噛む私は、心地好い気分のままに彼へ訊いた。

「あそこ? それって、どこ?」

 それはまるで、奇蹟の出逢いのようで、私はデスティニーを感じてしまった。

「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔(ほとり)とスペイン広場ね」

 中学二年生の三学期の家族旅行の時、地球を半周近く移動した場所で彼と遭遇するなんて、全然、思いもしていなかった。

 湖畔の駐車場に入って来た大型観光バスの車窓に東洋人らしき人影が並び、日本人のツアーグループかもと見ていたら、降車する人達の最後の方に彼が降りて来たのには、心底、驚いてしまった。まさか、知っている日本人がいて、しかも、日本の自宅にいて明日も通学するはずの彼だなんて、超常現象的に『なぜ、ここにいるのよ?!』だった。

 それまで、メールでからかう程度しか、他の男子より意識しなかったのが、三年生になってクラスが別々になったのに、私の目は彼を探していた。

「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私からあなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたかなぁーって。なんかぁ、遠出すると気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから尚更だったのよ。何気に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも良かったしね」

 別に海外じゃなくても、いつも生活している地域から遠く離れた場所で偶然にも出遭えたなら、郷愁や旅愁や哀愁の憂いと寂しさに、違う場所の光と空気を添えた愛おしさ懐かしさの求める親しみが、私を打ち解けさせて繋がり、傍に居いたいと思ってしまう。

「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にびっくりして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」

 慣れ親しんだ御郷(おさと)に居る私は開放的な気持に、立戸の浜ではおしゃべりで行動的だった。

 大桟橋へ行った日は、相模原まで会いに来てくれる彼が嬉しくて、気持はときめいていた。

 もし、コモ湖で触れ合いが有って、ミラノのホテルへ逢いに行っていたとしたら、それからは彼に素直な私になれていただろうか?

「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって旅行の初日だったんだから、意識しないわけないじゃん! ……でもね、日本に帰ったら直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」

 無口で無関心。否定と拒絶。見掛けの規則の遵守(じゅんしゅ)と僅かな模範意識。中学校や高校の閉鎖的ムードの限られた空間と時間の行動環境で、そんな毎日を過ごす私は、彼に好意を示されても積極的に親しくできなかった。

「もっとメールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」

 もし、あの時にあなたが、『イタリアにいて、ミラノのホテルに泊まっている』と、返信で知らせて来たなら、私はお姉ちゃんと、あなたが居るホテルへ会いに行っていたかも知れない。

「まさか、またスペイン広場で会っていたなんて、思いもしなかったわ」

 広場に面する土産雑貨の店のショーウインドー越しに、私の一挙一動を彼に見られていた。

 何度も手に取って迷った末に諦めていたモノを彼は、終業式の日に私の机の中へ入れてプレゼントしてくれた。

 不審な物かも知れないと、怖々(こわごわ)、暖かい色調の包みを解(と)いた後の驚きは、其の後に体験した幾つもの彼への驚きの始まりだった。

「あのね、予感はしてたんだ」

 初めてあなたと話した小学六年生の時から意識していて、いつかは今日の私のように成れればって思っていた。それなのに、私の仕様も無い拘りと、気紛(きまぐ)れと、語弊(ごへい)が有るかも知れない高望みで、彼の大切さを含めて認める事が出来ずにいた。

「……予感?」

 終業式の日のプレゼントからは、それまでは掠(かす)れ掠れの殆ど透明に見えていて認めたくなかった糸が、くっきりと赤く見えて出ている気がした。

 その赤い糸を視線で手繰(たぐ)る果てに、廊下で私を見ている彼がいた。

「そう、きっといつか、私はあなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」

 以後、事有る毎(ごと)に彼への驚きが糸の赤色を濃く鮮やかにさせて行くのを分っていたけれど、ベストを求める私の気持が気付きたくないと反発していた。

(嫌いじゃないけど、好みじゃない ……みたいな。別に好きな男子はいないけど、好きでもない男子から告白されるのは、キモくてウザいみたいな……。ちょっと酷いかも知んないけど、そんな感じだったかな)

「あっ、その笑顔はいただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいです」

 別に脳の記憶中枢にメモリーしなくても、写真を撮ればいいのにと思う。そうすれば、今、彼に見せている『凄く好い笑顔』を私もチェックできる。それが、私らしい納得できる笑顔だったら、私も欲しいし、彼の携帯電話の待ち受け画面にも使って欲しい。

(もしかして、以前……、あなたに、私の写真を撮らないでって、言ったかしら?)

 敢えて、私から写真撮影を提案しない。

(まあ……、これからは、互いの写真を撮る機会が幾らでも有るでしょう。あなたが撮るのを躊躇するなら、私から積極的に撮ってあげるね)

「紅く染まってって、それ、酔っ払いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」

 言ってしまってから、私は『酔うと笑い易くなるタチだったかな?』と自問する。

(あはっ、素面(しらふ)でも、酔っ払っても、笑えるような楽しい気分でいさせてくれるというのは、嬉しいな)

「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。マジで今日を連想する笑顔だよ」

 彼が私を笑顔でいさせてくれるのなら、私は嬉しく笑う明るさと穏やかさで、彼を癒(いや)して楽しい気分にしてあげたい。

「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」

(そう、あなたの笑顔も、私を癒してくれているのよ)

 無警戒に笑う彼に、これからは、これまでのような戸惑いや不安な顔をさせないようにしなくてはと、私は何度でも心に強く誓う。

 互いの心のケアをして、安らぎと復活のモチベーションを得られなければ、互いを求め合う意味が無いと思う。

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 小松空港のカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナルビル二階の飲食店の並びで、彼は私の得意なカレー饂飩をオーダーして、私は温かい鴨南蛮の蕎麦を食べた。

 それから売店で明日の朝ご飯用の空弁(そらべん)と自分用の土産を買った後、フロアの柱の影でキスをした。

 うっとりする舌の絡み愛しい唇の感触に、彼は深く腕を廻して私を胸を締め付けるように抱いて来る。

「うっ、いっ、痛いよ」

 痛いくらいに私を強く抱き締める彼の気持ちは解っている。

 これまで私は、冷たい態度と文の中に僅かな優しさを付け加えたり、あからさまに期待させる親し気な行動をしたり、嬉がられる言葉を言ったりして来て、それらを全て覆(くつがえ)していた。

 そして今日、更に、その金輪際(こんりんざい)の縁切りを卓袱台(ちゃぶだい)返(がえ)ししている。

 こんなに素っ裸に私を素直に晒(さら)して、心の底の隅々まで気持を吐露(とろ)しても、彼は今日の私が儚(はかな)い夢のように霧散(むさん)しないか、怖がっていた。

 それは、私が抱(いだ)く、電話の女性への不安感や、いつの日か、思い出話しで言えそうな、中学生女子達と楽しく下校する彼の姿への裏切られ感や、弓道のファンだと思う女子高生といっしょに浅野川(あさのがわ)縁(べり)や片町のアーケードを歩く、彼の嬉しそうな態度へのジェラシーよりも深刻で、ピンポイントな強い恐れだと知った。

(ごめんね。ずっと、ずっと気付けなくて。……あなたは、私と別れる度に、こうして私を引き止めていたかったんだ……)

「あっ、ごっ、ごめん」

 彼が不安顔で謝るのを見ながら、私こそ彼に謝りたいと思う。

(少し、痛かったけれど、息が止まるくらいに抱き締められるのも、……嫌じゃないよ)

「ううん。でも嬉しい」

 彼が女子達と下校したのも、ファンの子に誘われて買い物に付き合っていたのも、一番の原因は私に有ると思う。

「部屋に着いたら連絡するね」

 金沢神社では、高校入試の合格願掛けの絵馬を掛けるのを見ていた。通学のバス事故の日は、怪我の痛みを我慢して連れ回されてくれた彼の乗ったタクシーを見えなくなるまで見送っていた。彼が明千寺へ来てくれた時には、立戸の浜から穴水町の南外れの交差点まで見送ってあげた。

 なのに気紛れで、気分屋で、利己的な私は、相模大野の駅前でV-MAXで帰る彼を冷たく見送っただけで、彼が無事に帰ったかどうかの確認を、メールでも、電話でも、私からしなかった。

「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」

 でも今は、もう既に、心も、身体も、強く彼と繋がっていて、彼は私のモノだし、私も彼のモノなのだ。

 今日からは、スターティング・オーヴァー。未来はハッピーエンドへ書き変えて行けると思う。そう出来ると私は強く信じている。

 小松空港のセキュリティーゲートで彼に見送られて飛行機に乗った。機内のシートに座ると身体が小さく震え出した。気持ちが受け入れて心が解き放されても、私の身体が理解していない。羽田空港に着くまでの短いフライト時間では、十分に想いの整理ができなかった。

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 柱の影でのキスの後、搭乗直前の小松空港で私は彼に、これからも私を好きでいる覚悟を訊いた。

「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも相談できて良かった」

 見送ってくれる彼の顔が、優しくて嬉しい。

「礼を言うのは僕の方だ。僕こそ君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて最高に嬉しいよ。迷いの相談も。僕の方こそ凄っごく感謝してる」

(そんな事はないよ。私の素直な想いだから、感謝なんてしないで)

「そして……」

 また、私が突然に心変わりを見せるかも知れないと不安に思う彼に、私を疑わせずに安心させなければいけない。

「……そして、私を、ずっと彼女にする覚悟は有るの?」

 言っている途中から上半身が上気(じょうき)して来た。耳と首の後ろが痛いように熱く感じて自分の顔が火照っているのが分る。高鳴る鼓動に気道が詰まったように息苦しく、喘ぐ胸が大きく上下していた。

 彼とキスから先の肉体関係を持ち、同棲(どうせい)でも構わないからいっしょに暮らして、私と結婚する気が有るのかと、私から彼に訊いていた。

 私は彼の子供を産んで、二人で子育てをする。その覚悟を彼に問うている。

 さっきまで、互いの人生の終末を看取るような会話は、あなたと添い遂げるという事なのに、いざ、言葉にすると、私から先に迫った事が凄く恥ずかしくなった。

「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」

 ……金沢へ戻って来たのは、父親の仕事を継ぐ為だけだとは限らない。

 一瞬の理解への導きと、刹那(せつな)の躊躇いに、即答に近い返事の言葉が彼から発せられようとしている。彼の言葉には、彼自身が微塵にも考えてもいない『都合の良い女』を、無意識下に滲ませて来るかも知れないない。

(絶対に、そんな事を考えていないだろうが、……私は気付きたくないし、タイムリーな女と思われるのは、厭だ!)

 だから、今じゃなくて、互いが離れた場所に少し時間を置いてから、聞きたいと思う。

「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。その時までに良く考えてね。ふふっ」

 今、彼が答える言葉は決まっている……。今日の偶然の出逢いと後の流れで心地好い返事を彼は言ってくれると思う。でも、今までとこれからの私達を本当に良く考えて判断してから選んで欲しいと強く望んでしまった。

 何度か心通わせて寄り添う機会が有った。それを悉(ことごと)く無碍(むげ)にして来たのは私だ。永遠の別れを断言した私へ彼が罵倒(ばとう)する文字の羅列(られつ)を差っ引いても、私に圧倒的な非がある。

 それでも、今日の日を過ぎて客観的に私を冷静に考えれる日々を経てから、私が望む理想の言葉で答えて欲しい願う。

(しかし、そうではなくて拒否られちゃったら、……人間を辞めてしまいたいくらい悩んじゃって、泣き喚いてしまうよ。そして生涯……、愚かな自分を呪い続けちゃうかもね。……でも、仕様が無いよね。それくらい動揺しても、私は潔くあなたを諦めてあげるわ)

     *

 羽田空港から幾つもの電車を乗り継いで、もうすぐ日付が変わる頃にやっと相模原の部屋に着いた。

 荷物を床へ置き、脱いだコートをハンガーに掛け、ベッドに腰掛けてエアコンをオンにする。エアコンのシロッコファンから送り出された温かい風が髪を戦がすのを感じながら、携帯電話を手に取り、交換した彼の電話番号の探した。

 部屋へ無事に着いた事を知らせる為に、ときめく今日を思い出す為に、そして、これからの事を話す為に、まだ少し震える指で携帯電話のタッチパネルに触れる。軽いタッチを指先が繰り返して、パネルに彼の携帯電話番号を表示させて行く。

 ベッドに寝転び、机の隅の置かれた西洋城館のミニチュアを眺めながら、彼を呼び出すコールを聞く。

 もうメールはしない。私は彼の声を聞く為に電話を掛ける。

 城館の上に林立して翻(ひるがえ)る旗は半分ほど折れている。抑え切れない苛立ちや遣り切れない不満の度に私が折ってきた。折った旗は机の引出しに残して有る。

(そうだ! この旗たちを、彼に直して貰おう)

 何か特別な事を閃いた気分になり、もっと良く近くでミニチュアを見ようとベッドから起き掛けた、その時。

 携帯電話のスピーカーから聞こえていたコール音が消えて、彼との通話の始まりを知らせる。

『ガリッ! ボフッ!』

 スピーカーから掴み損(そこ)ねた電話機を急いで持ち直したような音と、更に安堵からか、緊張からなのか、短く溜め息を吹き掛けたみたいな音がする。

「もっ……、もしもし……」

 続いて私の耳に、躊躇い勝ちに……、でも明るい彼の声が聞こえた。私から呼び掛ける前に彼が発した、その明るい声に私は思う。

(これからは彼と様々な事を話し、二人で多くの場所へ行き、いっしょに色々な事をしよう。もっと、もっと、彼を好きになれるように!)

「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」

 もう彼のコールを冷酷に拒絶はしない。そう、彼の言葉や文字は、いつも制限時間付きみたいな私の悩みや迷いや憂いを、優しい待ち時間に変えてくれていた。

(彼が望み、私が求めた、二人の未来は、希望と安らぎの眩しい光に溢れさせて遣る!)

 素直に嬉しい気持ちのまま、楽しく弾む明るい声で優しく返そうと吸い込む私の息に、ほんのり桜の匂いがした。

「けっ、けっ、結婚して下さい!」

(ううぅ、この……、深夜のシチュエーションで、正式なプロポーズをして来るかなぁ? それに、まだ今日を延長しそうな時間だよ。次に会う時でいいって言ったのに……、こんなに早く結論を出して、私が望んでいた理想の返事をしてもいいの?)

 突然の予期しない彼の言葉は、それを求めていたのにも関わらず、私を戸惑わせた。

(もっとこう、気持を昂(たかぶ)らせて行って、添え物のプレゼントが有って、貰って。なんか、ドッキン、ドッキンと全身に悪寒で震えるくらいに響く、サプライズみたいなのを、晴れ渡る明るい青空に桜の花弁が舞う中でしてくれる、みたいなのを想像していたのにさ……)

 視界が滲み、眼から溢れる泪が頬に温かく流れて、幾つもポロポロと涙の粒が落ちているのを知った。

(でも、これも、……夜桜咲く、綺麗なミッドナイトブルーの、嬉しいサプライズだねぇ)

 私の涙腺が、無自覚に彼の声に答えている。

「うん。……はい!」

 涙腺に続いて、勝手に返事をした声を強く言い直した。

「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」

 涙が止まらない。流れ出そうな鼻を啜りながら、鼻声でも、はっきりと、私からもプロポーズする。

「はい! 謹(つつし)んで、喜んで受け賜(たまわ)ります!」

 彼の嬉しさが伝わる大きな声の語尾が、鼻声になった。

(あっ、あっちゃあ! 電話越しのプロポーズを、即答で御受けしちゃったよ! しかも、電話越しに私からも返しの御願いをしちゃって、彼も即答で受けてくれて、再確認はOKだよ! もう、無かった事にならないよねぇ。……うっ、うっ、ううっ、嬉しい……、ああん、嬉しいよぉ……。あん、あん)

 彼も、私も、感無量の喜びで泣いている。

「嬉しい。凄く、嬉しい!」

 自分でも可笑しくて笑っちゃうほど、涙と鼻水が止まらない。

(彼は、もう私を疑わない! 私は、もう迷わない!)

「僕もだよ! この嬉しさを、ズズッ、君に何て伝えよう? ……心から愛しています」

(愛の誓いだ!)

 指輪の枷(かせ)を互いに嵌(は)める時のような、心に染み入る言葉を言う彼の声も鼻声が酷くなっている。

「私もあなたを、心から愛しています。……うふ、もっと言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」

 私も愛の誓いを言う。この後に続くのが、昼間の『死が二人を別つまで』だ。

「ああ、そうだね。もっと言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」

 話す彼を遮ってワザと言わせなかった言葉なのに、サプライズで言われた所為か、その言葉を聞いてしまうと、彼の言葉は思いもせず、ずっと深く私の中に入って来て、予想していた以上に私を感動させていた。

(もう、ウルウルどころか、ポロポロだよ……)

「……泣いているよ。私……」

 そう自覚してしまうと、更にブワッと溢れて頬が零れ流れる涙で熱くなる。

 中学二年生での彼の告白は無記名のメール文だった。今のプロポーズは彼だと分かっている電話の声だ。きっと彼は、次に会う時に改めてプロポーズを決めて来るでしょう。

(あなたはしっかりと、あなたが映る私の瞳を見て言葉を言い、私は、ちゃんと私が映るあなたの瞳を見て、あなたの言葉を受けてあげるわ)

「うん、愚図(ぐず)る声で分かってる。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」

(なっ、なにぉう。愚図って鼻声じゃないし、風邪も引いていないし。今の私の声は、ぐちゃぐちゃな泣き声じゃん!)

「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」

 彼が風邪を引いていないのも、冗談を言っているのも分かっている。

 もう少し、シリアスでいて欲しいとも思ったけれど、彼の涙声が嬉しくて楽しい。

 そして私は、とても幸せな気持になっていると思う。

「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」

 彼が笑いながら、謝罪と感謝の言葉を言って、私も御礼の言葉を返す。

「私こそ、ありがとう」

(私は、あなたと添い遂げます)

 同じ言葉に、同じ気持。彼も、私も、互いを疑わない。迷いも、不安も無い。今度こそ、はっきりと私達には分った。

 金沢と相模原に二人は遠く隔てられているけれど、しっかりと二人の言葉と心は繋がっている。

 この後は、欠伸(あくび)が出て『おやすみなさい』を告げるまで、幸せな気持に満たされた長電話をしてから、火照る身体を冷まさないように温かい御風呂に入って、今日を反芻する。そして、幸せ豊かな心で安らぎの眠りにつくでしょう。

(あなたの夢が、見たいなぁ。ずうっと、見れるといいなぁ)

 

……完(彼女)

大桟橋とカツ丼 (僕 十八才) 桜の匂い 第八章 壱

 今日もバイクでルート246を北上している。三週間前の三月末の日曜日もこの道を走っていた。走行ルートの下見と首都圏のムードを感じたくて相模原市へ行った。彼女がこれから四年間の大学時代を過ごす街と環境を知りたいと思って行ってみた。

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 初めて来た相模原の街は、街路樹や公園の並木の多くが桜の木で、まだ三月末なのに既に桜は満開のピークを過ぎて散り始めていた。僕が勤めている会社が在る東海地方の静岡市もそうだけど、北陸地方の金沢市とは違う関東の早い桜の開花と散り始めに、僕は驚いてしまった。これまで四月後半の今日でも咲き残っている金沢の桜しか知らなかったから、ピンク色の無い新緑の四月は雅に欠けて、とても物足りなさを感じてしまう。

 日本の人口の多くは、卒業式の頃に桜が咲く地域に暮らしている。淡いピンク色が匂う綺麗に咲き揃う様と、一陣の風に満開の花弁の美しく舞い落ちる桜吹雪の潔さが旅立ちと別れの思いに合わさり、お花見で愛でながらも桜の花が穢れの無い儚さを感じさせる悲愴なイメージになってしまうのも分かる。入学式を過ぎてから咲く、予感と期待と希望を抱かせてくれる北陸の桜とは、大違いだ。

 彼女は相模原の住所を知らせてくれなくて、彼女の通うだろう大学だけをGPSに頼らず探検気分で探し回った。

 そろそろ金沢から移って来る頃だと思っていた三月下旬に、『相模原に来てます。初めての一人暮らしを始めてるよ』と、メールが届いていたから、今もこの街の何処かに彼女はいる筈だと考えながら走っていた。明るい青空に桜の花弁が春風に乱れ舞う美しい桜吹雪のストリートを、昨日見ていたウロ覚えの地図と感を頼りに僕はV-MAXで走り抜けていた。

 その日、僕が相模原へ行く事を彼女には連絡していなかった。引越しの片付けと日常生活を整え中に僕が手伝いの口実で来られても戸惑うだけで困るだろうし、それに彼女は僕を彼氏と認めていないのだから変だろう。友達としてわざわざ静岡から手伝いに行くのは、恋慕の下心一杯の男と思われるだけだ。

(いや、本当は、SAY・YES! の恋心だけなのだけど……)

 彼女に求められている確証を持てていないという拘りを僕はいつまでも引き摺っていた。思いをメールで伝えても、『来ないで』と返って来ていたに決まっている。それなのに僕は、あれこれ理由を付けて下心を覆い隠し、相模原に行った。彼女と偶然の出逢いが有っても用意した言い訳をせずに逃げるだけの癖(くせ)に…… 行って来た。

 彼女が何処に住むのかも分からずに、当てずっぽうに相模原の街を走り回るだけだったけれど、これから彼女が学ぶ大学だけは見付けた。大学の正面らしきゲートの真向かいにV-MAXを停めて見る構内は、どうもキャンパスが総合病院に併設されているようで、暫くして目の前のゲートが病院へ出入りする為のモノだと知った。

 病院の正面ゲートだと悟ると、キャンパスへ学生が出入りする通路は『何処に在るのだろう?』と、向かいの敷地内を移動する人達に眼を凝らしながら探っている自分がいた。もう気持ちはストーカーのようだった。休日で人通りの少ない広い構内には多くの建物が建ち、病院の建物なのか、大学の校舎なのかも判断が出来ず、欲しい情報は何一つ得られなかった。

 もしも、このまま彼女から『一人暮らしを始めた』以上の情報が無ければ、時々、ウイークディーに僕は此処へ来て構内に入り、学生達の中に彼女を探して確証と安心を得るまで、彼女のキャンパスライフと一人暮らしをストーカーするだろうと思った。そして、去年のバス事故で彼女を守る盾と成り、初めての暑中見舞いの葉書で能登半島の明千寺の町へ誘われて、立戸の浜で彼女と親しく話せた僕には、その権利が有ると思っていた。

 そんな事をしても何も納得できずに虚しく、過激化して行くだろう行動は諸刃の剣となって、彼女と僕を酷く傷付けるのは判っているのに、僕はV-MAXに凭れながら、どうすれば彼女に気付かれずに探って付き纏えるかと、自己中の斜めにズレた方向で考える僕は、甚だしい勘違いをしていた。

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 不穏な気持ちになった三週間前と違って今日は、気持ちに余裕を持って相模原に向かっている。先週の初め、既に大学の授業が始まっているだろうと思い、『そっちへ会いに行く』とメールを打つと、

【来て。この日の、この時刻に、この場所で。デートしよう】

 意外なほど、あっさりとデートが決まった。まさか直ぐにデートに誘われるとは思っていなくて、毎日、彼女のメールを五、六回はメールを読み直していた。

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 新たな仕切り直しの期待で彼女の想いを信じる僕は、早朝の寒さに震えながらルート246を相模原へと向かっている。三月末のように迷わなければ、あと一時間ほどで待ち合わせの場所に着くだろう。逸る気持ちの三月末は冒険気分でGPSを使わずにいたら、しっかりと迷ってしまった。どこも似たような大きな通りばかりでさっぱりわからない。道路案内板の地名は、僕が知らないだけで関東じゃメジャーかも知れないけれど、マイナーな地名ばかりに思えて向かう方向さえも分からず、結局はGPSに頼ってどうにか辿り着けた。

 待ち合わせ場所はGPSで検索し登録していたけれど、デートを決めるメールには彼女の一人暮らしの住所が書かれていなかった。未だに僕は、彼女の友達手前以上には成れていないらしい。

     *

 四週間前に届いたV-MAX。バイクショップで車高を下げる改造と、エンジンのチューンアップをしてから納車して貰った。リアサスペンションのスプリングをカットして、五センチほど車高を下げ、更にシートの芯を抜いて薄くした。突き上げが増えて乗り心地が悪くなったけれど、跨ると両足の靴底がべったりと路面に着いて、とても安心感が有る。

 教習所のバイクは車高が高く、低速時や停止で振らついて何度も補習を受けた。バイクショップで試乗したV-MAXも、足の着きが不安で立ち転けしそうだった。

 バイクショップのオーナーは親父の知り合いだったから、車高を下げる際に無理を言ってエンジンを降ろし、シリンダーヘッドを外して貰う。そして、WPC加工を面倒臭そうに渋る親父に頼み込んで加工装置を使わせて貰った。

 WPC加工は、微細なビーズを水の噴流に混ぜて金属の表面に激突させる加工方法だ。ビーズが衝突したとても小さな点のような部分が高温になり、瞬間に金属が溶けて急激に冷やされる。これが加工する金属表面全体に繰り返し施されと、表面から機械加工の筋が消えて滑らかで薄い超硬質な表皮に覆われてしまう。

 シリンダーヘッドの表面にWPC加工をすると、シリンダー筒との摩擦係数が小さくなり密閉性も上がる。更に最表面に潤滑層を形成する微粒子のショット加工を行うと、結果、燃費が良くなりパワーもアップする。

 WPC加工は、WONDER PROCESS CRAFTの略、『ワンダー・プロセス・クラフト』日本語にすると不思議な方法の特殊技術かな。応用は未知数で、実際に様々な分野で使われていて金属以外にも効果が有るみたいだ。

 親父は数年前に、導入していろいろと改造して全自動システムにしていた。六軸のロボットアーム、アタッチメントやビーズの自動交換、タッチや近接や画像のセンサーなどなど、加工物の形状と加工範囲を読み込ませ、あとはプログラムをセンサーが勝手に組み合わせて無人の全自動で動く。

 大抵は金型の摺動面や摺り合わせ面に用いていて、依頼が有ると面相度の均一化や特殊仕様品にショットブラストしている。プログラムは僕が組み、素材のセットも僕が行うのに、親父は性格的に作業と相性が合わないのか、いつも面倒臭がっていた。

(変な親父だ。たぶん、今回は僕好みのエンジンにする為だけに使って、金に成らないからだな。ホワイトダックスには、親父が自分でしている癖に!)

「全く、この忙しいのに面倒臭い奴だ。これは誰にも話していないし見せてもいない。メーカー連中やお客も知らない。今まで俺以外で見せて使わせているのは、お前だけだぞ」

 工場の加工設備を初めて見た時に、そう語る親父が頼もしく思えた。それまで親父の仕事にあまり興味が無くて、業種も内容も作業場や設備も良く知らなかった。僕がモノ造りに興味を持ったのは、その時からかも知れない。

「そのデカイのに飽きたら、俺に譲るんだぞ。勝手に売るなよ。だいたい所有者名義は、この俺だからな。代金の半分以上も、俺がキャッシュで支払ったんだからな」

(うっせーな、親父。分かってるさ。でも当分、いやいや、ずっとV-MAXには飽きないと思うから、ちょっと譲れないね)

     *

 待ち合わせの場所には予定時刻の十五分前に着いて、まだ来ていない彼女を待った。初冬の寒い朝、兼六園下のバス停を最後に彼女と出会っていない。寒い冬で受験勉強に頑張る彼女の体調が崩れるのを、心配した親は朝の登校と塾の帰りを車で送迎してくれていると、故に朝のバスに乗っていないと、彼女のメールに書かれていた。

 今日は、五ヶ月ぶりで彼女を見る事ができる。

(最初に笑顔で迎えてくれるだろうか? 心ときめかす彼女の可愛さは変わっていないだろうか? 大人びて、更に綺麗になったのだろうか? クールでシックな彼女の性格は、大学生になって変化したのだろうか?)

 彼女の美しい変化を期待して、ワクワクと気持ちが高ぶり落ち着かない。切に彼女の笑い顔を見たいと思う。

(性格も大人びて? ……いたら良いな)

 予定時刻が近付くに連れて、約束をシカトしたり、予定をドタキャンされたりして、このまま彼女はここへ来ないかも知れないと、気持ちが焦り出す。そんな不安な思いは、笑顔で小さく手を振る彼女を思い浮かべて振り払おうとする努力も空しく、見上げた全天を切れ間無く覆う曇り空のように広がって行く。彼女の気が変わらない保障も、約束を守る確信も、来てくれる自信も、僕には無かった。

 もう間も無く予定時刻になろうかとする頃、雲間に青空が覗き差し込む陽の光りで辺りが明るくなった。その一筋の光りの端から満を持して、スポットライトを浴びながら登場する舞台女優のように彼女は現れた。それはまるで、僕らの出会いを大自然の天候がプロデュースをする祝福のサプライズように思えた。彼女は約束を反故にせず、きっかり予定時刻に僕へ会いに来てくれた。

 近付いて来る彼女は、ほんのりブラウンに染めてナチュラルに先端をカールさせたヘアをしなやかに揺らし、たった五ヶ月間しか会わないだけで髪がそんなにも長くなって、ふっくらとしたのかと思うほど豊かな量に見えた。艶やかな髪は陽の光をキラキラと反射して輝く天使の輪を頂くようだ。その洗練されたヘアースタイルも、ポイントを押さえた薄いメイクに自然な可愛さと美しさで、大人びた彼女の端麗さを際立たせているに過ぎなかった。

 僕を見詰めながら笑顔で近付いて来る彼女に、心はときめいてドギマギしてしまう。そこに高校生までの幼さの残らないレディな彼女がいた。そして、彼女の大人っぽいファッションを見て僕は後悔した。期待以上の彼女に会えて晴れ晴れと満たされた幸福感が、待ち侘びていた時と違う鋭角な不安感に変わって行く。

 胸元が開いたニットのミニのワンピに軽めのフード付きショートコートを合わせ、足元をムートンブーツで纏めている。全体をパステルカラーでコーディネートしてエレガントさがあった。それに、Vネックの胸元を隠し、白い首元を守るように巻かれて温めていたのは、あのレリーフといっしょに彼女へ贈った暖かそうな柄の、絹のスカーフだった。

 四年前にイタリア旅行の土産に彼女へ送ったスカーフを今も持っていて、今日の初デートにして来てくれた。パステルカラーのライトなファッションにマッチして、その春めいた淡い色彩は曇り空の光に程好く顔を照らして、彼女をいっそう艶やかに見せている。

 彼女は、いかにも大学生って感じのファッションで、高校生の詰めの甘さが気になる乙女チックな服装とは、……と言っても彼女の私服は中央病院と立戸の浜でしか見ていないのだけど……、明らかに違っていた。

(とってもキュートだ! それに艶っぽいし……。スカーフが凄く似合って良かったよ。君と手を繋ぎ……、腕を組んで……、歩きたい。腕を絡めてくれますか?)

 惚れている彼女の洗練されたファッションを見て心はときめいたけれど、僕との余りのミスマッチにホットでハイな気持ちが一気に冷めて行く。僕は察した。彼女はバイクにタンデムする気なんて、これっぽっちも無い!

 春の肌寒い曇り空の下、彼女はV-MAXにタンデムする服装じゃなかった。その格好じゃV-MAXに乗れない。いや……、乗せる訳にはいかない。

(僕がバイクで来るなんて、彼女は思いもしていなかったんだ)

「おは……」

 笑顔は僕を見た一瞬だけで消えて直ぐに真顔になった。それから僕の背後のV-MAXを見た彼女は、目を丸くして呟くように言った。

「その、大きなオートバイで来たんだ……」

 彼女は別世界の未開で野蛮な異邦人が、奇怪な宇宙船に乗って自分を攫いに来たかのように、嫌悪の顔で見ていた。

 久し振りに、しかも一人ぼっちの心細い場所で会えたのに、『お早う』の朝の挨拶も言わないで嘆く彼女に、言い掛けたフレンドリーな挨拶が声にならないまま、ネバネバした不安の先が鋭く尖りキリキリと僕の胸に暗い穴を開けて行く。

 僕はアミーの迷彩ジャケットとロイヤルフォースの迷彩パンツに、フランス外人部隊のバトルブーツを履いた、全て中古品のカモファッションだった。それに迷彩柄のネックウォーマーを首に巻き、手にエアフォースのフライトグローブを嵌めて、モノトーンの破片パターンにカモペイントしたフルフェイスのヘルメットを持っている。

 とてもエレガントな着こなしの彼女と歩くファッションじゃない。それに、V-MAXにぶら下がった彼女用のフルフェイスヘルメットも見られているだろう。彼女との距離が冷えて、ビシッビシッと固まる空気に全身がチリチリと痛み出す。

『あんたと歩きたくない』という意思表示がありありと表情に出ている。ここで、『軍装品が一番温かくて丈夫なんだ』とか、『個性的だろ。気に入っているんだ』なんて言ったら、美しい顔を更に醜く歪ませて、『バーカ』と言い捨てて、プィっと帰ってしまいそうな険悪なムードだ。

 彼女が普通に街を歩くような……、いや、トレンディスポットでデートするような気持でいることを予想していなかった。僕は自分の事しか考えていなくて、僕の趣味や思い入れを彼女に押し付けようとしている。

 V-MAXを置いて、彼女と電車やタクシーに乗り街でデートするには、とても釣り合わないスタイルで来てしまった。眉間に皺を寄せる彼女は、怒った猫のように今にも唸りを噴きながら髪を逆立て、剥き出した牙で噛み付いて来そうだ。初めてのまともなプロセスに沿ったデートが、台無しになりそうな予感がした。

 考えてみたら、ここに来るまでに今日は寒いと感じていた。バイクツーリングする人は疎らで、タンデムは一台もいなかった。桜が散り終わった季節とはいえ、曇り空の朝の八時半はひんやりと寒くて、だんだんとバイクにタンデムするには無理がある気がしてくる。

 後悔が幾つも重なった。僕のここに来た目的が彼女に会う事だけになっていた。デートの内容なんて会えばどうにかなるだろうくらいにしか思っていなかった。彼女の気持ちを全く考えていなかった自分に、今の今まで気付けなかったのが一番ショックだった。

 待ち合わせ場所が相模大野の駅前だった時点で気付くべきだった。彼女は、どのルートで僕が来て、一緒に何処へ行き、どんなデートをしようと考えていたのかを。

(僕は、愚か者だ!)

 新幹線を小田原で乗り換えて小田急電鉄で来るべきだった。そしてまだ一度も行ったことの無い新宿や、JR山手線沿いの東京都内がデートコースになる筈だったのだ。

 僕はどうしていいのか、どう言えばいいのか、少しも分からなくて途方に暮れてしまった。

(だっ、ダメだ! ミスった! 今日はここまでだ。もうデートは中止して……、また出直すしかない。デートは次のウィークエンドでもいいじゃん。それだけ約束して帰ろう……。彼女の顔が見れて、声が聞けただけで十分じゃん)

 彼女の表情から、そう考えたけれど、互いに連絡を取り合って決めた初めてのデートから躓きたくなかった。それに待ち合わせの場所に来ただけで、何も無く戻って行く僕を彼女はどう思うだろう?

 彼女の気持ちの変化を怖れる僕に不安が寄せて来る。やっとデート出来るようになるまで漕ぎ着けたのに、これで破綻してしまうかも知れない。

(……どうせ破綻するのなら、強引に彼女の希望するデートへ進めてしまうか。電車に乗って、店が開いたら服を買って着替えればいいさ。でもトレンディな服を買うと、たぶん、手持ちの現金が乏しくなるから、その後は彼女に頼ってしまう事になる。それは甲斐性が無くて情けないだろう)

 どちらにしても良い結果にはならないと思う。そんなマイナス思考でモチベーションが下げる僕を察したのか、彼女は言った。

「三十分ほど待っていて。着替えてくるから」

 眉間に皺を寄せたまま、身を翻して元来た方向へ駆けて行った。

「あっ……!」

 引き止められない。引き留める言葉が無かった。ドタキャンせずにデートを続ける気持ちになった彼女の言葉に僕はホッとしていた。そう言ってくれた彼女に感謝した。

 彼女の着替えを待つ間、GPSで付近のデートスポットを急いで探した。オートバイに乗ると身体が急速に冷え込むから、一時間以内で到着できるところにしなくてはならない。

(何処へ行こう? 相模湖は? いや、ダメだ)

 相模湖は近くのようだけど、雲量が多くて陽の差し込まない日はだめだ。内陸山間部は此処よりもっと寒い。僕はウエザーマップで地域の天候も確認していなかった。雨が降ってもV-MAXで走って来るつもりだったけれど、雨天でのデートと彼女の事は全く考えていなかった。

 僕はアバウト過ぎだ!

(新横浜や鎌倉は?)

 新横浜へ行ってもバイクツーリストがブラつく場所は無いだろう。それにGPSを見ながらでも新横浜までのルートを迷わずに走る自信は無かった。鎌倉は更に遠くてルートも間違えそうだ。なによりカジュアルなファッションじゃないと様にならない。デートスポット過ぎる。

 もっとアウトドアっぽいスポットでないと…… ダメだ。

(そうだ! 海へ行こう。横浜港は近いはずだ)

 海ならば、彼女は納得してくれると思う。たぶん、砂浜なんて何処にも無くて港の岸壁ばかりだろうけど、潮風が好きみたいだから何とかなるかも知れない。

 GPSでなぞるとルート16で一直線だった。市街地に入ると曲がりが有って大きな道が重なるけれど、どうにか分って走れるだろう。

 横浜港のミナトミライ地区に隣接して、帆船の日本丸やテーマパークのコスモワールドが在る。赤レンガ倉庫から大桟橋へと歩き、更に山下公園を通り氷川丸も見学してマリンタワーに昇ろう。少し離れた港が見える丘公園まで行っても良い。お昼は中華街で食べれば良いと思うけれど、まだクレジットカードが届いていなくて、今の財布の中身だけでは聊か心細かった。

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 息を切らして彼女は、本当に三十分で戻って来た。

 『戻って来なくて、このまま放って置かれるかも知れない!』、『捨て置かれたら、とても惨めだな』、『いや、彼女はそんな酷いことをしないだろう。でもV-MAXを見ていた目は……』などと、勝手に心理戦をして不利になりかけていたところへ彼女は戻って来た。

 ムートンブーツはそのままにGパンを穿き、上は厚手のタートルネックのセーターにダッフルコートを重ねている。セーターの下にも着込んでいるようだ。そして、きっと話しが弾むだろうと考えていたメモリアルな絹のスカーフは外されて、代わりにニットのマフラーが手に持たれていた。

「レザージャケットやスキーウェアとか、風を通さないのを持ってないのかよ?」

 その開きの多いコートや通気の良いニットの着込みでは、高速で流れ来る冷たい風を防げそうには見えない。まだ冷たい外気に吹かれて彼女が体調を崩すのを心配した思いに、語気を強くしてしまう。

 それでも、V-MAXに僕とタンデムする服を考えて、急いで一旦部屋へ帰ると即行で服を着替えてから、言った通りに彼女は三十分で戻って来てくれた。それなのに感謝もせずに……、非が選択肢を誤った僕に有るのは明らかなのに……、頑なに初志貫徹の我を通そうと着替えて来た彼女の服装に僕は低評価のダメ出しをしてしまう。

 言ってから、『しまった!』と思った。

 ハァハァと、息が上がっている彼女に鋭く返される。

「ないわよ!」

 強い口調で言い返された。

 不満を我慢していただろうの彼女を苛立たせて、とうとう怒らせてしまった。あと一言で彼女は完全に爆発しそうだ……。急いで話題を変えて機嫌を取りに行く。

「もう横浜港には行って来た? 海を見に行こう」

 ナビのマップで見る限りでは、ルート16を真っ直ぐ走ればいいだけだと判断して、ナビを切って走ることにした。下がった僕の評価を鋭い方向感覚と優れた観察力を見せ付けて、挽回しようと思いついた単純なパフォーマンスだ。近視的視力と精度が怪しい体内磁石で適当に走らせるV-MAXは、リスクの方が大きいかも知れないけれど、上手く着ける可能性に賭けてみる。

 海に行くと聞いた彼女の少し明るくなった表情が『行こう』と言っている。彼女の原風景の場所から察して、海が好きなのだろうと思っていた。海辺の彼女は明るくて楽しそうで、そしてとても元気だった。横浜港の潮風で彼女の機嫌が良くなって欲しい。

(横浜の海が、せめて、能登の諸橋地区の海のような色なら良いけれど……。でも東京湾の中だからね。しかも曇りの天気で寒いし……)

 たぶん期待できないだろうと思い、着いてがっかりする彼女の気持ちを想像して、僕の気持ちは暗くなる。だけど他に行く宛てを思いつかないし、知らない。

 そんな僕の憂いも知らず、少し機嫌を直した彼女は身軽に僕の後ろに跨り、両腕を僕にしっかり回して僕の背に体を密着させて、一年ほど前の救急車の時よりも、『大きくなったかな?』と思わせる胸を背中に感じさせた。その無言で僕を風除けにする彼女の行動が嬉しい。

 肩越しに軽いファンデーーションの香りを薄く漂わせる彼女の匂いが、僕の鼻腔を擽る。バス事故や立戸の浜で嗅いだ匂いとは少し違う、相模原で一人暮らしをする彼女自身の生活臭だ! 少し芳ばしくて体臭じゃない。彼女の住む建物の臭い? 部屋の臭い? ファンシーケースの匂い?

 春の冷気を押し退けて肺を満たす、背中に密着する匂いが心地良く、この匂いも、ずっと嗅いでいたいと思う。

 被ったヘルメットを僕のヘルメットにぶつけて彼女は声を落として言った。

「GO!」

 彼女のトーンを抑えた声がフルフェイスヘルメット内に響く。

(なぜ、低い声?)

 声の低さを不思議に思いながら、僕は気合を入れてV-MAXを発進させた。

「GO!」

(後は出たとこ勝負だ! 臨機応変に対応すしかない。今日は良い日でありますように!)

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 トントンと彼女が肩を叩いた。

「なに?」

 少し振り向いて訊く。

「あそこ!」

 彼女は加速する風圧に負けないように大声で言って斜め後方を指差した。指先の向こうから僕が抜き去った自動車を盾にして、白バイがサイドミラーのアウトサイドの死角から迫って来ていた。

 ハイビームに光るヘッドライトとけたたましく点滅する赤色灯が急速に接近する。甲高いサイレンとスピーカーの我鳴りが、バイザーの風切り音とフルフェイスヘルメットの厚みに遮られ、それにV-MAXのサウンドの被りと広い道幅と疎らな車両による周囲の無反響で音が逃げ、小さなノイズにしか聞こえなくて、何を言っているか分らない。

 明らかに狙いは僕だ。連なり走る車の集団を縫うように抜き去って次の集団へフル加速で追い着く。それを繰り返して、今も国道の制限速度を余裕でオーバーする走りで、前方の集団へ急速接近中だった。

(逃げ切れるか? 白バイの隊員達はプロだ……。彼らのテクニックと精神力には敵わない。V-MAXに乗って一ヶ月余りの僕には尚更、今の国道が空いている状態でも到底無理だ。混み合ってる状況なら周囲の自動車は紛れるどころか、自分の障害物になって無関係な人達を巻き込む大事故を招いてしまうだろう。……それよりも、彼女を犯罪行為や更なる危険に巻き込めない)

 プロの強靭なハイテクニックで操られる重装備で白一色で塗られたロードレーサーに、ビギナーの僕は全く勝ち目が無かった。既に白バイは真横にいてスピーカーで叫び、乗車する隊員は手振りで減速し路肩に寄り停止せよと指示している。やっと僕にサイレンがはっきりと聞こえ、ラウドスピーカーからの声の意味が良く理解できた。

『速やかに路肩に寄り、止まりなさい』と事務的に煩いくらいに繰り返し言っていた。速度超過違反、安全運転義務違反などで減点、罰金、運転免許停止は確実だろう。僕は覚悟を決め、アクセルを戻し減速させ路肩に停車した。

 時速二十九キロメートルのオーバー。少ない初任給から由々しき金額に羽が生えて無情に飛んで行く気分だ。そんなブルーな事態でも初犯という事で、危険運転の罰則を勘弁して貰えて免許停止にならなかったのは有り難かった。

 ジロジロと反則の記入から書類を仕舞い終えるまでを見ていた彼女と、初めて遊んだパチスロで一時間も経たずに数万円が消えた時みたいな気分の悪さで項垂れる僕へ、軽く御辞儀をした交通機動隊の隊員は白バイに跨ると、新たな獲物を求めて猟犬のように走り去って行く。

 隊員の白いヘルメットが視界から見えなくなり、V-MAXに靠れてアンラッキーの自責の動揺と、罰則の忌々しさに高ぶる気持ちを落ち着かせていると、スマートフォンで現在位置を確かめている彼女が横に来ていっしょに靠れた。

「ちょっと高くついちゃったね。なのでぇ、もう急がなくていいからね! 飛ばすと怖いし、危ないし、寒いし」

 僕を宥めるようにも、励ますようにも、詰るようにも、聞こえて、正に彼女の言う通りだと思う。また僕は独り善がりをしていた。

(高額の罰金を払うほど、彼女を危険に晒してまで、僕は何をしているんだ。ここからはゆっくりと、彼女を思い遣りながら走ろう)

 ジレラ・ランナーを乗り熟す彼女だから、見下されるないように過激なライディングで逞しさをアピールしようと、ビギナーのテクの無さをカバーしたパワー頼りのデンジャラスなハンドリングは、彼女よりも僕を完全にハイにさせていた。

(そりゃあ……、そんな重ね着くらいじゃ、やっぱり寒いんだろうな……)

 気を取り直して僕は彼女にしっかりと手を回させて走り出す。今度は車の流れに合わせて走る。再び僕の背で暖を取る彼女の温もりと芳しい匂いを感じた。

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 前方の信号が黄色に変わり、軽く制動を掛けつつ路肩沿いを進み、減速で後方から追い着くように香る彼女の芳しい匂いを鼻息荒く胸一杯に吸い込みながら、僕は気分良く、変わる信号で減速して停止するはずの車列の先頭へ出ようとしていた。しかし、前方を走る数台の自動車は減速せずに黄信号の交差点を超えて行き、その速度だと、そのまま繋がって行くものだと思われた二台前の自動車は黄色から赤信号に変わるや否や、急制動で停止してしまった。その真後ろを走り、停止ラインで停車するつもりだったと思しき、僕の直前を行く自動車が、その煽りで反射的に急ブレーキを掛け、咄嗟に衝突を避けようとしたハンドル操作で、左前部を路肩へ寄せた斜めの向きに停止した。

 突然、直前の路肩にV-MAXが通れる幅の空間が無くなってしまった。このまま進めば前輪とハンドルの右端が車の側面に接触してしまう。

 行き場の無さで慌てた僕は、追突を回避しようと急制動を掛けてV-MAXを前輪が車の後部と並んだ位置で停止させた。でも、車をよけた所為で制動慣性に斜め外方向の慣性が加わって、直感的に僕は転倒を意識した。こういう場合は、普通ならば両足裏をしっかりと路面に着けて転げないように踏ん張れば良いし、その為にV-MAXのシートを低くして停車姿勢を安定させている。だけど今は、想定外で違っていた。

 失速したV-MAXは僕と彼女を乗せたまま、路肩側へゆっくりと傾く。路肩側の足裏は、選りに選って路肩の盛り上がったアスファルトの峰に乗ったタイヤで、車高が高くなったのと蓋の無い側溝の空間に、足先を着けて支える足掛かりを見付けられない。爪先が虚しく何も無い宙を探る。

 V-MAXは平衡修正の限界点を超えて、狭い側溝を隔てた道路面よりも少し低い民家の庭先へ向かって、確実に倒れて行く。

「降りろっ!」

 彼女へ振り向き、僕は大声で言った。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 体重移動のバランスで転倒を遅らせているものの、もう限界だった。折角シートを薄くして足裏がベタ着きできるようにしたのに、その効果が発揮出来ない場所で、何度も、何度も、両の爪先は虚しく地面を探す。

 現実的に倒れて行く左側には傾きを停めて復原する支えを着く実際的な面や物が全く無くて、ここで転倒するのが運命的な必然だと、僕は受け入れるしかなかった。……それでも……。

「ええ? うん!」

 瞬間の沈黙のあと、すぐさま状況を察して彼女はタンデムシートから急いで降りた。その反動で傾きが加速されて一気に転倒していく。彼女が無事に降りたのを確認しつつ、スローモーションで視界が傾いていった。

(だっ、ダメだ。倒れるのは必至だ)

「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」

 彼女の叫びが聞こえる。僕を身を案じる嬉しい叫びだ。

 V-MAXの進路を塞いだ自動車のドライバーに彼女の叫びが聞こえたのか、ドアミラー映るドライバーが僕を見て眼が合った。今、この瞬間、一台分のスペースでいいから自動車を前へ移動させてくれれば、アクセルを開けてV-MAXを道路側へ進めて転倒を防げるのにと思うけれど、その前にも信号待ちで停車する自動車がいて動けない。そして、直ぐに青信号になっても間に合わないと悟る。

 足裏が着く路面までV-MAXを動かせれば、上手く自然体の停車ができなくても、半倒れ程度で済むだろうという望みは、もう叶わない。

 路面より低い場所へ倒れる衝撃とV-MAXへの被害を最少に抑えようと思うけれど、どう転倒すれば良いのかわからない。でも僕が下敷きになれば、V-MAXの被害は少なくてすむかも知れない。

 覚悟を決めてエンジンを切る。これでガソリンの供給はストップされてオーバーフローにならず、溢れ漏れたガソリンが熱いエンジンや静電気で炎上爆発する事はない。

「ああああっ、だめぇー!」

 聞こえ続ける彼女の叫びが、僕の、この絶望的な状況に為す術の無い事を改めて悟らせた。

 左足先が側溝の縁を探り当てるけれど、それは虚しい努力だった。上半身が花の無い花壇に落ち、その上にV-MAXが被さってくる。背や肩の軽い打ち身の痛さに、胸から足へ重量の有る衝撃が降って来た。

 ドサッ!

「キャーッ」

 V-MAXが倒れた衝撃音を、彼女の悲鳴が覆う。

(くっ!)

 僕は仰向けに倒れ、その上にV-MAXが被さり僕を押さえ付けている。胸や腹は重みだけで、それほど圧迫はなかったけれど、左膝下だけが酷く痛い。それは道路の路肩と一段低い庭先の間に有る側溝の空間に脛から足首にかけて出ている所為で、脛骨をV-MAXの重みが撓ませていた。

(いててて……、やばい! このままじゃ、足が圧し折れる!)

 エンジンやマフラーの火傷しそうな熱さよりも、骨が曲がる独特の我慢できない痛みが僕を襲う。

「うっ、ううっ……」

(いっ、痛い! 痛い! 痛い!)

 あまりの痛さに身を捩ると更に脛へ重みが加わり、骨が撓るのがはっきり分かった。このまま脛骨が撓み加重の限界を超えると、骨が飛び出すような複雑骨折になってしまう。僕は自分の足のそんな状態を見たくないし、その痛みは知りたくもない!

 骨が曲がるだけでも元通りに治癒するまで大変な思いをするだろう。そんなのは嫌だ! 想像したくもない!

 僕は焦り、自由になる両手でV-MAXを押し除けて、加わる重さから抜けだそうと試みるけれど、胸まで押さえ付けられた仰向けの状態に力が入らない。少しでも横へずらそうとしてみても、ずり落ちるように圧し掛かる重量三百㎏オーバーのV-MAXには全く非力だった。愛車は微動だにしない。

「だっ、大丈夫?」

 掛けられた彼女の声に余裕の反応を見せようとするけれど、頭と両手以外の体が動かせない。

(こりゃあ、マズイぞ。脱出できないし、息苦しいし、凄く痛いし、全然、だっ、大丈夫じゃない!)

「うう、まだ……、まだ生きてるぞー」

 言ってから直ぐに、心配する彼女を少しでも安心させようと、おっさん臭いジョークで答えたのを後悔した。真剣に僕を心配して今から助け出してくれそうな彼女へ、生き死にのジョークで返事をするなんて、失礼の極みだった。

「ちゃんと意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」

 潰されそうな痛みに目を瞑ると、ザザッーと間近で地面を擦る音がして、埃っぽい乾いた土の臭いがフルフェイスヘルメットの中に舞い込み、彼女の声と匂いがする。

 目を開けると、ほんの僅かの間だけ目を閉じていたのに、路肩に立ってV-MAXの下敷きになった僕を見下ろしていたはずの彼女が、傍らで膝を着いて僕を覗き込みながらV-MAXのハンドルに手を掛けていた。

(V-MAXを起こすつもりなのか? 起こせるのか?)

 ジレラ・ランナーを扱い慣れている彼女なら、起こせなくても、ずらしてくれて、抜け出せるかも知れないと思う。

「どこか、痛いところ有る? バス事故の時みたいな怪我してないよね?」

 いつもの微笑むような顔が怒っているみたいに真剣で、優しげな瞳が険しい眼差しになって僕を睨んでいた。

「あっ、左の足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」

 側溝の縁から出ている左膝骨は折れそうなくらい、ビリビリと激しく痛む以外に痛む部位は無く、胸と腹に掛かるV-MAXの重みで息苦しい。

 きっと脛骨は、時代劇ドラマで見た罪人の太腿へ石板を積むような拷問状態だ。まだ重みに軋んで曲がりそうなだけだけど、このままだと曲げる力に耐えられずに靭性の限界が来て、急激に曲がりながら脛の骨は折れてしまうかも知れない。

 『ボキッ!』っと折れた頚骨は薄い肉と皮を破って飛び出して来て、その叫び狂わす激痛はガンガンと強く全身を痙攣させるだろう。そうなると、病院で半年間は手術と治療の入院になる。

 だけど、問題は頚骨の折れる結果ではなくて、折れるに至るまでの想像もできない痛みを伴う骨の曲がりだ。ゆっくりと加速して曲がる頚骨の折れるまで続く激痛に僕は、とても耐えられそうにない。

(くっ、くっそぉー! 想像するだけで堪んねぇ。早く、V-MAXをズラして脱出しないと、ヤバイ!)

 自由になる両の手がハンドルバーを握り、力を込めて少しでも横へズラそうと試みた。

 慌てて駆け寄って来てくれた彼女と力を合わせて退かそうとするけれど無駄だった。彼女が背を反らし、体重を掛けて持ち上げようとしたタイミングで、僕も渾身の肩と腕の力で再びV-MAXをどかそうとする。

(ん!)

 ほんの僅かだけど動きそうな気配が有った。このまま横へズレて下腹部辺りまで抜け出せるかも知れない。そう思った瞬間、撓みにズキズキと痛む脛へ更なる激痛が走った。

(うっぎゃあー! あた、あたた! 足、痛ってえー!)

 激しく瞼を瞬き、大きく開けた口で悲鳴を上げるのを、やっとの事で堪えた。これ以上、彼女に動揺を与えたくないし、それよりも助けを呼んで欲しい。当然、胸に被さる前輪側を持ち上げたら、僕の胴体を支点にして後輪側に重さが移る。その分だけ脛骨を圧し折る力が増すのを、彼女が助けに来てくれた喜びで忘れていた。痛みの涙で視界が滲み、顔を寄せて話す彼女がよく見えない。

「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」

 地ベタにへたり込んで、どうしようかと心配そうに見つめる彼女の顔に、僕と同じ考えが現れていた。

「すっ、すまないが、車を止めて助けを呼んでいただけませんか」

 足が折れそうな激痛で、彼女への頼みを変な丁寧さで言ってしまった。さっきから骨が折れるカウントダウンは始まってる。

「僕は、まっ、まだ大丈夫だから……。あう、ううっ」

 全然、大丈夫じゃないけれど、一応は強がっておく。重しで骨を折る拷問は、『こんな感じに無慈悲なんだろうなぁ』と、自力で窮地を逃れられない状態の悲しさに激しい痛みも加わって、もう、視界の彼女は暈やけて全然見えていない。

(マジ、すっげー痛くて、たまんねえぇぇぇぇぇ!)

「うん! わかった」

 直ぐに彼女は道路に出て、両手を振って車を止めようとしてくれる。僕も両手を振り上げて窮地を知らせた。もう痛過ぎて叫びたい。

 あんなに恐れていた立ち転げをしてしまった。

 せっかく彼女が着替えて来てくれたのだから、ムードもモチベーションも好転していくはずだった。だのに……、スピード違反で白バイに捕まるわ、立ち倒けして彼女を危険な目に遭わせて、しかも僕は転倒したV-MAXの下敷きになっている。まだ半分ぐらいしか来ていない中途半端さは、格好悪過ぎて不吉だ。

(このままじゃ、本当に彼女との関係を失ってしまう……。あっ、痛っ! いっ、痛い! 痛い! くっ、くっそー)

「たっ、たすけてくださーい!」

 泣き叫びたい悲鳴を飲み込んで助けを御願いする。このゆっくりと骨が曲がり折れて行きそうな激痛を、彼女に知られるわけにはいかない。でも……。

(足が……、足が挟まれて、もっ、もう限界です。くううう)

 堪えられない痛みに僅かでもジタバタすると脛骨への加重が増し、目を閉じて固く食い縛る奥歯の根が合わなくて、じっとりとベタ付く汗が更に噴き出した。寒気と震えが全身を襲い、刻一刻と強くなる痛みに目を見開き、空一面の雨の湿気を含んだ色をした雲を見る。僕はもう我慢できない!

(この上に雨に降られたりしたら、堪ったもんじゃない。雨だけは降らないでくれー)

 バッとヘルメットの中に砂埃が舞い、見開いた目に別の痛みが入って来た。傍に来た人の動きで起こした風が地面の細かい土を巻き上げて、フルフェイスヘルメットの首周りとバイザーの隙間から吹き込ませた。

「ゲヘッ、ゴホッ」

 ヘルメットに囲まれ、バイザーで閉じられた極端に狭い空間で吸い込む埃は僕を咳き込ませて、痛みで滲んだ視界を息苦しさの涙が歪ませてしまう。

「ズッ、ズズーッ」

 出て来た鼻水は懸命に啜っても唇の端から顎へと流れて行く。仰向けの体制で喉へも流れて気持ちが悪い。

「あっ、ごめん。ごめん。目は大丈夫か? 動けなくて大変だったろう。直ぐに助けてやるからな」

 ドカドカと四、五人の男の人達が慌ただしく僕の周りを取り囲んで僕の挟まれ具合を見始めた。

「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱してね。直ぐに助け出して貰えるから」

 いきなりヘルメットのバイザーが上げられて、僕を覗き込む彼女が言った。とても近い距離で僕の顔の隅々まで視線を廻らせる。凄く嬉しくて彼女を抱き締めたいけれど、両手はそこまで動かせない。それより泣きそうで汚なくて惨めな顔を見られたくない。

 左足は痛みは我慢の限界だし、充分に膨らまない肺は窒息寸前の辛さだ。もっと酸素を……、身体全体の血行も悪い気がする。頭痛は鬱血からで、吐き気は激痛の所為だと思う。

『せーの』の掛け声で一気に倒れたV-MAXを起こし路肩に戻して行く。脛骨の激痛と胸の圧さえがすうっと消えて、嬉しさと安堵と目に入った埃で僕の目尻から涙が流れた。

(ゴホッ、良かったぁ~。助かったぁ~。ぐすっ)

 重石を除けられた身体が軽い! 圧迫で狭められた気道と縮められていた肺が開放されて、勢い良く吸い込む空気と巻き込んだ埃の刺激に再び咽ると、更に鼻水が大量に噴き出て来た。

「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」

 サイドスタンドを出してV-MAXを固定しながら、バイク歴の有りそうな初老の男性が言う。

「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」

(だっ、大丈夫じゃないです)

 ジンジンして痺れる足は、立とうとする少しの動きでビリビリと痛み、元に戻ろうとする骨からはズゥンズゥンと深く鈍い痛みが響いて来る。とても自分一人で直ぐには立てそうにない。

 それでも、ダメージを彼女に気付かれたくない僕は、倒れたままで頷く。

「どこか怪我していないか? 痛いところは?」

 辛い痛みを知られて『帰ろう』と彼女に言われるのを恐れる僕は、首を横に振る。ずうっと願っていて、やっと叶った初デートを、これくらいの痛みで中断したくない。

「ほら、起こすぞ。立てるか?」

 仰向けに倒れている僕の両脇に腕が回されて、抱えるように引き起こされる。

 圧迫から開放された足から痛みが退いていたのは僅かの間だけだった。圧迫が無くなった足に血行が戻って行き、毛細血管の端々まで巡る血液に痛覚が呼び起こされると、束の間の安堵が痺れの苦痛に苛まれ、それに曲げる力で伸ばされていた骨の縮む痛みが加わった。

「うっ!」

 ほんの五分ほどの時間だったのに、V-MAの重みで押さえ付けられていた全ての処が同時に痛み出して、思わず僕は呻いてしまった。

「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら救急車を呼ぶぞ」

 圧された胸と腹の筋肉がブルブルと痙攣している。ビリビリ痺れてズキン、ズキンと骨の痛みが脈動する左足は、そおっと地につけて立っているだけで精一杯だ。

「いえ、大丈夫です。潰されそうになっていたから、……立ち眩みが来ただけです」

 痛みの呻きを、僕は立ち眩みでフラついたように誤魔化した。

「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染みたりしていないし、破れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」

 引き起こされるのを見ていた年輩の男性が、ぐるりと僕を一周して深刻なダメージがないかチェックしてくれた。

 そんな男性の動きに合わせて顔を向ける僕の様子を、彼女は路上から心配そうに見ていた。

「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」

 頭や首を強く打ち付けていなかったし、背骨や腰もフラットな土の上だったから損傷はしていないと思う。

「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」

 顔を廻らし、頭を左右に振り、腕を挙げ、拳を握ってから開くと、痺れが軽い右足も少しだけズラして見せた。

「そうか、頭は大丈夫そうだな」

 フルフェイスヘルメットを脱ぐのを手伝ってくれた男性が、外したヘルメットと僕の頭や顔を見て、頭部と頸部に外傷は無く、たぶん、脳もダメージが無いだろうと安心させてくれる。

「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」

 確かに後頭部と首に痛みや違和感を感じていなくて、仰向けでの頭から落下する衝撃を無意識に受身で逸らしていたのかも知れない。

 背中と腰にも痛みや痺れの違和感は無く、落ちて来たV-MAXの重量を受けて圧迫された腹部と胸部は、重さから解放されて部分的な幾つかの打撲を感じるだけだった。でも、血液の循環が戻りつつある左下肢だけは、少しも薄れない痺れと痛みで小さく痙攣している。

 そんな僕の左足と顔を、彼女は観察するように交互に見ていた。

「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」

 まだ若い感じの奥さんが僕の左足を指差しながら言う。起き上がった時も、右足を動かした時も、そして、どうにか立っている今も、左足を庇っているのに気付かれている。眉毛の外端を上げて眉間に立て皺を寄せた目で、じっと僕を見ている。

「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」

 左足の爪先を持ち上げてから膝ごと上げて見せた。

(痛くない、痛くない)

 誤魔化しで動かした左足の痛みは深くて鋭い。痛みが走る度にぎこちなくなる動きに、ちょっと笑ってみせたけれど、きっと歪んで真顔っぽいと思う。

「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、医者に診てもらいます」

 一時的な痛みだと痺れてなんかいない。軋んだ脛骨が元に戻るジンジンとした鈍い痛みに、僕は落ち着かない。

(うーっ、どうしてこんな目に……)

 恨み節を考え掛けて……、僕の動揺と焦りがこんな目に遭せたと思う。

(落ち着け! 致命的な問題は起きていない。落ち着いて考え、慎重に行動すれば後は上手く行く。デートは始まったばかりだ)

「本当に怪我しなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」

 女性は、僕の痛がらない態度と服の破れや出血の無い外見から緊急性の無い事を納得してくれて、本来の予定へ戻ると告げた。

 不安気な顰めっ面から、いつもの表情になった彼女は、黙って笑わない目でジーっと僕の様子を観察している。痛くて庇っているのは事実だから、誤魔化しても勘の良い彼女の疑りは晴れないだろう。

「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」

(勿論、そうです。彼女の安全が一番で、最優先です)

 女性から声を掛けられた連れの男性も、僕達に別れを言う。

 今、膝がガクガクと折れて倒れ、耐えられない痛みに悲鳴を上げながら蹲ったりでもしたら、きっと、この人達は救急車を呼び、病院で診察と治療が済むまで、付き添ってくれるだろう。そして、デートを中断された彼女を相模原まで送ってくれるだろう。そうされた方が良いのかも知れないけど、僕は痛みに耐え続けていた。

「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺います」

 彼女が感謝を告げている。

(そうだ、この方々は、僕を救ってくれた恩人だ!)

「名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」

 確かに女性が言う通り、誰かに助けを求められたら、自分が出来る事はしてあげたいと思う。でもそれは、当たり前の事なのか? 普通に出来る事なのか?

 彼女の危機にはバス事故での僕の行動が証明している。家族にも同様の事をすると思うし、友達も彼女ほど意識していないけれど体と脳は鋭く働くだろう。でも、赤の他人には、助けを求められたらは有りだけど、助けが必要だからは計算と迷いが入るかもだ。

「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」

 判断の甘さと雑な行動で陥った窮地から救出された開放感とボランティア意識の考察に浸る僕は、謙遜する男性の言葉と彼女が告げる御礼の言葉をBGMのように聞いていた。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 『ドカッ!』行き成り彼女に背中を殴られた。

 視界の隅に脇へ近寄って来た彼女が、僕の脇腹の後ろ側へ手首を引いたグー握りを瞬時に半回転して突き出して戻すのが見えた。

(あたっ! あたたたぁ。正拳突きされた……、ううー)

 何時、何処でヒネリを加えたパンチを覚えたのか知らないが、直ぐに殴られた意味は理解した。

「あっ、ありがとうございました」

 慌てて御礼を言って頭を下げる。だけど、返された僕達を心配する親切な言葉は、思いのほか彼女の突きが痛くて殆ど聞き取れないまま、僕は去り行く恩人達を見送っていた。

「とても親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」

 そうだ。彼らが僕を助け出してくれなかったら、今頃はV-MAXの下敷きになったままで、脛骨が折れて泣きながら救急車が来るのを待っていただろう。

「ああ、本当に助かったよ。超感謝だね」

 三台もの自動車が停まって僕を助けてくれた。自動車に乗っていたのは、それぞれ互いに無関係な人達で僕の為に強力してくれていた。救助の段取りや救出後に賞賛し合う言葉を交わすだけのシンプルで気持ちの良い人達だった。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 左脛の痛みを我慢しているのを彼女は気付いている。深い痛みは脛骨から、痺れの痛みは体重移動で負担が掛かる左足の裏をビリビリさせていた。

「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」

 彼女と二人だけになって気が緩んでしまった。折れそうになるくらい曲げられていた脛骨が元に戻ろうとしている痛さで、これは冷湿布を貼って治療すべきだと思ったら、膝がガクガクと震えて、そのまましゃがむようにペタンと尻餅を付いて座ってしまった。

「そう、全然痛く無いのならいいんだけどね」

 油断して見られたヘタリ込みの醜態で、今日を中断する冷めた言葉を告げると思っていた、僕の異常を察している筈の彼女が肯定してくれた。

 全く何とも無いなんて嘘だ。痛く無いどころか、座っていてもジンジンする痺れと深く重い痛みがズキン、ズキンと、響いて来る。

 僕だけなら、近くの公園へ移動して、そこのベンチで三、四時間は横になって安静にしていると思う。左足は、それくらい痛む状態だった。

「……うん」

 彼女は、ヘタリ込んだままで返事をする僕の横にしゃがむと、腕や肩や背中を叩いて転がって付いた泥や埃を落としてくれた。更に持っていたアルコールテッシュで、V-MAのエンジン辺りから附着したオイル汚れを拭き取り、そして、僕の顔も拭いてくれる。

(……彼女は優しい……)

「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」

 肩に触れる彼女の優しい言葉が、『私の安全が最優先でしょう』と耳の中で反復して響く。だけど、意地になる僕は押し通す。

「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから続きを走るから」

 僕の言葉を聞いた彼女は顔を曇らせ、口が唇を噛んで歪むと険しい眼付きで僕を睨み付けた。これは『心配してくれているんだろうなぁ』と、嬉しさが混じる申し訳無い思いで目を逸らせてしまう。

 そのまま十五分くらいへたり込んでから、左足の様子を見てやんわりと立ち上がってV-MAXのハンドルに手を掛けると、上手くバランスを取れば押して移動できそうな感じがしたので、何とか交差点を曲がり横断歩道を過ぎた場所まで動かした。

 移動する途中で左の膝や足首は『カクン』と折れる事も無く、痛みに持ち堪えてくれた。直ぐにでも大桟橋へ向かう続きが出来そうだったけれど、大事を取って僕は左足を投げ出して歩道の定石に三十分ほど座っている事にした。

 不機嫌そうでもV-MAXのテールを押して移動を手伝ってくれた彼女は、自動販売機で温かい缶コーヒーを二つ買うと黙って僕に差し出した。『飲んで、気持ちを落ち着けて』とアイコンタクトする彼女に『わかった、ありがとう』の頷きで返し、動揺する冷えた身体を二人は缶コーヒーで温めながら、ゆっくりと落ち着かせて行った。

 少し左足の痛みが薄らいだ僕がV-MAXを始動させると、彼女は嫌な素振りも見せずに黙ってタンデムシートに跨り、両腕を僕の腹部に回した。

 速度違反と転倒で大きく時間をロスしてしまった。だけど、遅れを取り戻そうと焦って無謀になっては駄目だ。それは更なるアクシデントを招いてしまい、今度こそ彼女に愛想を尽かされると、締め付ける両腕の力の強さに思う。

     *

(これは……、間違いない)

「……海の匂いがする。このまま行けば横浜の港だ」

 進む大気に海が香る。被ったフルフェイスヘルメットの首周りから吹き込む風を、くんくんと何度も嗅ぎ分けて確かめると、僕はバイザーを上げて大声で彼女に知らせた。

「うん。私も……」

 風に掻き消されずに聞こえた彼女の応える声は直ぐに途切れてしまったけれど、能登半島の内浦の海辺で育った彼女が潮の匂いに気付いていない筈がなかった。

「あはは、犬みたいね」

 獣呼ばわりされたのに、なぜか、僕は嬉しい。

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 あと少しだろうと思うところでルート16は曲がり込んでいた。道なりに車の流れに添って坂を下り、横浜市内の大通りような場所に出て走っていたけれど、辺りに草木の斜面が増えてきて港湾に近付いていない気がしていた。

 スピードを落として路肩へ寄せ、道路案内板の近くの歩道脇へ左足の痛みを確認しながらV-MAを停車させた。向こうの青地の道路案内板に『高島町』、こっちは『戸塚』と白文字で書かれている。

(たぶん、さっきの『浜松町』って表示された交差点を逆方向に来ていたな……)

 辺りの地名や地形がさっぱり分からなくて、僕はしっかりと迷ってしまった。

 急いでV-MAXのナビゲーションシステムをオンにする。だけど現れた拡大画像を見ても全然分からなくて、広域画像にしようと何度も画面のアイコンにタッチしているけれど、画面は切り替わってくれない。GPSナビゲーションシステムは、さっきの転倒で壊れてしまっている。

(くっそ~。近くまで来ているはずなのに! これは、かなりマズイなあ)

 道に迷った事への彼女の反応が超怖い。今日のマイナス続きの印象に、またマイナスを重ねてしまった。

「ごめん、道に迷った」

 彼女の方へ顔を少し回して言う。これから反対方向へ向きを変えて走るのだから、彼女に怪しまれる前に正直に言う方が得策で、迷った事への減点は最小限になるだろうと、小賢しく考えてしまう。

「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」

 僕の腰に回されていた彼女の手が解かれて肩を掴むと、シートから腰を浮かした彼女が僕の肩越しにGPSの画面を除こうとしているのを感じた。

「やだ、ここまで来て迷ったの? もう近くまで来ているのでしょう?」

 耳元で覚悟していた彼女の非難の問い掛けが聞こえ、更なる謝罪と言い訳をしようと思わず顔を彼女へ向けた。

『ガチン!』

 横向き気味の顔を声の方へ衝動的に向けようとした途端、、互いの上げたヘルメットのバイザーがぶつかって僕は驚いて仰け反った。反射的に避ける無作為な体勢の動きで停車させているV-MAXがふらつき、慌てて両足を踏ん張って体制を安定させた。

 ズキン! 再び倒れまいと接地した足を力ませた所為で、立ち転けで折れそうなほど傷めた左足の脛骨が鋭く痛み、深く痺れるような痛みが脳芯を突き抜けた。ひたすら患部に神経を集中させて痛みが退くまで息を殺し静かに堪える。そして、我慢する痛みを彼女に悟られまいと目を瞑り無言になった。

 減点続きの動揺で萎縮するメンタルと予想以上の鋭い痛みに、僕はもう、全身が緊張して目眩がしそうだ!

「ちょっと~、気を付けなさいよー」

 僕の肩を掴む彼女の手にギュッと力が入り、さっきの二の舞は御免だとばかりに声にも力を入れて彼女は、ゆっくりと退いて行く痛みに堪えている僕を窘める。

(この痛みの辛い時に、『やだ』に『ちょっと』かぁ、めげるなぁー)

 メールのきつい文章には、慣れて免疫が付いたけれど、去年からの彼女の行動と直かに聞く彼女の言葉には、まだ抗体ができていない。

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 『関内』、『馬車道』、『みなとみらい』、『ランドマークタワー』、『桜木町』、道路の案内板には初めて見る地名や場所の名称ばかりで、どれを見て進めば良いのか迷ってしまう。吹き付けて来る大気は、はっきりと潮の香りがして間近に海辺が在ると知らせている。だけど、自動車道の高架が被る通りは建物だらけで海など何処にも見えない。

 何の予備知識も無く、当てずっぽうに来てしまった僕は、このまま大桟橋を見付けられずに彼女をタンデムさせて、遠回りするようにグルグルと迷いながら戻る事になるのだろうかと、藁か、蜘蛛の糸にでも、何かに縋りたい思いで忙しく視線を案内板や表示板へ動かせながら、気持ちは途方に暮れて沈んで行く。

(最悪なら、最寄りの駅を探して、そこから彼女に電車で帰って貰うしかないな……)

『彼女の僕への評価は、最悪になってしまうな』と『桜木町駅』の見ていた時、思い出した。

(ああ、そうだった! 確か、デートスポットを探した時のGPS画面に、桜木町駅と山下公園の間に大桟橋が突き出していたっけ)

 思い出した大桟橋の位置に、探す表示と向かう方向が決まった。

 GPSは相変わらずのマクロの画面のままで、現在位置のロケーションがさっぱり分からなかった。通りを歩く誰かに尋ねれば早いのだれど、彼女にセンスが無くて格好悪いと思われそうで考えてしまう。、

 仕方なく何度か横浜港の海面が見える場所に出て、やっと大桟橋らしき構造物を見付けた。それだと思う大桟橋の見た目は、思い込んでいた港の桟橋のイメージとは全然違っていて、静岡市の清水区や北陸地方の港には似たようなのすら無く、『やはり、首都圏のメジャーなスポットは、センスが違うな』と感心しつつも大桟橋だと確信できていない。でも、位置的に該当するらしきモノは、それしかなかった。

 半信半疑でやっと探し当てた入り口で大桟橋を、ホッとした僕を警戒させる彼女の不機嫌な声が聞こえた。

「ここ、知らないわ」

 どうやら『彼女の行ってみたいスポット』のリストに入っていないようだ。横浜に初めて来た僕は当然ここも初めてで、ネットでの下調べもしていないから大桟橋に何が有って、どんな所なのか全く知らない。

 V-MAXを停めた脇の小さな駐車場から見る大桟橋は、板に覆われた丘のように見えて、野外のアスレチックか迷路を前にした時みたいな期待と不安が入り混じり、同時にここは彼女の楽しめる場所なのかと後悔した。振り返って見た彼女は半ば呆然として大桟橋をみていて、やがてジロリと動いた目が僕を見た。それから再び大桟橋に視線を戻すと、

「行こっ」

 一言、小さく呟くように聞こえたかと思うと、僕の先をすたすたと歩き出した。

 板張りの正面に大きなゲートが暗く開き、その手前にはロータリーのバス停が、両脇には大桟橋の上に登れる坂道が見えた。

 V-MAXを急いでロックして先を無言で進む彼女を追い駆けるように、僕は板張りの坂を登る。登り切る辺りで待っていてくれた彼女に追い着いた僕は、僅かに離れて彼女の後に付いて行く。厚い曇り空の下、影の無い僕達は肌寒い潮風の吹き寄せる大桟橋の広い背を、交わす言葉も無く先端に向かってゆっくりと歩いていた。

 時折り彼女は立ち止り、じーっと右手に在る岸壁の公園と船……、ナビゲーションでチラ見した限りでは山下公園とその先に係留して在る氷川丸と言う、何らかの記念船らしい……。それと捻じったように組まれた赤い鉄塔……、たぶん、マリンタワーだと思う。……などを見て、正面右手のテレビ画像や雑誌の写真で良く目にした、横浜港口に架かる有名なベイブリッジを視界に入れながら彼女は首を左に廻す。彼女が顔を向けた左の対岸には二棟の赤い煉瓦建ての倉庫が在った。

 視線を移すたびに顔の向きを変えて横顔を僕に見せる彼女は、顔を上げ優しさの失せた細めた目と頬に、そして、硬く結ばれた口許に険しげな彼女を感じさせた。時折、何かを企むように唇の端が吊り上がって、目許が笑った。その変化する表情の中に彼女の思惑を探ろうと僕は見続けた。

 彼女の視線を追って見た赤煉瓦倉庫に、僕は後悔した。

(先に、あっちへ行けば良かった……)

 どうして、思い付かなかったのだろう?

 インターネットで相模原近辺や横浜市内のデートスポットを検索していた画面に、アウトドア的にショッピングを楽しめる、お奨めスポットとして赤煉瓦倉庫は紹介されていた。ドラマのロケ地に良く使われて人気が有り、トレンディーなファッションやグッズに洒落た飲食店も多い。大型バイクのタンデムで乗り着けても自然で様になりそうだった。

 そんな開放的なイメージがしたエリアだったのに、ただ、彼女とタンデムで走り回る事しか考えていなかった僕は、画面を流し見しただけで予備情報にもしていない。愚かな自分を嘆こうと風に立てる顔に、湿り気の有る冷たい大気が吹き寄せて目尻を滲ませた。

 滲む視界の遠くに、雲間から射す太陽の光が湿った大気で太い筋となって晴れ間と海面を繋ぎ、光に包まれるベイブリッジを白く輝かせていた。一緒に照らされる橋桁の周りや辺りの海面も明るい色で眩しく輝いている。

 その裾広がりに斜めに降りている光の筋は薄明光線という、見たまんまの味気の無い名称で、俗に言う天使の梯子だ。信心深い人にはラッパを吹きながら行き来するエンジェルが光の筋の中に見えるそうだけど、そんな宗教が絡んだようなのじゃなくて、もっと現代的にファンタスティックな呼び名がないものかと、見る度に考えてしまう。

 目を凝らすと輝く海面は遠くベイブリッジの向こうの東京湾まで広がっていた。低くフラットな曇り色の空の中に透明な青空色が在った。ぽっかりと大きな穴が開いたような晴れ間だ。その晴れ間が沖から近付いて来ている。

 早く来て暖かな春の陽射しで彼女を包んで欲しい。春の光を浴びて少しでも彼女の機嫌が良くなればと願う。

(春の太陽よ! 早くここへ遣って来て、肌寒く沈む気持ちを明るく暖めてやってくれ!)

 ゆっくりと前を歩く彼女の歩調に合わせて、僕は緩い起伏の板張りの丘のような大桟橋を彼女に付いて行く。近付き過ぎて鬱陶しいと思われないように、離れて寂しがらせないように、付かず離れず、僕は彼女と歩いた。

 これまでの桟橋のイメージは埠頭の岸壁と同じ、港の縁をコンクリートで固めたフラットな船着場で、ずらりと並んで糸を垂れる釣り人達と倉庫や出入国などの通関管理棟が隣接しているのだった。でも、この横浜港大桟橋は違っている。釣り人はいないし、フラットな無機質なコンクリートの塊でもない。草木や人工芝に覆われていれば、まるで、横になって転がりたくなるような丘陵公園だ。

 彼女の横に並んで歩きたいけれど、転倒して挟まれた痛みが左足をぎこちない歩みにさせて、誤魔化しの平気を装うのが難しい。右足は何ともないのだけど、移る体重に鈍く痺れが残る左足から『ズキン!』と、突き上げて来る脛骨が軋む深くて重い痛みに、注意していないと踏み付けた僅かな段差でヨロけてしまう。だから、できるだけ自然な感じで彼女に気付かれないように歩こうとしても、そおっとした歩きになって離されている。

 そんな遅れを誤魔化すのに、あちらこちらへ僕はキョロキョロと顔を廻らせ、見る物全てが珍しくて興味をそそられているフリをした。

 大桟橋の先端まで来た。

 僕が咄嗟に思い付いたデートコースの折り返し地点に、とうとう来てしまった。後は、何を如何くっつけて寄り道しようが、相模原へ戻るしかない。

 ランチは相模原か、相模大野へ戻ってからにしよう。それから、僕と彼女が弾む会話で笑っていられるようにしたいのだけど、今も疎らな会話に、どうすれば良いのか分からない。痛む足と焦る気持ちで楽しい筈のデートはブルーに染まって沈んでいる。

 こんな僕の憂いを晴らすように頭上に遣ってきた大きな晴れ間が、大桟橋を陽射しで覆って照らしだした。

 大きく真ん丸に広がった空色の晴れ間を仰ぎ見ながら、横目で彼女の反応を気にする。

「ここは晴れてくれたな。暖かくなって良かった」

 少し鼻をヒクつかせて春風の匂いを嗅ぎながら、彼女は手を翳し空と海を眩しそうに目を細めて見ていた。

(やっぱり、春は彼女の、この顔だよな!)

 久し振りに彼女を好きになった時の表情が見れて、僕は嬉しい。陽に晒されて暖められた春の潮風に吹かれ、明るい暖かな陽射しを浴びる彼女は、表情が柔らかくなって嬉しそうだ。その顔に僕の胸がまたまたキュン、キュンと鳴って締め付けられた。

(良かった! 彼女の機嫌が直りそうだ。晴れ間よ、ありがとう)

 大自然の恵みに感謝しつつ、彼女の機嫌がこのままで続いて欲しいと願う。

「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」

 光に包まれる彼女は、本当に美しい!

 陽射しに暖められた春風は柔らかく水面を撫ぜるように吹き渡り、波頭をキラキラと眩しく輝かせた。ひんやりとしていた風が暖かい春風になって吹き寄せて来る。陽射しと春風に温められる気持ち良い僕の身体に、傍に彼女が居てくれる喜びに潤う僕の心。

 今正に、僕の身も心も麗らかに安らぐ至福の時だ!

「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」

 さっき思った事を、彼女に聞こえるように呟いて、僕は姑息な機嫌の測り方をする。

「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方の透き通った蒼い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうかも、なぁんてね」

 機嫌の直りそうな彼女にホッと安堵して気が緩んだのか、フラ付き始めた身体を手摺り前に備え付けられている支柱架付きの有料の双眼鏡へ寄り掛けると、彼女も二メートルほど離れて手摺りに凭れ掛かり、海を眺め始めた。

 空一面、ぽっかりと大きな穴のように広がった透明な蒼空の明るさに照らされて、眼下の横浜港の海は、上空の空の色に染められたように深く鮮やかな青色で、吹き渡る春風にキラキラと波立っていた。

(彼女は、その海を見ながら何を考えているのだろう?)

 陽射しと波の照り返しで暖められた潮風が気持ちいいのに、立戸の浜のような親密さは感じなくて、逆に僕は彼女に距離を置かれてしまっている。立戸の浜の親密さを更に接近させて、キスも有りかなと思い描きながら相模原に来たのに、このままでは彼女の機嫌が直っても距離を詰めて来る事はないと思う。

 その機嫌の良さも晴れ間の内だけで、寄せる雲に陽が翳り、気温が下がりだすと、再び彼女はネガティブなオーラを放ち出すだろう。僕の塞いだ気分も好転する事無くブルーなデートで終わりそうだ。

(何か打つ手は無いのか?)

 そう不安に焦りながらも、反射する陽の光を眩しく眼に飛び込ませる波の泡立つ白い頂を、今日の記念に切り取ったようなオブジェにしたいと考えていた。

 トランプでピラミッドを作るように息を止め微動もさせず、ゆっくりと丁寧に築き重ね上げて来た彼女との関係が、プップッと音を立てて一遍に今にも崩れそうなのに、鈍くてトロい僕は余裕を噛ましていた。

 陽溜まりの中で手を翳し眩しそうに目を細めて波頭の煌く水面を眺める彼女は、普段でも薄く微笑むような表情を一層優しげにさせ、春風に舞い乱れる髪の輝きと相俟って神々しくも見え、ドギマギする矮小な僕は彼女の光りで溶けてしまいそうだ。

 僕を好きだと言わせたい。光の輪が頭上に現れても不思議じゃない彼女から、目を離せない僕は強く思う。

(僕だけが彼女を理解すればいいんだ。誰にも彼女を奪われたくないし、渡さない!)

 彼女を見ていて、ふと思う。

 この世の全ての理が等価交換で成り立つならば、その重さや価値は何処に在るのだろう? 等価交換される必然は何処から来るのだろう?

 喜怒哀楽が均等だというのならば、この世界は不条理と不可解ばかりで全く不理解だ。悲劇に巻き込まれた幼き命、苦しみや不幸だらけの生涯、事故や戦争のような一度に大勢が個人の都合に関係無く、災危に遭うのは因果応報の果てなのだろうか? これらの何処に『良い事半分、悪い事半分』が有るんだろう?

 この世の理だけでは幸不幸の等価交換が出来ないと思う。きっと、前世、現世、来世でも等価交換値は不均等で成り立たない。そもそも不幸に抗う慰めの言葉や仮説でしかなく、絶対的な道理や根拠は全く無かった。

 こんな不愉快を想像して考えさせる彼女の横顔に、今の僅かに高揚するプラスの気持ちが、彼女のちょっとした否定的な言葉や表情で堕ちて沈み、マイナスの粘り絡まる焦燥感に引き摺られてしまう予感がした。

 平行世界……、以前、お袋が言っていた言葉を思い出す。今居るこの場所と過ぎて行く時間は、ズレた選択肢が際限なく重なるターニングポイントで、事態が悪化する方向の世界の一つなのかも知れない。

 今日は大きな分岐ポイントになってしまった気がする。僕が起こしたズレは大きくて、何もしないで放っておくと二度と彼女の人生と交差しなくなるだろう。どこかで修正しなければならないと思った。でも何時、何処で、どんな方法で戻せるのか分からない。

 僕の魂が昇天しそうな、その笑顔で僕を好きだと言ってくれるのならば、あらゆる方法で僕の全てを君に捧げて必ずズレを正す。

 例えば、極端で現実的じゃないけれど、陥る悲劇の結末から回避させてハッピーエンドに至らせる為に、僕が犠牲にならなければならない事を知っている彼女から、『君が好きだから、私の為に死んでくれる?』と、無情な事を笑わない顔で願われても、僕は叶えたいと思う。

(でも、理不尽に『あんた、うざくて嫌いだから、死んで!』は、拒否だな)

 もっと純粋で短絡的に、彼女が、避けられない辛さの限界や堪えられない悲観の絶望を終わらせたいと望み、僕の耳元で『私は、好きな君と心中したいの』と囁くように呟いたなら、彼女の非情な願いを僕は一緒に叶えるだろう。

 そんな歪んだ『好き』でも、彼女が言えば、僕は実行する覚悟が有った。

 相変わらず、割れた青ガラスの破断面みたいに陽射しをヌメヌメ ヌルヌルと照り返す海面の眩しさを、翳す掌で遮りながら、遠くの陽炎の様に揺らぐ真っ白なベイブリッジを見ている。

 視界がぐらりと揺れ、時間の経過と共に少しづつ増して来た脚の痛みに、双眼鏡の支柱に凭れ掛かるのも負担になってきた身体が、より安定した休息場所を求めているのに気付た。

 近くの風除けの有るベンチへ移動して、くたっと足を投げ出して座った。痛みに耐えて普通を装える間隔が短くなって来ている。脚を摩る両手に力が入って行く。痛みの疼きを散らすゆっくりとした時間が欲しい。

 暖かな陽射しを浴びながら穏やかな春風に吹かれていると、気持ち良い眠気が来た。

(ふぁ~、眠い…)

 気持ちの緩みと痛みの退きも加わって、デート中だというのに大きなアクビが出てしまう。疲れと寝不足も出ていると思う。

 残業続きで身体は疲れていたし、風呂で身体の隅々まで洗ってしっかり湯に浸かりもした。そして、今日の行動を考えていつもより早く就寝した。だから昨夜は良く眠れるはずだった。だけど彼女に会えるのが嬉しくて二人の未来を想像した。今はまだ、その気配は無いけれど、恋人達の関係になった二人を、あれこれいろいろと考えて興奮で寝付けず眠りも浅かった。

それに早朝から一生懸命にV-MAXで走って来ている。

(寝不足と疲れと、ちょっとした、……幸せ気分からかな?)

 そう思うと益々瞼がくっ付きだした。

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 横に座った彼女が、持っていた包みを広げて手作りのランチを僕に見せた。

(おおっ、カツサンドだぁ♪)

「はい、あーんして」

 楽しそうな彼女の言葉に口を開けると、押し込むようにカツサンドが突っ込まれた。

 『何を行き成り』って、息も塞がれて憤りそうになるけれど、カツサンドの美味しさにどうでもよくなってしまう。

(この味は、とんかつソースベースだ。ピリッとカラシも香ってる。美味いぞ!)

「ねぇ、美味しい?」

 カツサンドを頬張る口の僕が、大きく頷いて肯定するのを、肌が触れるくらい間近で、彼女はニコニコと嬉しそうに見ている。

 二つ目のカツサンドを手に取り、『まだ有るよ。早く食べて』と、今度は身体を触れさせながら僕の頬張る唇へ笑顔で押し付けて来た。

 真っ青な空に麗らかな陽射しと暖かな春風。触れる柔らかな彼女の身体。明るい笑顔の彼女は僕の幸せだ。だけど、立戸の浜で沈められた時みたいな悪戯を楽しむ彼女の強引な態度は、何かが違う。

 カツサンドを僕の頬で潰している彼女は、本当に僕が大好きな彼女なのだろうか?

(てっ!)

 何かが脇腹に当たって、呻きと共にカツサンドを吐き出した。

「あっははは」

 直ぐ真ん前で彼女が僕を見ながら大声で笑ってる。何が面白いんだろう? 僕は笑われる事をされているのだろうか?

(あうっ)

 また同じ場所に、痛みを感じた。頬で潰れていたカツサンドが刺さったみたいだ。……カツサンドがささる?

 目の前にいる彼女が不安な顔で僕を見詰めてる。……此処は、……何処だ?

 --------------------

(はっ!)

 二度の痛みに眼を覚ました。いつの間にか僕は眠って夢を見ていた。脇腹に刺さったカツサンドも、息が出来ないほど頬張ったカツサンドも、消え失せて、懐かしい後味とリアルな痛みを感じいる。

「ごめん。太腿を蹴るつもりが、脇腹に当たっちゃった」

 僕は脇腹を彼女に蹴られて起こされていた。しかも二度、強烈に! けっこう痛い!

「寝てたから、起こしてくれたんだ」

 蹴られて痛い脇腹は、去年のバス事故で黒痣が残るほど挟まれた処だ。戻りのライディングに支障が出ないか心配になりらがらも、彼女の惚けに僕もボケで返す。

「うん、そうよ!」

 全く悪びれない言葉で断定する彼女の表情は、僕に次の行動を急かしていた。

「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」

 彼女が僕に求める次の行動が『早く帰ろう』だと、察してはいたけれど、お断り覚悟で近場の散策に誘い、今の時間を紡ぐ未練を露わにする。

「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」

 澱みの無い棒読みが、冷めた彼女のはっきりした発音で耳の奥深くに貼り付いたのは、ストレートに返って来るのが分かっていた、僕の察しを肯定する言葉だった。

 気紛れではなくて、考えが有っての、あっさりと躊躇わずに止めたり、リセットする彼女を僕は知っている。十八歳の僕達には、漠然とした若さや茫漠とした人生の時間が残されている。今日をリセットして今年の夏でも、来年でも、再来年でも、遣り直す事は出来ると思う。でも、彼女が遣り直す相手は僕じゃないかも知れない。

     *

「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないの?」

『また道を間違えている』とばかりに、ルート1の浜松町の交差点を右折せずに直進する僕を、彼女は大声で指摘して非難する。ロードポイントを彼女は覚えていて、僕が帰り道を迷わないか、しっかり監視していた。

 道に迷えば、帰りが遅くなり、迷い続ければ、急ぐ気持ちに事故率が上がる。人身事故にでもなれば、今日は帰れなくなってしまう。しかし、道に迷わずに他のアクシデントも無いスムーズさで帰れれば、彼女は今日の僕といる時間を早く終わらせれる。

 彼女の非難の声に、そんな含みを感じたけれど、まだまだ今日を紡いで織りたいと足掻く僕は認めたくなかった。

「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」

 今日のデートは出会い時点から、僕のセレクトミスが彼女を不機嫌にさせていた。それを晴らそうとした僕は、少しでも早く目的地の大桟橋へ着こうと混雑するルート16を急いだ。其の挙句、来る途中での速度超過規違反、転倒の自損事故、方角の迷いの不肖さは、彼女に僕への不信感を抱かせて、今も、帰り道を不安がらせている。

 戻りは、スピーディなライディングを控えた彼女の安全と安心を最優先する気遣いで、僕はタンデムで密着する彼女の感触を背に感じながら、落ち着いてゆっくりと走りたい。

 GPSの検索で選んだルート16の迂回ルートの一つへ右折して、片側一車線の県道を交通の流れに合わせた速度でV-MAXを走らせて行く。何度も赤信号で停まる度に、流れ去らない彼女の匂いをヘルメット内へ漂わせて、後ろから抱き着いている彼女に僕は幸せを感じていた。

(今日の僕を、彼女はどう思ったのだろう)

 今のところ今日の僕は、一つも良い場面を彼女に見せていない自覚が有った。自己採点だと九対一でマイナスイメージだらけで、一つだけのプラスは、天使の梯子の暖かな陽射しに包まれた大桟橋の先端で彼女が嬉しそうに笑ったからだ。今日の彼女と『さよなら』する時が刻一刻と迫って来ているのは感じている。なのに、今も、この後をプラス的な友好ムードにする為の思考をしていない。今日は僕の遣る事、為す事、どれも行き当たりばったりの思い付きで、失敗ばかりだった。その蓄積されたマイナスを一発逆転したいのだけど、どうすれば良いか情報不足で全然分からない。

 『さよなら』への時間を加速したがっていると思う彼女は、今日の不甲斐無いデートの所為で『さよなら』の前倒しを求めているのを、僕に自覚して協力しろと考えているのか知りたい。だけど、どうせ訊いたところでノリの悪い彼女の態度から、想像通りのノリの良い悪態が返ってくるだけだと思う。故に怖くて訊く勇気が無い。

 確かに大桟橋へは道に迷っていたけれど、適当に走っていた訳じゃない。

     *

 雑木林を過ぎた。先々週来た場所だ。この辺りは桜吹雪の中を偶然の出逢いを求めてグルグルと走っていたから、大抵の方角とロケーションは分かる。

 背中の彼女がムズがるように体を揺すり、抱き着くように腹部に回された腕が緩むと、直ぐに彼女の手が僕の両の腰をしっかりと掴み直した。

 どうやら、寝ていた彼女が起きたみたいだ。左右に顔を振って現在位置を確かめている動きも伝わって来る。

(ん! 寝ていたのか?)

 寒がってジッとしているとばかり思っていたのに、穏やかな走りは彼女の眠気を誘ってしまった……。

(あっぶねぇー! 過激なライディングをしなくて、良かったぁー)

 逸る気持ちに、急発進や急加速をして急ブレーキで急停止、それに急ハンドルで縫うように鬼走りをしたり、回避できないアクシデントに遭遇していたら、きっと彼女は落下して大怪我や絶望的な状態にさせていたと思った。

 ロープやベルトで体を結び着けておくべきだったと反省しながら、今も相模大野の駅を目指して慎重にV-MAXを走らせている。

     *

 どうにかやっと、相模大野の駅前に戻って来れたけれど、時刻は既にお昼を過ぎていた。

 休日の昼下がりだからなのか、駅前の商店街は以外と人通りが少ない。そんな閑散とした通りを行き来する僅かな人達を招くように、暖簾が風に翻る饂飩屋の前にV-MAXを停めた。

 クラッチレバーを握る悴む指先が痛み、トランスミッションのギアをニュートラル位置にするチェンジペダルを踏み込む凍えた爪先が、力を入れ続けると腓返りを起こしそうな感じに、早く温かい場所で冷えた身体を温めたい。

 先に彼女を降ろしてからエンジンを切り、V-MAXのサイドスタンドを立てる。V-MAXを降りてヘルメットを脱ぐと煮物や揚げ物の匂いが鼻腔を心地好く通り、僕に空腹をはっきり気付かせて食欲を煽った。隣でヘルメットを脱いだ彼女も鼻先をヒクつかせながら、料理見本のイミティーションが並ぶウインドウを見ている。

 僕は一人で、洒落たビストロやカフェレストランへ行ったことがなかった。友達や部活の仲間と行ったのは、喫茶店やラーメン屋やうどん屋ぐらいだ。一人暮らしの今でも定食屋とバーガーショップが増えた程度だ。回転すし寿司にも行ってない。

 料理見本を見て、饂飩屋の暖簾を見て、左右の通りを見る彼女の様子から、ここでお昼にしても構わないだろうと思う。

「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」

 僕の声に彼女の瞳が反応してギロリと睨みながら、一歩、二歩と停めたV-MAXに阻まれるまで後ろに下がってしまった。

(明らかに拒否られてるなぁ)

 料理ジャンル、店選び、ロケーション、その全ての僕のセンスを拒み、疑っているに違いない。

 険しい眼差しで僕を睨み続ける彼女へ謝りの言葉を言うべきか迷っていると、突然、彼女は目を見開いて口が『あっ!』と小さな悲鳴を叫ぶ動きをした。

「あちっ!」

 何か汚い物を避けて跨ぐように彼女が飛び退いた。

 彼女が三歩目に下げた足の脹脛はV-MAXのマフラーに触れたままになっていて、厚手のGパンの生地越しに脹脛が火傷したのだと分かった。

 怒ったように彼女は僕を激しく睨み付けながらGパンの上から火傷した脹脛を擦り、それから直ぐにGパンの裾を捲り上げて火傷を見る。彼女の足は素肌にパンティストッキングを穿き、それにハイソックスとGパンを重ね、そしてコットンブーツを履いていた。

 ハイソックスを下げて見る火傷は、ストッキングの光沢で拡散されながらも赤く腫れて見えて、火傷しているのは確実に思えた。高熱で破壊されて融ける皮膚は、これから赤味が黒ずんで瘡蓋を張るだろう。どれくらいの範囲の大きさになるか、まだ分からないけれど、きっと今夜から数日はヒリヒリと痛む筈だ。

 火傷の状態を見て、ハイソックスとGパンを戻した彼女は僕を見る。

『見たよねぇ~。火傷してるよねぇー。誰の所為?』僕を責めたい光が彼女の瞳に煌き、僕は目も、顔も、身体の向きも逸らしてしまう。高温のマフラーに脹脛を押し付けたのは、彼女が後退ったからだ。その後退りさせた原因は僕だ。

(僕のセンスと経験値の無さが、彼女を傷付けてしまった!)

「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう」

 火傷の痕が彼女の肌に残るのは可哀想だった。痛がる彼女の嘆きに僕は胸が締め付けられて居た堪れない。凄く愛おしい彼女に僕は酷い事をしている。

 小さな染みや傷痕も無かった白く滑らかな肌の脹脛に、火傷痕の黒ずんだケロイドが残る。歳を経て小さくなり、位置も少しは変わるかも知れないけれど、何十年は消えないだろう。それを見越して『僕は気にならないよ』なんて、火傷痕が残るのを前提にした不適切で、彼女の気持ちを無視した思い遣りに欠ける無神経な事を、軽く流す『いたいの、いたいの、飛んで行け』的な冗談ぽさでも、その元凶たる僕は言えない。

(これは僕の所為だ!)

 彼女を傷付けるこんな事になるのなら、今日は会いに来なければよかった……。全然、慰める言葉を僕は見付けれない。

「ごめん……」

 痛がって悲しむ彼女が憐れに思えた。肌寒い晩春の休日に期待外れのデートに連れ回された挙句(あげく)、火傷までして嘆いている。その不幸なデートの始まりから不満そうだった彼女が益々不機嫌になるのは確実だけど、それが少しでもオーバースペックにならないように、僕は謝罪の気持ちが篭らない言葉で防壁を張る。

「……ここで、お昼…… 食べるの?」

 火傷するくらいの戸惑う反応と悲嘆顔の彼女は、絶対に不満だと思う。

 メジャーなファミリーレストランなら嫌がらないだろうけれど、戻り道には見当たらなかったし、途中で食べても、その後にタンデムしていたら身体が冷えてしまう。だから彼女の住まいが近くだと思える相模大野駅前で食べたかった。

 この饂飩屋で我慢して貰いたいのに。でも、どうしてもと、駄々を捏ねるなら、GPSで検索してルート16沿いへ移動するしかない。

「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも食欲ない?」

 全くの無粋で当然な事だけど、僅かでも、此処で納得して貰えるフォローになればと、言葉を補填する。

「あっ、支払いは僕だから、何でも好きなの言ってよ」

 今日のデートの公けの費用は僕が支払うつもりだった。交通費、遊戯代や入場料、飲食代は、まだ、アルバイトを始めていないと思われる彼女と分担するよりも、働いて稼ぎが有る僕が全て負担するのは当然だろう。『それ買って』、『これ、プレゼントしてくる』も、大枚じゃないけれど財布の中身が有る限り、躊躇いも無く彼女の望みを叶えるつもりでいた。

 それに、初任給が口座に振り込まれたばかりだから、デート以降を倹しく生活すれくらいの余裕は有る。

「僕はカツ丼にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長やお多福で良く食べてたんだ」

(もう開き直りだ! 捏ねられる駄々を言葉にされる前に、強引に此処に決めてしまえ!)

 金沢市の大衆食堂の老舗、『加登長』と『お多福』の名を言えば、彼女も美味しさを思い出してくれるだろうと、賭けてみた。それに僕的には空腹と寒さで河岸を変えたくはなくて、この店で彼女が納得して欲しいと祈りを込めた。

「それじゃあ、私はカレー南蛮にしよおっかな。蕎麦じゃなくて、饂飩で御願いね」

 思わず彼女の顔を見た。この店で良いのか? 我慢して此処にしたのか? 不満顔でダークオーラが揺らいでいないか? と、疑いに不安を重ねた目で見ると、目許と口許が少し笑っているように思えて、手許が滑って落としたグラスは割れずに床に転がっていたみたいな、安堵の息を静かに吐いた。

 納得した微笑みじゃなくて、我慢と諦めと期待の不敵な歪みかも知れない。

 普通は蕎麦のカレー南蛮を饂飩玉にするんて、彼女なりの味の拘りが有るみたいで、ちょっと楽しそうだ。美味しそうな香りが立ち上がる旨い料理は人を幸せにさせる。

 どうか、注文したカツ丼とカレー南蛮饂飩カスタムは期待を裏切らない見た目と味でありますように。特にカレー南蛮饂飩カスタムの美味しさが、彼女の険しさをなだらかにさせて笑顔を見せてくれるようにと、僕は願った。

     *

「いただきまーす」

 案内された四人掛けのテーブルでオーダーして待つ事暫し、カツ丼とカレー南蛮は同時に運ばれて来て、それぞれの前に四角い盆に乗せられたまま、向きを整えて置かれた。

 目の前に置かれたカツ丼は、自己主張の香りが強く漂う、香ばしく揚げた豚ロースの割り下で煮られた切り身から、一緒に煮られた玉葱をとじた溶き卵と僅かに掛けられた煮汁から、いいかにもカツ丼って旨味の匂いを、器の底に盛られた熱々の白ご飯が立ち上らせて、『今、凄く彼女が好きだけど、カツ丼も大好きだー!』ってくらいに食欲をそそられている。

 食べ方を始める前の料理と其の料理を作った料理人へ敬意の挨拶を言ったのが、彼女とハモってしまった。互いに自分の料理に顔を向けたまま、上目で相手を見遣って目が合うとにっこりして、直ぐに視線を戻して食べ始める。

 先ずは上のカツを除けて、スライスした玉葱が美味しそうな色で絡む卵とじと一緒にご飯を食べる。少し煮汁が染みた上手に炊かれた白ご飯に、滑るように口に入る白身と黄身が混ざりがけの卵と、柔らかくも切れの良いシャキッ感が残る玉葱は、見た目の期待を裏切らない旨さだ。

 除けたカツの肉面は、これまた僕を嬉しくさせて、割り箸で掴み上げた切り身の半分を噛み切らせてくれる。

(うほぉっ! ロースカツだ。赤身のフィレじゃない。これは旨いぞ!)

 やはり、トンカツはロースじゃないと旨くない。臭みと味が違う。豚ロース肉の皮際の脂身は背油で、煮ても、焼いても、揚げても、甘い旨味が素晴らしい!

 ふわふわの卵と煮汁が染みた御飯の三分の一くらいをカツの切り身二つで食べて、一息吐きながら彼女の様子をチラ見する。

 丼を真下に寄せて口を近付け、カレールーが絡まる饂飩麺を一本づつ慎重に彼女は食べていた。麺を啜り上げする事なく、麺が撥ねてルーの雫を飛び散らかさないように箸で摘まみ、口へ運んでいる。左手がカレー南蛮の丼を抱えるように廻されて、バクバク、ムシャムシャじゃないけれど、仕種の毛足の長い犬や猫っぽい感じが、何か可愛い。

(彼女も、豚ロースの脂身や、すき焼きで煮込まれた牛の脂身が、好きだといいな)

 僕の覗き込むような視線に気付いたのか、饂飩麺を口へ運びながら彼女が上目で見る視線が重なり、麺を運び終わるまで、見詰め合ってしまう。

 カツ丼の香りを押し退けるようにカレーの匂いが漂って来て、彼女が食べる魅力的なカレー南蛮は、カツ丼と同じ位に好きな僕を、カレー饂飩の追加オーダーしようと誘惑するが、今はカツ丼だけにすべきだと考えさせた。

 金沢市で家族と一緒にいた三月中頃まで、休日の昼も家にいると、お袋は昼ご飯によくカツ丼を作ってくれた。なんでも婆ちゃん譲りのレシピで、とても旨い。僕がカツ丼好きになったのは、お袋のカツ丼の所為だ。スーパーで買うロースカツを使うのだけど、丼専門店の拘り仕立てのカツ丼より旨いと思っている。

 いつも小鍋に残る煮汁を全部掛けて貰い、シャバシャバのツユダクにして掻き込んでいた。そんな食べ方を僕がするものだから、親父や妹のより煮汁の味付けを、お袋は少し薄くしていたのに気付いたのは高校受験の頃だった。

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 徹夜で勉強するつもりで、お袋が作ってくれたカツ丼を夜食で食べていた時に、親父が酒臭い臭いをさせて夜の集まりから帰って来た。

 親父が、煮汁を沢山入れて雑炊のように食べる僕のカツ丼を見て、『俺も同じのが食べたいかも』とお袋に頼むと、『いつものより、味は薄めになるけど、いいの』って返された親父が、『それで、御願いします』と言いながら頷くのを見て、僕はお袋に訊いた。

『僕のツユダクは、味が違うの』、ずっと他のと同じ味だと思っていたのは、『当たり前じゃない。一緒の味付けだと塩分取り過ぎで、体調を崩しちゃうでしょ!』って、賢いお袋が違わせていた。

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 両手で掴み持った丼に口を着けてカレールーの最期の一滴まで綺麗に平らげた彼女が、テーブルへ丼を戻しながら軽く長く息を吐く。どうやらカレー南蛮に満足していただけたようだ。それを見ながら同じように丼に被り付いて、残していたカツの最期の一切れの脂身を食べ終える。

 食のテンションで不規則になっていた呼吸を軽い溜め息で戻し、更に気持ちを整え意を決する為の深い溜め息を吐いた。

 今日は彼女に渡すプレゼントを二つ持って来た。

 一つは自作の小物。ローマのスペイン広場でレリーフのフォトスタンドを買おうか迷っていたから、興味が有ると思う。フォトスタンドではなくて、軽さからペーパーウエイトにもならないだろうけど、彼女の部屋の何処かに置かれて、視界に入れば僕を思い出して欲しい。

 もう一つは、彼女の近くに居られない僕の代わりに、いつも持っていて貰いたい物で、インターネットの通販で購入した。使い方によっては彼女を守りきる強力な武器だ。

 それらを彼女に見せて、説明してから渡すのは、お腹が満たされて気持ちが穏やかになった今のタイミングだ。

 V-MAXのダミータンクに縛り付けていたのを外して、横の椅子に置いていたディーバックから一つ目が入った包みを取り出した。そして包まれていた小箱を開け、詰められたクッション代わりのティッシュペーパーの中の作品を壊れていないか確かめながら、そっと箱から出す。箱の中に僕は自作したミニュチュアの西洋風のお城を入れて来ていた。

(よし、どこも壊れていないな)

 小さいけど頑丈に作ったし、梱包もバイクの振動に耐えられるようにクッションを二重にしていたし、転けた時にも潰されてはいなかった。

 取り出したそのミニュチュアの西洋風のお城は、明るい色で落ち着いた感じに仕上げて、城館の屋根や城壁の上に、幾筋ものカラフルな図柄の燕尾旗をたなびかせた。

「ちょっと作ってみたんだ。久々の新作だよ」

 会える日が決まってから毎晩作り込んだ。造形用粘土で作って型取りした僕の最新最高の傑作だ。

「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」

 彼女は一瞬目を輝かせたけど、すぐに冷めた表情に戻ってしまった。

(食い物とでも……、デコレーションケーキに見えたかな? 少し離れるとコーヒー味のショートケーキに見えるかも)

 たぶん、艶消しのサーフレススプレーを何度も重ね噴きしたから、ショートケーキっぽく見えて、『美味しそう』なんて、期待を抱かせたのかも知れない。でも、違う。食べれないんだ。例え、僕が気の利いたセンスの持ち主で昨夜に静岡市内の有名店から購入して用意して来たとしても、この飲食店の中で広げて食べるわけにはいかないだろう。

 第一に、僕は気が利かないし、センスも良くない。それは、今日の出逢いで悲しく証明されている。だから僕は、無粋に素材と表面仕上げを説明して、出来上がりを訊いてみる。

「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」

 彼女に問い掛けながらも、僕はショートケーキの持ち込みを考えていた。

 もし、有名なパティシエのを持って来ていたら、きっと直ぐにでも彼女は食べたがるに違いなくて、それは彼女の気持ちを晴れにする一発逆転のアイテムになってくれる。だけど、それを何処で食べる? ファミレスでも、喫茶店でも、持ち込み飲食はNGだ。だとしたら、其処は彼女の部屋になるだろう。

 彼女の薦めで、暖かい彼女の部屋で、彼女が煎れる紅茶を飲みながら美味しくケーキを食べる。二十一世紀美術館の白いカフェや立戸の浜の時のように、ラブラブっぽく食べ合えれたかもと僕は白昼夢を見そうだ。

 現実は、気遣いの出来ない僕に心付けの用意は無く、今の気不味さは昨日からの必然だと思う。彼女の部屋へ行く事も、知る事も、今日は出来ないと悟った。

「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」

(やっぱり、そう見えたか)

 手のひらサイズのお城を彼女の前へ、倒して壊さないように、そっと置き直した。

「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」

 色合からなのか、形的になのか、よく分からないけれど、せめて、彼女の趣向に沿わせて楽しい気分で、もう一つのプレゼントを渡したい。

「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサヴァランかな。小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」

(ライトグリーン? どこが? それっぽい色がサバランに有ったっけ? ああ、そうか、あの店のサバランはメロンがトッピングされていて、香っていたな)

 しっとりしたシロップとリキュール味のサバランのイメージが爽やかなメロンのグリーンだなんて、そんなカラフルな感覚を持つ彼女が面白く思えて、新たな共感を感じてしまう。

 彼女が言った小立野の店は覚えている。中学の頃はお袋に頼まれて買って帰っていたし、高校生になって帰宅時間が遅くなってからは、いろいろと中学生になった妹が買って来ていて、よく食べていた。

「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」

 ちょっと弾んで来た会話に気持ちは勢いづいて、笑顔にさせれるかもって言葉を遊んだでみた。

「ふーん。良くできているじゃん」

 あっさりと、親しみを込めたつもりの軽いジョークは、完全にスルーされてしまった。

 この時、僕は彼女の表情と気持ちが違うとはっきり知った。穏やかで優しそうな表情や仕草とは裏腹に、その表面の直ぐ裏側まで激しい感情や想いが迫っているんだと分かった。それが時々ひょいっと言葉や態度に出るんだ。それはたぶん、彼女自身のストレスかフラストレーションが溜まって発散されているのだ。それを意図的に僕にぶつけているのだろう。僕だけに。

(なぜ? 感情を剥き出しにせずに、時折、さり気なく痛い言葉や態度を僕に向けるのだろう)

「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」

 いろいろとミニチュアの角度を変えている手を見ていて、僕は急に立戸の浜で見た彼女のネイルアートを思い出した。

(ネイル、爪か……。四角い爪……)

 僕は小学校六年生の春の日から去年の夏の浜辺まで、彼女の爪の事には触れていなかった。

 七年前、きっかけを作りたかっただけの僕は何の配慮も無く、『どうして、そんな形?』と、短くて四角い爪の形を彼女に訊いていた。

(そうだ! 爪だったんだ! 何気なく言った僕の不躾で無神経な問いを、彼女はずうっと引き摺って気にしているんだ。……絶対に爪だ! そうに決まっている。彼女の僕に対する痛さの根底には、それが有るんだ。立戸の浜で気が付いて、あそこで僕は彼女に謝らなければならなかったんだ……)

 確信した。僕はタイミングを逃していた。そして今日もチャンスを失った。そう、あの大桟橋で気付くべきだった。

 だけど、僕の無神経な七年前の言葉を彼女は言葉で許しても、今の理不尽に苛つく反抗期みたいな態度は直ぐに治らないと思う。

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 小学校五年生の時、僕に早い反抗期が来た。お袋も、親父も、家庭も、学校も、先生も、友達も、世の中も大嫌いになった。周りの全てが自分も含めて理由もなく厭だった。学校では大人しくしていたけど家では何かにつけて激しく暴れた。

 ある日、寝そべりながら大人しくテレビを見ていると、親父が傍らに来て座った。それからコトリと灰皿を置いて、おもむろにタバコに火を点けた。

『くっさいなぁ、タバコなら外で吸えよ』と言う間もなく、半ズボンで剥き出しになった左の太腿の内側にタバコを押し付けられた。

「うわーっ」

 熱さで飛び上がり、痛さに転げ回った。怒りで親父を睨むと、親父はもう一度タバコを押し付けるところだった。泣き喚きながら慌てて、タバコを持つ親父の腕を両手で掴むけど、片手でも親父の力は強い。僕の悲鳴と泣き声でお袋が飛んで来て、親父を止めてくれた。

「やめて! どうして二度もしょうとするの」

 親父から取り上げたタバコを消しながら、お袋が訊いた。

「こいつを正そうとしただけなんだよ。だけどな、こいつの反応が面白くてさ。俺もな、いけないなと思いながらも、こいつが飛び上ってバタバタ転げ回るのが可笑しくてさ。だから、もう一回見ようとしただけなんだ」

 そこで、お袋が親父の頬を大きな音を立てて平手打ちした。

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 今なら、あの時の親父の気持ちが解るような気がする。何度か小さな子供が熱い物に触れて、泣き叫ぶのに出会した事が有った。決まって『ぎゃーっ』とか『わーっ』と泣き叫びながら、両手をバタバタ振りドンドン足踏みするか、転げ回る。可哀想と思う反面、慌てふためく様が面白い。可愛さも有ると思うけれど、もう一度、熱い物を触れさせて騒ぐのを見てみたい衝動に駆られる。もう一度だけで済まないかも知れない。そう思うだけで咽喉がザラザラする。可哀想の憐みと面白さの衝動が、自分の中で鬩ぎ合い葛藤する。胸の中がゴツゴツした石がいくつもゴロゴロ転がって行く感じだ。気持ちが悪くて濁った息が詰まる。

(想像するような可哀想な事は、してはいけない悪い事なのだ)

 頭の中から衝動に駆られそうになる想像や考えを振り払った。

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 その時から、僕の反抗期は終了した。その日から親父はタバコを止めた。そして年に一、二回、家族での食卓時に、親父は僕に『タバコの押し付け』を謝る。

「何度も謝らないでよ、父さん。あれは僕が悪かったのだから気にしてないよ。それに母さんや妹の前だと照れ臭いから、男同志の時に聞くよ」

 照れながら親父に言うと。

「女房や娘の前だから息子への謝罪の言葉になる。おまえと二人きりで言うのは、それは言い訳にしかならん」

 真摯な顔で言ってから、親父は笑った。

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「あっ!」

 縞模様に明るい青色と赤色にペイントされた旗を戦がせたり、軽く撓ませていた彼女の指先が、旗の先端に触れて動きが止まると、ぐぐうーっと旗竿を直角以上に曲げて、『バシッ』と折ってしまった。

 褐色と黄土色のツートンカラーに塗られた旗竿は根元近くで折れて、テーブルの端まで飛ばされた燕尾旗が、まるで己のサドンデスを呪うように回転している。

「ごめん! ごめんね」

 彼女が言う謝りの声と其の表情を懐疑的に感じてしまう。

 折角、今日に間に合うように夜な夜な没頭して完成させたのに、上手に作れた最高の出来栄えなのに、気に入って笑顔を見せて貰えると期待していたのに、燕尾旗の旗竿は故意に加えられた指先の力によって、その素材のエンジニアプラスチックの靭性と剛性の限界を超えた曲がりで破断させられてしまった。瞬間、その虚しい様が悔しくて、悲しくて、唇を噛み、泣きそうになる。

 でも、彼女に破壊衝動を起こさせたのは、きっと、僕が原因だ。そして、他にも吐き出せない混沌とした不満や不安を僕にぶつけているんだ。

 それに、城館のミニュチュアは僕が作ったモノだから、一部分の破壊でも、全壊でも、修理したり、作り直したり出来る。

「持ち帰って直してから、また持って来るよ」

 言った途端に彼女の眉端が釣り上がり眉間と鼻頭に皺が立ち、彼女の頑なさが、いじける気持ちを僕への拒絶に変えて行く。

 彼女にそういう内面が有るのは気付いていた。僕の言葉が原因なのに、責めずに僕が気付くまで触れられたくなかったんだ。でも今、この場で『四角い爪』を話題にして詫びるのは不自然で相応しくない。いじらしさに急に愛おしくなり、彼女を抱きしめたい衝動に心が騒ぐ。

「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」

 作り笑いをして彼女は言った。瞳はつまらないという色をしている。

「折れた旗は、今日の記念になるしね」

 今日の記念のプレゼントに破損の跡を残して、彼女は不満の意と思しきメモリーを刻み付けた。

 大事に彼女へ渡す為に持って来た作品が、これ以上の不快メモリーを残されないように箱へ閉まってから、別の紙袋をバッグから取り出した。

「それと、これもプレゼントです」

 彼女は、又もや僕がディーバッグから取り出した紙袋を、荷物が増えると言わんばかりの顔で胡散臭さそうに見た。

「何これ?」

 紙袋から中身を取り出して彼女の前のテーブルへ置き、彼女の前へ寄せていると訊かれた。

「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」

 彼女はパワーをオンにして、いきなりグリップスイッチを握りバリバリと大きな音をたてて放電させた。店にいた五、六人の客と店員の全員が、何事が起きたのかと振り返って僕たちを見た。

「危なくないの?」

 スタンガンを手元で振りながら、バチバチさせている。

「こんな所で放電させたら駄目じゃん。そりゃ、そいつは危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」

 彼女は僕の手に押し当てる振りをしながら訊いて来た。

「この痛みを、あなたは体験しているの?」

 素早く手を引っ込めて、

「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力を知っておかなくちゃね」

(あぶねぇー、もうちょっとで電撃くらうところだった)

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 僕は届いた日に自分で試してみた。テレビのドラマや映画のシーンは大袈裟で、実際そんなに威力は無いと思っていた。まして通信販売の市販品なんか、たいした事はないだろう。僕は軽い気持ちで太腿にスタンガンを付け、スイッチを押した。

「ヒッ、ぐわーっ」

 いきなり、太腿の筋肉が勝手に激しく伸縮して体が弾き飛んだ。一気に出た肺の空気が声じゃない高い音を体の中から漏らして、視界が一瞬暗くなった。直ぐに襲ってきた強烈な痛みで僕は悲鳴を上げながらのたうち回った。優に三分間は動けなかった。暫し、何が起きたのか理解出来ず、何も考えられないほど、ドーンと来た凄いショックだった。

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 悪戯やおふざけの軽はずみな行為をしないように注意を促す言葉が、彼女への怒りを含ませる。

「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうぜ」

 ニヤニヤしていた彼女は、『ふうーん』と言う顔をして、バチッ、バチチッと空放電を繰り返す。

「それと空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」

 ちょっと迷うように考えてから、彼女はスタンガンを受け取った。

「面白そうだから、これも貰っておくわ」

(やはり、スタンガンは拙かったかな。でも、二人の距離が離れた今、僕は彼女を守れない)

 もう僕は彼女の傍に住んでいないから、せめて遠く親元を離れて一人暮らす彼女の身を、自分自身で守る術を贈る事しか出来なかった。

 彼女の安全を心配する度に、『彼女の生活圏の近くに就職すべきだったのだろうな』と考えてしまう。就職すると告げた時も高校受験と同じように、僕に進学する同じ処へ来て欲しそうな感じで、就職場所を首都圏へと、それも近隣限定と望まれていた。そう彼女が望んでいた通りにしていれば、仕事が終わると、いっしょに御飯を食べてからトレンディスポットへ行くようなデートを毎日の様にしていて、今日の気不味さは無かったのかも知れない。

 だけど、そこまで僕とのベタな毎日を彼女が予想して望んでいたのか分からない。ただ近くに居させるだけで日常は僕を拒んで冷たく距離を置かれていただろうと思ってしまう。

「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃ駄目だぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」

 僕は心配になって念を押した。

「分かっているわよ」

 スタンガンで僕を脅しながら、笑顔でそう言いった。

「ありがとう。心配してくれて」

 映画の中で悪巧みをする小悪党のように、彼女は楽しそうだ。

(うーん、心配だ)

 悪戯心で人を苛めないように。軽犯罪的な悪さを起こさないように。自分を痛めつけないように。と僕は彼女の細める眼を見て願う。

(本当に、正当防衛だけに使って下さいませ)

「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう食べ終えたの?」

 今更っと思いながら、スカッと底の柄が見えるまで平らげた丼を向けて、僕の器を覗き込んで来る彼女が嬉しい。

「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」

 和んだムードに、更にプライベートな思いやエピソードを話し合えるかもと、僕はティータイムに彼女を誘う。

「いらない!」

 キツく語気を強めて断わられてしまった。

 『いらない』には、きっと僕も含まれている。彼女の『もう今日は、君もいらないから、さっさと帰ってよ』の意を僕は察した。

 空腹が満たされて眠くなった彼女は、幼子の様に『駄々を捏ねているんだ』と思いたいけれど、そうじゃない! 彼女の気持ちは今日のフリ出しに戻っている。

 互いの察しの無さと理解不足に、確認が全く無かった朝の出会いで、テンションが下がりっぱなした。戻りは何事も無く無事に来て、昼食も食べ終えたのに、まだ朝を引き摺る彼女が腹立たしい。

 だから僕は、更に彼女の機嫌を損ねてダメ出しされる覚悟で、言ってみた。

「なら、これからどうする? ここが嫌ならサテンに移ろうか? それともゲーセンへ行こうか?」

 僕らの格好じゃ、それくらいしか行く所がなかった。ショッピングモールや繁華街に場違いで不釣り合いだと思った。

「……ゲームセンターも喫茶店にも行かない。だいたい、場所知ってんの? 私は知らないわよ!」

 そう、彼女のツッコミの通り、この辺りの地理に全く不案内だった。行く時も、帰りの道すがらもチェックする余裕はなかったし、下見に来た時もデートコースに全く考えていなかった。そして今し方、うどん屋で話をして珈琲も飲んだのに、ダブった僕の言葉は凄くチープに思えた。

「知らないけど、走りながら探そうかと思って……」

 藪蛇だった。僕はもう繕えない。

「……行かない。もう何処へも行かない。帰る!」

 サドンデス! 彼女の返答に突然今日は終了した。不意に別れの時間が来たので、気持ちは焦った。だけど内心は、ホッとしていた。今日は、良いところが一つも無かったし、下敷きになった左足は益々ズキズキと痛くなっていて、落ち着かない。

 落ち着いた静かな声だけど、怒ったような口調で彼女は言った。黒曜石のような無機質の瞳で僕を睨んでいる。これ以上、無粋な誘いをすると、その鋭いエッジで切り刻まれそうだ。

 『帰る』の言葉が、僕に寂しさを纏わり付かせてデートの終焉を察した。『また、タンデムして身体が冷えるのは堪らない』、『今日はこれ以上、あんたの感覚に振り回されたくない』、『あんたとのデートは、これで終わり』、『あんたは、もう帰って』と、いくつもの僕を諦めさせる言葉を彼女は言わんばかりだった。

 それでも、拒否されるのが分かっていても、それが建て前だと思われても、言わなければならない言葉が有った。

 彼女の言葉には応えずに、黙ってレジを済ませて店の外へ出る。

 先程よりも雲の層が厚くなったみたいで陽が翳らないのに薄暗くなった感じがした。通りを吹きぬける風も心なしか強く冷たい。だから、横で寒そうな仕種をした彼女に、せめてもと僕は言う。

「……分かった……、送って行こうか?」

 彼女の眉間に皺が立つ。黒目勝ちな目の瞳が艶の無い漆黒で、全てを拒絶する冷たい暗闇のようだ。

「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」

 続いた『帰る』が、寂しさを凍りつかせて深いクレバスの向こうに高い氷壁ができた。

 彼女に従うしかない。

「ああっ、ここで別れよう。僕も陽が傾かない内に帰るよ」

 『別れる』言いたくなかった悲しい言葉を、さり気無く言ってしまった。

(どうか、言霊になりませんように……)

 言葉数が少ない彼女に、僕らの関係が破綻しそうな、不吉な予感が滲むけれど、時間は戻せない。

 テンションを失い、モチベーションが消え入りそうな彼女へ、今から今日の遣り直しを望んでも許してはくれないだろう。

(今日は僕のミスだ。選択肢が一つしかなくて、ごめん)

 言葉にならない。心の中で謝った。僕はまた殻に閉じ籠もりそうだ。

「さようなら」

 その言葉の響きが、ずっと遠くから聞こえてきたような気がした。彼女の声が小さく耳に籠る。響きの中の寂しさと虚しさと切なさが僕を襲う。激しい焦燥が湧き上がり不安が僕を衝動的にさせる。

 『さようなら』は、『またね』じゃない!

(絶対に、今日の日を後悔するぞ!)

「次は……!」

 そう言いかけた僕の言葉を遮るかのように、彼女は口元を僅かに微笑ませて胸の前で小さくバイバイをする。でも彼女の眼は笑っていない。不潔な汚物を触った手を見るような眼で僕を見ていた。その眼に確固たる不吉な意思の光りを感じて、僕は言葉を繋げずに口を閉じるしかなかった。

『これ以上、何もしないで素直に早く帰って』という彼女の意思を感じた。

(このまま……、このままじゃあ、だめだ! ……でも、どうする? 何か、このマイナス状況を一瞬で逆転する方法は無いのか? 考えろ! 呪文は? シックスセンスは?)

 どうしようも無かった。今直ぐ瞬時に明るく陽気なムードに逆転できて、優しく笑う眼の彼女に変えられる魔法も超能力も、僕には何も無い。

 今、魔方陣も描けないレベルゼロの僕がすべき事は、素直に彼女の意志に従って静岡への帰路に就く事だけだ。

     *

 帰路のルート1で、Uターンをして彼女が暮らす相模原へ戻りたい衝動に、何度も駆られた。

(時間を空ければ彼女の気持ちが和らぎ、次の機会に修復できるだろう。メールで謝ろう。きっと一時的な感情で、もっと良い関係になれるさ。次は連絡を密にしなくちゃな)

 箱根の山を越えた辺りから悲観的で深刻な思いは、楽観的な考えに変わって来た。

(次も有るさ。次は絶対に上手くやるぞ! 失敗は繰り返さない。次は爪の事も謝る……、……れるかな?)

 

 ---つづく

迷想(迷走)中 (私 大学一年生) 桜の匂い 第八章 弐

 信号待ちが有ると彼はその都度、停車する車列の間を抜けて先頭へ出た。悲劇は何度目かの信号待ちで車列の先頭に出ようと、路肩側を進んでいる時に起きた。

 ガクンとスピードが急に落ちると、彼は二、三度身を捩って叫んだ。

「降りろっ!」

 命令口調の鋭い声が、彼の背中からフルフェイスヘルメットの中へ直に響く。寒くてぴったりと彼の背にくっつけていた頭が、彼の動きに合わせて揺さぶられた。回した腕の中の彼が左右へ頻繁に姿勢を変えている。上半身を左へ振ると、何かを避けるように仰け反って右へ動きながら体を捻り、右で傾けた体は耐えているみたいに一瞬だけ固まった。そんな動きを彼は小刻みに繰り返す。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 続けて悲鳴のような大きな声がした。もう語尾の『逃げろ!』は怒鳴り声に近い。事態を理解しようと顔を上げると、フルフェイスヘルメットのバイザー越しに奇妙な彼の動きと、ゆっくりと外側に傾くお尻の下のシートのズレを感じた。

「ええ? うん!」

 彼の可笑しな身のくねりは、バランスを崩して倒れつつあるバイクを必死で立て直そうとしている姿だった。直ぐに私は道路へ飛び降りて後ろへ避けた。

(しっ、しまった!)

 私が飛び降りた勢いの反動でバイクの傾きが増して、彼が懸命に努力していた立て直しを絶望的にしてしまった。

 身をくねらせたまま彼は、そのバランスを崩していく大型バイクと共に路肩側へ、ゆっくりと傾いて行く。コマ送りのスローモーションのような動きでも倒れてしまうのは決定的なのを察しながら、思わず降り易い道路側よりも反対の路肩側へ飛んで、彼が倒れるのを防げば良かったと思うけれど、もう手遅れだ。

(あっ、あっ、いや……)

 今直ぐにバイクのステップを蹴って飛べば、まだ逃げるのに間に合うと思うのに後姿の彼はそれをしない……。

 左足の爪先が傾きを止める足掛かりを探して動くけれど、もう既に爪先は路肩から外れていて、巾三十センチメートルばかりの側溝の上だった。側溝の向こうの庭は道路より五十センチメートルほど低くて、彼はバイクに跨ったまま、其処へ倒れて行つた。

「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」

 私の声に、脱出を試みたのか、伸ばし過ぎた爪先でバランスを崩したのか、それとも倒れ落ちる愛車の破損を防ごうとしたのか、彼の体はバイクから離れて、バイクが倒れるよりも早く、転落して行くバイクの真下に落ちた。

『ドサッ!』

(あーっ、な、なんてこと……)

「ああああっ、だめぇー!」

 そして、仰向けで落ちた彼の上に大きなバイクが覆った。

 ガシャン!

「キャーッ」

 思わず私は悲鳴を上げた。路肩より低い庭先の土が剥き出しなった小さな花壇へ、彼は左肩から落ちて仰向け転がり、更に上から大型バイクが横倒しに被って彼の姿が見えなくなってしまった。

「くっ……。うっ、ううっ……」

 彼の悲痛な呻きが聞こえる。

(あっ、ああっ!)

 目の前で起きた信じられない状況は、彼にとって最悪の状態に見えた。

(かっ、彼が下敷きに……。あーっ、動かない! どっ、どうしよう)

 私はどうすれば良いのか分からない。目の前の出来事に息を呑み、足下の恐ろしい光景に声を失い身体が竦んでしまった。

 彼の体は右足、両手と両肩、首から上……、フルフェスヘルメットを被った頭だけが見えた。それら以外は前部、大型バイクの下になって見えていない。

「だっ、大丈夫?」

 呻きは聞こえるけれど、両手以外はピクリとも動かない体の彼に声を掛けてみる。どう見ても大丈夫じゃない!

「うう、まだ……、まだ生きてるぞー」

(良かったぁ~。詰まんない返事ができるから、大丈夫そうだよねぇ?)

「ちゃんと意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」

 言いながら急いで彼の横へ降りて屈み、バイザーの中の表情を見る。そして、眉を寄せて細めた眦の怯えるような瞳で私を見詰める彼に状態を訊いた。

「どこか、痛いところ有る? バス事故の時みたいな怪我してないよね?」

 去年のバス事故で、彼の挟まれた脇腹と背中の痣を思い出し、フラッシュバックする彼の痛みに耐える悲愴な顔が重なり、焦りと緊張で高まる鼓動が視界を霞ませて行き、締め付けられるような胸の息苦しさは呼吸を喘ぐように大きくさせて、指先と吐く息が震えてしまう。

(はっ、早く、彼を助け出さなければ……)

 彼の胸と首を圧さえ付けているハンドルに震える手を掛けるけど、触れている感覚が薄い。

「あっ、足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」

 やっと出しているような彼のか細い声が聞こえて、私はハンドルグリップをしっかり掴んだと感じるまで手に力を込めた。

(バス事故ん時も、私が訊いたら、そう答えていたよね。その痛がりよう、絶対、怪我してるよ!)

ぐっと握った手と腕に力を溜めて、全力で腰を反らして足を踏ん張った。だけど……、らくちんそうに軽々と彼は走らせていたから、案外フワフワしてるかもっていう幻想は、あっさりと砕かれた。

(ああっ、どうか神様、お願いだから、彼を救い出してください)

 重そうなバイクは、その見た目通りに凄く重かった。持ち上げるどころか、ハンドルも少しも動いてくれない。私の力なんて全然お呼びじゃなくて、彼を助け出せない私の非力さに途方に暮れてしまう。バス事故の時と同じで、今度も私は彼を助けてあげられない。

(くっ、どれだけ重いのよ! このバイクは!)

「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」

 顔を近付けて『ごめんなさい』と謝っても、このまま彼を放置できるはずが無い! 涙目の彼を見詰めながら『どうすればいい』って目力で問う。

「すっ、すまないが、そこの自動車を止めて助けを呼んでいただけませんか」

(なっ、なに丁寧に頼んでんのよ!)

 こんな緊急事態に妙な丁寧さで話す彼が腹立たしい。

「僕は、まっ、まだ大丈夫だから……、あう、ううっ」

(痛ったそう! 痛いの有り有りじゃない。涙ぐんでいるクセに、なんで我慢してんのよ! 今はカッコつけなくていいから……)

 顔を顰めて苦しそうに言葉を出す彼は、痛みを精一杯我慢して私を不安にさせないように気遣う。

(それに全然、大丈夫なわけないじゃん! 早く彼を助けなきゃ!)

「うん! わかった!」

 ヒクヒクと痛みで閉じそうになる心細げな彼の瞳を見て私は強く頷く。大声で叫びながら両手を大きく振って急いで路肩に上がり、道路に出ると直ぐに、信号が変わり動き出そうとしていた自動車の前に出て行く手を遮った。停車したままでいてくれた自動車のサイドシートのウインドーガラスは下げられて、助手席の年輩の女性が倒れたバイクの下敷きになった彼を見ている。助けを求めようと急いで女性の真横で顔の高さに屈むと、私を見ている運転席の男性と目が合った。

「助けてください! すみません。お願いします。彼が……、下敷きになって動けないんです」

 横目で見る彼は、止まってくれた自動車に向けて自由に動く両手を振っていた。

「助けてください……」

 フルフェイスヘルメットの中でくぐもった声を張り上げている。必死の叫びとバイザーウインドーの中の脅えた目が、彼の激痛に耐える限界を知らせた。

「大丈夫ですか? お手伝いしましょうか?」

 心配そうな顔で女性は私に訊く。悠長な言葉に状況は尋ねる域を過ぎていると思う。

(この女性は、きっと上品な育ちで、余裕の有る恵まれた環境で生活しているんだろうな)

 親切で言ってくれているのに、そんなふうに見た目で勘繰る私はさもしいのかも知れない。

「……だっ、大丈夫じゃないです。全然大丈夫じゃないです。ぜひ、お願いします。早く助け出さないと彼が……」

 信号待ちをしていた自動車が三台もハザードランプを点滅させると、数人の男の人達が急いで降りて来て彼を下敷きにしているバイクを囲んだ。青信号になってもハザードランプを点けた三台の自動車は其のまま停車していて、私に訊いた年輩の女性が後続車の通行を整理していた。

 『ゴボッ、ゴボッ』と、彼の湿った咳き込みが聞こえて、重みで圧迫される胸に上手く息が出来なくなって窒息しそうなのか、それとも今の僅かな間に、お腹や胸に何かが突き刺さって来て傷付いた内臓からの吐血で溺れそうになっているかもって、凄く心配になって慌てて駆け寄り、ヘルメットのバイザーを上げて顔を覗き込んだ。

 涙目に鼻水を垂れ流す顔の唇から筋を引く涎には、血の色が混ざっていなくて安心した。

「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱してね。直ぐに助け出して貰えるから」

 私の言葉に必死に頷く彼を見ながら、どうにかしてヘルメットを脱がそうと、チンベルトに指を掛けて緩めると、

「今は、そのままにして、バイクをどかしてから外してあげよう」

 横で彼の挟まれた状態を調べていた男性が、そう言ってから彼のバイザーを下げた。確かに大きくて重いオートバイをどかすまで、ヘルメットを被ったままの方が安全だ。

 私は邪魔にならないように彼から離れて道路へ上がると、五人の男の人達は彼の周りに集まって掛け声と共に、オートバイをずらすように道路へ運び上げた。圧さえつけられていた重みから開放されて地面に伸びる彼が、寝返りを打つようにして、また『ゴホッ、ゴホッ』と咳き込んだ。今度のは、ちゃんと気道が確保された咳の音だ。

「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」

 ハンドルをしっかり握ると低く腰を入れて彼の大型バイクを一気に起こした白髪混じりの男性が、サイドスタンドを出して固定しながら溜め息を吐くように言った。

「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」

 彼はまだ、倒れた位置で仰向けに寝ている。

(それって、身動き出来なかった重しから体は開放されたのに、自らの転倒を、見も知らずの人達に助け出された事で、気持ちが動揺して落ち着かないからなの?それに、ライディングテクニックの未熟さ故の立ち転けから、自分のオートバイの下敷きになるという格好悪い窮地を、私に見せ付けたショックの所為も有るでしょう?)

 自由になった両腕の肘を付いて、彼は上半身を起こそうと試みていけれど、慎重で動きは緩慢なように見えた。

(大丈夫よ。確かにライディングは危な気で、下手で、察しが無くて、カッコ悪いけれど、私を先に逃がして巻き込まれないようにしてくれたじゃない。それとも、その鈍い動作は、手足に残る痛みの辛さで、動けないからなの?)

「どこか怪我していないか? 痛いところは?」

 フルフェイスヘルメットを被ったままの彼の頭が左右に振られた。

(本当に痛くないの?)

「ほら、起こすぞ。立てるか?」

 後ろからの抱き起しで立たされた彼は、重心を右足に掛けて、やっと立っているように見える。

(あんな重いのの下敷きになってたんだから、フラつくよね)

「うっ!」

 少しフラつきが大きくなったと思ったら、小さな呻きが聞こえ、彼の左足がタタラを踏んで、どうにか倒れるのを防いでいだ。

(痛そうに、左足を庇っている)

「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら救急車を呼ぶぞ」

 見ていて痛みに耐えているのがわかった。彼の言葉と態度が去年の初夏、バスの事故に遭った時と同じ感じがする。

(やっぱり、痛いんだ……)

「いえ、大丈夫です。潰されそうになっていたから、……立ち眩みが来ただけです」

(うそ! 痛いんでしょう。痛いのなら病院で検査してもらおうよ)

 バスの事故で受けたダメージに痛がる彼を、強引に病院から連れ出して後悔している。連れ出さないで様子見の診断通りに入院させていれば、三日も彼を寝込ます事は無かったと思う。

(デートを続けたいあまりに平静を装ってるなら、やめて。次は車道側に倒れて、二人とも後続車に轢かれちゃうかも知れないのに。まだ私は、死にたくないんだからね!)

 転倒しても、ぶつかっても、タンデムしている私の方が遠くへ飛ばされ易いし、死亡率も格段と高い。こんな気持ちが塞ぐグレーな日に人生をサドンデスしたくなかった。

「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染みたりしていないし、破れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」

 彼を立たせてくれた一人が、彼の腕を掴んで支えながらヘルメットを脱ぐのを手伝って、それからチェックした外見からの様子を話してくれる。迷彩ジャケットの背中と左側に土が付いて、ジーパンの後ろ側も土でで汚れていていた。前側はタイヤのパターンっぽい跡と、クランクケースやエンジンからのオイル染みが有った。

「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」

 両脇で支える為に掴んいてくれた手が緩められて、そっと腕を離した彼は挟まれていた両足をぎこちない前屈姿勢で摩ると、フラ付き具合を診ながら起こした姿勢を正して言った。

「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」

 五体の動きに何も問題が無い事をアピールするジェスチャーをしながら、返答する笑顔の彼の語尾切れの良い明るい声のトーンからは、何も不安を感じさせない。

(口だけが笑ってる……。これからは演技派の彼に騙されないよう、気を付けよう)

「そうか、頭は大丈夫そうだな」

(うっ、それって、思考や記憶に問題は無いけれど、身体はダメージが有りそうって意味込めなの?)

「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」

 ちょっとズレた返事は、私がいっしょにいるからワザと惚けていると思った。私がいなくて彼一人の自損事故なら真摯に怪我の状態を伝えているだろう。

「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」

 傍で見ていた女性が、私の思いを代弁するかのように、ダメ出しをする。

「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」

 ダメージは殆ど無いとアピールする笑顔の彼のジェスチャーが、中学校の卒業式の帰り道に見せたぎこちない歩きと、去年のバス事故で苦痛に耐える目の笑っていない笑顔が被って来て、痛々しいと思ってしまう。

 さっきも、後続車の影で超過の速度計測を済ませた白バイがハイビームを点灯してサイレンを鳴らしながら、死角を衝いて急接近して来るのを彼よりも早く私が気付いて知らせた。その白バイに真横で聞き取れない大音量でガナられ、彼は高額の罰則金と免許停止寸前の減点の御沙汰になってしまった。

 加えて、『自動二輪免許取得後一年未満だから二人乗りはダメ』と、ボソッと言ってたけれど、加罰すると彼は免停確実、罰金もプラス、に同情したのか、それ以上は何も言わなくなったから黙認されたかも?

 その時も、悔しいような、恥ずかしいような、誤魔化すような、媚びるような、憐れで惨めな笑顔をしていた。

(おい! 痛いなら痛いと、でも頑張るから大丈夫と、そう正直に言えばいいのに。なぜ、嘘を吐く!)

「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、病院で診てもらいます」

 彼の言葉を聞きながら、私は今だけの覚悟を決めた。

(ーったくう、しょうがないなあ。取り敢えず彼の様子を見ながら、付き添ってあげようか)

 女性は彼の返事を聞くと視線を私に移して来る。その本気で心配する顔に私は目を逸らさずに頷いた。彼への心配に私も含めてくれているのが嬉しい。

 この後、彼が気分の悪さや痛みでライディングを躊躇うような感じがしたら、無理させずに病院へ行って治療させると心に決めた。

「本当に、酷い怪我をしなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」

 女性は、ぎこちないジェスチャーで安心させようとする彼への不安を、頷き返した私に『お願いするわね』の意を込めて、傍らの夫らしき男性へこの場から離れる事を促す。

「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」

 女性に促された男性は優しい別れの言葉を掛けてくれる。二人の言葉に頷くでもない彼は引き攣るような笑顔で立ったままだ。

(そうよ! ちゃんと聞いてんの? 可愛い私に怪我させないでよ。……でも、あなたは真っ先に私を逃がしてくれたわね)

「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺います」

 見ず知らずの私の突然の願いを聞き入れて、彼を助け出してくれた皆さんは恩人です。遠方の方だと御礼に伺うのは難しいかも知れないけれど、せめて御礼の葉書や品物を贈りたいと思った。礼を失ってはならない。

「うふふっ、恩人て、大袈裟ねぇ。名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」

 この人達にとっては、今の私達の……、いや、彼の不幸は当たり前に助けられる普通の事だったんだ。

「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」

 何気に爽やかな事を言ってくれた。助けを求められても、その行動を躊躇する人が多いのに、見ているだけの通り過ぎる人が多いのに、この人達は違っていて行動を起こしてくれた。

 この人達が救出してくれなかったら、他の助けてくれる人を見付けたり、電話して救急車が来るまでに挟まれていた彼の左足は折れていて、それはきっと、折れた脛骨が飛び出すほどの大怪我になっていたと思う。だから本当に、心から感謝致します。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 きちんと腰を折り、黙って頭を下げているだけの彼に、『感謝や御礼の気持ちを声に出して、ちゃんと伝えろ』って小突いて遣る。

「あっ、ありがとうございました」

 ハッと気付いた彼が慌てて顔を上げて大きな声で言う。

 車体の左右前後で点滅していたハザードランプが、発進を示すウインカーランプのチカチカと小刻みな明滅に変わり、動き始めて行く自動車の助けてくれた人達へ彼の声が届いて、『ちゃんと病院で診て貰うのよ』、『気を付けてな』、『無理して事故んなよ』、『彼女、彼をよろしく』と、彼ばかりか、私にも親身な言葉を残して行った。

「とても親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」

(全く、心配する言葉の通りだ。我を張らなくていいから。無理してカッコつけようとしないでよ。私がタンデムしてあげてるんだから、セイフティライディングして下さい)

 何処の誰とも知らない人達が、何処で何をする為の移動中だったのか、全然分からないけれど、その途中に時間と労力を使って、彼を……、私達を助けてくれた。

「ああ、本当に助かったよ。超感謝だね」

 彼の言う通りだ。察しに、思い遣りに、気遣い。助けた代償を何も要求せずに、優しい親切な言葉を掛けながら去って行く姿は、私達を感動させて感謝の気持ちで一杯にさせた。

(心から感謝です)

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 彼の返答を分かっているのに私は訊く。けれど、歩くだけで転けたり、オートバイに跨っただけで立ち転けしたり、痛みに耐えれなくて蛇行したり、休んだりしたらなら、直ぐにツーリングは中止させて病院へ連れて行こうと決めていた。

「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」

 言い終わらない内に彼の体がカクカクとブレて、ヘタヘタぺたんとしゃがむように其の場に座り込んでしまった。

 倒れてはいない。でも、今直ぐに挟まれていた彼の左足を診て貰った方が良いのではないかと、私は迷う。

「そう、全然痛く無いのならいいんだけどね。でも、もう暫く、あと三十分くらいは休んで行きましょう」

(『彼を、よろしく』って言われた以上、気遣いくらいはしなくちゃね。もう少しして、交通の邪魔にならない所へオートバイを移したら、熱い缶珈琲でも御馳走してあげるわ)

 それに私のドキドキする胸の動悸も、まだ治まっていない。

「……うん」

 私は、彼に付いた乾いた土の汚れを手でパタパタと掃って落とすと、ショルダーバックから取り出したアルコールテッシュでオイルの染みを拭き取り、彼が拭い残した顔の汚れも綺麗にしてあげた。

「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」

 そう言いながら、汚れ落としの終了と、『もう戻っていいのよ。足が痛むのでしょう。相模原の国道沿いのファミレスでもいいじゃん』って意味を込めて、両手でポンッと彼の肩を軽く押した。

「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから続きを走るから」

(くっ、鈍くて頑固で察しが悪いなあ。もしかして、意地になってんの?)

     *

 三月中旬に母といっしょに相模原市へ来た。受験の時に幾つかの物件を下見して一番気に入ったハイツを合格通知が届いた日に、電話で仮契約していて借りる事ができた。大学の在る通りの直ぐ近くなのに、まだ空いていたのはラッキーだった。『ハイツ』の発音は、少し小奇麗な高級っぽさをイメージさせてグレードアップした間借りみたいだけれど、実際の建物は鮮度が落ちた野菜みたいに色褪せた薄緑色の『アパート』の外観だった。

 不動産屋で手続きと挨拶を済ませて鍵を受け取ると、営業マンが車でハイツまで送ってくれる。

「ゆっくりと町を見ながら、娘と歩きたかったのに……」

 営業マンがセルモーターを回してエンジンを始動させる営業車を前にして、母が独り言のようにボソっと言った。

「お母さん、それは部屋を整理してからよ。どうせ、足りない物や必要な日用品を買いに出なくちゃならないでしょう。近くのスーパーや店の場所と、駅のショッピングセンターの品揃えも知りたいしね。それに、今日は外食にするんじゃないのぉ?」

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 萎びた野菜色のハイツの前に着くと、下見の時に『ここなのぉ~?』と思った印象を改めて感じる。それでも、バス停に近くて大通りから直接見えない立地と、リフォームされて住み易そうな内装が気に入って決めた。

 部屋に入って直ぐに、宅配便で届いていたダンボール箱を開いて中身をチェックする。送った全ての荷物の無事を確認し終えて、母と生活に必要な雑貨や家具や電化製品を近くのショッピングセンターへ行き買い揃えた。

 掃除を済ませた部屋に届いた家具を並べ電化製品をセッテングして、段ボール箱の中身を整理し、散らかしたゴミを片付けると、それまで簡単なリフォームをされただけの何も無いただの箱のような無機質な空間が、まるで生きているような暖か味の有る清潔な部屋になった。

 三月下旬に満開になった桜は四月の入学式を待たずに散ってしまった。母も私に一人で生活する術を教え、私の自炊力に安心して? 入学式が済むとさっさと金沢に帰って行った。

 初めての土地に一人で生活を始めて三週間。大学や自炊に慣れて生活リズムにゆとりが出て、ちょっとずつ生活テリトリーを広げている。

     *

(あっ、風が変わった。海の匂いがする)

 しがみついている彼の匂いに潮の香りが混ざって来た。さっきまで関東の街の臭いだけだった風に混じり出した、海辺の……、海が近い懐かしい香りを嗅いだ。

「……海の匂いがする。このまま行けば横浜の港だ」

 風切り音に負けないように、大声で彼が叫んだ。彼も気が付いたんだ。

「うん。私も……」

『私も分かる』と言い掛けて止めた。

「あはは、犬みたいね」

 私も大声で叫んだ。彼を大事にした……つもり。

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 ちょっとよろけながら彼はオートバイを路肩に寄せて停めると、フルフェイスヘルメットのバイザーを上げ、私に振り向いて頭を下げた。

「ごめん、道に迷った」

(あ~あ、潮の香りがしなくなったと思ったら、そうゆう事なの)

「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」

 さっきから微かに強まっていた潮の香りが消えて、湿り気の有る土や草木の臭いに鼻が擽られる感じだったから、違う方へ来ているんじゃないかと思っていた。

(えーっ、間違えていたのぉ。何、考えていたのよ? あんたぁ!)

 今、彼が何を考えているのか知りたいと思った。不甲斐さ続きで、きっとナーバスになっているのに違いない。でも、気分を害して意地悪な私は優しげなフォローを施すに彼を追い詰めて試す。彼の判断力、決断力、機転、気配り、そして男らしさを見極めたい。

「やだ、ここまで来て迷ったの? もう少しなんでしょう?」

 見上げる頭上の青地の案内板には至る地名が『戸塚』と、太い白文字で記されている。さっき線路を跨ぐ陸橋をグニャグニャっと左右に曲がり下りて来て、浜松町と表示された交差点を右に折れて来た。

『ガチン!』

 私の非難に彼は言い訳を言おうとしたのか、更に私へ顔を向けようとして互いの上げたバイザーが勢いよくぶつかった。

「ちょっと~、気を付けなさいよー」

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 彼がオートバイを止めた場所は、横浜港の大桟橋へ上がる坂道の袂。

 海辺に来て強まった潮風が肌寒い。東京湾から吹き寄せる潮風が、能登半島や加賀の浜に比べて潮の香りは少し薄いと感じた。それに僅かに生臭い。

「ここ、知らないわ」

 板張りの盛り上がり、港の背筋がゾクゾクする群青色の寒そうな水面、曇り空の下、光量不足の大気に視界に入る全てが艶消しの平面画みたいに映り、遠くの景色も湿った空気が霞ませている。大桟橋は国際航路の大きな客船が接岸するらしいから、坂の上に見えるバスロータリーらしき場所の向こうには何かしらの施設になっていると思う。

 天候の所為なのか、ちっとも楽しそうな場所に見えない。それでも、カジュアル雑誌の記事で此処にはパワースポットが在ると書かれていたから、たぶん、大桟橋を歩けば、楽しい気分になるかも知れない。

 だから、『嬉しい場所になるといいな』って、横でキョロキョロと辺りのロケーションを確かめている彼に、モチベーション・アップの声を掛ける。

「行こっ!」

 彼が動くのを待たずに、私は歩き出した。バスロータリーを横目でみながら板張りの坂道を上り切ると、其処は海へ伸びた砂丘の連なりのよう。ただし、砂じゃなくて一面の板張りだ。大きなうねりの板張りが砂丘を歩いているみたいで不思議に面白いと思う。足裏の感触は潜って纏わり付く砂じゃなくて堅い板だから歩き易い。

 左手には赤レンガ建ての大きな倉庫が二つ、確か、あそこもカジュアルなデートスポットのだ。そこなら、オートバイにタンデムした私達のスタイルでも違和感が無いと思う。

 右手には年季の入った商船みたいのが停泊していて、その近くには朱色のタワーも建っている。何か有名な観光スポットかも知れない。沖の方にはベイブリッジらしき白い大きな橋が見えて、その向こうに広く光る海面は青々と煌いていた。こちらへ近付いて来ているように見える晴れ間に、早く此処を照らして気分を一新させて欲しいと願う。

 挟まれていた左足が痛い筈のゆっくりした歩きに合わせて、右へ、左に、何が在って見えているのかと、少しアップ・ダウンの蛇行をしながら大桟橋の先端まで来た。

 途中、三つの塔が白い外郭ラインで描かれたビューポイントが有って、正面の曇り空の下、横に広がる横浜市街の奇妙で複雑なスカイラインの中に、幾つかの塔が、それぞれ独特な姿で競い合うように聳え尖っているのが見えた。それらの塔の三つはパワースポットか、パワーポイントだか知らないけれど、キング、クイーン、ジャックの横浜三塔とも見える場所が横浜市内の観光スポットに、三箇所在ると雑誌に載っていたのを思い出した。その三箇所全ての観光スポットで三塔へ祈れば願い事は叶うらしい。

(そっか、パワースポットって、これかぁ!)

 陽に照らされていない横浜の町並みのスカイラインは暈やけて、三塔のシルエットが探し難い。クィーンとキングの二つは直ぐに分かったけれど、小さいジャックは見え難くて二人とも確信が持てなかった。

(その一つが、ここ大桟橋だったんだ。願う場所は、それぞれの塔じゃなくて、三塔全部が見える観光地なの? なんかアバウトな感じね)

 チラッと三塔を一瞥しただけで私は願い事をしない。願掛けなどに興味が無くて、今も祈願や祈祷をするつもりはなかったのに。

(あっ、時々、神社や御地蔵さんにしてるわ……。そうそう、受験の祈願もしたっけ。あの時は金澤神社で彼を見掛けて絵馬を重ねたなあ。運命の赤い糸を意識したり、……なんてね。まっ、彼と私が無事に帰れますように、……彼は静岡のアパートへよ)

 思い直した私は立ち止まって、此処へ来る途中みたいな事が起きないようにと、三塔を仰ぎ見ながら心の中で御願いする。

 ビュースポットから先端へ歩いている間に待望の晴れ間がやって来て、辺りは明るく煌きだした。陽射しが透明にした大気は暖かく、太陽の匂いがする。

「ここは晴れてくれたな。暖かくなって良かった」

 大桟橋の先端の柵前に有る展望用の有料双眼鏡に凭れる彼が空を仰ぎながら言って、横目で私の様子を見る。

「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」

 厚い曇り空を、ぐるっと此処だけ丸く穴を開けたように青空が広がって、照りつける陽差しの熱がヘルメットや手袋を外した素肌にプスプスと突き刺さるように思えた。麗らかな暖かい風が海から吹きつけて来るけれど、時々、雲影から運ばれて来た冬の残りのような冷たい潮風が汗ばみそうになる肌を冷やして、ブルブルと首筋や背筋を勝手に震えさせた。

「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」

 聞こえた彼の感慨深い、独り言のような声に、私も同じ想いでいた。

「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方の透き通った蒼い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうかも、なぁんてね」

 そう言葉にしたくらい、陽射しの暖かさと眩しさは私に幸せ感じさせてくれていた。でも人生の半分も生きちゃいないと思うから、『まだ私達を召さないで』と願っている。

 大桟橋の先端で手摺りに凭れ掛かりながら見た海面は、春の柔らかい陽を受けてテラテラと艶めかしく反射する真っ青な眩しい光で満ちていた。

(この青々とした波も、綺麗!)

 大型護衛艦や最大級の国際クルージングの客船が接岸できる大桟橋周りの陽を受けた波の色は、能登半島先端の貝殻屑の白い浜に寄せるエメラルドグリーンの波や、立戸の浜の透明な水色の波とは全然違って、かなりの深さを感じさせた。

(ここじゃ、深すぎて彼を沈め倒したら、私まで溺れそう……)

 彼を刺し貫いて希薄なシルエットにしてしまう眩しさに手を翳して、蜃気楼のように春の霞に淡く暈やける白いベイブリッジを見ていると思い出した。

(どうして立戸の浜では、あんなに素直に話せたのだろう……。彼を否定していなかった。……だのに、今日は全然、話せていない……)

『ねぇ、どうしてだろう』って問い掛けるように、傍らの双眼鏡の処にいる筈の彼がいない。てっきりコインを入れて双眼鏡で行き交う船舶やベイブリッジを見ていると思っていたのに。

(痛む足で、何処へ行ったぁ?)

 ぐるりと辺りを見回すと、近くのベンチでへばっているのを発見した。

(いた! 上を向いて空を見てるん? ……ううん、寝てるの?)

 両手をベンチに付き、両足を投げ出し、仰け反るように空を仰ぎ見る彼は目を瞑って寝ているみたいだ。そぉっと、彼を起こさないように忍び足で近付いてみると、本当に鼾混じりの寝息を立てて熟睡していた。

 朝早くから遠くから運転して来て、更に知らない道を迷いながら此処まで辿り着いた。風は肌寒いし、私への緊張も有って、晴れ間の暖かさに疲れが出たのだろうと思う。だけど、私をほったらかしにして自分だけベンチで気持ち良く寝てるなんて、腹が立つ。

 すくっと立ち上がった悪戯心が彼を乱暴に起こしたいと行動させた。でも、勢いよく出した足は考え直して爪先が彼に届く前に止めた。

 彼は足を痛めている。だから、脛を蹴るとダメージが悪化してしまう。腿に踵落としをしても同じで可愛そうだ。なので、後ろへ回って痛めてない側の脇腹を廻し蹴りしてやった。

 一蹴り目、綺麗に入ったのに弱かったのか、グズるけれど、まだ寝ている。

 二蹴り目、今度はグッと回転を強めて同じ場所に決めると、グラッと傾いた上半身がグッと戻り、キョロキョロと動いた頭が私を見付けて、引き攣る顔の見開かれた目が私を見詰めた。

「ごめん。太腿を蹴るつもりが、脇腹に当たっちゃった」

『蹴ったのか?』と、彼に問い詰めれる先に、怒るかも知れない惚けた言い訳をしてみる。

「寝てたから、起こしてくれたんだ」

 以外に素直な反応に、悪戯気分が冷めてしまい、軽く逸らすような返事をして冗談を終わりにした。

「うん、そうよ!」

 蹴られた脇腹を摩る手に、バス事故で痛めていた場所だったのを思い出した。私を守って内臓を潰しそうなくらいに挟まれた彼の脇腹。去年の事故の時に治療もさせずに私は彼を連れ回していた。

(あの時は、ごめんなさい……)

「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」

 無理矢理起こされた事に、私が物足りなさそうに思えたのか、彼は近くのデートスポットへの散策に私を誘う。『向かい側の赤レンガ倉庫やミナトミライを覗こうか』、『大桟橋の袂の山下公園を歩いてマリンタワーや氷川丸へ行こうか』と。

(赤レンガ倉庫は、あっちに見えているアレだ。公園とタワーは、あの岸壁と向こうの朱色の奴かな? ヒカワマルってのは、たぶん、あのモノクロの記録映画に出て来そうなレトロな船かも?)

 彼が『遊覧船に乗ろう』とも言ったけれど、荒い波に揺られて気分が悪くなりそうだ。

 さっきだったらは彼の言う場所も『行っても良いかな』と思っただろうけれど、私は拘っていた。この季節、間に合わせのダサい真冬のファッションで、こんなトレンディーなデートスポットに来ると思ってもみなかった。だから今は、直ぐそこに在る雑誌を見て訪れてみたいと憧れていた場所へ行きたくない。それに寒くて軽い頭痛がし始めている。

「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」

 冷たく坦々とした声で彼に言った。

(日を改めて、もっと暖かい弾んだ気持ちで来ようよ。足はバイクじゃなくてね)

 この時点では、彼に少しがっかりしたくらいで、まだ次が有ると私は思っていた。

 免許取立てにしては、路面状態が読めなくてオートバイの下敷きになった以外は、しっかりと走らせていたし、白バイにスピードオーバーで捕まってタンデムも咎められたけれど、好い加速をしていたとスピード好きな私は思う。だから今のところ、減点は道に迷ったぐらいだ。

 大桟橋で天使の梯子に包まれた暖かさは、とても気持ちが良かった。次は陽溜り以上に暖かい季節に来て、もっと爽やかな感動をしたいから、また此処をいっしょに歩きたい。

 手が届かないくらいの距離を空けて、彼の横を彼に合わせてブラブラとゆっくり板張りの床を戻る。右側から板張りの丘のような大桟橋へ登ったから、左側へ降りるコースで歩いて行った。

     *

 スムーズに入れた一号線は、川崎方向に向うような間違いをしていない。彼はちゃんと来た道を覚えていた。頭上の大きな青い案内板に『町田・八王子』の白文字が並んで描かれている。次の交差点を右折すれば国道十六号線になり相模大野まで一直線で帰れる筈だ。でも彼は曲がらずに交差点を過ぎて行く。

「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないのぉ?」

 案内板や標識に気付かなかったのだろうか? 見ていても何処か知らなかったのだろうか? 今度は何処まで行って、どうやって相模大野へ戻るのだろうか? 彼は同じ過ちを繰り返している……。

 まだ寒さが残る季節の冷えた大気の曇り空の今日、防寒に有り合わせの普段着を着込んで彼のこの大きなオートバイに乗るつもりはなかった。寒さに震えながら辿り着いたのに、戻るのに来た以上の時間が掛かるのは腹立たしい。

(あなたのノウミソをジャブジャブ洗ってあげれば、もっとしっかり察して、ちゃんと私を気遣ってくれるようになるかしらね?)

 鼻水が垂れて来るくらい凍えるのは勘弁して欲しいと思った。いつ雨が降ってもおかしくないような雲で覆われた日に、普段着姿の彼女をタンデムさせたツーリングなんて有り得ないでしょう。

(また、迷っちゃうの? ねぇ、こんな大きなオートバイに乗っているのに…… もっとしっかりしてよ!)

 道を間違えているのを諭そうと、彼のヘルメットをコンコンと軽く小突く。

「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」

 そう、ヘルメットを小突いた私の不安を察して答えながら次の交差点で曲がり、相模原の方向へハンドルを切った彼は穏やかにオートバイを走らせて行く。

(なんだ、気付かなかったんじゃなかったんだ。そっか、ちゃんと大事にされてたか……)

 大桟橋への行き帰り、彼の広い背中が四月の肌寒い風を遮って私は寒くなかった。戻りは何処を走っているのか、さっぱり分からなかったけれど、後ろから彼のウエストへ両手を回して抱き着くように体をくっ付けていると温かくて、フルフェイスヘルメットを被った頭も靠れ掛けると、うっとりと眠りそうになるくらい頭痛も薄らいで安心した気持になった。

     *

 いくつかの信号待ちの停止とコーナーを曲がる揺れに身を任せて浅く眠っていた私は、ギアシフトを下げて減速した走りが続くエキゾーストサウンドに気付いて瞼を上げた。

(此処は何処?)

 寒くないように走るって言っていたのに足が冷たい。エンジンやエキゾーストパイプからの熱で足の内側は温かく感じていたけれど、朝より曇の厚みが増して来ているのか、空気が行きよりも冷たくなっていた。走行するオートバイが切り裂く大気は冷たい風となって両の足の外側を凍えさせている。

 見慣れない通りを彼はゆっくりとオートバイを走らせていた。駅裏の商店街っぽい通りを進んでいる。まだ来た事は無いけれど、たぶん、相模大野駅の南口付近だと思う。

「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」

 路肩に寄せたオートバイを停車させてギアをニュートラルにすると、彼は先に降車させた私へ顔を向けて、そう言った。

 それから、サイドスタンドを立て、エンジンを切る彼と饂飩屋や通りの様子を眠気眼で見ていた私は、『えーっ、ここなの』って驚きに、悴んで地に着いている感覚の薄い足が無意識に動いた後退りは背後のオートバイに阻まれた。

 ジーパン越しに触れる脹脛が温かい。一秒……、二秒……。

「あちっ!」

 あまりの熱さに体が一歩分前に跳ねた。眠気は吹っ飛び、一瞬で目が覚めた。脹脛が触れていたのは目玉焼きが作れるくらいに加熱されたエキゾーストパイプ、所謂マフラー、排気管だった。

(うーっ、なんでこんな目に遭うわけぇ。楽しみにしていた折角の今日は、ほんと厄日だわ!)

 翳り行く気分にぐちゃぐちゃに絡まる埃塗れの運命の赤い糸は、憤りで瞳に滲む涙で流して遣りたい。

 直ぐにGパンの裾をズリ上げて見た脹脛の熱かった部分は丸く赤味を帯びて、見てる間にヒリヒリと痛んで来て赤さが濃くなった。これは暫く痛みが続いて痕が残りそうだ。面積が広いから、たぶん、グチグチして治りが遅いと思う。

「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう!」

 擦り剥いたような痛みは耐えられそうなので、彼に『痛い』と知らせない。

「ごめん……」

 私の不注意なのに、彼が謝った。

(ここは、謝りの言葉よりも、『大丈夫』って心配が欲しいのに!)

 少しの距離でも走行すれば、エンジンとマフラーが素手で触れられないくらいの高温になるのを、御里のジレラ君で知っている。ヒリヒリする痛みがジワジワと強まる不快感を黙って耐える私は、彼の勘違いな『ごめん』に返事をしてあげない。

 無事に相模大野へ戻って来れたのに、気の緩みで火傷した自分が恨めしい。

     *

 私が後退りしたのは、『うどんや』と書かれた暖簾が下がる大衆食堂。食品サンプルが並ぶショーウインドーのメニューには、蕎麦や酢豚にラーメンやカレーライスのイミテーションも置かれていて、決して饂飩専門店ではなかった。夏季(六月から十月)限定で『冷やし中華』『冷やしうどん』『そーめん』『ところてん』が別枠になって、『ざる蕎麦』はオールシーズン側だけど『冷麦』まで並んで有った。どれも私好みで嬉しくてこの店を良く利用したいと思う。でも今、彼にツッコミを入れるのはメニューじゃない。

「……ここで、お昼…… 食べるの?」

 今日はトレンディなメジャー処は無理っぽいけれど、『もうちょっと、コジャレたカフェなんて無かったかしら』と、暖簾をくぐる前に通りの左右を眺め廻しても、それらしい店の看板や広告は見付からなかった。

「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも食欲ない?」

 なんか、ズレた返事にされたと思ったら、続けて更にスベる事を彼が言う。

 大桟橋で彼の後ろに乗った時には、何処にも寄らずに相模大野の駅へ来て、直ぐにお別れするつもりだったのに……。

 早く自分の部屋へ戻って炬燵で熱い御茶を飲みながら、明千寺の御婆ちゃんが送ってくれた能登の笹乃雪と味噌饅頭を食べて、ぬくぬくごろごろしながらテレビを観ようとしていたのに……。

 店の前に漂う美味しそうな匂いと食欲をそそるリアルなイミテーションに、『彼と一緒のランチでも良いかな』と思ってしまう。

「あっ、支払いは僕だから、何でも好きなの言ってよ」

(だよね。もちろん、勘定はあなた持ちよ!)

 最初に代金の支払いを言うなんて、ランチが大衆食堂に確定しそうなトークで、げんなりした気分に彼のデリカシーの無さが追い打ちをかける。もうツッコミを入れる気も失せて、このガッカリ感は、『不甲斐無い、あなたの所為?』、『堪え性の無い、私の所為なの?』って彼に問い質したい。

 今日のデートは最初に彼が誘ったのだから、彼がセッテングすべきだったのに全くの無計画だった。私に会いに来ただけで何処で何をするかも考えてなかったし、デートスポットの情報すらも調べていなかったのは明らかに彼のセッテングミスだ。

(でも、それを予想してのフォローを、私がしなくてはいけなかったんだろうな……)

 でも、でもでも、私は今日のバッドセッテングを全部、気配りも、気遣いも、自己中心的な彼に所為にしたい。

「僕はカツ丼にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長やお多福で良く食べてたんだ」

(うっ、そう来るか……)

 お昼は想定外の饂飩屋さんで、ずっと曇り空の肌寒い中を走って来て結構、肌が悴んでいる筈なのに温かい饂飩や蕎麦じゃなくて、丼物の王道のカツ丼を彼はオーダーすると決めた。

(そうね。確かに饂飩やお蕎麦や丼物は、お多福や加登長で食べていたし、よく出前も取っていたっけ)

 中学生の頃からだったか、外食は洋食が多くなってファミリーレストランへ文字通り家族で良く食べに行っていた。だから、丼物の玉子丼、親子丼、他人丼、天丼、カツ丼は、懐かしい感じがする。

(丼物みたいなハワイルーツのロコモコは、ファミレスだけどね)

「それじゃあ、私はカレー南蛮にしよおっかな。蕎麦じゃなくて、饂飩で御願いね」

 本当は、カレー専門店のカレー饂飩が好きなのだけど、『かれーうどん』は蕎麦屋さんのが元祖みたいだし、しかも蕎麦ではなくて饂飩ベース。

(カツ丼に対抗するのはカレー饂飩というか、カレー南蛮でしょう。天丼じゃダメよ! それにカレー

は好きだしね)

 彼のカツ丼に圧勝するのは、鴨肉と長ネギが入いるカレー南蛮しかないと、咄嗟に思い浮かんでオーダーした。

(たぶん、南蛮の肉は値段の高い鴨じゃなくてアヒルの合鴨だと思うけれど、大抵は好い味に仕上がっているんだ)

     *

「いただきまーす」

 食事前に手を合わせて唱える感謝の言葉は彼とハモってしまい、些細な日常の習慣のシンクロが照れ臭くも新鮮に思えた。けれど、モヤモヤ気分の今は腹立たしい。

 割り箸を二つに割ってカレールーを絡めた饂飩を一本摘み、ふぅふぅしながら口に入れる。

(おおっ! けっこういけるじゃん!)

 十分ほど待ってカツ丼といっしょに届いたカレー南蛮は、昔ながらの饂飩屋のカレー饂飩と違っていたけれど、なかなかの味だった。よく煮込まれて柔らかい合鴨の切り身が美味しくて、これからも時々来ようかと思う。

 丼を手前に寄せて、ぐぐッと丼の縁へ髪の毛が入らないように顔を近付けたら、カレールーが絡む一、二本の太い麺を短く摘んで持ち上げ、ルーが飛び散りる麺尻の撥りに気を付けながら噛み切って食べる。決して啜ってルーを飛ばすような事はしない。

 食べている姿は上品に見えそうにないけれど、服を汚さずに美味しく食べる為だし、それに、この方が良く味わえる。

 向かい側の彼に、こんな犬食いスタイルの私はどう映るのだろうと、食べながら彼を見る。掴んだカツ丼の丼を口へ近付けて仰け反るように食べていた彼は私を見ていた。箸の動きが止まって暫し丼の縁越しに彼の上から目線と、私の上目遣いが見詰め合う。

 カツ丼を食べる彼が御箸の中程より先端近くを握ってるのを見て品の無さを感じた。それに持ち方も変で、持つというより握っている。なのに器用に扱い慣れている様は、私を愉快にさせて嫌悪の言葉を口にするのをやめさせた。

(『まるびー』では、スプーンやフォーク、それにナイフも慣れた手付きで使っていたじゃない! なんで、箸だけそんな持ち方するのよ! ふつう、自分で気付いて治そうとするでしょう。おい!)

 呆れと蔑みの笑いで片方だけ吊り上がる口の端を隠すように私は、粗方の麺と具を食べ終わった丼を両手で持ち上げて、底に残ったカレールーを飲む。汁底に溜まる箸にも掛かり難い麺や具の切れ端を残った最後のカレールーと共に、全て口に掻き込んだ。

『おっさん臭い』と、彼から突っ込みが入るかなと、口に被り当てたままの丼の脇から覗いて見た彼は、既に綺麗さっぱりと平らげたカツ丼のどんぶりを見詰めていた。

 空になった丼越しに見た彼は、食べ終えた満足感からなのか、『ふぅー』っと、溜め息を吐いている。出て行く息の音が吸い込む音に変わり、彼は更に長くて大きな溜め息を吐く。二度目は気持ちを落ち着かせるように、迷う気持ちを一つに定めるように『ふうーー』っと、息を吐いた。

 そして、意を決したように横の椅子に置いていたディーバックから、緩衝材で包まれた小箱を取り出してテーブルの上に置いた彼が言った。

「ちょっと作ってみたんだ。久々の新作だよ」

 彼は小箱から緩衝材を除け、柔らかく丸められたティッシュペーパーが詰め込まれた中からショートケーキみたいのを、そっと掴み挙げた。

「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」

 中学生の頃から彼に美術の才能が有るのを知っている。ワザワザ持って来て私に見せ付けるだけの事は有って、ブラウン系のパステルカラーのショートケーキっぽいソレは、きっと、トレンディマガジンに載った写真で見たワイン畑のシャトーや山岳地帯の砦のミニチュアだ。

「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」

(どうかなって訊かれてもねぇ。上手じゃんとか、凄いとか、可愛いとか、そんな在り来たりの感想を聞きたいのだろうか?)

 本音の『詰まんないね。そんなモノ持って来てどうすんの? 私いらないから』なんて、言いたいのを我慢して惚けてみた。

「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」

 着色した色の所為か、食べれないのに美味しそうに見える。

「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」

 私の惚けがウケたみたいで、嬉しそうな笑顔で言いながら、彼はミニチュアを自分の前から私の真ん前へ置き直した。

「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサバランかな。金沢市は、小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」

 あの店はアップルパイも美味しい。サバランとアップルパイは家族みんなが大好きだから、時々、高校の下校時に小立野のバス停で降りてを買って帰っていた。

 お菓子のお城みたいのを見たら、食べたくなって来た。

(サバランも、アップルパイも、今、食べたい……)

「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」

(むっ! 食べるわけないじゃん! それくらい分かるわよ!)

 彼の詰まらないジョークにイラッと来るけれど、ここは大人なの対応をしてあげよう。

「ふーん。良くできているじゃん」

 実際、良く出来ていた。細部も、全体も、中世の小領主が守りを固めて住んでいたような雰囲気が出ている。

「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」

 彼の絵や造形の作風は好きだけれど、ワザワザ私の為に作ったというミニチュアのオブジェは、『これを見る度に僕を思い出してくれ』の意味だろう。感じる負担に、モチベーションが下降して、私はくすんだブルー色に染まりそうだ。

(プレゼントって……、これなの~)

 気持ちがふて腐れて、赤と青の縞模様の旗を弄っていた指に力が入る。『パキッ!』。

「あっ!」

(やっちゃった)

 旗竿が根元から折れて、丁寧に彩色された小さな燕尾旗はテーブルの端まで飛んで行った。館の旗がひとつ無くなって、微妙に全体のバランスが悪くなった。

(これ、ちゃんと考えて作ってあったんだ。……ワザと折ったように見えたかな)

「ごめん! ごめんね」

 一応、萎らしくあやまった。彼は『気にしない』とか、『壊れ易い物で、ごめん』とか、言いながら目が悲しんでいた。

「持ち帰って直してから、また持って来るよ」

 それは駄目。次にまた、今日のパターンを繰り返すのは嫌。オートバイは寒いし、白バイに追い駆けられて捕まるし、道に迷うし、転げて助けを呼んだし、デートのランチに饂飩屋でカツ丼を食べる男も嫌だ。

「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」

 彼は『壊れたままでいいの』って顔をしている。

 悴む手足、凍える体、吐き気までして来る頭痛の響き、兎に角、もう寒いデートは嫌だ。

(しょうがないじゃん。わたしが折ったのだから。それに、当分は会いたくないし)

 曇り空は憂鬱で肌寒くて、雨は身体と心を芯から冷たくさせてしまう。だから、風が暖かくなる六月の晴れた日まで、今は君と会いたくない。でもそれは、私の気持ちが寂しさと不安に苛まれ、君への愛おしさが復活してからだ。

 私が壊した作品を、彼に持ち帰えらせて修復して貰う。そしてまた、私へ渡しに来て貰う。これは私に非が有って、私が依頼した事になる。だから、修復品の受け取りを拒むような誠意が無い態度はできない。

 それは、誠意の無い裏切りの態度を執れそうもない私が、彼にリベンジデートの機会を無期限で約束する事になってしまう。

(やっぱりメールだけでいいわ)

「折れた旗は、今日の記念になるしね」

 彼の顔が明るくなって、悲しく泳いでいた目が笑った。

(たぶん、あんたと逆の意味の記念だから、デートセンスが無い男との初デートのね)

 ミニチュアの城館を入れてきた小箱へ戻した彼は、次にスーパーマーケットのレジ袋とは違うレトロ感覚なセピア色の紙袋をバックから取り出して、テーブルの上に置いた。

 『ゴトッ』っと、重さを感じさせる音を立てて置かれた日焼け色の紙袋を見ながら、落ち着いた声で彼が言う。

「それと、これもプレゼントです」

(……何か分からないけど、受け取りを拒みたい)

「何これ?」

 紙袋を傾けると、中からゴロリと黒色の四角いトランシーバーみたいのが、転がり出て来た。咄嗟にヤバイ物だって直感するけれど、危険なモノほど面白いくて興味が湧く。

(おおっ! これ、映画で見たこと有る。電撃を喰らわすヤツで、人が気絶するんだ! マジ、ホンモノなの?)

「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」

 手にとって掴み具合をみながら、パワースイッチを探す。グリップのパコパコするのは通電スイッチで、押さえたら電撃だと思う。

(ちょっと大きいな。しっかり掴んでいられるかな? っていうか、なんで、これがプレゼントなの?)

 セカンド・プレゼントが無骨な品で戸惑うけれど、彼の意図は理解できた。これからは朝のバスの彼はいなくて、自分の身は自分で守るしかない。これは其の為の護身グッズなのだ。

 私を心配してくれる彼に感謝の思いを抱きながら、パワーオン。そしてパコパコを押してみた。

 『バリバリバリバリバリッ!』

 いきなり、ダンボールを勢いよく引き裂くような大きな音がして、見の前で弾ける青白い光の輝きに驚愕して、『きゃっ!』という悲鳴も出ない。

 店内のお客さんは食べるのを止めて、店員さんは動きを停めて、全員が一斉に振り向いて私を見ている。ちょっち恥ずかしいけれど、彼のプレゼントは面白そう。

「危なくないの?」

 いっしょに驚いていた彼を尻目に、グリップから手を離してパワーをオフにする。

「こんな所で放電させたらダメじゃん。そりゃ、危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」

 彼の『火傷』の言葉に、食事とグッズで紛れて小さくなっていた脹脛の痛みがヒリヒリと強くなって来るのに苛付きながら、訊いてみる。

「この痛みを、あなたは体験しているの?」

 『経験済みなら、いいかな』と、彼の手にサラっと押し付けてバチバチさせようとしたら、素早く手を引っ込められた。

「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力を知っておかなくちゃね」

(ズキズキして、私の脹脛の痛みを知ればいいのに)

 危なくスタンガンが触れそうなった手を摩りながら、彼は真顔で私を窘める。

「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうぜ」

 『なによ! その偉そうな口の利き方は!』と言い返しそうになったけれど、これは八つ当たり気味な私が悪いと自覚している。でも指先は無自覚に反応してスイッチを押してしまう。

 再び、バリッ、ババッ、バリッと一センチメートルはど離した二つの電極を青白いスパークが繋げた。

 それは一瞬の輝きと響きだったけど、店内のお客さんと店員さんが再び振り返って私を見た。危険な護身用ツールのスタンガンを持つのが可憐な乙女の私でなかったら、直ぐに店員さんに注意されて警察へ通報されそうだ。

 でも、何もトラブっていない私達を見て、皆さんは元の向きへ戻ってくれた。でも三度目は許して貰えないかも。

「それと空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」

 『僕は無関係』みたいな感じで、注意事項を上から目線的に語る彼は詰まらない。けど、受け取りを迷うフリをするスタンガンは気に入った。私を守るのに頼りになりそうで楽しめると思った。

「面白そうだから、これも貰っておくわ」

 無骨でデリカシーが感じられないプレゼントだけど、私を案じる彼の気持ちは伝わって来ている。

「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃダメだぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」

 中学校の一年生の時だったか、理科の授業で静電気を体験する実験が有った。化繊の服を脱ぐ時のパチパチや金属のドアノブに触れる瞬間のバチッと来るくらいのじゃなくて、雪が降る冬の乾燥した部屋で実験機器が起こしていた静電気は、このスタンガンのスパークほどの太さだった。

 十人づつ手を繋いで輪になって端の子が電極に掴む。、そこに発生させた静電気が輪になった十人を一瞬で通り抜けて行った。

 予期せぬ異質な衝撃が手の指先に来て、熱い物が触れた時みたいな無自覚の反射的な拒絶は、繋いだ皆の手を離れさせて輪がバラけてしまった。静電気が入って抜けた両手の掌はビリっと痛み、特に指先がジンと痺れたように痛みが暫く残っていた。

 バチンと来た実験でのショックは、家でスイッチをオンにしたままのライトスタンドで感電した時の、たぶん、プラグを握った手の指が挿し込む金属板に触れていて、コンセントへ押し込んだ際にビリビリっと気持ち悪く流れて来た百ボルト電流よりも、ずっと強かった。

 だから電気は危険だと知っている。たぶん、スタンガンの電撃は、気持ち悪い百ボルトよりも、痺れて痛い静電気よりも、遥かに激しいショックだと思う。

「分かっているわよ」

 彼が体の何処に放電させてドーンと来る痛みを体験しているのか知らないけれど、手や腕ぐらいなら再度の体験も有りだろうと、スタンガンを彼に近付けながら、私の一人暮らしを心配する彼に一応の礼を言う。

「ありがとう。心配してくれて」

 強力な護身用アイテムをくれた彼の心遣いが嬉しい。楽しめそうな武器になりそうだけど、使う時は命懸けの悲惨な状況かも知れない。絶対に楽しむどころじゃないだろうから、感謝はここまでだ。

 彼が遠くに離れている私の身を案じてくれているのなら、『どうして、この相模原市や近くの町田市辺りに就職しなかったの?』と、愚痴って責めてしまいそうになった。

 だけど、彼には静岡の会社で遣りたい事が有って、それが納得できるまで続けたいのを私は知っている。彼は遣りたい事の見極めと習得が、私を含めた人生の幸せになると思っている。『生活の糧も無く、自分に幸せの当てが無いのに、君を幸せに出来る訳がない』と考えているのだろう。

 だから、『重いスタンガンは、君に負担になるけれど、今は、それでしか君を守れない』って意味なんだ。

「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう食べ終えたの?」

 平らげたカレー饂飩の器を見せながら、私は彼の食べ終えた空っぽの丼を覗き見て、ワザとらしく訊いて遣る。

「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」

 食後のコーヒー……。彼は二人の時間を長引かそうとする。

(早く帰りたいって意味で、『食べ終えたの?』って訊いたのに、察しろよ!)

「いらない!」

 お腹が満たされて眠気が纏わり付きだした私は、今日の様々な出来事への苛付きも加わって言葉尻を強めてしまう。

(ねぇ、今日は、もう御仕舞いにしない?)

 用意していた言葉は、柔らかく御願いして優しく言うつもりだったのに、拒絶する本音の感情が強い声で言い切らせてしまった。

「なら、これからどうする? ここが嫌ならサテンに移ろうか? それともゲーセンへ行こうか?」

 彼の言葉に気持ちは揺れないし、弾まない。四月の雨を含んだ曇り空の下で冷たい風に吹かれていた所為なのか、気だるくて身体が疲れているのに気が付いた。

(もう何処へも行きたくないな。早くハイツの部屋へ帰って炬燵でぬくぬくと眠りたい)

 出そうになる欠伸を噛み殺しながら、目の前にいる彼の存在を薄い意識にして行く。

「……ゲームセンターも、喫茶店にも、行かない。だいたい、場所知ってんの? 私は知らないわよ!」

(この町に住んで日が浅い私と初めて此処へ来た彼は、お気軽に入れる店を一つも知らないから、何処で何をするにしても、その大きなオートバイにタンデムして寒空の下を探し回るのでしょう。なら折角、カレー南蛮で温めた身体が、また冷えちゃうじゃん。だから行きたくないの)

「知らないけど、走りながら探そうかと思って……」

 申し訳無さそうに首を横に振ると彼は少し俯いた。私の上から目線的な角度で見る彼の表情は、二人が楽しめる新たな思案をしているようにも、自分の提案の強行を迷っているみたいにも思えて、直ぐには妥当な判断が出そうにない。

 お昼時間は過ぎて大半の客が帰った店内は私達と一組の客だけになっていて、チラ見した腕時計の針位置が、お店の午後の休息時間に入っているのに気が付いた。

「それは嫌。……行かない。もう何処へも行かない。帰る!」

(今日は、もういい)

 彼を明るい陽の有る内に静岡へ帰らせるなら、あと四時間。晩御飯までのつもりなら、まだ六時間はいっしょに居られるだろうけれど、この肌寒い季節の雨が降りそうな長い道程は心配だ。そして、何よりも今日は、これ以上一緒に過ごしたくなかった。

 黙って御昼の勘定を済ませた彼は、ミニチュアが入った小箱とスタンガンの包みをショルダーバックに仕舞っている私を見て親切心で言う。

「……分かった……、送って行こうか?」

 険しくなる目付きが自分で分かった。カレー饂飩を食べて漸く温まった体が冷えるのは嫌だ。たぶん、歩いて帰った方が温まったままで部屋へ着けるでしょう。

「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」

 ショルダーバックを肩に掛けて店の外へ出ながら彼の気遣いを私は断る。不首尾な今日に更なる不測の事態が加わらないように、私は防壁を築く。

(早く一人になりたい……)

 笑わない眦の作り笑いを添えて、彼に気付かせる。

「ああっ、ここで別れよう。僕も陽が傾かない内に帰るよ」

(ぜひ、そうして。早く帰ってよ!)

 軽く小さく頷いてみせた。私の気持ちは理不尽に苛付いている。

(お互い、今日は初っ端から躓いちゃったわね……)

「さようなら」

 私は言葉を迷わない。シンプル イズ ベスト!

 帰りの道中や体調を心配する言葉の『暗くなると危ないから、寄り道せずに帰ってね』とか、『事故らないように気を付けて』や『風邪、引かないでよ』も、イジイジ、ウズウズするこの時間を、ちょっとでも早く切り上げたい為に、ワザと別れの言葉に添えない。

 でも、溢れる母性本能で気になる私は心の中で呟いてあげる。

「次は……!」

(あっ、やめて! それ以上、しゃべらないで!)

 急いで右手を胸の高さへ上げて広げた掌を彼に向けて、ぎこちなく左右へ小さく振った。それから、首を少し右へ傾げて顎を少し上げ、口許を微笑ませながら笑わない眦でジッと蔑むように見詰めてあげた。

(ごめんね。次回を考えられないし、考えたくもないの。だから今は大人しく、何も足掻かないで速やかに帰って)

 オートバイのエンジンを掛ける彼に、ずっと小さく手を振りながら、無理に帰りを急がせた後ろめたさが映画は観に行っても良かったかなと思わせた。

 映画なら少なくとも上辺の共有できる価値感を見出せて、この失望感をカバーしてくれると思う。でも、観たい映画のジャンルは違って、感動や興奮するポイントもズレていて、観終わった後の感想と会話が噛み合わなかったら、増幅した違和感が残るだけ。

 それに映画館の場所も知らないし……、スマートフォンで探すのも面倒だし……。彼は喜ぶかも知れないけれど、今はそこまでして観たい映画は無かった。だから、もういい。

     *

 歩いて来たから温もりが少し残っていたけれど、それが手足や首筋から急速に薄れて冷たくなって行くのを感じながら、私は部屋のドアを開けて大きな溜め息を吐いた。

 戻ったハイツの部屋は一度出掛けて直ぐに戻り、そして再び出掛けた時のままだった。

 手前の靴箱の扉は開けっ放しで、中の白いショートブーツやスニーカーが玄関の床に散らかっている。グレーのロングブーツは靴箱の中で倒れて、片方は床に落ち掛けていた。少しはセクシーにと考えて買って、玄関の隅へ寄せて置いた薄皮のニーハイブーツの一方なんかは、部屋の上がり際に鈍い黒の輝きで長々と無造作に伸びている。私が再び出掛けた際に玄関先をこんなにしてしまっていた。

 部屋の中はもっと酷い。整理途中だった冬物ファンシーケースの中身は全部ブチ撒けられて、部屋中にセーターやジャケットやロングスカートなどの冬物衣類が、まるで空き巣が物色した後のように散乱していた。戻って急いで防風防寒衣類を探した結果だ。机の椅子も部屋でいつも羽織っているドテラを掛けたままの状態で倒れている……。

(出掛けに大きな音がしていたのは、これか……)

 片付けもせず急いで部屋を飛び出した時のままで、がさつで面倒臭がりの私の性格が良く分かってしまう。

 結局、スキン物やスキーウェアは持って来ていなくて、今着ている服を探し出すのにこんな状態になってしまった。冬物の下には春物衣類が並べたり脱ぎ捨てられたみたいに有った。一度目のお出掛け時に選ばれなかった服達と、戻って着替えた時に脱いだ物だ。

 壁のフックに一つだけ、きちんとスカーフを掛けたハンガーが吊られていた。掛けられたスカーフはお姉ちゃんから貰ったのと色違いの、中学二年の終わりの日に彼からプレゼントされたモノだった。今日の彼とのデートの為に初めて使う思い出の品で、ファッションは全てスカーフのカラーに合わせていた。彼がスカーフに気付いたらイタリアでの出来事を照合しようかと思ってして行ったけど、着替えに戻った時は最初に首から外して丁寧にハンガーへ掛けたまま、忘れていた。

 苛付いた。今日の残りは全て衣類と部屋の整理と片付けをしなければならない。

(ううっ、面倒くっさぁー)

 自分でしてしまった事だけど、こんな部屋にしてしまった今日に腹が立つ。この腹立たしさといらつきは私の所為じゃないと思う。

(これは私じゃない! 全然、すっきりしてない。火傷はするし……、寒かったし……、上手くいかなくて気持ちが悪いのは、全部、彼の所為よ……)

 肌寒さを感じてリモコンでエアコンのスイッチを入れる。エアコンから温風が吹き出すまでスイッチを探しながら潜り込んだ電気炬燵は既に熱くて驚いた。ルーズな仕度で待ち合わせの時刻が迫り、急いで出掛けた私は炬燵を消し忘れていた。しかも熱いのは温度調節を強設定にしていたからだ。これ以上はサーモセンサーが感知して発火する事は無いと思うけれど、乾燥しきった炬燵の中が焦げ臭く感じて気持ちは焦ってしまう。

(やばかった~。炬燵を消し忘れているじゃん。しかも熱くしたままで……、夕方辺りに帰ってたら焦げるくらいの小火になっていたかも。……もしかして、帰りが夜でもなってたら、ハイツは全焼で周囲の家も半焼して、死傷した被害者もいて、消防車と救急車とパトカーだらけの野次馬も一杯で、住まいと持ち物が全て灰になった私は大混乱。そして、火元が私の部屋の炬燵だと後刻知らされたりして半狂乱のパニック。……って、もう、めっちゃ最悪になるところだったじゃん!)

 熱い御茶を飲みながら、笹乃雪と味噌饅頭で『ぬくぬくほのぼのぉ~』なんて気分に全然ならない。

 高温の炬燵もあいつの所為にして遣りたいけれど、全くの私のミスだから反省するしかない。

 冷たいGパンとパンストを脱いだ素足で熱い炬燵へ潜り込む。温度を下げて心地良い温かさになって行く炬燵の中が気持ち良くて、浸る『とんでもない大事にならなくて良かった』の安堵の思いと、冷えて疲れた身体の緩く解されて行く感じが眠気を誘う。エアコンから吹き出されて来た温かい風が顔に当たり、大桟橋の暖かな陽溜まりの気持ちの好さを思い出そうとしながら瞼がくっついて行く…… が、温かさに血行の良くなった脹脛がヒリヒリと痛んで眠れない。

 ヒリヒリする脹脛を炬燵から出して見ると、あいつのオートバイの過熱したマフラーに触れたところが五百円玉よりも少し大きい円形で赤くなっていた。赤色よりも紅色に近い表面は血が滲み、触わるとベロリと捲れて血だらけになりそうで、これは触れずに乾燥させて瘡蓋に覆わせるしかないと思った。

 全治一ヵ月半くらいの火傷傷を保護する為に、救急箱の中からワイドサイズのバンドエイドを選んで貼って、更にフットウォーマーで断熱と遮蔽をする。さっきまでのヒリヒリ、ジンジンしたイジイジ感は炬燵に入れても薄れていて眠れそうだ。

(あーん、気持ちいー。もう寝ちゃうわ。片付けなんか起きてからでいいや。中途半端に起きた時も…… 私はうんざりした気分で愚痴りながら、深夜の片付けをしているんだろうなー)

 目を閉じて、そんな止め処も無い事を想像しながら私は眠りに落ちていった。

(……じゃなくて)

 あの真夏の立戸の浜が心地好い記憶で残っているから、今日はちゃんと二人で会う日を決めいた出会いの春の日の、あの楽しくて嬉しかった夏の日の再現を約束されたデートになるはずだった。

(なのに、この、テストで全部の科目の山が外れて赤点だらけになったような、羞恥で禍々しい気分の悪さは、どうなのよ!)

 気分が全然すっきりしない。時間が経つほどに面白くない暗く重い気分が粘り着いて来る。大桟橋や彼の背で嗅いだ太陽の匂いを思い出したいのに、排水口からの悪臭が鼻の奥に絡み付くような気がするのと、グラウンドに白線を引く石灰の粉が入ったみたいな口の中のパサ付く感じで、軽い吐き気がしていた。風邪の引き始めかも知れない。

(そりゃぁ、あいつも、あいつなりに楽しいデートになるのを期待して、ジレラ・ランナーを乗り熟すくらいの私だから、タンデムでツーリングすれば喜ぶだろうなって単純に考えていたんだと思うよ。でもでも、朝から全然、ツーリング日和じゃなかったじゃん!)

 強引にタンデムを拒んで電車に変更したとしても、二人のファッションセンスは少しもマッチしていなくて、外見的にも拘りたかった私には、とてもアンバランスな感じで全然いけていない。

(いくら知らない人ばかりの場所でも、輝けていないのは嫌だ! ぐすん……。折角の初デートだったのに、情け無いな……)

 そう振り返ってしまう今日の忌々しさに涙ぐむ目と頭は冴えるばかりで、全然寝付けなかった。

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 小雨が降り出した夕方に『無事に静岡のアパートに着きました』と、あいつからのメールが着信した。時間的に高速道路ではなくて国道で帰ったのだろう。箱根の山越えをしたのか、富士山の裾野周りをしたのか、知らないけれど、トラブル無く帰れたようなので安心した。もし、事故っていたら、半強制的に帰らせた私は責任を感じなければならないところだ。

 なのに私は『無事に着いて安心したよ』や『寒かったから風邪引かないでよ』や『雨や霧で転がらなかった?』の、あいつを気遣う返信を、相模大野の駅前であいつを見送っていた時と同じで、今もまだ優しくなれない私は打ち込む気にならない……。

(……明日になれば、その気になれるかな? 今はまだ分からないけれど、たぶん、……なれないかも)

 

 ---つづく

自分の仕事(僕 十九才) 桜の匂い 第九章 壱

 フランス外人部隊のブーツが、四月の陽光に照(て)らされた大桟橋(だいさんばし)の板張りの床を再び踏(ふ)み、重い靴音を鳴らす。先々週の休日も散り始めた満開の桜の花弁(はなびら)が吹雪(ふぶき)のように舞う中を、僕は充(あ)ても無くゆっくりと相模原(さがみはら)市(し)の桜並木の道を潜(くぐ)っていた。

(また、ここに来た……)

 初めて大桟橋に来たのは一年前の今頃だった。その次は相模原の彼女にフラれた直後に来た。

『来ないで!』と、電話越しの彼女はキツく語気を強めて言った。以後、僕は何度も彼女の強い言葉を無視して相模原へ来ている。彼女の住まいを知らない僕は彼女との遭遇(そうぐう)を願いながら晩秋の相模原の街を闇雲(やみくも)に走り回り、相模大野(さがみおおの)の駅前のうどん屋でカツ丼を喰い、あの春の日と同じ道筋を辿(たど)って横浜港(よこはまこう)の大桟橋へ行き、板を張り付けた丘のみたいな『鯨(くじら)の背中』を歩く。そんな虚(むな)しい春のデートの再現をエア・ラヴァも連れずに一人っきりでしていた。

 都合の良い事は起こり得ないと思いながら、彼女を探(さが)して偶然の出逢(であ)いを求めている。でも今のそれは、止まった十八歳の春の時間を動かす為(ため)じゃなくて、別の時間が動き始めている事を告(つ)げて遣(や)りたいからだ。

『僕は心配いらない。君の幸せを祈ってるよ』と、さらりと言いたい。

 もう、二人はクロスしない別々の人生を歩み始めている。

     *

 去年の四月以降は晩秋まで毎月来ていた。返信メールが来ない彼女と偶然にでも出逢って彼女を見掛けても、遠くから見るだけで自分を持ち直(なお)せるような気がしていた。

(もう僕は殆(ほとん)どストーカーだ。でも、彼女の住まいは知らないし、実際に付け回した事も無いから、ストーカーじゃないかも……。だけど探し出したら、きっとストーカーになってしまう)

 冬になっても直接逢って確(たし)かめたい気持ちは変わらなかった。移る季節に便(たよ)りの無い日々は、覆(くつがえ)せない現実が続いている事を知らせていると、僕は分かっているのにそうせずにはいられなくて、峠道が凍結や雪が降り積もらない限り、僕は有給休暇を取って何度か平日にV-MAXを相模原へ走らせた。

 何度、ここに来ても……、百万遍(ひゃくまんべん)、頭を抱(かか)えて後悔して泪(なみだ)を流しても……、どう仕様も無いくらい御願いしても……、時間は戻らない。

 苛立(いらだ)つ気持ちは、相模原へ行き走り回っている時だけ紛(まぎ)れるけれど、過ぎ去りし想いは現在に繋(つなぎ)がらならない。毎回帰途に就(つ)いた途端に以前よりも大きくて強い後悔と虚しさが僕を襲(おそ)う。

 アクセルを開けエキゾーストサウンドを轟(とどろ)かせ、ビビる気持ちを抑(おさ)える。ゴツイ外観のV-MAXを無理やり傾(かたむ)けて、何度も冷や汗をかきながらコーナーを攻めて箱根(はこね)の峠を越えた。ブレーキのタイミングや加減、フロントやリアのタイヤが滑(すべ)り転倒しそうになるローサイドや、滑ったタイヤが急にグリップを戻して、外側へ弾(はじ)かれそうになるハイサイドの緊張感や緊迫感も、焦りと不安と苛立ちを無くしてはくれない。

 十八歳の時間は、雲間にぽっかりと広がった青空からの陽射(ひざ)しが、海を青く染(そ)めて大桟橋の僕達を照らし暖(あたた)めた、あの春の日から停まったままだ。

     *

 明るい青空の続く大気が澄(す)み切った冷たい冬の始まる頃、僕は自信の無さの不安に躊躇(とまど)うばかりで、直(す)ぐに逃げて落ち込んでしまう自分に嫌気(いやけ)が差していた。

 相模原の彼女に振られて落ち込み、更なる奈落(ならく)の深淵(しんえん)を臨(のぞ)む縁(ふち)に立ち尽(つ)くすような、そんな哀愁(あいしゅう)と悲壮感に浸(ひた)って逃げているだけの僕を、あの人はサルベーションしてくれた。あの人に諭(さと)され、励(はげ)まされ、支(ささ)えられて僕のモチベーションは戻された。

 あの人に諭されてからは遅刻もせず、残業も嫌がらず、真面目に勤務している。ミスも殆どしなくなった。月に一度、有給休暇を取り平日に休むのを総務部秘書課のあの人は、知っている筈(はず)なのに詮索する素振りも言葉も無かった。

 今では半(なか)ば強引に僕を諭したあの人と親(した)しく御付き合いをしている。週末は狭くて汚(きたな)い僕の四畳半に来て、作った料理を二人で食べて泊まっていく。休日は近くのショッピングセンターに食料品を買い出しに行く。僕のV-MAXや、あの人の愛車のBMWガブリオレで遠出をして、モーテルやリゾートホテルに泊まる事も多かった。あの人は言う。

「たぶん、女性の唇(くちびる)は、男の人以上に感じると思うよ」

 手始めにキスへのアプローチとキスの種類と感性を教えられた。服や下着の脱(ぬ)がせ方、いっしょに入るお風呂での泡遊(あわあそ)び、それに女性の身体の抱(だ)き方やセックスのテクニックまで、女性へ接するレクチャーは多種多様だった。

(この人の経験値は、どれだけ有るんだ? 全(すべ)て、実践によって鍛(きた)え上げられているのだろうか?)

 『お姉さん』が僕の部屋に泊まった日から、僕の中で『お姉さん』の呼称は『お姉さん』から『あの人』に、そして今は、『あの人』から『彼女』になってしまった。

 彼女の経験値と教養は半端(はんぱ)じゃなかった。両親との外食である程度は知っていたのだけど、食事や料理は箸(はし)の作法に始まり置き方、持ち方、使い方を矯正(きょうせい)された。

 アニメで観た大賢者のスプーンの握り方は絶対にダメだと思う。大賢者なのに素養無さ過(す)ぎの描き方だった。そこまで原作に書かれていたのか、躾(しつけ)が無いようにしたのは何故(なぜ)なのか、そんな事は知らないが『大賢者を愚弄(ぐろう)するな』だ!

 和食の懐石(かいせき)や割烹(かっぽう)や鮨(すし)、中華色々、アジアンテイストの様々、最初にスープから口を付け、器(うつわ)を持たないで食べる本場の韓国(かんこく)料理の作法も、彼女の豊富な知識や経験と実際の食事体験で学ばされて、フランス料理や伊太飯(いためし)などの飲み物は右に、パンは左へと、自分の分の置く基本位置まで教えられた。

『知ってるちゅうの!』内心、軽い反発を感じながらもメモをとる。

 僕が隣の人のを飲んだり食べたりして、彼女に恥を掻(か)かさように厳(きび)しくマナーを指導された。またインターネットでのホテルやチケットの購入とデートスポットの選定、それに女性を連れ立って歩く立ち位置に振る舞いや気遣(きづか)いなども、僕に彼女好(ごの)みのセンスが身に付くまで仕込まれた。

 本当に初めて裸の女性と身体(からだ)を重ねた僕は、性の喜びを知って世界の感覚が大きく変わってしまった。『始めて』の翌朝は、確かに仕事場の先輩達が言うように、朝の太陽の色がいつもより黄色く見えた。多少は彼女のバックグラウンドを疑(うたが)うけれど、僕は喜びで舞い上がり、今も身も心も人生も彼女に捧(ささ)げたいと思っている。

 買い物は葵区(あおいく)や清水区(しみずく)や駿河区(するがく)で、遠出は東の箱根や伊豆(いず)や富士山(ふじさん)周辺ばかりだった。なぜか、焼津(やいづ)や浜松(はままつ)、御前崎(おまえざき)や浜名湖(はまなこ)などの西方へ彼女は行きたがらなかった。理由は言わなかったけれど安倍川(あべかわ)を越えるのを嫌がった。それは何か理由有りきで謎(なぞ)めいていた。

 会社では作業時間中、彼女と顔を合わせる機会は無くて口を利(き)く事も無い。秘書課に属する受付嬢が、金型部の見習い作業員に声を掛ける理由は殆ど無かった。

 金曜日は終業時の同僚の誘(さそ)いに乗らずに真っ直ぐ部屋へ帰る。残業を終えてアパートに戻ると、部屋の換気扇が回り食欲をそそる料理の匂(にお)いを送り出して、早く入って食べろと言わんばかりに辺りへ漂わせていた。

 小さな赤いLEDが灯(とも)るドアの電磁ロックをIDカードで開錠する。LEDの発光がグリーンに変わり、開錠を知らせる短い電子音と共に微(かす)かに揺れたドアをゆっくり押す。

 いつも彼女はドアに防犯チェーンを掛けていない。僕が無用心で危(あぶ)ないと心配しても、

『大丈夫よ、心配しないで。アパートの人達は、みんな親切で仲良しだから変な人は来ないわよ。部屋は二階の一番奥だし、君は直ぐに帰って来るし、それに、自分の部屋に帰って来るのにチェーンまでされていたら、締(し)め出されたみたいで厭(いや)でしょう』と、言い返された。

 そう言われると、確かに鎖(くさり)は厭な感じがする。

 防犯チェーンが掛けられていないドアは滑らかに開かれて行き、ふぁっと部屋から流れ出た旨(うま)そうな料理の匂いと熱気が、僕を幸せ感で包(つつ)んでくれる。広がるドアの隙間(すきま)の向こうから、食材を刻(きざ)むリズミカルな包丁と煮込まれる鍋(なべ)の音が聞こえ、夕食の支度(したく)をする彼女の半身が見えた。彼女は夕食の支度をしながら僕の帰りを待ってくれている。

「ただいま」

 旨そうな夕餉(ゆうげ)の匂いと彼女の香(かお)りが僅(わず)かに混(ま)ざる、幸せいっぱいの匂いを嗅(か)ぎながら僕は明るく言う。

「おかえり」

 半畳の小さな玄関で靴を脱(ぬ)ぐ僕へ彼女は振り向いて笑顔で返す。この瞬間、僕の心は安らいで幸せを感じる。ずっとこんな日が……、時間が続くといいのに……。

 ユニット化された部屋と一体成形で造られたキッチンのシンク横には、彼女特性の香辛料が降られた分厚い牛ロース肉が、鉄皿に乗せられてレアに焼かれるのを待っている。

「食事の前にシャワーを浴びて来て。私はもう浴びたから」

 彼女は週末を僕と過ごす。金曜日は定時に終業して先に僕の部屋へ行き、食事の支度をしながら僕の帰りを待っている。

 人当たりの良さで人気が有り、そして、様々な事柄(ことがら)に経験豊富だと思われる美しい年上の女性が、なぜ週末を僕と暮らすのだろう? 普段は新しくて綺麗(きれい)な女子寮の部屋に住んで居るのに、どうして週末を狭くて小汚い僕の部屋に来て、いっしょに僕の体臭が染(し)みついた布団で寝泊まりするのだろう? それだけが謎で僕を不安にさせる。

 今宵(こよい)は謎と不安を払拭(ふっしょく)して、二人が幸せになるケジメの誓(ちか)いの言葉を彼女に言おう。

『二十年後も、三十年後も、五十年後もいっしょに手を繋いで歩こう。君は僕の生甲斐(いきがい)で、僕の全てを君の幸せに捧げます。結婚してください』と。

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「やる気と閃(ひらめ)きだ。それに経験値が加わる。お前には芸術的な視点と直感がある。その感性をモノ造りに活(い)かせ」

 正月に帰省(きせい)した時に親父に言われた。

「おまえは職人の親方(おやかた)を目指すか? 英語で言うとクラフトマスター。ドイツ語だとマイスターだ。日本だと一昔前の親方や棟梁(とうりょう)が、俺的にはそうかな」

 僕は、まだ漠然としかイメージが掴(つか)めない。

「職人は、技能者と技術者の両方の能力がないとなれない。優(すぐ)れた技能者は良く職人と言われるけど、本来は違うと思う。技能者は、技や工(たくみ)を極(きわ)め精密で丁寧(ていねい)な仕上げを速く安定して行える仕事人だ。技術者は、工程や構造などの仕組みや方法を考え出す。職人は技能者と技術者の能力と、製作効率や品質向上や納期短縮などの、更(さら)なる工夫をしたマネジメントも考えて行わなければならないんだ」

 全く親父の言う通りだ。自称職人の大半はマネジメントを考えない。器用(きよう)に丁寧で美しく物を作り仕上げる技能者だ。独(ひと)り善(よ)がりで思い込みが激しい一部の工芸家や芸術家とかわらない。

「おまえはそれに成(な)り、それを極める強い意志と願いが有るか?」

 親父は強く問う。

「世間一般の会社は作業手順や工程をマニュアル化して経験の無い、誰でも専門職が行えるようにしている。だが、それは経験豊富な熟練者達を必要としない事に繋がっている。マニュアルや国際的な品質規格は、確かに、そこそこの良品を大量生産できるだろう。しかし、更に品質を向上させ、歩留(ぶど)まりを良くさせるのは人の知恵だ。熟練者の経験と、そこから得た新たな発想と閃きだ。世界的なブランドを持つ会社は、そういう社員達を大事にしている。わかるか?」

(僕に何を望んでいるんだ、親父? 僕に何かを遣らせるつもりなのか?)

 親父の問いには、勢いが有った。

「おまえの志(こころざし)である、おまえが働く会社のモノ造りを把握(はあく)しろ。おまえの仕事の位置付けと、おまえがおまえの仕事で何を成すべきか良く考えろ。そして、お客のニーズを会社が、どう掴み、それを製品化するのに、どんな考えや工夫や気配りで開発していくのか、そのシステムを知り、なぜ業界で一流と呼(よ)ばれ、世界で尊(とうと)ばれるのかを学べ」

 親父は僕が適当にこじつけた入社理由を志と呼び、それを憶(おぼ)えている。

「良い仕事はな、全て単純な作業の堅実(けんじつ)な積み重ねだぞ。それを早く学んで来い」

 親父は、もっともらしい仕事の概念(がいねん)を言う。

「その言葉は、経験から?」

 確かに良い仕事を達成するには、その通りだと思う。一つの事柄を正確に行うシンプルな技能や思考、それと、その結果で得た経験や知識の積み重ねが良い仕事をさせて行く。

「うーん、残念ながら俺の言葉じゃないんだ。ずっと前に観たアニメのセリフさ」

 アニメは好きだから良く観ているけれど、そのセリフを言うアニメは記憶に無い。そんな納得できる言葉は絶対忘れないはずだ。

「アニメの中のセリフってバカにするなよ。それで閃いて、俺は加工の自動化を始めたんだからな。自動化は数値制御の集合体だ。数値制御のプログラムは、お前も知っている通り、全て一と零(ぜろ)で組まれている。これほど単純な作業の堅実な積み重ねはないだろう」

 工場内の自動化を始めた理由が、アニメのセリフだったとは、全く親父に恐(おそ)れ入った。自動化ができなくて自(みずか)ら加工する量を最小限にする為に、常に親父は試行錯誤(しこうさくご)を繰り返している。加工精度をアップして、デリバリーを短縮して、しかもコストダウンによるリーズナブルな価格での提供、そして受注量を増やしているし……。その上で親父は余暇(よか)の時間をしっかりと確保して増やしさえもしていた。

(いったい親父は、一人でどれだけの量を熟(こな)し、どれくらい稼(かせ)いでいるのだろう?)

 親父が感化されたように、アニメには感激も感動も有るし学ぶ事や教えられる事も多い。小説からも得られるけれど、視覚に映(うつ)るのは文字よりも動画、聴覚にはBGMや周囲の音や無音よりも声優のセリフや効果音や歌、視聴感覚を惹(ひ)き付けるアニメには魅力が有り、小説よりも感情移入がし易(やす)い。

「実は、新しい加工技術とマシンを導入しようと考えているんだ。それで、おまえは年内いっぱいで今の会社を辞(や)めて、俺を手伝ってくれないか?」

 御盆(おぼん)の帰省でも言われて、最近も親父から電話があり念を押された。親父は、僕がパートナーになることを望み強く願っていた。

「ニュープロセスの加工マシンの他にも、六軸駆動の一本腕と、二本腕の上半身タイプに、動き回らせる人型のロボットを、一台づつ導入するつもりなんだ。だから、お前に調整プログラミングと管理を頼みたい」

(おおっ、そう来るかぁ、親父ぃ。でも、そんなにも融資して貰えるのかよ!)

「融資は大丈夫だ。もう金は口座にある。今は、メーカーと仕様を決めいている最中さ。デモ貸しもして貰うから、そん時は立ち会えるか? 上手く使いこなせば、二人で十人以上のオーダーを熟せると、試算してるからな」

 そう目を輝かせて言う親父に願われた当初、あと二、三年の間は今の会社で働いて彼女と楽しく過ごしたいと思っていた。でも、ここでのモノ造りのプロセスを理解して、各工程での発生問題と改善対策手順を知るにつれて、親父の頼みを承諾(しょうだく)しようかと考えが変わって来ていた。

(試算では十倍の仕事が出来る? 上手く使えば? 早々に軌道に乗せればウハウハだけど、最適アルゴリズムを掴むまで、メーカーアドバイスを貰っても、めちゃめちゃ苦労しそうだわ)

 一人だけの小さな会社でも、社長である親父の息子として僕の立場を諭してくれたのは彼女だ。彼女好みに変えられたのも有るけれど、週末をいっしょに過すようになった今は僕を一番理解してくれている。僕を支える彼女が傍(そば)にいてくれるならば、金沢に戻って親父の事業を拡大して行けると思う。

 近々、人生の伴侶(はんりょ)にしたい女性として親父に紹介するつもりだったけれど、考えてみたら、まだ良くあの人の気持ちを確認していない。彼女の週末は僕の部屋へ通って来て寝泊りする。僕達は互いに求め合う恋愛感情だらけのディープな肉体関係だ。後悔(こうかい)も不安も無く、互いの相手を求める気持ちは少しも揺(ゆ)らいでいない。

 同様に、彼女は僕と添(そ)い遂(と)げたいと思っているだろうと考えていた。僕がプロポーズをしたら、彼女はきっと、恥ずかしそうに頬(ほお)を赤らめた嬉(うれ)しい笑顔で頷(うなず)いてくれるだろう。

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 IDカードで使用時間、水量、熱量を検知して月割りで清算される共同のバスルームで、シャワーを浴びて身軽な部屋着に着替えた。身体を拭(ふ)き終えたバスタオルを、既(すで)に二人の洗濯物が入れてある洗濯乾燥機に放り込む。洗剤と柔軟剤を注(そそ)いでコインを投入して操作パネルのフルオートをタッチする。コインランドリータイプの最新型の洗濯乾燥機は、彼女が泊まりに来るようになってマメに使う。洗濯物の重さを感知して水量と洗濯時間、乾燥状態までマイコン制御で仕上げて、所要時間も表示してくれる洗濯乾燥機は快適だ。

『チン!』IH料理器具のスイッチが切られた音が、まるで身体を張ったマンツーマンのスポーツ試合のゴングのように響き、レアに焼かれジュージューと油が弾ける極厚(ごくあつ)ステーキの完成を告げた。僕のプロポーズタイムもスタートだ。

 覚悟を決めて夕食の支度をしている彼女に言った。

「僕は十二月で会社を辞めるよ。金沢に帰るんだ。親父が仕事を手伝ってくれって言うんだ。事業の拡張を考えているんだって。海外への展開も有るかも、なーんてね。僕が入っても二人しかいない会社なのに。アハッ、ハハハッ、君も来てくれるだろう?」

 俎板の上で食材をリズミカルに刻んでいた包丁が止(と)まった。

「……そう。金沢に帰っちゃうんだ……」

 僕の期待へ答える前フリなのか、彼女は僕を見ずに悲しそうな声で言う。

(これは彼女の得意な、『悲しそうなムードが、劇的に超ハッピーへ変わる』の演出だ)

 いつものように次に続ける僕の前向きな言葉で、きっと笑顔で振り向いてくれると期待した。心做(こころな)しか、彼女の後姿が固まって小さく震えているように見える。

(その振るえは、嬉しさからだよね)

「ああ、君もいっしょに行こう。近々、君の家に挨拶に行こうと思っていたんだ。君は金沢で僕と暮らすんだ……、ダメかな?」

 そう言いながら彼女の顔を覗(のぞ)き見た。止まった手元に向けたままの彼女の顔は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて目を瞑(つむ)り、苦痛に耐(た)えているようにも、何かを思い詰めているようにも、……見えた。

(どうしたんだ? 僕の想いを伝える言葉に感動しているのじゃない……! 嬉しくないのか?)

 否定を察(さっ)した戸惑(とまど)いが僕の顔を歪(ゆが)めさせて、言い掛けた添い遂げたいという肝心な言葉を停める。でもプロポーズを途中で止(や)める訳にはゆかない。

「いっしょになろう。結婚…… して…… くだ……」

 僕の大事なプロポーズの言葉は、まだ言い終わらない内に彼女の声に遮(さえぎ)られる。

「だめ…、金沢には行かないよ!」

 プロポーズの言葉を上手(うま)く繋げれないまま、彼女の拒否する言葉が僕を貫(つらぬ)いた。

(なぜ? どうして? 週末をいっしょに過しているのに? 今も僕達の為に君は、料理を作っているのは、なぜ?)

 僕は思いも由(よ)らなかった彼女の反応に焦り、性急に結論を求める。

「プロっ、プロポーズしたいのに……、そんな……、 僕じゃ…… ダメなのか?」

 相模原の人に振られたショックが脳裏に甦(よみがえ)る。ガタッ、ゴトン。包丁が彼女の手から落ちて俎板(まないた)の横に転がった。

「女性との付き合いの仕方を教えて、私好みに磨(みが)いて上げれば、きっと、君は光るイイ男になるだろうと思ったの。だから、私から誘ったのよ」

(そうだ! 君から僕を、好きだと言ったんだ)

 君の告白を僕は受けたから、今、君は僕の部屋に居るのだろう。なのに、その思い詰めた否定的な表情はなぜなのだろう? 後ろから、そっと彼女を抱き締めた僕は、息を吐(は)く度に彼女の肩と背中が小刻(こきざ)みに震えているのに気付いた。

「君は忘れていないよ。今でも彼女を慕(した)っているのを、私はわかっていたの。それは日毎(ひごと)に強く感じていたよ。だから、私じゃダメかもって思い始めていたの」

(そっ、そんなのが、僕にプロポーズをさせない理由になるものか!)

「どうして、そんなことを言うんだ? 僕は相模原の人に、はっきりと振られたんだ。格好良くて素敵な大学の先輩の彼氏がいて、僕なんか御呼びじゃない」

 携帯電話の画面に浮き上がるように見えた僕を忘却(ぼうきゃく)する文面と、くよくよと想いを巡らし忘却の呪いの否定要素を探した懺悔(ざんげ)の日々を思い出す。

「僕は、相模原の人をきっぱりと諦(あきら)めている。そう、忘れてさえいた。諦めさせて、忘れさせてくれたのは君じゃないか!」

 僕は卑怯(ひきょう)な言い方をしている。

(それは、彼女の所為(せい)じゃないだろう。彼女は、そこから僕を救ってくれたのに)

「ううん。嘘(うそ)……、君はまだ相模原の彼女を想っている。それは、私では置き換(か)われないのよ」

(違う! 彼女は、何を勘違(かんちが)いしているのだろう?)

「そんなことはない。僕は、君が好きだ。君しかいない。今も君を抱き締めている。愛しているんだ」

(違う! 僕の心の片隅(かたすみ)に相模原の彼女が居るとしても、彼女は僕を否定しないはずだ)

「君は……、一人で金沢へ帰った方がいいよ……。私は行けない、……から」

 ! 僕は察した。……彼女は何か僕の知らない大事なことを言おうとしている……。

「私には、親が決めた相手がいるの。今時、時代錯誤(じだいさくご)したような事だけど本当よ。君には、まだ言っていなかったけれど、私、来年の六月に結婚するわ」

(そんな……、何を言っているん…… だ……)

 初耳だった。今まで添い遂げる約束をした相手がいるなんて、言葉にしなくて……、素振りも見せなかった……。その言葉は僕にとって、あんまりだろう!

(親が決めた? 決まった相手がいる? 初めて聞く事だ……)

 努(つと)めて彼女が明るく口にした衝撃的な言葉に、僕の心臓が止まりそうだった。少しも気付けなくて、僕は知らな過ぎだ!

「結婚したら、たぶん、大井川(おおいがわ)の奥で暮らさなくてはならないわ。だから結婚するまでは自由にさせてちょうだいって、両親と親族を説得したの。でも、そろそろ相手側から私の素行調査が入りそうかもね」

 僕の否定を空(むな)しくさせてくれる事を淡々(たんたん)と彼女は話し続ける。その明るい語尾の言葉で語られる青天の霹靂の事情は、僕の幸せな未来を絶望の深淵(しんえん)へ追い遣ってしまう。何故、僕は彼女のような理想的な女性に、男臭がしないと判断したのだろう?

(親族も説得したって……? いったいどんな家柄(いえがら)なのだろう?)

 困(こま)っている振りや悩んでいる様子は、彼女の明るい表情と抑揚(よくよう)の無い話し方からは感じられなくて、とても信じられない思いと疑りばかりが湧(わ)き出て来る。

 だけど、僕がいくら彼女の話を信じられずに理解できなくても、彼女の強い意志と言葉の裏に潜(ひそ)む逆(さか)らえない事情が伝わって来て、彼女が既に自分の境遇と運命を受け入れている事を悟らせた。

 僕は抗(あらが)うことも拒否することもできずに、ただ黙って唇を噛み、彼女が続ける言葉を聞く。

「あのね……、経緯(いきさつ)を最初から話すね。黙って聞いてよ」

 話すべきか迷うように選ぶ言葉は途切れ途切れで、話し辛(づら)そうに語る不可解な内容から理解できたのは、どうも彼女の家はいくつもの山林を持ち大きな製材所も有るらしい。それに山間部には川霧や朝霧に覆(おお)われる茶畑が在って、自営の製茶工場で高級緑茶を製造出荷しているようだ。それが長引く消費低迷の不況で非常に危(あや)うい経営状態にあるのだ。

 彼女の家は没落中の……、いや、崩壊(ほうかい)寸前の資産家だった。普段は何事も明るく話す彼女だけれど、さすがに困窮(こんきゅう)している自分の家の事を話すのは本当に辛そうで、俯(うつむ)き加減に逸(そ)らす顔の瞳(ひとみ)は視線を伏せている。僕は黙って彼女の顔を見て話を聞いた。彼女は時折(ときおり)、相槌(あいづち)も問いも入れずに黙って聞く僕の反応を確かめるように瞼(まぶた)を上げて、その温度の無い光の瞳が僕の視線と合わさり、僕の眼に現(あらわ)れる光と影を探る。

 破産直前の彼女の家の救済を町の名士で多くの事業が成功している、羽振(はぶ)りの良い別の資産家が資金援助をしたいと申し出た。それは資本の半分に及ぶ強い経営権を持つ内容だった。当然、そこまでの参入を彼女の家は認めず、再興のチャンスを求めて経営権と資産を手放すつもりはなかった。

 彼女の家が山林や茶畑、それに製材所と製茶工場の運営権を手放さないのならいっその事、親戚(しんせき)になってしまおうと名士は考えた。その考えは彼女を自分の息子の嫁(よめ)に所望することだった。

 既に銀行からの借り入れは限界に来ていて、貧窮(ひんきゅう)する経営で破綻(はたん)寸前の彼女の家は急(いそ)ぎ親族会議を開き、返済の当ても無く発行を繰り返した約束手形の迫る期日に会議が暗く沈む中、苦渋(くじゅう)の深い審議の末に、銀行への返済の全額と発行した手形の保証人、、今後の経営へのサポートを本家の一人娘の婚礼と引き換えにする、人身売買に等(ひと)しい名士の申し入れを受ける事に決めてしまった。

 縁談が決まると、その日中に名士から息子の花嫁の実家へ充分な援助が行われた。

 直ぐに決められた婚礼の日は、来年の六月吉日。ジューンブライトだ。それまでは、自由に青春して暮らして良いというのがサブ条件だった。そして彼女はかなり歳の離れた名士の息子との結婚を承諾した。

 高そうな彼女の自動車(くるま)や持ち物や服は、全て名士から届いた結納(ゆいのう)の一部だと言う。

(たぶん、資産や経営権よりも息子の嫁が主題だったんだな……。なんてこった! きっしょぉー! あと半年と僅かで、彼女は知らない男の妻になってしまうのか!)

「いまどき、そんな事情ってあんのかよ?」

 そんな理(ことわり)が有る自動車とは知らずに、彼女の愛車を運転してみたかった僕は、夏が来る前に自動車教習所へ通って運転免許証を取得した。

(サイドシートで笑う彼女が嬉しくて、夏以降は僕がよく運転して、楽しんでいた自動車がフィアンセの結納品だなんて、……ショックだ!)

「どこにでも有るわよ。田舎でも、都会でもね。君が知らないだけ。御先祖様から受け継(つ)がれている土地持ちの資産家や、代々続く屋号(やごう)の老舗(しにせ)なんて、拘(こだわ)りと柵(しがらみ)だらけで、関係者の欲の思惑(おもわく)が幾重にも渦巻いているわ。そんな背地(せち)が無い事に、君が無縁で良かったと思うよ」

(ああ、全くだ。だけど、だけど、君は……、その渦中にいて……)

 彼女は溢(あふ)れんばかりに泪(なみだ)を溜(た)めた瞳で僕を見詰めて言った。

「相手の人は、とても優しい人だったわ。結婚したら……、きっと私を大事にしてくれるよ。だから…、心配しないで」

 明るい声といっしょに彼女はニコッと明るく笑う。笑って細くなった目からポロポロと泪が頬を伝い零(こぼ)れ落ち、床のカーペットに幾つもの染みを作る。それを見て僕はブルッと身震いした。坦々(たんたん)と初めて自分の境遇を話す彼女は、今、どういう心境なのだろう?

(君は幸せになるべきで、絶対に幸せになるに決まっている。その名士の息子は、きっと君を幸せにしようと努力してくれるだろう。そうだと凄く良いと思うよ。でも、それ以上に僕も……、僕は、君を幸せにしようとしてたのに!)

 明るい未来の消失で先の展開を見失なった現実は、最初に失恋の喪失感(そうしつかん)が来た。始めはぼんやりと遠くの雑然とした街の喧騒(けんそう)のように煩(わずら)わしく、それから突然に、はっきりと理解できて色の無い巨大な壁が二人を阻(はば)んでいるのが見えた。次に裏切られた思いに羞恥心(しゅうちしん)が被(かぶ)る。それから騙(だま)された怒りが復讐心(ふくしゅうしん)を煽(あお)った。

「そっ、それでいいのかよ! 大事にされるって? 納得できないぞ! そいつは君を幸せにできんのかよ! ぼっ、僕は結婚相手にもならなくて……、くっそぉー! 君はそれでいいのかよ!」

 遣る瀬無さに声を荒(あら)げ彼女の真意を探った。

「ごめんね。でも騙していた訳じゃないのよ。最初は君を慰(なぐさ)めるだけだったのに……。慰めるだけの同情のはずが君と話している内に、いつの間にか私は君に惹(ひ)かれていたの」

 鼻声まじりで話す彼女を睨(にら)む……。僕の顔は眉間(みけん)に深く皺(しわ)を寄せ、米神(こめかみ)に青く血管を浮き出させ、目尻は釣り上がって眼光は怒(いか)りに満ちている…… はずなのに、彼女は目を逸らさずに僕を見つめ続けて、僕の怒りや憤(いきどお)りを受け止めようとしていた。その微笑(ほほえ)まない顔が彼女の覚悟を知らしめた。彼女の物怖(ものお)じしない瞳の輝きに嘘をついてはいないと思う。

(言い訳じゃない。彼女は本当にそう思って僕を大事にしていたんだ。誤魔化(ごまか)しじゃない……)

 誠実に思える彼女の態度が僕を冷静にさせていく。

「なんかドラマチックだな。君が、リアルな悲劇のヒロインだなんて信じられないよ。身近すぎて嘘みたいだ」

 彼女は僕よりもっと辛くて、ずっと一人で悩んで決断していたのだろう。僕に打ち明けて相談してもどうのもならないのは分かる。それでも、逆らえない無念さが僕に皮肉を言わせた。

『人それぞれだから、どっちでも構わないけれど、人生は自分で決めた自分責任の方が、深いとか、重いとか、俺としてはどうでもよくて、ただ、面白いと思う。人には、全て人任せの無責任な奴、最後の決定は自分がしたのに選択を委(ゆだ)ねた人の所為にする奴、最後まで自分で判断して決めた結果に責任を持つ奴、この三通りが有る。成功は他人の所為か? 支えてくれる人の御陰か? 自分のセンスか? そこに感謝が有るか? 失敗の行く末は同じだが、自分で決断した結果なら大抵は潔(いさぎよ)く納得できるだろう。おまえはどっちだ?』そう言って親父は先日の電話の中で、まだ暫くは半同棲の温い日々を過ごしたい僕を説得していた。

(これは違うだろう、親父ぃ。全然、面白くないじゃん! 不条理を負わされた彼女が、追い詰められてした不本意な決断なんだぜ。これを潔く納得するなんて、できるわけないじゃんか! ううっ……。そっ、それでも……、これからの茫漠(ぼうばく)たる人生を、『幸せだった』と言えるように、彼女はして行くんだろうな……)

 抗って逃げて行方を晦(くら)ましても、立ち向かって縁談を破断にしたところでも、この先、彼女は家族を見捨てた事で、ずっと自分を責め続けるだろう。顔面にパンチ受けて昏倒(こんとう)するようなショック状態の僕でも、彼女の立場は理解できた。

「君と、ずっといっしょにいようかと考えたことも、……有ったよ」

(やはり彼女は、一人で散々悩み苦しんでいた……)

 微塵(みじん)にも僕にそんな素振りを見せてはいない。僕は彼女の言葉や表情や態度からも、彼女が深刻な問題を抱えて悩んでいる事に全く気付かなかった。彼女に相模原の女性とは違う強さを感じた。

「君は、もう一人で大丈夫(だいじょうぶ)でしょう。自信をもっていいわ。以前とは違うよ。私は…… ね……、幸せになれるように、努力するから…… ね」

(思った通りだ。……自分の幸せは、自分で掴む……。彼女は決めている……)

 彼女の言葉が僕の中に留(とど)まった。言われてみれば確かにその通りだ。今の自分は彼女に声を掛けられた頃の、うじうじしていた僕じゃない。彼女は僕を慈(いつく)しみ成長させてくれた。今も僕は一気に大人になっていく気がしていた。

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 その夜、僕達は泣きながら何度も愛し合った。仕込まれた彼女の男に僕なりのアレンジ加えて抱き締める。大声で泣きながら僕は強く激しく彼女を愛した。

(この悲しい恋は、必然だったのだ……)

 どうしようもない悲しさが胸を締め付ける恋しさに混ざる。それに冷たい寂しさが被って、切ない虚しさが僕を襲(おそ)う。

「うっ、ううっ……。あっ……、ああぁ……、しょっ、生涯、君を忘れないよ……」

 さめざめと彼女は泣き、喘(あえ)ぎながら言った。

「はあぁぁ……、君に愛された想いを……、あーんんん。さっ、支えに生きて…… いくから。あーっ、君はもう…… 私に染み込んでいるの……」

 言い終わらないうちに彼女は仰(の)け反(ぞ)り、ビクビクと身体を震わせるオルガニズム直前の緊張が、激しく雄の突き上げを繰り返す僕のエレクトして爆射寸前の一物(いちもつ)を搾(しぼ)るように締め上げ、その抗えない快感は、まるで求める全てがそこに在るかのように、僕を絶頂の果てへと突っ走らせる。

「あっあっ。もっと、もっと強くして……、ああっ。はっ、激しく愛して。あっ、私の中に深く深く君を残してーっ、あああーー。あっ、ううーん」

 ぎゅっと、しがみ付くように巻した彼女の腕に力が入って締め付け、握る掌が背中に強く指を立て、僕の胸の下で、苦しみに耐えているようにも、不安に抗っているようにも見える彼女の表情が揺れるている。

「おおっ、おおおおおーっ」

 早口の叫ぶような喘ぎで昇(のぼ)り詰めて身体を硬直させる彼女の顔が、うっとりとした微睡(まどろ)みに変わり、いつしか僕も吼(ほ)えながら果てていた。

 息が上がる僕の胸に顔を埋める彼女の小さな嗚咽(おえつ)が聞こえ、僕の眼から溢れる涙が彼女の髪へ幾つも落ちて染み込むように消えて行く。

「ずっと、こんな日が、続けばいいのにね」

 鼻声の涙を流す赤く腫(は)れた瞳が僕を見続ける。

「グスッ、愛してる」

 流れては溜って溢れる涙が彼女の顔をグシャグチャに歪ませて、良く見えない。

「グスン、うん、愛してるわ」

 涙の流れるままに二人は声を忍(しの)ばせてさめざめと泣いた。嘘に出来ない現実を、どうしょうもならない事を分かっているのに、僕達は嘘ならと心から祈りながら互いを守る為に身を寄せ合った。何度も唇を重ねて身体を摩(さす)り、逃げないように捕らえ続けていたいのに、スゥー、スゥーと静かに眠り始めた彼女の小さな寝息を聞きながら、僕は眠りに落てしまう。

(朝の光に目が覚めると、……僕らの愛が添い遂げれる、いつか感じた、此処とは似て非なる世界に行けていれば、……そう、なれば、良いのに……)

     *

 大晦日(おおみそか)の昼下がり、彼女は静岡駅で僕を見送ってくれた。早めに着いた新幹線のホームを冬の陽を浴びながら歩く。人気の無いホームを僕達は手を繋いでゆっくりと無言で歩いた。

 冬の駿府(すんぷ)の乾(かわ)いた冷たい大気に時折、湿った雪の匂いを嗅ぎ分けて蒼(あお)く澄(す)んだ空を見上げると、高く透明な青色の空間中に、ちらほらと遠くから風に吹かれて来る花弁(はなびら)のように白い風花(かざはな)が舞っていた。安倍川の上流、梅が島の更に奥の県境(けんざかい)の頂(いただき)から飛ばされて来る風花の淡雪(あわゆき)は地上に着く直前、消えるように融けてしまう。僕の想いも独り善がりに舞うだけで愛する彼女と、窮乏(きゅうぼう)に彼女を一粒の麦のようにした彼女の家族を救いも導きも出来ずに、後、僅かな時間で過去に融(と)けてしまうのだろうか?

 もう直ぐに僕を金沢に運ぶ列車が来る時刻になる。これが今生(こんじょう)の別れになるのに、この人は何も話さない。僕も黙って歩く。

 歩きながら僕は同期で入社した時から今までの彼女を思い返していた。この人も同じ思いだったのだろう。時々、指を絡(から)ませて僕の手を握る彼女の手に力が入り、その度に僕はその手をしっかりと握り返した。

「私が買ってあげるね」

 駅に着くなり僕の前に出て駆け出しながら彼女が言って、窓口のカウンターで金沢行きの切符買って来てくれた。

「はい!」

 明るい声で僕に切符を渡す。彼女は奮発してグリーン席を僕にプレゼントしてくれた。最後まで彼女は僕の面倒を良く見てくれる。

「受け取っちゃって、いいの?」

 ここまでさせちゃいけない気がした。だけど、

「いいよ」

 いつもの歯切れの良い明るい声で言い切る。全く彼女は屈託(くったく)が無い。更に駅弁の鰻(うなぎ)弁当や安倍川餅(もち)も持たせてくれた。ミカンと熱いお茶まで添えてくれる。

 高価な切符と駅弁への感謝の言葉を言えない内に、ホームへ『ひかり』が滑(すべ)るように静かに入って来た。『ひかり』は『のぞみ』の通過待ちで五分ほどの停車をする。

 グリーン車の乗降口の前で、

「もう少し時間が有るね」

 そう言って彼女は乗り込もうとする僕の肩に手を掛け、ゆっくりと僕を振り向かせて抱き締める。そして優しくキスをした。

「こうして、君を抱きしめてキスをするのも、これが最後だよ」

 僕に言っているのか、自分に言い聞かせているのかわからない調子の小さな声で彼女は言った。それがいじらしく感じる切なさに、ぐっと胸が締め付けられた。

「……うん……。幸せに…… なれ…… よ……」

 愛しくて、切なくて、それ以上言葉が続かない。別れの言葉をちゃんと言い切れないまま、僕は彼女を強く抱き締め返した。まだ感謝の言葉も言えていない。

「……幸せになるね」

 僕の耳許(みみもと)で囁(ささや)くような小さな声で彼女は明るく言う。その小さくても明るい声が、もっと僕を切なくさせて、ぎゅっと息が詰まるくらい、更に胸を締め付けた。

(ずっと、抱き締めていたい……)

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 辞表が受理されてからも有給休暇を消化せずに、就業カレンダー通りに年の瀬まで仕事をした。有給休暇の大半が残っていたのだけども、遣り掛けの加工の仕事を中途半端で同僚に引き継がせたくなくて、一昨日(おととい)の最終日は遣り遂げるまで帰らず、彼女の待つ部屋に戻ったのは深夜になった。表通りからエンジンを切り、惰性(だせい)で近づくV-MAXの無音で走行する気配に気付いて、彼女はパタパタとアパートの前まで僕を迎(むか)えに出て来た。

「おかえりなさい」

 寒そうにドテラを羽織(はお)った彼女の笑顔の声が、小さな白い霧になって消えて行く。不意に込み上げて来た遣り切れない想いが彼女を抱き締めさせて、僕はひたすらに彼女の体熱を求め続けた。

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 部屋の荷物は昨日、年末で割高だったけれど業者便で家へ送った。V-MAXも大型バイクの専門業者に頼んだ。両方とも着くのは正月明けの五日ごろになるそうだ。大晦日まで彼女と過ごせるなら運送代が割高になっても構わない。

 正月明けまで彼女といっしょに過ごしたいと強く思っていたけれど、どうにか潔く大晦日の午後に離れる覚悟が出来た。正月は息子と差しで酒を飲みたいと親父に駄々(だだ)を捏(こ)ねられた。それに気持ちの踏ん切りがつかなくて、ズルズルと引きずるケジメの無い自分になりそうだった。

 V-MAXと荷物を送り出した後、部屋の掃除と戸締りを終えて鍵を不動産屋へ返したのは夜になった。街のビストロバーで彼女と遅いディナーを摂(と)り、昨夜はリザーブしていた静岡駅近くのシティホテルに二人で泊まった。

 彼女と何度もビジネスホテルやモーテルに泊ったけれども、続き部屋のゴージャスなスイートルームと、だだっ広いキングサイズのベッドは初めての体験で、明け方まで寝像の悪い僕らには最高のベッドスペースだった。それは彼女のサプライズで、ツインのルームの予約を彼女が料金を大幅にプラスしてスィートに変更してくれていた。朝方眠りに付いた僕達は、寝心地の良さに危うくチェックアウトをタイムオーバーするところだった。

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 鳴り響くベルが『ひかり』の発車時間が迫ったことを知らせる。

(彼女を離したくない。金沢に連れて行きたい……)

 僕は心の中で最後の抵抗を試みる。昨夜は何度も、そう言って彼女を愛した。何度も彼女を抱き締め、彼女は何度も昇り詰めて絶頂を迎え、僕もいっしょに何度も果てた。

 ベルが鳴り響く中、彼女は僕の気持ちを察したのか、言い聞かせ宥(なだ)めるように言った。

「私は、……行けないよ」

 いつまでも離そうとしない僕の腕を彼女は無理遣り離して、僕を乗降口に押し込んだ。鼻の奥がツンとして目頭(めがしら)が熱くなり、視界が滲んでいく。

 僕は乗り込むや否や振り返り彼女を見つめた。柄入りのフード付きハーフコートとハイネックセーターに、セカンドバックだけのカジュアルな服装の僕は、まるで葵区の呉服町(ごふくちょう)でデートをするような格好だ。彼女が選んだ服は、二人が互いに場所も人生も遠くに離れて行き、もう二度と人生が交(まじ)わらないかも知れない、別れの場に相応(ふさわ)しくない気がした。でも、彼女の好みで良く僕が着せられたファションだった。彼女の想いが痛いほどわかる。

「ありがとう、元気でね。また世界のどこかで逢えるといいね」

 鼻先を掠(かす)めて閉まり掛けるドア越しに彼女の声が聞こえた。僕は昇降口の窓ガラスに額(ひたい)を押しつけて彼女を見る。泪で眼を潤(うる)ませた彼女が笑って手を振っていた。

「ああっ、きっといつか、どこかでまた逢おう!」

 僕は閉まったドア越しに大声で叫んだ。たぶん、声は届いていない。でも僕の口の動きでわかったのだろう。彼女は胸の前で両手を握り頷いた。上げた顔の頬を涙が流れているのが見え、ポロポロと落ちる大きな雫は止まらない。

 ついにこの時が来た。感極まった僕の目からもボロボロと大粒の泪が止め処(ど)もなく溢れ出て、何度も、何度も、拭(ぬぐ)うけれど、泣きながら僕を見続けてくれる彼女がはっきりと見えない。これが最後の、……今生の別れになろうとしているのに滲んだ彼女しか見えない。

 列車が動きだすと、始めは歩いて、直ぐに速足になり、そして全力で彼女は駆け出した。でも直ぐにホームの端が来て、加速する列車は僕の前から彼女を一気に引き離して行く。日本晴れに晴れ渡った真っ青な空の下、明るく光るホームの端に立ち彼女は泣き笑いの顔で大きく両手を振っていた。

 その彼女が、『あっ』という間に小さくなり不意に見えなくなった。僕はドアの窓に顔を擦(こす)り付けて少しでも長く見ようとする。もっと良く彼女を見て、今の彼女の姿を瞼に焼付けたい。でも一瞬の動作が焦点をダブらせて霞(かす)ませた視界に、無意識で反射的な瞬きが彼女の所在を見失わせた。

 あの人は最後まで格好良くてドラマチックだ。一年足らずだけど僕に充実した十分な幸せをくれた。あの人も半年後に退職して実家へ戻る。そこには許婚の人との抗えない結婚が待っている。でも明るくて前向きな人だから、大井川の上流の町で幸せに暮らしていけるはずだ。決して間違った自由へ飛んだりはしないだろう。

 親が決めたフィアンセがいる。それでいて僕と関係を持った。そして今、僕との関係を絶ち半年後の六月には、そのフィアンセと結婚して実家の家業を継ぐ。なんて不節操(ふせっそう)で都合の良い、人をおちょくったヒロイン視点のラブストーリーなのだろう。

 僕は役不足の好(い)い面(つら)の皮なのか? だけど、僕はからかわれたとか弄(もてあそ)ばれたとか思わない。あの人は誠実で正直だった。僕の心に相模原の彼女が確かに居るけれど、そことは別に、あの人は僕の中に大きく拡がって行っていた。

 セカンドバックを脇に置き、ゆったりとしたグリーン車のシートに体を沈めて、ホームの端で大きく両手を振り続ける彼女を思い起こす頃、『ひかり』は大井川の鉄橋を渡り始めた。トラス橋の斜めになった鉄骨がビュンビュンと視界を横切る向こう、大井川の上流に綺麗に雪化粧された南アルプスの峰々が見えた。

(六月から……、あの山脈の麓(ふもと)で彼女の新しい生活が始まるんだ……)

 一度、静岡市内を流れる安倍川の上流の井川(いかわ)の集落から峠を越えて千頭(せんず)の町へ抜けた事が有った。V-MAXにはタイトなワインディングロードばかりで、千頭から川根町(かわねちょう)を通り島田(しまだ)の市街地にでた時にはホッと安堵(あんど)した。美しい景色と清々(すがすが)しい清涼な空気と水、観光には良いけれど生活するには厳(きび)しくて困難な土地だと、擂(す)り鉢(ばち)の底のような急斜面に囲まれた川沿いの僅かな平地を走りながら、そう感じた。

 そんな山間で新妻として初々(ういうい)しく、……ではないか……、健気(けなげ)に彼女が生きていかなければならないという思いに、彼女の最後の姿が重なり、南アルプスが潤み始めた涙で揺らいで行く。

(結婚する直前までは連絡しても良いだろう。彼女の近況を知りたいし、僕の近況も知らせたい。……それに彼女の事情や気が変わるかも知れない。それにまだ、ありがとうも言えていないし……)

 自分勝手な解釈と諦めの悪さと恋しさが、セカンドバックの中のマナーモードにした携帯電話を掴ませた。その時、手にした携帯電話がいつものリズミカルなパターンで震え、彼女からの着信を告げてくれる。

 僕は、やはり心は通じ合っていて思うところは同じだと、安堵感に満ちた嬉しさに急いでメールを開いた。

【ありがとう。思えば殆ど、私の我(わ)が儘(まま)に付き合わせただけだったよね。迷惑だったかもね。ごめんなさい。心から謝(あやま)ります。でもきっと、君が『そんな事は無いよ』と、言うのも分かっています】

 嬉しさが悲しさになり、安堵した気持ちは絶望の不安に襲われ、未練だらけの期待は凍(こお)り付いた。

(どうして、こんなメールを打つんだ……)

 溜めていた涙が、また溢れて僕の頬を流れて行き、深呼吸をして涙を拭い続きを読もうと画面に目を凝らした。気丈夫(きじょうぶ)な彼女がどんな思いで、このメールを打っていたのかと思うと、息ができないほど居た堪(たま)れない。

【このメールが最後だよ。今、携帯電話ショップの前にいるんだ。これから、この携帯電話の使用を解約するの。だから返信しても、電話しても、『現在、お掛けになった電話番号は使われておりません』だからね。もうこれからは、フィアンセの家から送られて来た携帯電話を使わなくちゃならないんだ。私の素行調査も今まで以上に徹底(てってい)して行われると思うし。通信履歴も知られちゃうから、新しい携帯電話からは君に掛けないね。新しい電話番号やメアドも教えないよ。この先、君に連絡する事は無いって意味だから、わかってよ。でもね、使っていた携帯電話のシムカードと、全てのデータを移したメモリーカードだけは大事に残しておくわ。私の大切な思い出だから……。私はいつも、この世界のどこかで君が元気で活躍していると信じていて、それを願い祈っているよ。……じゃあね。バイバイ!】

 上を仰(あお)いで僕は目を瞑(つむ)る。携帯電話を持つ手に力が入りプルプルと震えた。閉じた瞼からワッと涙が溢れて頬に幾筋も熱く流れた。いっそ大声で泣きたいけれど、他の乗客もいる列車内でそうすることはできない。俯いて両手で顔を覆い、流れ出る鼻水を啜(すす)りながら声を殺して泣いた。

(僕こそ、ありがとう。……いっしょに居てくれて)

 それは言えていない、言わなければならない感謝の言葉だった。

(しあわせに……!)

 また最後に、この大事な言葉を伝えられなかった。

 メールを読み終えた気持ちの動揺が静まると、僕は急いで彼女に電話した。

『お客様のお掛けになった電話番号は現在、使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度お掛け直しください』

 悲しいガイダンスが、平らな響きで小さなスピーカーから流れ、彼女のメールに書かれていた通り、既に彼女への通信手段は…… 絶たれていた。

 僕は彼女から手渡された駅弁を手に取り見詰める。駅弁を僕に渡す時の思い詰めたような、はにかんだような、彼女の表情を思い出した。

 駅弁を渡された時、彼女は直ぐに手を離さなかった。ほんの僅かな間だけど彼女はしっかりと駅弁を掴んでいて、渡したくない思いと躊躇いを感じた。そして彼女の美しい瞳は僕の目を見詰めていた。

(送られて来た携帯電話……、素行調査の徹底って……!)

 まだ彼女が会社を辞めるまでに、会社に電話をすれば秘書課で受付嬢の彼女に連絡できると一瞬考えたけれど、ここまでする彼女の決心をぐらつかすような未練は、与えてはいけないと察した。彼女は、重く複雑な事情が絡みつく人生を受け入れている。表情には現わさなかったけれど、辛いのは彼女の方だ。

 ……僕はまた、掛け替えの無い女性を失ってしまう憤りと悲しみに苛(さいな)まれた。

(こんなに別れが辛いだけなら……、もう…… 恋なんて……)

 彼女以外に僕の幸せは無いと思っていたのに、彼女の幸せの為の僕だったのに、全然違う、それは思いも寄らなかった彼女の幸せになってしまった。

 硬い弾力のネガティブが太い不信感の指で捕らえた僕を握り潰して行く。

 

 ---つづく

幸せに(僕 十八才) 桜の匂い 第八章 肆

 小学校六年生の春の出会いから別れは必然だったのだろうか? これで僕は彼女を諦めるしかないのだろうか? 今のままでは、そうなってしまうだろう。もう手遅れなのか? 時間は戻せなくて相模原の……、たった数時間の出来事が、それまで七年の間、ずっと想い続けて少しづつ掴んで積み上げて来た彼女の心を崩して無に帰させてしまうのか? 立戸の浜では良い感じだった。相模大野の駅前で会うところまでは希望に満ちていた。でも無計画なデートを僕は強行してしまった。

 後味の悪い初デートになってしまった。デート前の期待と希望に満ちた幸せな気持ちは、事前にもっと、……あの時は、ああすれば良かったとか……、後悔と失望と虚しさになって残った。それは彼女も同じ気持ちで、次のデートで遣り直せると思っているだろうと、暫くは不安混じりでも、去年からの急接近での齟齬くらいにしか思っていなかった。しかし、再会に至らないまま過ぎて行く日々に、彼女の僕への気持ち離れや意識の薄れを疑う疑心暗鬼が日増しに強まるばかりだった。

 それは水平線の彼方から迫る暗い前線雲のように、隙間の無い分厚さで少しづつ僕の全てを覆ってしまい、やっと親密になりつつある彼女との繋がりを直ぐにでも反故にされて、深刻な白紙事態に陥りそうな予感に苛ませた。

 あの日の多くの場面を……、日曜の寒い朝に出会えた相模大野の駅前、白バイに捕まって停車したR16の路肩、信号待ちでの立ち倒け、迷って行き戻りをした横浜の元町界隈、春風と陽射しの中の大桟橋、適当に走って迷った帰り道、迷い込んだ雑木林、昼飯のうどん屋と別れの相模大野の駅前、……それらを思い出す度に僕は考えていた。僕とは違うだろう彼女から見たシチュエーションと不甲斐無い僕の姿を、どのように彼女が感じて、どう思ったのかと……。

 初デートの後、彼女からのメールが返信メールも含めて極端に減った。相模原へ行く前までの週二度の着信が後では週一度となり、更に二週に一度になって、今は月一度と激減している。そして、相模原の初デートから再び彼女と会えないまま半年以上も経った肌寒い秋の日に、そのメールは来た。それは『ラストメール』とタイトルが表示されていた。

 何の前振りも無く届いた彼女のメールに僕は、やっと彼女の気持ちが落ち着いてデートの再開を知らせるものだと思い心をときめかせた。

 新たな始まりへの期待に高ぶる気持ちを抑えて開いたメールを読み終えると僕は、その信じられない文面に頭は霞み、不安と焦りでガクガクと震える体は行動を求めた。暗い視界と薄れる記憶に仕事は全く手に付かなくなり、翌日は衝動的な憤りに会社を休み、僕は相模原へとV-MAXを急がせた。

 『ドドッ、ドッ、ドッ』と、股下から響くエンジンのサウンドが、時に『ダメダメッ、ダメ』なんて嘆き悲しむ僕の心のように、時に『ムダ、ムダ、ムダッ』みたいな諭しに聞こえ、今ならまだ間に合うと意気込んだ自信と希望の神走りは相模原へ近付くにつれて、研ぎ澄ます予感の大胆さと勢いは無くなり、圧し掛かる現実に心は沈んで行く。もうかなり難い扱いに慣れて来たと思っていた大型バイクが、今日は重たくて憤るように感じる。

【彼氏ができたよ……。大学の先輩。格好良い人で背が高くて美形だよ。かなり女子達の憧れの的だったのに、このあいだ、その先輩から声掛けられちゃって、私でいいのって感じだったけど、なんか運命的なものを感じてしまって、それから先輩と御付き合いをしているの。男女交際ってやつね。……だから、もういいの。今までありがとう。彼氏っぽく扱っちゃって誤解させたかも知んないけど、あなたを彼氏と意識したことは無いの。やっぱり『ありがとう』じゃなくて、『ごめんなさい』だわ。だって私は、あなたのメル友でしょう。私達、男女交際までいっていなかったよね。あなたは私に何度も『好きだ』と伝えてくれたけど。私は一度も『あなたを好き』と言っていなかったでしょう。ごめんね。……あなたに相応しい素敵な女性が絶対いるよ。でも、それは私じゃないから……。ねぇ、もう私じゃなくてもいいでしょう。あなたが私を見なくなれば直ぐにでも綺麗で可愛くて賢い、こんな私と違って優しい彼女がきっとできるわ。あなたの幸せを祈ります。私は、あなたでは無い、あなたと違う別の男性と幸せになります。私の事は……、もういいよ。忘れて下さい。わかってくれるでしょう】

 彼女から初めて届いた長いメールは、極めてつれない悲惨な言葉のラッシュだった。

 半分くらい読むと涙が溢れて来て、読み進むのが辛い。次々と、信じられない言葉が僕を圧倒して行き、詰まりだした鼻腔に口でする息が喘いでしまう。潤んだ瞳は文字を滲ませ、溢れて頬を伝う涙は雫となって光る携帯電話の画面に落ちて弾ける。濡れた発光画面は滲んだ文面を暈して更に読み難くした。

(分からない! 解るわけがない! こんなメールだけじゃ、納得できないし、解る事も、忘れる事もできるはずがない!)

 彼女の仕種や表情や声に匂いも、恋焦がれた彼女の全てが僕には得られないものになってしまう。

(ううっ……、彼氏っぽくってなんだぁ? ちゃんと彼って言ってたじゃん!)

 楽しげな笑顔で明るい声で甘えた言葉を連ね、大学の大人びた先輩に嬉しそうに抱かれる彼女の想像した姿が脳裏を過り、僕は想像する虚しさに苛立ち、視界の奥が暗くなった。

(いっ、厭だ! かっ、彼女にとって、僕はただのメル友じゃなかったはずだ! ……そうだろ!)

 急に激しいジェラシーを憶えて鋭く痛む自分の胸を掴み、怒りに泡立つ頭を掻き毟る。そう、僕は自分自身へ猛烈に腹を立てていた。

(とうとう彼女に僕以外の彼氏ができてしまった……。でも、おかしい! 彼氏には僕がなるはず、……だったというか、なりかけて……、いや、なっていたと思っていた……)

 だけど、突き付けられた現実は僕の大いなる勘違いの所為で、あっさりとこの様だ。自分の甘さや温さが、そして、愚かさと鈍さが許せない。もう、僕は悲しみと虚しさだらけで居ても立っても居られなかった。

(とにかく、行動をしなければ! まだ、間に合うかも知れない。何もしなければ、彼女は永遠に手が届かない彼方へ行ってしまう。でも、どうすれば……。そう、彼女の近くへ行こう。もし出会えれば寄りを戻せるかも…… 知れない)

 出会えても彼女の心変わりを覆す言葉も術も考えつかないまま、V-MAXを急がせた。頼みは漠然とした偶然の出逢いと彼女の気移りだけで、逢えれば誠意を示して真心に訴えるだけで、何とか繋げれるだろうとしか考えていなかった。

 結果は見えているのに、僕は再び無計画にV-MAXを相模原へと走らせる。決め手は何も無いのに……、誠意と真心を示す方法は思い付かない……。

 彼女への想いの強さを僕自身に尋ね、そして答える。

(真剣に『好きだ』と言えるのか? 土下座して強く訴える覚悟が有るのか? ……有る! 絶対に有る。土下座もできる! 僕の彼女への想いは誰よりも、強くて、堅くて、重い!)

 近付いて来た相模原の大学に、僕は自問自答ばかりを繰り返す。

(彼女に会えたらどうするんだ? 彼氏を見せ付けてもらうのか? それとも彼女に罵詈雑言を浴びせて暴力を振るうのか? 逆に彼女に張り倒してもらいたいのか?)

 彼女の想いを僕に向けるだけの手立ても、術も、考えも無かった。僅かでも彼女の気持ちを覆せるだけの希望は何も無い。ただ会いたい想いと願いだけで僕はV-MAXを走らせている。これでは春の日の二の舞で返り討ちに会うだけだ。

 やっと僕へ向いてくれたと思っていた彼女の気持ちは、サラサラに乾いた砂を積み上げていたみたいで、少しの水で深い溝ができ、弱い風が吹き続けば天辺から平らに散らかされてしまう。そして誰かに掃られたり、踏まれたりして簡単に崩されしまうのだろうか? 雨降って地固まるの土にも成れていなかったし、まして、水を加えて熱を放ちながら硬く固まるコンクリートには全く近付けてもいなかった。

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 彼女が通う大学の構内に着くと躊躇わずに彼女に電話を掛けた。発信呼び出しキーを操作してから大胆になれている自分に驚いた。ここは、彼女が通う大学に隣接する付属病院の駐輪場だ。この時刻、彼女はキャンパス内の一角で講義を受けているかも知れない。いや講義は午後からで、まだアパートにいるのだろうか? それともアパートにいなくて……、講義も受けていなくて……。払拭できない思いが僕を焦らせて急がせ、加速する不安な気持ちに直接彼女の声で確かめたいと、僕は発信キーを押す。

「もしもし。電話しないでと言ったでしょ」

 いきなり前置きも無く返された早口の冷たい言葉が耳の奥の先へ響く。その怒りを含んだ言葉の声は、既に彼女が僕らの時間を、僕が告白した中学二年までへとリセットしたかのように聞こえた。その低い詰まらなさそうな声は中学二年当時を思い出させて、意気込みで膨らんだ僕の気持ちを、握り潰すように締め上げて畏縮させた。萎えて行く気持ちは僕を黙らせて声になるはずだった空気を、半開きになった口から無音で洩れさせた。

(もう、何もできる事は無いのだろうか?)

 僕の腕も、身体も、掠れてしまって、しっかりと彼女を掴んで、強引に振り向かせようとしても、擦り抜けてしまう気がする。

(……振り向かせても、僕の何を見て貰うんだ……)

「なんか用? 何も言わないのなら切るよ」

 声のトーンと口調は僕を凍て付かせて次に言うべき言葉を探せなくした。冷たく重ねる拒絶の言葉は断絶を促す。それでも僕は彼女の声を聞けて嬉しいと思う。

(彼女は、今、この街にいる……)

 僕を拒絶する彼女に、相模原へ来ていることを言おうか迷った。

「会いたい」

 僕は探りを入れながらも正直な気持ちを言った。

「会いたくないわ」

 あっさりと予想通りの返事が帰ってくる。彼女の言葉が造り出す壁が見えた気がした。

「会って、話がしたい……」

 憤慨ではなく失望で僕の声は、ビブラートで始まり早口になって末尾はか細く途切れた。たった十個の発音をしただけなのに息が詰まり、苦しさで吐く息が大きく震えた。

「話す事なんて、なっ、何もないわ! メールを読んだでしょう」

 僕を否定する彼女の声に僕は絶望の闇に沈められて行く。彼女の言葉と口調は、仕事で削り出した六面体鋼材の手が切れそうなエッジを思い出させる。そして、その鋭く冷たい言葉の角は、僕の気持ちをズタズタに切り裂いた。

「会うのも、話すのも必要ないでしょう。電話、切るわよ!」

 拒絶を繰り返す彼女は力を込めた鋭い声で圧さえつけて、更に深く絶望の闇に僕を沈めていく。それでも僕は光を探す。ほんの僅かな小さな瞬きでも見付けたい……。

「会いに行く! 僕は……」

『君のいる街に来ている』と、言いそうになるのを遮るように、

「会いに来ないで! 会いに来てどうするつもり? 話しをしてどうなるっていうの? 絶対に会わないからね。私は……、あなたを振ったの。そして、大学の先輩を選んだの。あなたを拒みたいのよ! 今、先輩と楽しく付き合っているわ! 素敵な男性なのよ……。だ、か、らぁ、邪魔しないでちょうだい!」

 スピーカーの向こうの彼女から発せられた過去形の『振った』が、息苦しい胸に切なく響いた。彼女は素敵で楽しい先輩を選び僕は比較されて負けた。もう邪魔な過去でしかない僕に酷い言葉を次から次と浴びせてくる。切なさは悲しさになった。

「君を探して、会って……」

(会えたとしても、もうどうしようもないのに……)

 自分の哀れさが言わせた。彼女が悲しい記憶になっていく。

(彼女の姿、様々な表情……、笑顔は滅多に見られなくて無表情か困ったような顔が多かった……。メールも声も、もはや見ることも聞く事もできなくなってしまう)

「探さないで! もうこの街に来ないでよ」

 彼女が僕の言葉を遮り、拒絶は断絶に変わった。憐れみなど微塵も無い。彼女と隔てる壁が急速に厚みと幅と高さが増して行く。彼女の言葉の前に僕は非力で惨めだった。

(それほど僕は嫌われていて、断罪されるくらいに酷く厭な奴なのか?)

「絶対会わない! 嫌よ! そんなストーカーみたいな事をしないで。……お願いだから諦めてよ。……あなたはそんな人じゃないでしょう」

 絶対拒絶を断言しながら一方的に僕を諭す。想いは伝えられずに拗れて断絶された関係が作られていく。

(そう、本当の僕は浅ましくて卑しい人間だ。もう抑えて隠して来た本性を晒してしまった……)

 ここに至れば、何を言っても、何をしても、二人が寄り添う関係には戻らないだろう。なら、彼女が選ぶ僕じゃない誰かは、外見や他人評価じゃなくて彼女を守って大事にしてくれる事が分かる誰かであって欲しい。僕を避けるメールには、それが書かれていなかった。

(違う……、彼女は思い違いをしている。先輩とやらに惑わされているだけだ。本当の彼女は思慮深くて思い遣りがあって優しいんだ)

 僕は諦め切れない。

「もう切るよ」

 最後の時が迫る。惨めさが僕を酷く苛んだ。

(この電話が切られたら再び彼女と連絡を取るのは無理だ。きっと僕の電話もメールも着信拒否するだろう)

「好きなんだ! 君が好きだ!」

 僕は電話の向こうへ叫ぶ。彼女の意志は固く、これっ切りになるのは避けられない。もう望みは無いのを分かっているのに叫ばずにいられない。疎外される惨めさが僕を追い込んでいく。

(君が必要なんだ! 君が欲しい! 世界中で僕が一番、君を大事に……、大切にしているんだ)

「好きだ! 好きだ! 君が好きだ! すきっ……」

 叫びは彼女の囁くような声で遮られ、僕は聞き耳を立てた。

(もう、彼女の笑顔は見られない……)

「あなたは、もういいの……。忘れて……、私を忘れてよ……」

『ブッ』落ち着いた小さな彼女の声を最後に通話は非情な音を立てて切れた。最後の落ち着いたトーンの丁寧な言葉が彼女の本気を僕に悟らせる。彼女を隔てる上下左右に果てしなく続いて、ビクともしない端の無い壁が見えた。乗り越えて進める余地は何処にも全く無い。

 焦った! 僕は焦り慌ててリダイヤルを押す。終わりになるにしても、別れる? にしても、もっと……、もう少し納得して受け入れたい。

(どうすれば納得できて、彼女への想いを逸らせれるのか、分からないけれど……)

『お掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛りません』

 僕は聞こえて来る無情なガイダンスで、背筋が凍り付き青褪めた。不安と寒気から全身が震えだす。辛辣な窮地に指先が小刻みに震えて、何度もリダイヤルキーを押し間違えた。しかしリダイヤルで繋がっても、ガイダンスは同じ内容を繰り返し伝える。今、この瞬間、僕は彼女から完全に拒絶された。……もう望みは無かった。

(望みが無い……、なぜ?)

『なぜ?』って答えは決まっている。彼女は僕で妥協しなかっただけのことだ。僕は彼女の想いの対象にならなかった。彼女が好みの男性と知り合って仲良しになれば、当然、元々彼女のタイプでないを僕を選ぶわけがない。しかも横浜港大桟橋への往復道程や相模大野駅前での失態で、僕の小心さやデリカシーの無さを見せ付けてしまったから、僕を見極めて愛想を尽かすに決まっている。ここに至った要因を一つ一つ思い出す。

 彼女に好かれた大学の先輩とやらが嫉ましい。そいつに一言でもいいから、

『人の彼女に手を出すな!』と、言い放って遣りたい。

(そいつも、このキャンパスに居るはずだ)

 僕はバカだ! 探しに行こうと病院の正門へ足を向けた途端に思った。

(誰を探すんだ? そいつの個人情報を、僕は何一つ知り得ていないぞ)

 探し出すにしても彼女に会うしかない。しかし、現実には携帯電話の電源を切られるほど拒絶されて無理だ。もし偶然に彼女と逢えたとしても、彼女の性格は絶対に先輩の情報を教えてくれないだろう。そいつが彼女といっしょにいるのを見付けて、いきなり僕が乱入して暴れても、辱しめを受けて惨めさと羞恥を塗り重ねるのは、僕だ!

 一方的な暴力は何も解決してくれない。私恨を残すだけで二度と元に戻せなくしてしまう。それに、その先輩は声を掛けてナンパしただけだ。中学で彼女の下駄箱にラブレターと入れた奴と同じでしかない。悪いのは誘いを受けた彼女だ! そして、もっと悪いのは彼女の気持ちを掴め切れずに迷わせた僕だ!

 暫く大学付属病院のロビーに佇み、それからキャンパス内をあても無く歩いた。彼女の学部が何処で、講義の時間がいつなのか全く分からなくて、僕と彼女が偶然に出逢える確立は極めて小さい。歩いているうちに凄く惨めで悲しい気持ちになった。

(虚しい……。僕はここで何をしてるのだろう? 彼女の気配すら感じないのに……。彼女の近くに来て、彼女と同じ空気を吸いたかっただけなのか? ここにいても僕にできる事は何も無くなった……)

 当ても無く彷徨うだけの僕は自分の仕業を肯定できない。全ての望みは断たれて、もう帰るしかなかった。

(もう、だめだ!)

 イニシアチブは彼女の側に有り、打つべき手は全て試みた。倍速リターンで残念な過去を無くす事もできない。後は……。

 状況も状態も絶望的ならば、最後の徒桜で彼女に悟らせて遣るべきだと思う。

(これっぽっちも望みが無いなら玉砕だ! せめて、一矢を報いて消えてやる!)

 気持ちが荒み捨て鉢なった僕は、最悪の後味にしてやろうと決めた。だけど、どうする。会社を無断で休み、このまま連日この相模原の大学の前で張り込むのか? ヒットする確率も小さいのに? 僕は完全にストーカーだ。付け廻して彼女の部屋へ忍び込むつもりなのか? そんなのは、ただの変質者の嫌がらせにしかならない。

 偶然にヒットして彼女と出逢い向き合ったとしても、何を言えばいいんだ? ストーカーになっても電話の言葉を繰り返して罵りで終わるだけだ。売り言葉に買い言葉になれば、自制できない僕は勢いで彼女に暴力を振るうだろう。更に暴行して強姦までしてしまうかも知れない。それこそ、刑事事件に発展して人生最悪になってしまう。

 それならば、彼女が傷つく酷い言葉を連ねて、未練だらけの恨みを込めた呪いのメールを送り付けて遣りたい。小心者の僕は、そんなちんけで卑劣な事しかできない。

「くそっ! ちくしょう……。くそ! くそくそくそ! くっそーっ」

『七年間の想いよ! 露と散れ』とばかりに恨み節を唱えながら、見苦しい勢いでキーを押しメール文を打ち込む。情け無さ、遣る瀬無さ、不甲斐無さ、それに無力さと虚しさが、醜く、矮小で、卑劣な僕にさせてしまった。

 トーンを低めた彼女の言葉尻から、直ぐにでも携帯電話の番号とメールアドレスを変更してしまうつもりだと察していて、僕を急がせる。

(さあ、ちゃっちゃっと送って、彼女がいた世界を終わりにしてしまえ……)

【ずっと見て来た。想い続けて来た。世界で一番、君を好きなのは僕だ! 僕以外に君を幸せにできる奴はいない! 君は僕の全てで、僕も君の全てなんだ。ただ君はそれに気付いていないんだ。気付かなくても感じているはずだ。僕は、君が男共に好かれて告白を沢山されている事も知っている。でも告白した奴らはみんな偽物さ。奴らは君の本当のキャラを知らないからな。だから、君は錯覚して自惚れているだけなんだ。それはダメだ。女子達が憧れるイケメンの先輩だって、君を騙しているだけだ。そんなモテモテのイケメンが、まともに君の相手をしてくれるはずがない。もし誘われたのなら、それはただのナンパで、君は騙されているのさ。それにスタイル的にも、フェイス的にも、キャラクター的にも、センス的にも、もっと好くて優れた女子大生は大勢いるよ。君のようなのを理解しているのは僕だけだ。そして僕が君にされたように、君も先輩に捨てられるんだ。それは、肉体的にも精神的にも酷い目にあわされてからかも知れないぞ! 辛い目にあって僕を振った事を後悔しろ! その時には、既に僕は、君とは違う素晴らしい女性に巡り逢えて幸せにしてるよ。じゃあな。奈落の底に落ちやがれ! あばよ!】

 憤りで打ち込んだ、だらだらと長くなったメール文を読み直し、幾つか文字と言いまわしを修正しながら思う。

(これは酷い! 辛いし悲しい、悲し過ぎる。……こんなのを送ってしまうと、彼女にとって僕は本当の悪者だ)

 再度メールを読み直し、酷い事を書き連ねた自分が本当に卑劣な奴だと自覚する。だけど、追い詰められた邪悪な奴は、こうせずにはいられない。

僕の強い想いを強調するどころか、僕の恋心を無碍にした彼女を陥れるアベンジャーで、祟り神だ!

(さぁ、すっきりさせよう!)

 送信キーに掛けていた指先に力を入れた。送信中のアイコン表示を見ていると、妙な感じに気分が晴れて行く。自分事ではなくて他人事にケリをつけたような達観した気分だ。後悔や憂いも無くて気分はすっきりしている。

(でも、まぁ、失恋の結末なんてこんなものだろう。清算の道連れに、己の修羅場を一方的に押し付けるだけさ。さらば、僕の初恋!)

 この晴れ晴れとした、してやったの気分は今だけだと分かっている。三十分も経てば徐々にメールを読んだ彼女の反応を知りたくなり、その知り得る術を無性に探しても、全て自ら絶たった事を知るだけで、そうした自分を呪うしかない。そして、毎日が後悔に苛まれるだろう。失恋の悲しみに憤り、嘆き沈む暗澹とした日々が続くだけだ。

 僕の七年も想い続けた初恋は、そんな簡単に忘れ去れるわけがない。

     *

 重いV-MAXを強引に倒してセンターラインぎりぎりまで膨らみながら、峠越えのタイトなカーブを攻めのアクセルワークで曲がり切る。ヘアピンカーブも以前はあんなに怖がって、ラインを考えても攻め切れなかったのに。もうどうなっても構わない、その遣る瀬ない自暴自棄の思いが、今日は何気にブラインドコーナーを攻めさせていた。今、この瞬間にグリップを失い滑るタイヤで人生が終わっても構わなかった。コンクリート壁やガードレールに張り付いても、路肩を越えて崖下へダイブしても、それが死に至る事故になるならと願いながら、僕はダウンヒルのコーナー攻めを繰り返す。ただ、その時は自損であって他人を巻き込んだり、迷惑を掛けるのだけは避けたい。そして、一瞬で二度と光が戻らない暗闇へと行かせて欲しいと祈る。

 そんな捨て身でコーナーを攻め続けた僕は市街地に入ると、交通ルールを順守して赤信号で停止し信号が変わるのをちゃんと待っていた。そんな自分が嘘臭い。

(矛盾している……、やっぱり命は惜しいか……。バカみたいだな。僕は……)

 アパートに戻って直ぐに風呂を湧かした。寒さに震えながら凍えた身体を湯船に沈める。今日の緊張と憤りと興奮が湯の温かさで解きほぐされて、後悔と不安と切なさに変わった。胸騒ぎは現実になってしまい、もう心は折れそうだ。

 僕は顔を湯船の底まで沈めて叫んだ。何度も何度も沈んで悔しさをぶつける言葉を叫ぶ。そして無念さを流すように底に顔を付けてさめざめと泣いた。

 七年を経過した僕の彼女への時間は、……今日、停止した。再び進み出す事は無い!

     *

 案の定、自らを断ち切った潔さは一週間も絶たずに後悔に戻り、僕の気持ちは暗澹とした。

(彼女の気持ちや想いを、全く考えていなかったんだ)

 無性に自分に腹が立ち、戻らない時間の反芻ばかりしている。彼女からメールが来なくなって、気持ちは暗くどんよりとした冬の金沢の空のように暗く沈んでいた。心は後悔の上書きだらけだ。

 相模原へ行き、彼女が通う大学で彼女を待ち伏せて帰宅する彼女の跡を付け、彼女の住いを見付け出す。そして未練がいっぱいの想いを認めた無記名の手紙を送る。手紙に入れるのは僕がパソコンで描いた絵だ。プリントした曼珠沙華の花の絵だ。その彼岸花の花言葉を彼女に気付いて欲しい。

『諦め』『悲しい思い出』『独立』『想うのは、あなた一人』『再会』儚げで切ない花言葉ばかりだ。僕の未練たっぷりの悲しい恋心を彼女に知らしめたい!

 諦め切れない僕は、酷い最終メールを送り付けて自ら微かな望みを絶ち、戻れなくしたのにも拘らず彼女と再び会う日を楽しみに、その日に期待を込めて実行しようかと考える。

 彼女の反応が善きにせよ、……良いわけないか……。悪しきにせよ、彼女が僕に連絡してくるまで、付き纏い嫌がらせみたいに手紙を送り捲くって監視し続ける……。これは陰湿で過激なストーカーそのものだ。付け回して部屋に忍び込んでやろう。監視カメラや盗聴器を仕込んで日々の行動や交友関係を調べ盗撮もして、彼女の人生の邪魔をして遣りたい。

 でも、そんな情けなくて悲しい事は自分自身へ恥かしくて実行できない。それに、ストーカーをする相手に犯人は僕だとバレバレだ。第一、彼女の気持ちが僕へ翻るわけがない! 真逆になってしまう。

 今日も会社の駐輪場でV-MAXに凭れながら、日本平の向こう富士山と箱根の山並みのそのまた向こうに想いを馳せ、彼女と最後に会った相模原の、僕の瞳に彼女といっしょに映り込んだ景色を思い返してしまう。

 相模大野の駅前に現れたエレガントな彼女と、息を切らして戻って来た彼女。

 白バイ警官の傍で書き込まれていく違反切符を、覗き見ていた彼女。

 圧し掛かるV-MAX越しに見えた、両手を広げて道行く自動車を停めていた彼女。

 一号線を逆方向に走ろうとした僕を、窘めた彼女。

 曇り空の下、冷たく薄暗い大桟橋を、つまらなそうに歩く彼女。

 ぽっかりと厚い雲の開いた晴れ間から差した春の陽を浴びて、萌え立つように輝く嬉しそうな彼女。

 カレーうどんを食べながら、バリバリっと、スタンガンを僕に押し当てようとした彼女。

 そして……、唇を噛みながら、小さく別れの手を振っていた彼女。

 去年の夏に、やっと六年越しで会えて話せるようになった。そして、今年の春に初めてのデートの約束をした。……だのに、デートの僅かな失敗の重なりが悲しい結末になってしまった!

 高校生の彼女に中学生の頃の彼女、彼女を気にしたのは小学六年の春だ。中学二年の春にはメールで告白して、どうにか想い受けて貰えた。だけど、ずっとメル友から進展しなくて会話は数えるほどしかなくて……。

 そんなささやかな思い出ばかりでも、僕の彼女への想いは真剣だった。

 もう、思い出したら切りが無い。結局何もできなくて嫌がらせを思考錯誤するだけの往生際の悪い僕は、情け無いくらいに未練だらけだ。でも今度こそ限界だった。、

(この先、偶然以外しか、彼女と逢う事も無いだろう)

 それも、僕に気付いた彼女は、さっさと避けて行くだろうから本当に出逢い頭の偶然しか無くなる。でも、こんなネチネチした諦め切れない未練だらけで息詰まる思考も、いつかは全てが過去の片隅に押し流されて、他の事象と同じように記憶は薄れて行き、途切れ途切れにしか思い出せなくなる。やがて僕の中の彼女は忘却の彼方へ去ってしまうだけだと思う。

     *

 彼女からのラストメールを受け、『もう、いい。忘れて』と断絶される電話を掛け、挙げ句に嫌がらせの酷いメールを彼女に送信してから二ヶ月、晩秋の朝晩は冷え込み、日中の風も冷たくなって来た。そろそろ御殿場や箱根辺りの道が、凍結しだすだろう。昨日は金沢に霙が降ったと、お袋が電話で言っていた。もう直にV-MAXで彼女を捜しに行けなくなる。そうなると、どう遣って相模原へ行こうかと悩みながら屋上の隅で東名高速と富士山を眺めていた。

(僕はもう、ストーカーだ……)

「元気ないじゃん!」

 不穏な思考の最中に、女性の明るく大きな声がして肩を叩かれた。

 ビックン! あまりの突然さに心臓が飛び出さんばかりに驚いて、罪深さを悟られたのではと疑った。レベル最高の警戒感に飛び出さなかった心臓がドックン、ドックンと拍動し出す。

(この声は……?)

 聞き覚えのある声に振り向くと、直ぐ後ろに若い女の人が笑顔で僕を見ていた。その笑顔の人は、スタイルの良さと大人びた物腰が人目を引き付ける優しそうな顔立ちの美しい人で、同期で入社した大学新卒の四歳も年上の女性だった。笑いで細めた三日月のような目が素敵だと思う。

 新入社員達の集会や研修ではリーダー格になっていないけれど、すっきりとした良く通る声で発言して、その明るい表情や容姿や話し方は、場の雰囲気を和やかに纏めるムードメーカー的な存在だった。何処を見ていても、誰と話していても、瞳がキラキラしていて魅惑的だ。秘書課に配属されて会社の顔とも言える受付の仕事をしている。訪問される御客達への印象も良くて僕には全く縁の無い女性だと思っていたのに、初めてその人から声を掛けられた。

「どうしたの? 最近、憂愁を帯びているよ。それに、いつも一人だし」

 楽しそうに良く笑い、笑顔がとても似合う人だ。笑顔になると美人に可愛さと人懐こさがプラスされて、胸騒ぎするほど綺麗で魅力的な女性になる。同期は言うまでも無く、先輩達や上司にも人気が有り、お客さんを含めて、この人のファンは多い。そんなスターのような女性が僕のようすを見ていて、心配してくれている。

 恋焦がれた大好きな女の子に振られて落ち込み、塞ぐ気持ちに仕事は失敗続きで、一人沈んでいる僕はどう見てもしょぼくれたオタクで根暗な男の子だろう。そんな僕に笑顔で話し掛けてくれた。

「臭いですよ。僕に近付くと現場の臭いが移りますよ」

 物思いに耽っているのを、邪魔しないでくれと言う意味で僕は言った。

「構わないよ。作業場や工場の臭いは嫌いじゃないから」

 余程、慣れていないと普通の女性は鉄や鉱物油の臭いを嫌う。

「そういう憂いたのは、ちょっと母性本能を擽るかな」

『臭いなんて気にしないよ』と言わんばかりに顔を近づけて言われた。綺麗な顔を軽やかな香水が引き立てる。

 今の僕が、ぼっこりと深く抉り取られたように凹んでいるのを分かっているように、平気で話し掛けて来た事に僕は、この女性に観察されていたらしいと思った。

(いったい、いつから見られていたんだ?)

 入社式以来、殆ど接する機会は無くて実習でも同じグループになっていないし、今日まで言葉を交わした事はなかった。

「悩みが有るなら、お姉さんが聞いてあげるよ」

 ぼんやりと一人でいる僕の様子が変に見えたのだろう。焦点が定まらない一点を見詰める虚ろな瞳が影を失い、生鮮市場の魚みたいな光の無さに思われたのかも知れない。現に人生の支えを逃がして生きる意欲が薄らいだ僕は全てに集中できず、仕事は失敗続きだった。機械を操作中や組立作業中にボーとして手が停まってしまい、造ってはミスだらけでその修正や造り直しに明け暮れていた。いつも先輩や上司に叱られてばかりだ。

 それに作業事故を起こしそうで危険だった。このまま集中力を欠いていたら、近い内に回転する機械に巻き込まれて大怪我をするか、人生が終わって仕舞うだろう。

 態度や私生活にも覇気が無い。頭の中の意識と体の動きが伴わなくなり、トイレの用足しを便器ではなくて流しや洗面所でしそうになった。会社でもアパートでもズボンのファスナーを下げてから、鏡と向き合って初めてハッと気が付く始末だった。

 メリハリを感じなくなった僕は全てに投げ遣りになってしまい、遣る気が無く、仕事も、生活も、将来も、どうでもいいと思っていた。そんな無気力が周りにも分かるのだろう。

「ねぇ! 今晩いっしょにデートしない? お姉さんがゴチするから」

 僕の元気の無さを見兼ねてか、その人は僕を夕飯に誘ってくれた。兄や姉のいない僕には『お姉さん』の響きは新鮮で魅惑的だったけれど、姉の存在というのが感覚的に解らない。それは『甘えなさい』の意味なのだろうか?

(『お姉さん』に、甘えてもいいのか?)

 でも今は、とても甘えて愚痴る気分になれない。年上の美しい女性から食事に誘われても少しも嬉しくなかった。引き摺る彼女への未練な想いと、不甲斐無い結末への後悔が強過ぎて、いっしょの食事をするだけなのに、素直に誘いを受ける気分になれない。彼女以外の女性と親しくするなんて、まだ考えられなかった。

「すみません。今日は無理です。残業で遅くなります。あなたに御馳走していただく理由も無いですし……、それにまだ、誰かといっしょの食事は…… 遠慮したいです」

 僕はできるだけ丁寧に断った。それに、

(なぜ、僕を誘うわけ? 彼氏とかいないのか? ノコノコと誘いに乗って行くと、サークルの集まりのような大勢での食事会だったりしてね……)

 そういうバカを見るようなのは堪らない。勘弁してもらいたい。

「ふぅ~ん。今晩はダメなのね。また誘うわ。君がいっしょに食べてくれるまで誘うから……、いいわね!」

     *

 誘いを二度断った。二度目は、最近失恋したので誰かと食事する気持ちにはならないと告げた。一人で居たいとも言った。

「そう、失恋したんだ! だったら尚更、私といっしょにディナーするのを薦めるわ」

 さらりと、三度目も明るい笑顔で諭すように誘われるけれど、この年上の女性への不信感を払えない僕は、避ける術を迷いながら断りの言葉を捜す。

 今はまだ、粘着きに囚われる僕には、『お姉さん』のライトなフットワークが辛い。

「もしかして君は、私を警戒してるの? そりゃ、何の前振りも無くしつこく誘えば、疑うのは当たり前よね。でも、メジャーで健全な店での私と二人っきりのディナーだから、安心していいよ。私は本当に君とデートしてみたいだけなんだから」

 そして断りの言葉を見付けれないままに、僕は半ば強引に連れて行かれた。

(何かの思想的な……、宗教の勧誘かな? それとも、ネズミ講みたいな不思議商品の売り付けなのか? 落ち込んでいる人は魅力的な女性の小悪魔的誘いに弱いからな。でも……、やはり二度も断わったから意地になって僕と連れ立っているのかも。これだけ綺麗な女性だ……、きっとプライドは高いに決まっている。男からの誘いばかりで自分から誘うことは無かったのだろう。まして断わられるとは、思ってもいなかったんだな。そうに決まっている)

 『お姉さん』の自動車に乗せられて連れて行かれたビストロで、マジマジと僕を観察する嬉しくない視線を注ぐ美しい年上の女性に、チラチラと目を合わせながら思った。

「君、彼女に感謝している? 彼女に『ありがとう』と、ちゃんと言っていた? 彼女に自分の想いや行動を押し付けていなかった? 彼女にばかり『ありがとう』と言わせてなかった? ちゃんと彼女の気持ちを考えていたの?」

(最初に誘われた時は単なる気紛れに過ぎない。今は自分を敬わない臣民に崇めるように無理強いする女王様だ)

 オードブルに使うフォークを指で差し示し持ち方まで僕に教えながら、美しい人は訊いてくる。

(その本題への切り口の『ありがとう』は、自分の経験からですか?)

 考えもしなかったことを問われて、僕は戸惑った

「うん……」

(そりゃ、感謝してたさ。でも『ありがとう』は僕ばかりで、彼女は殆ど言ってないな)

 鈍い僕は、彼女の気持ちを考えていなくて、いつも、彼女の気持ちに気付かなかったのは事実だった。結果は失恋して戻せない時間に後悔ばかりしている……。

 沈むように黙ってしまった僕に気遣ったのか、社内の出来事や日常生活の様子に話題を変えてディナーは進んだ。相手の意図を探るように受け答えしていた僕は、料理の内容も味も全然記憶されていなかったけれど、ただ、食後の珈琲を飲む女性の手が印象に残った。白いコーヒーカップを持つ手の爪が滑らかにネイルケアされて、その嫌味の無い光の反射は、能登の白い砂浜にぽつりぽつりと煌く桜貝を思い出させた。

 直にラストの珈琲を飲み終え、『夜景を見に行こう』と促されるままに車に乗せられて、日本平の麓に連なる丘のような池田山の天辺まで来た。

 街灯の灯りも無い真っ暗な茶畑の中の農道に自動車を停め、年上の女性は無言でヘッドライトを消してエンジンを切る。カーオーディオから流れていた音楽も途絶えて闇と静寂が訪れ、何かが始まる期待と不安に僕は身構えて固まってしまう。そんな緊張して動けない僕を解したのは、晩秋の夜の澄み切った大気の中、目の前のフロントガラス越しに広がる銀色の光点の群がりの美しさだった。それまで、美しい夜景を見ようと意識することも、そんなデートスポットを求める事も、必要とは思っていなかった。僕は思わずフロントガラスに顔を近付けて目を見張った。

 遠くの安倍川の向こうから一直線に新幹線の光りの繋がり右手の闇に消えて行く。銀河の中に幾つか見えるブラックホールやダークマターのような黒い空間は、市街地に点在する小高い丘の風致地帯だ。左手には、会社近くに在る東名高速道路が連なって走る自動車のライトで、用宗地区の日本坂トンネルと池田山の麓を結ぶ白と赤の光りの帯のように見える。見知っているいつもの身近が違う世界に思えて、錯覚だと解っていても不思議な感じがした。

 闇に浮かぶ銀河のような静岡市街の美しさに言葉を失い、運転席に座る女性の顔を振り仰いで、ここに僕を連れて来た意図を探る。仰ぎ見たその顔は銀色の光りで仄かに白く輝いて妖艶な美しさを放ち、思わず呟くように声が出て暫し見入ってしまった。

「綺麗だ……」

 僕の呟く声が聞こえたのか、見詰められているのに気付いたのか、妖しく惑わすような美しい顔の、瞬く銀の光りで煌めく瞳がゆっくりと僕を見て、闇の中の白く冷めたような表情が僕を誘っているような気がした。

(なんなんだ? このシチュエーションは! ムードを高めて一気に奈落に突き落とすサプライズなのか? 悲観に暮れる僕を、戻って来れないくらい徹底的に、深淵の奥に落とそうとするつもりなのかも。それとも絶望に沈み嘆き慟哭する僕の暗い表情を見たいだけかも知れない)

 悲愴な不安が脳裏を過る。それでも夜景観賞の果ての妖しげな結末を期待していた。

「ねぇ、二人の出逢いから話してくれる?」

 相反する思考に揺れる僕を無視するかのように、顰めた声が落ち着いたトーンで聞こえた。

(いよいよ本題だ……。果たして僕に僅かでも立つ瀬が在るだろうか?)

 耳に残る重みを含む声は警戒して構えた僕の気持ちを崩し、ゆっくりと少しずつ場面場面を思い出させて僕を語らせた。彼女との出会いから一方的な断絶で決定的に振られるまでを、僕の視点の想いで無警戒に話す。

 初めての声を掛けた春の日、フラれた彼女とは上手く話せなくて、メル友から殆ど進展しなかったこと、騙したようにメールで告白したこと、コーラス祭の一瞬の出来事、バス事故で彼女を守れたこと、インターハイのこと、暑中見舞いのハガキを見て奥能登の浜まで会いに行ったこと、その田舎の海で彼女の冗談に殺されかけた事、相模大野で待ち合わせてバイクにタンデムして大桟橋へデートに行ったこと、そして大学の先輩の彼氏ができて、あっさりと振られたこと、それで捨てセリフ代わりに酷いメールを送るまで全てを話した。特に最後の酷いメールは大体の内容を話し、とても後悔して大いに反省して悩んでいると伝えた。

「君は本当に、その子が大好きで、大切で、愛していたんだ」

(愛して……?)

 明るく発音された軽い『アイ』に、重さの無さよりも照れ臭さと恥ずかしさに戸惑い、深さと高さと広がりを感じた。

(そうか! これが愛するってこと、……なのか?)

 大好きな、掛け替えの無い、大切で、大事な、慈しむ、愛おしい想いと心。僕は『愛』をそう理解できると、今まで大好きだけでは言い表せない変化して行く想いに躊躇い、解からなくて彼女に伝え切れていない『大好き』が、全て『愛してる』になった。

「最後のメールは、いただけないな。君は彼女に酷い事をしたね。最低だわ」

 今一番の悩みを指摘された。妖艶な唇から放たれた『酷い事』と『最低』は、覚悟していただけに強烈に響き、呪いの言霊の如く僕を凍らせた。

(そう僕は酷い奴です。最低な僕を責めて下さい)

「振られた悔しさで罵りたい気持ちは解るよ。自分を捨てた相手に極僅かでも想いの強さを知らしめて転機を得たい、それが無理なら少しでもダメージを与えて憂さを晴らしたいっていう気持ちは解るわ。私だって、そんなに愛した相手なら君と同じようにする」

(でしょう。そうでしょう。僕がそうせずにいられなかった気持ちを、解ってくれますよね)

「でもね。彼女の容姿や性格まで否定したのは余計よ。書くべきじゃなかったわ。それは君の本心じゃないでしょう? 君は彼女の顔も姿も性格も声も匂いも大好きだったのでしょう? それなのに他の男に取られまいとして、憤りに我を忘れて自分の想いまで否定してしまった。それらは、彼女のこれまでの人生そのモノなのに、彼女にはどうしょうもなくて、直ぐには改めれない事ばかりなのに。君は本当に酷くて最低ね。バカよ」

 言われるまでもなく僕はバカだったと自分を責めていた。そのバカの言葉が懐かしく聞こえて、後ろめたさと恥ずかしさが拡大して行く。本当に言われた通りだった。大好きだった彼女の容姿まで非難して、僕は七年間の想いを無かった事のようにした。そして、それを彼女に押し付けた。もう取り返しがつかない。最低だ!

「彼女がメールを読まずに削除したのなら良いけれど、読めば絶対に明るいグレーや少しダークなグレーで終わっていた君を、完全にブラックにしてしまうよ。それも暗黒の闇で悪よ。君は彼女にとって最低最悪になってしまったわ。非常に残念な結果になってしまったね」

 最低に最悪が加わった。彼女がメールを開かずに削除した事を願い祈りたい。でも、きっと彼女は僕の最低最悪メールを読んでいると思う。

(それも解る。メールを読んだならば、僕は彼女の最も憎むべき悪になっているに違いない。バッドでダークだ! 放射性物質の飛散みたいに、半径二十キロメートル圏内へは近付いて欲しくないだろう)

「まだ土下座攻めで、『僕の唯一無為、世界で一つだけの愛』アピールをし続けた方が結果は良かったかもね」

 どうにかして出逢い土下座で謝り、願いしていれば、もしかして覆す可能性が有ったのかも知れない。少なくともブラックなメモリーにはならなかっただろう。それでも引き摺る未練で同じような酷いメールを送ってしまうと思う。今となっては土下座も絶対に効果無し、悪足掻きも限界だ。多少時間を伸ばすだけで結果は同じだ。

「それにしても、良くそんな素っ気無い子に、何年も想いを寄せていたものね。ちょっと良いことも有ったみたいだけれど、呆れるわ! 違うウェットな子を好きになっていたら、もっとしっくりした付き合いをして、高校生でエッチまでしていたかもね」

 手厳しく痛い評価をされた。歯に衣着せぬ端的な物言いにたじろぎながら、確かに、普通に話せた女の子を好きになっていれば、しっぽりした高校生活になっていただろうと思う…。

「それにしても、溜めに溜めて叶った初デートのメインのランチが、饂飩屋でカツ丼とカレーうどんか……。経験豊富な私でも退いちゃうよ。初デートでなけりゃ有りだけどね」

 とうとう振られる原因になったと気にしていたことを言われてしまった。それが、彼女の気持ちを決定付けたと僕は本気で思っている。

「君は本当に無計画だったんだね。君も彼女も、けっこう親しくなっていたんでしょう? 出会い系じゃないんだから、ふつう、デートコースぐらい確認し合うわよね。初デートをお昼で終了した彼女の気持ちが分かるわ。それで午後の部は取り止めっていっても、それも何も考えてなかったんだよね。もう君は、全然女の子の気持ちが分かってないじゃん」

 続けざまの突っ込みに僕の心は折れそうだ。……いや、既に折れている。僕のとった行動や判断は、状況を話しただけで聞き手の気持ちを退かせるくらいだった。僕は恥かしさで焦り、自分の不甲斐無さをオープンに晒してしまった事を後悔して動揺した。

 拒否された現実を認めたくない思いから、直に彼女に断絶されていても不敵な不撓不屈の想いと意思を持ち、新たな打ち手でチャンスを狙えば何とか成ると考えていた。そのストーカーのような一縷の望みは絶たれて消えうせ、諦めというぜ絶望が僕の心を支配して行く。

「結果論だけどデートを中止していれば、最初で最後のデートにならなかったかもね。でも、今の君じゃ、遅かれ早かれ同じ結果になっちゃうね」

 車内の暗がりに浮ぶ妖艶な白さの美しい顔の口から、更に軽く放たれた冷ややかで言葉は、恥ずかしさと後悔で震える惨めな僕の心を、水に落とされた鉛のように揺らぎもせず一直線に悲しみの深淵に沈ませた。もう心はボキボキに根本から折れて、僕は無気力に項垂れてしまう。

 折れ残った心も引っこ抜かれそうで、藁でも、蜘蛛の糸でも、僕が救われる何かを大急ぎで探す。

「それで何をプレゼントしたの?」

 立つ瀬を失い塞ぎ込んでしまった僕を気遣ったのか、『美しいお姉さん』は饂飩屋で彼女に渡したプレゼントへ話題を変えてくる。

「……僕の作ったヨーロッパのお城のミニチュアを。僕の趣味なんだ。それとスタンガン……」

(そうだ! 救いとなる希望があった。彼女を想い、彼女の為に、彼女を気遣ったプレゼントをしたんだ)

全く希望的な観測だ。厳ついスタンガンは缶コーヒーくらいの大きさと重さだ。そして、無造作にバックへ入れてると、何かの弾みでスイッチが入って自分に放電してしまうかも知れない危険な物だ。真っ先に持ち歩き物のリストから外されるだろう。それに使うような危機的状況に遭遇するのは稀で、感謝される確率は非常に小さいし、電撃を放っても逃れれるとは限らない。奪われて逆に電撃されるなど更に酷い事をされたら、きっと僕は恨まれる。電撃を喰らわせて撃退しても僕が感謝

「ダメね。それじゃあ、君は女の子のハートは掴めないよ。まぁ、スタンガンはいいか。彼女が捨てないで、持ち歩いてくれればいいんだけどね。でもミニチュアはダメ!」

 あっさりとダメ出しされた。

(……ちょっと重いけれどスタンガンは、護身用アイテムだからな。役に立つさ)

「でもねぇ、君の彼女への想いは解かるけれど、ふつうスタンガンはプレゼントしないよ」

 僕は、彼女がスタンガンを受け取ってくれたことを嬉しく思っていた。有ってはならないのだけど、スタンガンが彼女を救う事になれば感謝するだろう。そうなれば渡した僕に思いを馳せて連絡してくれるだろうと考えていた。

(使う気満々の彼女は、スタンガンを面白がって放電させてけれど、普通は恐がるよな……)

 それなりの評価のスタンガンはさておき、僕は自信作のミニチュアを弁護する。

「マイナーな小さなお城をモデルにして作ったんだ。彼女の気に入るように……、そして、僕を思い出してもらう為の……、オブジェのつもりだったんだけど……」

 既製品なら退かれるだろう。でも、僕の手造りの逸品で自信作だった。末序列の領主貴族の小さな出城的な城館をイメージして制作したミニチュアで、受け取る彼女の気持ちに配慮して暗い印象を与えないよう、明るい黄色をベースにしたカラーリングにカラフルな流旗を林立させて、ショートケーキみたいにキュートな感じにした。

 拘りのイメージと配慮に僕の想いを込めた手造りだから、必ず僕の気持ちが伝わるはずだと思って渡していた。だけど今、冷静に考えるとミニチュアごときで上手く伝わるはずは無く『お姉さん』の言う通り、彼女には鬱陶しいだけだったと思う。僕の何も確信の無い配慮は虚しく、その拘った作品イメージは空回りするマスターベーションに過ぎなかった。

「プレゼントセンス、全然無し! 如何にも真っ先に捨てられそうなプレゼントだねぇ。君は著名な芸術家じゃないんだから、将来、作品にプレミア付かないしねー」

 確かにその通りだ。僕の作品は土産物の価値も無い。それでもと、遠くの信号機の点滅が僕の納得できない気持ちを後押しする。

「むっ! だけどね。中学の時には賞を取って展示された僕の美術作品に、彼女は見入っていたんだぞ。だから……」

 ミニチュアの城館は彼女の机や本棚に置かれ、時折り何気に目に触れて一瞬だけでも僕を思い出して欲しいと考えていた。

「全然ダメ! そんな机や本棚の隅で埃を被るだけの物を貰って、彼女が喜ぶとでも思ったの? 年頃の女の子が何に興味があって憧れるのか、雑誌やインターネットや周りの女の子達を見て勉強しなさい。君を意識して想って貰いたかったら、いつも身に付けて使う物にしないとね。ピアスとか、バレッタとか。スカーフやハンカチもいいし、ソックスでもいいね。あっ、メガネなんてベターだね。……いやいや、メガネやソックスはマニアックだわ」

(この人も『全然』を良く使う。しかも連チャンで。……そう、僕は全然ダメな奴です)

 言われて初めて気が付いた。僕は自分を印象付けたいだけの、僕の向きからだけでしか考えていなかった。僕は鈍い自分を呪う。

(僕にメガネ属性は無いし、だいたい僕一人で選べないじゃん?)。

「それより、自分のファッションセンスをどうにかしないとね」

 ファッションがイケてる、イケてないとか何がどう違うのか良くわからない。

「大丈夫! 私が君のファッション感性を変えてあげるわ」

(うっ、なぜ、そこまで? それは、けっこう余計な事かも)

「う~ん、別に、僕のセンスを変えてくれなくてもいいですよ。今日のような機会は、今後は無いでしょうから。それに今のままで困っていません。会社とアパートの往復は、帰りにスーパーやコンビニで買い物するくらいだから会社の制服です。制服と言っても作業服だけど……。部屋じゃスウェットで十分です。免許が無いから自動車を持ってなくて、休みの日も外出はバイクを乗り回すだけで、だから服装なんて気にしたことも……、あまり考えた事も、興味も無くて……。それに、あんまり服を持っていません」

 今、着ているのはファンシーケースの中で一番上等のセンスも良さげな服だ。それで感性まで指摘されたのが悲しい。

「バーカ、そんなのだから、呆れられるのよ。愛想も尽きるわよ」

 僕のファッションセンスの無さを叱られながら僕は比べていた。彼女が可愛くて綺麗なら、この人は綺麗で可愛い。

(あれ? う~ん、分かり辛いな。彼女がアイドルっぽいなら、『綺麗なお姉さん』は女優系だろう)

 デートの終わりは、自己主張と自由さの個性だと異議を唱える僕の努力も空しく、どうしてもファッションセンスを変えさすと言い張る、『お姉さん』の一方的な強引さに押し切られて渋々『ご指導、ご鞭撻を御願いします』と、言わされた。

「さあ、もう晩いわ。帰りましょう。君を送るから住所を教えて」

 ちょっとだけ嬉しさを感じた『送る』の言葉に、通勤の足のバイクは会社に有るのにと思いながらも、GPSロードナビゲーションに打ち込む住所を『お姉さん』に伝え終わる頃には、朝の運動がてらに歩くかと有り難く送られるのを受け入れていた。

「ふう~ん、いずみ荘ね。これ、アパートなの?」

 頷く僕を見る『お姉さん』は、クシュっとブレーキペダルを踏みながらサイドブレーキを解除すると、トランスミッションのモードセレクトレバーをパーキングの位置からドライブへカコカコっと移してロックした。そんな暗い車内でする『お姉さん』の手馴れた操作がとてもクールに見えて、僕も自動車運転免許を取ってみようかと思ってしまう。

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 自動車がいずみ荘の前に着く頃には、僕は服のセンスを変えさせられるのも受け入れて、すっかりその気になっていた。

 ドアノブに手を掛ける前に、僕は向き直り深く頭を下げてお礼を言う。

「今日は、ありがとうございました。御馳走様でした。話が出来て良かったです。すっきりしました。明日から元の自分に戻れそうです。これからもご指導下さい」

 期待した妖しい結末はなかったけれど、女性と二人だけのディナー、人気の無い真っ暗な場所に連れて行かれて二人で見る夜景、そして悩みを深く吐露した。全て初めての事だった。

「お役に立てて良かったわ。また悩んだら、いつでも、お姉さんに相談しなさい。私はあなたの味方よ」

 どこまで味方だろうと思いながら、はっきり味方だと言ってくれたことが嬉しかった。

「ごめんね。バイク、会社に置きっぱなしにさせちゃって。ちゃんと明日の朝、お姉さんは迎えに来るからね」

(えっ、今、なんて言われた?『お姉さん』が迎えに来る? なんで?)

「あ、朝、迎えに来てくれるんですか? どうして? 会社まで二キロメートルほどですから、歩いて出勤しますよ」

 僕の問いに、『お姉さん』はニッコリ笑う。

「だって、バイクは会社でしょう。連れ回したのは私だし、君のアパートまで来ちゃったし」

 言葉は語尾までユーモア溢れて優しいけれどズレている。それはホスト都合でゲストの意向を訊かれてもいない。

「なら、今から僕を会社まで乗せてって下さい。会社からバイクで帰ります」

 今夜の翌朝は連続して近過ぎで、今後の『お姉さん』への対応と、今夜の出来事の反芻と、『お姉さん』に諭された事を考え直す時間が無い。

「ダメ! いやよ! ここで降りなさい」

 語気を強めた何処かで聞いた言い方に、デジャビュを感じた。

(あっれぇー? なにその一方的な決め付けは? 僕の道理は無視しちゃうんだ。朝の迎えなんて、頼んでないし、そこまでされる覚えもないし、意味がわからん!)

 などと、思うところは有っても、それは口にしない。

「……はい……」

 彼女との経験から、これ以上逆らわない方が良いと思う。悪意が無いのに強く拒む理由は無かった。リードされている内は自然体で受けいれて、任せていた方が齟齬は発生しない。

「じゃ、また明日、おやすみバイバイ」

 自動車から降りた僕に『お姉さん』は、小さく手を振って言った。

「おやすみなさい……」

(なんて屈託の無い、明るく爽やかな女性なのだろう。それに綺麗だ……)

 走り去って行く自動車のテールライトを手を振りながら見詰め、これから近しくなれたらと僕は思う。胸の中の彼女の広がりが、少し粗密になって小さくなった気がした。小さくなった分だけ濃密なモノが入り込んだようで、俄かに心がざわついた。

     *

「もう少しだけど、ここで降りて歩きで出勤しれくれる? 私といっしょにいるのを見られたら、いろいろ面倒でしょう?」

 そう言って、翌朝は迎えに来たのに会社から一区画隔てた路地裏で自動車を停めた。

(うっ! ここで降りなくちゃならないんですか? 一区画といっても家電メーカーの大きな工場区画で、まだ何百メートルもあるのに……)

 そう思いながらも、僕は『お姉さん』の指示に従う。

「はい……」

 降り掛けにフロントパネルの上に置かれた『お姉さん』の携帯電話が、メロディーを奏でて振動し受信を知らせた。携帯電話を手に取った『お姉さん』は、画面に表示された相手を確認し、アイコンタクトと手振りで『早く降りて』と僕を促しながら電話に出る。

「会社や寮へ電話しないでよ、お母さん。そう言ってあったでしょう。掛けるなら私の携帯電話にしてよ。わかったぁ? 今度、会社へ電話したら、当分、家に帰らないわよ」

 ドアを閉めようとした時、いきなり凄い剣幕で話す、『お姉さん』の怒鳴るような声が聞こえた。振り返ると眉を吊り上げ、眉間に皺を寄せ、口を尖らせて嫌そうに顔を歪ます『綺麗なお姉さん』がいた。間近に僕がいるのにお構いなしだ。

 そんな優しくない顔の『お姉さん』も綺麗だと思った。

 『お姉さん』は母親と口論してように聞こえた。余裕で今を生きていると思えていた『お姉さん』のも、何か家庭的な問題が有るのだろうか?

「そんな事……、お母さんとお父さんでやってよ。私がいなくてもできる事じゃない。私は納得して承諾したわ。もう覚悟を決めたのよ。これ以上、私を縛り付けないで! お願いだから……」

 ドアを閉め切る前に『お姉さん』の早口が耳に届く。聞いてしまった内容から何かに抗っているように思えた。それにしても一方的でキツイ話し方だった。昨夜は僕を諭してくれたのに……、何か納得できない。

(『お姉さん』の母親も、同じような口調で話していたのだろうか? いったいどんな家庭なんだ?)

     *

 間も無く日付が変わろうとする頃、ドアチャイムが立て続けで鳴り響き、ノートパソコンで海外のエロサイトをネットサーフィンしていた僕は、イスから転げ落ちるくらいにびっくりして慌てた。急いで開いていた幾つものウインドーを画面の下隅へ隠して、恐る恐る忍び足で近寄りドアスコープのカバーをそっと外して覗いた。

 再びチャイムが連弾する。借りている四畳半相当の広さの部屋は防音施工だけど、簡易遮音でしかない。だから無音にはならずに小さな音で、隣の住人には聞こえているだろう。

(早く対処しなければ……! 些細な事で近隣住民とトラブルのは御免だ)

 まだ、ここ静岡で深夜に訪ねて来るほどの親しい友人はできていない。それに会社の総務部と区役所しか僕の住所を知らないはずだ。そして、まだ上司や先輩達には僕の住まいの詳しい場所を教えていなかった。

 いずみ荘の半分は近くのレストラン北欧に働く人達の寮にもなっている。彼らは賄いの残りで深夜パーティーをしていて、時々、この時刻に差し入れを頂いていた。有り難く感謝の心で頂き、一度も断った事が無い。来るといつもドアを静かにノックして、一度たりもチャイムを鳴らした事は無かった。それに『居るか?』とか、『食うか?』と、必ず声を掛けて来た。でもドア向こうのストレンジャーは、ノックもせず無言でチャイムを連チャンで鳴らし続けている。

(誰だぁ……?)

 部屋の灯りが点いて、部屋を暖めるエアコンの室外機も回っている。僕が居るのを分かっていての深夜の訪問だ。僕は故意犯的な訪問者に警戒心を強め身構える。

(怪しい……、不測の事態だ!  これは招かざる客かも知れなくて、ドアを開けた途端に僕は被害者になる、……かも)

 ドアスコープのレンズの向こうに湾曲して見えたのは髪の毛だった。俯き加減の人の頭……。しかも女性の髪のように思える。またチャイムが短く十六ビートを奏でた。ストレンジャーは俯いたままチャイムを押していた。真夜中に訪ねて来て僕を刺す……、ではなくて危害を加えるような女性を知らない。被害者になる心当たりが無いと分かると警戒心は薄れ、広がる安心と余裕が急速に僕の緊張を溶かして行く。緊張から開放された気持ちが僕に夢を見させる。

 女性かもと思えた事で一瞬、相模原から彼女が来てくれたのかと根拠の無い期待を抱いた。

(もしかして……)

 その淡い期待は抱いた時と同じように一瞬で消える。彼女は僕の住所を知らない……、僕は彼女に住所を知らせていないのを思い出した。

(そうだ、僕達は、互いの基本的な個人情報すら交換していないのに、近付こうとしていたんだ。いつでも、身近にいる気がしていただけで……、ふっ、本当に何も分かっちゃいなかったなぁ……)

 それに彼女が、こんな前フリをすっ飛ばしたサプライズをするとは考えられない。だから相模原じゃない!

 僕は次の、たぶん三十二ビートを打たれるだろうチャイムを聞く前に、防犯チェーンは掛けたままで静かに内ロックを開錠して、ゆっくりとドアを少しだけ開けて見る。

 ドアを開けると、あの人……、『お姉さん』が立っていた。

(なぜ、この人がここに……? これは……、もしかして御指導、御鞭撻に来たのか? 確かに、そうお願いさせられたけれど、……どうして、わざわざこの時刻に? それとも、そんな気持ちは更々無くて、僕を弄んで更に落ち込まそうとしているんですか? いやいや、そうじゃなくてストレートに僕をびっくりさせる為だけに来たわけ?)

 瞬間、そう考えた僕は素早く視界に入る全ての事物を隈無く見回して聞き耳を立てる。だけど、深夜のアパートとご近所さんは静寂に包まれて、『お姉さん』以外に動いたり、潜んだりするモノの気配は感じ無かった。そして、表情から真意を探ろうと『お姉さん』を見た。

(既に深夜で、皆さんが就寝している時刻だし、ネットサーフィンの続きもしたいから、ここはやって来た理由を訊くだけ聞いて、速やかに追い返してしまおう)

「今晩は……。来ちゃった。部屋に入れてくれる……?」

『お姉さん』は俯いていた顔を上げ、僕を上目遣いに見て恥ずかしそうに言った。瞳が冷える夜風の所為なのか、ウルウルと涙目だ。

(ああっ、こっ、これは! はっ、反則だ……)

 ミッドナイトのストレンジャーが綺麗な女性で、しかも涙目の上目遣いだなんて……、

『ドクン!』僕の心臓は目に見えない力強い手に鷲掴みで搾られたように大きく打った。

「今夜は冷えるね。寒いよ」

 涙目に寒いと訴える『お姉さん』に、

「……あっ、ごっ、ごめん。はっ、入って下さい」

 僕は後先も考えずに暖められている中へ誘う。直ぐに防犯チェーンを外して、内側に開くドアを全開にした。

(あっちゃー、誘っちゃったよ! げげっ、『部屋へどうぞ』なんて言ってどうすんだ。僕からのモーションで仕切り直すつもりかよ。追い返すんじゃなかったのかよ……。あーあ、帰ってくれるまで、エロエロと観れなくなったじゃんか)

 初めてのシチュエーションに、招かざるか、招くべきか、戸惑いと躊躇いと期待が交差する。

「君と話がしたくなっちゃった……」

 取り繕う言葉と態度を全力で模索する僕へ向けられた言葉と声色が官能的に聞こえ、後ろ手に手を組んで僕を見上げる四歳年上の『お姉さん』が可愛く見えてしまう。

(これから、ミッドナイトドライブへじゃなくて、僕の部屋で……、ですか?)

 部屋に上がるように促すと同時に、僕は急いでノートパソコンをシャットダウンした。立ち上がっていたエロサイトに気付かれるのを未然に防ぎ、ほっとして振り返ると、『お姉さん』は半畳しかない狭い玄関で、ブーツのファスナーを下ろして脱ごうとしていた。

 タイトな黒レザーのミニスカートから、すらりと伸びた光沢の有るストッキングに包まれた脚、その形の良い脚をぴったりと張り付くように包む黒い薄皮のロングブーツ、その艶めかしく扇情的で欲情的な光景に僕は見入ってしまい、ストレンジャーで中断されたエロサイトの興奮が再び湧き出す。

(おおおおーっ、どっ、どうして、そんなセクシーなファッションで来るかな~? ミッドナイトにサプライズ?)

 悩ましく光る『お姉さん』の脹脛を下半身が頑張りそうな勢いで見ていて、ハッと気付いた。

(どうやって、この人はここまで来たんだろう? この人の足は自動車しかないはずだ)

 このアパートに駐車スペースは無い。V-MAXは、路肩の側溝に僕が厚い板で蓋をしてその上に停めている。僕の部屋は二階の端っこの部屋だから、直ぐに道路側の窓を開けて下を見る。

(あっ、ヤバイしマズイ!)

 案の定、路駐していた。しかもアパートの敷地に入る短い階段の真ん前に停めて、やっと人一人が通れるくらいの隙間しか残していない。

「ここに停めちゃ、ダメです。まだ帰って来る住人もいますから、トラブっちゃいます。直ぐに自動車を移してもらっていいですか?」

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 一車線しかない狭いアパート前の町道と、いずみ荘へのアプローチを塞ぐ形で停めていた訪問客の自動車は、日本平パークウェイに通じる表通りのレストラン北欧に御願いして、翌日の開店時間まで裏手の従業員駐車場に停めさせて貰う。

『明日まで、御願いします』

 車出しする時刻を尋ねられて、いっしょに頼みに来た『お姉さん』は『一時間ほど』じゃなくて、そう言った。しかも『明日の朝まで』ではなく、『明日まで』だ。普通の明日は晩御飯を食べて風呂に入る頃までで、時間は長い。

 ちょっと間を置いて、閉店後の片付けを終えたばかりのシンと静まり返っていた店内に口笛が鳴り、間髪をを入れず鍋や釜を叩く音が響き渡った。僕の部屋に何かしのセールス以外に若い女性が訪ねて来たのは初めてで、しかも日付の変わる真夜中に、そして訪問客の『お姉さん』が自ら朝を通り越して、『明日まで』いると言い放てば騒がずにいられない。僕もいっしょに騒ぎたいほどのビックリで嬉しい。

(えっ、ええーっ。おっ、お姉さん、ほっ、本気ですか?)

『おめでとう!』、『良かったじゃん』、後からスーシェフだろう人に、ぐいっと肩を掴まれて言われた。そう言われると嬉しいけれど、この後、『お姉さん』の取る展開が読めないので不安だ。

『やっ、やるのか?』、横から若いコックさんが、僕の二の腕を殴りながら露骨な言葉を小声で言って、『なっ、ナニを、……ですか?』と、問い返す前にポケットへ何かを捩じり込まれた。

『そのうち、夜の街へ連れてって、遊びを教えてやろうって、みんなで言ってたんだけど、必要なかったな。おまえ、やるじゃんか。グッドラックじゃん』ポンポンと肩を叩かれながら添えられた言葉に、急いで手を入れて掴んで見るとコンドームだった。

(ス……、ストレートですね……)

 嬉しいような、恥ずかしいような、ちゃんとしたキスも未経験な童貞の僕は、着け方を知らず戸惑ってしまう。

『あとで、差し入れ持ってくから紹介してくれ』と、ベテランのウエイターらしき人からラップで包まれた軟らかなナチュラルチーズと、ワインのフルボトルを渡された。

 住人のみなさんの顔を知っているけど名前は知らない。この人達の盛り上がりと普段の様子から、今晩は僕の部屋で宴会になりそうな感じだ。

(いやいや、それは勘弁して下さい)

『こんな綺麗でセクシーなレディがお泊りだってぇ? めちゃくちゃ羨ましーぞ!』って、初めて会う年配のマネージャー格らしい人が、本当に羨ましそうに言う。

(確かに! 僕もそう思いますけど、なにぶん突然の事なので非常に驚いてます。一つ組みしかない蒲団は『お姉さん』に使ってもらうつもりです)

 でも、本当に『お姉さん』は本気なのだろうか? いや、マジに僕はどうなるんだろう?

 やんやの囃し立てを胸を張って……、いや踏ん反り返るように受け、この人は満面の笑顔で頷き返していた。若手や海千山千だろうと思われる中堅のコックやウエイター達まで印象良くあしらう様に、どれだけ経験豊富な『お姉さん』だよと思ってしまう。

 レザーファッションの『お姉さん』は、鼻の奥がツンとするくらいセクシーで、男達に囲まれているようすは、けっこうエロく見えた。

(なに自慢げなんだよ、この人は! ここは恥ずかしがるところだろう?)

「ありがとうございます」

 駐車スペースを確保できたお礼を言い、僕は愛想を振り撒く『お姉さん』の手を取り、囃しや呪いの言葉を浴びせられながら、逃げるように部屋に戻った。

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 部屋に戻ると『お姉さん』は、さっさと造り付けの小さな台所に立ち、

「私がするわ。お皿とグラスを出してくれる? フォークや箸もね」

 シンク横に置かれた包丁を取りながら、食器の用意を僕に指示する『お姉さん』の声と立ち姿が普通に家庭的で、僕の心臓がドッキンと大きく一拍して、昨日も、一昨日も、その前からも、いつも『お姉さん』がここでしていたような気がした。

 頂戴したチーズを手際よくキャラメル大に切り分けて、一枚しかない平皿へ綺麗に盛り付けると、『お姉さん』はショルダーバックから折り畳みナイフを取り出した。たぶん、ソムリエナイフだと思う? そのソムリエナイフを使いワインのコルクを器用に抜いた。

(なんか仕草がカッコイイぞ! そのロゼ色の柄のナイフ…、いつも持ち歩いているのだろうか?)

 僕がコルクを抜く手際を感心しながら怪訝そうな顔をしていたのか、

「これソムリエナイフだよ。ワイン好きだしぃ、いつもバックに入ってんの。フランスのライヨールのメーカーもの。使うのにちょっとコツがいるけれど、この赤いグリップがキュンとくるよねぇ。かわいいでしょー」

 マニアックな説明をされた。その赤いの柄のナイフはキュートと形容すべきなのか迷うけれど、見ただけで高価な拘りの逸品って感じだ。まだ、僕が不思議混じりの興味津々顔でブランド物のショルダーバックを見ていると、

「ふふん、バックの中身が気になるぅ? 他にもいろいろ入っているわよ。化粧用品に生理用品、替えのストッキングにハンカチとポケットティシュ、財布に携帯電話に筆記用具と電卓、それに、ちっちゃくて薄いノートパソコンも。あと、催涙スプレーと、先日話しに出たスタンガンも有るよ」

 さらっと、スタンガンと催涙ガスまで入れている物騒な中身を教えてくれた。そんなのとノートパソコンまで入っていたら重くて肩が凝りそうだ。

 貰った赤ワインも上等な物らしく、嬉しそうに鼻歌交じりで『お姉さん』は食器ケースから取り出した二つのコップへ注ぐ。

「へーっ、いいコップを持ってるじゃない。ほら見て、ワインの綺麗な紅色!」

 ボトル口を僅かに回しながら持ち上げて雫を切る、その様が堂に入っている。

 部屋で日常的に酒を嗜む事をしない僕は、ワイングラスのようなラグジュアリー品を持っていない。ソムリエナイフを使って難無くコルク栓を抜き、ワインを静かに注ぐそつが無い仕草から、ワインを飲み熟しているであろう『お姉さん』へ、僕はワイングラスの揃えが無い事を詫びた。

「別にぃ、ワイングラスじゃなくてもいいのよ。コップでも十分、香りと風味を味わえるわよ。だから気にしないで」

 ワインを注いだコップを天井の白い面発光照明に翳して、コップの質と上物ワインの透ける色合いに楽しそうだ。

 使用の特化されるワイングラスは持っていないけれど、普通に使うコップは普通に美味しく飲みたいから、それなりに良い物を使っている。と言っても、友達が遊びに来た時の事も考えてと半ダースも親から持たされた物だ。

 彫りや色付けの無いシンプルな湾曲ロングボディに、滑らかなでしっとりした持ち感と透明度の高い綺麗なガラス、そして飲み易い縁の薄い厚みが、僕は凄く気に入っている。

「あっ、このワイン、好きな銘柄よ。口の中に広がる香りがいいんだよね。癖の無い辛口で後の切れがすっきりなんだ」

 半分ほどワインが入ったコップを僕に渡しながら、カチンと『お姉さん』は笑顔でコップを当てる。

「楽しくて素敵な今夜に、乾杯!」

(素敵な夜……? この展開は『お姉さん』の読み通りなのか? 乾杯しても問題無いのだろうか?)

「……乾杯!」

 何もかもが初めてで、更に初めてが続きそうな夜。不安に期待が混じり、警戒と願望が交差する。来訪目的の話す内容が不明のまま、乾杯する状況がデンジャラスなのか、ハッピーなのか分らない。

 先ずコップを鼻に近付けて香りを嗅ぐ、そして、もう一度、今度はコップを揺らせて香りを嗅いだ。可愛い鼻を小さく動かせながらコップに口を付け、『お姉さん』はワインを一口含む。見ていると、どうも直ぐに飲み込まずに口の中で味と香りを確かめているようだ。

 口を一文字に結び頬に笑窪を作る表情が、悪さを企む悪戯っ子の顔のようで可笑しい。

「うん、やっぱり、このワインは美味しい」

 そう言って、目許を緩ませ僕を見る。

(同意を求められたのだろうか?)

 見られた僕は、グイッと飲み込んだ後味の悪さに閉口していた。

(……これって、美味いのか?)

 何度か深夜パーティーに参加して、それなりに飲酒には慣れてきていたけれど、酒類の良し悪しは、一月間に数回程度の参加じゃ分からない。参加すると控えめに食べて、注がれるままに飲み、飲むままに酔う。酔っぱらうと味など分からなくなるし、参加したパーティーの半分ぐらいは、何を食べて、何を飲んで、何を話していたのか、憶え出せなかった。

 深夜パーティーで飲む酒はいろいろだ。焼酎にウイスキーにブランディー、テキーラやラムにウオッカ、中国の白酒まで有って、リキュールやシロップにジンジャールとシェイクやステアしたカクテルまで作って、口数の少ないバーテンダーの方がボソッとカクテル名だけ告げて僕の前に置いてくれていた。でも、大抵は日本酒とビールばかりを好んで飲んでいる。どれも深夜パーティーで初めて飲んで、風味と酔い加減を知った。

 ワインは甘い貴腐ワインやアイスワインしか好まなくて、ルージュも、ブランも、ロゼも、全くのワイン初心者の僕には、渋いばかりでちっとも美味しく無い!

(この渋みが、辛口なのだろうか?)

「うわっ、チーズも美味しー! どこの銘柄なんだろ? このワインに合うよね」

 僕の返答を待たずパクついたチーズに顔を綻ばせる。確かに頂いたナチュラルチーズは旨く、上等な旨みの後味が更に食欲をそそった。ラップに包まれていただけのチーズは、近所のスーパーでも買える物なのか、銘柄を知る手掛かりは無かった。きっと、呉服町のデパートまで行けば買えると思う。試食ができればいいのだけど……。

 名も知れないチーズについて僕があれこれ夢想している内に、口に入れた二切れ目のチーズをワインで飲み込んでから、『お姉さん』はじっと僕を見据えて言った。

「さあ、飲みながらあなたの家……、家族の事を聞かせて」

 ショルダーバックの中身で『私に、おイタしたら危ないわよ』と釘を刺しながら、僕の家庭事情を聞きたいと言ってきた。

(おイタがダメ……? それなら、どうして、こんな真夜中に来るかなぁ? そんな、そそるファッションで、しかも、良く知らない男の部屋への初訪問だ)

 僕はツッコミを入れたい気持ちを抑えて、翌朝の勝手に元気になる下半身を、どう繕って隠そうかと考えながら、『お姉さん』の質問が不思議に思えた。

(なぜ、僕の家庭事情を知りたいのだろう?)

 話といっても、セオリーな質問形式に僕や僕の家族の事を一方的に訊いてくるだけで、時折り話が途切れても『お姉さん』は自分の事は一つも語らなかった。自分の事を語らないのは、そういう話し方なのか、訳有りなのか分からないけれど、僕は何か言いたくない理由が有るのだろうと思い、敢えて訊きも詮索もしなかった。

 後々、不都合や問題が発覚しても『訊かなかったから』とか、シレっと言うのだろうと思った。

(そうなった場合は、どんな不利な事でも受け入れていくしかないか……。訊いていない僕の不手際だし……)

 相模原の彼女との付き合いの所為か、僕は変に熟れてしまっている。

 途中、いつものより控えめなノックが有り本当に差し入れが届いた。

『なんだ、まだ裸じゃないのか?』パーティーセットのような豪勢な差し入れを渡しながら冷やかす。冷えたシャンパンと黒ビールまで並べられて、まるで御祝い事だ。みんなが覗いていて住人以外も混ざっている気がする。たぶん、いつも真夜中にコックさんらの部屋へ遊びに来る別の店の人達だ。隣の住人もいて手を振っていた。お隣りさんはレストラン北欧の従業員じゃないけれど、時々コックさんらの深夜パーティーに参加しているみたいだ。

 そんな冷やかしを受け流し『お姉さん』は一人ひとりに笑顔で挨拶している。

『今、俺らが風呂使ってるけど、深夜でも構わないから使えよ』これは俺らが寝ていても構わずに風呂やシャワーを使えという意味だ。連中は絶対聞き耳を立てているに決まってる。

「あら、そう言えば、この部屋にお風呂もシャワーも無いのね?」

 会話を聞こえたのか、背後からそんな問いが来た。

(四畳半しかない部屋だ、当然耳に入るか……、って言うか、今からシャワー使うんですか?)

「そう、このいずみ荘は古い造りで、風呂とトイレは共同なんだ。時間制限が有るけど……」

 水周りは小さなキッチンが部屋に造り付けであるけれど、その分、押入れは無かった。部屋の三分の一がロフト式のベッドになっていて、パソコンディスクはその下のスペースに置いて在った。そんな隠れ家の穴蔵みたいのが気に入って借りている。

「洗濯は、全自動洗濯乾燥タイプが二台有って、コインランドリー式。共同ベランダで天日干しも可だね」

 大家は部屋をトレンディなデザインにしたり、部屋全体を吸音材や断熱材で覆い、窓はペアガラスにして、床もコルクフローリングに改修していた。だけど、いずみ荘全体を建て替える気が無いらしい。ドアまでIDカード仕様のオートロックにしているのに!

「各部屋にトイレとお風呂が無くて、共同なのは会社と同じじゃないの。いずみ荘の共用風呂は銭湯に行くみたいで楽しそうだし、トイレも私は気にせず使えるから問題ないよ。ここの人達、みんな楽しいねー。気に入っちゃったわ!」

『お姉さん』は深夜の遣り取りに全く気落ちしていない。

(…だけど、ふつう、目的が違う住居用賃貸物件と、オフィスの環境を比べないだろう?)

 嫌な顔をするどころか楽しんでいる。表情は嬉々として明るく、体力は旺盛で元気溌剌、気持ちは頑健でアクティブ、『お姉さん』はタフネスだった。

「だよねー」

 住人達から相槌を入れられて、もうアイドルだ。

「うん!」

 愛想良く頷き合っている。

『朝飯の分も入いってるからな』見ると差し入れは二段重ねで下の段にハムエッグにサラダ、それにサンドイッチまで入っていた。その心遣いに感動させられる。感謝感激だ!

『んじゃ、おやすみ! エッチがんばれよ』年長のコックさんに励まされる。

(ううむ。なんてストレートなんだ……)

状況次第で頑張る事になるかもと、そして夜は長いし明日は休みだと思う。でも頑張り方を僕は知らない。

「すみません、気い遣わせちゃって。ありがとうございます」

 御礼を済ませドアを閉めると、いつもは気にもしないオートでガチャリと鍵が掛かる音を意識する。『お姉さん』と二人っきりの空間で、『お姉さん』と二人だけの時間が始まった。

「君は、ここの人達と中が良いんだね」

 閉店後のレストランでの遣り取りや差し入れを持って来てくれた住人達との会話と態度、それに渡された豪勢な品から、そんな風に見えたのだろう、『お姉さん』は僕以上に嬉しそうだ。

「そっ、そうかな? 普段は挨拶と短い愛想話しをするくらいで、無理矢理、深夜パーティーに混じらされたりするけど、……今夜は特別ですよ」

 本当に今夜は特別だ。まだ、ここに越して来て半年余りだけれど、深夜に女性の声を聞いた事が無い。レストラン北欧の男子寮規則の罰則が厳しいのか、ウエイトレスさんなどの女性従業員の方々は、深夜パーティーに参加していないようだった。それにコックさん達は意外と真面目で紳士だ。

 普通、この時間帯に独身女性は男所帯へ遊びに来ないだろう。来るとしたら訳有りに決まっている。と思う。

「えーっ、私が来ただけで、こんなに特別なのぉー。ここは、とってもいい人ばかりで幸せかも」

(だから、『お姉さん』は特別で、物怖じせずに明るく溶け込む態度と物言いは、みなさんに歓待されて当然だな)

 僅か数日で、この展開だ。嬉しそうな『お姉さん』に僕も嬉しい。

「ところで、ここの人達は男ばかりなの? 女の人は住んでいないかな? 女の子が住めばモテまくりになりそう。私もここに越そうかしら、空き部屋は有る?」

 嬉しさで無警戒に僕は『お姉さん』の問いに答えてしまった。

『見掛けていないから、居ないんじゃないかな』とか、『まだ住んで日が浅いから、知らないです』と、無難に知らばっくれればいいに、気が緩むと僕はいつも無神経になる。

「空き部屋が有るのか分らないけど、女性の方も住んで居ますよ。二階の、階段を上がった直ぐの部屋です。その部屋に一人で暮らしていて、見た目は僕と同い歳か近いと思いました。 出逢っても挨拶するくらいです」

 その人は、少し小柄だけど普通にスタイルが良くて、いつもデニムのミニスカートを着ている。内気な感じの人で見掛ける時はいつも俯き加減で、顔を起こしているのを見た事が無い。挨拶の時も俯いたままだ。きっと、髪を上げれば可愛い顔になると思う。僕は一度、風に吹かれて長い髪が舞う綺麗な横顔を見ている。色白の肌が綺麗だった。でも、擦れっ気全く無しで彼氏は居無さそう。艶っぽさも色っぽさも無し。

「前髪が長くて顔が良く見えない女の子で、無口で声も小さいし、返される挨拶も聞き取り難いんだ。住人達と話しているところを見ていないですし、知る限りでは、モテモテじゃないと思います」

 ウィークデーは朝から出掛けて行くから昼間は居ないみたいで、夜は毎晩、部屋の灯りが点いているから引き籠り系じゃなさそうだった。大学生らしくないし、あんなに無口でいったい何の仕事をしているのだろう? そんな住人の女性のようすを思い浮かべていると、

「けっこう良く見ているじゃない。私の事も観察してくれていたぁ?」

 その言葉にハッとして視線を向けると、『お姉さん』は伏せ目で手に持った差し入れの料理を見ている。何か僕は詳しく感じられるような説明的な事を言っただろうか? それとも、思い出していた顔がニヤケてスケべそうに見えたのだろうか?

 僕は『お姉さん』の質問に答えず、『お姉さん』からも次の言葉が来ない。手足が強張るのを感じて緊張と沈黙の始まりを意識した。

 綺麗でセクシーな『お姉さん』と、翌朝まで二人っきりになるかも知れない深夜に、僕は相模原のトラウマで動揺している。これからの二人の関係に期待して『お姉さん』に帰られたくない僕がいた。

 そんな緊張に無言で固まる僕に気付いたのか、『お姉さん』が時間を動かしてくれる。

「とても美味しそう! この時間に食べたら確実に太っちゃうけど、まっ、いいよねぇ。さぁ、食べよっか」

 差し入れを小さなテーブルに二人で広げながら再会された話題は、自営する親父の仕事と僕の将来への展望になった。

「ふう~ん。いずれ君はお父さんの工場……、 いえ、会社を継ぐことになるんだ。確実に次期社長だね」

 会社の業績が良い限り、親父の仕事や立場などを僕が引き継ぐ可能性も十分有るけれど、それはずっと後の事だと思う。たぶん、イレギュラーが無ければ十年や二十年以内じゃない。

 僕の意識では会社よりも工場だ。親父も工場と呼び、会社と言ったのを聞いたことは無かった。工場の四角い建物は白いボード張りの外壁に、高所に付けられた消防法最低限の大きさと数の窓のみで変化は無く、跳ね上げ式の大型搬入口の有る外付けのエレベーターユニットは、同じ外壁材を使い工場棟と一体化していた。素っ気無い無機質な外観は病院か研究棟のようで、一体何をしている会社なのか全然分からない。

 玄関はガラス製の自動ドアじゃなく窓無しの勝手口のようで、会社名はデザイン事務所に依頼して、創作されたロゴのステッカーがドアに貼られているだけだ。当然、訪れる人に不気味で無愛想な印象を与えて警戒される。初めて訪れるお客さんは誰しも、こんな得体の知れない所に仕事を発注して大丈夫かと考えて仕舞うそうだ。

「まあ、そうだけど。社長なんてガラじゃないよ。僕が入社しても二人しかいないのに」

 現実的に直ぐには有り得ない。だけど、親父を手伝うのは有り得る。いつでも親父から頼まれれば、そうするつもりだ。その覚悟はしていた。

「一人とか、二人とか人数じゃないの。世間は君から会社を見るの。そこに、志す技術が誠意を持って存在していて、事業に将来性や発展性を秘めた内なる可能性が有って、会社全体の技術と技能、そして業績と社長や従業員達が信用できるのかを見ているわ。社長は会社の代表で顔だから、その息子の君も会社の判断材料の一つにされるの。親も子もね。君はいろんな人達に観察されているのよ。気を付けなさい。それに私も君を見てたよ。安全そうだし

 末尾の言葉にドキッとした。

(僕を見てた? なぜ?       僕が安全そう? それはどういう事?)

 僕に関心を持っているのはディナーと夜景の一件で知っている。妖しいムードと明るい送迎が新たな進展を予感させていたけれど、僕は慎重に接しようと考えていた。がっついてさもしいのは善くない。

 単純な勘違い男になってはいけないはずだったのに、あっさりと二人の関係が意外なくらい進展して行く。キョトンとする僕を尻目に『お姉さん』は言った。

「私は君のことが好きなの。だからこそ君に直して欲しいところが有るの。いっぱい有るけれど全部直してくれるでしょう?」

 笑顔だけど決意と真剣さが表れていた。驚きの突然の告白といっしょに、僕は気に入らないところだらけだと言う。素直に言う事を聞くべきなのだろうかと考えてしまう。サプライズのフェイクかも知れない。

(僕に何か気に食わないところが有るのだろうな。それは改める必要が有るのだろう。この人が望むなら、ここは将来的な事も踏まえて言う通りにするべきか……)

 綺麗な女性から告白されて僕は打算的になる。舞い上がる気持ちにフェイクだとしても嬉しい。

「ああ、いいですよ。そう望むのなら直します」

 躊躇わずにそう答えると、年上の美しい女性は僕を指差し勝ち誇ったように綺麗な笑顔で言った。

「オーケー! 君が社会人として、いつどこでどんな人と接しても、立派で素敵な男性の印象を与えるように私が教育指導してあげるわ。ちゃんと私の言うことを聴きなさいよ。約束よ、なにより君自身が努力してがんばらなくちゃだめよ。わかったわね!」

 どうやらフェイクじゃないらしいと解かる。

(この人なりの想いの、真剣な告白サプライズだ)

 その時から、言葉遣いや話し方、態度と礼儀や作法、それに挨拶など、僕がこれまで物怖じしたり面倒臭がったりして、いい加減で端折ってきたことを厳しく指摘して改めさせた。

「私がいっしょにいても恥ずかしくない男性にするわよ。そうなってね!」

 そう言いながら腕を絡めて僕にキスをする。最初は軽く触れるだけ、それから『お姉さん』は唇を強く押し付けて深く激しいキスをした。

(リードしてくれている! なんてパッションで、センセーションなんだ!)

 『お姉さん』とのファーストキスは、いきなりディープキスの指導になった。

(おおっ、まっ、まだ、心の準備が……。おっ、お姉さんはマジ ……だ!)

 心臓はレッドゾーン域をオーバーしそうな激しい勢いでバクついている。軽く噛まれながら吸われる唇と纏わり付くように絡む舌先が、その気持ちの良さに体中から力が抜けて行くのを分かるほど、魂が奪われそうなくらい感じてしまう。

(ううーん、これが大人のキスなのか……!)

 両手を僕の首に絡ませてキスを止めない『お姉さん』は、息を弾ませて僕以上にうっとりとしているように思えた。トロンとした薄目の瞳が恍惚として悩ましい。

 フェロモンいっぱいの『お姉さん』の表情に、アドレナリンが火が着いたように体内を激しい勢いで駆け巡り、僕の気持ちをグルグルと舞い上がらせる。

 欲望を抑えられそうにない僕は、『お姉さん』に新しい彼女になって欲しいと心の中で切に願った。

(どうして『お姉さん』が、こんなにテクニシャンなんだ? きっと、……絶対、経験値が高いに決まってるさ……)

 考えたり想像しただけではテクニシャンになれない。ノウハウ本を読んでも、写真や動画を見ても無理だ。絶対に実地体験は必要だと思う。欲望で興奮してプスプスと湯気が噴き出しそうな頭が、疑りの増した『お姉さん』の裏事情を単純に探る。

(大学の四年間で、どれだけ経験を積んだんだ? 既に大学以前の高校で済み……? いやいや、早熟な女子中学生で、早々と初体験してたりかも……)

 燃えそうなくらいに上気している僕の頭は、熱と興奮で思考が停滞して、ただ単純ストレートに未経験ベースの想像を膨らませてしまう。

(故に『お姉さん』なのか……?)

 もはや意味不明の思考で取り留めが無い。それでも暈ける頭は、『お姉さん』のバックグラウンドが不安だ……、と警告していた。

 様々な作法や事柄を知り素養の有る『お姉さん』の生い立ちは? それに数日前の朝に『お姉さん』がしていた『母親だ』と言う人との電話は?『お姉さん』に惹かれる僕は疑問に思う。でも敢えて『お姉さん』の過去を詮索しない。過去などどうでもよいと思う。多少は不安だけど好きになるのに相手の過去など関係無い。今とこれからの『お姉さん』が僕の彼女として大切なのだから、僕は一言も『お姉さん』のバックグラウンドを尋ねたりしなかった。

 キスをしたまま寄り掛かるように『お姉さん』は体重を掛けて来て僕は倒された。これからどうなるのか、どうすれば良いのか、さっぱり分からない。心臓が高鳴り動悸は宇宙に打ち上げられるロケットのような勢いだ。これから先の未経験領域の不安と期待で首筋の血管が鬱血したみたいに重い。血が頭と顔に集まって来ている。多くのエロサイトの動画を見ていても、実際は2Dや3Dのバーチャルと全然違った。

 しっとりした唇が離れ、動揺と興奮で自失しそうな僕を落ち着かすように、『お姉さん』が優しい声で話す。

「安心していいよ。彼氏も親しい男友達もいないから。今の私は自由だから……」

 付き合っている男がいないと聞いて、僕の動揺は薄れて行く。

(今の私……? 自由だから……?)

 意味が良く解からない。動揺が治まると、興奮が満ちて、高速で送り過ぎる酸素不足の血液に思考が麻痺してしまう頭では何も考えられない。

(もう、意味なんてどうでもいいんだ。『お姉さん』、僕の切なさと虚しさを無くして下さい!)

『お姉さん』の身体に回した腕も手も指先にも感覚が無くて、力加減も、触れているのかも、分からない。気持ちは戸惑い、心がざわついた。焦る僕は何をどうすれば良いのか分らない。

 上になった『お姉さん』が耳元で囁くように言う。

「だいじょうぶ…、心配しないで。私がリードするから優しく合わせて……」

 僕の服を脱がし始めた『お姉さん』の甘い声を聞きながら、僕はうっとりと身を任せていった。

(そして、僕は新たな恋に落ちて行く……)

 一度、ようすを見に来たお袋以外で初めて女性を部屋へ入れた。僕の部屋へ上がった女性は初めて部屋に泊める女の人となった。初めて泊めた女の人に僕は初めてのセックスへ導かれ、相模原の彼女に失

われるはずだった童貞を捧げた?

(奪われたんじゃなくて、捧げたのかな?)

 僕の頭の中は『お姉さん』と『初めて』だらけで目まぐるしく渦巻き、蕩け薄れ行く意識の中で何も整理できなくて、ただ、ただ、初めての体験尽くめに、

(こっ、これは、凄い事だぞ!)

 と、思うばかりだった。

 僕の耳を軽く噛む『お姉さん』の唇や、僕の胸の肌に触れ動く『お姉さん』の手と、痛いほど大きくて固くなった股間の熱い自分自身を感じて、僕ではない違う自分の出来事のように思う。

 

 ---つづく

永遠の別れ(私 大学一年生 ) 桜の匂い 第八章 参

(伯父さんに、ジレラ君を送って貰おうかしら)

 九月初め、厳しい残暑で融けそうなアスファルトから立ち上る陽炎の中、私はバス停でバスを待っている。熱さで茹だって、だるくて遣る気の無い私は、それでも町田駅のモールまで遊びに行こうとしていた。

 今日は講義が済んでもアパートへは帰らずに、相模大野の駅へ行き小田急電鉄の電車に乗って町田の街へ向かおうと思っている。今月も財布の中身に余裕は無いのと、別にこれといって欲しい物が無いくせに、町田駅の冷房の効いたショッピングモールをブラつきながら、トレンディチェックがてらのウインドショッピングが楽しい。

 小田急に乗ってそのまま新宿の街へ出ても良いのだけど、いつも距離と人込みで疲れるから二、三時間程度で帰って来ていた。毎週の如く行っていても未だに新宿の通りの位置関係が理解できていなくて迷ってしまう。それに何度か、『暇してんの?』とか、『何処行くの?』とか、『モデルになんない?』など、全然知らない男の人達から怪しい誘いをされた事も有って一人では行かないようにしている。

 それに、通り中に響いて来るアメリカ軍機の暑苦しい爆音を聞きたくもないから、相模大野の外気の中には居たくはなかった。ここでは、ネイビーやマリーンの最新鋭戦闘機の編隊がワザと青い炎を出して、市街地上空を我が物顔で飛び回っている。

 入学時には知らなかったのだけど、横須賀港にアメリカ海軍の航空母艦が入港すると、その艦載機が厚木基地の滑走路へ移動して訓練を継続するらしい。

 今も複数の戦闘機が編隊で飛来してゴオォォー、ギャァーンと爆音を響かせている。

 相模大野市や町田市の辺りは、厚木基地への帰投コースになっているらしく、時間帯によっては特に相模大野市の上空を頻繁に飛び、そして、かなりの低空で旋回して行く。その度に神経を逆撫でて不安にさせる轟音で何も聞こえなくなってしまう。民間航空が借用使用している石川県の小松空港は航空自衛隊の基地だけれど、その戦闘機部隊は海側以外の市街地上空を飛ばない。金沢市や白山市や小松市の中心地域で会話が聞き取れないくらいや、イヤホンから聞こえるポータブルプレーヤーのミュージックに、被さるほどの飛行機の轟音を聞いた事が無かった。

 艦載機のジェットノズルから時折り青い炎が見えたと思ったら、いきなり急上昇や低空で急旋回をして行く。

(なに、アフターバーナー噴かしてんのよ! ほんと、うっさいわ! 街の上で派手な事しないでよ!)

 こんな首都圏に米軍基地はいらない。世界は譲歩と融和を繰り返し、和平と統合に近付きつつあるのに、現在もインデペンデンスしていない日本はアメリカの占領が続いているみたいだ。外敵からの防衛よりも、日本政府への内政干渉圧力でしょう。

 そんな苛つく爆音の因果を、茹だった頭で思い描きながらバスを待つ。ここのバスでは金沢と違って最前席に座らない。前のドアから乗車して先に料金を支払う。料金は一律。中央のドアから降車するシステムで、金沢市のバスとは乗降の出入りが逆だ。最前席に座ると乗車して来る人達にジロジロ見られる。見られるのは嫌だ。それよりも小立野でのバス事故を思い出す。自らの身体を傷付けてまで立ち開かって私を守り抜いてくれた彼は、この街にいない。

 バスは澱んだ淵の日陰のように彼を思い出させたけれど、バスの車窓越しや街中で見掛けた大型バイクのエキゾーストノートは、四月末の大桟橋の先端で嗅いだ潮風の臭いと雲の間にぽっかりと開いた青い空に照らされて群青色に輝く波間を思い出す。あの陽射しは暖かくて気持ちが良かった……。

 思い返す藍色の海原と蒼い空、それに仄かに熱を帯びて来る大気は、ジレラ君で諸橋地区の海沿い道路と星降るトヤン高原を全速で走らせた、あの夏の日の爽快感と高揚感を蘇らせて、今直ぐ、身軽に行動範囲を広げてスピードに自由と自己主張が有るバイクに乗りたいと思う。

 頭が茹るからヘルメットは被らずに加速で髪を乱して、タンクトップとミニスカートの裾をはためかせ、飽きるまで逃げ水を追い駆けたい。なのに、私が立つバス停にも、大学の駐輪場にも、ハイツの駐車場のもジレラ君は無くて、こんなにも渇望するフラストレーション重なりの解消が何もできなくて、背中を汗の玉が幾つも流れ落ちる汗ばみのように苛つかせてくれた。そんな苛つきも、夏の日の続きにならなかった肌寒い春の日を思い出させて寂しい後悔に浸らせてしまい、暑さでギラギラした肌がチリチリと焼けそうなのに、心は冷えて行く。

 言葉足らずのシャイで、パッとしなくて、人の気持ち知らずで、うんざりしていまうようなダサいセンスの彼…。どうして私は、そんなに彼を拒絶しなくなったのだろう?

 あの大桟橋の日に彼は、どんな酷い事をして私を傷付けたのだろうか? あの日のスケジュールを彼も、私も、勝手に思い描いていた。互いに情報交換と意思疎通の経験が足りなくて、私は彼に、彼は私に、不足分の補完と最終判断を委ねて頼っていたのだと思う。そして、事前に相手へ提案や確認を行わないままに当日を迎えてしまった。この後味の悪い気不味さは二人が同時に犯した単純な連絡不足の問題からだ。

(大体、私はデートをした事が無い未経験だったの! 告白や御誘いをされた男子に即行で断わっていたから、デートの経験値がゼロなのよ! あの人達とは、せめて一度、デートをしてから断われば、デートのセオリーや、センスや、気遣いを知ったんだろうなぁ)

 彼は私に会っていっしょにツーリングしたい一心で、天候も私の気持ちも考えずに会いに来た。私は私で、デートコースはファッションマガジンに載っているような都内の超有名所へと、漠然としたアバウトさで考えていた。

 あの日の私が思い描いていたような事前サーチもしていないアバウトなデートを、電車で来てくれた彼と東京でしていたら、今と違った気持ちになれていたのか分らない。私が今までのような無意識に壁を作って彼任せにしていたのだろうか? でも…… 納得がいかない!

(私は悪くない! 私がデートしようって言ったのだから、私の意向ぐらい訊いて来て、それに合わせろっちゅうの! ……じゃあなくて、こっちを少しばかり知っている私が……、リードすべきだったのかも?)

 確かに私にも非が有ると思う。それでも鈍感な彼の非の方が圧倒的に大きいと思う。

(そりゃあ、あなたは優しいよ。きっと私の知らないところで、いろいろと凛々しいのかも知んないけど、もういいの。七年間も構ってあげたし……)

 私は弓を構える彼と、カツ丼を食べる彼を思い出していた。

(あなたとは、ミスマッチなのよ)

 私のつれない言葉や文字、態度も。彼の想いを砕く手も、彼の気持ちを踏み躙る足も、全て静かに彼の中に沈んで行く。それを彼は防がない。抗わないし撥ね返しもしない。私が彼にする我が儘を、彼は私に遣り返さない。無理強いする強引さや自己中心的な我が儘を彼は私にしないし、するような素振りも無かった。

 私の我が儘は彼の中に留まっているのか、熱く溶けて彼の想いに融合してしまうのか、それとも、霞のように力無く霧散して彼に何も感じさせずに消えているのか、それは分からないけれど、私の我が儘が彼を貫いて、彼が誰かに八つ当たりをしている事も無いみたいだった。

(私は物足りなかったの…。ずっとドキドキさせて、ときめかしていて欲しかったのよ)

 でも、彼は優しくて、我が儘な私を受け止めていてくれただけ……。

(彼が強引にリードしたり、表だって彼氏みたいな態度になると、フリまくった他の言い寄る男子達と同じように、直接、冷たい拒絶の言葉と態度で、彼に終止符を打っていたくせに……)

 そう、彼が他の男子達と違っていなければ、私は自分のとっていただろう行動を分かっていた。

(もしかして、彼も初めてのデートだった? ……まさかね)

 首都圏の華やかさに当てられたのか、今はもう十分に纏わり付く彼の田舎臭い鈍さが鼻に付いていたのか、私に言い寄る男も、私が気になる人もいない。

(私は、すっきりした身軽な自分へ、リセットしたくなっているのかも知れない……。金沢の私を知る人がいないこの街なら……、もっと軽いトークができて、明るく爽やかで、お気楽な男友達なら……)

 イヤホンのコードが複雑に絡まって、直ぐにお気に入りの曲を聴けないような焦りと、自分のずぼらさを呪うのに似た苛立ちでジリジリする。

 いつの間にか、私は俯いて下唇を噛んでいる。ハッとして上目遣いで周囲を見渡した。バスを待つ人達は私に無関心で、誰も私を見ていない。誰かに見られている気がしたのに。

「ねぇ、どこ行くの? 思い詰めた顔して」

 不意に掛けられた声にドキッとした。いつの間にか、目の前にメタルグレーのGTRが停まっていて、傍迷惑なアイドリングサウンドを響かせている。その車内からドライバーが私に声を掛けていた。下げたドアウインドーから漂う冷気が私を誘う。

「なんか、悔しそうな顔していたよ。何処まで?」

 時々セミナーで見かける先輩だった。女子大生達に人気が有って、私的にもけっこうカッコイイと思っている先輩だ。

(見られた……)

「……町田の駅」

 恥ずかしさで上目遣いのまま小さな声で答えた。

「いいよ。ささっ、乗って」

 促されて私は、この苛立つ暑さから逃れれば幸いとばかりに、サイドシートに座り込んだ。シートベルトを締めながら、先輩に声を掛けられてラッキーだと思っていた。寒いくらいの冷房が気持ちいい。

 暫くして、茹った身体が冷やされて頭がすっきりしてくると、無警戒で先輩の車へ乗った事に後悔が湧いて来た。見知ってはいるものの、初めて声を掛けられた男の人の車に乗ってしまった!

 後部座席に男達が潜むように並んでいたら非常事態レベルで脱出してしまうのだけど、車内には先輩と二人きりのアダルトなシチュエーションに困惑してしまう。

(先輩は、どうして私なんかに声を掛けて自分の車に乗せたのだろう?)

 いつもの癖で、頬杖をついて窓の外を眺める私の思いを悟ったのか、

「君が気になっていたんだ。今日はバス停に立つ君を見かけたから思い切って誘ったんだ。誘われてくれたからナイスだよ」

(『誘われてくれた』? ……だよね。そうなっちゃうわね)

 明るい声で先輩は続ける。

「キャンパスで初めて見掛けた時から君が可愛くてね。気になっていたんだ。あれから君に魅せられていたんだな。いつか誘おうと思っていたよ」

(また、私の外見からのアプローチだ。可愛さなんてどうでもいいのに!)

 でも、先輩を格好良くて明るく素敵な男性だと見ていたから悪い気はしない。何の躊躇も感じさせない軽やかな『可愛い』に絡む、慣れと自信が煙い。それでも、『私に魅せられて』と言われたのは嬉しかった。

「町田なんて、そんな近いところでいいの? せっかくだから、もう少し遠くまでドライブしようよ」

 私を可愛いと言った先輩は、さり気無く滑らかに誘う。

「行きたいところは無いの? 行ってみたい場所は?」

 先輩の誘い方に、新しい交際の予感がして頬がちょっと熱くなった。

「横浜港の大桟橋……」

 無意識にその地名が口から出た。その場所を言ってしまった自分に驚いた。私は思い出を上書きしようとしている。彼に対してなんと残酷になれるのだろう。

(上書きして無かった事にするのは、やっぱり酷いよね。彼じゃない素敵な男性に、ふと恋のときめきを感じても……、直ぐに上書きして彼との思い出を消して去るべきじゃないわ。消去が必要になっても、ずっと後でいいわ。やはり大桟橋へ行くのは止めよう)

「OK! それでは大桟橋へ行こう」

(ええっ!)

 内なる自分の残酷さを否定する私の思いを余所に、先輩はこれから大桟橋向かうと告げて私をドギマギさせた。屈託の無い先輩の明るく通る声が、内なる自分を否定した思いを軽くさせて、私自身に納得させた思いを乱して迷わせる。

 大桟橋向かう先輩の車の中、先輩は私に多くの質問として話題を振って来た。その一つ一つに受け応えしていたけれど、私は質問された事柄も、振られた話題も、返した言葉も、殆ど覚えていない。

 サイドシートに座った瞬間から後悔が襲って来た。

(そんなに拘らなくても、次は彼に電車で来て貰えばいいじゃない。もう一度、彼にチャンスをあげてみても…)

 あの大桟橋へ行った以降、日を追う毎に私から彼へ送るメールは減って行き、今では月一度しか、しかも当り障りの無い有り触れた日常事しか打っていない。私からの返信がめっきり減った今でも、彼は週二度の約束を守ってメールを送り続けて来ている。そして、それは私との再会を望むメールばかり。

 今、私は彼を無くそうとしていた。彼を受け入れて彼の想いに応えようとしていた私を否定して、私の彼への想いも無かった事にしてしまおうとしている。

 先輩の歯切れの良い明るい声と速いレスポンスの利発さに、横浜市街に入る頃には彼を消し去る残酷な自分を肯定できるようになっていた。先輩との会話がスーッと香りのように抜けて行く程に、聞き取り易い音域のボイスは甘くて、私のハザードを擽るように散らす抑揚が気持ち良い。

(もう、彼なんて、どうでもいいかも)

 夕方に着いた大桟橋は、さっきまでの強い陽差しが陰り出し、先端にたどり着く頃にはびっしりと暗灰色の雲で空が覆い尽くされた。辺りは暗くなり風が吹き去る度に、風に運ばれてくる冷たい湿気が濃くなって行く。今にも夕立になりそうだ。海の色は輝きを失って艶の無い汚い感じの灰色に見える。彼の大型バイクの後ろに乗り、初めてここに来た時と印象が全然違う。

(この天気じゃ、上書きは無理ね……)

 ミナトミライの洗練された高層ビル群と白いベイブリッジ、そして晴れ間の無いどんよりと曇った空を見ながら、私は再び上書きをすべきなのか迷っていた。

「どうしたの? 真剣な思い詰めた顔で唇を噛んで。バス停でも唇、噛んでたよね。悩みか不安な事でもあるの? なにか、僕で力になれる事なら相談されるよ」

(また、見られていた……)

 でも、先輩の優しい声は、不安で躊躇う私の気持ちを薄れさせてくれる。

     *

 相手の位置を確認できるアプリをダウンロードした。それは携帯電話用の面白いアプリを探して、海外のアンダーなアンノンウンサイトに潜り回っていたら偶然に見付けた。ウイルス駆除ソフトに検知されない無料のフリーアプリだったから、恐る恐るダウンロードしてみると全て暗号めいた英語表記だったのは参った。だけど、アプリの使用目的から関連付けて表記の意味が解ると、実際、ウイルス感染やバグも無く、調べたい相手の電話番号を入力するだけで即行で、相手の位置確認ができる便利で違法なワンサイドアプリだった。今のところは、理不尽な使用料金の請求は来ていないし、毎月の額も契約枠をオーバーしていない。……それでも、何かしらの危険性が有る不安は払拭できなくて、定期的にバグとウイルスのスキャンチェックをしている。

(まあ、私の携帯電話から、危険性が拡散されてるかも知んないけど、優先すべきは身近な観察対象と清算したい対象の行動なの……)

 通常の位置確認サービスは、確認相手の認可を求めて許可されると位置を地図上に知らせてくれる。日本国内なら誤差は五十メートル以内だ。先輩は、……用心深い人だと思う。それは私も同じで、携帯電話を手に入れた時から位置表示設定はオフにしている。先輩も同じオフにしているはずだ。でも、このアプリは違う。

 相手の携帯電話の電源が入っているだけでいい。位置表示設定もオンにされていなくてもサーチでき、相手の認可や許可が要らず一方的だ。しかも相手に気付かれる事なくアクセス履歴も残らない。シークレットに相手の携帯電話の所在を知る事ができるスパイアプリだ。

 その使用目的の違法性から、アプリ制作者は世間を騒がせたいだけの愉快犯だと考えて、翌日、お気に入りに登録したサイトを開くと案の定、サイトは抹消されていた。また海外の違うアンノンウンサイトに違うアプリネームで登録され、何処かの誰かに偶然見付られてダウンロードされるのを待っているのだろう。

 スムーズにインストールを終えて、試しに姉と両親の現在位置を表示させる。ちゃんと三人のそれぞれの所在が表示されて、動作は正常と確認された。因みに両親は金沢の自宅に、姉は金沢の街中でデート中らしかった。

 いつ調べても先輩の位置は探知できた。やはり、イケメンで人気の有るモテモテの先輩の位置表示はマップ上でそれなりの場所を示していた。

 いつでも、それなりの場所にいる先輩の位置が分かった事に少し不安で焦っている私がいた。不安や疑りや嫉妬の要素ばかりを気にし出し安堵を得られない事に気付いたからなのか、それともスパイ的な行為をしてしまった後ろめたさからなのか分からないけれど、数度の試しを終えてから確実に動作した確証を得ると、とても悪い事をしているような良心の呵責的な罪深さを感じて、以後、私はこの違法アプリを使用しないように意識する封印をした。

 でも、何時何処で危険回避が必要になるかも知れないから、アンインストールは行わない。

 彼は、中学校二年生の時には既に携帯電話を所持していたけれど、たぶん、OSと初期設定は弄っていなくて今もそのままだと思うから、このアプリは使えると思う。そして、このメールを送る前に彼の現在位置を調べてみた。

 調べると思っていた通り、彼の携帯電話の位置表示設定はオンにされていて、直ぐに位置は表示された。親が子供に、小学校や中学校の頃から買って持たせる携帯電話は大抵の場合、位置表示設定が購入時の初期状態から既にオンに設定されている。

 分かった位置からすると、今、彼は静岡市駿河区の住宅街に居るらしい。時間帯からしても、きっとアパートの自分の部屋に居ると思う。

 彼の居場所を確認した私は躊躇いも無く送信アイコンへ触れる。

【彼氏ができたよ……。大学の先輩。格好良い人で背が高くて美形だよ。かなり女子達の憧れの的だったのに、このあいだ、その先輩から声掛けられちゃって、私でいいのって感じだったけど、なんか運命的なものを感じてしまって、それから先輩と御付き合いをしているの。男女交際ってやつね。……だから、もういいの。今までありがとう。彼氏っぽく扱っちゃって誤解させたかも知んないけど、あなたを彼氏と意識したことは無いの。やっぱり『ありがとう』じゃなくて、『ごめんなさい』だわ。だって私は、あなたのメル友でしょう。私達、男女交際までいっていなかったよね。あなたは私に何度も『好きだ』と伝えてくれたけど。私は一度も『あなたを好き』と言っていなかったでしょう。ごめんね。……あなたに相応しい素敵な女性が絶対いるよ。でも、それは私じゃないから……。ねぇ、もう私じゃなくてもいいでしょう。あなたが私を見なくなれば直ぐにでも綺麗で可愛くて賢い、こんな私と違って優しい彼女がきっとできるわ。あなたの幸せを祈ります。私は、あなたでは無い、あなたと違う別の男性と幸せになります。私の事は……、もういいよ。忘れて下さい。わかってくれるでしょう】

 私に恋心を寄せて片想いをする彼を、私を支えて応援してくれた知人のようにして、これまでの私への想いを決定的に断ち切らざるしかないように書いた。あっさりと私が悪女っぽく思われるように書いた。

 そんな一方的な彼を落ち込ます酷い言葉を連ねるしか、思い付かない私が嫌いだ。ワザと彼を傷つけるのだと分かっている癖に、私から送られて来た、つれなく傷つけるメールに項垂れて歩く彼の姿を見たくないと思う。

(彼は悪くない。私達は二人で何かをするのに慣れていなかっただけ……。思い至らない事が多くて、伝えるのも下手だったから……、躓いてしまったのよ)

 確かにそうだったと思う。私の身勝手な御都合にしか過ぎず、彼よりも先輩を選んだだけ。彼は怒って私を罵るだろうか? いや、罵るぐらいじゃ怒りは鎮まらないだろう。怒るに任せて殴る蹴るの暴力を振るうかも知れない……。そう言えば、彼の怒った顔を見た事がなかった。

 書き上げたメールを送ろうと、送信アイコンへ動く指が躊躇いで止まった。送られたメール文は出だしから彼の想いや願いを絶望へ落とし込んでしまうだろう。私は今一度、彼と先輩を天秤に掛けてから、タッチパネルに触れた指に力を加えた。

 相模大野の駅前で、あのまま寛容になれていれば良かったのだと思う。

(私は、そのつもりだった……。でも……、目に映るあなたとの距離は近くても、心の距離は異質で遠くに感じたの。……ごめんね)

     *

 携帯電話のコール曲は彼からだと知らせている。初めて彼から電話が来た中学二年の時に、『電話しないで。私、電話嫌いだから。メールはいいけど』そう、伝えた。

 彼は今まで、それを守ってきていたのに……。でも想定内で当然の反応だ。

(ふぅーっ、やはり、簡単には切れないか。しょうがないな)

「もしもし。電話しないでと言ったでしょ」

 通話を開くなり、わざと語気を強めて、私は言い放つ。

(私に、未練を持たないで……)

「…………」

 彼は返事をせずに黙っている。無言の静まりは私に虚空を感じさせた。とっさにGPSを起動させて彼の位置表示を行う。

「なんか用? 何も言わないのなら切るよ」

 私はまた、きつい言い方をする。

「会いたい!」

 ボソッと小さな声で彼が言った。虚空は焦りと憤りに変わる。GPSで表示させた彼の位置は近くだった。

(近くだ! 直線距離で三百メートル。彼はここに来ている!)

 私は彼から離れるように、大学の構内を移動する。

「会いたくない!」

 彼の声を聞きながら、私は春の教室での出逢いから相模大野駅の別れまでを思い出していた。

「会って、話がしたい……」

 彼と歩いた春の大桟橋の麗らかな陽射しを思い出す。暖かい風が身体を抜けたような感がして、声の向こうに痛めた足を少し引き摺るように歩く彼が見えた気がした。

 今の季節、秋雨前線や台風の接近で天候は変わり易くて荒れる日も多い。風雨が強い冷えた日に彼と再び大桟橋を歩けば、春色のメモリーをブルーグレーな色に塗り替えるのは容易いかも知れない。でも彼を見たくないし会いたくもない。今の私も彼に見せたくない。きっと彼を見る私の顔は醜く歪んでしまう……。

「話す事なんて、なっ、何もないわ! メールを読んだでしょう」

 彼とブルーグレーな大桟橋にするよりも、もっと華やかで気持ちの良い私の中の大桟橋に先輩と置き換えたい。

「会うのも、話すのも必要ないでしょう。電話、切るわよ!」

 先輩と親しく付き合いを重ねるにつれて、私の先輩への想いは憧れから恋へと変わろうとしている。彼に邪魔されたくない!

「会いに行く! 僕は……」

 平坦で思い詰めたような彼の声が耳の中で小さく反響する。焦りと憤りに不安が被さった。

「会いに来ないで! 会いに来てどうするつもり? 話しをしてどうなるっていうの? 絶対に会わないからね。私は……、あなたを振ったの。そして、大学の先輩を選んだの。あなたを拒みたいのよ! 今、先輩と楽しく付き合っているわ! 素敵な男性なのよ……。だ、か、らぁ、邪魔しないでちょうだい!」

(しつこい奴! いい加減にして!)

 少し彼が恐くなった。不安の暗がりは嫌悪の防壁に置き換えられた。

「君を探して会って……」

(私を探して、見つけて、会って……?)

 嫌悪の壁は逃避の広がりを持つ。

(何言ってんのよ! 私に何する気? ……こんな人だったの?)

「探さないで!」

 思慮の足りない彼の幼さが私をムカつかせる。

(もっと大人になってよ!)

「絶対会わない! 嫌よ! そんなストーカーみたいな事をしないで。……お願いだから諦めてよ。……あなたはそんな人じゃないでしょう」

 これ以上、彼の声を聞きたくなかった。彼は私を責めている。

「もう切るよ」

 そう言った瞬間、彼が叫んだ。

「好きなんだ! 君が好きだ!」

 耳から携帯電話を離そうとした手が止まる。彼は何度も繰り返し叫ぶ。

「好きだ! 好きだ! 君が好きだ! すきっ……」

 彼は叫ぶのを止めない。

「あなたは、もういいの……」

 私は小さく呟いてスピーカーの音が割れる振動で震える携帯電話を見つめ、タッチパネルの赤いアイコンにそっと指を触れさす。私は通話を一方的に切った。震えるスピーカーから聞こえていた彼の我鳴り声が、ふっと消えて耳の中に反響が残る。電波を通してだけど、初めて彼の声で彼の強い想いを聞いた。なのに、私は急いで電源も切る。

 彼からの電話はそれっきりにした。もう彼が私に電話を掛けても着信する事はない。取り敢えず彼への着信応対は、平坦なイントネーションで無情の自動再生ガイダンスに任せる。

(講義が終わり次第、今日中に電話番号とメールアドレスを変更しよう)

 彼の叫びが耳に付き纏い私を苛付かせる。非力な子供をいきなり虐めて閉じ込めて遣った気分だ。してやったとの思いと虐めたという意識が鬩ぎ合い、自分基準の呵責で気分が悪くて吐きそう。

 大桟橋の日の不満と腹立たしさを、才能が無くて挫折したピアノへの憎らしさと悲しみを、人生を先へと進む彼への妬みと、置いて行かれそうな焦りと寂しさを、大学で専門の講義や実習を受けて学ぶほど、本当に臨床工学の知識を活かせる医療の仕事をしたいのか分らなくなる迷いを、ただ流されているような日々への苛立ちを、そして、付き合い始めたばかりの先輩への不安も、全部、彼にぶつけた。だから私にも非が有る。

 突然、一方的に別れを告げられたら、戸惑って納得いかないのは当たり前だ。

(説明や言い訳もされずに突き放されたんじゃぁね。彼にストーカー紛いをされた挙句、酷い事をされても仕方ないかも。まっ、……その時は、私も暴れるけどね)

 ムカムカする私は、電源を落として着信不能にした携帯電話を見詰めながらそう思った。

     *

 夕方近くに電話番号を変更する為に来たショップの前で、オフにしていた携帯電話の電源をオンにする。オンにした途端に手の中で震え着信音が鳴った。着信は、またしても彼からで、今度はメールだ。先に彼の番号とアドレスを消去してからショップに入ろうとしていた私は、偶然にしても彼からのメール着信には、理不尽に因縁めいたモノを感じて驚いた。なんだか気味が悪いと思う。

(どうせ、謝罪尽くしか、御願いだらけか、私への非難ばかりか、まっ、そんなところの書き連ねでしょう。いい加減にして!)

 彼のメールの着信とメール内容を予想する自分がウザイと思いながらも、私は一応メールを開いてみる。

【ずっと君を見ていた。ずっと君を想い続けて来た。世界で一番、君を好きなのは僕だ! 僕以外に君を幸せにできる男はいない! 君は僕の全てで、僕も君の全てなんだ。ただ君はそれに気付いていないんだ。気付かなくても感じているはずだ】

(あんた、何様のつもり?)

 冒頭から捨て身で書き連ねた断定的な文だった。気持ち的に『あなた』とは、呼び掛けれず『あんたに』なる。読み始めて直ぐに腹が立つ。自分だから私を幸せにできないと、なぜ気付かない。

(確かに、そう感じた時も有りました。でも今は違います。あんたは全然、私の全てじゃないから)

 読み進むのを止めて、直ちにメールを削除しようと考えたけれど、悲愴感が溢れる勢いで何を書きたい放題したのか、確かめて遣りたくなった。

【僕は、君が大勢の男達に好かれて多くの告白をされている事も知っている。でも告白した男達はみんな偽物さ。奴らは君の本当のキャラを知らないからな。だから、君は錯覚して自惚れているだけなんだ。それは幻想で全くダメだね】

(なにさ! これで、あんたも偽物になったじゃん。この期に及んで、やっと言いたい事を書いて来ただけじゃんか。これ、……あんたの本音だよね)

 男の子達に好かれてラブレターやラブメールを沢山貰ったのは事実。ラブレターをくれた男の子の殆どは、一度も話した事が無くて書かれている名前を見ても誰か分らないし、顔も知らない人ばかり。でも、私は一つとして無視しなかった。告白してくれた一人一人に私はちゃんと言葉で、文章で、はっきりとストレートに断った。それが断る相手に対する誠意だと、私は信じていた。

 ずっと男子に興味が無くて惹かれる男子もいなかった。モテたいと思わないので私から男子に声を掛けたり接近したりしていなし、自惚れを自覚した事も無い。

(興味を持った男子は、あんただけだったよ。だけど、先輩に声を掛けられた時は、付き合ってみても良いかなと思ってしまったから)

 取り敢えずの『最初は友達から』や『恋愛ごっこ』みたいのは、面倒で鬱陶しいから嫌で、再三のアプローチにも気持ちは揺らがない。あまり明るく振る舞えない私の態度や言動は、大人しめな女の子のオーラを放っていたと思う。その外見から感じる私のキャライメージは偽物じゃない。だから、そんな私に告白してくれた人達は、偽物じゃないから!

(あんたこそ、私のキャラを作ってたんじゃないの?)

 あいつが勝手に創造する私のキャラと偽物呼ばわりに心底ムカつきながら、私は読み続ける。流石に二人称も親しみ敬う『彼』から、忌み嫌う憎ったらしい『あいつ』に逆戻りだ。

【女子達が憧れるイケメンの先輩だって、君を騙しているだけだ。そんなモテモテのイケメンが、まともに君の相手をしてくれるはずがないだろう。もし本当に誘われたのなら、それはただのナンパで、君は騙されているのさ】

(先輩が私を騙す…… ね、それは、有り得るかも知れない……)

 どこか得体の知れないところが有る。胡散臭いと言うか、怪しいと言うか、デート中でも電話やメールが頻繁に着信すると、必ず先輩は私から少し離れて受ける。そして、いつも心ここに在らずの態度になってしまう。

『どこの誰から、何用で掛かってくるのだろう』と、すっごく疑問だ。これとタバコを吸わなければ、もっと信じてあげれて気持ちがのめり込むのに……。

(あんたの思っている通りかもね……)

 メールは長くて、まだ続く。愚痴と非難ばかりで嫌気が差して来る。

【それにスタイル的にも、フェイス的にも、キャラクター的にも、センス的にも、もっと可愛くて綺麗で知的に優れた女子大生は大勢いるよ。君のようなのを理解しているのは僕だけだ】

(ムカッ。とうとう私のボディスタイルまで、言って来やがった! 『君のようなの』って、どんなのよ!)

 いくらフラれて悔しいからって、好きになった女の子の容姿を非難してはいけないと思う。それは最低の行為で、しかも恩着せがましいのは超最低だ!

(不細工なスタイルにブス顔、それにニブイ性格で変なセンスかぁ。よく、こんな私をずっと好きになっていてくれたもんだ。まったく、あんたには感謝してるよ。ありがとうございましただわ)

 顔の作りへの指摘に、私は『十人並みプラスでしょう』と思う。ABCDEの五段階分別ならBマイナスかCプラスだと自己評価している。ボディプロポーションだって悪くない。爆乳や巨乳じゃないけれど出るべきところは、ちゃんと出ていてグラビアアイドルには難しいけれど、自己嫌悪せずに街を歩けるくらい至って普通だ。ウエストもヒップも足首もそこそこに括れているから、決してスレンダー系と違う。脚も極端なO脚やガニ股でない。

 第一に親から授かった身体を、ずっと私を想い続けていてくれた、あいつだけには言われたくなかった。理解されていられても、ちっとも嬉しくない。

(なんで、ここまで書いてくるかなぁ。いちゃもんばっかりで悲しくなるよ)

 今のところキャラはこのままだ。変える気が無いというか、変え方が分らない。きっと、私のキャラを変えるのは、私以外の影響で私自身が自覚すれば自然と変わっていけると思う。センスも同じように私の愛と、愛を得ようとする私の願いと、愛する男性から想われる愛が変えてくれる。

 あいつは私を愛してくれたけれど、私はあいつを愛さなかったし、積極的に愛されたいとも想わなかった。これで、あいつの愛は消えて行くだろう。

(本当に、あんたは酷い事を書いてくるね。許さないから!)

【そして、僕が君にされたように、君も先輩に捨てられるんだ。それは、肉体的にも、精神的にも、酷い目に遭わされてからかも知れないぞ! 辛い目にあって、僕を振った事を後悔しろ! その時には、既に僕は、君とは違う素晴らしい女性に巡り逢えて幸せにしてるよ。じゃあな。奈落の底に落ちやがれ! あばよ!】

(ふぅーっ、やっと読み終えた。何が『あばよ』よ! それは私のセリフだっちゅーの! だいたい今、奈落の底に落ちてんのは、あんたでしょ!)

 終わりは予言の書もどきで、暗示賭けで呪詛だった。

(『酷い目に遭わされて、棄てられるかも』だなんて、余計な御世話だ! 呪ってんじゃないわよ!)

 あいつの思っている通り、みんなの憧れの先輩に誘われて何度かデートをしただけで、それが私も気持ちを舞い上げているのだと思う。でもまだ、恋愛感情を抱かせるほど心は許していないし、安心できるまで見持ちは堅くしているつもり。

 それに、たぶん私は『先輩に棄てられる』前に先輩を捨てられる…。『酷い目に遭わされる』前に痛い目に会わせて遣れるかも。由って後悔はするだろうけれど、辛い事にはならないと思う。

 最後は自分のバラ色の近未来まで語っている。気持ちの切り替えの早い奴だと思う反面、あいつの諦めの悪さの裏返しだとも思う。

(絶対、許せない! あんたこそ、巡り逢えた素敵な女に棄てられればいいのよ!)

 こんな無礼で無神経なアホウに少しでも非を認めた自分が恨めしい。仕返ししてやろうと思って、ちと考えた。あいつに落ち度や欠点が有ったけれど、三行半に収まらなかった離縁状を一方的に送り付けて、先に始めたのは私だった。ここで終わらせなければ納得の行かなさと悔しさが、悪意と憎しみになってしまう。

 それに、私からの反応が無い方が効果的で、あいつは後悔して悩み続けに決まっている。より過激に行動されたら困るし危険だと思うけど、今はそうする。

 直ぐ様、目の前の携帯電話ショップに飛びこんで、私は電話番号の変更を依頼した。幾つかの新規の番号の中から語呂と縁起の善さげなのを選んで、携帯電話を係りの人に渡すと番号の変更はあっさりと完了してしまった。そして、その場でメールアドレスも変える。これで、あいつからの電話とメールは永遠に着信しない。

 続いて電話とメールのあいつへ送信と、あいつからの着信の履歴を全て消去すると、あいつの電話番号とメールアドレスを削除した。

 携帯電話内の電話帳以外のどこにも、あいつの電話番号とメールアドレスを控えていないから、あいつへ電話を掛けたりメールを送信する事は、これで不可能になった。もちろん、私の脳内メモリーの対象にもなっていないから記憶していない。

 消去確認の為、一旦、電源を落として再起動する。開いた電話帳と着送信履歴には、彼の名前と電話番号とメールアドレスは表示されなくなり、送着信の履歴内も、きれいさっぱり無くなっていた。

 これで、あいつとの全てにケジメを付けて消したから、すっきりした気持ちで忘れ去れるはずだったのに、あいつの仕返しメールに反撃できない鬱積がチリチリ、チクチクと、私の身軽になった気持ちを足枷のように苛んで来る。

(あーっ、イライラする。いつか、あいつに誹謗中傷メールの釈明と弁解をさせて遣るわ!)

 いつか偶然に出逢って声を掛ける気分と状況だったら、責めて遣ろうと心に誓う。それなのに暫くは、あいつの叫んだ想いが耳に付き纏った。

 それからは、鎌倉、葉山、横須賀、お台場、TDL、湘南、江の島、熱海、小田原、真鶴、箱根、相模湖、富士五湖、と、ウィークエンドは毎週のように先輩とドライブに出掛けた。

 先輩は泊まり掛けの遠出も望んだけれど、それを拒む私の強硬な要請が毎回日帰りで行ける観光地に換えさせて、決して宿泊や御休息ホテルへ入る事は無く、遅くても夜十時には相模大野の駅前で別れて、絶対にハイツの前まで送って貰う事はしていない。悪天候だとデートは取り止めで、地勢上の危険な場所へは行かないし、近くの道も通らない。先輩の魅力に惹かれて恋焦がれそうだけど、まだ無防備に心を開いて身体を委ねてはいなかった。

(……私は、あいつの呪いを怖れている……)

     *

 年末に帰省すると不在の間に届いた郵便物の中に、あいつからの手紙が有った。その一通の手紙以外はDMか御役所からの通知ばかりだ。

 青いインクで淡黄色と若菜色の横縞の便箋に書かれた文が、水色の封筒に入れられていた。それは短い手紙だった。躊躇いがちな萎えた文字で書かれ、所々濡れたようにインクが滲んで、文字が掠れていた。

『僕は貴女が好きです。いつまでも好きです。僕が貴女を幸せにします。僕しか貴女を幸せにできません。と想っていました。でも、今は貴女の幸せを祈ります。幸せになってください。さようなら』

 前置きも無く、本題からの始まりに正直、私は退いた。

(まだ、あいつは私を想っている。あれだけはっきりと突き放したのに。それに、貶めと呪いの迷惑メールも送って来た癖に、……しつこい奴)

 だけど、あいつがあっさりと身を引き、私の幸せを願ってくれるのが以外だった。そう書かれると私も御願いしなくてはならない。

(いつまでも、好きでいなくてもいいよ。迷惑だし。まあ、半年か、一年も経てば、新しい彼女ができて私を忘れるわ。きっと……。あなたも幸せに……、ありがとう。……さようなら)

 縞柄の便箋をクシャクシャと丸めずに折られていた通りに畳み、水色の封筒に戻して握り潰さずに屑入れに捨てる。

「永久にお別れかな……。バイバイ!」

 からっぽの屑入れの底に落ちた封筒の寂しげな水色に、小さな声でお別れの言葉を添えた。

 

 ---つづく

スタンガン(私 大学二年生 ) 桜の匂い 第九章 弐

 私はベイブリッジの真ん中に停めた先輩のスポーツカーの中から、観覧車の点滅するカラフルなイルミネーションに見蕩れていた。

(こんな場所に自動車を停めてもいいの? でも、横浜港が綺麗!)

「あれはコスモワールドの観覧車だよ。以前、乗っただろう」

 先輩は、唇が頬に触れるくらいに顔を近付けて言う。顔と体が反射的に避けようとするけれど、背や肩に先輩の胸が触れる。息がタバコ臭い。ハッカ入りのタバコは特に嫌な臭いだ。

『タバコを止めて』、『もう吸わないで』と、何度も御願いしたのに一向に止めてくれない。

     *

 ミナトミライに隣接するコスモワールドは、去年の暮れに赤レンガ倉庫へ行って雑貨を買った帰りに寄って遊んだ。夕暮れ色に染まる大気を裂いて、バンクしながら水中に突入するコースターや、夕焼け空が映る紅い水面に、急角度で突っ込むウオータースライダーはとても興奮して面白かった。

(先輩は、私がちっとも怖がらずに、はしゃいでいたから、詰まらなくて少し退いていたんだろうな)

 私から誘って乗り込んだ観覧車は、灯り始めた色鮮やかなイルミネーションが私達を妖しく彩り、上り詰める頃にはミナトミライの眩い夜景に惑わされ、想いを寄せ合う二人のような良いムードになってしまった。ゴンドラが降り始めると、妖しく揺らぐ光りのムードに操られているかのように先輩がキスを迫って来たけれど、それを、『高さに酔って、気持ちが悪い』と言って躱していた。

 私はまだ、先輩に心を許す事ができずにいる。

(先輩、ムードは良かったけれど、まだ、そこまでの気分になれないの。それにタバコの臭いは嫌いだし……。先輩の事は好きだけどね。ごめんなさい)

 何度嗅いでもタバコの臭いは好きになれない。デートを重ねているけど毎回、タバコ臭い先輩のスポーツカーに乗り込むには自分に掛ける魔法と、タバコと先輩へ唱える呪いの呪文が必要だった。

 タバコには色気なんて全然感じない。紙巻なんか貧乏臭いし、レトロなキセルも押入れの黴みたいなイメージがする。吹かすタバコより燻らす葉巻はリッチな感じだけど、いつまでも纏わり付く臭いに吐き気がするわ。

 タバコを吸う人は、神経質で精神的に弱い人だと思う。ナイーブで繊細だと自意識する喫煙者もいるけれど、冗談じゃない!

 止めてと言っても、全く止める気が無い。ちっとも寛容でなくて頑固だ。優しい見掛けでも自己中心で思い遣りや気遣いが足りない。本当に君しかいないって心から私を好きで愛してくれるのなら、私が嫌がる事はしないでくれるはず。なのにするのは愛と感受性が薄いんじゃないかと疑ってしまう。

 だから私は、先輩に愛されていない……。

 まだ良く判らない先輩は、私の事よりも自分中心に物事を考えて動く人だと、薄っすらと分り始めていた。私とのデートも何か別の目的のついでみたいな感じだ。デート中でも頻繁に携帯電話へ着信が有って、その都度、先輩は電話かメールをしに私から離れて行き、決して私の間近で話そうとはしない。

 軽くて胡散臭い……、良く言えば明るくて秘密めいているのだろうけれど信用できない。

 付き合い始めて間もない頃、先輩へ送信したメールにネットの海外サイトでゲットしたGPSサーチウイルスを忍ばせて遣った。ウイルスクリーニングをしても簡単には検知できず除去も難しいアプリだ。クリーニングをしても中身はアンノンウンと表示されるし、ファイルネームを見ただけじゃGPSサーチと分からない。サーチングやサーチャーも知られないメッチャ違法な優れものだ。

 時々、内緒でチェックする先輩の所在と時間帯から、私以外にも複数の女友達がいそうだと気付いた。だから未だに名前で呼ばずに先輩と言っている。そしてまだ、キスを許す気にはなれない。

 イルミネーションが瞬く観覧車の左に、ライトアップされた二つの赤レンガ倉庫が見える。その少し左手前に巨大生物の臥せている暗い影みたいな大桟橋が在った。散策やデートする人達の足元を等間隔に並んで照らす、淡く青白い光の細い照明が哀愁を誘って、私を冷たくて寂しい気持ちにさせた。

(……大桟橋、……か……)

 あの春の陽に照らされた大桟橋の先端を思い出し、ワザとはしゃいでいた気持ちが萎えてしまう。

(! ……?)

 耳許で小さく呼ばれた気がして、振り向いた。

「なに? せんぱ…… うぐっ! ううっ……、いっ、厭!」

 振り向きざまに先輩が唇を押し付けて来た。

(……キスをされた……)

 頬にタバコ臭い息が直接流れ、私はゾッとして反射的に顔を顰めて、先輩の唇を離そうと身を捩りもがこうとするけれど、強い力で後ろから私の頭を逸らせないように掴み、更に強くヤニ臭いザラついた唇を強引に密着させてくる。

(いきなり、何するのよ! きっ、気持ち悪い…)

 押し付けた先輩の口から舌先が私の閉じた唇を抉じ開けようとしてくる。先輩の唾液にヤニの味がした。先輩の手はストッキングに包まれた太腿に触れ、股間に向けて撫で動いた。

(うっ、ミニスカートを、……穿いてくるんじゃなかった)

 唇を固く結んで舌の侵入を拒みながら大切な処へ迫ろうとする手を両手で強く掴むと、動かせないように足を強く閉じて挟んだ。

(あっ、あぅ!)

 それでも時折、太腿で踠く先輩の指が敏感で大切な部分に触れて怯みそうになってしまう。けれど、足を閉じる力と両手の力を強めて進ませない。先輩は不意に股間に迫り掛けた手の力を緩めて触れるのを諦めたように思わせてから一気に引いた。私の手を擦り抜けて自由になった其の手は、企みに気付く私の反応よりも素早い動きで無防備な私の胸を弄りに来る。

(んもう! この男は次から次と……)

 私は身を捩りながら、胸に宛がわれて揉み上げている手を強く引き剥がす。

(今夜の先輩は、いつもよりも強引に、私の身体を求めている!)

 何度もデートを重ねる内に、いつの間にか、先輩にスキンシップとセックスを迫られるのが当たり前のようになっていて、これまでは、その度に私が拒むと先輩は紳士的に引き下がっていた。そんな、私を大事にしてくれている先輩が私の願いを聞き入れてタバコを止めた時には、皆が憧れる先輩を独占している驕りで身体を許してしまうかも知れないと思っていた。だれど今は、いつも以上に強引で不意打ちの卑怯な遣り方にムカつく嫌悪感と、ベタ附く不快感で先輩を殴ってしまいそうだ。

 急に無理強いしていた先輩の力が失せた。押し付けていた唇と掴む腕の力が緩み、やがてゆっくりと離れていった。

「まだ、だめなの?」

 やっと諦めてくれた先輩が優しい声で訊いて来る。

(唇が、油と砂を擦り着けられたみたいにザラついて、キッショイ!)

「うん……。ダメ……」

(くっそぉ! これがファーストキスになっちゃったわけぇ? すっごく納得できないし、不愉快! ウザったくてキモイ……、キモイよぉ~)

 後悔先に立たず、でも先輩の前では、まだ、優しくて、か弱くて、大人しい、恥ずかしがりやの女の子を演じる。

(よくも、ファーストキスを奪ってくれたなぁ~。……絶対に許さない!)

 今は諦めてくれたけれど、いつ次の危機が迫るか分からない。

(キスだけで終わろうとしなかった先輩は、セックスまでじゃないと気が済まないんだ。このままだと、なし崩しにセックスさせられて、遣られ損の泣き寝入りになっちゃう!)

 このところ先輩はデートの度に迫って来る。その強引さに今は気持ちが退けて全力で抗う私だけど、いつしか妥協と諦めで私はバイオレンスでサディスチックなセックスを強いられてしまいそう。

 悍ましさに怯えて震える私の泣きながら叫ぶ顔が脳裏を過ぎるそれは、嫌がる私を無理遣り侵すレイプだ!

(……レイプなんて、されたりしたら、きっと、穢れた身体と荒んだ心は、ずっと癒されないよぉ~)

 先輩が求めているのは愛じゃなくて性の相手で、それは私でなくても、直ぐにセックスができるソコソコに可愛くて綺麗な女性なら、誰でもいいのだろう。

(でも私は、そんな女の子じゃないわよ)

 憧れていた格好良い先輩だったけれど、本性が分かりだした最近は、急速に魅力が薄れて来ている。 

 気持ちは冷めていても見栄えを気にする私は、ベイブリッジへ来る前に先輩と二人で手を繋いで大桟橋を歩いて来た。背が高く、ファッショナブルなスタイリストで顔立ちも良い先輩は、男性フッション雑誌の表紙を飾るモデルかと見間違うほど、外見的に百点満点だ。しかも性格は明るく、ときおり見せる謎めいた言葉や行動が冷たさと寂しさを感じさせて、薄れる気持ちに朱を挿した。

 そんな先輩と手を繋ぎいっしょに歩くのはビジュアル的に楽しいと思う。繁華街で、公園で、遊園地で、擦れ違う女性達が顔を向け、振り返り、格好良くて素敵に目立つ先輩に見惚れていた。

(そんなにモテる先輩が、なぜ私といっしょに歩くの?)

 辛い残暑の陽射しに耐えていたバス停で声を掛けられた時から、既に一年ほど私は先輩と交際している。先輩とドライブをしてショッピングや食事をするデートは楽しいけれど、行為は何処かが薄っぺらで軽く、心が全然満たされていない事に私は気付いていた。

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「今夜はディナーの後にベイブリッジを渡ろう。横浜港の夜景が綺麗だぞ」

 そう誘う先輩に私は言った。

「その前に、大桟橋を歩きたい」

 大桟橋に来たのは、これで三度目だ。桜が散った去年の春、その年の茹だるように熱い残暑の初秋、そして今年は真夏の今夜。二度目の残暑の大桟橋では上書きをしきれなかった。今も始めて来た春の大桟橋のメモリーを上書きに来ている。

 先輩と手を繋いで板張りの大桟橋をゆっくりと歩く。できるだけ、初めてここに来た去年の春のあの日を思い出して、暖かな陽射しを浴びて弾んだ気持ちで歩いていた道筋を先輩とトレースした。右側から登って先端まで行き、そして、鮮やかな白さにライトアップされたベイブリッジを見る。昼間の暑さが退けて吹き寄せる温い夜風が気持ち良い。

(でも、違う……)

 今度も、あの嬉しい暖かさを感じなくて、上書きは上手く行かない。

(せめて、嬉しくて弾む気持ちだけでも、春の日を越えてくれれば、すっきりリセットするのに……)

 あいつから寒々しい電話が掛かって来て、脅迫的なメールも送られて来たのが関わりの最後になった去年の晩秋の日、私は直ぐに電話帳と送受信履歴の全てから、あいつを削除して記憶も遥か遠くへ追い遣っている。だから、あの日の感動は希薄になっているはず……。そう、あいつとの過去はリセットして、無かった事にしたはずなのに、でも、そうならなくて、気持ちは少しも楽しめていなかった。

 しっぽりしたムードの夜の大桟橋は、あちらこちらで多くのアベックがソフトに愛を育んでいた。手を握り合わせ、愛を語り、肩を抱き、背に縋り、それから互いの身体を強く抱き締めて、キスをする。なのに、私の心はときめかず、心から楽しむ気分にも、キスをしたくなるような昂る気持ちにもなっていない。

 ここを歩く度に感動が希薄になって行き、虚しさの空洞だけが広がって行く。この板張りの丘のような桟橋を歩くのは、あの春の日に歩いて感じた気持ちを超える感動で満たされたいからだ。

 そうなれば新しい感動があいつを遠くに押し込んでくれて、少し離れて歩くあいつの気配を思い出したり、幻のような姿が浮かんだりしなくなると思う。それが嬉しい事なのか、後悔する事なのか、分からないけれど、今はそう望んでいる。

 お付き合いをしている憧れだった先輩と手を繋ぎ、ムード満点な夜の大桟橋をゆっくりと歩く。楽しいけれど、楽しさは上辺だけで、ちっとも私の中に沁みて来ない。

 まだまだ肌寒い春の休日、朝から大きなバイクの後ろに乗り、切り裂くような冷たい風を避けるのにあいつの腰へ腕を回し、ダボッとした軍用ジャケットの背中へしがみ付くように体を密着させて暖を取りながら、揺れ惑う迷走のままに連れて来られたのが、初めて来た横浜港大桟橋だった。

 あの時は大桟橋の先端で暖かい陽射しをスポットライトのように受け、爽やかな潮の香りを匂わせる暖かな風に髪を梳かれて、私は穏やかな幸せを感じた。

 それが、ここに来て先輩と歩く度に、あの日に感じた幸せは削がれて色褪せて行く。心の中の小さな丸い幸せの塊に、ポコッと何も無い穴が空いて拡がっていくような、別の鮮やかな色に塗り替えられるのじゃなくて、色褪せる分だけ空しさの穴が開くって感じがする。

 あの春の日と同じ感動さえも得られない。暖かい穏やかな夜風や肩に触れる憧れの先輩の温もりも、空いた穴を塞いではくれなくて、私の気持ちは満たされない。私は今回も上書きできそうになくて、あの春の日を塗り替えられないと思った。

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 先輩は握る力を緩めて繋いでいる手を静かに離す。そして、その手は私の肩に回されてグイッと私を抱き寄せる。先輩は顔を寄せて再びキスを迫って来た。

「だめ……」

(とてもキスをする気分になれないよ……。先輩、どうして私が何度もここに来るのか、察してくれないのよ!)

 今度も両手を先輩の胸に押し当てて強く拒んだ。

「まだ、だめなのか? もうそろそろ、そんな関係になってもいいだろう?」

 数えきれないくらいキスを断り躱している。いつも先輩は私の気持ちを読めていない。

(そんな関係って……)

 少し気不味い。その後は離した手を繋がずに先輩の先を歩き、冷房の利いた二階を通って一階の駐車場へ向かう。

 今日も春の大桟橋のトレースができなかった。今さっき歩いていた大桟橋での出来事が、無感覚な遠い記憶のような気がする。

 髪と服の乱れを直しシートの座りを正しながら、カラフルな夜の景色に視線を戻した。幾つものライトアップやイルミネーションの綺麗な光りの重なりが、アニメーションで見覚えの有る非現実的な異世界の街の色に、どこか似ている。夢と希望と危険に満ちた魅惑的な色彩だ。

 そんな記憶を重ねていると、見蕩れていた横浜港の夜景が急に色を失って、時間も、空間も、戻せないセピアカラーの想いの焦りが、今の私を不安にさせてしまう。

(なんで、こんな場所に私はいるのだろう? 私は何をしたいの?)

 上書きも出来ずに、今夜も、明日も、次のデートも、遣り過ごせるかも、躱せ続けれるのかも、無事でいられるのかも、全く分からないのに、身の危険を他人事のように感じている私は、投げ槍気味で操を捨ててしまいそうだ。

「やばい!」

 実感の乏しいブレっぱなしの自分を呪って落ち込む私は、ルームミラーを見ていた先輩の突然の声に釣られて、首を傾げてサイドミラーを覗き込むと、回転する赤色の鋭い輝きとアップにしたヘッドライトの強い光りが、サイドミラーの中で急速に近付いて来ていた。

 振り返って見ると、パトカーが真後ろに慎重に停まり、私達のようすを窺うように少しの間を置いてから警官が降りた。警官は警戒心全開と即応戦感が充分に漂う堂々とした態度で近付いて来る。

 先輩はセカンドバックから手際よく運転免許証を出し、下げた窓越しに覗き込む年配の警官に見せながら、問い掛けようとする警官の素振りを遮るように言った。

「すみません。彼女が急に気持ち悪くなっちゃって……」

 その言葉に急いで私は俯いて恥ずかしそうな仕種をする。

「気持ち悪いのは、治まりましたか?」

 私の顔を見て警官が掛けてくれた優しい声に、ほっとした思いで私は頷いた。

「ここは駐停車禁止区域だからね。まぁ、状況から見て今回は許すけれど、以後、気を付けて下さい」

 免許証を先輩に返しながら、そう言って年配の警官はパトカーへ戻って行った。

「ありがとうございます。すみませんでした」

 警官の後ろ姿へ申し訳なさそうな声で先輩は言ってから、私に向き直って舌を出した。

(この人、慣れている……。こんな場面を何気に熟すのが上手なんだ)

 でも頼りがいは感じられなくて、姑息さだけが強まった。

(油断ならない!)

「さぁ僕のマンションへ行こう。何もしないよ。部屋で冷たい物でも飲んで、ちょっとだけ休んでから帰ればいい。勿論、送るよ。それに部屋も見て欲しいしさ。それなら来てくれるだろう? では行くよ」

『ちょっとだけ休んでから……』軽い誘いの言葉が含みの在る声で聞こえ、煽られた警戒心が不安な私を萎縮させる。

 先輩のしつこい誘いと奪われたファーストキスへの喪失感と無念さから、渋々先輩の部屋への訪問に同意した。

    *

「何を飲む? いろいろ有るよ。お酒もね」

 先輩は自分の部屋のドアを開けながら私に訊く。

(……酒! やはり素直に帰さないつもりらしい……)

 私は少し後悔した。

 町田駅近くの高層マンションの最上階に先輩は住んでいる。自分の事は余り話さないけれど、この広い三LDKのマンションや高級スポーツカーや身に着ける物などから、先輩は裕福な開業医の息子なのだろう。以前もデートの帰りに誘われてマンションの前まで連れて来られたけれど、スポーツカーから降りるのを拒んで入っていなかった。

 あの時は警戒していたのに、今夜は先輩の部屋に入る……。

「サイダーか、スプライトは有りますか? それとトイレをお借りします」

 トイレで用を足さずに水道で唇を洗って拭う。さっき、初めてのキスは不意打ちにされた。人生初の大切にすべきだと思っていたイベントは、願いもムードも無い不快なものになった……。

 トイレから出てリビングを見ると、明るい色のフローリング床に毛脚の長い白いカーペットが敷かれて、その上にセンスの良い高そうなテーブルが置かれている。その前に座ると直ぐにリビングの一角に設えたキッチンから、待ち構えたように先輩が飲み物を持って来てくれた。

「はい、スプライト」

 先輩は氷入りのスプライトで満たされたグラスを渡してくれた。受け取った透明なグラスの底が渦を巻いている。氷の下のスプライトがゆっくりと回っていた。

 グラスの内側に付着した炭酸の小さな泡は、動かずにポツリポツリと離れて水面へ昇って行く。透明なスプライトに渦が見えるのを不思議に思い、そして疑いを抱いた。

(氷とスプライトだけなのに、なぜステアしているの?)

 先輩は、その場で私の様子をじっと観察するように見ている。

 小さな渦に白っぽい微細な粒が舞う。それが渦を視認させていた。目を凝らさないと分からないくらいの小さな粒は、渦の底に向って螺旋を描きながら沈殿して行く。それは氷の光沢と炭酸の泡でとても気付き難いけれど、氷の上にも降り積もっていて、明らかに微粒状の異物が混入されていた。

(これは、状況として睡眠導入剤か筋肉弛緩剤に間違いない。……事態は深刻だ)

 これまでの強引な振る舞いから先輩は、近々、力尽くで私の身体を求めて来ると思っていたけれど、まさか、こんな短絡的な強行手段に出るとは考えてもいなかった。私は今、クライシスゾーンの真っただ中にいる。

(ここは、アウェーだ!)

 先輩の卑劣な企みに気付いて躊躇う私は、チラッと先輩の様子を見てギクリとした。先輩の睨むように私を見続ける目と合ってしまった。疑惑が確信に変わり戸惑う私を気付かれまいとして、思わずニコッと微笑んでしまう。そんな私に気付いたようすも無く先輩はニカッと笑い返して来る。笑う口の両端は釣り上がり、目尻に皺が寄らない笑顔の眼光は明らかに企みを含んでいて、考えたくも無い悲しくて惨めな結末に至る現実が直ぐそこに有った。

 先輩に注視されたままにスプライトを飲むべきだろうか? きっとそれは、舐めるような一口では済まされない。先輩は強引にでも半分以上を飲ませようとするだろう。飲んだ後の結果は見えている。

 薬物で意識を朦朧にされて乱暴に犯されるくらいなら、身体を許して優しくされる方が良いのかも知れない。

(こんなのは嫌! 身体だけが目当ての愛の無いセックスなんて絶対、嫌だ。ああっ、初めてのセックスが薬で昏倒させられて、強姦される……。で、ヴァージン喪失だ……)

 今さらながら私は悔やんだ。凄く美形で容姿端麗な先輩のクールさと柔和さを伴った外見と、優しげな気配りに私は心を奪われて、先輩の愛の無さに気付けなかった。

 ただ、先輩はデートでの私の様子や話しを良く覚えていて、時間や約束事をスルーする事も無かったけれど、どこか裏が有りそうな不誠実っぽさや嘘っぽさを感じて、ずっと身体を許さなかったのが救いだった。

(だけど今、非常に危うくて守り切れない……)

 ここに至るまで私は先輩の上辺しか見ていない事に気付いて、同様に私の上辺しか見ていないと思って無碍にして来た多くの男子達と同じだと思った。

(飲めない! 飲むのは嫌! そうだ! 零そうか?)

 絶対、飲む訳にはいかない。でも零しても直ぐに先輩は新しいのを作って来て、無理遣り飲ませようとするだろう。そうなると、

(直ぐにでも逃げないと、……いや、戦わなければならないかも……)

 これは初めて体験する物理的な我が身の危機的脅威だった。そして、上手く逃走できても再び同じ状況になるのは時間の問題だ。ならば戦闘すべき状況なのだ。でも慎重にしないと互いに遺恨を残し先輩の報復を招いてしまう。故に最悪の民事や刑事の事件になってしまっても徹底的に攻撃するしかないのかも知れない。しかも、これはまだ、我が身に迫る深刻な危機へのアプローチにしか過ぎない。

 グラスから目を逸らし私はべランダの方を見て言った。どうしても反撃の、いや、脱出や説得のチャンスを作らなくてはならない。

「ここ、最上階よね! どんな景色が見えるの? 見てもいい?」

 立ち上がり掛ける私の腕を、先輩はガバッと身を乗り出して来て強く掴んだ。その私を睨みつける醜く歪んだ顔の口が何か言おうと動きかけた。

 腕を痛いほど強く掴む力と、迫り来る恐ろしげな先輩の顔に怯んでしまい、これから先輩の口から発せられようとしている、一生のトラウマになるかも知れない言葉に怯えた。

「先に飲め! 見るのは、飲・ん・で・からだ」

 何か得体の知れない微粒子を入れられた炭酸飲料を『飲め』と脅す声の低さに、私の背中と肩が小刻みにプルプルと震え、膝下が小さくガクガクと鳴った。

(こっ、怖い! ああっ、もう戦闘にならない……。抵抗なんてできないし……、無理よ)

 飲んでしまったらきっと、意識は朦朧として、ぐにゃぐにゃになった力が入らない私の身体は、先輩に好き勝手に触り放題に犯されて穢れてしまう。

(嫌よ! そんなのは絶対、厭! でも、いざとなったら全然ダメ、……私も、か弱い女の子なのね……)

 虚ろな意識の弛緩した身体の私は、初めてのセックスなのにロマンチックの欠片も無く、バイオレンスにぐちゃぐちゃに弄ばれる。萎縮する気持ちは、穢される瞬間が来ても、抗う意志と力を微力も出せないと私に思わせてしまう。

 今は少しでも、酷い言葉で罵られながら乱暴に扱われて痛くされないように、そして悲しみが小さいように祈るしかない……。

 客観的な言い訳を連ねて気持ちだけでも逃避させようとするくらいに、竦む私が諦め掛けて覚悟したその時、不意に先輩の携帯電話が着信のメロディーを奏でると、先輩は慌てたように掴んでいた私の手を離し、『早く飲め』と言い残して着信を受けながら急ぎ隣り部屋へ行った。

『今……、来ている……、直ぐ来い……』と声を潜めて話すのが聞こえて来た。抜け目の無い先輩は仲間を呼んでいる。

 先輩だけなら泣いて懇願し続ければ、最後までしないかも知れない。堅く拒み続ければ、この場は逃げれるかも知れない。隙を狙って窮鼠猫を噛むのチャンスになるかも知れない、などと考えていたけれど、仲間に来られたら逃れられる確率が極端に小さくなってしまう。状況は圧倒的に絶望的になって行き、もう、僅かでも救われそうにない!

 爪先、足裏、踵が床へ触れている感覚は無くて、上手く立っているのか分からない。ただ、裸足で良かったと、全く事態が好転しそうもない事を思う。ソックスやストッキングを履いていたら滑って転んでいただろうと、既に私の意識は逃げに向き掛けている。

 顔から血が退いて行くのを感じる。手足や指先の感覚が消えて身体が痺れたように重い……。震えを意識した背や脚は今も震えているのか分からない。ただ、噛み締めようとしていた奥歯がズレ動いて、力が入らないのだと知った。……急速に恐怖と畏縮が私を支配して行く。

 思いっ切り悲鳴を上げて叫び続けても、きっとこの部屋は防音の造りになっていて無駄だと思う。後は神に祈り……、最悪を回避するか、奇跡の発現を間の辺りにさせるしかない。

 この場の災厄を退けれるならば、スカボローフェアの古い歌詞のように強いハーブの名を連ねて悪魔の誘いを避けるより、無理難題を叶えて力を与えられたいと思う。悲しげでも、寂しげでもあるメロディーを思い出し始めると、悪魔との契約を拒む呪文のような歌詞が次々と浮かんで来て、私を客観的にさせて肌の感覚を戻し震えを少しづつ抑えてくれた。

 奥歯が噛み締まり、身体全体に力が戻って行く。落ち着いて行く気持ちは脳を冷静にさせ状況の把握と対処を急がせた。

(先輩だけでも抗えないのに、仲間に来られたらどうしよう。一人来る? 二人? もっとなの? ……輪分からない。益々、非常事態だ。危うし乙女の私……、まだバージンなのに……)

 今、先輩が電話で話している間に、スプライトを処分してしまわなければならない。

(今しかない!)

 私は急いで背凭れにしている大きなクッションの中へ、スプライトの殆どを流した。

(おっと、氷はそのままグラスの中にしてと……)

 さも飲み干しているようにグラスを傾けて口に当てる。残した氷に触れさせて唇を濡らし先輩の戻りを待つ。数秒もせずに戸の影から覗くように私のようす窺う先輩が見えた。

「ぷはーっ!」

 ワザとガラガラと氷の音を立てて、一気飲みをしたようにグラスをテーブルにドンと置いた。間髪を容れずに先輩が部屋に入ってきて、近くに有ったテッシュペーパーで口を拭う私の仕種と、空いたグラスを見て口元を歪ませた。

(さぁ、これからが大事だわ。乙女の一巻の終わりにならないように、眠くてしょうがない女の子を、上手く演じなくっちゃ!)

 覚悟を決めると怯えと震えは消えて無くなり、私は点けられたテレビを見るフリをして演技に入る。

 睡眠導入剤はその名の通り眠くなり、筋肉弛緩剤はボーッとだるくなって力が入らなくなると医療の本で読んだ事があった。どちらの薬も効いている状態は同じだと思う。

「どう? 飲んで少しは落ち着いたかな? 警戒しなくても、もう何もしないよ」

(よく言うわ。下心見え見えじゃないの! どうせ仲間を呼んでいるのでしょう。電話の声が聞こえていたよ)

「そんな……、警戒なんてしていない…… ですよ……、先輩…」

 少しボーっとしたように、途切れがちに話す。

(今すぐ部屋を飛び出して帰りたい。先輩の仲間が大勢来たらヤバイ!)

「部屋を綺麗にしているだろう。住み心地は良いし最上階で、周りに高い建物が無いから眺めも最高さ。それに防音完備だ」

 やはり、高額そうなマンションの各部屋は、壁、ドア、窓、床、天井の六面全てに遮音工法が施されていた。

 反応が鈍くなったように、少し間を開けて返事をする。

「うん……、せっ、先輩のお部屋、……整理されて…… いて、 すっきりしています……。きっ、綺麗…… 好きなんです…… ね…。センス…… も……、良いし」

 棒読みっぽく、後半はゆっくりと話す。眠そうでトロく話す演技をしながらも不安は脹らんで来る。

(なにが防音完備だ。それは先輩の都合でしょう)

『防音完備』が不安を煽る。抵抗されて騒がれても悲鳴や物音は隣近所には聞こえず、誰も助けに来てくれない。

「疲れたの?」

 眠そうな私の様子に、先輩は探りを入れてくる。話し掛けて来る先輩の口調から演技なのかと疑われていないと思う。

(演技は、それらしくなっているみたい)

「……ううん。でも、何だか…… だるくて……、力が入らない感じ……。疲れてるの…… かな?」

 急速に私のクライシスタイムが迫って来ていた。

「疲れたのなら、ゆっくり休んでゆけばいいよ。ソファかベッドで少し眠れば楽になるさ。なんなら泊まってゆけば」

(なに言ってんのよ。どう楽になるって言うの。眠らないし、泊まるはずないじゃない!)

 仲間が来るまで少しでも時間を稼ごうと、先輩は私を引き止めようとする。

「帰りたい、……です。帰ります。先輩……」

『ピロン、ピロン、ピロン』その時、室内にチャイムが鳴り響いて訪問者を知らせた。

 先輩は慌てて立ち上がり急いで部屋を出て行く。直ぐに玄関ドアを解錠する音がした。

(しっ、しまったあ! きっ、来た! 本当に来たぁ! どっ、どうしよう)

 ドタドタと慌ただしく数人の男達が部屋に入って来た。ヤバそうな危機が逃れられない危険に変わった。

(やっぱり、騙したな)

 一旦は覚悟を決めて冷静さを取り戻した気持ちが、再びパニクって来る。怯えて萎縮する私は身構えるようにバッグを抱き抱えて、男達に見えない向きから静かに中に手を入れた。指先が小刻みに震えて何に触れているのか分からない。助けを求める意識は、事故ったバスの中で私の前に立つあいつと、倒れ行くバイクから大声で私を逃がすあいつと、そして、カツ丼を食べているあいつを思い出していた。今にも体中がガクガクと震え出して来そう。

(私を助けて! 私を守って! お願い……)

 非力でか弱い女の子の私は力技で男性に敵うはずがない。遣って来た男達は三人で、既に敵になっている先輩を含めて相手は四人になった。全員、逞しい体付きで腕力が有りそうに見える。それに四人とも薄ら笑いを浮かべる表情や余裕の物腰は、少しの躊躇いも無く場慣れしていて、平気で女子を犯して輪姦できるのだろうと、いや、遣り捲くっていると思わせた。

「おっ、こいつは、なかなかカワイイじゃんか。おい、早くこいつの顔が、苦痛と恥じらいに歪めて、快感によがるのを見ようぜ」

 横に来た男が私を覗き込み、アダルトビデオかドメスティックバイオレンスムービーのセリフような卑猥な事を言って、私の前髪を払い上げようと手を伸ばして来る。それを、もう眠くて堪らないとフラつくフリで、ゆるりと体を傾けて避けた。

(早く! どうにかして逃げなければ……! ……逃げる? どこへ?)

 とにかく、咄嗟に脱兎の如く逃げて……、私を捕らえようとする男達の手を振り切って、玄関ドアへ駆け寄っても、ドアを解錠するのにもたついて忽ち男達に捕まってしまう。

(例え、部屋から出られても直ぐに追い付かれて、マンションの敷地内、ううん、きっと、建物からも脱出できない……)

 そして、逃げる術を失って捕らえられた私は、どんなに抗っても為す術も無く男達に犯され弄ばれてしまうんだ……。

 運良くドアから出れて悲鳴を上げながら大声で助けを求めれば、誰かが気付いて通報してくれるかも知れない。でも、追い着いた男達は再び私を先輩の部屋へ引き戻して、緊急通報で到着した警察が場所を特定して私を解放するまでに、目的の輪姦を済ませてしまい、訴えようとすれば後日、更に酷い事をされるだろう。

(ああっ、だめだ! 逃げ切れない……)

「……私……、もう…… 帰る…… わ。……帰りたい」

 演技を続けて眠くて仕方が無いようにしゃべる。男達を油断させておかなければならない。私はバックの中を弄りながら、足元がおぼつかない振りをして立ち上がろうとした。はっきりと震える指はバックの中を懸命に探している。

(あれは、どこに……)

 忘れていたけれど、まだバックの中に入れて有るはずの、今のクライシスゾーンから逃れて纏わりとしがらみまで断ち切れるパワーを、男達に気付かれないように私は、そっとバックの内底に指先を這わして探す。

(少しも抵抗できないまま、弄ばれるなんて、いっ、厭!)

 震えで感覚の鈍った指先は、触れる物が何かと認識するのに時間を掛けさせ、ブルブルする震えは掴み損ねを繰り返えさせた。探し物はバッグの中で割と大きい物なのに、どれなのか分からない。

 バックの中身を整理していない自分の怠惰さを呪うけれど、整理していたらバックの中から除いていたかも知れない。

(厭だ! こんなアウェーで輪姦され、バージンを失うなんて……)

「お姉さん、まだ帰れねぇよ」

 立とうとする私を押し戻しながら、男の一人が言う。私は押し倒されて、ぺたんと尻餅を搗くように座ってしまった。

(にっ、逃げちゃダメ! 戦うのよ)

 ついに指先がバックの底に有った一発逆転アイテムを探り当てた。それなのに震える指は、力加減を意識できないほど感覚が鈍り、上手く掴めているのか分らない。焦る思いは押し寄せる不安を切迫した恐怖に変える。

「なっ、なにを…… すっ……、する…… のよ……」

 トロそうな声を出しながら顔を少し上げ、眠くて瞼がくっ付きそうなフリの眼で彼らを見回した。私の前には半円状に先輩も入って四人が立ち並んでいて、電話で呼ばれて来た男達も先輩ほどの美形とは言えないけど、それなりにイケている容姿で遊ぶ相手に不自由していなさそうなのに、今にも私を弄ぼうとしている。

 男達を見回し終わってから、私はゆっくりと顔を俯き気味にした。

(もっ、もう…… だめ……、パニくりそう。でも怯えたら駄目!)

 竦んで泣き叫んだりしたら、きっと演技だと悟られてしまう。演技だと知られてしまうと警戒させるどころか、一気に襲い掛かって来るだろう。そうなると逃げるのは絶望的だ。

 攻撃は奇襲しかない。

(チャンスを狙うのよ)

「おい! こんな田舎娘に一年も掛かりやがって、どうして姦ってねぇんだよ」

 正面に仁王立ちになったスリムのジーパンの奴が言った。ワザと顔を上げずに反閉じにした瞼でトロそうにしていたから、そいつの太腿から上は見えない。立ち上がろうとした私を押し倒したのはこいつだ。こいつのスタンスは、少しでも私が逃げようとする素振りを見せたら、叩き倒そうと構えている。

「こいつは、そこら辺の軽いお嬢ちゃんじゃねぇんだよ。けっこうガードが堅くってさぁ、キスも、さっき無理遣りだぜ」

 左端の先輩が言い訳がましく愚痴る。こんな卑劣な奴を憧れの先輩だと思っていた自分に腹が立つ。ついさっきファーストキスを奪われてしまった。何度も拭っても、何度も洗っても、先輩のザラついた唇の感触とヤニの味は消えて行かない。

(くっそぉー!)

 不意打ちを食らった唇の蘇る不快感への憤りが、迫る来る自我を喪失するかも知れない程の、危険な極限状況でパニック寸前の私を落ち着かせていった。男達に弄ばれて嬲られる恐怖は抑えられ私を冷静にさせる。

(姦られて堪るか! 姦られる前に殺ってやる!)

 指の震えは止まった。スタンガンをしっかり握りながら私は反撃のチャンスを狙う。ふうっと、朝の高校通学のバスの中で私を守るように横へ立つ彼の気配を感じた気がした。

(お願い! もう、二度と『あいつ』って思わないから、私を助けて!)

「こんなふうに、早くここに連れて来て、さっさと姦っちまえば良かったんだよ。お前らしくもないな」

 右端の奴が私の足を軽く蹴りながら、いつもの普通に遣っている遊びのように言った。

(いったい私はこいつらの何人目の犠牲者になるのだろう…。許せない! 絶対、許せない!)

「俺のプライドだ。こんな田舎娘なんか、フツーに落としたかったのさ」

 私が簡単に姦り廻されるだけの、物欲しそうな女だと先輩は憎らしげな口調で言う。

「おーい、そんなこたぁ、どうでもいいから、早くいてこましちゃおうぜ」

 直ぐにでも非常にやばい状況になりそうだ。もう躊躇はできない。私はバッグを抱え、ゆっくりと右膝を立てた。

(おっ、落ち着くのよ、私! チャンスは一度切り……)

「おっと、おねえさん動くんじゃねぇよ。そのままにしていろ。今から飽きるまで、ずっと楽しませて貰うからよ」

 男達は、誰がどうするとか、順番がどうのとか言いながら携帯電話やセカンドバックを部屋の隅に投げ転がして、服を脱ぎ始めた。

「今日は俺の番からだ! おぅ、姉ちゃん、俺様のデカイので初っ端から、ヒィーヒィー泣くほど、喜ばして遣るからよ!」

 品の欠片も無い下品な言葉を聞かされて、私は諦めたかのように顎を落し項垂れる。

「んにゃ、だめだ、だめだ! おめぇの後は、ガバガバユルユルになっちまってよぉ、入ってんのも分かんなくなるから、最後に決まってんだろ!」

 酷い言い種で男達は私を姦る順番で揉めているのが頭の上から聞こえて来るけれど、私の目は瞼を擡げ、じっと男達の太腿を襲うタイミングを狙う。

「アッハッハハ。ちげぇねぇ、おまえは最後だからな」

 抗える術が無ければゾッとするような男達の笑い声だけど、掌に握る物の感触が、気持ちを落ち着かせて余裕を持たせてくれていた。

「おい、逃げれねぇよ、あんた。諦めな」

 諦めたように黙り込んで朦朧とする意識に動きも緩慢なフリをする私に、拒む気力を殺ぐ下品なダメ押しの言葉で反応を探ってくる。

 瞬きしながら虚ろに流していた視界が、今のセリフを正面に立つ品の無さそうな男が言うのと、更に動き続ける男の唇から、手本のような卑猥な声が放たれるのを見させてくれた。

「騒ぐと痛い目に合うだけだぜ。へへっ、騒がなくても裂けて、痛がっちゃうかも知んないけどよぉ」

(なんて、陳腐でB級テレビドラマ的なセリフなの。フツー的過ぎるよ)

 掴んだスタンガンのスイッチを静かにオンにする。通電を示す小さな赤いLEDが灯り、セーフティは解除された。電源になる二個の九ボルト電池は、毎週新品に交換して作動チェックをしている。

 私はそっと指をパワーボタンに掛けた。

(これが動かなかったら……、今、電撃が出なかったら……、私は朝までこいつらに嬲り弄ばれてしまう。それはきっと今晩だけで済まない。撮られた写真と動画が弱みになって、インターネットで個人情報まで公開するとか、プリントしてキャンパスや町中にバラ撒くとか、脅されて、この先も、ずっと何度も甚振り尽くされる……)

 私の緩慢な動きと、呂律が回らないしゃべりに男達は油断している。

 スプライトに入れた睡眠導入剤で、私の意識が朦朧としていると思い込んでいる男達を、上目で素早く見回す。服を脱いで部屋の隅に投げやる動作で男達全員の上半身が斜め後や横を向いていた。

(嬲られるのも、弄ばれるのも、甚振られるのも、弱みを握られるのも、脅されるのも、絶対に厭だ! 許してやらない!)

 指先に伝わる感触は、今、私が御願いする神様。きっと雷で私を救い出してくれると思う。

 空の彼方や社の奥に鎮座する神様じゃなくて、バックの中でしっかり握られている彼がくれたスタンガンだ!

(御願い! 動いて!)

 生唾を飲み下す音が私の中で重く響き、静かに大きく吸い込んだ空気が気道を通り肺を満たして行く。全身に送られる新たな酸素に奮い立たされた私の肩と腕がブルブルと痙攣して、ぶるんと震えた手の引き攣る指がパワーボタンを押した。

 バリバリバリッ !

(きゃっ! ……うっ、動いたぁ!)

 激しい放電でバックの中が青白い閃光で照らされる。ビクッと、何事かと男達の動きが止まり、私は決断した。

(今しか無い!)

 立てた右膝に力を入れ、パワーボタンを押し放電の青白いスパークと、けたたましい放電音を轟かせたままのスタンガンをバックから引き抜き、身を屈めて一番右側の男の太腿に、Gパンの上からスパークを押し付けた。

(いっけぇー!)

「ぐわっ!」

 気管が全開にされて一気に空気が出るような、人の声じゃない悲鳴を上げながら半裸の男は撥ね跳んだ。この男はズボンを脱ぎ掛けていて、膝にズボンを絡ませたまま床へ顔面から落ちた。僅かに髪の毛が焼ける臭いがする。スパークの熱が太腿の体毛と皮膚を軽い火傷を負わせた。

(ええーっ! すっ、すっごい威力じゃん! これ……)

 スタンガンの予想以上の威力に私は驚いた。大の男が撥ね飛ぶほどの凄い威力にビビったけれど、今はそれどころじゃない。

 左回りに四人の太腿を狙う。隣の男が異常な速さと姿勢で仰け反り倒れても、けたたましい放電音に竦んで事態を把握できないのか、足の動きを停めたままの二人目にスタンガンを押し付ける。

「がっ!」

 二人目も尻切れの悲鳴にならない音を叫んで転がった。

 脚に電撃を喰らわせるのは動きを封じる為だ。太腿への電撃の痛みで大抵の人は歩けなくなると、スタンガンを受け取る時に彼から知らされていた。より確実に動きを止めるには心臓に近い胸や背中と、脳に近い首筋や肩にスパークさせれば良いのだけど、今は体勢と距離と時間に余裕は無かった。

 スタンガンのスイッチを押しっぱなしで、夢中でスパークする先端を当てて行く。とにかく男達にダメージを与えて怯ませなければならない。二撃、三撃、そして止めの電撃を喰らわす為にも今、確実に四人全員に初撃をヒットさせなければならない。一人でも外すと反撃されてしまう。

(絶対、外せない!)

 鋭く大きな異音や衝撃を伴う突然の脅威や危機に、普通の人は刹那に対応できない。最初の二人は避ける間も無くスタンガンの電撃をもろに受けた。

 一瞬前まで姦る楽しみに興奮させてくれた女が、隠し持った武器を使い反撃して来た事態を、ようやく理解できた三人目は逃げようと動き、太腿を狙ったスタンガンは逸れた。だが立ち位置を変えようと回す軸足の脹脛に青白いスパークが触れて、後ろ蹴りに撥ね上がった足の反動で勢いよく顔面から床へ倒れ込んだ。

 四人目…… 左端の先輩はスパークを避けようと足を退いて危うく逃がしそうになった。狙った太腿を外した勢いで私はバランスを崩し壁際まで転がってしまう。その時、辛うじてスパークし続けるスタンガンが反対の脚の足首に触れて先輩を弾き飛ばした。

(奇襲は成功だ!)

 スタンガンの先端が人体に触れる感触を感じながら、視線は次の男の動きを捉える。私は無言で連続スパークするスタンガンを、判断がつく限り最少の動作と最短距離で男達に電撃を喰らわせていた。無言なのは声で私の方向や位置を知られるし、女性の大声や悲鳴は男をたじろがせれるけれど、逆に警戒心と慎重さを与えて抵抗や反撃を煽ってしまう。そして、初撃を四人全員にヒットさせた今も尚、無言なのは私の喚き声で男達の反応が加速して、より早い防御と私への攻撃に移らせると思うからだ。力技では、暴力的な男の前に女性は非力だ。

 壁際へ倒れたショックと痛みに慌てる無様さが、ここに至った自分を不憫に思わせて私は凄く腹が立って来た。今、逃げ去るより怒りに任せて四人を徹底的に痛めつけて遣りたい!

(もっと、もっと速く動け! 動いてよ、私の体!)

 私は跳ね起きて、まずダメージが軽い先輩と三人目を襲う。足元で脹脛を押さえて苦悶する三人目の背中にスタンガンを押し付けて悶絶させる。悲鳴を上げながら床にのた打ち回る先輩は私の動きに気付くと、身を捻りながらダメージを受けていない足を弱々しく振り回し、私を近付けさせまいと蹴り出した。動きの鈍い蹴りを難なくかわして爪先にスパークさせると、私を蹴ろうとした足はあらぬ方へ勢い良く開き床に落ちた。その隙に背中にも電撃を喰らわす。

 既にGパンを脱いで毛深い素足が剥き出しの奴もいた。体毛が焼けて焦げた臭いが鼻を衝く。必死で一瞬の仕業だった。男達は一様に悲鳴を上げて跳ね跳び、呻きながら床でのたうち回っている。

 私は更に、素早くスタンガンを押し付けて回る。痛みで蹲っているから抵抗はない。背中、脇腹、肩、腹、尻、どこでもいい手当たり次第、電撃を喰らわす。弾かれたように仰け反り、悲鳴を上げ転げ回った。私の気が済むまで屑野郎共に電撃を喰らわせてまわる。

 五度目の電撃では、子供の頃、いっしょに遊んでいた上級生の男子がブロック壁に投げつけた牛蛙みたいに、ビクビクと全身が痙攣するだけになった。こうなったら十分間程度は意識が飛んで動かないと思う。

 次に彼らの携帯電話を使えなくする。もっとヤバイ関係に連絡されて、脅され酷い目に合うのは敵わない。時間稼ぎに必要な処置だ。

 テーブルの上や男達のセカンドバックの中と脱ぎ散らかした服やジーパンのポケットから、携帯電話を集めてキッチンへ持って行き、電源がオンにされているのを確かめて裏蓋を外す。裏蓋を外せないタイプは外周部のマイクロコネクターを、手近に有った包丁の先を突き立てて防水できないように割ってしまう。棚の適当な鍋に最高温度にしたお湯を満たしながら、シンク脇に有った食塩の瓶の中身を全部ぶち込んで高濃度の塩入り熱湯にする。そして、屑野郎共の携帯電話をバッテリーパック付きの電源をオンにしたまま沈めて遣った。これで回路とICチップがオシャカになって、データは読み取れなくなるはず。

 食塩を探した時、銀色のパック入りの錠剤がシンクの脇に置かれているのに気が付いた。パックの何箇所か破られていて、楕円形をした薄青紫色の小さな錠剤が一つ転がっている。睡眠効果が高く精神安定剤に用いられるハルシオンだ。

 パックには平たくなった錠剤が幾つも有った。パックされたまま潰して粉にしたのだろう。私に飲まそうとしたスプライトへ入れたのも、これだ!

(ハルシオン入りのスプライト……、これを私に飲まそうとしたのか……。飲んでいたら、間違いなく姦られていたな。くっそぉー!)

 砕かれたハルシオンを入れたのが、ホットコーヒーやアイスコーヒーでなくて本当に良かったと思う。中途半端な破砕で微粒粉の大きさがムラになったのと、氷を入れたので温度が下がり短時間に融け切らなかった。それを無色透明のグラスとスプライトが目立たせて、私を警戒させ救ってくれた。

(ふん、これだけでは不十分よ)

 泡の出が少なくなった携帯電話を熱湯から取り出してバッテリーパックを外す。念の為、上辺の水だけ払ったバッテリーパックが置かれていた底面に、スタンガンを圧し付け連続スパークさせた。百万ボルトの高電圧や電磁波でシムカードやメモリーカードの中身が、完全に飛んでしまえば良いと思う。

 携帯電話にバッテリーパックを戻し、蓋をしてから部屋の隅に捨てるように転がす。

(証拠写真も、撮らなくちゃ)

 携帯電話のカメラで全体と一人一人の顔写真を撮る。スタンガンを押し付けて悶絶する男の頭を蹴って顔が見えるようにしてから撮った。顔写真を撮る時に二人が悪態を吐いて私に掴みかかろうとしたけれど、首筋と胸にスタンガンを押し付けて黙らせて遣った。卑劣な先輩は意識が回復していて、いきなりスタンガンを奪おうとした。でも、あっさりと電撃を喰らって先輩は、もんどり倒れてしまう。

(残念でした。先輩が掴んだところにも、電極板が有んのよ)

 反動で落としそうになったスタンガンを掴み直し、先輩に押し付ける。

(許せない!)

「この滓野郎!」

 滓野郎の先輩は悲鳴も上げず、全身を痙攣させて気絶した。一瞬目を見開いて驚いた顔が苦痛に歪み白目を剥いて失神したのが可笑しい。

(これ、おもしろい……)

「アハハハ、ふん! 先輩、今夜は顔が歪みっぱなしで、美男子が台無しよね」

 これ以上は過剰防衛かも知れないけれど、もう一度、屑野郎共にスタンガンを押し付けて回る。もうビクンと仰け反って呻くだけで誰も反撃して来ない。

 男達のセカンドバックや財布の中身を打ちまけて見付けた学生証や免許証も撮って遣る。何処の誰か知れば仕返しされそうな時の保険になるし、仕返しの報復もし易いでしょう。

 証拠と素性の写真は撮ったし、携帯電話の中身も破壊したし、滓先輩と屑野郎共は痛めつけた。それでも、私の気持ちは治まらない。この卑劣な屑野郎共をどうしてくれよう。ガス栓を全開にして行こうかと考えたけど止めた。ご近所を巻き込みそうだ。火を点けようかと思ったけれど、それも少し考えて止めた。同じ事になってしまう。

 私は血中に増大したアドレナリンで興奮し、とても戦闘的になっていた。部屋中をめちゃめちゃにしたい! 電撃をもっと喰らわせて痛めつけてやりたい! 屑野朗共を半殺しにして縛り上げてベランダから転げ落としてやろうか。最上階から投げ落としたら、まず助からないないだろう。でも、殺してしまえば仕返しを受ける心配も無くなるから、そうして遣りたいと思った。こいつらを世の中からいなくして遣りたい……。

 動機が完全に過剰防衛から殺人に変わっている。事件になって捕まっても、裁判で報復を怖れて気が動転したとか弁護されるから、情状酌量で刑は軽くなると思う。もしかすると執行猶予だけかも知れないし、もしか、もしかすると無罪かも。とまで考えたけれど止めた。

 男共は重くて持ち上げれないから無理! それに、もたついて苦労している内に、落とされるのに気付いて暴れてしまうから、やっぱり無理! と私は人殺しを思い留まった。

 屑野朗共をどうしてくれようかと眺めているうちに、急に興奮が治まって冷静さが戻って来る。

「さあ、こんな所に、長居は無用だわ」

 湿らしたハンカチでトイレのドアノブなど、私が触れたと思われるところの指紋を急いで抜き取った。

 台所のシンクに栓をして水道を開く。最高温度の熱湯にして全開にして出してやる。私の使ったコップをシンクに転がした。シンクは数分でいっぱいになり、熱湯は溢れて床に零れる。そして、床に流れた熱湯は直ぐに階下の天井から滲み出すから、一時間も経たない内に下の階の住人が怒鳴り込んで来るでしょう。熱湯だから天井のボードや壁紙が剥がれて損害賠償が大変だ!

(これで、失神していても助けて貰えるわね。その前に火傷して気が付くかも知んないけど。滓先輩……、これでお別れよ)

 後は逃げるだけ! 忘れ物をしていないことを確認してから、急いで滓先輩のマンションから離れた。

(さっさと表通りへ出て、タクシーで帰ろう)

 小走りに表道路へ出て、ツーブロック離れた先の十字路を曲がり、更に、そのブロックの向こう端の横断歩道を渡り終えてからタクシーを拾う。

(彼がくれたスタンガンで助かった……。今夜も彼が、守ってくれたんだ……)

 二十一世紀美術館へ行ったあの日のように、何事も無い普通なフリをして、思い詰めていない、不安も混ざらない、明るい顔で乗り込んだタクシーのリアシートに深く沈み込みながら、そんな気がした時に……、私は思い出した。

 通学のバスが事故に遭ったあの日、病院で彼が横たわるストレッチャーを押しながら、私は嬉しい気持ちで一杯だった。

(彼が私を守ってくれたのが、凄く嬉しかったんだ。楽しいんじゃなくて〝嬉しい〟だったの)

 あの時、私は目の前の彼をとても愛おしく思っていた。挟まれて身動きができなくて、潰れている脇腹はとても痛いはずなのに、それでも私を気遣う彼を……。

 小学六年生のあの春の日から私は、ずっと彼が気になっていた。

(あの春の日、私は声を掛けてくれた彼に、救われた気がしていたのかも知れない)

 コンプレックスだった四角い爪を指摘されてムカついたけれど、彼は四角い爪を『変だ』とは言わなかった。

(私の容姿を、誹謗中傷した酷いメールにも、四角い爪は書かれていなかったな)

 あの時から私は満開の桜の花を眺めているような麗らかな微睡みを、いつも彼に感じて癒され救われたいと思っていた。

 中学校では、廊下に展示された絵や彫刻を見て彼の才能に憧れた。無記名の告白メールの桜の文字に、彼からだったらどうしょうかと考えた。フォークダンスで触れた彼の暖かくてサラッとした手に、もっと触れていたくて握り返しそうになった。堂々として朗々と心に響く独唱を聞いて、身震いするほど深く感動して我を忘れてしまった。彼といっしょに下校する楽しげな女子達に妬みを感じて彼を責めた。などなど、そんな焦る気持ちと悔しい思いに戸惑う中学生の心揺れる日々だった。

 別々になった高校では、偶然に一度だけ彼が横に座って来たバスの中、唇にキスされたと思い込み、心はときめいていた……。

(彼がキスをしたと、今も疑っているけど…)

 そして今、ベイブリッジの不意打ちのキスじゃなくて、あの金石から帰るバスの中で唇に残った感じを、私は思い込みではなくて本当にファーストキスであって欲しいと願っている。

 何度も届くメールに仕方なく応援に行った弓道の試合で、彼の人気とファンの女の子の多さに苛ついて、ジェラシーストームを誘発寸前な自分に気付いた。いつも勝手に苛ついて彼を不快に思う私だったけれど、約束通りに大きな試合に勝って見舞いに来てくれた彼を誇りに思い、受け取った薔薇はブルーな気分の日々だった入院を色鮮やかな思い出にしてくれた。そして、私は数えるほどしかない彼との思い出に、晴れがましさを添えたくて明千寺に誘い招いた。立戸の浜で彼を見付けた時は駆けよりたいほど嬉しくて、彼を溺れさせたいくらい楽しくて本当に沈めてしまった。楽しさへの名残惜しさが、夜の穴水町の交差点で私に彼を見送らせていた。

 直向きな彼の、無言の態度と自己犠牲的な行動に感じた優しさと誠実さを、嬉しく思いながら修学した高校の三年間だった。

 彼から感じていた臭いは小学校六年生の春の日に匂って、私に穏やかな気持ちと心の安らぎを与えてくれた満開に咲いた桜の花と同じ想いがして、ずっと前から彼を好きになって来ている自分に気が付いていた。だけど、鈍くて保守的で捻くれている私は、その気持ちを認めたくない葛藤が疼いて素直になれなずに彼をジレンマの捌け口にしていた。

 そんな私は、彼の想いを何度も袖にして彼自体も無下にしてしまった。そして、相模大野の駅前で無計画に私を横浜港大桟橋へ連れて行く彼の鈍さと無神経さに腹が立って、もう、二度と会わないでおこうかと思うくらいに別れの切れ目を意識しても尚、気持ちは迷い彷徨っていた時、偶然に通り掛かった女子達の憧れの先輩がバス待ちをしていた私へ声を掛けてくれて、運命的な出会いを感じた私は誘われるままに付き合い始めてしまった。利発で明るくリードする先輩に、私は煩わしく感じていた彼を一方的な理不尽さで切り捨てた。ジレンマから開放されたい私の気持ちは、彼を追い詰めて酷いメールを送り付けている。それでも引き摺る彼への想いに、私は何度も上書きを試みてメモリーやフィーリングを消し去ろうとしていた。

 でも今は違う。私がいけなかった。今日、はっきりと私は気付いた。今なら解かる。理不尽な無慈悲さで私から断絶され、自暴自棄になる彼の気持ちが……。

(私は彼にだけ、誠意を示していなかったんだ)

 もう誤魔化さない。彼を想う気持ちは、苦しさと楽しさに不安と愛しさと焦りと安らぎが入り混じって、私は彼に恋をしている!

(私を優しく抱きしめて……。 ううん、違う。そうじゃなくて……、私を包み込んで…… 欲しい)

 部屋へ帰るなりシャワーを浴びて、埋もれるくらい泡立てたシャボンといっしょにベットリとした気持ち悪い汗を流した。それから、歯と口の中の隅々まで丁寧に先細の歯ブラシで磨いて洗い尽くした。浴室から出て綺麗に洗った身体に残る雫を拭き取り、机の隅に置かれていた彼が造ったミニチュアのお城を手に取って眺めながら思う。

 お城の形が『キープ』と言う国境や辺境の警備隊が駐屯する西洋の城塞だと、図書館で何気に見ていた歴史書で知った。私は髪を乾かしながら、その砦のような西洋城館に何本も翻る色鮮やかな旗を弄る。靡く旗が一本だけ失われて旗竿しかない。それは苛ついた私が彼の前で折った痕だ。

 私が乗って来てと願ったから彼は同じバスに乗って来た。私を守ってくれると思っていたから立ちはだかった彼に救くわれた。勝ってと望んだから彼は弓道試合で個人優勝をして薔薇をくれた。来て欲しいと知らせたから明千寺に彼は来て立戸の浜で話せた。

 滓先輩のマンションでも私は信じていた。助けてと願ったからバックの底で忘れられていたスタンガンは彼の代わりに激しくスパークして、しっかり私を守ってくれた。

 ついさっきの絶望的な状況を思い出したら再び指先が小さく震え出し、直ぐに手や肩も震え出すと足と背中が続いて、全身がガタガタと歯の根も合わないほど激しく震えた。

(……怖かった!)

 今頃になって、襲って来た怖さに震えが止まらない。

(何これ、怖いよ……、震えを止めて……。ねぇ、近くにいて私を助けて……)

 『パキッ』震えた指先に力が加わり、城館の屋根の上に靡く旗がまた一本、……折れた。

(ほんとに、すっごく恐かったんだからね)

 私は彼に素直になりたいと心から思う。

(私は、まだ間に合うだろうか?)

     *

 あれ以来、滓先輩から電話もメールも来ない。GPSサーチで居場所を探しても全然反応は無く、『探索に失敗しました』と、マップ表示もされない。

(まっ、携帯電話の中身は、塩入り熱湯と電撃で破壊したから、私の電話番号やメールアドレスは、もう分かんないよね)

 これで一方的にGPSサーチする私の違法行為は証拠隠滅されたけれど、滓先輩達を死傷させても構わないと思いながら徹底して痛めつけたので、てっきり障害で刑事事件になるかもと思っていた。

 なのに礼状を持った私服の人や、任意同行を促す制服の人達もいっこうに現れなかった。それでも、暫くは報復を恐れて部屋の出入りや外出の行き帰りのコースを毎回変えていたし、何度も途中で辺りに注意を払って尾行や張り込みや待ち伏せにも警戒した。

 クライシスディの翌日には両親へ御願いして警備会社と契約して貰った。玄関前の通路の監視に動く物だけを録画する超小型高解像度のCCDカメラを、室内にはドア側と窓側の監視をマンセンサーに連動させて、いずれも気付かれないように各種の防犯センサーと合わせて設置した。センサーに感知されるとリアルタイムで記録している画像を私の携帯電話へ送って来るようになっている。

 一週間ほど過ぎてキャンパスで滓先輩と屑野郎の仲間達を見掛けたけれど、私を見るや否やそそくさと遠巻きに逃げて行った。

(だいぶ、懲りたようね。差し当たって私は安全かな……?)

 報復が少し心配だったけど、実際、彼らは全く接触して来なかった。まっ、事がオープンにされて事件化されるのは、学生の身分と大学卒業後の社会的立場を彼ら側から考えると非常に分が悪いだろう。

(それでも、遣られたら、遣り返すだけだわ。次こそベランダから落としてあげるからね。きっと、その時は、輪姦されそうになった時以上にシリアスで、命懸けになるかも…… 知んない……)

 今はスタンガンの他に通販で購入した催涙スプレーと、カイザーナックルグリップの刃渡りの短いフォールディングナイフもバックに忍ばせている。催涙スプレーは、校舎の屋上で噴射しながらジッポーで火を点けて火炎放射ができないかテストしたけど、ビビるほど危険な炎の大きさに一度だけで二度目の放射は止めてしまった。

 スタンガンと催涙スプレーの両方が失敗した場合に備えて、最後の抵抗手段とするフォールディングナイフは、時々、低い姿勢と逆手握りの構えを部屋で練習している。ナイフを持つ右手を背後に隠して左の拳で鋭く牽制して、いきなりカイザーナックルで殴って逆手の刃で切り付けるつもり、相手の目を潰せるか、首を切り裂ける。……上手く行けばね。

     *

 彼が愛おしい。

(息が止まるほど、強く私を抱きしめて! 私を離さないで!)

 切なくて息をするのも苦しい。彼の私への想いもそうだったのだろう。私は、彼の私を求める強い気持ちが十分に理解できていなかった。恋は、こんなにも胸のときめきが苦しくて愛おしさに切なくなるなんて知らなかった!

 いつも、彼を想う気持ちを認めたくなくて暈したり、散らしたり、していたから、こんな気持ちになるだろうって分かっていたのに、束縛されるみたいな怖さで知ろうとしていなかった。

 彼は今でも……、私に恋をしてくれるだろうか?

(彼に逢いたい!)

 私が『もう来ないで』と言ったこの街に、何度も彼が来ている気がしていた。今は必ず彼に逢おうと私は思っている。モンスターバイクの重低音のサウンドが聞こえると、私は振り返って見る。

 最後に彼を見た……、彼とはこれっきりにしようと心に決めながら、見えなくなるまで見送っていた相模大野駅の周辺で、私は彼の乗る大型バイクを探した。

 重いエキゾーストサウンドを響かせて、私の前に不意に現れる気がして、キャンパスへ通う道筋や淵野辺の桜並木で、桜木町の駅でも、私の瞳は行く先々で彼を探しモンスターバイクのサウンドに聞き耳を立てる。そして、あれから幾度も来た大桟橋で彼の影を探した。

(絶対、彼は来ていて、私を探しているはずよ!)

 そう思って……、思い込んで私は彼の姿を探す。まだ間に合うと信じて……。

(互いが強く願えば、必ず逢えるのよ!)

 私は、あの春の初めて彼に声を掛けられた日から、ずっと、彼を意識し続けて来たのだから、再び巡り逢えると思う。

(でも、逢えても……、それから、どうするの?)

 自問する。ただ逢いたいだけ……、今なら相模大野の駅へ大型バイクに乗って私に会いに来ただけの彼の気持ちが解かる。

 謝るの? そして、もう一度、私を好きになってって御願いするつもり?

 まだ、彼も偶然の出逢いを求めて私を探しているだろうか?逢いたいと探していても、まだ、彼が私を好きでいてくれるとは限らない。彼も私を探しているとしても、それは、今の私を見て私にフラれた後の自分を肯定したいだけで逢いたいのかも知れない……。

 きっと、偶然に彼が私を見掛けても静かに見ているだけで出逢いを装わないと思う。それは、『やっぱりフラれて良かったな』とか、『あれは幸せへの分岐点だったな』とか、『巧く付き合えても破綻していたな』とか、『彼女のラストメールは新たな出逢いへの神のオラクルだったな』なんて、見た目でいいから幸せの差を確認して確証を得たいだけなんだろうな…… って思っただけで、自業自得の遣る瀬無い切なさに私の胸は苦しくなってしまう。

 東京に近いこの街は、何もかもがトレンディで眩しく見えて、私も眩しさの中で輝けると思った。スタイリッシュにスマートでイケメン、そしてリッチな彼氏。お付き合いはトレンディでゴージャスなドリーム……、と実の無い背伸びを目一杯に私はしていた。今はその全てが空虚で空々しくて嘘っぽい。

(私はバカだ……)

 

 ---つづく