遥乃陽 novels

ちょっとだけ体験を入れたオリジナルの創作小説

人生は一回ぽっきり…。過ぎ去った時間は戻せない。

 桜の予感 (僕 二十才) 第十章 弐

 予感がした。

 彼女が金沢に来ている気がして、逢(あ)いたいと切(せつ)に思った。

 先に僕が彼女を見付けたら追い掛けて、偶然(ぐうぜん)に出逢ったフリができるかも知れない。

 彼女の気配(けはい)と出逢いの予感で大気が匂(にお)う。今、僕は相模原(さがみはら)の彼女を探(さが)している。

(出逢えたら……、先に彼女が僕に気付いていても、笑顔で挨拶(あいさつ)をしょう)

 今の僕ならできるはずだ。挨拶の反応次第(しだい)では彼女の近況を聞けるかも知れない。

(僕を捨(す)てて、それで幸(しあわ)せになれたのか……? 知りたい……)

 嫌(きら)われて、避(さ)けられて、既(すで)にフラれているのに、彼女に逢って、彼女と挨拶をして、彼女から近況を聞き出し、彼女の幸せを確認しようと思う自分が醜(みにく)くて悲(かな)しい。

(彼女の幸せを知って、どうするつもりだ?)

 彼女に逢いたいと思う度(たび)に自問自答を繰(く)り返す。

 彼女が学(まな)ぶ大学のキャンバスまで行って電話を掛けた。そして、惨(みじ)めにも電話越しに叫(さけ)んで彼女に捨てられるのを拒(こば)んだ。挙句(あげく)の果(は)てに彼女の容姿まで誹謗(ひぼう)する悪意のメールを送り付けてしまった。取り返しは付かない。出逢えても何にもならない事は分っている。いや、もっと悲惨(ひさん)な出逢いになるかも知れない。彼女が、僕に優(やさ)しい挨拶を返す見込みは限りなく皆無(かいむ)に等しい。

 それでも、僕は彼女を必(かなら)ず見付け出して逢いたいと強く願った。大晦日(おおみそか)に静岡(しずおか)の『あの人』と別れてから、僕は無性(むしょう)に彼女に逢いたくなっていた。

 『あの人』の言った通り僕には、彼女への未練(みれん)が有った。それは恋愛へのリベンジじゃなくて、あの人に因(よ)って変わった以前とは違う僕を、彼女に見せ付けて遣(や)りたかった。彼女に僕をフったことを後悔(こうかい)させて遣りたいと思っていた。

(まったく僕は、姑息(こそく)で未練がましい奴(やつ)だ)

 でもそれは、『あの人』といっしょに居た時の思いだ。今はただ逢いたいだけで、ちゃんと彼女に会えるのならば、僕はきちんと別れの言葉を言いたいと思っている。そう、僕は格好良(かっこうよ)く彼女と別れたいだけだ。やはりそれも未練だと分かっている。だけど僕は認(みと)めたくない。

(本当にウダウダと思い切りの悪い奴だな……、僕は……)

     *

 『あの人』に見送られて帰郷した日から僕は親父(おやじ)の会社の社員一号として働いている。大晦日と正月の三(さん)ヶ(が)日(にち)は休みだったけれど、二年参(にねんまい)りの初詣(はつもうで)を友人連中と騒(さわ)いだだけで、後は親父に連れられて飲み屋の梯子(はしご)三昧(さんまい)だった。

 新年度の初仕事は覚(おぼ)え始めた酒の痛飲で、嘗(かつ)て無いほどの気持ち悪い気分でスタートした。二日酔(ふつかよ)いの激(はげ)しい頭痛としょっちゅう込み上げる胃(い)のムカつきで、イスに座ってもいられないくらいの遣る気の無い状態だった。

(仕事人として、最低だな……)

 大きなマイナスの未練になった別れの虚(むな)しさを、懐(なつ)かしいプラスの欠片(かけら)の日々を想い帰して、その楽しい思い出に救われたいと思っていた。僕は心の空虚(くうきょ)を楽しい思い出で埋(う)めたいのに、昼も夜も時間に余裕が無く、疲れ果てた怠(だる)い身体(からだ)に痛む頭では、『あの人』と過(す)ごした時間や出来事は暈(ぼ)やけてしまって、はっきりと思い出せなかった。それに、いくら楽しい思い出でも過去形で空虚を満たせない事も僕は分かっていた。

 初仕事は新(あら)たに導入する新加工技術の情報収集と契約書類の作成から始(はじ)まった。

 それは微小(びしょう)な金属粉末をレーザー光線の熱で僅かずつ溶(と)かして、固(かた)めながら形状加工をしつつ高速で積層していく工法で、『金属光造形複合加工技術』と言うワン・プロセスの金属加工技術だ。一般的な金属ブロックを加工機で削(けず)ったり切ったりして不要な部分を除去していくのとは逆で、粉末金属から立体的に造形していき、金属の塊(かたまり)の中に複雑な空洞を作り込んだり、粗密(そみつ)に固めて空気や水を通すスポンジ状の金属塊にする事もできる。空間を削り造り上げて行くと言うよりは、空間を精密に残して行くと言った方が適切かも知れない。これまで僕が経験してきた常識的な加工方法や造形の考え方を、一新(いっしん)しなければならないくらいの未知(みち)の加工技術だった。

 マシンは加賀(かが)市内の加工機械製作会社で製造され、加工ソフトやネットワークは京都(きょうと)市内のテクノパークに在る新技術開発会社で整(ととの)えられていた。

 親父は機械の導入やプログラムソフト・加工ノウハウ・加工ネットワークなどの契約を僕一人に行わせ、その確認と認可のサインと社印を捺印(なついん)して購入代金を用意した。

 契約相手先への訪問・会合・食事・礼儀・対応などの態度や言葉遣(ことばづか)い・話し方はあの人から教わり指導してくれたことが、とても役に立った。全てに於(お)いて礼を失(うしな)わず誠意を持って接し、信用を得て、気配りと思い遣りの有る対応を受け、条件的にも、価格的にも、納得のできる契約で導入することができた。親父も喜(よろこ)んで満足している。

 金属光造形複合加工機は僕に任(まか)され、翌月の導入当初から仕事量の多い忙(いそが)しい日々が続いている。毎日が仕事に忙殺(ぼうさつ)される事で、悔(く)やみ切れない『あの人』への想いや、喪失(そうしつ)を惜(お)しむ熱い気持ちは次第に冷(ひ)やされて行き、霧(きり)が掛かるように霞(かす)んで薄(うす)れて行く。

 少しずつ柔(やわ)らかい気持ちで考えられるようになった今は、冷静に『あの人』の立場や気持ちが理解できていると思う。結婚式の招待状が来るはずも無いけれど、『あの人』に六月の挙式を幸せな気持ちで迎(むか)えて欲しいと切に願っている。

 深酒(ふかざけ)をして眠(ねむ)ると『あの人』の夢ばかりを見た。実際には二人でしていない事をしたり、出掛けていない場所へ行ったりする夢だらけで、夢の終わりは彼女が僕じゃない男性と結婚すると告(つ)げ、それを何の含(ふく)みや蟠(わだかま)りも無く僕は素直(すなお)に祝福の言葉で返していて、僕は夢の中でも『あの人』の幸せを願っていた。決まって夢の中の別れが目覚(めざ)めとなり、別れた後の夢の続きは無かった。そして、翌朝は必ず吐(は)き気と頭痛に悩(なや)まされた。未(いま)だに僕は酒に強くなれていない。

 そう願えれるようになるにつれ、『あの人』へのジレンマな想いは、懐かしい幸せへの憧(あこが)れに変わって行った。

 以後、月に一度は京都市の加工ソフトの開発会社へ行き、定例の新技術講習会に参加して他社のエンジニアの先輩方々といっしょに聴講(ちょうこう)している。僕の会社には親父と二人だけなので、こういう勉強になる場は楽しくて嬉(うれ)しく思う。講習後も加工ネットワークの関連他社の人達と親睦(しんぼく)と交流を深めた。ここに参加するに至(いた)ったのは、『あの人』の御蔭(おかげ)だとわかっている。『あの人』は気遣(きづか)いのできない粗暴(そぼう)で荒削(あらけず)りな僕を真(ま)ともな社会人にしてくれた。本当に静岡の『あの人』は恩人で、心の底から僕は感謝している。

     *

 次のプログラミングも終わった。1ヶ月ほどで加工に慣(な)れて来るとプログラミングは速くなり、事前加工シュミレーションチェックでのミスは殆んど無くなり、余裕が出て来た僕は親父に相談して、少し早いけれど、近々(ちかぢか)、二台目の加工機を導入する計画も作り始めている。

 マシンの自動加工中は時間に余裕ができる。その時間を利用して工場の一角(いっかく)で趣味(しゅみ)の西洋城館や砦(とりで)のミニチュアを作った。以前、相模大野(さがみおおの)駅の饂飩屋(うどんや)で彼女に贈(おく)ったミニュチュアの別シリーズ版だ。

 自作のミニュチュアは工場見学をしに来た親父の知り合いで商工会の役員さんの目に止まって、金沢城の櫓(やぐら)や門のミニチュアを作り、御当地土産(ごとうちみやげ)として売り出さないかと誘(さそ)われたのは僅(わず)か二ヶ月前。その役員さんから紹介された物産店へ御願いして試(ため)しに試作品を置かせて貰い、予約を受け付けてみたら意外と多くの購入以来が有って正直驚(おどろ)いた。直(す)ぐに量産品を造って納品させていただいた。

 急(いそ)ぎの量産品といっても、試作品と同様に細部まで手抜(てぬ)きは無しだ。型(かた)の分割を多くして形状をしっかりと抜き出せるようにしている。分割ラインの処理が増(ふ)えるけれど、品質を落とす訳にはいかない。現在はモノ造りプロセスのステップアップとして、原型の造形や量産品の製作に少し高価だけど、高速で微細(びさい)造形が可能な3Dプリンターを導入しようかと考えている。

 このマシンは、パソコンの3Dキャドソフトで描(えが)いた立体図を、プラスチックで立体プリントして実体化してくれる。紫外線(しがいせん)のレーザー光を光硬化樹脂に照射して百分の五ミリメートルづつの緻密(ちみつ)な積層(せきそう)で、立体的に固(かた)めて行く加工方法だ。

 工作機械の展示会でパンフを貰(もら)いながら、塗料のような液状樹脂に紫外線を当て光重合反応で固める原理を応用した技術だと、聞いてもさっぱり解(わ)からない説明をしてくれた。そして、加工品は色付けもされていて、『六百万色以上のフルカラー対応による、3Dスキャン対象品の色、そのままに造形できるからだ』と、展示ブースのスタッフが言っていたが、よりハイクオリティの商品として完成させるには、どうしても手作業による形状仕上げや加筆調整が必要だ。

 とにかくパソコンを使って立体図を速く正確に描(か)くだけで、後は自動加工してくれから楽になる。オプションに立体スキャンが有るので、今まで作った原型も、より精密にコピーできて後処理が非常に少なくて良い。

 更にハンディタイプのレーザースキャナーをドローンに搭載して建物全体や町全体を3Dスキャンすると、パソコンでの作業はスキャン洩(も)れのチェックと、ズレや歪(ゆが)みの修正だけになるから、もっとラクチンになるし、石垣(いしがき)や海鼠塀(なまこべい)のパターンも同じになって、超リアルになるだろう。実際に航空機や人口衛星からの画像で都市や地形全体を作成しているらしい。まるで、SFアニメで見た実物の縮小コピーを作る光線銃のようだと僕は思っている。

 他にもダウンロードしたインターネットの写真地図や衛星画像地図のデータの影の長さから高さを計測するソフトを使えば、そこそこ緻密な3D造形がデータから出来るのじゃないかとも考えていた。

 3Dデータからの自動作成は、全く手作り品や工芸品とは言えないけれど、リアルなミニチュアとして納得していたし、造形対象が増えて作品の修正やデフォルメもし易(やす)いので、親父にそれとなく購入しようと促(うな)がすのだけど、なにぶん、僕の趣味の為(ため)に『金属光造形複合加工技術』のマシンほどの高価な品ではないにしろ、それなりの価格のマシンだから簡単(かんたん)に『買おう』とは言ってくれない。

 これは僕の趣味が講(こう)じたセカンドビジネスで、まずはマーケティングをして市場の確保だけど、親父は、僕が工場の本業を疎(おろそ)かにして別事業を立ち上げてしまわないかと心配している。僕としては購入すると確かに商品の開発や量産が緻密で速くなるけれど、その忙しさに本業よりも、資料を調べながらハンドメイドで模型を製作する趣味の時間が少なくなりそうだと、深刻(しんこく)に心配していた。

 作品が常備土産物として物産店に飾(かざ)られると、これがなかなか、けっこう人気が有って、ちょくちょく問い合わせや注文が入った。

     *

 今日は加工の合間の休日で、金沢(かなざわ)市内の繁華街(はんかがい)へ来ている。

 僕が担当する自動加工機械群はプログラムミスか、加工ツールの破損などのトラブルが無い限り明日の朝までは稼動(かどう)していて、トラブルが発生すればビジネススマートフォンへトラブル状態が送られるから、是正(ぜせい)に工場へ向かうだけだ。

 長土塀(ながどへ)と香林坊(こうりんぼう)の土産物屋へミニチュアを納品して代金の支払いと次の注文を受けると、二十一世紀美術館の白いカフェまで来て、以前に来た時に少ししか食べれなかったアップルタルトを、カプチーノといっしょにオーダーして遅(おそ)めの朝食を摂(と)っている。

 二十一世紀美術館は何度も来ているけれど、この白いカフェにはバス事故の日以来、初めて入った。気持が退(ひ)けて今まで入るのを避けていた場所だ。

 バス事故の日、病院から逃げ出した僕達は此処(ここ)へ来ていた。そして今、僕は彼女とテーブルを挟(はさ)んで向き合っていた同じ席に座っている。それはアップルタルトを食べながら甦(よみがえ)る上目で僕を見ていた彼女の思い出で、デジャブった錯覚(さっかく)なのかも知れないけれど、微(かす)かに彼女の匂いを感じた気がした。

 あの日、ここで彼女が言った言葉を、僕は忘れない。今でもリアルな記憶として耳の奥にへばり付いて剥(は)がれない。

『普通に、しゃべれるんだね』

 彼女のその呟(つぶや)くような一言は、はっきりと聞こえて一瞬で僕を畏縮(いしゅく)させた。まるで、ちょっと休憩での溜(た)め息(いき)に添(そ)えるように吐露(とろ)した小さな声は、ちっとも褒(ほ)め言葉に聞こえなくて、彼女の僕に抱(いだ)いていた気持ちだと考えさせられた。そして、それまで彼女にとって僕は普通じゃなかった事を改(あらた)めて知らせてくれた。

 能登(のと)半島の明千寺(みょうせんじ)では彼女の話の受け応(ごた)えしかしていない。相模原では初(しょ)っ端(ぱな)から躓(つまづ)いて、言い訳の言葉の一つも探せない僕の脳ミソは、気転を利(き)かす余裕すら無かった。全てに於いて僕は彼女に劣っていると感じさせられた。

 あの頃の僕は自分に自信を持てずに、憧れの彼女への想いだけが全てで、僕の思考や行動の原点だった。いつも彼女を笑顔でいさせて、いつも笑う彼女を見ていたかった。だけど、それは彼女任せで、ネガティブな僕が自己満足する為の望(のぞ)みにしか過ぎず、その挙句に僕は彼女に愛想(あいそ)を尽かされてフラれ、彼女が電話番号もメールアドレスも変えてしまうほど、決定的に断絶(だんぜつ)されてしまった。

 毎朝のバスの中で、彼女の横に立つ僕が少し体を傾(かたむ)けて彼女を覗(のぞ)き込むようにしたら、きっと彼女は上目使いで僕を見ただろう。僕がニコっと笑うと微笑(ほほえ)んでくれていたかも知れない。普通に朝の挨拶を交(か)わし、他愛無(たあいな)い話で楽しげにしていられたと思う。でもそれは何もしなくて過ぎ去った過去での想像の可能性に過ぎない。

 そう出来たら良いと思っていたのに勇気(ゆうき)が無かった。彼女をガードしているつもりの僕は背筋(せすじ)を真っ直ぐに伸(の)ばして動かない彫像(ちょうぞう)のように立つだけで、体を傾けて笑い掛けるなど思いもよらなかった。それに思い付いたとしても実行出来なかったはずだ。その頃の僕はそんな男の子だった。

 でも、今は違う。少しだけど自分に自信が付いて、彼女の気持ちを思い遣れる事ができると思う。

 アップルタルトは彼女が美味(おい)しそうに食べていたとおり、豊(ゆた)かな香(かお)りと控(ひか)えめな甘さがアートのようなスィーツだった。

 『食べないなら全部、私が食べてもいい? あれ?』、そう言って、僕が食べ残していたチョコレートパフェを彼女はアップルタルトに絡めて食べてしまったのを思い出した。

 本当に御腹が空(す)いていたのだろう、他に、僕がちょっとしか食べていないブリオッシュのプレートは殆ど全部、彼女に食べられたし、トマトパスタとアップルタルトについては一口も僕の口に入っていない。あれはきっと、僕に『もっと食べて、元気出してよ』と励(はげ)ますのを、『全部、私が食べる』と空腹で食欲(しょくよく)旺盛(おうせい)な彼女が言い間違えていたんだ。

 切り分けたアップルタルトをフォークに刺(さ)しながら、そんな彼女を思い出して緩(ゆる)む口許(くちもと)に僕は一人でニヤついてしまう。

 もう二度と彼女と言葉を交わすことができないのだろうか? いっしょにスィーツを食べて心がときめくことも、彼女の行動に気持ちが揺(ゆ)さぶられることもないのだろうか? 止まってしまった十八才の時間を再び動かすことはできないのだろうか?

 二十一世紀美術館を出て、近くで営業しているワンボックスカーの移動カフェの前で、また彼女の匂いがしたような気がした。

(また錯覚? 今のは…… デジャブじゃないかも! 金沢に……、近くに……、彼女はいる!)

 辺(あた)りを見渡すが彼女はいない。急いで広坂通りに出て探しても、彼女らしい姿は何処(どこ)にも見当たらなかった。こんなに彼女を感じているのに見付け出せない。

(僕はここだ! ここにいるぞ!)

 僕は大声で叫びたい。叫んで呼(よ)び寄せたい衝動(しょうどう)にかられ、焦(あせ)りと不安が広がってくる中、はたと気付き再び自分に問(と)う。

(見付け出してどうする? 僕は完全にフラれて、彼女は大学の先輩とよろしくやっているんだ。……また見ているだけしかないだろう。違(ちが)うか?)

 そのとおりだ。悪足掻(わるあが)きにしか過ぎない僕の一方通行の想いは、何もできなかったし、何も覆(くつがえ)せない。

(彼女の匂いのようだった……。だから?)

 結局、彼女の事は綺麗(きれい)さっぱりと諦(あきら)めるしかないのだ。

(そう、きっぱりと男らしく……、潔(いさぎよ)く……、真(ま)っ新(さら)に……、十八才の自分にケジメを付けなければならない)

 そうだ、僕は変わった。あのころとは違う。彼女に感謝している。あれからずっと僕は彼女の幸せを願っていた。

(近くにいるような気がした……。それが?)

 彼女が幸せになるのなら、彼女が望むのなら、彼女を幸せにさせるのは僕じゃなくてもいい。

(感じが……、予感が……、どうしたって?)

 『ありがとう。幸せになってください』と、心から伝えるんだ。それだけは未練だとわかっていても、しっかり彼女を見て自分の声でちゃんと伝えたい。

 そんな理由付けを考えながら、広坂(ひろさか)通りを市役所脇へ折(お)れて二十一世紀美術館の前まで戻って来ると、通りが下る向こうから穏(おだ)やかな風が頬(ほお)や首筋を擽(くすぐ)るように気持ちの良く吹き抜けて行く。運んで来た春の香りが辺りに漂(ただよ)い、更に香(かぐわ)しさを求めて風に立てた鼻が無意識にクンクンと鳴(な)ってしまう。

(はっ!)

 嗅(か)いだ春の香りに懐かしい匂いが紛(まぎ)れているのに気付いた。今度は、はっきりと僕は風の中に彼女を感じた。

(やっぱり、彼女は、この風の向こうに、きっといる!)

 通りを下った向こうから町並みを吹き抜けて来た暖(あたた)かい春風が、路地(ろじ)に巻かせる旋風(つむじかぜ)で散(ち)らされた桜の花弁(はなびら)を舞い上げて僕を誘う。

 通りを下った僕は誘う風が来るの方へと町並みの角を曲がり、緩い曲がりが連(つら)なる細い通りを抜けて、広見(ひろみ)と呼ばれる金沢の城下町独特の、藩政時代に火災の延焼防止に設けられた火除(ひのぞ)け地で広場のような場所に出た。左へ行くと竪町(たてまち)通りを渡って片町(かたまち)へ至り、正面は柿木畠(かきのきばたけ)の路地を抜け出れば香林坊へ出る。香林坊から片町かけての大通り一帯は金沢市のダウンタウンの一つだ。

(あれは……?)

 香林坊へ抜けようと思った時に、柿木畠を行き交う多くの人の中、向こうから来る一人の女性が僕の目に留(と)まった。

 その時、大気が彼女の匂いに変わった。

『ドックン』と、心臓がコモ湖で彼女を見掛けた時よりも大きく強く撥(は)ねて、街の喧騒(けんそう)が消え、視界に映(うつ)る全(すべ)てが静止した。音の無い時が止まった世界に、彼女だけが色鮮(いろあざ)やかに見えた。

 それは、ほんの一瞬だったのかも知れない。だけど僕は確かに止まる時間を感じて、僕が彼女に抱いた全ての想いを湧(わ)き出させて行く。想いが幾重(いくえ)にも重(かさ)なり、喜びに悲しさが、嬉しさに寂(さび)しさが、愛(いと)しさに切(せつ)なさが、覆(おお)い隠(かく)すように重なる。

 最後に後悔を希望が覆うと、静止していた世界が再び動き始めた。

(見つけた! やっと逢えた!)

 彼女の颯爽(さっそう)と柿木畠の路地を抜けてくる姿は、キュートな女子大生スタイルではなくて、スタイリッシュな大人(おとな)のレディそのものだ。

 僕に気付いたのか彼女の足が止まる。彼女は広見の端、柿木畠坂の袂(たもと)に在るポケットパークの前で立ち止った。瞳(ひとみ)が…… 僕の方を見ている。

(間違(まちが)いない……。彼女だ!)

 落ち着いた色合いのスーツにベージュのコート。再び春風に裾(すそ)を翻(ひるがえ)して彼女が歩き出した。ピッタリと張り付いた黒いストッキングが艶(なまめか)しく光るセクシーな足を、薄いレザーのロングブーツのソフトな光沢で包(つつ)み、ハイヒールの靴音を響(ひび)かせない艶(つや)やかな歩きで僕に近付いて来る。

(一人なのか? 彼氏がいっしょじゃないのか? 彼氏は近くで買い物でもしてたり、別行動してたりして、間近(まぢか)に来た彼女が僕じゃない誰かに、笑顔で声を掛けたとしたら……)

 僕は自分の顔と首筋が熱くなり、かぁーっと朱(しゅ)に染(そ)まるのを感じた。どぎまぎして気持ちが高ぶり、鼓動(こどう)が速く高鳴っていくのとは裏腹(うらはら)に、心は沈んで息苦(いきぐる)しくなって行く。

 その大人びた彼女の姿に比(くら)べて、またもや僕は明(あき)らかに見劣(みおと)りするファッションだと思った。

 チノパンを穿(は)き、春のセーターにジャケットを着て、ちょっとだけシックなカラーで纏(まと)めたカジュアルは、少しはイケてるかもと自惚(うぬぼ)れていたのに、レディな見栄(みば)えの彼女に圧倒(あっとう)されて、そんな自分のファッションセンスがミスマッチだらけみたいに思えてしまい、失速する自信に僕は立ち止ってしまう。

(彼氏といっしょでも、いいじゃないか。もう時間は戻らない。これは互いの人生が、虚(うつ)ろな交差をするだけの一瞬にしか過ぎないんだ。そして、二度と逢う事は無い)

 あのラストデートの出会いが甦り、ぐっと気持ちがメゲた。

(僕は彼女を強く誹謗(ひぼう)する酷いメールを送り着けた。怒(いか)り心頭(しんとう)で発する彼女の罵詈雑言(ばりぞうごん)を、僕は真摯(しんし)に受けなければならない)

 自然と顔が俯(うつむ)いて足許(あしもと)の影の無いアスファルトの地面を見ている。急かされるように流れる雲が太陽を遮(さえぎ)り大きな影を落としていた。

 あの夏の立戸(たっと)の浜(はま)で言っていた相模原(さがみはら)の出刃包丁(でばぼうちょう)を彼女は買っていて、いつか僕にケジメを付けさせようとバックに隠し持っているかも知れない。叩(はた)きも、罵(ののし)りもしない笑顔の彼女が、逆刃(さかば)に握(にぎ)った出刃包丁を無言でスッと僕の肋骨(ろっこつ)の下から深く刺し入れる。それはもう、バス事故の脇腹の痛さなんて比(ひ)じゃない激(はげ)しさで、絶望的な厳(きび)しさなんだろう。

(其処(そこ)までさせるくらい、彼女を深く傷付けているのなら、刺されても仕方が無い。切(き)っ先(さき)が心臓の筋肉や大動脈を傷付ければ、きっと、二度と人生が交差しないどころか、直ぐ其処で人生が終わっちゃうな……)

 それでもと、僕は思う。

(彼女がどう思っていようが、普通に話そう。罵倒(ばとう)されようが、殴(なぐ)られようが、殺(ころ)されようが、自分は、もう吹っ切れたのだから……)

 顔を起こして空を見上げた。薄い雲の中に白く平(たい)らに光る太陽が見えた。

 僕は自分に言い聞かす。すべき事は挨拶で、伝える言葉は決めてある。それは短い言葉だ。出逢いは僅かな時間で済(す)む。

(彼女への感謝と、彼女の幸せを願う言葉を言うのだろう)

 そう意を決(けっ)した時、雲から抜け出た太陽が、僕と辺り一面を春の陽の淡(あわ)く麗(うら)らかな光りで明るく照(て)らした。

 僕は自分を励(はげ)ます。

 静岡の『あの人』は『君は相模原の彼女を、まだ想っているよ』と言っていた。それは、『あの人』が僕を諦めさせる口実(こうじつ)の一つで、確かに、あの頃の僕は自分に言い聞かせて、想いを抑(おさ)えていたところも有った。でも、それでは先へと、新たな出逢いへと、踏(ふ)み出せないことを、『あの人』は教えてくれた。それからの僕は、僕の中のいつでも取り出せる浅瀬にしか沈めていない相模原の彼女を、探せ出せないような深淵(しんえん)に深く深く沈めていまわなければならないと、『あの人』が別れ去るまで、ずっと思っていた。

 そして、今がその時、その場合だ!

(彼女と、決別(けつべつ)するんだ!)

 十八歳の止まった時間に決着をつけ、彼女を完全に忘れさせられる為の一歩を踏み出して、春の光りに照らされる眩(まぶ)しい彼女へと進んだ。

 何処からも彼女の彼氏は現(あらわ)れず、どうやら彼女は一人だけらしい。でもこれは因果応報(いんがおうほう)、望み通りに彼女と巡(めぐ)り会えたけれど、自業自得(じごうじとく)で至った終焉(しゅうえん)だ。

(さあ、逃げないで前へ進め! 諦めろ! これが最後だ)

「やっ……、やあっ……」

 彼女は僕に逢いたいと思っていたのだろうか? 彼女も僕を探していたのだろうか? そんなはずが無い。そうなる理由が思い付かない。

 だけど、もしかして逢いたいと思っていても、探していたとしても、その理由に僕が、安心できる要素は一つも無いはずだ。たぶん、その理由は僕を徹底的に打ちのめして遥(はる)か彼方(かなた)へ突き飛ばし、もう戻れないほど暗く深い処(ところ)へ落とし込む言葉を言う為だから……。

 僕は彼女に張(は)り倒(たお)されるべきだと思う。

 間近に彼女を見て驚いた。僕は、静岡の『あの人』のように薄化粧(うすげしょう)をした女性が好きになったのだけど、上手(じょうず)に薄く化粧をした彼女の顔は『あの人』に況(ま)して、とても魅惑(みわく)的に思えた。

(ダメだ! どんなに恋焦(こいこ)がれても、もうダメなんだ……)

 僕は、何度もした覚悟(かくご)を繰り返す。

「久(ひさ)しぶり、金沢に来ているんだ」

 できるだけ、不安な内心を悟(さと)られないように普通に立ち、当たり障(さわ)りのない言葉を選(えら)びながら彼女の無情(むじょう)な反応を覚悟する。

「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、履歴(りれき)を全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも変えたわ」

(ええっ! 彼女は今、何を言ったんだ?)

 膝(ひざ)と股間(こかん)が笑い、足裏から足首までが高所の縁(ふち)に立った時の様に感覚が薄れてソワソワする。

 いきなり僕の否定(ひてい)から彼女は話し始めた。一気(いっき)に僕の『もしかして』の僅かな望みは地中深くに潜(もぐ)り込んでしまい、急変しそうもない状況は覚悟に覚悟を重ねさせた。

 僕は突然に彼女が開けて広げた大きな絶望の穴の縁に立たされてしまった。やはり無理矢理、偶然を必然にしようとした再会は、踏み留(とど)まる想いも掴(つか)まる希望も探し出せない。しかも、予想を上回る彼女の痛烈(つうれつ)な言動は、超低温の疾風(はやて)のように僕の心臓を刹那(せつな)に凍(い)て付かせ、思った通りの失望の出逢いにさせてくれた。

 僕の前に魂(こん)の穢(けが)れを祓(はら)って縁(えん)を結(むす)ぶ菊理媛(くくりひめ)は現れなかった。

(彼女は、……僕を許さない)

 よろける僕を抱(だ)き留めて寄り添うのは死の淵(ふち)へ招(まね)いて黄泉(よみ)へと送り、汚(けが)れた魄(ぱく)を浄化(じょうか)する瀬織津姫(せおりつひめ)だ。

 僕は思う。鶴来町(つるぎまち)の白山比咩(はくさんひめ)神社へは良縁の願掛(がんか)けに、そして、別所町(べっしょまち)の瀬織津姫神社へは御清(おきよ)めの御祓(おはら)いに行かねばならないと……。

 眉間(みけん)に力を入れて寄せる眉(まゆ)の彼女の細めた眦(まなじり)からは『小賢(こざか)しい奴に遭(あ)ってしまった』と、踏みそうになった汚物(おぶつ)を呪(のろ)う『汚(きたな)い、汚らわしい、芥(あくた)、澱(おり)』の意を籠(こ)めた嫌悪の罵りが聞こえて来そうだ。

「だから、あなたにメールできなくしたの」

 追い打ちを掛ける彼女の言葉に体がグラつく。絶望の穴へ僕を追い落とそうと背後から吹き付ける突風のように、気持ちの温度を一気に下げさせた。目に映(うつ)る全ての色が反転して目眩(めまい)がする。突き飛ばされて、正(まさ)に落ち込もうとする底の見えない真っ暗な穴は大きく広がり、僕は僕の中の世界の果てに連(つ)れて来られて、その先の空虚な闇(やみ)へ追い遣られようとしていた。

 直接、彼女の生声(なまごえ)で聞く辛(つら)い言葉は僕の頭の中で一音(いちおん)づつ大きく響(ひび)き渡り、反響(はんきょう)で頭がガンガンと殴られているみたいだ。

 彼女が映る視界が暗くなり足許の感覚が消えて行く。もう立っていられなくて僕は失望と絶望から逃げるように仰(の)け反(ぞ)り、下半身まで地を踏む感覚が無くした足を交互(こうご)に動かして傍(そば)のポケットパークに入った。パークに置かれているオブジェが映画のスクリーンを観ているように僕に迫(せま)る。

(やっと巡り逢えた第一声がこれか……。そうだろうなぁ、彼女の心情を察(さっ)すれば、こうなるに決まってるさ。やはり、以前のようにタカビーな態度で、惨(むご)い言葉を浴(あ)びせられるのだろう……)

 もたつく足取りを必死に操(あやつ)り、やっとの思いでオブジェに腰掛けた。

(止(や)めてくれ! これ以上、どうか僕を打ちのめさないでくれ! ケジメを付けたいなら、頼むから早く一思(ひとおも)いに殺(や)ってくれぇ!)

 僕は心の中で必死に訴(うった)え絶望的な状況を理解しようと沸騰(ふっとう)寸前の華奢(きゃしゃ)な脳をレッドゾーン振り切りで急回転させる。感覚の無い膝に手を置くと小さく小刻(こきざ)みに震(ふる)えていた。

(逃げ出したい!)

 気付(きづ)き難(にく)い小さな震えだけど、僕の中でガクガクとはっきりした大きな震えに感じた。

(こうなるのは覚悟していたのだろう。逢えたとしても……、どうにもならないって事を、わかっていたのだろう)

 オブジェに座り震える膝を抑えても、焦る心は全然治(おさ)まろうとしてくれない。僕は溺(おぼ)れる者が藁(わら)をも掴もうとするように。彼女の言葉を肯定(こうてい)して些細(ささい)な反撃を試(こころ)みる。

「そうだったんだ。全然繋(つな)がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は君に随分(ずいぶん)と嫌(きら)われていたんだな」

 溺れながら助けを求めるように、声を振り絞(しぼ)って叫ぶように言った。だけど、声が大きくなったのは最初だけで、彼女を愚弄(ぐろう)した酷(ひど)いメールで、『完全に』、『心底』嫌われていると思っていても、敢(あ)えて軽めな『随分と』へ姑息(こそく)に換(か)えた辺りから震えて小さな声になってしまう。勢(いきお)いもなく全然叫べていない。僕の言葉と気持ちが溺れていた。

 途端(とたん)に涙(なみだ)が止め処(ど)なく溢(あふ)れ出て、触(ふ)れたくなかった彼女への罪(つみ)の思いに両手で顔を覆う。あの横浜港の大桟橋(おおさんばし)を歩いた日から二年近くを経(へ)ても、僕は彼女の気持ちを穏やかにさせるどころか、険(けわ)しくさせていた。

(彼女にとって、それくらい酷い奴に、僕は成り果てていたんだ……?)

「君の気持ちを全(まった)く考えていなかったんだ。僕の都合(つごう)だけの好意は一方的だった。君を、どうにか僕だけの女にできたと、苦労してやっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換えにしてもいいと思ってしまっていた」

 指の間から垣間(かいま)見る彼女の顔は、溢れる涙で滲(にじ)み良く見えない。ただ真っ直ぐに僕を睨(にら)みつけているように見えた。

「違(ちが)うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」

(何を間違っていたと、言っているんだ? 直接、否定する為に僕を探していたのか?)

 彼女がもっともっと、辛い言葉をぶつけてくるような気がして、僕は目を瞑(つむ)り身構(みがま)えた。

(抗(あらが)え! 抵抗(ていこう)しろ! これ以上、彼女に酷い言葉を言わせるな! 踏み止(とど)まれ!)

「僕は、何度も君にフラれたよね。その度に、どうすれば君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰えるように努力したんだ」

 その努力した結果がこれだ。望み薄な願いの空振りばかりの行動は君の心を摑み切れないまま、二度と手も、声も届かない広大な川向こうへ離れさせてしまった。

「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)話し掛け辛くなって、察しも、思い遣りも、気配りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再(ふたた)びってわけじゃないから、もう安心してくれ」

(……言ってしまった)

 未練がましい言い訳のように続けた言葉に、自ら終止符(しゅうしふ)を打つ。君への想いと行動も御仕舞(おしま)いだ。

「君が元気そうで何よりだよ。……幸せなんだろう?」

 更に終止符を強く、御仕舞いの幕引(まくひ)きを厚(あつ)く重ねる為に、近況を尋(たず)ねながら見た彼女は泣いていた。

(……泣いている! なぜ? 彼女は泣いているんだ?)

 僕が送った酷いメールは、やはり届いていて彼女を深く傷付けている。その最低な内容を思い出しているのだろうか?

(君の辛い言葉責(ことばぜ)めで、泣いているのは、……僕なのに?)

 それとも、自分の責めに怯(おび)える相手を憐(あわ)れんで泣いているのだろうか?

 こんなにも僕を打ちのめさせる惨い言葉を、彼女が泣きながら言うくらいに、僕は彼女に酷い事をして辛い思いをさせてしまったのだ!

 必然にしてしまった出逢いへの後悔に、一瞬、静岡の『あの人』が浮(うか)ぶ。駅のホームの端(はし)で手を振る『あの人』の姿だった。思い出しても救(すく)われないのに僕は『あの人』を記憶へ逃げようとする。

(『あの人』は、もう有り得ない! 後戻りはできない。さぁ、先へ進め!)

 僕は過去の戻れない思い出に助けを求めようとしていた。溢れる泪(なみだ)の膜(まく)に浮かんだ『あの人』を振り払い、僕は伝えるべき想いのラストへと言葉を繋ぐ。

「最後のメールで送った『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」

 未練をぶつけ終えた時から思い続けてきた締めの…… 最後のメールの一文(いちぶん)を、彼女を見詰めて言った。

(そうだ、それでいいんだ……。これを言う為に、僕は彼女を探していたのだから)

 これで伝えるべき想いは全て言った。彼女の中の僕のメモリーが少しでもヘタレから良い姿になることを願った。

(もう彼女の声を聞くことはないだろう……。あとは格好良く、シャンとした無言の後姿を見せて振り返らずに、この場を早く離れるだけだ。背後からドスッと刺しに来るかも知れないけれど、できれば未来を残してくれないかな)

 僕の思春期は彼女だけを一途(いちず)に愛していた。それは今も僕の誇(ほこ)りだと思っている。だから彼女は本当に僕の大切な人で、彼女に出逢えて、彼女の前で泣けるのだと思う。僕は、今までの彼女を大事(だいじ)にしたい。

(もう充分(じゅうぶん)だ。彼女は、まだ怨(うら)みを晴らし切れていないだろうけれど、刃傷沙汰(にんじょうざた)の罪(つみ)を彼女に負(お)わさせる前に、僕は早く退散(たいさん)した方がいい)

 此処を登れば速(すみ)やかに姿を消せるだろうと、直ぐ傍の柿木畠坂を見上げて体を動かそうとした。

(お互い長生きして縁が残っていれば、世界の何処かで人生が交差する事も有るさ。今日のように出逢うかもな……。其の時は互いに、今日とは違った思いで遭えれば良いな……)

 その時、彼女の優しい声がした。

「私、わかったの」

 抗う手札(てふだ)を全て出し切って為(な)す術(すべ)も無い泣き顔の僕を、彼女は涙目の蔑(さげす)むような上から目線で見据(みす)えながら言った。

(今更、僕を憐れんで、いったい何が分ったと言うんだ!)

 彼女は僕の前に跪(ひざまず)き、まるで慈悲(じひ)を与えるかのように僕の手を握り、涙で濡(ぬ)れる優しい顔で僕を見た。冷(ひ)えた手の甲(こう)に触れる彼女の手が温(あたた)かい。

(なんて君は残酷(ざんこく)なんだ……。その涙に潤(うる)む瞳は僕を見詰め、愛しさで僕の胸を締付(しめつ)けさせながら、僕を軽蔑(けいべつ)しているのだろう。優しい声は僕に安(やす)らぎを与えながら、辛い言葉を言うに決まっている)

「あなたが、私を大切にしていたことが……、どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」

 僕は怖(おそ)れた! 今も彼女が僕にとって幸せな言葉を連(つら)ね、オチが不幸な結末をトレースするだけの出逢いになる事よりも、再び僕の目の前から消え失せてしまわないかと、不安になる言葉を彼女は言ってくれた!

 ぐぐっと近付けた彼女の顔に優しい声が続く。

「あなたは、私が嫌いな、私の残酷で冷たい部分を、いつも受け止めていてくれたわ」

 失踪(しっそう)、消息不明……。この先、もし、もしもだ。有り得ない事だと分かっているけれど、状況が急変して僕と彼女がいっしょに暮(く)らし始めても、或(あ)る朝、目覚めると横に感じていた彼女の温もりや気配は無くて、彼女は身の回りの物と共に忽然(こつぜん)といなくなってしまう……。或る日、残業を終えて帰宅すると部屋の中の彼女が絡(から)む、一切合切(いっさいがっさい)の物が彼女自身と共に消え失(う)せている……。

 彼女の手を僕は握り返す。初めて僕から触れようとして彼女に触れた。

(彼女の掌(てのひら)は温かくて柔らかい。僕の手も彼女は温かいと感じてくれているだろうか?)

「僕は、君を嫌な人だと思ったことはないよ」

 最愛の彼女との予兆(よちょう)も予感も無い突然の生き別れ。別れの理由や原因も分からず不安と焦りと切なさの自分を責め続ける後悔の日々。この世界の何処かで必(かなら)ず生きているはずだけど、探し出す手懸(てがか)りが無い。

「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕はいつも不安だった」

 僕は不安を想像する。不慮(ふりょ)の事故や事件に因る死、病気や自殺での他界などなど、全く僕が知らない内に、今生(こんじょう)の世界のどこにも彼女がいなくなってしまう。どの想像も絶対に嫌で、僕を凄(すご)く不安にさせた。

 僕の指は彼女の乱(みだ)れた前髪を梳(す)かして涙に濡れるその頬に触れる。陽射(ひざ)しが翳(かげ)る春の外気で冷たくなった頬に、流れ伝う涙の筋が温かい。頬に触れる僕の手を気にするようすも無く彼女の潤む瞳は真っ直ぐに僕を見詰めたままだ。目の前で瞬(まばた)きもせず僕の目をじっと見据える彼女に、頬に触れている手が震えた。

「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは間違っていたの。あなたは私に、いつでも一生懸命だったわ」

 間近に迫る愛しい顔が、また悲しい言葉を言う。やはり、彼女は僕を蔑み見下していた。

(そう、僕は君に一生懸命(いっしょうけんめい)だった。なのに……)

 涙が溢れた。彼女が好きで……、きっと彼女を想う僕の不器用(ぶきよう)な一生懸命さが不甲斐無(ふがいな)くて、彼女にイラつきとジレンマを感じさせたんだ。

「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖かった。でも、そうなってしまったよ」

 彼女は過去の事を言っている。今更、過ぎ去った僕の想いの強さに気付かれても、今の僕には慰(なぐさ)めにもならない。ずっと、彼女に嫌われないようにしていたのに、でも結局、僕の鈍(にぶ)さが決定的な想いの破滅(はめつ)を招いてしまった。

「僕でなくても……、君に……、相応(ふさわ)しい人がいるよ」

(既に大学の彼氏と上手(うま)く遣っているんだろう。君はこれからも彼氏と幸せであれば良いさ。僕は今でも君を愛しているけど、愛する故に心から君の幸せを願っているよ)

 僕は静岡の『あの人』から『愛』を諭(さと)された。くすぐったい響きの言葉だけど、愛が有るからこそ素直に彼女の幸せを願える。

(数秒後に此処で別れたら、もう君を捜さない。二度と君と逢う事は無いだろう。だから安心して幸せになってくれ。永久(えいきゅう)にさよならだ!)

「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。好きなのがわかったの」

 予想していなかった彼女の言葉に、一瞬、その言葉の意味が解(わか)からず戸惑(とまど)った。

(ええっ? えーっ!)

 幻聴(げんちょう)かもしれない? 聞き違い? 僕は自分の聴覚(ちょうかく)を疑(うたが)う。何度も『SAY YES』と強制したいと思った、僕が心底望んだ言葉を、彼女は言ってくれた!

(……信じられない! いや、言葉は過去形…… なのか?)

 そうかもと、思った時も有った。でも今に至っては、とても信じられない。

「あなたじゃないと嫌なの。……じゃないと私、ダメなの」

 彼女は僕を求めていた……。

「まだ間に合うの? 私、まだ間に合う?」

 涙をハラハラと流す彼女を見ていたら、また僕の目に泪が溢れてきた。嬉しくて僕は泣いている。嬉しさが可笑(おか)しさに変わって、僕は笑い出しそうだった。

(ありがとう。僕は……、ずうっと君の、その言葉を聞きたかったんだ)

 嬉しさで表情が崩れて笑顔になりそうなのと、僕への想いを懸命に伝える彼女が可笑しくて笑い声を出しそうになるのを、グッと力付(ちからづ)くで圧(お)し殺して言う。

「……いつも、僕は探していたよ。いつか、どこかで君に会えると信じていた。その時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」

 無理に堅い表情を作る。眉間に皺(しわ)を寄せ、瞼(まぶた)に力を込めながら目を細め、奥歯を噛み合わせて言ったので、言葉は低い小さな声になってしまう。

「今……、お付き合いしている女性が、……いるの?」

 僕の身辺(しんぺん)を探るような彼女のフェイクではない言葉に、イニシアチブが僕側に有るのを実感した。

(すっごく嬉しいけど、笑うな! 彼女は笑ってしまうような可笑しいことを、何も言ってはいない!)

 嬉しさは、達成感……、征服感……、なのだろうか?

「いないよ」

 屈辱(くつじょく)の敗北感(はいぼくかん)に打ち拉(ひし)がれた想いが、思いもしない突然の大逆転に、気持ちは平伏(ひれふ)す相手を支配するダークな喜びに満たされてしまう。だけど、僕は彼女を支配していないし、征服もしたくない。

「私でいいの? 凄く酷いことを言ったし、とても冷たくしたわ」

(そう、確かに君は、残酷で冷淡(れいたん)だった)

 残酷でつれない彼女の態度と言葉は、いつも僕を不安させて焦らせた。今もサプライズで、そのタイミングを狙(ねら)っているのかも知れない。でも僕は、そんな彼女も嫌いじゃなかった。

 涙が溢れてウルウルする彼女の瞳を見詰めながら、ゆっくりと僕は頷(うなず)いた。

「わぁーっ」

 いきなり彼女が顔を逸らして大声で泣き出した。僕の知っている彼女は、ここまでのサプライズはしない。僕の笑いたい気持ちは消し飛んでしまった。もう可笑しくもなく笑えない。

「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」

 小さな女の子が泣きながら謝っているみたいだ。彼女は真摯に謝っている。

(許すだなんて、……許されたいのは、僕の方なのに……)

「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」

(それは、僕が君に言いたい言葉だよ)

 真摯な言葉は素直な心で受け止めて、真摯に素直な気持ちを伝えなければならない。

「今でも僕は……、君に好きになって貰えるようにがんばっているんだ。僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。そこは、とても広くて僕の全てなんだ」

 目の前の女性に語った言葉は、自分の心の中や気持の中を住み分けさす卑(いや)しさへの言い訳だった。

 僅か、一年半ほど前まで僕の全てだった女性が、僕へ『私を好きになって』と、泣きながら言っている。

 未練だらけの日々の後、綺麗さっぱり諦めていたけれど、僕は彼女を少しも厭(いや)になっていなかった。なのに、彼女は『私を嫌いにならないで』と、泣き顔で頼んでいる。

(好きだ! 今も好きだ!)

 けれど、僕は彼女を好きでいて良いのかと、迷(まよ)う気持に悩んでしまう。

「僕は、君に初めて声を掛けたあの日から、ずっと君が好きだ」

 多くの苦しみに悩んでも、悲しみに耐えて苦しむのは、とても辛い。苦しさに呻(うめ)いても、悲しさに嘆(なげ)きたくはなかった。

「手が……、汚(よご)れて、汚(きたな)いよ……」

 言われるまで全く意識していなかった。そう言われてからも、少しも汚いとは思わなくて寧(むし)ろ嬉しい。

「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」

 小学六年生の春に彼女に声を掛けたのは、彼女の四角(しかく)い爪に興味を惹(ひ)かれていたからだ。新学年の初日に初めて彼女を見た時に僕は、その指先に気付いた。

 彼女は四角い爪も、自分の美しさや可愛(かわい)らしさも、全然意識していなかった。

 僕が気付いて意識した四角い爪は、彼女の外見上の欠点ではなくて、全く逆の彼女が醸(かも)し出す美しさの一つだった。

 滑(なめ)らかで光り輝(かがや)く完全なる球の洗練された美形より、ザラついた玉子形に突き出したり、凹(へこ)んだりした艶々(つやつや)な角形や丸形の『ここを見て!』って主張する美しさを、僕は彼女に感じていた。

 その爪も、既に角(かど)が丸くなって四角ではなくなっている。

「あなた、が、好き、よ」

 喘(あえ)ぐ彼女の息に意思を強く込めた声が聞こえた。彼女が言葉の一つ、一つに力を込めて、はっきりと言い直してくれている。彼女の声は全然ブレていない。

(柔らかくて、温かい……)

 『汚れて汚い』と、自分を貶(おとし)める彼女を否定したくて、思わず顔を寄せ、自分を非難する言葉を続けそうな開きかける唇(くちびる)を塞(ふさ)ぐように、僕は優しく唇を重ねてしっかりとキスをする。

 唇に少し荒(あ)れた筋を感じるけれど、プリッとした柔らかさが彼女らしいと、高校一年生の下校のバスの中で隣(となり)の窓際の席で眠(ねむ)る彼女の唇へ黙(だま)ってしたキスを思い出し、シリアスになる気持ちを僕は逸らす。

(あはっ……、今日は、ニンニク臭(くさ)くないな)

 僕を求めて泣きじゃくりながら好きだと言って謝る彼女を、僕は心から愛しいと思う。

 重ねる唇は、彼女の唇を軽く噛む様に吸(す)って開かせ、僕は舌先(したさき)を中へなぞせて行く。

「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」

 一度、言葉で彼女へ届けれた僕の気持ちは、テレも、躊躇いも無く、何度でも届けれると思う。

 ふらりと力が抜(ぬ)ける彼女を強く抱き留めて、重ねた唇の中で舌先を少しだけ絡めてから、唇と彼女の身体を離す。

 彼女が声にした想いの言葉に、僕は僕の想いを強い声の言葉にしなければならない。

「君を……!」

 更にマキシムな恋の言葉を贈(おく)ろうとする僕の唇に、そっと彼女が唇を再び重ねて遮り、僕が言い掛けた言葉に上書(うわが)きする。

「愛しているわ」

(あっ! ああっ?!)

 彼女の想いに応(こた)えようとする僕の言葉を遮り、更に彼女は何処までも透明(とうめい)で清浄(せいじょう)な言葉を続けた。

「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」

 彼女が放(はな)つ『愛』の響きがくすぐったくも、ち心地好(ここちよ)く僕の源の奥深くへと入って広がって行く。彼女が映る視界の隅(すみ)に霞(かすみ)が掛かり、まるで立戸の浜で彼女の膝枕(ひざまくら)で見た夢の続きみたいだと思った。身体が気怠(けだる)くて熱っぽい感じがする。膝が鈍く震え足の裏が重くムズムズしている。彼女を抱きしめる掌や指は、手袋をして触れているような感覚になった。

 まるでRPGシュミレーションゲームのアバターにシンクロしたように、自分の指や手や身体じゃない感じがして、違和感(いわかん)があった。

 僕は興奮して気持ちが舞い上がっている。浅く速い呼吸と高鳴る動悸(どうき)、上昇する血圧に酸素が足りない。ボーッと夢見心地のときめきが気持ち良い。

 僕も、彼女に伝えなけらばならない。これまで、『愛してる』の言葉は、僕の一方的な想いから言って重みが薄れてしまいそうに感じていた。だけど今は、その言葉を言う場面だっだ。

(さあ、抱き寄せて『愛してる』って言うぞ! ……でも、彼女は『まだ、言わないで』と言っているのは、なぜ?)

 僕の表と裏、単純に彼女から返される冷たい言葉を恐れただけの無口さで気遣う、明るく陽気(ようき)?な普(ふ)段(だん)面(づら)と、自暴自棄(じぼうじき)の衝動に駆(か)られた自爆覚悟の罵りを連ねるだけの物言(ものい)いに、報復(ほうふく)に何を仕出かすか分からない戦闘的な行動をする、僕の理性を失った暗部(あんぶ)というか、恥(はじ)っ晒(さら)しの面の全てを彼女は既に知っている。

 それを知っているのに僕を『愛してる』と言ってくれた。だから、彼女が僕の知らない彼女の想いを僕に伝えたいと察した。

 求めていた偶然の出逢いを、泣きじゃくって互いの想いを伝え合っただけで済ませたくない。僕は彼女の想いを、もっと深く知るためにも、今日の残りの時間を全て彼女と触れ合いたいと願う。

「これからどうする? 僕は休みだから時間は十分有るよ」

 涙目を逆(さか)さ三日月(みかづき)にして二コリと微笑(ほほえ)む彼女を見て、『しまったぁ……』と思う。

 その和(やわ)らげな態度と優しげな姿に、大胆(だいたん)で頑固(がんこ)な一途さと意地悪(いじわる)な腹黒(はらぐろ)さを秘(ひ)めているのを、僕は身に染みて知っている。

 彼女は今日のような遭遇(そうぐう)を予想して、酷く誹謗(ひぼう)した言葉を連ねた僕へ貶(おとし)めの報復(ほうふく)を狙(ねら)っていたのかも知れず、その為に身を挺(てい)して僕を罠(わな)に掛ける意思の強靭(きょうじん)さを彼女は持っている。だが、見た目通りの優しさと素直さの彼女と親しく接したのも、良く憶(おぼ)えていて、そんな彼女を僕は探し求めていた。

(さあて、今の彼女の心は、どっちに振れているんだろうなぁ)

「羽田(はねだ)への最終便をリザーブしてあるから、それまで私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言ってきちゃったし、今からデートしましょう。訊(き)きたいこともあるしね。それから小松(こまつ)空港まで送ってくれる? 私を見送ってくれる?」

 気持ちが通じ合い、安心したように見える彼女は無警戒(むけいかい)に明るくて、立戸の浜の時と同じだと思った。僕が著(いちじる)しく身勝手(みがって)な振る舞いや言動を放たない限り、もうバス事故の日みたく警戒を滲ます事も、大桟橋の行き帰りのような黙って不穏(ふおん)を漂わす事はないだろうが、いつ、復讐(ふくしゅう)の言葉を吐き、罠に陥(おちい)らされるか、安心は出来ない。

「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初はどこから行こうか?」

 何か、軽いノリで受け応えしている感じがする。

 以前のメール文のようにズケズケと言葉にする程度しか変化していない彼女に比べて、僕は随分と拘(こだわ)りも、躊躇いも無く、はっきりと言葉にして話せている。

(変わったのは、僕の方だ……)

 僕は、僕自身が大きく変わっているのを、改(あらた)めて自覚した。

 金沢市の大抵(たいてい)の繁華街やモールは知ってはいたが、それはダチの男連中とだったから、高校三年生の後半に弓道部や他校の女子とか、妹の買い物の付き合ったくらいしか、彼女といっしょする場所が思い付かない。

 そもそも、中学生の時から彼女と二人でデートして、行き付けの店なんて作りたかったのに……。その誘いを悉(ことごと)く拒んでくれたのは彼女だ。

(そういえば、さっきも行って来た二十一世紀美術館の白いカフェは、彼女に連れて行かれて知ったんだっけ。でも、あそこは懐かしむだけで、本心を暈(ぼ)かされそうだから、ダメだな)

「お腹が、空いたわ」

 そう言って彼女は立ち上がると、僕の手を取って歩き出した。何処か僕を連れて行く当てが有るのだろうと思いながらも、彼女から積極的に手を繋がれた事が凄く嬉しくて、顔がニヤつき始めるのが分かった。しかも、手を腕(うで)に廻(まわ)して繋ぎ直すと僕に寄り添うように触れて歩いてくれる。

 流す涙を拭(ぬぐ)い、謝りを受け、愛を告白され、キスを交わし、腕を組んで歩く。ずっと独(ひと)り善(よ)がりだった僕の祈りは届いて、とうとう願いは叶(かな)った。

 ニヤついて緩みっぱなしの顔を彼女に悟(さと)られないように青空を仰ぎながら、降りて来た幸せと、明るく照らされたい僕達の始まりに感謝する。

(そう、これからだ。ああっ、神様、恐悦至極(きょうえつしごく)です。ありがとうございます!)

 此処は柿木畠で、竪町、里見町(さとみちょう)、香林坊、広坂通り、片町と金沢市の中心的繁華街だ。少し歩けば、長町(ながまち)に、野町(のまち)に、南町(みなみちょう)。武蔵(むさし)が辻(つじ)や橋場町(はしばちょう)や兼六園下(けんろくえんした)は、ちょっと離れていて歩くには遠いけれど、彼女が望むなら、郊外でも僕のSUV車で連れて行ける。

「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」

 安心して気が緩み、アホを言ってしまった。内心、トラウマを上書きしたい。

「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先にランチもしているダイニングバーが在るの。そこでライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」

 僕の冗談を軽く受け流し、『柿木畠』の碑(ひ)の横で満開の枝垂(しだ)れ桜(さくら)に手を伸(の)ばしながら、優しい笑顔の彼女は明るく僕をランチに誘う。

 このとき僕は、小学校の教室で窓際の机の上に両手を投げ出して、目を細めて春色に光る外を眺(なが)めていた彼女を思い出していた。春の青空と満開の桜を見上げ見る彼女はとても幸せそうだった。

 僕達は手を繋いだり腕を組んだりして竪町通りを歩いた。手を繋ぎ寄り添うのは、いつも彼女からだった。

 そして、『こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と問うように、ちらちらと僕の顔を見る。

 恥ずかしがるように、少し逸らした顔を空へ向けながら繋いだ手を大きく振って、次の一歩を弾(はず)むように跳(は)ねた。そして振り向いた顔が僕を見てニッコリ笑う。

 唐突(とうとつ)に後頭部が粒子(りゅうし)に分散して行くような、首筋や肩の力が蒸発(じょうはつ)して薄れるみたいな、そんな脱(だつ)力(りょく)感(かん)が僕を襲(おそ)い、顔がクタッと倒れそうになる。

(もう一度、今のを、して見せて下さい!)

 竪町通りの中ほどを曲(ま)がり、彼女が依然(いぜん)に両親とディナーに来たと言うダイニングバーに着いた。何かを確かめるような素振(そぶ)りで彼女は店内に入りテーブルにつく。ダイニングルームはほぼ満席で賑(にぎ)わっていて、僕も彼女に促(うなが)されるままに座った。

(何か、この店に思い入れが有るのかも知れない)

 そう思いながら彼女がオーダーしたランチコースを食べる。薦(すす)めてくれたフォアグラステーキは、想像していたのよりもずっと豊潤(ほうじゅん)な味わいだった。牛レバーとは全く違う濃厚(のうこう)な深みのある旨味(うまみ)は蕩(とろ)けるような軟(やわ)らかさと相俟(あいま)って、とても美味(おい)しくて幸せな気分にさせてくれる。赤ワインが有れば素晴(すば)らしいと思うけれど、車を運転しなければならないからアルコールはダメだ。だから僕はジンジャーエールを飲む。食前酒のキールすら飲めないのが残念で悲しい。

 向かい席の彼女はレアで焼いた柔らかそうな分厚(ぶあつ)いステーキを切り取り、僕がオーダーできなかった赤ワインを美味しそうに飲みながら食べる。実に旨そうだ。

(いつ、お酒を飲めるようになったのだろう? しかも渋(しぶ)め…… じゃなくて、辛口(からくち)の赤ワインを!)

 いつも僕が思い描いていた、穏やかで楽しい気持ちで満たされて彼女と美味しい料理を食べる場面が今、然程(さほど)の苦労も無しに実現しているが不思議(ふしぎ)だ。

 食べながら僕達は携帯電話の番号とSNSアカウント、メールアドレス、パソコンのメールアドレス、以前は知らせて貰えなかった彼女の相模原の住所、僕が勤(つと)める親父の会社と家の場所と電話番号などを教え合い、名刺(めいし)も渡した。

 僕の携帯電話番号とアドレスは最初から同じで、ずっと変えてはいない。

 金輪際(こんりんざい)以後、変更されて分からなかった彼女の携帯電話とパソコンのメールアドレスやアカウントネームは、変更前が『Yinghua、インファ』、中国語の桜花(おうか)から、いずれも『Cerezo、セレッソ』に変わっていた。

 スペイン語で、桜という意味だそうだ。

(彼女は、本当に桜が好きなんだな。でも、スペイン語って……、僕のイスパニアの白ワインに合わせてくれたのか?)

 それから、季節が春から夏に移る頃に、僕が相模原の彼女の部屋へ遊びに行く約束をした。その次は、夏休みに入った彼女が金沢へ来る。

 そんな未来志向(みらいしこう)で、彼女と会える約束をできる事が嬉しい。

 ゆっくりとした食事が終わり食後のコーヒーが運ばれて来ると、おもむろに立ち上がった彼女が店の人に断(こと)わり、ダイニングルームの専用スペースに置かれた白いグランドピアノへと向かう。

「五年ぶりにキーを敲(たた)くのよ。上手(うま)く弾けるように祈っていて」

 すっと立った彼女がテーブルを離れ掛けに、僕の手を握って言った。

 ピアノの前に着いた彼女は鍵盤(けんばん)を見詰め、それから、ゆっくりと座る位置を整えるように椅子(いす)を少しずらして座った。彼女は背筋を伸ばして姿勢を正(ただ)す。そして僕を見て微笑んだ。小学六年生の音楽の授業の時、そのままの仕種(しぐさ)で彼女はピアノに向かう。目を細めながら息を吸い込み直ぐに音を弾(たた)き出し始めた。

 それは躊躇いがちに楽しくて、嬉しさに戸惑うような気持にさせるメロディーだった。

(これは確か……、青春物アニメのオープニングと劇中のラストに流れる曲だ)

 僕は直ぐにわかった。あの音楽の授業でみんなのアンコールに応えて弾(はじ)く気配をみせた二曲目が、この曲なのだと。

 『五年ぶりにキーを敲くのよ』と、ピアノへ向かう彼女が言っていた。でも、そんなブランクを感じさせない。今でも良く練習をしているのかと思うほど、音は一つ一つ鮮(あざ)やかにのびて綺麗で滑らかなメロディーを奏(かな)でた。僕に聴(き)かせるために彼女はピアノを弾く。メロディーに込められた彼女の気持ちが僕の中を駆け巡る。彼女の想いが僕の心に響いた。

 澄(す)んだ音が弾んでいる。ほんの少しだけ躊躇うように聴こえるのは、彼女のアレンジだろう。よりアニメの出逢いのシーンにマッチしている気がするし、それに、今の彼女の心境の現れでもあると思う。

『いいの? 本当なの? 嬉しい!』と、彼女の心の声が聞こえて来そうだ。一音、一音がそれぞれのパステルカラーに染められて、僕の中で弾けて行く。『届いて!』、『響いて!』、『嬉しい!』、『ありがとう』、色付いて弾けた音は彼女の声に変わって僕の身体の隅々(すみずみ)まで震えさせる。

 改めて、澄み切った細流(せせらぎ)のような音色に聴き惚(ほ)れながら、不思議に思う。

(こんなのも上手なのに、どうして、彼女はピアノを諦めたのだろう?)

 優しい気持ちで曲は終わり、キーから手を離して顔を上げた彼女は僕を捜(さが)し見て明るく微笑んだ。それに応えて僕は立ち上がって拍手をする。少し照れ臭いけれど、僕の為に弾いて僕を再び感動させてくれた彼女に笑顔で大きな拍手(はくしゅ)を送った。

(違うよ。ありがとうを言うのは、僕の方だ)

 胸が一杯だった。全てが吹っ切れた。僕は彼女だけを見て彼女だけの為に生きる。この時そう決めた。それは絶対だ。この世に絶対と呼べることが無いとしても、この僕の決めた彼女への想いは絶対だ。僕が必ず絶対にする!

 一瞬の間を置いて一斉(いっせい)に拍手が鳴った。お客も従業員も、みんなが拍手を送っている。彼女のピアノは僕だけじゃなく、みんなに感動を与(あた)えている。

「アンコール」

 誰かが言った。それに引かれる様にあちこちから『アンコール』が掛かる。あの時と同じだ。彼女は『アンコール』に応えるのだろうか? 今は誰も妨(さまた)げない。

(どうして彼女の弾くピアノは、こんあにも聴く人に感動を与えられるのだろう?)

 鍵盤の蓋(ふた)を丁寧(ていねい)な仕種で閉(と)じ、立ち上がって椅子を戻してから彼女は大きく御辞儀(おじぎ)をした。鳴り止まない拍手の中を物怖(ものお)じ一つせずに軽い足取りで戻(もど)って来る。この瞬間、彼女は完全にヒロインだった。この場にいる人達全員の、なにより僕のヒロインだった。

「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度聴きたかったな」

 席に戻った彼女に僕は称賛(しょうさん)の意味で言った。……褒めたつもりで言った筈(はず)なのに彼女の顔が一瞬曇(くも)り、小さく唇が動き僕に聞こえない声で何かを呟いた。

「……」

 何度目になるのだろう? 『バカ!』と、唇が同じ動きをした。またしても僕の配慮が至らない。やっと巡り会えて今までの蟠りを解きほぐしているのに、高まる感動のあまり考えも無しに言霊(ことだま)になるような言葉を言い放ってしまった。

 幸い、彼女が退いたのは一瞬だけで後は明るく楽しげな雰囲気に戻ってくれた。

(やっと彼女に愛されたのだから、些細な事で彼女の愛を失いたくない。これからは、失わないように些細な事でも気を付けるんだ! お互いを失いたくないのは彼女も同じ筈だと思う)

 お客の女性やレジ係の店員が彼女に称賛の声を掛け、それに笑顔で手を振り礼をして答える彼女を、脇(わき)に見ながらランチの勘定(かんじょう)を済ませて、テーブルに着く際に預(あず)けていた彼女のコートを受け取り、僕は袖(そで)を通し易いように彼女へコートへ広げてあげる。

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 僕達は竪町通りから里見町を抜け二十一世紀美術館へ向かう。そこの地下駐車場に僕の四輪駆動のSUV車が停めてあった。

 二十一世紀美術館は懐かしい場所だ。バス事故のあの日、僕達は初めてフレンドリーにスキンシップの大接近をして、ここの白いカフェでイレギュラーなデートをした。

(全く、あの日は、デッドラインの間際と、ヘブンへの階段を行き来したみたいな日だったな……)

 身体に辛くとも心の嬉しさを思い出して目を細めていると、それに気付いた彼女が目を細めながら言ってくれる。

「今度、ゆっくりと鑑賞(かんしょう)しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんとお茶してさ。いい?」

 誘いの言葉を言う彼女に、あのバス事故の日を覚えていて、ここは彼女にとっても思い出の場所になっているのを知った。

「ああ、いいよ」

 明るく軽い感じに返すつもりだったのが、勝手にトーンが落ちて真面目(まじめ)なイントネーションで言ってしまい、企(たくら)みや壁を感じさせて警戒されないか、心配してしまう。

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 オートマチック車のパーキングからドライブへとギアシフトする簡単(かんたん)な操作にも、レバーを握る掌に汗が滲むほど緊張(きんちょう)してしまう。

 ギアのロックを外(はず)して駆動ギアへの接続も、普段は音と微振動の反応だけで感覚的にアクセルを踏み出すのだけど、今はディスプレイのシフトギアの位置表示まで見て確認している。

 歩道へは減速徐行して、車道へは直前に一旦停止して、安全と障害の確認をしてから入り、発進とブレーキは加速と減速を感じさせないように、滑らか且(か)つ速やかに踏み込む。

「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく嬉しかったよ」

 サイドシートに座る彼女の声を聞きながら僕は、緊張する気持ちが嬉しさにを包まれるのを感じて頷いていた。

 許される範囲のスピードオーバー以外は交通法規を遵守(じゅんしゅ)して、大胆で逞(たくま)しく、そして勇敢(ゆうかん)に加えて、いつも以上に慎重に運転する。

「……でね。本当に今、親しく付き合っている女の人は、いないのぉ?」

(なんで、時間を置いて、また訊くんだ?)

 僕の言葉に、彼女は確信を得たいのだと察した。

「いっ、いるわけないじゃん! 僕は一途だぞ! いたら君を好きだと……」

 照れ臭くても、何度でも、真摯に君への想いを強く伝えなければならない。

「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」

(あっ、マズったかも!)

 声が上(うわ)ずった! 低い声で渋(しぶ)く、重く、『君だけ』だと、クールに言えば良かった。

(でもね。年末までは居(い)たんだぞ……。大晦日で別れちゃったけどな。……潔く身を退いて、未練を持っちゃいないんだ、というか、持っちゃいけないんだ……)

「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」

 今、現在で、交際をしている異性はいない。でも、想いを戻したい女性は二人いる。

「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、心配だったの」

 一人は戻す術が失われている静岡の『あの人』だ。そして、もう一人が君だ!

「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」

(『あの人』の事は、君が僕の過去話しを訊いて来たら、聞かせてあげるよ。その時は、僕も君の昔話(むかしばなし)を聞かせて貰おうかな)

「鈍いね、あなたは。好きになった女の子には一途で一生懸命なのに、周(まわ)りにあなたを好きになった女子が、大勢いても気付かないなんて……」

 弓道の試合で僕を応援してくれていた女子達の事を言っているのだろうか? 確かにラブな手紙を手渡された事や、直接、面と向かって『友達からでいいので』と、言われた事も有った。他校の弓道部の下級生の女子に誘われて片町と竪町でのショッピングに付き合っている。中学でも告白されているし、高校でも中学校の同級生から告白された。 だから気付いていないなんて、……ことはない。

(だけど、それは君だけを好きだったからだ!)

 故に、僕は惚(とぼ)ける。

「そうなのか? 僕は鈍いのか……」

 僕は彼女に正直でいたいと思う。

 彼女には少し鈍感(どんかん)だと思われていた方が、何かと都合が良いかも知れないと思うけれど、誤解(ごかい)を招き易い事柄(ことがら)の白黒は、勘繰(かんぐ)り深い彼女にポーカーフェイスで惚け通せるか自信が無い。

 始まりの勘繰りが、疑い深い事なら、自信を持って正直にはっきりと釈明(しゃくめい)して誠意を示さなければ、この先もずっと、気持ちの何処かに、心の何処かの隅に、不安と疑りと蟠りを持ち続けて、何時しか、決定的な不幸へのトリガーとなるだろう。

 そんな事を考えながら彼女を見ると、以外に明るくて、諦めたようにも、察したようにも思える微笑を浮かべていた。

 僕に見られている事に気付いた彼女は、更に笑顔になって、弾んだ声で訊いて来た。

「あの大きなオートバイは、まだ持っているの?」

 サイドウインドーを下げて車内に入る春の大気で、髪(かみ)を乱しながら犬のように鼻をヒクつかせる彼女は懐かしむように言う。

 弾んでいるように聞こえたのは初めだけで、御仕舞いの声が小さくなって行く、どことなく彼女の問い掛けが、僕を責めている気がした。

『えーっ、あんなのを、まだ持ってんの。あんな言う事を聞かない、重くて乗りこなせないバイクなんか、捨(す)ててしまえばいいのに』と、言っているように聞こえた。

 今も因縁(いんねん)のV-MAXを所有しているのが気に食わなくて、非難されている気がして僕はムッとした気分になりながら、相模大野の駅前で初めてV-MAXを見た時の彼女の表情を思い出す。

 そして、含まれているだろう語意を無視して僕は投げ遣りに答える。

「ああ、V-MAXだろ。まだ持っているよ」

 正直に答える僕は、相模大野の駅前でタンデムシートから降りた彼女が後退(あとずさ)って、灼熱(しゃくねつ)したエキゾーストパイプに足が当たった。それはジーパンの上からチョコっと触れただけなのに、脹脛(ふくらはぎ)に赤くて丸い火傷(やけど)の痕(あと)を付けさせていて、ヒリヒリする痛みに彼女が顔を顰(しか)めながらウエットティシュを患部(かんぶ)に当てるのを思い出した。

「夏になったら乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」

 驚いた。あんなに嫌悪感(けんおかん)を現した彼女が、再び乗りたいと言ってくれるとは思わなかった。うんうんと首を縦(たて)に振りながら、彼女の嬉しい提案に答える。

「勿論(もちろん)! いいさ。ぜひ乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」

 次のタンデムでは迷いも、躊躇いも無く、僕は走れるはずだから、もうV-MAXを『乗りのこなせていない』という、イメージは持たれないだろう。

「あのヘルメットも、有るの?」

 大桟橋の時に、一度っ切りしか使っていないのに、『女の子の匂いがする』と、『あの人が』言ったフルフェイスのヘルメットだ。

 本棚の上に置かれていたヘルメットを手に取った瞬間に『あの人』が言った。僕は、『あの人』に臭いで気付かれたヘルメットを被(かぶ)らせて、不快(ふかい)な思いをさせるのが嫌で、『あの人』用に新しいのを買った。

 その新しいヘルメットは、『君のことは忘れないよ』と、別れの日に『あの人』が持っていった。

 そんな記憶が彼女の言葉で甦り、春の大気に香る桜の匂いといっしょに、安らぎを得た僕の心をざわめかす。

「有るよ」

 僕は頷いた。僕は、『あの人』へ新しいフルフェイスヘルメットを買ったのに、大桟橋の時のヘルメットを捨てずに、ずっと本棚の上に置いていた。

(それでだ!)

 僕の中で既に決着を付けて忘却(ぼうきゃく)したと思っていた彼女への想いが、僕の心の奥底に消えずに沈ませている事に『あの人』は気付いていたのだろう。だから、『あの人』は僕にプロポーズの言葉を言わせない真(ま)っ先(さき)の理由にしたのだ。

 あの時、『あの人』が、僕と添い遂(と)げれない決定的な理由を言う前に、僕の彼女への想いを持ち出した理由が、今、やっと解った。

(『あの人』の気持ちにも気付けていなかった……。僕は、本当に鈍くてバカな奴だ!)

 もし、本棚のヘルメットを処分していたら、どうだっただろう?『あの人』は……。いや、イントロの言葉が違うだけで、結果は変わらない。

「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸の浜もね。休みを取って時間を作ってくれる?」

(御里へ行くってのは、家族や親戚(しんせき)一同に紹介するつもりなのか?)

 それは、ちょっとまだ早い気がするし、それに恥ずかしいけれど、断わる理由にはならない。

「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」

 また立戸の浜で沈められそうだけど、彼氏として紹介されるのも込みで覚悟して行こうと思う。

「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」

(おっ、おおっ! 御願いされた! 担ぎ手になった僕の凛々(りり)しい姿を、彼女は見たがっているぞ!)

「うん!」

 力強く返事はしたものの、地元衆(じもとしゅう)の若手は彼女の幼馴染(おさななじみ)ばかりだろうし、ただ、楽しく担ぐだけでは済まされないだろう。

(勧(すす)められて一昼夜の酒浸(さけびた)りになるのも、覚悟した方が良さそうだ)

「それと相模原へ来たら、いっしょに行きたい処があるんだ」

 予想外の相模原で行きたい場所が有ると言われて、強張(こわば)って行く自分の顔が分かった。

 『相模原』、無計画だった僕の不甲斐無さから、彼女に『永遠(とわ)の別れ』をされて、悲しみの向こうへ辿(たど)りつけなかった因縁の始まり街だ。

「どこ?」

 彼女が僕と行きたい所は、たぶん、横浜港。そして、問い掛けに返される場所は、気不味(きまず)い雰囲気(ふんいき)で黙って僕達が歩いた、あの鯨(くじら)の背中(せなか)だ。

「もう一度、大桟橋を歩きたい」

(ビンゴだ……!)

 一瞬、彼女の顔が曇った気がした。『大桟橋』のところだけ笑顔が消え声が沈んだ。その翳りにV-MAXでタンデムして『大桟橋』へ行った日の、僕の不甲斐無さと心配りの無さだけではないと思う。

 『大桟橋』に、どんな思いや拘る理由が彼女に有るのか知らないけれど、僕にとってもトラウマになりそうな場所を仕切り直せるのは、願ったり叶ったりだ。

「……いいよ」

 消えた笑顔とトーンが落ちた『大桟橋』が気になる。その暗い抑揚(よくよう)から僕以外にも大桟橋に纏(まつ)わる何かが有ると察した。もしかして、スタンガンを使わなければならない事態に遭遇(そうぐう)したり、陥ったりしたのかも知れない。 僕が渡したスタンガンは、彼女を守り切れているのだろうか?

「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。そこでディナーを、いっしょに食べたいの」

 『大桟橋』の中にレストランやショップが有るのは、引き摺る未練で行っていた時に食事や記念品を買っていたので知っている。

 でも、そこでのディナーは、ポートサイドの夜景を見ながら船上のオープンデッキの方が、ムードが有ると思う。

「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」

 彼女と二人、横浜港へディナーに行くなら、大桟橋に接岸していたクルーズ船でのディナープランの方がシックで良い感じになると、未練タラタラの時に真っ白なクルーズ船を眺めながら考えていた。

 ドレスコードは無いと思うけれど、ちょっとラフなフォーマルっぽさでメモリアルなディナーにしたい。最上階のデッキでディナーを食べながら、イルミネーションが美しいベイブリッジを潜(くぐ)り、ライトアップに輝くベイエリアを眺めて、笑いながら語り合う。

(プロポーズに好いムードを醸(かも)し出すかもだ。内ポケットに、ティファニーのペアリングを用意してたりして……、なぁんてね)

 けっこうロマンチックだと思うのだけど、どうも、彼女にとってディナークルーズは、セカンドプランのようだ。

「うん、二人で夕方のセピア色に染まる横浜港を見て、それから二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒飲めるよ。そして夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ、セッティングは、私がするから心配しないで」

 どうしても行きたいらしい。彼女なりの理由が有るのだろう。

「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」

 それは、別に構わないどころか、大いに大歓迎で嬉しいです。

(さぁて、次は何処だろう?)

「ん! まだ?」

 嬉しいながらも、ワザと問い掛けてみる。

「来年の春は相模原の、満開の桜並木を歩かない?」

 その桜並木道は、二度、満開の桜吹雪(さくらふぶき)の中をV-MAXで駆け抜けた。一度目は未熟(みじゅく)な僕が後悔するデートの前に。二度目は何も戻せないのを認めての偶然の出逢いを求めて、宛(あ)ても無く彷徨(さまよ)う様に桜の花弁を追い駆けた。

「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」

 二度目は、実際に出遭ったら言えていたか分からないけれど、交差しなくなった別々の人生の幸せの祝福を交換しようと考えていた。

 静岡の『あの人』には、甲府市(こうふし)の同好の趣味人(しゅみじん)へ会いに行くと口実を言って相模原へ行っていた。

 『あの人』は政略結婚で融資(ゆうし)を得て、家の事業が盛り返して活気を帯びれば、『あの人』の家族と働く親族達の生活に心配は無くなるけれど、事業経営は事実上、養子(ようし)の夫と彼の実家が実権を握ってしまうだろう。

 不本意な結婚の結果でも、困窮(こんきゅう)していた暮らし向きが心配の無い安心で安泰(あんたい)になると、『あの人』は愛してもいない夫と別れ、禍々(まがまが)しい山狭(やまあい)の地を捨て、僕の許(もと)へ戻って来るつもりなのだろうか?

 そんな有り得ない『あの人』の想像を、今の状況で僕はしてしまう。

「決まりね。それじゃあ、約束よ」

 彼女に『是非(ぜひ)、いっしょに』と頼みながら、『あの人』へバカな期待をする自分の浅(あさ)ましさが嘆かわしい。

「約束は、……しないよ……」

 『あの人』に再会する予兆(よちょう)などは、全く何も無い!

 将来的に『あの人』と再びの望みを期待できるモノは、素粒子(そりゅうし)一つ分も全然無く、『あの人』は彼女以上に僕を断絶して去っていまった。

 僕の中の『あの人』の広がりは、現在の更新は失われて過去だけが漂っている。その広がりを圧し潰して薄くするように、『あの人』と『君』への未練が積み重なって行っていた。

 そして今日、君との出逢いが希望の無い未練を遠い片隅(かたすみ)へ小さく圧し遣って、再び君への想いを果てし無く広げている。

 僕は、目の前に突き出された君の右手の小指に、僕の小指を絡ませない。

「約束しない? 約束できないの?」

(僕の中の現在は君だ! そして、未来も君だ! だから、約束を交す必要はないんだ)

 君の願いや頼みを叶えたり、守ったりするのは、もう僕の義務だろう。

「違う! もう、約束なんかで縛られたり、確かめ合う仲じゃないと思うからだよ!」

(君を好きになるのは、僕の自由だ!)

 君が僕の好意を嬉しく思わなければ、僕は『君を好きになるのは、僕の権利だ!』と、主張してもよいのだろうか?

 君にとっては大迷惑かも知れないのに、権利だからと僕は好きで居続(いつづ)けたい。確かに、好きで居続けるのは構わないのだろうけれど、権利とは違う気がする。

「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」

 もし、君に喜ばれたら、もう君を好きでいるのが、僕の義務だと思う!

 大桟橋と相模原はトラウマを消し去る為にも、僕は絶対に行きたいと思った。

「早く着き過ぎちゃうな。どこか寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」

 加賀産業道路を走りながら彼女に訊いた。小松空港に行くには国道八号線の小松バイパスへ合流する前に右折(うせつ)しなければならない。次の交差点を右折すると十五分で空港に到着する。

「海……、海が見たい。日本海を……」

(海? そうだった! 彼女は、海……、海原(うなばら)や渚(なぎさ)が好きだっけ)

「行ける? 時間は大丈夫(だいじょうぶ)かな? 夕陽を見たいのだけど?」

 ダッシュボードのパネルの時計を見ると、空港近くなら余裕で大丈夫そうだ。

 場所は海原と岸辺の両方の見晴らしが良くて、無粋(ぶすい)な人工物の無い海岸がいい。それも広大な砂浜ならモア・ベターだろう。

 それに彼女が知っていそうもない浜なら、ベスト・インパクトになる。

(誰もいない浜に、二人だけで見る夕陽。……なんてね。とっても良いシュチュエーションじゃん!)

「時間は……、空港での夕食時間に余裕を持たせて……、二時間は大丈夫だ。行けるよ」

 『二時間』と言って、『御休息(ごきゅうそく)』を連想してしまった。

 加賀産業道路が国道八号線と合流する辺りには、加賀温泉郷の『山代(やましろ)』、『山中(さんちゅう)』、『片山津(かたやまづ)』の温泉街が在る。温泉街の周辺には一軒宿っぽい温泉とラブホテルも多い。

(……彼女は、ラブホ利用の経験が、……有るのだろうか?)

「ほんと? 行ってくれるの?」

 彼女は嬉しそうに笑っている。僕も妄想(もうそう)する下心で自虐的に笑ってしまう。

(今日の出逢いの様子だと、何処へ走っても構わない感じだ……)

 ラブホのパーキングに停めても、多少の困惑と蟠りだけでベッドルームへの階段をいっしょに上がってくれるだろう。そして、開放的な広い部屋を選べば、躊躇う気分を軽くさせて殆ど無抵抗に身体を許してくれるかもだ。

 だけど、やっと再会できて、改めて相手の想いを知り合えたのだから、性急過ぎる節操(せっそう)の無い行動と態度に出るわけには行かない。

(この、勘違(かんちが)い野郎と思われたら、彼女の事だ。気持ちが変わって、きっと、これっきりになる)

「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから気持ち良いかもな」

 梯川(かけはしがわ)河口の南側砂丘の松林の中に源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(べんけい)の勧進帳(かんじんちょう)で有名な安宅の関所跡(せきしょあと)が在る。鎌倉期(かまくらき)の街道は砂丘沿いを通っていたのだ。小松空港の直ぐ近くで安宅の松林の向こうは広い浜辺だけど、ちょっとインパクトとユニークさが足りない。

(そう、気持ちが良いい…… 場所)

 彼女が僕に触れた気持ちの良かった体験を思い出して、僕は彼女が気持ち良いと感じる触れ合いをさせていないと思った。

 フォークダンスで触れた汗(あせ)っ掻(か)きな君の掌。バスの中のキスでプリンとした弾力を感じた君の唇、救急車の中で覆い被さる君の柔らかな胸、渚で知った君の日焼けした肌の張り艶、タンデムツーリングで背中に押し付けた胸の弾力と香る君の匂い。そして、今日の塩辛(しおから)い君の唇。

 その先に迎える気持ちの良い事を、君は既に経験しているのだろうか?

(……まだ、僕は葛藤(かっとう)している……。さり気無く誘ってみる? それとも、強引に求めちゃったり?)

「その片野の浜って知らないけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」

 浜辺とは違う、欲情的に御奨(おすす)めの場所っていうか、領域っていうか、君を絶対的な頂(いただ)きへ逝(い)かせたい思いが、また湧き出して来る。

(……彼女も、求めているかも知れないし)

 今の彼女なら僕の気分次第で強引に迫っても、たぶん拒みはしない。

(だけど、ダメだ!)

 やはり今日は、僕から求めるわけには行かない!

「でも、日没まではいられないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、その時刻には空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と思うけど」

 日本海の水平線の彼方へ沈む紅(あか)い夕陽を彼女と僕が見るとなれば……、連想するのは高校一年生の晩春に金石の浜で部活のテレーニングをする僕を彼女が見に来た時だ。

 彼女は下校時に鳴和町(なるわまち)の学校から金石(かないわ)の町までバスを乗り継(つ)いで来て、『海を見に行っただけ』とメールを送られていた。斜陽(しゃよう)の紅く染まり始めた海原を彼女は日没まで見ていたのだろう、偶然にも部活を終えて下校する僕は、帰宅する彼女が乗ったバスに乗り合わせてしまった。

 そして、彼女の横に座った僕は、車窓に凭(もた)れて熟睡(じゅくすい)する彼女の唇へ禁断のキスをした。

(その無断でしたキスに彼女は気付いていて、遠回しに僕を咎(とが)めて、浜辺で酷く責められるのかも知れない……)

「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は次回ね」

 あの時はバスの揺れに任せて、僕の唇を彼女の唇へ押し付けただけだったけれど、あれは僕のファーストキスだった。

「それじゃあ、行こう」

 彼女にとってもファーストキスかも知れない、僕の負節操(ふせっそう)で卑怯(ひきょう)なキスに彼女が気付いていたならば、ラブホの休息に誘うなんて、悪魔の花園のような地雷原を走り回るくらい、デンジャラスで愚(おろ)かな行為だ。

 僕は内面の性欲を抑えて、彼女と望みと僕の言葉通りの行動をする事に決めた。

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「あそこに、寄ってもらえるかな?」

 木場潟(きばがた)を過ぎた辺りで、『さっき右折して、小松空港の海側の道路を通った方が、早く行けたかも』と少し悔やみながら、国道八号線に国道三百五線が合流する加賀市の交差点まで来てしまった。

 ナビゲーションの画面を広域表示にして、片山津温泉が在る柴山潟(しばやまがた)沿いを行くか、大聖寺(だいしょうじ)の町近くを通って行くか、僕が現在地からのルートが良く分からずに迷っていると、彼女に対向車線側のコンビニへ行くように指示された。

「えっ、ここに用?」

 片野の浜の駐車場前にはシーサイドカフェが在ったはずなので、其処で寛(くつろ)いでと考えていた。だからコンビニへ寄って買い物をつもりは無かった。

「そう、ちょっと用なの。……用を足(た)すの」

(あっちゃー! そっか、トイレだあ。これ、妹もドライブすると、よく言うわ。因(ちな)みに、お袋(ふくろ)は『トイレ行きたい』って、ストレート表現だけどな)

 これは、綺麗で可愛くて大好きな女性は排泄(はいせつ)しないって思い込みじゃなくて、自分の配慮の至らなさを反省するしかない。

「ああっ、OKだ!」

 目を逸らし、顔も逸らして、頷きながらの返事なのに、納得って言わんばかりに、言葉尻が強くなった。

 ただ『うん……』と言えば良かったのに、僕は察し足らずの自分に、再度反省が必要だ!

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 用を足す彼女といっしょにコンビニへは行かず、僕はSUV車の中で彼女の戻りを待つ事にした。

 ついでに偶然の出逢いの、想定外だった彼女が座るサイドシート周りをクリーナーで掃除する。

「それなに? 買ったんだ?」

 十五分ほどで戻って来た彼女はコンビニのレジ袋を持っていて、ただのトイレ利用をするだけじゃなくて、ちゃんと買い物をしていた。

「うん、アイス」

 ドライに設定しているだけのエアコンディションなのに、彼女の顔は上気(じょうき)して火照(ほて)っているように見えた。胸元から漂って来そうな熱気に汗ばんでいるのかもと察した。

 まだ肌寒(はださむ)い日が続いていて、陽射しが回復した今日の午後も、走行中はウインドゥを開けると風が冷たくて寒い。

(なのに僕も、汗ばんでいる。まあ、半分は緊張している所為だけど)

「アイスクリーム? 今、食べるん?」

 『汗っ掻き』に『多汗症(たかんしょう)』という体質か、症状なのか、分からない言葉を聞いた事が有る。それらは、はっきりとした違いが有るのだろうか?

 正常な体質なら、今日の気温や状況で汗を掻かないのだろうか?

(汗っかきは、全身が火照り易くて汗ばむんだっけ?)

 辛(から)い料理を食べると顔から汗が筋(すじ)になってポタポタ落ちたり、首筋に汗の玉が浮いたり、掌がベトベトベッタリと濡(ぬ)れるのは多汗症……。

 僕は思いだしていた。眠ると体温が上がって『赤ちゃんみたいね』と言われた事が有る。

 言ったのは静岡の『あの人』だ。寝る時は僕の腕枕(うでまくら)でいっしょに眠ったはずなのに、いつも目が覚(さ)めたら僕はベッドから落ちているか、ベッドの端際(はしぎわ)で毛布に包(くる)まっていて、羽根布団で安らかに眠る『あの人』はベッドの三分の二を占拠(せんきょ)していた。

 『だってぇ、君は寝てしまうと赤ちゃんみたいに熱くなるんだよ。自分では分からないでしょう? だからね。眠りながら君から離れちゃうんだよ。でもぉ、隅へ追い遣ったり、落としたりするのは覚えてないなぁ。きっと、夢の中で似たような事をしちゃいながら、無意識で蹴飛(けと)ばしていたかも。ごめんねぇー』

 汗っ掻きのワードが、僕に無意識と別離(べつり)を思い出させて、少し悲しくなった。

(病(しょう)って、それは、体質じゃなくて病気なのか? だとしたら、治療(ちりょう)ができるってことぉ?)

 僕と彼女は、どちらなのだろう?

「ううん、後で。浜辺で食べようよ」

(だよな。運転しながら、片手持ちでアイス食べるのは、危(あぶ)ねぇし)

 かといって、コンビニの駐車場で食べるなんて、無粋で問題有りだと思う。もっとロケーションを大切にしたいし、それにタイムロスだ。

(このロケーションと料理のオーダーの失敗が起因(きいん)して、今日まで完全断絶されていたんだっけ。同じ徹(てつ)を踏(ふ)みたくはねぇな)

 棒アイスだと片手に持ちっ放しになるし、溶け易いから、垂(た)れ落ちる心配が付き纏う。袋入りのモナカだと片手持ちで何とか食べれるけれど、チョコ被(かぶ)りのだと、割れたチョコの破片が零(こぼ)れて、衣服や座席を溶けたチョコで汚した事が有った。

 そして、カップタイプのは両手を使うから運転は更に困難(こんなん)になる。

(食べさせて貰わないと、無理! もしかして、『あーんして』を、してみたかったりして!)

 なんて考えていたら、あっさりと違った。

「だったら、そのままだと車内のエアコンで溶けるかもだから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」

 彼女からアイスが入ったレジ袋を受け取ると、そのまま電源をオンにしたバッテリータイプのクーラーボックス内のフリーザーへ入れた。

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(シーサイドカフェでのユルリと寛ぐのは、無しだ!)

 片野の浜辺でアイスクリームを齧(かじ)りながら、彼女と和(なご)む事に僕は決めた。

 ナビ画面のルートは大聖寺の街に入らないのだけど、気が付いたら曲がるべき処を曲がらずに入ってしまい、新たに再表示された『この道で良いのか?』と、不安を抱かせるような道筋を通って、どうにか片野の海水浴場の駐車場に着いた。

(見覚えの有る浜だ。シーサイドカフェも在る。此処はナビが示す場所で、僕は間違った浜に来ていない)

 何より、堤防を兼(か)ねる低いコンクリート壁に、片野海水浴場駐車場と大きくペンキで書かれていた。

「よく道を知っているねぇー」

(いやいやいや、ナビ通りに走って来ただけです。でも、この辺りはウロ覚えだし、自分で来たのも初めてだし、上手く着けて、ほんと良かったわぁ~)

 大聖寺の街で道を間違えたのも、不安な気持ちで運転していたのも、今も場所を間違えていないか疑っているのも、彼女に気付かれていない。

「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」

 上手く不安を隠せていたのと、彼女の驚く顔と御褒(おほ)め言葉で気を良くした僕は、途切(とぎ)れ途切れの記憶なのに、いかにも鮮明に覚えているかのように鼻息荒(あら)く、知ったかぶりをする。

「……砂浜を歩くの?」

 ドアを開けて出ようする僕の背中に、彼女の沈んだ小声が聞こえて振り向くと、サイドシートに座ったまま自分の足許を見ている彼女がいた。

「あっ! そのロングブーツはレザーだよね。それにハイヒールだ。……砂浜だと刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」

 片野の浜の砂質は、羽咋市の千里浜みたいな木目細かくて踏み固めれる砂じゃない。少し粗い砂粒の軟らかい砂浜は絶対にハイヒールを潜らせて、踏み切れない踵で歩行を困難にしてしまう。それに、砂粒はサンドペーパーを掛けたようにレザーを擦り傷だらけにして、ブーツの光沢を艶消しまうのは確実だ。

「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」

 言いながら後部座席のドアを開けて床に置かれた妹のブーツを持ち、反対側へ回ってドアを開け、彼女の足許へ置いた。カジュアルなショートブーツはミスマッチになるけれど、仕方が無い。

「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」

 妹のショートブーツはフェルトだから砂塗(すなまみ)れになりそうだけど、脛丈(すねたけ)なので中には砂が入らないだろうし、硬質シリコンゴムの靴底は深めのトレッドパターンで、これから行く岩を歩くのに滑(すべ)らなくて済(す)むと思う。

「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」

 屈(かが)み込む彼女がロングブーツのジッパーを下げると、黒いナイロンストッキングにピッタリと包まれた彼女の脛と脹脛(ふくらはぎ)が見えて、その艶(なまめ)かしさに見惚れていると、彼女は顔を僕の方へ回して言った。

「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」

(うっ! エッチだと悟られてしまった! そうです、僕はスケベなんだよ……)

「ああっ、ごめん。そっち側の見えない所に離れているよ」

 SUV車の反対側へ離れながら、妹がショートブーツを載せといてくれて良かったと思う。

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 高校三年生に進級した妹は、新年度になった初日から来年1月の御受験に向けて金沢駅近くの進学塾へ通い出した。希望する大学へ進学する意欲が有るにしては、其の為の勉強密度の高まりが半年ほど遅い遅いと思うけれど、あっさりと部長を同級生へ委任して部活を二年生で辞め、妹は受験勉強に集中している。

 妹は放課後に高校から進学塾へ直接行く。塾の終わるのが午後九時過ぎになるので、火急の仕事や異常が発生しない限り、僕がこのSUV車で向かえに行っている。

 塾通いの二日目の朝、加工の進捗を確認に工場へ行こうとSUV車に乗り込むと、寝起き姿で息を切らして遣って来た妹が、『今夜も、迎え、宜しく御願いします。あと、これ、乗せといて』と、言いながらドアを開けて後部座席の床へフェルト生地のショートブーツを転がした。

『なんで?』

『塾のルームは暖かいんだけど、足裏から冷えるんだよ。だから、ね! アニキぃ~』

『なに、それ? 始めっから履いてけば、いいじゃん!』

『ちっ、ちっ、分かってないなぁ、アニキ。女子高校生は、ビジュアル第一なんだよ。男子も多いしさ』

『俺は、そのビジュアルの対象外なのかよ?』

『―ったりまえじゃん! アニキに、ブラコン系可愛い妹なんて、演じないよ』

『俺も、シスコンじゃねぇ。でも、載せといて遣るよ』

 以後、今のところ日曜を除く毎日だが、迎えに行く度に妹はサイドシートで素肌の脛を擦りながら、学校指定の通学靴からフェルトのショートブーツに履き替えている。

『あ~、あったかいわ~。風邪は首筋と足裏の冷えからって言うしね。ちゃんとブーツを載せといてくれて、サンキュー、アニキ!』

『やっぱ、おまえ、そんなに体調を気に掛けてるなら、ブーツを履いてけばいいじゃんか』

『ダーメ。ソックスに包まれた足首と脹脛の下半分から、スカートの裾までが絶対領域なの。このビジュアルは落とせないよ!』

『……絶対領域。それは解るけど……、じゃなくて、なんだそりゃ? 意識してんのかぁ?』

『そりゃそうよ。体毛処理してさあ、擦り傷や痣に気を付けてさあ、虫刺されにもねぇ。浮腫(むく)まないように、血色良いように、食べもんと睡眠を摂(と)ってさあ、いろいろ有んだよぉ、アニキぃ』

『まあ、確かに形が良くて、綺麗な足してるからな、おまえは』

『それに、うちの学校は、制服ダサダサじゃん。可愛いカジュアルブーツなんて、普通にマッチしないし、アンバランスだし、ダサさの3乗だわ。だっからあ、制服とのダサコラボは、アニキしか見せないよ』

 そのダサイ制服の高校は、彼女と同じだ。『片想いしてる彼女さんの高校を、見て、触れ、嗅ぎたいから』との理由付けで受験して、成績上位の妹は塾通いもせずに合格してしまった。更に、『弓を構えるアニキが、格好良かったから』と、弓道部に入部してくれた。

 弓道部に入ったからにはと、命中させるコツと身体作りを指導して、黒壁山での祈願の仕方を教えたら、去年は個人優勝をして、インターハイのベスト十六まで勝ち進まれてしまっだ。

『三年の部長が、アニキとデートした事が有るって言ってた。香林坊、竪町、片町とデートして、アニキの高校の文化祭もいっしょに回ったのに、こっちの文化祭に来てくれなかったって。ちょっと恨(うら)んでたよぉ~。でも、わかる。そりゃあ、行けないよねぇ』

 そんな過去話を一年生になって直ぐに弓道部へ入部した妹から、お盆の帰省(きせい)の折りに聞かされた。そのデート相手の女子弓道部の部長は、僕とインターハイへ行った個人の部のメンバーで、石川県代表になった女子の個人優勝者だった。

『だってぇ~、いくら断わっても、想いを伝えて来る男子がさぁ、自分の学校の文化祭に来ていてぇ、下級生の女子に寄り添われてぇ、模擬店廻りしてるのを見たらぁ、ねぇ。まして、夏休みに能登まで来てくれて、会っているのに。……私だったら、真正面に立ちはだかって、いきなりグーパンチで、ダウン取って遣るわ!』

 グーパンチって、妹と取っ組み合いの喧嘩を最期にしたのは、小学五年生の三学期だ。おふざけと悪戯の仕返しに頬を平手で叩くと、必ず僕にしがみ付いて拳(こぶし)で殴り返して来ていた。六年生になって四角い爪の彼女と噛み合わない言葉を交してから、妹の悪ふざけが気にならなくなって、妹から見た兄を意識するようにしている。

 永遠の別れを告げられてから彼女を探しに行ったキャンパスで、もしも、彼氏と寄り添い歩く彼女を見付けたら、僕はどんな行動をしていただろう? 彼氏とタイマンを張って、グーの音も出ないほどボコボコになっていれば、僕は別れに納得できていただろうか?

 能登へ会いに行った情報は、彼女から届いた暑中見舞いの葉書きを見ているお袋の、僕の帰りが夜半を過ぎた話と、ダックスのエンジンが不調だと文句を言う親父から察したに違いない。

 ちょっと過激な物言いの妹は、『彼女さんの、見極めをしちゃる!』と、彼女と同じ神奈川県相模原市の大学を受験すると宣言している。その宣言に志(こころざし)が感じられない。僕の彼女と、どう絡むのか分からないが、そんな事より、自分の為に大学へ進学して欲しいし、妹が望むなら修士課程や博士課程へ進むのを応援したい。

『マジで、おまえ、ブラコンとちゃうのぅ? 俺に恋してんのかぁ?』って真顔で見据えて訊いた。

『おっ、それを訊いて来るぅ? まあ、アニキは弓道の先輩で、憧れだし、嫌いじゃないよ。ティラミスよりサバランが好きって感じで、好きだけど、絶対に恋じゃないからね!』

『それに、彼氏候補の男友達なら、いるから心配しないで。七尾と羽咋と小松の弓道部の同じ歳の男子達。告白されんのよ。三人ともデートして、良い感じだと思ったわ。だけど、まだ誰にも返事してないの。うーん……、それでね。遠くに離れたままか、近くへ来て、四年後まで続いていたら、性格の相性と生活力が分かるでしょ。そん時に、恋に落ちてあげるって言ってるわ』と、不敵に言い返された。

 彼女とは、見た目も、性格も、全然違ってんのに、その偉そうな言葉にデジャビュなオーバーラップを意識してしまう。

(こいつも、大学で知り合った男子と、不意に恋に落ちて、あっさりと三人を無碍にするんだろうなぁ……)

 さて、彼女には姉がいるのを知っている。もしかして僕の勘違いで、その人は親戚で、年上の従兄弟かも知れないけれど、コモ湖で見ていた様子から、僕は母親と父親と姉の家族四人で来ていると思った。でも、兄弟姉妹が姉一人だけとは限らない。年長の姉か、兄もいて、たまたま冬のイタリアへ家族旅行に参加できなかっただけかもだ。

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 妹との遣り取りと一度だけ見た彼女の姉を思い出しながら、堤防際まで離れて待っていると、直ぐにブーツを履き替えた彼女が遣って来た。

「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」

(そうだな、僕も食べたいと思うよ。でも、今はダメなんだ! アイスはクーラーの方じゃなくて、フリーザーの方へ入れたから、直ぐには溶け出したりしない。だから、もっと美味しく食べれる場所まで待って下さいませ)

「ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」

 駐車場の堤防を越えて浜辺へ降りると、左側の砂浜を目的の場所へと歩き出す。其処は遠目に白い崖肌のように見え、柔らかい砂に足を縺(もつ)れさせながら近付いて行くと、粗(あら)い布地を被せたみたいな丸みを帯びた岩塊(がんかい)の襞(ひだ)が見分けられる。

 そして、間近で見上げる僅かにグリーンがかったベージュ色の岩塊は、奇妙(きみょう)な形の襞が横に連なっていて、まるで観光パンフの写真で見るトルコの景勝地(けいしょうち)で古代遺跡のカッパドキアのミニチュアをイメージさせた。

 小学四年生頃に親父に連れられて来た時は、凹凸(おうとつ)が無い丸みを帯びた岩肌に、小学生の小さな手で掴まる事が出来ず、転(ころ)げ落ちそうになりながらも斜面を這(は)い蹲(つくば)って登っていたが、上へ行くに連れて忍(しの)び返しのように斜面が反(そ)り返り、途中で僕は登るのを諦めていた。

 だけど、成人した体の今は、登り易すそうなルートを見付けて、彼女の手を引きながら頂上の松林まで登れている。彼女にブーツを履き替えて貰って正解だった。

「ここは初めて。広い砂浜がずっと続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生はハマナスでしょう。すごいねー、ずっと向こうまで群生(ぐんせい)してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀にこんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたよね」

 体を動かし続けていると火照って来て、疲労する肉体が酸素を求めて息が上がってしまう。そして、動きを停めて休ませた時に汗が噴き出して来る。だから今は、噴き出そうとしている汗を迎え撃つカウンター発汗のタイミングなのだ。

 火照って熱を帯びた体の汗ばみは、アイスの冷たさで冷却させよう。故(ゆえ)に『アイス イッツ ナウ』だと、アイスが入ったコンビニのレジ袋を彼女に渡(わた)す。

「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕もこの岩が不思議(ふしぎ)で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だよ」

 受け取ったレジ袋から緑色の地にオレンジ色の柄(がら)のパッケージのアイスを彼女は取り出して、僕の前に差し出した。

『ありがとう』、受け取ると直ぐに僕はパッケージを破って棒アイスを咥(くわ)え、身体の火照りを冷ます。

 アイスはパッケージカラーのイメージ通りの抹茶味(まっちゃあじ)。散りばめたミカンの粒(つぶ)っぽいのは、噛むとミカンじゃないオレンジの味が口いっぱいに広がった。抹茶味とオレンジ味のコラボネーションは美味しいけれど、ちょっと微妙(びみょう)。

 彼女のアイスは淡(あわ)いピンク色。香りからストベリー味だ。

(グリーンティにストロベリーか、ふぅ~ん)

 大きな岩塊の平らな天辺(てっぺん)に二人並んで座り、アイスを齧りながら懐かしい長者屋敷跡の風景を眺める。

 この亡霊(ぼうれい)が立つみたいに不定形に揺れているような白い岩肌を見ていると、宇宙が百三十七億光年の広がりが在るのに、地球の年齢が四十六億年よりも長いのじゃないかと思えて来る。現在よりも自転が速くて重力が小さかった数億年前まで、マントルは流動性が良くて対流も速く、何度も地球の表層の全てが潜り込んで浮き換わっていると思う。そして、その度に人類らしきのが現れて繁栄(はんえい)していたのかも知れない。

 こんな思い付きの夢想話を彼女としたいと思ったけれど、今は、時期早々で止める。

「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に金持ちの長者様が住んでたの?」

 岩塊を仰ぎ見ながら首を傾げる彼女が僕に訊く。

 僕も初めて其の名を聞いた時は、時代は平安末期から室町期を経て安土桃山期の何処かで、国内の水運と大陸との貿易で豪商になった商人が回廊を廻らせた寝殿造りの屋敷を構えて、朝、昼は商(あきな)いに専念して、毎夜、宴(うたげ)を催(もよお)していただろうと、そして、そんな豪壮な屋敷の朽(く)ち果てた残骸が化石のように残っていて、少しは規模と羽振(はぶ)りが想像できるだろうと、そう思った。

「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承じゃ、近くの大池に棲(す)んでいた大蛇みたいな龍が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮らしていたんだってさ。この岩も軽石(かるいし)疑灰岩(ぎょうかいがん)という、何億年も前に噴火した海底火山の火山灰の堆積層(たいせきそう)で、その成れの果てだって」

 火山灰でも、岩肌に多く含まれる軽石のような木片の化石から、火砕流(かさいりゅう)の灰の堆積だと思う。

 想像も出来ない大規模な火砕流が、何度も、何度も、噴火の度に渦巻いて、覆う灼熱の火山灰で凝灰岩の大地が形成されたのだ。

 弥生(やよい)土器らしきのが出土しているから、古くは神代(かみよ)の古墳期(こふんき)初期頃から人が住んでいたらしいが、長大な砂浜の海岸は舟や網(あみ)がないと漁(りょう)はできないし、古の剥き出しの凝灰岩と砂丘だけの海岸は乾燥して狩る獲物もいなかった。そして、砂丘の向こう側は山際まで得体の知れない危険な水棲(すいせい)爬虫類(はちゅうるい)が多く生息する大湿原で、とても集落が出来るのに適さない土地だっただろう。

「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっとみんなに慕(した)われていたんだよ。そう龍が娘なって寄り添うくらいにね」

 藩政期末に大湿原は幾つかの潟を残して乾燥し、大半が耕地になってからも海岸の砂丘地帯は明治期まで広大な砂漠状態だったそうだ。

 こんな不便な場に屋敷を構えるなんて、余程、豪儀(ごうぎ)な物好きで大金と人望が有った人物だと思う。

「かもね。この辺りは明治の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠みたいな砂丘だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」

 台風や真冬の波浪は岩塊の真際(まぎわ)まで打ち寄せて、その飛沫(しぶき)の塩の結晶と強風に飛ばされる砂粒は軟らかい凝灰岩を削り、長者屋敷跡は常に形状を変化させられている。

 牛首が屋敷を構えていた頃は、もっと渚に張り出して断崖のようになっていて、駐車場辺りの砂浜と岩塊際に作られた桟橋(さんばし)には多くの交易船が接岸し、現在の片野集落の地は貿易商人の湊町(みなとまち)として栄(さか)えていた事だろう。

「牛首長者が亡(な)くなってから、龍は大池に戻ったんだね。龍は大地の精を食べて水気を放つそうだから、今も水底深くに潜んでいるかも。で、その大池っていうのは、どこなの? 」

 日本史の始まりで一万年以上と曖昧(あいまい)に括られている縄文期は、酸素濃度が現在の大気の二十パーセントより少し高く、重力も僅かに弱くて、二、三度、繰り返した氷河期と温暖期に、凍り付く海は水位を下げて陸地を増大させ、融け切る氷河に上昇する海面は大海嘯(だいかいしょう)となって山峡(やまあい)の奥深い谷まで入り江や湾にしていた。

 そんな大海嘯の時期に沿岸まで獲物(えもの)を求めて棲み着いた、古代の巨大な水竜の末裔(まつえい)がいても可笑しくない。

「さっき通って来た片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬に熊手形(くまてがた)の網を投げて鴨を生け捕りにする猟(りょう)で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期の初め頃までは、もっと大きくて深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」

 牛首長者という伝承の人物は大和の民かも怪(あや)しく、たぶん、白色人種と黄色人種のハイブリッドだろうと僕は考えている。

 縦横無尽(じゅうおうむじん)に日本海を渡り、沿岸の主要な湊町や集落と交易する豪商であり、交易を拒む鎖国的な湊や商売敵(しょうばいがたき)の商船へは武力で略奪(りゃくだつ)して従わす海賊の頭領(とうりょう)でもあった。攻撃的な海賊行為は当然、商取引価値の有る物品以外にも、美女や可愛い子供も攫(さら)って来ていただろう。

「そうねぇ、きっと、娘になって龍が牛首長者の屋敷に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」

 片野の浜の北側の断崖(だんがい)が続く小高い岬には、高い櫓(やぐら)が組まれた砦を設営して外敵の襲来を警戒しつつも、桟橋から至る集落は生活する配下の輩達(やからたち)と家族や交易に訪れた商船の連中で賑(にぎ)わっていただろう。

 そして、鴨池の畔(ほとり)には攫って来た女子供達を囲(かこ)いながら養(やしな)って、部下への褒美(ほうび)にしたり、商いで売り捌(さば)いた。

 女子供を囲う其の場所は長者屋敷と人知れずに行き来できるように回廊で結ばれて、外来人が近寄らない為に『大池には恐ろしい水龍が棲まう』と、噂を流していたのかも知れない。

「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼らなくても迷わずに来れたしね」

 あの大桟橋へ向かっていた時、潮(しお)の香りが濃くなる方へと僕はV-MAXを走らせていた。タンデムする彼女から肩越しに『犬みたいね』って言われた事が嬉しく感じていたけれど、サイドミラーに映る君は眉間(みけん)に縦皺(たてじわ)を立てていて明(あき)らかに機嫌を損(そこ)ねていた。

(それ、褒(ほ)め言葉じゃないよね! 皮肉だよね! その時の君は、イライラしててさ、語気も投げ遣りだったしね!)

「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」

 そういえば、見た郷土資料の中に彼女の家が在る金沢市の町は、旧名が牛首だった。確か、藩政期に造られた辰巳(たつみ)用水の管理に集められた者達が住んでいた集落から、浅野川縁の耕作地へ下りる坂は今も牛首坂と呼ばれていたはずだ。

 牛首長者の屋敷跡らしき場所で、錦町(にしきまち)の旧集落名や牛首坂の名を思い出すなんてと思うけれど、因果や縁は全く無いだろう。

「今も一緒に仕事をして稼(かせ)げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」

 何だか親子で評価されるのは恥ずかしい。頷いた顔を横に傾げて少し上目遣いで僕は彼女を見る。

(親父ぃ、良かったじゃん、話が合いそうだぞ。親父と親しくなれるのなら、親父を手懐(てなず)けたお袋と気が合うかもだな)

「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」

(うっ! なにこの意味深なっていうより、ストレートな意味で僕の親に御挨拶したいわけ?)

 軽く『今のは嘘、冗談よ』って、ぞんなジョークを言うはずのない彼女の言葉に、僕は真意を探ってみる。

「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹もいっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」

 今度は、彼女が目を見開いて戸惑った。

(自分が言った意味に気付いていないのか、面白くて可愛い)

「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」

(あはっ! 慌ててるぅ)

 『はっ』と気付いた彼女の顔は、『しまったぁ!』じゃなくて、『そっかぁ、そうよねぇー』って感じで、その動揺から覚悟を決めた変化する表情が可愛い。

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 晩春の斜陽に大気が徐々につやを失い、青い海原と青空に白い雲と砂浜、そして、それらを背景した彼女の横顔が、まるで美しい日本画のように見せてくれる。その構成と色彩の緻密さに見惚れて掛ける言葉を失くし、筆遣いと色使いを見極めるように見詰め続ける僕へ彼女の瞳が動いた。

「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと答えてくれる?」

 唐突に彼女が僕を見て、『質問するから、しっかり答えろ』って言って来た。

「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから言ってみて」

 何を訊いて来るのか、全く予想ができないけれど、彼女が思う『変』に興味が湧いた。

「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」

 何か、嫌な感じの仮死状態を彼女は解説する。

(……確かに『変な事』だ)

 自分の身に起きたら悲観の極(きわ)みだろうけれど、とても生きていて欲しい人だったら、そうしても皆無に近い奇蹟を信じたいと僕は思う。

「外見には全く動かないの。たとえ、もし意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻も。耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。でも、検査や装置のデータでは脳死なの」

 どうも、彼女の言う仮死状態は、意識が残っていても、それを外見や検査結果では分らずに死亡していると判断されるって事らしい。

「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に死亡の認識じゃなかったっけ?」

(それなのに、生き続けているのは何故? 身体の全ての運動を司(つかさど)る脳は死んでも、心が仮死状態にしているのか?)

「ううん、ほぼ脳死状態。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が永久停止して腐り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」

(身体活動の波形モニターは一本の横筋のみ、どの数値もゼロばかり、脳の検査結果は停止の死亡判断。なのに、ほぼ脳死状態? 完全に死んでいない? 何それ?)

「それは、コーマっていう昏睡状態の事?」

 コーマと眠り続ける病気のナルコレプシーは違うのだろうか?

「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと半年以上も反応のない永続的な植物状態」

 五体と五臓六腑(ごぞうろっぷ)の肉体は弛緩(しかん)して様々な刺激に無反応、でも腐敗は始まらない。脳は機能停止直前の殆ど脳死状態の昏睡が続いている。

 確かに脳死状態と睡眠状態は違う。

 もし、そんな植物状態になっても五感が働いているとすれば、もはや精神の発狂を通り越して悟りに至るしか無いと思った。

(動けず意志を現せない身体では仕様が無い。……諦めの心頭滅却すれば、火葬の炙(あぶ)り焼きの熱も、土葬の窒息(ちっそく)の苦しさも、一瞬で、直ぐに暗闇になる……)

「自分が、そうなったとしたら……、あなたはどうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して期待し続けて貰いたい?」

 死の概念というか、死後の観念は、西洋と東洋とでは全然違っている。

 神託以前のユダヤ教から始まる西洋宗教の生と死は、唯一の神が生を生み出し、その生まれ出る生の数は無限だ。死後は天国と地獄に分けられ、天国も、地獄も、死後が無限に溜まって行く。

 僕は思う。天国と地獄は死後よりも、死に至る直前に在るのではないかと。

 気付きもしない瞬間の穏やかな死、苦しみの無い眠る様な死、などは天国で、痛みに苦しみながらの死、迫る恐怖に怯えながらの死、悲観に暮れながらの死、などは死ぬまでが地獄だろう。

 神の審判が有るとすれば死の直前に裁(さば)かれて、迎える死によって浄化されるのではないだろうか。

「その状態は、例えるなら棺桶くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」

 例えが良くなかった。閉塞恐怖症と思われそうだ。

「真っ暗で何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも意識が有るかも知れないんだ……」

 五感は死滅寸前かも知れないけれど、夢を見続けているみたいな。

「現在の医療機器では検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」

 もし、夢を見ているのなら、自我と意識は失われていないのだろう。

「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど本人は覚えていないでしょう」

(まだ、医学的に証明されていない脳の未知の夢を見せる新たな領域。いったい、どれだけリアルな夢の世界を見れるのだろう? ……実際と全く変わらないリアルな夢の中で死ぬと、現実のベットに横たわる肉体も完全に死ねるのだろうか?)

「検診で瞼を開いても瞳孔(どうこう)反射の虹彩(こうさい)収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても明暗がわかるくらいが精々。……固定焦点になっているかも? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも痛いのも感じていて、精神だけは生きて思考しているとしたら……」

 検査機器で検知できない脳の未知の領域での覚醒をしてる。それまでの人生で得た経験と知識での思考をして、脳が疲れて眠ると未知の領域がリアルな夢を見せる。誰にも気付かれない『生きている』を、アポトーシスで生命が活動を止めるまで、それを繰り返し続ける……。

(ううっ、きっついなあ! そっ、それは身体と精神が、すっげー苦しい拷問(ごうもん)だぁ!)

「たとえ、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて匂いも分っていても、僕はそれを君に伝えられない。瞼を開けられて愛しい君の顔や姿が見えても、それを君へ知らせる事はできない、……のだろうなあ……」

 君を認識する僕の五感に、自分の状態を自覚する僕の脳は思考をフル回転して、君とのコミュニケーションを模索するだろう。でも、どんなに足掻いても、僕は僕の内面から僕の状態を変化させれずに、一方的に君を観察するだけになる……。

「そんな状態で僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、そうなったら、やっぱり今でも、百歳になっても、そんな僕は死んでいるのと同じだ」

 そんな植物人間みたくなった僕を今日の彼女なら、きっと、献身(けんしん)的に介護してくれるだろう。でも、回復の見込みが無い不治な状態の僕を延命させてまで、彼女を煩(わずら)わせて縛(しば)ってはいけない。

「あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界のそこにあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」

 近未来、急速に進歩した医学と科学の技術が、破壊された脳でも完全脳死前なら自我と記憶を移転できるようにするかも知れない。それは、自我の発生の構造と記憶の保存の仕組みが解明されて、量子デジタル化された自我と記憶は遺伝子操作で健康体にしたクローン身体へ移せるようになる。

(SF的に電脳化っていうのだろうなぁ。安全・安価に確立されたら、お手軽に不治の病や異形が克服できて、メモリー崩壊(ほうかい)する精神の劣化まで寿命が延びてしまうかも。魂も、魄も、無いな……)

 だが、再生・復活には問題が有ると考えた。

 自我と記憶を量子デジタル化さると、オリジナル以外にコピーも作れるという事だ。当然、コピーも自律しているから自分だと主張するだろう。自分だと言い張る自分が複数いて全員が非協力的な関係になったら事態は深刻だ!

 それに、オリジナルを媒体のチップしてしまえば、人間以外の肉体や機械の身体へも宿れるだろうし、信号で転送も可能だろう。無限的な人類補完計画によって人類は、あっさりと精神共存世界のマナやイデのような高次元存在になって、君とか、僕とかの隔(へだ)たりも無くなるんだ。

 だけど、そんな未来ではない現在は、自分の身に起きた悲劇を受け止めるしかない。

「だけど、そんな状態の身体になっても、あなたは生きていたい? あなたはそれすら分らないでしょうけれど、私に奇蹟を求めて待ち続けていて欲しい?」

(君が僕を見舞う度に、僕の閉じている瞼を開けて、光の中の固定焦点に君を映してくれるなら、待ち続けて欲しいかも……)

 きっと僕は死体のように動かない身体の中で、奇蹟を起こす努力を懸命にしていると思う。

「延命処置を、続けて行くと?」

 考えたくないけれど、僕は君への延命処置は可能な限り、行ないたいと思う。

「生命力が有る限り元気で眠り続けるわ。でも延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いすれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)になって目覚めが無いまま、寿命が尽きてしまう……」

 延命には限界が有る。細胞の分裂再生の終焉(しゅうえん)、末期分裂した細胞の癌化(がんか)、投入されるエネルギーや新陳代謝(しんちんたいしゃ)の糧(かて)を取り込めなくなった臓器の不全と機能停止、そのどれもが死の闇へ僕をあっさりと送り込んでくれるだろう。

 また、本来の寿命以上に生き永(なが)らえさせると思う、低体温、極少呼吸、低血圧の冬眠的延命処置は断固拒否する。そんな冷凍保存みたいのは、蘇生(そせい)時も魄(ぱく)は宿り続けていると思うけれど、魂(こん)は戻って来るか分からない。

「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」

 道端(みちばた)や生垣(いけがき)の陰で人知れず腐って行く動物の屍(しかばね)から漂って来る、独特な甘ったるい香りの腐敗臭(ふはいしゅう)。ムッとする食えそうにない肉のような死臭とは違う、内蔵や筋肉や血管が熟(じゅく)して発酵(はっこう)する臭い。生きたままで発酵なんて有り得ないから、『既に、お亡くなりになってるのだろうな』と適当に想像する。

 そして、臭っていると思う僕の身体……、体臭を、『彼女は、どう感じているのだろう?』と考えてしまう。

「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」

 カビ臭いとか、排水口の臭いとか、そんな鼻が曲がりそうな臭いを想像してしまう。でも、そこそこの高齢な親父の両親やお袋の両親は、直ぐ傍に近付いていても、触れていても厭な臭いだと感じた事はなかった。

 どちらも夫婦二人だけで御郷の家に住んでいる。そして、どの部屋も芳香剤や消臭剤が置かれていないのに、少しも厭な臭いはしていなかぅた。強めの香水を付けていない彼らといっしょの食事や並んでの買い物も嫌だと思った事はない。

「そのブレンドは、ちょっと嗅ぎたくないな」

 祖父母達は、水分を多く摂って、よくトイレに行く。だから体内に汚れモノや腐りモノが溜まらなくて、嫌な腐敗臭が滲み出たり、沁み込んだりせず、臭わないのだと思う。

 他にも、御風呂は毎日だけど、気分で朝晩入る時が多いそうだ。それもシャワーじゃなくて湯船にどっぷりと浸(つ)かるだと言っていた。それに温泉へ行くのも大好きで、遊びに行く度に、みんなで秘境の露天風呂巡りをしてる。

 きっと、水分補給や排泄(はいせつ)・排尿、御風呂での皮膚や頭髪の洗浄、これらが不足したり、我慢(がまん)が長く続いたりすると、体臭が気持ちの悪い臭いになる。新陳代謝って新しい細胞に置き換わるのだけど、除かれる古い細胞は腐って行くって事だ。

「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」

 体や部屋の臭いといえば、『洗濯物の臭いに気を付けなさい』と、お袋と妹、それに一人の女性から注意と指導を受けていた。

 洗濯する衣服は、脱いだ日に必ず洗濯して溜めない事、洗濯が済んでも放置せずに直ぐに干す事、乾いたら直ぐに畳(たた)んでタンスやファンシーケースに仕舞う事と、重々(じゅうじゅう)言われていた。そうしないと服も、体も、部屋も、家も臭くなると、静岡市で一人暮らしを始めた時に実感した。よって、家の洗濯機はドラムタイプの洗濯乾燥機だ。

 臭いへの思い入れと、彼女が僕の臭いを嫌がっていないかとの拘りが、解り切った結末の質問をさせた。

「接続しているシステムをダウンすると、まず壁のパネルの表示光とベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示してアラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。そこで患者を監視しているからね」

(今、彼女が話している事は、実際に行なわれている、家族との同意処置なのだろうか? 装置のメカニズムからのマニュアル的、或(ある)いは参考事例の死に至る話なのだろうか?)

「機械の作動は直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで暫(しばら)く動いているんだ。患者さんは自律(じりつ)で呼吸していないから……」

 死は暗闇で、光は一切(いっさい)無し。人間の持つ三十三の感覚の全てが失われ、魄から離れた魂は無に由って開放される。そして、転生だ!

 東洋的宗教の死後概念は、具現化した魄の肉体が朽ち果てて塵と成り、魂は輪廻転生(りんねてんせい)で使い回しの再生をさせられる。

 空間、時間、物質、それらは無限という有限で、故に使い回される魂は有限だ。無限空間、無限時間、その現在過去未来の何処かに産まれる生物へ魂は転生し、地球上とは限らない。

 転生で宿る先は生物だが、人間とは限らない。人ではない何か、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も有りで、滅多(めった)に死なない神格も含まれる。

 あらゆる空間と時間に超常的に存在する魂は、全ての生物の生と死を司る。

(その意味は、僕と君の魂が同じだという事なんだ。親兄弟に友人知人、他の人達や草木や海と陸の全世界に存在する生物達と、同じ一つの魂なんだよ。たった一つの魂が、無限に使い回されているって真理なのだろうなぁ)

 現在が無限に広がり、その広がりが過去へも、未来へも、果てし無く連なっている。いや、現在、過去、未来などという時空的な観念は無く、ただ、ただ無限が広がっている。その無限の果てへ、果てへと広がる感覚は、イメージとして僕は理解出来ないし、彼女にも無理だと思う。

「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応はそれだけ。そして酸欠(さんけつ)で死ぬの」

 まだ延命中で生きているのに、途中で人為(じんい)的処理によって死なすのは、殺人だ。

「そうか…。やっぱり死んじゃうしかないのか……」

 僕は『殺す』を『死んじゃう』にして言葉を選ぶ。

 僕は思う。彼女に僕を殺す選択や決断をさせてはいけない。

「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」

(これは、もう遺言(ゆいごん)だ!)

 彼女の質問の前提は、僕が彼女よりも先に逝くって事だ。僕の最期を彼女が看取(みと)ってくれるのなら、それは怖くも、悲しくも、寂しくもない最高に幸せな事だと思う。ただ、僕の死で二人が別たれるのは残念だ……。

 もし、どうしても、君は僕の延命をしたいのならば、いつか君に死の暗闇が訪れる時、同時に僕の延命も止めて貰いたい。

(君がいなくなった世界で、延命され続けるのは、絶対に耐えられない!)

「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私もそんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」

(こっ、殺すってどうよ? 聞こえ悪過ぎじゃんか)

「そ、そうだったんだ……?」

 言いたくなかった『殺す』というフレーズに、僕は反応する。

 今は愛に満ちていて、お互いを疑りもしないけれど、いつか、もし僕が君を裏切って君の愛を踏み躙った時、僕は愛を無碍にされた君に殺されるだろうか?

 生きて行く限り、僕達は常に変化し続ける。

 何時しか、マンネリ化した日々で愛が薄れてしまうかも知れないし、移り気や誘いから第三者との関係が発生するかも知れない。そんな歪な行動や生活の清算や代償が『愛のコリーダ』に至ってしまわないように、僕は君の、君は僕の、変わる処と新たに見付けた部分も好きになる努力をすれば良い。

「君がそうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいとおもうよ。でもね、僕は君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて君に語り掛けるんだ」

 最初に語るのは君への告解(こっかい)だ。君を欺(あざむ)いた全ての事柄を話して、その時の僕の気持ちを打ち明け、懺悔(ざんげ)するんだ。それから、君と出会う前の僕と、出会ってからの言葉にしていなかった僕の君への想いを伝えよう。

「私が皺皺になって、萎びても?」

 此処まで話していて、僕は改めて知った。

(彼女は、真剣だ……)

「ああ、皺皺になって凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」

 恋愛感情なんて不確実な気持ちだと、僕は経験から分かっている。

 どんなに強い想いでいても、愛する想いが強くなれば、なるほど、相手の全てを独占したくなる。それは相手の負担とプレッシャーになり、微妙な避けと僅かなあしらいを受けてしまう。そして、ほんの些細な事に疑いを持ち、その疑りを口にすれば、途端に売り言葉に買い言葉に発展する。

 一旦は気持ちを戻せたとしても、相手への再三の疑りで修復は益々困難になってしまい、更に自分への疑りで、決裂破局は決定的になるのだ。

 愛が濃過ぎても、薄くても、結局は破綻(はたん)に至ってしまう。

(なら、駆け引き無く、互いに負担にならず、信用と信頼を失わない自然な恋愛を維持するには、どうすれば良いのだろう)

「それって、なんか、……微妙に、いいかな」

 ちょっとした疑りが罵り合いとなり、直ぐに、互いが暴力を振るってしまう。

 どちらかが折れて謝れば、気持ちが優しく慣れるかもしれない。だけど、心の何処かで負の感情が燻(くすぶ)り続ければ、悲惨な別れになる。

 僕は、生涯を連れ添う愛すべき相手、守るべき相手、尽くすべき相手、全てを受け入れる相手、それは一人だけにすべき相手だと、今は思う。

(でも、今の僕が、そうで、そう考えているからといって、この先も、そうだと限らない……。必ずとか、絶対とか、全く今と変わらず、互いを想い続けて命の潰(つい)える瞬間まで、愛憎(あいぞう)溢れる言葉と態度を交わせるのか、変わらないと保障できるのか、分からない……)

 僕達の将来に、互いを愛する想いを揺らぎさせる出来事や有ったり、出逢いが現れたりするのか、未来のifという不確定ファクターは、今この場で微塵にも、僕の言葉の端にも、態度の揺らぎにも、現すわけにはいかない。

「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」

 僕は彼女と幸せな終焉を語らいながらも、真逆の惨めで悲しい最悪の死のストーリーを想作してしまう。

 『もう、何ヶ月も彼女と口を利いていない。食事の仕度(したく)はされているが、いっしょに食べる事は無く、ダイニングやリビングにいても、顔を合わさず、口も利かず、互いに無視している。風呂の御湯も使い回す事は無く、入った後は流されたり、流したりしている。以前のような愛を感じる事は全く無くて、憎(にく)しみだけが募ってしまう』

 『寝室は別々。毎日の身支度(みじたく)は自分でしている。全額が会社から自動で銀行口座へ振り込まれている給料は勝手に使われていて残額も無く、何に使われているのか知らされなくなって久しい。既に互いの気持ちは完全に離れた家庭内別居の状態で、もう戻る事はないだろう』

 『今となっては、何が原因だったのか憶えていないが、互いが相手に問題が有ると考えている。もう、相手の存在自体が重荷で、枷(かせ)で、邪魔にしか思えなくて、この世からいなくなって欲しい』

 『……深夜、ベッドに寝ていると、部屋のドアが開く気配に目が開いた。ゆっくりと静かにドアが開いて、レースのカーテン越しに入る月明かりに女性のシルエットが見えた。こんな深夜に黙って部屋に入って来る女性は妻以外に考えられない』

 『妻だと思われる女性はベッドの真横に立ち、僕を見下ろしている。彼女が何かを呟きながら両手を頭上高くに振りかぶった。途切れ勝ちに聞こえた呟きは聞き取れなかったけれど、振り被った両手に握られた物は月明(つきあ)かりに反射して良く見えた』

 『全体が鈍く光り、真っ白に見える出刃包丁を逆刃して、彼女は両手で握り締めていた』

 『僕は解ってしまう。これが逃れる術の無い最悪のバッドエンドだと悟ってしまった。出刃包丁が振り下ろされる前に、瞬発的に身を躱(かわ)せば致命傷を負う事もなく逃れ得るだろうと思うけれど、全身が金縛りになったみたいに動かせない』

 『さっと振り被る両手が躊躇いもなく下ろされて、そのまま妻の身体が被さって来た。胃(い)の辺りが、カァーと凄く熱くなって両足がジンジンと痺(しび)れた。熱くなったのは出刃包丁が刺さったからで、足の痺れは妻が体重を掛けて押し込んだ刃が脊髄(せきずい)を損傷させた所為の最後の感覚だと思う』

 『被さる妻の頭が動いて僕に向けたけれど、月明かりの影で表情が見えず、黙ったままの彼女からは達成感と開放感が漂い、微塵にも後悔は感じられなくて、妻は笑っているのかも知れない』

 『もの凄く腹が熱い! 声が出せなくて耳も聞こえない! 出血が激しいのか、熱い腹以外の全身が冷たく感じて、手も、足も、首も動かせない! 次々と上がって来る吐瀉物(としゃぶつ)と血液が口と鼻から溢れて、喘ぐ息が絶え絶えになって行く! 見たいと願う妻の笑顔が黒いシルエットのままに、熱い涙が零れているのを感じる瞳の視界は周囲から暗くなって来た』

 『僕は、もう直ぐ、死ぬ!』

 『視界は真っ暗になって、直ぐに死へ至る薄れ行く意識の中で、僕は僕を殺す妻を許してしまう。それを妻へ伝えられないのが、現世への未練になってしまいそうだ』

(なあんてね。バッドエンドの中にも、魂の救いを求めちゃったよ。まあいいか、とか、しょうがない、とか諦めてね、僕を殺すまで追い詰めた妻へ謝るんだ。ごめんてさ。僕を殺すのを認めて許すのは、僕も許されたいからなんだよ)

 僕は彼女の見ながら、白昼夢(はくちゅうむ)のように思い描いた最悪のバッドエンドにならないように願った。

(そう言えば、相模原は出刃包丁で有名だとか、言っていたような……? やはり、彼女の武器は出刃包丁で決定だな。恐ろしや、恐ろしや)

「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」

 そんなに外見が変わるのを気にしているのか、念を押すかのように問いを繰り返す。

「何度でも言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに歳を取っても、見て呉れが変わっても、君は君だ!」

 僕は慎重に言葉を選び、どれほど齢を重ねようとも死が二人を別つまで、いや、別つても彼女を愛すると誓う。

「それは、……凄く嬉しいかな」

 想像したくなかった……。白いシーツの白いベットにマスクや管を付けて横たわる君。来る日も来る日もピクリとも動かない君の傍らで長い時間、、僕は君の思い出を物語のように優しく話す。再び君が僕を呼ぶ、その喜びの為に。……有り得ない、有って欲しくない未来だ!

「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は二度と御免だ。だから、必ず僕よりも長生きしてくれ!」

 世界中の何処へ行っても、もう君は何処にもいない。どれだけ長生きしても、もう君に会えない。それは、哀しくて、寂しくて、僕は耐え切れない。

「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと願っているの」

(いやいや、逆だ)

 僕は、君より先に逝かせて欲しいと思っている。

「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送ってもらう」

(ごめんね。はっきり言って、一人残されるのが怖いんだ)

 人生の終焉に君が傍に居てくれないのは、凄く怖いと思う。だから、君には元気でいて、僕よりも長生きして欲しい。

「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶えましょう」

(うん、是非とも、元気でいて下さい)

「だって、君がいないと寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」

 いつも君が幸せで笑っていて欲しい。僕のこれからの人生はその為に有るんだ。

「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」

(考えない。それは『もしも』で、考えたくない! 君は、僕がいない残された人生を、子供達と孫達に囲まれて、明るい穏やかな日々を過ごすんだ)

 君が産んで、僕達が育てる子供達なら、必ず、そうしてくれると思う。

「分かってる……。分かってるさ……」

 まだ、ちゃんと愛の告白をしていないのに、僕は君と添い遂げて家庭と家族を持ち、僕の望み通りに君よりも先に逝ってしまった後も、残された君が幸せでいて欲しいと願っている。

「あはっ、真剣(しんけん)に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃったけれど、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、迷っているんだ」

 『迷う……』、これまで既に決めた事しか話していない彼女が、まだ未確定な迷い事を僕に相談しようとしている。

 何事に彼女が悩んでいるのか分からないけれど、僕に出来る助言や行為が有れば、いや、無くても、模索して彼女の悩みを小さく、もしくは無くしてあげたい。

「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」

 僕は彼女に顔を向ける。

(そうだ。君は臨床(りんしょう)工学技師になりたいと、僕に言っていた)

 そして、その資格を得る為に相模原市の大学で学んでいる。

「ああ、憶えているよ」

 僕は彼女の眼を見て話す。時折(ときおり)、逸らしそうに揺れ動く彼女の瞳は、その都度(つど)、直ぐに強い光を宿して僕を見詰め返して来る。

「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。その実習の中に延命装置の取り扱いもあってね。それで、その機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況を見て来るの」

 彼女の話す内容から、学んでいる事が工業系のメカニックに似ていると思った。

(医療機器は機械メーカーが製作してるし、最先端の微細工作マシンと、高度医療機器の基本工学の技術は、殆ど共通で相互補完できるんだろうなあ)

「その病棟は深昏睡の患者さんばかりで、病室のみんなが酸素マスクと点滴(てんてき)の管(くだ)とせンサーのコードを付けて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取(せっしゅ)するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便(はいべん)、排尿(はいにょう)の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」

 SF映画はシンプルで多機能な医療機器と、殺風景なくらいのクリーンな病室のデザインで未来をイメージさせるけれど、ホラー映画は霊安室か、遺体保管室か、地下室のホルマリンのプールばかりだから、彼女の観たホラー映画のタイトルを知りたい。

 病棟シーンが多いホラーゲームだとしても、僕の知る限り、ナース達は異形(いぎょう)だし、病院全体がフルウェザリングの汚れ朽ち果て放題の状態で、何かが潜(ひそ)み棲む様子だから例(たと)えのサンプルには適さない。きっと彼女の勘違いだろう。

「透明なスクリーンに仕切られた真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾(そうしょく)も無い白色の病室で、明かりは天井と床の四周の隅からの間接照明。空調は天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄(しょうじょう)な空気が静かに吹き出して、床の四周に有る排気溝へ吸い込まれていくの」

(まるで、クリーンルームみたいだな)

 僕が働く自営の小さな工場も、親父は拘って耐塵、耐震のクリーンルームにしている。

 集中コントロールを行なう事務所件オフィスは、通常の天井埋め込みのエアコンディションと換気扇で吸排気しているが、エアシャワーの通路を通って入る加工現場は、高い天井全体から集塵フィルターを通した清浄な空気が噴(ふ)き下ろして床の網目模様から排気されていて、レベルは十分の一ミクロンの塵が一立方メートル内に千個以内でISO3のクラスだ。

 エリアや機台別に、煙探知機、熱探知機、スプリンクラー、自動泡沫(ほうまつ)消火(しょうか)装置が設置されて、異常発生の状況と状態映像は携帯電話へ送られて来る。

 ルーム内の明かり取りで高い位置に有る窓と、壁の上隅と下隅に設置されている換気扇は、遠隔操作で開閉と吸気排気の切り替えが可能だが、非常用で普段使いはしていない。工作機械などの搬入(はんにゅう)はガレージみたいなエアシャワールームで綺麗に掃除されてから入れている。

 クリーンルーム内の手作業は、クリーンベンチや定盤の上で行なう。工場内へはロッカールームで私服を静電気防止の作業フェアに着替えてから入り、オフィスと現場は作業フェアのまま行き来している。

 照明はLED灯でルーム全体が眩しいくらいになるけれど、通常は消されていて加工機のシグナル灯のみが光る真っ暗状態だ。もう少しすれば、この中に多腕(たわん)ロボットや人型ロボットが動き回る事になるだろう。

「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は、集約されてナースステーションで集中管理しているんだ。何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が実際に在るって思ってなかったから、ちょっと信じられなかったわ……」

 小規模ながらに徹底(てってい)したクリーンルーム化を自慢(じまん)する親父の説明を聞いてから、病院へ行く度に診察室の吸排気は徹底されているのか? とか、窓が開けられて外気が入って埃っぽくないか? とか、病棟は何故、手術室、集中治療室、滅菌室、以外を、せめて院内感染を防ぐレベルにクリーンルーム化を施(ほどこ)せないのか、と思っていた。

「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人個人に合わせた調整をして維持(いじ)させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子(ようす)を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態維持で、患者さんの反応が全く無いんだから」

(それって、終末(しゅうまつ)医療なんだろうなあ)

 積極的安楽死や消極的安楽死の処方(しょほう)を行なわずに、肉体の限界まで昏睡状態で生かし続けるなんて、本当の天寿(てんじゅ)を迎えさせているのかも知れない。

 それは延命治療をしない尊厳死(そんげんし)とは全く違う、終末期鎮静(ちんせい)の平穏死(へいおんし)の一つの方向なのだと考えた。

「もっとも、ほんの僅かでも覚醒(かくせい)の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」

 静岡市の会社に勤めていた時、後輩が交通事故で大怪我を負ったと知らされて救急車で運ばれた病院へ同僚達と行ったが、危篤状態の彼が集中治療室で辛うじて生かされている様子に、見舞いどころではなかった事を僕は思い出した。

「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もうトラウマになりそう」

 手の施しようが無かった状態の後輩は翌日未明(みめい)に亡くなってしまい、僕は御通夜(おつや)と葬儀(そうぎ)に参列した。

 潰された彼の体は死に装束(しょうぞく)と掛けられた布団(ふとん)で見えなくされていたが、抉(えぐ)られた側を下にして傷の少ない側を見えるようにした顔は化粧で、まるで生きて眠っているかのように見えた。

 僕が見た遺体は、今のところ、彼だけだった。

「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体の成長過程で命と魂が宿るのか、なあんてね」

 体験した所為なのか、小難(こむずか)しい事を考えているのは、拘りが多い彼女らしい。

 生物は魂と魄で生きていると僕は信じている。魄は肉体で、成長する器(うつわ)だ。寿命が有って、酷い損傷を受けたりしても、朽ち果ててしまう。魂は意識や記憶で、性格などの人格を形成して宿命(しゅくめい)の業(ごう)も支配する。魂が宿らないと魄の肉体は生きて行けない。

「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」

 僕よりも死が身近に有る環境で学ぶ彼女は、ほんの些細な拘りや疑いから鬱(うつ)に陥りそうだ。こうして僕に悩みを相談する事事態、その兆候(ちょうこう)かも知れない。

「あはははは。うん。その方向には行かないから大丈夫。安心していいよ」

 今の彼女は将来の光がか細く薄れ、アイデンティティーを見失いつつある。

 光り溢れる出口を見付けられない焦りから、不安障害や急性ストレス障害を患(わずら)ってしまい、カウンセラーも煩わしくなる重症になれば、容易(たやす)く楽になると誤解している間違った自由へ飛ぶかもだ!

 間違った自由へ行くのは簡単だが、決して安らかに行けはしない。ほんの数分間だが、それまでの人生で経験した事の無い、本当の苦しみを味わう。苦しさに耐えられなくて止めたいと思っても、既に手遅れだ。

 目張(めば)りした部屋で睡眠薬(すいみんやく)を飲んで練炭(れんたん)を燃(も)やす、激しい頭痛を伴(ともな)う一酸化中毒。

 洗剤を混合させて発生させる流化水素ガスは、鼻腔内と気管支(きかんし)と肺臓(はいぞう)を爛(ただ)れさせて、酷く咳(せ)き込みながらの苦痛の果てに呼吸を止める。

 夾竹桃(きょうちくとう)の枝を折って樹皮を剥(は)ぎ、青臭(あおくさ)い樹液をしっかり飲めば、心臓が鷲掴(わしづか)みにされて握り潰されるような痛みの心筋(しんきん)梗塞(こうそく)による血流停止。

 などなど、サドンデスではなく、自らが命を断つのは、どれも絶命(ぜつめい)するまで未知の苦しみと恐怖に耐え続けた挙句、楽に成れたと感じる事も無く、二度と光を見る事の無い暗黒(あんこく)へ連れ込まれて、戻っては来れない。

「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘(かんゆう)には絶対に係(かか)わらないように。信じて頼れる存在は此処にいるから。其処の処よろしく」

 間違った自由へ飛ぶような、あっけなく虚(むな)しい人生の末路(まつろ)へ向かわせない為にも、僕は真摯に彼女の言葉に聞き入る。

(君の言葉の影に潜む不安を、僕は銀河(ぎんが)の果てまで散らせて遣るんだ!)

「他にも、魂とは脳の思考(しこう)の根底なのとか、肉体の全機能停止の死が命と魂を無に帰さすとか、それは同時に帰すのでなくて別々でも無に帰れないのと、然(しか)も魂の抜(ぬ)け殻(がら)になった、まるで無機質な空(から)の入れ物を整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」

 キリスト教の戒(いまし)めに、口寄(くちよ)せや神降(かみお)ろしや死者語(ししゃかた)りをする魔女を摘発して拷問(ごうもん)の自白強要での処刑殺戮が有る。魔女を否定して絶滅(ぜつめつ)するのを神が授けた戒めとされるのなら、死の境界線の向こう側に彼岸の世界が在るのだろう。

 この悩みと苦しみに満ちた世界から人間が、さっさと逃げ出して彼岸へ飛ばさないようにする為に、輪廻(りんね)の世界を知られないようにする為に、強引な戒めを多く授けたのかも知れない。

(それとも……、その真逆かも……)

「その病棟を見てからは、それまでは大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと今年と来年の授業を受け続けるべきか迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ卒業できるんだけどね……」

 僕は彼女を癒(いや)すだけしかできない不確実な道標(みちしるべ)に過ぎないのか?

(ああっ! ……ならば、僕が信じる九萬坊(くまんぼう)黒壁山(くろかべやま)の怪異(かいい)よ。彼女の守護神であると思うトヤン高原の物(もの)の怪(け)よ。どうか、彼女が間違った自由へ飛ばないように導(みちび)いてくれー!)

「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」

(小学六年生の時から、僕は、強い意思を持ち、自由な思考をする君に憧れて、君に認めて貰える男になる努力をしていたんだ)

「けっこう、真剣に悩んでいるんだ。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に私の遣りたい事なのかも、分からなくなってきてるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも相談していないし……」

(君は僕が想っていたような、君じゃなかったのか?)

 最初に悩みを打ち明けてくれたのが僕で非常に嬉しいけれど、絶対に僕以上に君を心配している両親や姉さんにも相談して欲しい。

(君が許すなら、僕もいっしょに飛ぶから。決して一人で行方(ゆくえ)を晦(くら)ましたり、しないでくれ!)

「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」

 まだ一度だけなのに、こんなに悩んで引き摺っている延命病棟の実習か、見学か、どちらでもいいけれど、もう彼女に参加して欲しくない。

「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が最初で最後よ」

 もう無いと聞いて、少しだけ安心した。でもやはり、彼女は生理的というか、精神的に医療系の仕事には従事できないみたいだ。

「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は考え方の問題だけだ」

 僕にできるなら、彼女の今できる選択肢(せんたくし)を増やしてあげたいと思う。

「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」

(そんなに嫌なのか……)

 僕は覗き込むように彼女の顔を見てしまう。

 彼女の瞳は、ずっと僕を見詰め続けている。

「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない病院や医療機関に就職すればいいじゃん」

 僕は理解していた。

 彼女は就職の選択肢から医療系を外したいと望んでいる。

「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」

 彼女の気持ちが固まっているのを察しているのに、僕は敢えて彼女を追い詰めて行く。

「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングでプロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安はみんな同じで、いろいろ悩むさ。実社会へ出てからも、様々(さまざま)な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い早い、深い浅いの程度の差があるけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴(ともな)うプロ意識を持って、仕事に従事しているんだ」

 悩む思いは僕も同じだから、彼女に言う言葉は僕自身への言葉でもあった。

「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないから分からないけれけど、君は医療技師になって医療以外にも、工学を学んでいて機材や機器を扱(あつか)うのだから、切った縫(ぬ)ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……、言い方が良くないかな? 間違っていて気を悪くしたら謝るよ」

(そう、君は別に医療の仕事に就こうと、拘らなくてもいいんだ)

「いいの、気を悪くしないから、続けて」

 彼女が学んで得る医療の知識は、この先の人生に於いて『きっと役に立つ筈だ』とも、僕は思っていた。

「それに、在学中にいろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とかな。卒業時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか警察関係も有りじゃん」

 彼女が望むなら今の大学を中退(ちゅうたい)して、違う大学で新たな専攻に移るとか、専門学校で彼女のメンタルストレスにならない分野を学ぶとか、させたいし、その為の学費の援助も僕は用意できる。

「そうかな?」

 彼女の大学卒業が二、三年先になっても、僕達二人の大きな問題にはならないだろう。、

「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が自分で判断して決めるしかないんだ」

(僕は君の思いを尊重(そんちょう)して、応援(おうえん)するだけだよ。でも悩みは、ちゃんと相談してくれ)

「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる君の正解(せいかい)なんだ」

(君自身の選択肢は自由だけど、後ろ向きな思考なら応援しないし、断固反対する!)

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」

 すっかり傾いて赤みを帯びて来た太陽が、海風に吹かれて舞う髪から垣間見える耳を綺麗なピンクに染め、僕へ向けた顔は頬も、額も、艶っぽいピンク色で、唇は官能(かんのう)的な紅色(べにいろ)だ。風に晒(さら)す首筋や胸元もピンクに光り、赤い色で膨張(ぼうちょう)したみたいに強調される胸の膨(ふく)らみは、欲情的に彼女を愛しくさせた。

「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」

(……『かな?』じゃなくてぇ、両親や姉や僕以外に相談するなんて、有り得ないし……)

「OK、勿論(もちろん)さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」

 彼女の事だから、僕を雁字搦(がんじがら)めにしないだろう。

「うん、支えてちょうだいね」

(ああっ、勿論さ!)

 彼女の瞳を見てから、しっかりと僕は頷く。

「ところで、臓器(ぞうき)提供(ていきょう)はどうするの?」

(ええっ!? 話が飛んだぁ! 臓器提供?)

「ん、それはしてほしい。使える部分は全て提供してもらって。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。それは有りかな?」

 咄嗟(とっさ)に骸(むくろ)になってからの自分の臓器の提供について、いつも考えていた事が口から出てしまう。

「そうね、有りかも」

(そうさ、有りなんだよ。君と添い遂げるのは宿命を感じるけど、最悪のバッドエンドに運命は感じないぞ!)

 僕が置いてきぼりされる終末は、端(はな)っから想定してはいないけれど、もしも、仮(かり)に、そうなってしまったとしたら、僕は君の弔(とむら)いを、……僕の思い通りに、……僕のスキにさせてもらう。

「私も、そうしてくれるの?」

(君の真横、君の真正面に真後ろは、絶対に失いたくない僕の居場所(いばしょ)だ! そして、僕が愛する君は、絶対に壊(こわ)れて欲しくない女性だ! だから……)

「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは誰にも渡さない」

 言ってから、『しまったぁ!』と思った。意思を強める余り、愚かにも僕は彼女を部品呼ばわりだ。

「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」

 以外にも、僕が知っていた君なら入れるはずの『パーツ』へのツッコミは無くて、骸を未練がましく手許に置きたがる僕を、ケチだと言った。

(それって、ケチなのか? 違うんだ、ケチっぽく思えるほどなんだよ……)

「君の亡骸(なきがら)は、僕が手厚く葬(ほうむ)って弔うんだから、勿体無いじゃないか」

(……勿体無い…… って、言ってしまった……)

 それはメモリーだ。火葬にした君の小さな骨を僕はいつも持ち歩くんだ。

 最愛の相手の骨を齧る人がいるそうだけど、その気持ちを僕は解る気がする。試しに君の骨を嘗(な)めたり、齧ったりするかも知れないけれど、見て、触って、君と君を想った日々を思い出すんだ。

(でも、僕が先に逝くから、できないな)

「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか弔うまでも……、そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」

(そうだ! もしもの為に、沢山の動画を撮(と)って、君のホログラムを作ろう。姿、形を立体で、声のトーンと話し方も復元して、君の思考と性格はAIでなぞらすんだ。そして、君が生きていた時と同じように、君のホログラムと話し、笑って、泣くんだ……。最期も看取って貰えるかもだね)

 僕は立ち上がって、赤味(あかみ)を帯び始めた海原と砂浜を眺めてから空を見上げ、そして、顔を紅く染めて座る君を見て考える。

(取り敢えずは、君と僕を3Dスキャンして、ミニチュアのフィギュアでも作ろうか)

「さぁ、そろそろ行きましょう。冷(ひ)えて来たことだし」

 彼女の言葉に少し冷(つめ)たくなって来たかなって思っていた潮風(しおかぜ)が、本当に肌寒くなったと感じられた。でも、ハートは温かく、居心地が良い君の横で、ずっとこうしていたい気分だ。

「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」

 背後の松林に入ってサイクリングロードを通れば、歩き易くて靴も砂塗(すなまみ)れにならずに済むと思った。けれど、GPSの地図画面で確認しただけのサイクリングロードは少し遠回りになる気がして、僕は来た時と同じ、眼下の渚沿いを歩いて駐車場へ戻る事に決めた。

 彼女の手を握り、滑らないように慎重に長者屋敷跡の斜面を降りながら反省(はんせい)する。

(握り返す彼女の手は冷たい……。冷える彼女の身体に気付かずに、僕は此処に居続けたいと思っていた……)

「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」

 国際便も就航(しゅうこう)している小松空港のターミナルビルには、そりゃあ、渡航客が絶対的に多いセントレアや関西(かんさい)空港や羽田の空港施設とは比べ物にはならないが、地方空港として土産物売り場や飲食店はそこそこ充実している。そして、どの飲食店も僕が食べた料理は美味しかったと思う。

「そうだな。温かい麺類(めんるい)ってのは、どうだろう? 僕はカレー饂飩(うどん)にするよ」

 今の彼女はトレンディさやファッション的なコーディネートに拘っていないみたいだけれど、同じ轍(てつ)と地雷を踏まないように、以前に彼女がオーダーした『カレー饂飩』を言ってみた。

 彼女の反応次第では、『カツ丼』で呪詛(じゅそ)って遣りたい。

「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦(おそば)にするわ」

 さらっとリベンジ返しをされた。ノリで『カツ丼にする』って言ってくれれば、楽しいと思ったのに。『麺類に』と言ってしまった自分の残念さに、彼女の手を握る掌が汗ばんでしまう。

(ちょっと赤面してるかもだな)

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 柴山潟から日本海へ注ぐ新堀川(しんぼりがわ)の汐見(しおみ)橋を渡り、僕はSUV車を小松空港への最終アプローチの直線道路へと走らせる。行き交う自動車は少なくて、この調子だと、ハードなトラブルがない限り、ターミナルの搭乗カウンターには充分に余裕を持って着ける。

 そう予測した時に、彼女が何か閃(ひらめ)いたように言った。

「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」

 『ついさっきまで、長者屋敷跡の浜にいたじゃん!』って思ったけれど、僕は口には出さない。

「時間は、まだ余裕。ん? 海岸って、浜辺へ?」

 気紛(きまぐ)れか、思い付きか、僕には察せないが、彼女なりの理由(わけ)が有るのだろう。

 『君は、身体を冷たくしていたのに』と見る彼女の顔は、ほんのりと朱(しゅ)が差して上気しているように思えた。

 彼女の希望通り、ウインカーを点滅(てんめつ)させてからブレーキペダルを踏み、充分に減速させつつ、SUV車を海岸方向へと左折(させつ)させて行く。

「そうよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」

(正夢って……、夢に見た事が、現実になったという、その正夢?)

「外へ出ましょう」

 ドアを開けて、さっさと斜陽を浴びて薄く赤味を帯びた外へ出て行く彼女を追い駆けて僕も降り、赤味が濃(こ)くなった西の空と海に向ける彼女の視線の先を探りながら、僕は横に並ぶ。

(何の遮りも無い水平線まで広がる海原と、其の向こうのくすんだ赤色の空の中に、君は何を見い出しているのだろう?)

 顔を僕へ向けて真顔の彼女が上目遣(うわめづか)いで、じぃーと僕をみる。

 何かが始まりそうな気配に、心の内の動揺や構えも感じさせないように、意識して優しく微笑んでみた。すると彼女は半歩下がりながら身体の向きも僕へ向けてから、両の掌を僕の胸に着けて爪先立ちで寄り掛かって来た。

 触れるばかりに間近になった彼女の顔の真剣な眼差しが僕の微笑む瞳をマジマジと見ると、彼女は唇を薄く開く動きに合わせて両の瞼をゆっくりと閉じる。

(こっ、これって、……やはり。……キスを、求めているんだよな……)

 胸がキュンキュンと締め付けられるくらい、彼女が愛しい。

 閉じた瞼の睫毛(まつげ)がヒクヒクと震えている。眉間に浅い縦皺が入ったり、消えたり繰り返す。

 そっと唇を触れさせて、彼女の閉じた唇を優しく開かせて、ゆっくり舌先を入れて行き、彼女の舌と絡ませて行くと彼女も絡み返して来る。

 舌の絡みを返す度に、肩を上下させるくらいに彼女の息が喘ぎ、僕の吐息は震えた。

 ザラっとする舌先に、ヌメっとする舌の裏、スルリと滑るように口の中の天井に触れてくれるのが、くすぐったくて気持ち好い。

 上気する気持ちで感じる息苦しさに、彼女と僕はスッと唇を離すと、二人揃って仰け反るように静かに長く息を吸い込んでから、同じように静かに長く息を吐き出しながら互い顔を近付ける。

「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」

 唇が離れて深く息を吸い込んで吐いて、また吸い込むと、彼女は『こうしたい』と言いながら身体を僕の腕に密着させて来る。

(おおおおーっ! そう来るですかぁ? マジで勘違いヤローになっていいですかあ?)

 手を繋ぐどころか、彼女は腕を絡ませる僕の手の二の腕を、たわわにとは言えない自分の胸の膨らみに密着させる。その柔らかで確かな弾力を感じてくれる彼女の大胆さに僕は欲情しそうだ。

(こっ、これは誘っているのか? 腕に縋(すが)って来てるぞぉ! エッチに挑戦してもいいのか? ……いやいや、まてまて、ちょっと違うだろう。彼女は僕と腕を組んで歩きたいだけだろう)

 今日、もしも出逢えたとしたらと、僕が予想した彼女は、あっさりと僕を他人行儀な態度の冷徹な挨拶であしらう、擦れ違うだけの僕以外の男性で満ち足りた女性だったはず……。なのに、彼女へ持ち続けたイメージを根底から覆した彼女の言葉と態度は、どれも嬉しくて楽しい。

 きっと今の僕の顔は凄く驚いてニタニタと笑っている。そんな僕の表情を見ている彼女が視界の隅にいるけれど、『ただのスケベかも』と思われているかも知れなくて、僕は、顔も、視線も、恥ずかしくて彼女へ向けれない。

 唇を離した彼女が望みを言う。

(僕が成りたいモノは、君が望む全てだ! 僕の生涯で叶えれる限り、君の望みを叶える!)

「うふっ、あそこも、こんな感じで歩きたいわね」

 僕は、これまで彼女が歩いた全ての道を彼女と歩いて、彼女が行った全ての場所を彼女と行きたいと考えている。

「あそこ? それって、どこ?」

 『鯨の背』と呼ばれる横浜港大桟橋に相模原市の桜並木、それに立戸の浜でキリコを担いで欲しいと言った。

(他に彼女が、僕と歩きたい場所は、何処だろう?)

「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔とスペイン広場ね」

 君の声で聞く『コモ湖』に、僕の記憶が鮮明に蘇(よみがえ)る。

 まるでラブロマンスの映画やドラマのワンシーンのように、真冬の遥(はる)か遠くの場所で、思いがけない君との出逢いに、僕は駆け寄って息が詰まるくらい君を強く抱き締め、歓喜(かんき)の涙を流しながら感動のキスをする。なんて想うほど、デスティニーを感じてしまった。

 君を写(うつ)そうと覗く一眼レフカメラのファインダーに測距する赤外線の光が、コモ湖の水面から漂う薄い靄(もや)に映り込み、それは君と結ぶ千切(ちぎ)れ、千切れの赤い糸のように見えた。

 その希薄な運命の赤い糸は、地中海からの一陣の季節外れで生暖(なまあたた)かいシロッコに吹き払われてしまったけれど、靄が散らされて澄み切った大気の中で鮮明になった君を、僕は夢中でシャッターを切って撮っていた。

「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私からあなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたかなぁーって。なんかぁ、遠出すると気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから尚更(なおさら)だったのよ。何気(なにげ)に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも良かったしね」

 中学生では、儚(はかな)げな掠(かす)れ掠れの淡い赤色の希薄な細い糸に見えていただけだった。

 高校生になってからは、少しづつ色が鮮明になって行く気がしていたけれど、相変わらず糸は途切れ途切れに感じていた。

 社会人になって、『途切れずに繋がって見えるようになるはずだ』と思っていた運命の赤い糸は、僕の不甲斐さから消滅(しょうめつ)してしまった。

 既に彼女への想いは完全に断ち切り、赤い糸など何処にも感じなくなっていた。それなのに、今日は春風の中に彼女の匂いを見ていた。

「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にびっくりして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」

 びっくりして戸惑ったのは、僕も同じだった。

 運命を感じた偶然の出逢いに、直ぐ駆け寄って抱き締めながらキスをした後は、君の手を握ってクルクルと喜びのダンスを舞いたかった。でも、そうしなかったのは君に拒絶されるのが怖かったからだ。十二時間以上も窮屈(きゅうくつ)なエコノミークラスのシートに座って飛んで来た挙句、君に無碍(むげ)にされるのは耐えられないと考えたからだ。

 だけど、勇気を出して積極的に閃いた行動を実践(じっせん)していれば、『私達、付き合ってるの』みたいな、もっと全然違う其の後になっていたかも知れない。

(……いや、彼女は僕のように単純じゃない!)

 彼女が話さないので理解できないが、今日のように涙を流して僕を求めるくらいの心境の変化がないと、きっと、希薄な赤い糸に戻す運命の正(ただ)しが為されていたと思う。

「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって旅行の初日(しょにち)だったんだから、意識しないわけないじゃん! ……でもね、日本に帰ったら直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」

(それは、お互い様だよ……)

 あの頃の躊躇いの日々を思い出している僕は、顔を伏せながら『もしも』を言ってみる。

「もっとメールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」

 それを出来る積極性と光明力(こうみょうちから)を僕が備えていたら、其の後は、幸いにも、不幸にも、全然違っていて、こんなにも離れ離れになっていた運命が交差する今日の出遇いは無くて、二人の想いが修復されなる事も、想い詰めた愛が見直されてリセットされる事も、無かっただろう。

 どれほど『もしも』を過去に求めても、それを実現できるはずがないのは分かっていた。

「まさか、またスペイン広場で会っていたなんて、思いもしなかったわ」

 中学二年生の終業式の日に僕が贈(おく)った、街並みをレリーフしたメッセージスタンドの事を言っている。彼女の机の中に忍(しの)ばせておいたのを受け取ってくれていた。

「あのね、予感はしてたんだ」

 短い言葉の意味から、彼女は話題を変えていると思った。

(その意味の落とし処は、何処なんだ?)

「……予感?」

(予感なのか? 予想じゃなくて?)

「そう、きっといつか、私はあなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」

 『それで、未来日記のように、その通りになったわ』みたいな明るい笑顔を僕に向ける。

「あっ、その笑顔はいただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいです」

(ああっ! 本当に好(い)い笑顔を見せてくれる!)

 嬉しくて、可笑しくて、楽しくて、彼女の心が全開に開放された笑い顔だ! そして、全身全霊で尽くし甲斐の有る、僕の魂魄が癒される笑顔だ!

「紅く染まってって、それ、酔(よ)っ払(ぱら)いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」

(紅らむ顔で、酔っ払いと来たか……。どれくらい飲むと、彼女は自制が利かなくなるのだろう? 寝る? 笑う? しゃべる? 煩い? 黙る? 怒る? 殴る? 蹴る?)

 『いっしょに楽しく飲めれば良いな』と、写真に撮りたい笑顔とは全然違う事を、僕は連想してしまう。

「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。マジで今日を連想する笑顔だよ」

 僕の二日酔いの経験は今のところ、静岡市のアパートに居た時だけだ。会社の付き合いで飲み会へ行き、無謀(むぼう)な深酒にゲロって寝てしまう。

 道端の植え込みや下水のグレーチングの上に蹲(うずくま)って戻しながら寝てしまい、大抵は放って行かれて朝までそのままだった。でも、目が覚めたらアパートのトイレの床に転がされていた事も有った。起きて酒気が消えるとコンクリートに何度も倒れ込むような激しく痛む頭痛に次の日の朝まで身悶(みもだ)えして苦しんだ。

 部屋に帰って普通に寝て起きた時でも、何処をどうやって帰って来たのか、全然憶えていない事も何度か、有った。

 酔うとよくしゃべって笑ってばかりいた。後日、僕を送ったり、介抱(かいほう)してくれた同僚や上司に訊いたところ、決して暴力を振るったり、不機嫌になったり、不愉快な思いをされたりはしていないらしい。

「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」

 凄くほっとする言葉を彼女は言ってくれた。

 西に傾きを大きくしていく太陽に向かって、甲高(かんだか)く遠吠(とおぼ)えしたいくらい僕は嬉しい。

 この時間を止めて少し戻して、何度もこの時間を繰り返したい。

 素敵に笑う君の声と言葉を、何度も、何度も、聞く度に、僕は心地好い感動と凄く嬉しい気持ちにさせられ続けたいんだ。

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(長者屋敷跡で人生の終末をテーマにした切実(せつじつ)な問いは、すっごく遠回しな彼女なりのプロポーズだったのではなかっただろうか?)

 と、僕は疑るように考えてしまう。

 空港ターミナル二階の蕎麦屋で言った通りに蕎麦とカレー饂飩の晩飯(ばんめし)を済ませ、売店で幾(いく)つかの土産を買ってから彼女はセキュリティーゲートへ向かう。セキュリティーゲート近くの柱の陰で、前を歩く彼女が突然持っていた荷物を床に置き、僕に振り向いた。そして両手をゆっくりと僕の首に回して引き寄せ、背伸びをしながらキスをした。

 目を瞑って深く濃厚に唇を合わせる彼女が、猛烈(もうれつ)に愛しい。

「うっ、いっ、痛いよ」

 自信が無かった。もう間も無く彼女と別れる時間がやってくる。夢のような今日を、『夢じゃないんだ』と気持ちが舞い上がっていても思えば思うほど、彼女を抱き寄せる僕の腕は、彼女を強く抱き締めていた。

『逃げないで』の強い気持ちは、『逃がさない』の憤(いきどお)りに変わり、僕の自信の無さを打ち払おうとする思いは、いつしか彼女を締め潰しそうになっていた。

「あっ、ごっ、ごめん」

 僕は体が浮いてくるような高揚した気分と離れたくない気持ちで、以前の独り善がりな自分に戻りそうになっている自分に気が付いた。

 後悔に不安が混ざる切実な思いが過ぎり、急いで僕は謝った。

(また彼女を探し続ける日々は、もう嫌だ!)

「ううん。でも嬉しい」

 小さいけれど明るい声で優しく言って、彼女は僕の想いを受け止めてくれる。腕から彼女を抱き締めた感触が消えてしまわないように、僕はそっと彼女を放す。

     *

 小松空港のセキュリティーゲートで彼女を見送ってから駐車場の自動車へ戻った。

 僕の身体は、ずっと小刻みに震え、なんだか浮いて漂っているような気分がしている。足裏に接するアスファルトの路面の感じが薄い。夢見の良い起きがけのようだ。

 滑走路から聞こえだしたジェットエンジンの轟音に、僕はSUV車の傍(かたわ)らで立ち止まり、晴れ渡る夜空を見上げた。轟音はエンジンを噴かして滑走路をテイクオフして行く機体で、小松空港発の羽田行き最終便だ。あれに彼女が搭乗している。

 ずっと向こうの暗がりを、昇(のぼ)るジェットの青白い小さな輝(かがや)きと翼端灯の緑と赤の点滅が、星空への階段を一歩一歩踏み締めて登る足跡(あしあと)のような光の筋を付けて行く。上昇を続けながら西にバンクした小さな光達は、まだ水平線上が僅かに紅い日本海上を大きく旋回してから、やがて掠れるように小さな瞬く光の粒となり、東の黒々とした白山(はくざん)山脈(さんみゃく)の彼方へと飛び去った。

     *

「部屋に着いたら連絡するね」

 セキュリティーゲートへ進みながら僕に振り向いて、そう言った明るい顔の彼女へ笑顔で僕は頷いた。

「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」

 僕の仕様も無い冗談に、クスッと彼女は笑ってセキュリティーゲートへ向かう。

(向こうに着いたら、本当に彼女は連絡をくれるのだろうか?)

 二、三歩進んで、また彼女は振り向いた。

「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも相談できて良かった」

(今日の彼女は、優しい……)

 いや、違う。そうじゃない! 感謝するのは僕の方だ。

「礼を言うのは僕の方だ。僕こそ君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて最高に嬉しいよ。迷いの相談も。僕の方こそ凄っごく感謝してる」

 にこやかに彼女は頭を振り、やがて笑いを消した顔で言いける。

「そして……」

 そこで彼女は言葉を切り、顔を背け視線を落として黙ってしまった。

(そして……? 彼女は何を言い掛けたのだろう? 躊躇うほど、言い難いことなのか?)

 彼女の様子から。言い掛けた言葉を、口にして良いものかどうか迷っているように見えた。やがて……、僕には長く感じられたけれど、ほんの数秒の沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げてから振り向き、僕を見た。

(微笑みの無い真剣な顔……! どうするつもりだ?)

「……そして、私を、ずっと彼女にする覚悟は有るの?」

 躊躇っていた言葉を言い終えた彼女は見る見る紅くなりながらも、パッと明るい笑顔になって僕を見た。

「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」

 予想もしていなかった彼女の問い掛けに、一瞬、意味が解からず、即答(そくとう)すべきなのに瞬きほどの間が空いてしまった。

「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。その時までに良く考えてね。ふふっ」

 そう、彼女は僕の回答を遮るように言うと、クルッと背を向けて足早にセキュリティーゲートを抜ける。

(なっ、なんだぁ? 今のはフェイクなのか?)

 フェイクでも返事は決まっている。勿論、当然、覚悟は有る!

(う~ん、どれも当たり前過ぎてつまらん。捻(ひね)りとオリジナル性がいるかも? 静岡のあの人に言うはずだった言葉にするか……。でも、それも使いまわしみたいで……、どうよって感じだな)

 僕は、まだ今日の日を御浚(おさら)いできていなくて、どんなに言い寄っても拒絶を繰り返すだけだった彼女が、これから僕の恋人になるなんで信じられない。彼女が僕の視界から消えるのと同時に、今の超ベリーハッピーな時間も想いも全て消え入りそうな気がして、嘘(うそ)であって欲しくないと心から願っていた。

 彼女の手荷持つはX線サーチをパスして行く。彼女が通るメタルデテクターもノーアラームだ。セキュリティーゲートを通過した彼女は、またまた顔を振り向かせ、今度は大きく手を振りながら搭乗口へ続く通路へと急ぎ足で角を曲がった。

 彼女が角を曲がり見えなくなると、全てが熱気で潤む靄の中のようで嘘臭く思えてきた。大きく手を振り笑顔で搭乗口へ消えて行った彼女……。繰り返して来た春の想いが見せた幻(まぼろし)のような気がする。

 昼に彼女と出逢ってから、ずっと足裏の感覚が薄い。どこにいても、どこを歩いてもシャギーの長い毛脚の上にいるようで、しっかりと足が地に着いていなくて、しょっちゅうバランスを崩してよろけそうになってばかりいた。

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 晴れ渡った夜空の彼方、目を逸らすと再び見付けられそうにない微かに瞬く光りの粒を、僕は見詰め続けた。消え失せそうな昨日までの大切な想いと、今日の幻覚を見たような実感の無さに、白昼夢に魅せられたみたいな感覚が、混じり合った信じ切れない現実が、明日からの紡(つむ)ぎ始める夢と希望といっしょに全て失ってしまいそうで、僕の眼はずっと消えゆきそうな飛行機の灯りを追い掛けていた。

(彼女は本当に、あの瞬きに搭乗しているのだろうか?)

 僕はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏の暗い模様の中に見失いそうだった小さな光の残りだけが浮び上がる。それは近づいて行く彼女の顔になり、遠ざかる彼女の笑顔に変わっていく。瞼を開くと彼方の暗黒の中、微かな光りは既に消え失せて何処に有るのかわからない。僕は一体何を追い掛けて見詰め続けていたのだろう? 僕が見ていた光りは無くなってしまった。

 とうとう彼女は、僕が送り付けた最低で最悪なメールに触れないまま行ってしまった。

(電源を落としていても、メールは届くはずなのに……)

 きっと彼女は、届いた僕のメールをウザイとか、キモイとか、しつこいなどと思って読まずに削除(さくじょ)してくれたのかも知れない。本当にそうであって欲しいと僕は切に願う。

 この先、二人がどれほど危機(きき)的な事態が起きて、破滅的な状況に陥っても、どんなに腹が立って怒り心頭になっても、僕は決して同じ過ちを繰り返さないと、光りが去った向こう、漆黒(しっこく)の山並みを見詰めて誓う。

 そんなプレッシャーを差し引いても、気持ちの高揚(こうよう)で浮ついて曖昧になりかけている今日の出来事を、確実に思い出せる記憶が欲しい。僕は今日の日を実感できるシチュエーションの反芻をしたかった。

(さあーて、これからどうする? 何処かで一人物思いに耽(ふけ)ろうか? それとも家に帰るか? ダチと祝杯を交わして舞い上がるのは、まだ…… だな……)

 SUV車に乗り込もうと僕は運転席のドアの取手を掴(つか)む。ドアノブに手を掛けて一つ一つ記憶を遡り、バラ色の人生のスタートになるかも知れない今日を思い出そうとする。でも冷静でなかった僕は場所や出来事を憶えていても、前後の経緯(いきさつ)や会話や細部などが曖昧ではっきり順序立てて思い出せない。今日の彼女に出逢える前までの僕の気持ちと、彼女に出逢えたらどうしたかったのかまで飛んでいた。

 セキュリティーゲートを通り搭乗口へ向かう今日の彼女は終始冷静さを感じさせた。

(彼女は今日の日を、全て憶えているのだろうか?)

 夢見の後のような空虚な気分でドアを開けた。手前に開いたドアから車内の冷えて淀んだ空気が、大気に吸い出される風となって擽(くすぐ)るように顔を撫(な)でて行く。その時、桜の匂いが香った。懐かしさを覚えさせて僕を奮(ふる)い立たせてきた愛おしい大好きな匂いだ。

(彼女の香りだ!)

 これほど強烈に実感させて確実に記憶を呼び起こすものはなかった。急に僕は猛烈に嬉しくなって、

「ハハッ!」

 今日の出遭いの嬉しさが溢れて、笑い声が出てしまう。

「アハハッ!」

 今日の、彼女に出遭うまでの自分を笑った。

(嬉しい! 本当に嬉しい!)

 もう湧き上がる嬉しさでいっぱいだ。

(出逢える予感は確かにしていたけれど、こんなに嬉しい日になるとは全く思ってもみなかった。)

 これまでの想いと今日の思い掛け無い予想以上の結果に、これからの人生への期待が重なり幸せで満たされた。

「アッハハハッ。ヒャッホー!」

 嬉しくて、楽しくて、幸せで僕は大声で笑って叫ぶ。いつか必ずと想いを寄せ続けていたけれど、もう脈も縁も無くなってダメだろうと諦めたのに……。

 こんな気持ちの良い晴れやかな時が、突然に訪れるとは思っていなかった。

 僕はハッピーエンドを想像して、未来がバラ色になるとばかりに思い込んでしまう。もう幸せの絶頂だ。今日の日の幻は遥か彼方へ逃げ去ってはいない。なのに、大笑いしながらも今までの矛盾(むじゅん)する想いや事柄が僕を惑(まど)わせ、舞い上がった気持ちを一瞬で引き戻す。多くの躊躇いや逆転を経験した僕は、今日の幸せも疑惑と不安で信じ切れなくなった。

(舞い上がっているんじゃない! 僕自身は何もしていないじゃないか!)

 泣きじゃくる彼女の言葉に受け応えしただけだ。ランチは彼女に促されて終始(しゅうし)リードされっぱなしだった。そして、

(未来予想は、全て彼女の提案だった!)

 僕はこの時、初めて今日の出来事を実感できた。……フェイクでないという保証や確信は何処にもなかった。でも僕は……、彼女の態度と言葉に期待したい。

(きっと! きっと、大丈夫だ。今夜の電話が前向きに明るく話せて楽しく弾んで終われば、この先僕らは、ずっと大丈夫だろう)

 彼女に白状しなければならない事があった。僕は高校一年の時に彼女に嘘をついている。

『私にキスした?』と彼女からメールで問われても、『してない』と僕は嘘の返信をしていた。

 夕方のバスの中で寝ている彼女の後ろ姿が、どこか寂しげで、拗(す)ねているようにも、不貞腐(ふてくさ)れているようにも見えて、とてもいじらしく感じた。我慢ができなくて静かに覗き見た彼女の目を瞑る横顔は、凄く愛らしくて僕は堪(たま)らずに、彼女が起きないようにそっと唇にキスをした。

 あれが僕のファーストキスだった。そして、それは彼女のファーストキスでもあったのかも知れない。そうだとしたら、僕は彼女のファーストキスを無断で奪った激しく許(ゆる)されない卑劣な奴だと、何度でも後悔と反省に苛(さいな)まれてしまう。

 携帯電話の待ち受け画面にした今日の彼女の笑顔を見ながら、いつか必ず謝るべきだと考えていた。

 正直に話して真摯に謝罪する僕の言葉を聞いて、彼女は電話の向こうで分かり易く表情を変化させながら、軽蔑した呪いの言葉を、僕に浴びせ返して来るだろうか?

 それとも、一生僕を服従(ふくじゅう)させる意味深(いみしん)な、『初めてのキスが、あなたで良かった』と、言ってくれるだろうか?

 そのどちらでも僕は彼女を信じて、自分自身も信じるなら三時間後の電話は、絶対、同じ想いを描いて話せるはずだ。

 エンジンを掛けると、息吹く車の小刻みで静かな振動が足裏に伝わって来た。

(大好きな、嬉しそうに優しく笑う彼女の笑顔を……、僕は見ていたい)

 チェンジレバーをドライブレンジにシフトさせて、滑らかに車をスタートさせて行く。

(この先も、ずっと見続けれるだろうか? 彼女は見続けさせてくれるだろうか?)

 ルート8を越えて、加賀産業道路を抜け、山側環状に入ると更に加速させて家路を急ぐ。後、トンネルを二つ抜けて橋も二つ渡ると家は直ぐ近くだ。

 探し求め、待ち望んだ確証は、更なる疑問と不安を抱かせ、新たな確証を求めさせた。求めた確証からもっと、もっと、彼女を好きになるように。もっと、彼女が僕を好きになってくれるように。僕は努力し続ける。

 麗らかな暖かい陽射しのような彼女の笑顔を、見続けたい故に!

 満開の桜の匂いのような彼女の匂いを、感じ続ける為に!

     *

 掌の携帯電話が震えて着信音を奏で、今し方、以前の電話番号を消去して設定し直したばかりの彼女の新しい電話番号を画面に輝かせた。

(おおっ! 彼女から電話が来たあ!)

 着信音は何度も聞いていたメールのメロディではなく、たぶん初めて聞く、彼女からの電話の着信に設定したメロディだった。バイブレーションの振動に僕の手の震えが加わり、受話キーへ触れた途端に跳ねた携帯電話が床に落ちた。

 慌ててそれを掴んで持ち直すと、僕の安堵する気持が緊張で震える深い溜め息を吐かせる。

『ガリッ! ボフッ!』

 着信画面に設定していた彼女の瞳に重なって表示される彼女の新しい電話番号を、再度確認しながらスピーカー部分を耳へ当てた。

「もっ……、もしもし……」

 僕は焦りと緊張に胸が痞(つか)えて呼び掛けを閊(つか)えながらも、早く彼女が無事に相模原の部屋へ無事に着いた言葉と元気な声を聞きたいと願う。

(もしも、トラブルに遭っているのなら、僕は直ちにSUV車を超速で飛ばして彼女の許へ行き、助けるんだ!)

「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」

 彼女の無事な明るくて、どこか寂しげな声に安堵しながらも、僕の心は愛しくて堪らないとざわついてしまう。

 携帯電話のスピーカーの向こうからマイクを通して聞こえて来るのは彼女の声だけで、テレビの音も、音楽も、彼女以外に誰かが居る音や息を潜めている気配も、聞こえていないし、感じもしなくて、一人ぼっちだと知った。

(彼女は一人だ……。一人ぼっちで良かったぁ)

 彼女を心配するのを兼ねて僕は、彼女のボッチを確認していた。もし、男性と同棲(どうせい)でもしていたら、それは非常に困ってしまってジェラシーストームが再びだ! 今日の出逢いは全て否定されるべき事になり、彼女の言葉と態度で弄(もてあそ)ばれた僕は、一生、独身の引き篭(こも)りになるくらいの重大なショックを受けてしまっただろう。だけど、僕は彼女に弄ばされていなかった。

 僕は今直ぐに、『彼女を僕の傍に居させたい』、『彼女の傍に僕が居てあげたい』、と強く願った挙句、その焦り混じりの大きな衝動は、僕の言動と気持ちを大胆にさせた。

「けっ、けっ、結婚して下さい!」

 いきなり、すっごく大事な言葉を言ってしまい、とんでもなくスベったと思った。

(うっひゃあ! あわわわわぁ。言ってしまったぁ……)

 人生と運命を左右する大切な言葉を僕は、電話越しで彼女に言った事を、直ぐに後悔した。

 彼女に遮られた『覚悟の言葉』を、電話越しにレベルマックスで言ってしまっている。こんな電話でのプロポーズに彼女は良い返事をしてくれるのだろうか?

 僕は早々に改めて、生声で直接、プロポーズを仕切り直すべきだった。

 大桟橋からのディナークルーズで、揃いのリングを添えてプロポーズしようと決めていたのに、アホな僕は言ってしまった。

「うん。……はい!」

(うっわあ! 『はい』だよ! どうしよう!? OK貰えちゃったよ!)

 テレる顔が驚きで引き攣(つ)りながら混じる喜びで、目も、口も、頬も、締まり無く緩んで行く自分の顔が分かった。

(もう、めちゃくちゃ嬉しい!)

 今日の彼女の言葉と態度から、断わられる事は無いだろうって予想はしていたが、直ぐに承諾(しょうだく)してくれるとは思ってもいなかった。きっと、『先(ま)ずは、ちゃんとしたカレカノの親密な御付き合いから、仕切り直して始めましょう』って、彼女が返事すると考えていた。

「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」

(おっ、おおおおっ! そんなあっさりと、、軽はずみ的に御返事を言っちゃっても良いんですかぁ? いやいやいや、その返事の言葉が、言って欲しかったんですけど、でも、その、全く、……ありがとうございます!)

「はい! 謹(つつし)んで、喜んで御受け致します!」

 プロポーズ返しを承(うけたまわ)る恐悦(きょうえつ)至極(しごく)の礼を言った途端、ボロボロと涙が零れ出して止まらない。

(……本当に、僕で良いんですかぁ……)

 この嬉しさの向こうの、喜びで包まれる日々に君と二人で一刻(いっこく)も早く辿り着きたいと思う。

「嬉しい。凄く、嬉しい!」

 彼女の喜ぶ声が耳の奥で木霊(こだま)して、僕の身体中を貫(つらぬ)く様に響いている。

(大好きだ!)

 以前も大好きだった……。遠くに、近くに、君を見ていた時。ちぐはぐでもメールで繋がっていた時。……それ以外の君を僕は知らなかった。

(好きになって、大好きになって、好きになれば、なるほど、君を疑う気持ちが強くなっていた……。もっと近くで、もっと長く、君と繋がっていたい。身体も、心も……)

「僕もだよ! この嬉しさを、君に何て伝えよう? ……心から愛しています」

 嬉しさの勢いが声を大きくさせた。

 もっと、もっと、僕は両手で君を抱き上げて、この真摯な気持ちを何度も、何度も、叫びたい!

(なんという一体感! 今、君と僕は心を一つにして、同じ想いに感動する心が、嬉しさで震えている!)

 僕の頬を君の頬に触れさせて、頬摺(ほおず)りしたい衝動に駆られてしまう。

(君とディープなキスを、僕はしたいんだあ!)

「私もあなたを、心から愛しています。……うふ、もっと言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」

 本当に彼女の言う通りだと思う。

 前以って考えて選らん言葉は、場違いなニュアンスになり、その時、その場のアドリブ的に思い付く言葉は、いつも、何時か何処かで聞いたか、読んだりしたような在り来たりになってしまうんだ。

「ああ、そうだね。もっと言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」

 鼻声になった彼女に僕は、『ヤバイ、しまったぁ』と思う。

 僕は電話越しに彼女に近付き過ぎていた。近付き過ぎている心地好さに携帯電話越しだけで済まそうとしていたのに気付いて、僕は自戒(じかい)する。

「……泣いているよ。私……」

(電話越しの……、愛の誓いかぁ……。これじゃあ、ダメだなぁ……)

 彼女も、僕も、涙を流すくらい感動しているけれど、この感動は、想い求めた出逢いが叶ったのと、互いが愛しくてキスし合ったのと、ミッドナイトのハイテンションの所為で、そんな、麻酔(ますい)のような一時(いっとき)の感情の昂ぶりに流されているだけかも知れない。

 これは何としても、仕切り直しをすべきだと思った。

「うん、愚図(ぐず)る声で分かってる。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」

 詰まらないジョークを言いながら、僕は『あれは、一時の気の迷いなの! 無かった事にしてちょうだい!』なんて、彼女から悲哀(ひあい)の声を聞かされない為の仕切り直しを考える。

「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」

 困った時の彼女が使う、『バカ!』の響きは気持ち良い。次に会うまでに何度、電話の声とメールの文字を交し合うだろう。

 彼女からプロポーズの話に触れて来るだろうか? 僕からプロポーズへ話題を振って、更に進展させるべきなのだろうか? そして、彼女からのツッコミを僕は上手く切り返せるだろうか?

「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」

 鼻声で期待を込めた感謝の言葉を言いながら僕は、次に会う時には揃いのカラフルなファッションリングとファンタジーなピアスをプレゼントして、その次はエンゲージリングを添えて仕切り直しのプロポーズをしようと決めた。

 ファションリングとピアスとプロポーズのリングは二人で選び、マリッジリングは僕の限界額を超えても彼女の希望を叶えたい。

「私こそ、ありがとう」

 嬉しい彼女の言葉を聞きながら、移動で疲れた彼女を早く就寝させなければと思う。なのに、『おやすみ』を告げるのを躊躇ってしまう。

 眠り、朝が来て起床する事でリセットされる毎日、昨夜の寝るまでを御浚いして、日常のコンティニューを始める。だが、昨日の僕との出逢いは彼女にとって非日常で、殆どの続きを意識しないかも知れない。

 彼女はコンティニューされずに明日から大学へ通う日常に戻ってしまう。だから、彼女の眠りの中でミラクルな今日を思い出す目覚めの良い夢を見させたいと思った。

(『おやすみ』と言う前に、今日のハイテンションを夢の中まで持ち込めるように、ハネムーンの相談でもしようか)

 世界中の行く手立てが有る場所なら、彼女が望む場所、僕が行きたい所、何処へでも行くんだ。

 彼女の行きたい場所はコモ湖とミラノだった。イタリアならベネチアでゴンドラに乗り、アドリア海やリビエラでディナーだ。フェレンツェのドーモの天辺で夕陽を眺めて、ナポリの坂をジレラで走り、シチリア島へも渡る。ちょっと不安だけど、南のタラントまで行きたい。山岳都市と丘の上のシャトーはレンタルしたフィアットで廻りたいと思う。

 ハネムーンに限らず、夏の一番良いシーズンには、フランスやイベリア半島の小さくて美しい村をルノーやシトロエンで廻るのもいいと思う。ドイツの山の上や川沿いの小さな城も魅力的だ。

 冬はトロピカルなブルーコーラルで過ごそう。南半球でサザンクロスや蠍座(さそりざ)の赤いアンタレスを観に行こう。

 トラベルの計画は君に任せるから、仕事の稼ぎは全て君に渡すつもりだ。約束する、僕は君を幸せにする為に生きるよ。

 僕と彼女の欠伸(あくび)がハモるまで話せれば、きっと夢見も、『夢で会いましょう』みたいにシンクロするだろう。

 僕は、どうか、『素敵な今日』を彼女がリセットしないように願いながら、『おやすみ』を告げる前に言葉を添えた。

「これから寝る前に御風呂(おふろ)にはいるんだろう? こんな遅い時間だから、湯船(ゆぶね)で寝ないようにな」

 

……完(僕)

後編 ザ・マムートのフィナーレ(ザ・マムート・ツヴァイの戦い <超重戦車E-100Ⅱ 1945/3/29~5/7>)

 1945年

 * 5月4日 金曜日 アルテンプラトウ村 駅舎前から街道口へ

 800mの距離から撃破した4輌のスターリン戦車が燃え盛(さか)る東方のブラッティン村を、ソ連軍から奪(うば)い返す防衛隊の兵士達の様子を見ながら車長のメルキセデク軍曹は、マムートをアルテンプラトウ駅舎前から木材工場の煉瓦塀(れんがべい)と並木の影へ後退させて停止させた。

 停止すると直(す)ぐにバラキエル伍長は砲身と俯仰角(ふぎょうかく)を固定する歯車の状態を調べ、ラグエルとイスラフェルの2人は砲塔上面の装填手(そうてんしゅ)用と砲塔後部のハッチから出て、車体後部上面のグリルを全(すべ)て開いてエンジンルーム内へ潜(もぐ)り込み、燃料やオイルの漏れに振動や音の異常、それに空冷されずに高温のままの赤い部分の有無を点検する。

 僕は傍受(ぼうじゅ)する無線の様子から、軍曹へ再度接近して攻勢を掛けようとするソ連軍がいない事を報告すると、軍曹の指示で『ブラッティン村の敵威力偵察隊の撃滅と、今夜夜半に予定の守備位置へ到着できる』旨(むね)を暗号文にして、半周防衛陣を構成する第12軍の司令部へ新型無線機の送信出力を長距離用に上げて伝えた。

 それから僕は変速装置と駆動軸の点検を終えたタブリスに付き添(そ)い、全部の履板(りばん)のジョイント部分は罅割(ひびわ)れや欠損(けっそん)の有無を調べて、異常が有れば白色のペンキで印を付け、更(さら)に連結ピンに緩(ゆる)みが有れば締(し)め付けてから、僅(わず)かに弛(たる)みが増えた履体(りたい)を定位置まで張り直(なお)す。そして、調整と異常の状況を軍曹に報告する。

 ジョイント部分は3箇所に小さな欠けと皹が見付かり、5本のピンが少し緩んでいただけで、走行に支障が有るような重大な問題は見付から無かった。

 軍曹とバラキエル伍長は、『ソ連軍に増援の来る様子(ようす)が無いか見る』と、駅舎の2階へ駆け上がって窓から双眼鏡で暫(しばら)く東と北の方を見ていたが、その動きの気配(けはい)は無かったらしく、のんびりと歩いて戻って来た。その軍曹の手には駅舎の待合室に残されていたのだろうか、紳士物のコウモリ傘が握(にぎ)られていた。

 雨と陽射(ひざ)し除(よ)けだそうだけど、無線に入るラジオ放送から『薄い曇り日が続くだろう』と聞いていたので、暫くは強い陽差しの日は無いのにと思う。

 

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 国道に出る直前の踏み切りに遮断機が下りて、直前を軽便鉄道に運用されるような箱型の蒸気機関車に牽引(けんいん)された3両編成の列車が、歩けない重傷の兵士と婦女子でギュウ詰め満員状態の客室に、軽傷の負傷兵はずらりと屋根に乗り、デッキには小銃や短機関銃を持った警護兵が幾人も立って沿線を警戒(けいかい)しながら、マムートによって安全を確保された線路を複合橋が在る北方のフッシュベック村や、鉄道橋が架(か)かるシェーンハウゼンの町を目指して、ゴトゴト揺れながら走って行った。

 これからソ連軍に攻め込まれてゲンティンの町が占領されるまで、夜を徹(てっ)して鉄道を往復運行させて、逃(のが)れて来た傷病兵や避難民を、北方のエルベ川を渡河(とか)できる地点まで運んで行くのだろう。

 遮断機が鉄道公社の職員と警護の国民突撃隊員によって手動で上げられると、待機していた防衛隊のヒトラーユーゲント達が国道を北西へ逃れて行く多数の難民達を遮って、フェアヒラント村への街道口までマムートを誘導してくれた。

 其処(そこ)へ国道から戦闘の成り行きを見ていた行政官が笑顔で走り寄って来て、感激しているのが分る大きな声で言った。

「ジーク・ハイル! お見事でした、軍曹殿。圧倒的な勝利に我々の士気は、一気にあがりました」

 踵(かかと)を鳴らして身に染(し)み込んだ右手を上げる敬礼姿勢の行政官はマムートの活躍(かつやく)を讃(たた)えると、運行が再開されて通り過ぎて行った列車を指差し、行政官は興奮して甲高(かんだか)くなった大声で言葉を続ける。

「既(すで)に夕刻が近くなっているので、ソ連空軍機の襲来は、もう今日は無いでしょうから、たぶん、明日の昼過ぎ頃までは避難列車の運行を続けられます。難民列車を再開できたのは、とても良かったです。軍曹の御蔭(おかげ)ですよ。……しかし、戦争はドイツの負けで終わりです。明日の午後には、このアルテンプラトウ村や運河向こうのゲンティンの町は、3方からソ連軍に包囲されるでしょう。もうこれ以上、誰も、何も、失いたくは有りませんから、私達は降伏の白旗を掲(かか)げます」

 再び踵を鳴らして右手を上げる行政官は、別れに祝福の言葉を添えた。

「軍曹殿、乗員の皆さん、御武運を!」

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 * 5月4日 金曜日 アルテンプラトウ村からフェアヒラント村への街道を進む

 操縦手のタブリスはメルキセデク軍曹に命じられ、街道をフェアヒラント村のフェリー乗り場へ向かう避難民達の遅い歩きよりも遅い、その半分以下の速度で路面が崩れる様子を見ながら、マムートを慎重に進ませている。

 陽は西へ更に傾き、直(じき)に村の高い建物の屋根の後ろへ隠(かく)れそうになっている。森の中に入ると斜陽は木々の頂(いただ)きを薄赤く照らすだけで、薄暗い街道は中世から噂(うわさ)される魔物が、脇から襲い掛かって来そうなくらいに不気味(ぶきみ)な感じがする。

 アルテンプラトウ村の家並みを過ぎると約4km離れたニーレボック村までは、ほぼ一直線の街道になる。途中の3kmばかりは赤松の森を抜けて行く。

 道幅がマムートの車幅より一メートルばかりしか広くない街道の路面は、細かい砂礫(されき)と瓦片(かわらへん)や煉瓦片を更に砕(くだ)いた屑(くず)を敷き詰めて、馬車や人が通り易(やす)くされていたのに、マムートの重量がキャタピラのパターンを圧(お)し着けながら作られる轍(わだち)で路肩を崩(くず)してしまい、少し大きく凹ませる度に停止して、突然に大きな穴が開いて、マムートが落ち込んでしまうような軟弱な地盤ではないかと、路面を良く調べてから移動を再開していた。

 重量物を置いたりする工場の敷地内や大型の運送車輌が行き来する国道なら、ほぼ安心してマムートを動かせたが、荷馬車と人と軽量車が通るだけの地方街道は、何処も雨上がりに水溜りや轍が出来易い圧し固めの弱い路面状態で、1mもの幅広の履帯が重量を分散させているとはいえ、運転に自身を付けて来たタブリスの横顔はスタックする不安に歪(ゆが)んでいる。

 タブリスの心配顔に、『路上以外を走るな』と命じていた。

 左右に広がる太い松の木の森は、太い幹と高い樹高で鬱蒼(うっそう)として暗く、同じようにアルテンプラトウ村から森の中をゲンティンヴァルテ村を通り、レーデキン村へと北西に向かい、第12軍の防衛の最大拠点とエルベ川の主渡河地点へと至る国道107号線は、こちらの街道みたいに、国道の両脇に幾つもの障害物や対戦車を備(そな)えた陣地が造られているはずなのに、西陽が作る影と森の見通しの悪さで全(まった)く見えない。

 森は緩やかな丘を覆(おお)っていて中程まで続く僅かな傾斜の登り坂と少しの曲がりの為に、アルテンプラトウ村からは、紅(あか)く染(そ)まり出す空を背景に浮き上がるレーデキン村の教会の尖塔が見えなかった。

 森の中の街道はマムートが通り過ぎると、道脇の太い松ノ木を工兵達がカンテラの灯(あか)りを頼(たよ)りに街道を塞(ふさ)ぐ障害物として3、4本切り倒した。そして、その手前には手榴弾と結(むす)んだ対戦車地雷が千鳥に埋設され、障害物周辺にも引っ掛けたワイヤーや触角で起爆する対人地雷の罠(わな)が仕掛けられた。

 切り倒した松の大木の障害物と爆薬の罠は、アルテンプラトウ村から曲がりまでの中間地点、曲がり部、曲がりから森を抜(ぬ)けるまでの中間地点の3箇所に作られた。

 フェアヒラント村のフェリー乗り場へ向かおうとする車輌や馬車は、森のアルテンプラトウ村側で止められて残りの距離は街道を歩かされた。3箇所に施設された危険な障害物の部分は、防衛隊員達が誘導して避難民達を迂回(うかい)させている。

 曲がり部脇とニーレボック村側の森の出口に塹壕が掘られて、口径75mmの対戦車砲と重機関銃が配備される2個小隊規模の陣地になっていた。

 小さな窪地で煮炊(にた)きする簡易ストーブの火に照らされる守備兵達は、殆(ほとん)どが僕達と同じくらいの20歳前の顔に見え、その中に30歳前後のベテラン兵が混(ま)じっていた。誰もが通り過ぎて行くマムートと車体上や砲塔上に腰掛けている僕達を見ていて、緊張混じりの笑顔で小さく手を振ってくれていた。

 小さな炎に照(て)らされる兵隊達の中に、丸メガネを掛けた40歳ぐらいの隊長らしき人の顔が見え、僕は其の顔に似てる人物を思い出していた。

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 学校で教わる社会と歴史の科目は、思想的要素や神話的要素が多く書かれていて、民族のルーツからの精神支配を強要されている感じがして僕は苦手だった。

 実際に有ったかも知れない伝承からの神話は御伽噺(おとぎばなし)のようで好きなのだけど、そんな超常現象みたいな出来事を現実と関連付ける授業には違和感(いわかん)を持っていた。だから、ヒトラー・ユーゲントの集いでリーダークラスが語る優越人種論とユダヤ人弾劾(だんがい)には、僕は表情や言葉にこそ現(あらわ)さなかったが、気持の底からうんざりしていた。

(歴史と世界に選ばれた優秀な民はドイツゲルマン人だ! ……なぁんて、嘘っぱちだった!)

 例(たと)え、ゲルマン民族のドイツ人に資質が有ったとしても、選民的なナチス思想で染められたドイツ人じゃない!

 世界を支配すべく蛮族(ばんぞく)のスラブをシベリアへ駆逐して、北極圏のバランツ海からウラル山脈の西側をカスピ海のボルガ川河口を結ぶまでのロシアの肥沃(ひよく)な西部地域と、フィンランドを除く北欧一帯に、併合したオールトリアを含むドイツ本国を合わせた土地を領土の範図とする、1千年の繁栄を約束されたゲルマン帝国に住まうのは、彫(ほ)りの深い顔立ちで金髪碧眼(へきがん)の白人、純粋種のアーリア人だ。

 深く思考をする理解の速い頭脳と高い運動能力を産まれながらに持つゲルマン人は、アーリア人直系の優越民族で、他の全ての民族はドイツゲルマン人に支配される為に存在する、家畜並みに劣等な奴等だと学校の優秀人種学の授業で教え込まれた。

 そのアーリア人は古代に中央アジアのイラク辺りに居て、エジプト文化圏の中東アジアを攻めて支配したヒッタイト人と共に開発した、鉄製の武器と高度な戦術によってケルト人のヨーロッパに攻め込み支配した。

 人種学の授業は古代の歴史ロマンも学ぶので、僕の得意な科目の一つだった。コーカソイドの白人で金髪の僕は授業内容から最優秀の純血種アーリア人かもと自惚(うぬぼ)れた。でも、僕の母方の祖母の両親はフランス人で、母は全然碧眼じゃないし、碧眼の僕はアジア人の平面顔ほどじゃないけれど、彫りが浅いと思う。

 口角泡(こうかくあわ)を飛ばしながら、総統や宣伝相の演説張りに力説する若い先生の人種学の授業を受ける度(たび)に、透(す)き通るような白い肌に金髪と碧眼の彫りの深い顔の骨格だけの外見判断で、ドイツゲルマン人が直系の純血種アーリア人とする根拠は曖昧(あいまい)だと、僕は感じていた。

 他の種の人体骨格と比べて、此処がこうなので、此処も違うからドイツゲルマン人は優れていて、他の種は劣等なのだ。なんて、それだけで優秀とか、有り得ないと思う。

 確かに勤勉で生真面目なドイツ人は世界最先端の精密工業製品を開発して販売している。なのに開発したドイツ人エンジニア達の写真を見る限り、金髪は少なかった。商売の才能は乏(とぼ)しくて融通が利(き)かないし、駆け引きは苦手だし、儲(もう)けは少ないしで、有名な大企業は何処もセールスと経理はユダヤ人任せだった。それに、新たな開発の発想は、ドイツ人以上に他民族が多く着想している。

 だから僕は、禁断スレスレの質問を帰宅途中の先生に駆け寄ってしてみた。

「先生、人種学での質問をしても、宜(よろ)しいでしょうか?」

「おおっ、アルフォンス・シュミット君か。質問を認めよう。でも、通りでは、質問内容にもよるけれど、答えられないな。これは、お互いの為だよ。だから、君に時間が有るのなら、私に付いて来たまえ。先生の部屋で、君の質問に答えてあげよう」

 人種学と違って世界史を教えてくれる丸メガネを掛けた初老の先生は、いつも穏(おだ)やかなしゃべりで、全生徒の名前を覚(おぼ)えていて、いつもフルネームで呼ぶ。ピシッと、叱(しか)る事は有っても、命令調で断定と肯定ばかりの他の教師達とは違って、激昂(げきこう)の怒りで怒鳴(どな)ったり、体罰を振るう姿を見た事が無かった。

 アパートに間借(まが)りした先生の部屋で、蓄(たくわ)えていた配給品から提供してくれたのだろう、砂糖を多く入れたホットミルクを僕だけが飲みながら、質問の続きをした。

「ゲルマン人と直結するアーリア人は、なぜ、中央アジアにいたのですか? 先生」

「普通は鵜呑(うの)みにして、疑問を持たない子ばかりだけど、君は違うのだな、アルフォンス・シュミット君」

 まだ熱くて飲めないホットミルクに、ふぅ、ふぅ、と、息を吹き掛ける僕を覗き込む先生の目を見て頷いた。

「私が読んだり、調べたりした書物には、何処から来たの書かれていませんでしたが、他の民族とは交わりを持たないまま、中央アジアに散らばっていた放牧民じゃないかと、私は考えています」

「或(あ)る時、彼らはオアシス周りの砂礫の土地を耕(たがや)し、安定した収穫の農耕による定住をしようと考えました。それは既に得た炭作りと金属を溶(と)かす技術で作った青銅の農具を用いて始めたのですが、小粒でも硬い砂礫に青銅は曲がり、欠(か)けて、削(けず)れて、直ぐに使えなくなりました。彼らは青銅よりも硬い金属を求めて、幾つもの鉱物を錬金術のように試したのです。そして、より高い熱を得る為の強い風が通る丘の上に造った溶鉱炉で、遂に砂鉄を溶かして鉄器を作る事に成功しました」

「アーリア人が世界で初めて、鉄器をつくったんですか? 先生」

「ああ、そうだよ。でも製造に参加していたのは、アーリア人だけじゃなかったのさ。ヒッタイト人も一緒に取り組んでいたと思う。だけど、発想と着想はアーリア人だったのだろう。ヒッタイト人の宗教の根幹(こんかん)もアーリア人の神と宗教の教えだから、ヒッタイト人は尊敬と畏怖(いふ)の意味を込めて『優(すぐ)れた者』、即(すなわ)ち、『アーリア』と呼んで讃(たた)えたのさ。ここまでは解るかな、アルフォンス・シュミット君」

「ええ、ありがとうございます。解(わか)り易いです、先生。でも鉄の利用は、アッシリア人になってますよ」

 僕はニコニコ顔の先生に、感謝の意と新たな疑問を問う。

「そうだね。現在は、トルコの国になっている小アジア半島東部のアナトリアに居(い)たヒッタイト人は、直ぐに鉄で武器を作って、南方の憧(あこが)れの文明国を征服しようと攻めたんだ。結果はエジプト本土へ攻め入れないまま講和停戦となってしまった。その国力を消耗したヒッタイトを征服したのが、イラク北部を支配していたアッシリアだ。そして、ヒッタイトが秘匿(ひとく)していた鉄の製造技術を奪(うば)ったという訳だよ。その後は、アッシリアが全(すべ)ての戦争に鉄の武器を使ったから、まるで、アッシリアが世界史で最初に鉄を製造しかのようになってしまった。だが違う。最初に鉄を製造して利用したのは、アーリア人とヒッタイト人だ!」

 冷(さ)めて来たホットミルクを2口啜(すす)った僕は、興味深深で聞き入っている。

「イラン北部とトルコ東部は国境を接している。イランという国名はアーリアと同義の『優れた民』だそうだ。アーリア人が住んでいた中央アジアのイラン北部は、ヒッタイト人が居たアナトリアの御近所さんなんだよ。因(ちな)みにイラクの意味は、川に挟まれた豊かな地という名の古代都市国家と同じらしい」

「イランとイラクは、国名が似てますけど、民族が違っていそうですね。先生」

「面白いところに気付いたみたいだね。アルフォンス・シュミット君。ちょっと脱線するけど、そうなんだ。イラン人はアーリア人の直系の民、ぺルジャ人。イラク人はアッシリア人系のアラブ人。そうなるのだろうなあ。鉄の製造に必要な木炭を作るのに、ヒッタイト人がアーリア人の土地の木まで伐採(ばっさい)し過ぎたから、乾燥し易い内陸気候の中央アジアは砂漠化が進んで、アーリア人の農耕定住に相応(ふさわ)しくない土地になってしまった。故(ゆえ)に、新たに安住の地を求めてアーリア人の移動が始まったと、先生は考えています」

「土地が痩(や)せて住めなくなってしまったんですか……。それで全員が、はるばるヨーロッパまで移動したのですか? でも、なぜ、東の中国じゃなくて、西なのでしょう? 先生」

「いや、たぶん、意見が分かれて仕舞い、大小のグループが全方角へ移動していったと思います。まあ、その方が、民族が絶滅し難(にく)いですよね。中国方面はヒマラヤ山脈や崑崙(こんろん)山脈の連なる高山と、広大な砂漠に阻(はば)まれるまで移動して、現在のペルシャ系の住民の先祖になったのでしょう。そこから南のアラビア海まで移動したグループは、更に海沿いを東へ進み、インドに到達しました。インド人はアーリア種と違いますが、カースト制度の最上階のバラモンとマハラジャはアーリア人です。彼らの進んだ思想と武器が、土着民の支配を成功させたのです」

「あの奴隷制みたいなカーストは、アーリア人が作ったのですか? 先生!」

 アーリア人が賢(かしこ)くて支配層になるのは分かる。でも、傍目(はため)には理解できない非人間的な扱(あつか)いを強(し)いるカーストを整備したのも、アーリア人だなんて、ペルシャ人が子孫説と共に、先生の話は驚く事ばかりだ。……となると、ゲルマンドイツ人が直系と説(と)くナチスは、公表できない非道な事を強制収容所の中で行っているかも知れない……。

「だね。アルフォンス・シュミット君。北へ向かったグループはロシア王朝の始祖(しそ)になって、農奴体制をスラブ人に強いたんだ。そして、西方は、当時最先端のギリシャやローマが栄えていた、憧れの地中海文明圏が在り、人気が有った。だから、多くのグループが地中海沿岸の文明と友好を結んで、北ヨーロッパの森林地帯へ移住したのだ。だが、北ヨーロッパにはローマ人が蛮族と呼んで、忌(い)み嫌う強力なケルト人が住んでいた。当然、ケルト人は侵入するアーリア人を排除する為に戦いを挑(いど)んでくる。ローマ人を撃退したケルト人は戦い慣(な)れしていて、地の利を活(い)かした戦術は侮(あなど)れない。しかし、ケルト人の武器は青銅製だ。強度を保つ為に太くした刀剣と、防御力を高めて厚くした盾は、重くて取り回しに苦労する。刃先(はさき)も直ぐに破損してしまう。切るや刺(さ)すより、叩(たた)くや殴(なぐ)るに近いダメージしか敵に与えない。それに対して、アーリア人の鉄製武器は、同じ大きさなら青銅よりも軽くて強靭(きょうじん)だった。切っ先は鋭(するど)く研(と)がれて、皮の鎧(よろい)ごと骨まで断(た)ち切られた。そして、アーリア人はケルト人を追い詰めて支配した」

「それって、ヨーロッパの王朝や貴族の始祖もアーリア人って事なんですね。先生」

「そう、察(さっ)しがいい、アルフォンス・シュミット君。此処までは理解したみたいだから、これから先生が話す事は、疑問への君の呟(つぶや)き程度で記憶してくれればいいし、さらりと忘れてくれてもいい。でも、他言してはダメです。今は秘密にしてくれたまえ。先生は、誰にも変な考えを話していませんし、そもそも、そんな考えを持っていない事にします」

《これから、先生が言おうとしているのは、ナチスのアーリア人種論を否定する事だと思う。僕が密告すれば、先生は逮捕されて、警察で拷問(ごうもん)での自供、挙句(あげく)に刑務所ではなくて強制収容所で思想修正の労働と洗脳だ。従順にならないと死ぬまで強制労働をさせられるだろう。そして、密告した僕もどうなるか分からない。それに、先生が異分子を摘発する秘密警察かも知れない。誘導で話を聞いた僕を逮捕する恐(おそ)れも有る。でも、そうでなかったら、納得できる考えを先生から聞ける。聞いてしまったら、僕は非常に危険な立場になるかも知れないけれど、まっ、かまわないか》

「分かりました、先生。秘密にします。他言はしません。先生も話していません」

  10歳に成(な)ると強制的に入団させられるヒトラーユーゲントの信条は、個人よりも全体が最優先だ。家庭や学校よりも『国家と民族の為に』が大事とされ、『1人の完全なドイツ人に成る為』、『民族と国家の為に喜んで命を捧(ささ)げる国民になる』が重視される。

 だから団員達は、その信条に反逆する思想で話しと行為を行う親友や家族を平気で告発して、保安局やゲシュタポに逮捕させ、思想矯正(きょうせい)や重労働の強制収容所へ送り込む。

 だが、僕はアナーキーという言葉を辞書で見て覚えている。無政府主義者の意味だ。世間一般やルーツの枠(わく)に嵌(は)まらない行動と考えをする、無粋(ぶすい)な悪役っぽい連中で、怠惰や疎外でのドロップアウトとは違うアウトローと似たような者達だ。僕は、そんなヒールモドキに、少し憧れていた。

《アンチ・ナチスの考えを聞いて秘密にすれば、僕もアナーキーらしくなれるのかもだな》

「先生は、ゲルマンドイツがアーリア人の純粋直系という説は、根拠に乏しいと考えています」

《おおぅ……。先生は考えを声にして僕に語(かた)ってしまった……。先生は国家反逆の罪だ!》

 だけど、僕もそう考えている。

《僕は先生を告発したり、密告したりしないし、したくない》

「ゲルマン人はもともと、北欧を主にした北海周辺の土地にいたんだ。海賊のバイキングもゲルマン人だな。彼らは、中央アジアの草原に興(お)きたフン帝国のヨーロッパ侵攻に恐れをなして、ゲルマニアへ移動する。ゲルマニアはカイザーのドイツ帝国の領域と大体同じですね。フン族は東ヨーロッパから攻めて来たのだから、ゲルマン人は、その侵攻方向へ移動してしまったんだ。放牧と狩猟に日々の糧(かて)を得て定住地を待たない、矯正した平面顔に両頬の刀傷を自(みずか)ら付ける、その巧(たく)みな弓術に長(ちょう)けた騎馬民族は、神話に登場する凶暴な北極の蛮族、ケイオスのように想像されて、ゲルマン人達は北欧から南の中央ヨーロッパへ逃げてしまったのだろう。結果、ゲルマン人は見事に蹴散(けち)らされて、ヨーロッパ全体へ散り散りだ。それに勢い付いたフン族は、ガリアの西ゴート帝国まで征服して略奪の限りを尽くすと、東ヨーロッパの彼方(かなた)へ引き上げたという経緯なのです」

 確(たし)か、ガリアは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクと、その周辺のフランスとドイツの範囲だったはず。北極のケイオス族って、北欧神話やドイツ神話に登場して、どんな蛮行を働いたのか、覚えが無くて分らない。

「だから、アルフォンス・シュミット君。アーリア人とゲルマン人は交わっているとは思うけれど、直系ではないんだよ。先生は写真で見て比べた事しかないけれど、イラン人達の顔付きと、ゲルマンドイツ人の顔付きは違うんだ。党が力説する直系説は、殆どが捏造(ねつぞう)で、国民を統率して世界征服する侵略戦争を継続する為の、選民意識を植え込む、洗脳のプロパガンダなんですよ」

 ナチスのプロパガンダと言い切って話し終た先生の僕を見る顔は、僕を部屋へ招待した時よりも、ずっと明るくて穏やかになっていた。

「それとですね。先生は別の考え方を持っています。党のアーリア人純血種論と対極になる考えですが。アルフォンス・シュミット君、聞いてくれますか?」

 先生は今、個人しての考えを纏(まと)めたアーリア人のルーツを僕に説明してくれた。その考えは非常に危険で反社会的だと思う。だけど、僕の立ち消えの疑問を全て向きを揃(そろ)えて繋げてくれた。

《とても博学で勇敢だ。僕は今、心の底から先生を敬(うやま)っている。だから……》

「是非、聞かせて下さい、先生! 今日、僕は先生に初めて質問をして、先生と初めて話しました。そして、先生の考えは僕を豊(ゆた)かにしています」

 先生の言う純血種と対極になる考えは、きっとアーリア人のルーツのように理屈に叶(かな)った、納得できる内容だと思わせ、僕は非常に興味を啜(そそ)られる。

「君は熱心なキリスト教の信者かな、アルフォンス・シュミット君。あまり熱心じゃなくても、旧約聖書のバベルの塔は知っているでしょう。あのノアの箱舟の後、ノアの子孫は凄く増えて、神罰の大洪水の前よりも人類は多くなりました。そして、『人々が世界中に広がるように』という神の意思に反して、新技術と知恵と協力で神が住まう高みまで、巨大な塔を建設して『神と人は対等』と実力で示し、『この住み心地の良い恵(めぐ)まれた地を離れない』という、断固とした考えを現しました。この神の命に叛(そむ)く、自らに似せて創造した人間の高慢(こうまん)な行為に怒った神は、激しい雷(いかずち)の連撃で塔を崩し、わざわざ地上に降臨してまで、多彩な言語を押し付けて単一の言葉と乱(みだ)します。そして、通じない言葉に動揺する人々を単一の留(とど)まる地から世界中の地へと無理やり散らします。ここまでは分りますね」

 僕は頷いて、理解出来ている事を示す。

「はい、分ります」

 モーゼがシナイ山で神から授かった十戒(じっかい)は、散らばった人々が各地で文明を興して繁栄している世界で、バベルの塔より、ずっと後の出来事だ。

 再び高度な技術と組織で繁栄し出した人類を恐れた神は、石板に雷で刻み付けた十戒の戒(いまし)めにより、人類の統一を阻(はば)む更なる暗示を契約の形で記したのだと思う。

 戒めに契約、阻む作為は幾度も行われて、善にも、悪にも受け入れられる、神からの数多くの戒律(かいりつ)で人類は何重にも枷(かせ)を掛けられてしまった。

「先生は、この神の怒りは、塔を崩して言葉を乱し、人々を全ての地へ追い立てるだけでは無かったと思います。それに、今日(こんにち)を鑑みて、きっと、人の思考と能力と行為の全てを雑多に乱して、将来、人種別、民族別に纏まって血種の境界を作り、相容(あいい)れない異種と争うように分別したのです。それを行う故の降臨でしょう。これは由々しき神罰です」

 増え過ぎたノアの子孫達を世界中へ散らばらせる、旧約聖書の創世記11章の、神が人の業(ごう)と言った人間達の成し遂げる行為や驕(おご)りと高慢を戒める教えだ。

「乱した言葉の種類は、たぶん、現在の数百倍にもなる多さだったでしょう。それでも人々は、同じ言語、類似の表現と集って彼の地を後にします。そして、雑多に乱された言葉は、数千年を経て徐々に今日の数まで淘汰(とうた)されたのです」

《なぜ神は、遣り遂げる人間達の意志と成果を祝福しなかったのだろう? なぜ神は、言葉と意思を乱してゴチャゴチャのバベル状態にしたのだろう?》

「バベルの塔を崩した神の怒(いか)りは、神の焦(あせ)りだと、先生は考えるのですよ。人が思案、思考して得た新技術に、単一の言葉による統一された人の意思の孤高(ここう)。これは逆に言うと、新技術の発展で人は神の領域に達する寸前だったとう事です。だから、現代に於いて、異人種と異民族での交配を繰り返して、全ての遺伝子と細胞記憶を持つ人達ばかりになれば、彼らは神に等(ひと)しくなれるかも知れないのです」

 先生が話す事を、僕は今まで全く考えもしなかった。

《神が人類を貶(おとし)めた逆をすれば、神の脅威(きょうい)となる高みへ至れる人類に戻れるって事だ! それは、とても素晴らしい事じゃないかな》

「でも先生、散らされた人々の遺伝子と細胞記憶は、みんな同じだったのでしょう。それならば、現代人は意思の疎通を統一するだけで、神へ挑戦できないのですか?」

 頷(うなず)いた先生は、直ぐに回答してくれた。

「神は、とても賢いのです。人間が得られない叡智(えいち)を持ち、成し得ない所業を行なえます。人々を似た言語と容姿で小さく分けたと同時に、全てのグループは長所短所の凸凹(おうとつ)をつけられて他と噛(か)み合い難(にく)くさせました。それは、例え全ての遺伝子と細胞記憶を有した人類になれたとしても、人類が統一言語でコミュニケートして一つに纏まらなければ、孤高の人類には至(いた)れないという事なのです」

《このままでは全人類が、ソドムやゴモラのような塩の柱にされてしまったり、沈下する全地表と激しく降り続く長雨で溺(おぼ)れてしまって、滅亡(めつぼう)するかも知れない》

「人類が、民族主義や国家主義、それに思想主義で戦争を繰り返すのは、全てを統合した孤高の人類が誕生しないようにする、神の作為(さくい)なのかも知れません」

 幸せの定義まで、神は裁(さば)き、調停者のように押し付けて来る。

「孤高の人種を再現させて更なる思考と技術の開発に至った人類は、神に匹敵(ひってき)するほどになるでしょう。其の時に地上は天上界のような楽園、創世記のエデンの園とは違う約束のエデンの地になるのだと、先生は考えています」

 荒唐無稽(こうとうむけい)で壮大(そうだい)だけれども、確かに先生の考えは納得できて、そうかも知れない、そうなれば良いと、僕は思ってしまった。

「統合進化した新人類は、究極(きゅうきょく)のエデンの楽園を創造(そうぞう)するのですか? 先生……」

 自分の中で整理したいだけのオウム返しに言った僕の問いに、先生は笑う。

「あはははは、そうですね。今の戦争や不平等な社会を繰り返す人類は、創世記に約束の地のカナンから東へ逃げたような、エデンの東にいるのではないかとも思っています。ここからエデンへはティムシェル……、『汝(なんじ)は治(おさ)める事が出来る』と解釈されていますが、『自分の運命は自分で切り開く』の意味でもあって、それを全人間が成し遂(と)げなければ戻れ……、至れないのです。試(だめ)しに来た神が認めて、『イスラエル』と改名させた家出人『ヤコブ』のようにです」

《名前まで変えて今までとは考えも、行いも一新して善良になってしまう統一新人類は、何と呼ばれるのだろう?》

「そう、単一種族内で交配される純血種とは、真逆の考えですね。今のドイツでは非常に危険な思考で、たぶん、あなた以外の誰かに知られると、ここにゲシュタポが来て連行され、拷問自白の果てに、先生は思想改革で強制収容所に収監(しゅうかん)されます」

 そう、先生の言う通りだと思った。

 『業』は、唯一(ゆいいつ)の神がバベルの塔を崩して人々の声と言葉を乱(みだ)すまで無かった言葉だ。

 神は人間達を小さな括(くく)りで小分けして世界中に散りばめた。その小さく括られた人間達を民族や思想の王が、狭(せま)い範囲の土地に縛(しば)って支配した。

 小さな領地に留まらせて支配される少ない人間達は、幾世代に渡る長い年月の間、自分達の中で交配を繰り返し、その近親間のような交(まじ)わりは、稀(まれ)に知能の高い非常に優秀な人物を誕生させたが、多くの知能的、肉体的、障害者を産み、人類全体を劣化させてしまった。

《言葉を乱して人類に纏まりを失わせたのは、神の業だ! 人類を劣化させてまで人身を支配したがるのは、人の業だ! 人の心のカオスは、神が人類に与えた苦しみの呪(のろ)いだ! 本当に神は、人類を高貴な位(くらい)へ到達させたくないらしい》

 古代、神の声を聞くモーゼがエジプトからカナンの地へ導(みちび)いた民は彷徨(さまよ)えるヘブライ人達だった。ヘブライ人達はイスラエル王国とユダ王国を建国したが、アッシリアと新興バビロニアの侵略で滅亡されてユダヤ人と呼ばれるようになった。更に後年、ローマ帝国が侵略してユダヤ人は蹴散(けち)らされ流浪(るろう)のディアスポラの民となり、約束のカナンの地はパレスチナの名に換えられて、留まったユダヤ人達はパレスチナ人と呼ばれるようになってしまった。

 ヘブライ人を導いた神は他の如何(いか)なる種族も救済しなかったが、イエスが説いたキリスト教の神もユダヤ教と同じで、キリスト教徒とユダヤ教徒以外は導きも、救いもしない。信心の無い民へは超自然現象の災いと不慮の死を与えて改宗と従順を強いる。

 そして、神は差別をして残酷だ。古代から現代まで拘(こだわ)りと分裂の因果(いんが)を置き続け、敬虔(けいけん)な信者でも気紛(きまぐ)れな琴線(きんせん)に触れた者だけしか助けない。どんなに深く信心していても見殺しにしてくれる。

「アルフォンス・シュミット君。神は、何の理由で人を創造したのでしょうね。神にとって、人類の行いと進化は、予測のつかない空極の自動ゲームみたいな物なのでしょうか? 先生は神じゃないので、全く分かりませんが……」

 奇蹟の秘密兵器を駆使しても、戦局は少しも良くならずに負けていて、東西の敵は本国の国境まで来ている。あと半年ほどでヨーロッパ全土に広がった戦いの業火は、火付け元の第三帝国の全面敗北によって終結すると僕は思う。

 それでもきっと、神が人心を乱す限り、未来永劫(みらいえいごう)、人類は滅亡するまで、戦いの業火(ごうか)を消す事が出来ない。

 空襲が激しくなって昼間も、夜間も、降って来る多くの爆弾が破壊と死を齎(もたら)している。週間映像ニュースや新聞の記事は、反撃、撃破、撃退、防衛、死守などの言葉で締め括られる勇(いさ)ましいエピソードばかりなのに、一向に暮らし向きは以前に戻る兆(きざ)しも無く、悪くなる一方だった。

 それなのに、団結、協力、義務、結束なんて、似たようなスローガンばかりが町中に貼られていて、迂闊(うかつ)に異端の言葉を呟(つぶや)くだけでも、何処(どこ)かへ人知れず速(すみ)やかに連行されてしまう。そんな、無慈悲(むじひ)に強いられる国家と全体を優先する状況と、理不尽(りふじん)に押し付けられる連帯責任に洗脳された街中の誰もがピリピリと警戒していた。

 親も、子も、兄弟も、友人も、誰もが信用できない。異端の異議を唱(とな)えて口論にでもなったら、必ず相手は僕を論理以外でも考えを正そうとして来るだろう。思想関連を矯正(きょうせい)する政府機関に通報や密告されるのは堪(たま)らない。

「先生! 僕は誰にも言いません。聞いた僕も、無事ではないはずですから……」

「分っていますよ、アルフォンス・シュミット君。先生は、君がそんな人ではない事を知っています。だけど、今の時代、この国では、誰にも言わないで秘密にして下さい。親、兄弟、友人にもです。くれぐれも用心して、言葉は慎重に選んでから口に出して下さい。誰がどのように政府や教会の関係者と関係しているか、分りませんからね。気を付けて下さい」

 先生と僕が話している事を誰かに知られると、僕達は捕(つか)まり、噂されている何処か、2度と戻って来られない場所へ連れて行かれて、本当に危(あぶ)ないと思う。

「アルフォンス・シュミット君。お互いに、いつも通りですよ。気を付けましょう。あと、危険ついでに補足すると、本来、キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教の1派です。いずれも唯一の神は、旧約聖書のヤーウェ、ヤコブ、イサク、エホバで、発音は違えども綴(つづ)りは同じです。……全て同じ神の名前なのです。キリスト教はナチスの政権下では、教義と人種純血を混合して『積極的キリスト教』と呼称され、ユダヤ人のイエス・キリストはアーリア人にされてしまいました。だいたい、キリスト教はユダヤ教から派生しているのに、これは、かなり無理が有りますね。困ったものです」

「ナチ党はユダヤ人を生活の全てに於(お)いて弾圧や迫害をしていますが、寧(むし)ろ、敵対するよりも強制的に宗教の戒律を開放させて民族的融合を図(はか)るべきだったのです。彼らの能力や古からの組織を支配して全地球的に利用すれば良かったんですよ。世間の批判に惑(まど)わされず、個人的な恨(うら)みに拘らず、才能溢(あふ)れる巧(たく)みな演説で国民的支持を得ていれば、今頃は総統の野望は達成されて、私達は世界中へ自由に旅行しているかもですよ。アルフォンス・シュミット君」

 もの凄(すご)く危険な考えだけど、モーゼの子孫が得られる約束の地は現在のドイツになっていて、古代イスラエル王国のカナンの地を第3帝国が保障しただろうと考えると、世の中を戦争で疲弊(ひへい)させている総統の政策は僕を無性に腹立たせた。

「ところで、何が神の祝福(しゅくふく)と思えますか?」

 突然、先生は話題を変えて、神の祝福とは何かと僕に訊いて来た。

《祝福は……、御祝い……、嬉しがらせるみたいな……、有頂天(うちょうてん)気分にさせられたような?》

「……神の祝福ですか? それって、自分に都合が良い事ばかりが起きて、自覚する興奮と高揚(こうよう)に、主に感謝の祈(いの)りを呟くようなのですか?」

 僕の答えを聞いて閉じた唇の片端(かたはし)をあげ、意地悪(いじわる)そうな微笑(ほほえみ)をする先生へ僕は続けた。

「幸せだと思う事ですか? 嬉しさに、楽しさや穏やかさを感じる事ですか?」

 意地悪な笑い顔を真顔(まがお)に戻すと、先生は僕の言葉に繋いで紡(つむ)いで行く。

「そうです。それに怒りや悲しみに妬(ねた)みもね。そんな幸福感と相反(あいはん)する不幸感も、先生は神の祝福と同義だと考えるのですよ」

 確かに先生の言う通り、幸せと不幸の感覚は同じ琴線の上に在るのかも知れない。

「アルフォンス・シュミット君。先生は、こうも考えています」

「はい?!」

 先生は、興味深げな僕を見ながら、今度は唇の両端(りょうはし)を上げて微笑む。

「怒りを覚(おぼ)えるから、平穏(へいおん)な喜びを求める。悲しみに暮れながら、嬉しさを懐(なつ)かしむ。……相反する感情を知る事が、神の祝福だと私は思っています」

 幸せも、不幸も、祝福なのだとすると、神はなんて無慈悲なのだろう。そもそも、神は慈悲深く正義(せいぎ)なのだと、何処に示(しめ)されているのだろう? 僕の知る限り、導き、見守り、チャンスを与え、縛り、罰(ばっ)する。明確な救いは無く、永劫に続く試練の中に幸と不幸が繰り返されるだけだ。

「先生、僕は幸せ溢れる日々の中で過ごしていたいと、願っています」

「もちろん、先生もですよ、毎日、幸せであるように祈ります。辛い不幸に苦しむのは嫌ですからね。堪(た)えられないかも知れません」

 そう言って、先生は僕の頭を撫でてから、まるで対等の友人にするように僕と握手をする。

「先生の考えは以上です。話は終わりました。くれぐれも、君の安全の為に、今の内容は忘れて下さい。もし、覚えていても、決して他言してはダメですよ。お互い、どんな惨(みじ)めで悲惨(ひさん)な仕打ちの人生になるか、分りませんからね! いいですか、親にも、兄弟にも、親しい友人にも、絶対に言わないで下さいね。さあ、冷め切らない内にホットミルクを飲んで、寛(くつろ)ぎなさい」

 僕の眼を優しい眦(まなじり)で見詰めながら、立てた人差し指を、自分の唇に当ててから僕の唇に添えた。その仕種(しぐさ)は本当に2人だけの秘密を守る儀式のように感じて、僕の記憶に枷として強く刻まれた。

 話が済むと先生が『こういうのも読んで、当時と現在を比べて史実は自分で学ぶ、習慣を強めなさい』と、僕に貸し与えてくれたのは、史実と幻想が混在記述された旅行記、『マルコ・ポーロの東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』だった。

「その本には、我がドイツの同盟国で遥(はる)か東方に在る強国、日本は、黄金の国ジパングだと書かれていますよ。ジパングの国名は英語のジャパンの語源で、そのスペルをドイツ語発音してヤーパンですね。そして、ジパングの語源は、中国の貿易港が在る地方の方言のジーベンクォです。日本と中国の文字文化は漢字圏で、共に、太陽が昇(のぼ)る国を意味する同じ漢字を使います。日本での発音は全く違うニホンですがね。まあ、そういう事にも考えを馳(は)せながら、面白(おもしろ)く読んで下さい。返してくれるのは、いつでも良いですよ」

 上下二巻の東方見聞録をペラペラと流し読みしながらホットミルクを飲み終えると、僕は御暇(おいとま)すると告げて挨拶(あいさつ)をする。

「そして最期に、他人の意見や提案を鵜呑みにして従(したが)い、後悔をする人生にしないで下さいね。アルフォンス・シュミット君」

「分っています。先生。これは私だけの秘密です。今後、このような質問はしません。明日も、いつも通りにします。ありがとうございました。これで失礼致します。先生」

「ああ、いつも通りだ。さようなら。気を付けて返りたまえ」

 戸口でニッコリと笑いながら手を振って見送る先生へ、小脇に2冊セットの東方見聞録を抱える僕は、笑顔で高く手を振り返しながら帰っていた。

 

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《あの本……。東方見聞録は、まだ先生に返してなかったな……。いつか、シュパンダウへ戻れて本が無事だったら、先生に会いに行こう》

 毛布に包まって通信手席の開いたハッチの縁に腰掛け、無線機に入る敵味方の通信を制帽の上から掛けたヘッドギアのレシーバーで傍受(ぼうじゅ)しながら、冷ややかな夜風に吹かれていたら、再び、まだ、まともな授業なされていた去年の春に、人種論について先生にした質問の続きを思い出していた。

《ドイツ人が神懸(かみがか)り的に優秀な種ならば、僕達はマムートに乗って、森の中の暗い街道を人が歩くよりも遅い速度で進んではいないだろう》

 見てくれの違いは有っても、種の能力は平等だ。教育環境や指導方針の違いなのか、偶々(たまたま)、敵の中に我々よりも優秀な人材がいて、彼らに導かれた戦略はドイツを敗北寸前に陥(おとしい)れている。

 戦争はドイツの負けだ! 国民も、政治も、経済も、国土も、全て失った!

 この森を抜ければ見えるエルベ川までの土地が、第3帝国に残された国土の全てだ。長くても4日、早ければ明日、5年と8ヶ月も続いた戦争が終わってくれる♪

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 1926年生まれのメルキセデク・ハーゼ軍曹は、1936年4月20日の総統誕生日のプレゼントとして第3帝国の満10歳になる少年と少女は全員、自発的に十歳から十四歳までを対象とする、ヒトラーユーゲント内の小国民隊やドイツ少女団内の幼女隊へ入隊した一人だった。

 だがそれは、小学校の学業以外に小国民隊の活動カリキュラムが課せられる負担と不自由さを伴う事だから、ナチス政権下の社会的なムードでも過半数以上が啓発(けいはつ)された自主的な入隊ではなく、政治思想に興味の無い子供達が扇動的な誘導に流された不十分な理解での入隊や、軍曹のような縛りを嫌う放任な子供達が強要されての入隊だった。

 純粋多感な時期にヒトラーユーゲントへ盲目的に入隊した彼は、その攻撃的な刺激と開放的な理想に感化されて中隊指導者を任(まか)されるまでになっていた17歳の時、志願した空軍の飛行士とは違う武装親衛隊へ配属され、機甲兵として特化した軍事訓練を6週間の短期で受けた。

 着任した第12SS装甲師団の第1戦車大隊は、ハンガリーのバラトン湖周辺での攻勢以外は防御、後退、反撃、退却、待伏せ、敗走を繰り返すだけの防戦と撤退戦ばかりで、偶然に軽い負傷だけで生き残っていたら軍曹まで昇進して戦車長になり、1級鉄十字章を拝受(はいじゅ)された。しかし、強大な敵との混沌たる戦いと悲惨な損害の現実に、ヒトラーユーゲントとしての理想の理念は打ち砕かれてしまったと、理想のアーリア純血種の美形顔の頭に巻いた包帯が痛々しいメルキセデク軍曹は言っていた。

 軍曹より一歳年下の1927年生まれのバラキエル・リヒター伍長も、17歳でヒトラーユーゲントの理想の理念に燃えて志願したドイツ陸軍へ入隊していた。教練中に素早(すばや)い暗算力を見い出された彼は、希望通りに戦車隊へ配属されて砲手席に座る事になった。

 そのラテン系をイメージさせる明るくて軽い容姿からは想像できない精密な射撃は、胸の銀色戦車突撃章が伊達(だて)ではない事を乗員達に知らしめた。そんな彼も防衛戦と敗退続きの挙句、ソ連軍が厚く包囲するベルリン南方のハルベの森からの困難極まった脱出戦闘で、これまでの人生観を否定してしまいそうな虚(むな)しさを抱えてしまった。それでも今は、虚しさの埋め物を探すようにマムートの砲手に専念している。

 ラグエル・ベーゼとイスラフェル・バッハとダブリス・クーヘンの3人は1928年生まれで、ルール地方のパーダーボルン市に在るクルップ社の軍需工場の工員だ。

 義務教育の基礎学習期間である10歳までの初等学校を卒業して、直ぐに就職しているラグエル・ベーゼとイスラフェル・バッハは、既に7年間の労働経験が有る兵器工場の熟練組立技能者で、四年制の中等科を卒業してから作業工程と部品の設計補佐に就き、技術者として3年余りが経(た)つ、タブリス・クーヘンを2人はリーダー格として慕(した)っていた。

 3人が就労当初に指導を受けて師(し)と仰(あお)ぐ、それぞれの親方達は、日々、緊迫が増す厳しい戦況で昨年末に召集されて居なくなり、故に彼らは10代の若年ながらも、老齢な未経験の作業者や外国人労働者を働かして作業工程を監督するなど、中堅(ちゅうけん)クラスの仕事を任されていたそうだ。

 タブリスはヒトラーユーゲントの籍を持ち、ラグエルとイスラフェルはヒトラーユーゲントから国家労働奉仕団へ籍を移していたが、フル稼働、フル生産を続ける工場の忙(いそが)しさに、全く其の活動に参加していなかった。

 それに、『ゲシュタポが捕らえて公開処刑した仲間の報復に、密告したヒトラーユーゲントの隊員や其の小隊リーダーを誘拐(ゆうかい)して、公開処刑と同じ場所に吊(つ)るしている、アンチ・ヒトラーユーゲントのエーデルヴァイス海賊団と接触した事が有る』と、重労働だった戦闘履帯への交換作業を終えた気の緩みで、『ずっと緊張しっぱなしの毎日は、辛(つら)くて飽(あ)きて来たなぁ。ああ、早くエルベを越えて、自由な西側へ行きたいよ』なんて、グチが近くにいたタブリスに聞こえてしまい、『しまったぁ! 自己犠牲の精神も、義務を果たす意欲も無いクズと罵(ののし)られてしまう……』と、慌(あわ)てる僕の間近にラグエルとイスラフェルと共に彼は来て、こっそりと耳打ちで言った。

 そして、『ちゃぁんと生き残れば、おまえもルールに来て、ドイツが落ち着くまで好きにしてればいいさ。ルールに来りゃ、戦後の後片付けと復興事業の仕事で、直ぐに大儲けできるぞぉ!』と言ってから、『そうなりゃ、親も呼んで一緒に暮らせるしな』と付け加えて、ラグエルとイスラフェルとタブリスの3人は大笑いした。

 

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 午後8時半過ぎ、陽が暮れて辺りが黄昏(たそがれ)時(どき)に暗くなり始めた頃、通り過ぎるニーレボック村には、森側の村外れに口径75mmの対戦車砲が1門と、村内中ほどの風通しを良くした家屋の中には、アハト・アハトと兵士達に親しがられている口径88mmの対戦車砲が据え付けられていた。

《ドイツ軍の救世主、アハト・アハトだぁ》

 映画館で観る週間映画ニュースに、ファンファーレとマーチのBGMを響かせて登場する、我が軍の窮地(きゅうち)を何度も救った頼もしい機能美が間近に見れている。

 アハト・アハトはティーガーE型重戦車にも搭載され、更により強力な長砲身のアハト・アハトがケーニヒス・ティーガーや重対戦車自走砲に載せられて、無敵の打撃と防御陣を構成していたはずなのだが、殺られても、殺られても、相手を屠(ほふ)るまで数10倍の数で圧して来る敵に、生産数と多方面の補充が追い着かずに、今日の帝国の終焉真際に至っている。

 この終焉の黄昏に、映画ニュースで聞いた乾いた発砲音の轟きは、天使が吹き鳴らす、世界の終わりを告げるラッパの音(ね)ように、聞こえるかもと想像してしまう。

《多くの天使が舞い降りて、打ち倒されたり、砕け潰されたりした人々の魂を、次々を天へ召し運ぶ姿が見えてしまうかもな。……自分が浮き上がり、手を繋いて導く、天使の嬉しそうな笑顔が見れるかもだ……》

 低い茂みの後ろに土嚢(どのう)で囲(かこ)った浅い塹壕の中から狙(ねら)う75mm対戦車砲は、砲兵達が火を熾(おこ)して炊事中だというのに、真横へ来るまで全く気付けず、心臓が止まるかと思うくらい驚いて僕を焦らせた。

 村の中でマムートを停めて食事休息をした際に見てきた88mm対戦車砲は、厚い木材の壁の内外を更に石材と土嚢で厚く防御された、太い梁と柱の頑丈(がんじょう)そうな広い大きな部屋に床板を剥(は)がして据(す)えられていた。手持ちの弾薬量は知らないが、森の中の曲がりまでを直射できる位置と士気の高い老練な砲兵ばかりだったから、直撃を受けない限り、弾を撃ち尽くすまで持ち堪(こた)えてくれるだろうと期待した。

 軍曹は、変則十字路に在る教会の横の広場に沢山の空になったジェリカンが捨てられているのを見付けて、その内の20個余りを貰って来て、細いロープで2個づつを持ち手で縛って繋げ、更にマムートの後部のフック間に張った太めのロープに通してぶら下げた。

 これらのジェリカンはエルベ川を泳いで渡るかも知れない時の浮き輪代わりにすると、軍曹から聞かされて、『どうか、雪解けの冷たい川を、泳がなくても済みますように』と、祈った。

 供(きょう)された晩飯は、牛の筋肉と玉葱(たまねぎ)をトロトロに煮込んだ塩味のシチューと穴ボコだらけのエメンタルチーズ、所々の穴に青カビが生えていたけれど、独特の臭味(しゅうみ)のブルーチーズっぽくて旨(うま)かった。他にも山羊(やぎ)の乳から作る柔(やわ)らかいシェーブルチーズが有り、それに加えて焼きたてのパンと、パンに塗るバターとマーマレードも出されていたし、飲み物には井戸水と新鮮な牛乳が有った。年配者には半カップ分の白ワインも配られていて結構楽しい食事になっていた。

 この辺りは酪農(らくのう)主体の農業が生業(なりわい)だそうで、毎日1頭の乳牛が屠殺(とさつ)されて、半身が村に残る住人と守備兵の3食に料理されていた。残りの半身はエルベ川河畔まで運ばれて、渡河を待つ避難民や兵隊に食べさせていた。

 牛乳を搾(しぼ)る為の肉牛ではない乳牛が殺されて食べられるのを、ちらりと哀(あわ)れむ気持が湧(わ)くけれど、僕達の方が生存率が低いかもと、自分を憐(あわ)れんで嘆(なげ)きそうになってしまう。

 アルテンプラトウ村でも屠殺されているから、戦争が終わってロシア人に搾取(さくしゅ)されるまでは食う物に困(こま)らないと、ニーレボック村の北外れの料理場で大鍋からシチューを大盛りで粧(よそ)ってくれた年輩の炊事兵が話してくれた。

 戦争の最末期の最後の脱出路で温(あたた)かくて柔らかい肉料理とチーズを美味(おい)しくいただけるのは、『生きててよかった』感いっぱいの幸せさで凄く嬉しい。明日は豚肉と馬鈴薯(ばれいしょ)の煮込みで、朝食にアヒルの卵(たまご)と茄子(なす)のピクルスが配られるとも言っていた。

 一時間半の食事休止を終えて、守備位置までの移動が再開された。アルテンプラトウ村から来てくれた護衛兵に、『あと、3kmほどの距離ですが、路肩を崩さないように、低速で移動して下さい』と願われた軍曹の指示で、ノロノロと時速1kmの最低速でマムートを動かすタブリスが、『かえって燃費が悪くなる』とぼやいていた。

 こんな低速で慎重に動かしているにも拘(かかわ)らず、ところどころでマムートの重量に耐え切れない路面がボコリと凹(へこ)んで、ヨチヨチ歩きみたいになっていた。

 時々、発砲炎は見えなかったが、ロスケの偵察隊との小競(こぜ)り合いだと思われる小銃や短機関銃の射撃音が、東や南の森の奥の方から夜半過ぎまで断続的に聞こえていた。

 時折(ときおり)、北方の防衛ラインからは入る、『敵の攻撃を退けたが、包囲されて救出を求む』とか、『耐え切れずに、後退して戦線を縮小した』との無線内容を、砲塔の前縁に突撃銃を抱えながら座るメルキセデク軍曹へ大きな声で伝えながら、マムートと前を進むフェアヒラント村から来てくれた兵士達を追い抜いて歩いて行く避難民と敗残兵のシルエットに怪(あや)しい動きがないかと、ハッチ脇に置いた短機関銃に指を掛けながら見ていた。

 左隣の操縦を担(にな)うタブリスは全開にしたハッチから頭だけ出して、直接、路面を目視しながら避難民や敗残兵の歩みに合わせてマムートを慎重に進ませている。

『バラキエル、あんまり体重を掛け過ぎて、機関銃架を曲げるなよ!』、軍曹が掛ける声から、バラキエル伍長は車長のキューポラに腰掛けて取り付けられているMG42機関銃に凭(もた)れているらしい。その銃袈にはアルテンプラトウ村の駅舎から持って来た蝙蝠傘(こうもりがさ)が全開にして括り付けらていた。

『後部の、でかいハッチは閉めておけよ、ラグエル。火炎瓶(かえんびん)でも投げ込まれちゃ、かなわんからな。2人とも、周囲と近付く者に注意してくれ!』、ラグエルとイスラフェルも突撃銃や短機関銃を持って車体後部上へ出ているようだ。

 マムートの後方や側面には、ゲンティンの町から護衛してくれている12名の若い防衛隊員が付いて警戒している。

 進む街道は、間近を照らす前面装甲板の中央に備えられた遮光(しゃこう)カバーを着けた前照灯の明かりと、辺りをぼんやりと見せる雲の切れ間から差し込む月明かりや星明りに、道筋を示す小さな炎の光で迷う事が無かった。

 フェアヒラント村と南隣のディアベン村の間の低い丘の北側に在る、エルベ・ハーフェル運河やエルベ川を運行する水運船やローカル鉄道で使う燃料を貯蔵した小さな石油基地が稼動(かどう)していて、その施設を囲んで防衛拠点が設けられている。低い丘は軍に接収されてトーチカだらけらしいが、強力な火砲がなければ、迂回されて容易(たやす)く陥落(かんらく)されてしまうだろう。

 当面、マムートや防衛車輌の燃料補給と近隣の村の生活に使うには充分過ぎる量が確保できていると、マムートのアンブッシュポジションへ案内する為にニーレボック村までアルテンプラトウ村から迎えに来てくれた10人ほどの分隊のリーダーが、夜の街道筋を示す50m置きに道脇で灯(とも)す、灯油を燃やすカンテラの小さな明かりを指差して説明してくれた。

 

 * 5月5日 土曜日 午前零時過ぎ フェアヒラント村 駅近くの守備位置に到着

 夜半過ぎ、ニーレボック村から僅かな傾斜で下る街道を降り切ると、正面の真っ直ぐに続く街道の果て、暖(だん)を取る為にエルベ川の土手際で大勢の敗残兵や避難民達が隠(かく)れて燃やす、多くの焚(た)き火(び)に赤く色付けされる闇を背景に、フェアヒラント村の家並みのシルエットになって見えていた。

 案内された街道脇の待機というか、待ち伏せの場所は、カンテラで照らして回って見た限りでは、細い切り株と雑草の草地が所々に残る礫と粘土混じりの砂で固められた宅地跡だった。

 生い茂っていた細い幹の潅木(かんぼく)は全て切り除かれて、敷地の角隅に束ねるようい置かれている。歩き回っていても柔らかな墓所は無く、マムートを乗り入れても沈み込む事は無いと判断された。

 フェアヒラント村から来た警護兵のリーダーが言うには、中世のプロイセン王国から第1次世界大戦で滅亡するドイツ帝国がまでの封建期を通して敷地は、渡し場へ行き来する通行人と荷物を吟味(ぎんみ)する関所と兵士の詰所が在ったそうだ。それがヴァイマル共和国になって廃止され、使われていた建材は、土台から解体されて村の家屋の修理や新築材として持って行かれたらしい。

 だから、まだ太い松の木が生えていない固い地面で、手っ取り早く駐車場に出来る、この敷地が選ばれていた。

 マムートの乗り入れは、最初に街道上で砲塔を180度の後方へ回転させて砲身を、闇の中で障害物との衝突(しょうとつ)による損傷を避けるのと、敵が来そうな方向への警戒の為(ため)に向けた。それから、恐る恐る地面の凹み具合を度々(たびたび)カンテラの明かりで確認して極低速で進ませて行く。酷く凹まないのがわかると。ゆっくりと車体を超信地旋回させて街道側へ向かせながら、砲塔はその向きを保つように車体の回転速度に合わせて逆回転させて戦闘体制にさせる。車体の大きなマムートは敷地の奥まで下がらせてやっと、砲身の先が街道上に掛からなくなった。

 少し離れて敷地周囲の森の中に塹壕を掘り始めた警護兵達は、新たに加わった憲兵隊の兵士と共に六名づつの交代で辺りの警戒と街道の通行規制を行ない、クルーも半数の3名づつが交代でマムート上で警戒にあたる。

 

 * 5月5日 土曜日 フェアヒラント村 駅近くの守備位置(待ち伏せ場所)

 ぼんやりと白い靄(もや)が辺りを覆う、まだ薄暗い早朝に全身を揺すられて起こされた。時刻は午前四時、白み始めた上空の雲が辺りの闇を覆う霧を暗い灰色に見せている。5時半前には陽が昇るから、だんだん薄れる闇に霧は白くなって行くのだけど、状態は明るくなっても視界は50メートルから100メートルってとこだろう。

 朝から夕方まで雨が降っていた4月28日以来、大気は暖かくなって来ていたが、曇りの日が多くて晴れていたのは5月3日と5月4日の午後だけだった。無線機で聴いたラジオの天気予報では、中央ヨーロッパへ高気圧が張り出して来ていて、晴れの日が続くと言っていた。

 しかし、晴れると気流が安定して来襲する敵機は増え、高くなる襲撃高度に対空弾幕の効果は薄れてしまう。

 そして、明るい視界に遠くまではっきり見えて来ると、発見される確率と爆撃精度が上がって、マムートと僕達は殺(や)られてしまうだろう。だから、戦争が終わるまで、もう少しだけ曇り空が続いて欲しいと、僕は見上げた曇り空に祈った。

 軍曹の前に搭乗員全員と護衛の防衛隊員が姿勢を正して整列すると、防衛隊員達には街道を通り行く避難民や兵隊達をマムートに近寄らせない事と、側面と後方の森の中を含めたマムートの全周囲警戒を指示し、乗員達には直ぐにマムートの擬装をここの植生に合わせて遣り直しを令じた。

 僕達は、昨日の戦闘と移動で脱落して半分ほどしか残っていない擬装の枝を薪用に纏めてから、マムートが陣取るスペースを開ける為に伐採されていた潅木を使い、ゲンティンの駅前で施した様な厳重なカモフラージュで、マムートを背後の松の木の森の下生(したば)えと同化させた。

 それが終わると、曇り空の上に太陽が昇って来たようで、視界に映(うつ)る世界が少しだけ暖(あたた)められて薄れ始める霧に明るくなった。そのタイミングで遣って来た小型トラックが約束されていた朝食を届けてくれて、緩む気温と共に湧き出す食欲が美味(びみ)な食事を期待した。

 配給されたアヒルの大きな卵は、熾したばかりの炉の火に掛けられたフライパンで目玉焼きにする。温められた昨夜のシチューの残りスープに焼き立てで熱いパンと貰って来ていたバターやジャム、それに一緒(いっしょ)に届けられたピクルスを並べ、熱い代用コーヒーとホットミルクも有り、マムートを警護する防衛隊や憲兵隊の若い兵士達も一緒になって、朝からピクニックのような楽しい食事になった。

《ニーレボック村が無事な内は、日に3度、このような幸せな食事が続きそうだ……。でも、あと2、3日だけだろうなぁ……》

 朝食が済むと、マムートの守備位置へ布陣完了を第12軍司令部とフェアヒラント村守備隊本部へ無線で知らせ、傍受するソ連軍の無線交信から攻勢を掛けて来る気配を探って軍曹に報告する。

「軍曹、敵の交信に交戦中の緊迫したり、慌しい様子は有りません。軍司令部と守備隊本部への着任完了報告も済ませました」

「御苦労、アル。それでは偵察へ出るから、俺の護衛として一緒に来てくれ」

 そう言うと軍曹は、突撃銃と予備弾層が詰まったポーチを付けたベルトを押し付けると、戦場となる地形の把握(はあく)の為に街道をニーレボック村の方へ歩いて行き、僕は急いで突撃銃を担(かつ)ぎ、ポーチベルトを腰に装着しながら付いて行く。

「これも、腰に持ってろ。戦闘に遭遇したら、武器は多い方がいいぞ」

 短機関銃を背中に斜め掛けした軍曹が自分の腰ベルトに付けたポーチを叩きながら、僕へ拳銃が入った厚皮のポーチを押し付けた。

 拳銃や既に腰から下げている銃剣を用いるような近接戦闘や白兵戦に巻き込まれたくないと、嫌悪の気持悪さが甦(よみがえ)る。

《ロシア人と取っ組み合いで殺し合うなんて、嫌だ! 敵の声が聞こえる近さなんて、シュパンダウだけでたくさんだ!》

「薄い雲で明るいな。だが、雲は低い。1000から1500mってとこだろう。3層に重なってるが、上層の雲は疎(まば)らだな。こんな曇り空じゃ、今日も空から攻められる事はないだろう」

 手を翳(かざ)して霧の晴れ間から見える曇り空を仰(あお)いで言う軍曹の言葉に、安堵(あんど)が滲(にじ)んでいる。

 少し晴れて来た朝霧の中から次から次へと、艀乗り場へ向かう避難民や負傷した兵士が現れて僕達と擦(す)れ違う。

「対岸を占拠するアメリカ軍が、ドイツ国防軍の将兵以外を拒(こば)んで渡らせていないらしいぞ。川辺には1万人以上の避難民が渡れるのを待っているみたいだ。どのみち、ソ連軍がエルベの川縁まで迫れば、アメリカ軍が拒もうが、銃撃されようが、皆が一斉に渡っちゃうのにな」

 『多くの犠牲者が出るだろう』の意味を込めて話す軍曹の顔が、『マムートの砲撃で強引に渡河のチャンスを作ってしまおうか』と、言わんばかりに悲しそうだ。

《自由で民主主義の国、アメリカの兵隊が、自由を求めて逃れて来る子供や女性や老人を、命令とはいえ、平気で溺れさせて撃ち殺せるのか? そうなら、マムートが艀乗り場を防衛する意味は、どこに有るんだ!》

 最後の切迫する場面になってもアメリカ軍が拒み続けるなら、きっと軍曹はマムートを河畔まで進ませて、残していた榴弾で対岸のアメリカ軍陣地を粉砕するだろう。

《軍曹なら、必ず殺ってしまうはずだ!》

 マムートの重量で凸凹(でこぼこ)にした僅かに登り傾斜になる街道をニーレボック村へ向かって歩いて行くと、線路からニーレボック村への中間辺りの牧草地に対戦車壕が南の森際まで掘られていた。

 幅は10mくらいで深さが4mほどの逆台形の溝だ。急勾配の斜面や底に刈り取った牧草が敷き並べられて、敵が来るだろうと予想される東側から近付いてみると、間際(まぎわ)まで行かないといて気付けなかった。6m以上は有る底幅に敵戦車が嵌まり込んで、自力では簡単に抜け出せないように見えた。

《マムートなら、足掻(あが)いても埋(う)まり込むだけで、完全にスタックしてしまうから、放棄して爆破するしかないだろうなあ》

 壕周りに地雷原が在る事を示す表示は無く、パンツァーシュレックやファストパトローネで迎え撃つ為の兵士が潜む塹壕も、見える範囲には全然無くて、ただの足止め用の大きな溝だった。だけど、森を抜けた街道から牧草地へと来る敵戦車と、ゼードルフ村への道や送電塔が並ぶ切り通しから来る敵戦車も、この対戦車壕の前で停止しなければならない。

 落ちてしまうと抜け出すには、斜面を崩して登れるような坂を作るしかないと思う。

 見渡しの良い開けた射界に停止してくれる敵戦車は、マムートの128mm戦車砲の絶好の標的になるだろう。

 街道の北側沿いには太い松の木の深い森が、マムートの周囲や駅舎が在る線路を越えてフェアヒラント村の東際まで続いていた。森の東端の中、ちょうど街道を挟んで対戦車壕が南へ掘られている反対側に、砲座が1mばかりの深さに掘られて、ニーレボック村方向の街道と対戦車壕沿いを掃射できるように88mm対戦車砲が潜んでいた。

《ここにも、アハト・アハトだぁ》

 ほぼ正面からマムートが狙い撃ち、右側面からはアハト・アハトが叩く。随伴して対戦車壕を通り抜けれる様に崩すだろう敵の歩兵や工兵は、アハト・アハトの周辺の森の中に掘られた塹壕で機関銃を構えている第12軍の兵士達が撃ち倒す。

 森の中や砲座で朝食中の兵士から聞こえて来るドイツ語以外の言語に、よく見ると、ドイツ人に殆ど見られない顔立ちや立ち振る舞いの外国人が多くいるのを知った。

 半数以上がドイツ人と違うように見えて、制服や迷彩柄がバラバラだった。

《そういえば、ニーレボック村でも、意味の分からない外国語が頻繁(ひんぱん)に聞こえていたなあ。てっきり、軍隊のスラングだと思って、注意を払わずに聞き流していたっけ》

 彼らはドイツ陸、海、空軍と親衛隊の補助兵や義勇兵で、祖国に戻れば裏切り者の戦犯とされ、戦後社会から抹殺(まっさつ)される。大抵は絞首刑か、終身刑だ。ソ連軍へ降伏しても、其の場で射殺か、シベリアで飢えに苦しみながら死ぬまでの重労働だ。なら、好い思いをした第3帝国と運命を共にすると考えるのも当然だろう。

 東側と南東の地形と防衛ラインの戦力の確認をした軍曹は、不測の戦闘の警戒に砲手のバラキエル伍長とラグエルとイスラフェルの2人の装填手をに残して、僕とタブリスを連れて南側と西側の視察に行く。

 軍曹が僕を警護に付き添わす理由は、クルーの中で一番失ってもマムートの戦闘力に影響が少ないのが僕だからだ。それは悲しいけれど、理解できて自覚している。

 フェアヒラント村の中の通りや外周の家屋の庭には、土嚢や瓦礫を組み上げたような防衛拠点が一つも無く、街道から川岸へ向かう多くの避難民や兵士が艀に乗せれない家財道具や荷車を捨てたり、手荷物に纏め直したりして、歩いているだけだった。

 見て廻る限りでは、村の南外れに在る艀乗り場と其の周辺も、司令部となる施設や防衛戦闘の陣地は造られていない。

 西方へ脱出するタイトな通過点となる村内や渡し場は、小隊規模の憲兵部隊が秩序を保たせて、負傷者を傷の程度で選り分け、決めた順番で乗船する列に並ばせていた。

 敢(あ)えて言えば、フェアヒラント村の防衛指揮官は秩序ある渡河を指揮する憲兵隊の部隊長の若い中尉で、軍曹は中尉に全員が脱出する大体の所要時間を訊(き)いていた。

 村内の川縁と艀乗り場周辺の川原には、既に1万人以上の避難民と敗残の兵隊達が居て、小さなフェリーは重傷者を優先に負傷兵を、アメリカ軍の衛生兵や軍医が治療の見極め判別をする対岸の船着場へと運んでいて、負傷兵が列を成して乗船順番を待っていた。

 憲兵中尉の話しでは、軍曹が言っていたように避難民達は、まだ乗せて貰えていない。

 村の教会敷地内と艀乗り場には、救護の野戦病院とエルベ川を渡ろうと集まって来る人達への炊き出しの炊事場所が設営され、其の為の要員と警護の兵士達もいた。

 防衛陣地らしきモノは、見通しの良い村外れの少し離れた場所に広い間隔で配置された対空砲が有った。積み重ねた土嚢で囲って土と草木で擬装した5箇所の対空砲陣地には、4連装の20mm機関砲が1機、単装の20mm機関砲が2門、それと単装の37mm機関砲が2門、それらが対空戦力と配置されている。

対地防衛火力としては、村の南外れの道路脇に1門の88mm対戦車砲が隠されているだけで、攻め込まれ易そうな南側の防御としては心細い。

 他に情報として、南側の低くて小さな丘の天辺に配備されている1機の20mm4連装機関砲は、高度2000mまでを全周囲で射撃できるそうだ。

 それに、その丘の南側に在るディアベン村と、更に南の要害になる運河の閘門(こうもん)が在るノイディアベン村に、それぞれ2門の75mm対戦車砲を装備する戦車猟兵中隊が防衛配置されていると、対戦車砲陣地を指揮する陸軍少尉がメルキセデク軍曹に話していた。

 要するにフェアヒラント村の渡し場を守る戦車や自走砲は、マムート以外に1台も無かった。

 戻りは小規模な燃料貯蔵施設を守る陣地近くを通って線路の枕木を踏みながら来た。

 施設の貯蔵タンクの全てと防衛陣地は幾重にも迷彩ネットで覆われて、遠目には全く建造物が在るように見えなかったから、上空からの視認も低空に降りて来ても気付けないと思う。

 燃料貯蔵から駅舎への中間点の線路脇で浅い窪地に塹壕を掘って陣取る、地元のヒトラーユーゲント隊員達とも会って、軍曹は過酷な戦車戦と負傷時の事を、僕はベルリン市のシュパンダウ区で経験した実戦を話して、無駄死にをしないように促した。

 12、3人の紺色の長いスカートを穿いた少女団の女子達もいて、見たところ、年少者で僕と同じくらい、年長者でもタブリスと同じ歳ほどに思えた。

 24、5人の少年団の男子達と共に最前線の塹壕の臭くて汚(きたな)い泥の中で、敵の来襲を待つ彼女達は凄く勇敢だが、僕がシュパンダウ区の大通りで体験したような激しい砲撃を耐え凌(しの)いで、迫り来る敵と戦う恐怖に神経が病(や)んだり、身体が崩れてしまわないかと、哀(あわ)れむような悲しみに息が苦しくなってしまう。

 塹壕内に木箱にいれたままで置かれていたファストパトローネの実戦での取り扱いの注意点と狙いの構え方と気持の持ち様を、僕は生意気にも男気が有るのをみせようと、塹壕にいた全員を集めて語ってしまった。

《構えるのも、狙って発射するのも、1度だけでいいんだ。上手く敵を撃退できたら、直ぐに逃げて、1人でも多く、生き残って欲しい……》

 軍曹とタブリスはマムートが後退するのを見たら、直ぐに船着場へ行って西岸へ逃れるように強く言い、僕は横で大きく頷いていた。

 真剣に生き残る事を話すタブリスの視線は、何度も左右に動いて皆を見回すが、必ず1人の女子へ戻って暫し見ていた。そして、その視線に答えるように彼女も少し紅らめた顔で、じっとタブリスを見詰めていた。

《おいおい、タブリスさん。何、見詰め合ってるんだよぉ》

 タブリスが目を付けた少女は、女子達に指示や注意をする態度と率先した行動から少女団のリーダーだと思われた。膝下10cmのスカート丈の規則を守らずに短い膝丈にしている彼女は、僕に家の近所に住んでいる幼馴染(おさななじみ)のビアンカという名の同級生の女子を思い出させた。何処と無く仕種もビアンカと同じようで、彼女もビアンカのような快活で明るくて優しい性格だと思う。

《おおっ、タブリスさんは、意外と女子を見る目が有るねぇ》

 けっこう彼女は美しいし、タブリスも、なかなかのハンサムだから、似合いのカップルっぽく見えて気持が騒いだ。

《でも、このモヤモヤする気持は、ジェラシーだよな……、羨(うらや)ましい……》

 マムートへ戻って来ると、ゲンティンの町から付き添って護衛してくれた防衛隊員達が整列して、町へ帰る旨を軍曹に伝え、来た道を戻って行った。

 

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 昼近くにアルテンプラトウ村の方向から爆発音が響き、続いてくぐもった激しい銃声と砲撃が森を通して暫く聞こえていたが、それっきり散発的に聞こえて来るだけになった。

 正午過ぎになってニーレボック村から昼飯を運んで来たトラックの運転手が、アルテンプラトウ村とゲンティンの町にソ連軍が侵攻して守備兵達が逃げて来ていると、更にゲンティンの町が陥落すれば、明日は集結するソ連軍がニーレボック村とゼードルフ村を攻めるだろうと、不安を隠さない顔で言っていた。

「あの、政治指導官殿は、降伏すると言っていたな。俺達に協力してくれた人らが、……無事だといいな」

 昼食のデミグラスソースのシチューの肉はポークで脂身が美味かったが、メルキセデク軍曹の世話になった人達の安否を気遣う言葉に、ゲンティンの駅舎で炊事をして3度の食事を提供してくれた母親ぐらいの女性達と、牽引車のクレーンを操作する乗員達の笑い顔を思い出した。

「親切な人達だったな」

 ぼそりと、続いて言ったバラキエル伍長の言葉に、寡黙(かもく)になった皆が頷く。

 午後の昼下がりは、ペリスコープのミラーとレンズの指紋や埃を拭いて視野を明るくさせると、配られた迷彩ネットをマムート上に張り、更に枝葉を乗せて上空から見付からないようにカモフラージュを厳重にした後は、無線機の調整と傍受、突撃銃と短機関銃と拳銃の手入れに終始する。他のクルーも共同作業以外は自分の担当の整備と調整をしていた。

 各自が受け持ちの整備と調整を済ませる頃合いで、午前中に会っていたフェアヒラント村のヒトラーユーゲント達が挨拶に来た。リーダーに率いられて来たのは12、3人で、少女団の5人全員も来ている。

 男子達はガチャガチャとガラス瓶に入った飲み物を、女子達は村内の自宅で作ったケーキとサンドイッチ、それに花束を持って来ていて、警護の兵士や憲兵隊員も交えた、ピクニック気分の華やかな交歓会になった。

 久し振りに食べるケーキは、塗り捲った生クリームとスポンジ生地が甘くて美味しい。サンドイッチの香り豊かなパンは柔らかく、挟まれた目玉焼きやコールドビーフも甘めのソースに絡められて、とても旨かった。

 やはり、戦火が殆ど及ばなくて死傷者を見ない田舎は、昼夜の空襲と供出ばかりの都会と違って食べ物が豊富で、安全な日常が続いていると羨ましく思う。

 女子達はラグエルとイスラフェルの職人話や憲兵の与太話にキャッキャッと盛り上がり、男子団員と兵士と僕はメルキセデク軍曹とバラキエル伍長の実戦話に聞き入っている。タブリスは例の美少女と二人っきりで笑い合って凄く楽しそうだ。

 午後四時頃、昼前にゲンティンの町へ帰隊する為に出発した12名の防衛隊員が現れて、既にソ連軍が鉄橋と国道橋まで浸出して、渡れないエルベ・ハーフェル運河に、『戻って来るしかなかった』と嘆(なげ)いた。家族が居る町が敵に占領されて悲しむ彼らに、交歓会の残り物を勧めて慰(なぐさ)める。

 午後六時半過ぎ、まだ焼きたての香りが立つビーフステーキと茹でた馬鈴薯の晩飯を運んで来たトラックの運転手は、昼と同じ炊事兵だった。彼はアルテンプラトウ村とゲンティンの町は夕方に降伏したと言い、森の中の街道は封鎖して中間点の曲がりを防衛前線にしているが、まだソ連軍は集結中で攻めて来る様子は無いと、直ぐにでも脱走しそうな苦渋(くじゅう)の顔で知らせてくれて、去り際に大きなチーズの塊りを三つも置いて行った。

 明日が戦闘になれば、いつ食べれるだろうかと考えながら、ちゃんと交代で起きれるようにと早めの眠りついたが、深夜に牧草地を横切って行った戦車小隊らしき友軍が未明に始めた反撃は明け方まで続いて、その気掛かりと心配の緊張はピークに達して全然眠れなかった。

 

 * 5月6日 日曜日 フェアヒラント村 駅近くの守備位置(待ち伏せ場所)

 未明に強行された1個中隊規模の戦車と突撃砲の混合戦力を主体として、各種兵科の志願者で編制された1個連隊の兵力にも満たない戦闘団の反撃は、森の向こうから射撃音と爆発音が、2時間ほど激しく聞こえ続けていたが、それも夜明けと共に止んで、誰もが静けさに包まれた早朝の立ち込め始めた白い靄の中から現れる敵を警戒した。

 だが、ソ連軍は反撃で大きな損害を受けたのか、攻めては来なかった。

 昨日と同じメニューの美味な朝飯を運んで来た運転手は違う炊事兵だったが、彼は未明の反撃の様子を話してくれた。

 反撃はゲンティン駅からフィッシュベック村への線路沿いの国道を、パンター戦車の中隊が未明に北方から強襲して、集結したソ連軍の戦車や砲兵部隊を破壊しながらゲンティン駅まで攻め込み、ニーレボック村への街道に並んでいた敵の重戦車中隊の全車と、ゼードルフ村の前面にいた戦車の半数以上まで撃破して、運河沿いに砲列を敷いた砲兵部隊も潰したが、随伴した装甲車部隊まで全滅して1輌も戻って来なかったと、夜の森の中をアルテンプラトウ村近くまで行って見ていたそうだ。

 朝食を済(す)ます頃には、霧よりも薄い靄が晴れ初めて、上空は昨日よりも高い雲が空が広がっているのが分かり、ソ連軍機の襲来が予想されて、3人は地上を、3人は空を警戒する事になった。

 未明の激しい戦いにソ連軍の攻勢を予想したアメリカは、とばっちりの被害を避けて、岸辺から2kmほど離れた丘陵の向こうまで撤退しまい、その事を河畔に集まっていた人達は知って、探して用意した全ての浮き舟でエルベ川を渡り始めた。

 一斉に避難民達がエルベ川を渡り出したのを知られたのか、一時間も経たない内にソ連空軍が雲間から編隊で現れ、低空で河畔を襲う。

 高度3000m辺りに薄く広がる曇り空を背景に、ソ連機のシルエットがはっきり分かり、猛烈に撃ち上げる対空機関砲の曳光弾の火線が、ダイブで迫り来る攻撃機の先へ、先へと流れ、被弾に砕けてパラパラと散り落ちる機体の破片が見え、空のあちら、こちらで煙を引いたり、火を噴く敵機がクルクルと舞い落ちていた。

 落ちるのが見えたのは5機で、2機がエルベ川の対岸の方へ落ちて炎と黒煙が立ち、南の森へ2機が消えて爆発が一つだけ見えた。そして、対戦車壕の前に双発機が滑(すべ)るように不時着すると、バラキエル伍長がメルキセデク軍曹の命令を待たずに同軸機銃で撃ち掛けて、誰も脱出しないままに爆発させた。

 空襲は更に陽が傾き出すまで続き、ソ連空軍の引き上げが始まるまでに、更に5機が撃墜された。

 味方は河川敷に落ちた爆弾で多くの避難民が犠牲になったが、2隻の艀は軽微な損傷のみで無事だった。

 フェアヒラント村の家屋が10棟も燃え、平地の対空陣地が二つ潰(つぶ)されて、4連装の20mm機関砲が1機と単装の37mm機関砲が1門、お釈迦になって、操作要員の全員が死傷していた。

 南隣のディアベン村とノイディアベン村、東側のニーレボック村も被害を被(かぶ)り、、幾条もの上がる煙と焼け落ちる家が見えた。

「とうとうソ連軍は、集まって来る避難民達を東へ戻すのと、ドイツ兵達を捕虜にするのを諦めて、殲滅する事にしたようだな。明日は地上攻撃が、空からと砲撃に支援されて、激しく来るぞ!」

 昼過ぎには送電線の鉄塔が並ぶ、南東の森の一部を伐採した切り通しの向こう在るゼードルフ村の方から煙が立つのが見え、聞こえていた激しい銃砲撃の響き轟きは、日没真際にピタリと止んで静かになった。

「南の森の向こうは、ロスケに破られたようだな。明日はそっちからと、ノイディアベン村から廻られて来るな」

 明日は正面の左から右までの全てから敵が攻めて来るから覚悟しろと、軍曹は言っている。右側のエルベ川へ至る退路を断たれたら明日は生き残れないと、晩飯のデカイて柔らかい肉がゴロゴロと入ったビーフシチューを楽しみながら思う。

 実際に直面していない事を予想して深刻に悩むと、溜め息ばかりが出て、圧迫されて息苦しくなる胸と、速くなる動悸(どうき)の心臓に食欲が無くなって、飯が不味(まず)くなるので、クルーの誰しもが軍曹の言葉を聞き流して不安材料を話題にしない。

 昼は携行食のチョコバーとフルーツバーで水筒の水しか飲んでいないから、まだ少し空腹の、デカイ肉にも満たされ切れていない胃袋に、新鮮な卵と砂糖を牛乳に入れて掻(か)き混ぜたミルクセーキを流し込む。

《でも……、こんなまともな飯は、明日の朝が、最後になっちまいそうだなぁ……》

 晩餐が済み、交代で警戒配置に就こうとした時にメルキセデク軍曹が、訓示のような言葉と東洋宗教の悟りのような事を語り出した。

「ロスケどもは明日、必ず攻めて来る!フェアヒラントに集まっているドイツ人を一網打尽にするつもりだ! 今日の未明に行なわれた反撃よりも、ずっと激しい戦いになるだろう。でも俺達は、エイジスの盾となるマムートで、最後の弾を撃ち尽くすまで、守り抜く!」

 既に焚き火の周りはクルー達だけになっている。軍曹は焚き火に照らされて赤い顔の僕達を見回しながら、力強く言葉を続ける。

「マムートの装甲は厚く、特に、このⅡ(ツバァイ)は使われている鋼材の質も良くて、形状は避弾経始に優れて、大抵の弾には耐えられる。敵弾が貫通して我々を殺傷し難いを思っているが、戦場では予期しない事ばかりが起きて、我々は酷い目に遭うかも知れない」

 殺し合うのが戦争だから、クルーの誰しもが死傷するリスクを負う。マムートは破壊され、全員が戦死するかも知れない。

「貫通弾の破片や溶解した鉄の噴流を浴びてしまったり、ハッチから頭を出して索敵中に狙撃されて額に風穴(かざあな)を開けられたり、脱出中にズタボロに銃撃されてしまったら、魂が身体から離れて天国へ昇るか、地獄へ落ちてしまうだろう。死ぬのは一瞬だ。大怪我で苦しみ続けた果てでも、死は一瞬で訪れて全てを消し去って行く。俺が経験した負傷話で経験で申し訳無いが、ガーンと大きな音が聞こえて、同時に来た闇で真っ暗になった。それっきりだ。そう、先(ま)ず……って言っても後は無いが、いきなり真っ暗になるんだ。……それで終わりさ。人生が終わるし、生きるのも終わり。……そうなって、死んでしまうんだ……」

 神妙(しんみょう)に話す軍曹の声の厳(おごそ)かな響きが、人生の最期の瞬間をイメージさせて、瞼(まぶた)を閉じて眠りに付くのが怖くなってしまいそうだと思う。

「俺は運良く、直ぐには死なない傷だっただけで、そのまま気絶していたら、体は朽(く)ちるままにされて、此処には居なったな……」

 苦しんでの闇より、一瞬の闇を僕は望みたい。

「召されなくて重度の火傷や、手足を失ったり、醜くい容姿に変形して生涯、辛い後遺症に悩まされても、生き残った事に、生きている事に、感謝しろ! たった1人の生き残りになっても悔(く)やむな! 生きているのを感謝するんだ。辛くても、苦しくても、悲しくても、それも楽しむくらいに生き続けろ! 俺達の武器を手にしての戦闘は明日で終わるだろう。だが、生き残ったら、生き続ける義務を果たせ! 幸せを目指すんだ!」

 何時の間にか、警護の兵士達も集まって来て、静かに聞いていた。

「俺達の主は、生きている時の善行と犯(おか)した罪によって、死後、天国と地獄へ選(よ)り分けると教えられただろう?」

 両親や年長の家族が信じる信仰によって幼(おさな)い頃から、そう教えられて来た僕達は頷いた。

「それって、主に選り分けられる為に、生きているのかなって思うんだ。そして、どうして、生きるのに苦しんだ人は天国へ、楽に生きていた人は地獄へ行くように、分けられるのかなってね。善行とか、罪って何なんだろうなあ?」

 今、此処に集まっている僕達は、ドイツへ攻め込む敵と戦っているだけで、敵国へ侵略の戦争に従軍していた者は誰もいない。軍曹と伍長も防戦と反撃の戦闘しか経験していないだろう。

 僕達の戦いは敵から奪うのではなくて、侵攻する敵の蛮行に恐怖して逃れる人々を守り、脱出させる為に果たす使命と義務だ。そして、それを邪魔(じゃま)する敵は排除する。

《それ故に、見た事も、話した事も無い他国の人を敵と定め、殺し、生き残るのは、罪なのだろうか? 善なのだろうか?》

「東洋の宗教では、死ぬと肉体から離れた魂(たましい)が、新しく産まれる生に宿(やど)り直すと聞いた事が有る。その教えを輪廻転生(りんねてんせい)と言って、宿り直される生は人と限らないらしい。人として生きる現世の記憶や意識は、綺麗さっぱり原子に還元(かんげん)される肉体と共に消えてしまい、魂だけが甦るんだ。甦り先は生前に積んだ徳(とく)で決まるそうだ。徳というのは、善でも、悪でもなく、損得の無い清浄さらしい。魂は、人の思いではなくて徳を記憶するんだ」

 ちょっと気持を整理するように、間を於いた軍曹は話を続ける。

「肉体から離れた魂は、色即是空(しきそくぜくう)とか、空即是色(くうそくぜしき)だったかな……? 俺の感覚では、さっぱり分からない時間も、空間も、何も無いところへ行って、そこから転生するそうだ。だから、魂が宿った生は、あらゆる場所の現在過去未来に誕生するらしいぞ」

《それって、魂は使いまわしなの? 無から転生する時空は、有限って意味なの? なんか矛盾(むじゅん)している。やっぱり、東洋は神秘的だあ……》

「東洋の精神世界は全然、理解不能だけど、魔術と魔法を失くして、科学と化学に富を求めた西洋の物質世界は、今、散々たる目に遭っている。今は東洋でも、精神世界を忘れかけている同盟国の水龍(みずりゅう)の形をした日本と、敵側の眠れる獅子(しし)の中国も、酷い事になっている。世界は残酷と悲観に溢れて、何処も幸せになってないよなあ」

《いやいや、けっこう軍曹は、東洋の教えに詳しい……。知人に、戦争が始まる前に日本へ派遣された、ヒトラーユーゲントの先輩がいるのかも知れないな》

「富は身体と心を苦しめて悩ませ続けないと、手に入れられないし、心の安息を得たいなら、富を求めなければ良いってんだろう。でもそれなら、どっちが天国へ行けるんだ?」

 僕は明日を生き抜いて、自由になった世界で心の安らぎと豊かな物品、その両方の富(とみ)を求めたい。

 信仰に説かれる死後に裁かれる世界なんて誰も行った事も、見た事もなくて知らない。何百光年先の違う銀河の理想郷の空想話みたいな説教よりも、僕は、今を生きている、見て、触って、聞いて、嗅(か)いで、味わって、五感の楽しみと嬉しさが溢れる、この、ハッピーエンドにできそうな世界が大切に決まっている。

「俺達の宗教は、死ぬと、無限に広がる死後世界の天国や地獄へ、無限に送られる死者の列に並ぶのさ。でも、送られてからどうなるんだ? 信仰する無限が無ではない教えだと、永久の楽しみと、永久の苦しみのどちらかになる。未来永劫、死者は死後世界に増え続ける。だが、生前への果てしない欲望への未練を持つ死者だけが、天国へ昇る階段を引き返し、地獄への奈落(ならく)の縁(ふち)にしがみ付いて攀(よ)じ登って来てしまう。そんなゾンビどもに、俺達は変身したくないよなあ」

 メルキセデク軍曹は、黙って真剣に聞いているクルーや兵士達を見渡すと、話を締(し)め括る。

「皆(みんな)、明日は力の限り戦って、生き残ろうぜ!」

「おおーっ!」

 集まっていた全員が、覚悟を求める軍曹の言葉に大声で呼応(こおう)し、人生の最期になるかも知れない明日への覚悟を強くした。

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 * 5月7日 月曜日 フェアヒラント村 駅近くの守備位置

 夜通し交代で警戒していたが、南東の森の向こう側の方の遠くから、多数の車輌が動く騒音が小さく聞こえて来るだけで、昨日の日没から発砲音は全く聞こえず、その草木を戦(そよ)がす風の無い静寂な夜に、まるで、戦争が終わってしまったかのように錯覚して穏やかになる気持は、身近に不安が無い平和な日常を思い出させて、笑いながら遊び回る有り得ない今日を夢想してしまう。

 午前3時頃からエルベの川面に湧いた濃い霧が辺りに漂い始め、街道の道筋を示していたカンテラの灯火も近くの一つだけが、ぼぅーと見えるだけになって、警戒すべきは音だけになった。

 周波数を合わせたラジオ放送が午前五時の時報を知らせると、臨時ニュースが流れだして、第3帝国が無条件降伏をした事を伝えた。戦闘継続は今夜の12時までで、午前零時を過ぎて8日になれば、全ての武器を捨てて降伏し、交戦相手へ投降しなければならない。

 降伏後の処遇についての要求は認められず、相手が定める条件に自身を委(ゆだ)ねしかない。ナチス・ドイツは消滅して、連合国に分割統治される国土は、一方的に決定される賠償要求で完膚無きまで痩(や)せ果てて疲弊(ひへい)し切ってしまうだろう。

 新興ドイツの政府が連合国の求める無条件降伏を受諾したからといって、『さあ、僕達も降伏して、助かろう』なんて出来ない。

 ヘタレでビビリだった僕は、クルーの皆と一緒に誓う。

「今日の日は、力尽きるまで、フェアヒラント村の渡し舟乗り場を守り切り、ソ連軍の侵攻から逃れて来る大勢の人達を、エルベ川の西岸へ渡らせる為に、この場所で僕達は戦い続けるんだ!」

 

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 ベルリンのシュパンダウ地区から家族で逃れて来て、何処か途中の野戦病院で足に怪我を負った母親に付き添う父親と別れて、幼い妹と弟を連れた幼馴染のビアンカが、艀乗り場の方へ去ってから30分は経った頃、散発的に東南の森の彼方から聞こえていた小銃の銃声が、突如(とつじょ)として激しい機関銃の連続射撃音と連続した爆発音に変わり、幾つもの縛煙が森の梢(こずえ)の上に立ち昇った。

 爆煙が立つ方角的に、アルテンプラトウ村からニーレボック村へ至る街道の中程辺りと思われ、とうとう攻勢準備が整ったソ連軍が、フェアヒラント村の艀乗り場を確保し続ける防御ラインへの攻撃を開始した事を、オープン受信にした無線通話からも知らせた。

 全く衰(おとろ)えない銃声の応酬(おうしゅう)と増える爆煙に重なって炎の塊りが昇り、街道の障害物と周辺に仕掛けた地雷原と爆薬を物量で押し通り、防衛外郭の抵抗拠点も力圧(ちからお)しで後退させて来る強力さは、夕刻にはニーレボック村を抜けて船着場まで迫られると予想された。

 南東側の森の向こうゼードルフ村からも銃撃と砲声が聞こえ、ソ連軍の攻撃が再開された事を知らせた。ゼードルフ村の防衛陣地を突破して薄い森を抜けられると、直ぐにエルベ・ハーフェル運河沿いを西進して、エルベ・ハーフェル運河とエルベ川を船を行き来させる為に、水位を上下させて繋げる閘門が在るノイディアベン村の守備隊を側面から攻撃できる。

 エルベ川沿いに南方から攻めるソ連軍の防戦に手一杯のノイディアベン村の守備隊は、側面からの攻撃に一溜(ひとた)まりも無く、ノイディアベン村の防衛ラインを突破して北上するソ連軍はディアベン村も陥してフェアヒラント村へ迫り、1門の88mm対戦車砲と数門の20mmや37mmの対空機関砲だけでは、ソ連軍の重戦車から艀乗り場を守り切れずに僕達はエルベ川への脱出路を断たれてしまうだろう。

 リアルタイムで戦況を知る為に、オープンにし続けている味方の無線交信が、『中間点の曲がりが突破されて、第二障害に迫っている。森の中を敵歩兵が駆け抜けて来ているぞ!』、『牽引車が無事なら、弾薬が残り僅かになった時点で、戦車猟兵部隊はフェアヒラント村近くへ後退して、最終防衛をしろ!』、『牽引車がダメになったり、固定された砲は、弾薬を惜しむな! 撃ち尽くしてから撤退しろ!』と、無線交信に慌(あわただ)しいガナリ声が溢れて、緊迫した戦況を伝えている。

 ソ連軍の無線周波数に合わせている、もう1台の無線機のレシーバーで交信状態を探ってみると、やたらと『タンキ フピェリョート!フピェリョート!フピェリョート!』 と叫んでいた。

 たぶん、『タンキ』は、発音が似ている英語の『タンク』と思うから戦車の事だと察した。続く『フピェリョート』はタイムリーに前進の意味だろう。

 ソ連軍の最前線指揮官か戦車中隊の指揮官が、先頭の戦車小隊に突撃を命じている。

 敵の攻撃が開始されたのを知ったメルキセデク軍曹は、ゲンティンの町から来ている防衛隊とフェアヒラント村の護衛隊と憲兵のリーダーを呼んで、森の東端の兵士達が撤退を始めたら、『森の中を抜けてフェアヒラント村からエルベ川を渡れ』と、指示を与えて守備陣地へ戻らせた。

 更に30分は経った頃、移動して来た爆煙が第二障害物辺りで炎混じりに増えて、敵は仕掛けた罠に掛かっていたようだが、5分もしない内に森の出口に敵の重戦車と歩兵が現れた。

 敵戦車は停止して戦車砲を1発撃つと、青白い排気煙をもうもうと撒き散らしてエンジンを吹かし、ニーレボック村の防衛線へ突進を始めるかに思えたが、突然、排気煙が消えて全く動かなくなった。きっと、村の前面と中程に配された対戦車砲から放たれた徹甲弾によって仕留められたのだ。

 しかし、敵の進撃を食い止めたと思われたのは束の間で、直ぐに2両目の重戦車が現れると、撃破された先頭車を盾にして榴弾を撃ち出した。

 榴弾は村外れの2軒に連続して着弾し、それぞれの家屋の半分が炸裂によって木っ端微塵にされたが、敵は対戦車砲の位置を把握していない様子だ。

 赤い火花が敵戦車の砲塔に散るのが遠く離れていても見える。装甲が厚くて貫通しないのか、入射角度が浅くて弾かれているのか、分らないが、命中弾を浴びても戦闘力は健在で射撃を続けている。

「距離はどれくらいだ? バラキエル」

 此処から森の切れ目の街道筋までは、射程内だろうけれど、弾道が低伸する限界以上の遠い距離だと見て取れた。

「距離は、3000mと少しってところです。軍曹」

 射撃センスが有って数多くの敵戦車を撃破しているバラキエル伍長でも、どうにか戦車らしきと判断できる3kmも先の点のような目標は動いていると、見越し射撃の時間差読みが曖昧(あいまい)で命中させるのは至難の業だと僕は思う。

 だけど今、目標は停止していて、伍長なら確実に殺ってくれそうな気がする。

「バラキエル、殺れそうか? あの位置で撃破できれば、既に仕留められて擱坐(かくざ)した先頭車と並んで、街道を塞いでくれるだろう。少しは時間が稼(かせ)げるな」

「上手く燃えてくれれば、もっと稼いでくれますよ。軍曹」

 ドイツ軍戦車のガソリンエンジンとは違い、スターリン戦車はディーゼルエンジンだと聞いている。使う燃料は軽油でガソリンよりも着火点が高い。だから、ディーゼルエンジン仕様の戦車は被弾しても燃え難いと信じられて来た。

 だが、実際の戦闘での着火物は、ファストパトローネの弾頭のような指向性爆発による沸騰(ふっとう)した鉄の飛び散りか、大気との飛翔(ひしょう)摩擦(まさつ)で赤く灼熱化(しゃくねつか)した徹甲弾頭が、更に貫通熱が加わって溶融(ようゆう)寸前になった白熱片で、エンジンや排気管の過熱程度には有効な着火点の差など意味をなさない高温によって、内燃発動機の気化性燃料は激しく燃えてしまう。

 大抵の炎上プロセスは、送油管が貫通した弾片で破損するか、着弾や貫通した衝撃で脱落やズレた給油管から漏れた燃料が、溶融や白熱する鉄に触れて炎上する。そして、気化した燃料の燃焼膨張の圧力に耐えられずに燃料タンクは裂けて、漏れる燃料が連鎖的に燃えて行く。それが極短時間に連続して燃焼するので爆発炎上しているように見えてしまう。

「よし! バラキエル、殺るぞ! かなりの遠距離だが、停止して側面を晒しているスターリンを撃破しよう。照準が良ければ、自分の判断で撃て!」

 バラキエル伍長は先日のアルテンプラトウ村の戦闘で、初めてマムートの128mm戦車砲を発砲しているだけで、遠距離での弾道の伸びはわからないと思う。だけど、伍長はアルテンプラトウ村での外れた初弾の弾道から予測して狙うはずだから、高確率で命中させれると僕は期待した。

「軍曹、低伸後の弾道が読めないので、初弾の命中は難しいかも知れませんが、狙います」

 ペリスコープの上隅に見えている、たった5発しか射撃していないのに発砲炎の熱で煤(すす)けた砲身の先端が、左右に微妙な揺れをしながらジリジリと上がって行くと、直ぐにぴたりと動きが止まった。

「撃ちます!」

『バウッ……』

 レシーバーで塞いでいても、鼓膜が破れそうな衝撃波が来る発砲音は尻切(しりき)れ蜻蛉(とんぼ)で聞こえなくなり、車内の吸い出される風の低圧感と吹き戻す空気の圧迫感を懐かしく思い出させて放たれた徹甲弾は、青い曳光の光点となって敵戦車の車高の倍くらいの真上へ向かって真っ直ぐ一直線に飛んで行った。

だがそれも途中の、僕のいい加減な目測だけど、たぶん、低伸限界の1000mを飛んだ辺りから、重い徹甲弾頭は重力に引かれてぐんぐん落ちて行き、目標の手前に着弾の土煙を上げて跳ねた。

 届かない着弾に外れたと思った瞬間、それは水面に投げた平たい小石が跳ねるように同じ方向へ飛んで、地雷で擱坐した僚車の脇で停車していたスターリン戦車の左側面後部へと青い光点は消えた。ニーレボック村の抵抗拠点への直接射撃を済ませ、進撃の排気煙を噴き上げた瞬間に被弾した敵戦車は、続く排気煙も無く、完全に動きを止めてしまった。

「命中しました、軍曹! 動きが止まりました。敵戦車は擱座したようです」

 タブリスが興奮した声で報告する。

 動きを止めたままのスターリン戦車を見詰め続ける僕も興奮していた。砲弾が手前でバウンドしながらも、3kmもの遠距離に居る目標へ1発で命中させた事が信じられない!

《バラキエル伍長、凄い!》

「おおーっ、すっげぇ! 距離、3kmで殺ったぞ」

「ふうーっ、軍曹、なんとか命中です。ラッキーでした」

 ラグエルとイスラフェルの喜ぶ歓声に、バラキエル伍長の深い溜め息がレシーバーから重なって聞こえた。

「良くやった伍長! 本来なら、表彰されるべき功績なんだがな……」

 マムートの128mm戦車砲は、新砲塔の開発にも少しは関わっていたタブリスの説明によると、同口径の対空砲を基にして製造された対戦車砲だそうだ。

 高度10,000m以上の高空に時限信管で弾片を撒(ま)き散らす、炸裂弾を発射する高射砲がベースなのらしいが、砲弾の受ける重力の方向が違う水平射撃は、僕の想像よりも弾道が伸びていないように見えた。それでも、外れたと思われた砲弾は、スターリン戦車のエンジンルームへ命中して撃破した。

 最初は梢の高さから細くて黒い煙の筋が見え、やがてパチパチと瞬(まばた)く焚き火のような火が出ると、直ぐに黒点に見えていた敵戦車全体が炎に包まれた。遠目にも炎の勢いから、搭載弾薬が誘爆して下火になるまで、暫くは敵も、味方も近寄れないと思えた。

「これで、森の街道を来る敵の攻撃は、暫く停滞だな」

 

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 『ゴトッ』、軍曹がキューポラのハッチを垂直に上げる音がした。

「ハッチを開けて、双眼鏡で敵の来襲を警戒するんだ。カムフラージュの枝葉の下に低く構えて見張るんだぞ。受け持ちの範囲を注意深く見て、敵らしい動く影が有れば、直ぐに知らせろ」

 連続して敵戦車が攻めて来ない様子に、メルキセデク軍曹は各自へ必要最低限にハッチを開いて双眼鏡せ索敵するように命じた。

 斜めにずらしたハッチから顔を出して敵の来襲を警戒する視線が、撃破された敵戦車から立ち昇る黒煙の上空にキラキラと翼を煌かして、ダイブして来る敵機の編隊群を発見した。

「ニーレボック村上空に敵の編隊です。攻撃して来ます」

「敵機の動きを報告しろ! 狙われているのは何処だ?」

 南東の森の出口と送電塔の辺りから赤色の信号弾が上がり、更に南の森の西外れからも赤く輝く信号弾が打ち上げ花火のように上がって行き、森の中に待機するソ連軍が誤爆を避ける、味方識別の信号弾を打ち上げている。

「編隊が割れます。2編隊が、ニーレボック村へ降下しています。残り4編隊は、川沿いへ向かっています」

 東側からと低い丘からも赤い光が上がり、更に緑の光が幾つも斜めに飛んだ。

 昨日の空襲は双発の爆撃機を戦闘機が護衛して来た。爆撃は対空砲火がギリギリで届く2000m辺りでバラバラに爆弾を投下して、着弾もバラバラで広範囲に落ちていた。護衛の戦闘機群は低空へ降りて来て反復攻撃の銃撃を加えていたが、何機も対空火線に捕らえられて落とされていた。

 分かれた4編隊の1編隊が更に離れて、南へ向かうと機体から小さな塊りを二つ落として行く。

 傍受するソ連軍の無線が、意味の分からない怒鳴り声に怒鳴り声が被り、それに喚き声が次々と重なって来るけれど、木立上に見える送電塔の並びを隠して土砂と木々と炎の塊りが噴き上ると、静かになってしまった。

 暫くの沈黙の後に再び怒鳴り出した交信から、敵は間違いなく誤爆による同士討ちしていた。

 今日の編隊は戦闘機のみだったが、シルエットから両翼に小型爆弾を1個づつ吊り下げていて、低速で動きが鈍い。しかし、勇敢な彼らは一斉に撃ち上げ出した対空砲火に怯まず、昨日の爆撃隊よりも、ずっと低い高度で投弾して行く。

 余りの果敢な攻撃精神から機動を誤ったのか、それとも新参の上官に率いられた新米のパイロットばかりだったのか、回避運動もせずに編隊ごと対空火線の曳光弾の束に飛び込んだ4機全機が炎を噴き、目標へ爆弾を落としながらエルベの両岸に墜落して爆発した。

 対空射界の外で対空火器の無いニーレボック村は、2編隊の爆弾を全て投弾されて大火事になっていて、フェアヒラント村の村外へ配置されていた三つの対空砲陣地からも煙が立ち、近くの家屋が幾つも燃えていたが、線路や街道に着弾していなかった。

 果敢に銃撃を繰り返していた敵機は7、8機が落ちたように見えたが、銃撃で多くの人々が死傷したと思われたし、2艘(そう)の艀も無事か分からない。

 敵編隊は南隣のディアベン村の方を攻撃していなかったから、既に丘近くまでソ連軍が接近して交戦しているのだろう。

 空襲は30分ほどで終わると、空気を切り裂(さ)く擦過音(さつかおん)が聞こえ、200m先の放牧地で爆発の土が噴き上がった。

「砲撃だ! ハッチを閉めて、至近弾と直撃に備えろ!」

 軍曹の緊迫した大声がレシーバーに響き、バタン、ゴトンと、急いでハッチを閉じる音が車内に響いく。

 『一体、何処を狙ってるんだろう?』と、考えてしまうような的外(まとはず)れな砲撃は、時折、街道近くで爆発はしたが、そこら中の牧草地へ全弾が落ちて、面制圧が目的だとすれば、其の効果の薄さに余りにも御粗末(おそまつ)だと思った。

 牧草地には森際に塹壕陣地が在るだけで、対戦車壕と周辺に陣地は無く、地雷や鉄条網も数が足りなくて敷設(ふせつ)されていなかった。

《まあ、そんな、こちらの事情を知らないから、撃って来ているんだと思うけど、取り合えず、仕事しているフリをしとけって、みたいな弾着だなあ》

 着弾の疎らな位置と雑な時間の間隔から、かなりライフリングが磨耗(まもう)して、閉鎖器にもガタが生じた危険な大砲で、しかも、後退反動を受け止める駐鋤(ちゅうじょ)をしっかりと固定しないで使われているらしく、飛距離と発射位置の不安定さが着弾を広範囲にさせていると話す、バラキエル伍長とメルキセデク軍曹の声がレシーバーから聞こえる。

 それに砲数が少ないらしく、着弾観測兵に誘導されていても精密な砲撃はできず、退散しろと脅(おど)していたら紛(まぐ)れで当たった程度の期待しか出来ないらしい。

 その時間稼ぎのような杜撰(ずさん)な砲撃は15分は続いたが、視界範囲に被害は無い様だった。

 疎らな砲撃は燃えるニーレボック村の方へ移って、着弾の爆発で巻き上がる土埃と火災の煙が暗く覆っている。それに、こちらからは見えない森の中の街道から、複数の敵戦車が撃ち掛けているらしく、『パッ、パパッ、パッ』と発砲の炎と煙が木立を通して頻繁に見えた。

 突如、ニーレボック村から緑色の信号弾が続けて上がり、こちらの森からも青色の信号弾が飛ばされると、ニーレボック村の左手から75mm対戦車砲を牽引した2台のSWS重牽引車が飛び出して来て、街道をこっちへ向かって来ていると無線で知らされた。更に負傷兵と生き残りの守備兵達を満載したハーフトラックと無蓋のトラックが2台行くと連絡が入り、直ちに軍曹へ伝えた。

 それらを追い駆けるように、森の街道口から次々とスターリン戦車が続々とニーレボック村の前面へ展開するように現れて、歩兵部隊を後続させながら横隊で牧草地を進んで来た。それを見て、森際の塹壕で森を抜けようとする敵と交戦中だった外国人義勇兵達が浮き足立ち、エルベ川の方へと駆け出すが、その半数以上が線路の低い土手まで辿り着く前に射ち倒された。

 敵味方、どちらからか分からないが、迫撃砲だと思われる弾着の炸裂で白い靄が牧草地一帯を覆って見通しを半分くらいにしてくれた。

《煙幕弾だ! 逃げるには有り難いが、視界を白く遮る煙幕で敵が見えず、照準も定めれないから、攻める側には邪魔でしかないな……》

 敵戦車群への射撃は、距離の遠さと移動している事に加え、見通しの悪さの為に、煙幕が薄れても対戦車壕に阻まれて停車するまで控えるよう、メルキセデク軍曹はバラキエル伍長に言っている

 『パウッ! パウッ!』、ニーレボック村から撤退して来た2輌のSWS重牽引車がマムートの前を通り過ぎて、煙幕も薄れて来ると、アハト・アハトと兵士達が言っている口径88mm砲の軽くて鋭い発射音が森の東端の方から連続して聞こえて、牧草地を横切り街道へ迫っていた先頭のスターリン戦車が『ガックン!』と、直撃弾を受けて動きを止めた。

 SWS重牽引車に続いて、ハーフトラックとトラックが激しく跳(は)ねながらマムートの前を通り過ぎて行くが、最後尾のトラックは踏み切りの手前でスターリン戦車の放った榴弾が直撃して吹き飛び、裂けた車体が宙を舞い、乗っていた全員が高く飛ばされて辺りにバラ撒かれ、落ちて来た誰もがピクリとも動かない。

 アハト・アハトに撃破された1輌以外は牧草地を高速で進んで来て、期待通していた全車ではなかったが、3輌が対戦車壕に落ちて、他の敵戦車は壕の縁で急停止した。バタバタと射ち倒されていた随伴する敵の歩兵達は、北側の森から激しく射ち掛けるドイツ兵と射ち合いながら、退避する塹壕代わりに壕へ飛び込んで行く。

 壕縁で停車した敵戦車は7輌だったが、更に左端で側面をアハト・アハトに晒していた1輌が停車直後に黒煙と炎を上げて撃破された。

「右から順番に狩って遣れ、バラキエル。左側のはアハト・アハトに任せよう。壕から這(は)い出るのも、始末してくれ」

 マムートからは、対戦車壕の街道近くの左端で約1000m、南の森真際の右端では約1800mの距離が有る。

「右端のスターリン戦車で、距離は1600m、左端の生き残っているので1200mです。アハト・アハトからは600mほどでしょう。ラグエル、徹甲弾を連続で撃つぞ!」

「了解、徹甲弾を続けて装填します」

 SWS重牽引車は100mほど離れた踏み切りを超えた線路脇で、牽引して来た75mm対戦車砲を速(すみ)やかに外すと、乗っていた戦車猟兵達が砲と弾薬を展開させて、急ぎ砲弾を込め、スターリン戦車群と砲撃戦を始める。

 2門だと思っていた75mm対戦車砲は、1門は口径105mmの榴弾砲で、対戦車壕に隠れる敵兵達と、一斉に森の中から出ようと構える敵歩兵の並びへ釣瓶打(つるべう)ちを浴びせた。着弾は壕の中程から土砂を噴き上げ、炸裂は徐々に森の梢へ移動し、無数の砲弾の断片と鋭く粉砕された木片を地上に蠢(うごめ)く敵兵へ刺さり付けた。

 激しい雨のように降り注ぐ破片に居た堪(たま)れず、砲撃を避けて南側の森から逃げ出すイワン達を、北側の森に潜んでいた防衛隊の機関銃とマムートの同軸機銃が長い連射を浴びせて、まるで死神が大鎌を振るったかのように薙(な)ぎ倒した。

 左端の2輌のスターリン戦車が少し動いて射界を確保しながら斜めに構えて、アハト・アハトや75mm対戦車砲と撃ち合っていたが、75mm弾が転輪を弾き飛ばして履帯を切断し、火花を散らして装甲板を貫通するアハト・アハトの徹甲弾が息の根を止めて行く。

「装填完了!」

「撃ちます!」

 発砲の轟(とどろ)きと一瞬の風が巻く気圧の増減に装填音の響き。その合間に『ハア、ハア』と、ラグエルとイスラフェルの喘ぎを聞かせながら、4度続き、1輌は爆発して砲塔を噴き飛ばし、2輌が炎上。5、6人の搭乗員が火達磨(ひだるま)で脱出して転げ回り、動かなくなった小さな炎が瞬(またた)いている。そして、方向を変えて退避しようとした1輌が被弾後に壕へ落ちて燃え上がった。

 アハト・アハトと75mm対戦車砲と撃ち合った一輌は砲塔が無くなり、もう一両も白煙を漂わせて燻(くすぶ)っている。

 最後の左から3輌目のスターリン戦車は、僚車が横からアハト・アハトに屠られたのに気付いて斜めに構えようとしたのか、突然、旋回を始めると、壕の縁を踏み外して対戦車壕に落ち掛けたまま停まってしまい、寮車に隠れて狙い難かったアハト・アハトからは右側面を、マムートと75mm対戦車砲へは斜めに傾いた薄い上面を晒した。

 透(す)かさず、バラキエル伍長が発砲。青い曳光がスタックしたスターリン戦車へグングン吸い込まれて行く横を、僅かに遅れて発射された直径75mmの徹甲弾の青い曳光が右横から追い着いて来て、アハト・アハトからの徹甲弾が命中の火花を散らした直後、同時にターレットリング辺りに命中した。

 乗員が脱出中に、3発の命中弾を同時に受けた敵戦車は瞬時に搭載弾薬が誘爆して、乗員達を蒸発(じょうはつ)させて重い砲塔を高く飛ばす閃光(せんこう)の塊りとなり、殆ど原型を留めない残骸(ざんがい)に成り果てた。

 発射薬の燃焼を終えた装薬筒が砲尾から出される金属音に、キャンバス布のバスケットへ落ちる音。新たな徹甲弾頭と装薬筒が装填される音、鎖栓(くさりせん)が動いて閉じる音、そして、途中で聞こえなくなる発砲音に素肌を撫でる衝撃と風、全身の毛が勝手に逆立(さかだ)つ胸騒(むなさわ)ぎ、一連して続くそれらに僕は、落ち着かなくなる不安さを楽しみながら、心地良さと安心さも感じていた。

『早く、早く』と、タイムアップを急(せ)かすラグエルの声に、『速く、速く』と、自分の動作スピードのアップを図(はか)るイスラフェルの声が、2人の喘ぎに混ざってヘッドギアのレシーバーから呪文(じゅもん)のように聞こえている。

 突如(とつじょ)、『ガガーン』と、教会の鐘(かね)が落ちて来たみたいな轟音が鳴り、スターリン戦車から発射された口径122mmの徹甲弾がペリスコープの真ん前に突き刺さり、装薬の爆発熱とライフリングと大気の擦過熱に赤く加熱した砲弾の後ろ縁がミラーの下縁(したふち)に見える。

 刺さった場所の内側の装甲板面は、表面に塗られた赤い錆止(さびど)め塗料が、砲弾の直径と同じくらいに丸く剥(は)がれた僅かな盛り上りが銀色の鉄の地肌を晒していた。

「車体前面に命中弾です。軍曹!」

 スポーツ大会で友人が投げたボールのように、スゥーと受け捕れそうなスピードに見えた敵弾が命中した。その初めての強烈な衝撃は恐怖で、僕の声は震えている。

 真正面の装甲板が、もしも貫通されて直撃されたら身体は、その加速された弾量衝撃で、破(やぶ)れた水風船みたいに中身が跡形も無く飛び散ってしまうと、僕は慄(おのの)いてしまう。

「200mmも有る前面装甲や砲塔前面の装甲を、貫通できるロスケの大砲は無いよ、アル。120mm厚の調質鋼の側面装甲板は、そうでもないけど、前面の装甲鋼板は、極力、炭素量を減らして、貴重なニッケルを多く含有させて、靭性(じんせい)と粘(ねば)りと剛性(ごうせい)を高めているんだ。だから、命中爆発の衝撃によるホプキンソン効果は、反対面の剥離が小さいのさ。それに外側面は浸炭焼き入れで硬くされている。浅い角度で来るのは滑らせて弾(はじ)き、深く来るのはガッチリ受け止める。貫通はしない。そうさアル、お前は、世界最高の装甲板で守られているから、全然、大丈夫だ」

 『ガガーン』、『ガーン』と、タブリスが話し終えた途端に、立て続けにスターリンの砲弾が近い位置に塗装を剥がして命中するが、皹が入る事も無く、全く貫通される気配は無かった。

 炭素量?ニッケルを含有? 靭性に剛性? ホプキンソン効果? タブリスの説明はちんぷんかんぷんだけど、安心できるのは伝わって来た。

 『ガーン』、更に、激しく撃ち込んで来る一弾が命中して、僕の前に丸い塗装の剥がれを増やした。

《なんで、僕の前ばかりに中るんだよ? なあ、ダブリス!》

 

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 対戦車壕へ落ちた3輌のスターリン戦車は、壕の急斜面を人海戦術で戦車幅に崩して作られた、なだらかな坂を通って此方側(こちらがわ)の牧草地に出ようとしていた。

 先(ま)ず前面下部を晒して来た1輌目はアハト・アハトに側面から撃たれて仕留められ、勢い良く牧草地に出て左右に揺れながら進んで来る2輌のスターリン戦車の1輌も、距離800m辺りでマムートが撃つ前に、アハト・アハトが後部を射抜いて炎上しさせた。

 最後の3輌目を撃破したのはバラキエル伍長で、真南へ600m、線路まで200mの位置だった。マムートの徹甲弾に車体後部を貫通されて動きを止めたスターリン戦車からは4名の搭乗員が脱出した。だが、線路脇の窪地に潜んでいたヒトラー・ユーゲント達に全員が射ち殺されてしまった。

 勇戦したヒトラー・ユーゲント達が潜む線路脇の窪地の向こう、低い丘の左側を廻る線路上から客車型の起動車を先頭にして3輌編成の列車が見えた。近付くに連れて列車の中は負傷者と避難するの婦女子ばかりで、屋根の上にも大勢の負傷者が寝かされたり、座ったりしていて、白地に赤の大きな赤十字の旗を広げていた。赤十字の旗は客車の横にも、遠くから視認されて攻撃されないように広げて結ばれている。

 そして、加速して来る列車を追うように3輌のT34戦車が丘の影から現れて、逃げる列車へ発砲した。

「軍曹、丘の左側に、T34が3輌です。赤十字の列車を砲撃しています!」

 逸れた敵弾が近くへ落ちて爆発した踏み切りを列車が通過して行く。どの客車も負傷兵と婦女子で一杯だ。その負傷者の多さに閘門が在るノイディアベン村は突破されて、ソ連軍はディアベン村の守備隊と交戦中だと察した。

 敵の2両目が発砲した榴弾が列車の最後尾に命中して爆発した。客車は構造物の後ろ半分が台車部分を残して吹き飛び、その客車に乗車していた人達の殆どを一瞬で左右の牧草地と線路上に撒き散らしてしまった。

 線路脇の塹壕に潜むヒトラー・ユーゲント達に3輌の敵戦車は全く気付いていなくて、近付き過ぎた先頭のT34戦車は、ファストパトローネの連射を浴びて爆発した。2両目が誘導輪と履体をマムートの徹甲弾に粉砕されて動きを止めた。それを肉迫するヒトラー・ユーゲント隊員に仕掛けられた対戦車地雷で、生き残って閉じ篭(こも)る乗員諸共(もろとも)破壊された。3輌目は後部に命中したファストパトローネで炎上して、砲塔と前面のハッチを抜けて脱出しようとした3人の搭乗員は、射たれて車外へ出る前に殺された。

 線路上を遣って来そうな後続の敵戦車隊や、牧草地に展開して進んで来る新たな敵の戦車隊が出現する気配は無く、近接する戦闘に味方への誤爆を避ける為なのか、敵の航空機が飛んで来ていない。

 暫し休息の時間が続く様な状態に、思いもしない重防御に大損害を受けて撃退されたソ連軍は、より強力な攻勢部隊へ編成し直しているのだと思う。

「次は、砲撃が来るぞ! まともな大砲が揃ったのかも知れない。着弾が集中した激しい砲撃になるな。だが、撃たれる前に、砲撃を誘導する敵の観測兵のチームを見付けて、殲滅すれば、正確に撃てなくなる!」

 森を越える曲線を描いて飛んで来る砲弾は、破壊すべき目標が見える位置で誘導しないと直撃させるのは難しい。水平位置からでは、水上に立つ水柱のような着弾位置を確実に視認判断できないので、目標の手前辺りから奥へ着弾をズラして行って命中させるが、直撃率は低くて時間も掛かる。より高率で命中させて速やかに破壊する為には、高い位置から俯瞰して目標を挟叉させるように着弾さけなけばならない。

 だから、森の梢や送電鉄塔いる観測兵を始末すれば、敵は精密な集中砲撃を行なえなくなる。

 

 * 5月7日 月曜日 フェアヒラント村 駅近くの守備位置から村内へ移動

 1000m以上も牧草地で隔てている南の森から射ってくる敵の機関銃弾や狙撃銃弾に、此方の森からも射ち返すのを聞きながら、敵狙撃兵から見えないようにハッチの縁と擬装の葉枝の影に隠れて、砲手のバラキエル伍長を除くクルー全員が双眼鏡で敵の砲兵観測員のチームを探す。

 観測チームは砲列へ指示を送る有線電話器や無線機の設備を備えているから目立つはずだと、軍曹と伍長は言っていた。

 隠れそうな遮蔽物が無くて、敢えて危険を冒す事はしないだろうと考えていた送電鉄塔を下から上へと、じっくり見ていた僕は、敵兵が上部付近で動いているのを見付けた。

 森の太いアカ松の高さが、撃破したスターリン戦車の長さと比較して約25m、鉄塔の頂きは更に10mほど上だから、送電鉄塔の高さは35mってところだ。

 『死に急ぎたいのか、勇敢なのか、遠距離だからと安心しているのか、賢くはないな』と、見ながら『彼らを、払い落としたい』思いに唇が笑ってしまう。

「敵兵が送電塔を登っています。軍曹! 1個分隊ほどですが、有線電話機らしきを背負った兵もいるようですから、砲兵隊の観測兵でしょう」

「ああ、確認したタブリス。奴らが天辺(てっぺん)まで登って弾着を誘導されたら、渡し場や防衛陣地が狙い撃ちされちまう。バラキエル! 榴弾で吹き飛ばしてしまえ!」

「了解、軍曹。鉄塔上の敵兵を、榴弾で殺ります」

「ラグエル、榴弾だ!」

「ラグエル伍長、榴弾は瞬発信管が三つに、時限信管が二つ有りますが、どちらですか?」

「時限信管だ! 距離は2000m、弾速が毎秒850mとして……。目盛りは2・2秒にしろ。鉄塔の手前で爆発させて、破片と爆風で一掃しちまおう」

「ダイヤルを、2・2の目盛りに合わせます」

 もっと、早く配置に着くべきだった敵観測兵達のタイミングを失った動きは、しっかり死神を招き寄せてしまい、もう逃れる事は出来ない。

「時限信管、目盛りを2・2にセット完了。装填します」

「榴弾、装填完了!」

「撃ちます!」

 発砲炎に発砲音、白い発砲煙から飛び出た青く輝く光が小さくなって行き、タイマー時間通りに予定した位置で死神の振るう鎌が爆発させる。

 天辺の逆三角形に組まれたアームに辿(たど)り着いた敵兵達と、その真下の足場で有線電話器を調整しているように見えていた敵兵達が、切断された高圧電流の送電線や碍子(がいし)と共に、爆発の煙塊の中から飛ばされて落ちて行き、送電鉄塔上には誰も居なくなった。

 そして、茂みで隠れて見えないが、鉄塔の真下辺りから黒煙が上がり、ちらちらと揺らぐ炎が見え出した。きっと、観測隊の乗って来た車輌が榴弾の破片を浴びて燃えているのだろう。

「あのままじゃあ、また、登られそうだ。バラキエル、トラス構造が細くなる繋ぎ部分に、榴弾を上手く中てて、送電塔の上半分を倒すか、失くしちまえ!」

「鉄塔の上半分を、粉砕します」

「次は、瞬発榴弾を込めろ! ラグエル」

 1分も経たずに『装填完了』、『撃ちます』と続いて発砲。青い光点が上部の重量を分散させる中程の繋ぎ部へ吸い込まれて爆発した。予定通りの場所へ見事に命中した瞬発榴弾は四角に組まれた一角を失わせて、張り渡された高圧電線の重みと剛性不足になって支え切れない上部構造を大きく揺らすと、此方へ向かって炙(あぶ)られた飴細工(あめざいく)みたいにグニャリと御辞儀(おじぎ)をして折れた。

「よしっ! これで登れないし、梢よりも低くなったから使えないな」

 

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 激しい砲撃に晒されなくなった安心感が、無線周波数を調整させて半周防御陣地の他の状況を傍受すると、強力なソ連軍の攻勢に緊迫する事態が、此処の終焉が切迫している事を知らせていた。

「軍曹! フェアヒラント村の北方で、防衛ラインが突破され、敵の戦車隊がエルベ川へ迫っていると言ってます。防衛ラインは分断されて、ここフェアヒラント村が包囲されそうです」

「後方の森の向こうから、爆発音が連続して聞こえている。アル、森の東端にいる防衛隊に艀乗り場口まで、撤退するように伝えろ! タブリス! 彼らが撤退したら、マムートを後進で移動させるぞ」

「了解、軍曹」

 僕の返答にタブリスの声が重なる。

 ドイツ帝国の最末期の土地と西方へ逃れるドイツ国民を守る第12軍の半円周防衛ラインは、太い松の木が生い茂る幅の広い森林帯と、エルベ川が蛇行していた名残りの点在する沼や池に沿って形成されていて、戦車部隊が大挙して押し寄せれる場所は少ない。なのに、森の中から戦闘の騒音が聞こえているのは、ソ連軍の歩兵部隊が森の中深く浸透して来ている事になる。そうなると、気付かれずにせまった敵の歩兵部隊に包囲されて肉迫攻撃を受けるという、非常に危険な状態に陥ってしまう。

 防衛隊への緊急送信と受信確認を済ませて索敵を続けていると、タブリスが新たに接近する敵戦車を発見した。

 一昨日の深夜から昨日の未明まで反撃の戦闘に数両の味方戦車が入って行って、未(いま)だに戻って来ていないゼードルフ村へ至る森の中を通る道から、4輌の敵のT34戦車が現れて、放牧地を街道へと横切りながら砲塔を回して走行間射撃をして来た。揺れと振動で照準が安定しない砲身から撃ち出された敵の弾丸は、真っ赤な光点になってググゥーッと大きく近付いて来ると、マムートの真際で上下左右に分かれて逸(そ)れて行った。

 射撃音、逆巻く風、排莢音、既に装填されていた徹甲弾が放たれた。

 続く排莢音、2度の装填音、砲尾を閉鎖ロックする音、射撃音、車内を逆巻く風が繰り返され、並んで左側面を晒(さら)す敵戦車小隊は、砲塔が吹き飛んだ先頭車と炎と黒煙が上がる2両目は、アハト・アハトが撃ち取り、マムートは噴出した白煙が黄色く変わる3両目と停止して動かなくなった4両目を屠る。

 レシーバーに『ゼーゼー、ゴホッ、ゴホッ、ゼーゼー』と、途切れないラグエルとイスラフェルの喘ぎが聞こえ続ける。

 彼らが装填する砲弾は、弾頭と装薬筒に分離されていて、低い位置へ降りた揚弾(ようだん)装置のトレーに置くと半自動で装填位置まで揚(あ)がり、水平鎖栓を開いた砲尾の薬室へと半自動装填装置を操作して薬室へ込めて行く。この装填する作業は弾頭と装薬筒が別々に行われ、両方を順番通りに済ませて、装填完了となる。

 そして、揚弾装置が降りないと発砲の反動で後退する砲身と干渉破損する為に、口径128mm戦車砲は撃てなくなる。

 32kgもの重さが有る弾頭や更に36kgと重い装薬筒を、砲塔の後部と車体内の倒立固定式のラックから降ろしたり、持ち上げたりしてトレーへ運ぶのは彼らの人力で体力だ。故にマムートの発射速度は彼らの作業動作に左右されるし、僕達の生存率への影響も大きい。

 彼らの足腰が立たなくなれば、手足に力が入らず、握力も無くなれば、重い砲弾は運べない。連続射撃で肉体を酷使する過酷さに絶え間無く聞こえる喘ぎは、彼らの限界が近いと知らせている。

《どうか、マムートが全弾撃ち尽くして、僕達が、エルベ川を渡って脱出するチャンスを得るまで、彼らを頑張らせて下さい》

 

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 石油基地背後の低い小さな丘の左側から、線路上を進んで来る四輌のT三四戦車が見えた。

「軍曹! また、線路上をT34が来ます。先に撃破したT34戦車の300m後方です。4輌が連なって来ます」

 報告を終えた途端、小さくて低い丘の中腹の茂みから発砲炎が煌き、2両目の向かって右側に命中の閃光と白い爆発煙が見えた。たぶん、丘の斜面に掘られた塹壕陣地から発射した、パンツァーシュレックのロケット弾か、ファストパトローネの被帽弾頭で、1発で仕留めた。

(よくまあ、冷静に狙って、走り抜けようとする戦車に、上手く中(あ)てたものだ!)

「軍曹、2両目が防衛隊の反撃で撃破されました。残り3輌は、そのまま向かって来ます」

「バラキエル、右へ廻せ。照準に捕らえたら、各個撃破しろ!」

「ラグエル!、徹甲弾、急いで装填だ!」

「ハァハァ、徹甲弾、装填します」

 バラキエル伍長の鋭い弾種の指示がなされ、ラグエルが喘ぎながら返答する。

「装填完了!」

「撃ちます!」

 そして、燃料貯蔵施設近くで停車した3輌のT34戦車と交戦する射撃音と装填音が繰り替えされ、車体の前面と側面、砲塔の防盾(ぼうじゅん)と側面に受けた合計6発の85mm口径弾を、マムートは悉(ことごと)く跳ね返し、線路上と其の近くには合計7輌のT34戦車と1輌のスターリン戦車が、燃えたり、燻ぶったりしていた。

 小さな丘の頂上辺りに炎の塊りが幾つも昇り、丘の南斜面が砲撃されているのが見て取れた。また、丘の向こう側の川沿いに在るディアベン村の方向から複数の爆発煙が立ち、エルベ川沿いを北上して来るソ連軍を防いでいるらしいのが分かった。

 もう、周り中で激しい戦闘が交(か)わされて、ソ連軍が強力に圧(お)して来ている。一刻も早く艀乗り場近くへ移動しないと、マムートは多数の敵戦車で包囲殲滅(せんめつ)されてしまいそうだ。

 一時的に南側からの脅威(きょうい)が薄れた隙を衝いて、5tハーフトラックに牽引された88mm砲がマムートの前を左から右へ走り去って行った。

「タブリス、マムートの順番が来たぞ。俺達が殿(しんがり)だ。一旦、左へ出て、それから後進で村の中へ移動する。後方への車体向きは、俺とイスラフェルがする」

「了解、軍曹。マムートを後進で移動させます」

「ラグエル、徹甲弾の装填を済ませたら、休んでいろ、そして残弾を報告しろ。イスラフェル、そっちのでかいハッチを少し開けて、俺と一緒に、後方の路面に障害が無いか見ていろ」

「了解しました、軍曹。路面に異常が有れば、速やかに知らせます」

「軍曹、残りは、徹甲弾が9発に、榴弾が3発です」

 砲弾の消耗は、榴弾が送電鉄塔の上部を倒壊させた2発で、徹甲弾はアルテンプラトウ村で撃った5発と、此処で放った11発だ。そして、照準器の未調整で外した初弾以外は、全てバラキエル伍長が1発で命中させて仕留めている、

 『ガックン』と揺れてマムートが二日振りに動き出す。タブリスは一旦、左折して道筋とマムートを平行にさせると停止してギアを前進1速から後進1速へ入れ直し、ゆっくりとバックを始めた。

「いいぞ、タブリス! ギアを後進3速にしろ。このままで、真っ直ぐに後退させるんだ」

 『ガリリッ』切換えされるギアの噛(か)む音が聞こえ、座席の背凭れから背中が浮くように離れて、タブリスがクラッチペダルを離してアクセルを踏み込む度にグーン、グーンと後進が加速する。

 後方を見ずに軍曹の言葉の指示だけでタブリスはマムートを後進させて、僕のペリスコープに街道に散らばっていた人が何人も、血だらけのミンチ肉のようにグチャグチャに潰されて現れた。

(……さっき、ソ連戦車に撃たれた客車と、トラックに乗っていた人達の、撒き散らかされた死体だ……)

 『これは……』と、操縦するタブリスを見ると、彼はアクセルペダルを通して、肉塊を踏み潰すグニャリとした感じや、プチッと弾ける感じや、ゴリッと骨を砕く感じが分かるのだろう、苦しそうな表情で歯を食い縛(しば)っていた。

 『バキッ、ボキッ』と、厚い木材と枕木が折れる音を車内に響かせて、マムートは踏み切りを超えて行く。踏み切りの北側に森を切り開いて設けられた駅舎を見たが、砲撃と爆撃を受けて壁と屋根が穴だらけで、既に人影は無かった。、

 射距離3000mで動かなくしたスターリン戦車は、脇へ退(ど)かされて街道通行を確保したのか、ニーレボック村からの街道上に敵戦車の縦隊がペリスコープを通して見えた。

 膝上に置いているソ連軍の無線交信を傍受するレシーバーから、矢鱈(やたら)とでかい声のロシア語が、めちゃめちゃ重なって聞こえて、その喧(やかま)しいノイズさが腹立たしい。

「前面の街道に敵戦車です。軍曹。スターリン戦車です。6輌見えますが、ニーレボック村から、まだ出て来ます」

「アル、確認した。バラキエル、奴らを足止めしないと、エルベを渡れないぞ!」

「今の距離は2500mほどでしょう。対戦車壕辺りまで近付けてから、2、3輌を殺ります。そうすれば街道を塞ぎますし、左右は森と対戦車壕に阻まれいるので、来れなくなりますよ」

 多数の敵戦車がマムートを仕留めようとしているのに、軍曹と伍長は余裕の会話をしているが、それは僕を含めて他のクルーも同じだ。今のところ、このマムートの防御力、攻撃力は素晴らしく、路上以外の不整地を走行しない限り、エンジンや走行に問題は無い。

「敵が、発砲しました」

 先行する縦隊から2輌が牧草地へと出て行く。後続する縦隊はバラけて横の牧草地へと向きを変え、統率(とうそつ)のないバラバラな動きの6輌全車が勝手な位置で砲塔を廻(めぐ)らせて、こちらへ狙いを定めていると思ったら、発砲の黄色い光と小さな煙が次々と見えて、沢山の赤い光点が火の玉になってググーと真っ直ぐに迫って来た。

「命中します!」

 僕が絶叫した刹那、火の玉達は上下左右に分かれて過ぎ去ったが、幾つかは目の前で消えて、ブランデンブルクの工場で巨大な水力鍛造機が金属塊を潰して形にするような大きな音が、マムートの走行に急ブレーキを掛けたみたいな衝撃と一緒に連続して鳴り響いた。

《遠距離のバラけた動きなのに、バラキエル伍長のような正確な狙いで撃ってきやがった! 奴らが噂(うわさ)に聞く、戦闘経験が豊富で、多大な戦果を上げた親衛軍の戦車隊なのか……? これは近寄られて一斉に撃たれたら、殺られるな……》

 敵弾は、1発が僕の正面に刺さったようで、粗(あら)い表面に塗られた赤い錆止め塗料を掌サイズで剥がして見える鋼鉄の銀色の地肌が、ちょっとだけ盛り上がっていた。だけど皹は入ってない。先に刺さって出来た丸い剥離面にも皹は無く、装甲板が割れ落ちる事はなさそうだ。

 もう1、2弾は、砲塔前面の砲盾に中ったみたいで、同時に聞こえた鋭く短い命中音からして、曲面の形状を僅かに削り取っただけで滑って飛び去ったようだった。

「タブリス、停止だ。バラキエル、奴らを撃て!」

「軍曹、撃ちます。ラグエル、イスラフェル、次弾も徹甲弾だ!」

 徹甲弾は軍曹や装填手達の返答を待たずに発射されて、慣れてしまった射撃の音響衝撃と振動と軽い気圧の変化が来る。それが更に2度続いた後、遥か彼方の街道には、脇に逸れて撃ってきた2輌と、縦列の先頭のスターリン戦車が黒煙を噴かせていてた。

 牧草地へバラけたスターリン戦車群と先頭縦列の残り3輌は、暫し撃ち返すのも忘れて停止していたが、急ぎ後退を始めながら撃って来た。

 射距離は1300mから1500m。いくらデカい図体(ずうたい)の動かないマムートでも、不整地を走りながら遠距離で撃って来る弾は命中しない。バラバラに飛んで来る火の玉は流星のように飛び去って行く。

 後退していた敵戦車の1輌が停止して砲塔のハッチが開くと、車長らしき戦車兵が上半身を乗り出すた。すると、後退していた9輌全車が動きを止め、マムートに狙いを合わせている。

 一斉に発砲する光が前面に見え、赤い光点が急速に大きくなりながら集まって来る。その赤い玉が群れる真ん中に大きな青い玉が現ると、見る見る小さくなって見えなくなり、上半身を乗り出していた敵の指揮官がピンと四肢(しし)を伸ばして空中高く舞う。

 スターリン戦車群とマムートは同時に発砲したが、より速い初速のマムートの弾丸が先に命中して指揮官車は爆発した。直後、5発の直径122mmの敵の徹甲弾が一遍(いっぺん)に、マムートの車体前面と砲塔前面に命中して、その大音響と激しい揺れにマムートのエンジンがストンと止まり、車内を拍動振動の無い静寂(せいじゃく)が覆った。

「エンジンが再始動しません! 軍曹!」

 『キュル、キュル』とセルモーターの回るはずの音が、『ガスッ、ガスッ』と聞こえるだけで、エンジンが発動する音は聞こえて来ない。

「軍曹、セルモーターが外れてます」

「バラキエル、殺られる前に、奴らを殺るんだ! ラグエル、後部ハッチを開けてくれ! アル、俺とマムートの後ろへ行ってエンジンを回すぞ! その辺を擦り抜けて、こっちへ来い!」

 レシーバーを外して座席を離れながら除くペリスコープに、左の方から青い曳光が敵に向かって飛んで行き、スターリン戦車の砲塔に火花を散らして弾かれた。それは、艀乗り場近くの村外れへ移動したアハト・アハトからだと思われたが、悔(くや)しい事に2000m以上の距離からではスターリン戦車の前面装甲を撃ち抜けていない。

 バラキエル伍長は、左手で俯仰角(ふぎょうかく)を調整するハンドルを回して砲身の狙い角を付けながら、右手で砲塔を旋回させるハンドルを懸命に回して、砲の向きを敵戦車へ合わせようとしている。

 上下角の狙いはハンドルを回す手動方法しかないけれど、左右への砲の旋回は電動モーターで砲塔毎を回している。そのモーターを回す電力はエンジンの回転で発電するダイナモから供電されていて、エンジンが止まった今は、一生懸命汗だくで旋回ハンドルを精一杯速く回して、マムートの照準を敵よりも早く、敵へ正確に合わせるしかない。

「装填完了!」

 ラグエルの声に、僕は急いで彼らの足許を擦り抜けて、砲塔後部のハッチまで行き、外へ出ようと縁に手を掛けると、エンジングリルの最後部から降りる軍曹が見えて、その直後にマムートが発砲して起きる猛烈な風の反復に、体が吸い込まれ掛けた後、吹き出されて転がる体が車体の後ろへ落ちた。

 後面上部の両端に取り付けられている牽引用の大きなU字フックの間へ張られた2本のロープを持ち手に通されて、ブラ下がる20個の空のジェリカンの底縁が手許にガンガンと当たり、ガチャガチャと煩(うるさ)くて邪魔だけど、焦る気持に、そんな事はどうでも良かった。、

「お前は、このクランク棒を外したら持って来い! 俺は、その四角いカバーを外しておく!」

 落ちた痛みをそっち退(の)けで立ち上がると、軍曹はそう言って、クランク棒を留めている大きな蝶螺子(ちょうねじ)を緩めるのを止めて、イスラフェルから渡された六角レンチとパイプを使って手際良くボルトを抜いてカバーを下げると、僕が苦労して取り外したクランク棒を受け取り、カバーで蓋(ふた)をされていた穴へ突っ込んだ。

 『ガチッ』

「そし、クランクシャフトと繋がったぞ。アル、このクランク棒を回すから、手伝うんだ!」

 クランク棒のグリップを腰を入れて仁王立(におうだ)ちに構えた軍曹は両手でしっかりと握り、引き回そうとする。

 軍曹の向かいに立つ僕は、それを真似(まね)て汗だくで握る手に力を込め、ぐっと腰を落として開いた足裏を路面に押し付けて踏ん張り、重量挙げのフィニッシュのように背骨と両腕を伸ばして押し回す。

 『ガシャアーン』、『ガラ、ガラン』、マムートの右側面に擦れた真っ赤な敵弾が、車体の中央部にボルト締めしていた装甲カバーを飛ばしながら路上を跳ねて行き、『バウッ……』、バラキエル伍長が撃ち返す発砲の衝撃に周り中から土煙が上がった。

「バラキエル、エンジンを回すから、撃たないでくれ!」

 大声で怒鳴(どな)った軍曹は体重を掛けて引っ張り続け、僕は渾身(こんしん)の力でグリップを押し続ける。最初は回る気配が無かったシャフトは、『グッ、グォ』と僅かづつ動き出し、四分の一回転辺りで『ググン、ググゥーン』と回し易くなった。

「タブリス! チョークを引いて、少しだけアクセルを踏め! アル、クランク棒を引っこ抜け!」

 『バスッ、バスン、バスン、バス、バス、バス』、クランク棒を抜いた途端にエンジンが息を吐きながら回り出して、エキゾーストパイプから青白い排気が噴出した。

「成功だ! タブリス、アクセルを踏み込んで、吹かしてみろ!」

 『ブロッ、ブロロロォー』、軍曹の大声にエンジンが回転を速めて応(こた)えてくれる。

 『バウッ……』、エンジンが問題無く回転するのを知ったバラキエル伍長は既に狙いを付けていた敵戦車へ発砲する。周囲に土煙が上がり、その舞い上がる土埃を貫(つらぬ)いて赤い火の玉がマムートの脇をスレスレに飛び去って行った。

「さあ、アル、早く元に戻して中に入るぞ!」

 急いで、四角いカバーをボルトで、クランク棒を蝶螺子で固定する。

「席に戻ったら、直ぐに信号銃を用意しろ。色は青で2発だ!」

《信号銃……?》

 信号銃と信号弾の取り扱いは教練で習っていたし、更にブランデンブルクの工場では、軍曹と伍長が皆に装填や構えの注意点なども含めて詳しく教えてくれたのを思い出す。

 軍曹と僕は飛び込むようにマムート内のポジションへ戻ってレシーバーを掛けると、今ではホッとしてしまう『撃ちます!』の落ち着いたバラキエル伍長の声が聞こえ、発砲の炎と煙、瞬時に反動で後退する砲身がペリスコープから見えた。

 ペリスコープを通して見た最新戦況は、敵戦車の位置に変わりが無かったけれど、新たに燃えている3輌と、今、命中弾を受けて白煙が立った1輌が見えた。

 牧草地で新たに群れていた9輌のスターリン戦車は4輌が狩られて、残りはニーレボック村の燃え落ちた家並み近くまで逃げてしまい、互いに相手を屠るのが困難な遠距離に離れてしまった。

「タブリス、発進させろ。後進の続きだ」

「了解、軍曹」

 転がるように座席に戻った僕は、履帯上に張り出したスポンソンの隙間(すきま)に詰め込んでいた防水キャンバス地の大きな袋の中から、信号銃と信号弾を出して青色の信号弾を単装の信号銃へ込めた。

 左横では、ギアを入れアクセルを開けながらクラッチを離したタブリスがマムートを発進させて行く。

 噴かしてもエンジンの回転音は安定して聞こえ、破損した気筒は無くて燃料の供給にも異常は無さそうに思えた。

 汗が噴出し続け、肩で喘ぐ息と心臓の高まりが少しも治まらない僕に、軍曹が命じる。

「アル、少しハッチを開いて、青色の信号弾を二つ、線路脇の連中に見えるように撃て! 連中にエルベを渡らせろ!」

 ずっと遠くで動きが停滞気味といえ、週間映画ニュースで新鋭装備の強敵と報道していた、戦闘経験が豊富で多くのドイツ軍部隊を壊滅(かいめつ)させている親衛軍の戦車軍団なのか、正確な射撃で命中弾を3発もくれた敵戦車隊が正面にいる恐ろしさに、ビビる気持がハッチを開けるのを躊躇(ためら)わせて返事を忘れていた僕へ、軍曹が冗談を言う。

「それとアル、信号弾は、ちゃんと外へ撃つんだぞ。マムートの中を火事にするなよ」

 レシーバーの皆が一斉に笑ったけれど、ちっとも可笑しくない僕は、目紛(めまぐ)るしい状況の展開に頭がクラクラしている。

「りょっ、了解です、軍曹。外へ撃ちます」

 治まらない皆の笑い声を聞きながら、開閉レバーを下げて頭上のハッチを開き上げて横に廻す。確実にマムートの外へ発射する為に、線路に沿って彼らの前を横切るように撃てるように、僕は上半身を乗り出して構え、踏み切りを渡り終えたところで発射する。

 森に潜む敵兵からか、隠れながら近付いて来ている敵兵からなのか、カン、カンと直ぐ傍(そば)でする兆弾音と、シュッ、シュッと、掠(かす)めるような擦過音と吹き寄せる風に、僕は狙い撃ちされていると察した。

 いつ、顔面の骨を射ち抜かれる『ガン!』の音と共に真っ暗になるか分からない恐怖が襲い、震え出す身体に手足が感覚が消えてしまう。だけど、任務を放棄して車内に逃げ込むわけにはいかない。

 青く光りながら飛ぶ信号弾が、彼らが身構えて東から迫る敵を注視する前を飛んで行く。

 歯を食い縛り、僕は急いで燃焼を終えて空になった熱い薬莢を凝視(ぎょうし)しながら、感覚が分からなくなった指で排出して2発目を装填する。そして、信号銃を持つ手を伸ばして狙い、再び彼らの前を横切るように撃った。

 視界を横切った青い光に気付いてこちらを見た彼らに、僕の身振りと大声で叫んで伝える『逃げろ』の意思が届いて、彼らが一斉にエルベ川へ向かって走り出すのが見えた。

 それを、再び森から出て来た敵兵や近くへ迫っていた敵兵と、対戦車壕の斜面をなだらかに崩して戦車を通そうとしていた大勢のソ連兵が見て狙い射ち、更に、移動するマムートと上半身を敵に晒して信号弾を射ち、手を振る僕にも気付いて撃って来た。

 そして、そのソ連兵達にバラキエル伍長が同軸機銃の再び長い連射の死神の鎌を再現させて次々と射ち打ち倒し、逃げ惑(まど)う敵兵達を森や壕の中へ追い払った。

 車内へ戻ろうと下げる顔の視界に、SWS重牽引車に牽引されて来て展開していた75mm対戦車砲と105mm榴弾砲は、弾薬を撃ち尽くしたのか、砲尾の鎖栓ブロックが無くて周辺には誰もいない。牽引車も電気系統をズタズタにされたエンジンが剥(む)き出しで、放棄されていた。

 それを見た刹那、左頬を掠めて何かが飛び去って行くと、突然、右手を見ていた視界に大きな火の玉が迫って来て逸れる事もなく真横の装甲板に激突した。

 左の耳と右の米神(こめかみ)に猛烈な激痛が走り、僕は座席に転げ落ちた。

 どうにか意識を保てた僕は直ぐに座席に座り直しながら、両手はズキンと痛む米神とズキズキと疼(うず)く耳を探り、指先はヌルヌルと滑って掌がベトベトに濡れてしまうのに、切り傷が出来て出血しているのを知った。傷口からの出血は止まらず、触った左の耳の耳介(じかい)の形は変で、ガリッと齧られたみたいに上半分ばかりが無くなっている。耳横の皮膚も擦り削られたようで、火傷したようにヒリヒリして痛い。

 カン、カンを装甲板に辺り続ける銃弾に急いでハッチを閉めながら、耳介は掠めた銃弾が飛ばしているのと、五センチメートルくらい切れてパックリと開いている米神は、命中弾の衝撃でハッチの縁に強打したのだと理解したが、どちらも非常に痛くて、襲って来た恐怖に僕は心底縮み上がり、全身が小刻(こきざ)みに震えていた。

 更に、大口径徹甲弾の1弾が砲塔の右側面に命中して、フックに掛けていた2枚続きの予備履板を粉砕して装甲板に突き刺さった。砕けて半分になった履板の片割れが、開いて真横へズラしていたハッチカバーの上に猛烈な勢いで落ちて、けたたましい音を立てた。

 座席へ落ちる前に、反射的に敵弾が来た方向へ視線を走らせて見た彼方に、新たに出現した敵戦車は牧草地や線路上にも、撃破されて燻ぶる戦車の影にもいなかったが、こっそりと線路脇の牧草地に対戦車砲が展開しているのが見えた。

《いつの間に、展開したのだろう? いたのは2門だけだ! 歩兵もいて、村の方へ撃っていた……》

 身体には、他に射たれたような傷は無かったが、初めて見た自分の体から出る多くの血で取り乱しそうになった。けれど、酷い痛みが四肢に感覚を戻し、保(たも)てた意識が軍曹へ震える声で報告させた。

「軍曹、信号弾は撃ち終わりました。彼らは気付いて、後退しています。ふっ、負傷しま……。右側面の被弾は線路横の対戦車砲からです。2門います。新たに接近する戦車はいません」

 『負傷した』と言いかけたのを、任務に支障が無い怪我なら報告すべきではないと判断して止めた。そんな僕の負傷に気付いたのか、タブリスが血だらけだと思う僕の顔をチラチラと何度も心配そうに見ている。

《見ろ、僕は大丈夫だろう、タブリス。まだ、真っ暗になってない!》

 水筒の水で傷口を洗い、キャンバス地の袋から出したエイドキットの粉末止血剤を、米神の傷口に擦り付け、齧られて痺れる耳介へ降り掛けた。

 傷の痛みに沁みる痛みが加わるが、動脈や太い静脈を切断したのでもないから、世界最先端のドイツ医学の技術で開発された顔中粉だらけの止血剤は、直ぐに出血を止めて乾燥させると信じて、湿らせた布で冷やし、ジンジンして苛付(いらつ)く痛みを紛(まぎ)らわす。

 小刻みな振るえは、報告を終えて少し緊張が薄れた所為なのか、初めて経験する大怪我のショックと思いもしない多くの出血の所為なのか、全身が歯の根が合わないほど、ガクガク、ガチガチと激しい震えになった。

「御苦労、アル。彼らの何人かは倒れたが、村外れまで逃げ切るのを見たぞ。タブリス、静かに停車させろ。バラキエル、アルが言った対戦車砲を見付けしだい、屠れ!」

 既に、軍曹の指示を察していたバラキエル伍長は、砲塔を右へ廻らせている。

「いました、軍曹。左の丘の手前、線路の左横に2門が並んでます。ラグエル、瞬発榴弾を込めろ!」

「タブリス、アル、正面の敵の動きに注視しろ! こっちへ砲を向ける戦車や大砲を見たら知らせろ!」

 レシーバーのスピーカーからバラキエル伍長の敵位置の視認報告と装填弾種の指示に、メルキセデク軍曹の声が続いて聞こえた。

 見越し射撃などした事がないのか、マムートが通り過ぎたばかりの目の前の所を右から左へ、敵の対戦車砲が発射した火の玉は一瞬で横切って行った。

「タブリス、此処で停止だ。頼んだぞ、バラキエル!」

「撃ちます!」

 二俣に分かれる村の通りの入り口でマムートが停止すると、直ぐにバラキエル伍長が発砲した。放たれた高性能榴弾は見事に対戦車砲を直撃して、鉄屑になった砲片とバラバラに裂かれた砲員達を遠くへ吹き飛ばして跡形も無く消してしまった。

「瞬発榴弾!」

 伍長の装填指示に、ラグエルの応答と『装填完了』が続き、『撃ち……』の声に発射音が重なる。

 発砲の衝撃と吸排気の風にブレる視界の真ん中で爆発が起きて、砲身を酷く折り曲げた大砲が宙に舞い上がるのと、独楽(こま)のようにクルクル回転して飛んで行く敵兵が見え、残り1門の対戦車砲も完全に沈黙させた。

 爆煙が薄まると、対戦車砲を守る為にいたのだろう、ソ連兵達がバラバラと立ち上がり、彼らがいる線路脇から見えているのか、川縁へ駆けるヒトラー・ユーゲント達とマムートを撃ち始めたが、そのロスケどもの全てをバラキエル伍長が同軸機銃の長い連射でボーリングのピンのように倒した。

 砲塔は右の真横へ向け、左側側面の装甲板が製作図面の設計ミスによって、単眼式照準眼鏡と装甲鋼板が接近し過ぎて干渉するという問題の修正の加工で、幅の広い丸溝に削られた最新部の装甲厚が半分になった弱点を、正面の敵戦車縦隊に晒している。

 今、其処に敵の徹甲弾の直撃を受ければ、あっさりと貫通されて、全員が昇天してしまうだろうと思っていたが、幸いに敵戦車群は撃って来なくて、対戦車砲狩りは一方的なマムートの殺戮で終わった。

「タブリス、後進しろ!」

 バラキエル伍長が砲塔を正面へ向け終わると、軍曹は村の中へ入れとタブリスに命じた。

 踏み切りを超えた辺りから街道脇に捨てられた物が目立ち始めて、その多くが豪華(ごうか)な椅子(いす)や机に箪笥(たんす)や寝具などのエルベ川を持って越えるには、無理が有る家財道具ばかりだった。

 道が右へ斜めに折れた村の入り口からは、それらに加えて荷車や自動車が乗り捨てられ、燃え落ちた建物や崩れた塀の際には、空爆や砲撃で亡くなったり、エルベ川河畔へ辿り着く前に息絶えてしまった怪我人や負傷兵の遺体が、其処此処に並べられている。

 幾つかに爆弾痕や砲撃の炸裂痕が比較的小さな穴を掘っている路上には、多くの生活用品や私服や軍服も捨てられていたが、居残る住民達は、まだ使える物や新しい物を物色して自宅へ運んだり、脇へ寄せたりして、出来るだけ車輌が通る通路を確保してくれていた。しかし、マムートの車幅には通路は狭くて、寄せ切れていない物品や使い物にならなくて路上に置かれたままの荷車は、履帯で踏み潰して行くしかなかった。

 村の中の破棄捨てられた物だらけのT字路の交差点で、軍曹はマムートを180度の方向転換をさせて、艀乗り場が在る村の南外れへ向かわせる。

 ラグエルとイスラフェルが、砲塔バスケットの床に膝を付いて身体を倒れさせると、手足を伸ばして長々と寝そべった。

「軍曹、徹甲弾は全て撃ちました。フゥ、フゥ、これで残弾は、時限信管の榴弾が、1発だけです。ハア、ハア、それと、ちょっとだけ休ませて下さい。ハア、フゥ、腰と手足に力が入りません。身体中が痛いです。ハア、ハア、御願いですから、ちょっとだけ横にならせて下さい。ハア、ハア」

 仰向けになって、息絶え絶えにそう言うと、本当に苦しそうな表情で喘いでいた。

「分かった。余り時間が無いけど、村外れの艀乗り場の向こうへ行くまでは、休んでいてくれ」

「ありがとうございます。軍曹」

「しゃべらなくていい。そうか……、とうとう弾が無くなったか。よし、さっさと最後の弾を打(ぶ)っ放(ぱな)して、エルベを渡っちまおうぜ!」

 エルベ川と平行する村の通りでは、更に多くの乗り捨てられた荷車と自動車に加え、トラックや装甲車輌が縦隊ごと放棄されていて、それらをマムートが押し退(ど)かしたり、踏み潰して乗り越えたりして進んで行った。

 村の通りには生きて歩いている傷病兵や避難民の姿が殆ど見られず、軍曹が川と平行する通りで、荷物を運んでいる年輩の村人達に彼らの所在を尋ねると、既に渡し場の艀や、そこら中の川岸から筏や小船で渡ったり、浮く物に掴まって泳いで渡る人もいたが、砲撃と空襲で多くの人が下流へ流されたり、溺れたりしたと知らせてくれた。

 他の年輩者は、住人の若者達も連合軍統治地域で自由に戻れる日が来るまで、ソ連兵から逃がれているように言い聞かせてエルベ川西岸へ渡らせたと言っていた。

 居残る村人達が投棄された物品を選んでは、自分達の自宅へ運んでいる通りを横切って、防衛隊の第12軍や国民突撃隊の兵士と、線路脇の守備陣地にいた少年団や少女団の10歳から17歳くらいの団員達が、幾つかの少人数のグループになって渡し場へと走っていた。

 マムートは、艀乗り場へと下る坂道へは行かずに、20mほど通り過ぎた、予め決めていた川沿いの道の南側と東側の牧草地一帯を見渡せる場所に斜めに構えて停止した。

 搭載した砲弾は三十発、二十五発も有った貫徹甲弾は全て撃ち終えてゼロ、五発だけしか積まなかった榴弾は時限信管を一発残すのみで、最後だ。

 何時の間にか薄曇りの空は千切れ雲ばかりになり、雲間からの陽射しが牧草地や森を幾つも丸く照らし、雲間の青空に見えた敵機の編隊が此処ではなくて北へ向かっていた。

 少し強く吹き出した西風が伸び始めた牧草を戦がせて、東のニーレボック村から街道を進んで来る敵戦車の縦隊と、左の丘の向こうを回って来る敵戦車隊の迫る音を聞こえて来させない。

 幸運と言っても良いだろう。15、6発の敵の大口径徹甲弾の直撃を車体と砲塔に受けても、戦闘力を失うターレットリンクや砲身部への被弾、それに機動輪や転輪の破損に履帯の切断も無くて、砲塔の旋回や走行に支障は無い。

 シュパンダウ市のオペルの工場でタブリスから聞いた、粘着榴弾という命中した場所の裏側面を激しく剥離させた鉄片や、ソ連兵に分捕られたファストパトローネの成形炸薬弾の爆発燃焼で、溶かされた鉄のジェット噴流を浴びる事は無くて、僕以外のクルーは誰も負傷していなかった。

 

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 ニーレボック村の空襲と砲撃で燃えていた家々は鎮火して燻ぶり、白い煙の漂う村の中には車輌の蠢きが見えた。

 村の北側の街道口からは、塞いでいた損傷戦車を車体下部の一部が残るだけに爆破した街道を、先に逃げ込んでいた5輌の戦車を先頭に、フェアヒラント村へと列を成して向かって来ている。

「東から来る敵戦車は、アハト・アハトに任せておけばいい。マムートは、森沿いや丘を回って来る奴と、川沿いを南から来る奴を、残弾……、弾が有る限り、始末するんだ」

 『パゥ!』、アハト・アハトの発砲音が聞こえた。『パゥ!』、また聞こえた。音の大きさからして近くの川沿いの道脇にいるアハト・アハトだと思う。

《砲兵達は、逃げ出さずにいたんだ……》

 『パゥ!』、また射った。逃れて来た人達の殆どが既にエルベ川の西岸へ渡り終えているのに、未だに防戦の射撃をしているのは、僕達と同じで、渡り終えた人達がソ連兵の視界から見えなくなる遠くへ離れるまでの時間稼ぎだ。

 『パゥ!』、撃っているのは、南のディアベン村から川沿いの道を此方へ進んで来る敵の戦車隊だろう。まだ敵に位置を発見されていないのか、アハト・アハトの発砲音ばかりが聞こえて来る。

 ノイディアベン村とディアベン村を防衛していた兵士達は、此方へ後退して来ているのだろうか? 今は逃れてエルベ川を渡っている最中なのだろうか? それとも、最後まで守備陣地に留まって戦っているのだろうか?

 低い丘は敵に制圧されてしまって、生き残った守備兵達が丘の麓から川岸へ走って逃げていて。それを丘を下って追い駆けるソ連兵達が射っていた。

 そのソ連兵達をバラキエル伍長が同軸機銃の長い連射で射竦めてしまう。更に、追撃を挫折さられて斜面に伏せる敵兵の周囲に、キューポラの銃架に取り付けたMG42機関銃でメルキセデク軍曹が次々と着弾の土煙を立てて行く。

 『パゥ!』、少し離れた左の方からもアハト・アハトの発砲音が聞こえた。森の端から移動して村の家屋の裏庭に構えたアハト・アハトが、街道を踏み切りまで来たスターリン戦車の縦隊を撃っていて、青い曳光が先頭車へ吸い込まれて行くのが見えた。

 続けて7、8発の発砲音と青い光点の飛翔が見えたっ切り、左側にいるアハト・アハトは沈黙した。

 やがてダメージから体制を整えた敵戦車の縦隊が一斉に発砲の炎と煙が見えると、左手のアハト・アハトが展開していた辺りから連続した爆発響き、舞い上げられた土埃と漂う煙で空が暗くなった。

「もう潮時だ! タブリス、マムートを後退させて、道際のアハト・アハトを援護するぞ!」

 タブリスは軍曹の命令通りにマムートを後進で、川沿いの道脇に陣を構えるアハト・アハトの真横に着けた。

 正面の道の果て、ディアベン村近くの路上には燃えている3、4輌のT34戦車が見えて、道路を塞いでいる。そして、それを迂回して来る50人ほどのソ連兵がこっちへ走っていた。

 丘の左側、燃料貯蔵施設の横、線路の上辺りに4、5輌のT34戦車が現れて、フェアヒラント村へと向きを変えた。

「だめだぁ、アハト・アハトは、……殺られている。バラキエル、正面から来るロスケ共を、最後の榴弾で一掃してくれ! タブリス、発砲後、このまま後進して、艀乗り場口で川辺に降りろ」

「了解、軍曹。ラグエル、タイマーを0・5でセットしろ!」

「0・5でセットしました」

「装填完了!」

「距離450m、撃ちます!」

 時限榴弾は、此方へ走って来る敵兵達の先頭で爆発した。道路幅以上に広がる大きな爆発は、その弾片の殆どを飛翔方向へ扇状に広げて、半数以上を死傷させながら全てを爆風と衝撃で噴き飛ばした。

 タブリスはマムートを後進させ、直ぐに着いた乗り場口の交差点で向きを変え、川岸へと緩い坂道を下って行く。

 後進するマムートのペリスコープから見えたアハト・アハトは、横倒しになって5、6人の砲員が倒れていた。

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 * 5月7日 月曜日 フェアヒラント村 艀乗り場(船着場)付近

  緩やかな坂を下り切った場所には、西岸と行き来する渡し船の艀が接岸して乗り込む為の船着場が在る。艀は平床式のフェリーで、小型トラックや大型馬車ぐらいは積載できる広さと浮力が有り、大雪と氷結の酷い冬場の日と暴雨風雨で時化(しけ)る日以外は毎日、朝から日暮れまで一時間置きに運航されていると、此処を警邏(けいら)していた憲兵隊の中尉が話していた。

 そしてまだ、その中尉が逃げもせずに部下と共に留まっていて、艀に乗り込む人達の列を整理して婦女子と負傷者を優先させていた。

 艀は二艘共、此方側へ来ていたが、1艘は爆弾の弾片か銃撃で遣られたのか、キャビンとデッキがズタズタになっていたけれど、周囲に泡立つ波とエンジン音から航行や操舵は大丈夫そうで、立錐(りっすい)の余地も無く負傷兵と婦女子を乗せると速(すみ)やかに発進して行った。

 もう1艘の外見的に被害が無さそうな艀は、残っていた避難民と兵士達、それに走って逃げて来る守備兵を次々と乗り込ませている。

 船着場周辺の川原には、近くの救護所のテントの周りや河畔の斜面際の到(いた)る所に、5人、10人と合計200人ほどの遺体が並べられ、嵩張(かさば)る荷物や持って行けなかった手荷物と、脱ぎ捨てられた軍服やナチス党員の制服が散乱していた。

 乗り捨てられた車輌は乗船や救護の邪魔になったからなのか、その多くが浅瀬へ落とされていた。

 東西の船着場間の川幅は150m足らずで、乗船の所要時間は10分間と短いが、この時期、針を刺すように痛くて冷たい雪解け水が、南のドイツ国境一帯のアルプス連峰から滔々(とうとう)と大量に流れるエルベ川は、水嵩(みずかさ)が増して真ん中の最深部で10メートル以上と深くなるそうだ。

「ダブリス、右の救護所と炊き出しのテントの向こうまで行くんだ。そして川に向けて止めてくれ。それと、遺体を踏むんじゃないぞ」

「了解、軍曹。右方向の川岸まで、遺体を踏まずに移動します」

「よし、此処で停車だ。ダブリス、ギアはニュートラルだぞ。エンジンは止めるなよ。次は掛け直す時間は無いからな!」

 マムートを誘導して停止させると、軍曹はクルー全員に言った。

「俺達の戦いは、向こう岸へ無事に着いて生き残るまで終わりじゃない! さあ、エルベを渡るぞ! 車内の食い物と炊事道具を下ろすんだ。ラグエルとイスラフェルは後ろのジェリカンを外して筏を作り、それらを乗せろ。終わったら炊事場を覗くんだ。バラキエルは救護所で、使えそうな薬を探してくれ。アルに必要だ。アル、俺達は周囲の警戒に行くぞ」

「了解です、軍曹」

「俺は上の道まで行って、敵の進み具合を見て来る。俺が戻ったら、直ぐにマムートをエルベに沈めるぞ。それまでに用意しといてくれ、みんな」

 外へ出て見たマムートは擬装の枝木が全く無くなっていて、代わりに車体や砲塔の前面や側面の装甲板に突き刺さった敵の徹甲弾頭や削られたり、抉られたりした深い傷が20箇所以上も有って、皆が口笛を吹いて驚いたり、感心したりして、頼もしい守護神のマムートに感謝した。

 ただ、砲塔の両側面に描かれたマスコットマークの空色のマムートが、砲弾の破片や銃弾や砲撃の爆発で飛んで来た石の飛礫(つぶて)にペンキはキズキズに剥がれて、どちらも悲しいくらいの痛々さだった。

 

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 僕が警戒していた川原では、南のディアベン村の方から川岸を歩いて来るソ連兵の列と、フェアヒラント村の北の河川敷に現れたソ連兵の群れが見えていた。距離は南側で500m足らずで北側は1kmくらいだと思う。

 そこへ軍曹が斜面の林を駆け下りて来た。

「上の道は右も、左も、ソ連軍が遣って来る。東の牧草地からは戦車と歩兵だ。待ち伏せや罠を警戒して、ゆっくりと探索しながら近付いている。直(じき)に見える所まで来るぞ!」

「川原も、上流と下流に敵兵が見えます」

 僕の報告に顔を廻(めぐ)らせて川原の敵兵を視認した軍曹は、直ぐにクルー全員に渡河の支度(したく)を急がせた。

 

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「気を付け!」

 マムートの正面に整列した全員が直立不動の姿勢を取り、軍曹の言葉を聞く。

 後ろに組んだ手に持つのは、あのキューポラの上に差していた日除けのコウモリ傘だ。

 てっきり、被弾や爆風で吹き飛ばされて失われたと思っていたのに、しっかり戦闘前に仕舞っていて西岸へ持って行くつもりなのだろう。

 丸めて畳んだコウモリ傘を持つ軍曹は、まるで、映画館で観た戦争映画のイギリス軍のステッキを持つ貴族将校みたいに凛々しく見える。

「最善を尽くして義務を果たし、此処にいる。俺達は誇れる事を成し遂げたんだ。周りを見てみろ。もう誰も残っていない。あの2艘の艀が最後だ。そして、これから、全弾を撃ち尽くすまで敵を撃滅し続けて、俺達を守り、生き残らせてくれたマムートを、エルベの川底深く沈める。この場に放棄してソ連軍に鹵獲(ろかく)させるに忍(しの)びない。以上!」

「軍曹殿に敬礼!」

「回れ、右! マムートに敬礼!」

 バラキエル伍長の掛け声で回れ右をした横1列に、軍曹も並んでマムートに健闘と戦果を讃え、感謝と別れの敬礼をする。

「これより、マムートをエルベ川の中へ進ませ、我々は向こう岸、……西へ渡る。掛れ!」

 タブリスとメルキセデク軍曹がマムートに乗り込むと、エンジンを噴して砲塔を真後ろへ回した。他の四人は突撃銃を抱えて後部上面のエンジングリルに座り、迫り来るソ連兵を警戒した。

 10個の空のジェリカンを繋ぎ合わせて岸辺に浮かぶ筏には、残されていたカバンやバックは中身を捨て、食い物や生活道具をパンパンに詰めて乗せられている。その筏に結ばれたロープを握るラグエルとイスラフェルの腰には、浮き輪代わりにジェリカンが1つ縛られていて、僕と伍長の首にも細いロープで繋げた2つのジェリカンが浮き輪として掛けられていた。

「タブリス、前進だ」

 キューポラから上半身を出している軍曹が頃合いを見て、マムートを発進させた。

 エンジングリルに座る僕達を転げ落ちそうにさせるくらい大きく車体を揺れしながらマムートは川に入り、ゆっくりと水面を進んで行く。

 転輪と履帯が完全に水面下になった岸から30mほどの辺りで、筏に結んだロープを手繰り寄せていたラグエルが、軍曹に敬礼しながら『先に行ってます』と告げて、イスラフェルと一緒に水に入り、筏を押しながら流れに乗って対岸の方へ泳いで行った。

 続いて伍長も軍曹に『先に行きます』と敬礼して泳ぎ始めた。

 軍曹とラグエルの分のジェリカンはキューポラのレールに結んである。それを見ていた僕は、まだ遣り遂げなければならない事が有ると悟った。

 立ち上がった僕は、軍曹に近付いて悟った事を言葉にした。

「軍曹、僕が残ってタブリスを補佐します。体が小さい僕の方が、車内を動き易いですし、脱出を手伝えます。御願いです。僕に残らせてください」

 少し驚いた顔になった軍曹が、上官と車長の立場から困った素振りをする。

「アル、泳ぎはできるか?」

「はい、速いですよ。遠泳も得意です」

「そうか、俺は、泳ぎが得意じゃないんだよな。アルが、そこまで交代したいのなら、タブリスを頼めるかな」

「了解しました。ありがとうございます。軍曹」

「御前もだ、アル。無事に渡って来いよ」

 そう言った軍曹はキューポラから出て、僕から首に掛けていたジェリカンを受け取ると、うねる流れの中をバチャバチャと下手な泳ぎで向こう岸へ近付いて行った。

 軍曹が川に入った後、僕は砲塔内へ入り、少しでも浮力を保とうとキューポラのハッチを閉じてから持ち場の無線手席に向かう。

 操縦手席の隣の無線手席に、いつものように座る僕を、『なんで、御前が残ってるんだ?』と不思議そうにタブリスが見ていろ。

「軍曹と交代して貰ったんだ。僕が付き合うよ。タブリス」

「いいのか、アル」

「いいさ。泳ぐのは得意だし、それに僕の方が気楽だろ」

「あはっ、そうか。そうだな」

 笑うタブリスに、空想科学冒険小説『海底2万リュー』の海底探検する気分になっていまう。

『ガクン、ゴトッ、ゴトゴトッ』、流れの主流まで達したのか、マムートが右へ大きく揺られて向きを変えた。

 全てのハッチを閉じた車内に空気の浮力が有るとはいえ、100tを越す重量のマムートを、その高密度さと高圧力の流れの所為なのか、沈ませながらも全ての転輪のサスペンションが伸び切って垂れ下がったかのように、フワフワと漂う感じをさせて深みへと運んで行く。

 無線手席のペリスコープに水面が迫り、タブリスに『もう脱出しても、いいんじゃないか?』と、言い掛けた時、僕へ振り向いたタブリスが、忙しない早口で言った。

「脱出だ、アル! 直ぐに深みに沈むぞ! 急いでキューポラから出るんだ。先に行け!」

 彼の声に呼応するかのように、ペリスコープのミラーに水中から見る水面が広がり、頭上の車体上面のハッチの隙間からバチャ、バチャ、バチャと冷たい川水が落ちて来出した。

 後部上面のエンジングリルのスリットから入った水がキャブレターを塞いだのか、ハタとマムートのエンジンが止まり、車内に鳴り響いていた12気筒の拍動と沢山の金属の触れ合う騒がしさが消え、代わって『ゴボゴボ、ゴォォォ』と、マムートを巻き込んで流れる水の泡立つ音が大きく聞こえ出した。

 直ぐに席を離れて砲塔バスケットの床に飛び込み、装填手席から砲尾の上へ上がり、更に軍曹が座っていた車長席に立った。

 キューポラに備え付けられている全周視認用の7つのペリスコープから外の様子を確認する。

「タブリス! 砲身が水面に沈んだばかりだ! 水はまだ、砲塔の上に来ていない!」

 そう大声で言って、キューポラのハッチの開閉レバーを握りながら後ろを振り返ると、タブリスが来ていない。

 直ぐに屈(かが)んで真下の床から操縦席へと、タブリスを探して視線を流す。

《いた! ……なんか、もたついてる》

「タブリス! そこで、何をしてるんだ! 早く来い!」

 ターレットバスケットの縁に座る彼の後姿が見え、何やら、焦ったように動いていた。

「右足が引っ掛かって抜けないんだ! アル! 助けてくれ! 手が届かない!」

「分かった! 今行く!」

 助けを求めたタブリスに『そこへ行く』と、即答してしまった僕は彼を助けれるか不安になった。

 助けられてもキューポラまで水没すれば、水圧でハッチが開けれなくなってしまい、車内に水が満ちてハッチが開くまで冷たい水に浸かる命は耐えれそうもないし、彼を見捨てて脱出する無感情さも僕は持ち合わせてないから、最善を尽くすしかない。と考えている内にタブリスの処まで来てしまった。

「どうしたんだ。足が抜けないのか?」

 先ず彼に状況を尋(たず)ねながら僕は、彼の足許(あしもと)の状態を手探りで調べる。

 車内灯を全て点しているのに、其処だけは影になっていて、しかも腿(もも)まで来ている水に水中の状態が全く見えていなかった。それでも、タブリスを助けなければならない。

「足が抜けないんだ。ブーツが何かに引っ掛かってる。押しても、引いても外れない。頼む、何とか外してくれぇー!」

 ブーツを探る指が、レバーの曲がり部分に絡む靴紐に触れた。

「何かのレバーがブーツの紐に嵌ってる。今外すから、ちょっと動かないでくれ」

「ああっ、水が上がって来ている。早く、早く! 俺は泳げないんだぁー。アル、助けてくれ!」

 いつものクールさが微塵(みじん)にも感じられないタブリスが、情けない声を上げて僕に懇願(こんがん)している。

「分かった、分かってる。何とかするから、足を動かすな」

 手許(てもと)がみえないまま、手探りで彼の靴紐を解(ほど)いた。

「よし、ブーツを脱がすから、足を引いてくれ」

 ダブリスが足を引くと、スルリと簡単に足先がブーツから抜けて、彼の体は自由になった。

「アル! 足が抜けた。動けるぞ!」

 悲鳴に近い声が聞こえて、ターレットバスケットの床に立ち上がる彼を見ると、嬉しそうな笑顔で僕を見ていた。

《そんなに喜ぶなよ、ダブリス。外へ出れば川の真ん中だぞ。泳げないんだろう。岸辺までソ連兵が来ていたら射たれるんだぜ》

「早くハッチを開けて出るんだ! 出たら伏せるんだぞ! 敵がいるぞ! 早くでろ、ダブリス。マムートが沈むぞ!」

 短い編み上げブーツから足を抜き取って自由に動けるようになったタブリスを、キューポラのハッチの方へ押し遣った。

 それから、もう腰までの深さになった水に潜(もぐ)って、手探りで嵌(は)まり込んでいたレバーの間から彼のブーツを取り出して、タブリスの後を追った。

 重い水の流れが、どんどんマムートを深みへ運んで行き、砲尾の上に乗ってタブリスに追い着いた時は、砲塔の天井に頭が着いも胸まで水に追い着かれていた。

「アッ、アル! 上手く体が動かない。手伝ってくれ!」

 冷たい水に浸かった所為(せい)でガタガタと全身が震えて動きの鈍いタブリスは、上手くハッチを開かせていたが、もたついて僕の脱出を阻んでいる。

 ダブリスはキューポラから出ようと苦労していた。冷えた体の萎縮(いしゅく)する筋肉で手足に力が入らないのと周りに広がる水面への恐怖に、彼は体を支える事が出来ず、全然、真上のハッチから出れていない。

「分かった。今、出してやる。出ても溺(おぼ)れるなよ」

 仕様が無いので、僕は彼の両足を抱くように持って砲塔上へ押し出し、続いて僕も急いで川面に洗われている砲塔上に出て伏せた。

「ダブリス、大丈夫か?」

「ああ……、なんとか……、でも、体が痺れて感覚が無い……」

「おいおい、しっかりしろよ。もうちょっとなんだから。聞いてんのかぁ、ダブリス。おーい」

 コクコクと頭を振って頷くダブリスに、早く向こう岸へ渡らないと不味いと気持ちが焦る。

 急に元気が無くなったダブリスは、水に浸かり始めた砲塔上に猫のように蹲(うずくま)ってしまう。

《全く、寒さに弱い奴だなあ。それに泳げないし。本当に早くしないと、2人とも流されて、溺れるか、凍死しちまう》

 敵の狙撃兵や機関銃の掃射を恐れて警戒したが、弾丸の飛翔音や近くに水柱が立つ事も無く、東岸の艀乗り場の方を見ると、坂道や斜面の林を大勢のソ連兵が下りていて、遅れて来た避難民と降伏するドイツ兵を捕まえている。

 ソ連軍の将校が望遠スコープを付けた小銃を持つ兵士に近寄り、脱出する人達を乗り込ませて岸から離れたばかりの最後の艀便を指差し、大声で命令した。兵士はゆっくりと狙撃銃を構えて狙いを付け、そして射った。

 川辺に銃声が響き、遮蔽物が何も無い、東岸から僅か120メートルばかり離れた水面に浮かぶ艀のデッキに立つ、避難民らしき人が川に落ちて流れ去って行き、連れなのか、女性の甲高い悲鳴が聞こえて来た。

《なぜ? 射つ!》

 ソ連軍はベルリンを占領して、連合軍はドイツ軍を降伏させたじゃないか! しかも、ドイツを好き勝手に分割して無慈悲に統治できる無条件降伏だ! ドイツ人に酷い事をしても、重く罰せられる事は無く、まだまだ好き放題に略奪するのだろう。

 確かにナチス・ドイツは身勝手な民族思想と経済思想で肥沃なロシアの大地を侵略して、スラブ民族を陵辱して迫害、抹殺した。その仕打ちの鉄槌(てっつい)は降されて指導者は死んだ! 第三帝国も今日で完全に滅(ほろ)ぶのは決定的だ。ナチスの思想に染まったドイツ人は悉く打ちのめされて途方に暮れている。

《だから、もう殺さないでくれ! あんたらは、勝者なんだから、もっと、寛容さが有ってもいいじゃないか!》

 キャビン上に対空用に備えていた機関銃が応射して、岸辺に群がるソ連兵達がバタバタと倒れた。岸辺中のボリシェヴィキどもが一斉に艀へ撃ち掛け、水飛沫(みずしぶき)に包まれた艀の平らなデッキに伏せる人達から血飛沫が上がった。立ち上がって逃げようとする人々は射ち倒されて、二人、三人と川面に消えた。

 ボロボロになって行くキャビンから機関銃が撃ち続けて、発砲煙で霞む岸辺中を着弾の土煙で更に霞ませた。伏せていた負傷兵達も小銃や短機関銃で反撃しているけれど、丸腰の避難民達は逃げ惑う内に無慈悲に射殺されたり、憐れにも冷たい川へ飛び込んで溺れるだけだった。

 突然、艀の周りに大きな水柱が幾つも立ち、艀上に爆発が起きた。

《迫撃砲だ……》

 辺りの水面を爆発で飛ばされた人達の死体が流れて行く。

 デッキ上が綺麗に一掃されて漂うだけになった艀が流されながら、向こう岸の浅瀬で座礁(ざしょう)して止まった。その艀から驚いた事に7、8人が生き残っていて、岸に這い上がると直ぐに低い土手の影へ隠れた。

 100人以上は乗り込んでいたように見えた艀が、近距離から執拗(しつよう)な集中射撃を浴びて、更に迫撃砲弾の爆発で粉砕されても7、8人が生存していたのは、僕に奇蹟(きせき)のように思わせた。

 でも、それは全く以(も)って酷く悲しい出来事だった。

《なぜ! まだ殺す!》

 最後の艀に乗った逃げ惑う哀(あわ)れな人々が、たった150m向こうの岸へ移るのを見逃してくれても良かったのにと、憤(いきどお)る僕は強く思う。

《だから、ボリシェヴィキは農奴上がりの無教養な田舎者(いなかしゃ)で、文明を知らない蛮族共と卑下(ひげ)されるんだ! 勝者なら、もっと堂々としていろ!》

 ボリシェヴィキどもは射撃の的が無くなってしまい、対岸へ逃れた人を撃ち殺そうと狙っていた兵も、興味を失って銃を下げ、辺りに散乱する物品の物色に戻っていた。

 そんな敵の様子に、狙われてはいないと判断して、キューポラのレールに縛っていたジェリカンを外すと、ガチガチと歯の根が合わないほど震えてもたつくタブリスを、2つの空のジェリカンを細いロープで結んだ間に被せるようにして浮かせてた。それから脱がせた片方のブーツを、その靴紐で彼の手首に結んだ。

 キューポラが水面下に沈み、車内に残っていた空気がガバッガバッと噴き出ると、あっという間に砲塔上面が腰の深さまで下がってしまい、慌てて流れていかないようにタブリスの襟首(えりくび)を掴まえながら、自分の分のジェリカンを抱きかかえた時に、砲塔上面に踏ん張って立っていた感覚がスッと足裏から無くなって、いきなり川面に残されてしまった。

「行くぞ、タブリス!」

「ああ、頼む……」

 か細い声のタブリスの目だけが僕を見て頷いた。

 ずっと押し続けていたエルベの重くて強い流れが、遂(つい)にマムートを、もっと深いところへと運び去って行った。

 ここは川幅の真ん中辺りで一番深くて流れが速い処だ。マムートは沈んで川底の岩礁のようになったのだろうか? それとも今も尚(なお)、深い川底で押し流されているのだろうか? そのどちらにせよ、うねり流れる川面には、その所在を示すような漣(さざなみ)や渦(うず)が一切(いっさい)見られない。

 もう見る事も、触れる事も出来ない所へマムートが去った生き別れのような哀しさと寂しさに、雪解けのエルベの水を更に冷たく感じさせて僕を凍えさせた。

 手足をバタつかせて水飛沫を上げないように立ち泳ぎで少しずつ タブリスの襟首を掴んで引っ張りながら西の岸辺に近付いていたが、氷(こお)りそうな水温の低さで無感覚になった身体と力の入らない手足に僕は、後、何分間は命が有るのだろうと思う。

 悴(かじか)んだ手と指先が腕ごと感覚と力を失い、掴(つか)んで引っ張っていたタブリスの襟首を離しそうだ。

 岸辺までは5mほどで、触れていても感覚が無くて分らないのかも知れないけれど、足先が川底に届かない。

 直ぐ其処に岸辺の淀みが見えて、震える体を揺すりながら呻くタブリスを全身の力を込めたつもりの何も感じなくなった両手で、『速く、其処から岸へ上がって、生きろ!』と、強く押し流した。

 押したタブリスは上手く淀みに入って、浅瀬の水底に手足が触れたのか、咳き込みながら動こうとしていた。

 僕も流れから淀みへ出ようと懸命に泳ぐけれど、もはや感覚の無い身体に手足を動かせているかも分からず、どうしても淀みへ行けないまま、流れの縁を漂うように流れされて行く。

 浅瀬に着いたタブリスが四(よ)つん這(ば)いで岸に上がって行くのを見ながら、やっと浮いているだけの僕は流されて行く。ちゃんと片手に渡した右足の靴を持ったタブリスが振り返り、僕を見て叫(さけ)びながら手を伸ばしたが、水面から持ち上げた僕の手は届かないし、タブリスの声も聞こえない。

 そのタブリスへ浅瀬の水を撥ねながら、素早く駆け寄る女子のスカートの裾から見える膝下の白い足に、溌剌(はつらつ)としていた頃のビアンカを思い出した。

《羨ましいぜ、タブリス。綺麗で優しい、相思相愛の彼女だな。ああ、……ビアンカ、どうか無事で、……幸せになれよ。……僕じゃあ、無理っぽいなぁ……》

 微睡(まどろ)むようなビアンカへの想いに、とろんと眠気が来ているけれど、水面下になっている齧られた右耳の中が冷たさの所為(せい)なのか、とても痛くて気持ち良く眠れやしない。

 もっと息をしないと思うけれど、胸も悴んで大きく息を吸えないし、吐く息も凍(こご)えている。

《……1人だけ生き残るじゃなくて、犠牲者は僕一人って事だなぁ……》

 急に耳や額や身体中の痛みが薄れて来て、自分の終焉が直ぐに来る予感を感じながら、川面に立つ波が全身に被り、息を止める僕を沈めさせて行く。

《僕達はマムートに乗って、ニーレボック村やフェアヒラント村で、死神のように大勢のソ連兵を殺した。アルテンプラトウ村でも殺した。僕はシュパンダウの大通りでもソ連兵を何人も殺している。僕は命令と、僕の義務を果たす為に殺していた。だけど、今……、凄く虚しい……》

 今夜午前零時に武器を放棄して降伏すると決められて、命令されていた。だから、それまでに集まっていた避難民達と、敗残兵達と、防衛隊や守備隊の兵士達と、残留を希望しない村民達が、僕達も含めてエルベ川を無事に渡る筈だった。なのに、3年半もドイツと戦って勝利したソ連軍は、たった14時間ほどを待てずに攻めて来た。

 フェアヒラント村と周辺の3つの村には、数10台のソ連戦車が燃え、数100人のソ連兵が骸を晒している。ドイツ人も同じだ。数100人の兵士が死に、数100人の民間人がフェアヒラントの村の中やエルベの川縁で死んでいた。

 ソ連軍が突入して来なければ、怪我や死ぬ事も無く、エルベの西岸で笑っていただろう。ロシア人達も、各村の家々で住人達と終戦を祝う宴で騒いでいたり、艀乗り場でアメリカ兵達とボルシチやピロシキとビフテキやハンバーガーを振る舞い合って楽しく遣っていただろう。

《突入を命じたソ連軍の責任者は、戦争犯罪人だ!》

 メルキセデク軍曹は鋭い観察力と適切な判断でクルーを導いてくれた。バラキエル伍長は人並み外れた卓越の射撃能力でマムートを狙う全ての敵戦車を殺っつけてくれた。ラグエルとイスラフェルは全力で全弾を装填してくれて、より速く敵を屠れた。タブリスは軍曹の指示通りに正確な操縦でマムートを動かしていた。

 そして僕は、逃げ出す事しか考えていなかった。

 シュパンダウでの戦闘は逃げ出す為だった。マムートに乗ったのも体裁良く義務を果たして生き残る為だった。

 そのヘタレだった僕は、信号弾で少年達と少女達を救って、タブリスも助けた。

《それが、僕が生きる為の使命だったのかも知れない……。使命は…… 果たしたから……》

 鼻が水に浸かり、鼻の奥がツーンと刺す痛みで噎(む)せると、口の中へ入る水に、咳(せき)が出るのを息を止めて耐えた。

 ついさっき、『何、人生、終わりそうになってんだよ』、とか『まだ、僕達は生きてるぞ! もっともっと、生きるんだろう?』と言って、ビアンカを励(はげ)ましていたのに、今は、僕が人生を終わりそうになっている。

《……大人になる前に終わっちゃうなあ。今日、ビアンカと話せて良かった……》

 マムートに乗っていなかったら、例え、生き残って長生きする人生だったとしても、彼女と遇う事は無かっただろう。彼女に遇えたのは、マムートの御蔭だ。

《ありがとう、マムート……。さようなら、ビアンカ……》

 両目を開けたまま反対の耳も水に沈み、目の前が真っ暗になって僕は思う。

《ああ、最期が来た。これが軍曹の言う、真っ暗なんだな……》

 

 * 5月7日 月曜日 エルベ川対岸(アメリカ陸軍第182歩兵師団戦区)

 水面下になった僕の顔が引き出されて、目の前に大きく迫る顔の口が大きく速く開き動いて、何かを言っているが、全然聞こえて来ない。

 冷たい川水に濡れて凍える瞳は良く見えず、両手で僕の胸倉を掴み、激しく揺らす相手が誰か分からない。其の片方の手が離れて僕の両頬に往復ビンタを何度も喰らわせてくれる。

《……! 痛い。痛い。やっ、やめてぇー。……やめろぉ……》

 『やめて』と泣き叫んでいるつもりが、全く声に出ていないし、滲む視界が涙の所為なのかも分からずに、バチッ、バチッと何かを叩く音が聞こえて、同時に目を開いているはずなのに真っ暗になって、一向に明るくならない。

《今度こそ、一瞬で終わりって事なのだろうか?》

 

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 幸(さいわ)いにして、僕はナチスドイツの終焉(しゅうえん)の日々を生き残れた。戦いの最期を共にしたマムートのクルーは、誰しもが人情味溢れて人道的だった。

 軍曹と伍長は武装親衛隊や陸軍に招集された当時、模範的なヒトラー・ユーゲントだったかも知れないが、余りにも過酷で悲惨な戦闘の繰り返しを経(へ)て、非道なナチのプロパガンダの酔(よ)いから醒(さ)まされて、現実直視の考えに変わってしまった。

 これが狂信的なナチ党員の上官だったら、今日という日にエルベ川を渡る事の無いまま、ビアンカに再び逢う事もなく駅舎の脇か村外れで弾薬を撃ち尽(つ)くし、数え切れない命中弾を浴びて擱座(かくざ)したマムートの中で、僕は確実に死んでいただろう。

 数個の石を並べただけの簡単な炉に鍋を置いた焚き火の周りへ食べ物が広げられ、それを囲んで座った皆が笑ってる。

 ラグエルとイスラフェルが浮き輪代わりにしていた大き目な缶は、調理したシチューやコーヒーなどを温かいまま密封して運ぶ専用の容器で、それを彼らは艀乗り場の炊き出し場から持ち出して来て、ちゃっかり使っていたのだ。しかも、2つの容器には半分ほどシチューが残されていて、これまた炊き出し場に有ったホーロー鍋と人数分の食器類も毛布に包んで運び出していた。その鍋で残り物のシチューが温められていて、食欲を煽(あお)る匂いが辺りの空気を満たしている。

 それに戦闘で着ていた迷彩服を脱いで、何処かの誰かが船着場に残していった私服のジャケットとコートに着替えていた。迷彩服などの軍人だった事が分かる類(たぐい)は燃やされたようで、燃え残りの布端(ぬのはし)が焚き火の横で燻っていた。ただ、勲章(くんしょう)や徽章(きしょう)はアメリカ兵に高く売れるかも知れないといって、ビアンカの妹と弟の飴缶(あめかん)の底へ隠したそうだ。

 ソ連軍の重戦車が砲撃と銃撃を浴(あ)びせながら迫り、衰えた対空射撃で低空になった空爆が爆弾の投弾を正確にさせて、砲撃の弾着も集中しだして激しくなった、あの時、状況観察と判断に優れ、生活力に長けた彼らは生き残る事に迷いが無くて、しっかりとエルベ川を渡った後まで考えていたのだった。

 きっと他にも、生活や金目な物を持って来ていて、ルールへの道中や戻った後までの生活と安全を計算高く考えているに違いない。2人には技能者より商売人の才覚が有るみたいで、ルールの連中を『見習わなくてはいけないな』と思う。

 既に社会人としての自立している連中の強(したた)かさが恨(うら)めしく、その抜け目の無さに感心してしまう。

 タブリスの叫びで四人が再びエルベの雪解(ゆきど)け水に飛び込んでくれて、幸運にも昇天寸前の僕は生気を失わずに西岸へ引き上げられた。ソ連軍から見えない狙撃を避けられる護岸の土手の向こう側まで引き摺られて行き、そこで介抱(かいほう)された。

 凍えて体温を失いつつある僕の衣服を脱(ぬ)がして、真っ裸にした僕の無感覚になった全身を皆で大声で僕に呼び掛けながら擦(さす)ってくれて感覚を少しづつ戻してくれた。

 それからは乾(かわ)いた軍用毛布にぐるぐるに巻かれて、より安全な場所へ抱えられて行き、起こされた焚き火の近くへ転がされた。

 焚き火の炎の暖かさに、直ぐに眠りに落ちた僕が憶えているのはここまでで、体温が戻って一度目を醒ましてマムートからタブリスを助けて脱出したのを話していた事も、タブリスに感謝の言葉を何度も言われていた事も、軍曹と伍長に直立不動で敬礼された事も、乾かされた服を着せて貰って、また毛布に巻かれた事も、再び寝息を立てて熟睡していたらしい僕は憶えていない。

 はっきりと目を覚ました時は、大きく枝振りを広げた樫の木の葉の隙間から見える青空に、斜陽でほんのり赤味を帯びた白い雲が漂う空と、もっと、ずっと間近に長い髪を僕の頬に触れさせて見下ろすビアンカの優しく微笑む顔が有った。彼女の妹と弟も僕を覗き込むように見ている。

 遠くからゴロゴロ、パンパンと、雷か、花火のような音が聞こえる。たぶん、撃破された戦車の搭載弾薬が誘爆してるのと、フェアヒラント村を占領したソ連軍が逃げ遅れたドイツ兵を掃討(そうとう)したり、捕まえたりする射撃音だと思う。

 僕を見る彼女の笑う瞳(ひとみ)から涙(なみだ)の雫(しずく)がポロポロ落ちて、僕の頬(ほお)を温かく濡(ぬ)らした。

「泣いて、……いるのか? ビアンカ……」

「……そうよ。戦闘が始まった音を聞いたのは、まだフェリーに乗る順番を待っていた時だったの。その時まで疎らに飛んで来ていたソ連軍の砲弾や、落とされていたソ連機からの爆弾は、全部そっちへ行ったわ。だから急ぎ再開されたフェリーに乗れて、こっちへ渡れたの」

「君達が、無事に渡れて嬉しいよ」

「私、土手道まで行って、あなたの乗る戦車が戦うのを見たわ。射つたびに、ソ連軍の戦車が燃えたり、爆発して凄かった。あなた達の御蔭で、順番を待っていた人達の殆どが、ソ連軍が乗り場に迫る前に渡れたの。アル……、ありがとう」

 そう言った彼女は、涙で濡れた僕の頬を指で拭(ぬぐ)い、それから僕の額に自分の額を触れさせた。

「熱は無いわね。……本当に、ありがとう」

 『ドックン!』、殆どゼロ距離で動く彼女の唇(くちびる)と肺一杯に吸い込む彼女の匂いが、僕の心臓を一際(ひときわ)大きく鳴らした。

 僕の額へ額を当てたままの彼女が、僕を包む毛布の中に手を入れて胸を擦って来る。その、躊躇う素振りも無く僕の肌に触れれるのは、きっと、少女団の医療授業で看護(かんご)や蘇生(そせい)の治療方法を学んでいるからだろう。

 でも、僕の熱くなる体温と胸の高鳴る鼓動が伝わっているはずの、紅らめる彼女の頬に、献身(けんしん)や奉仕(ほうし)の博愛精神だけではないと思いたい。

「温かい……、体温が戻ってるわ。もう大丈夫ね。あなたが生きていてくれて、嬉しい」

 彼女の指が拭(ふ)いてくれたばかりの僕の頬を、再び彼女の涙が濡らす。

 彼女は額を僕から離すと更に躙(にじ)り寄って来て、両手の掌で僕の両頬に触れて頭を掴み上げると、僕を焚き火を囲む皆の方へ向かせて膝枕(ひざまくら)で寝かせ続けてくれる。

「あっ、ごめんなさい、アル。米神と耳が痛かったでしょう」

《……耳? 米神……?》

 頭を動かされて、漸(ようや)く右の米神がヒリヒリと痛むのと左の耳のズキズキ疼く痛みを思い出して、顔を顰(しか)めてしまった。額には包帯がまかれて、両方の傷は手当てが為(な)されている。

「いや、少し痛むだけ……、ビアンカ、手当ては、君がしてくれたんだ?」

 ビアンカの心配する問い掛けに、僕は否定的に答えながら、彼女の言葉と行いが嬉しくて痛みに平気なフリをする。でも本当に、まだ、齧り取られた衝撃に痺れて麻痺しているのかも知れないけれど、手当てされて安心する気持ちが痛みを薄れさせていると思う。

「傷口を綺麗に洗ってから、エイドキットの軟膏を塗って、ガーゼを当てて包帯を巻いたの。血は止まっていたわ。あの子達と、あの方の彼女のライラさんも手伝ってくれたのよ」

《あの方? ああ、ダブリスか。……の彼女さん? 誰? そういえば、浅瀬に流れ着いた彼を介抱してたっけ。あの美少女はライラって名前なんだ。再開できて良かったな、ダブリス》

「君の妹の…… ヘンリエッタと、弟のフリオだっけ? それに、……ライラさんも手当てをしてくれたんだ」

「そうよ。痛くなったら、遠慮なく言ってね。膿んでいないか診(み)るから」

「あっ、ありがとう。ビアンカ」

「うん、どういたしまして。アル」

 フェアヒラント村の艀乗り場近くの土手道で弾薬を撃ち尽くすまで、ソ連軍を撃退し捲くってから水没させるまでのマムートの戦いと、沈むマムートから脱出した僕が流されて助けられるまでも彼女は見ていて、僕を助けに岸辺を走るクルー達を妹と弟を連れて追い掛けて来て、傍で安否を気遣ってくれていたのだ。

 そして今、僕が想いを寄せていた美しくて可愛いビアンカの膝を枕に寝ている僕は、心の底から、全身の隅々から、思考の全てから、本当に幸せだと思う。

 近くでメルキセデク軍曹とバラキエル伍長に、ラグエルとイスラフェルとタブリス、それに、まだ名前を知らないダブリスの彼女が、『アハハハッ』と、喜び溢れる顔で笑ってる。

 僕の顔の上で『ウフフフッ』と、嬉しく笑うビアンカに寄り添う、妹のヘンリエッタに弟のフリオも『ケラケラ』と、楽しそうに笑ってる。

 手放しの喜びに僕も、傷の疼きに顔を引き攣(つ)らせながら、『アハッ、アハッ』と、歯切れ悪く笑っていた。

 

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 東岸の殺気立ったソ連軍が落ち着けば、西岸河畔にアメリカ兵が戻って来て事態を速やかに終息させてくれるだろう。

 アメリカ軍から一応の取調べを受けるだろうが、ビアンカ達を連れているし、ラグエルとイスラフェルは身分証を持っているから、途中でメルキセデク軍曹とバラキエル伍長には2人の作業服を着せて、身分証を巻き込まれた戦闘で無くしたと言い張れば、上手く軍曹と伍長の身分と出身地を誤魔化せるだろう。僕は子供だから、ルールに居る親戚へ避難する途中だと言うだけだ。

 皆とルールへ行って、タブリス達と一緒に戦後の復興や賠償事業で働こうと思っている。それで金を蓄えたならビアンカ達とドリームを掴んで実現させる為に、フリーダムの国、アメリカへ行こうと考えている。

 戦争の歴史的に考えて、これから敗戦国のドイツは、ソ連とイギリスやアメリカの連合国とに二分割されると思った。現にアメリカ軍はエルベ川を渡っていなかった。日数的に可能なのにベルリン市へ進軍していない。この事はソ連と分割統治の取り決めが有るからだと、年少の僕でも察する事ができた。

 もう親を頼る事はできない。僕は、覚悟を決めた!

《こらからは、自立して生きて行くしかないんだ!》

 ベルリン市は位置的にも陥落させたソ連が支配するだろうから、手軽にシュパンダウ地区へ行き来できなくなって、僕は両親や安否不明の兄達に、ビアンカ達は足を怪我したお母さんと介護に付き添うお父さんに、この先いったい、いつになったら再会できるか分らないと思う。

 それは、必ずソ連の統治下になるはずのドイツ東部に家族が住む、メルキセデク軍曹とバラキエル伍長も同じだ。

 一生懸命に働いて、1日も早くドイツ東部へも仕事で行ける事業家になり、両親や家族が元気でいる内に、ビアンカ達と一緒に住んでいた場所へ行って再会できるようにしなければと、僕は強く思う。

 

 

 

 

搭乗人物  《年齢は1945年5月7日時点》

超重戦車E-100Ⅱ《ツヴァイ》 ザ・マムートの搭乗員

車長:メルキセデク Melchisedek《平和》・ハーゼ Hase《兎》

 武装親衛隊の戦車兵軍曹 車長経験者 1926年3月生まれ 満19歳

砲手:バラキエル Barachiel《雷》・リヒター Richter《裁判官》

 陸軍戦車兵伍長 砲手経験者 1927年1月生まれ 満18歳

弾頭装填手:ラグエル Raguel《友》・ベーゼ Boese《悪》

 クルップKrupp社の工員 1928年2月生まれ 満17歳

装薬装填手:イスラフェル Israfil《喇叭(らっぱ)》・バッハ Bach 《小川》

 クルップ社の工員 1928年10月生まれ 満16歳

操縦手:タブリス Tabris《自由》・クーヘン Kuchen《ケーキ》

 クルップ社の工員 1928年3月生まれ 満17歳

無線手:アルフォンス Alfons《守護》・シュミット Schmitt《鍛冶屋》

 ヒトラーユーゲント《HJ》の小国民隊の隊員 1930年11月生まれ 満13歳

 

ビアンカ Bianca《未来》・フライターク Freytag《金曜の美神》

 アルフォンスの同級生でドイツ少女団《BDM》の幼女隊の隊員で中隊指導者補佐だった女子 1930年4月生まれ 満14歳

 妹《ヘンリエッタ Henrietta 1937年9月生まれ 満7歳》と弟《フリオ Julio 1939年6月生まれ 満5歳》が同行

ライラ Lailah《受胎》・ブラウン Braun《茶髪》

 フェアヒラント地区のドイツ女子同盟《BDM》のリーダー 1927年12月生まれ 満18歳

 

其の他大勢

避難民、工場作業員、行政官、ドイツ軍将兵、国民突撃隊員、ヒトラーユーゲント《HJ》の団員、ドイツ女子同盟《BDM》の団員、ソ連兵、アメリカ兵など

 

 

後編 時系列

1945年

5月4日 金曜日 曇りのち晴れ 

アルテンプラトウ村からフェアヒラント駅近くの守備位置へ

 午後5時から7時 アルテンプラトウ村に潜んでソ連軍の接近を警戒する。

 午後7時 アルテンプラトウ村からフェアヒラント村へ低速で移動開始。

 

5月5日 土曜日 曇り 

フェアヒラント村 駅近くの守備位置待ち伏せ場所

 午前6時半、夜通し低速で移動したマムートは、朝靄の中、守備位置に着いて木々でカムフラージュされる。

《午後、ゲンティンの町とアルテンプラトウ村がソ連軍に占領される》

 

5月6日 日曜日 薄曇り 

フェアヒラント村 駅近くの守備位置待ち伏せ場所

 午前2時過ぎにニーレボック村の北方向から南の森へ移動する小規模な戦車隊列の影を見る。

 午前3時頃から明け方まで、南東の森向こうのアルテンプラトウ村とゲンティンの町方向から激しい戦闘の砲声がして、夜空が炎で赤く照らされた。

 午前5時、未明の戦闘でソ連軍の攻勢を予想したアメリカ陸軍第182歩兵師団が、被害を恐れてエルベ川西岸の河畔守備位置から退避した隙を突き、負傷兵を婦女子を優先とした渡河が艀乗り場を主体に岸辺一帯で始まる。

 午前9時から午後4時 ソ連空軍機の銃撃と爆撃が続く。

 

5月7日 月曜日 曇りのち晴れ 

フェアヒラント村 駅近くの守備位置からエルベ川西岸へ

 午前7時、妹と弟を連れてエルベ川西岸を目指す幼馴染のビアンカと守備位置で出遇う。

 午前9時から9時半、アルテンプラトウ村方向からニーレボック村へ進軍するソ連戦車を遠距離砲撃で撃破。

 午前9時半から10時、ソ連空軍機の爆撃と銃撃。

 午前10時から10時15分、ソ連軍の砲撃。

 午前10時半、ニーレボック村から守備隊が撤退して来る。

 午前11時から午後0時、ニーレボック村前面から迫るソ連戦車隊を撃滅。

 午後0時から0時半、ディアベン村方向から線路上を来るソ連戦車隊を撃破。

 午後1時、送電鉄塔上のソ連軍砲兵隊観測班を粉砕。

 午後1時半、南の森の道から現れたソ連戦車隊を撃破。

 午後2時、再びディアベン村方向から迫るソ連戦車隊を撃滅。

 午後3時、アルテンプラトウ村へ後退中にニーレボック村から来るソ連戦車隊を撃破。

 午後4時、ディアベン村方向の線路脇に展開した対戦車砲を粉砕。

 残弾数、榴弾1発のみ。

 午後5時、アルテンプラトウ村の南外れでソ連歩兵部隊を撃退。

 午後五時15分、ディアベン村から川沿いの道を遣って来るソ連歩兵部隊を撃退。

 午後6時、全ての搭載弾薬を撃ち尽くしたマムートを、エルベ川へ自走させて沈める。

 脱出時、アルはタブリスを助け出すが、冷たい川の水に体力を失うアルは流されてしまう。

 午後6時20分、流されたアルは渡河を終えたクルー達に助けられる。

 午後6時30分、アルは合流したビアンカ達の介抱で蘇生する。

 

5月8日 火曜日 晴れ 

 午前0時、ドイツ軍が連合軍国に無条件降伏した事により、全ての戦闘行為が停止する。

前編 ザ・マムートの初陣 (ザ・マムート・ツヴァイの戦い <超重戦車E-100Ⅱ 1945/3/29~5/7>)

内容紹介

雪解けで水嵩が増して流れの速いエルベ川を、戦火を逃れて西岸へ渡ろうと艀乗り場に数万人の避難民と敗残兵が群れる1945年5月7日のフェアヒラント村。

早朝のラジオはドイツの無条件降伏と5月8日午前0時の戦闘放棄を知らせていた。

エルベの西岸までで進軍を留まったアメリカ軍が渡河を許すのも、その時刻までだった。

渡河を防止して大量の捕虜の戦果と大勢の難民を支配下へ戻すべく、強力なソ連戦車軍団が防衛ラインを越えて怒涛の如く彼らを襲う。

避難民の中には希望を与えてくれた大切な人もいる。

---僕達は渡河を妨害する全ての外敵を排除して彼らを守る義務を果たさなければならない---

ドイツ第三帝国終焉の日、最強の戦車に乗り込み、抗える限りに意思を貫こうとする少年兵達の壮絶な戦いの物語。

---彼らは自由へ渡れるのか!--- 

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 1945年

  5月7日 月曜日 フェアヒラント村の駅付近 午前七時

 朝の光の中、フェアヒラント村の鉄道駅近くの守備(しゅび)位置で、別に知った人を探(さが)す訳でもなく、ぼんやりと目の前の街道を通り過(す)ぎて行く大勢の避難民達を、僕はマムートの無線手ハッチの縁(ふち)に腰掛けて眺(なが)めていた。

 避難民達は皆(みんな)、フェアヒラント村の船着場からエルベ川を渡って西方へ逃(のが)れようとしている。

 街道の南側に広がる馬鈴薯(ばれいしょ)畑と牧草地の果(は)ての森の向こう、エルベ・ハーフェル運河沿いの鉄道と道路が集中する交通の要所、ゲンティンの町は一昨日(おととい)の午後に敵が占領したと知らされた。

 今日は夜半過ぎの未明(みめい)に、ゲンティンの町へ集結する敵の攻勢部隊に対する反撃が行われて、砲声と爆発音が明け方まで轟(とどろ)いていた。

 たぶん、反撃は敵に大きな損害を与(あた)えたと思う。だが、敵は我が方より遥(はる)かに強力で、直ぐに攻撃態勢を整(ととの)えて今日の昼までには此処(ここ)へ攻(せ)めて来ると予想している。

 だから、街道を左側の東方から右側の西方へ重い足取りで歩いて行く避難民達を眺めながら僕は、敵が来る前に早くエルベ川を渡れる事を祈(いの)りながら、出来る限り、其(そ)の時間を長く稼(かせ)ぐ戦いをすると心に誓(ちか)っていた。

 特に、苦労して歩く小さな子供には、此処まで来たのなら是非(ぜひ)、生き延(の)びて欲(ほ)しいと思う。

 そんな子供を連れて通り過ぎようとする避難民の中に、膨(ふく)らんだリュックサックを背負(せお)って、大きなバッグも袈裟懸(けさが)けに掛けた同級生の女子がいた。両手で妹と弟の手を引く彼女の歩き疲れて虚(うつ)ろな横顔が朝陽に照らされているのを見付けて、僕は大声で名前を呼(よ)んだ。

「おっ、おい! ビアンカ! ビアンカ・フライタークだろぉ! おーい」

 母親がイタリア人でハーフの彼女は、綺麗(きれい)で、可愛(かわい)くて、明るく笑う優(やさ)しい女子だ。学校ではクラスを楽しく纏(まと)める委員長を務(つと)めて人気が有った。また、膝下(ひざした)10cm丈(たけ)のスカート規則を彼女だけは破(やぶ)って膝丈に短くしていた。理由を問われる彼女は『この方が、より活動し易いでしょ』と、悪(わる)怯(び)れもせずに明るく答えていた。実際、彼女は小忠(こまめ)に素早(すばや)く動き、スカート丈と共に目立っていたが、彼女は仲間外(なかまはず)れや苛(いじ)められる事も無く、皆から慕(した)われていた。

 先生や父兄の中には、全体主義的に彼女のスカート丈を心良く思わず、眉(まゆ)を顰(ひそ)める方もいたが、あからさまに注意される事はなかった。寧(むし)ろ、その明瞭(めいりょう)な性格と堅実(けんじつ)な対応力を認(みと)められた彼女は、ドイツ少女団幼女隊の中隊指導者補佐にも任命されていて、ヒトラー・ユーゲントや少女団の集会でリーダーシップを発揮する彼女を慕う女子や想いを寄せる男子は多く、とても目立っていた。

 彼女は笑顔が素敵で、声を上げて笑う顔も、微笑(ほほえ)む表情も、僕は魅かれていて、学校や通りで僕はいつも彼女が翻(ひるがえ)す膝丈のスカートを探していた。、

 そんな快活(かいかつ)な彼女だったのに、今、目の前にいる女の子は堪(たま)らないほど、やつれて見えて、振(ふ)ら付く体の彼女は直(す)ぐにでも其の場にヘタリ込んでしまいそうだ。

(おーっ、スカート丈は同じだぁ…… って嬉(うれ)しがるよりも、なぜ、妹と弟を連れて、此処を歩いてるんだ? 小父(おじ)さんや小母(おば)さんはいないのか? それに、何処(どこ)まで行くんだ?)

 知人もいない初めて来た場所で、名前を呼ばれたのに気付いて足を止めた彼女は、縦皺(たてじわ)を眉間(みけん)に立てた険(けわ)しい目付きの警戒顔を向けて僕を睨(にら)むと、直ぐに目を見開いて言った。

「……アル? アルフォンス! 本当にアルなの! どうしてこんな所に……?」

 いぶかしむ警戒から驚(おどろ)きへ、そして、偶然の出逢(であ)いの不思議(ふしぎ)さが入り混(ま)じった微笑(ほほえみ)に彼女の表情が変わる。

「おい、ここで立ち止まるな。先へ進め!」

 僕を見付けて立ち止まったビアンカ達を歩かせようと、周囲を警戒していた憲兵(けんぺい)の一人が近寄って行く。

「いいんだ。部下の知り合いだ。少しの間、話をさせてやってくれ」

 ビアンカの間近まで迫った憲兵は車長の軍曹(ぐんそう)に制されて、ビアンカ達を僕に近付けさせてくれた。

「いろいろ有ってね。君が無事で良かったよ。両親は一緒(いっしょ)じゃないのか?」

 彼女の顔が、悲(かな)しみと困惑(こんわく)に変わる。

「あなたは元気そうね。……4日前の夕暮(ゆうぐ)れに……、私達の列をソ連の戦車と兵隊が銃撃しながら横断して行って、……大勢の人が亡(な)くなったり、怪我(けが)をしたわ! みんなは散(ち)り散(ぢ)りに逃(に)げて、凄(すご)く恐(おそ)ろしかった!」

 彼女の僕を見ていた顔がだんだんと俯(うつむ)いて独(ひと)り言(ごと)のような話し声になり、それから急に叫(さけ)ぶような大声で終わると、更(さら)に下を向いた顔の影からポロポロと涙(なみだ)の雫(しずく)が落ち、僕は限界(げんかい)まで彼女の気持ちが張(は)り詰(つ)めていたのを知った。

「……母(かあ)さんも足を怪我しちゃって、夜通(よどお)し父(とう)さんが母さんを担(かつ)いで運んだわ。運良く2つ目の村に残っていた陸軍の救護所で手当てをして貰(もら)ったの。だけど……、酷(ひど)く痛(いた)がる母さんは、直ぐに歩けなくって……。だから、着替(きが)えと食べ物を持たされて、『先にエルベ川を渡(わた)っていろ』って言われたの。うう……」

 クラスの女子達のリーダー格だった聡明(そうめい)な彼女が、こんなに取り乱(みだ)して悲しんでいるのに、僕は慰(なぐさ)めの言葉が見付けられない。今、視界に入る避難民や兵士の殆(ほとん)どは彼女と同じか、それ以上の不幸の苦しみに遭(あ)っていると思う。

 ヒトラー・ユーゲントの小国民隊の僕が、軍事教練の為(ため)に小学校の校舎を使った作業棟で寝泊(ねと)まりを始めた当日、僕の両親と妹はスイス国境近くの親戚宅へ疎開(そかい)して行った。

 軍に招集(しょうしゅう)された僕の2人の兄は、何処にいるのか分からなくて、安否(あんぴ)も不明のままだ。

「でも、きっと大丈夫(だいじょうぶ)よ。あれからソ連軍には出遭わずに此処まで来れたわ。だから、向こうで待っていれば、きっと、2人とも後から渡って来て会えると思うわ。この子達の歩きに合わせて来たから、此処へ来るのに4日も掛かっちゃったけど、私達はどこも怪我もしてないし、元気よ」

 親と離れた不安から泣いていた彼女が、言いながら気丈(きじょう)に僕を見上げた。涙で潤(うる)む彼女の瞳(ひとみ)に、居た堪れないくらい僕は切(せつ)なくて胸が苦しい。

「ああ、そうさ。小母(おば)さんと小父(おじ)さんは、きっと大丈夫! 小母さんの傷は直ぐに良くなるよ。戦争が終われば会えて、また一緒に暮らせるさ。僕は、君達が無事で嬉しいよ」

 ビアンカ達の避難民の列を襲撃(しゅうげき)したソ連戦車部隊は、きっと3日前の5月4日の夕方にアルテンプラトウ村で撃退した威力(いりょく)偵察隊(ていさつたい)だ。今は、その翌日の5月5日に、アルテンプラトウ村とゲンティンの街は東と南から攻(せ)め込んだソ連軍が、既(すで)に占拠(せんきょ)している。

「アル、……こんな大きな戦車に乗ってるの?」

 呆(あき)れるようにマジマジと枝木でカモフラージュされたマムートを見る彼女は、何故(なぜ)、此処に僕がいるのか、やっと気付いたようだ。彼女の両脇に並ぶ妹と弟も初めて見た巨大な戦車に、ポカンと口を開けて見上げている。

「ああ、凄いだろ。マムートっていうんだ。エレファントよりでかい毛むくじゃらの奴の名前と同じ。先にエレファントという駆逐(くちく)戦車が出来て、ロシアやイタリアで戦ってるから、先祖返(せんぞかえ)りみたいだな……。こいつは絶滅(ぜつめつ)した種(しゅ)の最後の生き残りさ。……たぶん今、ドイツに残っている戦車の中で、1番デカくて強いと思う。だけど、それも今日までさ……」

 問(と)われるままに答えた言葉は意味の無い冗談(じょうだん)になって、感じている逃げてはいけない状況の遣(や)る瀬(せ)の無さを誤魔化(ごまか)しながら、愚痴(ぐち)るように続けた。

「ブランデンブルク市まで逃げて来たのに、新型戦車の通信要員にされちゃったよ。まったく、袖(そで)の通信資格章を捨(す)てるか、着替えておけばよかった……」

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   4月26日 木曜日 ベルリン市のシュパンダウ地区

 ベルリン市のシュパンダウ地区の大通りで、仲間から押し付けられた5、6発のファストパトローネを教練通りに小脇に抱えて、大凡(おおよそ)の狙(ねら)い角度で迫(せま)るイワンの戦車と兵士の群(む)れへ向けて、続けざまに発射してから大急(おおいそ)ぎで逃げていた。

 

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 僕がシュパンダウ地区で防衛の配置に就(つ)いていた場所は、大通りの真ん中の爆撃で抉(えぐ)れた痕(あと)の穴を利用した浅い塹壕(ざんごう)で、その底に低く伏(ふ)せて全身を硬直(こうちょく)させていた。ついさっきの激しい砲撃は幾(いく)つも間近で爆発して、イギリス空軍の夜間爆撃で半壊(はんかい)していた真横のビルの並(なら)びが、直撃を受けてドカドカと大きな瓦礫(がれき)を沢山(たくさん)降らせてくれた。

 固(かた)まった身体を歯の根が合わないほど震(ふる)えさせながら僕は、『助けてくれぇー!』、『早く降参(こうさん)して、戦争を終わらせろぉー!』、『ドイツなんで、今直ぐに負(ま)けちまえー!』、『ここから出してくれー!』って、何度も砂だらけでパサパサになった口で叫んでいた。

 50mくらいまで接近しているような敵戦車のキャタピラ音が、大きく聞こえて来る。

 ゆっくりだけど、躊躇(ためら)い無く近付く走行音から、まだ敵は、全身を瓦礫屑(がれきくず)塗(まみ)れにさせて塹壕の底へ潜(もぐ)るように伏せる、二十人ほどになった生き残りのヒトラー・ユーゲントの隊員に、気付いてはいないようだ。このまま伏せていれば、気付かずに通り過ぎてくれて、運が悪くても捕虜(ほりょ)にされるだけだと思っていた。

 更に近付いて来るにつれて、敵兵の足音と呼び合う声が聞こえ、敵の重戦車の動く振動が、伏せる穴底から急速に大きくなって伝(つた)わって来る。

 ビューゥっと、塹壕の上を吹(ふ)き抜(ぬ)けた風が、敵戦車の迫る音を爆弾穴の縁まで来たかのように大きく響かせると、周(まわ)りに伏せていた仲間達がガバッと一斉(いっせい)に起き上がり、持っているファストパトローネを伏せて蹲(うずくま)っている僕へ捨(す)てるように押し付けては、走って後方へ逃げて行く。

 背を低くせずに立ち上がって走るという姿は、いくら子供のすばしっこさでも、直ぐにソ連兵が見付けて、走り出した奴も、立ち上がり掛けた奴も、短機関銃と戦車の車載機銃の激(はげ)しい連射にバタバタと撃(う)ち倒(たお)された。前方の穴から駆(か)けて来た奴が、僕がいる穴を飛び越えようとした時に銃火に捕まった。

 左手の肘(ひじ)から先が千切(ちぎ)れ、裂(さ)かれた腹から内臓と血が零(こぼ)れて、彼は僕の真横に落ちた。

 初めて見た人間の内臓と沢山の血、腕(うで)から突き出す血まみれの白い骨、捩(ねじ)じ切ったようなピンク色の筋肉(きんにく)の筋(すじ)にペラペラな白い皮膚(ひふ)。その生々(なまなま)しい光景と臭(にお)いに、息が出来ないほど吐いてしまって鬱血(うっけつ)する顔に米神(こめかみ)の血管がブチ切れそうだった。

 彼の頭の横……、左耳の上辺(うえあた)りにも弾の中(あた)った孔(あな)が有った。頭蓋骨に朱色(しゅいろ)の空洞のような孔がボッコリと開いている。孔を縁取る頭蓋骨の白い割れ口が、まるで料理に使った卵の殻(から)みたいだ。中身の脳味噌は高速で貫通(かんつう)した弾丸(だんがん)の勢(いきお)いに、反対側から引き摺(ず)られて出てしまったように見える。

 泣き喚(わめ)きながら僕の塹壕を飛び越えようとした彼の15歳になったばかりの人生は、頭と腕と腹を貫通した銃弾が瞬時(しゅんじ)に終わらせた。

 先月の初めに『今年は少年団を卒業して、青年団入りだな♪』と嬉しそうに言いながら、ベルリン市の東側から聞こえて来るソ連軍の砲声に耳を傾けた彼は、困り顔で『これじゃあ、先に戦争も、ドイツも終わっちまうな』なんて、冗談ぽく苦笑(にがわら)いしていたのに……。

 今、それよりも先に、彼の命が天に昇ってしまった……。

 苦しそうな表情の泣いて腫(は)らした両目は涙を湛(たた)えて僕を見ていたけれど、既に光を宿(やど)してはいない。ついさっきまでは冗談と勇(いさ)ましい言葉を大声で言い合って、景気付(けいきづ)けに合唱していた彼は歌が上手(うま)くていつも皆をリードしていたのに、開いた口から今はもう声を出せない。

 彼は僕の傍(そば)で死んでしまって、塹壕を飛び越えようとした時の泣き腫らした顔のままで僕を見詰めている。僕を見ないでくれと、吐きながら震える手で彼の目の前に瓦礫を置いていた時に、ムカムカする吐き気以上に怒(いか)りを感じた。

 あと僅かな時間で僕も彼のような屍(しかばね)になってしまう現実に、僕を此処で死ぬ運命にさせた世界に、のこのこと軽い気持で此処へ来ている自分へ、更に、僕を今直ぐ殺そうと迫る敵の奴らに激しくイライラする気持が、ゼェゼェと息苦しく肺を喘(あえ)がせて、ドドドッと急連打の全力動悸(どうき)で血液を巡らす心臓をプルプル震えさせた。そして、ズキズキと酷く痛み出した頭と身体の奥底から迸(ほとばし)る強い憎悪(ぞうお)に、僕は有らん限りに叫んだ。

「ちくしょーっ! こんなので死んでたまるかあぁ! まだ何も遣っちゃいないし、充分に生きちゃあいないんだぞおぉー!」

 

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 ほんの1週間前までは、工場地帯がアメリカ空軍に精密爆撃で破壊(はかい)されても、軍需(ぐんじゅ)生産目標の無い市街地の住宅地や商店街が夜間にイギリス空軍の無差別爆撃で炎上しても、工場で働(はたら)いていた住民の幾人かが亡くなっても、耳に入るロシア人の蛮行(ばんこう)の噂(うわさ)に若い娘がいる家庭が西方へ逃れて行って、同級生の女子がいなくなっても、親達が、南方への疎開は、もう間に合わないと蒼(あお)い顔で頭を抱(かか)えていても、僕達の住むシュパンダウ地区北西郊外に被害は殆ど無くて、日に日に迫り来る敵軍との戦闘を14歳の僕達は漠然(ばくぜん)としか意識していなかった。

 閉(し)めたカーテンの隙間(すきま)から、夜間空襲の遠く燃え上がる炎の列に赤く照らされた夜空を見て、不安を感じている気持ちの半分は、スペクタクル映画のクライマックスを観ているみたいで綺麗だなと思っていた。そんな楽観的な子供の僕らは、国民突撃隊員として召集された四日間の軍事教練が終了しても、スポーツ合宿のような浮(うわ)ついた気分でいた。

 教練が終了した翌日の一昨日(おととい)は、命じられて朝から大通りの交差点で配置に就かされた。

 四輌の路面電車を交差点へ押して来て並(なら)べ、夕方まで散々苦労して周囲に深い穴を掘ると、動かせないように外して来たレールを杭代わりに立てて固定した。

 その日の作業はそれで終了。班毎(はんごと)に別れて大通りに面した半壊の建物の中で熾(おこ)した焚(た)き火(び)を囲み、晩飯に配られた太いソーセージ入りのシチューとパンを食べてから、僕らは防衛配置の大通りの爆弾穴で寝た。腐敗(ふはい)ガス臭い穴底の地ベタでも、支給された粗(あら)めに織(お)られても厚くて重い毛布と防水の迷彩ポンチョに包まって丸まる、重労働で疲れ切って腹が満ちた肉体は直ぐに夢を見させてくれた。けれど、夜半から時折(ときおり)降られて起こされた俄雨(にわかあめ)で良く眠れていない。

 昨日(きのう)は朝から前日の作業の続きで、並べて固定した路面電車の中を大きな瓦礫で埋め、周囲にも堆(うずたか)く積(つ)んで交通障害物として完成させた。

 その後は、携行(けいこう)した小さ目なシャベルで舗装(ほそう)道路に掘れた爆弾の穴を更に掘って自分用の塹壕を作った。けれど、大通りの地面は大きな石がゴロゴロ混ざる粗い砂で固められていて、その硬(かた)さは散々苦労して掘り続けても、膝が隠れる程度の浅さで精一杯だった。

 シャベルを塹壕らしからぬ穴の中へ投げ捨て、好い加減に嫌になった塹壕掘りを止め、皆で小学校の校舎から運んで来た、20個の真新しい木箱に入ったファストパトローネを受け取りに行く。

 爆弾穴近くの路上に置いていた2cmは有る厚い松材の木箱の中から、押し付けられるように配られたファストパトローネは、命中すれば成形(せいけい)炸薬(さくやく)弾頭(だんとう)の爆発燃焼で溶けた装甲板の鋼鉄が高熱超高速の噴流となって、200mm厚の鋼鉄装甲も溶解(ようかい)貫通できて、上手く砲塔内や車体内部の弾薬へ貫通した高熱噴流が被(かぶ)れば、瞬時に敵戦車を爆発炎上させられる威力(いりょく)が有ると、教官の古参兵が言っていた。

 

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 訓練で1度だけ、教官が信管と炸薬を抜いたダミー弾頭付きのファストパトローネを小脇に抱えて、発射筒の上にくっ付くように折(お)り畳(たた)まれた、小さな孔が並ぶだけの板にしか見えない照準器(しょうじゅんき)を起こして立て、孔を通して見える弾頭の丸みの頂点と目標の軸線を合わせ、最大射程狙いの約35度の角度で発射した。

 『バンッ!』と短い破裂音がして、教官の真後ろの地面を5、6mの長さの炎が舐(な)めた。

 外した炸薬と信管の代わりに入れたセメントで、重さとバランスを同じにしたダミーの弾頭は、『ポンッ!』という感じで弾き出されて、思いっ切り遠くへ投げたボールや石のように、放物線を描いて校庭の端に落ちた。

「見た通り、放たれた瞬間に弾頭の尾に巻かれている4枚の羽が、弾性と風圧で広がり、狙った方向へ真っ直ぐに飛んで行く。だが、最大の狙いでも、100mほどしか飛ばないし、勢いも手で払い避(の)けたり、受け捕(と)めれるように思えるくらい、ゆっくりになってしまう。だから諸君は、確実に敵戦車を仕留める為、50m以内に近付けさせなければならない。できれば、照準器の1番下の孔で狙う30mだ!」

 教官は僕達を傍に来させて、最も危険な動作を知らしめる注意をする。

「行き足の勢いを失った弾頭でも、その重みによる自重落下だけの衝突力で、この弾頭カバーが割れて外れてしまう。外れると同時に信管が作動して弾頭の炸薬が爆発燃焼する。だから、キャッチしたり、振り回すような遊びをするな! 発射する直前まで絶対に照準器を起こすな! 起こせば安全装置が解除されて、弾頭カバーが外れるだけで、爆発する。3m以内は即死だ! 5mでも大怪我だぞ。解ったな! 事故をを起こすなよ」

 それから、発射筒と真後ろの僅(わず)かに焦(こ)げた地面を指し、注意すべき点を話す。

「打ち放った後も、破損していない発射筒は、繰り返し使用可能だ。照準器は安全装置を兼(か)ねている。最近の弾頭は信管と発射薬が既に充填(じゅうてん)されていて、照準器を元の状態に折り畳まないと、新しい弾頭が発射筒に差し込めない。そして、照準器を起こさないと信管の安全装置が解除されないし、発射レバーも押せない。照準器は弾頭の脱落防止の留め金も兼ねているから、発射筒の破裂や弾頭の早期爆発を招(まね)いて非常に危険だ。そして、発射時に真後ろにいると発射薬の強烈な燃焼炎で即死する。2m以内は骨まで溶かされてしまうぞ。6、7m離(はな)れていても全身大火傷で助からない。仲間に殺されたくなかったら、最低限、10mは離れる事だな。まっ、お前らのような子供が扱うには、危険なファストパトローネだが、注意事項に気を付けてていれば、凄く強力で御手軽な対戦車兵器だ。榴弾ほどでもないが、敵兵も吹き飛ばせるからな」

「補足だ。事故の危険が有る為、安全装置の照準器は簡単に起き上がらないように、少し固く嵌まっている。だから、掴んで起こすには、指と腕の力が必要だ。軽い気持で起こそうとしても、起きない。でも、そこで諦めるな! 必ず起こせるはずだ! さあ、諸君。1人づつ、順番に照準器を起こしてから倒して戻すんだ。遣ってみて、力加減を覚えろ!」

 4日間の教練は、ファストパトローネを抱えて肉薄攻撃と取り扱いの訓練ばかりで、他にした事といえば、離れいる物の大きさの目測からの距離の目測、それに校庭での穴掘りだった。

「ファストパトローネを上手く使って、生き残れよ。ハイル・ヒットラー」

 教練最後の日、手配されて来た徴用トラックに、ファストパトローネと小銃と弾薬を詰めた木箱類を乗せ終わり、不動の姿勢で整列した僕達へ教官が手向(たむ)けの言葉をくれた。

 

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 ファストパトローネを入れた木箱は2人掛かりでも非常に重くて、トラックに積むのは持ち上げる2人と引き上げる2人がいないと難しい作業だった。

 1本が約7kgのファストパトローネを4本で28kg、松材の木箱が5kg以上、1箱で33kg以上も有り、トラックで近くまで行っても、降ろしてから防衛ラインまで歩いて運ぶだけで、持ち手のロープが掌に食い込んで水脹れを作ってしまった。

 ファストパトローネを受け取ろうと、開いた両手の掌がヒリヒリと痛み、見ると水脹れが塹壕掘りで全て破れているのに気付いた。右の胸ポケットに入れていた軟膏類の薬の中から、いつもの擦り傷用を出し、傷口に付着した泥の洗浄に流し掛ける水筒の水が、掌をジンジンと痺れたみたいに痛くさせた。

 沁(し)みる痛みに堪えながら、木箱に入る新品のファストパトローネを見ていると、そんな、僅か数日前の教練を思い出して、なぜか、懐かしんでいた。

 

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 配られたファストパトローネを塹壕の中で握り締めて、『この1本を撃っちゃったら、後はどうするんだ? 後方へ全力で駆けて、逃げるしかないのか? でも、怯む敵が前進を停めて、退避していなければ、間近から簡単に、撃ち殺されてしまうだけだな……』と、悲観しながらも、200m前方に並べた路面電車を眺めながら『行ってみたい場所が在(あ)るけれど、今度は、いつ乗れるかな』などと、春の霞(かす)む青空を見上げて平和な日々を想像していたら、いきなり目の前の路上に砲弾が落ちて爆発するまで、真剣に戦争を実感していなかった。

 100mほど離れて着弾した砲撃は徐々に近付き、僕達が隠れる爆弾痕の並ぶ場所に、集中して砲弾が落下して来た。次々と炸裂して噴き上げる炎と爆煙は青空の陽射(ひざ)しを遮(さえぎ)って辺りを暗くした。切れ間の無い着弾は、まるで、塹壕の1つ、1つに命中させて、穴底に伏せる僕達を1人残さず爆殺させるまで終わらないとばかりに、激しく炸裂した。

 初めは近付いて来る爆発音と突き上げる揺れを塹壕に伏せて身構(みがま)えていたけれど、突然、伏せている体が抛(ほう)り上げられたかのように浮いて仰向(あおむ)けに落ちた。直後に叩(たた)き付ける衝撃波(しょうげきは)と熱い爆風が来て、顔と手足の千切れそうな痛みに叫んで泣いた。

 自分が潜(ひそ)んでいる塹壕が直撃されたなら、浮き上がった僕の体を砲弾の断片が削(けず)り取って、手足どころか、命が無くなったら、この砲撃が止んだ後に生きていても、顔の半分が無くなり、胸に大穴が開いて、裂かれた腹から内臓が全部出ていたら、指や手足も千切れて、その耐(た)えられない痛さと熱(あつ)さに泣き喚いたまま死んで行ったら、などと、最初に体が浮き上がった瞬間に考えてしまい、物凄い恐怖に襲(おそ)われた。

 間近に落ちた砲弾の炸裂で爆弾痕の縁が、ガバッと飛ばされるような勢いで崩れ落ちて仰向けの僕に降り掛かる石畳片と砂が、まるで『次は、お前だ』だと、僕に触れなぞる死神の鎌の刃先のようで、きつく目を閉じて次の着弾身構える全身がガタガタと死の恐怖に酷(ひど)く震え、背筋から首筋への硬直で頭が左右に細かく振られ、上下の歯が勝手にカチカチと激しくぶつかって、口を閉じられない。

 直ぐに直ぐに次の砲弾が続け様(ざま)に着弾して、僕達が隠れてる大通り全体を掘り返した。

 自棄(やけ)に激しい集中的な砲撃に、僕達は見付かって狙い撃ちされているのかと考えたけれど、初弾の着弾爆発まで、大通りの彼方までの視界内に人の動きを見ていなかったし、皆は塹壕内に潜んでいたから、爆弾で掘れた穴が幾つも有るだけの無人の大通りにしか見えないはずだった。

 『ドサッ』、そう考えた時、砲弾の炸裂で撥(は)ね飛ばされた何かが、塹壕の縁に当たって滑り落ちて来た。直撃を受けた仲間の千切れた部位なのかと、恐る恐る見た物に僕はショックを受けた。

 それは、割れて半分になった空の木箱で、ファストパトローネを入れて運んで来ていた。

 何処か視界の果ての影に待ち伏せるドイツ兵を、こっそりと見付け出して砲撃を誘導(ゆうどう)する敵の火力部隊の前進観測員は、爆弾穴の並ぶ大通りの中央で開かれた真新しい木箱達が、明(あき)らかに携帯兵器か弾薬用で、受け取ったドイツ兵が周りの穴に居ると察(さっ)した。そして、その観測員が誘導する激しい砲撃を僕達は受けていて、今も誘導がされ続けている。

 それを知った僕の全身は、無情の怒りで更に激しく震えて逃げ出す気力は失せ、『どうせ死ぬのなら一瞬で』と願ってしまう。

 全身を強く震わす恐怖が、手足の筋肉を緊張(きんちょう)させてガチガチに力が入ってしまうのに、食物が通る内臓の筋肉は弛緩(しかん)して、胃が逆流し、直腸も排泄(はいせつ)してしまう。

 ブリブリと脱糞(だっぷん)した柔(やわ)らかな大便はズボンの中を満たして行き、更に尿意(にょうい)を催(もよお)さないのに無意識に出てしまった小便が、ぐちゃぐちゃに掻(か)き混ぜて下痢糞(げりぐそ)のようにした。

 それが下腹部から踵(きびす)までの素肌(すはだ)に触れ絡(から)まるのと、その臭(にお)いは胸が喘ぐ度(たび)に襟首(えりくび)から溢(あふ)れ漂(ただよ)わせて気分を悪くしてくれた。

 だけど、その気分の悪さと恥(は)ずかしさも、直ぐに次の着弾の恐ろしさが忘れさせてしまい、ズボンの中の違和感は、転(ころ)んで着いた泥濘(ぬかるみ)の泥(どろ)のように、首周りに纏わり付く悪臭は、廃墟(はいきょ)に溜(た)まる糞尿混じりの排水からのように思ってしまった。

 塹壕の縁にザクザク弾片が刺(さ)さり、爆発で空中高く飛ばされた石畳(いしだたみ)舗装の欠片(かけら)がドカドカと落ちて来る。爆発音は全(まった)く聞こえない。叫びながら頭を抱(かか)えて蹲る僕を殺す破片が飛び交(か)っているはずなのに、自分の叫びも、爆発音も、何も聞こえないし、見えない。

 何度も撥(は)ね上げられて、真っ白になったコンクリート臭い大気は、息ができないくらい猛烈(もうれつ)に噴(ふ)き付けて来て、その熱くて硬い空気に僕は圧迫(あっぱく)されて潰(つぶ)されそうになっていた。

 ヒトラー・ユーゲントの冬服の上下に短(みじか)い編(あ)み上(あ)げのブーツ、それに、頭にきつく被っているのは重いバックルが付いた鍔(つば)付き制帽。この日常の普段着的な外出時の服装、それだけが僕の体を覆って守っている。

 貫(つらぬ)かれるだろう鋭(するど)い弾片や、潰されるだろう落ちて来る重い瓦礫や、砕(くだ)かれるだろう大きな破片を防(ふせ)いでくれるヘルメットなどは全く身に付けていない。ただ、撥ね飛ばされながら偶然の幸運を願って祈るしかなかった。

 5分ほどだったのか、10分くらいは続いたのか、分らない激しい砲撃の間中、恐怖に頭を抱えて、伏せたり、蹲ったりしながら大声で叫び通しだった。何度も吐(は)いて上半身は吐瀉物(としゃぶつ)だらけだ。

 ゆっくりと後方へ着弾が移って行くと気付いた時、突き上げる地面の振るえが無くなり、砲撃が止(や)んだ事を身体で理解した。砲撃が止んでも暫(しばら)くは何も聞こえなかった。15分は過ぎた頃、誰(だれ)かが点呼(てんこ)を取り始めるけれど、誰も塹壕から顔を出さない。呂律(ろれつ)が回らない震え声で答えた声に10人以上も殺(ころ)さられたのを知った。直ぐにでも、ここから脱走したいのに、砲撃に耐えて生き残った幸運の思いが、碌(ろく)な遮蔽物の無い大通りに立つよりも、まだ安全な塹壕の底に皆を伏せさせていた。

 更に5分くらいが経(た)ち、ガタゴトと動きの悪そうな機械の移動音が交差点の向こうの方から聞こえて来て、斜陽(しゃよう)に照らされた廃墟の街並みを背後に近付いた音の黒い影が、瓦礫で固めた路面電車を圧(お)し潰して来た。

 その時! 爆発が…… 起きると思って期待していたけれど、何の爆発もせずに、軍事雑誌のイラスト通りの長砲身の85mm砲を搭載したT34型らしき戦車が、ゆっくりと潰した路面電車を踏み超えていた。

 僕達が並べてレールの杭で固定した路面電車の車内や周りを大きな瓦礫で埋(うず)めて交通遮断の障害物した後、夕刻に海軍の陸戦隊と空軍の降下兵の1団が遣って来て、何やら、地雷や爆薬で罠を仕掛けたと思っていたのに、路面電車は爆発しなかった。

 その想像していた場面では、大爆発で端の2輌は弾き飛ばされ、間の2輌は折れ曲がって宙に浮き、圧し潰そうとした敵戦車は更に高く突き上げられて、空中で爆発するはずだった。

 なのに、敵の戦車も、兵隊も、無傷で僕達に向かって来ている。

 一体全体、あの集まっていた兵隊達は何をしていたのだろう? それとも、仕掛けていたのに不発だったのかも知れない。いずれにせよ、兵隊達の不甲斐無さと期待外れに僕は、何事も無く迫って来る敵戦車を憤慨(ふんがい)の思いで見ていた。

 初めて実物を見る、並べた路面電車を踏(ふ)み潰したブリキ缶みたいにしながら乗り越えて来る敵戦車と、ゾロゾロと随伴(ずいはん)する敵兵達に、砲撃でズタズタにされた僕達の精神はバサバサに千切れ、既に何も考えられない薄(うす)い灰色の頭の中は真っ白になった。

 その想像も、経験した事も無い恐怖のダブルパンチは、『戦え』どころか、『逃げろ』、『隠(かく)れろ』の本能の脅迫(きょうはく)となって、逃げ惑(まど)う皆を殺してしまった。

 

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 傍に倒れて光の無い瞳(ひとみ)で僕を見詰める骸(むくろ)の下半身はぐっしょりと濡(ぬ)れていて、被った粉塵(ふんじん)を湿(しめ)らせていた。

(彼も僕と同じで、本能が悟(さと)る死の恐怖に、身も、心も、縮(ちぢ)み上がったんだ……)

 血だらけになって倒れる仲間達に、僕の精神は恐怖と怒りの頂点(ちょうてん)に達するけれど、逃げ切るには敵を殺っつけなければならない。僕は震えて強張(こわば)る手足と指を見詰めながら無理に意識して動かすと、握(にぎ)っているファストパトローネの照準器を起こして、照準孔を覗きもせずに1番下の孔辺りの角度で迫り来る先頭戦車に向けて放(はな)った。

 『ドン!』と、激発(げきはつ)レバーを押し下げた瞬間に肩に担(かつ)いだ金属筒から発した発射音は、心臓を縮み上がらせて、衝撃で舞い上がった埃(ほこり)と、後方へ噴出す爆発炎で熱くなった周囲の空気を喘ぐ肺へ吸(す)わせた。

 照準器を起こす力は訓練用ファストパトローネよりも新品の分だけ、強い力が必要だった。何度も起こして倒した訓練用のゆるゆるよりも新品はガチガチに嵌まっていて、その固さに14歳の非力な僕は、諦め掛けてしまう。

 だけど、ファストパトローネを使わないと、逃げ出すチャンスも生まれない。

 直ぐに弾頭を放って残った発射筒を捨て、次のファストパトローネを掴もうと屈(かが)みかけた時に、間近に迫る敵戦車の前面に閃光(せんこう)が光った。その光が弾頭の命中したモノなのか、敵が戦車砲を撃ったからなのか、見定めないままに急いで屈んで、照準器のロックを外そうと指を動かした。

 再び照準器を掴んで思いっ切り力任せに引くと、今度は上手くロックが外れて起きてくれた。一度できた後は理解した力加減と操作のコツに、次のファストパトローネから照準器を直ぐに難なく起こせるようになった。

 それからは焼ける肺の咳き込む苦しさと、初めての実弾発射の音と衝撃で湧(わ)き出た勇気(ゆうき)に、僕は傍へ転がされたファストパトローネを片(かた)っ端(ぱし)から掴んで照準器を起こし、弾着も確(たし)かめずに矢継(やつ)ぎ早(ばや)でイワン達の方へ向けて打ち込んで遣った。

 二発目は外れて二輌の敵戦車を飛び越えた辺りの路面に落ちて爆発した。

 もう無我夢中(むがむちゅう)で、耳元を掠(かす)める銃弾も、胸元の瓦礫を砕いて跳ねる弾丸も、全身を駆け巡(めぐ)るアドレナリンの興奮で気付けない。

 視界の隅に見えた限りでは、命中したのに中(あた)り角度が良くなかったのか、弾かれて転がった路面で爆発した。

 操作教練の教官が言っていた『命中すれば、必ず装甲板を貫通する。200mmの厚みまで、貫通できるんだ!』は、必ずではなかった。弾かれたり、逸らされたりしたら、当然だが、命中箇所で爆発してくれない。

 僕の塹壕に転がされていた最後のファストパトローネは、照準器を起こして持ち直そうとした時にトリガーのレバーを押し下げてしまい、不意の発射は予期してなかった僕を心底驚かせてくれて、一瞬、塹壕の中に巻いた発射の熱い炎に僕を包んでくれた。

 幸い弾頭は、塹壕の縁スレスレに飛んで行ってくれたが、どこへ着弾したか全く分らない。

 大通りに充満する黄色っぽい煙の様な塵と埃に敵の様子が分からなくて不安でいると、後方から吹き通った一陣の風が薄く晴らして行き、仲間のヒトラー・ユーゲント達を殺したイワンの群れが爆発で吹き飛んで倒れているのと、既に30mまで迫っていた2輌の敵戦車の前面と砲塔に命中の痕(あと)が有り、見ていると前面に被弾(ひだん)した先頭の戦車が煙を噴き出し、開いたハッチから乗員が飛び出すと、輝(かがや)くような白い炎(ほのお)を上げて激しく燃(も)え始めた。

 先頭戦車の真後ろの戦車はファストパトローネが砲塔前面に命中して誰も脱出(だっしゅつ)しないまま、砲塔を吹き飛ばす大爆発を起こした。続く3輌目は先行した2輌の被弾炎上(えんじょう)と大爆発を見て、逃げようと慌(あわ)て様に行(おこな)った急旋回(きゅうせんかい)で五階建てのアパートビルへ突っ込んで逃げて行った。その戦車はビルの中を大通りへの脱出を試(こころ)みて1階の壁(かべ)や柱の多くを破壊してしまい、結果、最下層の支(ささ)えを失(うしな)った上階の全ては瞬時に崩れ、その小山のように積もる瓦礫で完全に埋(う)まってしまった。

 崩れ落ちた瓦礫は、飛び散る破片と舞い上がる埃になって、濃(こ)い霧(きり)のように大通りを真っ白にしていまった。充満(じゅうまん)する粉塵と土埃の向こうからロシア語の呻(うめ)きや悲鳴(ひめい)が聞こえて、敵の動きが停(と)まっているのを知ると、僕は一目散(いちもくさん)に裏通りへと逃げる。

 警戒して入った裏通りには敵はいなかった。狭い通りを西へ走りながら僕は、またもや吐き気がして何も出る物が無いのに、壊(こわ)れたポンプのように何度も吐いた。逃げ切ったと確信できるまで、通り過ぎるドアを蹴破(けやぶ)って最上階か、地下室の隅(すみ)に隠れ込みたい衝動に終始(しゅうし)襲われた。

 全体で100人はいた部隊で大通りに防衛線を築いていたのに、既に死んだのか、逃げたのか、誰にも出会わないし、見掛けなかった。

 状況から判(わか)る限り、この場所で生き残ったのは僕は1人だけのようだ。砲声や銃声は周り中(じゅう)から聞こえる混戦状態に、はっきりとドイツ軍の守備陣地に辿(たど)り着くまでは誰も信用できないと思う。

 

   4月27日 金曜日 ブランデンブルク市の大学病院

 僕は、敵にも、味方にも、出会わないように隠れながら夜通し歩いて、途中で紛(まぎ)れ込んだ避難民の列と共に辿り着いた防衛陣地の検問(けんもん)は、シュパンダウでの戦闘状況の説明や此処まで来るまでにソ連車を見ていない事を話すと通過させてくれて、多数の防衛拠点が構築(こうちく)されているブランデングルク市の市街地区へ、どうにか、逃れる事ができた。

 検問所で教えられた市内の場所で、配られている炊(た)き出しを貰う列を見て、クルクルと元気に回るくらい喜(よろこ)んだ。全身の力が抜けて其の場にヘタリ込むくらい安堵する気持に、僕は吐瀉物と胃酸が粘膜を傷付けてヒリヒリと痛み、何度も唾(つば)を吐いて紛らわしていた喉(のど)が、カサカサに渇(かわ)いて水を欲(ほっ)しているのと、とても、お腹(なか)が減(へ)っているのを知った。

 喜び勇んで列へ並ぼうとした時、漂う自分の臭さに気付いた僕は、シュパンダウで漏らしていた便と尿の事を思い出した。飲み水と洗濯(せんたく)する水場(みずば)を求(もと)めて幾つもの通りを探し歩いた。しかし、爆撃を受けた街の通りは蛇口(じゃぐち)が有っても断水で、何処も水は出なかった。

 爆撃の被害が少ない施設を探し回って見付けた小さな教会の噴水(ふんすい)で、僕は全身と着ていた衣服の全(すべ)てと靴(くつ)を其の冷たい水で洗(あら)い、特にズボンと下着と靴を凍(こご)えながら念入(ねんい)りに洗った。

 洗って絞(しぼ)っただけの全然乾(かわ)いていない冷たい衣服を我慢(がまん)して無理矢理(むりやり)着てから、振り捲(ま)くって雫を切った短い編(あ)み上げブーツを履(は)く。洗い立てで着込んだ下着や、シャツや、上下の制服と靴下にブーツが、ぐっしょりと冷たく湿気(しけ)ていて米神がズキズキと痛むくらい気持が悪かったけれど、まだ残る体力で汗(あせ)ばむまで走り回って火照(ほて)った体温で温(あたた)めた。

 大きな教会の竈場(かまどば)と3台の野戦炊飯(すいはん)車がフル稼働(かどう)して、炊事兵達が忙(いそが)しく働く炊き出し場で、食器の無い事を告(つ)げると、色が殆ど剥(は)げて変形した飯盒(はんごう)に大きく凹(へこ)んだ水筒(すいとう)、それと曲がったスプーンとフォークが与えられて配給の列に並ばされた。

 大勢の人達が取り囲んで暖(だん)を取るキャンプファイアーのような焚(た)き火(び)の近くに座(すわ)り、年輩(ねんぱい)の炊事兵が成長期の子供だからと少し多めに入れてくれた、歯ごたえが乏(とぼ)しいデミブラスソース味のスープのようなシチューを噛(か)み締め、水筒に満たした香(かお)りだけはする極薄味(ごくうすあじ)の苦(にが)い代用コーヒーを流し込みながら、これからを考えた。

 1週間以内に此処も強力なソ連戦車軍団が攻めるだろう。それまで、炊き出しで食い繋いで降伏する守備隊と共に捕虜になっても構わない。でも、きっとまた、降伏に至(いた)る前に生き残っているヒトラー・ユーゲントで戦車猟兵(りょうへい)班が編成(へんせい)されて、僕は再(ふたた)びファストパトローネを握らされるだろう。

 『敵戦車に命中させて二輌を撃破しました。他に、一輌を、石造りのアパートを崩して完全に産めて遣りました』などと、得意顔で報告していたら、僕は班長にされて、それこそ、防衛ラインの死守どころか、ファストパトローネを二本持たされて突撃か、積極的な敵陣への肉迫攻撃で敵の装甲車輌を狩る事になって、もう、絶望的に逃げ口が無くなってしまう。

《そんなのは……、勘弁(かんべん)してくれぇ……》

 

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 普通は飯盒の半分も入れてくれないシチューが、毎回の配給で8分目まで入れられて喜んでいる僕は、これが餞別(せんべつ)代りだと察(さっ)していた。

 シュパンダウの大通りの戦闘で、僕達ヒトラー・ユーゲントは使い捨ての消耗品だと理解した。ソ連軍が迫って来ると号令が掛けられ、若(わか)くて俊敏(しゅんびん)な僕は最前線の最前列へ連れて行かれる。そこで自分が隠れる塹壕を掘り、その中でファストパトローネを握り締めて敵が射程距離内へ入るのを待つ。そして、今度こそ、僕は突破(とっぱ)しようとする敵戦車と刺し違えてしまう。

 敵が迫って来るのを見ただけで、後方に展開して援護(えんご)するはずの国民突撃隊の年配者達は、僕を見捨てて散り散りに逃げていると思う。敵戦車を狩(か)ったりでもしたら捕虜にはされずに射殺(しゃさつ)される。もう誰も僕を救(すく)ってくれはしない。

 ソ連軍に蹂躙(じゅうりん)されるシュパンダウ地区から逃げ延びれたのは、偶然(ぐうぜん)に幸運が続いただけだ。

 ファストパトローネが命中して大爆発した2輌目の敵戦車からは、脱出する乗員を見ていない。炎上させた1輌目も数名が脱出しただけで全員じゃなかった。崩落した石造りのアパートに完全に埋まった3輌目の乗員達は、救出されたのだろうか?

 崩れるアパートの瓦礫に潰されたり、狙い澄ましたファストパトローネの炸裂に噴き飛ばされた敵兵は、何人いたのだろう?

 それらは全部、怒りに任せた僕が1人でした残酷(ざんこく)な結果だった。そして、それが敵の前進を阻んで停めた。

 僕の仲間を傷付けて殺し、僕も殺したい敵兵は、僕を殺そうとする時まで、僕は出遭った事も無くて知らない。恨(うら)みも無いし、怨(うら)まれてもいないと思う。敵との括りでなければ、僕達は異国(いこく)の友人として親交を結(むす)べていたかも知れなかった。

 でも、『今は敵だ!』。

 怯える僕は何もしないで、ただ窪みの底で震えながら蹲っているだけだったら、圧し掛かる敵戦車の重みと動きで崩れる塹壕が僕を生き埋めにしていたか、塹壕の上から僕を見下ろす敵兵が持つ、短機関銃の連射を浴びて死んでいたはずだ。そして今頃は、魂の抜けた無反応で冷たい僕の身体が、ベルリン郊外の荒地に掘られた大きな穴の縁に堆(うずたか)く詰まれた多くのドイツ人の骸の中で、穴底へ落とされて埋められるのを待っている。

 とても慈悲深い敵兵ならば、怯えて泣き腫らした顔で無抵抗な僕を塹壕の底から引き摺り出して、幸運にも捕虜にしてくれたかもだ。だが、そんな事は稀(まれ)で、怖さに緊張して暴発(ぼうはつ)行動をしかねない言葉の違う敵兵に期待は出来ない。

 あの時、敵兵達が武器を置いて握手(あくしゅ)を求めて来たら、僕達がファストパトローネ捨てて、笑顔で歩(あゆ)み寄ったら、誰も死なずに盛(も)り上がる宴(うたげ)を催(もよお)せていたのだろうか?

 しかし、その理想を実際に実行するのは、非常に難(むずか)しい。互いの多くが、それを望んでも、生き死にの天秤(てんびん)が死に傾く緊迫(きんぱく)した状況の狭隘(きょうあい)な思考に、たった1人の思いを異(こと)にする奴が、武器を手放さずに引き金を引く。

 現実に仲間達は殺され、僕は茫然自失(ぼうぜんじしつ)で逃げ惑(まど)い、住んでいた街は荒廃(こうはい)し、僕達の楽しい生活は奪われた。

 だから、ブランデングルク市へ共産主義のソ連兵達が遣って来る前に僅かでも食い物を蓄(たくわ)えて、1、2日だけ隠れながら歩けば着くと思う距離のエルベ川まで行き、そして、夜の闇(やみ)に紛れて川を渡り、既に西岸まで到達しているはずのアメリカ兵に投降したい。と、深刻(しんこく)に考えた。

 炊き出し場と避難民の登録所になっている広い敷地(しきち)の大きな教会は、これまた広い庭に囲まれて多くの病棟が建ち並ぶ、大学の医学部も入っているらしい大きな病院と隣接(りんせつ)している。国際的に病院施設として認知(にんち)されているのか、アメリカ空軍の昼間爆撃やイギリス空軍の夜間爆撃に遭っていないようで、敷地内に崩れた建物や爆弾の炸裂痕(さくれつこん)も無かった。

 朝、昼、晩と配給許可の紙片を翳(かざ)して食事に有り付きながら、病院の前庭の隅に植(う)わる樫(かし)の大木の下で夕方から降り出した雨を避けて、出来るだけ西方へ傷病兵を満載して行くトラックに乗ろうと、紛れ込むチャンスを伺っていた。

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   5月7日 月曜日 フェアヒラント村の駅付近 午前七時

 なのに、こんなデカイ戦車に乗せられて参(まい)っている。今直ぐ、ビアンカ達を手助けして、一緒にエルベ川を渡りたいと思うけれど、渡し場を守る義務が、それを許(ゆる)さない。

 既にマムートが圧倒的に強力な火力を放つのと知っているし、その重装甲はきっと、敵弾に耐えてくれるだろうと思っている。敵前逃亡したかも知れないブランデングルク市の防衛線で戦い抜くより、マムートの中なら、ずっと生き残れる確率が高いと、今の僕は考えている。

 武器を捨てて逃げても逃亡兵狩りの連中に見付かれば、ひしゃげた街灯か、焼け焦げた街路樹(がいろじゅ)の枝から、殴(なぐ)り書きした謝罪文(しゃざいぶん)のプラカードを掛けてブラ下がってしまう。14、5歳の少年でも平気で吊るす奴らによって、シュパンダウで逃げたヒトラー・ユーゲントの仲間の何人かが、そうして処刑されたのかも知れない。

「あっ、ゾウさんだぁ。お姉ちゃん、ちょっと来てみてぇ。ゾウさんが描いてあるよ」
 砲塔の側面に描かれたマスコットマークに気付いた末っ子のフリオが嬉しそうな声を上げると、ビアンカの手を離して次女のヘンリエッタの手を握り、一緒に見ようと二人でマムートの横へ回って行く。
「やあ、お早う、坊主と御嬢ちゃん。ようこそ、マムートのカフェへ。ほら、これを飲みな。砂糖を入れて甘くしたホットミルクだ。ちょっと熱いかもだけど、旨いぞ。火傷しないように、このテーブルへ置くから、スプーンで冷ましながら飲みな」
 フリオとヘンリエッタへ挨拶してホットミルクを勧めるラグエルに続き、マスコットマークを紹介するイスラフェルの声が聞こえた。
「このマークはマムートだ。象よりも、もっとデカイくて、毛むくじゃらなんだぞ。長い牙と大きくて重い体で、襲って来るサーベルタイガーを跳ね飛ばすんだ。この重戦車も同じさ。世界中のどんな戦車よりも強いんだぞ。どうだ、格好良いか?」
「うん! おおきな戦車も、空色の象さんのマークも、カッコイイ……」
 フリオとヘンリエッタの弾む声がハモって答えている。
 空色のペンキでマムートのマークを描いたダブリスは、隣のハッチに腰掛けて照れ臭そうに右手の人差し指で鼻を擦っていた。

 

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 僕はビアンカに、クラスメイトの男子達がシュパンダウで死んだか、行方不明(ゆくえふめい)になって、戦闘後に誰も見ていない事を言わない。大通りで戦っていた男子の半数と小さい頃に遊んだりしていたから、ビアンカは良く知っている。

「おいアル、聞こえてるぞ。オレ達は義務(ぎむ)を果たすまで、逃げないんだからな!」

 横で操縦者用ペリスコープのレンズ汚れを拭(ぬぐ)っていたタブリス・クーヘンが、僕の弱音(よわね)を非難するように誓いの言葉を言う。クルップ社の工員で操縦を担当(たんとう)している3つ年上の17歳の彼は、遥か西方のパーダーボルン市の工場からマムートを運んで来ていた。

《ちっ! 耳歳増(みみとしま)のダブリスめ、聞いていたのか》

「わかっています! みんなを渡らすために頑張ります」

《お前こそ、全弾を撃ち尽(つ)くすまで逃げんなよ》

 今度はビアンカへ向き直って、『僕達の為(な)すべき事は簡単で、直ぐに終えるから、そうしたら皆で逃げる』という意味で言う。

「全弾と言っても、残り25発しかないけどな。ラグエルとイスラフェルがギックリにならずに弾込めのしてくれりゃあ、砲手のバラキエル・リヒター伍長(ごちょう)が、40分も掛からずに全弾命中させて、大戦果さ」

 同軸機銃は1分間に1200発も発射するMG42になっていたから、銃身がオーバーヒートしないようにすれば、装填(そうてん)されているベルト給弾の7.92mm弾3000発も、直ぐに撃ち終えてしまう。

 どっちにしろメカニカルトラブルや被弾で砲塔が回らなくなったら、即(そく)、脱出だ。

 本来なら装備や戦力を他言するのは、重大な機密(きみつ)漏洩罪(ろうえいざい)に問われて拘束(こうそく)され、軍法会議行きだ。軍曹や他の誰もが僕に注意しないのは、既に軍律(ぐんりつ)や秩序(ちつじょ)を維持(いじ)していない母国の軍隊と政治の無意味な状態に、最早(もはや)、義務を果たすべき戦闘が今日まで……、いや、あと数時間以内だと知っているからだ。

 ドイツは降伏してしまい、もし僕達が戦闘可能な状態で生き残っていても、今日の夜半(やはん)に全ての戦闘は停止、武器弾薬は全部放棄(ほうき)しなければならない。

《今さら、機密保持の軍規なんて、どうでもいい》

「人の列が途切(とぎ)れだしたぞ! ダブリス、エンジンを動かせ。アル、敵さんの無線の傍受(ぼうじゅ)だ。会話が頻繁(ひんぱん)になって感度が良くなったら知らせろ。ラグエルとイスラフェル、初弾は徹甲弾(てっこうだん)だ。装填しておけ。バラキエル、砲をニーレボック村の方へ向けろ。敵は走り易い街道を通って来るだろう」

 車長を担うメルキセデク・ハーゼ軍曹が矢継ぎ早に乗員達へ指示を出す。

 不審な動きに警戒して注意を払っていた憲兵達が、マムートの前を通り過ぎた避難民に無関心になると、村人達が道端に並んで避難民に声を掛け、衣類や靴、自家製のハムやソーセージにパンやビスケット、ワインに鶏や家鴨(あひる)の卵などと、物々交換をしていた。
 散々、戦争を繰り返して支配者が替わる度(たび)に、それまでの貨幣の価値が暴落する事を経験して来たヨーロッパの民(たみ)は、帝国の崩壊で通貨のライヒマルク紙幣が紙屑になるのを分かっていて、避難民の誰もが、後生大事に持って来ただろう宝石に高価そうな食器や調度品を手放して、割の合わない取引で手に入れていた。
 そんな人の弱みに付け込んで賑(にぎ)わうバザーに集っていた人達は、倍率の大きな双眼鏡を片手に持って超大型戦車の砲塔上に立ち、大声で早口の指示を続けて出す指揮官と、身の回り品を片付けて戦闘態勢を固め始める防衛隊員達の様子に、村人達は急いで商品を仕舞い、避難民達は直ちに荷物を纏め直して、足早にエルベ川へと向かって行った。

 

   4月28日 土曜日 ブランデンブルク市のオペル社の工場

 ラグエル・ベーゼとイスラフェル・バッハもダブリスと同じ工場の工員で、2人は小学校卒だから既に5年間の作業経験が有った。

 ケーキを意味する姓(せい)なのに、全く甘さの無いダブリス・クーヘンは中学卒の思慮(しりょ)深(ぶか)い皮肉(ひにく)野朗(やろう)で、就業(しゅうぎょう)年数は少ないけれど、リーダー格になって2人の先輩を纏めている。

 彼らは既に居なくなった3人の熟練(じゅくれん)工員達の力仕事の補助として同行して来た。工員達はマムートの移送が決定した時点で、国民突撃隊の隊員にされて左腕には、その証(あかし)である腕章(わんしょう)を付けていた。

 

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 3月29日、優先戦させて完成した3台目のマムートの車体は、外側の転輪を外(はず)してティーガー戦車の狭幅(せまはば)の履帯(りたい)を付けられ、マムート専用を考慮(こうりょ)して開発された150tの重量まで積載できる平床貨車に載(の)せられた。そして、外した外側転輪や幅広(はばびろ)の履帯に補助装甲を兼ねた分厚いフェンダーと、それらを取り付ける簡易(かんい)クレーンや工具などを積んだ無蓋(むがい)貨車を連結して、アメリカ軍が迫るルール地方のパーダーボルン市の工場から八昼夜を掛けた鉄道輸送でブランデンブルク市のオペル工場へ運ばれた。

 新砲塔の搭載(とうさい)と不具合の調整要員の工員6名が、その後の戦闘を行う乗員を兼ねて同行していたのだが、エルベ川のマグデブルク鉄橋手前の待避線に隠れた移動5日目の4月2日の深夜、その年輩熟練工達は夜の闇に紛れて逃亡してしまい、要員は残された17歳の未熟(みじゅく)な3人の工員だけになってしまった。

 それでも、彼らはブランデンブルク市のオペル社の工場へ更に3日掛けて4月5日の夜に到着した。2日後の4月7日にはベルリン市のクルップ社の工場から、溶接を終えて形にされた砲塔と主砲と装備部品が運ばれて来た。

 それからは、車体に砲塔を載せ、連日、装備の取り付けと装填補助装置の油圧作動の調整に、肝心(かんじん)の砲架(ほうか)に合わなかった高射砲から転用の128mm砲を、オペル社の工員や技術者に助けて貰いながら削ったり、くっ付けたりの加工調整に追われていた。

 当初の計画では、砲塔の搭載はクルップ社で行い、そのままベルリン市防衛隊へ配属されて終焉(しゅうえん)を迎(むか)えるまでマムートは戦うはずだった。しかし、予想以上にソ連軍は強力でベルリン市を包囲する動きが速く、仮組(かりぐ)みで見付かった問題箇所を直して完成させたばかりの砲塔へ搭載する主砲に、またもや生じた不具合(ふぐあい)の修正は作業を中断して、急ぎ夜を徹(てっ)してブランデンブルク市のオペル社の工場へ移されていた。

 

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「ここでは、3tトラックのブリッツが量産されていたんだ。流れ作業の工程が徹底(てってい)されていて、組立工場の手本にされていたよ。だけどオペル社はGM社の子会社さ。パリ市近くのポワシーに在るフォードの工場で軍用トラックが大量生産されているって話は工業界じゃ有名さ。GMも、フォードもアメリカの会社なのに、接収しないで、敵国の外資会社のままで経営されてるって信じられないよな」

 あちらこちらに爆撃で破壊された痕が残るオペル社の広大な生産ラインを眺めながら、ダブリスが事情通のような事を話す。

「ハンガリーとルーマニアの油田はアメリカの石油会社が権利を持っていて、ハンガリーの油田はドイツへ売ってくれたし、ルーマニアのはソ連に攻め込まれるまで、原油を売ってくれていたんだ。それでドイツは戦争を続けられていたんだぜ」

「こいつの燃料の素(もと)になる合成石油と、電線の被膜(ひまく)にする合成ゴムも、フランクフルト市に在るアメリカ系の工場で製造されているんだ。ドイツの化学工業の殆どが外資(がいし)の会社だよ。敵国の会社が、敵の国で敵が戦争する為の戦略物資を造って供給(きょうきゅう)しているなんて、全く可笑(おか)しな話だ。そして、その利益はドイツの敵国に在る本社へ送金されている」

「勝っても、負けても、儲(もう)かる奴がいて、そいつらが戦争を起こさせている。たくさん兵器を造って、殺して、殺されて、怪我する人も一杯で、そこらじゅうが破壊だらけ。みんなを不幸にして稼(かせ)いでいる。学校の教育に、社会体制に、生活ルールも、そいつらを稼がす為に作られていて、その事を誰もが気付けないし、気付いても逆らえない」

「御蔭(おかげ)で、ドイツの指導者は国民と国土がめちゃくちゃになるまで戦争を続けてる。挙句に俺達もこんな事をして、もうじき戦争が終わりそうなのにさ、生き残れるかも分からない」

 全く、身も蓋(ふた)も無い事を言ってくれる。そんな裏事情を聞かされたら、平民の僕達は『何て無力で、ちっぽけで、バカなんだ』と思ってしまう。

 現実に、とっくの前から連合軍はエルベ川の西岸まで来ていて、東から攻め捲くるソ連軍が何重にも包囲した第3帝国の首都ベルリンは陥落(かんらく)寸前だ。ソ連軍はベルリン市南方で連合軍と会隅(かいぐう)をしたので、デンマークを含むドイツ北部は南部地方や併合地のオーストリーと分断されてしまった。

 今では偉大な第3帝国の工業地帯の殆どを占領されていて、兵器の生産を継続(けいぞく)する為の資源も、資材も、人員もすっかり無くなっている。

 去年の東部戦線からのニュースが防戦一方になった時か、西部戦線で上陸した連合軍を2ヶ月経ってもドーバー海峡へ追い落としたというニュースが無い時点で、いずれジリ貧の最終状態に至るのは考えられたはずだ。去年の時点で、例(たと)え無条件降伏しか終戦できなかったとしても、指導者層とイデオロギーの一掃(いっそう)だけで国土の荒廃(こうはい)や国民の被害も、ずっと少なく済んだだろう。

 ここに至っては、過酷(かこく)で非情な時代の社会に否応(いやおう)無く巻き込まれる思春期の子供なんて、簡単(かんたん)に1粒の麦みたいな自己犠牲をマインドコントロールされ、ヒーローどころか、惨(みじ)めで悲劇な死に追い込まれて行くだけだ。

 マムートの砲塔にちゃんと砲を搭載しようと頑張(がんば)ってくれていた工員達の半数以上は、ドイツ語を話していなかった。占領した敵国から連れて来た人達が、敵国資本の工場で、ドイツ人が戦って死ぬ兵器を造ってくれる。それは、なんて気持ちが悪くなる話だろう。

 しかし、そんな事は、お互い様だ。互いに雇用を生んで国民の生活を潤(うるお)しているし、地方自治体と国家政府の重要な財源の1つでもある。

 

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 砲架を調整する間にダブリスは、マムートの完成後に従うべき戦闘辞令を受けると、不足した搭乗員の確保に敗残兵の溜まり場や治癒(ちゆ)した負傷兵がいそうな病院を探し回っていた。

 それで、確保されたのが無線手資格を持つ6人の中では最年少の僕。14歳で中学3年生のヒトラー・ユーゲント団員だ。

 ヒトラー・ユーゲントへは兄貴らの御下(おさ)がりの制服を着て、10歳になった11月に入団した。遠く離れた場所と交信できる無線電話やモールス信号に興味を惹(ひ)かれ、学べる限りの通信資格を取得した。

 3月に国民突撃隊へ徴収されて兵学校で訓練を受けた後、4月からはシュパンダウ地区の防衛陣地作りを遣らされていた。その後の情けない戦歴は前述した通りだ。

 降り止まない雨に早朝からブランデンブルク市の大学病院の正面玄関横の軒下で雨宿りしながら、西方へ移送される負傷者を満載するトラックに乗せて貰おうとチャンスを窺(うかが)っていると、腕の有資格徽章(きしょう)を見たダブリスに声を掛けられた。

 

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 砲手のバラキエル・リヒター伍長は、武装親衛隊のクーアマルク装甲(そうこう)擲弾兵(てきだんへい)師団へ人員補充として派遣(はけん)された陸軍の下士官で、オーデル川西岸のゼーロウ高地での防衛戦に敗退した後、転戦途中のハルベ付近で師団が所属していた第9軍はソ連軍に包囲された。

 そこからの脱出戦で砲手として乗車していたパンター戦車は撃破されたが、辛(かろ)うじて燃える戦車から脱出できた彼は、どうにか合流できた第12軍の兵士達に救出されると、新たな戦車へ配属される為に、ブランデンブルク市へ連れて来られた。

 そして、搭乗戦車を見付けられずにいるところをダブリスに説得されたという経緯(いきさつ)だ。

 18歳の彼は、半年ほどの軍歴の間に30輌余りのソ連戦車を討(う)ち取ったらしい。その功績(こうせき)で銀色の戦車突撃(とつげき)章と2級鉄十字(てつじゅうじ)章を得て、2等兵から特進昇格されたと言っていた。

 戦車兵らしからぬ親衛隊の斑点(はんてん)迷彩(めいさい)のスモックを着て、同じ柄(がら)の帽子を包帯(ほうたい)を巻いた頭に被る車長のメルキセデク・ハーゼ軍曹は、最年長の19歳で武装親衛隊員だ。僕が玄関脇で蹲っていた大学病院から退院するところをダブリスに懇願(こんがん)されて渋々(しぶしぶ)承諾(しょうだく)している。

 僕が声を掛けられた時には彼もいて、実績の無い性能不明な新型戦車より、軽快に動いて強力なパンター戦車に乗りたいとボヤキを言っていた。

 1944年6月に結成された第12SS装甲師団の当初から配属された兵士として、その夏のノルマンディーの防衛戦、冬のベルギーの森、春先のハンガリーと過酷な激戦を生き抜いている。彼も左胸に戦車突撃章を付けていたが金色で、その横の鉄十字章は1級の物だった。

 包帯は、ハンガリーのバラトン湖沿いを中隊の残存戦車が隊伍(たいご)を組んで後退している時に、ソ連軍の大口径砲突撃戦車の集団に襲われ、其の際に砕け散った装甲板の破片で前頭部に裂傷(れっしょう)を負って治療している。そんな負傷(ふしょう)した時の様子を、食事前に治り切っていない傷口の乱(みだ)れた包帯を巻き直してあげたら、話してくれた。

 彼のパンター戦車は他車と同じように中隊備品の履帯をトグロ巻きにして、砲塔後面の防御に他の備品と共に車体後部のエンジングリル上へ乗せ、ゆっくりした警戒速度で移動しているところを待ち伏せしていた敵に撃ち据(す)えられた。

 先頭の駆逐戦車が足回りを吹き飛ばされて縦隊は身動きできなくなると、敵側へ晒した無防備な側面をソ連軍の重突撃砲戦車が放った大口径弾で大きな孔を幾つも開けられて、あっと言う間に全滅(ぜんめつ)させられた。

 砲塔側面に掛けていた予備履帯は全く防弾の役にならなくて、装甲板と一緒に砕けて飛散(ひさん)してしまい、砲塔脇に立って双眼鏡で索敵(さくてき)していた彼は、被弾の衝撃で路肩の溝へ吹き飛ばされ、額から頭の天辺までの皮膚を飛び散った装甲板の破片に裂さかれて昏倒(こんとう)してしまった。

 顔中血だらけで溝に倒れていた彼は、後続の撤退(てったい)部隊に発見されると、胸の鉄十字章の御蔭でベルリン市まで運ばれて治療を受け、更にソ連軍の包囲が始まったベルリン市からブランデンブルク市の大学病院へ移されたそうだ。

 

   5月7日 月曜日  フェアヒラント村の駅付近 午前七時

 雨や陽が当たると傷が疼(うず)くと言って、バラキエル・リヒター伍長から『目立って発見され易いからやめて下さい』と願われているのに、ゲンティンの町のエルベ・ハーフェル運河を越えた所のアルテンプラトウ村で、ソ連の威力偵察隊と交戦した際に拾(ひろ)ったコウモリ傘を、キューポラの銃架(じゅうか)に括(くく)り付けて差している。

「もう直ぐ、街道から敵が、ニーレボック村を攻めるぞ!」

 その声にニーレボック村から森への街道を見ると、避難民達が村へ急いでいるのと、たぶん、地雷(じらい)を埋め終わったと思う兵士達が森の中の陣地へ走っていて、森を抜ける街道は、バリケードと対人、対戦車の地雷で封鎖された状況が分かった。

 でもそれは、精々1時間足らずの時間稼ぎにしかならないと、僕達は知っている。ソ連軍の工兵隊が埋設した地雷と仕掛けた爆薬を除いてバリケードを爆破すれば、ロスケの戦車群が怒涛の如く突破して来て、多勢に無勢のニーレボック村と森の防御陣地は、奴らの突撃榴弾砲の直接照準で粉砕される。

「街道を来る奴、森を抜け出る奴、送電線沿いに来る奴、線路から来る奴、見付けた敵戦車は直ぐに報告しろ! 全部、こいつの大鎌(おおがま)で刈(か)り取って遣る!」

 双眼鏡を覗(のぞ)くメルキセデク・ハーゼ軍曹の緊張した命令調の言葉に、青褪(あおざ)めた不安顔のビアンカが僕を見上げた。

「ビアンカ、戦闘になる前に艀に乗って向こうへ渡るんだ。あそこだ。村の左端、家並みが途切れる辺りに乗り場が在る。ほら、人が大勢見えるだろう。軍の舟艇(しゅうてい)も集まっているから、きっと大丈夫だ」

 ビアンカは僕が指差す方を見て、眼を凝(こ)らしたが、彼女と手を繋ぐ妹と弟の不安で悲しげな小さい顔が僕を見詰めたままでいる。

 両親と離れ離れになった不安で駄々(だだ)を捏(こ)ねると、姉に宥(なだ)められたり、励(はげ)まされたりしながら、やっと此処まで来たと、そして、もう歩きたくないと、2人の表情が僕に言っていた。この先、『お母さんとお父さんに、いつ会えるの?』と、訊(き)かれるビアンカは涙を眼に湛(たた)えながら、『戦争が終われば、直ぐに会えるわ。だから、もう少し、我慢してね』、う言って自分自身も慰(なぐさ)めるのだろう。

 だけど、アメリカとイギリスがエルベ川の西岸まで来たのにベルリンを攻撃をせずに進撃を止めたのは、きっと、ソ連との取り決めが有るからだろうと、僕達は察していた。だから、終戦後もソ連軍占領地へ入れないし、其処に在る自分の住まいへも戻れないと思う。

 まして、ナチスドイツの国家社会主義と同様に、個人よりも全体と連帯を優先する共産主義から逃げて西方へ避難したドイツ人は尚更(なおさら)、自由に行き来できるはずがないと考えている。

「おっと、そうだ。これをあげるよ。その子達がムズがったら、これを咥(くわ)えさせるといい。そして、これも」

 僕は一旦車内へ入り、沢山積み込んだ戦闘食の中から包みを3つチョイスして抱えると、斜めに傾斜した前面装甲板の際まで行って、袋から取り出したチョコバーとフルーツバーを子供達の口へ入れてやる。それから、ビアンカを後ろ向きにさせ、すこし余裕が有りそうなリュックサックの中へ戦闘食の包みを無理やり入れて、ビアンカの首へも既に満タンにしてある軍用水筒を掛けてあげた。

「少し重くなるけれど、これは必要だからな」

 そして、自分のポケットを膨らませていたチョコバーとフルーツバーを、彼女の裾(すそ)と胸のポケットへ幾つも押し込んだ。妹と弟に手を繋がれて両手が塞(ふさ)がっている彼女の胸ポケットへ入れる袋入りチョコバーから、ささやかな胸の膨(ふく)らみの弾力を指に感じて、僕は戦闘以上に緊張してしまう。それを悟られないように、入れ終えても目を伏せて無言でいた。

「あっ、ありがとう。アル」

 緊張と強張り続きで青褪(あおざ)めていた彼女の顔が、少し緩んで赤味(あかみ)を帯(お)びている。

「川岸までアメリカ兵が来ていたから、ロスケは大規模な砲撃はして来ないと思うけど、無慈悲な直接狙いの砲撃はして来るから、敵から見えないように村の中を行くんだ」

 昨日の朝、徹甲弾と榴弾を装填し易くする為に並べ替えると言うラグエルとイスラフェル、それに敵が森を越えて来た時の用心にバラキエル・リヒター伍長をマムートに残して、僕とダブリスはメルキセデク・ハーゼ軍曹に付き添いを命じられて、エルベ川までの路面状態を確認しながらフェリー乗り場の状況や川岸の状態を一緒に見て回った。

 その時に見た事も伝えて、少しでも彼女を安心させたい。

「船着場で炊き出しをしているけれど、そんなのに目もくれずに渡し舟に急いで乗るんだ。兵隊達が優先して、女の人と子供達を乗せているよ」

 突然に僕は、自分の成すべき事を理解した。

 なぜ、兵役年齢に達しない僕が召集されて、大通りの爆弾痕の窪(くぼ)みに身を竦める僕は何を守って戦うのか、ファストパトローネの教練を受けた時から、ずっと疑問で考えていた。

《両親を、友達を、街を、守る為? この国を、今の暮らしを、守る為? 違う!》

 こんなずっと戦争をして、個人の自由は無く、団体協調に従わせるだけの、閉じ込められたような圧迫感だらけの生活をさせる国なんて、ちっとも守りたくなかった!

 指導者の指示に全体が無垢(むく)に従う歪(いびつ)な国よりも、戦火を逃げ延びて来た彼女を川を越えて西方の自由へ行かせる為に、僕が此処にいるのだと知った。

《そうだ! 必ず彼女にエルベ川を渡らせて、希望と安らぎに満ちた、自由で明るい安全な場所に彼女達が迎えられるように、僕は戦い、彼女を守る!》

 手に持っていた、もう1つの水筒からコップに水を注(そそ)いで、妹、弟、彼女と順番に飲ませた。携行している水筒にも、ビアンカに渡した水筒にも、暁(あかつき)に沸(わ)かした熱湯を入れて寒さ凌(しの)ぎの湯たんぽ代わりにしていた。今は調度、飲み頃の温(あたた)かさになっている。

 マムートの前を無言で通り過ぎて行た避難民達が、ソ連軍の攻勢を察してザワ付くと早足で先を急ぎだした。家財道具を積んだ荷車の者達は荷物から貴重品(きちょうひん)を入れた大きなカバンだけを抱え、荷車は捨てて行く。歩き難い畑を船着場まで一直線に行こうとする者や、不安と恐怖で悲鳴を上げて駆け出す者もいる。

 直に船着場は、急いでエルベ川を渡ろうとする大勢の避難民でパニックになってしまう。

 ビアンカ達を急がせないといけない。

「さあ、早く行くんだ。1時間くらいでイワン達が攻めて来るぞ! それまでに渡るんだ!」

 彼女が行く向こう側は、自由と開放の夢とチャンスが一杯の民主主義の国、アメリカ合衆国だ!

「うん。じゃあ、行くね。アル……、生き残ってね。絶対。……向こうで待っているから」

 其処は決して封建(ほうけん)制度の主従(しゅじゅう)関係が戦争終了後も蔓延(はびこ)るだろう、雨と霧ばかりのブリテンじゃない。貴族(きぞく)とか、平民(へいみん)とか、人を区別する政治は社会経済の衰退(すいたい)を招くだけで、未来の繁栄(はんえい)は国民へ齎(もたら)されないと僕は思う。

「ああ! 約束する。上手く渡り終えたら、早く岸から離れるんだ。そして、流れ弾に当たらないように窪地に伏せてるんだぞ」

 彼女達がエルベ川の西岸へ渡ってしまえば、直ぐにアメリカ兵達が保護してソ連軍の射程外まで運んでくれるだろうから、水量豊かな深くて流れの速いエルベ川の冷たい水を渡る事の方が心配だった。もしも艀(はしけ)から水中へ落ちたりでもしたら、沈む体は直ぐ遠くへ流されてしまって、助けられる見込みは無いだろう。

 金属のコップを返した手で僕の頬(ほお)に触れた彼女は、寂(さび)しげな中に希望を滲(にじ)ませて微笑む顔を頷(うなず)かせると、僕達へ手を大きく振った。そんな、手を振る姉の姿を見て、妹と弟のチョコバーとフルーツバーを握る小さな手が釣(つ)られて僕にバイバイする。

 『もうちょっとだから、行うね』と、妹と弟の手を引き、向きを変えさせながら、僕を見る作り笑いみたいに微笑む顔がニッコリと笑う。

「先に行って、待ってるわ」

 そう言うと、ビアンカ達3人は艀乗り場へ向かって歩き始めた。姉に手を繋がれて引っ張られるように妹と弟が小さな歩幅で歩く、

 去り行く彼女の横顔が明るく笑っている。声を掛けた時とは全く違って楽しげになった彼女に、僕は自分の想いに気付いた。

《ビアンカ! 彼女は、僕の生きる希望と光に満ちた未来だ!》

 今日の逃れられない戦いでマムートが撃破され、爆発や断片や銃弾や炎で酷く傷付いて僕の世界が終わったり、打ち倒されて捕まり、暗澹(あんたん)たる日々で終焉になるかも知れない不安に怯(おび)えるより、彼女の言葉を信じて、僕達の明るい未来への希望を持ちたいと思う。

「ヒューッ!」

 背後から一斉に口笛が吹かれると、それを合図にダブリスがエンジンを始動させた。

 

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 マムートが陣取る現在の場所は、戦闘辞令に記されていた守るべき艀乗り場が在るフェアヒラント村の森と接する東の外れだ。そこに在るフェアヒラント村の鉄道駅近くの茂(しげ)みで、3日前の5月4日の夜から森を背後に鼻先を街道に食(は)み出して構えていた。

 ここからなら、南西隣のディアベン村と南の森まで1から2km、東のニーレボック村から南東の森にかけて2km以上は一面の収穫前の馬鈴薯畑と、まだ1mも伸びていない牧草地で、射界が開けている。

 ニーレボック村から南東の森まで僅かに上り斜面だけど、ほぼ平(たい)らに近い緩(ゆる)やかな起伏で交戦には問題は無く、撃ち合いでの流れ弾や跳弾(ちょうだん)が艀乗り場へ飛ぶ心配も無かった。

 フェアヒラント村からニーレボック村への街道の北側は赤松と樅(もみ)、それに白樺(しらかば)が混じる鬱蒼(うっそう)とした森で、森際には次々と後退して来た雑多な兵科の兵隊達が防衛陣地を作らされているけれど、多くの兵が逃げ出して艀乗り場へ行ってしまい、残って守備に就いているのは、責任感の強い第12軍の兵士と狂信的な反共思想の外国人義勇兵(ぎゆうへい)達だった。

 国家の指導者を失って、国防軍や親衛隊の忠誠心(ちゅうせいしん)は惨めなくらいに地に落ちていた。マムートの前を通り過ぎる敗残兵や落伍兵は皆、虚(うつ)ろな顔で肩を落として腰を曲げ、着古(きふる)して汚れた軍服の重い足取りで隊伍(たいご)を組む事も無く、生き残る為だけに重い枷(かせ)になる武器を捨てた無防備さで歩いている。

 敗残の軍人達に、つい先日までの国民を守護する勇ましさや思想的侵略を退(しりぞ)ける逞(たくま)しさは、微塵(みじん)にも感じられない。

 アメリカ兵がいなくなった昨日の昼頃からは、兵士達は避難民の婦女子(ふじょし)を優先的にエルベ川を渡らせている。

 避難民達には私服に着替えた突撃隊、親衛隊、保安警察隊、政治指導部のナチス党員など、イワンに素性(すじょう)が知れれば、即刻(そっこく)、撃ち殺される連中が大勢混じっているように思え、彼らは乗船の順番待ちを告げて制止する兵士と、乗り込もうとする婦女子を押し退(の)けて、強引に乗船していた。

 純潔(じゅんけつ)アーリア人の優越説でゲルマン民族の社会全体主義による一党政治を布(し)いていたナチス党は、今や国土の殆どを失い、多くの突撃隊や保安隊や幹部党員は私服に着替え、これまで不自由を強(し)いて来た国民達に群れに紛れて告発(こくはつ)や捕縛(ほばく)に怯えながら、エルベ川の河畔で渡河を待っている。

 彼らの無責任さは最早(もはや)、浅ましくて卑劣(ひれつ)というしかない情け無さだ。

 ディアベン村からエルベ・ハーフェル運河の北岸まで南と東側に強固な防御陣地が築かれていて、ゲンティン市から鉄道沿いにエルベ川へ進軍した敵が何度も運河越えて北上しようとするのを、その度に撃退して防いでいた。だけど、その勇戦も今日までだろう。

 

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 昨日の5月6日の未明、午前2時過ぎの深夜にニーレボック村を横切って南の森へ、エンジン音を絞(しぼ)りながら粛々(しゅくしゅく)と移動して行く小規模な戦車隊列の暗い影を見た。

 隊列が森へ消えてから1時間ほど経つと、上空の大気を切り裂く重砲弾の擦過音(さつかおん)が沸騰(ふっとう)したヤカンから連続して噴出す蒸気(じょうき)のように聞こえ、それまでの散発的な射撃音が突如(とつじょ)として爆発音の連続になり、ゲンティンの町方向の雲がボーッと赤く染まって、ドロドロと重い轟きが雷鳴(らいめい)のように響(ひび)いた。

 北側の森向こうからも重ロケット弾が連続して発射され、夜空に長い炎を引いて南東の森の彼方(かなた)へ落ちていった。

《既にソ連軍に占領された街だけど、この僅かに残されたドイツの国土への攻撃に軍団が集結中で、それを挫折させる我が軍の反撃に必要な準備砲撃だからって、折角(せっかく)、生き残って居続(いつづ)ける事が出来た住民の多くを巻き込んで殺傷(さっしょう)すべき事なのだろうか? どれだけの砲弾が正確に敵に損害を与えて、何人の住人が殺された事だろう? 戦争は何て無慈悲(むじひ)で理不尽(りふじん)なんだ……》

 あの街で出合った人達を思うと、涙が溢れて、ポロポロと零れて行った。

 重ロケット弾のけたたましい破裂音が途絶えて暫くすると、燃える町の暗(くら)い炎を背景にした森の木立の先に幾つかの信号弾の瞬(またた)きが見え、再び上空に擦過音が聞こえたと思うと、業火(ごうか)に焼かれる町を執拗に落下する重砲弾が更に地獄の破壊を齎した。

 明け方まで、時折(ときおり)、森の向こうから激しい砲声と銃声が聞こえ、その閃光(せんこう)で夜空の雲が平和な時の繁華街(はんかがい)みたいに明るく照(て)らされて見えた。

 その戦車隊による反撃は知らされていなくて、マムートの出撃要請も無かった。この超重いマムートを暗夜に戦闘速度で走らせたりしたら、たちまち道路を破壊してスタックしてしまい、攻撃の戦力どころか、作戦の障害にしかならないに決まってる。現に走行して来た街道は、あちこちの路肩(ろかた)がマムートの重量で破壊されていた。

 ここで待機している事は、フェアヒラント村に着いた時点で防衛司令部へ報告してあるから、出撃要請が来なかったのは、マムートが攻撃任務に不向きだと理解されているのだろう。

 反撃に出た戦車は1台も戻って来ていない。だけど、彼等は出撃準備中の敵戦車軍団を撃破して昨日の朝から今までの間、ソ連軍に前進を躊躇(ためら)わしてくれて、その御蔭でフェアヒラント村に集まって来ていた2万人以上の敗残兵や避難民は、昨日から強行された全面渡河によってエルベ川の西岸へ逃れる事ができた。

 ドイツ軍の反撃はソ連空軍機の大群を招いて、薄曇(うすくもり)の昨日は昼間の空に群れた雀(すずめ)のようにソ連機がダイブして銃撃と爆撃を繰り返した。

 

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 射撃と爆発の音は徐々に近付いて来ているから、間違いなく今日は森を突破してソ連軍が襲って来るだろう。それも、あと1時間足らずにだ。

 今や第12軍を主体にしたエルベ川東岸の半径3kmしかない半円形防衛陣地は、崩壊(ほうかい)し始めている。

 

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 アンブッシュ位置へマムートを案内してくれた守備兵達の話では、連合軍と協定が取り決めが交わされた昨日の早朝まで、ソ連軍の攻勢を阻(はば)みながら巧(たく)みに後退して来た第12軍と第9軍の生き残りの国防軍兵士のみが投降してエルベ川の渡河を許されていた。

 それが、渡河を妨害するソ連軍の砲撃が西岸にも着弾し始めて、アメリカ軍は人員被害の発生を恐れて川岸から2kmばかり後退してしまった。

 まだ、逃げずに遠くの森で戦う兵士や森の際で敵を待ち構える兵士達は、陸軍や空軍の老練(ろうれん)な指揮官に率(ひき)いられて、最新の装備を維持(いじ)する高射砲部隊や対戦車砲を持つ猟兵グループと、どう見てもドイツ人じゃない顔付きばかりの武装親衛隊の擲弾兵達だ。

 兵科も雑多(ざった)な個人や2、3人の仲間で残る兵士達もいて、彼らは小銃よりも突撃銃や短機関銃、それにスコープを備(そな)えた狙撃銃を持つ者が多い。目付きの鋭い戦闘慣(な)れしたベテラン兵ばかりで、臨機応変に戦う意志の強さと頼(たの)もしさを感じてしまう。

 西部戦線や東部戦線で、イタリアや北アフリカでも、転戦を繰り返して散々長い戦争を戦い抜いて来たのに、500mほど西のエルベ川対岸にはアメリカ軍が何日も前から陣を敷き、南から北東までの3km以内にソ連軍が押し寄せて来ている今、少しでも多くのドイツ人を西側の文明圏へ逃す為の、この敵に奪われていない僅かなドイツの土地を自ら進んで後衛として踏み止まり、絶望的な防衛戦闘に命を捧(ささ)げようとしている。

 早朝に無線のスイッチを入れると、目新しい戦闘状況の報告や指示は無くて弾薬の補充(ほじゅう)や負傷兵の後送(こうそう)を要請する声ばかりで、それならと周波数をラジオに合わせたら、繰り返しドイツが無条件降伏に調印した事を伝えていた。

 ヨーロッパに於(お)ける大戦終結の世界的ビックニュースだけれど、実感は全然湧か無くて『ああ、これで終わりか、やっと終わった』としか思わず、川面(かわも)に小石を投げて5、6回跳ねさせた程度の在り来たりな感動だった。

 メルキセデク・ハーゼ軍曹の指示でスピーカーのスイッチを入れて車内へ流しても、皆は喜びの声を上げず、ただ安堵の『ふぅーっ、終わったか……』と、溜め息混じりの呟(つぶや)きが聞こえて来るだけで、直ぐに今日の為すべき事を考えて、誰もが黙り込んだ。

 本日、これで戦争は終わったけれど、本当に銃火が止む停戦は今夜の夜半過ぎだとも伝えていた。もう何もせずに無抵抗で投降して捕虜となれば、生き残れる可能性は大きいと思う。

 我が国は無条件降伏した。だけど、ドイツ帝国の1戦闘単位としての義務を放棄して何も果たさないまま、降伏する訳には行かない。

 弾薬が尽きるまでか、戦闘機動ができなくなるまでは、此処で攻め込んで来るソ連軍を射竦(いすく)めて、船着場がソ連戦車に蹂躙(じゅうりん)されるギリギリまで防衛戦闘をに徹しなければならない。それに、目の前の道路を西方へ逃れて行く女子供と老人ばかりの避難民達を、野蛮なロシア兵どもから守り通したいと強く願っていた。

 防御線を築く雑多な古参兵達の他には少数だけど、地元の地域防衛隊の年輩兵やヒトラー・ユーゲントや女子青年団の制服姿の少年や少女もいて、近くの線路沿いの浅い窪地にファストパトローネを持って潜んでいる。見たところ、小銃は数丁だけで拳銃や手榴弾も持っていなくて、ファストパトローネ以外に対戦車兵器を装備していない。索敵に必要な双眼鏡すら無かった。

 シュパンダウ地区の悲惨な市街戦を思い出させる彼らには、『この戦車が後退する時に一緒に逃げるんだ』と、言って回っておいた。

 こんな見通しの良い場所で、射程の100m内まで接近した敵戦車へファストパトローネを発射してから、エルベ川まで何の遮蔽物(しゃへいぶつ)も無い畑を300mも走って逃げるなんて、自殺行為も甚(はなは)だしい。思想教育とプロパガンダで戦いを強要された老人と、まだ子供の彼らも、僕達も、希望の持てる明るい未来にする為に生き残るべきだろう。

 

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「アル、線路の右側、南の森を見張れ」

 軍曹の指示がレシーバーに響く。

「ダブリスは、線路の左側から送電線の鉄塔で切り開かれた森辺りまでを見張るんだ」

 車内会話用に頭に掛けたインターカムのヘッドホンのレシーバーから軍曹の命令が聞こえ、直ぐに首に付けたマイクロホンを喉の声帯辺りに押し付けながら、下がるコードに付いた胸元のスイッチを入れて答える。

「了解!見張ります」

 ダブリスと共にハッチから顔だけを出して双眼鏡で索敵する。

 村の中心へ続く街道には、もう僅かな避難民や兵士しかいない。彼らは歩くというより、小走りで船着場へと急いでいる。

 双眼鏡を艀乗り場へ向けると、ずいぶんと人が減っているように見え、後衛戦闘をしながらでも脱出のボートに乗れそうだと思った。

《まあ、今日の防衛戦を遣り遂げて、生きていればの話だが……。ボートも浮くのが残っているといいけどな……》

 南の線路の果てになるディアベン村は、閃光や爆煙が増えて来ていたが、まだ後退する友軍や接近する敵軍らしき動きは見えず、気持ちにブランデンブルク市からの数日を振り返る余裕を持てた。

 

   4月28日 土曜日 ブランデンブルク市のオペル社の工場

 連れて来られた工場でダブリスが言うには、当初の辞令には第12軍へ配属されて、僕達が操作するマムートはベルリン市救出作戦の先頭を進撃するはずだった。でも、128mm砲の取り付け問題で救出作戦には間に合わず、そして、その救出作戦はベルリン市西方のポツダム市で行き詰まってしまい、エルベ川の西岸へ後退する第12軍の辞令は現在の『エルベ川東岸の防御』に差し替えられた。

 夜明け前から雨脚が少し強くなって来て今日は止みそうになかった。だけど気温は下がらずに、大気には春らしい暖かさが感じられた。

 雨降りと春の陽気で湿っぽいブランデンブルク市の工場の中では、クルー要員として集められた者から担当が決められて、取り扱(あつか)う装備の操作を自主的に訓練した。

 僕は車体後部のケースから取り出した無線アンテナを砲塔上に2本立て、最新式の無線機のダイヤルツマミを僅かづつ回して受信周波数と感度を調整しながらメモをした。

 力仕事を得意とする工員のラグエル・ベーゼとイスラフェル・バッハは、届いている同軸機銃の7.62mm弾の弾帯作りと、128mm砲の重過ぎて分離された弾頭と装薬筒(そうやくとう)の種類の説明と取り扱いに、装填補助装置のトレーへの乗せ方と順番を、砲を運んで来た技術者から教え込まれると、直ぐに128mm砲への装填動作を体に覚(おぼ)え込ませる為に、互いに復唱(ふくしょう)しながら模擬(もぎ)装填の訓練を繰り返した。

 油圧で作動する装填動作は立てて固定されている弾頭と装薬筒を、砲塔の縁まで下がるトレーの上に順に横して載せてから油圧で装填位置まで上げて、専用具で砲尾から閉鎖機の向こうの薬室まで2つ連ねて押し込む。

 奥へカチリと音がするまで弾頭と装薬筒を連(つら)ねて押し込み、水平閉鎖機が自動で閉じ切る前に素早(すばや)く専用具を抜く人力の作業は、かなり重労働の緊張する作業で、砲身に仰角を掛けずに水平にしなければ、不慣れなラグエルとイスラフェルに連続装填は困難(こんなん)だと考えさせた。

 尾栓(びせん)閉鎖後は赤いスイッチを押して、装填完了を砲手と車長へ知らせる緑のランプを点灯させれば、主砲は発射可能な状態になる。

 側面とリムに大きな擦り傷が付いて使い物にならない徹甲弾弾頭を、滑り止めと耐熱を兼ねた厚い皮手袋をした2人で持ち上げて2歩進み、装填補助装置のトレーに見立てた台の上へ置いて、また下ろすという動作を2人はできる限り速く行う。

 黒い徹甲弾弾頭の重さが約32kgで、長さは約50cm。銀色に塗られた先端に赤帯が入った褐色(かっしょく)の榴弾弾頭は、重さが31.5kgで、長さは約62cm。それから弾頭を打ち出す銀色の装薬筒の重さは約36kgで、長さが約90cmも有った。

 どちらの弾頭も、装薬筒も、とても1人じゃ持てない。落としたら、挟まれた手も、足も、骨が砕けてしまう。

 10発撃つのに弾丸は弾頭と装薬の2つに分かれているから、20回も同じ動作を繰り返した2人はゼーゼーと息を切らして冷たいコンクリートの床に大の字にへばってしまった。

「ハァ、ハァ、くっそ重たいぜ、最後は危うく落(お)としそうになったな。ラグエル、体中がガクガクだ!」

「くっそぉー。ああ、全くだ。イスラフェル、俺は腰と腕と腿が凄く痛いぞ! ハァ、ハァ」

 そんな彼らを見ながら、2人が無理をしないようにと願いつつも、10発で撃ち止めにならないように祈(いの)った。2人のどちらかが腰を痛めたら、代わりに僕が装填係にならなければならない。それは、とても堪えられない重さと怖(こわ)さで、絶対に嫌(いや)だ!

 ダブリスはパーダーボルン市の工場からマムートと共に運んできた装備を、状態や数を確認しながらグリスを塗り付ける手を休めずに、装甲の強固さも説明してくれた。

 前面装甲板は貴重なニッケルの含有が多い200mm厚の強固な浸炭(しんたん)焼入(やきい)れ鋼板で、側面は120mm厚の焼きなましを何度もして粘(ねば)るようにした調質鋼板だと言ったが、鉄板の成分を語られてもチンプンカンプンだった。

 履帯(りたい)上の側面に装着する丸みを帯びた補助装甲のフェンダーは、前後のはいらないから置いて行くと言い、装着する中央のも垂直になる部分を履帯が見えないからと、溶断して短くさせているフェンダーも60mmの厚さが有るそうだ。

 ならば、僕が乗車する車体前部のも着けて欲しいと願うと、ダブリスは前のフェンダーも着けたら敏速(びんそく)に乗り降りできなくて不便だし、被弾して中途半端に垂(た)れ下がれば、履帯が絡むかも知れない。それに余程(よほど)の大口径弾が直角に命中しない限り、貫通されない厚みのクルップ鋼だから大丈夫だと、胸を張ったダブリスに説得された。

 車長になったメルキセデク・ハーゼ軍曹は、ダブリスに説明させながら各部の装備や装甲厚を車内から車体の下まで隅々(すみずみ)を確認していた。

「このマムートは、ケーニヒスティーガーを大きくした感じだな。ダブリス」

「ええ、そうです。ケーニヒスティーガーの車体設計を基本として、サイズの拡大と、構造を簡素化(かんそか)したのがマムートです。そして、こいつは量産前提の試作3号車、マムートⅡ(ツバァイ)です。軍曹」

「Ⅱ……? 3号車……?、という事は、試作車でも、戦闘可能なⅠ(アイン)が、他に2輌も有るというのか?」

「残念ながら違います。軍曹。1号車と2号車のⅠは、単なる形状と構造を確認するモックアップみたいなモノです。薄い鋼板を寄せ集めて組んだだけで、鋼材に焼き入れや調質の処理はしていません」

 外観からマムートを評価して、戦闘イメージを描こうとしている軍曹と、設計や製作のコンセプクトと改良点を話すダブリスとの会話が聞こえて来る。

「確(たし)かに傾斜した車体前面は、そっくりだけど、パンターやケーニヒスティーガーより倒れているだろう。こっちの垂直(すいちょく)な側面は、ティーガーⅠの前面装甲よりも厚い、120mmも有るなんて、凄いじゃないか!」

「計画だと、鋼板の貼り合わせだったのですが、上手く1枚物で圧延(あつえん)できました。後面と側面が100mmです。軍曹」

「そいつは、えらい重防御だ。だけど、それで鈍重(どんじゅう)じゃないだろうなぁ? ダブリス」

「大丈夫ですよ、軍曹。エンジンは新型で12気筒800馬力の大出力です。砲塔重量を減らした分、足回(あしまわ)りを強化していますから、動きは期待できますよ。ですが……、不正地は出来るだけ、止めた方が良いと思います」

「そうか……、腹が痞(つか)えてスタックするのは嫌だな……。まあ、いいさ。気を付けよう。……それと、こいつは特に砲塔が、ケーニヒスティーガーに、そっくりだな」

「重量軽減と避弾経始(ひだんけいし)の追求結果です。でも、改良設計したのは、この3号車のマムートⅡだけです。軍曹」

 2人の会話を聞きながら、僕は本当にダブリスの言う通りだと思う。砲塔は命中する敵弾を斜めに滑らせて弾(はじ)いてくれる形だ。主砲を槍(やり)のように突き出す防盾(ぼうじゅん)の厚みが240mm、側面と後面の装甲厚は200mm、上面も100mmの厚みだと、ダブリスは胸を張って説明してくれた。

「ターレットの直径が3mと、車体の内幅ほどの大きさなので、がたいの良いラグエルとイスラフェルでも、2人掛かりの装填作業は問題無いです。軍曹」

「これは1輌しかないのか……。ん! 重量軽減の結果の形? それで重さは、いくつなんだ?」

「弾薬と燃料を満載して105tです。計画では140tでした。初めは、エッセン市のクルップ社の工場で開発していた、これよりも大きい戦車の砲塔を載せようとしていたんです。でも、形と兵装に無駄が多くて。それに耐弾性も良くないし。凄く重いし。だから、ケーニヒスティーガーの砲塔を参考に避弾経始の良い形に纏めました。ちょっと窮屈(きゅうくつ)ですが、打たれ強いですよ。装甲厚はそのままに、重さを3分の1ほどに出来たんです! 軍曹」

「軽量化してくれて嬉しいよ、ダブリス。それでも、そんな重さだと、不整地は控(ひか)えるしかないな。それと、その兵装に無駄ってのは?」

「搭載予定の砲塔には口径75mmの副砲も備えていました。それは、マムートの戦術用途を分散しますし、戦闘正面を大きくします。何より、この戦局の戦闘では、使い辛いと判断して省(はぶ)きました。軍曹」

「載せる予定だった砲塔が、どんな形だったのか知らないが、邪魔(じゃま)になる副砲なんていらないさ。強力な武器に強靭(きょうじん)な防御力、そして、軽やかな動きで、戦闘に集中出来るのは、有り難い事だ」

「軍曹、その形はですね、車体と同じ幅の、四角い台形の箱でしたよ」

 

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 確認を終えた軍曹は、キューポラのペリスコープのレンズを丁寧(ていねい)に拭いて視野を明るくする作業と、キューポラ上のレールに銃架(じゅうか)を立て対空防御と、砲身横の同軸機銃のMG42機銃の取り付けを、無線機の点検が済(す)んだ僕に命じて手伝いをさせた。

 MG42機銃は、昼食と休息の後の小雨になった午後に軍用車両の修理工場の車内残存品倉庫で、軍曹が目敏(めざと)くドラムマガジン6個と一緒に見付けた。命令書と身分証を軍曹が保管責任者に翳して、突撃銃2丁、短機関銃4丁、その予備弾倉を各3個づつで18本、ホルスター入りのワルサー拳銃(けんじゅう)6丁と予備弾薬、などの乗員全員の個人火器を得た。それらを全部、手押しの1輪車に積んで運んだ。

 それから、今度は輜重部隊の倉庫へ行き、再び軍曹が警備兵に命令書と身分証を見せ付けて、今度は戦闘食料と固形燃料を1輪車に積めるだけと新品の毛布を6枚、工員達が着る戦車兵用の丈(たけ)の短い国防軍仕様の迷彩(めいさい)ジャケットを3着に、水筒を10個も持って来た。

 

   4月29日 日曜日 ブランデンブルク市のオペル社の工場

 雨は夜半に上がっていたのに、まだ空を厚く雲が覆う朝から輜重部隊へ行き、備蓄(びちく)する分の戦闘糧食とマムートに迷彩塗装をする金属缶入りの塗料をごっそり運んだ。

 今年になってからは市民への配給所で、さっぱり見られなくなったハムやサラミソーセージが、ソ連軍に奪(うば)われるくらいならと、物資を補給に来る兵士へ気前良く振舞(ふるま)われていた。小腸に詰められたハムと太いサラミソーセージにベーコンの塊(かたまり)、ホウレン草などの野菜の缶詰(かんづめ)や大きな黒パン、それに、ずっしりと重いチーズも。それから、ジャガイモを大きな袋ごと。ナベとフライパンに、固形燃料を使うコンロなどの調理器具、それと、食事キットも合わせて人数分を貰えた。

 有る所には有った、美味(おいし)そうな食材と、それを温かく料理できる道具は、いつ殺されるか分からないシリアスな現実を忘れさせて、僕達を楽しいキャンプ気分にさせてくれた。

 夕方までに砲身部分がしっくりと合う砲架に組み付けられて完成した砲塔が車体に組み合わさると、用意していた塗料を防錆(ぼうせい)塗装で真っ赤なマムートに塗り付けた。

 軍曹は、美術が好きで遣ってみたい迷彩パターンが有ると言うダブリスに監督(かんとく)をさせて、ベルリン市近郊の地面の配色に合わせて配合していた色を刷毛(はけ)やデッキブラシを使い、全員で3色に見えるような斑点模様の迷彩を施した。

 迷彩柄を塗り終えてから遅い晩飯(ばんめし)を食い、そして、作業場のコンクリートの床(ゆか)に工場の片隅(かたすみ)から持って来た毛布を敷き重ね、一番上に新品の毛布を掛けて寝床を作った。爆撃で損傷した工作機械の脇に埃を被って積まれていた毛布は、工員達が使う物だったが、その持ち主は皆、イギリス空軍の夜間爆撃で亡くなっていた。

 厚く織(お)られたウール生地の臭いや以前の使用者の体臭よりも、油汚れとコンクリート粉の工場臭が鼻に残るけれど、此処では結構ゴージャスなベッドだ。動き詰めで緊張した身体と気持ちが求める温もりと安らぎに、そんな臭さと訳有りなど、お構いなしに僕達は潜り込んで泥のように眠った。

 

   4月30日 月曜日 ブランデンブルク市のオペル社の工場

 朝方に搭乗する戦車にあぶれて、修理工場の片隅で寝泊りしていたバラキエル・リヒター伍長が、マムートの砲手として連れて来られた。

 伍長は状況を理解すると、直ぐに砲と砲架、それに単眼式照準器を調べだした。手動の砲塔旋回用ハンドルを回しながら、主砲や砲塔が届いた時に同梱されて来た同軸機銃の取り付けと、安全装置、非常用撃発の作動を確認して、ペリスコープを位置と作動を調整して行く。

『新品の所為(せい)か、けっこう明るいな』と、照準器とぺリスコープを満足気に覗いていた彼が突然大声を出した。

「ここの装甲が削られて、厚みが半分くらいになってるぞ! 軍曹、これはマズイですよ。ここにロスケの85mm弾が斜めに当たるだけで、貫通されます!」

 直ぐに砲塔内に入った軍曹は、伍長が指差す照準器の先端に顔を近付けて状態を見る。残りの四人は装甲が貫通されると聞いて、急いで車体によじ登り砲塔内を覗きこんだ。

「ダブリス、どうなっているんだ! 砲塔の設計は何処でしたんだ! 単眼の照準器を付けるスペースが足(た)りなくて、装甲板が照準器の形に合わせて干渉(かんしょう)しないように、深い曲面の溝で削られているぞ!」

 160mmも厚みが有る砲塔の側面装甲板の内側面は、そこだけ1mほどの長さで幅20cmくらいの半円溝が、照準器の位置に上手く合わせて彫(ほ)られいた。

 どんな工作機械を用いたのか見当もつかないが、間に合わせの冶具で固定して加工したのだろう。断面が半円形の溝は太い切り刃で粗(あら)く削られたままだが、砲の仰角(ぎょうかく)や俯角(ふかく)の位置でも干渉しないように切削(せっさく)されている。

「軍曹、自分は知りませんでした。自分は別の工場で車体の製作をしていて、ここまで運んで来ました。砲塔は別の部署が設計して、この工場で製作したのです」

 削られている事を知っているはずのダブリスの返答に、軍曹は車外へ出て表から装甲板の削られた辺りを青い顔で暫く見ていた。

 無線手のシートから見上げた溝はバラキエル・リヒター伍長の言う通り、深く彫り込まれていて、僕でも砲塔のデザイン設計からの遣り直すほどの大きな問題だと理解(りかい)した。

《設計から遣り直すなんて出来ないから、ダブリスはワザと黙っていたのだろう》

「最前部の、溝が一番深い部分の厚みは、たぶん80mm以下になっているでしょう」

 横にいて状態の報告を続けるダブリスへ軍曹は頷くと、再び砲塔内へ入り、皆に聞こえるように大声で言った。

「これは、装甲板の仮組(かりぐみ)で気付いたな。削った鉄肌(てつはだ)がそのまんまだ。切り角は鑢(やすり)掛けしてあるけど、無理矢理だなあ」

 このままで軍曹は戦闘準備を進めるつもりだ。

「工場に要請して、分厚(ぶあつ)い鋼板を外面へ溶着して補強する方法も有るけれど、鋼板を探して溶接して貰うのは手間(てま)で、1日は掛かってしまうな。明後日(あさって)にはイワン達が踏(ふ)み込んで来るだろうから、そんな余裕はない。強力なこいつを、碌に扱えもせずに降参したくはないな」

 実際、オーデル川などの東部防衛戦線を崩壊させて帝国首都のベルリン市まで蹂躙したソ連軍が、このブランデンブルク市へ間近に迫っている今、補強修理で日数を掛けてはいられない。

「なってしまっているモノは仕方が無い。ここを敵に向けないようにするしかないな。バラキエル、撃たれる前に殺(や)るんだ。さあ、早く照準を調整してしまえ。明日(あす)はフェアヒラント村へ向けて移動するぞ。ダブリス、バラキエルの照準合わせを手伝うんだ」

 ソ連軍に占領された地域のドイツ人は暴行されて殺されると、噂に聞いている。降参してボルシェビキの捕虜になるなんて、今の僕達には考えられない。

 ロシアの国土と民族を蹂躙されて復讐(ふくしゅう)に燃える蛮族(ばんぞく)で劣等(れっとう)人種のスラブ人は、文明的で優秀なドイツ人への強いコンプレックスも有って、投降するドイツ軍兵士への人道的な対応を全く期待できないと、巷(ちまた)で散々言われていた。

《僕達こそ、神聖なドイッチュランドの領域に攻め入って穢(けが)し、優秀で気高(けだか)いゲルマン民族を殺戮(さつりく)した大罪を犯(おか)したスラブに、神罰(しんばつ)を下してやる!》

「軍曹! 自走しての移動時に砲身を固定する繋止(けいし)アームも問題というか、有りません。一応、仰俯角と左右角は砲架と小さな2つの歯車でロックできますが、長くて重い砲身が振れ出したら、直ぐに破損しそうです」

 戦闘以外での移動時に車体の揺れに連動して長い砲身は振れ動いて、砲架に備わる照準に最重要なギアの歯を欠(か)けさせしまうから、長砲身の砲を搭載する戦車や自走砲には必ず砲身繋止装置が有り、長砲身の大砲の移動ユニットにも同様の機能が備わっていた。

「ダブリス! これも重大な事だぞ! パーダーボルンのクルップで作らなかったのか?」

 バラキエル・リヒター伍長から別件の問題事の報告を受けたメルキセデク・ハーゼ軍曹は、作業場に集まっていた技術者と工員達へ聞こえよがしの大声で、ダブリスを責(せ)めるように詰問(きつもん)する。

「もっ、申し訳有りません、軍曹殿! 自分は全く知りませんでした。今まで気付きませんでした。工場で渡された図面の中には、その設計図面を見ていませんし、渡された部品図面の製作漏(も)れも有りませんでした」

 繋止アームと聞いて直ぐに理解したダブリスは、青褪めた表情の直立不動で、知り得る限りの事実を言い並べた。

「……まあ、いいさ。この帝国の黄昏はマムートの砲身が萎(な)えるより早く終えるという意図(いと)なんだろう。くっそぉ、照準の仮合わせ後に機動訓練をするが、人が歩く程度の低速でするしかないな」

『ふうぅぅぅーー』、慣熟訓練の指示を言い終えたメルキセデク・ハーゼ軍曹が長い溜め息を吐いて、がっくりと両肩を落とした。

 その残念そうな姿から、きっと、大馬力エンジンを全開に噴かしたマムートを全速で突進させて、右へ、左へ、軽快に旋回する砲塔が敵を狩り続けながら、敵陣深くに切り込んで行こうと考えていたのだと分かった。

《いやー、あぶない、あぶない。軍曹が結構、熱血(ねっけつ)だと知りました。そりゃあ、武装親衛隊へ志願した方ですものねぇ。僕も敵を打ち砕くのに賛成だけど、絶対に戻れない敵陣切り込みの道連(みちづ)れは、マジで無しにして欲しいです!》

 

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 砲身を最大俯角で下げると、バラキエル・リヒター伍長は砲口へ行き、物差(ものさ)しで測(はか)りながら内周にライフリングが刻(きざ)まれた孔の真ん中で、クロスするように毛糸を粘着テープで貼(は)り付けると、今度は砲塔に入って砲の尾栓を開いた装填孔の直径を測って、ほんの小さな穴を中心に開けた直径と同じ大きさの円盤を厚紙で作り、それを尾栓の孔へ深く入れ過ぎたり、傾(かたむ)いたり、しないように上手(じょうず)に嵌(は)めた。

 それから、伍長は嵌めた厚紙の針穴のように小さい穴から砲身内を覗き込んで、砲手席に座ったダブリスへ主砲の射線を合わせる指示を出す。ダブリスは指示に従って砲塔の回転ハンドルと砲身の仰俯角ハンドルを回して、伍長の求める砲口の糸がクロスする1点と、遠方の高い瓦礫の1点が一直線上に重ね合わさるようにした。

 そして、ダブリスと交代して砲手席に座ると、単眼式照準器を覗いてレンズ内のクロスラインを砲身で狙う高い瓦礫の同じ1点へ調整して合わせた。

 更に同軸機銃のMG42機銃も取り付けて照準を合わせ、ベルト式弾帯の給弾も整えた。

 これで、基本照準の調整は済んだけれど、この調整で本当に当たるのかは実際に撃ってみないと分からない。

「ここでは試射はできないので、戦闘射撃で微調整する事になる。初弾から命中するか、迅速(じんそく)に調整できて、撃破される前に敵を撃滅できるように祈ってくれ」

 笑顔で、バラキエル・リヒター伍長は言う。

 砲の照準合わせが済むと、20ℓ携行缶が30缶でマムート専用に確保されていたガソリンを給油し、弾薬と携帯火器に、いただいた食料を積み終えてから、昼飯と休息になる。

 弾薬は工場のリフトを使い、傷や変形の無い選(よ)りすぐった弾頭と装薬筒をマムートに積み込んだ。

 徹甲弾頭を25発、榴弾弾頭は5発、そして装薬筒が30本。保管ラックが設(しつら)えてある規定の25発より5発分多く積載する。装薬筒と榴弾はラックに、10個の徹甲弾頭は車体や砲塔の隅へ転がらないようにして押し込んだ。

 午後からは6人全員が配置位置へ乗車しての機動訓練を行う。

 広い工場の前庭で、車内インターコムのレシーバーに響く軍曹の命令で、前進、減速、停止、後進、右折、左折などの走行を鉄道輸送用の狭幅履帯のまま、ゆっくりと慎重に行う。

 砲塔の左右と全周旋回、砲身の上下作動、照準合わせ、砲弾と装薬の模擬装填の動作を繰り返す。

 バラキエル・リヒター伍長はラグエルとイスラフェルに弾種を伝え装填の命令を出す。命令への復唱は、首に掛けた咽喉(いんこう)マイクで必ずしなければならない。

 

   4月30日 月曜日 ブランデンブルク市の工場からゲンティン駅へ

 夜更けには、来た時と同じ平らな貨車に積まれて、走行用履帯、外側転輪、側面中央部の防御を強化する補助装甲のフェンダー、取り付けクレーンなどの部材と部品に、燃料の確保と他にも使い道が有りそうな空の携行缶も乗せた貨車と共に、エルベ川手前のゲンティンの町へ鉄道で運ばれた。

 弾薬や携帯火器などの備品は、しっかり固定されているのを確認して、そのままで平床貨車へ積載して鉄道輸送する。マムートの車幅より数cmだけ僅かに狭い平床幅の貨車へ、仲間から大声で指示される前後左右のズレを慎重に修正して超微速で固定位置へ停めたダブリスは、びっしょりと冷や汗をかきながらゲンティン駅の貨物用プラットホームに上手く降(お)ろせるか、心配で青褪めていた。

 ランダムに連結した客車と有蓋貨車の屋根上や車窓までしがみ付かせて、負傷兵と避難民を零れんばかりに乗車させた列車の最後尾に、更にマムートを積載した平床貨車と戦闘機動用の装備品を積んだ無蓋貨車を連結して、曇り空で月や星の明かりの無い真(ま)っ暗(くら)な鉄路を周囲を警戒しながら、ゆっくりと進んで行く。

 左右と後方の遠くに雲を赤く照らして瞬く砲火と遠雷(えんらい)のような砲声が轟く中、国鉄職員が翳すカンテラの灯(あか)りで路線の安全を知らされながらも、途中、何度も線路状態の確認と警戒で停車した後、ゲンティン駅に着いたのは翌日の午前3時過ぎだった。2両の貨車は切り離なされると構内のポイントを切り替え、貨物プラットホームへ機関車に押されて入いる。

 本日の列車の運行はゲンティン駅までしかできない。乗車して来た大勢の軍人や避難民を此処で降すと列車は、再び避難民達を乗せる為にブランデンブルク駅へ戻って行く。

《既にブランデンブルクの防衛線をソ連軍が突破していれば、攻撃されて再(ふたた)び列車を走らせるのは難しいのに……、それどころか、命が危ない。ドイツ国鉄職員達は勇敢(ゆうかん)だ》

 ゲンティン駅から先は、マグデブルク市などエルベ川の西岸以西はアメリカ軍に占領されて、ドイツ軍が爆破した鉄橋も修復(しゅうふく)が完了寸前だそうだ。

 次の駅が在るブルクの町まで、『ソ連軍は来ている』とも駅員が怯え顔で言っていた。

 エルベ川沿いにソ連軍の北上は、エルベ・ハーフェル運河の道路橋と鉄橋、それに水門を爆破すれば数日は防げて、ブランデンブルク市を陥落させ、西進するソ連軍がゲンティンの町へ攻め込むのは、『恐らく3日後か、4日後の5月4日、5日辺りだろう』と、駅員が広げた地図を懐中電灯(かいちゅうでんとう)の灯りで見ながら軍曹が溜め息を吐いて言った。

 ブルクを占領した敵は、ゲンティンを包囲してエルベ川への退路を断つ為の部隊だろうから、ブランデンブルクを陥して西進するソ連の戦車軍団がゲンティンに攻め込み、その勢いでエルベ川まで到達する。だから、僕達に休んでいる時間は無い。

 直ぐにカンテラの灯りを頼りにマムートをプラットホームへ移動させ、更に駅前の広場へとコンクリート製のプラットホームと道路に亀裂(きれつ)を入れながら微速で動かす。既に平床貨車の積み降ろしが四度目となるダブリスは度胸(どきょう)が付いたのか、少し速度を出して平床の縁を踏み外しそうになりながらも、マムートをプラットホームへ移した。

 軍曹は、もう1両の無蓋貨車から戦闘用履帯などの重量物を降ろす重機を依頼する為、駅長と共にゲンティン市防衛司令部へ到着報告を兼ねて向かった。朝までに降ろして広場の駅舎や倉庫の脇で外側転輪を付けて戦闘用履帯に交換し、砲塔に組み立てた簡易クレーンで補助装甲板を兼ねる中央のフェンダーを装着するつもりだ。夜が明けてソ連空軍機が飛び回る前にマムートや交換履帯をカモフラージュして隠さなければならない。

 軍曹が戻るまでに残りの搭乗員5人全員が車体に備え付けの斧(おの)と駅舎から借りて来た斧で、夜の暗がりの中、カモフラージュに使えそうな広場や横の公園や街路樹の枝を伐採(ばっさい)して行く。

 空が白(しら)んで来る頃には、マムートの車体上面や砲塔に針金で縛(しば)り付けた枝が砲塔の回転や各ハッチの開閉(かいへい)、そして照準とペリスコープの視界の妨(さまた)げにならないように括り直し終えた。

 そのタイミングでクレーン装備の5t牽引車に乗車した操作兵と警備兵と共に軍曹と駅長が戻って来た。しかも同じクレーン装備仕様が2台だ。

 ただちに2台の牽引車も、既に擬装(ぎそう)している上から用意していた枝で作業に支障(ししょう)が無い程度の念入(ねんい)りなカモフラージュを施(ほどこ)す。2台も来たなら安全且(か)つ速(すみ)やかに降ろして運べそうだ。

 2台の5t牽引車が2度往復して駅前広場に運ばれたトグロ状に巻かれる2本の戦闘用履帯は、2機のクレーンと全員が持つ金梃子とハンマーで、広場に真っ直ぐに伸ばした。広げた履帯も枝葉で覆ってカモフラージュした。

 運河が近い所為なのか、辺り一帯を夜明け前から薄く朝靄(あさもや)が覆っている。これなら朝靄が晴れる十時頃までは、敵機が飛んで来ないだろう。

 

   5月1日 火曜日~3日 木曜日 ゲンティン駅 駅前広場

 最外側の転輪と誘導輪(ゆうどうりん)をボルトで固定し、起動輪(きどうりん)の外側歯部も取り付けた。それから狭幅履帯を外しながら戦闘用履帯を装着して行く。

 ダブリスの説明では、転輪の直径はマンホールの大きい蓋と同じ90cm、重さは50kgは有る。転輪は両側で8個、誘導輪と起動輪が2個づつ、200本以上のボルトで取り付けなければならない。

 履帯の履板1枚は、鉄道輸送用の狭幅が長さ53cmで重さ30kg。幅の広い戦闘走行用のは長さ1mの重さ60kg。その履板を1枚づつ、グリスを塗(ぬ)りたくった鋼鉄製のピンをハンマーで叩き込みながら、90枚以上を連結させて片側分になる。

 履板も砲弾と同じで、その手足を潰しそうになる重さと数の多さに、頭も、身体もクラクラになってしまう。

 戦闘用履帯への交換が済むと、砲塔両側面の合計8箇所の対になった鍵(かぎ)フックへ、2枚で1セットに連結した戦闘用履板を引っ掛けて固定する。重い戦闘用履板を掛ける作業は、砲塔に取り付けた簡易クレーンを使っても、履板を通したピンを固定リブの孔位置と合わせるのに手間取って仕舞い、4人がかりでも、思いの他の重労働になった。

 砲塔側面に掛けた予備履板は増加装甲を兼ねるそうだが、その効果に、乗車したパンターが撃破された経験の有るメルキセデク・ハーゼ軍曹は首を傾げながら言う。

「まあ、大口径の徹甲弾には意味無しだが、鹵獲されたファストパトローネみたいな兵器や弾頭には、効果を失わせて、装甲板まで貫通されないだろう」

《そうですよ、無いよりはマシです。気休めになります。軍曹殿。……僕の横の装甲板にも付けて欲しいです》

 対空警戒で見上げる空に飛行機の影が見えたり、空襲警報のサイレンや爆音が聞こえたりすると、急いで使っていた工具と共にカモフラージュの枝の下へ潜(もぐ)って隠れる。

 戦争の勝敗は既に決していて最末期の現在、飛んで来る飛行機は赤い星マークのソ連機ばかりで、鉄十字マークのドイツ空軍は1機も見ていない。

 上空に群(むら)がるソ連機は、ドイツ軍の陣地や車輌、それにドイツ人しか襲撃しない。インフラの鉄道、橋梁、道路、発電所、送電の架線、残っている石油やガスのタンクなどの戦略施設は、占領後に使用する為に攻撃目標から外して破壊しないのだろう。

 故(ゆえ)に、強力な抵抗戦力のマムートは最優先の攻撃対象になるが、鉄道駅の倉庫脇に隠れていれば、マムートと履帯交換作業はカモフラージュが見抜(みぬ)かれるか、我々搭乗員の動きを発見されない限り、攻撃されない。

 

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 巷ではドイツの全ての物品、家も、田畑も、機械も、道路も、鉄道も、敵の手に渡って使われる前に全てを破壊して燃やす焦土(しょうど)戦術が、命令だか、奨励(しょうれい)だか、知らないけれど叫ばれていた。

 だけど、もう誰も実行しない。まだ抵抗しなければならないけれど、どう足掻(あが)こうとも戦争はもう直ぐ終わる。平和になれば、全ては衣食住と産業再建に必要だ。

 愚劣(ぐれつ)な指導者による無駄(むだ)な現実よりも、実の有る未来の為に行動しなければならない。

 遣っ付けるのは、終戦後に自由なドイツになるはずの希望の未来を摘(つ)んで、再び1党独裁政治で支配しようとするソビエト連邦だけでたくさんだ。非文明的な東の劣等な蛮族に投降するなんて、有り得ない。そもそも、ロシアに文明なんて発祥(はっしょう)していないだろう。

《底辺思想の皆が平等を掲(かか)げる共産主義の社会で、息が詰まる人生なんて、真(ま)っ平(ぴら)御免(ごめん)だ!》

 全てに自由でチャンスが等(ひと)しく多い世界は不平等になる。だからこそ、人は努力(どりょく)してチャンスを掴(つか)んで豊(ゆた)かになろうとするんだと思う。多くを努力する苦しさを超(こ)えれば、よりチャンスに遭遇すると僕は考えていた。

《僕達は、リバティーとフリーダムを求めてエルベ川を西へ渡り、アメリカ軍に投降するんだ!》

 何処の国でも兵士の質はピンキリだけど、アメリカ軍は人道的な兵士が多いイメージだ。そんなアメリカ兵に出逢える事を祈ろう。

 ドイツの海洋進出を阻(はば)み、未(いま)だに封建(ほうけん)的な王政が続くイギリスや、中世からの確執(かくしつ)だらけのフランスよりも、エコノミックとデモクラシーの国、アメリカは自由民主への解放者の感じがした。

 

   5月4日 金曜日 ゲンティン駅 駅前広場から移動

 戦闘用履帯は1度だけパーダーボルンの工場で着けて走らせたと、ダブリスが言った通りに問題無く装着できたけれど、クレーン装備の牽引車は初日で帰隊してしまい、簡易クレーンの組立と補助装甲のフェンダーの取り付けまで、6人の人力だけで行った為、全ての装着作業の完了に3日目の午前中まで要してしまった。

 取り付けた補助装甲のフェンダーは、3分割された内の車体中央部分だけだったけれど、前部と後部のフェンダーまで取り付けたマムートの想像した姿は、そのフワッと曲げられた形で履帯に被るフェンダーから、まるで貴婦人(きふじん)のコルセット仕様のスカートのように思え、マムートに舞踏会(ぶとうかい)を取り仕切るミストレスみたいな頼もしさを感じさせた。

 やはり、ダブリスに説得されずに軍曹や伍長に考え直して貰って、残りのフェンダーも持って来て取り付ければ良かったと、ブランデンブルクの工場に置いて来た事を僕に後悔させた。

《デザイン的にも、僕の側面防御のフェンダーは、有った方がいいじゃんか! でも、でも……、ダブリスが言うように被弾して走れなくなったら、僕達は生き残れなくなる……》

 5月4日の太陽が天頂(てんちょう)を過ぎて西へ傾き始めた午後に、枯(か)れて来た枝葉(えだは)のカモフラージュを伐採したばかりの枝で遣り直し、マムートを再び新緑(しんりょく)の森のようにしてから移動を開始した。

 灰色の低く広がる雲の所々(ところどころ)に青い晴れ間が見える空の、まだ明るい午後に移動を始めたのは、ゲンティンの街路を迷わずに国道107号線に入れて、エルベ・ハーフェル運河を渡る橋の強度がマムートの重さに耐(た)えるかという心配と、アルテンプラトウ村からフェアヒラント村へ至る街道の交差点を見逃(みのが)さない為だった。

 すっかり衰(おとろ)えてしまったドイツの防空火線を嘲(あざけ)るように低空で侵入するソ連機が編隊(へんたい)で、襲撃して来る危険(きけん)も有ったけれど、已(や)むを得なかった。それに地物の東へ伸びる影はマムートを隠し、東方面から襲撃して来るソ連軍は、西陽(にしび)の明るさに照らされるから視認し易いという利点も有る。でもそれは、頭上を覆う曇り空が西の地平から晴れて来ての利点で、曇り空下の光量の足りなさでは遠くの物が背景に滲んでいて、距離感が曖昧(あいまい)になってしまう。

 街の中や街道は、どこも西へ歩む不安顔の避難民と戦う気が失せただらしない兵隊ばかりで、とてもマムートと搭乗する我々だけではスムーズに通過できそうに思えなかった。そこで防衛隊に頼み込み、ゲンティン駅からのフェアヒラントへ至る分岐路(ぶんきろ)まで、5、6名の防衛隊兵士が道案内と警備を兼ねて車体上に乗って貰った。

 それに、ソ連軍の戦車とマムートを見分けられない未熟な味方から撃たれては堪らない。

 爆撃で崩れた建物の瓦礫を除けた市街地の通りは、マムートの車幅だけで車輌の擦れ違いができなくなる為に、更に数名の防衛隊兵士が先行して、通行を遮断(しゃだん)したり、注意を促(うなが)したりして通路を確保している。

 人が歩くほどの速度で進み、角を曲がり終える度に停止して走行装置の破損が無いかなど、車体の状態の点検と、履帯の張り具合や連結ピンの緩みを調整した。

 いくつかの検問所を通り、ゲンティンの町の北側を流れるエルベ・ハーフェル運河に架かる鉄骨組みの国道橋を更に速度を落として、アーチ組みの橋梁(きょうりょう)はマムートの100tを越える重量でも問題無く耐えると思われたが、対空警戒をしながら橋桁(はしげた)の強度を探りつつ、慎重に渡った。

「バラトン湖の運河の鉄橋やドナウ河の石造りの橋は、ケーニヒス・ティーガーの重戦車が隊列で渡っても問題は無かったな。この橋の耐荷重(たいかじゅう)の安全率が、どれ位(ぐらい)か、知らないけれど、優秀なドイツ帝国の建築と土木の結合技術だから、たぶん、大丈夫だろう」

 余り安心できない慰めの例を、ぼやくように話すメルキセデク・ハーゼ軍曹の声がレシーバーから聞こえ、続けてバラキエル・リヒター伍長の経験談が加わる。

「東方からオーデル河を渡っての撤退(てったい)では、みんなは焦っていて、急いだケーニヒス・ティーガーの中隊が数珠(じゅず)繋ぎで通った後は、鋼鉄のトラス橋がグラグラになってましたよ。まあ、それでも全車両が渡り終えましたがね。あれじゃあ、ロスケどもは橋を補強しないと、スターリン戦車を通せなかったでしょう」

 不安が募(つの)る橋渡りは、鉄道の重量物用の平床貨車のように重さを分散できずに、マムートの接地する戦闘用履帯の狭い面積に受ける100tを越える重さは、はっきりと橋梁面の撓(しな)るのが分かるほどだったけれど、どうにか国道橋は持ち堪(こた)えてくれた。

 国道橋を無事に渡り終えると少しづつ速度を上げて砲身の繋止具合と走行性能を確認する。マムートの重量に耐える国道の平坦(へいたん)で固(かた)い舗装路面では問題無く軽快(けいかい)に走ってくれて、長い砲身もしっかりと固定されている。

 実戦経験が多い軍曹と伍長が『パンター並に走るぞ』と、外観の大きさには似合(にあ)わないマムートの加速と反応に驚いていた。

 左に折れて進む一部の避難民達は、ここからエルベ・ハーフェル運河の北岸沿いに水門の在るエルベ川岸のディアベン村へ向かって行き、そこから西方へ渡るつもりだろうけれど、ブルクの町を占領したソ連軍が北上して既に水門へ迫っていたら、たぶん、辿り着けないだろう。

 防衛隊兵士から聞いた話では、エルベ川東岸を守備する第12軍は、鉄道とアウトバーンの通る複合橋が在るタンガーミュンデの町の対岸を中心に、半径3kmの半円形で防衛戦線を形成して、戦線の北端は渡し舟が有るシュトーカウ村と、鉄道橋が架(か)かるシェーンハウゼンの町、南端は艀が運行されているフェアヒラント村、いずれも防衛と渡河(とか)の重要拠点として、逃れて来た敗残兵と避難民を積極的に収容している。

 そして、収容された敗残兵は列になって破壊された鉄橋の残骸(ざんがい)を伝い西岸へ渡って行くが、その列をアメリカ兵が検閲して親衛隊員と判(わか)ると列から除外(じょがい)しているらしい。

 非戦闘員の避難民達も渡河は許(ゆる)されていなかったが、防衛陣地をソ連軍が突破すれば、雪解(ゆきど)けで増水した冷たい川で溺(おぼ)れても、アメリカ軍から銃撃されても、報復(ほうふく)に燃えるソ連軍の蛮行(ばんこう)を恐れる何万人ものドイツ人は一斉(いっせい)に渡河を試(こころ)みるだろうとも言っていた。

 聞き知ったアメリカ軍の避難民への非人道的な処遇(しょぐう)に、戦争終了後のドイツ国土の占領地域や住人達への取り決めがアメリカとソ連で行われたのだと思った。我々も武装親衛隊のメルキセデク・ハーゼ軍曹は渡れない。ベルリン市民の僕も難(むずか)しいだろう。バラキエル・リヒター伍長は国防軍だから大丈夫だし、ダブリスとラグエルとイスラフェルの3人もルール地方の在住者だと証明できれば、きっと渡れる。

 今となっては、ベルリンを目指して急速に東進するアメリカ軍やイギリス軍を停滞(ていたい)させる為に、我がドイツ軍自(みずか)らが、橋を爆破して崩落(ほうらく)させてしまったのが悔(く)やまれた。

 ソ連との取り決めが有るだろうアメリカは、アーミーをエルベ河畔に留(とど)まらせてしまった。もし鉄橋を爆破せずにいれば、アメリカ軍は勝手に渡って来て橋頭堡を確保していた筈だ。そして、ソ連軍がベルリンを陥落した時点から、現状よりも数倍もの多くの兵士や難民が既に西岸へ渡り終えていた事だろう。

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   5月4日 金曜日 アルテンプラトウ村

 直ぐにアルテンプラトウ村の村口に着いていまい、防衛陣地を兼ねた検問所の前でマムートを停止しさせた。

 ゲンティンの駅舎から持って来た地図を見ると、国道橋を渡った所のアルテンプラトウ村から国道に単線の線路が併設(へいせつ)されていて北に向かい、ゲンティンバルト村とレデーキン村を通ってイェーリヒョウの町を抜けると、タンガーミュンデの対岸のフィッシュベック村に至っていた。

 アルテンプラトウ村の十字路を左に折(お)れて、北北西へ向かう街道を行けば、森を抜けてニーレボック村を通り、エルベ川河畔のフェアヒラント村に着ける。路面や路肩の強度が心配だけど、この街道がマムートが進むべき道だ。

 道路を歩む避難民達を見ていると一部が左側の家並みの通りへ入って行くだけで、大部分は国道を真っ直ぐ進んでいた。方角的に一部は村の中を抜けてフェアヒラント村へ向かうらしい。

 検問所脇には、路上の安全確保で先行していた兵士達と共に、国防軍の憲兵と褐色の制服を着た地区の行政官らしい中年の男が立ち、我々を待っていた。

 理由有(わけあ)りを察したメルキセデク・ハーゼ軍曹が降りて行き、行政官とナチス式の答礼(とうれい)を交わす。

「ハイル・ヒットラー」

 確か2日前、無線機をオープンにして流したラジオで総統がソ連軍へ突撃して戦死したと聴いているのに、可笑しな挨拶言葉だ。万歳(ばんざい)と讃(たた)えて崇拝(すうはい)した指導者は、もう死んでしまっていないのに。

 乗員各自がハッチから身を乗り出して見ていると、中年の行政官は軍曹の横を通ってマムートの真ん前まで来ると、軍曹へ向き直って言った。

「此処からフェアヒラント村へ向かう道は、あそこの十字路を左に曲がって、森の中を進んでニーレボック村を通る街道しかない。しかし、十字路の右に見えるブラッティン村とロスドルフ村まで、ソ連軍が来ていて、君達を見付けると、攻撃して来るだろう」

 アイドリングのエンジン音が響く中でも、しっかりと行政官の良く通る大きな声が聞こえた。

「国道と線路が、ブラッティン村にいるソ連軍から丸見えになって、ゲンティンの町からフィッシュベック村の町への負傷兵と、避難する女、子供を乗せる列車や車輌も走らせれない。今、奴らは停止して此処への攻撃の準備中だ。先遣隊(せんけんたい)らしいから本隊の到着を待っているんだ。撃退するチャンスは今しかない。我々は避難路を確保する為に、これから反撃して、奪還(だっかん)したブラッティン村の守備陣地を強化するつもりだ」

 話しながら興奮して来た行政官の声が、一気に捲くし立てるように聞こえて来る。

「撃退に失敗すれば、奴らは夕暮れまでに集結して此処を攻めるだろう。そうなるとゲンティンは包囲されてしまう。だから、少しでも見付からないように村の中を西へ進み、十字路を迂回(うかい)した方がいいぞ!」

 行政官が僕達に反撃に加(くわ)わるように命じない事を以外に思ったが、それはマムートの任務がフェアヒラント村の船着場の最終防衛に就く事だと知っているからだろう。だから、最初にフェアヒラント村への道を教えてくれたのだ。

「行政官殿、停止中の敵の戦力はどのくらいなのでしょう?」

「偵察隊の報告と私が視認(しにん)した限りでは、重戦車が4輌、偵察型の装甲車が1台、あとは徒歩の兵隊が1個中隊ほどだと思う。兵隊達は、トラックに乗って来ている」

 メルキセデク・ハーゼ軍曹は行政官の言葉に頷いてから、車体上に身を乗り出して様子を見ている僕達へ向いて言う。

「……だそうだ。実際に確認した方が良さそうだな。……ロスケ共は、アンブッシュや遭遇戦を警戒する前哨兵も出さずに、最前線までトラックで来ているのか? ふっ、まるでピクニックだな……」

 独り言のように言った言葉に、命令が続いた。

「おい、バラキエルとタブリス。敵の戦力を見に行くぞ! アルはイワンの無線を傍受(ぼうじゅ)して、迫って来ている敵が他にいないか、会話から察しろ。ラグエルとイスラフェルは、砲に徹甲弾を装填して、同軸機銃にも装填しておいてくれ」

 軍曹は遣る気になっている!

 軍曹の指示は、防衛隊に協力して戦い、此処をマムートの初陣(ういじん)の場にするのだと分からせて僕達を緊張させ、ファストパトローネを発射したシュパンダウ地区の市街戦の甦(よみがえ)った記憶が、僕の背中をブルブルと武者震(むしゃぶる)させた。

「了解です。軍曹殿」

 無線機の受信周波数のダイアルを回しながら何度か合わせ、入って来るロシア語をボリュームツマミで大きくして聞き入る。感度よく鮮明(せんめい)に聞こえるのは、近くのブラッティン村まで進出した強行偵察隊だろう。会話の間隔(かんかく)は長くて、間延(まの)びした声のトーンに緊張感が感じられない。他に入るのは、どれも感度が悪くて小さくしか聞こえない遠方からだった。

 感度の良いロシア語の会話が慌(あわただ)しくなって早口(はやくち)で途切(とぎ)れなく続くようになれば、イワン達は反撃準備中のドイツ兵やマムートを発見して出撃に移行中って事だろう。

「それじゃあ、アル。ピクニック気分の敵が、どんな奴等なのか、ちょっくら見て来るわ」

 タブリスが手を伸ばし来て敵の無線交信に聞き入る僕の肩に触れると、そう言いいながら頭上のハッチからの出掛けに、緊張した顔で言葉を続けた。

「ラグエルとイスラフェル、装填が済んだら拳銃を出して、砲塔の上から周囲を警戒するんだ。避難民や落伍兵に反逆者や敵兵が、紛れ込んでいるかも知れないからな。アル、お前もマムートを守っていてくれよ」

 先に軍曹と伍長が車外に出た後に、タブリスの工員のリーダー格らしい指示をして行った。

 車内に残る僕達3人は砲と機銃への装填を済ませると、タブリスの指示に従い、車体や砲塔の上から拳銃を構えてマムートの周囲を防衛隊の兵士と共に警戒した。

 

   5月4日 金曜日 アルテンプラトウ村の駅舎前

「タブリス、道の曲がり角で、アルがいる右角の方を敵に向けて停めるんだ。バラキエル、停車後、ただちに最後尾のスターリンを撃て!」

 タブリスは勢い良くマムートを曲がり角から車体の前半分を出して、僕が座る無線手席側を敵へ突き出すように、急制動を掛けて停めた。

《今、僕は6人の乗員達の中で、敵に一番近い位置にいる。真(ま)っ先(さき)に敵弾が命中する場所だ!》

 僕の右横間近には無線機や車内通話など、電気系の機台が並び、その後ろには、敵に晒している120mm厚の側面装甲板が有る。そして、無線機台と装甲板の間は、食糧や生活用品が隙間無く、ぎっしりと詰め込まれていた。避弾経始が考慮されていない側面装甲板は垂直で、鋼板の粘る硬さと厚みだけで耐えなければならず、やはり、補助装甲の曲面フェンダーが有るのと無いのでは、気持ちの持ちようが全然違っていた。

 僕はぺリススコープから見えるスターリン重戦車の長い砲身から放たれる、徹甲弾の威力を知らないし、想像したくもなかった。

 それに、ソ連兵が鹵獲(ろかく)したファストパトローネを構えて肉迫攻撃して来たら、200mmも貫通する溶解噴流が盾になる無線機材も貫通して、浴びる噴流に僕は、命が助かっても誰だか分らないほどの大火傷を負ってしまうだろう。

 手足が震え、マムートから飛び出して背後のアルテンプラトウの駅舎に逃げ込みたいと思う。

 ペリスコープから見える敵との距離は、約800m。偵察した軍曹達の言っていた通り、1台の4輪装甲車を先頭に、街道の両脇に4輌のスターリン重戦車が千鳥(ちどり)に停車していた。

 装甲車と、その真後ろのスターリン重戦車の砲塔上にソ連の戦車兵が立ち、双眼鏡で辺(あた)りを探(さぐ)って警戒している。

「軍曹殿、入る敵の無線は感度が良いです。会話の調子は普通で、慌てた様子では有りません。ロシア語の意味は分かりませんが、平文(へいぶん)で会話しているようです」

 戦車の中に閉じ込められて始まる初めての戦車戦への緊張で、自分の声は少し震えていた。

「ロスケ共め、戦勝気分でいやがる。バラキエル、まだ戦争が終わっていない事を教えてやれ!」

 見た目の大きさから思いもしない速度で軽(かろ)やかに旋回していたマムートの砲塔がピタリと止まると、僅かに砲身が下げられられた。

「撃ちます!」

 バラキエル伍長の声がレシーバーから聞こえた瞬間、鋭い発射音と衝撃波が車内を圧(あっ)した。レシーバーを付けていても発射音が途中で消え、一瞬で車内の空気が吸い出されて吹き戻って来た。初めて体感した128mm戦車砲の発射は凄(すさ)まじい! 衝撃的な体感に度肝(どぎも)を抜かれながら、視点はぺリススコープの鏡に写(うつ)る徹甲弾の青い曳光(えいこう)を追い続ける。

 装甲車の砲塔上に立っていた敵兵が倒れそうになってしゃがんだ。双眼鏡をこちらに向けて腕を上げようとしたスターリン戦車の砲塔上に立つ戦車兵が、指で弾かれた虫みたいに何処かへ飛ばされて消えた。

 その時の青い曳光は、彼の頭より彼の身長の半分くらい上だったから、マムートの照準はスターリンの砲塔上面より2m以上も上にズレている。

「軍曹殿、2.5m上を、飛び越えているように見えました」

 タブリスが逸早(いちはや)く、目測(もくそく)した弾道のズレ量を伝えた。

「軍曹殿、僕も、そのくらいに見えました」

 僕は2m以上とは言わずに、より正確に目測できるであろうタブリスの意見に賛同(さんどう)した。

「バラキエル、俺にも、そのくらいに見えた。照準を修正して次発(じはつ)を急げ! ラグエル、徹甲弾を装填しろ!」

 戦闘経験の豊富な軍曹と伍長は、傾きを深めた西陽に長く伸(の)びる駅舎の影の暗がりに包まれるマムートが、128mm戦車砲の発射炎を視認しない限り、裸眼で見付けられないからの余裕(よゆう)なのか、落ち着いていた。

「了解! 速やかに照準を修正します。軍曹殿、一輌も逃がしませんよ」

 直ぐに装薬を燃焼させて空になった装薬筒が、開放された尾栓から飛び出してバサッと分厚いキャンバス製の排莢(はいきょう)受けに落ちると、ラグエルとイスラフェルが次弾の装填を始めた。

 鼻腔の奥をツンと刺すように刺激する臭を吸い込んで、排莢と共にカラー印刷の本を焦がしたみたいな臭いの装薬の燃焼ガスが噴き戻して、車内を透明な湯気(ゆげ)のように漂い出したのが分かった。くらっと来た軽い眩暈(めまい)に、この刺激臭が更に濃くなれば、少し吸い続けるだけで、気を失いそうに感じた。

 『カチリッ』、臭いで作業に支障を招くと判断したイスラフェルが、砲塔天井に備えられたベンチレーターのスイッチを入れ、既に作動させていたのに加えて二台のベンチレーターがフル回転して、車内に充満しかけた刺激臭を車外へ排出してくれた。

 チクチクする鼻のむず痒(がゆ)さと、擦れたみたいな喉の痛みを、唾の飲み込みと強く息を吐き出しをして失くす。

 慎重に弾頭と装薬筒を装填する彼らの様子を背後に感じながら、僕は受信にしたままの無線機から入る敵の交信に聞き入る。

「軍曹殿、敵は慌てています。とても早口で、同じ単語を繰り返し言っています。後退しそうな感じがします」

 僅かな抵抗を排除(はいじょ)しただけで、敵は此処まで来たのだろう。僅かに残った国土に追い詰められて包囲されたナチスのドイツ第3帝国は、もう直ぐ数日で降伏してしまいそうな今日、頑強(がんきょう)な抵抗(ていこう)など無いと楽観(らっかん)していただけに、間違いなく破壊と死を齎す大口径弾に狙われていると知って、敵の威力偵察隊は大慌てで逃げ出そうとしているのが、敵の交信から伝わって来た。

「バラキエル、次は外すなよ。最後尾の奴を仕留めて、脱出を阻んでやれ!」

 尾栓が閉じる音がして、ラグエルが報告する。

「装填完了! 安全装置解除。撃てます!」

 微妙(びみょう)に揺(ゆ)れていた砲身が、ピタリと止まり、修正された標準が敵戦車を捕(と)らえた。

「撃ちま……!」

 バラキエル伍長の鋭い声を発射音が途切らせた。衝撃で車内に舞き起こる旋風(せんぷう)が頬や背中を撫(な)でて、瞬間的な低圧に肺が一呼吸、酸素(さんそ)を求めて喘ぐ。

 凝視する真っ直ぐに進む青い光点は、左側奥のスターリン戦車の砲塔基部に吸い込まれて行った。白っぽい火花が散ったスターリン戦車は揺れ動き、徹甲弾頭が命中して、鋼鉄(こうてつ)を『ガン』と貫く音が聞こえて来そうだった。

 『ガラン、バサッ』、役目を果たした装薬筒が排莢受けに落ちる音と、命中弾を受けたスターリン戦車の砲塔が炎に包まれて吹き飛ぶのが同時だった。後進しようとしていたのか、ブワッと排気煙を噴いた車体が道路の中央まで数m斜めにバックして燃え上がった。

「最後尾のスターリンに命中しました! 砲塔が吹き飛んで炎上しています。道路を塞(ふさ)ぎました」

「ラグエル、残りの3輌も徹甲弾で始末(しまつ)するぞ! 装填急げ!」

 装甲車とその後ろのスターリン戦車にエンジンが始動(しどう)した排気煙が見え、動き出そうとしている。

「バラキエル、左側先頭のスターリンを狙え!」

「装填完了! 撃てます!」

「撃ちます!」

 矢継ぎ早の指示と報告が交わされ、一瞬の衝撃と酸欠(さんけつ)が来て、青い光点が装甲車の砲塔に吸い込まれて行き、800mも離れていても黒い穴の開くのが、はっきりと見えた。

 次の瞬間、装甲車の真後ろのスターリン戦車が僅かに揺れて排気煙が消えると動かなくなった。命中した徹甲弾は、装甲車の砲塔の前後を貫通してから、後方にいたスターリン戦車の装甲も貫通して動きを止めさせてしまった。

「軍曹殿! 見ましたか? 凄い威力(いりょく)ですよ! スターリン戦車の、あのゴツイ前面装甲まで貫通しました」

「ああ、全く魂消(たまげ)た貫通力だ、バラキエル。ケーニヒスティーガーのハチハチでも、こうはいかないぞ。さあ、この調子で残りの奴も一掃(いっそう)してくれ」

 この後、バラキエル伍長の興奮した『撃ちます!』の警告(けいこく)と、ラグエルの息を切らす『装填完了』の報告が、レシーバーに2度響き、酸欠と刺激臭の風に巻かれた。

 右側前面にいたスターリン戦車は後退しながら右の家影に隠れようとしたところを、晒した車体右側面を射抜かれて骸になった。高速で飛翔(ひしょう)する30kg以上も重量が有る弾頭の命中で、瞬間、引っ張られるようにサスペンションが伸びてスターリン戦車が持ち上がっていた。

 最後の右側後方にいたスターリン戦車は、マムートに向けて122mm戦車砲の徹甲弾を放ってから後退を始めたけれど、後進は最初に撃破されて道路中央で炎上するスターリン戦車の車体に阻まれ、それを衝突(しょうとつ)しながら押し退けて、強引に擦り抜けようとした遅い動きになったところを、砲塔前面の防盾を貫通された。後進の動きは止まり、燃える戦車の火が命中弾の衝撃で漏れた燃料へ移ると、あっという間に車体全体が猛烈(もうれつ)な黒煙を上げる炎で包まれた。

 放たれた赤く光る敵弾は真っ直ぐに僕へ向かって来て、ググーッと大きな紅球(こうきゅう)になって迫ると、直前で上へ逸(そ)れてマムートを飛び越え、アルテンプラトウの駅舎の壁の一部を崩した。

 装甲火力の全滅で、追従(ついじゅう)していた敵歩兵達は、乗って来たトラックを捨てて東方へ駆けて逃げて行く。

 その敵兵達を、今まで戦闘の推移(すいい)を見ながら防衛陣地に潜んでいたドイツ兵が一斉に狙い撃ち、次々と倒していった。武器を投げ捨てて両手を高く挙(あ)げる、投降の意思を示すソ連兵も容赦(ようしゃ)なく撃ち殺していた。

 数km西方のエルベ川河畔へソ連軍が到達すれば、戦争は終わるのに、明日はアルテンプラトウとゲンティンの街がソ連軍に蹂躙されて降伏するかも知れないのに、降伏すれば、ソ連軍に全住民が報復されるのに、それでも、防衛隊の戦士達は、目の前を東方へ逃げる蛮族を追い駆けて、撃ち倒し続けるのを止めようとしない。

 マムートの戦闘は一方的だった。

 駅舎の影に隠れた奇襲(きしゅう)攻撃だったけれど、弱いと思われる車体後部を晒さずに1発の被弾も無く、徹甲弾5発の消耗で1台の4輪装甲車と4輌のスターリン重戦車を撃破できた。

 結果、防衛隊はソ連兵を駆逐(くちく)してブラッティン村とロスドルフ村を奪還できた。

 マムートがスターリン戦車の口径122mmの徹甲弾に、どれくらい抗(あらが)えれるのか分からないけれど、分厚い装甲は、きっと僕達を守ってくれる。

 圧倒的な戦果を目の当たりにして、メルキセデク・ハーゼ軍曹の敏速な判断と適切(てきせつ)な指揮に、バラキエル伍長の卓越(たくえつ)した射撃能力と強力な主砲。タブリスの慣熟(かんじゅく)して来た操縦テクニックと軽快な走行性能。マッチョな体格で力持ちのラグエルとイスラフェルが落ち着いて行う、重い弾丸の装填。彼らが為すべき事を1つ、1つ、正確に行ったチームワークの結果だと、はっきり僕は悟った。

 無線機の周波数しか調整できない非力な僕は、このマムートに搭乗するならば、シュパンダウの烏合(うごう)の衆(しゅう)の1人ではなく、乗員として職務を完遂(かんすい)すると心に誓った。そして、必ず戦い抜いてエルベ川を生きて渡れる望みと自信を持った。

 

 後編へ続く

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搭乗人物  《年齢は1945年5月7日時点》

超重戦車E-100Ⅱ《ツヴァイ》 ザ・マムートの搭乗員

車長:メルキセデク Melchisedek《平和》・ハーゼ Hase《兎》

 武装親衛隊の戦車兵軍曹 車長経験者 1926年3月生まれ 満19歳

砲手:バラキエル Barachiel《雷》・リヒター Richter《裁判官》

 陸軍戦車兵伍長 砲手経験者1927年1月生まれ 満18歳

弾頭装填手:ラグエル Raguel《友》・ベーゼ Boese《悪》

 クルップKrupp社の工員1928年2月生まれ 満17歳

装薬装填手:イスラフェル Israfil《喇叭(らっぱ)》・バッハ Bach 《小川》

 クルップ社の工員1928年10月生まれ 満16歳

操縦手:タブリス Tabris《自由》・クーヘン Kuchen《ケーキ》

 クルップ社の工員1928年3月生まれ 満17歳

無線手:アルフォンス Alfons《守護》・シュミット Schmitt《鍛冶屋》

 ヒトラーユーゲント《HJ》の小国民隊の隊員 1930年11月生まれ 満13歳

 

ビアンカ Bianca《未来》・フライターク Freytag《金曜の美神》

 アルフォンスの同級生でドイツ少女団《BDM》の幼女隊の隊員で中隊指導者補佐だった女子 1930年4月生まれ 満14歳

 妹《ヘンリエッタ Henrietta 1937年9月生まれ 満7歳》と弟《フリオ Julio 1939年6月生まれ 満5歳》が同行

 

其の他大勢

避難民、工場作業員、行政官、ドイツ軍将兵、国民突撃隊員、ヒトラーユーゲント《HJ》の団員、ドイツ女子同盟《BDM》団員、ソ連兵、アメリカ兵など

 

 

前編 時系列

1945年

3月29日 木曜日 曇りのち晴れ

パーダーボルン市のクルップ社の工場から鉄道移送

 午後6時 平床貨車に積まれたマムートと無蓋貨車に載せた備品は、パーダーボルン市の工場から鉄道輸送でベルリン市のクルップ社へ向けて移送開始。《移送は夜間のみ》

 

4月2日 月曜日 晴れ

マグデブルク鉄橋手前の退避線

 午前4時半 エルベ川のマグデブルク鉄橋手前の退避線で、年輩の熟練工員の3人が脱走。しかし残った若手工員3人で移送を継続。

 

4月5日 木曜日 曇り

ブランデンブルク市のオペル社の工場

 午前4時 ソ連軍が接近するベルリン市のクルップ社を避けて、ベルリン市西方のブランデンブルク市のオペル社の工場へマムートは運ばれた。

 

4月7日 土曜日 曇り

ブランデンブルク市のオペル社の工場

 午前6時 形にされた砲塔と主砲と装備部品がベルリン市のクルップ社の工場から運ばれる。以後、4月29日まで、砲塔の作動試験と主砲の取り付けの調整と加工修正が繰り返えされる。

 

《マグデブルク市がアメリカ軍に占領される》

 

4月20日 金曜日 曇り

ベルリン市のシュパンダウ地区

中学校最終学年の14歳と15歳のヒトラー・ユーゲント隊員達は召集されて、接収された小学校で国民突撃隊の兵士として軍事訓練を受ける。

携帯火器の取り扱いと体力作りのみの応急的で簡易な軍事教練は、4月23日まで授けさせられた。

 

4月24日 火曜日 曇りのち俄雨

ベルリン市のシュパンダウ地区の大通り

 午前6時 携行食糧が配れ、ヒトラー・ユーゲントの隊員は小学校から大通りの交差点へ移動。

 午前7時半から午後5時 交差点に路面電車を並べてレールの杭で固定する。

 守備場所の大通りの爆弾穴で就寝。

 

4月25日 水曜日 曇りのち晴れ

ベルリン市のシュパンダウ地区の大通りの塹壕

 午前7時から午後3時 固定した路面電車を瓦礫で固めて対戦車障害物として完成させる。

 午後3時から午後6時 守備場所の爆弾穴に塹壕を掘る。

 午後6時半 ファストパトローネが配られる。

 

4月26日 木曜日 晴れ

ベルリン市のシュパンダウ地区の大通りの塹壕

 午後3時 塹壕線がソ連軍に砲撃される。

 午後3時半 路面電車を圧し潰して敵の戦車と歩兵が攻撃して来て、塹壕に潜むヒトラー・ユーゲント隊員達は、アルを残して全滅。

 午後3時40分頃 アルはファストパトローネで反撃してソ連軍の動きを停める。

 午後5時頃 大道りから逃げたアルは、西方へ逃れる避難民達に紛れてベルリン市を脱出。

 

4月27日(金曜日)曇りのち雨

シュパンダウ地区からブランデンブルク市の大学病院へ

 午後5時過ぎ 夜通し、携行食糧の残りを齧りながら避難民達と歩いて来たブランデンブルク市の

大学病院で、炊き出した食べ物が配られる列に並ぶ。

 

(ベルリン市のシュパンダウ地区がソ連軍に占領される)

 

4月28日(土曜日)

ブランデンブルク市のオペル社の工場

 午前7時半 陸軍病院で手当てを受けたメルキセデク軍曹がダブリスに懇願されてマムートの車長になる。

 午前8時 アルはブランデンブルク市の大学病院の玄関脇に居るところを、ダブリスと車長のメルキセデク軍曹にオペル社の工場へ連れて来られる。

 午前10時 マムートにアンテナを取り付けて無線機の送受信を調整する。ラグエルとイスラフェル・バッハは装填を想定した訓練を繰り返す。

 午後1時 工場の車内残存品倉庫と輜重部隊の倉庫へメルキセデク軍曹と一緒に行き、機銃と携帯火器と弾薬に食料品と生活用品を調達する。

 午後4時 メルキセデク軍曹と一緒に同軸機銃と対空機銃を取り付ける。

 

《ゲンティン駅から西方への次の駅になるブルクの町の共産主義者達と民主主義者達が、ソ連軍を無抵抗で向かい入れる》

 

4月29日 日曜日 曇り

ブランデンブルク市のオペル社の工場

 午前7時 戦闘糧食とマムートの迷彩用塗料の調達。

 午後2時 修正された砲身が砲架に組み込まれる。

 午後4時 砲塔が車体に載せられる。

 午後4時半から6時 6人全員で迷彩塗装をマムートに施す。

 

4月30日 月曜日 曇り

ブランデンブルク市のオペル社の工場からゲンティン駅へ

 午前8時 砲手のバラキエル・リヒター伍長が連れて来られる。

 午前9時 主砲の点検操作と稼動試験と仮標準調整。

 午前10時から12時 工場のリフトを使い、弾頭と装薬筒をマムートに積み込み作業。

《徹甲弾頭25発、榴弾弾頭5発、装薬筒30本。規定より5発分多く搭載する》

 午後1時から午後4時 工場敷地内で機動訓練。

 午後4時 平床貨車へマムートを積載する。

 午後7時 避難列車に連結してゲンティン駅へ移動開始。

 

5月1日 火曜日 薄曇り

ゲンティン駅の駅前広場

 午前2時半 マムートを摘んだ平床貨車がゲンティン駅に到着。

 午前3時半 平床貨車から貨物用プラットホームに、それから駅前広場へとマムートを移動させる。

 午前4時半から6時 明るくなりきる前に伐採した街路樹の枝で、マムートをカモフラージュする。

 午前6時から9時半 2台のクレーン装備の牽引車が協力して、無蓋貨車から備品を降ろし、戦闘用履帯を伸ばして並べる。そして、それらもカモフラージュする。

 午前9時から午後6時 敵機の襲来を警戒しながら外側転輪の取り付け。

 

《ブランデンブルク市がソ連軍に占領される》

 

5月2日 水曜日 薄曇り

ゲンティン駅の駅前広場

 午前6時半 無線機で聴いていたラジオ放送が、総統はベルリン市の市街戦で戦死したと報じる。

 午前7時から午後6時 敵機の襲来を警戒しながら戦闘用履帯に交換。

 

《ベルリン市全域がソ連軍に完全制圧される》

 

5月3日 木曜日 晴れ

ゲンティン駅の駅前広場

 午前7時から午後6時 敵機の襲来を警戒しながら戦闘用履帯に交換と、砲塔側面のフックに予備履板を掛ける。

 

 午後5時過ぎ 夕暮れの薄明かりの中を歩くビアンカと家族がいる避難民の列を、ソ連戦車隊が横断して行き、其の際に、母が足に怪我を負ってしまい、陸軍の野戦病院へ運んだ歯はの付き添いに父が残った。そして、両親はビアンカに妹と弟と共にエルベ川を先に渡っていろように指示する。それで、ビアンカ達3人の子供は両親と離れてしまう。

 

5月4日 金曜日 曇りのち晴れ

ゲンティン駅の駅前広場からアルテンプラトウ村の駅舎前へ

 午前6時から午後2時 カモフラージュの補完と整備確認と休養。

 午後2時 低い千切れ雲が多い空を対空監視しながらフェアヒラント村を目指して低速で移動開始。

 午後4時半 アルテンプラトウ村の駅前から東隣のブラッティン村へ進出したソ連軍の威力偵察隊を撃破。

桜の匂い (私 大学三年生)桜の匂い 第十章 壱

 いつか使いたくてウズウズしていたスタンガンを、勢(いきお)いに任(まか)せて思いっ切り電撃させまくった『危(あや)うし乙女(おとめ)の夜』以来、私の苛付(いらつ)いた気分は無くなった。スタンガンは今も催涙(さいるい)スプレーやフォールディングナイフと共に、バックの底に入っているけど、あれから一度も使っていない。

     *

 明日は、落とせない大学の授業があるから、どうしても今夜の飛行機で金沢(かなざわ)市から相模原(さがみはら)市へ戻(もど)らなければならない。それは学業として大事な授業だけど、大学の敷地内に在る付属病院で、先日、偶然(ぐうぜん)に見掛けた事象(じしょう)が自分の将来に不安と迷(まよ)いを持たせて、医療(いりょう)技師(ぎし)の仕事の魅力(みりょく)を急速に失(うしな)いつつあった。

 最初それは、噯(おくび)が出るような軽い不快(ふかい)感で、私は敢(あ)えて気に留(と)めないようにしていた。だけど意識して忘(わす)れようとすればするほど、目に焼き付いた場面が思い出されて圧迫(あっぱく)されるようなムカつきを感じた。日が経(た)つに連れてムカ付く気持ち悪さは酷(ひど)くなり、今では思い出すだけで、吐(は)きそうになるくらい嫌悪(けんお)している。

 スタンガンで始末(しまつ)したファーストキスのザラつきとは異質に違う。排除(はいじょ)した卑劣(ひれつ)な先輩のとは違う意味の嫌悪感に私は悩(なや)まされていた。でも、この迷いも、悩(なや)みも、彼なら救(すく)ってくれると思う。

(あなたは、私の守護神(しゅごしん)でしょう。私を助けて……)

 それよりも、まだ彼と出逢(であ)えていなかった。予感は有るのだけど見付けられない。学業の悩みなどよりも、今の、私の最優先事項は彼を探(さが)して出逢う事だ!

 いつも、いつの間にか、無意識の内に私は彼を探している。相模原でも、横浜(よこはま)でも、そして今、金沢でも……。通り一つ一つで、角(かど)を曲がる度(たび)にも、いるはずがないと分かっていても、もしかしてと思いながら彼を探していた。視線の配(くば)りが、焦点(しょうてん)の合わせが、自然と彼を捜(さが)していた。

     *

 以前、前まで行った事が有る彼の金沢市の住所を再(ふたた)び年末に行ってみたけれど、もうそこには、私の覚(おぼ)えていた入母屋(いりもや)造(づく)りの家は何処(どこ)にも無くて、違う苗字(みょうじ)の表札で真新しい洋風の家が建(た)っていた。彼の家族は去年に引っ越していて、その新築の家の人に行方(ゆくえ)を訊(たず)ねてみたが、転居先どころか以前の土地所有者の名前さえ知らない無関心さに、何だか虚(むな)しくて切(せつ)ないセンチメンタルな気持ちになってしまう。

 私も同じだ。他人をロストするのも自分をドロップアウトするのも、またその逆(ぎゃく)も簡単な事だ。私は彼をワザとロストして、携帯電話内の登録リスとから彼の電話番号とメールアドレスを消去(しょうきょ)した。彼とのメールの遣(や)り取りの全(すべ)てをメモリーから消し去った。掛けない電話番号にいちいち打ち込まないメールアドレスなんか記憶しているはずもなく、削除(さくじょ)したメールアドレスに違法なGPSサーチでも居場所を探る事はできない。

 彼と全然関係の無い人達が住む真新しい家を見ながら思う。以前、彼はこの場所に住んでいて、ここから毎朝、私と同じバスに乗り込んで来た。明千寺(みょうせんじ)へもここから来たのだ。

(彼はここで、どんな暮(く)らしをしていたのだろう? 何を考え、どんな思いで毎日通学していたのだろう?)

 私は過去の記憶へ想いを馳(は)せる。だけど、もう彼はここにいない。自分の感情に素直(すなお)になって気持ちを受け入れ、初めて彼の住まいを訪ねると、既(すで)に彼も、彼の家族もいなくて、家すらも無くなっていた。現実は厳(きび)しく、決(けっ)して思い通りにさせてくれない。

 私は彼を意識していたけれど、ワザと私の中で重要な位置付けへ置いていなかった。私は気持の中で彼に好意を持つ事を否定(ひてい)していたから、携帯電話番号も携帯メールアドレスも暗記(あんき)していないし、メモすらもしていなかった。

(彼を失ったのは、自業自得(じごうじとく)だ!)

 年明け早々(そうそう)に、うろ覚えの彼のメール内容から静岡市の会社をインターネットで探し出して連絡をしてみた。彼について分かったのは年末に一身上(いっしんじょう)の理由で退職した事だった。

 退職後の消息(しょうそく)は、『たぶん金沢に帰って、お父さんの仕事を、お手伝いしていると思います』と、応対の電話に出た女性が話してくれた。

 そして、私が誰(だれ)なのか確信しているように、『あの人を、大切にしてあげて下さい』と言って、彼の電話番号を訊(き)く間も無く、一方的に電話を切られた。

(ちょっとぉ、この女なに? あの人? 彼の事情に詳(くわ)しいじゃん! 彼と、どういう関係なの? 感じ悪(わる)!)

『あの人を……』、彼を示(しめ)す、その言い方が気に障(さわ)り、私をザワつかす。

(電話の応対に出た女性は、彼と親しい間柄(あいだがら)だった? ……のかも知れない)

 私の女の感が、彼とはただならぬ関係だったと悟(さと)らせた。言葉から関係が過去形だと伺(うかが)い知れて、それに、私へ譲(ゆず)ったかのように彼を御願(おねが)いしていた。しかも、自分から身を退(ひ)いたような言い方だった。それを問い質(ただ)そうとして、携帯電話画面のリダイアルアイコンに触(ふ)れたけれど、思い直してキャンセルを押(お)す。

(彼に訊けばいい。彼を見付け出したら、問い質して遣ろう)

     *

 彼と連絡を取ろうとした電話の応対で出た女性は、彼の呪詛(じゅそ)がかった酷い中傷(ちゅうしょう)と侮蔑(ぶべつ)のメール『酷い目に遭(あ)わされて棄(す)てられるさ。その時になってから、僕を振った事を後悔しても遅(おそ)いぞ!』と共に、彼を探し出そうとするモチベーションになった。

『彼は金沢へ帰った』と、電話応対の女は言っていた。

 だけど今まで、本当に彼が金沢市に戻っているのか確信を持てなかった。でも今日は不思議(ふしぎ)だけど彼の気配を感じて、出逢える予感がしている。

 満開の桜の中、彼が興味を持っていた金沢城内を巡(めぐ)り歩いてから二十一世紀美術館内の白いカフェへ来た。いつか金沢城の門や櫓(やぐら)のミニチュアを作りたいと彼は言っていた。私が折(お)った流れ旗はそのままに、相模原の部屋で埃(ほこり)を被(かぶ)る西洋城館のミニチュアを思い出す。捨(す)て切れなかった彼の作品。

 あの日、彼と来たカフェの同じ席に着き、あの日と同じプレートをオーダーする。熱いクリームスープが絡(から)んだブリオッシュを口に運びながら、向かいの席に座っていた伏せ目勝ちの彼を思い出してしまう。

『普通に、しゃべれるんだね』

 この私の不用意な一言で急に彼の眼(め)が泳(およ)いで無口になり、背中の痛みの所為(せい)も有ったと思うけれど、オーダーした料理に彼は殆(ほとん)ど手を付けてくれなかった。その後も空の珈琲(コーヒー)カップを握(にぎ)り続ける彼の俯(うつむ)く顔の瞳(ひとみ)を思い出す。やはり無神経な一言だった。

 春だというのに暗(くら)くどんより曇(くも)った空の下、二十一世紀美術館を出た途端(とたん)、湿(しめ)り気と冷気を帯びた風が身体に纏(まと)わり付く冷たさに、私はブルっと震(ふる)えた。

 白いカフェで温(あたた)かいカフェ・オ・レを飲んだばかりだというのに、二十一世紀美術館前に出店していた小型のワンボックスカーの移動カフェで再び暖(だん)を取る。

 逢いたいくせに、会いに来たと知られたくない。出会うべくしての出会いじゃなくて、偶然ばったり逢うのが爽(さわ)やかでいい。探していたなんて知られたくない。温かい豆乳カフェキャラメルを飲みながら巡らした想いで気持ちが塞(ふさ)ぎ沈んでしまう。そんな私の気持ちを暖(あたた)めるかのように陽射しが照(て)り付け始めた。

 見上げると雲が千切(ちぎ)れて疎(まば)らになった空に澄(す)んだ青色が広がっていた。大気が動き出している。辺(あた)りの景色(けしき)が一変に明るくなって、暖められた優(やさ)しい風が春の麗(うら)らかさを乗せて来て頬を擽(くすぐ)る。風が変わった。この感じ……、予感が広がって行く。春風は冷気を吹き払いながら、片町(かたまち)や香林坊(こうりんぼう)から柿木畠(かきのきばたけ)や広坂(ひろさか)通りを抜(ぬ)けて、小立野台へ吹き上げて行く。

 風が光り、その風の中に彼と同じの匂(にお)いが薫(かお)った。……彼を感じた懐(なつ)かしい匂いが出会いの予感を強くさせて、私の全身をプルプルと小刻(こきざ)みに奮(ふる)わせている……。近くに居(い)る彼を知って、素直になれない心に『正直になれ』と、私の身体は彼との触れ合いを求めていた。

(広坂通りを下がり、香林坊へ行ってみよう)

 私は匂いを運んで来た風の方へ向う。風の中に紛(まぎ)れる微(かす)かな彼の匂いを頼(たよ)りに、彼の行きそうな場所の在る通りを歩いてみようと思った。

 途中、市役所前の横断歩道の縁(ふち)で立ち止まり、彼の笑わない顔を思い出す。

(ここで彼は、乗り込んだタクシーのリアウインドー越しに痛い体を振り向かせ、いつまでも私を見詰め続けていた……)

 あの時、私は横断歩道の中程で渡った辰巳(たつみ)用水の傍(かたわ)らで、彼が乗るタクシーが見えなくなるまで、彼の顔を、瞳を、……見ていた。

 香林坊の鞍月(くらつき)用水沿いの裏通りを通って長土塀(ながどべい)まで来た。ここまで来ると彼の匂いを感じられない。

(違う……、ここじゃない。もうここにはいない)

 この辺りにいると感じていたのに彼を見付けられない。彼は風下へ移動している。心は騒(さわ)ぐ。

 彼は、片町のスクランブル交差点を渡(わた)り犀川(さいかわ)大橋へ? あるいは竪町(たてまち)を抜け、新竪町(しんたてまち)を通って桜橋へ? それとも柿木畠を、私がさっきまでいた二十一世紀美術館へと行ったのだろうか? 彼の向かいそうなルートを選ぶ。

(一人で犀川の川縁(かわべり)には行かないわよね。いくら岸辺の桜が満開でも、彼は一人じゃ行かないよねぇ)

 今日、彼は一人でいると勝手(かって)に決め付けていた。中学校での人気や弓道(きゅうどう)でのモテ具合から、連絡を取っていた女子がいてもおかしくない。そんな女子と金沢に戻ってから急速に親(した)しくなっていて、今日はデートしているのかも知れないのに……。静岡市の会社の電話に出た女のような恋人が、金沢にいても不思議じゃない……。

 でも……、私の想像する彼はいつも一人でいた。私は理由や根拠(こんきょ)も無く勝手に、そう確信して信じていた。故意(こい)の拒絶と自然な寛容(かんよう)を繰り返し、彼とのラストタイムは一方的な絶対拒絶で終焉(しゅうえん)している。全く私の独(ひと)り善(よ)がりも良いとこだ。

(どこかで行き違ったのかも知れない。……戻ろう。彼の懐かしい匂いがした場所へ……、彼を感じたところへ)

 彼は見てくれだけの安易な場所は選ばない。常にクリエイティブであり、イマジネーションを高め、インスピレーションが湧(わ)くように努(つと)めていたのを、私は分かっている。絶対にそんな場所へ彼は行く。

 焦(あせ)る気持ちで私は二十一世紀美術館へ戻る事にした。戻りのルートは彼の趣味と趣向から柿木畠の路地(ろじ)を選んだ。

(二十一世紀美術館に着くまでに彼と逢えなければ、兼六園下(けんろくえんした)からバスに乗り、金沢駅へ向かおう)

 二十一世紀美術館に着いたら、そこで……、それで、彼の捜索は終りにする。そして私は駅周辺で程々に時間を潰(つぶ)してから、小松空港行きのリムジンバスに乗るだろう。突発的な問題がルートに起きなければ、相模原の部屋へは夜半前に戻れるだろうと考えていた。

 次は夏休みに金沢へ帰って来る予定。その時も今日のように彼の気配や匂いを感じられるか分らない。

 出逢えない時間の経過(けいか)に想いが薄れ、離れる気持ちは彼の切れた糸を手繰(たぐ)り寄せようにも、糸を見させてくれない。既に彼の糸は別の新しい糸と繋(つな)がっていて、私の彼と繋がる望(のぞ)みを叶えるには遅過ぎてしまう。そして、その先の長い人生で再び二人が交(まじ)わる事は無い。

(ずっと彼を追い詰めていた私に相応(ふさわ)しい、虚しくて、寂(さび)しい、そして悲(かな)しい結末だ)

 そうならない為にも私は、心から彼と出逢いたいと切に願った。

(お願い神様。彼に会わせて……)

 香林坊坂下の信号を渡り柿木畠の通りに入る。通りは千切れ雲の影で薄暗(うすぐら)いけれど、小さなブティックが犇(ひし)めく通りは春のウィークエンドらしく、多くの人が行き交(か)っている。私の瞳は次々と現(あらわ)れる人達の中に彼を探す。

(んん!)

 柿木畠の広見(ひろみ)の向こう、狭(せま)い通りから歩いて来る一人の男の人が目に留まった。その人は私と同じくらいの歳で上背(うわぜい)が有り、落ち着いた感じのカジュアルウエアはシックな色合いにコーディネートされ、品藻(ひんそう)良く見える。

(彼……?)

 彼のように見えたけれど違ったのかも知れない。男性の独り善がりじゃないセンスの良さが、私の記憶を惑(まど)わせて彼なのか、判断を鈍(にぶ)らせた。疑(うたが)うように目を凝(こ)らしながら視線を流そうとした。

 だけど、流れて行くはずの私の視線は流れずに、暈(ぼ)かして深度を変えるつもりの瞳のフォーカスはピンポイントに絞(しぼ)られて行く。目を凝らすと、直(す)ぐに見間違いじゃないと分かった。

「あっ!」

 思わず悲鳴のような声が小さく漏(も)れて、そのまま息が詰まってしまう。

 その時、空気が彼の匂いに変わり、まるで世界が静止したかのように、とてもとてもゆっくりと動いて、連続していた時間や音が点にしか感じられなくなった。色彩豊(ゆた)かな明るい光の粒(つぶ)で構成された一枚の絵のように見える。頬を擽るように優しく触れているのは風だと思う。

 全てが切り取られたかのように止まって見える今、時間の中に瞬間が在るのではなく、瞬間の中に時間が在るという異質な考え方も解(わか)るような気がした。明るく光る絵のように見える瞬間の中心に彼がいて、その瞬間の中で私は彼を見ている。時間がアニメーションのセル画のように一つ一つの瞬間の連続だとしたら、彼に気付いた瞬間が、私の瞬間が連続していた時間を一瞬だけど確(たし)かに静止させた。

 一瞬の静止画は直ぐにコマ送りのように動き始め、連続する繋ぎ目の無い画面はいつもの滑(なめ)らかな動に戻った。そして私の視界の真ん中に彼がいる。

 でも、視界の真ん中に見える彼は、以前の彼じゃない。

(見付けた! でも、本当に彼なの?)

 私の五感の意識は彼だと認めているのに、以前のイメージと違い過ぎる外見の彼を私の想いが、まだ疑っていた。

 そのイメチェンした彼を認めたくないのに、こちらへ歩いて来るのは確かに彼だ。胸がドキドキして私の想いが塗り替えられて行く。彼の新たな色に想いが染まるのといっしょに、私の中でピアノが聞こえた。小学六年の音楽の授業で弾けなかった二曲目。私は短い坂の下に在る小さな公園の前で立ち止まった。

 彼のファッションセンスが違っている。自分の都合(つごう)だけの楽な格好(かっこう)じゃない。自分をアピールしていっしょに集(つど)う人達に気持ち良く受け入れられる服装だ。大桟橋(おおさんばし)の時よりも、ずっと洗練(せんれん)されてクールに見える。

(イメージチェンジは、自分で気付いて、学(まな)んだのかしら……?)

 いや違う。絶対に誰かにアドバイスされたセンスが身に付いている。彼の歩き方も以前とは違う。

 どこと無く妙(みょう)に落ち着いて、しっかりと地に足の着いた物腰(ものごし)に感じた違和感(いわかん)が、私の知らない彼を詮索(せんさく)させる。

(なに? その腰の落ち着きは……! さては女を知ったかな……? ファッションセンスを変えさせた相手は、同じ、あの電話の女性? えっ、なになに! ……彼を変えさせるなんて……、あの女は何なのよ?)

 やはり電話の応対に出た女性は、彼とただならぬ関係だったのだと分からせ、彼に多大な影響を与えたのを私に見せ付けた。

(今も、関係が続いているのかしら? でも、電話の女性は『あの人を大切にしてあげて下さい』と、私に言ったじゃない。だったら、今は……)

 電話の女性と終わっているのか、そもそも親密な関係だったのか、確信が持てなかった。それに、さっきも考えたように金沢で親しくしている女性がいて、これからデートへ向かう予定で今はたまたま一人でいるだけなら、私は軽(かる)い挨拶(あいさつ)を交わされるか、素通(すどお)りで無視されてしまう。そして、彼は既に私への想いなど失っているのなら、もう、どうしようも無いかも知れない……。

 いくら私が一方的に彼を切り離していたとしても、僅(わず)か一年半足らずで彼を変えてしまうほどの女性が彼にいた事と、彼が私より先にディープな異性関係を経験しているだろうと思える事、それに、彼を変えたのが私じゃなかった事に、とてもショックを受けたけれど、今は、それより先にすべき事が有る。

(すべき事が叶(かな)った後、それはいつでも訊けるわ……)

 彼は私に気付いた!

 驚きと戸惑(とまど)いと気不味(きまず)さが、彼の顔に次々と表れて表情が歪(ゆが)む。彼は躊躇(ためら)うように立ち止まり、俯いてから祈るように空を見上げた。

 でもそれは一瞬で、直ぐに私を見据(みす)えて意を決したように、しっかりした足取りでゆっくりと近づいて来る。

 太陽が雲から抜け出て辺りを春の陽の淡(あわ)く麗らかな光りで満たしていく。

(私が一方的に断絶した一年半、彼はどう過ごしていたのだろう?)

 暖かな光りで明るく照らされた彼の顔が違って見える。大人びた精悍(せいかん)さが有った。弓道場で見た凛々(りり)しさじゃなくて、生活感が漂(ただよ)う逞(たくま)しさだ。

(女性の事にしても、私の知らない、いろんな事が有ったのだろうな……)

 私を見据える彼の瞳は、彼の意思と春の陽射(ひざ)しに輝(かがや)いている。

(彼はいつも夢を持って目指している。……夢を諦(あきら)めない)

 私はそれを羨(うらや)ましく思っていた。

「やっ……、やあっ……」

 彼の少し微笑(ほほえ)んだ顔の唇(くちびる)が動いた。私は黙(だま)って会釈(えしゃく)をする。

「久しぶり、金沢に来ているんだ」

 まるで県外に嫁(とつ)いでいったクラスメートだった女子に、同窓会で再会した時に言うような挨拶だ。挨拶の言葉に彼を遠くに感じてしまう。

(ああっ、やっと逢えたのに、そんな言い方をしないで)

 他人行儀(たにんぎょうぎ)な彼の挨拶にショックを受けながら、余裕の有る寛大で尊大(そんだい)な挨拶を返そうと努める。

(さあ、さり気無くクールに話すのよ。私)

「あなたの番号とアドレスを消してしまったの。電話も、メールも、履歴(りれき)を全部削除(さくじょ)したの。私の電話番号とメールアドレスも変えたわ」

(私、いきなり何を言っているの。全然クールじゃないわ。また彼に酷いことを言っている)

 彼は戸惑い、薄く微笑んだ顔が悲しみで溢(あふ)れた。

「だから、あなたにメールできなくしたの」

(違う、なに駄目(だめ)押(お)ししているの! こんな話をしちゃだめ)

 さり気無くクールに言おうと思うほど、歯切(はぎ)れ良く酷い言葉が出てしまう。言葉が上手(うま)く見付からない。気持ちが高まり、胸が一杯になった。息がうまくできない。

「そうだったんだ。全然繋がらないから、たぶん、そうじゃないかと思っていたよ。僕は君に随分(ずいぶん)と嫌われていたんだな」

 悲しみに寂しさを重ねられた表情の彼は、そう言って直ぐ近くの広見脇に在る小さな公園へ行くとオブジェのようなベンチに座り、俯いて両手で顔を覆(おお)った。

「君の気持ちを全く考えていなかったんだ。僕の都合だけの好意は一方的だった。君を、どうにか僕だけの女にできたと、苦労してやっと手に入れた宝物のように、僕の全てと引き換(か)えにしてもいいと思ってしまっていた」

 彼は声を少し震わせながら素直な気持ちで話している。

(もうクールなんて、どうでもいい。私も素直に……、素直に私の心を伝えるのよ)

「違うの。そうじゃないの。私が間違っていたの。ずっと、あなたを探していたわ」

 彼の顔が暈やけて来て良く見えない。私はしゃべりながら泣(な)いている。

「僕は、何度も君にフラれたよね。その度に、どうすれば君に好(す)かれるのか悩んで、好きになって貰(もら)えるように努力したんだ」

 彼は私を見ながら穏(おだ)やかな口調で静(しず)かに、でも、はっきりと聞こえるように話す。

「君への想いが強くなる一方で、益々(ますます)話し掛け辛(づら)くなって、察(さっ)しも、思い遣りも、気配(きくば)りも、失っていた……。すまない。心から謝(あやま)るよ。でも、想いが再びってわけじゃないから、もう安心してくれ」

 私が見詰め返しても、その瞳は逃(に)げない。

「君が元気そうで何よりだよ。……幸(しあわ)せなんだろう?」

(まだ……、幸せになってないよ……)

 彼の涙ぐんだ瞳は、優しい眼差(まなざ)しで私を見詰めている。だけど、彼の視線は私を通り越して遠くを見ている気がして、頬(ほお)をポロポロと温かい涙が、いくつも、いくつも、流れ落ちて行く。

「最後のメールで送った『幸せになってください』は、着信拒否されてしまったから、手紙を出したんけれど、届いて読んで貰えたか分からなかった……。今も君の……、幸せを祈(いの)っているよ……」

 私を見上げる彼の暈やけた顔からは、とても悲しんでいるのが分かる。

(そうじゃない……、彼はまだ、わかっていない)

「私、わかったの」

 もう泪(なみだ)で滲(にじ)んで彼の顔が見えない。

(どんな顔で私を見ているの。でも、嫌(きら)われていても、はっきりと彼に伝えなくちゃ)

「あなたが、私を大切にしていたことが…… どんなに大事にしてくれていたのか、気が付いたの」

 私は彼の前に跪(ひざまず)いて彼の手を握(にぎ)った。話しながら彼に顔を近付けていく。彼の顔をもっと良く見たい。

(私に、あなたの顔を、もっと良く見せて)

 彼は驚(おどろ)いた顔で私を見詰めていた。

「あなたは、私が嫌いな、私の残酷(ざんこく)で冷たい部分を、いつも受け止めていてくれたわ」

(それを私は、ずっと気付いていなかったの)

「僕は、君を嫌(いや)な人だと思ったことはないよ」

 彼は、私の手を握りかえしてから、乱(みだ)れて垂(た)れ下がった私の髪(かみ)を分けて頬に触れた。陽射しのように暖かで安(やす)らぎを感じる手だ。初めて彼から私に触れた。

(暖かい……、もっと私を温めて)

「僕は、君に好かれたくて足掻(あが)いていただけなんだ。僕はいつも不安だった」

 彼の手が小さく震えている。

「あなたを内心、バカにしていたわ。でもそれは間違(まちが)っていたの。あなたは私にいつでも一生懸命(いっしょうけんめい)だったわ」

 涙が一杯流れている。手で拭(ぬぐ)うけど拭い切れない。

「君に嫌われないようにしていたんだ。嫌われるのが怖(こわ)かった。でも、そうなってしまったよ」

 涙が彼の頬を伝う。彼も泣いている。

「僕でなくても……、君に…… 相応(ふさわ)しい人がいるよ」

 自分へ諭(さと)すように言う彼が、愛(いと)おしい。

「ううん。気付いたの。私、あなたが好きだったの。好きなのがわかったの」

 彼は信じられないという顔で私を見ている。

「あなたじゃないと嫌なの。……じゃないと私、ダメなの」

 鼻声で、悲しさや戸惑いや嬉しさが、複雑に入り混(ま)じった優しい顔の彼に問(と)う。

「……まっ、まだ、間に合うの? 私、まだ間に合う?」

 手足の指先から頭の奥や身体の芯(しん)まで掻(か)き集めた私の勇気を全部出して、顔が強張(こわば)るのを感じながら彼に訊いた。やっと言えた自分の声は小さく震える身体と同じで、か細く震えている。焦りと不安が絶望色に変わって私の明るい未来への想いを圧(お)し潰して行く。諦めの悪さが堪(た)え切れなくて、もう大声で泣き叫(さけ)びそう。

「……いつも、僕は探していたよ。いつか、どこかで君に会えると信じていた。その時は、君が幸せになっていれば良いと、考えていた……」

 暗い不安と焦りの広がりに奈落(ならく)の淵(ふち)へ追い込まれて、迫(せ)り上がる暗黒の絶望に掴(つか)み掛けられている私は、彼の言葉に絶望から救われて行く。だけどまだ、不安は消え去ってくれない。

(そっ、それって……、あなたも私を探していたの? ああっ、わっ、私もよ。あなたを探していたわ!)

「今……、おっ、お付き合いしている女性(ひと)が、……いるの?」

 電話の女性は、彼が私に想いを寄(よ)せていた事を知っていた。彼と女性が親密な関係だったとしても、『大切にしてあげて』の言葉通りの過去形で彼を縛(しば)ってはいない。それでも、以前と違う感じがする彼に不安を抱(いだ)いてしまう。

「いないよ」

 あっさりと彼が言った。そのストレートで軽い返答に思い出すべきじゃないはずの、スタンガンで痛めつけた男の嫌なタバコ臭(しゅう)が重(かさ)なった。

(……本当に?)

 私が望んでいた事を彼は言ってくれたのに、私は素直に信じられなくて疑ってしまう。

「私でいいの? 凄(すご)く酷いことを言ったし、とても冷たくしたわ」

 私の問い掛けに彼は、はっきりと頷(うなず)いてくれた。

 ポロポロと私の両頬を伝って涙が落ちている。あとからあとから涙が溢れて止まらない。

「わぁーっ」

 遣り場のない気持が込み上げて私は大声で泣いた。彼を蔑(さげす)み無視したことへの後悔(こうかい)と懺悔(ざんげ)。逢いたくて探していた、繋げたい望み。間に合わないかも知れない不安と焦り。逢えた喜(よろこ)びと安心した気持ち。私を受け止めて抱(だ)き締(し)めて欲(ほ)しい願い。彼の変わらない優しい言葉。そして、今の今まで彼を疑っていた事への懺悔と『彼が好きだ』という強い私の想いが混じり合い、いっぱいになっていた心が解(と)き放されて更(さら)に大きな声で泣き続けた。

「ああっ、ヒック、ごっ、ごめん、ヒクッ、……なさい……。ごめん…… なさい。ヒック、…………わっ、私を、ヒクッ、ヒクッ、許して……」

 しゃくり泣きながら許しを請(こ)う甲高い声は、途切れてばかりの小さな悲鳴のようになってしまう。まだ私の想いを言えていない。

(大きな声で言葉を、はっきり聞こえるように言わなくちゃ。今、言うのよ。さあ、彼の中の私に届くように言って)

「ヒック、私を嫌いにならないで……。ヒクッ、もう一度……、私を好きになって!」

 鼻がくっつきそうな近さで、ヒクヒクと泣きじゃくりながら、やっと言えた。

「今でも僕は……、君に好きになって貰えるように、がんばっているんだ。だから僕の中の君の場所は、ずっと君のものだよ……。そこは、とても広くて僕の全てなんだ」

(ああっ、彼はいつも優しい。……嬉(うれ)しい)

「僕は、君に初(はじ)めて声を掛けたあの日から、ずっと君が好きだ」

 携帯の画面に三度表示され、手紙で二度伝えられ、そして電話で叫ばれた彼の言葉を、初めて彼の口から直に聞いた。

 携帯電話の向こうで叫ぶ彼の声を思い出す。通話を一方的に切るまで、携帯電話の小さなスピーカーを何度も震わせて聞こえていた彼の叫びを思い出した。彼の私への想いは少しも変わっていない。

 握った私の手を彼は自分の頬に触れさせた。拭(ふ)いた涙に濡れて、鼻水と涎(よだれ)で汚(よご)れた私の手に彼の温かさが伝わる。涙で濡(ぬ)れた温かい彼の頬……。ビクッと私は反射的に手を引こうとしたけれど、握る彼の手に力が入り私の手を逃がさない。

「手が……、汚れて、汚いよ……」

 触れる掌(てのひら)に、彼は頬を強く押し付けてくる。

「汚いと思わないよ。君の手がずっと好きだったんだ。僕は君の指と爪を初めて見た時から、ずっと愛しいと思っていた……」

 彼が握る、彼の温かい頬に触れる私の手を、彼は好きだと言ってくれる。四角い爪(つめ)だと言わずに愛しい指と爪と言ってくれた。

 私は愛おしさで彼に抱き付いた。頬ずりした彼の頬に熱(あつ)い涙を感じて、言葉が途切(とぎ)れた彼の唇に、そっと唇を重ねる。暖かい春の陽射しと風の中、彼と初めてキスをした。

 ヒクつき震える肩に彼の腕が優しくまわり、そしてしっかりと私を抱きしめてくれた。

「あなた、が、好き、よ」

 唇を重ねながら漏れ出る息に乗せて掠(かす)れる小さな声で言った。

 彼の滑らかで弾力の有る唇が、唇に残っていたザラついたファーストキスの感触を打ち消していく。上唇と下唇が彼の唇に交互に吸われて軽く噛まれた。舌先でなぞられる唇がサワサワと擽ったくて、気持の良い初めて体感する感覚だった。瞼を閉じたまま、

(キスが、上手(じょうず)なんだ……?)

 そう思いながら、トロンとしていく自分が分かった。

「君が、凄く好きだ。今も、今までも、これからも……」

 重ねた時と同じように、そっと唇を離して行く私に、彼は再びはっきりと『好きだ』と言った。はっきりと聞こえた彼の優しい言葉は、心地好(ここちよ)い響(ひび)きでキスでうっとりした私を満たしてくれる。もう泪の溢れは止まらずに次々と粒になって零れ落ち、流れ伝う涙が火照(ほて)る頬に付けた温かい筋を消さない。

「君を……!」

 優しく動く彼の唇に、再び私は静かに唇を合わせた。

「愛しているわ」

 彼が言おうとする愛を紡(つむ)ぐ言葉に、私の満たされた想いを被せていく。

(いいの、言わなくても。あなたの愛は十分感じているよ)

「今は、私が先に言うのよ。まだ、あなたは口にしないでね」

 静かに頷(うなず)く彼を見詰めながら、はっきりと彼の愛を私は感じていた。

(本当に、愛し合うことは、こんなにも嬉しい喜びを感じて、安らぎと愛おしさに満たされ、心が優しく広がっていけるんだ)

 今、私は心の中で彼に『嬉しくなる曲』をリズミカルに弾(ひ)いている。あの時アンコールで弾けなかった『嬉しくなる曲』。彼に聞かせるつもりだった曲。彼の為に弾くはずだった曲。彼に聞いて欲しかった曲。

(そうだ! この曲を弾いて彼に聞かせよう。今なら彼の為に、もっと私の気持ちを込めて弾けるはずだから)

 ピアニストになる夢を諦めてから、久(ひさ)しく鍵盤(けんばん)に触れていない指。

(上手く動いてくれるかしら? ……大丈夫(だいじょうぶ)よ。今なら弾けるわ。きっと)

 彼に小学六年生で弾いたピアノの続きを聴(き)かせようと決めた。

(それをサプライズでしたいのだけど、さて、どんな理由で誘(さそ)って、何処(どこ)で弾けるかしら?)

「これからどうする? 僕は休みだから時間は十分有るよ」

 いいタイミングで彼が、これからの行動予定を訊いて来る。私の都合に合わせてくれそうだ。

「羽田への最終便をリザーブしてあるから、それまで私は自由よ。荷物は朝、宅急便で送っちゃったし、家には戻らずに行くって、言ってきちゃったし、今からデートしよう。訊きたいこともあるしさ。それから小松空港まで送ってくれる? 私を見送ってくれる?」

(おおっ、積極的だ! 結構(けっこう)大胆(だいたん)に恥(は)ずかしげも無く、さらりと言えている。しかもイニシアチブは私側だ)

「ああ、いいよ。デートしてください。じゃあ、最初はどこから行こうか?」

(今日は互(たが)いに良い感じのカジュアルだから、大桟橋のような失敗はしないわ。昼間っからムードを演出しちゃおうかな)

 積極的ついでに、嬉しさをイケイケで開放させる。

「お腹が、空(す)いたわ」

 言いながら立ち上がり、彼と手を繋いで歩き出す。私は憶(おぼ)えている。中学二年の告白メールの送り主にした質問の回答を。

『あれは、こんなふうに、歩きたかったのでしょう』と、彼の表情を探ると、恥ずかしがるように少し逸(そ)らして顔を空へ向けながら言った。

「そう、お昼だね。何を食べよう? カツ丼? カレーうどん?」

(それってギャグなの? それともリベンジ?)

 彼のカツ丼好きは知っている。相模大野(さがみおおの)駅近くのうどん屋でシンプルなカツ丼を美味(おい)しそうにパクついていた。

(私もカレーうどんが好きだけど、今日のランチは違うよ)

「うふっ、バカ、カツ丼は嫌よ。ごめんね。この先にランチもしているダイニングバーが在るの。そこでライブのピアノを聴きながら、お昼をいっしょに食べない?」

 ピアノライブは私が演奏しようと思う。少し他人に気配りできるようになった優しい彼へ、私からの小さなサプライズ。お店のラウンジマネージャーと交渉(こうしょう)してみなくては分からないけれど、きっとさせてくれる。いいえ、だめでもゴネて無理矢理(むりやり)させてもらう。オブジェっぽくなっていても、音階の違いが大体分かる音の鳴(な)るピアノなら、それでいい。そう決めた。

     *

 音楽を聴く聴覚と匂いを嗅(か)ぐ臭覚は、記憶を蘇(よみがえ)らせる効果が強いと思っている。過去のアルバムを見たり、辛く悲しい思いや、楽しくて嬉しい思いをした場所へ行く事もそうだけど、強く意識した臭いとか、口遊(くちずさ)むくらい好きだったり、絡んで来る想いと共に感動した歌や曲は、健康な状態でも懐かしさや、安らぎや、ときめきを伴(ともな)って忘れていた事や人や場所を思い出させ、センチメンタルにしてくれる。

 今日のランチはこの店でと最初から決めていた。

 竪町通りに在るこのダイニングバーは、両親とディナーで一度、姉とランチに一度、能登牛(のとぎゅう)の柔(やわ)らかいステーキを食べに来た事が有った。そして、今日は彼と来ている。

 別にディナーで薦(すす)められるお高い特選ビーフじゃなくても、ランチのビーフで充分に柔らかくて味が有るし、それに口の中で蕩(とろ)けてしまうフォアグラステーキをトッピングするのが、私のお気に入りだ。

 オーダーは彼に訊かずに私が勝手に、フォアグラステーキをトッピングした能登牛ステーキのランチコースにして、自動車を運転する彼にはジンジャーエール、アルコールを飲んじゃダメな彼は少し不満顔だったけれど、私は肉とマッチする赤のグラスワインのドリンクにした。

 運(はこ)ばれてテーブルに並べられたランチメニューは、期待を裏切らない美味しさで、レアの焼き加減(かげん)にして貰ったビーフステーキは思っていた通り、口の中に広がる柔らかさだった。それと蕩けてしまっても濃(こ)い味わいが残るフォアグラステーキを、……チリの銘柄(めいがら)だっけかな? 広がる香りがスウッと通る口当たりの良い辛さと切れの良い後味なら何処のでも良いんだけど……、赤ワインで流して絡み合う残り香が堪(たま)らない!

 私と同じ様に幸せな顔でステーキをパクつく彼が、携帯電話の番号とアドレス、そしてSNSアカウントの交換を望んだ。

 『永遠(とわ)の別れ』と切り捨てた日、私の意識から彼を抹殺(まっさつ)した。

 電話帳や住所録の全てのリストから彼を消去した、あの日、私は電話番号を取得し直し、メールアドレスを中国語の『Yinghua、インファ』からスペイン語の『Cerezo、セレッソ』に変えた。

 意味は、どちらも桜の花だ。

 電話帳のリストから削除して記憶からも忘れさせた彼のナンバーとアドレスは、以前と同じだった。パソコンのメールアドレスと互いの現在の住所も教え合う。

(ビーノ・ブランコのスペルが、懐かしい……)

 彼は、私が彼の携帯電話の番号とアドレスを削除した経緯(いきさつ)も、忘却(ぼうきゃく)していた時の事も、訊いて来ない。私も今はまだ言いたくなかった。いつか、私から思い出のように話すまで、既に過去になり、覆された今、彼は知りたくもないのだと思う。

 ゆったりとした気分の良い食事を終(お)え、食後のコーヒーを飲むと、既にラウンジマネージャーから許可を得た一曲だけのピアノライブを弾く。

(気に入って、喜んでもらえれば……、嬉しいんだけどな)

 ずっと彼の想いを拒み避け続けていた私は、大学で知り合った美形な先輩へと安易に靡(なび)いてしまった。そして、自業自得(じごうじとく)で招(まね)いたクライシスゾーンからの脱出が、彼の大切さと居心地(いごこち)の良さと私の気持ちをディスカバリーさせた。

(こんな、気持ちのふらついた自分に、……自分の都合だけが良い女に、いつまで、彼は愛を与えて続けてくれるのだろう?)

 いつでも私は、彼に愛想(あいそ)を尽(つ)かされ突き放されても不思議じゃなかった。そう考えると、やっと彼に逢えた嬉しさと彼の変わらない優しさに、こんなにも安らぎと愛おしさに満たされた気持ちが不安で揺らいだ。

『あなたは、もういいの……』最後の電話は、思い通りに遊べなくて飽(あ)きたゲームソフトを捨(す)てるみたいに、彼の強い想いの足掻きを否定して私が一方的に断絶した。そして、私に完全否定されて行き場を失った彼の私への想いや情熱は、私以外の彼が好(この)みと感じた女性へ向けてしまうのは、浮気性(うわきしょう)でも、色情(しきじょう)的でもなく、青春期の性(さが)として当然だろう。

 だから、彼と親しくする現在進行形の女性がいても、不思議じゃない。

 弓道部で活躍する彼は、他校の女子達にも人気が有ってファンクラブも作られているみたいだった。彼の働いていた会社へ掛けた電話に出た女性は彼を良く知っている感じだった。

 性格は、たぶん同じだと思うけれど、彼は容姿も、態度も、進化していた。好感の持てるファッションセンスに自信を持った積極的な態度で、以前と全然違う。そして、彼のキスは私が蕩(とろ)けるくらい上手(じょうず)だった。

 今度は逆に彼から、『今でも、君を好きだと言ったけれど、実は既に、付き合っている女性がいるんだ』、『だから、もう君は……、いらない!』みたいな事を淡々と無慈悲に言われるのが恐い。私は自分の短絡(たんらく)さと戻せない時間を悔(くや)みながら、彼に棄(す)てられて忘れ去(さ)られるのを怖(おそ)れた。

 だけど、それでも彼に、今の私の気持ちを聴かせたい。

 自分の実力を気付かされて、既に未練(みれん)も吹っ切れて弾くのを止めたピアノだけど、今は彼に聴いて貰いたい。彼が聴いてくれて喜んでくれるのなら、それが彼に否定される私の気持ちでも、私は彼の為にピアノを弾きたい。

(聴いて! あなただけに弾くわ。今の私の気持ちよ!)

「五年ぶりにキーを敲(たた)くのよ。上手く弾けるように祈っていて」

 意を決してイスから立ち上がると、私はそう言ってテーブルの上に置いていた彼の手を握った。彼は握る私の手を握り返してくれて、私の指は彼の指に絡まり、しっかりと私達は結ばれる。

 何の躊躇いも無く、私は彼を見て、彼は私を見上げ、手を触れ合わせて指が絡み合う私達の繋がりは、これまで、いつもそうしていたみたいに全くの自然な動作だった。

 私は、その絡ませる指の力を緩(ゆる)ませながら、彼の手を離してピアノへ向かう。

 白いグランドピアノの前に来て鍵盤を見降ろすと、ピアノを避けていた五年間のブランクがプレッシャーとなって、私の身体を座らせてキーに触れるのを拒(こば)んだ。

(動きなさい! 私を座らせて、キーに指を添(そ)えるのよ! そして、私の想いを彼に届ける為に、彼だけに聴かせる為に、ピアノを弾くのよ!)

 瞳が彼を捉えて、私の目尻と頬と口許(くちもと)が笑う。

 あの時に届けられなかった私のメロディーを、今から彼に聴かせる為に、鍵盤の前に座った私は細く息を吸い込んで行く。

 横浜港へ向かう彼の大きなオートバイにタンデムして嗅(か)いだ潮(しお)の香りは、立戸の浜と金石の海を思い出させてくれた。音楽は小学六年生の彼の音痴(おんち)さと、楽しく弾けた『別れの曲』に、中学三年生のコーラス祭での雪辱(せつじょく)の彼の歌声、そしてバス事故でのイヤホンジャックから聴こえたゲームミュージックが、その時の二人を伴(ともな)って覚えている。

 そして、これから弾く曲も新たな二人のファーストディのメモリーとして深く刻(きざ)み付けて遣りたい。

 キーが八十八も有るピアノの盤面は広い。その音域の巾を私は自由に出来ずに中学三年の春でソロリストへの夢を諦(あきら)めてしまった。そして、その年の初夏のコーラス祭の伴奏を最後に人前での演奏はしていない。

 自分の想いをカラフルな音色で響(ひび)かせてオーディエンスを感動させたかったのに、自分の限界に挫折(ざせつ)した。だけど、最後の伴奏をしたコーラス祭で聴いた彼のソロ歌唱(かしょう)の声は、私の身体を貫(つらぬ)いて響き、震える魂(たましい)の感動は私に涙を流させた。

 いつか、彼の透明(とうめい)な歌唱の貫きに、私のカラフルに弾く鍵盤の響きで、その時の感動を彼に届け返したいと、私はずっと思っていた。

 今は、彼一人だけの為に弾いて聴かせたい。届けたい私の心は、彼の心に響かせたい。

(響くかな? 届くかな?)

 吐(は)き出す息が震えて願う心の指先は躊躇い勝ちにキーを敲いて、弾かれた音が微(かす)かにブレてしまう。

『私を愛してくれて嬉しい』、『愛してくれて、ありがとう』、『あなたが愛しい』、『ずっといっしょにいて』、弾むメロディーを優しい気持ちで弾く。

(音は、暖かなパステルカラーに色付いたかな? 穏やかに彼の中に入って、優しく響いてくれたかな?)

 最後の一音を高く、優しく、長く、響かせて曲が終わる。

 顔を上げて向けた視界に映(うつ)る彼は、泣きたいのを堪(こら)えて笑っているみたいな顔でスタンディングオベーションをしている。彼に続いて店内中の皆(みんな)が一斉に拍手(はくしゅ)をしてくれた。

 店内の皆さんに御清聴(ごせいちょう)と拍手への感謝の御辞儀(おじぎ)をして、ピアノを元の状態にしてから彼の許(もと)へ向かう途中も拍手は鳴り止まない。お客さん達も、店員さん達も、皆が喜んでくれていて、まるで、リサイタルか、ライブのようにざわめいている。

(彼に、届いてくれた!)

 触れ合えた心に、私の顔は満面の笑みになっていると思う。

(凄く、嬉しい!)

「アンコール」

 来店している人達からの『アンコール』の掛け声と手拍子。でも私はアンコールに応(こた)えない。

 彼だけへの私からの一曲だけのサプライズだからアンコールはしない。拍手の中を彼の待つテーブルへ戻り、もう一度、皆さんへ大きく、深く、御辞儀をしてから笑顔で手を振り、席に着いた。

「アンコールに応えてあげれば良かったのに。あの別れの曲を、もう一度、聴きたかったな」

 席に着くなり、嬉しそうに笑顔の彼は言った。

(うっ、にっ、鈍(にぶ)いよ……。それに今日、『別れの……』ってフレーズを使う?)

 私の気持ちを読めない彼に少し退(ひ)いた私は、思い付きのサプライズを俄(にわ)かに後悔した。

「バカ!」

 自然と口が動いて出た小さな呟(つぶや)き声に、『彼に聞こえていないよね』なんて気にしながらも、しまったと思った。

(どうか、言霊(ことだま)になりませんように!)

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 『小松空港まで送るよ』と彼に誘(さそ)われて、竪町通りから春風に桜の花弁(はなびら)と仄(ほの)かに桜の匂いが香(かお)る路地を抜け、二十一世紀美術館の市役所側の西口へ歩いて来た。

 その円形の建物を形作る全面ガラス張りが丸まるように連なる外壁を見ると、反対側の東口に在る白いカフェで向かいの席に伏せ目勝ちに座っていた彼を思い出す。

 四年前の通学の朝に遭遇(そうぐう)したバス事故の日、怪我をした彼を治療も受けさせずに私は白いカフェへ連れて来た。私の独断で一方的な行動に抗(あらが)いもせずに痛みに堪(た)えている彼に、不用意な一言、『普通にしゃべれるんだね』と、言ってしまっていた。

 私を好きな彼が、私の反応を気にしての言葉選びで口数が少ないのを知っていたのに、そう言ってしまい、下がるテンションの彼に、私達は気不味(きまず)いムードになった。

 今思う。此処もリベンジしたい!

「今度、ゆっくりと鑑賞しに来ようよ。あのカフェで、ちゃんとお茶してさ。いい?」

 彼も同じ事を思い出していたのか、眉間(みけん)に立てた一本の筋と少し険(けわ)しくしていた眦(まなじり)が失(う)せて、下がる眉毛(まゆげ)の困(こま)ったような顔をする。

「ああ、いいよ」

 声のトーンも困ってた。

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 二十一世紀美術館の地下駐車場で私をSUV車のサイドシートに乗り込ませて、彼は本多町通りから桜橋(さくらばし)を渡り、窪町(くぼまち)で山側環状道路へと走らせて行く。

 乗り心地の良い車内は時折(ときおり)、ロードナビゲーションのコース上の注意を促す合成声のアナウンスが自動的に話される以外は、アニメのエンディング曲だと思うのだけど、アニメらしくないシックな歌が小さく聞こえて来るだけで、とても静(しず)かだ。

 小松市(こまつし)と河北郡(かほくぐん)津幡町(つばたまち)を結ぶ、金沢市内を山地沿いに連続した緩いカーブで迂回する山側環状道路は広くて走り易(やす)い。それに、この時間の交通量は少なくて、ドライブプレッシャーが少し緩和(かんわ)された彼に、メロディーに合わせて鼻歌を弾(はず)ませたり、口ずさんだ歌詞をハモらせたり、させている。

 金沢市の市街地を山側環状道路へ抜けるまで、スムーズにSUV車を走らせながらも、発進、停車、コーナーの曲がり、などを険しい顔をして慎重(しんちょう)に行い、大きなオートバイにタンデムした時と同じ、先読(さきよ)みに、察しに、観察と、視界の上下左右に絶(た)えず瞳(ひとみ)を動かせていた。

 想定外や不可抗力(ふかこうりょく)の不慮(ふりょ)の事態に陥(おちい)る発生確率が、ぐんと減った今は、穏(おだ)やかになった顔の目が笑ってる。

(サイドシートに相思相愛(そうしそうあい)になった私を乗せているのが、嬉しいんだろうなぁ。私も嬉しいなぁ。……なら、ダメ押しのチェックをしても、いいよね!)

「今も、私を好きだと言って貰えて、すっごく嬉しかったよ」

 運転しながら『うん、うん』と頷(うなず)く彼に、私は再び探りの問い掛けをする。

「……でね。本当に今、親しく付き合っている女の人は、いないのぉ?」

(気分屋で、紛(まぎ)らわしい態度の私から返される、ドライな態度や冷酷(れいこく)な言葉を恐れていた彼は、ずっとこんな気持ちだったのかも知れない)

「いっ、いるわけないじゃん! 僕は一途(いちず)だぞ! いたら君を好きだと……」

『好きだと……』言い掛けて、続ける言葉を『ゴクン』と飲み込んで小さく息を吐き、そして、彼は深呼吸をするように大きく息を吸い込んでから、大きな声で言い直した。

「すっ、凄く好きだって、言うわけないじゃん!」

(その躊躇い、その言い方。今はいないけど、この前までは、女がいましたって意味で、いいのかな?)

 思った事を考えてから言葉にして、はきはき言う、まだ私の知らない彼がいる。これまで知らなかった彼が現れている。空白(くうはく)の一年半の間に新たに造られた部分の彼なのか、ずぅっと私に見せていなかった彼が洗練されて来たのか、分からない。

「だよねぇー。 私もよ。良かった、安心したわ」

 積極的で、明るく意思を伝えてくれる逞(たくま)しい彼がプラスされて、より彼を愛して行けると想った。

「二度も訊いて、ごめんね。あなたはモテていたから、心配だったの」

 この先ずうっと、死が私達を別ち合うなんて関係無くて、前世とか、現世とか、来世とか、そんなのを全部超えて、あなたが私を愛し続けさせるのと、私があなたを愛し続けるのを、誓(ちか)いたい!

「そんな! モテてなんていないよ。それを言うなら、君の方だろう。何度も靴箱に置かれたラブレターを見たし、君に告白したとか、君が告白されたとか、そんな噂(うわさ)を何度か、聞いたぞ!」

 そうだった。中学生になってから、突然に私に好意を持つ男子が多く現れて、時々、告白されていた・

(中学三年生のコーラス祭で、ソロで高らかに歌いながら、あなたは私を指差し、涙を流す私が、一人、スタンディングオベーションで応(こた)えるまでわね)

 コーラス祭以後、私とあなたの仲が誤解されたみたいで、接近して来る男子は誰もいなくなり、高校生になっても彼氏持ちの噂が広がっていたのか、ラブリーな展開は全然無かった。

(あなた以外はね)

「鈍(にぶ)いね、あなたは。好きになった女の子には一途で一生懸命なのに、周りにあなたを好きになった女子が、大勢いても気付かないなんて……」

 あなたの弓道の試合を応援するつもりで行った武道館で、多くの女子が凛(りん)んと弓を引くあなたを真剣に応援しているのを知った。あなたと親しくしたい、幾人(いくにん)もの女子がいる事も知った。

(なのでぇ、応援せずに帰っちゃったわ)

 そして今、あなたは鈍くなくて、惚(とぼ)けているだけなのも知っている。

「そうなのか? 僕は鈍いのか……」

(そうよ。あなたは鈍いから、鈍いフリをしないでね)

 二度、探りを入れても彼のこの反応……。以前に御付(おつ)き合いしていた女性がいたとしても、今は終わっていて、そんな関係の女性はいないと思う。

 私の男性関係を訊いて来ない彼に、女性関係の疑りを抱いたけれど、これで私の気が済み、疑りは薄れて行く。

 彼が、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、私を探していてくれたのなら、彼が勤(つと)めていた会社の受付か、何だか、知らないけれど、電話の応対をした女性が彼と寄りを戻そうと迫っても、きっと彼はきっぱりと断わるはずだと信じれる。

 彼も私の男性関係に不安と疑いを持っていると思うから、これからは彼に不安を抱かれるような態度や言動に気を付けようと、これも心の中で誓う。

(だから、私達は上手く遣って行けて、これからも大丈夫だ!)

「あの大きなオートバイは、まだ持っているの?」

 気が済んで話題を変える私の問い掛けに、彼は一瞬、眉を顰(ひそ)める。

(あっちゃー、やっちゃったかな?)

 こんなに気持を暗くさせてしまうなんて、あのラストタイムになった横浜市の大桟橋(おおさんばし)へ行った日を思い出させてしまったのかも知れない。

「ああ、V-MAXだろ。まだ持っているよ」

(V-MAXっていうんだ。これからは、覚えとかなくっちゃね)

 険しくさせた目尻と口許で曇らせた彼の横顔と言葉の語気(ごき)から、不機嫌(ふきげん)と警戒が溢(あふ)れていた。

 彼の瞳は頻繁(ひんぱん)に私へ動いて、私の表情から続く言葉を探ってる。

(あっ、マズイ! 違うのよ。誤解(ごかい)しないで!)

「夏になったら乗せてくれる? あなたの後ろでいいから」

 彼の曇り顔が何かの反射光に照らされたように明るくなって、『マジに?』、『乗りたい?』と横目で私を見ながら頭を傾げて問い返して来る。

 『だよ』って頷くと、前を見ながらも『うん、うん』と笑顔で首を縦に振ってくれた。

「勿論! いいさ。ぜひ乗ってくれ。それで、V-MAXにタンデムして何処へ?」

 失言(しつげん)したかもと不安気に表情を覗き見ようとする私に、彼は明るく言った。つられて気持が曇り掛けていた私は、そんな彼の明るい表情に救われてホッと安堵する。

(機嫌(きげん)が直ったみたいね)

 目的地を教える前に、ダメ押しの意地悪(いじわる)を言う。

「あのヘルメットも、有るの?」

 私の残り香を後悔とジェラシーの思いで彼が嗅いでいたかも知れない、大桟橋の往復で私が被っていた、あのフルフェイスヘルメットだ。

 彼の眉間に一瞬、何かを思い悩んでいるような、探しているような、筋が現れて消えた。

「有るよ」

 眉間に現れた筋の意味は、たぶん、電話の女性も同じヘルメットを使っていて、その残り香を私に気付かれてしまうと思ったのだろう。

(私が使う時に、ワザと『あれっ、私のとは違う香水の香りがするよ』って、意地悪を言ってみたりして……)

「今年の夏は、私を乗せて明千寺(みょうせんじ)の御里(おさと)に行くの。立戸(たっと)の浜もね。休みを取って時間を作ってくれる?」

 私の望みを言った。近年は砂の堆積(たいせき)が多くて、遠浅の海は狭(せば)まっているかも知れないけど、もう沈めたりしないから、いっしょに泳いだり、潜(もぐ)ったりしたい。

(私のアトランティスから来た男泳ぎに、サザエとウニの採り方も教えてあげるわ。あっ、そうそう、一番多く採れるシタダメもね。シタダメはね、関東のナガラミっぽいんだけど、もっと尖(と)がっていて、岩の欠片(かけら)みたいんだよ)

「あっ、ああ、いいよ。もちろん、良いに決まっている」

(日帰りじゃないから、支障が無いようにして来てね。お泊りは明千寺の御里で、あなたをみんなに紹介して、楽しく宴会するの)

 網戸(あみど)の窓と縁側(えんがわ)から夜風が通る部屋に吊られた蚊帳(かや)の中の布団(ふとん)で、あなたに寝て貰う。

(たぶん、抵抗無く出来ると思う私は、添(そ)い寝(ね)をして腕枕で寝かして貰うんだ。熱帯夜だったら、汗っかきのあなたと私は寝苦しくて、凄く寝相(ねぞう)が悪いかも。きっと私はあなたを蚊帳から蹴(け)り出しているから、ごめんなさい。それに、二人とも裸で転がっているよね)

「立戸の浜では、キリコを担(かつ)いでくれる?」

 以前、彼が遣ってみたいと言ってくれた事を訊く。

「うん!」

 初めて担ぎ手になった彼が、みんなにからかわれたり、要領を得ずにもたつく彼が、海の中や浜で倒(こ)けて、担ぎ手衆に踏み潰(つぶ)され捲(ま)くりにならないように、キリコを担ぎ出すまで、ずっと、あなたの傍(そば)に私はいるつもり。

(連中が勧(すす)める酒は、飲ませてあげないよ。あなたは私が選んだモノだけ食べて、コーラやジュースで乾杯するの。幼馴染(おさななじみ)や地元衆へのフォローは、私に任(まか)せなさい!)

「それと相模原(さがみはら)へ来たら、いっしょに行きたい処(ところ)があるんだ」

 たぶん、そこは彼にとって負のトラウマの場所になっていると思う。そして、私も彼とは違う意味で厭な場所だ。

「どこ?」

 直ぐ様、一度行った場所をトレースするとは、全然思っていない彼が明るいトーンの声で訊いた。

「もう一度、大桟橋を歩きたい」

 『大桟橋』で顔が強張(こわば)り、自分の小さくなる口の動きと声の沈むのが分かる。

「……いいよ」

(あなたと行った大桟橋を、何度も私は、上書きしようとして果たせなかったのよ……)

 その拘った上書きの試みはレイプの窮地を招いて、私は弄ばれる事態に陥(おちい)る寸前まで気付けなかった。それは絶対に、私の操(みさお)を失わせて身体と心に深くて大きな傷を負わせたはずで、その先の私の人生を縛り、自由は奪われていたと思う。

 だけど、絶望の奈落に陥る寸前、あなたの代わりのスタンガンが徹底的にレイプの窮地を砕いてくれた。

(そう、私は人生最大のクライシスで汚れ切ってしまうのを、あなたに救われていたんだ)

「あそこには、行ってみたいベイサイド・レストランがあるの。そこでディナーを食べよ!」

(これまでの『大桟橋』の全てを、あなたとの思い出だけにしてしまいたいの……)

 私は『大桟橋』を気持が退けて躊躇う場所にしたくなかった。今度は、あの陽溜(ひだ)まりをあなたと手を繋いで歩きたい。

「豪華客船での、ディナークルージングじゃなくて?」

(ディナークルージング? なんか、そんなのが有ったような……)

 確か、大桟橋に横付けしている白い客船で、二時間くらい東京湾の夜景を楽しみながらディナーを食べる洋上レストランだ。選択肢としてプランを要チェックしておこう。

(ディナークルージングも有りだけど、それは、その次ね)

「うん、二人で夕方のセピア色に染(そ)まる横浜港を見て、それから二階のレストランで食べるの。……電車で行くから、お酒飲めるよ。そして夜のライトアップされた桟橋を、あなたと手を繋いで歩きたい。あっ、そうそう、セッティングは、私がするから心配しないで」

 あれから何度か、あなたは行っているでしょうが、それは一人で来て黄昏ていただけで、大桟橋内のテナントのどれも見たり、利用したりしていないと思う。

「いっしょに歩きたいところが、まだ在るよ」

(今度はね、伯父さんから去年の暮れに贈られたジレラ君で、タンデムして行くのよ)

 ジレラ君は伯父さんに御願いしたら、クリスマスに赤と緑のリボンで彩(いろど)られたリースを付けてプレゼントしてくれた。防犯のセキュリティ的に危(あぶ)な気(げ)な歩きよりも、戦闘的になれるジレラ君は嬉しい。

 本当に、相模原と相模大野の街は大桟橋と合わせて、彼の匂いで上書きして仕舞いたい!

「ん! まだ?」

 三つの地名は、見ても、聞いても、最初に浮かぶイメージを彼にしたい。

(厭な記憶は、地名の他に一つか、二つ、単語を聞かないと思い出さないようにするんだ!)

「来年の春は相模原の、満開の桜並木を歩かない?」

 母と歩いた桜並木の通りを、あなたと二人で桜吹雪の中を歩きたい。

(ごめんねぇー。自動車のライセンスは高校三年の夏に取ったけれど、まだ、私の専用車が無いの。別に中古の安いので良いのに、両親とお姉ちゃんが、軽はダメとか、古いのは危ないとか、さんざん言ってから、お金の余裕は無いなんて言うんだよ。お姉ちゃんは、新車を買って貰っているのにだよ! だから、ジレラ君で行くね。あと、雨降りだとバスになっちゃうわ)

「相模原……、桜並木。ああ、あそこは知ってる。いいよ。必ずいっしょに歩こう」

(知ってんのかぁ……。ああ、やっぱり。相模原で私が感じていた、あなたの気配は、錯覚じゃなかったんだぁ)

 彼は去年の桜咲く春にV-MAXに乗って来て、私との遭遇を求めて相模原や相模大野の通りを走り回っていた。

「決まりね。それじゃあ、約束よ」

 彼の前へ右手の小指を立てて突き出し、彼の小指が絡むのを期待する。

「約束は、……しないよ……」

(えっ!)

 予想外の思いもしなかった彼の否定する言葉と、指切りを拒絶した彼の態度に、私の瞳は泳いでしまう。でも直ぐに『どうして』と彼の顔を見据えて睨(にら)んで遣った。

「約束しない? 約束できないの?」

 両肩が小さくプルプルと震え、両足の膝下もガクガクしている。

(なんでなの? 約束してよ! 私は不安なの! これからも音信不通にならないように、連絡を取り続ける為の保険なのに!)

 もう、焦りを声に出してしまいそう。あなたのその言葉の理由(わけ)を知りたい!

「違う! もう、約束なんかで縛られたり、確かめ合う仲じゃないと思うからだよ!」

(それって、約束で縛る権利の仲じゃなくて、互いに縛られるのが義務って事ぉ?)

「……そうだね。うん! 今日からは、そうだね」

 涙が出そうになった……。彼が今まで、どんな想いで私を好きでいてくれたのか、朝のバスで私の横に立っていた彼の気持ちを知った。私への権利ではなくて、私への義務だと告げる彼が嬉しくて愛しい。

「早く着き過ぎちゃうな。どこか寄りたい場所はないのか? 買い物とか? 見たい物とか?」

 彼の提案は、私も同じ気持ちになっていたから嬉しい。この時間に空港へ着いても、それなりに時間を潰せるのだけど、せっかく彼と再会できたのだから二人っきりになれる静かな場所へ行きたい。

(この近くだと……)

 パッと思い付いたのは、確か金沢市へ引っ越して来た年に行った事がある、この辺りに在る温泉。

(あれは……、赤、赤穂……、……谷、そう『赤穂谷(あかほだに)温泉』だ!)

 母が近所の人から聞いて来て、家族みんなで行く事にした『赤穂谷温泉』。明千寺に居た頃に行っていた能登の和倉(わくら)温泉や真脇(まわき)温泉以外で、私が初めて行った温泉だったから、その印象的な名前も有って良く覚えている。

 温泉の宿は一軒しかなくて、その一軒しかない宿が『赤穂谷温泉』だった。たぶん小松市の山手側だったと思うけれど、奥まった静かな場所に隠(かく)れ家(が)みたく在って、周りに目印(めじるし)になるような高い山も無かったから、記憶も曖昧(あいまい)で場所の自信は全然無い。

 夕食の料理の魚は鯉(こい)や岩魚(いわな)、お肉は猪(いのしし)と鴨(かも)、それと山菜をいろいろ食べたのも覚えている。川魚とお肉は初めて食べる物ばかりだったけれど、とても美味しかった。ゆっくりと入ったお風呂でお姉ちゃんと、『癒(いや)されるね』なんて、テレビドラマのOLのようなセリフを言っていた。

 温泉宿は別に山奥でもない町外れの低い山際に在るだけなのに、夜は建物の脇を流れる小川のせせらぎしか聞こえなくて、明千寺の御里よりも心細くて不安になった。

(『静か過ぎて、ちょっと恐いかも』って言ったら、お母さんとお姉ちゃんの間に寝かされたっけ)

 二人とも近くに寄って来て手を握っていてくれた。

 その『赤穂谷温泉』へ彼と行きたいと思った。

(日帰り客として、鯉料理を食べて、お風呂入って、男の人と……、じゃなくて、彼と人生初の御休息をしちゃう? ランチでも個室の座敷が使えて、伝えれば、二時間は干渉(かんしょう)されないはず……)

 それは彼に操を捧(ささ)げるって事。気持ち的には全然構わなくて、寧(むし)ろ、そうなりたい気分なのだれど、再会した初日だと流石(さすが)に節操(せっそう)が無いと思われそう。それに、お昼メニューの過ぎた時刻だし、既にランチを食べて来ている。でも、週末だからお風呂だけでも入れると思う。でも二人っきりになれない。

 これからだと食事は夕食になるけれど、夕食は宿泊客のみだし、それに時間的にも無理だ。だったら立戸の浜の時のようになれるといい。

「海……、海が見たい。日本海を……」

(港じゃなくて、海! 砂浜だ!)

 彼と海に行けば、心が全て晴れると思った。今日、彼と出逢えて混沌(こんとん)としていた気持ちの三分の二が晴れ渡った。残りの三分の一も早く晴らさないと、せっかく晴らした気持ちが侵食(しんしょく)されそうに思えた。

(もう、以前みたく、三つに一つの嘘や聞き流しを、彼にしたくない……)

 金石の砂丘で私の拘りを薄れさせた。立戸の浜で蟠(わだかま)る気持ちを軽くしてくれた。横浜大桟橋で眩しい陽射しの暖かさに感動させてくれた。今日もまた、海辺で私の迷いを無くして欲しい。

「行ける? 時間は大丈夫かな? 夕陽を見たいのだけど?」

 昼前に空一面を覆い尽くしていた千切れ雲の密集は、海からの偏西風(へんせいふう)に散らされて、ついさっきまで間隔を広げて羊雲(ひつじぐも)の群れになっていたのに、それも吹き払われて疎(まば)らになっている。

 国道から見える海の上空は、すっきりと晴れて斜陽の暖かな陽射しに私達は照らされていた。

(二人で顔を紅く染めて、鮮(あざ)やかな夕陽が見れそうだね)

「時間は……、空港での夕食時間に余裕を持たせて……、二時間は大丈夫だ。行けるよ」

 彼は優しい。きっと、空港近くのビューポイントへ連れて行ってくれるつもりだ。

「ほんと? 行ってくれるの?」

 私の顔が嬉しくて笑っている。

 彼と見る夕陽の海は、とても、私を幸せにさせて、もっと開放的にしてくれると思う。

「空港近くの安宅(あたか)じゃなくて、加賀(かが)の片野(かたの)の浜まで行こう。三十分は浜にいられる。空が晴れて来たから気持ち良いかもな」

(片野の浜? 名称に『片』が付くから片山津温泉の近くかな? でも片山津は柴山潟っていう湖の畔だし……、違うな)

「その片野の浜って知らないけど、あなたの御薦(おすす)めの場所なら、行ってみたいかな」

 小松空港と赤穂谷温泉以外に加賀地方の有名処を、私は行った事も無くて殆ど知らない。福井県なら石川県の近くに在る東尋坊(とうじんぼう)の断崖岬と、浅瀬に掛かる橋を歩いて渡る神の住まう島、雄島(おしま)は中学生の時に行っている。

 行き帰りの車中では連れて行かれるままに、お姉ちゃんといっしょに寝ていて何も景色を見ていなかったけれど、東尋坊の柱状の岩が連なる岩壁(がんぺき)の高さと、島全体が神域になる雄島の海側の草地へ抜けるまで通る、鬱蒼(うっそう)とした原生林の暗くて不気味(ぶきみ)な周遊道は覚えている。

「でも、日没まではいられないよ。大体、日の入りが六時半頃だから、その時刻には空港で夕飯を食べてる。夕陽は、片野の浜から空港へ向かう車の窓越しに見れる…… と思うけど」

 大体のタイムスケジュールを彼が知らせてくれる。残念ながら、彼といっしょに夕陽を見るまでの時間が今日も無かった。

(トヤン高原での不思議体験が有る、あなたとなら、水平線がぬらぬらと紅く輝くトワイライトタイムに、凪(なぎ)で大気が停まった金石の町のような、セピア色の摩訶(まか)不思議が起きるかもと、期待していたのに……。まぁ、いいか)

「いいよ、それでも。今日は日本海を見るだけでいいの。沈む夕陽は次回ね」

 サンセットに感動するのが目的じゃない。私は彼に救いを求めている。

(あなたに迷いを打ち明けたいの。私は、あなたに救われたいの)

「それじゃあ、行こう」

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「あそこに、寄ってもらえるかな?」

 山側環状道路から続く加賀産業道路が国道八号線へ合流して更に高架を終えた平地の交差点で、彼に近くのコンビニエンスストアへ寄ってくれるように促した。

「えっ、ここに用?」

 疑問と詮索と好奇(こうき)が入り混じった顔を傾げた彼が訊く。

 金沢市内から一時間も走らずに着いてしまう小松空港まで、食事も、土産物を買うのも、空港で済むはずだから、途中のコンビニに寄るとは思ってもいなかった彼が訊いた。

(たぶん、これから行く浜には無いかも知れないし、有っても仮設みたいのしかなくて、そんな個室へ入るのを彼に見られているのは、まだ堪えられないかも……)

 空港までは我慢できそうになくて、ここの御手洗いを借りたかった。それに買いたいモノも有る。

「そう、ちょっと用なの。……用を足(た)すの」

 彼が言った『用』に、『足す用』を引っ掛けて答えてみる。

(これで察してくれると、いつも安心ね。分からなかったら、鈍くて要注意でしょう!)

「ああっ、OKだ!」

 ピンと来た顔の彼は、頷いて察してくれた。

(良かったぁ。彼はできる男かも?)

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 コンビニの御手洗いで用を済ませて、アイスフリーザーから御目当ての品を見付けてレジへ持って行く。濃い緑色の地にオレンジ色の花を散らしたのと、白地に薄いピンクの花房をプリントした銀紙で包まれた四角い棒のアイスクリームを、それぞれ一本づつ買った。

「それなに? 買ったんだ?」

 さっき、コンビニのパーキングにSUV車を停めた時、三十分ばかり運転していただけの彼が額と耳筋に汗を掻いていた。何もせずにサイドシートに座るだけの私も項に小さな汗の玉を浮かせていた。

「うん、アイス」

 車内循環にしたエアコンディションは、ドライメインの温かくもない温度設定なのに上半身が汗ばんでいた。

「アイスクリーム? 今、食べるん?」

 汗ばんだ彼の匂いと、自分の襟元から臭い立つ私の汗の臭い。

(彼も、汗っ掻きなんだ)

 私は二人とも、暑がりで汗(あせ)っ掻(か)きなのを初めて知った。

(だから、火照る身体を冷ますのは、アイスクリームでしょう!)

「ううん、後で。浜辺で食べようよ」

 片野の浜ってところまで、まだ少し走ると思うし、折角、いっしょに食べるのだから、立戸の浜の時のように寄り添って食べたい。

(私は彼の臭いが厭じゃないけれど、彼は私の臭いを、どう感じているのだろう?)

 寄り添いながら、それを訊いて遣りたい。そして、彼と二人で大桟橋へ行った日、相模大野駅前から急いで着替えに戻った往復を駆けていて、彼の大きなオートバイにタンデムした時には汗が噴き出していたから、あの朝も私は汗の臭いが強かったはずだ。それも訊きたい。

「だったら、そのままだと車内のエアコンで溶けるかも。だから、後ろのクーラーボックスに入れとくよ。忘れないように、覚えといてくれ」

 そう言って笑う彼は、私から渡されたレジ袋を後部シート脇のボックスへ仕舞った。

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 コンビニから八号線を更に南へ進み、大聖寺(だいしょうじ)の街を抜けて地元の人しか知らないような農道を走ると片野の浜に着いた。片野海水浴場と護岸壁に書かれた駐車場に停めて、後部のフリーザーボックスからレジ袋を取って来ると言う彼は、保冷しているアイスを忘れてはいない。

「よく道を知っているねぇー」

 木々が生い茂る丘沿いの道を、幾つかの集落を通り過ぎて進んだ所の突き当りが、斜陽を浴びる白砂の浜が眩しい片野海水浴場だった。

「だろう! 砂丘の森の中にサイクリングロードが通っていて、歩き易いんだけど、遠回りになるから浜辺から行くよ。いいかな?」

 自慢げに答える彼に、ちゃんと予備知識や経験値を持つ逞しさを感じた。でも、護岸堤から眺めるだけで砂浜を歩くとは考えてもいなかった。

「……砂浜を歩くの?」

 ドアを開ける彼に、履いて来たブーツを見ながら私は小声で聞き直す。

「あっ! そのロングブーツはレザーだよね。それにハイヒールだ。……砂浜だと刺さっちゃって歩けないし、レザーも傷(いた)んじゃうなあ」

 私の足許を見て察した彼が問題点を指摘した。砂浜に刺さるヒールで歩けなくなるから、彼の望みには応えてあげられない。それに、ブーツは砂だらけのキズキズになってしまう。

「でも、大丈夫! 妹のフェルトのショートブーツが有るから、履(は)き替えればいいよ。ベタ底だから、問題無く歩けるよ」

 言いながら、外へ出た彼は後部座席のドアを開けるとショートブーツを掴(つか)み、私の横へ持って来ると、真横のドアを開けて私の足許へ置いた。その膝丈のショートブーツはカジュアルなデザインで、今日の私のコーディネートにミスマッチだったけれど、歩き易そうだ。

「サイズは二十三センチメートル。見たところ、同じくらいかな?」

(ラッキー!貴方の妹さんのサイズと同じだぁ。妹さんの身長は知らないけれど、百六十センチメートルの身長の私は、二十三センチメートルの足サイズだと、大き目なのだろうか? 貴方に大きな足と、思われるのは嫌だけど、プリッと膨(ふく)らむ脹脛(ふくらはぎ)に、スラリと真っ直ぐな脛骨に、キュッと締まった足首の魅力で許してくれる?)

「サイズは、いっしょね。今、履き替えるわ」

 靴底のゴツイパターンに『彼の妹は何処を歩いているのだろう』と、考えながらブーツを履き替えていると、横に立って私を見下ろしているままの彼に気付いた。

「恥ずかしいから、ジロジロ見ないでよ。……ん、もう、エッチねぇ、バカ……」

 互いに見目麗(みめうるわ)しい若き男女。性欲を感じない方が可笑しい。でも私はフラッシュバックが怖い!

「ああっ、ごめん。そっち側の見えない所に離れているよ」

 彼は車体の反対側へ行き、更に堤防際へと離れた。『ちょっとぉ、離れ過ぎって』思うけれど、素直に私の言う事を効いてくれた彼が嬉しい。

 自分専用としているSUV車に妹の履き替え用のブーツを乗せているなんて、仲が良くて、ドライブへ行ったり、買い物に付き合ったり、送迎も断わらない、優しいアニキなのだろうと思った。

(彼の妹は、いくつなのだろう? 高校生かな? もっと離れて、中学生? 小学生? それとも近くて、一つ下とか、もしかしての双子の妹かも? そして、アニキが知らない、付き合っている彼氏がいたりしてね。でもでも、……まさかの、密(ひそ)かに想いを寄せている、一方通行のブラコンで? 私、めちゃめちゃ恨(うら)まれたり……)

 これまで、彼が『妹がいる』程度しか話していなくて、少な過ぎる妹情報から勝手に妹イメージを空想してしまった。兎(と)に角(かく)、明るい性格で、私を受け入れてくれる優しい妹さんだったら良いと願う。

 中学、高校でも、現在の大学でも、部活やサークルに入っていないから、年下の後輩と交流した事が無くて、家に年下の女の子や男の子が居るのをイメージできない。頼られる感覚や構い遣る感覚が上手く想像できなくてしっくりしない。

(姉は妹の私を、どう感じていたのだろう? アニキなら男性化した姉として、異様な想像ができるんだけどな。可愛がってくれそうだけど、いろいろ面倒臭そうだ!)

 三歳年上の姉は、家でも、外でも、裏表無しに積極的で明るい。母親似の人懐っこい顔は初対面から好かれ易く、多くの交流先で仕切っているのを私は知っている。

 女子短大卒業後は、『髪結(かみゆ)いの女房(にょうぼう)になる』とか宣言して美容師専門学校へ通い、今年から金沢市の中心街のファッションビルに在る有名ヘアサロンに見習い美容師として勤務している。姉曰(いわ)く、『私って、ヘアデザインのセンスが、有るんだって』、だそうだ。高校生の時に出入りしていた柿木畠の喫茶店で知り合った彼氏の美大生は、加賀友禅の染織作家になった今も、お付き合いが続いているらしい。

 そんな事を考えながらブーツの履き替えを済ませて、彼に問題無く履けた事を伝えに傍へ行く。

「うん、サイズは大丈夫だよ。……ねぇ、アイス、食べないの? 歩きながら食べようよ」

 車内の暖気に温められて汗ばんでいた身体は粗めの砂浜を少し歩いただけで、額や項に汗の玉が浮くらいに熱くなっている。雲を吹き払って晴れ渡らせてくれた風は凪(な)いで、頬にひんやりと触れる四月初旬の大気も涼しげにしか感じられない。だから、ギブミー・アイスクリーム・ナウ!

「砂浜を少し歩くから、まだ汗爆だろうし、それにカチンカチンだから、着くまでに、ちょっとは食べ易くなると思うよ」

 浜辺の左手の方を見て、そう言いながら、彼はキーのリモコンでSUV車をロックする。

「ごめん。もう、ちょっとだけ待って。そこの上で食べよう」

 彼が指差した間近に迫るそれは、浜を歩き始めた時から異様な形で見えていて気になっていた。全体が緑色と黄色が混ざったような白っぽい灰色で、ドロドロ、ウニウニ、ニョキニョキと巨大な異形が融(と)け果(は)てた一片(いっぺん)のように見えた。石川動物園近くに在る能美市の和気(わけ)の岩(いわ)とは全然違う。

(たしか和気の岩石は、二千万年前に形成された流紋岩(りゅうもんがん)の大きな露頭(ろとう)だったかな……)

 スイスイと足場を確保して登る彼に手を引かれながら、妹さんのブーツに履き替えた御蔭で、どうにか滑らずに私も攀(よ)じ登って一番広い塊の上に立てた。

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 目の前に春の陽に輝く真っ青な海原が広がり、右には今し方歩いて来た海水浴場の砂浜と海に張り出す岩盤の岬が見え、左にもずっと向こうまで白い砂浜が幅広く続いていて、保全されているらしい低く平らな砂丘は一面の緑に覆われている。背後の広い松林もずっと続いていて、こんなにも世界は広くて美しいんだと思わされてしまう。

「ここは初めて。広い砂浜がずっと続くのに、建物が全然ないのね。あの砂丘一面の緑の群生(ぐんせい)はハマナスでしょう。すごいねー、ずっと向こうまで群生してるよ。それに、この足下の大きな岩、突起(とっき)した奇妙(きみょう)な形ばかりで不思議。これ全部繋がってる一体の塊だよね。加賀にこんな浜が在るなんて、全然知らなかったわ。よく知っていたね」

『はい、これ』と、アイスが入ったレジ袋を渡して来る彼に訊いた。

「小学校の頃、家族で泳ぎに来た事が有るんだ。僕もこの岩が不思議で、君と同じ質問を親父にしたよ。でも、親父は知っているくせに、浜の名前、『片野海岸』と岩の名前、『長者屋敷跡(ちょうじゃやしきあと)』しか教えてくれなくて、後は図書館へ行って自分で調べろって言うんだ。全く不親切な親父だったよ」

 子供の知識欲や自主性を促す彼の父親は素敵だと思いながら、パッケージを破って取り出したアイスを咥(くわ)えた。

(冷たい……、でも、気持ちいいし、甘くて美味しい)

「へぇ~。この大岩、『長者屋敷跡』って言うの? 変な名前。こんな海辺に金持ちの長者様が住んでたの? 今も、何か変なのが棲(す)んでいそう」

(長者……。普通、何々長者っていったら、お金持ちだよね。こんな場所に屋敷を構えていたの? でも大きな岩盤の上だから、外的から守り易いし、自然災害にも安全かも)

「みたいだぜ。図書館の郷土資料とネットで調べたら、食器の破片などが発掘されていて、その昔、どこぞの誰かが回船業で大儲(おおもう)けして住んでたらしいんだ。詳しい事は分からないって書いてあった。伝承(でんしょう)じゃ、近くの大池に棲んでいた大蛇(だいじゃ)みたいな龍(りゅう)が娘に姿を変えて、牛首(うしくび)っていう長者と暮(く)らしていたんだってさ。この岩も軽石疑灰岩(かるいしぎょうかいがん)という、何億年も前に噴火(ふんか)した海底火山の火山灰の堆積層(たいせきそう)で、その成(な)れの果てだって」

(やはり、得体(えたい)の知れないモノがいたという伝承が有った。大金持ちと若くて美人な娘。いつの世も強い男はエロに満ちているなあ。でも、娘は龍なんだ)

 齧(かじ)るアイスが汗ばんだ体を冷まし、ストロベリー味の甘さは気持ちを優しくさせる。

「ふう~ん。そうなんだ。牛首長者か。その住んでいた長者様は、たぶん、勢いがあって楽しそうな人だったと思うな。こんなに海の傍に住んで、船や商売の場所に近くて、きっとみんなに慕(した)われていたんだよ。そう龍が娘なって寄り添うくらいにね」

 龍が棲まう伝承や伝説は大池や険しい山頂に多い。
 『立山の頂はドラゴンピーク』だと表現した記述を、明治期に何度も日本に来て、富山湾の氷見市から能登半島の七尾湾北辺の穴水町まで船に乗って旅をしたアメリカ人が書いた、日本人への偏見に満ちた旅行記を高校の図書館で読んだ事が有った。
 そのアメリカ人が、火星に運河が在ると唱えたり、第九番惑星の冥王星も存在を予言していた有名な天文学者と同一人物だと、後日に知って驚いた。
 そういえば、福井県と滋賀県と岐阜県の県境に在る夜叉ヶ池(やしゃがいけ)にも龍が棲みついている伝承が有ったっけ。
 人の来ない山奥の分水嶺(ぶんすいれい)に在る夜叉ヶ池に棲む引き篭(こ)もりの雄龍(おすりゅう)が、雨を降らす代わりにセコく代官の娘を嫁(とつ)がせる言い伝えだったか、剣岳(つるぎだけ)に棲まう雄竜の彼氏を持つ雌龍(めすりゅう)が、夜叉ヶ池を氾濫(はんらん)させてまで逢引(あいびき)に行く伝承だったか、節操(せっそう)の無い龍の伝説だ。
(運河は火星人が造って、火星には高度な文明が存在すると説いていたアメリカ人は、剣岳が立山の北隣の高峰だと知っていたのだろうか?)
 説明されても理解できない短大のサークルの冬季合宿に参加して長野県に行った姉が言っていた。
『北アルプスの高い壁のような連峰に日本海から押し寄せた雪雲が、まるで、あんたが浸かった湯船の縁からお湯が溢れるように、連なる峰々を越えて雪崩のみたいに下ってくるんだよ。更に中央アルプスの南側に居たら飛騨を通り、御岳を廻った雪雲が、北アルプスと同じように、一枚岩みたいな連峰の頂を越えて来るんだ。高く真っ青な冬の青空を背景に、深緑色の連峰の白く雪を積もらす稜線を越えて下る真っ白な雲の群れ、凄く美しいんだよぉ。凄く寒いけどね。雪雲の前線は連峰の向こうに、もっとずっと高く、人跡未踏の黒い山脈のように見えてさぁ、越えて来る雪雲は、稜線から攻め降りる未知の白い軍勢のように想像しちゃうんだな。いつか、あんたも彼氏とドライブして見てくれば、あたしの感動が分かると思うわ。御奨めのワンダフォーなスペクタクルだよ!』
 サークル活動じゃなくて、彼氏とドライブしてたのをバラシながら、私が入ると御風呂のお湯が激減するみたいな比喩は失礼しちゃうけれど、姉がポエムのように語った日本アルプスの北と中央と南の三つの連なりの風景は、いつか必ず見てみたいと思っている。

 兎(と)に角(かく)、雄に雌、小さな蛇(へび)に、大蛇に、蝶(ちょう)と、大小の形や性別なんて関係無く変化(へんげ)が上手な龍だったはず。

 そっちも、こっちも、縄文(じょうもん)時代に繰り返した大海嘯(だいかいしょう)で遣って来た水竜(すいりゅう)の末裔(まつえい)だったかもね。

(今も、池底の泥深く、眠り棲んでいたりして……)

「かもね。この辺(あた)りは明治(めいじ)の頃に植林されて森になるまで、ずうっと、岩と砂ばかりの砂漠(さばく)みたいな砂丘(さきゅう)だったそうなんだ。それなのに、その娘に化身(けしん)した龍が棲んでいたらしい大池の周(まわ)りだけは、オアシスみたいな林だったてさ」

 確か、彼氏持ちの雌龍の話は大正(たいしょう)の初め頃で年代が近し、大旱魃(だいかんばつ)の話の水飢饉(みずききん)で雨乞(あまご)いをするのは、どこか、砂漠に植林するのと似(に)ている。

「牛首長者が亡(な)くなってから、龍は大池に戻(もど)ったんだね。龍は大地の精(せい)を食べて水気(みずけ)を放つそうだから、今も水底深くに潜(ひそ)んでいるかも。で、その大池っていうのは、どこなの? 」

 夜叉が池は、龍が池から離れるだけで氾濫して大洪水(だいこうずい)。でも、加賀地方の湧水池が湧(わ)き出す水で氾濫した伝承を聞いた事も、読んだ事も無い。

 高熱の炎(ほのお)を噴(ふ)くゴールドマニアの西洋のドラゴンと違って、東洋の龍は水脈(すいみゃく)を司(つかさど)り、雨と雷を纏(まと)う。

(龍が翔(と)べば、水気も動く。だから氾濫するのじゃなくて、水脈を断(た)たれた池は干上(ひあ)がって行くと思うな)

「さっき通って来た片野の町近くに在る鴨池(かもいけ)だよ。冬に熊手形(くまでがた)の網(あみ)を投げて鴨を生(い)け捕(ど)りにする猟で有名。国際的に保護登録された湿地域。藩政期(はんせいき)の初め頃までは、もっと大きくて深い沼池で、五百年前に池が出来始めたって本に書かれていたけれど、縄文期から平安期辺りまで、加賀一帯は大湿地帯だったから、どうなんだろうなぁ」

 一万年もの長い縄文期に何度、大海嘯が有った事だろう。現在の山並みの際まで海が迫り、大きな川筋は入り江になっていて、当時の縄文人達は台地上や丘陵上の横穴や竪穴の住居で暮らしていた。

 その大海嘯とは逆に、海辺が現在の水平線の彼方まで退(しりぞ)いた年代には、岸辺に集落が作られて海を越えた交流をしていたと思う。

 牛首はきっと、そんな縄文人、越の国人(くにびと)の末裔(まつえい)だ。

「そうねぇ、きっと、娘になって龍が牛首長者の屋敷(やしき)に暮らしていた間は、湧き水が止まったりして、池が小さくなっていたかもよ」

(越の国の末裔で貿易長者の牛首と、大海嘯の名残りに棲む雌の水龍の出逢いなんて、これは時空を越えたラブロマンスだあ。サクセスガイ ミー ツー ドラゴンガール なぁんてね)

「ふふ、面白いわ。あなたのお父さんは、あなたを良く理解してたんだね。だって、あなたなら必ず図書館へ行って、自分が教えるよりも詳しく調べると考えたんでしょう。その御蔭(おかげ)で、GPSに頼(たよ)らなくても迷(まよ)わずに来れたしね」

 彼が横浜港の大桟橋へ辿り着くまでに何度も迷っていたのは、行き当たりばったりの思い付きで、しかも、初めて行く場所なのに、ろくすっぽネット地図でルートを覚えずに、通りの雰囲気と方向の感で行ったからだと分った。

「そうだな。郷土資料の地図で場所や地層分布も調べたし。いろんな事で親父には感謝してる」

(感で走って迷うくらいなら、私に頼ってくれれば良かったのに……)

 二人で調べながら辿り着ければ、もっとずっと、違った想い出になっていたと思う。

(でも、あの日は、あなたも、私も、素直になれていなかったな……)

「今も一緒に仕事をして稼げているし、本当に、ありがとうだな。そう言ってくれる君にも、ありがとうだよ」

 照れ臭そうに私を見ながら、彼が言う。

 彼は家族に恵まれていた。決して周りに流されない彼の思考と性格は、彼と家族の意思の力だ。

「いいお父さんだね。今度、私を会わせてくれる?」

 彼との意味深な未来を、素直な言葉にしてみた。

「おおっ、いっ、いいよ。お袋と妹もいっしょに会いたがると思うけど、いいかな?」

 大きく見開かれた目が左右に振られてから伏せ目勝ちに止まると、口が少し開いて彼は笑顔になる。

「ええっ、も、もちろん、お会いしたいわ」

 私達の躊躇いと、迷いと、空白を埋め切れないまま、ハッピーパラダイスへ人生がシフトしそうな気がして来る。

(なら、人生の価値観を確認しなくちゃね)

 嬉しい気分で水平線の曲線を眺めながら、これから先、まだまだ続いて何が有るか分からない二人の人生を幸せ豊かに寄り添う為にと、私は思う。

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「突然、変な事を訊くけど、ちゃんと答えてくれる?」

 授業の臨床実習で行った病棟で垣間見た治療が迷いの蟠(わだかま)りとなって、私の気持を拘(こだわ)らせていた。

「なになに? なんか興味あるな。いいよ、ちゃんと答えるから言ってみて」

 『変な事』ってフレーズだけで、大抵の人は嫌がって聞くのを避けようとするのに、彼はワクワク顔でノリノリだ。

「あのね。いつか、事故や病気や高齢で意識不明の寝たっきりになったら、あなたは生きていたい? ……それはね、身体に生体反応は有るの。瞳孔(どうこう)は開いていないけれど、瞳や筋肉の反射は無くて、傍らの機械から何本も管を付けられて、ただ息をして、血液が巡って、臓器が動いているだけ。ほぼ脳死状態で、意識が戻る可能性は皆無に等しくて、生きているのが奇跡みたいものなの」

 瞳に光を宿した彼のワクワク顔が、瞼を閉じて眉毛を寄せ、眉間に皺を立てたまま唇を固く結ぶ、怪訝(けげん)な表情になった。

「外見には全く動かないの。たとえ、もし意識が有ったとしても、身体のどこも動かせないの。指先も、視線も、唇も、鼻も。耳は聞こえているかも知れないわ。匂いも嗅いでいるかも知れない。でも、検査や装置のデータでは脳死なの」

 呼吸が無い心肺停止状態でも、脳の働きが完全に失われているとは限らない。

 脳死の死亡判断域だけど、ほぼ脳死で完全死亡に到っていない奇蹟みたいな仮死状態。最先端医学でも甦生(そせい)は期待できないと、私に説明してくれた人も、自身の理解に多くの想像が入っていると言っていた。

「脳死なら死んでいるんだろう? 一般的に死亡の認識じゃなかったっけ?」

 脳の機能が停止すれば、自律神経のパルスは無くなり、心臓や肺臓などの臓器は動かなくなり血流も停まる。

「ううん、ほぼ脳死状態。完全脳死とは微妙に違うの。死亡確認も部位によっては、ボーダーが曖昧(あいまい)で判定が難しいのよ。身体の全機能が永久停止して腐(くさ)り始めないと、本当の死亡とは言えないのでしょうね」

 瞳孔が全開になっていても、厳密には脳が死んでいるとは限らない。でも、生物学的、社会的、法律的、倫理的に生死を仕切る必要が有り、悲しい御臨終(ごりんじゅう)とされてしまう。だけど、もしも、肉体が腐らないのなら、それは魂(たましい)が宿り続けているからで、その究極の仮死状態は何かしらのスイッチが入れば、再起動してリライフできるかも知れない。

「それは、コーマっていう昏睡(こんすい)状態の事?」

 コーマという言葉自体が昏睡の意味だ。人事不省(じんじふせい)でも目覚めを期待できる泥酔のような眠りだはなくて、重度の意識を失う障害によって外部からの刺激に無反応状態で眠り続けている昏睡を指す。

「特に深昏睡ね。脳死と区別しにくいの。それと半年以上も反応のない永続的な植物状態」

 深昏睡は、コーマよりも更に危険な最も重度な昏睡状態。眠っていても発生する体動を自発的に行えず、筋肉が弛緩(しかん)して失禁などの排泄(はいせつ)行為を無意識下でしてしまう。植物状態のような深く眠り込んでいるのか、脳の機能が完全に失われているのか、分らない状態だ。

 更に超深昏睡の状態は、あらゆる強い刺激に対して何の反応も無く、角膜(かくまく)反射対光反射などの各種反射も無い。自発呼吸もなくて人工呼吸器などの生命維持装置を付けなければ生存できず、普通は脳死の判定がなされてしまう。仮に本人に意識が有っても、他人からは死亡と認められてしまう。

(生きたまま埋められて土葬されたり、火葬で焼かれたり、されてしまうみたいな……)

「自分が、そうなったとしたら……、あなたはどうして欲しい? 延命を望んで、お金が続く限り自分の奇跡に期待したい? 家族にも要求して期待し続けて貰いたい?」

 皮下組織まで燃える重度の全身火傷から奇蹟的に再生した兵士が最前線へ復帰したと、戦争中の傷病事例の文献(ぶんけん)で記述(きじゅつ)を読んだ事が有った。全身黒焦げの兵士が、どんな体質や遺伝子を持ち、何処の出身なのか不明だと書かれていたが、事実らしい。

 破壊され燃え尽きた戦車の車内から発見された時は、炭化して動かない五体でも、見開いた目が動き、口と咽(のど)は焼けていたが肺は鼻腔から息を吸い、焼けなかったのか、再生したのか分らないが、鼓膜(こまく)は声と音を聞き分けていたそうだ。

 そんな、有り得ない事が起きるのだから、愛する人の肉体が朽(く)ち果てるまで、この世からいなくなったとは認めたくない。

「その状態は、喩(たと)えるなら棺桶(かんおけ)くらいの狭い場所に、身動きができないようにされて、閉じ込められているようなもんだろう」

(何、それ! その極端な閉鎖空間の例えは……)

「真っ暗で何も見えず、何も聞こえなくて、匂いも分らない。呼吸すら自覚できない。でも意識が有るかも知れないんだ……」

 凄く厭な、とても自分の身に起きて欲しく無い状態を、彼は想像で話す。

「現在の医療機器では検知できない微弱な脳波で意識を保っているという、本人にしか分らない状態も有りなんだ? 更に、普通とは違う未知の眠りの中で夢を見てたりしているのも、有りかも知れないんだな?」

 現代医学的に矛盾(むじゅん)だらけの生と死だけど、生きているのなら、せめて夢を見ていて欲しいと思っていた。

「そんな感じかな。でも、それを確認するのは、奇蹟が起きて目覚めないと分らないわ。だけど本人は覚えていないでしょう」

(どんな夢かは覚えていなくても、せめて、夢を見ていた自覚だけでも、有ればねぇ……)

「検診で瞼を開いても瞳孔反射の虹彩収縮は無いし、目玉も動かないから、感覚機能が働いていても明暗がわかるくらいが精々。……固定焦点になっているかも? 想像でしかないんだけど、本人は触られているのも痛いのも感じていて、精神だけは生きて思考しているとしたら……」

 概念的にも、実際的にも、死亡状態。だから、私の想像域での仮説に過ぎない事は解っている。

「たとえ、五感が生き続けていても、刺激に無反応なら死んでいるのと同じだ。君に触れられたり話し掛けられたりして、傍にいる君の気配や息遣いを感じていても、そして、君の声も聞けて匂いも分っていても、僕はそれを君に伝えられない。瞼を開けられて愛しい君の顔や姿が見えても、それを君へ知らせる事はできない、……のだろうなあ……」

(そうよ。そんなあなたの状態を、誰も知る事ができないの。)

「そんな状態で僕は命が尽きるのを、ただ待つしかないなんて、やはり、今日明日に陥っても、百歳になって陥っても、そうなったら、そんな僕は死んでいるのと同じだ」

(ううん、違うよ。そうはならないわ。……私だけは、あなたの様子に気付くから……)

「だけど、あなたがそうなっても、私はあなたに生きていて欲しいと思う。だって、この世界のそこにあなたがいてくれるだけで、それだけでも……、私の生きる喜びだもの」

 言ってしまった言葉は、私の我(わ)が儘(まま)だ! 気付いてあげれても、『苦しんでいるのか?』までは分らないと思う。私はあなたに、私の身勝手な思い込みを押し付けて、苦しみを長引かせてしまうかも知れない。

「私は……、私は、そうするけど、あなたは、そんな状態の身体になっても生きていたい? あなたは、それすら分らないでしょうけれど、私に奇蹟を求めて待ち続けていて欲しい?」

 彼に問い掛けながら、自分自身に問う。

(私は愛の告白をしながら、彼に死の宣告をしてるの?)

「延命処置を、続けて行くと?」

(うっ、早くも、それを訊いて来るかなあ)

「生命力が有る限り元気で眠り続けるわ。でも延命治療は命を延ばすだけ。老化は防げないよ。相応の年齢になると、アポトーシスの限界で身体の乾燥が始まり、いずれ萎(しな)びて凋(しぼ)んで皺皺(しわしわ)になって目覚めが無いまま、寿命が尽きてしまう……」

 現在の最先端医学の延命技術でも、細胞の分裂回数以上に寿命を伸ばせない。細胞分裂の回数には個人差が有るみたいだけど、百二十歳代が限界らしい。でも、近未来は分らない。

 自身の新たに作られた細胞をクローンして増殖させてから、自身へ移植すると置き換わった新細胞が分裂して行く。

 記憶や能力を保ち、脳や神経の細胞までクローン細胞に置き換われば、単純に寿命は長くなる。それを繰り返せば、不死だ!

 だけど、それは問題が有るらしい。クローン細胞が置き換わる際の旧細胞の情報を引き継ぎで、細胞が突然変異の癌(がん)細胞化するかも知れないという。それに旧情報を取り込んだクローン細胞のアポトーシス回数は、ずっと少なくなるとの研究予測も公表されている。

(まあ、いずれにせよ、神の領域だわね)

「貴腐(きふ)老人システムなのか? トロっと甘いドイツの貴腐ワインになる干(ほ)し葡萄(ぶどう)みたく……、そんな感じの臭いがしたりして?」

 外側の皮は皺皺で、中身がトロトロに熟(う)れ過ぎて腐る発酵(はっこう)寸前。近付くと、腐り始めた小動物の死体みたいな甘く絡みつく臭いがするのかと、彼は私に訊く。

(腐った果物(くだもの)や死骸(しがい)じゃないから、いくら最末期でも皮膚臭は、そんなふうになんないよ)

「貴腐ねぇ……、そんな感じかな。だけど、甘い香りはしないよ。誰もが、しっかり染み付いた病院臭を鼻に付かせて来るだけ。延命治療は高齢者医療の一部でも有るから、加齢臭(かれいしゅう)に老人臭もだね」

 加齢臭は皮膚層の変質と腐敗の臭いで、老人臭は、それまで消臭していた消毒物質が生成できなくなって漏れてしまう内部組織の腐臭。特に高齢老人は、乾いた土と乾燥した木材を混ぜたような臭いの皮膚と、カサカサな肌に塗る軟膏やオキシフルの臭いが鼻に付く。

「そのブレンドは、ちょっと嗅ぎたくないな」

(まあね。体臭は、人それぞれに違うけれど、生活臭じゃなくて、肉体からの個人個人に違う臭いに起因するモノは、なんだろうなあ?)

「それで、機械を止めると、どうなるんだ?」

 『推(お)して知るべし』的な事を彼は訊いて来る。

 この世と彼岸(ひがん)との狭間(はざま)に居るような、三途(さんず)の川を漂うみたいな、境界線を越えて常世(とこよ)に近い場所の患者さんばかりなのを彼は理解しているはずだから、きっと、最期の刹那(せつな)に断末魔(だんまつま)の苦しい様相を見せるか、安らぐように穏やかな事切れなのか、知りたいのだと思う。

「接続しているシステムをダウンすると、まず壁のパネルの表示光とベッド脇の灯りが警報色に変わり、パネルの表示も異常を示してアラームが遠くで聞こえるわ。大抵はナースステーションから。そこで患者を監視しているからね」

 彼の問いに答えて、生きさせるのをオフにすると、どうなるかを説明する。

「機械の作動は直ぐに止まらないの。パソコンをシャットダウンしても画面が直ぐに消えないのと同じで、システムをニュートラルにするまで暫く動いているんだ。患者さんは自律で呼吸していないから……」

 機械の再起動は一旦、システムを完全に停止させたニュートラルの状態からでないと行えない。

 既に生死が確定できないような患者の延命にシステムを使っているから、例え、シャットダウンが単純なミスだと気付いて、直ぐに全てのスイッチを正しい手順でオンにしても、検知不可な微小微動な拍動で緩慢な血液循環の肉体が再起動で強制的に維持され続けられるだけだ。

 そこに在っただろう魂が再起動後も、居続けてくれているのか、完全に離れてしまったのか、外観やシステムのデータからは分らず、ただ、そうであって欲しいとの願いと信じる思いのみで延命され続けられる。

「再起動を行わなくて、機械が本当に止まると同時に、患者さんの小さくて規則正しい胸の動きが静かに止まっちゃうよ……。見ていて分る反応はそれだけ。そして酸欠で死ぬの」

(それは、死なせる……、殺(ころ)す事なんだよ)

「そうか……。やっぱり死んじゃうしかないのか……」

(そう……。延命を望んだ本人からは同意を得れないけれど、家族からの依頼と同意が無くて、勝手に機器を停めたり、電源を落としてしまうと、殺人になっちゃうの……)

 私の最期は彼の負担になりたくないと思うけれど、私は彼へ殺すと同義な事を絶対にしたくない。

「奇蹟を待たなくていいよ。……僕に延命なんてしなくてもいい。考えたくもないけれど、もし、僕がそんな状態になれば、死が僕を連れ去るままにしてくれ。頼むよ……」

 彼は自分の命が死で失われるままに末期(まっき)を看取(みと)ってくれるよう、遺言のように私へ願ってくれて、私も彼に遺言みたいな言葉を返してあげる。

「……そう、延命医療は受けたくないのね。私も同じ。あなたと同じ考えなの。同じで良かった。私もそんな身体で生き長らえたくないよ。御願いだから、ちゃんと殺してね」

 『殺す』って言葉の気味悪さに、ぎょっとした顔になった彼が私を見詰める。

(そうよ。あなたの言葉で私は延命治療をしないで、死んじゃうんだから、極端でも、あなたに殺されるのと同じでしょう)

「そ、そうだったんだ……?」

(だから後悔しないように、ずうっと、あなたを愛し続けたいの。あなたも私を愛し続けてね。愛し、愛されながら死にたいな)

「君がそうされたいのなら、君の望むようにしてあげたいとおもうよ。でもね、僕は君の奇蹟を信じたい。君がいない人生なんて考えられないから、僕は君の延命治療をしてもらう。そして僕は、ずっと君の傍らにいて君に語り掛けるんだ」

(うふっ、いったい何を話してくれるかな? それは、あなたが私へ声にしなかった、私との物語かな? それとも、私の知らない、あなたの物語なのかなぁ? でも、どっちでもいいの。人生を終える時は、絶対に恐ろしいと、私は思うから、あなたは私の間近にちゃんといて、私を励(はげ)ます話をして欲しいよ)

「私が皺皺になって、萎びても?」

 二人で長生きして、とても高齢になってからの延命処置のつもりで彼は言っているのだろうか? そんなヨボヨボの年寄りになったら、あなたと私は、どんな顔になっているのだろう?

「ああ、皺皺になって凋んでもだ! 外見が代わっても、君は君だ!」

(外観が変わってもねぇ……。一応、私も死に際まで美しくありたい乙女(おとめ)なんだけどな。……でも……)

「それって、なんか、……微妙に、いいかな」

(歳を取っても、あなたと私は手を繋いで歩いて、買い物も、レストランでの食事も、喫茶店で寛ぐのも、二人いっしょで、きっと、同じベッドで、並んで眠っているんだよ)

「僕が初めて君に逢った時から、ずうっと見て感じた君と僕達の事を、そして僕の事も、眠っている君に全部、話してあげるよ。……思い出じゃなくて、現在進行形でね」

 眼が潤んで来ちゃう。

「……嬉しくて、悲しくて、泣けて来るわね。私が、本当に皺くちゃな、お婆ちゃんに、なってしまってもなの?」

 彼が見た目だけで、私を好きなのじゃないって知っているし、今も聞いた。だけど、もう一度、確かめておきたい。

「何度でも言うぞ。そんなの関係ないさ! どんなに歳を取っても、見て呉れが変わっても君は君だ!」

(ああっ! 彼はなんて素敵な事を言ってくれるのだろう)

「それは、……凄く嬉しいかな」

(再び目覚めなくても、絶対に私は、傍にいるあなたを感じて、あなたの声を聞いているよ)

「うん。それに、もし君が……、僕よりも先にこの世からいなくなっても、僕は君を愛し続けるのだから、マリッジの誓いの言葉みたく別ちはしない……。だけど、……君がいなくなった世界は二度と御免だ。だから、必ず僕よりも長生きしてくれ!」

(うん! でも、それって逆だから。私も、あなたが何処にもいない世界なんて、堪えられそうにないよ……)

「ありがとう。私も、あなたが幸せで、長生きして欲しいと願っているの」

 やっと巡り逢えて、お互いが理解を深め合えた今、これから先の、互いを愛しみ敬う想いを持ち続けて、二人が別たれる瞬間までも、ずっと私は願ってると思う。

「僕は、どうすれば、君が幸せでいられるように、ずっと努力し続けて行くんだ。そして、幸せそうな君に看取っていて欲しいんだ。傍で僕を見詰めて、僕の手を握り、僕に話し掛けて。僕は君を見ながら、触れる君と君の匂いを感じて、君の声に送ってもらう」

(うん、うん)

 彼も、私と同じ想いでいる。

(肯定して、受理するわ)

「うーん、いいよ。私が元気だったらね。その願いを叶(かな)えましょう」

(私はね。見詰めて、手を握っているだけじゃないわよ。あなたに抱き着いて、揺さぶって、大声で呼んで、泣いて、薄れいくあなたの意識を戻してあげるの。何度も、何度も、……ね)

「だって、君がいないと寂しいじゃん! 心細くて不安で、すっごく怖いじゃん! だから傍にいて下さい。僕の心からの御願いです」

(その気持……、とても良く分かるよ)

「……そうなの? 分かったわ。あなたより一秒でも長生きするように努力する。でもね、私も同じ不安で一杯になるだろうって、考えないの?」

 私達が育てた子供達は、孫達と一緒に気持ち良く訪れてくれるから、あなたが逝(ゆ)なくなっても、慕われる私は楽しくも穏やかに過ごして、静かな悲しみの中で人生を終える…… かな?

(だけど、だからこそ、あなたが逝ってしまうのは、嫌だ!)

「わっ、分かってる……。分かってるさ……。」

 唇と頬は微笑んでいるけれど、私を見詰める眼差しは寂しくて泣きそうで、零れ落ちそうなくらい涙を湛えている。きっと私も、悲しみの顔に眼が潤んでいるんだと思う。

 私がはっきり、『あなたが先に逝くのは、嫌だ!』と言えば、きっと彼は私を看取れるように、私より長生きする努力をしてくれると思う。

 相思相愛を知った今日の素晴らしい出逢いは、新たに始まった二人で歩む人生の、途中のプロセスを省いて、とうとう死が二人を別つまで話してしまった。

「あはっ、真剣に話し合っちゃったね。凄いよ。話題が、愛の誓いの最終章まで飛んじゃったけれど、植物人間になったらなんて、変な事を訊いたのは、……実は、私、迷っているんだ」

 死の床へ臥してからの愛まで、約束事のように話してしまったけれど、更に私の死に際から死に至るまでを彼に訊いてみたい。

「私、大学で医療工学を専攻しているの。医学じゃないわよ。だから医者になるのじゃないわ。それは立戸の浜で話したよね?」

 確か、彼には三年前の夏に立戸の浜で、私は臨床(りんしょう)工学(こうがく)技士(ぎし)になると話していたはず。

「ああ、憶えているよ」

 答える彼の声は明るく弾んでいる。

(三年前の夏の事は、彼を否定していた私より、しっかりと憶えていそうだ)

「でね。医療機器の目的と構造に、セッティングやオペレートも学ぶんだ。メンテナンスもね。その実習の中に延命装置の取り扱いも有ってね。それで、その機材が使われている病棟へも行って、実際の使用状況を見て来るの」

 今から何を話すのかと、彼は神妙な顔で私の目と唇を見ている。

「その病棟は深昏睡の患者さんばかりで、病室のみんなが酸素マスクと点滴の管とせンサーのコードを付けて、ピクリともせずにベッドに寝ているのよ。栄養を摂取するのに胃瘻(いろう)という直接、胃に管を入れる処置もされているの。排便、排尿の管もね。SF映画やホラー映画に出てくる病院みたくて、けっこうショックだったんだ」

(違ったぁ! ホラー映画やスリラーゲームのステージになる、見捨てられた町の朽ち果てた病院みたいのじゃなくて、全然、煤(すす)や錆(さび)で汚れてない、真(ま)っ新(さら)に綺麗な病棟なの。そう、近未来的に多機能化されたシンプルで清潔な病室だよ)

「透明なスクリーンに仕切られた真っ白なシーツのベッドが並ぶ、床も、壁も、天井も、フラットで、何の装飾も無い白色の病室で、明かりは天井と床の四周の縁(へり)からの間接照明。空調は天井のクロスした溝状のダクトから、埃(ほこり)や塵(ちり)の無い清浄な空気が静かに吹き出して、床の四周の際(きわ)に有る排気溝へ吸い込まれていくの」

 無菌室のレベルではないけれど、テレビのドキュメンタリーやテクノロジー番組で映(うつ)る工場のクリーンルームと同じ無塵状態の管理がなされていると思った。

「それから、床のコネクトに接続されたコードやパイプで、高機能ベッドと繋がる生命維持装置やセンサー機器は、集約されてナースステーションで集中管理しているんだ。何だか、本当に異空間で、SFっぽいの。あんな場所が実際に在るって思ってなかったから、ちょっと信じられなかったわ……」

 全てのセンサーデーターと対応がナースステーションで一元管理されていた。プライベートな動きをする患者はいないから、病室全体に個人別までCCDカメラでモニターも為されていた。

「医療技師のする事は、医者と看護師が管やコードを繋げた後に、指示通りに個人個人に合わせた調整をして維持させるだけなの。患者さんの体力っていうか、生命力が尽きるまで生かされてるって感じ。家族か親戚の方かな、お見舞いっていうより、定期的な様子見な感じで、来ても病室には行けなくて、ナースステーション内の面会者応対ルームで、天井から下がる半透明なモニターの画像と数値をチラ見しながら、担当の看護師から様子を聞くだけ。しょうがないよねぇ、スクリーンの中は無菌状態の維持が必要で、患者さんの反応が全く無いんだから」

 エレベーターから降りてからナースステーションを通り抜けないと病室への廊下には出られない。ナースステーションへの出入りは、病棟へ外部の汚れやダストを持ち込まないように、全身に圧搾空気を噴き付けられるエアシャワールームを通らなければならなかった。

「もっとも、ほんの僅かでも覚醒の兆(きざ)しが見られたら、直ぐに違う場所の集中治療室みたいな所へ移送されるみたい」

 はっきりとは知らないけれど、たぶん、身内の人が患者と間近で接する事ができるようになるのだと思う。でも、高齢の方は完全覚醒まで至らずに寿命を迎えるのが普通だと、見学後の噂で聞いた。

「私、まだ遺体を見た事が無くて、亡くなった直ぐは、そうなるのかなって……、もうトラウマになりそう」

 父方も、母方も、祖父母に兄弟姉妹の親戚は、私が誕生して以来、全員が健在だ。これまで親しい友人や知人の、その家族の訃報(ふほう)も知らされてはいない。

 だから私は、亡くなった人の肌の青白さや硬直の硬さを知らない。

「深昏睡の患者さん達を見たら、命とか、魂とか、心とか、医療倫理を学ぶ以外で考えさせられちゃってるよ。生命と魂は同義なのか、別々に肉体に宿るのか、とか、生命在りきの肉体なのか、肉体を成長する極初期の細胞が生成したり、分裂して増殖するどの過程で人間としての命と魂が宿るのか……、みたいな。……なあんてね」

 理論的には魂と命は同義だ。科学的には発祥や肉体に何故宿るのか不明だけれど、心と気持を司(つかさど)るのが脳の前頭葉だと解明されていて、外部からの電気信号で基本的な感情のコントロールが可能になっている。でも、五つのセンスが発生する要素やプロセスと、何故、六つ目のセンスが導けないのかは分っていない。そして、観念的には別々に区別されていながらも、互いに深く関わっている。

「おーい、偏(かたよ)った新興宗教に走ったり、間違った自由へ飛ぶんじゃないぞー!」

(万物の真理は意外と偏ったモノかも知んないけど、不安や不穏な心の逃避に身体を飛ばないから、安心して)

「あはははは。うん。その方向には行かないから大丈夫。安心していいよ」

(それに、ルート変更して逃げるのも有りだしね。間違いもしちゃうけど、いつも、疲れ果てていようとも、苦しくても、辛くても、空虚で得体の知れない自由へは、飛びたくないねぇー)

 年齢、性別に関わらず、必ず迫り来る様々な試練の壁が在る。その最(さい)たる壁は長く、高く、広く、厚い。そして、乗り越えるたり、突き破ったりする困難さに自分の身体も、心も酷く痛んで泣き叫びたい。とても辛くて、苦しくて何も食べられないのに吐瀉(としゃ)を繰り返すくらい気持ち悪さが続き、遣る瀬無い惨めさに悩んだ果て、終(つい)に自ら己の命を絶ってでも逃れて楽になりたいと思ってしまう。

 だけど、そんな人生のサドンデスを実行しても、楽になったと知る事も、感じる事も無く。開放感も、爽快感(そうかいかん)も無く。最高に厭な局面を体現したままで意識を消去した命は肉体を離れて行く。

(自らが途中下車で人生を終わらせるくらいなら、やはり、在るか、無いか、分らない来世よりも、現世でリセットだよねー)

 幸せに満ち足りた時にも、瞳を照らす狭間(はざま)の光に誘われて向こう側へ逝(い)ってしまいたくなるのも有るけれど、厭な現実から逃げたいだけの限りなく黒に近い灰色を漆黒(しっこく)にするのと、パステルカラーに導かれるままに真っ白や透明にするのとは、全然違う。……なのだけど、どちらも其処で人生は途絶えて、それっきりだ。

(やっぱし、現世で、スターティング・オーヴァーしないと、楽しくないわね)

「プロミス! 約束だぞ。変な宗教や勧誘には絶対に係わらないように。信じて頼れる存在は此処にいるから。其処の処よろしく」

 彼の嬉しい言葉に、頼もしいと思う。彼は私を信じて守ってくれるし、必ず助けに来て絶対に救ってくれる。

「他にも、魂とは脳の思考の根底なのとか、肉体の全機能停止の死が命と魂を無に帰さすとか、それは同時に帰すのでなくて別々でも無に帰れないのと、然(しか)も魂の抜け殻になった、まるで無機質な空の入れ物を整然と並べたように思えて、私、気持ちが悪くなったわ」

 何かで読んだ天上界に在る『ガフの部屋』の逆場面って感じが見学した時にインスピレーションしていた。

 真っ白な空間に均等に区切られたトレーのような桝目(ますめ)が並んでいて、その一つ一つに天界へ戻される順番を待つ、疲弊(ひへい)し切って微動の震えもしない魂(たましい)が入れられているように思えた。

「その病棟を見てからは、それまでは大学で学んだ知識を活(い)かせるように、卒業してから医療の仕事の就こうと考えていたけど、もう、その自信が無くなってしまいそう。あと今年と来年の授業を受け続けるべきか迷って悩んでいるの。順調に二年間学んで単位を落とさなければ卒業できるんだけどね……」

 それは、たぶん、生理的に厭なんだと思う。志(こころざし)を貫(つらぬ)くのは普通に有りだけど、関わるにつれて肉体的や精神的に耐えられないのなら、仕方が無いでしょう。

(不安や不満のプレッシャーに耐え過ぎて、メンタルダメージを抱え込むのは嫌だし……。だから故に、ルートチェンジをしてもいいじゃん)

「……そうなんだ。僕はてっきり、君が遣りたい事に向かって頑張っているとばかり、考えていたよ」

(そうだよ。あなたに感化されて、見付けたはずだったのにね。意外と私、メンタルが弱かったみたい)

「けっこう、真剣に悩んでいるんだ。いろいろ学んで、知ったり、見たり、体験してくると、本当に私の遣りたい事なのかも、分からなくなってきてるの。けど、まだ親にも、お姉ちゃんにも相談していないし……」

 無機質な延命処置への生理的嫌悪は、愛する人の末期を延命するのと矛盾している。

(だけど、それはそれ、これはこれ。彼への愛は、私の生理的苦痛を凌駕してるんだ)

「あと二年間の実習授業に、その延命処置は有るん?」

 流石に大学と病院は、そんな高度で倫理的な処置を医療の無資格者に、 例え学校の実習授業でも行なわせる事は無い。

 見学は一度だけと知らされていたし、私的にも一度の訪問で充分だった。

「無いよ。実習では、しないし、もう行かないわ。見学が最初で最後よ」

 ベッドに横たわる全ての患者が生かされているのだけど、全然、生物的にも、有機的にも思えなくて、とても無機質な印象だけが、今もイメージとして残っている。

(はっきり言って、気持の悪い異様な静寂と静止に、気分が悪くなってたよ)

「なら、その医療現場を目にする事は、もう無いよね。後は考え方の問題だけだ」

(そう、ないよ。あなたの言いたい事は分かるけど、それは考え方じゃなくて、生理的な問題だね)

「そうかもね。でも、トラウマになりそうなの」

 見て学んでSF的再生を秘めた末期医療は、私の記憶層に擦り付けるように摺り込まれてしまい、単に異なる上書きでは消えてくれそうに思えなかった。

「卒業後の就職先は、末期の延命医療を行わない病院や医療機関に就職すればいいじゃん」

(あなたの、……言う通りなんだけれどね。でも違うの……)

「トラウマになったら、どうしょう。きっと、医療関係の全てを拒否るわ。先輩の医療技師達や看護師達は気にならないのかしら」

 私の感性は普通じゃなくて、医療系に向いていないのかもと、深刻に悩んでいる。

「大丈夫さ。それは、君のトラウマにならないよ。先輩や同期のみんなも、現場の方々の指導やカウンセリングでプロになっていくんだ。最初は誰でも、どんな仕事でも、不安はみんな同じで、いろいろ悩むさ。実社会へ出てからも、様々な事を学ぶんだ。誰もがそうだよ。遅い早い、深い浅いの程度の差があるけれど、専門職の人達はみんな、責任感と使命感を伴うプロ意識を持って、仕事に従事しいるんだ」

(ああ、そうだった。彼は志を立てて働いていて、既に仕事というモノを理解してるんだっけ)

「僕は、医療の仕事に興味は無くて、精神的にも絶対無理で、できないから分からないけれど、君は医療技師になって医療以外にも、工学を学んでいて機材や機器を扱うのだから、切った縫ったの看護師さん達の現場より、気持ち的に余裕が有ると思うんだけど……、言い方が良くないかな? 間違っていて気を悪くしたら謝るよ」

 検査機器に処方装置と有るけれど、いずれも二次治療で処方判断を導いたデータや適切な数値で管理できる必要処置に使われ、設置や接続や入力のミスをしない限り、直接的な責任を問われる事はない。

「いいの、気を悪くしないから、続けて」

 彼が思っている通り、患者さんから聞こえて来る声は、信頼できるメッセンジャーに徹っして直接的医療を支援担当する看護師へ伝えれば良いだけだ。

「それに、在学中にいろいろと試験を受けて資格を取得しとけば、いいじゃんか。地方公務員や国家公務員とかな。卒業時に医療系が本当に嫌なら、県職員とか警察関係も有りじゃん」

 高校生の時に私は仕事への考えを彼から聞き、それを体現している彼を知っているからこそ、自分の仕事への目標意識を持って専攻課程の有る大学へ進学している。それを『目標は一つじゃなくて、選択肢を増やすのも在学中にすべき事だろう』と、彼は言っている。

「そうかな?」

 彼を知らなかったら、進学を目標としただけで普通高校を卒業して、自分探しや遣るべき事の見極めを理由に大学の四年間を過ごし、ただ周りに流され続けて玉の輿を求めた腰掛程度に就職した会社で寿退社をするかもね。

(……なあんて、これって人生目標が専業主婦と育児だけって事ぉ?)

「そうだよ。どう言おうと、僕の言葉なんてアドバイスでしかない。気持ち的な支えや、時には金銭的な支えになれるけれど、結局は、君が自分で判断して決めるしかないんだ」

(……そう、かもね)

 分ってる。チヤホヤされて慰(なぐさ)められたいのと、的確な指摘と導きが欲しい。だけど、現在と未来の構図を描いて幾つかの判断助言を授(さず)かっても、最後に決定するのは私自身だ。

「君の事なら、君が、自分で決めた事が、一番納得できる君の正解なんだ」

(そうなんだけどね……、正確かどうか、分かんないよ)

 でも、彼が私を支えていてくれる限り、きっと私の判断を正解にしてくれる。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。気持ちが、楽になった気がする」

 口では、『気がする』って言っていたが、彼に話して本当に気持が吹っ切れて晴れ晴れとしている。

 偏頭痛(へんずつう)がしなくなったように、肩凝(かたこ)りの痛みや強張(こわば)りが無くなったように、腰周りの鈍い痛みやしこりが消えたように、顔や手足の浮腫(むく)みが退(ひ)いたように、身体と気持が軽い。

「これからは、いろいろと相談に乗ってくれる? 悩みとか、迷いとか、今みたいな感じで相談してもいいかな?」

(あなたで良かった……)

 上辺だけのペラさは全く感じない。厚く、重く、深くの印象が残るけれど、纏わり付きやプレッシャーじゃなくて、信じられる想いと頼もしさに彼の優しさが有った。

 私達が同じ出来事に触れて、同じ感動や感情を感じて、それが瞬間的なシンクロだけで持続しなくても、もう私は疑わないし、迷わない。

「OK、勿論さ。何でも相談してもらえたら、嬉しいよ。僕も君に悩みや迷いを打ち明けるよ。僕は君の、君は僕の。互いに支え合って行こう」

 思っていた通りの返事が返ってきた。

「うん、支えてちょうだいね」

(私も、ずっと、あなたを支え続けるわ)

「ところで、臓器提供はどうするの?」

 延命治療の果ての臓器や部位組織が移植可能な状態か分らないけれど、そこそこ若い健康な肉体で事故や病気で亡くなったのなら、損傷の無い正常な器官は全て移植提供できる。

「ん、それはしてほしい。使える部分は全て提供してもらって。提供カードは書いて持っているから、本人の意思表示には問題無いだろう。提供を受けた多くの人の中で僕は生き続けるんだ、なんてね。そうなればいいじゃん。それは有りかな?」

 移植されて何度も細胞の分裂や死滅や増殖を繰り返しても、彼の成分が限りなく薄れて行くだけで、完全に置換されて消滅する事はない。

「そうね、有りかも」

 例えば、移植された臓器が心臓なら、生前の彼の鼓動の速度や強さや血液の送り量を憶えていて、彼と同じ心臓の動きと働きをしてくれるだろう。そうなれば、もし、私が移植された方の胸に耳を寄せて心音を聞けるのなら、きっと私は彼を思い出して、行き続けている彼をイメージできると思う。

「私も、そうしてくれるの?」

(なら、その永遠の生のイメージを、私へもして欲しいかも……。あなたも、既に私のモノではなくなった私の心臓だった鼓動を聞いて、私を思い出してくれるのかしら……)

「やだね。それは、無い! 嫌だ。君のパーツは誰にも渡さない」

 彼は、私の臓器や生体組織の部位を部品呼ばわりする。

(確(たし)かに部品だけど、私を成仏(じょうぶつ)させないつもりなの?)

「パーツって……、ふっ、……あなたは、以外とケチなんだね」

 身体の部位を、メンテナンスで交換できる部品のように、彼は言ってくれる。

(やっぱり、あなたは、いろいろとマニアックだね)

「君の亡骸(なきがら)は、僕が手厚く葬(ほうむ)って弔(とむら)うんだから、勿体無(もったいな)いじゃないか」

(それって、私を骨まで愛してくれるって事ぉ?)

「うっ、勿体無いって来るか……。亡骸って……、葬るとか、弔うまでも、……そこまで言うかなー。でも、あなたが、私を大事にしてくれるのは良く分ったわ」

 大事にされるのは、とても嬉しい。

 葬りは火葬だろうけど、弔いはマニアックな彼の事だから、燃え残った頭蓋骨から中学か高校の頃の私を復元するかも知れない……。

(御願いだから、そんなの絶対にしないでね。もし、復元なんてしたら、髪を伸ばし続けて、瞳はあなたを探して見詰め、喜怒哀楽(きどあいらく)に変える表情と動く口は、笑ったり、泣いたり、話し掛けたりするかもだよ)

 そんなふうに、迷う私の魂が宿れば良いけれど、それも何か不気味で厭だ。でも、彼の言葉尻からしそうな気がする。匠(たくみ)な造形テクニックとセンスを持つ彼なら、何気に造りそうだと思う。

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 以前に、死ぬ事っていうか、死んでから行く所っていうか、そんな死と死後を考えたみた事が有る。

 死ぬと肉体は店で売られている生鮮食材の徐々に腐(くさ)って、ドロドロから干物のようなカサカサに朽ち果てるのは分かるのだけど、人格の意識や記憶を司っていた魂は死後にどうなるのだろう?

 延命治療は家族や親戚からの希望、それに医学倫理や研究都合で行なうのではなくて、本人の意思ならば、五感の感覚豊かな自分に戻りたい、もっと元気で人生を楽しみたい、などの誰でも抱く生への執着が有るからだろう。

 それに、得体の知れない死への恐怖からが一番大きいのに違いない。

 自分の死は眠りに陥(おちい)る時のように、その瞬間を自分で自覚できないし、知る事もできなくて、睡眠のような目覚めはなく、二度と瞳の虹彩(こうさい)に光りを宿す事はない。

 視覚的にはフェードアウトするみたいに、徐々に視界が暗くなって行って全てが漆黒に埋もれて御仕舞いか、テレビやパソコンの画面が消えるように、プツンと突然に閉じて真っ暗になって、それっきり。

 自分の人生は其処で終焉を迎え、魂とか、心とか言われる自分の人格を形成していた意識は、リセットの為に霧散(むさん)消滅(しょうめつ)。死によって開放される記憶は刹那(せつな)の時空を超えて逆戻りの人生を見せながら消去されてしまう。

 例えば、どんなに死が刹那の瞬間でも、百歳の天寿(てんじゅ)で肉体が逝ったのなら、その死が確定した魂の離れる一瞬の刹那に、百年間の人生の逆戻りを見せてくれる。それは世間で真(まこと)しなやかに、走馬灯のようにとか、フラッシュバックとか、呼ばれている事なのかも知れないけれど、辛い事ばかりの悲しい人生であっても、嬉しさの多い幸せな人生であっても、散り死にする心に見せて欲しいと、私は願っている。

 その逆戻りの間に、生きていた時には分からなかった全てを知り、自分を取り巻いていた全てに気付き、自分への人の思いを五感以上の感覚で感じて、三十三の真理を悟(さと)る。

 そして、魂は記憶の開放が終わると同時に浄化(じょうか)されるんだ。

 何故、真理を悟らなければならないかは、私が思うに、それが生で沁(し)み付いた穢(けが)れを払って無垢(むく)になる条件というか、浄化の過程なのだろう。

 死んだ後は、どんな弔いでも肉体組織は分子に分解されてしまい、重力に引かれる地球上の物質は有限だから、やがてバラバラに多様な生物の一部として再生されて行く。

 高校生の頃、私は『仏教の開祖、仏陀(ぶっだ)(目覚めた人)』という本を読んだ。

 その本には、ゴーダマ・シッダッタはブラフマンに、『死は肉体を失わすが、魂は輪廻(りんね)転生(てんせい)して、現在、過去、未来の全ての時空の生き物に宿る』の教えを説かれたと書かれていて、その意味を私は、魂は一つだけで、生命の根幹を成すモノだと考えた。

 生き物の行いや思考には因果(いんが)応報(おうほう)が付き纏うが、生き死は同じ魂だから、我欲の善や悪の持ち回りは無くて無垢に生まれ、無垢になって死するのだと思った。

 善行の徳(とく)の積み重ねも、繰り返す悪行の罪(つみ)も、人生を生きる葛藤(かっとう)に過ぎない。

 もしもパラレルワールドの平行世界が限り無く重なっていたとしても、その全てのワールドで魂は無限に転生し続けている。そして、その魂は時空を超越して、たった一つだけなのだ。

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(私のガフの部屋にも、あなたのガフの部屋にも、同じ魂が宿っているように思えるけれど、魂にとっては違う場所と時間なの。だから、あなたは私じゃないし、私もあなたじゃないのよ)

 人格や認識や記憶は、ガフに部屋に宿った魂が生きる過程で添付されるだけ。稀に一部の消去ミスが有るかも知れないけれど、転生に持ち越す事はできない。

(ふうぅ~)

 こんなふうに死ぬ事を理解しようとした事を思い出すだけで、矢鱈(やたら)と頭が疲れてプスプスする。それに痺(しび)れてクラクラした。

 もしかして死後を考える事はタブーな事で、それを深く探求する思考にはロックが掛けられていて、それは悟りの真理がキーと成って開放するのかも知れない。

 けれど、宗教家でも、禅僧(ぜんそう)でもない私は、彼との楽しい思い、嬉しい言葉一つで直ぐに忘れてしまい、何かのついでに記憶の片隅(かたすみ)から、屁理屈や言い訳と説得の辻褄合わせに引っ張り出すくらいだろう。

 それに、私利私欲の因果応報塗(まみ)れの私に真理は、彼への真心だけで充分でしょう。

「さぁ、そろそろ行きましょう。冷えて来たことだし」

 車内を温かくしたエアコンの微風と砂浜の歩きで汗ばむ身体をアイスクリームで折角(せっかく)冷(さ)ましたのが、更に傾いて熱を弱めた太陽は海原を温められずに、渡る潮風が冷えて行く大地といっしょになって私の素肌に触れて、指先や頬や首筋に撫でるような肌寒さを感じさせた。

「ああ、だいぶ陽が傾いて来たな。行こうか」

 彼は手を私の手に重ねて、今日の日への別れと再会を約束する場所へと誘(いざな)う。

 私の冷たくなった手の甲に、しっかりと触れる彼の掌が、とても温かい。

「空港で搭乗手続きを済ませたら、美味しいものを食べましょう」

 まだ、充分に余裕を持って小松空港へ着けそうだと思う。

「そうだな。温かい麺類ってのは、どうだろう? 僕はカレー饂飩(うどん)にするよ」

 そう言った彼は、私の手を取って安全に長者屋敷から降ろしてくれると、そのまま手を繋いで波打ち際近くの硬めな砂地を駐車場へと向かった。

(カレー饂飩って、それ絡みなの?)

「じゃあ、私は、因縁(いんねん)無しの御蕎麦にするわ」

 普通に話す彼との会話が楽しい。

 斜陽の弱まる陽の光で冷める砂が足裏に冷たく感じながら、握る彼の掌の温かさが悴(かじか)み始めた私の指先を穏やかに解(ほぐ)してくれるのを嬉しく思う。

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 北陸自動車道の片山津インターへ入る交差点を過ぎ、空港ターミナルへの分岐路が在る安宅の町へ至る直線道路の右手に、夕陽で赤く染められたゴルフ場の松林を見た時、唐突(とうとつ)に私は思い出した。そして、それを実際の事実にする事に決めた。

「まだ時間は、大丈夫だよねぇ? なら、そこを左へ曲がって、高速道路を越えて海岸へ行きましょう」

 私の言葉を聞いた彼は、直ぐにSUV車を減速させながら答える。

「時間は、まだ余裕。ん? 海岸って、浜辺へ?」

 左折して私の願いを聞き入れてくれる彼は、北陸自動車道の上を渡る陸橋を越えて下ると、護岸堤が続く海岸縁まで行ってSUV車を停めた。

「そうよ。ちょっと、正夢(まさゆめ)にしたい事が有るのよ……」

 夕闇の中、金石の町から帰るバスの最後部の端座席で眠り込んでしまった私が目覚めた時に、鼻腔の上側と目尻を刺すニンニク臭が多分に自分の吐く息にするのと、仄(ほの)かに美味なラーメンの味がする唇に、柔らかい何かを押し付けられた感触が残っていた。

 高校一年生の春の終わり、彼のメールに誘われて金石の浜まで、部活のトレーニングでへたばる彼を見に行った。

 あの時の彼との会合はスカートの中を覗かれただけの一瞬くらいだったが、その後の真っ赤な夕陽が少しも翳(かげ)り無く水平線に沈む日没の美しさに見蕩れていた。更に黄昏の金石の町で異世界の狭間に入り込んだような不思議な体験をした。

「外へ出ましょう」

 夢見の良さを現実で再現したい!

 リアルな夢の触感を現実で試したい!

 そして、夢の中と同じような私の胸の高まりと、熱くなる顔や首を感じたい!

 あの日、彼へ無関心でいられるように私は夕暮れの黄昏(たそがれ)に抱かれる金石の町へ行った。

 その夜の就寝で、金石の砂丘の上に立つ私は横に居る彼と優しく蕩けそうなキスをするリアルな夢を見た。キスの夢は、金石から戻るバスの中で転寝した私が同乗して来た彼に小突れて起こされた際に、唇に感じた感触の所為かも知れないと思うけれど、夢の中なのに覚醒しても唇に残る、そのリアルな感触は何日も消えてくれなかった。

 彼のマイナス面を見い出す為に金石の町へ行ったのに、私は彼への意識を大きくしてしまった。

「少し寒くなって来たから、こうしていてくれる?」

 彼の腕に手を回して身体を寄り添わせる私は、驚きの躊躇いが半分、嬉しい喜びが半分の彼の横顔を見ながら私は思う。

 目覚めても感触が残るリアルな夢見だとしても、既に四年も過ぎた事だから大筋以外は思い違いが多く有ると思うけれど、夢の中で私の横に居て心地好いキスの感触を残してくれたのは、確かに彼だった。

 全身を彼の方へ向き直すと、そっと爪先立ちで背を伸ばす。それから私は、少し顎を上げると期待を込めて眼を閉じる。

 キスを求める私の唇に、彼の唇が触れるのを感じた。

 最初はそっと軽く確かめるように彼の唇が触れ、次に少し押し付けるように触れると、離れ際に私の結んだ唇が釣られて小さく開き、直ぐに触れ直した唇が更に開かせて、彼の舌が入って来る。

(うぅ……、あぁ……)

 私を抱き留める手が首筋に仰(の)け反(ぞ)らないように添えられて、舌先が私の舌の脇や裏を、口の天井や底を転がすように撫でて行く。

(なっ、なんか、てっ、手際がいいわ…… ね。ううん、気持いい……、あはぁ……)

 彼の舌を吸い、私の舌を絡ませると、彼も私の舌に吸い付き。舌を絡み返す。

 喘(あえ)ぎ始めた息に、私の胸と肩が振るえている。

 あのリアルなキスの夢は、その後も何度か見ていた。どの夢もキスの感触と気持の良さは同じだったけれど、そのリアルなキス以上に現実の、とろんとする心地好さに薄く眼を開いて彼を見ると、彼が優しげな眼差しで私の瞳を見ていた。

(ずっと私を……、見てたの? 反応を…… 観察ぅ? ええっー?)

 彼に私の表情や身悶(みもだ)えの反応が観察されていた恥ずかしさに、耳の後ろや項まで熱くなって行く。

 私の薄目に気が付くと、私を見ていた眼が微笑んでから閉じた。

 こんなにも心臓が高く、強く、速く、鼓動して、凄い勢いで血管を脈打たせながらアドレナリンが全身を駆け巡っているはずなのに、興奮が激しくなるよりも蕩ける意識に気を失いそう。

(ああっ! 大好きよ!)

 身体の全てから力が抜けて行きそう。

(一番長い中指を咥えたら、ゆっくりと口の中を指先でなぞるように触れてくれて、その擽ったさに身悶えしちゃうかもね?)

 過ぎる卑猥(ひわい)な想いに、股間が湿(しめ)るのが分った。

 瞬間、腰と膝の力が抜けて、キスをしたままカクンと小さくヨロけたのを、彼の私に廻した腕と手に力が入り、それ以上に私がヨロけても大丈夫なように支えてくれる。そして、ゆっくりと彼が唇を話して行く。

 戻る彼の舌と離れる唇に、全ての方向へ何処までも広がって仕舞うような気持の好さに何も考えられずに、翔(と)び過ぎて召(め)さる寸前だった魂と意識が戻って来た。

 立ち眠りの寝起きのようなフラ付く感覚に、思わず彼の腕をしっかりと掴み直してしまう。

「うふっ、あそこも、こんな感じで歩きたいわね」

 くらりと浮き上がるような気持にさせる彼のキスから離れた上唇を噛む私は、心地好い気分のままに彼へ訊いた。

「あそこ? それって、どこ?」

 それはまるで、奇蹟の出逢いのようで、私はデスティニーを感じてしまった。

「冬の、イ、タ、リ、ア。特に、コモ湖の畔(ほとり)とスペイン広場ね」

 中学二年生の三学期の家族旅行の時、地球を半周近く移動した場所で彼と遭遇するなんて、全然、思いもしていなかった。

 湖畔の駐車場に入って来た大型観光バスの車窓に東洋人らしき人影が並び、日本人のツアーグループかもと見ていたら、降車する人達の最後の方に彼が降りて来たのには、心底、驚いてしまった。まさか、知っている日本人がいて、しかも、日本の自宅にいて明日も通学するはずの彼だなんて、超常現象的に『なぜ、ここにいるのよ?!』だった。

 それまで、メールでからかう程度しか、他の男子より意識しなかったのが、三年生になってクラスが別々になったのに、私の目は彼を探していた。

「コモ湖はねえ、あの日、ホテルのベッドに入ってから考えたの。私からあなたに声を掛けていれば、こんな感じで湖畔を歩けたかなぁーって。なんかぁ、遠出すると気持ちが開放的になるじゃない。あの時は海外だったから尚更だったのよ。何気に手を繋げたりして、話しはツアーのスケジュールやオプションなどでも良かったしね」

 別に海外じゃなくても、いつも生活している地域から遠く離れた場所で偶然にも出遭えたなら、郷愁や旅愁や哀愁の憂いと寂しさに、違う場所の光と空気を添えた愛おしさ懐かしさの求める親しみが、私を打ち解けさせて繋がり、傍に居いたいと思ってしまう。

「でも、コモ湖じゃ、あなたが居る事にびっくりして、うろたえるばかりで、とても、そんな気持ちになるどころじゃなかったよ。だから、気分だけでもミステリーにって、夜にメールしたの。ふふっ」

 慣れ親しんだ御郷(おさと)に居る私は開放的な気持に、立戸の浜ではおしゃべりで行動的だった。

 大桟橋へ行った日は、相模原まで会いに来てくれる彼が嬉しくて、気持はときめいていた。

 もし、コモ湖で触れ合いが有って、ミラノのホテルへ逢いに行っていたとしたら、それからは彼に素直な私になれていただろうか?

「イタリアにいた間は、ずっと、そんな事ばかり考えていたわ。だって旅行の初日だったんだから、意識しないわけないじゃん! ……でもね、日本に帰ったら直ぐにそんな気持ちは消えちゃって、思いもしなくなったの。また、いつもの閉鎖的な私……。不思議よねえ」

 無口で無関心。否定と拒絶。見掛けの規則の遵守(じゅんしゅ)と僅かな模範意識。中学校や高校の閉鎖的ムードの限られた空間と時間の行動環境で、そんな毎日を過ごす私は、彼に好意を示されても積極的に親しくできなかった。

「もっとメールして、正直に状況を知らせていれば、実現していたかもね」

 もし、あの時にあなたが、『イタリアにいて、ミラノのホテルに泊まっている』と、返信で知らせて来たなら、私はお姉ちゃんと、あなたが居るホテルへ会いに行っていたかも知れない。

「まさか、またスペイン広場で会っていたなんて、思いもしなかったわ」

 広場に面する土産雑貨の店のショーウインドー越しに、私の一挙一動を彼に見られていた。

 何度も手に取って迷った末に諦めていたモノを彼は、終業式の日に私の机の中へ入れてプレゼントしてくれた。

 不審な物かも知れないと、怖々(こわごわ)、暖かい色調の包みを解(と)いた後の驚きは、其の後に体験した幾つもの彼への驚きの始まりだった。

「あのね、予感はしてたんだ」

 初めてあなたと話した小学六年生の時から意識していて、いつかは今日の私のように成れればって思っていた。それなのに、私の仕様も無い拘りと、気紛(きまぐ)れと、語弊(ごへい)が有るかも知れない高望みで、彼の大切さを含めて認める事が出来ずにいた。

「……予感?」

 終業式の日のプレゼントからは、それまでは掠(かす)れ掠れの殆ど透明に見えていて認めたくなかった糸が、くっきりと赤く見えて出ている気がした。

 その赤い糸を視線で手繰(たぐ)る果てに、廊下で私を見ている彼がいた。

「そう、きっといつか、私はあなたへ素直に気持ちを曝(さら)け出せるって、予感がしていたの」

 以後、事有る毎(ごと)に彼への驚きが糸の赤色を濃く鮮やかにさせて行くのを分っていたけれど、ベストを求める私の気持が気付きたくないと反発していた。

(嫌いじゃないけど、好みじゃない ……みたいな。別に好きな男子はいないけど、好きでもない男子から告白されるのは、キモくてウザいみたいな……。ちょっと酷いかも知んないけど、そんな感じだったかな)

「あっ、その笑顔はいただきだ! 凄く好い笑顔だ。うん、きっちり僕の心にインプットしたよ。今から、君のイメージにするんだ。……夕陽に紅く染まって明るく笑う、なんてね。……僕は、いつも君を笑顔でいさせたいです」

 別に脳の記憶中枢にメモリーしなくても、写真を撮ればいいのにと思う。そうすれば、今、彼に見せている『凄く好い笑顔』を私もチェックできる。それが、私らしい納得できる笑顔だったら、私も欲しいし、彼の携帯電話の待ち受け画面にも使って欲しい。

(もしかして、以前……、あなたに、私の写真を撮らないでって、言ったかしら?)

 敢えて、私から写真撮影を提案しない。

(まあ……、これからは、互いの写真を撮る機会が幾らでも有るでしょう。あなたが撮るのを躊躇するなら、私から積極的に撮ってあげるね)

「紅く染まってって、それ、酔っ払いみたくないの? 居酒屋で大笑いしながら、楽しくはしゃいでいるイメージじゃ、ないんだよねぇ?」

 言ってしまってから、私は『酔うと笑い易くなるタチだったかな?』と自問する。

(あはっ、素面(しらふ)でも、酔っ払っても、笑えるような楽しい気分でいさせてくれるというのは、嬉しいな)

「あっはっはは。ちゃう、ちゃう。マジで今日を連想する笑顔だよ」

 彼が私を笑顔でいさせてくれるのなら、私は嬉しく笑う明るさと穏やかさで、彼を癒(いや)して楽しい気分にしてあげたい。

「あはっ、冗談よ。私も、あなたの今の笑顔を貰うわ。とても素敵な笑顔だよ。あなたを想う時、あなたのメールを見る時、あなたの電話の声を聞く時、今強く私が記憶した、あなたの笑顔を、いつも想い浮かべるわ」

(そう、あなたの笑顔も、私を癒してくれているのよ)

 無警戒に笑う彼に、これからは、これまでのような戸惑いや不安な顔をさせないようにしなくてはと、私は何度でも心に強く誓う。

 互いの心のケアをして、安らぎと復活のモチベーションを得られなければ、互いを求め合う意味が無いと思う。

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 小松空港のカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナルビル二階の飲食店の並びで、彼は私の得意なカレー饂飩をオーダーして、私は温かい鴨南蛮の蕎麦を食べた。

 それから売店で明日の朝ご飯用の空弁(そらべん)と自分用の土産を買った後、フロアの柱の影でキスをした。

 うっとりする舌の絡み愛しい唇の感触に、彼は深く腕を廻して私を胸を締め付けるように抱いて来る。

「うっ、いっ、痛いよ」

 痛いくらいに私を強く抱き締める彼の気持ちは解っている。

 これまで私は、冷たい態度と文の中に僅かな優しさを付け加えたり、あからさまに期待させる親し気な行動をしたり、嬉がられる言葉を言ったりして来て、それらを全て覆(くつがえ)していた。

 そして今日、更に、その金輪際(こんりんざい)の縁切りを卓袱台(ちゃぶだい)返(がえ)ししている。

 こんなに素っ裸に私を素直に晒(さら)して、心の底の隅々まで気持を吐露(とろ)しても、彼は今日の私が儚(はかな)い夢のように霧散(むさん)しないか、怖がっていた。

 それは、私が抱(いだ)く、電話の女性への不安感や、いつの日か、思い出話しで言えそうな、中学生女子達と楽しく下校する彼の姿への裏切られ感や、弓道のファンだと思う女子高生といっしょに浅野川(あさのがわ)縁(べり)や片町のアーケードを歩く、彼の嬉しそうな態度へのジェラシーよりも深刻で、ピンポイントな強い恐れだと知った。

(ごめんね。ずっと、ずっと気付けなくて。……あなたは、私と別れる度に、こうして私を引き止めていたかったんだ……)

「あっ、ごっ、ごめん」

 彼が不安顔で謝るのを見ながら、私こそ彼に謝りたいと思う。

(少し、痛かったけれど、息が止まるくらいに抱き締められるのも、……嫌じゃないよ)

「ううん。でも嬉しい」

 彼が女子達と下校したのも、ファンの子に誘われて買い物に付き合っていたのも、一番の原因は私に有ると思う。

「部屋に着いたら連絡するね」

 金沢神社では、高校入試の合格願掛けの絵馬を掛けるのを見ていた。通学のバス事故の日は、怪我の痛みを我慢して連れ回されてくれた彼の乗ったタクシーを見えなくなるまで見送っていた。彼が明千寺へ来てくれた時には、立戸の浜から穴水町の南外れの交差点まで見送ってあげた。

 なのに気紛れで、気分屋で、利己的な私は、相模大野の駅前でV-MAXで帰る彼を冷たく見送っただけで、彼が無事に帰ったかどうかの確認を、メールでも、電話でも、私からしなかった。

「ああ、待ってるよ。ほら急がないと、そろそろ搭乗が始まってるんじゃないか? 気を付けてな。迷子になるなよ」

 でも今は、もう既に、心も、身体も、強く彼と繋がっていて、彼は私のモノだし、私も彼のモノなのだ。

 今日からは、スターティング・オーヴァー。未来はハッピーエンドへ書き変えて行けると思う。そう出来ると私は強く信じている。

 小松空港のセキュリティーゲートで彼に見送られて飛行機に乗った。機内のシートに座ると身体が小さく震え出した。気持ちが受け入れて心が解き放されても、私の身体が理解していない。羽田空港に着くまでの短いフライト時間では、十分に想いの整理ができなかった。

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 柱の影でのキスの後、搭乗直前の小松空港で私は彼に、これからも私を好きでいる覚悟を訊いた。

「今日は、逢えて本当に良かった。すっごく嬉しいよ。それと……、悩みも相談できて良かった」

 見送ってくれる彼の顔が、優しくて嬉しい。

「礼を言うのは僕の方だ。僕こそ君に逢えて本当に良かった。それに、僕を好きだと言ってくれて最高に嬉しいよ。迷いの相談も。僕の方こそ凄っごく感謝してる」

(そんな事はないよ。私の素直な想いだから、感謝なんてしないで)

「そして……」

 また、私が突然に心変わりを見せるかも知れないと不安に思う彼に、私を疑わせずに安心させなければいけない。

「……そして、私を、ずっと彼女にする覚悟は有るの?」

 言っている途中から上半身が上気(じょうき)して来た。耳と首の後ろが痛いように熱く感じて自分の顔が火照っているのが分る。高鳴る鼓動に気道が詰まったように息苦しく、喘ぐ胸が大きく上下していた。

 彼とキスから先の肉体関係を持ち、同棲(どうせい)でも構わないからいっしょに暮らして、私と結婚する気が有るのかと、私から彼に訊いていた。

 私は彼の子供を産んで、二人で子育てをする。その覚悟を彼に問うている。

 さっきまで、互いの人生の終末を看取るような会話は、あなたと添い遂げるという事なのに、いざ、言葉にすると、私から先に迫った事が凄く恥ずかしくなった。

「えっ! ……覚悟?! もっ、もち……」

 ……金沢へ戻って来たのは、父親の仕事を継ぐ為だけだとは限らない。

 一瞬の理解への導きと、刹那(せつな)の躊躇いに、即答に近い返事の言葉が彼から発せられようとしている。彼の言葉には、彼自身が微塵にも考えてもいない『都合の良い女』を、無意識下に滲ませて来るかも知れないない。

(絶対に、そんな事を考えていないだろうが、……私は気付きたくないし、タイムリーな女と思われるのは、厭だ!)

 だから、今じゃなくて、互いが離れた場所に少し時間を置いてから、聞きたいと思う。

「まって! 今、答えないで! 次に会う時に聞かせて。その時までに良く考えてね。ふふっ」

 今、彼が答える言葉は決まっている……。今日の偶然の出逢いと後の流れで心地好い返事を彼は言ってくれると思う。でも、今までとこれからの私達を本当に良く考えて判断してから選んで欲しいと強く望んでしまった。

 何度か心通わせて寄り添う機会が有った。それを悉(ことごと)く無碍(むげ)にして来たのは私だ。永遠の別れを断言した私へ彼が罵倒(ばとう)する文字の羅列(られつ)を差っ引いても、私に圧倒的な非がある。

 それでも、今日の日を過ぎて客観的に私を冷静に考えれる日々を経てから、私が望む理想の言葉で答えて欲しい願う。

(しかし、そうではなくて拒否られちゃったら、……人間を辞めてしまいたいくらい悩んじゃって、泣き喚いてしまうよ。そして生涯……、愚かな自分を呪い続けちゃうかもね。……でも、仕様が無いよね。それくらい動揺しても、私は潔くあなたを諦めてあげるわ)

     *

 羽田空港から幾つもの電車を乗り継いで、もうすぐ日付が変わる頃にやっと相模原の部屋に着いた。

 荷物を床へ置き、脱いだコートをハンガーに掛け、ベッドに腰掛けてエアコンをオンにする。エアコンのシロッコファンから送り出された温かい風が髪を戦がすのを感じながら、携帯電話を手に取り、交換した彼の電話番号の探した。

 部屋へ無事に着いた事を知らせる為に、ときめく今日を思い出す為に、そして、これからの事を話す為に、まだ少し震える指で携帯電話のタッチパネルに触れる。軽いタッチを指先が繰り返して、パネルに彼の携帯電話番号を表示させて行く。

 ベッドに寝転び、机の隅の置かれた西洋城館のミニチュアを眺めながら、彼を呼び出すコールを聞く。

 もうメールはしない。私は彼の声を聞く為に電話を掛ける。

 城館の上に林立して翻(ひるがえ)る旗は半分ほど折れている。抑え切れない苛立ちや遣り切れない不満の度に私が折ってきた。折った旗は机の引出しに残して有る。

(そうだ! この旗たちを、彼に直して貰おう)

 何か特別な事を閃いた気分になり、もっと良く近くでミニチュアを見ようとベッドから起き掛けた、その時。

 携帯電話のスピーカーから聞こえていたコール音が消えて、彼との通話の始まりを知らせる。

『ガリッ! ボフッ!』

 スピーカーから掴み損(そこ)ねた電話機を急いで持ち直したような音と、更に安堵からか、緊張からなのか、短く溜め息を吹き掛けたみたいな音がする。

「もっ……、もしもし……」

 続いて私の耳に、躊躇い勝ちに……、でも明るい彼の声が聞こえた。私から呼び掛ける前に彼が発した、その明るい声に私は思う。

(これからは彼と様々な事を話し、二人で多くの場所へ行き、いっしょに色々な事をしよう。もっと、もっと、彼を好きになれるように!)

「私よ。うん、無事に部屋に着いたから、安心して」

 もう彼のコールを冷酷に拒絶はしない。そう、彼の言葉や文字は、いつも制限時間付きみたいな私の悩みや迷いや憂いを、優しい待ち時間に変えてくれていた。

(彼が望み、私が求めた、二人の未来は、希望と安らぎの眩しい光に溢れさせて遣る!)

 素直に嬉しい気持ちのまま、楽しく弾む明るい声で優しく返そうと吸い込む私の息に、ほんのり桜の匂いがした。

「けっ、けっ、結婚して下さい!」

(ううぅ、この……、深夜のシチュエーションで、正式なプロポーズをして来るかなぁ? それに、まだ今日を延長しそうな時間だよ。次に会う時でいいって言ったのに……、こんなに早く結論を出して、私が望んでいた理想の返事をしてもいいの?)

 突然の予期しない彼の言葉は、それを求めていたのにも関わらず、私を戸惑わせた。

(もっとこう、気持を昂(たかぶ)らせて行って、添え物のプレゼントが有って、貰って。なんか、ドッキン、ドッキンと全身に悪寒で震えるくらいに響く、サプライズみたいなのを、晴れ渡る明るい青空に桜の花弁が舞う中でしてくれる、みたいなのを想像していたのにさ……)

 視界が滲み、眼から溢れる泪が頬に温かく流れて、幾つもポロポロと涙の粒が落ちているのを知った。

(でも、これも、……夜桜咲く、綺麗なミッドナイトブルーの、嬉しいサプライズだねぇ)

 私の涙腺が、無自覚に彼の声に答えている。

「うん。……はい!」

 涙腺に続いて、勝手に返事をした声を強く言い直した。

「ズッ、わっ、私からも御願いします。ズズッ、私と結婚して下さい!」

 涙が止まらない。流れ出そうな鼻を啜りながら、鼻声でも、はっきりと、私からもプロポーズする。

「はい! 謹(つつし)んで、喜んで受け賜(たまわ)ります!」

 彼の嬉しさが伝わる大きな声の語尾が、鼻声になった。

(あっ、あっちゃあ! 電話越しのプロポーズを、即答で御受けしちゃったよ! しかも、電話越しに私からも返しの御願いをしちゃって、彼も即答で受けてくれて、再確認はOKだよ! もう、無かった事にならないよねぇ。……うっ、うっ、ううっ、嬉しい……、ああん、嬉しいよぉ……。あん、あん)

 彼も、私も、感無量の喜びで泣いている。

「嬉しい。凄く、嬉しい!」

 自分でも可笑しくて笑っちゃうほど、涙と鼻水が止まらない。

(彼は、もう私を疑わない! 私は、もう迷わない!)

「僕もだよ! この嬉しさを、ズズッ、君に何て伝えよう? ……心から愛しています」

(愛の誓いだ!)

 指輪の枷(かせ)を互いに嵌(は)める時のような、心に染み入る言葉を言う彼の声も鼻声が酷くなっている。

「私もあなたを、心から愛しています。……うふ、もっと言葉を選びたいのに、お互い、在り来たりなラブコールになっちゃうね」

 私も愛の誓いを言う。この後に続くのが、昼間の『死が二人を別つまで』だ。

「ああ、そうだね。もっと言葉を探して、君と僕が、ウルウル感動しちゃうくらいのを選んで言いたかったのに、結局、思い付くのは、普通の愛の誓いになっちゃったな」

 話す彼を遮ってワザと言わせなかった言葉なのに、サプライズで言われた所為か、その言葉を聞いてしまうと、彼の言葉は思いもせず、ずっと深く私の中に入って来て、予想していた以上に私を感動させていた。

(もう、ウルウルどころか、ポロポロだよ……)

「……泣いているよ。私……」

 そう自覚してしまうと、更にブワッと溢れて頬が零れ流れる涙で熱くなる。

 中学二年生での彼の告白は無記名のメール文だった。今のプロポーズは彼だと分かっている電話の声だ。きっと彼は、次に会う時に改めてプロポーズを決めて来るでしょう。

(あなたはしっかりと、あなたが映る私の瞳を見て言葉を言い、私は、ちゃんと私が映るあなたの瞳を見て、あなたの言葉を受けてあげるわ)

「うん、愚図(ぐず)る声で分かってる。んん、もしかして、僕と同じで、浜の風で風邪を引きそうになっているとか? 違う?」

(なっ、なにぉう。愚図って鼻声じゃないし、風邪も引いていないし。今の私の声は、ぐちゃぐちゃな泣き声じゃん!)

「うんもう、ちゃかさないで! 違うよ、バカ!」

 彼が風邪を引いていないのも、冗談を言っているのも分かっている。

 もう少し、シリアスでいて欲しいとも思ったけれど、彼の涙声が嬉しくて楽しい。

 そして私は、とても幸せな気持になっていると思う。

「アハハッ、ごめん。……僕も涙ぐんでる。……ありがとう」

 彼が笑いながら、謝罪と感謝の言葉を言って、私も御礼の言葉を返す。

「私こそ、ありがとう」

(私は、あなたと添い遂げます)

 同じ言葉に、同じ気持。彼も、私も、互いを疑わない。迷いも、不安も無い。今度こそ、はっきりと私達には分った。

 金沢と相模原に二人は遠く隔てられているけれど、しっかりと二人の言葉と心は繋がっている。

 この後は、欠伸(あくび)が出て『おやすみなさい』を告げるまで、幸せな気持に満たされた長電話をしてから、火照る身体を冷まさないように温かい御風呂に入って、今日を反芻する。そして、幸せ豊かな心で安らぎの眠りにつくでしょう。

(あなたの夢が、見たいなぁ。ずうっと、見れるといいなぁ)

 

……完(私)

大桟橋とカツ丼 (僕 十八才) 桜の匂い 第八章 壱

 今日もバイクでルート246を北上している。三週間前の三月末の日曜日もこの道を走っていた。走行ルートの下見と首都圏のムードを感じたくて相模原市へ行った。彼女がこれから四年間の大学時代を過ごす街と環境を知りたいと思って行ってみた。

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 初めて来た相模原の街は、街路樹や公園の並木の多くが桜の木で、まだ三月末なのに既に桜は満開のピークを過ぎて散り始めていた。僕が勤めている会社が在る東海地方の静岡市もそうだけど、北陸地方の金沢市とは違う関東の早い桜の開花と散り始めに、僕は驚いてしまった。これまで四月後半の今日でも咲き残っている金沢の桜しか知らなかったから、ピンク色の無い新緑の四月は雅に欠けて、とても物足りなさを感じてしまう。

 日本の人口の多くは、卒業式の頃に桜が咲く地域に暮らしている。淡いピンク色が匂う綺麗に咲き揃う様と、一陣の風に満開の花弁の美しく舞い落ちる桜吹雪の潔さが旅立ちと別れの思いに合わさり、お花見で愛でながらも桜の花が穢れの無い儚さを感じさせる悲愴なイメージになってしまうのも分かる。入学式を過ぎてから咲く、予感と期待と希望を抱かせてくれる北陸の桜とは、大違いだ。

 彼女は相模原の住所を知らせてくれなくて、彼女の通うだろう大学だけをGPSに頼らず探検気分で探し回った。

 そろそろ金沢から移って来る頃だと思っていた三月下旬に、『相模原に来てます。初めての一人暮らしを始めてるよ』と、メールが届いていたから、今もこの街の何処かに彼女はいる筈だと考えながら走っていた。明るい青空に桜の花弁が春風に乱れ舞う美しい桜吹雪のストリートを、昨日見ていたウロ覚えの地図と感を頼りに僕はV-MAXで走り抜けていた。

 その日、僕が相模原へ行く事を彼女には連絡していなかった。引越しの片付けと日常生活を整え中に僕が手伝いの口実で来られても戸惑うだけで困るだろうし、それに彼女は僕を彼氏と認めていないのだから変だろう。友達としてわざわざ静岡から手伝いに行くのは、恋慕の下心一杯の男と思われるだけだ。

(いや、本当は、SAY・YES! の恋心だけなのだけど……)

 彼女に求められている確証を持てていないという拘りを僕はいつまでも引き摺っていた。思いをメールで伝えても、『来ないで』と返って来ていたに決まっている。それなのに僕は、あれこれ理由を付けて下心を覆い隠し、相模原に行った。彼女と偶然の出逢いが有っても用意した言い訳をせずに逃げるだけの癖(くせ)に…… 行って来た。

 彼女が何処に住むのかも分からずに、当てずっぽうに相模原の街を走り回るだけだったけれど、これから彼女が学ぶ大学だけは見付けた。大学の正面らしきゲートの真向かいにV-MAXを停めて見る構内は、どうもキャンパスが総合病院に併設されているようで、暫くして目の前のゲートが病院へ出入りする為のモノだと知った。

 病院の正面ゲートだと悟ると、キャンパスへ学生が出入りする通路は『何処に在るのだろう?』と、向かいの敷地内を移動する人達に眼を凝らしながら探っている自分がいた。もう気持ちはストーカーのようだった。休日で人通りの少ない広い構内には多くの建物が建ち、病院の建物なのか、大学の校舎なのかも判断が出来ず、欲しい情報は何一つ得られなかった。

 もしも、このまま彼女から『一人暮らしを始めた』以上の情報が無ければ、時々、ウイークディーに僕は此処へ来て構内に入り、学生達の中に彼女を探して確証と安心を得るまで、彼女のキャンパスライフと一人暮らしをストーカーするだろうと思った。そして、去年のバス事故で彼女を守る盾と成り、初めての暑中見舞いの葉書で能登半島の明千寺の町へ誘われて、立戸の浜で彼女と親しく話せた僕には、その権利が有ると思っていた。

 そんな事をしても何も納得できずに虚しく、過激化して行くだろう行動は諸刃の剣となって、彼女と僕を酷く傷付けるのは判っているのに、僕はV-MAXに凭れながら、どうすれば彼女に気付かれずに探って付き纏えるかと、自己中の斜めにズレた方向で考える僕は、甚だしい勘違いをしていた。

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 不穏な気持ちになった三週間前と違って今日は、気持ちに余裕を持って相模原に向かっている。先週の初め、既に大学の授業が始まっているだろうと思い、『そっちへ会いに行く』とメールを打つと、

【来て。この日の、この時刻に、この場所で。デートしよう】

 意外なほど、あっさりとデートが決まった。まさか直ぐにデートに誘われるとは思っていなくて、毎日、彼女のメールを五、六回はメールを読み直していた。

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 新たな仕切り直しの期待で彼女の想いを信じる僕は、早朝の寒さに震えながらルート246を相模原へと向かっている。三月末のように迷わなければ、あと一時間ほどで待ち合わせの場所に着くだろう。逸る気持ちの三月末は冒険気分でGPSを使わずにいたら、しっかりと迷ってしまった。どこも似たような大きな通りばかりでさっぱりわからない。道路案内板の地名は、僕が知らないだけで関東じゃメジャーかも知れないけれど、マイナーな地名ばかりに思えて向かう方向さえも分からず、結局はGPSに頼ってどうにか辿り着けた。

 待ち合わせ場所はGPSで検索し登録していたけれど、デートを決めるメールには彼女の一人暮らしの住所が書かれていなかった。未だに僕は、彼女の友達手前以上には成れていないらしい。

     *

 四週間前に届いたV-MAX。バイクショップで車高を下げる改造と、エンジンのチューンアップをしてから納車して貰った。リアサスペンションのスプリングをカットして、五センチほど車高を下げ、更にシートの芯を抜いて薄くした。突き上げが増えて乗り心地が悪くなったけれど、跨ると両足の靴底がべったりと路面に着いて、とても安心感が有る。

 教習所のバイクは車高が高く、低速時や停止で振らついて何度も補習を受けた。バイクショップで試乗したV-MAXも、足の着きが不安で立ち転けしそうだった。

 バイクショップのオーナーは親父の知り合いだったから、車高を下げる際に無理を言ってエンジンを降ろし、シリンダーヘッドを外して貰う。そして、WPC加工を面倒臭そうに渋る親父に頼み込んで加工装置を使わせて貰った。

 WPC加工は、微細なビーズを水の噴流に混ぜて金属の表面に激突させる加工方法だ。ビーズが衝突したとても小さな点のような部分が高温になり、瞬間に金属が溶けて急激に冷やされる。これが加工する金属表面全体に繰り返し施されと、表面から機械加工の筋が消えて滑らかで薄い超硬質な表皮に覆われてしまう。

 シリンダーヘッドの表面にWPC加工をすると、シリンダー筒との摩擦係数が小さくなり密閉性も上がる。更に最表面に潤滑層を形成する微粒子のショット加工を行うと、結果、燃費が良くなりパワーもアップする。

 WPC加工は、WONDER PROCESS CRAFTの略、『ワンダー・プロセス・クラフト』日本語にすると不思議な方法の特殊技術かな。応用は未知数で、実際に様々な分野で使われていて金属以外にも効果が有るみたいだ。

 親父は数年前に、導入していろいろと改造して全自動システムにしていた。六軸のロボットアーム、アタッチメントやビーズの自動交換、タッチや近接や画像のセンサーなどなど、加工物の形状と加工範囲を読み込ませ、あとはプログラムをセンサーが勝手に組み合わせて無人の全自動で動く。

 大抵は金型の摺動面や摺り合わせ面に用いていて、依頼が有ると面相度の均一化や特殊仕様品にショットブラストしている。プログラムは僕が組み、素材のセットも僕が行うのに、親父は性格的に作業と相性が合わないのか、いつも面倒臭がっていた。

(変な親父だ。たぶん、今回は僕好みのエンジンにする為だけに使って、金に成らないからだな。ホワイトダックスには、親父が自分でしている癖に!)

「全く、この忙しいのに面倒臭い奴だ。これは誰にも話していないし見せてもいない。メーカー連中やお客も知らない。今まで俺以外で見せて使わせているのは、お前だけだぞ」

 工場の加工設備を初めて見た時に、そう語る親父が頼もしく思えた。それまで親父の仕事にあまり興味が無くて、業種も内容も作業場や設備も良く知らなかった。僕がモノ造りに興味を持ったのは、その時からかも知れない。

「そのデカイのに飽きたら、俺に譲るんだぞ。勝手に売るなよ。だいたい所有者名義は、この俺だからな。代金の半分以上も、俺がキャッシュで支払ったんだからな」

(うっせーな、親父。分かってるさ。でも当分、いやいや、ずっとV-MAXには飽きないと思うから、ちょっと譲れないね)

     *

 待ち合わせの場所には予定時刻の十五分前に着いて、まだ来ていない彼女を待った。初冬の寒い朝、兼六園下のバス停を最後に彼女と出会っていない。寒い冬で受験勉強に頑張る彼女の体調が崩れるのを、心配した親は朝の登校と塾の帰りを車で送迎してくれていると、故に朝のバスに乗っていないと、彼女のメールに書かれていた。

 今日は、五ヶ月ぶりで彼女を見る事ができる。

(最初に笑顔で迎えてくれるだろうか? 心ときめかす彼女の可愛さは変わっていないだろうか? 大人びて、更に綺麗になったのだろうか? クールでシックな彼女の性格は、大学生になって変化したのだろうか?)

 彼女の美しい変化を期待して、ワクワクと気持ちが高ぶり落ち着かない。切に彼女の笑い顔を見たいと思う。

(性格も大人びて? ……いたら良いな)

 予定時刻が近付くに連れて、約束をシカトしたり、予定をドタキャンされたりして、このまま彼女はここへ来ないかも知れないと、気持ちが焦り出す。そんな不安な思いは、笑顔で小さく手を振る彼女を思い浮かべて振り払おうとする努力も空しく、見上げた全天を切れ間無く覆う曇り空のように広がって行く。彼女の気が変わらない保障も、約束を守る確信も、来てくれる自信も、僕には無かった。

 もう間も無く予定時刻になろうかとする頃、雲間に青空が覗き差し込む陽の光りで辺りが明るくなった。その一筋の光りの端から満を持して、スポットライトを浴びながら登場する舞台女優のように彼女は現れた。それはまるで、僕らの出会いを大自然の天候がプロデュースをする祝福のサプライズように思えた。彼女は約束を反故にせず、きっかり予定時刻に僕へ会いに来てくれた。

 近付いて来る彼女は、ほんのりブラウンに染めてナチュラルに先端をカールさせたヘアをしなやかに揺らし、たった五ヶ月間しか会わないだけで髪がそんなにも長くなって、ふっくらとしたのかと思うほど豊かな量に見えた。艶やかな髪は陽の光をキラキラと反射して輝く天使の輪を頂くようだ。その洗練されたヘアースタイルも、ポイントを押さえた薄いメイクに自然な可愛さと美しさで、大人びた彼女の端麗さを際立たせているに過ぎなかった。

 僕を見詰めながら笑顔で近付いて来る彼女に、心はときめいてドギマギしてしまう。そこに高校生までの幼さの残らないレディな彼女がいた。そして、彼女の大人っぽいファッションを見て僕は後悔した。期待以上の彼女に会えて晴れ晴れと満たされた幸福感が、待ち侘びていた時と違う鋭角な不安感に変わって行く。

 胸元が開いたニットのミニのワンピに軽めのフード付きショートコートを合わせ、足元をムートンブーツで纏めている。全体をパステルカラーでコーディネートしてエレガントさがあった。それに、Vネックの胸元を隠し、白い首元を守るように巻かれて温めていたのは、あのレリーフといっしょに彼女へ贈った暖かそうな柄の、絹のスカーフだった。

 四年前にイタリア旅行の土産に彼女へ送ったスカーフを今も持っていて、今日の初デートにして来てくれた。パステルカラーのライトなファッションにマッチして、その春めいた淡い色彩は曇り空の光に程好く顔を照らして、彼女をいっそう艶やかに見せている。

 彼女は、いかにも大学生って感じのファッションで、高校生の詰めの甘さが気になる乙女チックな服装とは、……と言っても彼女の私服は中央病院と立戸の浜でしか見ていないのだけど……、明らかに違っていた。

(とってもキュートだ! それに艶っぽいし……。スカーフが凄く似合って良かったよ。君と手を繋ぎ……、腕を組んで……、歩きたい。腕を絡めてくれますか?)

 惚れている彼女の洗練されたファッションを見て心はときめいたけれど、僕との余りのミスマッチにホットでハイな気持ちが一気に冷めて行く。僕は察した。彼女はバイクにタンデムする気なんて、これっぽっちも無い!

 春の肌寒い曇り空の下、彼女はV-MAXにタンデムする服装じゃなかった。その格好じゃV-MAXに乗れない。いや……、乗せる訳にはいかない。

(僕がバイクで来るなんて、彼女は思いもしていなかったんだ)

「おは……」

 笑顔は僕を見た一瞬だけで消えて直ぐに真顔になった。それから僕の背後のV-MAXを見た彼女は、目を丸くして呟くように言った。

「その、大きなオートバイで来たんだ……」

 彼女は別世界の未開で野蛮な異邦人が、奇怪な宇宙船に乗って自分を攫いに来たかのように、嫌悪の顔で見ていた。

 久し振りに、しかも一人ぼっちの心細い場所で会えたのに、『お早う』の朝の挨拶も言わないで嘆く彼女に、言い掛けたフレンドリーな挨拶が声にならないまま、ネバネバした不安の先が鋭く尖りキリキリと僕の胸に暗い穴を開けて行く。

 僕はアミーの迷彩ジャケットとロイヤルフォースの迷彩パンツに、フランス外人部隊のバトルブーツを履いた、全て中古品のカモファッションだった。それに迷彩柄のネックウォーマーを首に巻き、手にエアフォースのフライトグローブを嵌めて、モノトーンの破片パターンにカモペイントしたフルフェイスのヘルメットを持っている。

 とてもエレガントな着こなしの彼女と歩くファッションじゃない。それに、V-MAXにぶら下がった彼女用のフルフェイスヘルメットも見られているだろう。彼女との距離が冷えて、ビシッビシッと固まる空気に全身がチリチリと痛み出す。

『あんたと歩きたくない』という意思表示がありありと表情に出ている。ここで、『軍装品が一番温かくて丈夫なんだ』とか、『個性的だろ。気に入っているんだ』なんて言ったら、美しい顔を更に醜く歪ませて、『バーカ』と言い捨てて、プィっと帰ってしまいそうな険悪なムードだ。

 彼女が普通に街を歩くような……、いや、トレンディスポットでデートするような気持でいることを予想していなかった。僕は自分の事しか考えていなくて、僕の趣味や思い入れを彼女に押し付けようとしている。

 V-MAXを置いて、彼女と電車やタクシーに乗り街でデートするには、とても釣り合わないスタイルで来てしまった。眉間に皺を寄せる彼女は、怒った猫のように今にも唸りを噴きながら髪を逆立て、剥き出した牙で噛み付いて来そうだ。初めてのまともなプロセスに沿ったデートが、台無しになりそうな予感がした。

 考えてみたら、ここに来るまでに今日は寒いと感じていた。バイクツーリングする人は疎らで、タンデムは一台もいなかった。桜が散り終わった季節とはいえ、曇り空の朝の八時半はひんやりと寒くて、だんだんとバイクにタンデムするには無理がある気がしてくる。

 後悔が幾つも重なった。僕のここに来た目的が彼女に会う事だけになっていた。デートの内容なんて会えばどうにかなるだろうくらいにしか思っていなかった。彼女の気持ちを全く考えていなかった自分に、今の今まで気付けなかったのが一番ショックだった。

 待ち合わせ場所が相模大野の駅前だった時点で気付くべきだった。彼女は、どのルートで僕が来て、一緒に何処へ行き、どんなデートをしようと考えていたのかを。

(僕は、愚か者だ!)

 新幹線を小田原で乗り換えて小田急電鉄で来るべきだった。そしてまだ一度も行ったことの無い新宿や、JR山手線沿いの東京都内がデートコースになる筈だったのだ。

 僕はどうしていいのか、どう言えばいいのか、少しも分からなくて途方に暮れてしまった。

(だっ、ダメだ! ミスった! 今日はここまでだ。もうデートは中止して……、また出直すしかない。デートは次のウィークエンドでもいいじゃん。それだけ約束して帰ろう……。彼女の顔が見れて、声が聞けただけで十分じゃん)

 彼女の表情から、そう考えたけれど、互いに連絡を取り合って決めた初めてのデートから躓きたくなかった。それに待ち合わせの場所に来ただけで、何も無く戻って行く僕を彼女はどう思うだろう?

 彼女の気持ちの変化を怖れる僕に不安が寄せて来る。やっとデート出来るようになるまで漕ぎ着けたのに、これで破綻してしまうかも知れない。

(……どうせ破綻するのなら、強引に彼女の希望するデートへ進めてしまうか。電車に乗って、店が開いたら服を買って着替えればいいさ。でもトレンディな服を買うと、たぶん、手持ちの現金が乏しくなるから、その後は彼女に頼ってしまう事になる。それは甲斐性が無くて情けないだろう)

 どちらにしても良い結果にはならないと思う。そんなマイナス思考でモチベーションが下げる僕を察したのか、彼女は言った。

「三十分ほど待っていて。着替えてくるから」

 眉間に皺を寄せたまま、身を翻して元来た方向へ駆けて行った。

「あっ……!」

 引き止められない。引き留める言葉が無かった。ドタキャンせずにデートを続ける気持ちになった彼女の言葉に僕はホッとしていた。そう言ってくれた彼女に感謝した。

 彼女の着替えを待つ間、GPSで付近のデートスポットを急いで探した。オートバイに乗ると身体が急速に冷え込むから、一時間以内で到着できるところにしなくてはならない。

(何処へ行こう? 相模湖は? いや、ダメだ)

 相模湖は近くのようだけど、雲量が多くて陽の差し込まない日はだめだ。内陸山間部は此処よりもっと寒い。僕はウエザーマップで地域の天候も確認していなかった。雨が降ってもV-MAXで走って来るつもりだったけれど、雨天でのデートと彼女の事は全く考えていなかった。

 僕はアバウト過ぎだ!

(新横浜や鎌倉は?)

 新横浜へ行ってもバイクツーリストがブラつく場所は無いだろう。それにGPSを見ながらでも新横浜までのルートを迷わずに走る自信は無かった。鎌倉は更に遠くてルートも間違えそうだ。なによりカジュアルなファッションじゃないと様にならない。デートスポット過ぎる。

 もっとアウトドアっぽいスポットでないと…… ダメだ。

(そうだ! 海へ行こう。横浜港は近いはずだ)

 海ならば、彼女は納得してくれると思う。たぶん、砂浜なんて何処にも無くて港の岸壁ばかりだろうけど、潮風が好きみたいだから何とかなるかも知れない。

 GPSでなぞるとルート16で一直線だった。市街地に入ると曲がりが有って大きな道が重なるけれど、どうにか分って走れるだろう。

 横浜港のミナトミライ地区に隣接して、帆船の日本丸やテーマパークのコスモワールドが在る。赤レンガ倉庫から大桟橋へと歩き、更に山下公園を通り氷川丸も見学してマリンタワーに昇ろう。少し離れた港が見える丘公園まで行っても良い。お昼は中華街で食べれば良いと思うけれど、まだクレジットカードが届いていなくて、今の財布の中身だけでは聊か心細かった。

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 息を切らして彼女は、本当に三十分で戻って来た。

 『戻って来なくて、このまま放って置かれるかも知れない!』、『捨て置かれたら、とても惨めだな』、『いや、彼女はそんな酷いことをしないだろう。でもV-MAXを見ていた目は……』などと、勝手に心理戦をして不利になりかけていたところへ彼女は戻って来た。

 ムートンブーツはそのままにGパンを穿き、上は厚手のタートルネックのセーターにダッフルコートを重ねている。セーターの下にも着込んでいるようだ。そして、きっと話しが弾むだろうと考えていたメモリアルな絹のスカーフは外されて、代わりにニットのマフラーが手に持たれていた。

「レザージャケットやスキーウェアとか、風を通さないのを持ってないのかよ?」

 その開きの多いコートや通気の良いニットの着込みでは、高速で流れ来る冷たい風を防げそうには見えない。まだ冷たい外気に吹かれて彼女が体調を崩すのを心配した思いに、語気を強くしてしまう。

 それでも、V-MAXに僕とタンデムする服を考えて、急いで一旦部屋へ帰ると即行で服を着替えてから、言った通りに彼女は三十分で戻って来てくれた。それなのに感謝もせずに……、非が選択肢を誤った僕に有るのは明らかなのに……、頑なに初志貫徹の我を通そうと着替えて来た彼女の服装に僕は低評価のダメ出しをしてしまう。

 言ってから、『しまった!』と思った。

 ハァハァと、息が上がっている彼女に鋭く返される。

「ないわよ!」

 強い口調で言い返された。

 不満を我慢していただろうの彼女を苛立たせて、とうとう怒らせてしまった。あと一言で彼女は完全に爆発しそうだ……。急いで話題を変えて機嫌を取りに行く。

「もう横浜港には行って来た? 海を見に行こう」

 ナビのマップで見る限りでは、ルート16を真っ直ぐ走ればいいだけだと判断して、ナビを切って走ることにした。下がった僕の評価を鋭い方向感覚と優れた観察力を見せ付けて、挽回しようと思いついた単純なパフォーマンスだ。近視的視力と精度が怪しい体内磁石で適当に走らせるV-MAXは、リスクの方が大きいかも知れないけれど、上手く着ける可能性に賭けてみる。

 海に行くと聞いた彼女の少し明るくなった表情が『行こう』と言っている。彼女の原風景の場所から察して、海が好きなのだろうと思っていた。海辺の彼女は明るくて楽しそうで、そしてとても元気だった。横浜港の潮風で彼女の機嫌が良くなって欲しい。

(横浜の海が、せめて、能登の諸橋地区の海のような色なら良いけれど……。でも東京湾の中だからね。しかも曇りの天気で寒いし……)

 たぶん期待できないだろうと思い、着いてがっかりする彼女の気持ちを想像して、僕の気持ちは暗くなる。だけど他に行く宛てを思いつかないし、知らない。

 そんな僕の憂いも知らず、少し機嫌を直した彼女は身軽に僕の後ろに跨り、両腕を僕にしっかり回して僕の背に体を密着させて、一年ほど前の救急車の時よりも、『大きくなったかな?』と思わせる胸を背中に感じさせた。その無言で僕を風除けにする彼女の行動が嬉しい。

 肩越しに軽いファンデーーションの香りを薄く漂わせる彼女の匂いが、僕の鼻腔を擽る。バス事故や立戸の浜で嗅いだ匂いとは少し違う、相模原で一人暮らしをする彼女自身の生活臭だ! 少し芳ばしくて体臭じゃない。彼女の住む建物の臭い? 部屋の臭い? ファンシーケースの匂い?

 春の冷気を押し退けて肺を満たす、背中に密着する匂いが心地良く、この匂いも、ずっと嗅いでいたいと思う。

 被ったヘルメットを僕のヘルメットにぶつけて彼女は声を落として言った。

「GO!」

 彼女のトーンを抑えた声がフルフェイスヘルメット内に響く。

(なぜ、低い声?)

 声の低さを不思議に思いながら、僕は気合を入れてV-MAXを発進させた。

「GO!」

(後は出たとこ勝負だ! 臨機応変に対応すしかない。今日は良い日でありますように!)

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 トントンと彼女が肩を叩いた。

「なに?」

 少し振り向いて訊く。

「あそこ!」

 彼女は加速する風圧に負けないように大声で言って斜め後方を指差した。指先の向こうから僕が抜き去った自動車を盾にして、白バイがサイドミラーのアウトサイドの死角から迫って来ていた。

 ハイビームに光るヘッドライトとけたたましく点滅する赤色灯が急速に接近する。甲高いサイレンとスピーカーの我鳴りが、バイザーの風切り音とフルフェイスヘルメットの厚みに遮られ、それにV-MAXのサウンドの被りと広い道幅と疎らな車両による周囲の無反響で音が逃げ、小さなノイズにしか聞こえなくて、何を言っているか分らない。

 明らかに狙いは僕だ。連なり走る車の集団を縫うように抜き去って次の集団へフル加速で追い着く。それを繰り返して、今も国道の制限速度を余裕でオーバーする走りで、前方の集団へ急速接近中だった。

(逃げ切れるか? 白バイの隊員達はプロだ……。彼らのテクニックと精神力には敵わない。V-MAXに乗って一ヶ月余りの僕には尚更、今の国道が空いている状態でも到底無理だ。混み合ってる状況なら周囲の自動車は紛れるどころか、自分の障害物になって無関係な人達を巻き込む大事故を招いてしまうだろう。……それよりも、彼女を犯罪行為や更なる危険に巻き込めない)

 プロの強靭なハイテクニックで操られる重装備で白一色で塗られたロードレーサーに、ビギナーの僕は全く勝ち目が無かった。既に白バイは真横にいてスピーカーで叫び、乗車する隊員は手振りで減速し路肩に寄り停止せよと指示している。やっと僕にサイレンがはっきりと聞こえ、ラウドスピーカーからの声の意味が良く理解できた。

『速やかに路肩に寄り、止まりなさい』と事務的に煩いくらいに繰り返し言っていた。速度超過違反、安全運転義務違反などで減点、罰金、運転免許停止は確実だろう。僕は覚悟を決め、アクセルを戻し減速させ路肩に停車した。

 時速二十九キロメートルのオーバー。少ない初任給から由々しき金額に羽が生えて無情に飛んで行く気分だ。そんなブルーな事態でも初犯という事で、危険運転の罰則を勘弁して貰えて免許停止にならなかったのは有り難かった。

 ジロジロと反則の記入から書類を仕舞い終えるまでを見ていた彼女と、初めて遊んだパチスロで一時間も経たずに数万円が消えた時みたいな気分の悪さで項垂れる僕へ、軽く御辞儀をした交通機動隊の隊員は白バイに跨ると、新たな獲物を求めて猟犬のように走り去って行く。

 隊員の白いヘルメットが視界から見えなくなり、V-MAXに靠れてアンラッキーの自責の動揺と、罰則の忌々しさに高ぶる気持ちを落ち着かせていると、スマートフォンで現在位置を確かめている彼女が横に来ていっしょに靠れた。

「ちょっと高くついちゃったね。なのでぇ、もう急がなくていいからね! 飛ばすと怖いし、危ないし、寒いし」

 僕を宥めるようにも、励ますようにも、詰るようにも、聞こえて、正に彼女の言う通りだと思う。また僕は独り善がりをしていた。

(高額の罰金を払うほど、彼女を危険に晒してまで、僕は何をしているんだ。ここからはゆっくりと、彼女を思い遣りながら走ろう)

 ジレラ・ランナーを乗り熟す彼女だから、見下されるないように過激なライディングで逞しさをアピールしようと、ビギナーのテクの無さをカバーしたパワー頼りのデンジャラスなハンドリングは、彼女よりも僕を完全にハイにさせていた。

(そりゃあ……、そんな重ね着くらいじゃ、やっぱり寒いんだろうな……)

 気を取り直して僕は彼女にしっかりと手を回させて走り出す。今度は車の流れに合わせて走る。再び僕の背で暖を取る彼女の温もりと芳しい匂いを感じた。

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 前方の信号が黄色に変わり、軽く制動を掛けつつ路肩沿いを進み、減速で後方から追い着くように香る彼女の芳しい匂いを鼻息荒く胸一杯に吸い込みながら、僕は気分良く、変わる信号で減速して停止するはずの車列の先頭へ出ようとしていた。しかし、前方を走る数台の自動車は減速せずに黄信号の交差点を超えて行き、その速度だと、そのまま繋がって行くものだと思われた二台前の自動車は黄色から赤信号に変わるや否や、急制動で停止してしまった。その真後ろを走り、停止ラインで停車するつもりだったと思しき、僕の直前を行く自動車が、その煽りで反射的に急ブレーキを掛け、咄嗟に衝突を避けようとしたハンドル操作で、左前部を路肩へ寄せた斜めの向きに停止した。

 突然、直前の路肩にV-MAXが通れる幅の空間が無くなってしまった。このまま進めば前輪とハンドルの右端が車の側面に接触してしまう。

 行き場の無さで慌てた僕は、追突を回避しようと急制動を掛けてV-MAXを前輪が車の後部と並んだ位置で停止させた。でも、車をよけた所為で制動慣性に斜め外方向の慣性が加わって、直感的に僕は転倒を意識した。こういう場合は、普通ならば両足裏をしっかりと路面に着けて転げないように踏ん張れば良いし、その為にV-MAXのシートを低くして停車姿勢を安定させている。だけど今は、想定外で違っていた。

 失速したV-MAXは僕と彼女を乗せたまま、路肩側へゆっくりと傾く。路肩側の足裏は、選りに選って路肩の盛り上がったアスファルトの峰に乗ったタイヤで、車高が高くなったのと蓋の無い側溝の空間に、足先を着けて支える足掛かりを見付けられない。爪先が虚しく何も無い宙を探る。

 V-MAXは平衡修正の限界点を超えて、狭い側溝を隔てた道路面よりも少し低い民家の庭先へ向かって、確実に倒れて行く。

「降りろっ!」

 彼女へ振り向き、僕は大声で言った。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 体重移動のバランスで転倒を遅らせているものの、もう限界だった。折角シートを薄くして足裏がベタ着きできるようにしたのに、その効果が発揮出来ない場所で、何度も、何度も、両の爪先は虚しく地面を探す。

 現実的に倒れて行く左側には傾きを停めて復原する支えを着く実際的な面や物が全く無くて、ここで転倒するのが運命的な必然だと、僕は受け入れるしかなかった。……それでも……。

「ええ? うん!」

 瞬間の沈黙のあと、すぐさま状況を察して彼女はタンデムシートから急いで降りた。その反動で傾きが加速されて一気に転倒していく。彼女が無事に降りたのを確認しつつ、スローモーションで視界が傾いていった。

(だっ、ダメだ。倒れるのは必至だ)

「早く、逃げてぇ! 飛んで逃げてぇー!」

 彼女の叫びが聞こえる。僕を身を案じる嬉しい叫びだ。

 V-MAXの進路を塞いだ自動車のドライバーに彼女の叫びが聞こえたのか、ドアミラー映るドライバーが僕を見て眼が合った。今、この瞬間、一台分のスペースでいいから自動車を前へ移動させてくれれば、アクセルを開けてV-MAXを道路側へ進めて転倒を防げるのにと思うけれど、その前にも信号待ちで停車する自動車がいて動けない。そして、直ぐに青信号になっても間に合わないと悟る。

 足裏が着く路面までV-MAXを動かせれば、上手く自然体の停車ができなくても、半倒れ程度で済むだろうという望みは、もう叶わない。

 路面より低い場所へ倒れる衝撃とV-MAXへの被害を最少に抑えようと思うけれど、どう転倒すれば良いのかわからない。でも僕が下敷きになれば、V-MAXの被害は少なくてすむかも知れない。

 覚悟を決めてエンジンを切る。これでガソリンの供給はストップされてオーバーフローにならず、溢れ漏れたガソリンが熱いエンジンや静電気で炎上爆発する事はない。

「ああああっ、だめぇー!」

 聞こえ続ける彼女の叫びが、僕の、この絶望的な状況に為す術の無い事を改めて悟らせた。

 左足先が側溝の縁を探り当てるけれど、それは虚しい努力だった。上半身が花の無い花壇に落ち、その上にV-MAXが被さってくる。背や肩の軽い打ち身の痛さに、胸から足へ重量の有る衝撃が降って来た。

 ドサッ!

「キャーッ」

 V-MAXが倒れた衝撃音を、彼女の悲鳴が覆う。

(くっ!)

 僕は仰向けに倒れ、その上にV-MAXが被さり僕を押さえ付けている。胸や腹は重みだけで、それほど圧迫はなかったけれど、左膝下だけが酷く痛い。それは道路の路肩と一段低い庭先の間に有る側溝の空間に脛から足首にかけて出ている所為で、脛骨をV-MAXの重みが撓ませていた。

(いててて……、やばい! このままじゃ、足が圧し折れる!)

 エンジンやマフラーの火傷しそうな熱さよりも、骨が曲がる独特の我慢できない痛みが僕を襲う。

「うっ、ううっ……」

(いっ、痛い! 痛い! 痛い!)

 あまりの痛さに身を捩ると更に脛へ重みが加わり、骨が撓るのがはっきり分かった。このまま脛骨が撓み加重の限界を超えると、骨が飛び出すような複雑骨折になってしまう。僕は自分の足のそんな状態を見たくないし、その痛みは知りたくもない!

 骨が曲がるだけでも元通りに治癒するまで大変な思いをするだろう。そんなのは嫌だ! 想像したくもない!

 僕は焦り、自由になる両手でV-MAXを押し除けて、加わる重さから抜けだそうと試みるけれど、胸まで押さえ付けられた仰向けの状態に力が入らない。少しでも横へずらそうとしてみても、ずり落ちるように圧し掛かる重量三百㎏オーバーのV-MAXには全く非力だった。愛車は微動だにしない。

「だっ、大丈夫?」

 掛けられた彼女の声に余裕の反応を見せようとするけれど、頭と両手以外の体が動かせない。

(こりゃあ、マズイぞ。脱出できないし、息苦しいし、凄く痛いし、全然、だっ、大丈夫じゃない!)

「うう、まだ……、まだ生きてるぞー」

 言ってから直ぐに、心配する彼女を少しでも安心させようと、おっさん臭いジョークで答えたのを後悔した。真剣に僕を心配して今から助け出してくれそうな彼女へ、生き死にのジョークで返事をするなんて、失礼の極みだった。

「ちゃんと意識有るよね? 今、バイクを持ち上げるから、抜け出してみて」

 潰されそうな痛みに目を瞑ると、ザザッーと間近で地面を擦る音がして、埃っぽい乾いた土の臭いがフルフェイスヘルメットの中に舞い込み、彼女の声と匂いがする。

 目を開けると、ほんの僅かの間だけ目を閉じていたのに、路肩に立ってV-MAXの下敷きになった僕を見下ろしていたはずの彼女が、傍らで膝を着いて僕を覗き込みながらV-MAXのハンドルに手を掛けていた。

(V-MAXを起こすつもりなのか? 起こせるのか?)

 ジレラ・ランナーを扱い慣れている彼女なら、起こせなくても、ずらしてくれて、抜け出せるかも知れないと思う。

「どこか、痛いところ有る? バス事故の時みたいな怪我してないよね?」

 いつもの微笑むような顔が怒っているみたいに真剣で、優しげな瞳が険しい眼差しになって僕を睨んでいた。

「あっ、左の足が、挟まれて、……とても、痛いんだ……。でも、挟まれているだけで、怪我はしていないと思う」

 側溝の縁から出ている左膝骨は折れそうなくらい、ビリビリと激しく痛む以外に痛む部位は無く、胸と腹に掛かるV-MAXの重みで息苦しい。

 きっと脛骨は、時代劇ドラマで見た罪人の太腿へ石板を積むような拷問状態だ。まだ重みに軋んで曲がりそうなだけだけど、このままだと曲げる力に耐えられずに靭性の限界が来て、急激に曲がりながら脛の骨は折れてしまうかも知れない。

 『ボキッ!』っと折れた頚骨は薄い肉と皮を破って飛び出して来て、その叫び狂わす激痛はガンガンと強く全身を痙攣させるだろう。そうなると、病院で半年間は手術と治療の入院になる。

 だけど、問題は頚骨の折れる結果ではなくて、折れるに至るまでの想像もできない痛みを伴う骨の曲がりだ。ゆっくりと加速して曲がる頚骨の折れるまで続く激痛に僕は、とても耐えられそうにない。

(くっ、くっそぉー! 想像するだけで堪んねぇ。早く、V-MAXをズラして脱出しないと、ヤバイ!)

 自由になる両の手がハンドルバーを握り、力を込めて少しでも横へズラそうと試みた。

 慌てて駆け寄って来てくれた彼女と力を合わせて退かそうとするけれど無駄だった。彼女が背を反らし、体重を掛けて持ち上げようとしたタイミングで、僕も渾身の肩と腕の力で再びV-MAXをどかそうとする。

(ん!)

 ほんの僅かだけど動きそうな気配が有った。このまま横へズレて下腹部辺りまで抜け出せるかも知れない。そう思った瞬間、撓みにズキズキと痛む脛へ更なる激痛が走った。

(うっぎゃあー! あた、あたた! 足、痛ってえー!)

 激しく瞼を瞬き、大きく開けた口で悲鳴を上げるのを、やっとの事で堪えた。これ以上、彼女に動揺を与えたくないし、それよりも助けを呼んで欲しい。当然、胸に被さる前輪側を持ち上げたら、僕の胴体を支点にして後輪側に重さが移る。その分だけ脛骨を圧し折る力が増すのを、彼女が助けに来てくれた喜びで忘れていた。痛みの涙で視界が滲み、顔を寄せて話す彼女がよく見えない。

「だっ、だめぇ。全然動きもしないよ。私の力じゃ無理! ごめんなさい!」

 地ベタにへたり込んで、どうしようかと心配そうに見つめる彼女の顔に、僕と同じ考えが現れていた。

「すっ、すまないが、車を止めて助けを呼んでいただけませんか」

 足が折れそうな激痛で、彼女への頼みを変な丁寧さで言ってしまった。さっきから骨が折れるカウントダウンは始まってる。

「僕は、まっ、まだ大丈夫だから……。あう、ううっ」

 全然、大丈夫じゃないけれど、一応は強がっておく。重しで骨を折る拷問は、『こんな感じに無慈悲なんだろうなぁ』と、自力で窮地を逃れられない状態の悲しさに激しい痛みも加わって、もう、視界の彼女は暈やけて全然見えていない。

(マジ、すっげー痛くて、たまんねえぇぇぇぇぇ!)

「うん! わかった」

 直ぐに彼女は道路に出て、両手を振って車を止めようとしてくれる。僕も両手を振り上げて窮地を知らせた。もう痛過ぎて叫びたい。

 あんなに恐れていた立ち転げをしてしまった。

 せっかく彼女が着替えて来てくれたのだから、ムードもモチベーションも好転していくはずだった。だのに……、スピード違反で白バイに捕まるわ、立ち倒けして彼女を危険な目に遭わせて、しかも僕は転倒したV-MAXの下敷きになっている。まだ半分ぐらいしか来ていない中途半端さは、格好悪過ぎて不吉だ。

(このままじゃ、本当に彼女との関係を失ってしまう……。あっ、痛っ! いっ、痛い! 痛い! くっ、くっそー)

「たっ、たすけてくださーい!」

 泣き叫びたい悲鳴を飲み込んで助けを御願いする。このゆっくりと骨が曲がり折れて行きそうな激痛を、彼女に知られるわけにはいかない。でも……。

(足が……、足が挟まれて、もっ、もう限界です。くううう)

 堪えられない痛みに僅かでもジタバタすると脛骨への加重が増し、目を閉じて固く食い縛る奥歯の根が合わなくて、じっとりとベタ付く汗が更に噴き出した。寒気と震えが全身を襲い、刻一刻と強くなる痛みに目を見開き、空一面の雨の湿気を含んだ色をした雲を見る。僕はもう我慢できない!

(この上に雨に降られたりしたら、堪ったもんじゃない。雨だけは降らないでくれー)

 バッとヘルメットの中に砂埃が舞い、見開いた目に別の痛みが入って来た。傍に来た人の動きで起こした風が地面の細かい土を巻き上げて、フルフェイスヘルメットの首周りとバイザーの隙間から吹き込ませた。

「ゲヘッ、ゴホッ」

 ヘルメットに囲まれ、バイザーで閉じられた極端に狭い空間で吸い込む埃は僕を咳き込ませて、痛みで滲んだ視界を息苦しさの涙が歪ませてしまう。

「ズッ、ズズーッ」

 出て来た鼻水は懸命に啜っても唇の端から顎へと流れて行く。仰向けの体制で喉へも流れて気持ちが悪い。

「あっ、ごめん。ごめん。目は大丈夫か? 動けなくて大変だったろう。直ぐに助けてやるからな」

 ドカドカと四、五人の男の人達が慌ただしく僕の周りを取り囲んで僕の挟まれ具合を見始めた。

「ねぇ、苦しいんでしょう。もうちょっとだけ辛抱してね。直ぐに助け出して貰えるから」

 いきなりヘルメットのバイザーが上げられて、僕を覗き込む彼女が言った。とても近い距離で僕の顔の隅々まで視線を廻らせる。凄く嬉しくて彼女を抱き締めたいけれど、両手はそこまで動かせない。それより泣きそうで汚なくて惨めな顔を見られたくない。

 左足は痛みは我慢の限界だし、充分に膨らまない肺は窒息寸前の辛さだ。もっと酸素を……、身体全体の血行も悪い気がする。頭痛は鬱血からで、吐き気は激痛の所為だと思う。

『せーの』の掛け声で一気に倒れたV-MAXを起こし路肩に戻して行く。脛骨の激痛と胸の圧さえがすうっと消えて、嬉しさと安堵と目に入った埃で僕の目尻から涙が流れた。

(ゴホッ、良かったぁ~。助かったぁ~。ぐすっ)

 重石を除けられた身体が軽い! 圧迫で狭められた気道と縮められていた肺が開放されて、勢い良く吸い込む空気と巻き込んだ埃の刺激に再び咽ると、更に鼻水が大量に噴き出て来た。

「ふうーっ、なんて重いバイクなんだ!」

 サイドスタンドを出してV-MAXを固定しながら、バイク歴の有りそうな初老の男性が言う。

「こんなのの下敷きになるなんて……、君、大丈夫か?」

(だっ、大丈夫じゃないです)

 ジンジンして痺れる足は、立とうとする少しの動きでビリビリと痛み、元に戻ろうとする骨からはズゥンズゥンと深く鈍い痛みが響いて来る。とても自分一人で直ぐには立てそうにない。

 それでも、ダメージを彼女に気付かれたくない僕は、倒れたままで頷く。

「どこか怪我していないか? 痛いところは?」

 辛い痛みを知られて『帰ろう』と彼女に言われるのを恐れる僕は、首を横に振る。ずうっと願っていて、やっと叶った初デートを、これくらいの痛みで中断したくない。

「ほら、起こすぞ。立てるか?」

 仰向けに倒れている僕の両脇に腕が回されて、抱えるように引き起こされる。

 圧迫から開放された足から痛みが退いていたのは僅かの間だけだった。圧迫が無くなった足に血行が戻って行き、毛細血管の端々まで巡る血液に痛覚が呼び起こされると、束の間の安堵が痺れの苦痛に苛まれ、それに曲げる力で伸ばされていた骨の縮む痛みが加わった。

「うっ!」

 ほんの五分ほどの時間だったのに、V-MAの重みで押さえ付けられていた全ての処が同時に痛み出して、思わず僕は呻いてしまった。

「大丈夫なのか? 痛みが有るのなら救急車を呼ぶぞ」

 圧された胸と腹の筋肉がブルブルと痙攣している。ビリビリ痺れてズキン、ズキンと骨の痛みが脈動する左足は、そおっと地につけて立っているだけで精一杯だ。

「いえ、大丈夫です。潰されそうになっていたから、……立ち眩みが来ただけです」

 痛みの呻きを、僕は立ち眩みでフラついたように誤魔化した。

「ぐるっと外から全身を見る限り、服に血が付いたり、染みたりしていないし、破れているところもないから、何処も怪我していないみたいだな。付いてるのはオイルと土の汚れだけだ」

 引き起こされるのを見ていた年輩の男性が、ぐるりと僕を一周して深刻なダメージがないかチェックしてくれた。

 そんな男性の動きに合わせて顔を向ける僕の様子を、彼女は路上から心配そうに見ていた。

「一人で立っていられるか? 眠いとか、気持ち悪いとか、ないのか?」

 頭や首を強く打ち付けていなかったし、背骨や腰もフラットな土の上だったから損傷はしていないと思う。

「立てます。立ち眩みは治まりましたから。手足は動きます。吐き気や頭痛は有りません。少し身体が痺れた感じだけです」

 顔を廻らし、頭を左右に振り、腕を挙げ、拳を握ってから開くと、痺れが軽い右足も少しだけズラして見せた。

「そうか、頭は大丈夫そうだな」

 フルフェイスヘルメットを脱ぐのを手伝ってくれた男性が、外したヘルメットと僕の頭や顔を見て、頭部と頸部に外傷は無く、たぶん、脳もダメージが無いだろうと安心させてくれる。

「はい。ヘルメット被ってましたから、頭や首は打ってないです」

 確かに後頭部と首に痛みや違和感を感じていなくて、仰向けでの頭から落下する衝撃を無意識に受身で逸らしていたのかも知れない。

 背中と腰にも痛みや痺れの違和感は無く、落ちて来たV-MAXの重量を受けて圧迫された腹部と胸部は、重さから解放されて部分的な幾つかの打撲を感じるだけだった。でも、血液の循環が戻りつつある左下肢だけは、少しも薄れない痺れと痛みで小さく痙攣している。

 そんな僕の左足と顔を、彼女は観察するように交互に見ていた。

「そっちの足の動きがおかしいわよ。病院で検査してもらいなさいよ」

 まだ若い感じの奥さんが僕の左足を指差しながら言う。起き上がった時も、右足を動かした時も、そして、どうにか立っている今も、左足を庇っているのに気付かれている。眉毛の外端を上げて眉間に立て皺を寄せた目で、じっと僕を見ている。

「はい。一応、この足もちゃんと動きます。膝と足首は曲がりますし、指も動かせている感覚が有ります」

 左足の爪先を持ち上げてから膝ごと上げて見せた。

(痛くない、痛くない)

 誤魔化しで動かした左足の痛みは深くて鋭い。痛みが走る度にぎこちなくなる動きに、ちょっと笑ってみせたけれど、きっと歪んで真顔っぽいと思う。

「挟まれていた直後だから痺れているだけだと思います。暫く休んでいれば、たぶん動けますよ。それでも感覚が無いままだったり、痛くなって来たら、医者に診てもらいます」

 一時的な痛みだと痺れてなんかいない。軋んだ脛骨が元に戻るジンジンとした鈍い痛みに、僕は落ち着かない。

(うーっ、どうしてこんな目に……)

 恨み節を考え掛けて……、僕の動揺と焦りがこんな目に遭せたと思う。

(落ち着け! 致命的な問題は起きていない。落ち着いて考え、慎重に行動すれば後は上手く行く。デートは始まったばかりだ)

「本当に怪我しなくて良かったわ。私達はこれで行くから。気を付けなさいね。さぁ、あなた行きましょう」

 女性は、僕の痛がらない態度と服の破れや出血の無い外見から緊急性の無い事を納得してくれて、本来の予定へ戻ると告げた。

 不安気な顰めっ面から、いつもの表情になった彼女は、黙って笑わない目でジーっと僕の様子を観察している。痛くて庇っているのは事実だから、誤魔化しても勘の良い彼女の疑りは晴れないだろう。

「そんじゃ、俺達も行くか。お二人さん、事故らないように気を付けろよ。兄ちゃん、可愛い彼女に怪我させんなよ。グッドラック! バイバイ!」

(勿論、そうです。彼女の安全が一番で、最優先です)

 女性から声を掛けられた連れの男性も、僕達に別れを言う。

 今、膝がガクガクと折れて倒れ、耐えられない痛みに悲鳴を上げながら蹲ったりでもしたら、きっと、この人達は救急車を呼び、病院で診察と治療が済むまで、付き添ってくれるだろう。そして、デートを中断された彼女を相模原まで送ってくれるだろう。そうされた方が良いのかも知れないけど、僕は痛みに耐え続けていた。

「あっ、待ってください。あのっ、お名前を教えて下さい。あらためてお礼に伺います」

 彼女が感謝を告げている。

(そうだ、この方々は、僕を救ってくれた恩人だ!)

「名前なんて、どうでもいいじゃないの。お礼なんてしないでちょうだい。困って助けを求める人を助けただけ。当たり前に普通の事でしょう」

 確かに女性が言う通り、誰かに助けを求められたら、自分が出来る事はしてあげたいと思う。でもそれは、当たり前の事なのか? 普通に出来る事なのか?

 彼女の危機にはバス事故での僕の行動が証明している。家族にも同様の事をすると思うし、友達も彼女ほど意識していないけれど体と脳は鋭く働くだろう。でも、赤の他人には、助けを求められたらは有りだけど、助けが必要だからは計算と迷いが入るかもだ。

「俺達も同じだ。君達も誰かに助けを求められたら、できるだけの事をするだろう。じゃあな」

 判断の甘さと雑な行動で陥った窮地から救出された開放感とボランティア意識の考察に浸る僕は、謙遜する男性の言葉と彼女が告げる御礼の言葉をBGMのように聞いていた。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 『ドカッ!』行き成り彼女に背中を殴られた。

 視界の隅に脇へ近寄って来た彼女が、僕の脇腹の後ろ側へ手首を引いたグー握りを瞬時に半回転して突き出して戻すのが見えた。

(あたっ! あたたたぁ。正拳突きされた……、ううー)

 何時、何処でヒネリを加えたパンチを覚えたのか知らないが、直ぐに殴られた意味は理解した。

「あっ、ありがとうございました」

 慌てて御礼を言って頭を下げる。だけど、返された僕達を心配する親切な言葉は、思いのほか彼女の突きが痛くて殆ど聞き取れないまま、僕は去り行く恩人達を見送っていた。

「とても親切な人達だったわね。いっぱい心配されちゃったね」

 そうだ。彼らが僕を助け出してくれなかったら、今頃はV-MAXの下敷きになったままで、脛骨が折れて泣きながら救急車が来るのを待っていただろう。

「ああ、本当に助かったよ。超感謝だね」

 三台もの自動車が停まって僕を助けてくれた。自動車に乗っていたのは、それぞれ互いに無関係な人達で僕の為に強力してくれていた。救助の段取りや救出後に賞賛し合う言葉を交わすだけのシンプルで気持ちの良い人達だった。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 左脛の痛みを我慢しているのを彼女は気付いている。深い痛みは脛骨から、痺れの痛みは体重移動で負担が掛かる左足の裏をビリビリさせていた。

「大丈夫さ。挟まれていたから、血行が悪くなって痺れただけ。何ともないよ」

 彼女と二人だけになって気が緩んでしまった。折れそうになるくらい曲げられていた脛骨が元に戻ろうとしている痛さで、これは冷湿布を貼って治療すべきだと思ったら、膝がガクガクと震えて、そのまましゃがむようにペタンと尻餅を付いて座ってしまった。

「そう、全然痛く無いのならいいんだけどね」

 油断して見られたヘタリ込みの醜態で、今日を中断する冷めた言葉を告げると思っていた、僕の異常を察している筈の彼女が肯定してくれた。

 全く何とも無いなんて嘘だ。痛く無いどころか、座っていてもジンジンする痺れと深く重い痛みがズキン、ズキンと、響いて来る。

 僕だけなら、近くの公園へ移動して、そこのベンチで三、四時間は横になって安静にしていると思う。左足は、それくらい痛む状態だった。

「……うん」

 彼女は、ヘタリ込んだままで返事をする僕の横にしゃがむと、腕や肩や背中を叩いて転がって付いた泥や埃を落としてくれた。更に持っていたアルコールテッシュで、V-MAのエンジン辺りから附着したオイル汚れを拭き取り、そして、僕の顔も拭いてくれる。

(……彼女は優しい……)

「これでいいかな。元通り、綺麗になったよ」

 肩に触れる彼女の優しい言葉が、『私の安全が最優先でしょう』と耳の中で反復して響く。だけど、意地になる僕は押し通す。

「あっ、ありがとう。少しだけ休めば大丈夫さ。それから続きを走るから」

 僕の言葉を聞いた彼女は顔を曇らせ、口が唇を噛んで歪むと険しい眼付きで僕を睨み付けた。これは『心配してくれているんだろうなぁ』と、嬉しさが混じる申し訳無い思いで目を逸らせてしまう。

 そのまま十五分くらいへたり込んでから、左足の様子を見てやんわりと立ち上がってV-MAXのハンドルに手を掛けると、上手くバランスを取れば押して移動できそうな感じがしたので、何とか交差点を曲がり横断歩道を過ぎた場所まで動かした。

 移動する途中で左の膝や足首は『カクン』と折れる事も無く、痛みに持ち堪えてくれた。直ぐにでも大桟橋へ向かう続きが出来そうだったけれど、大事を取って僕は左足を投げ出して歩道の定石に三十分ほど座っている事にした。

 不機嫌そうでもV-MAXのテールを押して移動を手伝ってくれた彼女は、自動販売機で温かい缶コーヒーを二つ買うと黙って僕に差し出した。『飲んで、気持ちを落ち着けて』とアイコンタクトする彼女に『わかった、ありがとう』の頷きで返し、動揺する冷えた身体を二人は缶コーヒーで温めながら、ゆっくりと落ち着かせて行った。

 少し左足の痛みが薄らいだ僕がV-MAXを始動させると、彼女は嫌な素振りも見せずに黙ってタンデムシートに跨り、両腕を僕の腹部に回した。

 速度違反と転倒で大きく時間をロスしてしまった。だけど、遅れを取り戻そうと焦って無謀になっては駄目だ。それは更なるアクシデントを招いてしまい、今度こそ彼女に愛想を尽かされると、締め付ける両腕の力の強さに思う。

     *

(これは……、間違いない)

「……海の匂いがする。このまま行けば横浜の港だ」

 進む大気に海が香る。被ったフルフェイスヘルメットの首周りから吹き込む風を、くんくんと何度も嗅ぎ分けて確かめると、僕はバイザーを上げて大声で彼女に知らせた。

「うん。私も……」

 風に掻き消されずに聞こえた彼女の応える声は直ぐに途切れてしまったけれど、能登半島の内浦の海辺で育った彼女が潮の匂いに気付いていない筈がなかった。

「あはは、犬みたいね」

 獣呼ばわりされたのに、なぜか、僕は嬉しい。

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 あと少しだろうと思うところでルート16は曲がり込んでいた。道なりに車の流れに添って坂を下り、横浜市内の大通りような場所に出て走っていたけれど、辺りに草木の斜面が増えてきて港湾に近付いていない気がしていた。

 スピードを落として路肩へ寄せ、道路案内板の近くの歩道脇へ左足の痛みを確認しながらV-MAを停車させた。向こうの青地の道路案内板に『高島町』、こっちは『戸塚』と白文字で書かれている。

(たぶん、さっきの『浜松町』って表示された交差点を逆方向に来ていたな……)

 辺りの地名や地形がさっぱり分からなくて、僕はしっかりと迷ってしまった。

 急いでV-MAXのナビゲーションシステムをオンにする。だけど現れた拡大画像を見ても全然分からなくて、広域画像にしようと何度も画面のアイコンにタッチしているけれど、画面は切り替わってくれない。GPSナビゲーションシステムは、さっきの転倒で壊れてしまっている。

(くっそ~。近くまで来ているはずなのに! これは、かなりマズイなあ)

 道に迷った事への彼女の反応が超怖い。今日のマイナス続きの印象に、またマイナスを重ねてしまった。

「ごめん、道に迷った」

 彼女の方へ顔を少し回して言う。これから反対方向へ向きを変えて走るのだから、彼女に怪しまれる前に正直に言う方が得策で、迷った事への減点は最小限になるだろうと、小賢しく考えてしまう。

「こっちは逆方向だ。港から遠ざかっていたから、戻るよ。ごめん」

 僕の腰に回されていた彼女の手が解かれて肩を掴むと、シートから腰を浮かした彼女が僕の肩越しにGPSの画面を除こうとしているのを感じた。

「やだ、ここまで来て迷ったの? もう近くまで来ているのでしょう?」

 耳元で覚悟していた彼女の非難の問い掛けが聞こえ、更なる謝罪と言い訳をしようと思わず顔を彼女へ向けた。

『ガチン!』

 横向き気味の顔を声の方へ衝動的に向けようとした途端、、互いの上げたヘルメットのバイザーがぶつかって僕は驚いて仰け反った。反射的に避ける無作為な体勢の動きで停車させているV-MAXがふらつき、慌てて両足を踏ん張って体制を安定させた。

 ズキン! 再び倒れまいと接地した足を力ませた所為で、立ち転けで折れそうなほど傷めた左足の脛骨が鋭く痛み、深く痺れるような痛みが脳芯を突き抜けた。ひたすら患部に神経を集中させて痛みが退くまで息を殺し静かに堪える。そして、我慢する痛みを彼女に悟られまいと目を瞑り無言になった。

 減点続きの動揺で萎縮するメンタルと予想以上の鋭い痛みに、僕はもう、全身が緊張して目眩がしそうだ!

「ちょっと~、気を付けなさいよー」

 僕の肩を掴む彼女の手にギュッと力が入り、さっきの二の舞は御免だとばかりに声にも力を入れて彼女は、ゆっくりと退いて行く痛みに堪えている僕を窘める。

(この痛みの辛い時に、『やだ』に『ちょっと』かぁ、めげるなぁー)

 メールのきつい文章には、慣れて免疫が付いたけれど、去年からの彼女の行動と直かに聞く彼女の言葉には、まだ抗体ができていない。

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 『関内』、『馬車道』、『みなとみらい』、『ランドマークタワー』、『桜木町』、道路の案内板には初めて見る地名や場所の名称ばかりで、どれを見て進めば良いのか迷ってしまう。吹き付けて来る大気は、はっきりと潮の香りがして間近に海辺が在ると知らせている。だけど、自動車道の高架が被る通りは建物だらけで海など何処にも見えない。

 何の予備知識も無く、当てずっぽうに来てしまった僕は、このまま大桟橋を見付けられずに彼女をタンデムさせて、遠回りするようにグルグルと迷いながら戻る事になるのだろうかと、藁か、蜘蛛の糸にでも、何かに縋りたい思いで忙しく視線を案内板や表示板へ動かせながら、気持ちは途方に暮れて沈んで行く。

(最悪なら、最寄りの駅を探して、そこから彼女に電車で帰って貰うしかないな……)

『彼女の僕への評価は、最悪になってしまうな』と『桜木町駅』の見ていた時、思い出した。

(ああ、そうだった! 確か、デートスポットを探した時のGPS画面に、桜木町駅と山下公園の間に大桟橋が突き出していたっけ)

 思い出した大桟橋の位置に、探す表示と向かう方向が決まった。

 GPSは相変わらずのマクロの画面のままで、現在位置のロケーションがさっぱり分からなかった。通りを歩く誰かに尋ねれば早いのだれど、彼女にセンスが無くて格好悪いと思われそうで考えてしまう。、

 仕方なく何度か横浜港の海面が見える場所に出て、やっと大桟橋らしき構造物を見付けた。それだと思う大桟橋の見た目は、思い込んでいた港の桟橋のイメージとは全然違っていて、静岡市の清水区や北陸地方の港には似たようなのすら無く、『やはり、首都圏のメジャーなスポットは、センスが違うな』と感心しつつも大桟橋だと確信できていない。でも、位置的に該当するらしきモノは、それしかなかった。

 半信半疑でやっと探し当てた入り口で大桟橋を、ホッとした僕を警戒させる彼女の不機嫌な声が聞こえた。

「ここ、知らないわ」

 どうやら『彼女の行ってみたいスポット』のリストに入っていないようだ。横浜に初めて来た僕は当然ここも初めてで、ネットでの下調べもしていないから大桟橋に何が有って、どんな所なのか全く知らない。

 V-MAXを停めた脇の小さな駐車場から見る大桟橋は、板に覆われた丘のように見えて、野外のアスレチックか迷路を前にした時みたいな期待と不安が入り混じり、同時にここは彼女の楽しめる場所なのかと後悔した。振り返って見た彼女は半ば呆然として大桟橋をみていて、やがてジロリと動いた目が僕を見た。それから再び大桟橋に視線を戻すと、

「行こっ」

 一言、小さく呟くように聞こえたかと思うと、僕の先をすたすたと歩き出した。

 板張りの正面に大きなゲートが暗く開き、その手前にはロータリーのバス停が、両脇には大桟橋の上に登れる坂道が見えた。

 V-MAXを急いでロックして先を無言で進む彼女を追い駆けるように、僕は板張りの坂を登る。登り切る辺りで待っていてくれた彼女に追い着いた僕は、僅かに離れて彼女の後に付いて行く。厚い曇り空の下、影の無い僕達は肌寒い潮風の吹き寄せる大桟橋の広い背を、交わす言葉も無く先端に向かってゆっくりと歩いていた。

 時折り彼女は立ち止り、じーっと右手に在る岸壁の公園と船……、ナビゲーションでチラ見した限りでは山下公園とその先に係留して在る氷川丸と言う、何らかの記念船らしい……。それと捻じったように組まれた赤い鉄塔……、たぶん、マリンタワーだと思う。……などを見て、正面右手のテレビ画像や雑誌の写真で良く目にした、横浜港口に架かる有名なベイブリッジを視界に入れながら彼女は首を左に廻す。彼女が顔を向けた左の対岸には二棟の赤い煉瓦建ての倉庫が在った。

 視線を移すたびに顔の向きを変えて横顔を僕に見せる彼女は、顔を上げ優しさの失せた細めた目と頬に、そして、硬く結ばれた口許に険しげな彼女を感じさせた。時折、何かを企むように唇の端が吊り上がって、目許が笑った。その変化する表情の中に彼女の思惑を探ろうと僕は見続けた。

 彼女の視線を追って見た赤煉瓦倉庫に、僕は後悔した。

(先に、あっちへ行けば良かった……)

 どうして、思い付かなかったのだろう?

 インターネットで相模原近辺や横浜市内のデートスポットを検索していた画面に、アウトドア的にショッピングを楽しめる、お奨めスポットとして赤煉瓦倉庫は紹介されていた。ドラマのロケ地に良く使われて人気が有り、トレンディーなファッションやグッズに洒落た飲食店も多い。大型バイクのタンデムで乗り着けても自然で様になりそうだった。

 そんな開放的なイメージがしたエリアだったのに、ただ、彼女とタンデムで走り回る事しか考えていなかった僕は、画面を流し見しただけで予備情報にもしていない。愚かな自分を嘆こうと風に立てる顔に、湿り気の有る冷たい大気が吹き寄せて目尻を滲ませた。

 滲む視界の遠くに、雲間から射す太陽の光が湿った大気で太い筋となって晴れ間と海面を繋ぎ、光に包まれるベイブリッジを白く輝かせていた。一緒に照らされる橋桁の周りや辺りの海面も明るい色で眩しく輝いている。

 その裾広がりに斜めに降りている光の筋は薄明光線という、見たまんまの味気の無い名称で、俗に言う天使の梯子だ。信心深い人にはラッパを吹きながら行き来するエンジェルが光の筋の中に見えるそうだけど、そんな宗教が絡んだようなのじゃなくて、もっと現代的にファンタスティックな呼び名がないものかと、見る度に考えてしまう。

 目を凝らすと輝く海面は遠くベイブリッジの向こうの東京湾まで広がっていた。低くフラットな曇り色の空の中に透明な青空色が在った。ぽっかりと大きな穴が開いたような晴れ間だ。その晴れ間が沖から近付いて来ている。

 早く来て暖かな春の陽射しで彼女を包んで欲しい。春の光を浴びて少しでも彼女の機嫌が良くなればと願う。

(春の太陽よ! 早くここへ遣って来て、肌寒く沈む気持ちを明るく暖めてやってくれ!)

 ゆっくりと前を歩く彼女の歩調に合わせて、僕は緩い起伏の板張りの丘のような大桟橋を彼女に付いて行く。近付き過ぎて鬱陶しいと思われないように、離れて寂しがらせないように、付かず離れず、僕は彼女と歩いた。

 これまでの桟橋のイメージは埠頭の岸壁と同じ、港の縁をコンクリートで固めたフラットな船着場で、ずらりと並んで糸を垂れる釣り人達と倉庫や出入国などの通関管理棟が隣接しているのだった。でも、この横浜港大桟橋は違っている。釣り人はいないし、フラットな無機質なコンクリートの塊でもない。草木や人工芝に覆われていれば、まるで、横になって転がりたくなるような丘陵公園だ。

 彼女の横に並んで歩きたいけれど、転倒して挟まれた痛みが左足をぎこちない歩みにさせて、誤魔化しの平気を装うのが難しい。右足は何ともないのだけど、移る体重に鈍く痺れが残る左足から『ズキン!』と、突き上げて来る脛骨が軋む深くて重い痛みに、注意していないと踏み付けた僅かな段差でヨロけてしまう。だから、できるだけ自然な感じで彼女に気付かれないように歩こうとしても、そおっとした歩きになって離されている。

 そんな遅れを誤魔化すのに、あちらこちらへ僕はキョロキョロと顔を廻らせ、見る物全てが珍しくて興味をそそられているフリをした。

 大桟橋の先端まで来た。

 僕が咄嗟に思い付いたデートコースの折り返し地点に、とうとう来てしまった。後は、何を如何くっつけて寄り道しようが、相模原へ戻るしかない。

 ランチは相模原か、相模大野へ戻ってからにしよう。それから、僕と彼女が弾む会話で笑っていられるようにしたいのだけど、今も疎らな会話に、どうすれば良いのか分からない。痛む足と焦る気持ちで楽しい筈のデートはブルーに染まって沈んでいる。

 こんな僕の憂いを晴らすように頭上に遣ってきた大きな晴れ間が、大桟橋を陽射しで覆って照らしだした。

 大きく真ん丸に広がった空色の晴れ間を仰ぎ見ながら、横目で彼女の反応を気にする。

「ここは晴れてくれたな。暖かくなって良かった」

 少し鼻をヒクつかせて春風の匂いを嗅ぎながら、彼女は手を翳し空と海を眩しそうに目を細めて見ていた。

(やっぱり、春は彼女の、この顔だよな!)

 久し振りに彼女を好きになった時の表情が見れて、僕は嬉しい。陽に晒されて暖められた春の潮風に吹かれ、明るい暖かな陽射しを浴びる彼女は、表情が柔らかくなって嬉しそうだ。その顔に僕の胸がまたまたキュン、キュンと鳴って締め付けられた。

(良かった! 彼女の機嫌が直りそうだ。晴れ間よ、ありがとう)

 大自然の恵みに感謝しつつ、彼女の機嫌がこのままで続いて欲しいと願う。

「うん……、晴れた。明るくて眩しいよね」

 光に包まれる彼女は、本当に美しい!

 陽射しに暖められた春風は柔らかく水面を撫ぜるように吹き渡り、波頭をキラキラと眩しく輝かせた。ひんやりとしていた風が暖かい春風になって吹き寄せて来る。陽射しと春風に温められる気持ち良い僕の身体に、傍に彼女が居てくれる喜びに潤う僕の心。

 今正に、僕の身も心も麗らかに安らぐ至福の時だ!

「この晴れ間からの陽射しは、遠くから見ると、大桟橋へ天使の梯子が降りているように見えるんだろうなぁ」

 さっき思った事を、彼女に聞こえるように呟いて、僕は姑息な機嫌の測り方をする。

「そうだね。きっと、そう見えているよ。雲の彼方の透き通った蒼い天上界から、天使が降りて来て、私達は連れて行かれちゃうかも、なぁんてね」

 機嫌の直りそうな彼女にホッと安堵して気が緩んだのか、フラ付き始めた身体を手摺り前に備え付けられている支柱架付きの有料の双眼鏡へ寄り掛けると、彼女も二メートルほど離れて手摺りに凭れ掛かり、海を眺め始めた。

 空一面、ぽっかりと大きな穴のように広がった透明な蒼空の明るさに照らされて、眼下の横浜港の海は、上空の空の色に染められたように深く鮮やかな青色で、吹き渡る春風にキラキラと波立っていた。

(彼女は、その海を見ながら何を考えているのだろう?)

 陽射しと波の照り返しで暖められた潮風が気持ちいいのに、立戸の浜のような親密さは感じなくて、逆に僕は彼女に距離を置かれてしまっている。立戸の浜の親密さを更に接近させて、キスも有りかなと思い描きながら相模原に来たのに、このままでは彼女の機嫌が直っても距離を詰めて来る事はないと思う。

 その機嫌の良さも晴れ間の内だけで、寄せる雲に陽が翳り、気温が下がりだすと、再び彼女はネガティブなオーラを放ち出すだろう。僕の塞いだ気分も好転する事無くブルーなデートで終わりそうだ。

(何か打つ手は無いのか?)

 そう不安に焦りながらも、反射する陽の光を眩しく眼に飛び込ませる波の泡立つ白い頂を、今日の記念に切り取ったようなオブジェにしたいと考えていた。

 トランプでピラミッドを作るように息を止め微動もさせず、ゆっくりと丁寧に築き重ね上げて来た彼女との関係が、プップッと音を立てて一遍に今にも崩れそうなのに、鈍くてトロい僕は余裕を噛ましていた。

 陽溜まりの中で手を翳し眩しそうに目を細めて波頭の煌く水面を眺める彼女は、普段でも薄く微笑むような表情を一層優しげにさせ、春風に舞い乱れる髪の輝きと相俟って神々しくも見え、ドギマギする矮小な僕は彼女の光りで溶けてしまいそうだ。

 僕を好きだと言わせたい。光の輪が頭上に現れても不思議じゃない彼女から、目を離せない僕は強く思う。

(僕だけが彼女を理解すればいいんだ。誰にも彼女を奪われたくないし、渡さない!)

 彼女を見ていて、ふと思う。

 この世の全ての理が等価交換で成り立つならば、その重さや価値は何処に在るのだろう? 等価交換される必然は何処から来るのだろう?

 喜怒哀楽が均等だというのならば、この世界は不条理と不可解ばかりで全く不理解だ。悲劇に巻き込まれた幼き命、苦しみや不幸だらけの生涯、事故や戦争のような一度に大勢が個人の都合に関係無く、災危に遭うのは因果応報の果てなのだろうか? これらの何処に『良い事半分、悪い事半分』が有るんだろう?

 この世の理だけでは幸不幸の等価交換が出来ないと思う。きっと、前世、現世、来世でも等価交換値は不均等で成り立たない。そもそも不幸に抗う慰めの言葉や仮説でしかなく、絶対的な道理や根拠は全く無かった。

 こんな不愉快を想像して考えさせる彼女の横顔に、今の僅かに高揚するプラスの気持ちが、彼女のちょっとした否定的な言葉や表情で堕ちて沈み、マイナスの粘り絡まる焦燥感に引き摺られてしまう予感がした。

 平行世界……、以前、お袋が言っていた言葉を思い出す。今居るこの場所と過ぎて行く時間は、ズレた選択肢が際限なく重なるターニングポイントで、事態が悪化する方向の世界の一つなのかも知れない。

 今日は大きな分岐ポイントになってしまった気がする。僕が起こしたズレは大きくて、何もしないで放っておくと二度と彼女の人生と交差しなくなるだろう。どこかで修正しなければならないと思った。でも何時、何処で、どんな方法で戻せるのか分からない。

 僕の魂が昇天しそうな、その笑顔で僕を好きだと言ってくれるのならば、あらゆる方法で僕の全てを君に捧げて必ずズレを正す。

 例えば、極端で現実的じゃないけれど、陥る悲劇の結末から回避させてハッピーエンドに至らせる為に、僕が犠牲にならなければならない事を知っている彼女から、『君が好きだから、私の為に死んでくれる?』と、無情な事を笑わない顔で願われても、僕は叶えたいと思う。

(でも、理不尽に『あんた、うざくて嫌いだから、死んで!』は、拒否だな)

 もっと純粋で短絡的に、彼女が、避けられない辛さの限界や堪えられない悲観の絶望を終わらせたいと望み、僕の耳元で『私は、好きな君と心中したいの』と囁くように呟いたなら、彼女の非情な願いを僕は一緒に叶えるだろう。

 そんな歪んだ『好き』でも、彼女が言えば、僕は実行する覚悟が有った。

 相変わらず、割れた青ガラスの破断面みたいに陽射しをヌメヌメ ヌルヌルと照り返す海面の眩しさを、翳す掌で遮りながら、遠くの陽炎の様に揺らぐ真っ白なベイブリッジを見ている。

 視界がぐらりと揺れ、時間の経過と共に少しづつ増して来た脚の痛みに、双眼鏡の支柱に凭れ掛かるのも負担になってきた身体が、より安定した休息場所を求めているのに気付た。

 近くの風除けの有るベンチへ移動して、くたっと足を投げ出して座った。痛みに耐えて普通を装える間隔が短くなって来ている。脚を摩る両手に力が入って行く。痛みの疼きを散らすゆっくりとした時間が欲しい。

 暖かな陽射しを浴びながら穏やかな春風に吹かれていると、気持ち良い眠気が来た。

(ふぁ~、眠い…)

 気持ちの緩みと痛みの退きも加わって、デート中だというのに大きなアクビが出てしまう。疲れと寝不足も出ていると思う。

 残業続きで身体は疲れていたし、風呂で身体の隅々まで洗ってしっかり湯に浸かりもした。そして、今日の行動を考えていつもより早く就寝した。だから昨夜は良く眠れるはずだった。だけど彼女に会えるのが嬉しくて二人の未来を想像した。今はまだ、その気配は無いけれど、恋人達の関係になった二人を、あれこれいろいろと考えて興奮で寝付けず眠りも浅かった。

それに早朝から一生懸命にV-MAXで走って来ている。

(寝不足と疲れと、ちょっとした、……幸せ気分からかな?)

 そう思うと益々瞼がくっ付きだした。

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 横に座った彼女が、持っていた包みを広げて手作りのランチを僕に見せた。

(おおっ、カツサンドだぁ♪)

「はい、あーんして」

 楽しそうな彼女の言葉に口を開けると、押し込むようにカツサンドが突っ込まれた。

 『何を行き成り』って、息も塞がれて憤りそうになるけれど、カツサンドの美味しさにどうでもよくなってしまう。

(この味は、とんかつソースベースだ。ピリッとカラシも香ってる。美味いぞ!)

「ねぇ、美味しい?」

 カツサンドを頬張る口の僕が、大きく頷いて肯定するのを、肌が触れるくらい間近で、彼女はニコニコと嬉しそうに見ている。

 二つ目のカツサンドを手に取り、『まだ有るよ。早く食べて』と、今度は身体を触れさせながら僕の頬張る唇へ笑顔で押し付けて来た。

 真っ青な空に麗らかな陽射しと暖かな春風。触れる柔らかな彼女の身体。明るい笑顔の彼女は僕の幸せだ。だけど、立戸の浜で沈められた時みたいな悪戯を楽しむ彼女の強引な態度は、何かが違う。

 カツサンドを僕の頬で潰している彼女は、本当に僕が大好きな彼女なのだろうか?

(てっ!)

 何かが脇腹に当たって、呻きと共にカツサンドを吐き出した。

「あっははは」

 直ぐ真ん前で彼女が僕を見ながら大声で笑ってる。何が面白いんだろう? 僕は笑われる事をされているのだろうか?

(あうっ)

 また同じ場所に、痛みを感じた。頬で潰れていたカツサンドが刺さったみたいだ。……カツサンドがささる?

 目の前にいる彼女が不安な顔で僕を見詰めてる。……此処は、……何処だ?

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(はっ!)

 二度の痛みに眼を覚ました。いつの間にか僕は眠って夢を見ていた。脇腹に刺さったカツサンドも、息が出来ないほど頬張ったカツサンドも、消え失せて、懐かしい後味とリアルな痛みを感じいる。

「ごめん。太腿を蹴るつもりが、脇腹に当たっちゃった」

 僕は脇腹を彼女に蹴られて起こされていた。しかも二度、強烈に! けっこう痛い!

「寝てたから、起こしてくれたんだ」

 蹴られて痛い脇腹は、去年のバス事故で黒痣が残るほど挟まれた処だ。戻りのライディングに支障が出ないか心配になりらがらも、彼女の惚けに僕もボケで返す。

「うん、そうよ!」

 全く悪びれない言葉で断定する彼女の表情は、僕に次の行動を急かしていた。

「あそことか、こっちの船とか、それとも、ぐるっと周ってみる?」

 彼女が僕に求める次の行動が『早く帰ろう』だと、察してはいたけれど、お断り覚悟で近場の散策に誘い、今の時間を紡ぐ未練を露わにする。

「行かない。寒いから今日はもう帰りたい。もう帰ろう」

 澱みの無い棒読みが、冷めた彼女のはっきりした発音で耳の奥深くに貼り付いたのは、ストレートに返って来るのが分かっていた、僕の察しを肯定する言葉だった。

 気紛れではなくて、考えが有っての、あっさりと躊躇わずに止めたり、リセットする彼女を僕は知っている。十八歳の僕達には、漠然とした若さや茫漠とした人生の時間が残されている。今日をリセットして今年の夏でも、来年でも、再来年でも、遣り直す事は出来ると思う。でも、彼女が遣り直す相手は僕じゃないかも知れない。

     *

「あっ、あっ、あれ~ぇ。どこ行くのよ? ここを曲がるんじゃないの?」

『また道を間違えている』とばかりに、ルート1の浜松町の交差点を右折せずに直進する僕を、彼女は大声で指摘して非難する。ロードポイントを彼女は覚えていて、僕が帰り道を迷わないか、しっかり監視していた。

 道に迷えば、帰りが遅くなり、迷い続ければ、急ぐ気持ちに事故率が上がる。人身事故にでもなれば、今日は帰れなくなってしまう。しかし、道に迷わずに他のアクシデントも無いスムーズさで帰れれば、彼女は今日の僕といる時間を早く終わらせれる。

 彼女の非難の声に、そんな含みを感じたけれど、まだまだ今日を紡いで織りたいと足掻く僕は認めたくなかった。

「大丈夫だ。迷っちゃいないよ。GPSのマップで確認してるから。あっちの台地上の国道は、交通量が多くて危ないし、風当たりも強くて寒かっただろう。戻りは谷間の県道を、ゆっくりと安全第一で走らせるさ」

 今日のデートは出会い時点から、僕のセレクトミスが彼女を不機嫌にさせていた。それを晴らそうとした僕は、少しでも早く目的地の大桟橋へ着こうと混雑するルート16を急いだ。其の挙句、来る途中での速度超過規違反、転倒の自損事故、方角の迷いの不肖さは、彼女に僕への不信感を抱かせて、今も、帰り道を不安がらせている。

 戻りは、スピーディなライディングを控えた彼女の安全と安心を最優先する気遣いで、僕はタンデムで密着する彼女の感触を背に感じながら、落ち着いてゆっくりと走りたい。

 GPSの検索で選んだルート16の迂回ルートの一つへ右折して、片側一車線の県道を交通の流れに合わせた速度でV-MAXを走らせて行く。何度も赤信号で停まる度に、流れ去らない彼女の匂いをヘルメット内へ漂わせて、後ろから抱き着いている彼女に僕は幸せを感じていた。

(今日の僕を、彼女はどう思ったのだろう)

 今のところ今日の僕は、一つも良い場面を彼女に見せていない自覚が有った。自己採点だと九対一でマイナスイメージだらけで、一つだけのプラスは、天使の梯子の暖かな陽射しに包まれた大桟橋の先端で彼女が嬉しそうに笑ったからだ。今日の彼女と『さよなら』する時が刻一刻と迫って来ているのは感じている。なのに、今も、この後をプラス的な友好ムードにする為の思考をしていない。今日は僕の遣る事、為す事、どれも行き当たりばったりの思い付きで、失敗ばかりだった。その蓄積されたマイナスを一発逆転したいのだけど、どうすれば良いか情報不足で全然分からない。

 『さよなら』への時間を加速したがっていると思う彼女は、今日の不甲斐無いデートの所為で『さよなら』の前倒しを求めているのを、僕に自覚して協力しろと考えているのか知りたい。だけど、どうせ訊いたところでノリの悪い彼女の態度から、想像通りのノリの良い悪態が返ってくるだけだと思う。故に怖くて訊く勇気が無い。

 確かに大桟橋へは道に迷っていたけれど、適当に走っていた訳じゃない。

     *

 雑木林を過ぎた。先々週来た場所だ。この辺りは桜吹雪の中を偶然の出逢いを求めてグルグルと走っていたから、大抵の方角とロケーションは分かる。

 背中の彼女がムズがるように体を揺すり、抱き着くように腹部に回された腕が緩むと、直ぐに彼女の手が僕の両の腰をしっかりと掴み直した。

 どうやら、寝ていた彼女が起きたみたいだ。左右に顔を振って現在位置を確かめている動きも伝わって来る。

(ん! 寝ていたのか?)

 寒がってジッとしているとばかり思っていたのに、穏やかな走りは彼女の眠気を誘ってしまった……。

(あっぶねぇー! 過激なライディングをしなくて、良かったぁー)

 逸る気持ちに、急発進や急加速をして急ブレーキで急停止、それに急ハンドルで縫うように鬼走りをしたり、回避できないアクシデントに遭遇していたら、きっと彼女は落下して大怪我や絶望的な状態にさせていたと思った。

 ロープやベルトで体を結び着けておくべきだったと反省しながら、今も相模大野の駅を目指して慎重にV-MAXを走らせている。

     *

 どうにかやっと、相模大野の駅前に戻って来れたけれど、時刻は既にお昼を過ぎていた。

 休日の昼下がりだからなのか、駅前の商店街は以外と人通りが少ない。そんな閑散とした通りを行き来する僅かな人達を招くように、暖簾が風に翻る饂飩屋の前にV-MAXを停めた。

 クラッチレバーを握る悴む指先が痛み、トランスミッションのギアをニュートラル位置にするチェンジペダルを踏み込む凍えた爪先が、力を入れ続けると腓返りを起こしそうな感じに、早く温かい場所で冷えた身体を温めたい。

 先に彼女を降ろしてからエンジンを切り、V-MAXのサイドスタンドを立てる。V-MAXを降りてヘルメットを脱ぐと煮物や揚げ物の匂いが鼻腔を心地好く通り、僕に空腹をはっきり気付かせて食欲を煽った。隣でヘルメットを脱いだ彼女も鼻先をヒクつかせながら、料理見本のイミティーションが並ぶウインドウを見ている。

 僕は一人で、洒落たビストロやカフェレストランへ行ったことがなかった。友達や部活の仲間と行ったのは、喫茶店やラーメン屋やうどん屋ぐらいだ。一人暮らしの今でも定食屋とバーガーショップが増えた程度だ。回転すし寿司にも行ってない。

 料理見本を見て、饂飩屋の暖簾を見て、左右の通りを見る彼女の様子から、ここでお昼にしても構わないだろうと思う。

「ここで、お昼にするけれど、いいかな?」

 僕の声に彼女の瞳が反応してギロリと睨みながら、一歩、二歩と停めたV-MAXに阻まれるまで後ろに下がってしまった。

(明らかに拒否られてるなぁ)

 料理ジャンル、店選び、ロケーション、その全ての僕のセンスを拒み、疑っているに違いない。

 険しい眼差しで僕を睨み続ける彼女へ謝りの言葉を言うべきか迷っていると、突然、彼女は目を見開いて口が『あっ!』と小さな悲鳴を叫ぶ動きをした。

「あちっ!」

 何か汚い物を避けて跨ぐように彼女が飛び退いた。

 彼女が三歩目に下げた足の脹脛はV-MAXのマフラーに触れたままになっていて、厚手のGパンの生地越しに脹脛が火傷したのだと分かった。

 怒ったように彼女は僕を激しく睨み付けながらGパンの上から火傷した脹脛を擦り、それから直ぐにGパンの裾を捲り上げて火傷を見る。彼女の足は素肌にパンティストッキングを穿き、それにハイソックスとGパンを重ね、そしてコットンブーツを履いていた。

 ハイソックスを下げて見る火傷は、ストッキングの光沢で拡散されながらも赤く腫れて見えて、火傷しているのは確実に思えた。高熱で破壊されて融ける皮膚は、これから赤味が黒ずんで瘡蓋を張るだろう。どれくらいの範囲の大きさになるか、まだ分からないけれど、きっと今夜から数日はヒリヒリと痛む筈だ。

 火傷の状態を見て、ハイソックスとGパンを戻した彼女は僕を見る。

『見たよねぇ~。火傷してるよねぇー。誰の所為?』僕を責めたい光が彼女の瞳に煌き、僕は目も、顔も、身体の向きも逸らしてしまう。高温のマフラーに脹脛を押し付けたのは、彼女が後退ったからだ。その後退りさせた原因は僕だ。

(僕のセンスと経験値の無さが、彼女を傷付けてしまった!)

「火傷しちゃったよう。全治一ヶ月だよう」

 火傷の痕が彼女の肌に残るのは可哀想だった。痛がる彼女の嘆きに僕は胸が締め付けられて居た堪れない。凄く愛おしい彼女に僕は酷い事をしている。

 小さな染みや傷痕も無かった白く滑らかな肌の脹脛に、火傷痕の黒ずんだケロイドが残る。歳を経て小さくなり、位置も少しは変わるかも知れないけれど、何十年は消えないだろう。それを見越して『僕は気にならないよ』なんて、火傷痕が残るのを前提にした不適切で、彼女の気持ちを無視した思い遣りに欠ける無神経な事を、軽く流す『いたいの、いたいの、飛んで行け』的な冗談ぽさでも、その元凶たる僕は言えない。

(これは僕の所為だ!)

 彼女を傷付けるこんな事になるのなら、今日は会いに来なければよかった……。全然、慰める言葉を僕は見付けれない。

「ごめん……」

 痛がって悲しむ彼女が憐れに思えた。肌寒い晩春の休日に期待外れのデートに連れ回された挙句(あげく)、火傷までして嘆いている。その不幸なデートの始まりから不満そうだった彼女が益々不機嫌になるのは確実だけど、それが少しでもオーバースペックにならないように、僕は謝罪の気持ちが篭らない言葉で防壁を張る。

「……ここで、お昼…… 食べるの?」

 火傷するくらいの戸惑う反応と悲嘆顔の彼女は、絶対に不満だと思う。

 メジャーなファミリーレストランなら嫌がらないだろうけれど、戻り道には見当たらなかったし、途中で食べても、その後にタンデムしていたら身体が冷えてしまう。だから彼女の住まいが近くだと思える相模大野駅前で食べたかった。

 この饂飩屋で我慢して貰いたいのに。でも、どうしてもと、駄々を捏ねるなら、GPSで検索してルート16沿いへ移動するしかない。

「うん。そのつもりで入ったんだけど、ここだとダメかな? それとも食欲ない?」

 全くの無粋で当然な事だけど、僅かでも、此処で納得して貰えるフォローになればと、言葉を補填する。

「あっ、支払いは僕だから、何でも好きなの言ってよ」

 今日のデートの公けの費用は僕が支払うつもりだった。交通費、遊戯代や入場料、飲食代は、まだ、アルバイトを始めていないと思われる彼女と分担するよりも、働いて稼ぎが有る僕が全て負担するのは当然だろう。『それ買って』、『これ、プレゼントしてくる』も、大枚じゃないけれど財布の中身が有る限り、躊躇いも無く彼女の望みを叶えるつもりでいた。

 それに、初任給が口座に振り込まれたばかりだから、デート以降を倹しく生活すれくらいの余裕は有る。

「僕はカツ丼にする。好きなんだ。金沢じゃ、加登長やお多福で良く食べてたんだ」

(もう開き直りだ! 捏ねられる駄々を言葉にされる前に、強引に此処に決めてしまえ!)

 金沢市の大衆食堂の老舗、『加登長』と『お多福』の名を言えば、彼女も美味しさを思い出してくれるだろうと、賭けてみた。それに僕的には空腹と寒さで河岸を変えたくはなくて、この店で彼女が納得して欲しいと祈りを込めた。

「それじゃあ、私はカレー南蛮にしよおっかな。蕎麦じゃなくて、饂飩で御願いね」

 思わず彼女の顔を見た。この店で良いのか? 我慢して此処にしたのか? 不満顔でダークオーラが揺らいでいないか? と、疑いに不安を重ねた目で見ると、目許と口許が少し笑っているように思えて、手許が滑って落としたグラスは割れずに床に転がっていたみたいな、安堵の息を静かに吐いた。

 納得した微笑みじゃなくて、我慢と諦めと期待の不敵な歪みかも知れない。

 普通は蕎麦のカレー南蛮を饂飩玉にするんて、彼女なりの味の拘りが有るみたいで、ちょっと楽しそうだ。美味しそうな香りが立ち上がる旨い料理は人を幸せにさせる。

 どうか、注文したカツ丼とカレー南蛮饂飩カスタムは期待を裏切らない見た目と味でありますように。特にカレー南蛮饂飩カスタムの美味しさが、彼女の険しさをなだらかにさせて笑顔を見せてくれるようにと、僕は願った。

     *

「いただきまーす」

 案内された四人掛けのテーブルでオーダーして待つ事暫し、カツ丼とカレー南蛮は同時に運ばれて来て、それぞれの前に四角い盆に乗せられたまま、向きを整えて置かれた。

 目の前に置かれたカツ丼は、自己主張の香りが強く漂う、香ばしく揚げた豚ロースの割り下で煮られた切り身から、一緒に煮られた玉葱をとじた溶き卵と僅かに掛けられた煮汁から、いいかにもカツ丼って旨味の匂いを、器の底に盛られた熱々の白ご飯が立ち上らせて、『今、凄く彼女が好きだけど、カツ丼も大好きだー!』ってくらいに食欲をそそられている。

 食べ方を始める前の料理と其の料理を作った料理人へ敬意の挨拶を言ったのが、彼女とハモってしまった。互いに自分の料理に顔を向けたまま、上目で相手を見遣って目が合うとにっこりして、直ぐに視線を戻して食べ始める。

 先ずは上のカツを除けて、スライスした玉葱が美味しそうな色で絡む卵とじと一緒にご飯を食べる。少し煮汁が染みた上手に炊かれた白ご飯に、滑るように口に入る白身と黄身が混ざりがけの卵と、柔らかくも切れの良いシャキッ感が残る玉葱は、見た目の期待を裏切らない旨さだ。

 除けたカツの肉面は、これまた僕を嬉しくさせて、割り箸で掴み上げた切り身の半分を噛み切らせてくれる。

(うほぉっ! ロースカツだ。赤身のフィレじゃない。これは旨いぞ!)

 やはり、トンカツはロースじゃないと旨くない。臭みと味が違う。豚ロース肉の皮際の脂身は背油で、煮ても、焼いても、揚げても、甘い旨味が素晴らしい!

 ふわふわの卵と煮汁が染みた御飯の三分の一くらいをカツの切り身二つで食べて、一息吐きながら彼女の様子をチラ見する。

 丼を真下に寄せて口を近付け、カレールーが絡まる饂飩麺を一本づつ慎重に彼女は食べていた。麺を啜り上げする事なく、麺が撥ねてルーの雫を飛び散らかさないように箸で摘まみ、口へ運んでいる。左手がカレー南蛮の丼を抱えるように廻されて、バクバク、ムシャムシャじゃないけれど、仕種の毛足の長い犬や猫っぽい感じが、何か可愛い。

(彼女も、豚ロースの脂身や、すき焼きで煮込まれた牛の脂身が、好きだといいな)

 僕の覗き込むような視線に気付いたのか、饂飩麺を口へ運びながら彼女が上目で見る視線が重なり、麺を運び終わるまで、見詰め合ってしまう。

 カツ丼の香りを押し退けるようにカレーの匂いが漂って来て、彼女が食べる魅力的なカレー南蛮は、カツ丼と同じ位に好きな僕を、カレー饂飩の追加オーダーしようと誘惑するが、今はカツ丼だけにすべきだと考えさせた。

 金沢市で家族と一緒にいた三月中頃まで、休日の昼も家にいると、お袋は昼ご飯によくカツ丼を作ってくれた。なんでも婆ちゃん譲りのレシピで、とても旨い。僕がカツ丼好きになったのは、お袋のカツ丼の所為だ。スーパーで買うロースカツを使うのだけど、丼専門店の拘り仕立てのカツ丼より旨いと思っている。

 いつも小鍋に残る煮汁を全部掛けて貰い、シャバシャバのツユダクにして掻き込んでいた。そんな食べ方を僕がするものだから、親父や妹のより煮汁の味付けを、お袋は少し薄くしていたのに気付いたのは高校受験の頃だった。

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 徹夜で勉強するつもりで、お袋が作ってくれたカツ丼を夜食で食べていた時に、親父が酒臭い臭いをさせて夜の集まりから帰って来た。

 親父が、煮汁を沢山入れて雑炊のように食べる僕のカツ丼を見て、『俺も同じのが食べたいかも』とお袋に頼むと、『いつものより、味は薄めになるけど、いいの』って返された親父が、『それで、御願いします』と言いながら頷くのを見て、僕はお袋に訊いた。

『僕のツユダクは、味が違うの』、ずっと他のと同じ味だと思っていたのは、『当たり前じゃない。一緒の味付けだと塩分取り過ぎで、体調を崩しちゃうでしょ!』って、賢いお袋が違わせていた。

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 両手で掴み持った丼に口を着けてカレールーの最期の一滴まで綺麗に平らげた彼女が、テーブルへ丼を戻しながら軽く長く息を吐く。どうやらカレー南蛮に満足していただけたようだ。それを見ながら同じように丼に被り付いて、残していたカツの最期の一切れの脂身を食べ終える。

 食のテンションで不規則になっていた呼吸を軽い溜め息で戻し、更に気持ちを整え意を決する為の深い溜め息を吐いた。

 今日は彼女に渡すプレゼントを二つ持って来た。

 一つは自作の小物。ローマのスペイン広場でレリーフのフォトスタンドを買おうか迷っていたから、興味が有ると思う。フォトスタンドではなくて、軽さからペーパーウエイトにもならないだろうけど、彼女の部屋の何処かに置かれて、視界に入れば僕を思い出して欲しい。

 もう一つは、彼女の近くに居られない僕の代わりに、いつも持っていて貰いたい物で、インターネットの通販で購入した。使い方によっては彼女を守りきる強力な武器だ。

 それらを彼女に見せて、説明してから渡すのは、お腹が満たされて気持ちが穏やかになった今のタイミングだ。

 V-MAXのダミータンクに縛り付けていたのを外して、横の椅子に置いていたディーバックから一つ目が入った包みを取り出した。そして包まれていた小箱を開け、詰められたクッション代わりのティッシュペーパーの中の作品を壊れていないか確かめながら、そっと箱から出す。箱の中に僕は自作したミニュチュアの西洋風のお城を入れて来ていた。

(よし、どこも壊れていないな)

 小さいけど頑丈に作ったし、梱包もバイクの振動に耐えられるようにクッションを二重にしていたし、転けた時にも潰されてはいなかった。

 取り出したそのミニュチュアの西洋風のお城は、明るい色で落ち着いた感じに仕上げて、城館の屋根や城壁の上に、幾筋ものカラフルな図柄の燕尾旗をたなびかせた。

「ちょっと作ってみたんだ。久々の新作だよ」

 会える日が決まってから毎晩作り込んだ。造形用粘土で作って型取りした僕の最新最高の傑作だ。

「ソレなに? 作品なの? 自分で作ったの?」

 彼女は一瞬目を輝かせたけど、すぐに冷めた表情に戻ってしまった。

(食い物とでも……、デコレーションケーキに見えたかな? 少し離れるとコーヒー味のショートケーキに見えるかも)

 たぶん、艶消しのサーフレススプレーを何度も重ね噴きしたから、ショートケーキっぽく見えて、『美味しそう』なんて、期待を抱かせたのかも知れない。でも、違う。食べれないんだ。例え、僕が気の利いたセンスの持ち主で昨夜に静岡市内の有名店から購入して用意して来たとしても、この飲食店の中で広げて食べるわけにはいかないだろう。

 第一に、僕は気が利かないし、センスも良くない。それは、今日の出逢いで悲しく証明されている。だから僕は、無粋に素材と表面仕上げを説明して、出来上がりを訊いてみる。

「原型をシリコンゴムで型取りして、歯科用の石膏で形にする。そして、修正を加えながら着色とサーフェイス処理したんだ。どうかな?」

 彼女に問い掛けながらも、僕はショートケーキの持ち込みを考えていた。

 もし、有名なパティシエのを持って来ていたら、きっと直ぐにでも彼女は食べたがるに違いなくて、それは彼女の気持ちを晴れにする一発逆転のアイテムになってくれる。だけど、それを何処で食べる? ファミレスでも、喫茶店でも、持ち込み飲食はNGだ。だとしたら、其処は彼女の部屋になるだろう。

 彼女の薦めで、暖かい彼女の部屋で、彼女が煎れる紅茶を飲みながら美味しくケーキを食べる。二十一世紀美術館の白いカフェや立戸の浜の時のように、ラブラブっぽく食べ合えれたかもと僕は白昼夢を見そうだ。

 現実は、気遣いの出来ない僕に心付けの用意は無く、今の気不味さは昨日からの必然だと思う。彼女の部屋へ行く事も、知る事も、今日は出来ないと悟った。

「それっぽく見えたけど、ケーキじゃないみたいね」

(やっぱり、そう見えたか)

 手のひらサイズのお城を彼女の前へ、倒して壊さないように、そっと置き直した。

「色相的にモンブランとサバランを合わせた感じだな。ヨーロッパの何処かに在る小さな城館をモチーフに、アニメチックな造形をしてみました」

 色合からなのか、形的になのか、よく分からないけれど、せめて、彼女の趣向に沿わせて楽しい気分で、もう一つのプレゼントを渡したい。

「そうだね。全体がモンブランぽくて、ここのライトグリーンがサヴァランかな。小立野のケーキ屋さんを思い出すねぇ。サバランは、あそこのばかり、買って食べてたなあ」

(ライトグリーン? どこが? それっぽい色がサバランに有ったっけ? ああ、そうか、あの店のサバランはメロンがトッピングされていて、香っていたな)

 しっとりしたシロップとリキュール味のサバランのイメージが爽やかなメロンのグリーンだなんて、そんなカラフルな感覚を持つ彼女が面白く思えて、新たな共感を感じてしまう。

 彼女が言った小立野の店は覚えている。中学の頃はお袋に頼まれて買って帰っていたし、高校生になって帰宅時間が遅くなってからは、いろいろと中学生になった妹が買って来ていて、よく食べていた。

「僕も、あそこのしか知らないよ。でもそれ、食べれないし、食べないでよ」

 ちょっと弾んで来た会話に気持ちは勢いづいて、笑顔にさせれるかもって言葉を遊んだでみた。

「ふーん。良くできているじゃん」

 あっさりと、親しみを込めたつもりの軽いジョークは、完全にスルーされてしまった。

 この時、僕は彼女の表情と気持ちが違うとはっきり知った。穏やかで優しそうな表情や仕草とは裏腹に、その表面の直ぐ裏側まで激しい感情や想いが迫っているんだと分かった。それが時々ひょいっと言葉や態度に出るんだ。それはたぶん、彼女自身のストレスかフラストレーションが溜まって発散されているのだ。それを意図的に僕にぶつけているのだろう。僕だけに。

(なぜ? 感情を剥き出しにせずに、時折、さり気なく痛い言葉や態度を僕に向けるのだろう)

「良かったぁ。それは、君にプレゼントしたくて、作って来たんだ」

 いろいろとミニチュアの角度を変えている手を見ていて、僕は急に立戸の浜で見た彼女のネイルアートを思い出した。

(ネイル、爪か……。四角い爪……)

 僕は小学校六年生の春の日から去年の夏の浜辺まで、彼女の爪の事には触れていなかった。

 七年前、きっかけを作りたかっただけの僕は何の配慮も無く、『どうして、そんな形?』と、短くて四角い爪の形を彼女に訊いていた。

(そうだ! 爪だったんだ! 何気なく言った僕の不躾で無神経な問いを、彼女はずうっと引き摺って気にしているんだ。……絶対に爪だ! そうに決まっている。彼女の僕に対する痛さの根底には、それが有るんだ。立戸の浜で気が付いて、あそこで僕は彼女に謝らなければならなかったんだ……)

 確信した。僕はタイミングを逃していた。そして今日もチャンスを失った。そう、あの大桟橋で気付くべきだった。

 だけど、僕の無神経な七年前の言葉を彼女は言葉で許しても、今の理不尽に苛つく反抗期みたいな態度は直ぐに治らないと思う。

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 小学校五年生の時、僕に早い反抗期が来た。お袋も、親父も、家庭も、学校も、先生も、友達も、世の中も大嫌いになった。周りの全てが自分も含めて理由もなく厭だった。学校では大人しくしていたけど家では何かにつけて激しく暴れた。

 ある日、寝そべりながら大人しくテレビを見ていると、親父が傍らに来て座った。それからコトリと灰皿を置いて、おもむろにタバコに火を点けた。

『くっさいなぁ、タバコなら外で吸えよ』と言う間もなく、半ズボンで剥き出しになった左の太腿の内側にタバコを押し付けられた。

「うわーっ」

 熱さで飛び上がり、痛さに転げ回った。怒りで親父を睨むと、親父はもう一度タバコを押し付けるところだった。泣き喚きながら慌てて、タバコを持つ親父の腕を両手で掴むけど、片手でも親父の力は強い。僕の悲鳴と泣き声でお袋が飛んで来て、親父を止めてくれた。

「やめて! どうして二度もしょうとするの」

 親父から取り上げたタバコを消しながら、お袋が訊いた。

「こいつを正そうとしただけなんだよ。だけどな、こいつの反応が面白くてさ。俺もな、いけないなと思いながらも、こいつが飛び上ってバタバタ転げ回るのが可笑しくてさ。だから、もう一回見ようとしただけなんだ」

 そこで、お袋が親父の頬を大きな音を立てて平手打ちした。

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 今なら、あの時の親父の気持ちが解るような気がする。何度か小さな子供が熱い物に触れて、泣き叫ぶのに出会した事が有った。決まって『ぎゃーっ』とか『わーっ』と泣き叫びながら、両手をバタバタ振りドンドン足踏みするか、転げ回る。可哀想と思う反面、慌てふためく様が面白い。可愛さも有ると思うけれど、もう一度、熱い物を触れさせて騒ぐのを見てみたい衝動に駆られる。もう一度だけで済まないかも知れない。そう思うだけで咽喉がザラザラする。可哀想の憐みと面白さの衝動が、自分の中で鬩ぎ合い葛藤する。胸の中がゴツゴツした石がいくつもゴロゴロ転がって行く感じだ。気持ちが悪くて濁った息が詰まる。

(想像するような可哀想な事は、してはいけない悪い事なのだ)

 頭の中から衝動に駆られそうになる想像や考えを振り払った。

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 その時から、僕の反抗期は終了した。その日から親父はタバコを止めた。そして年に一、二回、家族での食卓時に、親父は僕に『タバコの押し付け』を謝る。

「何度も謝らないでよ、父さん。あれは僕が悪かったのだから気にしてないよ。それに母さんや妹の前だと照れ臭いから、男同志の時に聞くよ」

 照れながら親父に言うと。

「女房や娘の前だから息子への謝罪の言葉になる。おまえと二人きりで言うのは、それは言い訳にしかならん」

 真摯な顔で言ってから、親父は笑った。

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「あっ!」

 縞模様に明るい青色と赤色にペイントされた旗を戦がせたり、軽く撓ませていた彼女の指先が、旗の先端に触れて動きが止まると、ぐぐうーっと旗竿を直角以上に曲げて、『バシッ』と折ってしまった。

 褐色と黄土色のツートンカラーに塗られた旗竿は根元近くで折れて、テーブルの端まで飛ばされた燕尾旗が、まるで己のサドンデスを呪うように回転している。

「ごめん! ごめんね」

 彼女が言う謝りの声と其の表情を懐疑的に感じてしまう。

 折角、今日に間に合うように夜な夜な没頭して完成させたのに、上手に作れた最高の出来栄えなのに、気に入って笑顔を見せて貰えると期待していたのに、燕尾旗の旗竿は故意に加えられた指先の力によって、その素材のエンジニアプラスチックの靭性と剛性の限界を超えた曲がりで破断させられてしまった。瞬間、その虚しい様が悔しくて、悲しくて、唇を噛み、泣きそうになる。

 でも、彼女に破壊衝動を起こさせたのは、きっと、僕が原因だ。そして、他にも吐き出せない混沌とした不満や不安を僕にぶつけているんだ。

 それに、城館のミニュチュアは僕が作ったモノだから、一部分の破壊でも、全壊でも、修理したり、作り直したり出来る。

「持ち帰って直してから、また持って来るよ」

 言った途端に彼女の眉端が釣り上がり眉間と鼻頭に皺が立ち、彼女の頑なさが、いじける気持ちを僕への拒絶に変えて行く。

 彼女にそういう内面が有るのは気付いていた。僕の言葉が原因なのに、責めずに僕が気付くまで触れられたくなかったんだ。でも今、この場で『四角い爪』を話題にして詫びるのは不自然で相応しくない。いじらしさに急に愛おしくなり、彼女を抱きしめたい衝動に心が騒ぐ。

「せっかく持って来たんだから、貰ってあげるよ」

 作り笑いをして彼女は言った。瞳はつまらないという色をしている。

「折れた旗は、今日の記念になるしね」

 今日の記念のプレゼントに破損の跡を残して、彼女は不満の意と思しきメモリーを刻み付けた。

 大事に彼女へ渡す為に持って来た作品が、これ以上の不快メモリーを残されないように箱へ閉まってから、別の紙袋をバッグから取り出した。

「それと、これもプレゼントです」

 彼女は、又もや僕がディーバッグから取り出した紙袋を、荷物が増えると言わんばかりの顔で胡散臭さそうに見た。

「何これ?」

 紙袋から中身を取り出して彼女の前のテーブルへ置き、彼女の前へ寄せていると訊かれた。

「ええと、それはスタンガン。取扱説明書を良く読んで、もしもの時に使って」

 彼女はパワーをオンにして、いきなりグリップスイッチを握りバリバリと大きな音をたてて放電させた。店にいた五、六人の客と店員の全員が、何事が起きたのかと振り返って僕たちを見た。

「危なくないの?」

 スタンガンを手元で振りながら、バチバチさせている。

「こんな所で放電させたら駄目じゃん。そりゃ、そいつは危ないよ。ドーンと来て凄く痛い。押し付けて放電された処は軽い火傷をするから、顔に押し付けないでね。目は失明するし耳は聞こえなくなるぞ。それと頭や首や心臓辺りは気絶したりして危険だ。スパークのノイズや電磁波は、医療機器のペースメーカーを誤作動させるから、入れている人に使うと死んじゃうかも知れないぞ。本当に身の危険を感じた時だけ、思いっ切り押し付けて放電させるんだ」

 彼女は僕の手に押し当てる振りをしながら訊いて来た。

「この痛みを、あなたは体験しているの?」

 素早く手を引っ込めて、

「ああ、人に酷い事をする道具だから、自分で威力を知っておかなくちゃね」

(あぶねぇー、もうちょっとで電撃くらうところだった)

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 僕は届いた日に自分で試してみた。テレビのドラマや映画のシーンは大袈裟で、実際そんなに威力は無いと思っていた。まして通信販売の市販品なんか、たいした事はないだろう。僕は軽い気持ちで太腿にスタンガンを付け、スイッチを押した。

「ヒッ、ぐわーっ」

 いきなり、太腿の筋肉が勝手に激しく伸縮して体が弾き飛んだ。一気に出た肺の空気が声じゃない高い音を体の中から漏らして、視界が一瞬暗くなった。直ぐに襲ってきた強烈な痛みで僕は悲鳴を上げながらのたうち回った。優に三分間は動けなかった。暫し、何が起きたのか理解出来ず、何も考えられないほど、ドーンと来た凄いショックだった。

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 悪戯やおふざけの軽はずみな行為をしないように注意を促す言葉が、彼女への怒りを含ませる。

「手に電撃しようとしただろ。やめてくれよな。四、五日はズキズキするんだから、V-MAXで帰れなくなっちゃうぜ」

 ニヤニヤしていた彼女は、『ふうーん』と言う顔をして、バチッ、バチチッと空放電を繰り返す。

「それと空放電は一秒以内だから。長く放電するのは故障の原因になるし、電池の消耗が速い。いざっちゅう時に放電しないぞ」

 ちょっと迷うように考えてから、彼女はスタンガンを受け取った。

「面白そうだから、これも貰っておくわ」

(やはり、スタンガンは拙かったかな。でも、二人の距離が離れた今、僕は彼女を守れない)

 もう僕は彼女の傍に住んでいないから、せめて遠く親元を離れて一人暮らす彼女の身を、自分自身で守る術を贈る事しか出来なかった。

 彼女の安全を心配する度に、『彼女の生活圏の近くに就職すべきだったのだろうな』と考えてしまう。就職すると告げた時も高校受験と同じように、僕に進学する同じ処へ来て欲しそうな感じで、就職場所を首都圏へと、それも近隣限定と望まれていた。そう彼女が望んでいた通りにしていれば、仕事が終わると、いっしょに御飯を食べてからトレンディスポットへ行くようなデートを毎日の様にしていて、今日の気不味さは無かったのかも知れない。

 だけど、そこまで僕とのベタな毎日を彼女が予想して望んでいたのか分からない。ただ近くに居させるだけで日常は僕を拒んで冷たく距離を置かれていただろうと思ってしまう。

「本当に気を付けろよ。バスや電車の中で、いくら痴漢相手でもシルバーシート近くで使っちゃ駄目だぞ。電流は数十ミリアンペアで小さいけど電圧は百万ボルトも有るの。飛び上ってのたうち回る痛さとショックだからな」

 僕は心配になって念を押した。

「分かっているわよ」

 スタンガンで僕を脅しながら、笑顔でそう言いった。

「ありがとう。心配してくれて」

 映画の中で悪巧みをする小悪党のように、彼女は楽しそうだ。

(うーん、心配だ)

 悪戯心で人を苛めないように。軽犯罪的な悪さを起こさないように。自分を痛めつけないように。と僕は彼女の細める眼を見て願う。

(本当に、正当防衛だけに使って下さいませ)

「カレー饂飩、美味しかったよ。そっちのカツ丼は、もう食べ終えたの?」

 今更っと思いながら、スカッと底の柄が見えるまで平らげた丼を向けて、僕の器を覗き込んで来る彼女が嬉しい。

「こっちも綺麗に食べました。なかなか旨かったよ。そんじゃあ、食後の珈琲でも注文しよっか」

 和んだムードに、更にプライベートな思いやエピソードを話し合えるかもと、僕はティータイムに彼女を誘う。

「いらない!」

 キツく語気を強めて断わられてしまった。

 『いらない』には、きっと僕も含まれている。彼女の『もう今日は、君もいらないから、さっさと帰ってよ』の意を僕は察した。

 空腹が満たされて眠くなった彼女は、幼子の様に『駄々を捏ねているんだ』と思いたいけれど、そうじゃない! 彼女の気持ちは今日のフリ出しに戻っている。

 互いの察しの無さと理解不足に、確認が全く無かった朝の出会いで、テンションが下がりっぱなした。戻りは何事も無く無事に来て、昼食も食べ終えたのに、まだ朝を引き摺る彼女が腹立たしい。

 だから僕は、更に彼女の機嫌を損ねてダメ出しされる覚悟で、言ってみた。

「なら、これからどうする? ここが嫌ならサテンに移ろうか? それともゲーセンへ行こうか?」

 僕らの格好じゃ、それくらいしか行く所がなかった。ショッピングモールや繁華街に場違いで不釣り合いだと思った。

「……ゲームセンターも喫茶店にも行かない。だいたい、場所知ってんの? 私は知らないわよ!」

 そう、彼女のツッコミの通り、この辺りの地理に全く不案内だった。行く時も、帰りの道すがらもチェックする余裕はなかったし、下見に来た時もデートコースに全く考えていなかった。そして今し方、うどん屋で話をして珈琲も飲んだのに、ダブった僕の言葉は凄くチープに思えた。

「知らないけど、走りながら探そうかと思って……」

 藪蛇だった。僕はもう繕えない。

「……行かない。もう何処へも行かない。帰る!」

 サドンデス! 彼女の返答に突然今日は終了した。不意に別れの時間が来たので、気持ちは焦った。だけど内心は、ホッとしていた。今日は、良いところが一つも無かったし、下敷きになった左足は益々ズキズキと痛くなっていて、落ち着かない。

 落ち着いた静かな声だけど、怒ったような口調で彼女は言った。黒曜石のような無機質の瞳で僕を睨んでいる。これ以上、無粋な誘いをすると、その鋭いエッジで切り刻まれそうだ。

 『帰る』の言葉が、僕に寂しさを纏わり付かせてデートの終焉を察した。『また、タンデムして身体が冷えるのは堪らない』、『今日はこれ以上、あんたの感覚に振り回されたくない』、『あんたとのデートは、これで終わり』、『あんたは、もう帰って』と、いくつもの僕を諦めさせる言葉を彼女は言わんばかりだった。

 それでも、拒否されるのが分かっていても、それが建て前だと思われても、言わなければならない言葉が有った。

 彼女の言葉には応えずに、黙ってレジを済ませて店の外へ出る。

 先程よりも雲の層が厚くなったみたいで陽が翳らないのに薄暗くなった感じがした。通りを吹きぬける風も心なしか強く冷たい。だから、横で寒そうな仕種をした彼女に、せめてもと僕は言う。

「……分かった……、送って行こうか?」

 彼女の眉間に皺が立つ。黒目勝ちな目の瞳が艶の無い漆黒で、全てを拒絶する冷たい暗闇のようだ。

「いいよ。近いから歩いて帰る。一人で帰れるから」

 続いた『帰る』が、寂しさを凍りつかせて深いクレバスの向こうに高い氷壁ができた。

 彼女に従うしかない。

「ああっ、ここで別れよう。僕も陽が傾かない内に帰るよ」

 『別れる』言いたくなかった悲しい言葉を、さり気無く言ってしまった。

(どうか、言霊になりませんように……)

 言葉数が少ない彼女に、僕らの関係が破綻しそうな、不吉な予感が滲むけれど、時間は戻せない。

 テンションを失い、モチベーションが消え入りそうな彼女へ、今から今日の遣り直しを望んでも許してはくれないだろう。

(今日は僕のミスだ。選択肢が一つしかなくて、ごめん)

 言葉にならない。心の中で謝った。僕はまた殻に閉じ籠もりそうだ。

「さようなら」

 その言葉の響きが、ずっと遠くから聞こえてきたような気がした。彼女の声が小さく耳に籠る。響きの中の寂しさと虚しさと切なさが僕を襲う。激しい焦燥が湧き上がり不安が僕を衝動的にさせる。

 『さようなら』は、『またね』じゃない!

(絶対に、今日の日を後悔するぞ!)

「次は……!」

 そう言いかけた僕の言葉を遮るかのように、彼女は口元を僅かに微笑ませて胸の前で小さくバイバイをする。でも彼女の眼は笑っていない。不潔な汚物を触った手を見るような眼で僕を見ていた。その眼に確固たる不吉な意思の光りを感じて、僕は言葉を繋げずに口を閉じるしかなかった。

『これ以上、何もしないで素直に早く帰って』という彼女の意思を感じた。

(このまま……、このままじゃあ、だめだ! ……でも、どうする? 何か、このマイナス状況を一瞬で逆転する方法は無いのか? 考えろ! 呪文は? シックスセンスは?)

 どうしようも無かった。今直ぐ瞬時に明るく陽気なムードに逆転できて、優しく笑う眼の彼女に変えられる魔法も超能力も、僕には何も無い。

 今、魔方陣も描けないレベルゼロの僕がすべき事は、素直に彼女の意志に従って静岡への帰路に就く事だけだ。

     *

 帰路のルート1で、Uターンをして彼女が暮らす相模原へ戻りたい衝動に、何度も駆られた。

(時間を空ければ彼女の気持ちが和らぎ、次の機会に修復できるだろう。メールで謝ろう。きっと一時的な感情で、もっと良い関係になれるさ。次は連絡を密にしなくちゃな)

 箱根の山を越えた辺りから悲観的で深刻な思いは、楽観的な考えに変わって来た。

(次も有るさ。次は絶対に上手くやるぞ! 失敗は繰り返さない。次は爪の事も謝る……、……れるかな?)

 

 ---つづく

迷想(迷走)中 (私 大学一年生) 桜の匂い 第八章 弐

 信号待ちが有ると彼はその都度、停車する車列の間を抜けて先頭へ出た。悲劇は何度目かの信号待ちで車列の先頭に出ようと、路肩側を進んでいる時に起きた。

 ガクンとスピードが急に落ちると、彼は二、三度身を捩って叫んだ。

「降りろっ!」

 命令口調の鋭い声が、彼の背中からフルフェイスヘルメットの中へ直に響く。寒くてぴったりと彼の背にくっつけていた頭が、彼の動きに合わせて揺さぶられた。回した腕の中の彼が左右へ頻繁に姿勢を変えている。上半身を左へ振ると、何かを避けるように仰け反って右へ動きながら体を捻り、右で傾けた体は耐えているみたいに一瞬だけ固まった。そんな動きを彼は小刻みに繰り返す。

「倒れる。早く下りてくれ! 逃げろ!」

 続けて悲鳴のような大きな声がした。もう語尾の『逃げろ!』は怒鳴り声に近い。事態を理解しようと顔を上げると、フルフェイスヘルメットのバイザー越しに奇妙な彼の動きと、ゆっくりと外側に傾くお尻の下のシートのズレを感じた。

「ええ? うん!」

 彼の可笑しな身のくねりは、バランスを崩して倒れつつあるバイクを必死で立て直そうとしている姿だった。直ぐに私は道路へ飛び降りて後ろへ避けた。

(しっ、しまった!)

 私が飛び降りた勢いの反動でバイクの傾きが増して、彼が懸命に努力していた立て直し